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1. はじめに~帝都復興とは何だったのか
2 . 大正の「現代」~民権論の世相と第1次世界大戦後の世界
3. 景観を誇示する都市~「東京節」が謳歌した帝都
4. 帝都炎上の惨禍~大震災をたどる演歌 
5. 復興の速度感~「コノサイ」こそ民意
6. 燃え落ちた旧社会~純白のキャンバスの出現
7. モダニズムの帝都~復興小学校の奇跡 
8. モダン行進曲~モボ、モガの昭和東京
9. 結び~なにを学び、なにを残すのか 

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5.復興の速度感~「コノサイ」こそ民意

(図34)
大変な被害になりました。東京会館、名建築です。神戸の大震災のときに市役所がだるま落としみたいに階が崩れましたが、そんな形で座屈をしています。
(図35)
郵船ビルです。この辺は焼けなかったから、この程度で済みましたが、海上ビルもみんな被害を受けます。
(図36)
これは芝のほうにありました藤山図書館です。藤山雷太が寄附した工業関係の書籍を集めていました。今は慶応の中にあります。
(図37)
これは足立だったか、煙突が壊れた。
(図38)
三越の中はこんなぐあいだったんですね。たくさん鉄筋が入っていたんですが、かなりひどい状態になっています。
(図39)
どうして復興できたかというと、国土壊滅ではなかった、帝都だけがやられた。関西の経済力がすごく強かった。震災後、関西の店がいっぱい東上してきて、東京の商人は困ったりするわけです。
震災復興ですが、手形をいっぱい発行して、これが焦げついて昭和恐慌になっていきます。
もう1つ、我々の領域からいいますと、モダンデザインがヨーロッパで勃興してきた時期で、何もなくなったので、ここでモダンデザインをやってみようという気風が盛り上がります。それは写真でいうと新興写真、モボ、モガはアールデコの風俗でした。そして、地下鉄が開通します。百貨店も次々復興建築の大店舗で再開して、地下鉄は百貨店買い物パスもつくります。
(図40)
ポスターをつくって、貯金しなければ戻らぬぞということを啓蒙します。とにかく生きていかねばならないので、家に残った家財を日比谷公園のお堀端に座って、みんなで売った。特に金持ちの素封家は、お父さんが亡くなると生活力がなくなったので、こういうところで売り食いせざるを得なくなりました。
(図41)
大正12年の終わりごろにバラック建築図集という写真集が出るくらいですから、物すごい速度で民間も復興していくし、公共もやっていく。
(図47)
帝都復興の話をします。首相がいなかった。それこそ西園寺、松方正義が決めて、山本権兵衛海軍中将を首相にしようとしたけれども、政党対立があって組閣できなかった。震災が起こったときに内閣がないという状態だった。翌日、赤坂離宮の外で認証式をやるんです。1日に地震が起こったからしようがない、ここは呉越同舟でいこうということで後藤新平が内務大臣になります。9月3日摂政の宮お沙汰があり、人心の動揺を抑えようとします。それから、朝鮮人が暴動を起こしているとする流言蜚語の取り締まりも意外と早く9月7日に出しています。閣議が9月6日に開かれて、このときに後藤新平が不謹慎にも、とにかく絶好のチャンスだ。40億円使って東京の土地を全部買い上げて、一度公有化して、完全な区画整理をやって払い下げてやろうという案を出します。
9月12日になって、摂政の宮がもう一度詔書を出します。これは今、復興記念館にあります。これがよかった。もう東京はだめだ、遷都するしかない、大阪に行くしかないとかいう話になったときに、遷都はしないんだ、それから、復旧ではなくて復興するぞということを言います。それから、専門の機関をつくる。もちろん政府が書いたんですが、これが皇太子(昭和天皇)の名前で発布されて、人心は落ちついて、ここから一気に復興に持っていきます。
(図48)
続いて国と東京市で復興するぞという声明を出します。このときに後藤新平は、まさに40億円案というのを出して、また大風呂敷と言われるわけですが、とにかくビジョンを出す。出すことによって大衆も立ち上がれるということをやっております。
9月27日もう帝都復興院ができまして、10月1日に辞令が出る。それに対して何をしているんですかというのが今の話です。
10月6日に、市長時代に東京の改造案を諮問してもらったビアード、この人はコロンビア大学の先生をやめてニューヨークの市政調査会の研究者ですが、彼を呼んで復興案をつくらせます。
議会とのことでいろいろなことがあり、復興予算は40億円が13億円になり、最後に4億円台まで下がりますが、とにかく議会ももめながらも何とかまとめようということでやっていきます。4億円台まで削られてやっと帝国議会を通過しましたが、それでも最後に現場では歩どまり7億2000万円残ったので、私はよかったのかなと思います。
後藤新平は、鉄道省の総裁をやっていたり、いろいろなことをやっている人です。彼は科学官僚、テクノクラートが好きでした。そのために方々で技術官僚の有能な人たちにつばをつけてあった。それをこの際全部帝都復興院に呼び集めるということをやっていきます。
(図49)
偉いと思うのは、後藤新平を明治が育てていたということです。この人は水沢藩の生まれで、田舎育ちだったんですが、それこそ伊藤公をはじめ、次々とかわいがる人が出てきて、私費ではあったけれども、ドイツに留学、ミュンヘンで医学博士の学位を取ります。そういう具合に前途有為の若者を見ると、国家経済が厳しくても、そのときにその人に投資をしていく。嫉妬なんかしない、次の若者を探して育てていくということを、1人の人がやったのではなくて、伊藤公もやれば、児玉源太郎もやった。多くの人たちが後藤新平を育てて、ここに置いてあった。それがよく役に立ったわけです。
その後藤新平に対して、添田唖蝉坊の歌を見ていると、市民は結構信頼感を抱いていた。それによく知っていた。東京市の助役の名前を大衆の全員が知っていた。そんな時代だったので、お上にひれ伏してというよりは、官民の相互信頼というのはそれなりにあったのが帝都復興をなし遂げた原動力だったと考えられるわけです。
(図50)
公共主導であって、摂政の宮、宮中、内閣、帝国議会、東京市、横浜市も入れてもいいかもしれませんが、こういう分担がうまくいった。これを機に公共で復興小学校みたいなものをつくって、都市を不燃化する。火事が大きかったから耐震より不燃化といっていいと思います。燃えない都市をどうやってつくるかということで、一気に117校の小学校をコンクリートでつくったというのは世界的にも例のないことです。まさに公共と政治のヘゲモニー、それは立派なことだったと思います。この時代にできたものはたくさんあります。同潤会もできて、都市生活も始まります。公営食堂もできた。
(図51)
結局、区画整理は、民間にやってもらい60カ所を完成させました。主要な通り、昭和通りや靖国通りは全部このときにできていきます。橋は何と400も6年間で新しくかけたんです。橋を6年間で400かけるというのは、できる技ではないです。かなり焼け落ちて、相当ひどいものがあと200あり、復旧したものも足すと600弱。6年間で600の橋をかけ直す。1年に100の橋をかけるというのは、1週間に2つずつ竣工していくということです。どうしてこんなことが可能だったのかという感じがします。3カ所の大公園。これも今残っています。52カ所の小公園。コンクリート化した117校。驚異的な実行力を感じます。
(図52)
昭和7年に展覧会をやったときのパネルが復興記念館に残っていて、帝都復興事業についてはこれが一番わかりやすいですね。直営がどれぐらいあったのか。総額がここに7億2450万円と出ています。何に幾ら使ったかが、円の大きさになって表現されています。街路整備に391億円、区画整理は民間でやってもらったので、相対的には少なく済んだと考えるべきでしょう。そして橋です。次に運河。さらに下水道の整備も進めました。(図59)
帝都復興祭という花電車が出ました。コックさんが仕事の途中で手を休めて沿道に出て、見に来る。花電車は東京中を1週間走りました。

 



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