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第11回NSRI都市・環境フォーラム

『反コミュニティのまちづくり〜ゲーテッド・コミュニティとデモクラシーをめぐって』

講師:   竹井 隆人 氏   政治学者

日付:2008年11月20日(木)
場所:ベルサール九段

                                                                            
1.私の抱く問題意識

  はじめに(これまでの研究の経緯)

  言語のインフレーション(コミュニティ? まちづくり?)

  物理的空間および物理的施設の価値

  ゲーテッド・コミュニティを哲学する

  「独りよがり」の世界

2.私の提案

  地域の統治組織の構築

   参加と熟議

  包摂する共同性

フリーディスカッション

 

 

與謝野 それでは本日の都市・環境フォーラムを開催させていただきたいと存じます。
  皆様におかれましては、日頃より本フォーラムをご支援いただきまして、まことにありがとうございます。また、本日で11回目のこの都市・環境フォーラムは、以前のフォーラムから換算しまして、251回目を迎えます。長年に皆様からのご支援とご協力に感謝申し上げます。
  さて、本日は、若手の政治学者の方をお招きいたしまして、「まちづくり」の現場で政治学的な視座から、長年実践的研究活動に携わられてこられた実体験をもとに、含蓄の深い卓見をお聞きいただきたいと存じます。それも「まちづくり」、とりわけ「コミュニティ」と「ガバナンス」のあり方などについての幅広い知見に触れて頂き、「まちづくりにおける共同性」についての深い理解を皆様とともに得ることができればと考えまして、このフォーラムを企画させていただきました。
  本日お招きいたしましたのは、政治学者の竹井隆人様でいらっしゃいます。竹井様のプロフィールにつきましてはお手元の資料のとおりでございますが、長年「まちづくり」の現場の最前線に立たれまして、現場の多岐にわたる諸問題に取り組まれて来られ、その傍らで実践的な研究活動にも従事され、さらに数多の著書を執筆されて、社会的発言を意欲的に展開してこられた方でいらっしゃいます。都市住宅学会賞、建築学会賞を初め多数の受賞実績も挙げて来られ、まことに多才で実践的な政治学者であられます。
  最近の先生の著書で、『集合住宅と日本人──新たな「共同性」を求めて』という本が平凡社から出版されております。本日、この場で2部でございますが、この本について皆さんにご紹介かたがた回覧させていただきますので、ぜひ書店のほうでお求めいただければと存じます。
  さて、本日の演題は、前に掲げておりますとおり、「反コミュニティのまちづくり〜ゲーテッド・コミュニティとデモクラシーをめぐって」とされておられます。
  それでは、ご多忙の中を本フォーラムにお運びいただきました竹井隆人様を皆様からの大きな拍手でお迎えいただきたいと存じます。(拍手)
それでは、竹井様、よろしくお願いいたします。(拍手)


竹井 皆様、こんにちは。竹井でございます。
  今日は、お招きいただきまして、ここにある題目「反コミュニティのまちづくり」で講演をさせていただきます。
  皆様には、いささかセンセーショナルなタイトルと思われる方がいらっしゃるかもしれませんが、私は長年、ある政府系金融機関で「まちづくり」、とりわけ再開発やマンション建替え、コーポラティブ方式の事業、密集市街地の整備など、お金を貸すことを含めて、事業の企画、立案の支援等をやってまいりました。
  その傍らで、今日、紹介をいただきましたように、政治学の研究をさせていただいてきたわけですが、とりわけ、「まちづくり」の現場におりますと、いろいろ疑問が沸いてくるわけでございます。今日はそのご紹介をさせていただこう、と思っております。

1.私の抱く問題意識
はじめに(これまでの研究の経緯)

(図1)
  私のこれまでの研究の経歴、活動や著作については、今日お手元にお配りした資料に細かく書いてございますが、もともと私は政治学を専攻しており、その故があって「まちづくり」に関わっております。
  それは、何故か。政治学というのは何かと申しますと、多数の人々がどうやってその社会をつくっていくかという関連において、どのように集団的な多数の人間の合意を得るかということが根底にあるわけでございます。その精神と言いますか、学び方は、皆さんが日頃携わっていらっしゃる建築や都市計画という分野だけでなくて、テレビや新聞等で見る永田町の政治にもつながっていくものがあるのではないか、という思いがありまして、こういう現場に身を投じているわけでございます。
(図2)
  今日お話をさせてもらうところにたどり着くまでには、いろんな研究をやってまいりました。まず、最初に行ったのは、多分お聞きしたことがある方もいらっしゃると思いますが、定期借地権(定借)を使った「つくば方式(スケルトン定借)」という事業の開発です。これに関しまして、私は、定期借地権を創設された稲本洋之助先生のもとで、実はその最後の弟子と言われていますが、そこで定借を学んでおりまして、その活用というものを考えておりました。
  何故にそのようなことをしていたのか。えてして分譲マンション、或いは賃貸マンション、市街地の街並みにおいては、人間が集団的に社会をつくる、集団的合意をするような契機、きっかけがなかなかございませんが、例えば、定期借地権であれば、個別性の強い人びとの土地に対する執着意識を切り離して考えることができるのかなと思いまして、そういう研究開発に関わっておりました。
  次に、コーポラティブ方式に目を転じたのは、分譲マンションでは得られない人びとの交流とか、つながりというものが多くあると目に映ったからです。
  また、アメリカの住宅、都市に目を転じまして、今度はアメリカの集合住宅、日本でいう分譲マンションであればコンドミニアム、コーポラティブであれば「コウオプ(co-op)」、戸建ての住宅地であれば「プライベートピア」と呼ばれるような手法に関して、日本とは異なる集団的な合意の形成の仕方、これは「まちづくり」にも通じるやり方でございますが、そういったところに関心を持ってきたわけでございます。
  それから、これもお聞きしたことのある方がいらっしゃろうかとも思いますが、「ゲーテッド・コミュニティ」という物理的な外壁に囲まれた、要塞化したような都市(集合住宅)の形態について研究を行い、いまでは、その専門家とも目され、その関係の取材も多く受けております。
  ただ今、執筆中の本がございます。先程ご紹介いただいた『集合住宅と日本人』という著作は、社会学的な観点から書いたものなのですが、それをもう少し一般的に、よりデモクラシーや政治的な観点で書かせていただこうと思っております。それは今日これからお話しすることとも非常に関連しますが、普段、個人が「自由」を持っているというと、この世でいろいろなことができるという意味として「自由」という言葉が使われておりますが、それに関しての著作となります。
  その概要は、今日お配りした資料にありますが、朝日新聞に書かせていただいた「KYのすすめ」という、これもセンセーショナルなタイトルのついた論考が、その本の内容になっております。今日は、それに通じるような話で「反コミュニティ」と題しているわけでございます。
 

言語のインフレーション(コミュニティ? まちづくり?)

(図3)
  私が申し上げる「まちづくり」というのは、普段いろいろなところでいろいろな方がおっしゃっている「まちづくり」とは少し違うのだろう、と思っています。
  もともと、「コミュニティ」という言葉も、非常に手垢にまみれた、使いじみた言葉になっていますが、今、さらに非常に曖昧で多様な言葉に化しつつあります。これは「まちづくり」も同じだと思います。これに関しまして、私は前から疑問を非常に感じていたわけです。
  すなわち、「まちづくり」、或いは「コミュニティ」と言ったら、誰しもが否定できない、或いは、これに批判的なまなざしを向けること自体に非難が集まる、という状況に対してです。
  これは学問にとっては非常に危うい状況ではないか、と思っております。つまり、曖昧で多様な言葉を使って発表しても、それに対して批判ができないわけです。ですから、誰もがそれを肯定せざるを得なくなるということは、学問の発展にとって非常に阻害になるのではないか、と思っております。それでは、私は、「コミュニティ」という言葉をどういう意味で使うのか。いろいろな意味合いで使っていらっしゃる方がいますが、「人と人とが交流する、仲よしになる」という意味合いで何となく使っている方が多いのかな、と私は思いまして、そういう意味合いで私は使います。
  それに関連して、「まちづくりというのは、コミュニティづくりだ」とおっしゃる方が多々いらっしゃいます。私は、そういう言葉から、私なりの定義で言うと、「まちづくり」は、要は「仲よしクラブをつくること」だと聞こえるわけです。
  しかし、私は、そういう風に使いたいのではありません。何らかの「共同性(社会)」をつくるに際して、そのつくる構成原理は「仲よし」になるということではなく、あくまでも集団的合意をしっかりとつくっていくことだと考えたいと思っています。その手法はこれから詳しく申し上げますが、政治的な手法を使って合意をしていくということが必要なのではないか。それが「まちづくり」であって、そのために「コミュニティ」の対抗的な用語としての「ガバナンス」という言葉を使って説明をしたいと思っております。

物理的空間および物理的施設の価値

(図4)
  今申し上げたことを皆さんにすぐわかってもらうことは難しいことだと思いますので、アメリカの住宅地(居住区)を題材として、これから話をすすめて参りたいと思います。
  皆様の中には、アメリカの住宅、或いは都市、街並みを専門にしている方、よく知っているという方もいらっしゃるかと思います。私は、常々アメリカから持ち帰ってきた情報をもとに研究をしている、アメリカの住宅、都市の研究者の著作であるとか発表を見たり聞いたりしていて、非常に疑問に思うことがあります。それは何かと申しますと、こういう絵に代表されるようなアメリカの住宅、街並みというのは、「非常に広くて、緑が多くて、美しくて、安全である」というイメージで語られておりまして、これを聞く、見る、読む皆さんも、ああ、その通りだと思ったり、おっしゃったりしている場合がほとんどなのですね。
  私は、そういう研究の仕方、或いは、物の見方というのは、非常に底が浅いのではないか、と失礼ながら口に出して申し上げたこともあるのです。何故かと申しますと、今日は現場をよく知っていらっしゃる方も多いと思いますので申し上げますが、これはアメリカの写真なのですが、こういう街並みはつくろうと思えば日本でもつくれるし、実際に日本の郊外ではこういう街並みがたくさんあるわけでございます。
(図5)
  では、皆さんは何でアメリカにこだわるのか。実は今映った物理的なものに凄く憧れているわけです。でも、私は、物理的なものをつくることについては、日本でもアメリカと同じものができると思っております。しかし、都市計画や建築を専門とする人びとはあまり気にしないことなのですが、私の目から見ると、そこには、大きな違いがあります。
  格段に違うと思われるのは、持続性、今はやりの言葉で言うと「サステイナビリティ(持続性)」があるかないかということだと思います。例えば、先程の写真で見たような美しい風景、美しい居住区が、アメリカでは相当長い間残っていくのが見られます。
  それに反して、例えば、日本の郊外の居住区やニュータウンでは、例外もありますが、数十年経つと、非常に人口が減り、荒廃し、或いは商店街が寂れている、というものが非常に多くなっております。これはすなわち持続性がないということなのだろうと思います。
  それでは、何故そうなるのかと申しますと、日本の研究者、或いは行政家たちは、よく「コミュニティ施設」というものをつくりたがります。そういったものをたくさんつくれば「まち」が良くなったと、本当にそう思っているのかどうかは知らないのですが、そういうことをしたがります。
  しかし、私は、そこでできる「交流」というものは、「部分的」であって、かつ「一過性」ではないかと思っているわけです。つまり、幾ら公民館や何とかセンターをつくったとしても、それを利用する人たちはお年寄りに限られていたり、仲のよい人たちだけに限られていたり、或いは全く利用されていなかったり、また、小さい子がいれば、そこで学童保育的なことをやったり、サークルをやったりとかしますが、子どもが大きくなったらそういうことは全部廃れてしまう。そういう「一過性」の強いものであるわけです。
  そういう問題がある。つまり、幾らそういう「コミュニティ」という名のついた施設をたくさん物理的につくっても、それだけでは社会はつくられない。これは現実だと思います。ですから、今、「ハコモノ行政」といった言葉で非常に批判をされているわけです。
  私は「ハコモノ行政」とは違うことを行った方が良いと思っていて、これはニュータウンの活性化などで、方々のニュータウンに呼ばれて話をする時にも同じことを申しています。
  日本とアメリカでは、持続性に違いがあると申しましたが、その違いは何にあるかというと、社会的なシステムの違いにあると思っています。何故、日本のニュータウンは寂れてアメリカは寂れないのかということ。これを突き詰めていけば見えてくるものがあるのではないか、私はそう思っているわけです。

ゲーテッド・コミュニティを哲学する

(図6)
  先程アメリカの居住区、住宅地、都市というものは非常に広くて美しくて安全だと見られているところが大きいと申しましたが、最後の「安全である」というところについて、注目をしてみたいと思っています。
  この写真はアメリカのカリフォルニアにあるアーバイン・ランチという居住区です。これは「ゲーテッド・コミュニティ」の写真です。「ゲーテッド・コミュニティ」とは何かと申しますと、10戸とか100戸、1000戸といった居住区を開発した時に、アメリカでは、居住区の周りをフェンスやブロック塀で取り囲みます。取り囲んで、人の出入りのために、この写真にあるように、ゲートを何カ所か設けておくわけです。このゲートは遮断機をつけたり、門柱のところに、例えば警備所をつくって警備員を常駐させたり、といったことをします。これで出入りをチェックするわけです。これが「ゲーテッド・コミュニティ」と呼ばれている居住区になります。
(図7)
  それでは、この「ゲーテッド・コミュニティ」は、どのくらいアメリカにあるのかと申しますと、「ゲーテッド・コミュニティ」は、もともといろいろなところにあるものでした。アメリカに限らず、ヨーロッパにも、中東にも、アジアにもあります。中国にもあります。でも、皆さんは日本の歴史の教科書を紐解いても、こうしたものの存在を見ることはないでしょう。これは日本にだけなかったのだ、と私は思います。外国では当たり前の現象です。これがアメリカで近年非常に増えております。
  この図は居住区の数です。「ゲーテッド・コミュニティ」の住宅数ではなくて、あくまでも居住区の数ですが。今現在2万カ所以上この「ゲーテッド・コミュニティ」があるとされています。
  居住者は97年の時点で800万人と概算しておりますけれども、9.11のテロがあった影響で、人々はますますこういう「ゲーテッド・コミュニティ」に住むようになっています。
  ですから、今は軽く1000万人を突破して、1500万、2000万ぐらいはいるのではないかと言われております。アメリカの人口からすると、相当な数がこの「ゲーテッド・コミュニティ」に住んでいるのではないかと言われております。
  主にどういった形態のものがあるのか。一般的なものは、先程申し上げたように、数十戸、数百戸のレベルの戸建ての住宅をフェンスやブロック塀で取り囲むというものですが、趣旨とか目的によって多少違いがあります。
  1つは、一般者が住むようになった、はやりになったきっかけとなるものですが、「ライフスタイル型」と呼ばれております。「リタイアメント・コミュニティ」などがこれにあたりますが、これは何かと申しますと、「リタイアメント」というのは退職者です。ですから、日本で退職者などというと何となく高齢者の住宅をイメージされがちですが、これはそういうものではなくて、あくまで健常者、つまり元気なお年寄りの居住区でございます。
  こういうところには、得てしてゴルフコースやクラブハウスがあって、いろいろな活動、或いはいろいろなスポーツ施設が居住区の中にあるというタイプでございます。
  ただし、年齢制限がありします。例えば、55歳以上の居住資格といったものです。
(図9)
  この写真は1つの典型でございますが、カリフォルニアの「リタイアメント・コミュニティ」の1つです。真ん中がゴルフコースになっていて、その周りに居住者の居宅が無数に並んでいます。そして、このゴルフコースとその周りにある住宅、これの周りに広大なフェンスがあって、これらを取り囲んでいる、そういう住宅地でございます。
(図10)
  このように、従来は非常に限られた恵まれた人々の「ゲーテッド・コミュニティ」が一般化されてきた。つまり、別荘地等々で非常にはやるようになってきたわけです。日本でも退職者が温かいところに引っ越して居住したりしますけれども、ああいうノリでつくっているわけです。
  その次に、「威信型」とありますが、これは本当に高級層の居住区です。非常に高度で精緻なセキュリティのシステムを搭載した居住区で、年収も凄く高い人でないと住めないような居住区ですね。
  最後に申し上げるのは、「保安圏型」です。今紹介した、「ライフスタイル型」と「威信型」の2つはデベロッパーがあくまで新規に開発をした居住区ですが、3つ目は違います。どういう意味かと申しますと、もともとある既存の市街地、或いは居住区において、人びとが一念発起して、その周りに塀をつくろうということになり集団合意してつくるような形態です。今このタイプが非常に増えていると言われています。
(図11)
  これはカリフォルニアの「コト・デ・カザ」というかなり有名な居住区です。何で有名かというと、富裕層が住む居住区として有名なわけです。
この写真はその居住区ですが、山合いに非常に大きな住宅をたくさんつくっています。日本円にして大体1億円からの値段がついているものが多いですね。こういうものが無数にアメリカでできつつあるわけです。

「独りよがり」の世界

(図13)
  これに対して、日本ではアメリカの「ゲーテッド・コミュニティ」を非常に否定的にとらえられる傾向にございます。つまり、そういう富裕層に特化した居住区をつくって、そこに逃げ込んでいる。逃げているというのはどういう意味かというと、通例、アメリカの都心部というのは、黒人、スパニッシュ等々がいて、治安が悪い、スラム化したところである場合が多いわけですが、そこから逃れて郊外の居住区を白人たちで占める居住区をつくっていくことが「社会の分断を招くのではないか」と非難を浴びているわけです。
  その1つの対抗軸として、つまり、そういう「ゲーテッド・コミュニティ」は良くないという主張のもとにつくられているのが「サステイナブル・コミュニティ」と言われているものです。日本でも、そのような紹介のされた方がよくされます。
  それでは、この「サステイナブル・コミュニティ」とは、何かと申しますと、「サステイナブル」というのは、先程私が申し上げた「持続性(サステイナビリティ)」から来ているわけです。どうして持続性があると言っているのかと申しますと、より緑をふんだんに使っている、「コミュニティ」という人びとの「交流」、こういうものを礼賛している、そういう田園都市的なものとして紹介されるわけです。
  つまり、人と人との交流が持続性をつくるのだ、という主張に基づいています。ですから、冒頭に私が申し上げたことと反対のことを主張しているわけで、これがアメリカでも日本でも非常に受けているわけですね。
(図14)
  ただ、これには非常に嘘がある、と私は思っています。それが何故かと言うと、これは余り紹介されないのですが、実は「サステイナブル・コミュニティ」も、居住区の中に果樹園とか野菜畑をつくって、そこでみんなで家庭菜園的なノリで交流を深めているというのが1つの売りなんですが、「反ゲーテッド・コミュニティ」を掲げながら、居住区の周りは外壁で囲んでいるわけです。
(図15)
  これは日本でもよく紹介されますが、「ヴィレッジ・ホームズ」という居住区です。カリフォルニアの典型的な「サステイナブル・コミュニティ」だと言われておりますが、実はここにも外壁があるわけです。

2.私の提案
地域の統治組織の構築

(図16)
  私は、今申し上げた「ゲーテッド・コミュニティ」に対する「批判に対する批判」という意味合いでご紹介をしましたが、「サステイナブル・コミュニティ」に対する批判を通じて何を申し上げたいのか、といえば、実はセキュリティというのは非常に重要なことだ、ということです。これが契機、きっかけとなって「私立」が生じます。「私立」とはどういう意味かというと、これは福沢諭吉がよく使った言葉です。福沢諭吉は、「国家というものは私立から始まる」と言ったわけです。つまり、国家であろうが、居住区であろうが、都市であろうが、全て最初は私情から、つまり私の利益とか情念から発しているわけです。
  みんなで共同して社会をつくろうという意欲、こういうものがセキュリティをきっかけにつくられていく。つまり防犯のために、或いは、アメリカの郊外型の団地によくあることですが、車の通行が激しくてちょっと危なくなってきたから、ゲートをつくるんだ、塀で囲むんだということになる理屈です。つまり、セキュリティが契機となって町がつくられていく。その典型は、先程申し上げた「ゲーテッド・コミュニティ」であり、その1つの類型「保安圏型」がまさにそうであるわけです。
  つまり、居住区の居住者皆がお金を出し合って、負担をし合って、いろいろなルールをつくって、ブロック塀やフェンスをつくって居住区を囲んでいく。そういうふうに自分たちで社会をつくるのだ、という意欲があるわけです。
  もう1つ、我が国で参考になる点として、「プライバタイゼーション(privatization)」があります。これは、イギリスでよく「民営化」という言葉として使われています。例えば、公営住宅の払い下げでこの言葉をよく使います。ところが、アメリカではこの言葉をイギリス的な意味合いでは使いません。もともと公営住宅が少ないわけですから。では、どういう意味で使うかと申しますと、要は、先程の「私立」と同じ意味で使うわけです。つまり、自分たちでやるということです。
  得てして日本の場合、「官」と取り違えて考えられますが、「官」ではなくて「公共」です。自分たちでやるということです。こういう発想が根にある。「管制」という字を良く使っていますが、管制というのはコントロールということです。
  要は、自分たちで自分たちの町、居住区、都市というものを見守りながら、次にどういう手を打てば都市なり居住区がよくなっていくか、ということを考えて、対案をつくって、それで合意をしていくわけです。
  こういうことが実はアメリカでは行われている。これは別に居住区だけの話ではありません。「ゲーテッド・コミュニティ」だけの話ではないわけです。そもそも、これはいろいろなところで書いておりますが、地方自治体なども、アメリカは「私立」という契機で立ち上がっているわけです。
  ですから、アメリカは日本のようにあらゆる場所に市町村があるという状態ではなくて、市町村がないところが多いのですね。つまり、自分たちで必要だと感じた場合に自治体をつくる。それがアメリカの発想なのですね。それが私は日本でも必要ではないか、と思っているわけです。
(図17)
  今日は出席名簿を見ると、建築或いは都市の関連の方が非常に多数いらっしゃっています。私は文系の人間なので又聞きですが、大学で都市計画を専攻すると、ハワードの「田園都市」というのが多分学問のイロハとして教わることと思います。或いはこの現地に行くことを非常に勧められるのではないか、と思います。
  私は実は行ったことはないのですが、いろいろ物の本を読んだりしながら考えまして、「田園都市」というのは大したことはないな、とさえ思っています。ハワードの著作、理想というのは非常に高邁だと思いますが、現実にこの理論が実現化された「レッチワース」には、実は私は見るべきものは余りない、と思っています。
  ハワードは田園と都市というものをつなげることを理想にしたわけです。ここで、自治的な、自給自足的な都市をつくろうとしたわけです。だけども、実際には都市と田園というのは、農村と都市という意味ですけれども、そこで開かれた農村というのは、先程のサステイナブル・コミュニティと同じく、家庭菜園的な意味合いでしかない。
  つまり、そこに住む人はその農場で働くのではなくて、ベッドタウンとして用いていて、通例は職場の勤務地に向かうわけです。全然自給自足でもないし、完結している都市でもないというところがあるわけです。
  私は、その点だけを注目してあまり大したことはない、と申しているわけではなくて、実はもう1つあるのですね。
(図18)
  それは何かと申しますと、ハワードの「田園都市論」というのは、大きく分けて2つの要素をはらんでいたわけです。1つは、建築、都市計画といった工学的な視点です。もう1つは、社会人文学系の視点、つまり、社会科学系統の視点で、その居住区をどう運営管理していくかということをも実は含んでいたわけです。
  「田園都市論」は日本だけではなくて、世界各国に伝播していきました。つまり、ハワードが提唱して、その理論の実践たる「レッチワース」が20世紀初頭にできてから、各国に模倣されていきました。ただし、その模倣の仕方は、今申し上げた2つのうちの工学的な観点の方だけが主に取り入れられていったというキライが少なからずあるのだろう、と思っています。
  ただ、アメリカは違ったのではないか、と私は思います。アメリカは、管理運営などの観点を多少アメリカ流にアレンジして取り入れたのだろうと思っています。
  ハワードの「田園都市」は、土地を私有するということを余り考えてなかったわけです。つまり、「公」が持つということを考えていた。しかし、実際にそれをやっている国はあまりありません。日本も「田園都市」を真似した多摩川の田園調布が有名ですが、ここも完全に土地は私有しています。あれは、ハワードのやり方とは実は違うわけです。
  アメリカも私有を前提としています。ただし、アメリカは少し違うことをやっているわけです。何をやっているかというと、「制限約款」があります。これは不特定多数との契約の意味です。土地を譲渡する契約の中で、いろいろな規則を入れていった。例えば、芝を何インチに刈り込めとか、ここに塀はつくってはいけないとか、壁の色はこういうふうにしなければいけないとか、いろいろな制約を盛り込みました。
  実はこういう制約の盛り込み方というのは日本もやっています。建築協定や地区計画などがありますけれども、実は、日本のそういう制度はアメリカの真似をしたのですが、根本的なところを真似しなかったのですね。
  根本的なところとは、何かと申しますと、そういう制限、規則をつくった場合に、誰がその制限、規則を執行して管理するかということです。そこをちゃんと押さえていなかったというのが日本の問題点であって、逆に言うと、アメリカはそれをやっていた、ということなのですね。
  この事象を「プライベートピア」と呼び、同タイトルで研究書を書いた方がいます。それを私は翻訳をして紹介したことがあるのですが、「プライベートピア」というのはどういう意味かというと、プライベートとユートピアをつなげた言葉です。つまり、「田園都市」というユートピアを「プライバタイゼーション」という、土地の私有化を前提としたものとしてつくり直したという意味で、「プライベートピア」と命名したのですが、そういう住宅地のつくり方をアメリカはしていったのです。
  この場合に主体となるのは、HOA、これはホーム・オーナーズ・アソシエーションと呼ばれる組織です。
  つまり、住宅を持っているオーナーのアソシエーション(組合)という意味ですね。住宅の所有者の組合ということです。そういういわば私的なプライベートな政府、ガバメントをつくって、制限或いはルールを執行して、その居住区をうまく維持して、またより良くしていく。そういうことをアメリカでは行っていったわけです。
(図19)
  セキュリティというのは、私は良い面と悪い面とあると思っています。ですから、「ゲーテッド・コミュニティ」に対して、あんなものは「社会の分断」を招くという人がよくいますが、私は、それは浅はかな考え方ではないか、と思っています。先程も申し上げたように、セキュリティというのは、みんなで共同して社会をつくっていく契機、きっかけになるというところがあると申しましたが、それは良い点です。もし、セキュリティの悪い面を挙げるとしたら、よく言われている「社会の分断」という批判ではなく、もう少し違った意味で考える必要があるのではないかなと思っています。
  それは、保安(セキュリティ)への過信ということですね。信じ過ぎるということです。信じ過ぎてそのセキュリティに安心してしまって、何もしないということです。ですから、自ら居住区、町を守っていこうという意識を減退化させていく、そういう反面が実はあるのだろう、と思っています。
  これをうまく排除していく可能性が、「私的政府」のシステムであればあるのではないか、と私は思っております。
(図20)
  そういう「私的政府」を使った社会のつくり方、これを私は「ガバナンス」と呼びたいと思っています。近頃は、いろいろな人が「ガバナンス」という言葉を使い出しました。もともとは政治学の用語です。今は多分、都市、建築、工学系の分野の方でも、こういう言葉を使い出しています。コミュニティと同様に、非常に多岐にわたる曖昧な表現になりつつあります。
  私はどういう意味で使うかというと、「コミュニティ」という「仲よし」による集団人間関係をつくるという意味への対抗、そういう意味で使いたい、ということが1つあります。
  それは、「部分性」や「一過性」のものではなくて「包摂性」、つまり全員を例外なく巻き込む、或いは「持続性」を持つということが期待できるということです。
  これは政治的な共同性であるわけです。それは冒頭に申し上げた「まちづくり」にも非常に関連があることだろうと思っています。
  なおかつ、一番重要なのは、これは直接的なデモクラシーであるということです。どういう意味かというと、日頃皆さんが政治だと考えていらっしゃるのは、何年かに1度あると思われる国政選挙や地方議員の選挙の時で、そういうところに出かけるのが政治であるわけです。
  これは代議制、つまり、代議士を選ぶデモクラシーであるわけです。こういうデモクラシー、政治というのは今非常に不満が出ています。これでは、皆さんがやってほしいと思っている政治がなかなかされない。例えば年金問題とか食品の偽装問題、いろいろ噴出していますけれども、すべてそうですが、国民がやってほしくないと思うことがされてしまう、或いはやってほしいと思うことがされないで放置されるという事態が非常に多くなっています。

参加と熟議 

(図21)
  こういう現実を見据えて、今、政治学者の間では、「ポスト代議制デモクラシー」ということが言われておりますが、そういった言論の多くは非常に理念的なものです。私は、そうではなくて、実践に基づいて提案をしています。それは、直接的なデモクラシーなわけでございます。
  私が最も例に挙げたいのは、分譲マンションです。分譲マンションというのは何かというと、実は、私はこれは直接的なデモクラシーのまさに日本版であると思っているわけです。
  つまり、住民の総会が年に1回は必ずあって、その他にも臨時の総会があって、そこでは住民全員が集まって、住民全員が1票を持って、非常に意見を言える、そういう場であるわけです。
  こういうところで今、何がされているのか。人は「ゲーテッド・コミュニティ」を厳しく批判しますが、実は分譲マンションでも同じような現象が起きています。つまり、「ゲーテッド・コミュニティ」というのはアメリカの現象として、非常に簡単に批判されますが、日本でも同じことがされているんですね。
  アメリカの「ゲーテッド・コミュニティ」のように、ゴルフコースをつくるほど共用部分はないのかもしれませんが、今、団地型のマンションが多くなっていますから、それに匹敵するものはあると思います。非常に多くの施設と広大な共用空間を含めた分譲マンションが増えています。
  セキュリティについても、従来はオートロック1本だったわけです。オートロックは今ないところはないのではないか、と思います。そして、そのオートロックだけでは、さらに不安だと思っているのでしょう。
  このグラフは、さる資料から抽出してつくったものですが、敷地内の監視カメラ或いは24時間セキュリティ・システム、防犯センサーが、数年前は50%以下の設置率でしたが、飛躍的にのびて、今や監視カメラとか24時間セキュリティはほぼ完備しているのが実態です。
  これはもともとデベロッパーがつくったというところもあるとは思いますが、私は、マンション建替えや修繕などにも関わっておりますが、その際にも、そういう相談が増えています。
  つまり、先程「保安圏型ゲーテッド・コミュニティ」と言って、通例のデベロッパーが最初から新規につくるものではなくて、後から居住区の周りにゲートとかフェンスをつくるものがあると申しましたが、それと同じように、既存のマンションでこういう装備を後からつけるというマンションが増えております。
  そういう分譲マンションの管理組合の総会の場では、今あるオートロックでは不安だから、こういうものをつけましょうとか、警備員をつけましょうとか、そういう話がされています。そして、なおかつ、お金の負担や住民の出入りの制約などがかかりますが、それに対して賛否を問うて、決議をとっているということが非常に増えているわけです。
(図22)
  この分譲マンションの写真のゲートは、某デベロッパーがつくったものですが、いろいろなデベロッパーが同じことを行っています。昔は分譲マンションというと、建物の入り口にオートロックをつけるだけだったのが、まさにアメリカの「ゲーテッド・コミュニティ」並みに敷地の入り口にゲートをつくって、ここにオートロックをつくるわけです。建物に入る時にまたオートロックをつくって、さらにエレベーターでオートロックをつくる、トリプル・オートロックが今は当たり前になってきている。
これはもう「ゲーテッド・コミュニティ」なわけです。「ゲーテッド・コミュニティはけしからぬ」と言いながら、日本人はみんなこういうところに住むわけです。
  だから、これを批判しているのは、自分の首を締めるようなものだと私は思っています。

包摂する共同性

(図23)
  日本でも、今申し上げたように、分譲マンションの「ゲーテッド・コミュニティ」は簡単にできてしまいます。これは何故かというと、拙著の中でいろいろ詳しく書きましたけれども、分譲マンションの敷地が私有地だからです。だから、できるのです。逆に申せば、日本の戸建て住宅群は難しい。今日、開発の担当の方がいらっしゃると思いますけれども、できればやりたいという方たくさんいらっしゃいます。私はよく相談に乗ります。でも、それが何でできないかというと、私有地でないからです。当然建物は私有ですが、出入りをふさぐ時に公道に接していたり、道路そのものが公道だったりするために、法規制、行政指導があってできないのです。
  この居住区「ベルポート芦屋」は、私が実は企画立案に関与してつくったものですが、我が国で初めての戸建て型のアメリカ流のゲーテッド・コミュニティです。芦屋にあります。最近よくマスコミに紹介されます。
  ここはヨットの係留ができる、まさに豪邸の住宅地です。しかし、豪邸だろうが何だろうが、法の規制がかかることは同じです。では、何故できるかというと、ここは兵庫県の芦屋の浜の埋立地なのですね。兵庫県が開発に一枚かんでいる。行政としては、この住宅地を何とか目玉にしたい。埋立地には他にもいろんな施設がございます。公共の施設もありますし、公共の賃貸住宅もあります。ですから、これで失敗するわけにいかないのです。
  それで、行政は公道にゲートを設けることを認めました。それで行政指導を外したわけです。そういうからくりがあってできています。
  ただ、この流れは加速していくだろうと思います。つまり、これは特認でやった事例ですが、これからは恐らくアメリカ並みのものが出てくるだろう。良いか悪いか別としまして、できていくのだろうと思っております。
(図25)
  今のように、日本の「ゲーテッド・コミュニティ」ができていっている場合に、これは富裕層のためのものなので、批判があります。
  しかし、例えば、この写真は逗子にある「披露山庭園住宅」という非常に有名な住宅地です。建築や都市の分野の専門家も、皆素晴らしいと言って絶賛しています。
  これは、ゲートがないだけであって、私は同じようなものだと思っています。田園調布も同じですね。つまり、富裕層が住んで、ほかと別格の街並みを形成している。つまり、他の人は入れないわけです。
  だから、「ゲーテッド・コミュニティ」を批判するということ自体が実は余り意味がない、と私は思っています。
(図26)
  日本で「ゲーテッド・コミュニティ」ができにくいもう1つの理由があります。先程、公道の問題を挙げました。また、建築協定とか地区計画の問題を申しました。つまり、アメリカと日本で違うのは「私的政府」の有無であると申しました。日本では建築協定をつくっても、1人が同意しなければその居住地の敷地は入れられない、といった問題、或いは違反を犯した人間がいた場合に、それを制約するシステムがない、という問題があります。
(図27)
  それを顕著にあらわすのは、ひところ話題になった「ごみ屋敷」ではないか、と私は思っています。
  つまり、明らかに他の人びとに影響を及ぼすような悪臭等々を伴っているのに規制できない、何故でしょうか。私有地だからですね。或いは、「騒音おばさん」というのが話題になりましたが、あれも規制できなかった。何故かというと、私有地だったからです。そこを強力に規制する装置が実は日本の場合無いのです。
  私は「タウン・セキュリティ」という街並みの企画に携わったことがあります。ただし、それは何かというと、ここにご存じの方がいらっしゃると思いますが、「ゲーテッド・コミュニティ」ができないがために、居住区の中を警備員が巡回するような街並みのことを言っています。
  ああいう街並みをつくった場合に、実は問題があるのは、当初の分譲地を買った人からは警備員を雇うお金を取れるのですが、その後に購入した人からは取れない場合が起こりえます。取るシステムがないのです。
  先程申し上げた日本初の「ゲーテッド・コミュニティ」は何を行ったかというと、強引に徴するシステムを区分所有法上できるようにしました。
  日本の分譲マンションであれば、管理組合があって、或いは理事会があって、「私的政府」が一応あるわけです。そこで制約はかけられる。ただし、日本の普通の戸建ての住宅地、市街地であれば、そういう強力な政府がないのです。
  ですから、私はそういう「私的政府」を分譲マンションだけでなくて、都市、既成市街地或いは、新規の戸建て分譲地にも設置するべきではないか、それが「まちづくり」ではないか、と私は思っているわけです。
  ここに記しましたように、町内会、自治会という一見地域の政府じみたものはあるのですが、権力としては非常に弱い。せいぜい町内会費の徴収であるとか、お祭りの運営とかそういうたぐいのことしかできないわけです。
  分譲マンション並みの「私的政府」をつくった場合、さまざまなルール、制約を課すことができる。或いは執行に応じない人に罰則等を課すことができるということがあるわけです。
  一番大事なことは、最後に記した「包摂する共同性」ですね。違反者、或いは総会があっても全然出てこないという人がいた場合、勝手にルールを決めて執行できるわけです。人を罰することができる。つまり、全員を含めて考えることができる。これは自治会や町内会ではできないことです。町内会は入らないこともできますから。分譲マンション並みの「私的政府」をつくれば、必ず全員を巻き込んだ、しかも「私的政府」による直接的なデモクラシーによって運営ができる、そういうメリットがあるのではないか、と思っています。
(図28)
  つまり、私が言う「ガバナンス」は何かと整理をしますと、実は「コミュニティ」というのは私が申し上げた「仲よし」という非常にプライベートで私的な相互交流、「おつき合い」という意味の他に公的な意味合いがあるのではないか、それは共同、或いは集合的な共通の価値を向上、維持していく、そういうものだろう、と思うわけです。
  この部分を増進していく。或いは、「公的なコミュニティ、イコール、ガバナンス」ととってもらってもいいですが、そういうものが私の求めている「まちづくり」であり、共同性であるわけでございます。
(図29)
  「私的政府」ということを私が申しましたが、これに抵抗感を持つ方もいらっしゃるのではないか、と思います。
  つまり、公的政府は非常に「公」のもので、公共性がある、それに反して「私的政府」というのは勝手につくったものではないか、と。デベロッパーや住民同士が勝手につくったものではないか、と。こうした抵抗感をお持ちの方がいらっしゃるかもしれません。
  けれども、アメリカの話を先程しましたが、アメリカの地方自治体というのはもともと私的なものだった。福沢諭吉が言ったように、国家ももとは私的なものだった。より重要なのは何かというと、公的なもの、私的なものという分け方を言葉上するのではなくて、私的だろうが、公的だろうが、社会に対して自分がどれだけ責任を持てるか、ということだと思うのです。これは自律と言い替えてもよいと思います。
(図30)
  一例を挙げれば、国立のマンションの景観論争というのがひところ話題になりました。これは国立の大学通りの写真ですが、この手前に見えるかなり高いマンション、この建設をめぐって争いになった。大学通り沿いでは高い建物を建てないのがこれまでの習慣で、それに反しているということでデベロッパーと地元住民とで争いになって、司法、裁判の方もエスカレートしました。このマンションの高い部分を削れというクレージーな判決が出たんですが、これは後で覆されました。環境論争として非常に話題になったマンションです。
  私は、別にこの分譲マンションの問題のどちらの肩を持つわけではないですが、やはり、この大学通りに高いものを建ててはいけないのであれば、建ててはいけないという規制をかけるべきだったと思うのです。
  それをできる手段はたくさんあるわけです。現実に今地区計画をまいていますが、地区計画をまくことができた。住民たちはそれをしなかったわけです。ですから、私は、これは住民たちにも責任があると思います。一方的にデベロッパーを責めるのはどうか、と思っておりました。
  これは、この居住区或いは街並みに関して「ガバナンス」という共同性が実はなかったことなのではないか、と私は思っています。
  ですから、もう少し味のある判決をするのであれば、例えばこの街並みをどうするかについて、再度住民とデベロッパーで協議して、きちんと計画をつくるように、或いは再開発をするように申したらどうだっただろう、などと思うわけです。  
(図31)
  これは2つ目の例ですが、一昨年の朝日新聞の関西版です。非常にセンセーショナルな記事が一面に出ました。「六麓荘」という有名な芦屋の住宅地があります。ここで敷地400平米以上の戸建て以外は駄目だという条例を施行したのです。それでこういう記事になっているわけです。
  実は芦屋の「六麓荘」というのは、先程の「披露山庭園住宅」と同じように非常に素晴らしい街並みだということで称賛されもしていたところです。
  それがこういう条例をつくった瞬間にいろいろ取りざたされる。私は、これはおかしい話だなと思っています。
(図32)
  そもそもまちづくりの困難性というのは、今申し上げた2例にあるように、居住区で、「コミュニティ」だとか「まちづくり」だとか言って騒ぐことではないのではないか、と思っています。
  実は、分譲マンション建て替えや再開発に臨んでおりますと、一番多く目にするのは、議論をした時に、参加者の中に少し違う意見を言う人がいると、たやすく異端者とみなす、「敵」とみなすという空気が蔓延することでございます。
  私がつとにそういう光景を見たのは、「コミュニティ」と「ガバナンス」との違いということで申し上げてもいいと思うのですが、阪神・淡路大震災の被災マンションの建て替えに関わっていた時期でございます。
  そこでは、よくわかっていない専門家の方々がマスコミに登場して、あの被災マンションの建替えの合意形成ができたのは、「コミュニティがあったからだ」或いは「昔からのつき合いがあったから、まとまってできたのだ」とコメントされておりました。
  だけども、私が現場でよく見たのは、そうではない、つまり、それまであった「コミュニティ」という「仲よし関係」は簡単に断ち切られる。何故かというと、要するに、今まで建て替えか補修かをめぐって、自分が数千万払わなければいけないような事態もあり得るわけです。
  そういう合意形成の中で、「仲よし関係」なんて気にしていられないのですね。ですから、たやすく敵、味方に分かれてしまう。昨日まで仲のよかった人が敵、味方に分かれてののしり合いになる。そういう惨状を多く目にしました。
  ですから、「コミュニティ」というのは多分に砂上の楼閣だろうと私は思っていますし、よくそれをわかっている建て替えの合意形成等に携わっているコンサルタント、それを経験された住民の皆さんは私と同じことをおっしゃいます。それから、私が申すこと、書くことに対して大体共感を示されます。
  私は、そういう意味で「ガバナンス」を重視したいと思っているわけです。それはどういうふうにすればできるか。それは、私的な政府という制度があればできるのかというと、できないわけです。例えば、「ゲーテッド・コミュニティ」を私が擁護したのは、アメリカの「ゲーテッド・コミュニティ」も「私的政府」があるわけです。その「私的政府」をもってゲートを設置したり、ということをするわけです。それは「私立」の精神があるかというと、実はない場合も多いのです。
  日本の分譲マンションもそうですね。「私的政府」として管理組合、総会、理事会等ありますが、人は皆嫌々やっている。或いは委任状を出しておしまいにする。輪番制で役員が回ってきたら仕方ないからやる、という場合が少なからずあると思います。
  つまり、制度があっても駄目なのですね。それだけでは何も動かないのです。私が何を言いたいかというと、ここにありますように、セキュリティは1つの契機になるわけです。それはセキュリティを完備すればいいという話ではないです。つまり、セキュリティというのは実はイタチごっこで、犯罪というのは絶対になくならないわけです。
  先程分譲マンションのセキュリティの設備のグラフをお見せしましたが、要は、今ある設備が絶対安泰かというと、それを破る行為が必ず出てきます。その事実をちゃんと知っておけば、皆さんで、もう少し精度を上げるような工夫をしようとか、こういうことをやろうとか、そういう議論が出てくるわけです。
  ですから、「セキュリティはけしからぬ」とか、「ゲーテッド・コミュニティは悪だ」とかいう前に、セキュリティの設備を客観的に、数値的に示していくことが実はそういう共同する力をつけるきっかけになるのではないか、と私は思っているわけです。
  分譲マンション等では、よく「コミュニティ施設」をつくると素晴らしい、或いは居住区にいろんな施設をつくると「よいこと」だ、と言われますが、私はそうではないと思います。分譲マンションで、居住区でお祭りとかパーティーとかイベントをやることは、非常に「よいこと」だと言われますが、私はそうではないのではないかと思っています。
  つまり、そういうことをやるのであれば、今申し上げたように、セキュリティの実証的なデータを上げて、それの改善する議論を深めるとか、そういうことをしていくほうが有益ではないでしょうか。つまり、イベントやパーティーよりも総会の方が、私はよっぽど重要ではないか、と思っているわけです。
(図33)
  まとめに入ります。私が申し上げている「反コミュニティのまちづくり」というのは何かと申しますと、要するに、今日ここには工学的な専門家の方もいらっしゃるかもしれませんが、物をつくることは非常に大事なことだとは思うのですが、ただ、「コミュニティ」をつくるのは物ではないと思うのです。「まちづくり」というのは物をつくることではないと私は思っています、社会的な装置、或いは活動を促すこと、それが重要ではないか。それは、1つの手段としては、「私的政府」をつくって、それを運営していくこと。いわゆる自治ではないかということです。
  それから、「田園都市」は土地の公有を理想としていましたが、アメリカ型、或いは日本の分譲マンションのように、私有、共有を前提とした所有の意識、或いはその価値を向上していくための意識ではないかと思います。
  アメリカでは不動産の価値が、新築よりも中古が高い。今サブプライム問題で非常に揺らいでおりますけれども、それでも、そういう実態があるということは、1つには「私的政府」の能力によるわけです。
つまり、建物だけでなくて、住宅地全体の価値を高めるためにいろいろな制約、ルールを課しているわけです。そういう経費が必要だということです。
  それから、犯罪抑止の実効性は重要です。つまり、「ゲーテッド・コミュニティ」だろうが、超高級セキュリティ・マンションだろうが、犯罪はあり得るわけですね。実際にあります。そういう例を聞いたことがございます。
  それをきちんと確かめることによって、「ガバナンス」の契機が生まれるのではないか、と思っています。
(図34)
  私が今まとめている著書は、多分こういうタイトルになるでしょう。「社会をつくる自由」。まちづくり、分譲マンション建て替え、再開発では、「説得」という言葉が重んじられます。同調者を一生懸命つくる。コンサルタントの皆さんはそれを懸命にやりますが、私は、それは違うのではないか、と思っています。
  つまり、「説得」というのは自分と同化させるということなのです。これは「コミュニティ」にも通じることだと思います。先程新聞記事に私が「KYのすすめ」と書いたのも、それに抗するということです。
  本当の自由というのは、他者の同調を強いることではなくて、自分たちで社会をつくっていく、そういう責任を持つことだと思っています。そういう責任を持つことが、最後に書いておりますが、より大きな社会、つまり、「ゲーテッド・コミュニティ」、分譲マンションより大きな社会、自治体、国家というところまで行き着くと思いますが、そういう社会に対して責任を持っていくきっかけになるのではないか、と。
  フランス人のトクビルという人がおっしゃった有名な一節に、「地方自治はデモクラシーの学校である」がありますが、それはまさに直接的なデモクラシーです。アメリカにタウンミーティングというのがあります。日本で小泉さんがやっていたものとは全く違いますが、そういう直接的なデモクラシーがあります。それを想定して「学校」と彼は言ったわけです。これと同じ契機が「私的政府」による「まちづくり」にはあるのではないか、と私は思っているわけです。
  以上です。あとは質問の時間をとりたいと思います。どうもありがとうございました。(拍手)

フリーディスカッション

與謝野 竹井先生、ありがとうございました。
  それでは、せっかくでございますので、この場で皆様からのご質問を受けます。   どうぞご遠慮なくお申し出下さい。
長谷部(法政大学) お話を、中間団体論をまちづくりに適用するみたいなふうに私は受け取ったんですが、そういうコンテキストで言いますと、実は日本には、自治の組織が、いっぱいありました。地域共同体にせよ、商人のギルドにせよ、町衆にせよ、それが近代国家になって機能しなくなった。それをまた新しく機能させるというご主張だとすると、これは近代国家を支える仕組みそのものの見直しを迫る議論につながるような気がするんですが、そういうコンテキストであるという理解でいいかどうか。それと、近代国家の仕組みの見直すというところまでいくとすれば、逆にいうと、近代国家論を展開されないと、中間団体もっとちゃんとやれだけでは議論が進まないのではないかと思うのですが、そこをどういうふうにお考えになるか。その2つを教えていただきたいと思います。
竹井 1つ例を挙げてお話をしますと、今、年金制度というのが非常に見直しを迫られておりますね。私は思うのですが、年金制度というのは、老人が年金を国家からもらって自活しているように見えるのですが、実は若年層から収奪している制度であることは間違いないわけですね。
  それが、そういうふうに認識されない1つの理由は、どこの誰とも知らない他人の若者から取ったお金が、社会、国家というブラック・ボックスに入って、そこからお金が給付されているからだ、と私は思います。それはすなわち、私が申し上げた社会に対して責任を、年金受給者が感じていないからだと思っているわけです。
  つまり、年金受給者は自分のお金が当然に還ってくるものだと思っているわけですね。それをもう少し国家に対して責任を持つという観点から考えると、ブラック・ボックスを破壊することの必要性、私はそれを国家も含めて申し上げているつもりです。そこを組み直すという主張をしたい、と思っています。
  ですから、具体的に言えば、現実性があるかどうかは別ですが、例えば国家の方で全部お金をかき集めて、どこからかき集めたかわからないようなお金を高齢者に渡すシステムというのは、実は個人を非常にバラバラにしているわけです。どこから出たかわからないし、誰から養ってもらっているかもわからない制度であるわけです。
  そうではなくて、例えば中央でかき集めているお金を、今私が申し上げた中間団体かもしれませんが、ある「私的政府」の方で担っていくことができれば、そこで誰がどういう拠出をして、それがどういう順路でお金として行き渡っているのか見えてくると思うのです。
  それは先程申し上げたブラック・ボックスを壊す、という行為だと思います。これは実現性があるかどうかわかりませんが、そういうところを目指したい、目指すべきです。皆さんが年金問題について無責任に、これだけいろいろ議論しているというのは、そういうところが見えてないから、そこがわかってないから、或いはそこに皆さんが責任を持ってないからではないか、と私は思っています。
中庭(多摩大学) 多摩ニュータウンで、まちづくり、コミュニティの維持管理の仕事でしています。
  今の「私的政府論」の話を住宅に置きかえると、当然所有権、特に共同所有と居住者の権利の話は避けて通れないと思います。そうした場合、集合住宅の場合に、最後にご提言のところで、共有を前提にするという話をされたわけです。実際に、今、区分所有法で皆さん持ち分を持った形で共有をされている。なかなか管理組合の総会などには熱心ではないという実態があります。
  一方、コミュニティの批判というのはよくわかるんですが、例えばマンション自体を、同じ共同所有でも、総有にしたらいいのではないかという主張もあるかと思うんですね。持ち分を持たない。そうした場合は、私的政府の形態も多分変わってくるのではないかと思うのですけれども、そこら辺の財産権と先生のおっしゃった私的政府に関わるメンバーの関わりがどう違うのかというところを少し詳しくお話しいただきたいと思います。
竹井 1つ簡単に例を申し上げると、私は、アメリカの住宅の中でも「ゲーテッド・コミュニティ」は詳しいとはいわれておりますが、もう1つ詳しいといわれているものがありまして、それはコーポラティブですね。アメリカに「コウオプ(co-op)」と呼ばれているコーポラティブがあります。
  分譲マンションのつくり方はデベロッパーがつくって、その住戸を販売していきますが、日本のコーポラティブ方式というのは、まず入居する人が集まって、組合をつくって、その組合がマンションをつくっていきます。竣工したら分譲マンションと同じように区分所有して、管理組合をつくって終わりです。
  アメリカでは全く違います。日本の方が後に出てきたので、日本が真似をし切れていないというのがあると思います。アメリカだけでなくてヨーロッパ全部そうです。日本だけが特殊です。
  アメリカの「コウオプ (co-op)」というのはどういうことかというと、建物をつくるのはデベロッパーなんです。つくった後が問題なのです。つくった後は分譲マンション、つまりコンドミニアムとは全然違う。コンドミニアムは日本の分譲マンションと全く同じで、専有部分を自分で個別的に所有して、あとは共有という区分所有ですが、アメリカの「コウオプ(co-op)」というのはそうではなくて、今おっしゃった総有に近い考え方ですね。
  ですから、ある法人をつくるわけです。会社と申してもよいかもしれません。会社をつくって、その会社の所有にするんです。会社の所有にして、居住者は何を持つかというと、その会社の株券を持つ。値段的にはコンドミニアムとそう変わりません。
  ただし、その後が違います。つまり、中古の価格はぐんぐん高くなっていく時があります。例えば、ヒラリー・クリントンが、一時期アメリカの「コウオプ(co-op)」に入ろうとしたことがあります。何で彼女は「コウオプ(co-op)」にこだわったかというと、「コウオプ(co-op)」というのはステータスがある。どういうステータスかというと、実はアメリカの「ゲーテッド・コミュニティ」でもコンドミニアムでも、当初は人種差別があったわけです。つまり、契約上、異人種は入れないという規定を設けていたわけです。だけど、そこは憲法ではねられたわけです。
  日本ではないですよ。日本は憲法がそこまで及ばないのです。けれども、アメリカの場合は及ぶのです。そういう法のシステムなのです。
  「コウオプ(co-op)」にした場合は、これは憲法が及ばないのですね。何故かというと、ゴルフの会員権みたいなものだからです。ゴルフの会員権や企業の株と同じように扱われるわけです。何をしたって許される。ですから、異人種は排除できる。ニューヨークの「コウオプ(co-op)」というのは非常に高価です。
  ですから、ヒラリ―も入りたかったのでしょうが、実は彼女は入れなかった。入居者の審査がある。これは彼女、絶対言いません。私も何かで読んで見つけたのですけども、日本では知っている人は多分いないと思います。何故に彼女がはねられたかと言うと、その時ちょうど上院議員になる前だったんですね。クリントンが大統領をやめた後だったので、議員になれるかどうかわからなかった。つまり、収入が入るかどうかわからないわけです。そこで理事会の審査ではねられました。
  日本の分譲マンションとかアメリカのコンドミニアムはそれは絶対ありません。入居審査なんかできない。だけど、「コウオプ(co-op)」だったら、できるわけです。それで彼女をはねたんです。
  ですから、権力は「コウオプ(co-op)」の方がコンドミニアムよりあると思います。ただ、それがいいか悪いかは別です。私はほとんど変わらないと思っています。分譲マンションだろうが、「コウオプ(co-op)」だろうが。つまり、共有だろうが、総有だろうが、それは「私的政府」の活動如何で幾らでも何でもできる、そういうところはあると思います。
  ただ、今申し上げた異人種の排除というところだけは「コウオプ(co-op)」は強い。だから、価値があるというのが実態ですね。これがお答えになっているのではないか、と思います。
與謝野 それでは他の方のご質問はいかがでしょうか?
柴田(九州大学) 私も戸建て住宅の研究をしているんですけれども、「コミュニティ」の提案というのは凄く同意するところで、「ガバナンス」の発想がなかったから、アソシエーションということでずっとやってきたんですけれども、今日の話で、都市を集合住宅というのはすごく面白いなと思いました。
  ただ、新規の戸建て住宅地であれば、日本でもHOA的なものをつくろうとか、そういう動きはあって、イメージは湧きますが、既存の戸建て住宅地でそういうものをやる可能性があるのかというのは凄く気になるところです。今日お話の中に出てきた「ゲーテッド・コミュニティ」の中でもデベロッパーがつくるものではなくて、自分たちでやる「保安圏型」の「ゲーテッド・コミュニティ」、これの方が面白いかなと思ったので、もう少しその辺を詳しく紹介していただければ、お願いします。
竹井 先程申し上げた「保安圏型」には、その中でも幾つか類型があると言われています。「保安圏型」でも、都心部につくるものもあり、郊外につくるものもあって、一番多いのは、ここで「パーチ」と書いてありますが、バリケード型です。これは「非常に簡便な」という意味です。満遍なく居住区の周りを、境界線のすべてを取り囲むのではなくて、道路だけをふさぎます。これであれば費用があまりかからないのですね。
  実は、これはカリフォルニアに多く見らました。低所得者層の居住区にも「ゲーテッド・コミュニティ」は多くあったのです。それは「保安圏型」でやっているわけです。つまり、道路にバリケードをつくってふさぐ。
  例えば、格子型の街並み、京都みたいな街並みがあった場合に、そのうちの道路の何本かをバリケードでふさいでしまうわけです。
  この場合に問題になるのは、日本と同じです。つまり、道路をふさぐことがいいかどうかという行政当局の判断が要る。ただし、それは当局の個別性で、その道路があまり重要でないと考えれば、簡単に許可していた実態がございます。そういうものが無数にできておりました。
  ですから、日本の住宅地でやれるかどうかというのは、ちょっと私は疑問があります。同じようなものがはやるかどうかはわからないです。
  ただ、私が1つ申し上げたいことがあります。日本の戸建て開発の事業者は、アメリカの住宅地のイメージを真似して、塀のない、非常にオープンな住宅を最近よくつくっています。歩いていても、車で走っていてもよく見かけます。
  日本の戸建て事業者に、私は何故真似をしているのか、と聞いたことがあるのですが、彼らは、アメリカがしているからしたと言っています。居住者にも勧める時には、アメリカがこうなっているから、非常に新しいのです、最新なのです。これがオープンだと犯罪が起こりにくいのです、監視が行き届きますから、と言っているのですが、私は、それは舌足らずだな、と思っています。
  というのは、アメリカでは、例外なくこういうオープンな住宅地にはゲートがあるのです。つまり、居住区全体で囲っているわけです。だから、塀はない。塀がなくても大丈夫なのです。だけど、犯罪学者に聞いても皆、犯罪を防ぐ、抑止する一番の基本は囲うことだと言います、間違いなく。
  だから、むやみにオープンにするということはどうなのか、と思います。日本で今こういう街並みが増えてきた中で、実際に犯罪が起きた場合、どういう反応を示すかというのは私は非常に興味があります。恐らく、ゲートで道路を防ぐことをし出すのではないのか、ということを期待というか興味を持って見ています。
河合(樺|中工務店) 今日は、非常に衝撃的で凄いなと思っていました。私も関西で再開発をやったことがありますが、先生がおっしゃっている中で、一般的な我々の価値観自体がデモクラシーの基本を忘れて──デモクラシーの基本は、自分たちでやらなきゃいけない、責任も生じる、合意の枠組みがあって、それを自分たちで守らなきゃいけないというのを忘れて、うまいこといかないことがあったら、何でもだだをこねているみたいなことになっているというのが問題意識としてあると思うんです。
  その中で安全、セキュリティを切り口にして自治みたいなことが可能ではないかということは大きな提案だったと思うんです。町をとらえた場合、安全以外でも、気持ちいいだとか景観だとか、いろいろと人の生活を幸福にするものはあると思うのですけれども、安全、セキュリティー以外に何か合意できる可能性がある切り口があれば教えていただけませんでしょうか。
竹井 パッと思いつかないのですが、先程の「ごみ屋敷」なんていうのは1つの典型かもしれません。そこら中が「ごみ屋敷」になったら考える人が出てくるかもしれません。
  私は「景観」というのはどうか、と思っています。先程ご紹介した国立マンションの論争で、「景観」が非常に盛り上がりましたけれども、個人的な心象めいたところが強い基準しか育たないので、それで合意するのは非常に難しいのだろう、と思います。
  あとは、私が実際にかかわっている分譲マンションですと、防犯だけではなくて、修繕或いはペット問題、果ては建て替え問題、そういうところに行き着くのかなと思っています。
  あとは、これも最後に蛇足で加えましたが、中古の価値ですね。つまり、日本の場合、建物は10年経てば完全に0円です。これ、おかしいのではないかという議論が昔から言われているにもかかわらず、まだ実際に効力ある形で、アメリカのように、中古の方が高いとかいうことが言われ出していない。幸いにと言うべきか、不謹慎かもしれませんが、今の金融恐慌の中で、不動産価値の暴落の中で、中古市場が活況を呈しています。それは1つのきっかけになるかもしれない、と思っています。
與謝野 ありがとうございました。他にご質問される方は?
天野(明星大学) 私自身は都市社会学でコミュニティをやっておりましたので、そういう意味でも大変刺激的で面白い話だったと思います。
  4点ほどコメントをお願いしたいのです。
  1つは、日本はずっと同質社会だと思われていたという印象が多くあるんですけれども、それが変わってきた。異質な社会といいますか、例えばマンション建て替えの時でも、最初に建てた時はみんな合意していたのが、10年経ったらみんな状況が違って合意できなくなる。つまり同質社会の幻想なんていうものが通用しない社会になったので、こういう話が重要になってきたのかなという印象を持ちました。
  本日のガバナンスの話が重要だという視点、これは日本社会全体が変わってきたことの反映なのかなという、そのあたりイメージだけでもいいのですがお聞かせいただきたいのが、1つ目です。
  先程のゲートでくくることについて、行政側がアメリカだと割と簡単に許したというお話でしたが、日本の行政は杓子定規的な規則から入るのに対して、アメリカだと、それで町全体の生活レベルが上がるなら、或いは自分たちの要らない経費が減るのだったら、そういうふうに任した方がよりレベルが上がるのではないかという、割と柔軟な発想をしているのかなと感じたんですけど、実際はどうなのか。2点目ですね。
  3番目として、先程の話でもあったように、中古の住宅の価値が向こうで上がるということは、地域で生活する時も、日本だとそこに入れば暮らせていけてしまうような気持ちがあるんですけれども、向こうですと、そこの地域に入っても、そこの地域の統治機構といいますか、コントロールシステム、そういうものがないと安心して住めないとか、そういうものがあったほうが快適に住めるという環境がアメリカにあると考えていいのか、それが3点目です。
  4点目ですけれども、人々のつながりという意味で、ソーシャル・キャピタルという言葉が最近出ています。コミュニティというのはいわば下からソーシャル・キャピタルをつくっていく、ジワーッとつくっていくようなイメージがあるんですが、今日のお話ですと、目的を達成するために、いわばアソシエーションをつくる、その中で目的を維持するために活動しているうちにソーシャル・キャピタルができてきて、先程の中古のほうが上がるというカルチャーができ上がっていくという話でした。ですから、むしろ同質社会でない段階に入った日本の場合だと、上からそういうものをつくって、中でソーシャル・キャピタルをつくるという内向きの話にした。どういうキャピタルができていくかというもの、例えば資格審査とか、そういった形でコントロールしていかないと、うまくない段階に入っているなということをおっしゃっていたのかなと、そんなところで4点ですが、私の理解でよろしいのかどうかというところと、何かお考えがありましたら、よろしくお願いします。
竹井 異質性の社会でしたっけ。
天野(明星大学) 要するに、日本というのは、以前考えられていたように合意ができるよとか、そういう話ではなくして、むしろ異質の社会になっているので、コミュニティというものが下からジワッとでき上がるというのは考えなくて、異質な社会を前提として目的合理的にやっていきましょうというふうな話なのかということです。
竹井 少し違うかなと思うのは、私は「コミュニティ」というのは未だ日本で十分に通用する話だと思っています。例えば、こういう話をしましょう。「ライブドア事件」が、ありましたよね。私は堀江さんが好きでも何でもないですし、別に応援しているわけでも何でもないのですが、彼のことを盛んに応援している人たちがいました。ああいう事件が起こる前は、時代の寵児だとか、ITの寵児だとかいろいろいって、もてはやしていました。それがある日一転して、彼がイカサマ師のように言われて、犯罪者と呼ばれて、監獄に入った、というところで評価が一変しました。
  私は非常に面白いなと思って見ていました。彼が捕まったのがおもしろかったわけではなくて、評価が180度変わるのが面白かったのです。つまり、例えば戦前で、「鬼畜米英」と言っていたのが、「マッカーサー様」に簡単に変わる。それと同じようにしか私には見えないのですね。
  これは福沢諭吉を引用して、丸山眞男という高名な政治学者がいましたが、彼が「一身にて二生を経る」ということを言っています。一身というのは一つの身、一つの体で、二生というのは二つの生き方です。一つの体で二つの生き方をするというのは非常に大事なことだ。それに反して、まるで2つの頭を持っているかのような両頭人間というのは駄目なのだ、ということをおっしゃっています。
  福沢諭吉は何でそういうことをおっしゃったのかというと、要するに彼は「やせ我慢の説」というのを唱えたことがあります。つまり、維新前と維新後で一変する価値観を平気で言う人、例えば、先程私が申したのもそうです。「ゲーテッド・コミュニティ」を批判する人で、私に詰め寄る人もいました。私が、「ところで、あなたはどこに住んでいるのか」と聞いたら、「分譲マンションだ」とおっしゃいます。「どういう分譲マンションですか」と聞くと「オートロックがあります」と。「それはゲーテッド・コミュニティじゃないですか」と尋ねると、その方は言葉に詰まるのですね。
  つまり、ある場所では、それを声高に批判する。時代が変わったり、環境が変わったりすると、すぐ180度変わってしまう両頭人間なのです。
  これは、要するに「コミュニティ」があるからだと思います。つまり、そういう「空気」が変わるからなのですね。欧米だと余りないと思います。何故かというと、欧米は宗教があるからです。日本はない。これは私がよく使っている言葉ですが、日本は「宗教がないことが宗教」なのです。
  山本七平という評論家がよく使っていました。或いは「空気」という言葉も彼がよく使っていました。私はそういうことだと思います。
  だから、「コミュニティ」というのは、下からジワジワだの何だの、「ソーシャル・キャピタル」だのということをおっしゃいましたが、「ソーシャル・キャピタル」と連呼している人に聞いたことがあります。
  「ソーシャル・キャピタル」はパットナムという政治学者が言い出したのです。パットナムの著作のどこに興味を持ってそういう言葉を使い出したのですか、と聞いたら、彼はそんなの読んだことない、とおっしゃっていました。
  或いは「コミュニティ」とどう違うのでしょうか、と違う人に質問したことがあります。「ソーシャル・キャピタル」の方が何となく今の時流に合っているから使っているとおっしゃいました。これは真っ当な大学教授と名乗る人がおっしゃっているのです。私は狂っているなと思いました。そういうものだと思うのです。
  今、おっしゃった下からジワジワというのも、ほかの皆さんは全然違う意味で「コミュニティ」を使っているのだと思います。そういうことからしても、私が申している「コミュニティ・イコール・仲よし」、「空気」といってもよいかもしれませんが、それはまだ十分にこの世にあるのだろう、と私は思っています。
與謝野 ありがとうございました。
皆様におかれましてはご熱心にお聞き頂きご質問も多く頂きましてありがとうございました。本日は、都市と居住空間における「コミュニティ」という一種の「共同性概念」にまつわるあいまいさというか複雑性について、この概念の解析に対する誠に新鮮な理論的示唆を提供する貴重なお話を竹井先生からいただきました。ありがとうございました。
  それでは最後に、竹井先生に大きな拍手をお贈り頂きたいと存じます。(拍手)
ありがとうございました。以上をもちまして本日のフォーラムを締めさせて頂きます。
                                   

 



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