連載コラム  
 
Topic 09 空から見渡せる場の創出
  〜空から都市を見渡したときにミエルもの〜
 
辻本 顕
 
 
●都市の自然
 
  用途の純化や均質な街並み、標準化された郊外・・・都市計画に対する批判には、計画的につくられた都市の人工的な側面を指摘するものがある。
 C.アレグザンダーは、自然成長的に発展してきた都市を自然都市、計画者によってつくられた都市を人工都市と呼んだ。そして、都市計画が、ある中心から論理的なツリー構造で都市を構成してしまい、多数の中心が互いに横断するような自然都市の構造(セミラティス構造)を構成しないことが、人工都市の(都市計画の)失敗の原因だと指摘している。
 自然都市の構造として挙げられたセミラティス構造であるが、それも実はツリー構造が複雑化されただけで、依然として秩序的な中心を持つということを柄谷行人氏は指摘している(*1)。形式化して捉えた都市は、ある主体によって生きられている都市の、現象学的な還元によって取り出された形式なので、結局、複雑化された人工都市の構造として把握されてしまうと。
 では、都市は自然では無いのだろうか。残念ながら、“自然”な都市を、一度に隅々まで計画することは難しいのではないかと思う。一方で、計画された都市が長い時間をかけて組み合わされたときや、変化の余地が残されたような計画では、思わぬところに“自然”が見えることもあると思う。
 では、都市を見る視点を変えてみたら自然は見えるだろうか。
 ロラン・バルトの著書「エッフェル塔」に、次のような一節がある。
 
  “この塔(エッフェル塔)は、訪ねてきた人々の視点の位置そのものによって、都市を一種の大自然に変える。(*2)  
 
 展望台は(本来)眼下に水や森などの自然を持っているものであり、美しい眺めを求める観光旅行が自然崇拝と合体することになる。そのことから、バルトは、エッフェル塔からパリの都市を眺めることが、都市を自然に変えるのだという。
 
  “(中略)エッフェル塔を訪れることは、(中略)むしろ新しい自然、いわば人間的空間という自然にふれることなのである。(*2)  
 
 例えば、東京タワーから東京を見渡してみると、地平線までびっしりと建物で埋まった風景が見られる。
 
東京タワーからの眺め
 
 もし、これが新しい自然なのだとすると、どうだろう。都市に対する批判の中には、都市の中の標準化された(計画的な)自然環境(郊外の芝生広場や整然と並ぶ樹木等)のつまらなさを指摘するものもある。しかし、空から見るとそんな標準化さえも飲み込んでしまうような自然がある、と考えることもできる。フリードリヒ・ハイエクが自然的であるとした“拡張した秩序”や“自生的秩序”に形があるのだとするとこんな姿なのかもしれない(*3)。
  かつての都市が、少なからず、厳しい自然に対峙するための機構であったように、今の都市が対峙すべきはこの新しい自然なのかもしれないし(その方法は標準化なのかもしれない)、逆にこの新しい自然を謳歌すべきなのかもしれない。どちらにしろ、空から都市を見渡すことで、自然の生成物としての都市が見えるのだとすると、空から見渡す必要が無いような場所は、いつまでたっても、どんなにうまく計画されても都市にはなれないのかもしれない。
 
●地図、歴史、意図
 
 空から都市を眺めるとき、大抵の人は自分がよく知っている場所を手がかりにして、改めてどこに何があるのかを見るのではないだろうか。先のバルトもエッフェル塔からパリを眺める人々のこのような行為を、新しい視覚と知覚の到来として記述している。
 
  “(中略)彼は、眼下に拡がるパリの中から、自然に幾つかの目立たない地点を見分けて、しかしそれらを再び結びつけ、一つの広大な機能的空間の中で見るという行為をやめないからである。”(*2)  
 
 このような視点で都市を眺めることで、自分がどんな場所にいるのかがわかることもあるだろうし、新しい都市の特徴を見つけられることもあるかと思う。さらに、実際に見えている特徴に加えて、空から眺めることで、都市ができてきた歴史や意図も見つけられる。
 例えば、バルセロナを高い場所から眺めると、サグラダファミリアなどの歴史的建築物やランブラ通りの緑のつながりが見えるのはもちろん、城壁都市としての歴史を持つ旧市街と、その外側にセルダーが計画した碁盤の目の市街地Eixample(拡張地区)、近年開発が進む21@エリアとの違いも見える。
 
バルセロナの市街地
 (左)手前が旧市街でランブラ通りの緑が見える。奥はセルダーが計画した碁盤の目の市街地がうっすら見える。
 (右)近年開発が進む21@地区には大規模な建築物もある。
 
 デュッセルドルフをライン・タワーから眺めると、ライン川沿いの都市づくりの意図が見てとれる。ライン川沿いでは建築物の高さが地区ごとに制限されており、ライン川西岸や旧市街を含む東岸エリアの一部は高さが低く制限されている。一方、近年開発が進んでいる南側のメディア港では高さ制限が緩和され、比較的背の高い建物が立地している様子が見られる。
 
デュッセルドルフ
地区毎に設定された高さ制限の結果が見える。左より、ライン川東岸、西岸、メディア港。
 
 このような都市の特徴は、必ずしも俯瞰的に観察されることを前提としてつくられたわけではない。だから、高い場所から都市を見渡すことで、その特徴や構成を組み立てなおす機会が得られることは事実だとしても、そのことに何か確かな価値があるのかどうかはわからない。しかしながら、断片的な計画や意図せざる部分も少なからず組合わさりながらできている都市の実態を俯瞰しできること自体が、都市が社会の変化に適応していくためには重要なのかもしれない。
 
●空から見渡せる場所は意図的につくられるべきか
 
 では、空から都市を見渡せる場所は、意図的につくられるべきものなのだろうか。
東京をはじめとする大都市では、建築物の高層化に伴い、ほとんど統一的な意図が無くても、空から都市を見渡せる場所が次々とできているのが現実ではないだろうか。また、最近では、インターネットでほとんど世界中の都市を空から見渡すことができる。
 一方、意図的に都市を見渡す場所をつくる(残す)例もある。ドイツのシュツットガルトでは、盆地にできた都市を囲む丘陵部の道路の一部を、“眺望通り”として位置づけ、条例で眺望が保全されるように規定している。この背景には、盆地に拓かれた特徴的な風景が、都市のアイデンティティの一つとして捉えられていことがあるようだ(*4)。
 同じように、都市の風景が一つの価値になっている例は他にもあるだろう。バルセロナを見渡せるモンジュイックの丘、日本では六甲山から見える神戸や、函館山から見える函館など。高い場所から都市を見渡すことが、人々の楽しみや、発見のきっかけになっているのだとしたら、このように丘や山からの眺望をつくる(残す)ことは、都市に計画すべきものの一つではないだろうか。
 日本一の面積を誇る関東平野に広がる東京の都市を丘や山から見渡すことは難しい。このため、先のような方法で計画的に眺望をつくることは難しいのかもしれない。しかし、現在建設が進む東京スカイツリーの場所が決められる過程では、展望台からの眺めが、中世から、江戸、現代へと続く都市づくりの歴史が読み取れること、都心から富士山を見られる構図が約200年前の鍬形紹真の「江戸一目図」に似ていることが、選考理由の一つとして挙げられている(*5)。
 必ずしも眺望を得ることが主目的ではなかったかもしれないが、空から見渡せる場を都市の価値として捉えて、広大な平野に広がる都市で計画的にそれをつくった一つの例として捉えられるのではないだろうか。
 
 *1 「隠喩としての建築 (定本 柄谷行人集)」柄谷行人 岩波書店
 *2 「エッフェル塔」ロラン・バルト 宗左近/諸田和治訳 ちくま学芸文庫
 *3 「致命的な思いあがり<ハイエク全集第U期第1巻>」渡辺幹雄訳 春秋社
 *4 「都市の風景計画 欧米の景観コントロール 手法と実際」西村幸夫+町並み研究会編著 学芸出版
 *5 新タワー候補地に関する有識者検討委員会 答申
 
 
 
   
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