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1. はじめに~帝都復興とは何だったのか
2 . 大正の「現代」~民権論の世相と第1次世界大戦後の世界
3. 景観を誇示する都市~「東京節」が謳歌した帝都
4. 帝都炎上の惨禍~大震災をたどる演歌 
5. 復興の速度感~「コノサイ」こそ民意
6. 燃え落ちた旧社会~純白のキャンバスの出現
7. モダニズムの帝都~復興小学校の奇跡 
8. モダン行進曲~モボ、モガの昭和東京
9. 結び~なにを学び、なにを残すのか 

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2.大正の「現代」~民権論の世相と第1次世界大戦後の世界

(図4)
大正時代を見てみましょう。大正天皇の立太子礼の記念の大正博覧会などいろいろな博覧会が開かれます。建築の人から見ると、奇妙なもの、今でいうとラスベガスの建築みたいなものが次々と建っていく。それまでのヨーロッパのものを学習して都市や建築をつくって来た風潮とは違う、軽やかな形で建築が展開していきます。
銀座も、お雇い外国人、イギリス人のウォートルスがつくった銀座レンガ街。歩廊(アーケード)があって、そこに柳も植わってきて、昔恋しい銀座の柳の風情ができてくる。真ん中に市電が走ります。このような形で都市の成熟化が進んでいきます。す。
(図5)
大正9年に東大の学生たちで日本分離派を結成しますが、大正11年に平和博覧会があって新表現を求める若者たちの表現の舞台になっています。仮設建築ならではの奇妙なものが建ち、自由な風潮が広がっていきます。
(図6)
大正という時代を演歌で見てみると、結構成熟していた。明治から大正になったときに、大正時代になって明治の重々しさがなくなって嫌だなという感じが、ある年齢以上の人にありました。それだけ軽やかな時代がやってきた。明治という時代を経て、日清・日露の東アジアの戦争を2つ勝ってある安定に入った。そして軍事的にも東アジアで強大な力を出し始めます。そういうこともあり、社会が安定した中で女性の権利のため平塚らいてうたちが青鞜社を結成する。男のすることはみんなやってみようというので、平塚さんたちは、吉原に登楼する。現代のフェミニストがしないようなことまでやっていました。女性の権利の運動を軽薄だと言うと怒られますが、それまでなかったような軽い文化が出てくる。これは後で「現代節」で歌います。
(図7)
大正7年になると戦争が終わって、「東京節」が出てきます。ラメチャンタラギッチョンチョンでパイノパイノパイ。今日来ている方は年配の方が多いので大丈夫だろうというお話もありましたが、皆さん耳にしたことがあると思います。これは日本には珍しい「東京の景観」を誇る歌です。三菱の一号館や二号館、東京商工会議所、東京海上ビルディング、そういうものが東京駅の駅前、皇居側にそろってくる。添田唖蝉坊という演歌師の息子さんの添田さつきが、有楽町から神田の外語学校へ通うときにその景観を見て歌をつくって、それが日本中の大流行になります。一方で現代と同じような経済万能時代です。レッセフェール、自由経済万能時代ですから、その中で庶民はどうするんだ。庶民はやられているだけでいいのか。それなら、革命のようなことをするのかというと、そうでもない。公共がきちんとしてくださいということで、「のんき節」なんかを見てみると、そういう公共を叱咤する一節があります。
大正時代について長谷川堯さんが『大正建築論』や『神殿か獄舎か』、『都市回廊』を書いていますが、ちょっと違うのではないかと思っています。長谷川さんが書いた大正論というのは青白きインテリに偏っている気がします。後藤慶二という建築家や、無政府主義者の大杉栄。隅田川をセーヌに見立ててフランス料理屋に集まる『パンの会』もありました。木下杢太郎らです。そして、永井荷風。それから、武者小路の『美しき村』。
演歌を見ていくと、庶民は強靱に生きていて、権利意識が強い。公共がちゃんとやってくれないと、おれたちは生きていけないんだという意識は非常に強く持っていた。そういう社会主義的思想でいうと、有楽町で売文社を主宰していた堺利彦や演歌師の添田唖蝉然坊親子、そういう人たちの「大正」の方がどうもリアルなのではないか。青白きインテリが中野刑務所につながれて、壁をコツコツたたいて信号を送り合ったとか、そんな話より大正の東京の街頭がずっと活気あふれる現実の社会だったと考えるわけです。
演歌はもともと川上音次郎から始まりました。街頭で政治メッセージを歌う。識字率は高かったんですが、それでもやはり川上音次郎の場合は歌で政治的な主張をやり、添田唖蝉坊の時代からはニュースを読んで、その後、冊子を5銭で売って生計を立てていく。それが物すごくよく売れた時代です。
歌の読み売りといいますか、これは読売新聞の名前にもなっている「読み売り」なのです。これはすごく市民の支持があった。演説の「説」を「歌」に代えたのが「演歌」。まさに演説を歌でやるという感じでした。演歌を歌っていると、弁士中止をやるんです。それを防ぐために市民が街頭で演歌師をブロックして守った。そんな時代だったわけです。
これは明治からそうでしたが、それが大正になって、貧乏学生がバイオリンを持って生計のために弾き語りをやった。当時バイオリンを弾いていれば吉原ですごくもてたという話があります。不埒な輩も出てきたので、添田唖蝉坊親子は演歌師を組織化します。このころ「壮士節」ともいい、苦学の書生が歌うイメージが「書生節」という名も生まれました。
「故郷」や「もみじ」、「朧月夜」、「春がきた」をつくった芸大の先生の高野辰之という人は、添田唖蝉坊というのは明治が生んだ社会詩人の第一人者と、戦前に書いています。それぐらい多作であり、権力に対して常に自由精神で臨んでいった。ただ、彼は一度も検挙をされたことがない。つまり暴力は絶対しない。尾行がずっとついていましたが、尾行から頼まれて、深川の警察署の署長を俳句の弟子にした。本人は俳句をやっていまして、「唖蝉」というのは、セミだけど鳴かないという意味の俳号です。それぐらい社会の中で支持もされていたし、川端康成が唖蝉坊の一文を引用したりもしています。それぐらい大きな存在だったわけです。
高田渡さんが1960年代にプロテストソングとして紹介をされました。アメリカのフォークソングのメロディーを借りてやったので、わたしはもとのメロディーでやってみようかなと思い、講演の際に披露させていただいています。
(図8)
川上音次郎の時代は街頭です。添田唖蝉坊は楽器を使わなかったようですから、こんな格好で歌っていた。これは「オッペケペー」です。「権利幸福嫌ひな人に自由湯をば飲ませたい。貴女に紳士のいでたちで、うはべの飾りは好いけれど、政治の思想が欠乏だ。天地の真理がわからない。心に自由の種をまけ」。こういうことを言います。
長男「さつき」は、曾我迺家五郎がつけた芸名と言われています。文筆家としては添田知道の本名で多くの江戸風情などの著作を残されました。彼がいたので、唖蝉坊の話はよく残っています。父子とも浅草の人だったので、浅草弁天山に句碑が残っています。
「のんき節」は、なかなか強烈な歌詞です。石田一松が継承しまして、彼は戦後タレント議員の第1号になります。「生存競争」という言葉が出てきます。よくわからなくて、何で「生存競争」なんて言うのかなと思ったら、明治の初めに、福沢諭吉の「天賦人権論」、人間にはすべて人権があるんだということでヒューマニズムの論を張るわけです。それに対してダーウィンが紹介されると、「権利を持っているのは勝ち残った強いやつだけだ」となる。これはまさに今のアメリカニズム。強いものが報われる社会。基本的権利さえないということを日本で言い始めます。「天賦人権論」否定論者がたくさん出てきた。考えるにヒトラーもそうかもしれません。国家もそうです。強くないものは廃れていくから、強くあれということで、「生存競争」という言葉は「天賦人権論」の反対語として使われていくわけです。
第1次大戦後に好況になって成り金が出てくる。成り金はいかぬではないか。成り金という火事場泥棒の幻燈を見せて、貧民学校の先生が働けば成り金を得られるということを教えたといいます。例えば昭和にあった津波の話が出ています。津波は天災だと思ってはいけない、公共が自分たちの福利を戻してくれなければいけないということを強く言っているわけです。
(図11)
学校の先生はえらいもんじゃさうな
えらいからなんでも教えるさうな
教えりゃ生徒は無邪気なもので
それもそうかと思ふげな
ア、ノンキだね

 成り金といふ火事ドロの幻燈などを見せて
貧民学校の先生が
正直に働きゃ みなこのとおり
成功するんだと教へてる
ア、ノンキだね

万物の霊長がマッチ箱みたよな
ケチな巣に住んでる威張ってる
嵐にブッ飛ばされても
津波をくらっても
「天災じゃ仕方がないさ」ですましている
ア、ノンキだね

 生存競争の八街走る
電車の隅っコに生酔い1人
ゆらりゆらりと酒飲む夢が
さめりゃ終点で逆戻り
ア、ノンキだね  

(図12)
浅草六区はオペラの時代で、そのころは全部日本語でオペラを上演しています。「カルメン」は、下町の年増女みたいな「カルメン」です。「スペインの赤き土が」とか何とか、弁士がうたいあげる。それでも日本語での翻訳上演はすごいことです。今、オペラを見にいったら、字幕を追ったりしますけれども、そうではなくて提供する側が、ペラゴロと呼ばれたオペラのごろつきというかオペラ漬けになっていた学生あがりがいて、編曲や訳詩をしています。
(図13)
木馬館です。もうちょっと後の時代になると東京もアールデコのデザインになります。そういう意味では、この時代は、庶民が「カルメン」も知り、身近でアール・デコも体験していた。その庶民の力は結構すごいのではないかと私はこれをやり出して随分見直した。青白きインテリが大正の権化みたいになっていますが、そうではなくて庶民のほうが国際化した感覚を等身大で持っていた気がします。
(図14)
「現代節」という歌です。明治から大正になって「現代」というのが流行後になりました。明治45年、平塚らいてうの「青鞜社」が発足をして、吉原に乗り込むような人たちが出てくるわけです。イプセンの「人形の家」というのがあります。最近は誰も知らないんですが、「人形の家」は、ノラが家を出て自立するという物語です。
堺利彦が訳詩、監修をして、添田唖蝉坊が「人形の家」演歌版をつくった。後ほど松井須磨子と島村抱月でやっていましたが、それを歌にしてみたわけです。演歌はそんなものまで飲み込んでいました。
そういう世相を踏まえて、「現代節」です。
(図15)
新案特許品よくよく見れば
小さく出願中と書いてある
アラほんとに現代的だわネ

 独身主義とはそりゃ負け惜しみ
実のところは来人がない
アラほんとに現代的だわネ

 (次は平塚らいてうのことです)

新しい女といふてるうちに
いつの間にやら古くなる
アラほんとに現代的だわネ

 次は人形の家です。

あまい言葉もまたおどかしも
さめたノラには甲斐がない
アラほんとに現代的だわネ

貧にやつれて目をくぼませて
歌う君が代千代八千代
アラほんとに現代的だわネ

 よくこんな歌詞を上演していたと思います。これで捕まらずに生きていたものです。こんなものが昔はやれていたんです。



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