連載コラム  
 
Topic 26 歩行者空間と建物の間の柔らかなエッジの形成
  〜エッジの“柔らかさ”って何?〜
 
辻本 顕
 
 
●歩行者空間と建物の間で考えること
 
 通り沿いの建物を説明するとき、通りに開かれただとか、逆に通りに閉ざされたと形容されることがある。ここで、開かれたのは、物理的に通り抜けができなくても、例えばガラス越しに外から中を窺い知れる様な状況で、反対に閉ざされたと表現されるのは、高い塀で囲まれていたり、文字通り扉が閉ざされたりしていて、外から中を窺い知れない様な状況を指すことが多い。一般的に、開かれていることよりも閉ざされていることで生じる問題が多そうな印象があるが、興味深いのは、敢えて閉ざされている場所でも都市の魅力になる場合があるということである。また、たとえ開かれていたとしても、あまり魅力的でない場所もある。
 開かれていること若しくは敢えて閉じられていることが魅力となっている場所とそうではない場所の違いはどこにあるのだろうか。それは、さまざまな場所から我々が感じ取る他者の気配ではないだろうか。その気配を明示的に示すことができるかどうか、それがカギになると仮定して、通りと建物の間の柔らかな境界について考えてみたい。
 
●閉じられていることが問題となるとき
 
 通りに対して建物が閉ざされていることの問題として真っ先に頭に浮かぶのが、殺伐とした風景になる、ということではないだろうか。その結果、そこにあるはずの人々の生活の気配が感じられなかったり、その結果得体の知れない不安を覚えたりする。都市の魅力を語るとき、さまざまな人の集まりこそが価値の原動力になると言われることが少なくないが、閉ざされている建物が示唆してしまうのは、他者からの防御や排除の強い意思である。そして、我々がこのような得体の知れない不安を感じてしまうのは、他者が防御や排除を意図しているときよりも、むしろ意図していないときではないだろうか。
 例えば、セキュリティのために塀で囲われた建物やゲートコミュニティに対しては、一方通行で排除的かもしれないが、明確な他者の気配を感じることができるし、その結果我々自身がどのように振舞うべきかを感じ取ることができる。しかし、例えば一般的な住宅地のはずなのに、通りからは少しも人々の生活の気配が感じられないときには、我々がどのように振舞うべきかを感じ取るヒントが極端に少なくなる。その結果、何の変哲もない建物が意図せざる排除の気配を感じさせてしまうし、特に同じような建物が建ち並ぶ場所ではその気配が増幅されて感じられてしまうのではないだろうか。
 このような場合、もっともシンプルな解決は、排除していないという意図を明示することである。例えば、ストックホルムでは、過去につくられたニュータウンの反省から、近年の住宅地では大きめのバルコニーを設けることが義務付けられている。そして、そのバルコニーには、椅子やテーブルが置かれていて、そこでどんな人が暮らしているのかが断片的に感じられるような見せ方をしている。
 
過去につくられた郊外住宅地
Hammarby Sjostad
 
 また、建物一階部分にはガラス張りの店舗が配置されている場合が多く、店先の歩道も店舗の一部になっていることで、外からでもどんな人が何を売っているのかを感じ取ることができる。住宅地内の建物の意匠がいろいろであることも、ある特定の気配が増幅されることをうまく避けることに貢献しているように思う。
 
Hammarby一階の店先
互いに異なる意匠で建物を計画
 
 住宅市街地という性格上、上記写真のHammarbyでも昼間は人通りが少ない。しかし、不安を感じたり、直接的な排除を感じたりすることは少ない。
 このように排除していないという意図を明示する方法は、実は旧市街でもよく見られる。例えば旧市街では昔の建物の一階部分は店舗に変えられ、大きなガラス面が設けられることが多く、人々の活動が感じられる工夫がされている。ストックホルムだけでなく、バルセロナやデュッセルドルフでも同じような傾向がある。
 これらの例をみると、どんな人々がどんな活動をしているのかが断片的にでも見える、若しくは感じられるように通りと建物をガラス面としたり、バルコニーのような場所で演出たりすることが、都市に価値をもたらす王道といってもいいのかもしれない。
 

左からストックホルム、バルセロナ、デュッセルドルフの旧市街

 
●閉じられていることが魅力となるとき
 
 一方で、建物が通りに対して隠されていることが魅力となる場合もある。例えば、知る人ぞ知る名店や独特な文化・伝統を重んじるようなメンバーズオンリーな場所があることは都市の魅力のひとつである。
 この場合、重要になるのは、実態はどうであれ、閉じられているものの中身がある程度想像がつくもので、かつ原則誰にでも開かれてはいるけれど、中に入るには何かしらの資格が要りそうだということを、敢えて閉じることによって感じさせられること、ではないだろうか。そのためには、少しだけ中身が見えることや、微かな音、匂いなどのヒントの漏れが演出されていることがカギになるのではないか思う。
 いわゆるブランドショップの出入り口やウィンドウ、高級ホテルのロビーが明らかな排除ではなく、外から内側を簡単に把握できないような演出となっていることも、その周辺エリアの高級な雰囲気づくりに貢献しているという意味で、メンバーズオンリーな場所が都市の魅力になっている例のひとつではないだろうか。
狭い路地と閉じられた建物
 このようにある種の排除を示すことが魅力となるような場所が、そのメンバーだけではなく多くの都市住民にとって価値を持つためには、排除を示唆しながらも原則はオープンであることが重要である。例えば、先に挙げたゲートコミュニティのような厳格な排除は、その立地条件にもよるが、必ずしも多くの都市住民にとっての価値にはつながらないことがある。
 また、排除を示唆する側の中身にも文化的な背景や認知が不可欠なので、閉じられた場所があることで都市の価値に貢献するためには、長い時間と労力を要することが想像される。しかしその分、一度定着した価値は長持ちしそうな気がする。このことは、先の欧州諸都市でみられたような、開かれた間をつくることの落とし穴を示唆しているように思う。
 
●開かれた場所が魅力を失うとき。“柔らか”なエッジをつくるためのヒント
 
 通りと建物との間が開かれていたとしても、例えば商売が立ち行かなくなると簡単に閉じられてしまう。開かれた場所は、わかりやすいことで安心を抱かせることができるが、飽きられてしまうという危惧が付きまとう。欧州諸都市の通りと建物の間の様子が、どこも同じように見えてしまうのは偶然ではないように思う。どこも飽きられないために、新しさや演出された古び*1を保たなければならないという宿命を負っているようである。  
 では、開かれた場所がすぐには飽きられないように通りと建物の間に何か仕掛けをできないだろうか。
 一見開かれた場所のように見えても、実はどんな人がどんな活動をしているのかがわからない場合がある。一般的なショーウィンドーも、客しか見えない飲食店もその類かと思う。他方、立っているだけで店主が近づいてくる店舗や、働くスタッフが見えるオフィス、厨房の料理人も見える飲食店もある。
 一見同じようなスペースとして演出されていても、人の動きを感じとることができる後者のほうが楽しげだと感じるのは筆者だけではないだろう。陳列物だけを見せるより、人と活動を見せるほうが、より明示的に他者の気配を伝えることができるし、その結果、我々自身がどのように振舞うべきかを感じ取ることができる。同じ開かれた場所でも、その場所にいる人々の動き、あるいは生活、歴史や文化を感じさせるような仕掛けで、通りと建物とのエッジは“柔らかく”なる。このような人々の動きや文化が感じられるエッジがあちらこちらにある街並みは、まち行く人々に安心感を与える。この景色の心地よさこそが、都市の価値向上につながるのではないだろうか。
 
*1 「MUTATIONS」TN PROBE
 
 
 
   
トップページ
50のトピックス
知のポリビア
研究会について
お問い合わせ

 

 
Copyrights (c) 2009 NSRI All rights reserved