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1. はじめに~帝都復興とは何だったのか
2 . 大正の「現代」~民権論の世相と第1次世界大戦後の世界
3. 景観を誇示する都市~「東京節」が謳歌した帝都
4. 帝都炎上の惨禍~大震災をたどる演歌 
5. 復興の速度感~「コノサイ」こそ民意
6. 燃え落ちた旧社会~純白のキャンバスの出現
7. モダニズムの帝都~復興小学校の奇跡 
8. モダン行進曲~モボ、モガの昭和東京
9. 結び~なにを学び、なにを残すのか 

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6.燃え落ちた旧社会~純白のキャンパスの出現

本所被服廠跡は、震災時にすでに公園としての工事が進んでおり、多くのひとが焼死した場所でもあり、ここに追悼と記念の施設が建設されました。
両国駅が最寄りで、現在は国技館、江戸東京博物館を抜けて、横網公園に至ります。震災記念堂、復興記念館があり、傍らの安田善次郎邸の庭園のなかに本所公会堂が残っています。
バブルの時代ぐらいまで有効だった都市基盤はこのときにできてきます。地下鉄、下水道施設、コンクリートの学校建築、同潤会といった都市施設です。建築を明治以来ずっと西洋から学習していましたが、そうではなくて、同時代の表現としてやってみようという意欲がありました。東京に世界の同時代表現、新表現のための純白のキャンパスができたと建築家たちは前向きに受け止めました。分離派や日本インターナショナル建築会やバラック装飾社など、東京市の若い建築家、さらに日本在住のアントニン・レーモンド、ナチス・ドイツを追われたブルーノ・タウト、そういった人たちの活躍の舞台です。
伊東忠太はそのときに、大東亜共栄圏を認識していて、コンクリートで大東亜の建築はできないかということをやっています。東洋趣味としての帝冠様式が、ここに生まれてきます。震災記念堂、築地本願寺、湯島聖堂など、日本建築のあり方を追究した見事な建築群が彼の手で出現します。
もう1つ、よかったのは、土木界の活躍です。土木は戦後あまり景観上もいいものをつくってないが、「聖橋」は分離派の建築家の山田守、「清洲橋」もやはり分離派の山口文象が関わり、水準の高い橋梁群を実現します。川幅100メートルを超える隅田川の橋梁は、「永代橋」をはじめ世界でも類を見ない水準のものを一気に実現させました。
(図74)
大正12年の『バラック建築図集』を見ると、いかに早く銀座の商店が立ち直っていったかが手にとるようにわかります。バラックゆえの気楽さといった次元ではなく、遠藤新をはじめ、当時の人気建築家が本建築では出来なかった表現を実に自由闊達に実現していきました。そこにはライト風、アール・デコ、ドイツ表現派、キュビスムなどの当時の世界最新の表現が試みられ、震災で焼失した都市が、見た目にも活気づいたことが読み取れます。
今和次郎が組織した「バラック装飾社」が設計したカフェキリンは、キリンビールのキリンの絵が描かれています。バラック装飾社は、お金をもらってバラック建築の外壁に絵を描くという仕事をやります。カフェキリンの内部はとても仮設建築とは思えない美しさです。
(図84)
復興計画には主要街路22幹線をつくるというのがありました。東京日日新聞で懸賞募集して、復興がなった道路名を決めました。今、われわれが呼んでいる「昭和通り」の名前などは懸賞募集で決まりました。最重視された「1号幹線」である昭和通りは、真ん中にグリーンベルトが設けられました。ニューヨークにもパリにもないような立派な道路です。
「2号幹線」の靖国通りは震災前は急坂で有名でした。ここには何銭かもらって車の後を押す職業さえあった。それぐらいこの坂は急で、片側を占めていた市電の軌道だけは緩やかにしていたが、この坂を全部削り取って現在の緩やかな姿に変えるということをやります。
大公園は3つです。浜町、墨田、錦糸、全部残っていますけれども、全部もとの形をしていないのが悲しいです。浜町公園は公共施設を乱雑に建ててしまって、すごく狭くなった。復興小学校に付属して52の小公園をつくりました。

7.モダニズムの帝都~復興小学校の奇跡

(図91)
東京市の小学校は、震災発生時全195校のうち117校が焼けてしまった。それを一気にコンクリート化して新築しました。復興を世界にアピールするのに復興小学校は活用されました。高輪台小学校の大きなガラス窓からいがぐり頭の子どもたちが下を見ている。東京市の国際資料に必ず出てくる写真です。
復興小学校は最近は父兄にも人気があり、泰明小学校や黒門小学校は入学希望者があふれている。お母さんたちからは絶対壊さないでと学校はいわれている。
入谷小学校や九段小学校はドイツ表現派のパラボラアーチが印象的です。望楼のある広尾小学校は校長先生がすごく大事にされています。小島小学校は台東区がインキュベーションセンターに使っていて、一般のひとが入れないのは困ったことです。せっかく運動場だったところも駐車場なってしまっていて、アメリカじゃないぞという感じです。きれいですね。不思議な柱が階段に沿って立っています。
(図97)
四谷第五小学校は東洋一と言われました。復興期の後ですけれども、東京の小学校の代表です。それを新宿区は、吉本興業の本社として貸し出してしまった。あれだけ公共主導で復興をやったわけです。みんなの資産だと認識されているのに、それを一私企業に貸してしまう。わずかなお金のためにそんなことをする現代の日本が、公共の視点で復興が出来ないのはある意味必然の結末です。
城東小学校は、八重洲ブックセンターのすぐ近く、日銀に近い常盤小学校など、都心にも現役の復興小学校は残っています。
復興小学校に付属して建設された小公園は、どこも現役です。元町小学校の付属小公園はナチスのワシみたいな彫刻があります。噴水など完全にモンドリアン・パターンです。モダンデザインできれいです。表通りからは小さな丘をあがる配置ですが、その階段はバロックの庭園風です。
元加賀公園には壁泉が残っています。湯島小学校の公園も残っています。当時設置されたコンクリートの滑り台は東京中の公園に今もかなり残っています。
(図108)
同潤会の話もしておきましょう。同潤会は、復興のために集まった義援金1000万円をもとにしてつくられました。アパートメントハウスという都市生活ものと細民救済のためのものとが両方ありました。一般に同潤会というと前者の話が中心ですが、もともとは社会福祉的な発想が色濃く、江東区の猿江共同住宅は隣保館や病院も付設して、貧困層の救済に力を入れました。
戸建て住宅も結構つくっていました。今でも西荻窪の善福寺では、同潤会を売りにしている不動産屋さんがあります。ビールのコマーシャルで若い夫婦が出てきてそばを打ったりするのがありますが、あんな暮らしをしたいといって、わざわざ崩れかけの家に住みたいという若い人たちに人気があります。

 公営食堂というのが当時つくられていました。震災の前からつくっていて、震災で焼け出された人を相手に公営食堂をつくります。
(図115)
アサヒグラフが記事にしています。大正9年に東京に市設の簡易食堂ができて今年で15年になると、昭和9年に書いています。16カ所できた。1日1万数千人が利用している。1万数千人というのはすごいですよ。1年間に500万人。当時東京市は大東京で350万人時代です。東京都民1人が年に1回は食事をしていたことになります。
この原稿の最後のところに「献立は栄養価を主としたもので、甲定食は10銭」と書いてある。牛乳は嗜好食に入っています。コーヒーの5銭からランチの30銭の間という安い値段で、少なくとも市中に散在する多くの私営、民間でやっている簡易食堂に対して指導的役割を務めている。つまり、公共で食堂をやることによって物価を下げているということを書いています。みんなが困らないように生活させ、1年間に500万人が使っていたという事実を、今日の「公共後退」の時代にもっときちんと伝えていかなければいけないと思っています。江東区の「深川食堂」だけが現存しています。今は観光センターになっています。


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