連載コラム  
 
Topic 38 建築形態のコントロール 後編
  〜経験される空間から考える〜
 
藤田 朗
 
 
●都市空間のメッセージ
 
 本稿のテーマは、「『人間の経験や感覚』の観点から『都市の建築』をどのようにコントロールすべきか」である。私たちは、訪れた街で、あるいは生活する街で、都市空間の体験それ自体が心に沁みるような瞬間があるはずだ。都市と人間が「高次(精神が揺さぶられる)のコミュニケーション」を交わすかのような経験である。その時、種々の建築を含む都市空間は、何らかの質を備えているはずである。しかし、現在の都市計画は、その種の経験や質を生み出す道具とはなり得ていないのではないか。私たちが向き合うべき課題はそこにあると思われる。
 都市は、雑多な事物や出来事から構成され、かつ、人はそれぞれ固有の経験をする。よって、「経験される空間」を一般論として考察することは難問(原広司氏によれば「泥沼」)である。この泥沼を涸らすため、まずは「メッセージの見える街並み(Topic 36参照)」という考え方を手掛りに、都市からの「メッセージを受け取る」という経験について考えてみたい。

 音楽家の演奏を聴いたとしよう。その際、私たちは音楽からメッセージを読みとろうとする。一方で、演奏会の空間(音楽ホール)から、建築のメッセージを読み解く人もいるだろう。これらの芸術的メッセージ は、多くの場合多義的であり、かつ言葉にするのはなかなか難しい(これを高次のコミュニケーションと言い換えることとしたい)。では、「街並みや都市空間のメッセージ」は、どのような特質を備えているのだろうか。そして、メッセージを届けるために、都市づくりの担い手はどのような準備をし、道具を揃えたらよいのだろうか。

 
●ギブソンが示唆するもの
 
 ジェームズ・J・ギブソン(1904―79)は、人間が周囲の「環境」(≠「空間」)をどのように見るか、環境の表面(surface)や配置(layout)、色や肌理(texture)をどのように見るか、を追求した心理学者である。街並みや都市空間のメッセージの特質を推し量るため、ギブソンの知見(生態学的アプローチ)を借りて整理してみたい。
 
○メッセージは受信者が見出す
 
 ギブソンが示唆するポイントの一つは、「メッセージ」は人間によりピックアップされるという点である。彼の定義によれば、情報とは「環境から受け手に伝えられる知識ではなく、観察者による環境の特定」を指す。観察者の行為(commitment)によって探索的に環境の情報や意味(affordance)が明らかとなるのである。私たちが、ある街並みや界隈について抱く「愛着」や「誇り」は、恐らく都市を利用する際の私たち自身の能動性(見出そうとする力)の有無に大きく起因しているのであろう。
 
○環境の単位は「表面」
 
 ギブソンは、環境を記述する単位としての「表面」を見出した。その表面の法則について、彼は以下のように述べている。
 
「存続するすべての物質は面をもち、すべての面は配置を有する」
「いかなる面も、物質の構成要素に依存して、特有の肌理(きめ)を持つ」
 
 ここでの「メッセージ」とは、都市を言語活動のように捉えようとする試み(ただし、試みたのはギブソンではなく後述するロラン・バルト)である。言語は、単語と文法から構成され、ギブソンの指摘は、『「表面」が単語で「配置」が文法だ』とも解釈できる。
 都市の「メッセージ」は「表面の配置」によって構成されるという考えは、建築形態のコントロールを検討する際に、良く馴染むと思われる。
 
○「表面」情報の二重性
 
 もう一つのポイントは、「表面の二重性」に関する指摘である。壁面は「それ自体が面であるという情報の他の情報を表示している」ように知覚できる時がある。例えば、石材の模様そのものと、模様が喚起する何らかのイメージの二つである。ギブソンは、その二つの視覚的経験は異なるものであり、私たちはそれらを区別するとしている。私たちは、表面を理解する際、「直接的な知覚」と「実在しない間接的な把握」という二つの経験から、「メッセージ」を探索しているのである。
 ギブソンは、「メッセージ」に関する発信と受信の様子や、環境の「メッセージそのもの」の構成について、考察の手掛かりを遺してくれたのである。
 
●バルトが示唆するもの
 
 一方、「メッセージそのもの」一般について、多くの知見をもたらしたのは、ロラン・バルト
(1915―80)らの記号学である。「都市空間の経験」に引き寄せてバルトが示唆するポイントを整理してみよう。
 
○二重性がメッセージを強める
 
 バルトは「あらゆるメッセージは、記号表現と記号内容とが二重に結びついたものである」と述べている。極端な例では、「史上最低の遊園地」「日本一まずい店」といった広告コピーが「記号表現」であり、その反対の意味が「記号内容」である。では、なぜ私たちは二重のメッセージを用いるのか。バルトは以下のように論を進める。
 
「記号表現は、記号内容をより一層巧妙に自然化するのに役立つ」
「記号内容の目的性、主張の非自明性、説得のぎこちなさを取りのぞく」
「二重性を含めば含むほど、それが多重であればあるほど、メッセージの機能を発揮する」
 
 以上は、メッセージ一般についての話である。ギブソンの「二重性」を踏まえるならば、都市空間における「表面」「配置」といった記号表現が、記号内容(メッセージの意味)から飛躍していることが、豊かなイメージを喚起する可能性を示唆している。
 
○暗喩なしに語る
 

 牡丹(ぼたん)の花言葉は「王者の風格」である。ただし、花言葉は暗喩(メタファー)である。牡丹は特有の色素状の肌理、粘性、襞(ひだ)の形状、細胞や器官などをもった物質であり、これらの全体が、暗喩なしに視覚的メッセージを発信する。バルトは、「問題は、《都市の言語活動》といった表現を、純然たる暗喩の段階から抜け出させること」にあると述べている。記号表現と記号内容の二つの読解経験を、一つの行為として捉えることが、暗喩なしにメッセージを語る第一歩ではないだろうか。

 
○読解の数を増やす
 
 前編で述べたとおり、「おとぎ話に出てくる夢の国」の読解のされ方は、恐らく一種類である。都市とは「社会的文化的基盤を共有しない他者」が行きかう場であり、多様に読解されるべきであろう。バルトは都市の読解についてつぎのように指摘する。
 
「われわれは、自分が現にそこにいる都市を解読する試みを、大勢で行うべきでしょう。そうした読解をすべて把握することによって、都市の言語が築き上げられるでしょう。もっとも重要なことは、都市の機能の調査を増やすよりも、むしろ都市の読解の数を増やすことである」
 
 読解の数を増やすとは、デザインされる要素や手数(てかず)を増やすことではなく、複数の要素を一つの全体として知覚する経験を増やすことであり、その経験が「さまざまな読者(都市の利用者)」に呼応して幅広く開かれるべきであろう。
 
●「精神の経験」に向けて
 
 では、以上を踏まえ、都市づくりを担い手は「メッセージ」を届ける際に何をすべきだろうか。
 
@コントロールの単位を拡張する
 
 都市は、建築空間や敷地を単位として切り分けられるのではなく、ひと続きの環境としてつながっている。そのため、壁面、屋根面、地面などの表面は、地区単位・街区単位で連担し、その上で多様性と(一つの地区としての)構築性をバランスさせるようコントロールすることが重要になる。
 
A地区単位のメッセージを豊かに表現する
 
 都市の「メッセージ」は、暗喩なしに建築形態によって、豊穣に(二重に・多重に)語られなければばらない。その際、レトリックなど言語活動の技法がデザインの参考となるだろう。すなわち、配列のパターンをずらす、順序の倒置、過剰な反復、省略、フェイクなどの技法の地区レベルでの適用を検討することを意味する。また、「地区の目標像」といった定性的な目標設定にこそ、「メッセージ」の二重性・多重性に気を配るべきである。
 
B実体のないメッセージを媒介する
 
 都市づくりには地権者(既存建築含む)、行政、都市の利用者など、さまざまな関係者が存在するが、利用者のメッセージは、実体を伴わない場合(≒「まちの気分」)が多く、都市の「メッセージ」として採用されることは少ない。都市づくりの担い手は、あたかも「霊媒」のように「まちの気分」(≒「読解の数」)と交信するような仕組み(例:マーケティングの応用)の中で、「メッセージ」を構築すべきと考える。
 
 経験される空間とは、単なるメッセージの情報伝達ではなく、「精神の経験(バルト)」なのであり、私たちはその準備を始めなければならない。
 
参考文献
ジェームズ・J・ギブソン「生態学視覚論」、ロラン・バルト「記号学の冒険」
 
 
 
   
トップページ
50のトピックス
知のポリビア
研究会について
お問い合わせ

 

 
Copyrights (c) 2009 NSRI All rights reserved