連載コラム  
 
Topic 16 芸術を経験できる場の創出
  〜芸術モデルによるまちづくりとは〜
 
藤田 朗
 
 
●アートと都市をめぐる躓き
 
 美術館の役割は、2つに整理できる。一つは「目利き」、もう一つは「社会包摂(Social inclusion)」である。目利きとは、未だに評価の定まっていない事物を見出して価値づけ、将来の「お宝」としてアーカイブ化する機能である。この役割の重要性はもっと強調されても良いであろう。
 社会包摂とは、狭義には、失業者、低所得者、外国人といった排除されやすい人々への社会参加支援を指す。ここではより広義に捉え、「多様な存在を肯定し」「異者と出会い」「多様な参加」を促す機能を指すこととする。例えば、ある晴れた休日の午後。とある駅前広場には、ヘブンアーティスト(東京都の芸術文化促進事業)の一環として、若い楽団が演奏を披露しており、行き交う家族連れが立ち止まり(筆者の2歳の娘を含め)音楽を楽しんだ。「あらゆる人々のための席」(=社会包摂)が、音楽を媒介として公共空間に用意された瞬間である。都市と芸術をめぐる種々の取組みはこの状況、即ち、都市空間が開かれ相互行為により満たされる状態を志向している。
 既に紋切り型となった「アートとまちづくり」「創造的都市」といった標語ではあるが、「芸術を経験できる場の創出」は、社会包摂という機能により、都市の価値向上に寄与すると見てよいであろう。
 
「都市の寛容性・包摂性」を想起させる展示例(セザール)
 
 本稿では、アートマネジメントや文化政策と都市開発やまちづくりとがクロスオーバーする領域において、「紋切り型」を超えたいかなる工夫により社会包接が可能かを論じたい。まちづくりと連携する出番の多い現代美術を念頭に置き、アートイベントやアーティスト・イン・レジデンスの企画・運営に関わった筆者の経験と反省を踏まえ、まちづくりサイドのプランナーが躓きやすい罠があることをまずは指摘したい。
 
●罠その1「上から目線」
 
 美術館、あるいは芸術を鑑賞できる場の創出には、種々の効能が宣伝されることが多い。曰く、(市民が足を運ぶかを問わず)地域の文化水準や創造性を向上させる、地域イメージを向上させる、子供たちへの教育効果がある、交流や観光の拠点となる、経済的な外部効果がある、等等。
 しかし、美術館を訪れて教科書を読まされるような展示と普及イベントに退屈した経験はないだろうか。パブリックアート(公共空間に置かれた彫刻類)を見て作品選択への違和や周辺環境との不調和を感じることはないだろうか。筆者の見る限り、芸術を鑑賞できる場に、宣伝された効能が発露されているとは思えないのである。芸術文化に触れる機会の少ない市民に対するデリバリーを「アウトリーチ」と呼ぶが、ありがたいものを届けるから御覧なさいという構えでは、社会包摂は達成されない。芸術を経験できる場の創出において、まず問わなければならないのは、「なぜ今、その芸術を、届ける必要があるのか?」という、真摯で根本的な問いである。
 
●罠その2「看板と中身の履き違え」
 
 「トマトの缶詰にはトマトのラベルが貼ってある。中身が大事ですか?それともラベルが大事ですか?」
 地域のアートイベントに招聘され、住民に向けてそう問いかけたのは、フランス人アーティストのカトリーヌ・ボーグランである。普通名詞のアートという色眼鏡を捨て、固有名詞として目の前の作品を経験して欲しいといった意味であろう。
 アーティストとは、固有の顔を持つ(そして保障なき労働に身を捧ぐ)個人である。アート・ワークとは、固有の行為のプロセスを経た生成物である。しかし、アートイベントなどを見るにつけ、その作家や作品を十分理解して(惚れ込んで)起用したのか疑わしいことがままある。「アート」という看板さえあれば良くて、中身に「疎い」ケースが多いのではないか。
 キュレーション(アート選定の態度や計画)には、対象となる作家や作品への愛や一定の熱狂があって然るべきだと思う。
 
●罠その3「目的と手段の取り違え」
 
 近代の美術は、美術館の「ホワイトキューブ(白い箱)」に設置されることにより、作品としての権威が保障されてきた。パブリックアートは、その保障制度内での、美術館用作品の出前であり、芸術支援策あるいは都市再開発政策といった味付けがなされている。
 一方、美術館という保障制度を疑う作家らは、都市や自然環境の中で、場所と呼応する(サイトスペシフィックな)作品のあり方を試行するようになった。美術館を出たアートは、インスタレーションと呼ばれる形式で、空間の固有性、仮設性、偶然性、参加性などを作品にとりいれていった。永続的作品としての権威への疑義である。
 ホワイトキューブからインスタレーションへの断絶的流れ。このような動きは、「芸術を再定義すべしというマルセル・デュシャンに代表される現代美術特有の目的=「芸術の枠組み再構築志向」として理解することができる。その上、個々の作品は固有のメッセージをはらんでいる。アート業界のトップアスリートらによる問題提起は、政治、経済、環境、身体と生命をめぐる問題など抽象度が高く、批判性に富むものが多い。このような特質、すなわち@芸術概念の再定義志向、A批判性の高い問題提起、が多くの現代美術の目的ともいえるけで、まちづくりや都市開発の目的とは水準が大きく異なる。一方、まちづくりや都市開発の当事者は、美術方面の論理・表現・制作に疎い場合も多く、アートの目的を装飾の代用か一過性の楽しいイベント程度しか求めていないこともある。アートとまちづくりの目的をまずは切り分けて考えるべきであろう。
 
●成長するアート・プロジェクト
 
 2つの事例を紹介したい。デュッセルドルフ郊外には、二人の彫刻家、西川勝人とオリバー・クルーゼの手によって注意深く造られた「まち」が存在する。インゼル・ホンブロイッヒ美術館に隣接する旧NATO軍ミサイル基地「ラケーテン」だ。工房、科学アカデミー、宿泊施設、幼稚園、図書館、美術館、集会施設といった諸施設が、「戦争」の記憶継承を意図されたフィールドに配置されている。滞在自体が、美的経験として高まるよう、建築、ランドスケープ、家具、食材、コミュニティづくりなど、アーティストの手腕があらゆる細部にまで発揮されている。
 
 
インゼル・ホンブロイッヒ美術館と旧NATO軍ミサイル基地
 
 美術家の川俣正は、アムステルダム郊外のアルクマーという小さな町で、「ワーキング・プログレス(成長するプロジェクト」と名付けた共同作業を手がけた。麻薬やアルコール依存症の人たちがリハビリを行っている人里離れたクリニックと、町とをつなぐ木造の遊歩道を運河沿いに組み立てていくプロジェクトである。作業はクリニックの患者が担うが、アートセラピー(治療)が意図されたわけではない。患者が自分の判断で参加し、自己の能力を発揮できる場として、日々遊歩道の板を打ち付けるプロジェクトである。開始から二年たつと、川俣の助言なしでも患者自身の手によりプロジェクトは成長するようになった。
 
●新たな芸術モデルとは
 
 アートと都市をめぐる罠を回避するためには、新たな芸術モデルをまちづくりに採用する必要がある。それには二つの要素が考えられる。一つは鑑賞者を想定しないこと、もう一つは作品を想定しないことである。具体的には、日常生活や所作に潜む技芸(縫い物等)、地域貢献活動や社会貢献活動等の運動体に見出せるある種の洗練、集うことの充実感や連帯感、都市のユーザーの能力や潜在性の発見、そのような行為(プロジェクト)の経験としてのアートである。
 アートとは、突き詰めていえば、新たに覚醒し眼を多様に見開くための「目覚まし時計」である。一部のアート業界がそのような生体反応に対し敷居が高くなったとすれば、まちづくりこそ、アート(プロジェクト)の、現場としてふさわしいとはいえまいか。
 西川らや川俣のプロジェクトはどこがアートか。それらには、日常生活に「句読点をうつようなしかたでの働きかけ(鶴見俊輔)」を行う手腕(ある種のセンス)が発揮されているのである。まちづくりを美的経験のプロセスとして捉え、新たな芸術モデルの場が創出されるならば、「社会包接」に向かう都市として多様な価値に開かれるであろう。
 
 
 
   
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