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ところが、東大紛争が起きて、都市工学科は主要拠点になってしまう。これは工学部の中では最も社会的な関心が強い学科だったからでしょう。
私は高山英華伝を書くに当たって、かつての東大全共闘の都市工学科の人は今どうしているだろうということにも興味がありました。
都市工学科が東大紛争の直接の発端であったわけではない。しかし、都市工には全共闘に加わった者も少なくなく、何か全共闘運動が目ざしたものと重なりあうところがあったのではないか、と思えたからです。
(図29)
調べてみますと、前から知っている方が意外にも元全共闘だったりし、数名の方からいろいろお話をお伺いすることができて、わたしの予感はあっていたようにも思います。元全共闘のなかには、その後自殺された方、いまは企業にお勤めの方、大学の先生をされている方、フリーの建築家の方などもおられました。
そうしたヒアリングをしながら、結局わたしは高山英華伝には、あまり全共闘について書いておりません。安田講堂事件から既に40年が過ぎていますけれど、そのときのことは今も生きる方々に様々な影響を及ぼしており、安易に触れることはその方々に失礼だと考えたからです。
ただ、記憶に残ったのは、紛争が激しくなってからの高山さんが、今までよりもキャンパスに姿を見せ、タテカンなどを読んでいたという当時の学生たちの証言でした。
今日の立てカンはよくできていると褒められ、その感激が今も忘れられないと語った元全共闘の方もおられました。団交すると、ほかの先生はすぐへたばってしまうのに、元サッカー部の体力で負けない、さすが大物だった、という思い出を語られた方もいました。
口を酸っぱくして学生たちに注意していたのは「いいか、お前たち、絶対に捕まるなよ」だったそうです。きっと自分の若い頃、同じマルキスト仲間のその後の人生を二重写しにされていたのでしょう。逮捕された学生の、就職を世話されたりもしています。
夜に研究室に立てこもっていると、高山さんがやってきて「どうだ、すしでも食いに行くか」と誘って、ご馳走してくれたりする。その後キャバレーに連れて行ってもらった人もいました。
わたしはいま縁あって、大学の教師をしておりますが、そしてとても高山さんのような真似はできませんが、教師として教えられるところが多いようにも思います。
(図30)
1970年になって東大紛争が終息し、高山さんも停年で退官しますが、ちょうど高度成長時代が反省期に入るころです。思えば大学紛争も、高度成長時代の終焉を予感させるものだったのかもしれません。
やめた直後に、沖縄海洋博の施設計画に携わっています。大阪万博をやったのは丹下さんだけど、沖縄海洋博は俺だといっています。沖縄独立論を主張していたのも、このころです。
(図31)
道路だけではなく、防災を大事にしようと美濃部都政が考えて、江東地区の防災計画をつくってもいます。これをやっているうちに、危ないのは江東地区だけではない、杉並区も同じように危ないということがわかってきた。昔の田んぼを切り売りして、住宅地が開発されたので、道が細く、公園も少ないので危険であるというわけです。
晩年になって、高山さんは中央都市計画審議会長として地区計画制度を導入し、蚕糸の森公園など、地元杉並のまちづくりに具現化しますが、これも杉並区の防災という観点から出てきた話です。
(図32)
地区計画制度の話をするには、先ず1970年に成立した新都市計画法を語らなければなりません。それまでは戦前の都市計画法しかなかった。それが宅地制度審議会で、地価の論議をしていたところ、東大法学部の田中という先生が「地価安定のためには、都市計画法を改訂するべきだ」と急に発言し、やはり委員だった高山さんたちが「そうだ、そうだ」と同調して、審議会の議論が官僚たちのシナリオとは別に展開して、新都市計画法が出来上がるのです。実は高山さんと田中先生の二人は東大サッカー部の仲間同士でもありました。つまり、新都市計画法を生んだのはサッカー部のつながりだったのです。
さらに、新都市計画法だけでは、住民の意思を盛り込むのに不充分だということから、10年後の1980年、高山さんは中央審議会の会長になり、地区計画制度を成立させます。
そしてこの地区計画制度でもって、高山さんは別にやっていた筑波移転跡地構想を進めるんです。こちらは国関係の研究所や大学を、筑波研究学園都市に移転させることで東京圏内に生じた跡地をどう使うかという構想でした。
旧東京教育大学(現筑波大学)のような大規模なものばかりではない。それでも、全部あわせると、東京圏内で360ヘクタールもある。これらの跡地をうまく使うことによって、東京の都市計画の問題を解決できないか。とくに密集している地区の防災問題を解決できないか、というのが高山さんの発想でした。
筑波移転跡地で、東京を徐々に改造していくといった仕事が、高山さんの都市プランナーとしての、最後の仕事になります。
(図33)
筑波移転跡地プロジェクトのうち、代表的なものが、杉並区の高円寺に近い蚕糸の森公園です。さっき言ったように、杉並区というのは道路が狭くて防災公園が少ない。だから、関東大震災級の地震が起きると、何時間も歩いて、隣の区の光が丘まで避難する計画になっている。これではあまりに非現実的だから、身近に小さくても防災公園を設け、道路を広くし、やがては住宅も不燃構造に変えていく協定をお互いが結ぼうと住民に呼びかけたのです。
しかも、ユニークなのは蚕糸の森が公園であると同時に、小学校の校庭でもあるという点です。この小学校は、もとは環状7号線沿いにあって、光化学スモッグのために小学生が校庭に遊べなかった。その小学校を蚕糸試験場があった跡地に移転して、校庭は公園と兼ね合わせ、使う時間帯を分けあったのです。
お弟子さんの村上處直先生ご夫妻が高山さんに協力し、住民に呼びかけて、道路拡幅、住宅不燃化のルールを決め、防災公園に認定されることに成功しました。
蚕糸の森公園に見られるように、筑波移転跡地の多くでは地区計画制度によってまちづくりが行なわれましたが、そのひとつに大久保の社会保険中央総合病院があります。もともと新宿区百人町内にあったものを、手狭だったので、ちょうど同じ町内の旧光学研究所に移転しています。
実はこの病院で高山さんは検査入院しているうちに発病して、亡くなられます。「僕は、東京で生まれて、東京で育ちました。そして、おそらく、東京で死ぬでしょう」という予言はあたったことになりますが、終焉の地が晩年に心血を注いだ筑波移転跡地まちづくりの場であったことは、まさに象徴的といえましょう。

 

 


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