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第174回都市経営フォーラム

東京を川から見る−都市再生に向けて

講師:陣内 秀信 氏
法政大学工学部建築学科教授


日付:2002年6月20日(木)
場所:後楽国際ビルディング大ホール

 

1.水の都市・東京の特質

2.江戸の水辺空間−流通・経済、漁業、宗教、文化・遊び

3.近代の水辺空間−流通・経済、新たな象徴、景観、広場・プロムナード、橋

4.水辺の崩壊

5.水辺空間の再生−4段階

6.水辺のストック、景観の特徴

7.再生へのシナリオ

 

フリーディスカッション



 ご紹介いただきました陣内でございます。
 174回目という大変な伝統をお持ちのすばらしいフォーラムにお呼びいただきまして、ありがとうございました。
 きょういただいたテーマは、東京を川から見て再生していくことを考えろということです。実はきょうもお越しいただいています小倉さんとか大熊さんが中心になって、日建設計の本社がある飯田橋の周辺から神田川にかけて、とりわけ水辺の豊かな空間があったところが今使われなくてだめになっているものですから、そういう水辺も含めて再生していこうという社会的で夢のあるプロジェクト、研究が進んでいまして、そこに私たちも参加して、そういう議論をこのところさせていただいています。それできょうのテーマにつながったのではないかなと思っています。
 東京再生というのは、いろんな立場、いろんな思いでこのところしばしば使われているわけです。私自身は、都市の歴史、建築の歴史を専門にしていて、もともとイタリアに行って、都市を歴史的に見る方法論、あるいはそういうふうにしてでき上がっている都市をいかに現代によみがえらせていくかということを勉強してまいりました。そして、法政でずっと教えていますが、帰ってきてすぐ、東京の町研究会というのをつくって、ともかく街に出て、東京の価値も発見しながら、アイデンティティーを探しながら、どんなふうに都市をこれから考えていったらいいかということをずっと調査研究してまいりました。



1.水の都市・東京の特質

 あるときから、1つのテーマとして、東京の水辺に関心を持ったわけです。それは自分自身がもともとヴェネツィアを研究してきたものですから、割と自然な形で東京のそういう姿に目が向きました。芸大出身の友人の建築家が佃島の船宿と大変懇意にしておりまして、彼の案内で東京を船で回るということを20年以上前にやりまして、それ以来病みつきになっておりました。
 東京を再生するのは、ハウジングの問題とかコミュニティーの問題とかいろいろあるわけです。もちろん、商業の活性化、商店街というのもあると思いますが、何といっても水辺の再生というのは大変大きな課題だろうと思います。江戸は水の都だったわけですが、明治になって確かに陸の東京、陸の街に変わりはしましたけれども、戦前まで、あるいは高度成長期までは、東京の写真を見ると、水辺が生き生きしているわけです。きょうお配りいただいたプリントでも、1960年代まで東京の水辺は実に多様に使われ、風景の上でも重要だったということがすぐわかるわけです。
 ヴェネツィアに、合わせて3年ほど生活しながら街を調べたんですけれども、水に包まれている都市、水と密接に結びついている都市というのは、やはり人の心もなごみますし、ストレスが解消される。ともかく、単に機能とか効率を超えて、人間がそこに生きている価値を本当につくってくれていると思います。高密でありながら、非常に豊かな空間がある。
 東京はもう1つ、エコシステムから見たときにも非常にうまくでてきていた都市なわけです。これはいろんな方々がそういう言い方をしています。水や大気、気の流れ、そういうものが街の隅々まで行き渡っていまして、多分涼しげな夏の演出もやってくれたでしょうし、それと、もう1つ重要なのは都市をつくるグランドデザインにとって、地形とか自然とか水辺が決定的に重要だったということです。都市を組み立てていく手がかり、軸、場が水の空間によって基礎がちゃんとしっかりでき上がっていたということです。
 これが近代になりますと、鉄道の時代、道路の時代ということで、新しい都市の軸あるいはインフラができますけれども、なかなかそれが都市の象徴的な軸や親しみのある場になっていかない。広い道路はたくさんできたけれども、非常にぶっきらぼうで、魅力のあるものになかなかならない。原宿の表参道ぐらいが唯一の例外なのかもしれない。本当に大きい空間が都市を魅力的に組み立てる実績が、近代には日本はできてこなかったんじゃないかと思います。
 それに比べて、隅田川にしても日本橋の川にしても、この近くを流れている神田川にしても、みごとに自然と人間のつくった人工物が一体となって風景をつくり、そこに人が集まり、もっと重要なのは、あらゆる都市活動、主要な都市活動が水辺に集中していたということです。船での輸送、舟運というものが決定的に重要だったわけです。それによってマーケット、流通、経済のにぎわい、そして物をつくる生産、居住、遊びの場、盛り場、芝居小屋、はたまた遊廓まで、そういう場所にできてきた。最大のエンターテインメントの空間。盛り場やスペクタクルの空間も水辺にほとんどすべてできたわけです。それから、もう1つ重要なのが宗教、聖域、そういうものが水辺にできてきた。
 それから、深層構造はもっとあるんです。東京の下町の非常に集積の高いところの多くは漁師町を原型にしている。深川にしても、品川にしてもそうです。そういうところは全部水と結びついて空間をうまく組み立て、非常に開放的な風景とともに、高密なコミュニティーをつくってきた。ちょっとまなざしを過去の方に向けて、時間軸を入れて東京を見ていきますと、あちこちにおもしろい発見があり、それぞれの場の街を歩いても楽しい。現在もなおかつ楽しいヒューマンスケールで変化に富んだ多様な要素を集積している場所がいっぱいあるということに気がつきます。
 陸の発想だけで見ていると、東京はやっぱり現代の論理、経済の論理だけでできていると思いがちですけれども、少し目を変えて見る、特に、船を使ってめぐって見るということをしますと、本当にインスピレーションがわくわけです。大勢の方々が船で東京をめぐるという体験をされているんじゃないかと思いますが、そのときにも、少し歴史的な資料、写真とか古地図あるいは絵画的なものを持って、かつてと現在と比べていきますと、目の前の風景が目からうろこが落ちるみたいに新鮮に見えてくると思います。
 例えば、配っていただいたB4の2枚つづりの2枚目をごらん下さい。これは大分前に東京を船でめぐるというイベントを繰り返し繰り返しやっていたころにつくった資料です。橋の発見、再評価というものもこの20年ぐらいの間に進んできました。伊東孝さんという東京の橋を研究した仲間がいますが、彼らと一緒に回っていました。この地図は、真ん中辺に日本橋があります。日本橋川があって、中央線が神田から東京駅の下を突っ切っていきます。ちょうどこの辺、常盤橋、日銀のあたり。日本橋から右下におりてきますと、隅田川に注ぎます。この辺の掘割りいには全部網がかかって表示されていますが、すべてが物流基地、荷揚げ場、河岸なんです。船がそこへ横づけされて、どんどん荷が入っていく。そういう雰囲気がまだ部分的に残っています。ともかく上の方の神田川もかなりが河岸なんです。そういうことで東京の港町としての性格が、内側にどんどん入ってきていた。そのにぎわいが町の中心部まで行き渡っていたというのが江戸の、あるいは戦前までの東京の大きな特徴です。
 橋の数がこんなに多いというのは信じられないわけで、今でも神田川から入り込み、一ツ橋、神田橋、鎌倉橋、常盤橋、日本橋と出てくるかいわいは、ループで結ばれていますので、全部橋の下をくぐることができるわけです。それと、深川、江東の方には掘割り、橋がかなり残っていますので、アムステルダム、ヴェネツィアといい勝負じゃないかなと思うぐらい橋の数が多いわけです。しかも、東京は江戸時代に開発したときに、橋の名前を地域名、地区の名前にしていますから、仮に掘割り、運河が埋められても、橋の名前は地名に残っているという大変おもしろい特徴も持っています。そんな街は世界的に見てもないんではないかと思います。それくらい本来は、水、橋と結びついて東京の中心部、下町はでき上がっていたということです。
 きょうは、いろんなスライドをお持ちしました。具体的に皆さんとかつての東京の水の都市の姿をまずは再認識し、そしてそれがいかに壊されてしまったかということを振り返り、とはいえ、これだけのものがまだ受け継がれているよということと、海外の事例を少し持ってきました。この5年ぐらい、海外の舟運と都市の関係も随分調べていて、アムステルダム、ヴェネツィアも調べました。それから、蘇州の周辺、バンコク、日本の港町を調べてきましたが、その中で、東京の都市、水の側から再生していくことを考える上でヒントになりそうな、インスピレーションのもとになりそうなものを何枚かそろえてまいりました。
 最後には、ループで結ばれているはずの神田川と日本橋川を再生していくための考え方といいますか、そんなことをお話しできたらと思っております。最後のところに関しては、日建設計の皆さんが今始められている飯田橋から神田川、隅田川、日本橋の方にかけての再生に向けてのアクション、そういうことと非常に密接に関係していますので、また後で皆さんと討論ができたらと思っております。

 東京の街というのは、高度成長期の変化が大きかったし、80年代、バブル期と後でいわれた時期の変化も激しかったし、ともかく現代層というものが当然目立つ、それが東京の印象を決めています。でも、実は、層をはがしていくと、いろんな時代の特徴ある層が見えてくるわけです。どんな街にだって歴史の重なりがあるわけですけれども、そうやってはがしていくと、いろんなものが見えてくる。案外、都市の骨格というものは受け継がれている面が非常にある。道路のネットワークもそうです、道路のスケールもそうです。掘割り、運河、川、これはもちろん、少しずつ幅が狭まったり、流れの向きが変わったりということはありますけれども、基本的には非常によく受け継がれているわけです。



2.江戸の水辺空間−流通・経済、漁業、宗教、文化・遊び  

(スライド−1、2)
 これが1800年代初め、200年近く前の江戸です。鍬形惠斎という人が描いた初めての江戸の鳥瞰図です。この後幕末にかけて何回も何回も江戸は鳥瞰図として描かれています。江戸は非常に絵になる町だったようで、山水画的な感じでも都市を描くのにぴったりの素材だったし、切り取った1つ1つの場面、例えばこれは隅田川で、ここに両国広小路というのがある。ここも繰り返し繰り返し描かれていた。この辺が神田川で、昌平坂、この辺も広重が絵を描いていますし、この辺は本当に深い渓谷のようです。それから日本橋。ここも繰り返し繰り返し絵にかかれています。それから佃島、大川、この辺も繰り返し描かれている。とりわけ水辺を含んだ市街地、街の景観、橋というものが画家の題材としては非常に魅力のあるものだったようです。
 しかも、富士山、江戸湾、隅田川、神田川、日本橋川、それから、この辺には上野の山、不忍池、森、山、川、掘割り、海と、自然の要素がグランドデザインを決めていることがよくわかるわけです。その上に柔軟な発想で都市を組み立てていった。しかし、ただ単に自然をそのまま利用したのではなくて、かなり大胆な土木工事を行って、あるマスタープラン、グランドビジョンを持って、この都市を家康がまず形成し、そして何回か改造してきた。ですから、自然と人工の組み合わせが大変うまくいっていた都市だろうと思います。
 主役は下町。今、下町というと、浅草からその下、あるいは向島、深川、柴又の方まで行かないと、下町という感じがしませんけれども、もともとはお城の下の日本橋、神田、京橋、銀座の途中、築地、この辺が下町だったわけです。で、山の手。下町、中心部というのはすべて水の空間が軸になっていたわけです。変化してこういうふうになっているわけです。こうやって見ると、東京は歴史を完全に失ったかに見えますけれども、ちょっと調べていくと、骨格が、例えばこのグリッドも歴史的なものですし、この丸の内のかいわいは江戸時代の大名小路の道幅とか、街区の割りつけをかなり踏襲しているわけです。そして、これは掘割りだったわけです。
 そうやって見ていくと、近代層、現代層が東京を彩っているわけですけれども、その骨格となるのは江戸のマスタープランによっているわけです。そのことは槇文彦先生が「見え隠れする都市」など一連の研究の中で、東京の下絵としての江戸ということをおっしゃっていて、非常によくわかるわけです。
(スライド−3、4)
 東京というのは実はたくさん川があるんです。永井荷風が『日和下駄』という町歩きの有名なエッセーで大正の初期にいっています。いろんな川がある。大きな河川としては隅田川があり、六郷川つまり多摩川があり、小さな川だと神田川とか江戸川、音無川、運河では日本橋の運河、本所の運河、掘割りといってもいいです。それから、美しい名前ばかり残して残念ながら暗渠になったものも含めて。江戸城の堀。それから、水辺としては不忍池とか十二社の池、これも埋め立てられて公園になっています。それから、有名な井戸もいっぱいある。湧水もいっぱいあったというわけで、本当に水もしたたる都市といいますか、河川がいっぱいある。こんな街は世界的にも珍しいんじゃないかと思います。
 ヨーロッパにはまずないです。アジア、東南アジアはたくさんの水路がめぐっていますが、山の手があり、デルタの低地があって、こんなにたくさんの川が流れている都市は非常に貴重な存在なのではないかなと思います。
 これがエコシステムを生んでいて、しかもコミュニティというのは川沿いにできているわけです。古墳の分布を見てもよくわかるわけです。あるいは神社の分布を見てもそういうことがいえる。ところが、どんどん埋められたり、暗渠になったり、湧水が枯れていったりということで、エコシステムが大分だめになっちゃったわけですけれども、外国に比べるとまだまだその特徴があるのではないかと思います。
(スライド−5、6)
 景観的には隅田川があって、ヴェネツィアのカナルグランドになぞらえられたこともあります。スイス人の外交使節団長が幕末に来てそういうふうに書き残している。江戸城があり、ちょっと外に出ると、大きな水面があって、こういうところにエンターテインメントの空間ができる、宗教空間ができる、レクリエーション空間もあった。幕藩体制で自由が束縛されている面がありましたので、逃げ出してこっちの方で自由を謳歌するという面もありました。
 これは、蘇州かヴェネツィアのように思われる日本橋の脇の方の掘割りですが、こんなに舟運が活発であった。
(スライド−7、8)
 鈴木理生さんという歴史地理の大家がいまして、『江戸の川・東京の川』という名著が1970年代の早い時期に出版されました。江戸という町は水の都ですが、人工的な強い意思を持って、ビジョンを持ってでき上がったということを説いています。しかし、地形を上手に利用しているわけです。
 中央に江戸城があります。道灌の江戸城が大きくなっていくわけです。神田山がずっと張り出して半島のようにあった。その真ん中を日本橋とか銀座通りが通るわけです。丸の内とか日比谷。この辺に入り江がある。これを大規模な土木工事をやりながら、そのときに神田川を掘削する。というのも、中小河川が上から入り込んでいたので、大水になると、中心部の下町が水没しちゃうということで、それを避けるためにバイパスをつくった。その掘った土でここを埋め立てる。それから舟運、排水、生活用水、いろんな目的で神田川が掘られた。それから、エリアを分ける境界線としても使える。
 運河をめぐるこういうすごい都市ができたわけです。これは震災直前の東京市がつくった地図です。全部荷揚げ場です。河岸です。大正12年春、こんなに水の東京が機能していたということです。日本橋を中心に江戸橋、たくさんの橋がかかって、銀座も1つの島です。十何本かの橋がかかっていて、銀座は当時魅力があったわけです。この水辺、橋、こういう空間に囲われたということは大変大きな特色になっていました。
(スライド−9、10)
 我々こうやって船で20年ぐらい前からずっと回ってきたわけですが、刻々と変化していく様子を目撃してきました。例えば、これは日本橋ですけれども、ここに帝国製麻という、大正の初め、辰野金吾、東京駅の設計者がつくったすばらしいビルがあったのが、残念ながらバブルの崩壊で壊されてしまいました。ここは皆さんご存じのとおり、魚河岸があり、江戸の中心であり、日本の中心。このように富士山や森や山や水、そして橋、マーケット、倉、城と、人間がつくったものと自然が非常によくバランスをとって、都市の風景がイメージされている。しかも、人間のアクティビティーがたくさんかかれているということです。これが重要で、日本の都市のあり方を非常に象徴していると思います。人間のさまざまな活動、営みが都市を生き生きとさせる。だから、都市の再生にはまさにこういう感じが一番重要であろうと思います。自然を復活させるのも重要ですが、同時に人間のアクティビティーです。
(スライド−11、12)
 日本橋から1つ川下に行きますと、明治15〜16年の陸軍参謀本部がつくった地図ですが、かなり正確にできています。これは江戸時代の日本橋広小路を復元した地図です。ここに盛り場、広場、マーケットがあって、ここが日本橋、魚河岸がここで、京橋がこれ。ここの方がむしろ市民の集まる活気のあるセンターが生まれていたというわけです。
 橋のたもとに船着場ができ、つまり今の駅みたいなものです。ここにあらゆる活動が集まっていた。情報センターであり、物が集まる、人が集まる、そしてエンターテインメントの空間。遊びの空間。ミニ盛り場みたいな、ちょっと卑猥な空間もできるという独特のコンプレックスができ上がったわけです。これが明治に受け継がれるときれいになくなっていってしまう。
(スライド−13、14)
 水辺はいろんな機能が集まっていた。これは水辺をこれから再生していく上での基本的なスタンスにならなきゃいけないと思います。活動といえば当然経済、流通、物流が大きな柱の1つです。特に日本は江戸時代から経済第一というのがあったのではないかと、都市づくりの中でそう思わされるんですが、一番の中心の日本橋のところはこのように両側が蔵です。これは大変美しい風景を生んでいたわけです。様式化された美があって、デザイン的にも工夫され、いい空間があった。
(スライド−15、16)
 今見てきたのは中心部ですけれども、ちょっと目を東側、深川の方に転じますと、ほぼ同じところ。見てわかるとおり、ここまでが江戸時代のものです。ここは埋め立て。深川というのは、今でもまだ水と町、水と人間の関係を想像させてくれる水辺が残っている。活動は大分失われてきているけれども、まだまだ復活させる可能性も、再生させる、あるいは現代的に生かす可能性を秘めている場所だろうと思います。
 まず漁師町であった。その名残が船宿に受け継がれています。ここに富岡八幡宮ができて、このあたり、今も飲み屋街がありますが、実は花街です。深川芸者。そして、木場です。木場は埋め立てられて新木場、あるいは貯木場も大分失われてきてはいますが、そういう営みの名残がまだある。この辺は明治以後流通センターになっていって、食糧ビルディングができたりして、非常におもしろい近代初期のいい建築であり、みんな運河を使っていた。そして、ここには清澄庭園という有名な庭園があって、これは仙台堀から水を引っ張ってできている汐入り庭園です。
 ですから、ここはもう神社そのものも水と結びついてできてきた。水とともに営みをもって空間をつくり上げ、今も継承している区域であり、もう少し大きなビジョンで深川を活性化させることは大いにあるんじゃないか。もちろん江東区の方々もそれを知っているわけです。
(スライド−17、18)
 これは漁師町の名残です。最近河川改修がどんどん進んでこの辺も船宿の建物が撤去されたり、失われつつある現状です。これは深川の花街です。この辺に料亭とか待合とかが並んでいて、戦後も船でやってきて遊んでいたそうです。
(スライド−19、20)
 上っていきますと、隅田川。上から見るとこんなふうに見えます。ここはアサヒビール。ここが浅草寺で、ここに吾妻橋、ここに駒形堂があります。駒形堂のところまで江戸時代のある段階までは船で行って、ここから上陸して真っすぐ北へ参道を上って、雷門から来る。これは水辺に生まれた宗教空間で、漁師が網にかかった観音を祭った。漁師を祭ったのが浅草神社で、これはまさに水辺にできた宗教空間です。この辺は水辺の宗教空間が多いんです。ここにはたちまち芝居町ができた。ここは明暦の大火後に移ってきた吉原の遊廓というわけで、水で全部ネットワーク化されたエンターテインメントの空間、宗教の空間、レクリエーションの空間が、この辺を形成し、江戸文化を生んだわけです。江戸の文化の発信基地なわけです。
 というわけで、東京の基礎部分、水と結びついた浅草周辺の文化がある。これは向島の桜の名所です。
(スライド−21、22)
 やはり一度イマジネーションを大きくしてみることが重要だろうと思います。日本人は、親水的な、あるいは遊水的、遊んでしまうぐらいのスピリットをいかに持っていたかということです。これが江戸東京博物館に復元模型がある江戸広小路。今回神田川の再生プロジェクトで考えるときには、ここから神田川が入っていくわけですから、ここが起点になります。
 このように今でいえば駅のターミナルのようなもので、ここが舟運と人が歩くものとの結節点なわけです。したがって、物は来るは、人は来る、情報は集まる。本当は防災拠点、火除け地としてオープンスペースが確保されたわけですが、それを自主管理、地元の人々の管理のもとでこういうふうに利用するようになっていったわけです。もちろん、ショバ代を取って、営業空間になっていた。それが格好のエンターテインメントの空間になり、人々を引きつける。お参りに来る、こっち側に行くと、回向院、向こうに行くと浅草寺。そういう都市の空間を組み立てるシナリオがあるわけです。その途中でみんな遊んでいくという感じです。両国の花火もここで発達したというわけです。
 両国広小路は、江戸中期からこういう賑やかな状態になっていったといわれていますが、次はもっと早い段階の1650年ごろの埋め立てほやほやの新地の状態を示していると思われる絵です。これは江戸全体をカバーして描いた屏風絵です。そのウォーターフロントの空間を切り取ったところです。このように水上で遊んでいる。誇張はあるわけです。建具を全部とって書いているわけですから、ちょっとバーチャルです。しかし、中身、中で行われている活動はこういうものが本当にあったわけです。歌舞伎もここで発達したといわれています。このように水との親水性が本当にあったと考えられる。
(スライド−23、24)
 例えば、芝居小屋に船で行ける立地条件。今でも大阪の南の道頓堀にいろんな劇場、映画館があります。食い道楽、カニの大きな看板もありますが、ああいうある種料亭街、料理屋が並んでいるかいわい、あれが原型をとどめているものですが、江戸にも木挽町とか、銀座の近くにそういうところがあったわけです。お金持ちは船で行く。普通の人は橋を越えて芝居町に入っていく。お芝居を見て、幕合いには茶屋で休むという一種の非日常的な空間が水辺にできていて、文化をつくったわけです。
(スライド−25、26)
 隅田川をもう一回上っていきますと、この辺、向島のかいわいは非常に雰囲気のあるところです。この辺は中世から古いお寺、お宮があったわけです。農村コミュニティーがあり、水害から守り、豊作を祈願して宗教空間ができていた。七福神めぐりのルートもできています。そういうところに江戸の初期に吉宗によって隅田川沿いの土手に花が植えられ、桜の名所にもなった。水があることによっていろんなコミュニティーがはぐくまれ、そして文化ができ、都市景観がつくられた。そういうイメージが記憶として受け継がれ、向島というとある種の空気を今でも感じさせるわけです。



3.近代の水辺空間−流通・経済、新たな象徴、景観、広場・プロムナード、橋

(スライド−27、28)
 ここから文明開化ということでお話をします。文明開化になってきても、急に全部が変わるはずはないわけです。ある時期まで私たちの歴史認識としては江戸は江戸、明治以後の東京は近代と、きれいに白黒に分けてしまう発想が強かったんですが、そんなことはない。相乗りなんだということがこの間明らかになってきました。
 つまり、江戸の文化、生活様式、人間関係は明治15年ぐらいまではいろんな形でつながっていた。受け継がれていた。そして、逆にすべて新しいものが明治に始まったのではなくて、江戸の中期ぐらいから人々はヨーロッパのこともよく知っていたし、時計を持って歩いている人もいた。そういう意味で、近代の先取りが江戸の時代にもあった。だからこそ、こんなにスマートに近代が展開したし、ある意味で、すべて壊して全く違う都市にしてしまったんじゃないということになった。それをちゃんと理解していかなきゃいけないわけです。特に水辺というのは重要な場だったわけですが、それが一体どうなったのか。
 都心、下町、山の手、郊外、東の江東地区と分けながら我々見ていきましたが、これは岩波から出した本の表ですが、エリアごとに分けて、時代の進行ごとにどうなっていたかというのを表で写真を集めて分類してみました。
(スライド−29、30)
 まず、象徴的なところからいきたいと思います。日本橋の川、これは正確にいうと、人工的に掘った掘割り、運河なんです。鈴木理生さんがこれを論証しています。人工的な運河です。そこは蔵が並ぶ物流基地だったんですけれども、もっとプラスの価値を明治につけ加えるんですね。それはどういうことかというと、こういうシンボリックな建築を建てていくようになります。
 財界の立役者の渋沢栄一が、東京をベニスのような国際交易都市にしたい、東京港を立派につくって、そういう華やかな水辺に開いた国際都市にしようというビジョンを掲げたわけです。兜町のあたりがビジネス街として当時からできていたんですが、その一角に自邸を辰野金吾の設計でつくったんです。ヴェネツィアゴシック風の商館建築に見立てているわけです。直接船で水の側から入れる。
 それから、これは橋のたもとに登場した第一国立銀行。清水喜助の設計ででき上がった和洋の混在型。擬洋風とも和洋折衷ともいわれて、下の方はコロニアルスタイルのような感じ、上は天守閣のような意匠で、富士山を凌駕するような新しいシンボルとして水辺につくった。新しい時代の訪れを告げる水辺の意識の改革、水辺のイメージの転換。さらに東京は、陸の時代とはいわれながらも、水辺にプラスの価値をどんどんつけ加えていったと思います。
(スライド−31、32)
 水の意味、機能というのは当然変化するわけです。江戸時代も多様な機能を持っていました。物流のため船で荷を運ぶ。それから、遊びのために人を運ぶ。交通、普通の移動のために船を使うというのはあまりなかったようです。物資の輸送と遊びのために専ら使っている。それから、もちろん漁業に使うというのもありました。
 その比率が当然変わっていくわけです。これは明治後半に差しかかるころの隅田川です。ここが箱崎エアターミナルのあたりで、中洲というところですが、真砂座という芝居小屋ができて、まだ江戸情緒を発しているんですが、向こうに官営浅野セメントの工場ができて、水というのは近代産業を発展させるための場であるという認識ができていくわけです。江戸の、遊んでいる状況じゃないという感じがあります。しかし、変化していく過渡期の様子を実にうまくとらえた新撰東京名所図会です。
  水辺は割とコントロールしにくい。だから、あまりしっかりした建築をつくらないというのが江戸時代で、料亭、遊びの空間はあるんですけれども、蔵を別とすれば、こういうところに日常的な都市機能のための安定した施設や建物をつくるという発想はなかったわけです。
  ところが、非常にしっかりとした建築で水辺を飾る発想が明治の後半からどんどん出てくるわけです。これが東京で最初に実現した本格的な広場だと思います。日本橋です。これが東海銀行、西川布団店、白木屋などなど、こっち側に三越がある。このように明治後期、大正にかけて、パリかどこか、海外の都市の空間を思わせるような橋のたもとの堂々たる広場が東京にできたということは重要だと思います。
(スライド−33、34)
 先ほど冒頭に申し上げましたとおり、残念ながらなくなってしまったんですけれども、帝国製麻のレンガ造りの魅力的な建物が、日本橋のたもとに建っていました。ここはダイレクトに荷揚げができるように、搬入できるようになっていたんです。階段室。妻木頼黄という建築家がデザインした。日本橋を見ながらおりてきて、水の中に吸い込まれるような演出を建築家が考えていたことは明らかです。こんな空間があった。我々もここに行って本当に感動しました。つまり、周りの水、橋、都市の風景と一体となってこの建築が構想され、デザインされていったことは明らかです。
(スライド−35、36)
 きょう、もう1枚の横位置のプリント、「モダン東京の水辺」という表題でお配りしました。東京にもレイヤーがある、つまり歴史の層が幾つもありますが、文明開化のころにその1つがあります。先ほどから見てきたように、明治の魅力的な、本当に象徴的な建築が水辺にできていく。聖路加病院のタワーもそうです。あの辺は築地明石町の外人居留地だったわけで、明治の早い時期に築地ホテルというのが水の側から見られるようにできた。聖路加病院のタワーも船でよく見ることができました。そういう水の側からの景観を考えてできていたと思います。正面は確かに横を向いているんですけれども、船の中からよく見えました。そうやって、水辺の文明開化がかなりあちこちに起こったわけです。



4.水辺の崩壊

 だけど、本格的な水辺の空間の革新、変化は、関東大震災後に訪れた。一方で、この時期に江戸情緒が完全に失われてしまいます。隅田川沿いには料亭がたくさんあったわけです。浅草の上流の江東側、築地の周辺、月島あたりにもあったみたいです。それから、当然神田川の入り口、柳橋の辺。こういうのが関東大震災でまず被害を受けるのと同時に、復興事業で撤去された。そのかわり、モダニズムの橋がたくさんかかってくる。これは先ほど紹介した橋の研究家の伊東孝さんの研究によるものですけれども、いろんな形式の橋がかかるわけです。地域の事情に応じて使い分けていると彼はいうわけです。
 例えば、隅田川には大きい橋がかかる。ここではアーチ状とかあまり高い構造物が上に出ないような構造で、むしろ下にアーチがある。鉄橋が多いんですが、部分的に石積みのようにRCでつくっている。日本橋川にはもっと重厚なデザインのすばらしい橋が多い。明治の石橋である旧常盤橋と大正に差しかかるころの日本橋がかかる。いずれも石のアーチ橋です。というぐあいにデザイン、形式が場所性、地域性あるいは川幅、そういうのに応じながら使い分けられていて、しかも、川や運河に最初に入る第1橋梁は力を入れてゲートのようにデザインしていたということです。確かにそうです。第1橋梁はきれいです。隅田川は橋の博覧会場といわれたそうです。
(スライド−37、38)
 ですから、水の空間を再生していくときに、江戸以来ずっとあったエコシステム、水の浄化も含めてそういうものを考えると同時に、アクティビティーを現代の時代に合わせていかに水辺に集めるか。そして、モダニズムの橋、建物など水辺にはストックもかなりあるわけで、それを生かすことが必要です。特に橋はストックがある。また新しくつくっていく場合にどういう考え方でやるかというヒントを得るためにも、今東京に存在している、あるいは失われたものをスタディーすることは非常に重要だろうと思います。
 これが隅田川第1橋梁の永代橋。こちらが第2橋梁の清洲橋です。わざと形式を凸状と凹状に使い分けている。同じものは絶対つくらない、規格化しない、標準化しないというところによさが当時はあった。橋の委員会には建築家も入っていた。
(スライド−39、40)
 そして、水辺は江戸時代から明治の中期までは、上流に差しかかると、向島などが非常にナチュラルな堤防だった。墨堤と呼ばれる土手だった。木のくいを打って土どめをしている。桜の木を植えたことによって人がいっぱい来る、地面が固まる、そういう効果もあった。この辺には土手があり、吉原に行く日本堤という堤があって、大雨がどっと降ったときに墨堤と日本堤とでロート状になっているので、上流ではんらんする。水田がはんらん源になる。一気に下町に水が集中しないようにして水害から守ったというソフトな治水があったと聞いています。
 それが震災復興事業でこのように見違える空間になった。歩いている人は和服であり、鼻たれ小僧みたいなのがいたりして、モダニズムと人間の服装のギャップがなかなかおもしろい。重要なのはここに再度桜の木、染井吉野を持ってきて植えた。それから、名物の花びらもちとか、言問団子を復活させた。つまり、ソフトがちゃんと伴っている。形態だけではない。
(スライド−41、42)
 橋ですが、これはぜひ思い起こしたいことです。橋のたもとのプロットです。主要な街路と掘割りの交点ですから、橋です。周りには必ず橋詰め広場というのがありまして、4カ所、緑地をとっているんです。オープンスペースをゆったりとっている。この時代は非常にゆとりがありました。橋のかけかえのための予備のスペースであるということと、火除け、防災、アメニティー、都市計画、そしてトイレとか交番という公共サービス。あらゆる意味で複合化された場所です。非常にゆとりのある設計を当時考えて、目を楽しませてくれる。水と緑の結節点。街路樹もたくさんできましたので、この時代のストックは大変重要です。この後は食いつぶすだけ。戦後はどんど食いつぶして、しかもこういうものの価値を認めなくなりました。評価しなくなりました。ぎりぎりに建てていっちゃうという時代が戦後ずっと続く。ますます水辺に集まる人がいなくなっちゃう。これだけポイントがあったわけですから、みんな水辺に集まる必然性があったわけです。今これが全部生きていれば大変な財産だろうと思います。
(スライド−43、44)
 例えば、深川の方にこういう空間があります。このように、4隅に橋詰め広場をとる考え方があったわけです。戦時中はここに国旗掲揚塔なんかがつけ加えられる。これは鉄道の常盤橋。東京駅の方に行くんですけれども、こういう橋のシリーズ。これが旧常盤橋で、これが新常盤橋、この3つの常盤橋がみごとに組み合わされて、リズムをつくっている。こういうところを船で行く楽しみは、ドラマチックでいいわけです。残念ながら新常盤橋は新幹線の乗り入れとともに壊されました。我々が調査している間に刻々と壊されていくので、何とかならないかなとずっと思い続けてきたんですが……。
(スライド−45、46)
 この写真は東京の最後の水辺、水の都市の輝きを表現していると思います。いろんな雑誌からとってきて、プランを張りつけて、モンタージュした連続平面図です。このようにいい形で水辺に建築が集まってきたわけです。日劇、朝日新聞社、邦楽座という封切り映画館。泰明小学校、銀座の老舗のぼんぼんたちがみんな行くところです。その隣が数寄屋橋公園で、小学校と小公園がセットになってできた。この泰明小学校と小公園だけが残っています。掘割りの上には残念ながら東京オリンピックのときに商業建築と一緒に高速道路ができた。ここは有名な「君の名は」の舞台になったところでもあるし、こういう最後の水辺の輝きがあった。ただし、有楽町に近いところで、陸と水の両刀遣いの空間。
 水辺の空間コンテクストは実はうまくできていると思います。東京はグリッドで中心部ができるんですけれども、水辺、掘割りというのは実は、それとちょっと無関係といいますか、斜めに振れる形で入ってくる。したがって、おもしろい形の角地が生まれ、斜めのラインができる。そこに曲線的なデザインとか、変化に富んだ建物がうまく設計されていますから、意外性があり、ランドマーク性がより生じやすい。この辺上手にそれぞれが設計されていたと思います。
(スライド−47、48)
 東京証券取引所そうです。船で行くと、船からの眺めがよかったわけです。この区間がなかなかおもしろいんです。角地、グリッドのところに変な形で日本橋川が入り込んでくる。人工的に掘ってはいるんですが、地形を上手に利用している。というわけで、ここに鋭角の角地ができるので、そこに建つシンボルタワーが非常に際立っていたということです。
(スライド−49、50)
 水上バスが戦後も都心にあったわけです。新橋あたりをこういうふうに走っていたらしいです。もうちょっとちゃんと調べたいと思ってます。これは隅田川、まるでヴェネツィアの水上バスの発着場のように見えます。こういうのがごくごく当たり前の世界だったわけですから、何とか日本橋川、神田川にこういう風景が再現できないかなと思うんです。
(スライド−51、52)
 最後の水辺の輝きが見られた1960年代の初めの柳橋あたりの不夜城のような料亭街。新内の船が来ていたようです。これは築地の「治作」という料亭ですが、残念ながら、防潮堤で封印されてしまいましたので、水面を見るお座敷を2階に持っていかなくてはならない。あとは内側に池をつくって、中で自前の水辺を楽しんでお酒を飲んでいるという状況です。もともとは自前の屋形船で出られたそうです。
(スライド−53、54)
 その後埋め立てられるということで、数寄屋橋の埋め立て反対のデモ隊の様子です。
(スライド−55、56)
 水上バスの乗客全員がハンカチで鼻と口をふさいでいる、ちょっとこっけいな写真が残されています。東京オリンピックの年が最悪だったそうです。ただ、こんな中でもバスに乗って使っていた人がいるというのは偉いものだと思います。そういう受難の時期を経て、水上バスは今は大変な人気です。
 掘割りの上を駆け抜ける高速道路はみんな大歓迎して受け入れちゃった。当時としては未来を先取りするダイナミックな都市、成長する都市、変化する都市東京を象徴しているということで、日本橋周辺を除くとほとんどが大歓迎で迎え入れたわけです。
(スライド−57、58)
 結果的にどうなったかといいますと、あれだけよかった水辺が完全に日陰になり、裏になり、江戸城周辺の内堀の御門の後も無残なものです。ただ、船で行くと、石垣がずっと残っています。みごとに掘割り、川に載っけてつくりました。それはそうです。収用するのに必要がない、お金がかからない、工期も簡単に短くできる。あわてて東京を改造するのにはうってつけのルートだったわけです。しかも、川は大体カーブして流れている。線形のあり方から見ても、水が流れる川に車が流れるということで、意味は通じているのかもしれないとさえ思えます。



5.水辺の空間の再生−4段階

(スライド−59、60)
 でも、歴史は回転するわけで、めぐってくるわけです。本当に東京の水辺が1970年代によみがえってきました。まず隅田川。隅田川は東京の人にとっての母なる川であり、思いが強いんですね。したがって、江東区、中央区、台東区、墨田区など、そういう行政も頑張りましたし、市民の間にも隅田川大学という船上でできたイベントをやる動きも活発だったし、みんなが隅田川復活に情熱を傾けたというのがあって、70年代に復活しました。
 その思いがかなって、桜橋なんかもできた。イベントも復活していく。早慶レガッタが復活、花火が復活、そして花見の宴がもっと活発になる。
(スライド−61、62)
  神田川の河口近くです。このようにたくさんの船宿が元気を取り戻していく。そして、大型の屋形船までどんどんつくり出す。この辺非常に雰囲気があります。後でまた出てきます。その水辺再生の動きは、70年代半ばごろから着々と行くわけです。私の見るところ、4段階あったと思います。まずは、自然の水質がよくなっていった。工場がいなくなるということもあります。自然が戻ってくる。魚が戻ってくる。そして、人間も戻ってくる。イベントが復活する。レクリエーション機能がもう一度取り戻される。水がきれいになり、おもしろくなり、人が集まり、にぎわいが生まれといういい形での動きが70年代から80年にかけて、これが第1段階。その動きは東京湾まで行くわけです。
 ここはお台場公園です。大分前ですが、美濃部都知事の時代に、東京湾の開発を少し抑制する、むしろ自然の回復を目指すということで海浜公園がつくられるんです。砂を入れて、ここに海浜公園ができる。これで魚が来るようになる。人が来るようになる。若者が行って、ウィンドサーフィンをやるようになる。行ってみると、東京の風景がなかなかいいというわけで、大変なブームになるわけです。
 そして西日を見る、夕暮れ時の本当にチャーミングな場所だということをみんなが発見するわけです。こういう発見が新鮮だった。東京にも水辺がある。これは隅田川よりもっと大きな水辺であり、江戸の人はみんなこういう感覚を持っていたはずです。水とともに呼吸する都市の中に生活するおもしろさ。それは絵にも描かれ、江戸前の魚を食べ、文化もあり、あるいは浮世絵にも描かれる。音楽も、長唄とか小唄とか、水と結びついたものが多い。お芝居にも歌舞伎にも水がいっぱい出てくる。そういうわけで、文化が根源と結びついていると思うんですが、その辺のDNAがよみがえってくるという感じがこの辺であったと思います。
(スライド−63、64)
 第2ラウンドは何かというと、都心部が本当に夜間人口を失って、中心の区がみんなあわてたわけです。夜間人口を呼び戻すために、ハウジングをもっと力を入れてやろう。工場、倉庫、物流基地の跡地にこういう住宅を提供していこう。いわゆる大川端作戦ということで隅田川河口の周辺で展開します。その実現したのがリバーシティ21です。これは早い時期、70年代末から80年代の初めに計画され、早目に実現したので、ハウジングになった。もうちょっと遅いプロジェクトだと、こんなにゆったりと住宅だけとは、なかなかいかない。地価が上がってしまうということでオフィス系がふえていったわけです。まだここは幸い住宅でみごとにコンテクストをつくり上げた。
 それとともに、こういう親水公園的なスーパー堤防ができて、なかなかいい。向こう側がビジネス空間なのに比べ、こっちは人が住んでいるので、生活感があってなかなかいい。正月に行くと子供がたこを上げている。問題は佃島との共存関係です。コントラストばかりが見えますけれども、実はある協調といいますか、一緒に対話をして生まれたということもあるんです。ここの町会長さんは、中央区の政治の世界で頑張っていた人で、ディベロッパー側に働きかけて、ここのオープンスペースをたっぷりとらせた。そして、ここの小学校を事業者負担でつくらせて、佃島の子供たちもここに通えるようになった。町名を抽象的な片仮名町名にしようとしていたんですが、行政的には佃何丁目という名前を踏襲させた。それからここができることをキャッチして、お神輿の水上渡御を復活させたんです。というわけで、あるコラボレーションがあった。
(スライド−65、66)
 水辺再生の次の段階、第3段階がこういうロフト文化です。これは皆さんよく覚えていらっしゃると思いますが、三菱倉庫。これはインクスティック芝浦ファクトリー。こういうことが非常に話題になったのが80年代前半です。文化の香り、ダウンタウンルネッサンスとか、水辺の新しい文化発信とか、そういうことがいわれた時代。こういうことがもっと骨太に伸びていけばおもしろくなったはずなんです。
(スライド−67、68)
 ところが、また日本人の本音が出てきまして、ビジネス空間になっちゃった。つまり、あれだけうまくいっていた三菱倉庫、メディアにも500回ぐらい取り上げられて、イベントがどんどん行われた。ところが、自分で首を絞めていった。有名になり、ウォーターフロントのイメージが上がったので、価値が高くなり、高度情報化社会、金融都市ということで、ビジネス空間としてのインテリジェントビルになっちゃったんです。足元の親水公園にもOLとかオフィスで働いている人しかいないです。ちょっと不思議な水辺になっちゃった。ビジネスマンに加え市民も観光客も集まるニューヨークのウォーターフロントとは全然違う。
(スライド−69、70)
 このころ、80年代半ば、いわゆるバブルの時代にウォーターフロントブームになり、我々がもたもた調査をしていましたら、あれよあれよという間に、時代が追い抜いていってしまいました。水辺がどんどん取り上げられるのはうれしかったんですが、何だかとんでもない方向まで突っ走っていくような感じで、あわてました。見る見るうちに風景が変わっていくんです。例えば、これは重箱堀という南の方の内港部、昭和の初期にできた内側の港の空間。河川局じゃなくて港湾局の管轄です。ここには倉庫が並び、搬入のためのクレーンがあり、なかなかいい雰囲気で、だるま船がいっぱいある。我々が見たのは、そういうのの最後の時期だったと思います。
 ここは清水建設とNTTだったでしょうか、共同で開発しまして、清水の本社が入っているわけです。ここは古い石垣を残したんです。相談に乗ってくれというのでみんなで考えたわけです。ここはランドスケープも考えてなされているので、まあまあいい水辺ですが、こういうふうにドラスティックに変わっていく。
(スライド−71、72)
 天王洲アイルのところもそうです。ここは出光興産の持っている土地なんですが、お台場の1つで、石油の備蓄地区だったんです。文化財の上にこういう石油タンクが乗っているという日本の工業化社会の風景そのもの。シュールでカッコいいななんて思いながら、いつも船で通っていたところです。あれよあれよという間に再開発が実現し、オフィスと商業のコンプレックスができたんです。ここも石垣を残すので、ちょっと相談に乗ってくれということになりました。シーポートということでお台場。だから、なかなかおもしろいとは思うんです。こうしたウォーターフロント開発の勢いが東京都を巻き込み、臨海副都心の計画が85年、86年、急に浮上して、テレポートタウンということになって、一気に開発しようと動いたわけですが、頓挫してしまった。
(スライド−73、74)
 ここは大変人気があるし、幾つかの場所の象徴的なものは成功していますが、本来ビジネス空間をつくる目的だったところは、ほとんど実現しないまま、都関係の第3セクターがいっぱい入っていまして、もともとのプランからは大分外れちゃったわけです。むしろ、水辺に対する人々の気持ちは商業やレクリエーションといった楽しい空間づくりに向いていたはずなのに、時代の流れを読めないビジネス偏重の開発型のプロジェクトをあわててつくってしまったということだったと思います。もうちょっとゆっくり考えて、大いに軌道修正すればいいと思います。
(スライド−75、76)
 こういう突出してできたバブルの時代のウォーターフロントの開発がポンポンポンとあるんですけれども、みんな日本人はあきやすいので、潮が引いたように、すっかりウォーターフロントのことを忘れてしまい、ほとんどストップしちゃっている。もちろん、個々のプロジェクトが動いて、水辺に新しい町ができていますが、グランドビジョンが全くない。それでも、最近堅実な成果も生まれています。寺田倉庫は前から、天王洲の水辺の一画をを何とかしたいという夢を持っていたようですが、既存の倉庫群を使って、アメリカ型だと思いますが、地ビールを飲ませ、インスタレーションの展示も行う、なかなかいい商業コンプレックスを実現しました。放送局のスタジオも入っています。
 こっちに行くと品川宿。品川というのは本来江戸の舟運の基地だった。江戸港の前からあって、品川というのは交通の結節点になるといわれていて、開発がどんどん進んでいます。こここそ水とのリンケージを模索すべきだろうと思います。こういう昭和初期にできた気持ちのいい大きな水域がいっぱいある。ですから、こういうのが可能になるわけです。江戸の掘割りとは違う、川とも違う、人間にとって非常に心地のいい、使いがいのある大きな水辺がいっぱいあるので、舟運を実現させるべきじゃないかなと思います。



6.水辺のストック、景観の特徴

 (スライド−77、78)
 ここから急ぎ足でインスピレーションのために海外の事例を紹介したいと思います。アムステルダム。ここの運河沿いに建ち並ぶ美しい住宅群が有名ですが、実は東インド会社が大活躍をした本拠地なわけで、大量の物資を貯蔵するために倉庫をたくさん建てた。これが倉庫建築の典型です。すごくいいですね。水辺にいっぱいあります。それをみんなリノベーションして、住宅が多いみたいですが、商業系、アトリエ、カフェなどにも、手ごろなものとして使っているんです。運河からみんな荷揚げした。最上部に滑車をつけて上に引き上げていたわけです。ここは今主に住宅に利用されている。ヴェネツィアやバンコクと違って、本来の舟運というのはない。しかし、現代の舟運、現代の水辺の利用がたっぷりある。
 1つは、船の家です。船の上で生活している人がたくさんいます。電気も水道ももちろんあるし、快適な生活をして、彼らは地上に家を持ってないんです。こういう方がよっぽどリッチで優雅なんです。こういうものがたくさん岸辺にあります。
(スライド−79、80)
 いろんな形で水辺でパーティーをやったり、いわゆる観光船だけじゃなくて、さまざまな船が使われています。我々もこういう船を借りて調査しました。これくらいのことは東京でも十分できそうです。
(スライド−81、82)
 水辺にカフェテラスがたくさんありますが、このぐらいのものは神田川にいっぱいできそうです。あるいは日本橋川にもできそうです。
(スライド−83、84)
 次、ミラノですが、ミラノは東京と同じように本当は掘割りや運河がいっぱいあったんですけれども、同じように埋めちゃった。日本人だけががっかりすることはないんで、ヨーロッパにもそうやって運河を埋めたところはかなりある。これはレオナルド・ダ・ヴィンチのスケッチですが、ミラノを水の都市としてちゃんと把握して、運河の整備計画をスケッチで残している。これは閘門です。ダ・ヴィンチのスケッチです。これと同じようなものが今残っている。これは世紀末の運河沿いの水辺で女性たちが洗濯をしている場面。こんなふうに水を使っていたんです。
(スライド−85、86)
 ダ・ヴィンチ風の閘門が残っている。3系統ぐらい運河が幸い残っていたんですが、ここを30年かかって、行政も専門家も市民もみんなで頑張って粘り強く努力して、みごとに再生しました。もともとの港湾労働者用の庶民的な集合住宅を修復して住む建築家や文化人があらわれ、若者が集まり、夜のナイトスポットができ、どんどん見違えるようによみがえっていった。イベントもしょっちゅう行われている。
(スライド−87、88)
 やっぱり、みんな水に飢えていた。こういうレガッタが行われ、岸辺では骨とう市が開かれる。夏は地元に残っちゃう高齢者のためにダンスパーティーが開かれる。ウィークエンドの晩ともなると、周辺から若者が集まって大変な騒ぎになる。ミラノで一番ホットな場所です。
(スライド−89、90)
 芝浦の、ワーッと熱狂的になって、ワーッとみんなで忘れちゃっている東京とは事情が全然違うのです。東京でももうちょっと町の真ん中の水辺をもっともっと工夫してやることによって、こういう場が生まれるのではないか。そのためには、ハウジングとくっついてなきゃいけないんです。
 ここは河川の港湾労働者のためのローコストの18世紀、19世紀の集合住宅が並んでいたところなんです。それがみんな老朽化して、スラム化していた。プランからいっても、中庭があり、ギャラリーがめぐっていて、非常に味がある。階高も低いし、現代の居住空間としては最高なわけです。これを丁寧に修復し、よみがえらせ、住宅、アトリエ、商業、ギャラリーなどが入ってきて、今非常に人気がある。
(スライド−91、92)
 ローマです。ローマの町にとっても、デベレ川が重要なんです。ところが、やはり水害が多かったので、近代にこういう高い護岸をつくっちゃったんです。かさ上げして、陸と水が完全に遮断され、水辺の関係が大きく壊れてしまった。しかし、街路樹が育ち、緑が大変な財産となっています。コンクリートのかわりに石積みなので、表情があるわけですが、ここはなかなかアクセスしにくい、使われてない場所です。そこにおりる階段を楽しく飾る工夫をしてみたり、オスティアという遺跡都市が河口にあるんですが、そこまで船で出かけるように演出したり……。
(スライド−93、94)
 夏の期間、こういうところを使ってイベントをやる。行政もてこ入れしてサポートしていた。なかなかいい雰囲気のある夜の演出。橋の下にコンサート会場をつくって、ビアホールをつくって、たくましく利用すれば何でもできるんじゃないかと思います。当然ながら、橋、歴史的な記憶、風景というものがよみがえってくるわけです。
(スライド−95、96)
 日本の場合、公共照明が本当にまだまだで、特に水辺、夜の雰囲気、ただ明るくするのではなくて、適切な水辺の演出が重要だろうと思います。
(スライド−97、98)
 これは外国の例としては最後のバンコクです。バンコクのチャオプラヤ川の西側にバンコクとしては一番古い王朝があったトンブリというのがあって、その後、東の方に王宮が移ってそっちが中心になりますが、こっちはまだ水の空間が生き生きしています。我々はここを調査しました。これは普通の住宅で水からのアプローチ、船着場がある。こっちは茶館、ティーハウス。もちろん陸からも行けるんですが、船からも行ける。こういうものがまだ残っています。
(スライド−99、100)
 注目すべきは陸上が余りにも交通渋滞がひどいので、排気ガスがめちゃくちゃひどい。今バンコクのバスに乗っている人たちは、さっきの隅田川の水上バスの乗客と同じように顔をハンカチでみんな押さえて乗っています。それよりも、水上の方が快適で速いということで、こういう水上バスがどんどん使われるようになっています。
 こんなふうにして乗り降りしているので、たくましいことといったらないんです。ですから、これは見てわかるとおり、観光客じゃないんです。地元の人たちのための通勤用の水上バス。これがペイしているわけです。物すごく込んでいる。



7.再生へのシナリオ

 (スライド−101、102 )
 最後に、神田川に沿ってもう一回歩き、写真も撮ったので、ここで考えてみたいと思います。
 我々のいる飯田橋。これは昭和初期の文献からとった、震災復興事業のころの貨物駅がどこへできたかを説明している図です。主要な貨物駅は全部河岸にありました。汐留、秋葉原、飯田町、両国、隅田川。というわけで、運河、掘割り、川と結びついて舟運システムが成り立っていた。その結節点に貨物駅もできたということは非常に示唆的です。
 これが両国橋、ここが柳橋、神田川、秋葉原、御茶ノ水、水道橋、飯田橋。ここに2つの貨物駅があった。舟運が活発だったということをよく物語っています。さっき出てきた両国広小路は、江戸の中心から外へ出かけていく、回向院、浅草寺にお参りに行くときにみんな通る楽しみの広場、盛り場、エンターテインメントの空間だったわけです。これが明治の初めに見苦しいということと、交通の邪魔になるというので、全部撤去されて、こういう連中は浅草の奥山なんかに引っ越したわけです。
(スライド−103、104 )
 この間町を歩いていたときに、夕暮れ時になって、ここの川筋は西日を浴びてすごくきれいでした。夕暮れ時なんか、もっともっと活気が出てきていいはずです。船宿が頑張ってはいるんですが、まだまだだめですね。公共照明をもうちょっと工夫する必要があると思います。人が住んでない、これが決定的によくないです。人が住んでいたら、水辺をプラス価値として考える人がふえるでしょう。この辺はいい住宅がもっともっとできると思います。あるいはこの辺も、商業空間として水を意識したものがどんどん出てくる可能性があるし、この堤防もいずれ何とかなるだろうと思います。
(スライド−105、106 )
 このあたりは橋のシリーズがすごくいいんです。舟運はほとんどなく、ごみを搬出する船だけが時々通るという状態。あるいは工事のための船。あるいは水面を清掃している船が時々通る。
(スライド−107、108 )
 アイゼンマンの建築作品が突然見えたりして、非常におもしろいですね。それから、こういうふうに生活感のある家も時々あるんですけれども、もっともっと生活感があるといいんじゃないかと思うわけです。本来はここは蔵が並んでいたところです。こっち側は江戸時代は柳の土手で、古着屋なんかが出ていて、風情があって、落語に出てきたりして、非常に話題になったところです。つまり、歴史の記憶としては非常にいい場所です。
(スライド−109、110 )
 川沿いに神社があります。水辺に神様を祀るのはよく見られます。コミュニティーの中心だった。この水際の建物群は奥行き浅いんです。一歩裏側に道路があって、そこにはこういう看板建築が残されていて、まだ多少何がしかの雰囲気をとどめている。ただ、多くはごく無機的なビルになっている。こういうところをもう少し人の住む空間にできるとよいのですが。人が住んでこそ下町性が持続できるのですが、みんな通ってくるオフィスビルとなり、無機的になってしまう。この辺何とかならないのかということを川と同時に思うわけです。
(スライド−111、112 )
 これが万世橋のところの橋です。ここは筋違御門といいまして、日本橋から来る日光街道、奥州街道、中山道がここを通っていくので、非常に重要な広場だったわけです。見世物、エンターテインメントがここで行われていたわけです。現在の橋も非常にうまくデザインされていて、そのたもとの施設の機能がもう1つわからないんですが、トイレとも思えない。でも、すごくいい。排水口もアーチ型でデザインされている。橋はコンクリートなんですけれども、石張りなんです。ですから、すごく重厚なデザイン。これは神田川の1つのやり方です。
(スライド−113、114 )
 実はここは非常に重要な場所で、日本で最初の駅前広場ができたんです。万世橋ステーション。甲武鉄道は最初、飯田橋が終着駅だったんです。これが御茶ノ水の方へ延びてきて、いよいよここまで明治の後期に延びてきた。大正時代の万世橋はこんな感じだった。東京駅まで来る手前の前段階。ここがターミナルだった。それが河岸にできている。ここの秋葉原の貨物駅も河岸にできた。青物市場もこの辺にありまして、多町。この辺は全部神田川の舟運で発達したかいわいです。東京駅によく似ているデザインで、そこに広瀬中佐という日露戦争で活躍した人のモニュメントが立っている。こんな空間がここにあった。だから、交通博物館がここにあるわけです。
(スライド−115、116 )
 高架鉄道で来ていて、それがそのまま残っています。この空間もなかなかいいんですけれども、ほとんど有効に利用されてないんじゃないか。その裏側にもいいデザインの石張りの空間がインフラとして残っています。
(スライド−117、118 )
 ここの昌平坂。川沿いに今もある。ここは湯島聖堂。これが聖橋です。ここが御茶ノ水橋、ここが御茶ノ水駅、この辺は大変な財産です。湯島聖堂とニコライ堂、両聖を結ぶので、聖橋。山田守という建築家の設計の大胆なデザインの橋です。
(スライド−119、120 )
 ここは本当にいい場所だと思います。2つの聖を結んでいます。御茶ノ水の駅舎もすごくいいモダンデザインだったわけです。この橋と駅の組み合わせがすばらしく、人工的な掘削した川になっていますが、神田山を削っていますので、一大渓谷で、海外には絶対にない、都心のダイナミックな自然と人工が一体となった美しい景観だと思います。
(スライド−121、122 )
 この辺は長い目で見ると、すごくやりがいのあるおもしろい空間になるんじゃないかなと思います。
(スライド−123、124 )
 今までそういうふうにみんなが見てこなかった。川沿いの土手の上に残る昭和の初期の手すりですが、雰囲気がかなりある。ところが、無造作にやり変えられている。しかも有効に利用されていない。この辺のランドスケープを考えながら整理していけば、すごく財産になるだろうと思います。ここは都会の中のオアシスのような感じで、センチュリータワーもなかなかいいランドマークになっている。文京区側は緑化、庭園のデザインも考えてやっていますけれども、千代田区の方は全然無関心で、何にもやってない。自分の方は文京区側のきれいな方を向いて楽しんでいるけれども、全然貢献してくれてない。川1本でこう変わっちゃうんですね。(笑)
(スライド−125、126 )
 ところどころ、下におりていくところがあるんです。最近の手すりのつまらなさはともかくとしてなかなか景観はいいと思います。土手のすき間にうまいこと、中央線、甲府鉄道というのは通したんです。だから、高速道路を掘割りの上に通したのと同じ理屈だと思いますが、江戸時代に開発された町を無理やり壊すということはしませんでした。日本はそんなに強権的には都市を変えないというスピリットのようです。
 だから、すき間すき間を埋めてきた。それがよかったんだけれども、せっかくのすき間も自然がその分失われた。でも、回復する知恵はあるのではないかと思うんです。もっと緑化すれば、ここはずっといい場所になるでしょうし。
 交通手段と都市景観の関係も重要なテーマです。新幹線もある時期そうだったと思いますが、交通、電車や乗り物が都市の風景を生き生きとしたものにすることは大いにあるわけです。ところが、残念ながらなかなかそうなってない。インフラの構造物が、あるいは走る鉄道そのものが、例えば荒川線とか、世田谷線、みんなそうです。そういうふうに発想を変えて、自然、川、地形、そして鉄道施設、電車や列車そのもの、建築や施設、公園など、すべての要素をダイナミックに考えて、もっといい空間ができるはずだと思うんです。そしてやっぱりアクセスポイントをつくらなきゃいけない。
 この辺、水道橋に近いところですが、緊急用の船着場があって、水鳥が1羽遊んでいますが、あとはだれも使ってない。もったいない話です。こういうのはもうちょっと日常的にアプローチしやすくして、何か使えるように。つまり、水辺というのは多目的で多義的で、何でもある。それがミックスし、いろんな人の行為があり、出会いがあり、いろんなことが起こる。そういうのが大事なので、封印されて、1つのことしかできないような限定的な水辺というのは全然おもしろくないと思います。
(スライド−127、128 )
 ずっと水道橋の方まで来ますと、ここなんかは実は橋詰め広場の名残なんです。明治のころのいい石垣があります。ここに手すりがありまして、ここは橋詰めの公園なんです。ですから、多分ゆったりとここでくつろぐことができたはずです。どんどんスピードと喧騒で居たたまれない空間になった。ここは甲府鉄道のレンガの橋脚が残っています。ここはごみを運び出す船着場です。唯一舟運を使っている。ポジティブに使っているのか、ネガティブに使っているのかよくわかりませんが。ちょっと前まではおわいを運び出す船着場もあったんです。現代的な発想でもっと積極的に舟運を活用することができないかということです。
(スライド− 129、130 )
 そして、かつて河岸があったことを示す説明板がある。こういう記憶だけじゃなくて、もう少し本当に河岸のようなものを現代のセンスで復活できないか。
(スライド−131、132 )
 こういう空間も何にも利用されてないわけです。この辺なんかはゆとりのある空間があるんです。
(スライド−133、134 )
 ここが飯田町の貨物駅です。こっちへ入ってくる。甲府鉄道のレンガの明治の橋脚です。
(スライド−135、136 )
 これは一橋だったと思うんですけれども、この辺はまたなかなか味わいのある橋が出てくるんです。水辺にには官庁建築や大企業のオフィスもあります。もうちょっとみんなで知恵を出し合えば、両側の空間は相当よくなるんじゃないか。これは日銀です。
(スライド−137、138 )
 常磐御門のところも何とか頑張ってくださいよといいたいんです。すごくいいストックです。時々ロッククライミングの練習をしている人たちがいます。だから、知っている人は知っているんです。だけど、もう少しこういう光の当たる場に、本当は一番華やかなところだったわけですから、何とかならないものでしょうか。
(スライド−139、140 )
 日本橋。最近、少しは何とかしようという気持ちが、行政や関係者の間に出てきて、こういう橋詰め広場もできてはいるんですが、何かとってつけたような感じがしなくはない。もう少しシンプルで必然性があって、そこにふさわしい、しかも1つだけつくるんじゃなくて、システムとしてもう一回再構成する。水辺をずっと歩いていける。もっと1つ1つの建物の中でも、隣接するところの使い方とデザインを考える。今まさに生まれつつある議論の場だろうと思います。
 皆さんにも、ぜひ船で回って、こういうストックがあるということと、これだけ空間の幅があることを感じていただきたいと思います。ゆとりがあることを感じていただきたいと思います。高速道路で上にふたがされているところは、ちょっとうっとうしいですが、神田川はそんなことはなくて、東京の、ある意味で世界に誇る非常にすばらしい空間の象徴軸であり、自然と人工物が一体となった都市美の場だと思います。目をつけかえて、これまでネガティブにしか見てこなかったこういうものを復権させる。こうした水辺の沿った空間に正当な位置を与えて、人がそこへ集まってきて、暮らす。そうなれば、本当の都市再生じゃないかと思います。
 どうもありがとうございました。(拍手)



フリーディスカッション

藤山
 陣内先生 大変わかりやすいお話をありがとうございました。
 それでは、20分ほど時間がございますので、質問を受けたいと思います。

内田(森産業トラスト株式会社)
 陣内先生のご研究の中で、私、ヴェネツィアの研究が非常に好きなんですけれども、ヴェネツィアの中の水辺の風景できれいだなと思うのは、レンガの色だと思うんです。黄色とか赤とか。水辺の青と黄色や赤のコントラストが私は好きなんです。例えば、東京でこういった開発をする場合に、陣内先生の考えるような、東京の水辺に合った色というか、何かこういった景観の中でどういうふうにしていったらいいというご提案があれば、お聞きしたいと思いますが、いかがでしょうか。

陣内
 ヴェネツィアの場合は、本当に水と建物が近いわけです。水面と陸の面も近い。ヴェネツィアスタッコで塗られた壁の、今おっしゃった絶妙な色合いがあるわけですが、それが輪郭線と一緒に水に映るんです。それが水にフワフワと風で揺れる。色のついた水紋を見ている。それだけで楽しいというのがあるんです。それだけ色が水面に映える。それもさまざまなバリエーションの色があると思います。
 東京の水辺というのは、例えば神田川を想定すると、水面と陸の建物の関係がさまざまに変わっていくんです。ヴェネツィアのように近いというのはあまりないわけです。でも、ある程度近い、例えば神田川の入り口の柳橋から秋葉原を過ぎるあたりまで、交通博物館、あの辺までは非常に近い関係を演出できると思うんです。今は防潮堤があって、何となく意識の上で隔てられているけれども、もう少し水面に建物の色が映るぐらいの関係を意識することは十分あると思うんです。そこにふさわしい色って、僕はあると思うんです。どの色というのはなかなか難しいんですけれども。
 ところが、それがだんだん御茶ノ水の方に近づいてくると、神田山を切り崩しているということもあって、陸の面と水面がかなり離れてくるわけです。そうすると、建物と水の関係がもうちょっと大きなダイナミックな構図の中でつくり上げられているところがあって、そこにおける建物のボリューム、高さと、色も含めたデザインというのはまた違っていいんじゃないかという気がします。ところが、またずっと上がっていって、水道橋から飯田橋にかけては、また水面と陸面が近づいてくる。ピタッとくっついている場合もあります。運河と建物が非常に密接な関係が演出できる場所があります。そういう場所は、また色の演出ができるんじゃないか。しかも、場所によって用途が変わっていくんです。用途によって色が違っていて当然いいと僕は思うんです。
 今はともかく色彩というものを意識しない建物が多くて、最近建つ建物の中には水辺やそういう見られる風景の中での色を意識しているのがあるわけですけれども、ただ、何色がいいかというのはなかなか難しいわけで、ほどよく自己主張し、しかも品のいい、ヴェネツィアのスタッコというのはそうです。しかも、バリエーションが非常に豊かである。1つの色というよりはバリエーションの連鎖というか、そういうものがそこに意識を持っていく人たちの間で自然発生的に培ってこれるような。誘導して、条例で色を決めるということは、神田川とかでは非現実的だと思いますけれども、まさにみんながそういう意識を持ち、興味を持ち、センスのいい色をお互いに使い合う。そういう状況が生まれれば、おのずといい感じになるんじゃないかと思います。

長野(武蔵工業大学
 舟運をやっております。私も、実はヨーロッパの方の研究を日本との比較論でやっておりまして、基本的な最後に行き着くところは、河川及び港湾における護岸の管理問題、つまり、国がどこまで民のかかわり合いを許していくかというところに日本は大きな制約条件がある。ヨーロッパの方は、見ますと、かなり自由に水再生に人を入れて、人が入ることによって非常に美しい空間を演出している。これはハンブルグも、ヴェネツィアも、ブルージュも、どこでもそうなんですけれども、結局、今いろいろ神田川でも、権利がふくそうしていますね。ああいうものをどうやって解決していったらいいのか。ヨーロッパではそういったいろんな手法があると思うんです。自治の中から。それを導入するような新しい仕組みを、アイデアでもご意見でもお持ちならご紹介いただければ。私はそこのところでひっかかっておりまして、いいお知恵を拝借できればと思っております。

陣内
 まさにご専門の先生のご指摘どおり、一番重要であり、難しい問題で、ヨーロッパとの比較でいえば、一番の違いですね。1つ、最近そういうことを書いている人がいました。江戸の水辺の河岸地はもともと公有地で、それを一般の人たちが利用していたわけです。利用権の売買とかがもちろんあったわけです。それをだんだん払い下げていくプロセスが近代の東京にあったけれども、明治に一気に払い下げたんじゃなくて、意外に戦後払い下げたところが多い。つまり、本当はお上が自分でコントロールのもとにある程度置いていたものが、一気に民間のものになる。しかも、水辺の空間を民間側が上手に利用することに対しても公共側が制限を加えていくということも相まって、なかなか水辺の空間を市民のためにというか、都市空間づくりのために大きな発想でつくっていくことができない、がんじがらめの状況にある感じがします。
 例えば、我々、東京での実際の水辺の利用状況を見ていると、水辺の既得権を持っているところは、船着場を使って、例えば日本郵船が持っている天王洲アイルの向こう側のクリスタルレディーという船が発着する船着場とか、一時期、インクスティック芝浦ファクトリーの横にあった船着場とか、そういうものを活用して、船を利用する。あるいは水際にテラスが出るということが部分的にはあったけれども、一般的にはそういうところを積極的にヨーロッパのように利用していくということがなかなかできないでいる。
 もう一方で、我々船宿によくお世話になりますが、船宿はみんなある意味で不法占拠というレッテルを張られていて、ほかのところに移されていってしまうということで、いいなと思っている空間は管理のもとでどんどんなくなり、もっと船なんかも積極的に使ってほしい、あるいは水際の空間にもうちょっと人が集まってテラスにするかという利用を促進したらいいんじゃないかと思うけれども、それはがんじがらめでできない。
 ヴェネツィアは、友達も随分船を持っていて、よく聞くんですけれども、どの運河にも係留する権利を申請して、もらえる。そんなに苦労しなくてもらえる。日本ではそれは非常に難しく、公有水面の上にプライべートなプレジャーボートを置くのは、それを許しちゃうと難しい問題が生まれるということで抑えられる。海外では、どこの港町に行っても、交通事故のことを考えると、管理者的な立場からは難しいのでしょうけれども、プレジャーボートも含めて、船をもっともっと積極的に使っていくという姿勢を持っているんです。
 日本の場合、近代的な行政ルールというものがどこかで成立していった後は、融通むげに使うということは全部排除されたでしょうし、日本に古来、成り立ってきたシステム、慣習みたいな権利、利用権があってとか。京都の鴨川沿いの床もそうだと思いますが、そういうのが今の社会では全部否定されているわけですから、その辺をもうちょっと議論を重ねて、市民的合意、専門家もしっかりとした論陣を張って、これから再生していくためには新しい制度をつくり、積極的に利用していく。そのために海外のいい事例があれば、それも取り入れるような柔軟な発想と大きな枠の中での議論をつくっていく必要がまさにあるんじゃないかと思っています。
 私も専門の領域じゃないので、むしろ教えていただきたいことばかりです。

藤山
 本日は、東京を川から見て、都市再生に向けてというテーマで、陣内先生に貴重なご講演をいただきました。
 先生、ありがとうございました。(拍手)
 それでは、これにて第174回の都市経営フォーラムを終わらせていただきます。

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