連載コラム    
 
Topic 20 一定の居住水準を確保した良質な住宅の供給
  〜人々が都市を謳歌するための住まい〜
 
辻本 顕
 
 
●都市に住む人々にとっての居住水準とは
 
 住宅は、都市にとって欠くことのできない要素である。しかし、一体どんな居住水準を持つ住宅がより都市を魅力的にするのか、と考えた途端、答えに窮してしまう。例えば日本では、最低居住水準などの目安が設けられ、一定規模以上の住宅供給が進められてきた歴史がある。戦後の住宅難や都市部の人口集中などを背景とした住宅問題に対して、全国の世帯の約半数が誘導居住水準を達成したことにも表れているように、日本の住宅政策は、着実に成果を挙げたと言ってよい。しかし、住宅スゴロクと例えられるように、共同住宅から始まり庭付き一戸建てで“あがり”となる住まい方が普及したことで、近年では高齢夫婦世帯が部屋数の多い一戸建てに住み続けざるを得なくなることなど、行き場の無い“あがり”が問題として指摘されることも少なくない。
 これまで、居住水準と評してなんらかの目安を示そうとした場合、念頭にあったのは主に量的充足であったように思う。しかし、それが達成されつつある状況で考えられるべきことは、量的な目安ではなく個別の住まい手の“思い”を満足させる質的な目安なのではないだろうか。
 なぜなら、都市の価値は、様々な人が集まっていることによる多様性に依拠すると仮定するならば、当然、居住水準に対する考え方も多様であろう。このため、都市が価値を持つための一定の居住水準を確保した住宅の供給について考える際には、画一的な目安を示すことよりも、住まい手が“都市に住むことで得られる多様な価値”について自覚的でいられる状況を、いかにつくり出せるかが重要になるのではないかと思うからである。
 
●住まい手によって多様化する居住水準
 
 都市の住宅を考える際、住宅の性能を間取りや面積で表すことが多い。この場合の居住水準では、一般的には部屋数が多い方が良い住まい方(個室があって、家族の団欒ができてなど)ができるし、面積も大きい方が良いということになるだろう。実際、先に挙げた誘導居住水準などの目安は、面積は大きい方が良いということを示唆している。
 この水準に照らすと、東京の一人当りの居住面積は、実はバルセロナやストックホルムなどの他都市よりも大きい。当然、居住コストも高いが、規模的な側面をみると、実は東京の居住水準は高いといえる。

一人当たり居住空間/living spaceの比較

 
 一方、住まい方についても、最近ルームシェアなど必ずしもこれまでの居住単位に縛られない住まい方が注目されていることを考えると、案外これまでの住宅でも、住み手の意識と工夫次第で十分多様なものとなっているのではないだろうか。
 そうすると、今とさほど変わらない住宅でも実は十分なのかもしれないし、結果的にはどのような間取りなのか、また何平米なのかというのは非常に個人的な関心事になってくるので、あえて目安を設けて計画的に誘導すべきことではなくなるのかもしれない。
 たとえば、一人当りの居住面積が小さくて、日照時間の少ない集合住宅が多いバルセロナの旧市街地でも(都市再生の中でその多くが改善されてきた経緯はあるが)、住宅が狭いことが理由だとは断言できないが、住宅が狭い分、食事や団欒などのために都市をうまく使ってすごしている様は、都市が魅力的な場所であるという印象を与えるには十分な理由と言えるだろう。
 
住宅が密集するバルセロナの旧市街の様子
 
 では、魅力的でない場所の住宅(例えばスラム街の住宅や衰退する都市の住宅)は、何がその場所の価値の妨げとなっているのだろうか。そして、住宅を介して、それらの場所の価値を高めることは可能なのだろうか。
 
●都市への順応
 
 例えば、スラムについて考えるとき、居住環境の劣悪さとともに、場合によっては、そこに住む人々がいかにその他の場所に住む人々(とりわけ金持ち)に搾取され、そこでの生活を余儀なくされているか、いかに都市の被害者であるかが語られることがある
 これに対して、実は多くの場合スラムができることで都市の影響が及ばない本当の外側の貧しい地域が無くなるわけでもない(都市があったとしても外側の貧しい地域が無くなるわけではないため、都市は貧しい地域の発生の原因ではない)と、F.ハイエクは指摘する。その上で、同氏はその著書(*1)の中で次のように指摘する。
 
“それらの都市(貧民街を持つ都市)は、自らが(あるいはその親たちが)そこに移住しなかったならば死んでいたか、あるいはけっして生まれなかったであろう無数の人々に対して生活の糧を提供したのである。”
 
 ハイエクは、これらの地域では市場経済のもたらす利益を既に得ているが、その伝統や道徳、習慣に適応しきれていないことが問題であると指摘する。また、これらの場所に対して社会的な救済が可能となるのは、その社会の発展の基盤となった(市場経済の)習慣や道徳に適応した多くの様々な人が集まる場合に限られると述べている。
 生命が危険に晒されているような状況に対しては無条件で救済が必要だろう。しかし、それ以外の場合では、住まい手が都市の習慣に順応しきれていないことが、問題の原因の一つに挙げられるのかもしれない。
 それらの問題となっている場所が、より都市化した方が良いのかどうかについては、誰も正しい答えは持っていないだろう。しかし、発展の基盤となった習慣に適応する多様な人々の集まりに、都市の価値が依拠しているのだとしたら、より多くの人が、能動的に都市のメリットを享受できて、多様さを拡げられる状況を仕掛けることには意味があるかもしれない。
 
●住まい手が都市を謳歌するための仕掛け
 
 例えば、一つのヒントとして低所得者用の公的住宅と高所得者用住宅を混在させて計画をすることがある。物理的に両者が近接して住まうことによって住まい手の意識が変化する、という可能性は否定できない。
 しかし、都市開発の事業性等を考慮すると、住民の多くは高所得者層となってしまうこともあり、ストックホルム中心部に近い場所につくられたHammarby Sjostadでも、高級住宅に混ざって一部公的な居住機能が設けられているが、高所得者層の比率は、全市の約2倍に近い状況となっているのが現実である。
 

Hammarby Sjostadの所得別人口比率

 
 これに対して、もっと住まい手の“思い”に働きかけるような工夫ができないだろうか。狭小住宅に住みたい人、廃屋のような家でも、安い住宅費を逆手にとって魅力的にしてしまう人など、都市住宅の居住水準は様々である。それらの選択について、住まい手が自覚的でいられるために、例えば学校に通うように、都市に住むことについての掴みどころのない知恵や習慣を得られる状況を、様々なタイプの住宅に文字通りホームステイしたり転居したりしやすくする仕組みをつくることで仕掛けられないだろうか。そのための学び舎として、約756万戸ある空き家(*2)を使えないだろうか。住み替えが簡単であることは、高齢者世帯だけでなく、特に若い人が、今後の新しい住宅スゴロクの“あがり”を見つけることにつながるように思う。
 “住めば都”の諺の通り、人は結局のところどんな場所や家でも順応できてしまう。実際「住生活総合調査(国土交通省H20)」では住宅・住環境の総合評価における満足率は約70%と非常に高い。しかし、箱(家)の性能が同じだったとしても、転居やホームステイをしやすくする仕組みとセットとなることで、住まい手の多様さをもっと引出せることが、都市が価値を持つために、住宅が持つべき居住水準とはいえないだろうか。
 

*1 「致命的な思いあがり<ハイエク全集第U期第1巻>」渡辺幹雄訳 春秋社

*2 平成20年住宅・土地統計調査(速報集計)より
 
 
 
   
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