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Ⅱ.戦後・高度成長時代

(図14)
戦後、高山さんが先ず行なったのは、内務省のお役人から東京都の都市計画課長に転じた石川栄耀の東京復興計画への協力でした。丹下健三らと、東大を中心にいたしました本郷文教地区計画というのをつくったなどは、その一環です。
あと1952年に、42~43歳で結婚されます。結婚した時奥さんは二十歳代の若い女性で、高山さんが住んでいた阿佐ヶ谷で洋品店をやっていた美人姉妹の妹さんでした。奥さんのほうが背が高いため、本郷で記念写真を撮る時に、高山さんが背伸びしているスナップが残っています。
この奥さんは、それこそ毬をついて遊んでいた幼女の頃から、高山さんはご存じだったようです。
何故この年まで高山さんが独身だったかは、諸説あります。なかには高山さんが女優の原節子とお互いに好きあっていたなどというのもあります。残念ながら、この説の真偽は確認できませんでしたが、高山さんは若い時、かなり女性にもてたようです。
われわれの知っている高山さんというと、頭は禿げ、体格も太っていますが、若いころはサッカーの得意な、颯爽としたスポーツ青年だったのでしょう。
(図15)
これが高山さんと丹下さんが協同でつくったという本郷文教地区計画です。東大を中心にして計画したのですが、図面はほとんど丹下さんが描いたようです。このとき高山さんは助教授、丹下さんは助手ですかね。
(図16)
 これは1950年代の高山さんと丹下健三の活動を比較したものです。1949年に高山さんは第二工学部の教授になって、その時に工学博士を取って、3年後には、さっき言ったように結婚もされています。実はこの結婚の年が第二工学部廃止の年なんですね。第二工学部の先生たちの多くは、生産技術研究所に転属して、本郷には戻れませんでした。しかし、高山さんだけが本郷に戻ってきて、都市計画講座の教授になっています。1950年代の高山さんは確かに丹下健三などと比べると、ぱっとしないけれど、本郷に戻って、都市計画講座を引き継ぐことが、その後の高山さんを大きく発展させるもととなります。
一方、丹下健三さんは「世界のタンゲ」として活躍していく。有名なのは広島の平和公園コンペ優勝です。CIAMに出席して外国にも知られた存在となり、東京都庁舎のコンペにも勝って、53年に助教授になりました。愛媛県民会館、図書印刷の工場と、このころの丹下健三は毎年少なくとも一作は優れた建築作品を発表しつづけています。
(図17)
他方、この50年代、高山さんは何をやっていたのか。調べてみると、阿佐ヶ谷会といって、当時中央線沿線に住んでいた作家たちとの交友があったようです。高校、大学とサッカー部の先輩だった中島健蔵や、文藝春秋の社長になった編集者の池島信平などとの縁が、端緒だったかもしれません。池島信平は今の小石川高校サッカー部出身で、高山さんとはライバルでした。この当時高山さんが、池島新平が編集長の『文芸春秋』に2,3寄稿しているのも、こうした交友によるものかもしれません。
また、家の近くに住んでいる上林暁らとはよく阿佐ヶ谷駅前の「熊の子」という飲み屋で一緒に飲んでいたらしい。阿佐ヶ谷会とは、この上林暁、井伏鱒二、中島健蔵、伊藤整など、杉並区の中央線沿いに住んでいる作家たちが飲む会です。彼らはどういうルートをたどるかというと、新宿に「みちくさ」という飲み屋があって、阿佐ヶ谷に「熊の子」という飲み屋がある。新宿で始めて「熊の子」で終わるとか、反対に「熊の子」で始めて「みちくさ」で締める。要は飲み歩いていたらしいんです。
かつての「熊の子」の写真です。この「熊の子」「みちくさ」というのは、現代日本文学史上は非常に有名な飲み屋です。今回、私は「熊の子」のおかみにもお会いすることができ、感慨を禁じ得ませんでした。
藤森照信さんとの対談で、「このころの俺は中央線沿線の飲み屋の計画ばかり考えていた」と高山さんはいっておられますが、それはまさに阿佐ヶ谷会との交友時期だったのでしょう。
今回、本を書くに当たって、亡くなる直前の田村明さんを取材いたしました。田村さんは電話で取材を申し込んだ時には、高山さんという題材にかなり不機嫌そうでしたが、お会いしてみると、ガラッと変わって、高山英華大絶賛でした。何が一番よかったかというと、「高山英華のモットーは、酒を飲まなければいい都市計画はできないということだった」そうです。田村さんは浅田孝に習ったんですね。田村さんは丹下研所属だけれども、実際に指導を受けたのは、特別研究生の浅田孝だったそうです。ところが、丹下健三、浅田孝とも全くお酒が飲めない。高山英華がよく研究室に来て、丹下、浅田に、「君たち、都市計画というのは酒を飲まなければできないものだよ」といっていたので、お酒の好きな田村明さんは、共感したということをいっておられました。
(図18) 
ところが、こんなふうに目立たなかった高山さんが、1960年代になると、急に政府関係の審議会会長、委員長を歴任します。まさに世の中が高度成長時代になると同時に登場するといった趣です。全総から三全総までの委員、八郎潟から四日市、高蔵寺ニュータウン、筑波研究学園都市などの計画、イベントでいえば東京オリンピック、万博などの施設計画で、文字通り都市計画のゴッドファーザーのような存在になるわけです。
(図19) 
八郎潟は、石田頼房先生によれば、高山さんの最高傑作だといいます。この評は高山研の担当者が石田先生ご自身であったという事情にもよると思いますが、新しい農業のあり方を示すという点で、今も意義深い計画です。
(図20)

  でも、幾多のプロイジェクトのなかで、何しろ高山英華さんが楽しそうに語っているのは東京オリンピックです。高山さんが手がけたもので、最も思い出深いものだったのではないでしょうか。といって、東京オリンピックの基本施設計画全体が高山さんによって行われていたわけではありません。東京オリンピックの基本施設計画は、岸田日出刀が委員長で、実際には山田正男、丹下健三、高山英華という3人の人物によって、手分けして行なわれました。そしてこの3人の業績が現在の東京の骨格をつくり、今も残っているわけです。


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