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(図34)
筑波移転跡地計画は、周辺住民との参画が必要な点で、当時からでてきた「まちづくり」の実践例でもあります。同時に、跡地は個々では10ヘクタールに満たなくても、全部合計すると360ヘクタールに及ぶわけですから、総合としての都市計画的視点も必要になってきます。いわば、東京全体の都市計画と個々の地区のまちづくりという、複眼的思考が大事なわけです。
高山さんの晩年は、今までの都市計画に加え、まちづくりの動きが出てきた頃ですが、これについて、高山さんは次のように語っておられます。つまり、プランナーが都市計画をやる、市民はまちづくりをやる、この両方が相互補完をしあってこそ、いい都市や町ができるはずだと。これは筑波移転跡地のとき、高山さんの脳裏に常にあったものだと思います。それだけではなく、いまも都市計画やまちづくりを考えるときに必要なものだと思います。
現在の日本では都市計画という言葉がすたれ、逆にまちづくりさえあればいいんだ、という風潮もみられます。確かに強引に高速道路を通したり、建築設計のように都市を計画するといった発想は、今の日本では難しいでしょう。しかし、まちづくりだけあればよいというものではありません。今後東京を襲うであろう大震災などを考えると、都市計画とまちづくりの双方を補完させながら実現していくという思考が、わたしたちには今後ますます必要になってくると思います。

 

Ⅲ.まとめ

(図35)
高山英華とは何であったのでしょうか。
先ず、彼は高度成長時代に起こったさまざまな問題、都市化や公害、防災、そういうものを都市計画で解決しようとした人でありました。
青年期に大同の計画を行ない、中年期に東京オリンピックの基本施設計画で采配を奮った高山はまさに戦後都市計画の神様であり、カリスマ的監督でした。
話が唐突になりますが、彼が愛したサッカーで、監督が試合中できることは大変に限られています。試合が始まれば、プレーは休むことなく進み、コートの外から大声で指示しても、観客たちの声援でかき消されて、選手たちに聞こえることは期待できません。ときには、一球ごとの配球や打撃まで指示できる野球の監督とは、大きく違っています。
では、試合が始まってしまえば、選手たちに任せるしかないサッカーの監督の優劣は、どこで決められるのでしょうか。
それは選手の先発メンバー決定、試合中の選手交代といった人事にあります。適当なときに適切な人間を起用できるか。それが、サッカーの監督の腕の見せ所です。
高山さんが研究室を率いながら認識していた自己の役割も、こうしたサッカーの監督のようなものではなかったでしょうか。
ここという時に川上さんや石田さん、伊藤さん、別の時には村上さん、はたまた土田さん、といったようにうまく布陣を組み、時には投入していく。そして臨機応変に試合の流れに対処し、弟子たちに任せるというのが高山さんの懐の深さだったように思います。
(図36)
最後に、伝記を書くに当たりまして、多くの人にヒアリングをしましたので、私の心に今も残る幾つかの言葉を紹介させていただきます。
「都市計画の大義を実現するために腕力を振るい続けた」。
「高山の目標は都市計画を定着させることにあった。そのためには、政府や財界に利用されていても、あえてミコシになった」。
「勲章も辞退した権力欲のないリベラルな人だった」。このことは何人ものお弟子さんがいわれています。
最後に、ある女性の言葉です。「父も私も高山さんが大好きでした。スポーツマンで人格者で、本当に素晴らしい方でしたよ」。
この方は未だご存命で、もうかなりのお年のはずなのですが、お会いしてみると、今も大変に美しい女性でした。高山先生は実はこの方が好きだったのではないか、という説は耳にしていましたけれど、わたしもそう確信しました。
このように多くの方にヒアリングさせていただきましたが、なかには、かなりお年をめしておられる方もおられ、執筆中に亡くなられてしまったケースも少なくありません。その意味で、お話をお伺いできるのは今をおいてなかったし、執筆者がわたしで適当であったかは別にして、そういった方々に後ろから背中を押していただいて、伝記の完成を生誕100周年に間に合わせることができたように思います。
以上、雑駁な話をしてまいりましたが、この辺で終わらせていただきます。どうもありがとうございました。(拍手)

 

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