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1. はじめに~帝都復興とは何だったのか
2 . 大正の「現代」~民権論の世相と第1次世界大戦後の世界
3. 景観を誇示する都市~「東京節」が謳歌した帝都
4. 帝都炎上の惨禍~大震災をたどる演歌 
5. 復興の速度感~「コノサイ」こそ民意
6. 燃え落ちた旧社会~純白のキャンバスの出現
7. モダニズムの帝都~復興小学校の奇跡 
8. モダン行進曲~モボ、モガの昭和東京
9. 結び~なにを学び、なにを残すのか 

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3.景観を誇示する都市~「東京節」が謳歌した帝都

(図16)
「東京節」です。歌詞は東京がどんなに立派になったか。大正時代、先ほどの堺利彦がやっていた売文社の給仕を添田唖蝉坊の息子の知道さん(さつき)がしていて、お掘り端を通って神田の正則外語学校に日々通うときに東京が変わっていく風景を見て、それを1番の歌詞にしたんです。2番は、東京一の繁華街の浅草の歌です。3番は、職業尽くしです。職業尽くしの最後に「歌の読み売りどうじゃいな」というところに、自分たちの誇りが託されています。
この歌詞に続くのは第1次世界大戦が終わったときの世界情勢の歌い込みです。
(図17)
東京の中枢は丸の内
日比谷公園両議院 
いきな構えの帝劇に 
いかめし館は警視庁
諸官省ズラリ馬場先門
海上ビルディング東京駅
ポッポと出る汽車 どこへ行く
ラメチャンタラギッチョンチョンで
パイノパイノパイ
パリコトバナナで
フライフライフライ

 東京で繁華街な浅草は
雷門、仲見世、浅草寺
鳩ポッポ豆うるお婆さん
活動、十二階、花屋敷
すし、おこし、牛、天ぷら
なんだとこん畜生でお巡りさん
スリに乞食にカッパライ
ラメチャンタラ(以下同じ)

東京はよいとこ 面白や
豆腐、みそ豆、納豆、桶屋
羅宇屋、飴屋に甘酒屋
七色とんがらし、塩辛や
クズーイクズーイ、下駄の歯入
あんま、鍋焼き、チャンしゅうまい
唄で読売やどうぢゃいな
ラメチャンタラ(以下同じ)

 これには長いバージョンがあって、日本各地を歌うものがつくられていきます。それぐらい大ヒットになりました。
「ラメチャン」とは何だろうというと、添田知道が売文社からお父さんの原稿を取りに行ったときに、添田唖蝉坊が食堂の洋食メニューを見ていた。そこに並ぶパイなど洋食のメニューを読み込んだ歌を一緒につくれと言われた。ラメチャンタラギッチョンチョンでパイノパイノパイは、その発展形で、ラメはデタラメです。どうせこの世はでたらめだというラメチャンというのをつくったわけです。
(図18)
メロディーはジョージア行進曲です。当時、社会鍋をやっていた救世軍が街頭で原曲を日本語の歌詞で演奏していました。もともとヘンリー・クレイ・ワークという人の歌で、南北戦争、例の「風とともに去りぬ」のアトランタ攻めのときの北軍の進軍を歌った歌詞です。原曲をユーチューブで流していると、現在でも南部の人から「やめろ」という抗議が来る。つまり、北軍による南軍虐殺の歌なんです。それが救世軍によって日本に入ってきて、唖蝉坊親子は街頭で毎日、社会鍋のそばで流れているのに接していた。それを使ったわけです。これをつくったヘンリー・クレイ・ワークは、平井堅さんが歌った「大きな古時計」の作曲者でもありました。
(図20)
これがヒットしたものですから、続編をつくれと言われて「平和節」というのをつくります。これが大正7年の第1次大戦が終わったときの歌です。
(図21)
めでたい めでたい おめでたい
戦争がすんでおめでたい
物価が高いのもおめでたい
花火をあげろ ハタ立てろ
いざ祝へ みんな祝へ
天下太平 おめでたい
日本が一番おめでたい
ニホンマイハタカイカラ 
パイノパイノパイ
ナンキンマイやトンキンマイデ
フライフライフライ

 ベルサイユ条約が結ばれるんですが、そのときのことを歌にしました。今我々はサミットに誰が集まっているか知らないのですが、このときはちゃんと演歌でそれを伝えようとしています。
これが絶妙に、当時のアメリカのウィルソンの姿勢、イギリスの首相のロイド・ジョージの姿勢、全体の議長のフランスのクレマンソーの姿勢を巧みに読み込んでいます。
それから、西園寺がケータリングをするために灘万の料理人を連れていきました。そのときに、「はなちゃん」というのが出てきますが、西園寺公望は終生結婚しなかったのですが、可愛がっていた若い女性を同伴した。それをおもしろく歌い、現地速報としたわけです。
(図22)
世界の平和はどうなるか
フランスパリーに集まって
損はあるまい ウィルソン
冗談ばっかり ジョージさん
何もくれない クレマンソー
灘万料理は西園寺
どんな御馳走ができるやら
ハナチャンタラベッピンサンデアイキョモノ
パリッ子トキョウソウデ
フレーフレーフレー

 これは別にスキャンダルにもならず、おもしろく歌われていた。パリっ子と競ってこいという激励の歌です。
添田唖蝉坊・知道親子は西園寺公望が好きだった。西園寺公望は、フランス仕込みの政治感覚や市民感覚を持っていて、新橋、柳橋で遊ぶ元老だったんです。そのために酸いも甘いもわかっている。つまり、上の人は上の人にふさわしく、世間の情愛の感覚もある人として西園寺という人を見ていた。
(図23)
表現者は、上から目線といったらいけないのかもしれませんが、啓蒙していくという意識が強かったということは、ちゃんとこういうところに出ています。米騒動のために、日本米は高いから食えなくなった。南京米とかベトナムの東京米を食べるようになっていました。



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