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第116回都市経営フォーラム

コーポラティブ・ハウジングの新たな展開にむけて

講師: 中筋 修氏 (株)ヘキサ取締役


日付:1997年8月27日(水)
場所:後楽国際ビルディング・大ホール

 初めまして、中筋でございます。初めましてでない方も数人いらっしゃるのですけれども。夕べ新宿で夜中まで飲んでいまして、今もまだちょっと二日酔い状態であります。人前で話をするなどという恐ろしいことをするのが苦手なので、酔っぱらった状態じゃないと話ができない。(笑)
 きょうは、コーポラティブのという話がございましたけれども、コーポラティブ住宅というのは、基本的にはダサいものです。いい子ちゃんが集まって、みんなで家を建てて、「それはよかったね」という何かダサい話なので、余りしたくないけれども、まず最初に、僕たちがこの20年ほどどんなことをしたかということだけちょっと御紹介したいと思います。
 次に、今の僕の関心はもう余りその辺にありませんで、日本がおそらく都市住宅ということに関して、世界に誇れるほど遅れているというか、お粗末であるという認識がすごくあるのですが、高密度な都市住宅、いわゆるアパートであるとか、そういうものがどういうふうにしてできてきたのかという歴史について、ちょっとお話しをしたいと思います。
 最後に、今僕らは何を考えねばならないかという3部構成にしようかという厚かましいことを考えていますが、2時間ほどありますので、余り僕の話だけだと、おもしろくないので、大半がスライドが150枚ぐらい用意されていますから、スライドを見ながら話をしていきたいと思います。


都心部のコーポラティブハウス=都住創の20年
―都心居住のハードとソフトを考える―

 まず、第1部の都住創ということですが、これは「都市住宅を自分たちの手で創る会」の略です。これは1975年(昭和50年)ごろから始めたのです。大阪で17できました。東京の新宿に2つございます。それを延々20年ほどやっていたのですが、バブルの最中に土地の値段がむちゃくちゃに上がってしまって、もうこんなアホなことはできないというので、もうやめるという宣言をしたわけです。それが大きく「日経アーキテクチャー」に出されて、終息宣言が出たわけですけれども、土地の値段が下がってきたから、またぼつぼつ来年ぐらいから考えようかというので、新しい企画をこれから始めようとしているところです。
 1975年といいますと、今から22年ほど前になります。そのころ僕はまだ年が36ぐらいで、公団に住んでいたわけです。ここにきょうは公団の方はどなたかいらっしゃいます?───悪口言えないな。(笑)とにかく公団の2DK、40平米というところに住んでいたわけですけれども、「何でこんなアホみたいなところに住まんとあかんねん」というところから物事が始まったわけです。
 僕は、もともと大阪で生まれて、大阪で育っておりまして、町の中に住む。とにかく郊外電車に乗って通勤するなどというアホなことは絶対考えられないわけです。会社まで歩いていければ一番いいのだけれども、許される範囲は、地下鉄の3駅までというぐらいの町の子でありまして、それで結婚して子供もできまして、マンションを買おうかと思っても、ろくなのがないという状況で、これはもう自分でつくるしかないじゃないのというので始めた運動が都住創のわけです。
 だから、僕が住みたいがために、自分の家をたった1軒つくるがために始めた話が、大阪で17できましたから、最終的には250人ぐらいの人を巻き込んでしまって、えらく迷惑をかけたということです。
 そのときに考えたのが3つほどありまして、とにかく都心部に住もう。都心の一番格の高いところに住もう。ド場末には住まない。郊外にも住まない。都心部の一番いいところに住もうというわけで、当時は東区といいまして、今は中央区というのですが、大阪のかなり都心部でございます。
 もう1つは、いわゆる2DKとか3LDKとかいう言い方のお粗末な集合住宅ではなく、むしろ建築家が設計する一戸建ての住宅を縦にいっぱい積んだようなものができへんやろか、そういうアホなことを考えたのが2つ目でございます。
 もう1つは、共同で発注しましょう。10軒か20軒集まって発注すれば、何ぼかでもコストは下がるのではないか。そのぐらいの3本柱で始めたわけです。
 たまたま1つか2つできればいいじゃないのと思っていたら、延々20年で、17も大阪にできてしまって、僕たちの仲間内の人たちはいまだにずっとおつき合いをしているわけです。
 とりあえずスライドでどんなものなのかを見ていただきたいと思います。

(スライド1)
 これが大阪の地図でございます。これが大阪城。御堂筋がこの辺です。大阪の中心部の東になりますが、これが第1号でございます。丸を打っているのが、もうちょっとほかにもあるのですけれども、大阪でできた場所でございます。大阪府庁がこの辺にあります。大阪の都心部です。
 もともとこのあたりは戦前からたくさん人が住んでいまして、学校もある、幼稚園もある、インフラは全部そろっているところです。僕らが始めた1975年当時は、土地の値段も信じられないほど安くて、おまけに古い場所ですから、いろんなインフラもそろっているので、これはいいじゃないのというので、ここら辺に着目したわけです。

(スライド2)
 全部ご紹介していたらきりがないので、これは第4番目のところです。土地が100坪、地主の人を僕らがよく知っていたので、等価交換でやった。全部で20戸入っています。

(スライド3)
 1軒ずつ区画も全部違うのです。区画の大きさもデザインも全部違います。

(スライド4)
 これは6番目のプロジェクトですが、土地の面積たるやわずか60坪でございます。中はメゾネットで、くちゃくちゃにつながっているわけです。斜めになっているのは、皆ここに階段があります。おまけにここに入っている人のイニシャルまで入れちゃうというアホなことをしたわけです。

(スライド5)
 これは7番目のプロジェクトですから、もう15年ぐらいになります。うちの事務所は昔この2階にあったんです。これは斜めにセットバックして、最後のあのパネルはソーラーパネルで、あそこで全館給湯をしています。

(スライド6)
 これは昔何かの取材があったときに、ここで入居者におりておいでといって、そこで写真を撮ったものです。

(スライド7)
 これは10番目のプロジェクトです。

(スライド8)
 夜景です。これはみんなバラバラで、窓の位置なんかも勝手につけているというものです。

(スライド9)
 これは12番目の建物で、これはたまたま模型ですが、後で実物の写真が出てまいりますが、あれもてっぺんのパネルはソーラーで、あそこで給湯しています。

(スライド10)
 これは下の方のディテールです。

(スライド11)
 これはお隣が10番目で、こっちが13番目です。うちの事務所は今この辺に入っているのですけれども、あるときここに入居した人が、何かイベントでもしようかというので、エルメスか何かが建物をリボンでくるんだようなことがありましたでしょう。あれのまねでもしようかというので、リボンでくるんだ、こんなことをして遊んだことがありました。これもバブルの景気がよかったころですね。今はこんな気分にもならない。

(スライド12)
 これは何かのパーティーのときに、ヘリコプターを1台雇ったのです。近くにみんな点在しているものですから、ヘリコプターにカメラマンを乗せまして、ビデオを撮らせたんです。それで入居者にみんな屋上へ上がれと言っておいて、ここでみんな手を振っていますでしょう。この左の端の方にいるのが僕です。そのビデオを後でみんなで見るというアホな遊びをいたしまして、これもバブルのなせるわざであります。

(スライド13)
 これは右側が第10番目で、左側が第13のプロジェクトです。たまたま偶然にお隣同士で建てることができて、これは裏側でございます。

(スライド14)
 これが大阪でやった最後の仕事で、第17番目です。たった7軒です。2階建ての家もあるし、小さな家もあるし、バラバラにして入っています。

(スライド15)
 これは下から見上げたものです。やはりバブルの気分ですよね。どんなデザインでも、できるだけハチャメチャにしようという当時の気分がよくあらわれています。

(スライド16)
 これは東京でやりました。早大通りです。左へ行きますと、早稲田大学に行き当たるところでできたものですが、これは山吹町です。これと同じことをもう1つ東京でやったわけです。これは事業としては大失敗の事業でありまして、いろいろと関係方面にいっぱい迷惑をかけまくって、それでも何とかだれも死ぬ人が出なかったというハッピーエンドになりました。今やこの建物は、これを建設してくれた会社の本社ビルになりました。

(スライド17)
 これもそのときの気分で、このときは20戸ぐらい、オフィスもあるし、住宅もあるしという、そんなものです。これは東京で93〜4年に竣工したものです。

(スライド18)
 これも新宿の神楽坂でできたものですが、これは僕がプロデュースいたしまして、今売れっ子の建築家の隈研吾君に設計を頼んで、彼のオフィスもこの中にあります。小さいものです。土地が何と46坪ぐらいのものです。神楽坂の駅から歩いてすぐのところです。

(スライド19)
 こんなおしゃれなものです。何せ46坪のところにオフィスが8つと店舗が2つ入っています。だから、コーポラティブオフィスです。うちもこの中にワンフロア持っているのですけれども、それは人にお貸ししています。

(スライド20)

(スライド21)
 20年のうちにどんなものができたかというと、こんなものができたわけです。中身は一体どうなっているということで、中を少し御紹介します。
 これは僕の家です。僕はことしで58になりますが、この夏でちょうど丸20年住んでいるのですけれども、僕の人生の中で一番長く住むことになる家です。これはでき上がってから、一遍も何も触っていませんから、今も全くこのとおりです。2階建てになっております。吹き抜けになっていますから、冬は寒く、夏は非常に暑い家でございます。

(スライド22)
 これは実は左右逆ですけれども、これが9階です。あの階段を上がりますと10階になるわけです。冬にこの下にいますと、何ぼ暖房しても、全部上へいっちゃうわけです。もう寒くていてられないという家でございます。

(スライド23)
 2つとして同じデザインの家はありません。これは写真家の家です。お金がないから、ブロックでええやろ、コンクリートを打ちっ放しでええやろ、そういうものです。

(スライド24)
 広いだけが取り柄の居間であります。

(スライド25)
 これも広いだけが取り柄の居間です。

(スライド26)

(スライド27)
 全部の入居者と1対1で話をするわけです。それでこんな家にしたい、打ちっ放しが いいとか、あるいは民家風がいいとか、勝手なことを言うてくれるわけです。それに「はい、はい」と言って、おつき合いするわけです。僕はこんな障子を張ったような家なんて嫌いなんですが、やっぱり言われたら、せんとしようがないから、何でもやります。

(スライド28)
 何か昔のモダンリビング風でしょう。これは近所のそば屋のおやじの家でございます。

(スライド29)
 これは近所の歯医者の家です。本がめったやたらとあって、本でもって間仕切りしようかという家です。

(スライド30)
 これは非合法です。これは地下1階と1階です。これは僕の友達の写真家の家です。検査を受けるときは、全部床が張ってありました。地下なのを隠しておったわけです。(笑)検査官が帰ると、バーッとめくると、これが出てくる。こうやって非合法の限りを尽くして、大阪市役所では、ヘキサ、中筋というのは、かなりブラックリストに載っていたようです。このごろ割とちゃんとやっていますから、もう大丈夫だと思いますけれども、それを平然とやっていまして、要は土地の値段が毎年上がっていくわけやから、500%しか建てちゃだめだというところへ600%ぐらい建てないと追いつかない。600%建てれば、土地の値段を20%値切ったと同じことになりますでしょう。といって、正義の味方ぐらいのことでやっていました。時々市役所に呼び出されて怒られるということをずっとやっていました。

(スライド31)
 これは基礎梁の地下なんです。だから合法的には存在していないものです。

(スライド32)
 ここも2階建ての家で、東京に一色事務所というツーバイフォーをずっとおやりになっている設計事務所があるのですが、大阪の一色事務所の所長が、僕らがやっている運動がおもしろいというので入っていただきまして、この設計はご本人の設計であります。あの暖炉もよく燃えますよ。

(スライド33)
 2階建ての家は結構あるんです。2階建てになっていますと、何となくマンションの中にいるという雰囲気でないでしょう。何となく一戸建てみたいな感じになります。これも劇団の演出をなさっている僕の友達がここに入ったわけです。

(スライド34)
 こういうモダンリビング風のもあります。

(スライド35)
 これも僕の友達なんですが、キタの新地でステーキ屋をやっている男で、よく料理の番組なんかに出てくるやつです。これは見たところどうってことはない住宅に見えるのですが、これは実はすごいんです。これは全部うるし塗りです。本人が全部自分で塗ったんです。だから、僕らはでき上がって、白木で引き渡したわけです。彼はそこから1カ月か2カ月かかって塗って、乾くまで半年あけたわけです。そうでないとかぶれてしまうから。半年後に居住を始めた。だから、障子の桟から突き当たりの床からテーブルから全部自分がうるしを塗ったわけです。

(スライド36)
 「カハラ」という割と有名なステーキ屋のおやじですけれども、おもしろいやつです。

(スライド37)
 これも二世代同居で、こっち側に2つキッチンがあるわけです。親の世代と子供の世代と2つキッチンがあるという、そんなアホなものもつくりました。

(スライド38)
 これは実は3階建てです。役所に届けたときは平屋で届けたわけです。全部検査が終わってから、床を2枚つくるという離れわざをやりました。

(スライド39)
 これもごく普通のマンションです。

(スライド40)

(スライド41)
 今お見せしたみたいに、全く同じ家は1つもありません。全部違います。基本的に同じ大きさのも1つもない。全部違います。それが250軒ぐらいあります。あのときに、大阪に17棟もこういうものがあって、みんな何となく知っているわけです。僕たちはみんな知っているわけです。だけど、近くにあって、お互いの交流がうまくいかないんじゃないか。それで、ちょうど10年前になるのですが、みんなから出資を求めまして、10番目のプロジェクトの下にホールをつくったわけです。公民館みたいなものです。ちょうど10メートル×10メートルで、100平米の公民館をつくったわけです。それが4000万円ぐらいかかりました。それをみんなの出資を仰いでつくったわけです。今もその運営をずっとしています。これは都住創センターと名前をつけました。都住創センターの入り口は、13号の建物の入り口です。これを突き当たって左へ曲がります。

(スライド42)
 左に曲がりますと、階段でトントンとおりていきまして、あの突き当たりが都住創センターになっています。

(スライド43)
 こんな建築家の展覧会をしてみたり、京都で高松伸さんという建築家を御存じでしょう。彼の個展をここで一番最初にこけら落としでやろうかというのでやったのです。

(スライド44)
あるいは、こういう建築の展覧会とか、このホールで何でもやります。

(スライド45)
 これは落語でございます。上方落語協会というのがありまして、そこが席亭がないんです。それじゃ、年に2〜3回ぐらいだったら、うちで面倒を見てあげようということで、今もやっていますけれども、毎年ずっと落語の会をやっています。これは八方ちゃんですね。大阪の売れっ子の落語家で来なかったのはさんまと何人かぐらいで、大概の人はみんなここでちゃんとやっていただきました。

(スライド46)
 パーティーの様子です。わずか100平米ですから、100人も入ったら満員になります。

(スライド47)
 神戸で地震がございましたでしょう。あのときにマンションが随分壊れて、それの建てかえの手伝いを今うちの事務所で幾つかやっていまして、これは芦屋ですけれども、26軒のマンションがひっくり返ったわけです。それが組合をつくって、政府からちょっと補助金をいただいて再建するということで、近所の反対もいろいろあったのですが、ようやく着工することができました。
 26人の人を相手にするのはなかなか難しい。今まで僕らがやったことがある最大が20人なんです。一番小さいのが7人。7人ぐらいだと、話をするのは簡単です。だけど、会議をしているときに、7人ぐらいだと、1人の人がちょっと異端な意見を頑張って主張してしまうと、15%の重みがあるんです。となると、後で大変だ。20名ぐらいになりますと、1人の極端な話を言い出したところで、「まあまあ」と抑えて、わずか5%でしょう。だから、多分一番いいのは、15人とか20人ぐらいがいいんじゃないかなと思いますし、僕らがこうやって1人1人徹底的に、いきなり電話がかかってきて、台所の扉のあれはこっち開きの方がいいか、あっち開きの方がいいかとか言われても、全部覚えている限度が20人ぐらいです。子供の名前から、あそこのお父ちゃんはこのごろちょっと浮気しているぐらいの話まで全部把握できるのが20人ぐらいです。ただし、20人になると、ちょっと気が狂いそうになるんです。
 今僕がこれで面倒を見たのが26人でしょう。今まで都住創をやってきたときは、平均年齢が40ぐらいでしょうか。自分で商売をやっているとか、デザイン事務所をやっているとか、いろんな人で、まだ若い人です。ああしたい、こうしたいと、むちゃくちゃな意見が出てきたりするんですけれども、地震の建てかえの場合はもう少し平均年齢が上で、一般的な希望の人が多く、我々はいささか欲求不満を起こしています。だけど、大阪で建築事務所をやっていて、神戸の地震で何かお手伝いするのも、大切なことだと思って頑張っています。

(スライド48)

(スライド49)
 僕が考えているコーポラティブはこんなものです。よく東京でも大阪でも、郊外で 新しい団地で、公団さんなんかがよくお手伝いされて、我々もお手伝いしたことがありますけれども、やるような住宅は僕は大嫌いです。僕は何が何でも都心である。僕も都心で生まれ育っているんです。都心であるということは、職住一緒だということです。
 子供が郊外で、親なり大人が働いている姿を見たことがなくて育つなんていうのは、僕には考えられないんです。僕らが育ったころは、隣に鉄工所があって、ほかに何かがあって、みんな大人は働いているわけです。そういう姿を見て僕らは育ったわけです。とにかく都心で、子供が働いている大人の姿を見ながら育つのがいいんじゃないかとずっと思っているわけです。かといって、僕らのコーポラティブの中で鉄工所をつくるわけにいきません。だから、働いている姿といっても、設計事務所であるとか、あるいは広告屋さんのオフィスであるとか、グラフィックの事務所とか、そういうものではありますけどね。
 だけど、とにかく都心部で、住居とデザイン系のオフィスの区別なんかは、僕にはわからない。例えば、この場所を、これが住宅であると宣言したら、これは住宅になるんです。
 アメリカのコロンビア大学にバーナード・チュミーという主任教授がいらっしゃるんです。彼はもともとスイスの建築家です。何年か前に彼のマンハッタンの住宅に呼ばれたことがありまして、行きました。昔の工場です。ごっついですよ。この会場ぐらいです。その工場にペンキを塗って、「これが居間だ」と彼は言ったわけです。そしたら、それが居間になるわけです。300人ぐらいのパーティーができるようなところに彼は悠然と住んでいます。「これが住宅」「これがオフィス」という区別は僕には一切ありませんで、とにかく都心で物がつくりたかったわけです。
 昔の「向こう三軒両隣」と言うじゃないですか。あれは、ある種の相互監視装置です。僕よりかもうちょっと1世代上の方にとってみれば、あの種のコミュニティというのは、監視されていたわけですから嫌なんです。戦後すぐに公団なり何かがアパートを発明して、鉄の扉をバーンと閉めたら、近所とは没交渉になることができたでしょう。戦後すぐの皆さん方は、近所とつき合わなくていい都心の住まいというのを初めて日本にもたらされたわけですから、それに大納得したと思います。だけど、ずっとそれに住んでいると、やっぱりちょっと物足りないわけです。だから、僕らが目指しているのは、ウエットな、いわゆる地縁とか血縁というコミュニティではなくて、ある種の出来事を通して集まるコミュニティ。だれか文化人類学の先生がそれを「社縁」という名前をつけられました。社縁といっても何といってもいいけれども、ある種の出来事を介して集まるコミュニティがあっていいんじゃないか。
 我々は都心部ばかりで活動していますけれども、これがある場所にたまたまあるというだけのことであって、それは住宅をつくる遊びとして皆さんがした。ただし、これはいささか目が血走っている。それは35年のローンを抱えるわけですからね。だけど、目が血走ったところでワアワアやってもしようがないので、会合は常に夜にやります。しかも、アフター5でやるわけです。必ずビールが出ます。酒というのはなかなかええものでありまして、ちょいとお酒が入ると、許せないものも許せるようなことがあるじゃないですか。だから、我々の会合は全部酒が入ります。とりあえず僕は酒飲みですから、酒を飲めないやつは要らない。(笑)何かで対立したら和解できないんだもの。どつき合いするしかなくなるでしょう。それは酒を飲んで、「昼間はあんなことを言うてたけど、こんなところでどうやねん」という話をしたら、「まあしようがないか」。そういうある種の和解があり得るわけです。だから、都住創のコーポラティブでは、酒なしには絶対に成立していません。
 もう1つは、僕ちの仲間うちの特性は、都心生まれの人が多いです。もともと東京でも大阪でもみんなそうですけれども、昔はみんな九州とか東北から働きに来るわけです。そこでだんだん子孫をふやしていくわけですけれども、きのうきょう地方から来られた人はもう結構である。できたら都心に住んでいるルールを知っている人にお願いしたい。結果的にはほとんどそうなっています。
 もう1つは、国家公務員、地方公務員、それからいわゆる大企業のサラリーマンに関しては、できるだけお断りしたい。この人たちは、メリットは追求しますが、デメリットに対して物すごく弱いんです。ビジネスをしている人たちは、メリットとデメリットはワンセットだということをよく知っています。今いったホワイトカラーの人たちは非常に弱い。こんなはずじゃなかったと言って怒り出す人は、大概は公務員。学校の先生が一番悪いね。(笑)僕らなんかは何の欲もありませんから、ああしたい、こうしたいと言ったら、みんな僕のことを中筋と言わないで「筋やん」と言うわけですけれども、「筋やんが言うてんのやから、しようがないか。まあまあ」となだめてくれたりするのは、大概自分でビジネスをやっている人です。
 僕は大阪の都心部でこんな運動を続けてきて、後で整理してみてわかったことが、大半が大阪生まれのやつである。余り賢いやつはいない。エリートサラリーマンなんかもほとんどいない。大概は商売は何にしても、自分でビジネスをやっている。そういう変態の集団であったのが、結果的には長続きしたのではないか。おまけにそこへ僕が酒好きで、酒でガンガンいきましょうというので、20年間何もトラブルなしによくできたものだと、いまだに感心しています。
 今の都住創センターでこんな会を今毎月しています。月に1回講師に来ていただいて、都市問題についていろいろ話して、それを記録にまとめて発送するというのもずっとやっています。だから、月1回こういう会をちゃんと運営するのは本当に大変だなというのは身にしみてわかっていまして、きょう会うのが百何回目だと聞いて、大変尊敬しています。(笑)ちょっと余談になりました。


日本のマンションの異常性
 ―世界のアパートメントのルーツに戻って考える―

 僕が何で都市住宅かというのは、原点が2つありまして、1つは、竹中にいた時代にちょっと会社でお休みをいただいて、アメリカに留学していた時期があります。その後しばらくニューヨークで働いていたことがあるんです。そのときに住んだ1930年ぐらいのアパートがあるのですが、そこのアパートで暮らした経験と、それから親の家で暮らした経験、この2つしかなかったわけです。
 それはどういうものかというと、大阪の戦前に一斉にできたもの、いわゆる長屋なわけです。後で写真が出てきますけれども、ちょっと前に庭がありまして、真ん中に2階建ての木造の家があって、後ろにもちょっと庭がある。そういう計画的な長屋があるわけです。それが大阪で昭和10年から15〜16年の間、わずか数年間に16万戸ほどできたのです。これが大阪の原風景です。それと、そのニューヨークで15階建てぐらいのアパートメントに僕は初めて暮らしたことがあるわけです。その2つしか僕のモデルにするものがないわけです。
 ならば大阪の長屋的感覚とニューヨークのアパート的感覚とを一緒にしたらどないなるんやというのが、都住創の話だったわけです。夢中になって20年ほど仕事をしていたわけですが、その間に世界の都市住宅は一体どうなっているのかということが物すごく興味が出てきたわけです。この10年ほど、1990年ぐらいから毎年ロンドンへ行ったり、パリへ行ったりしました。
 建築家が旅行しますと、大概有名な建物だけをパッパッと見ていって、写真を撮って帰ってきて、みんなこういうことをしてるのですが、僕は決してそういうことをしない。有名な建物は決して見ない。無名の建物ばかりを探すわけです。それはアパートです。それが大体何年ごろにできたかということをずっと鑑定していくわけですが、僕は世界のどの都市へ放り出されても、ある建物を前にして、「これは何年?」と言われたら、ほぼ当てることができると思います。建築探偵っていらっしゃいますね。藤森大先生が本をお書きになっているけれども、僕は無名の建物の建築探偵をずっとやっていまして、ようやくわかってきたことをこれからちょっとお話しします。15分ほどで、世界の都市住宅の歴史をお話しします。
 300年です。いつから始まったかというと、1600年ごろから始まっています。それはいわゆる近代です。資本主義が初めてでき上がってきたのは、大体17世紀ぐらいですが、それとともに都市住宅の歴史があります。

(スライド50)
 これはパリの4区にありますヴォージュ広場というところです。これが1602年か1603年か1604年か、それぐらいだと思います。これはおそらく近代になってから世界でつくられた集合住宅のまず第1号だと思います。これはみんな1軒です。要は一戸建てが横にずっとつながっている接地型です。広場を囲む。一見王宮風に見せよう。これが世界の都市住宅の第1号だと思います。

(スライド51)
 今でも現役です。これは全部僕が自分で撮った写真です。

(スライド52)
 これは17世紀の終わりの方です。ヴァンドーム広場。グッチとか何か有名店がいっぱい入っています。これは17世紀の終わりぐらいです。これもそうです。あの3コマぐらいで1軒です。だから、接地型の広場型の集合です。

(スライド53)
 ヴィクトーワール広場。これも17世紀の末です。

(スライド54)
 それがパリで全部発明されたわけです。それがわずか10年後にはロンドンに輸入されるわけです。これはコベントガーデンといいます。今現在で残っているのが、これと、この辺わずかだけ残っています。これが1620年ごろですから、パリができてから、わずか10年後には、それとそっくりさんがロンドンにできた。

(スライド55)

(スライド56)
 これが現状です。一部だけかろうじて残っています。

(スライド57)
 ロンドンの人たちは、ああいう四角で囲むとか、丸を囲むとか、あるいは三日月にするとか、これに300年間凝り固まったわけです。これは18世紀の末ですが、バースという温泉町があります。これはイギリスの貴族たちの社交場のわけです。そこで18世紀末にできたものですが、これは丸いから「サークル」と言います。本当はこの辺にスクエアという四角いものがあるんです。上に三日月になっているのがクレッセントといいます。あれはロイヤルクレッセントといいます。これもみんな、これが1軒、これが1軒と、ロンドンの町の中のタウンハウスは全部これです。

(スライド58)
 これも18世紀の終わりぐらいで、ベッドフォードスクエア。これはロンドンの都心部にありますが、これも3コマずつぐらいで全部1軒です。
有名なのは、AAスクールという割と前衛的な建築の学校がロンドンにありますが、そのAAスクールはこの中の2区画を占拠しています。これは18世紀末のロンドンです。

(スライド59)
 これはヘリコプターで撮ったんです。ヘリコプターから、僕が自分で撮影したのですけれども、これがスクエアです。この真ん中は鍵がかかっているのです。この入居者しかこの鍵を持たされていないわけです。ここへ入ることができるのは入居者だけという非常に排他的なものですが、イギリスの人たちが何に憧れるかというと、これに憧れていたんです。テラスドハウスといいます。

(スライド60)
 何年たっても同じです。ロンドンの北の方にリージェントパークがあります。その出口のところですけれども、リージェントクレッセントというのですが、これも同じです。3コマぐらいで全部一戸建てです。

(スライド61)
 これは近くから見たものです。これは王室の財産です。

(スライド62)
 これはベルクレイヴスクエアといって、チェルシーのあたりにある建物です。これも 全部一戸建てが周りを取り囲んでいるわけです。これが19世紀の中ごろです。

(スライド63)
 19世紀の末になりますと、赤レンガがはやるわけです。これも全部一戸建ての集合で、1880年代のオランダ風の破風がはやるのです。どんなことがあっても、決してアパートメントにいかなかったというのが、イギリスの人たちの非常に保守的なところです。

(スライド64)
 パリの人たちは違うわけです。1800年ぐらいについに積層型。積層型とはどういうことかというと、人の屋根の上に住むのです。僕の家の屋根にだれか別のやつが住んでおる。これを積層型といいますが、いわばアパートメントです。これはアパートメントの第1号です。これは1800年のものです。コロンヌという建物ですが、コロンヌというのは、列柱という意味です。

(スライド65)

(スライド66)
 リヴォリ通りを御存じですか。ルーブルの近くに物すごく長い建物があります。これはナポレオンが開発させたものです。長さは2キロぐらいありますけれども、世界で多分一番長い集合住宅ではないかと思います。これは1階と中2階とあって、店舗かオフィスになっている。これは2階というのか、3階というのか、階高が高いのです。お金持ちがここに住むんです。だんだん階高が小さくなっていって、貧乏人は上に住むわけです。エレベーターはありませんから1800年から1850年ぐらい、50年間ぐらいかけてできたものです。多分世界でも一番長い集合住宅ではないかと思います。
 これがアパートメントというものです。アパートメントというのは、できたときから複合ビルだったわけです。雑居ビルです。オフィスであるとかレストラントとか、金持ちの住宅から貧乏人の下宿屋までが1つの階段を共有するわけです。エレベーターはついていない。だから、パリで発明されたアパートメントは、実は複合ビルだったわけです。

(スライド67)

(スライド68)
 これはサンジェルマンです。どこへ行っても同じです。

(スライド69)
 どこへ行っても、3階のところにバルコニーをとって、坂道であろうと、こうやって続けていくわけです。これは1860年代の終わりぐらいだと思います。

(スライド70)
 これはパリのセーヌ川です。セーヌを挟んだ向こう側ですが、これはエッフェル塔から撮った写真ですけれども、10階建てぐらいまでいきます。パリで言うところのアパートメントはこういうものです。

(スライド71)
 中庭がありまして、すべて表に面するか、内に面するか、光をいかにして探るかという工夫の連続であります。

(スライド72)
 アメリカはそうではございませんで、アングロサクソンの人たちは、アパートなんて嫌いです。絶対に一戸建てでないと承知できないというのがアングロサクソンです。これは1830年代ごろのロンドンと全く同じような設置型のタウンハウスです。

(スライド73)
 ところが、アメリカもマンハッタンは土地の値段が高いでしょう。ロンドンみたいに優雅じゃないんです。ロンドンは、99年とかのいわゆる定期借地権ですから、まだいいのですけれども、マンハッタンはそうじゃないですから、土地の値段が高いのです。どんな大金持ちだって、前世紀末には一戸建てになんて住むことは不可能になったわけです。ついにアパートメントが初めてアメリカのマンハッタンに入るわけです。これは皆さんもよく御存じだと思いますが、ダコタハウスです。これは1884年にできたものです。これがセントラルパークに面しているところですけれども、これはまた後でプランが出てきますので、後で御説明します。

(スライド74)
 今でもこんな形です。これは1884年です。お隣がマジェスティックというアパートで、これが1930年ですが、超高層で30階建てぐらいです。

(スライド75)
 これは1902年ぐらいだと思います。アンソニアというアパートですけれども、これは17階建てです。パリでどうしても8階か9階ぐらいしか、それ以上に高いものは建てようと思ったら建つけれども、ある高さに規制したわけです。アメリカへ行くと、それをどんと規制が外れちゃうわけです。なかなかアパートになじむことはなかったのですけれども、やっぱり1900年ごろになると、土地の値段が高いし、どうしようもない。上に縦に住んでいくしかない。それでついにアパートメントにひっくり返ったわけです。その記念碑的なものです。これが1902年で、アンソニアという今でもきれいなものです。

(スライド76)
 これが今の姿です。17階建てです。これはカーテンウォールです。鉄骨造です。縦断面です。

(スライド77)
 これは1910年です。メトロポリタン美術館の向かい側が5thアベニューで すが、その向かい側で、5thアベニューの998番地という建物です。「998 5thアベニュー」というアパートですが、12階建てです。12軒入っています。ワンフロア1軒。250坪ぐらいです。女中の部屋だけでも10個ぐらいあるような物すごいものです。これがアメリカのいわゆる保守的な人たちに初めて受け入れられたアパートです。

(スライド78)
 これが何年か前に行ったときに写したものです。パリのアパートは1800年に始まったわけです。1850年代から80年代にかけて爆発的に普及したわけです。ニューヨークはそこから1880年代にようやく受け入れて、1900年の頭ぐらいから爆発的にはやったわけです。これが僕らが言うところのアパートメントということです。

(スライド79)
 これも1930年にできたサンレモというツインタワーの超高層です。これも30階建てぐらいのものです。

(スライド80)
 これも1930年です。マジェスティックです。

(スライド81)
 世界はこんなふうに17世紀から18世紀にかけては設置型のタウンハウスをつくってきたわけです。19世紀になって、パリが積層型のアパートを発明したわけです。むしろ20世紀になって、ニューヨークがそれをさらに超高層までつくった。今多分ニューヨークにあるコンドミニアム、アパートで一番高いのは80階建てぐらいがありますけれども、これはビルでは世界の奇形児みたいなものです。
 そういうようにして、世界の都市は基本的には19世紀に全部都市ストックをつくったわけです。しかも、それがかなり高密度な住宅という都市ストックをつくったわけです。日本も1930年ぐらいに割と景気がよかったのです。それにどんなものをつくったかというと、こんなものをつくったわけです。これが先ほど申し上げた大阪の長屋の典型的なものです。表にちょっと庭がありますでしょう。2階建てがあって、裏に裏庭がある。これが大体4戸1から6戸1ぐらいです。これが爆発的に、年間1万戸とか2万戸のペースで大阪でつくられたものです。

(スライド82)
 僕の都市における原風景は今のようなものです。ニューヨークへ行きますと、全く同時代に30階建ての超高層をつくっておったわけです。だから、その恐るべき同時代のある種の違いに慄然とすることがあります。僕らの原風景はこれであります。

(スライド83)
 これは昭和15年ぐらいですが、2戸1です。庭がイギリス風にいうと、セミデタッチドになります。ちょっと風変わりなオーナーさんだったのでしょう。これは割と有名な建物ですが、こういう長屋まで出現しました。
 中のプランはひどいもので、全く同じです。6畳、6畳、8畳と押入れがあって、床の間があって、和風なんです。和魂洋才というのか、何というのでしょうか。こんなものまで昭和15年代ぐらいには出現したわけです。

(スライド84)
これは香港です。
 ここからの話は少し混乱いたしますので、もう一遍少し復習いたしますと、世界の都市住宅は、僕らはどこからそれを受け取ったかよくわからないのだけれども、とにかく物事というのは金持ちから始まるのです。ロンドンのいわゆるテラスドハウス、スクエア、サーカス、あるいはクレッセントであるとか、みんな一戸建てです。これは大金持ちがそこに住むわけです。だんだん中流あるいは貧乏人タイプが普及していく。アメリカだってそうです。パリだってそうです。アメリカでも、うんと高級なアパートメントができるわけです。それが中流階級向けに、あるいは低所得者層にと、だんだん普及していくトップダウンの文化だったわけです。
 日本は、どうもそうではなくて、日本はついに戦前にあの手の集合住宅を実は受け入れていないのです。受け入れてないというより入らなかったのです。唯一の例外が、同潤会みたいな一部の動きがありましたけれども、金持ちが積層型の住宅に入るという歴史は日本は持っていないのです。
 では、僕らはいつ覚えたかというと、多分これは日本の住宅公団なり、東京都あるいは大阪市なりが3階建てか4階建てのコンクリートの市営住宅とか都営住宅とかいうのが昭和20年代にできましたでしょう。あれで初めてアパートメントというのを僕らは教わったわけです。
 ところが、とんでもない、それはヨーロッパの労働者階級向けにつくったものを初めて世界の文化だとして僕らは受け入れたわけです。だから、入ってきたときからボタンをかけ違えたままでスタートしたのではないかと思います。
 入ってきたときには、洋便器にみんなびっくりしましたね。それから、ステンレスの流しに皆感動したわけです。ダイニングキッチン、いすに座って飯を食うなどという、そんなことにみんな感動したわけです。ところが、まやかしは5年か10年かしたら、こんなものはしようもない、出来が悪いというので、みんな建売に流れたわけです。当然やと思います。
 だから、日本には、第1次大戦の後に開発されたヨーロッパの労働者階級向けのものがある種のモダニズムの運動として初めて戦後導入されたという時代おくれのものが入ってきたわけです。それをありがたがって受け入れたのだけれども、そんなものはどうしようもないというので、みんなあきらめて郊外へ出ていった。
 しばらくすると、今度は長谷工あたりがいわゆるどこへ行ってもある安物の分譲マンションを始めたわけです。心ある大人、あるいは金持ちクラスは、あんなものには住めるわけがないです。ついに日本では、ちゃんとした中流階級が集合して住むという文化がいまだにまだあらわれていない。みんなとにかく憧れは、建売でもかまへんから、郊外へ行って、セキスイのプレハブに住もうやというのが、日本の都市文化のわけです。
 ヨーロッパとかアメリカは、基本的に都心部から始まっているわけです。都心部の金持ちがああいうアパートメントに入って、それが中流階級に行き、労働者階級に移る。だから、日本はそうではなくて、どうもボトムアップの文化ではないかと最近思うようになりました。
 その一番いい例が、エレベーターのエレペットというのが昔ありました。昭和30年代にはやった既製のエレベーターです。それからもう1つは、パブリカという車が出たのを覚えておられます? あれが昭和30年代だったと思います。あれで初めて一般の若い人でも頑張ったら車を買うことができたわけです。それがカローラになり、何とかになり、クラウンになる。ボトムからだんだん上がっていくというボトムアップの文化のわけです。欧米の文化はトップダウンの文化のわけです。だから、どっちがいいということではありませんで、ひょっとしたら、日本は来世紀にボトムアップで何かとんでもないおもしろい集合住宅なり、あるいは都市の風景を発明するのではないかという淡いを期待を持っておりますけれども、やばいかなという気もいたします。
 いまだに日本は集合住宅でちゃんとしたものができていない。たまたま幕張の方に幾つかできたりして、僕も幾つか見に行きましたけれども、どうもやっぱり出来が悪い。何で出来が悪いんかいなとしげしげと考えてみると、これは多分建築基準法が悪いんだという結論になりました。もう1つはエレベーターが悪い。この2つが犯人や。どっちも建設省です。建設省の方いらっしゃる? いなければいい。(笑)建設省が犯人です。
 それは何かというと、いろんな規制があります。規制緩和してはならないものを緩和しちゃったわけです。それはどういうことかというと、開放廊下がありますでしょう。開放廊下に面して寝室があって、そこから採光と換気をオーケーにした。こんなアホな建築基準法がまかり通るのは、世界広しといえども日本だけだと思います。ちょっと下品なことを申し上げて恐縮ですが、夜遅く帰って、廊下を歩いていて、どこかの窓でひょっとしたら、御夫婦がセックスしているかもしれない。その声さえ聞こえるようなものが合法であるような住宅などというのがあっていいものでしょうかと思います。これがまず第1番目のことです。
 それから、経由採光ってありますでしょう。居間があって、もう1つ部屋があって、それが採光できるものやったら、それは構わない、そんな緩和をしているわけです。だから、部屋の独立性さえ守れない。プライバシーもない。換気の独立性もないようなものも建築基準法がオーケーと言ってしまったわけです。
 だから、今いろんなディベロッパーが超高層のマンションをいっぱい建てています。超高層でも同じです。開放廊下で、そこに出窓があって、風の強い日なんかはすごいんです。行かれた方はあるかもしれないけれども、表の玄関を開けようとしても、なかなか開かない。開いたと思ったら、中の扉がバーンと音を立てて閉まるみたいな、とんでもないものです。あんなものを幾らつくったって、来世紀へのストックになるわけがないんじゃないかと僕は本当にそう思います。これは建設省が犯人だと思います。
 戦後すぐの貧しい時代に、2階建ての鉄骨製階段でチョンチョンと上がっていくようないわゆる文化住宅みたいなものができましたでしょう。基本的にあれがコンクリートになって、上に積んだだけの話です。日本のビルディングタイプは、そんな貧しいところからスタートしていて、全部なし崩しにオーケー、オーケーと建設省が許可してしまった。だから、日本で何ぼ都市住宅をやったって、あの建築基準法をちゃんとやりかえなければ、どうしようもない。これが1点です。
 もう1つは、エレベーターです。あれは毎月1回点検が義務づけられています。エレベーターメーカーは、三菱電機であろうが、OTISであろうが、何であろうが、みんな製造は赤字です。メンテで儲かる。だから、三菱電機そのものは、エレベーターの製造に関しては真っかっかです。菱電サービスからのバックが入って初めて成立している。何であんなものを毎月1回定期点検する必要があるかいな。車をごらんなさい。自分でエンジンを持って走って、車検が3年ですか。レールがあって、上からぶら下げて、上がったり下がったりしているだけのエレベーターを何で毎月一遍点検せなあかんのか。あれをフルメンテいたしますと、10階建てぐらいですと、大体10万円ぐらいかかります。それに20軒いるとしたら、1軒あたり5000円につくんです。そんなアホなお金が何で出せるということで、世の中のディベロッパーは大体50戸から100戸に1台ぐらいのエレベーターしか接地しない。ということは、日本では、廊下を延々歩いていくタイプの集合住宅しかできないことになっているんです。建築基準法がそれを悪くしている。エレベーターメーカーは、ある種の既得権に乗っかって、製造赤字、メンテ黒字でやっている。こんな日本で新しい都市の集合住宅ができるわけがないと僕は思っています。
 みんな建設省が悪いといって、去年日本都市住宅学会があって、建設省主催のところで同じことを言ったのだけれども、全然怒りもされない、「ハハハ。そうですね」と言われて、それで終わりでした。(笑)


これからに向けての試み

 世界の都市住宅がどんな苦労をしているかということについて、ちょっと見ていただきたいと思います。

(スライド85)
 これは香港です。

(スライド86)
 これはプランをちょっとごらんいただくとおもしろいのですけれども、出っ張りと引っ込みをつくって、ここに窓が入っていくわけです。だから、必ずどんな部屋もバスルームに至るまで表に直接面している。香港みたいな住宅不足でウンウン言っているところでさえも、香港の住宅公団はちゃんとやるべきことはやっているわけです。

(スライド87)
 これは一番新しいコンコードプロジェクトという1999年から供給される最新型の住宅です。これは58平米ぐらいです。58平米の3LDKです。3つベッドルームがあるでしょう。ここにバスルームが2つあるんです。飯を食うところがあって、キッチンがあって、これが全部表に顔を出しています。ここに香港名物の物干しさえちゃんとついています。これだけの性能を確保した3LDKは日本には存在していない。

(スライド88)
 あれを40階までプレハブにして積む。40階壁式で積んで大丈夫かいなと思いますけれども。

(スライド89)
 これはたまたま行った沙田という人口70万ぐらいのニュータウンです。そこの分譲マンションのチラシです。そのプランを見て仰天しました。

(スライド90)
 これはワンフロアに8つあるのです。これは30階建てぐらいですから、おそらく100メートルぐらいです。ここにスリットが入るわけです。寝室が3、全部表に面している。ここがリビング、ここにバスルームが2つありますね。これはちゃんとこっちに面しているんです。ここにキッチンがあって、それもちゃんと面している。あそこにキッチンがあって面していて、屋外に必ずサービスバルコニーがついている。これが全く同じプランで8つあるわけです。
 こんな性能、バスルームも表に出ましょう、ベッドルームも表へ出しましょう、キッチンも表へ出しましょうと、やるべきことは全部を追求したら、こんなプランにならざるを得ない。日本でこんな建物をやると、外壁率が高過ぎるとか、何とかかんとかいってディベロッパーは絶対させてくれないと思います。

(スライド91)
 これが、先ほど申し上げた1880年のダコタです。これは何をやっているかといいますと、ワンフロアに8つあるんです。8戸1です。ここにエレベーターと階段があります。だから、ここに1軒、ここに1軒。ということは、このエレベーターと階段をこの2軒が共有しているわけです。おまけにすごいのは、これはサービスのエレベーターと階段まであるんです。だから、常に1軒の家は必ずこのエレベーターとサービスエレベーターにつながっている。だから、2戸1型が4つ並んで8戸で1つの建物が成立しているわけです。どの部屋もこっちに面するか、こっちに面するかというプランを実現しています。これは8階建てです。だから、これをやろうとすると、このエレベーター1台が16軒にしかサービスしないわけです。日本だったら、エレベーターのメンテ代だけでアウトになるというものです。

(スライド92)
 これも中庭に依存しています。バスルームから何から全部中庭に入れていますでしょう。中庭依存型の建物は1つのやり方です。

(スライド93)
 もう1つは、先ほどスライドで紹介した17階建てのアンソニアという1902年のアパートメントです。これが1軒、これが1軒、これが1軒。何戸あるかわかりません。すべての部屋を表に面するためには、こんな入れ込みをつくらざるを得ないわけです。だから、外壁へえぐり込んで、香港と全く同じプランです。香港型と同じことで、逆に香港はアメリカ型を追求したのだと思いますけれども、要はすべての部屋、居室なりバスルームを表に出すために、こんな苦労をしているわけです。1902年当時にニューヨーク市はこれぐらいの規制をかけているわけです。
 ところが、日本の建設省は、戦後の1990年代に、まだこんな規制をかけない。開放廊下に面して窓があってもいいですよ、そんなアホな建築基準法をやっている国は、僕は本当に信じられない思いがしています。
 水は低い方にしか流れませんから、ディベロッパーは、それを自主的にやろうなどということは絶対にしない。

(スライド94)
 名前は忘れましたが、これも1905年とか1910年とか、それぐらいです。このすさまじい切れ込みを見てください。香港のプランと全く同じことをやっています。

(スライド95)
 昔の1910年代ぐらいのニューヨークのアパートはみんなこうなっています。

(スライド96)
 僕らもちょっと考えたわけです。そしたら、あの開放廊下型のあんなアホな設計はうちの事務所ではできない。都住創でやってきたことは、小さいでしょう。みんな2戸1です。2戸1でエレベーターが1台というとてつもなくぜいたくなことをしてきたわけです。これはたまたまバブルの最中にうちの事務所でやった分譲マンションですけれども、当時のいわゆる億ションです。2戸1を3つ並べたのです。それぞれにエレベーターが入っている。億ションですから、エレベーターのメンテ代ぐらいは別にどうでもいいだろうというので、6階建てか7階建てか、14〜15軒で1台のエレベーターを持つ。管理費に少し金がかかってもしようがない。2戸1を串刺しにしたわけです。
 さっきのダコタアパートも、よく見てみると、エレベーターと階段を共有した2戸1を串刺しにしないで1棟を取り囲んだわけです。そうすると中庭型ができた。この場合は、敷地が細長かったので、2戸1の建物を3つ並べたわけです。

(スライド97)
 これは模型の写真です。

(スライド98)
 バブルの最中ですから、ぜいたくな材料ばかり使っています。

(スライド99)
 どういうことかというと、こういうことです。南面で見ましょう。2戸1、2戸1、2戸1になっています。下のラウンジは共有している。そういうタイプのものです。

(スライド100)
 これは去年竣工したものですが、大阪府営住宅で、全部で285戸あります。それも基本的にすべての居室を表に出すということで、こういうえぐり込みをつけて、フロンテージをたくさんとるために雁行させたわけです。これが第1期が去年竣工しまして、今第2期は定期借地権で分譲するということを大阪府の公社がおっしゃっていまして、今ここの設計をやっています。

(スライド101)
 中の詳しい図はありませんけれども、ここにも顔を出す、ここにも顔を出すというタイプです。だから、香港のまねです。

(スライド102)
 これは模型の写真であります。これは模型のとおりに、去年竣工しました。役所の仕事を設計するなどというのは、僕は生まれて初めてやりました。

(スライド103)
 これは廊下側の風景です。

(スライド104)

(スライド105)
 これはでき上がった写真です。自転車置場にえらく金をかけ過ぎて、えらい怒られました。

(スライド106)
 これの切り込みがあって、この奥の方に窓がいっぱいあるわけです。だから、香港型あるいは1910年ごろのニューヨーク型であります。

(スライド107)
 あの自転車置場の屋根にえらいお金がかかりました。怒られました。

(スライド108)

(スライド109)
これは今また設計しています第2期の方の定借でやるタイプのものです。

(スライド110)
これはここに切り込みがありまして、開放廊下ではあるんですが、こっちには窓が1つもありません。全部こっちに面しています。3LDKであろうが、4LDKであろうが、全部こっちに面しています。

(スライド111)
 どういうプランかといいますと、例えば、この家でいきますと、寝室が3つありますでしょう。キッチンがこのサービスバルコニーに面しているわけです。だから、これは中廊下でも成立するんです。
 このプランはどこから来たかというと、基本的にニューヨークの昔のこういう切り込み型のまねであります。ともかくすべての部屋を表に出そうとすると、出っ張り引っ込みをつくらざるを得ない。それを極端にやったのが香港のものです。僕はあそこまで極端なことはできないので、この程度のことで、中廊下さえ成立するよというプランです。
 スライドはこれだけです。


エンドユーザーとつながることの重要性

 欲張って3つの話をきょうは全部させていただきました。僕らがこの20年間にコーポラティブという名のもとに何をやってきたかということと、世界の都市住宅は一体本当にどうなったのかということが、僕の今の最大の関心事は今でもそこにあります。それでは、そういうことを知った上で、僕らが都市に高密度な共同住宅を供給していくときに、どんなことを考えることができるんやろうかという3つの話をきょうはまとめてワンセットでお話ししたわけです。
 僕の真意は、ディベロッパーと仕事をしようが、役所と仕事をしようが、あるいは仲間内の人たちを集めて一緒に住宅をつくろうが、そんなことはどっちでもいいんです。とにかく都心に高密度な新しい日本型の共同住宅ができへんかいな。それはアメリカでもイギリスでもフランスでも、100年前に成立している。あるいは、もっと言えば、200年前に成立しているわけです。それがようやく日本でこれだけ豊かになって、今ちょっと不景気ですけれども、もうちょっとしたら回復してくるでしょう。それで今まで日本の建設省が許可してきたみたいな、あんなアホなもの、何ぼ建ててもあかんのではないか。結局建築家が頑張って、こんな話をクライアントに説得するのか、あるいは入居者を全部いきなり集めてしまって、その人たちに直接やるか、道は非常に困難ではあるのですけれども、やはりここはひとつ建築家が頑張らんとしようがない。
 それから、ディベロッパーも勉強不足です。ディベロッパーの人たちは勉強なんて何もしていない。お金勘定だけしかしていないですから、売れるか売れないか、何ぼ安くなるんねん、それしか考えてくれません。となったら、僕ら建築家が頑張らぬとしようがないのではないかとずっと思っていました。
 もともとコーポラティブ住宅を始めたきっかけは、都心に住みたいと僕らは思ったわけです。住みたいと思ったけれども、ろくなものが供給されていない。それだったら、自分でやらんとしようがないやないかと思ったわけです。
 多分こういうことやと思うんです。建築って、大体3人関係者が集まる。どういうことかというと、エンドユーザーがあります。それから建築家があります。それから、もう1つ、代理人がいると思うんです。どんな建築でも、例えばオフィスビルの設計をするとします。建築家の方に発注する社長とは話をします。あるいは、ディベロッパーとは話します。だけど、そこで働くオフィスの人たちとは決して話をすることはないわけです。あるいは、分譲マンション、その発注する方とは話をさせていただきます。だけど、エンドユーザーに会うことなんて絶対ないわけです。これが建築です。3人関係者がいて、建築家とエンドユーザーの線が切れているわけです。これが建築というものです。
 1つだけそうじゃないものがあるのです。それは一戸建ての住宅です。建築家はみんな夢中になって一戸建ての住宅をしますでしょう。あれは代理人がいないんです。エンドユーザー兼発注者と建築家と2人しかいないわけです。だから、2人でしか話をしないで済むわけだから、どんどん進化するわけです。日本の建築家は非常に優秀ですから、世界に冠たるびっくりするような住宅をつくることができるわけです。安藤忠雄氏なんかも、そんな領域から世界に飛び立ったわけです。人によっては、余りに親密にクライアントと話して、その奥さんとできてしまうなんていうアホな建築家も中にはいらっしゃいまして。(笑)とにかく代理人を介さないで、エンドユーザーと直接話をする。
 そういうふうに考えてみると、車はどうか。あるいは家電製品はどうかとなるんです。これも、例えば、車をデザインなさるトヨタの技術者が設計しているときに、エンドユーザーと会うことなんかないですね。それでは、エンドユーザーとそういう製品とはどんなレスポンスでできているかというと、これは買う買わないの2つです。だから、恐るべき市場の原理にさらされて、毎年身を削る思いで家電製品も車も供給されてきているわけです。3年か5年で買いかえるから、どんなすばらしいパンフレットを見ても、1回目はだませます。2回目はもうだませないです。だから、エンドユーザーというのは、すごく強烈な批判者でもあるわけです。買う買わないというチャンネルを通してメーカーは鍛えられるわけです。
 ところが、こと住宅産業に関しては、基本的には1回です。分譲マンションのきれいな分厚いパンフレットを見て、それにだまされて買いますでしょう。35年のローンがついているじゃないですか。もうすべて終わり。「ああ、しもた」と思って、次に買いかえるときは、エンドユーザーももう少し賢くなっていると思う。だけど、一生一回だと、毎回新しいお客さんをだますことができるわけだから、メーカーは絶対に努力しないでいいわけです。買う買わないのレスポンスが働かない珍しい業界が我々の住宅産業ではないかと思います。
 変な三角関係と話しました。進化させることは、買う買わないの論理ではもう無理なわけです。それでは、建築家が最終のエンドユーザーとつながる道はないか。一戸建てのように、幸せな関係が複数にしたらどうなるのかというのが、コーポラティブハウスだと思います。それが3人であろうと、5人であろうと、100人であろうと、それはいいです。とにかく建築家はいきなりエンドユーザーと話をすることができるわけです。こんなキッチンにしたいとか、あるいは寝室はこんなにしたいとか、リビングはこんなにしたいとか、エンドユーザーの人はみんないろんなことを考えられていると思います。
 ところが、マンションを買う人は、建築家とつき合うことなんかないわけです。ただパンフレットを見るだけでしょう。それがそうではなくて、ラフな図面なんかを出してあげて、何でもできるよ。でき上がった建物を見に連れていってあげるとか、過去にはこんな例がありましたよとか、ちょっと教育するわけです。お客さんを教育するということは、自分で自分の首を締めるわけです。今度は高い要求を持ってくるわけですから、余り教えないで、なあなあで済ました方が、本当は僕らは楽ですけれども、それではおもしろいものはできないので、奥さん方を教育するわけです。大概主導権を握っているのは女性です。この家は男性が主導権を握っているか、女性が主導権を握っているかをすばやく見抜かないと、やはり強い方につかないとやばいですから。(笑)そういうにおいをかぎとらねばならないわけです。
 そうやって物をつくっていくというのは、考えてみたら、都心の住宅に1軒1軒違うデザインにするなどというのは、とんでもない変な出来事です。だけど、そうでもしないと、まともなものは供給されていない。おまけに建築基準法が後押しして、建設省が緩めるだけのものは緩めてしまって、今度は規制にかかるとなると、消防とかいわゆる防災に関してはむちゃくちゃきついわけです。何でそこまでせんとあかんねんというぐらいむちゃくちゃ規制がきついわけです。こと開放廊下とかエレベーターの問題については、むゃちくちゃ緩めてしまっている。わけのわからぬ行政が日本の建設省だ。
 余談になりますけれども、消防の意思決定をしている人たちと建築基準法の指導課の窓口に座っている人たちを毎年ロンドンとかパリとかニューヨークに送ってあげて、一体都市住宅はどうなっているのという勉強をさせたらいいと思うんです。建設大臣なんかが外遊してくれたってしようがないわけです。あの人たちは日本にいればいい。本当に窓口をおやりになっている人が一体世界の都市行政はどうなっているかというのを、視察団を送るのに年間1000億ぐらいかけたって、僕は高いとは決して思わない。そ の費用はみんな建設会社が出せばいいじゃないですか。1社1億ずつぐらい出せば、2000億ぐらいすぐできるわけで、それでなるほど、世界はこんな努力をしているのかということを担当の窓口の人に見てほしいと僕は本当に思います。建設大臣なんか、どっちでもいい。それほど日本の都市住宅は変な状況になっている。変な状況になったから、自分たちでやらんとしようがない。やらんとしようがないとなったら、エンドユーザーと直接つながんとしようがない。というのが、もともとのきっかけであります。
 やっているうちにある種の人間関係にはまっていくわけです。これはなかなかおもしろいですよ。住宅の相談に乗っていると、その家族が僕らのことをある種の権威と思ってしまうわけね。何から何まで御相談に見える。離婚の相談に乗ったことも幾つかありました。何から何まで教えてくださいというわけです。もめている夫婦を呼んで、お父ちゃん、嫁さんにちょっと向こうへ行け言うて、弁護士のかわりみたいなことをして、無事に別れさせてあげたこともありました。(笑)
 よく言うのだけれども、都住創に入っている人たちは低学歴です。どうしてかといいますと、高学歴の人たちは、みんな三菱商事とか三菱銀行とか、成績の優秀な人はそのときに一番いい会社にみんな就職できるわけです。学校の成績が悪い人は落ちこぼれていくでしょう。落ちこぼれるけれども、絵を描くのが上手だとか、文章を書くのが上手だとかいうのが、例えば、広告宣伝を始める。あるいは、コピーライターになる。マイナーな職業に就くわけです。今だと、博報堂とか電通はトップ企業ですけれども、30年ぐらい前の広告宣伝は一段低いものでした。それがそういう落ちこぼれからスタートしたわけです。それがだんだんお金が儲かってくるじゃないですか。そうしたら、高卒の社長さんが大卒の社員を照れながら面接するなどということをしょっちゅうやっているわけです。僕らのオフィスのあのビルの中にもそういうオフィスがいっぱいありますから、ようひやかしに行くわけです。退屈したら、よその事務所へ行って、お茶出せ、コーヒー出せと言うて遊んでいるわけです。そういうふうに低学歴でのし上がった人の集団みたいなところがあります。そういう落ちこぼれていった人が新しいものをつくる能力があるのではないかと僕は思います。
 日本で都市の集合住宅をつくるのは非常に難しいです。だけど、今は既製品でつくるのがだめならば、情報をどこから絞り出したらいいかいうと、エンドユーザーから情報を絞り出す以外にないのではないかと僕は思っています。日本の車だって、カメラだって、家電だって、あれはみんな日本のエンドユーザーが育てた。どんなに言われてもだまされないで、次は買わないぞという恐るべきレスポンスをしたわけです。そういうふうに、日本の商品を進化させたのはエンドユーザーです。そのエンドユーザーのパワーが唯一働かない我々の業界は一体何なのか。どうにかしてそのパワーを僕らの業界に入れたらどうなるかというのが、基本的に僕が考えるコーポラティブなわけです。
 田舎の方で安くできる、みんなで集まっていけば経費が引けるからできるよという何か貧乏くさいコーポラティブハウスはあちこちにありますけれども、あんなことは僕は絶対にしたいとは思わない。もっともっとすごいことを本当はしたい。土地の値段が、大分下がってきましたから、また再開しようかなと思っていまして、今いろいろ仕掛けを考えているんですけれども、次はこんなことをしたいのです。
 10軒や20軒のタワーをところどころにつくったって、何の影響力もないです。500軒とか1000軒ぐらいのところで、どんな共有施設をつくろうかということをやるにはどうすればいいかといろいろ考えしていまして、あるとすれば、それも都心部でやりたいわけですから、公益法人が持っているような土地、例えば、JR、あるいは、大阪ですと、関電とか、あるいは大ガスとか、そういうところが結構土地を持っているんです。その人たちに定借で50年間預けろ。50年したら返したるがなということで、そこで20軒でこのぐらいのタワーをいっぱい建てていって、足元でそれが20本も集まれば、何かごっついおもしろいことができるんじゃないかということを今ひそかに画策していまして、4〜5年前に都住創はやめたという宣言をしたのですけれども、今ひそかに復帰をねらっているところであります。
 そのためには、少し見聞を広げておかないとだめなので、日本だけ見ていてもだめで、世界の都市住宅も常に目配りをしておかぬといかんかなと思って、毎年1回か2回ぐらい海外へ出ていって、根掘り葉掘り、どの都市へ行っても、僕は全部歩くんです。1日大体15キロとか20キロぐらい歩きますけれども、なれてくると、新しい都市へ行っても大体勘でわかります。どこに行けばどんな構造になっているかはすぐわかります。ニューヨークにはニューヨーク型があるし、香港には香港型があるし、ウィーンにはウィーン型があるし、あらゆる都市で微妙にみんな違うのです。だから、そんなことが大阪でできたら、きっとおもしろいのではないか。建築家冥利に尽きるのではないか。僕も元気に活躍できるのはあと10年ぐらいのことだと思いますので、あと10年ぐらいは何とかこの都住創をもう一遍立ち上がらせるということをひそかに画策しています。
 とりあえずお話を終わります。(拍手)



フリーディスカッション

○司会(谷口)
 どうもありがとうございました。
 時間がまだありますので、会場の方々からいろいろ御質問など伺って、また中筋さんの話を伺いたいと思います。御質問のある方、どなたでも自由にどうぞ。

○明嵐(三菱地所)
 二日酔いのところ、どうもお疲れさまでした。(笑)単純な質問で申しわけないですけれども、コーポラティブは20軒ぐらいがベストだとおっしゃっていましたけれども、その20軒ぐらいで、どのくらいの時間がかかるものなのか。設計というか、人間がある程度集まってからでいいのですけれども、集まって建物が仕上がるまで大体どれぐらいかかるのかということをまず1点お聞きしたい。
 お話の中で、ちょっと個人的に興味があったのですけれども、都市に住むルールをわかっている人じゃないと受け付けないというコメントがあったのですが、できればルールの極意をちょっと教えていただきたいと思います。その2点をお願いいたします。

○中筋先生
 なかなか手厳しい御質問ですね。僕らの場合は、物すごい離れわざをします。というのは、都心部で60坪とか80坪の土地を手に入れて、僕らは気に入るような場所しか絶対に買わないんです。そういう土地は、割と売り手市場なわけです。不動産屋のおやじがいつも「こんなのありますよ」と持ち込んでくるわけです。これいいなと思った瞬間にハガキを出すわけです。「これ買うよ」と不動産屋さんに僕が宣言するわけです。相手に渡すわけです。「明日会合を持ちます」というハガキをバッと送るわけです。そうすると、大概20人か30人ぐらいの人が集まるんです。大体こんなふうなものができて、大体こんな金額でできるんじゃないか、どうしようという話を即決でやりましょうとなって、例えば、数百万ずつぐらいかき集めたら、20人いたら2000万ぐらいになります。それぐらいの金は即座に集まります。それでとりあえず手付けを打っちゃう。手付けを打っておいてから、決裁が3カ月後とか、そこまでに銀行と話をしまして、その土地を担保にして、半分貸してくれ。それは建物ができ上がったら、長期ローンに切りかえましょうということで、半分の土地代だけを銀行から融資してもらうわけです。残り半分は、みんなタンスの中から引きずり出すか、親や親戚から借りてくるか、場合によっては、うちの事務所もちょっと余っている金をそこへ300万ほど出してあげるということさえいたします。
 それで土地を押さえたら、もうこれで半分終わったも同じなわけです。あとは、先ほど言ったみたいに、延々何回ぐらい会合するでしょうね。本当に建設組合が発足するま で、黙って10回ぐらいはやるんじゃないでしょうか。「私は8階に行きたい」とか「私は2階だと嫌だ」とか、みんなおっしゃるわけです。これは大阪のことだから、金で解決しましょう。(笑)8階に全部人気が集まってしまうと、それをプラス坪3万円ぐらいにするとか5万円ぐらいにする。そのかわり安いところができるでしょう。安いところはマイナス5万円とかになるじゃないですか。若い人なんかはちょっと呼んで、「そんなアホなことしなさんな。こっちに行った方が安いよ。絶対むだやで」と根回しをするわけです。(笑)そういうのを2〜3回やりますと、大体落ちつくところへ落ちつきます。
 面積がうまいことはまらへんときは、くっと2階建てをつくったりするわけです。上に5坪ほど余っている。残った下の20坪と5坪とを階段でつないだら25坪になるやないか。ある種のジグゾーパズルみたいなことをやるわけです。それをみんなの目の前でやるわけです。内緒ではようしません。みんなの前で堂々とやりますでしょう。お金勘定もやるから、私は本当は6階に行きたかったのに、だれかさんに譲って、私は3階に行ったということはもう言えないわけです。
 そういうみんなで集まる会を大体10回ぐらいいたします。と同時に、1人ずつ呼び出して、場合によっては、その人の家を見に行きます。どんな生活をしているか。偉そうなことを言うてる割にはくちゃくちゃなところに住んでいる。
 オフィスも同じように設計しますから、オフィスも必ず見に行きます。うるさそうな、生意気なことをいう人の家は必ず見に行きます。結局僕の方が設計的には絶対わかっているわけですから、かといって、押しつけたらやっぱり反発されるから、あたかもその人が思いついたかのようにさせてあげるのが難しいところです。(笑)これはちょっと時間がかかる。
 不動産屋が土地を持ち込んできて、着工するまで、最短で半年だと思います。普通は10カ月ぐらいだと思います。工事期間が大体1年ぐらいかかりますでしょう。あと融資やら何やかんやでぐちゃぐちゃしているから、ほぼ2年じゃないでしょうか。全部で2年ぐらいだと思います。
 そうこうしていたら、みんなある種興奮状態になっちゃうわけです。というのは、自分で初めて家をつくる。僕を含めて、説明の担当者から構造の担当者から、家具の担当者までいますから、「どうしよう」と言うたら、全部答えてくれるわけですから、舞い上がってしまうわけです。僕らがそれと一緒に舞い上がっていたらだめですから、冷静にならんといかんわけです。(笑)まとめてパーティーをするとかいうようなことをして、結局そうやってAさんのところの奥さんはこんなだけれども、ご主人はこんなで、子供がこんなでと、みんなお互いにわかってしまうわけです。わかったら、あとはうまく動き出すじゃないですか。そのために必要のない会合とかもどんどんやるわけです。割と出ていくと、みんなでワアワアやって、うちでビールを飲むのが気がねな人は、ちゃんと持ってきてくれはります。(笑)毎回ウイスキーをぶら下げてきてくれるような奇特な方もいらっしゃるし、大体そんなことだと思います。  それからもう1つは、都心で、都心でというときは、やはり譲り合わねばならないわけです。というのは、住宅の中で一番自由度があるのが郊外の一戸建て。それも300坪ぐらいの敷地で、ポンとパビリオンみたいなのを建てる住宅、これはもちろん一番自由度があります。だけど、8階とか10階とか12階とか積んでいくわけですから、自由度は非常に限られるわけです。
 例えば、全部フリープランですけれども、だれかの寝室の上にトイレをつくるのはやはり御法度にしておかないと、音が漏れたりする。その辺を少しお互いに譲り合わぬといかぬわけです。だから、そこらが都心で生まれて育った人は、戦前の長屋にしろ、一戸建てにしろ、結構窮屈なところでみんな暮らしていたんです。だから、少しずつ譲り合うことに当然なれています。
 それから、なれないホワイトカラーの人は、メリットに舞い上がるんです。デメリットには敏感になって、自分の100個持っている要求が80しかできないときには恨みに変わるわけです。悪口を言いまくる、できなかった。その20のところに焦点がいっちゃうわけです。80のこんないい話があるじゃないのと言っても、こっちの方ばかりで落ち込んでいくというタイプの人は、基本的に公務員もだめですね。それから、出世コースのサラリーマンもだめですね。僕の経験から言うと、落ちこぼれサラリーマンはいい。(笑)これはやっぱり苦労しているもの。それから、落ちこぼれの役人とか、変な役人さんっているじゃないですか。皆さん方もつき合っていると、こいつは役人にしておくのはもったないというのが時々いるじゃない? そういう人たちからは物すごくおもしろい意見が出てきたり、みんなを取りまとめたりとか、だれかがわがままなことを言い出したら、「そんなことは言わんと、ここは少しずつ譲り合いましょうよ」ぐらいのことはちゃんと言ってくれるわけです。

○大熊(大熊都市計画事務所)
大熊です。
 久しぶりにおもしろい話を聞かせていただき、どうもありがとうございました。1つこれから先の話で、前の質問とちょっと関連するのですけれども、エンドユーザーとコンタクトをしながら個々の住宅をつくっていくというのはわかるのですけれども、都住創の中で、ホールをつくったりしていますね。そういうコミュニティ施設みたいなものは、どちらサイドから出てくるかわからないけれども、それは住民の方から出てくるかもしれないし、あるいはヘキサの方から提案したりしているのかもわからないですけれども、そういうものは、例えば最後にお話しになった、ある程度広いところで、ユニットは20戸ぐらいでつくっていくとすると、それだけでは町にならないだろうということで、いろんなものをつくっていく動機が出てくると思うんです。今までだと、それは行政サイド、あるいはパブリックサイドで提供するという形だったのでしょうけれども、中筋さんの言っているギャップは私も同感です。そういうことで考えていくと、そういうものまでも自分で供給していくとか、あるいはもう少し広い範囲のコミュニティサイドの主体がつくっていくことができるといいなと思っているわけですけれども、その辺のお考えはどうでしょうか。

○中筋先生
 もともとこんなプロジェクトが一番最初に1個実現して、テレビは来るわ、新聞は来るわで、僕らも舞い上がったわけです。1軒か2軒できたらいいわと思っているのが、10年ぐらい続きますと、やっぱり至近距離に全部あるわけです。みんなが何となく友達になっていきますでしょう。僕はみんな知っているわけです。こうは知っているけれども、横には割と知り合うチャンスが少ないんです。何とかこれを横につなげないか。入居者が事務所によく遊びに来るんです。晩になったら、うちは大体6時ごろから酒を飲んでいますから、大概だれかほんじゃか、ほんじゃか言うて酒を飲んでいますでしょう。何かそんなものができへんのか。むしろヒントが出てきたのは住民サイドだったと思います。
 それで聞いた瞬間に、僕はひらめきました。これはセンターをつくったらええやないか。それも容積の外でつくったらどうやと考えるわけです。(笑)建築費だけで行こうやないか。だから、都住創センターも、もともとあんなものは、実体のないものを実態あるもんやという申請にしておいて、ようあれで下りたと思いますけれども、それでもやっぱり4000万ほどかかりました。みんなで4000万ぐらい集めてみせると豪語したんですけれども、結局2000万しか集まらなかった。それでもよう2000万集まったもんやと思います。2000万をサポートした人が何人いるかな。70〜80人ぐらいですかね。それで株式会社をつくったんです。株式会社をつくって、みんな株主にしちゃったわけです。それで残りの足らない2000万を銀行から借りて、いまだにまだ返済していますけれども、やっている。  ただ、やり出したころは、まだそのぐらいしか見えないんですね。これで20年やっていますと、やっぱりそんな小さいセンターをつくるだけでは、町起こしにもならへんやないか。僕らの持っているセンターは、釣鐘町ですけれども、その釣鐘町ではみんな知っています。うどん屋のおやじもそば屋のおやじも、ここに都住創センターがあるのはみんな知っています。
 だけど、一般の人はなかなか入りづらいような感じがするでしょう。だから、もっとオープンなものでないとあかんのではないかと思い出したのですけれども、やっぱり僕らの力量では不可能です。それで、一遍休止している間に、またちょっと今ムクムクと考えが出てきまして、もうそんなせこい話ではなくて、もっとすごい話、ということは、 全部で1000億ぐらいのお金でしょうか。例えば、1件1億として1000人で 1000億。1000億も要らぬか。300億か500億ぐらいあれば、何か町が1個できるんとちゃうか。それも役所を絡ませない。全部中でやった方が、きっと実があるものになるんじゃないかと思っていまして、何となく僕の頭の中にイメージはあるんですけれども、これからいろんな人と話し合いを始めたいなと思っています。
 基本的には、今までの都住創にお入りになっている人たちが今でも全部僕らとつながっていて、自主管理ですから、管理組合をみんなでつくっています。それを全部僕らはチェックしているんです。大阪に17棟ありますが、年に1回10月末にその管理組合の役員さん方が大体2名か3名です。それが全部うちの事務所に集まっていただいて、年に1回会議をするのです。来年はこう変わりますとか、どの棟の管理費の積み立てが少ないんじゃないかという情報公開を17棟がお互いにするわけです。それが前半でありまして、あとはまた昔の都住創みたいな、ああいう会合をやりたいねとみんな言っている。きっとあれはおもしろかったんでしょうね。僕らも毎年相手変われど主変わらずですから、僕らはずっと毎年やっていますでしょう。1回でき上がった人たちは、1回おもしろかったやつは2年間おもしろいでしょう。だけど、それでプツッと切れるわけで、またやりたいとみんな言うわけです。だから、ある種の同窓会やと思います。
 一番強烈なコミュニティというのは戦友やと思う。生死をともにした人たちは、いまだに「同期の桜」を歌って、まだ泣いたりしているじゃないですか。ある共通の出来事を共有したコミュニティは、ずっと続くと思うんです。学校の同窓会なんかそうですね。小学校の同窓会なんか開いたら、つるっぱげのおやじか出てきて、「おまえ、だれや」というのがつながる。そういうのが続きますでしょう。やっぱり体験が重ければ重いほど、あと長いわけです。
 都住創の建物にしても、2年間、3000万か5000万か、下手したら8000万ぐらいいきますか。それはきつい決断ですよ。お互いにワアワアと話をするわけですから、これは強烈な同窓会ができ上がっているわけです。そういうおもしろかったのをまたやりたいとおっしゃる方が結構たくさんいらっしゃるんです。しばらく中断していたんですけれども、都住創センターで毎月1回集まるというイベントを始めたわけです。それがちゃんと2カ月に1回記録を差し上げています。今大熊さんに差し上げたのを見せていただけますか。「都住創ニュース」を毎月1回発行していまして、僕らも時々文章を書いたり、「こんなことがあんねんな、今度のイベントはおもしろそうやから行ってみようか」ということがあって、何とか細々と今つながっています。このエネルギーをもう一丁上の段階に持っていくにはどうすればいいでしょう。また大熊さんにもいろいろと教えを賜りたいと思います。役所の力をかりないで。(笑)

○泉(都市環境計画研究所)
 都市環境計画研究所の泉でございます。大変興味深いお話ありがとうございました。
 ちょっと変わった質問で、お答えにくいかもしれませんが、都住創で皆さん本当にオーダーメイドでそれぞれつくられて、初期のものでも数十年たっておられるようですが、その中には賃貸住宅に回されているようなオーナーの方は相当おられるんでしょうか。

○中筋先生
 今まで全部で250戸ぐらいあって、持ち主がかわった人が7〜8%だと思います。個人破産していってしもうた人が4〜5人ありますか。それから、離婚して出ていった、もうちょっと郊外にやっぱり一戸建てといって出ていった人、大体十数件でしょうか。賃貸にしているケースももちろんあります。しばらく住んでいて、親が死んだから、しようがないからそっちへ行った。その間だれかに貸したい。どうぞどうぞ。ただし、こういう人に貸すということを全員集めて紹介しろ。賃貸であろうと、所有であろうと、そこに一緒に暮らしていくには、ある種の匿名性ではだめです。Aさん、Bさん、みんな知っているという状態を僕らは一生懸命つくってきたわけですから、賃貸にするなら、どうぞどうぞ。個人の財産やから、何しても結構。といって、賃貸する方はいっても4〜5件じゃないかしら。うちは全部100%把握していますけれども、4〜5件以下だと思います。
 時々賃貸で入った人が掃除の当番でもやってくれないとか言うて、クレームがこっちに来たりして、「こら」とか言いに行くことがありますけれども、全部うちで把握しています。

○泉(都市環境計画研究所
 ありがとうございました。
 質問の意図をもっと前に申し上げればよかったのですけれども、というのは、7件くらい、あるいはさらに転売されていったというプロセスをお聞きして安心したのです。つまり、ある程度の社会性があるといいましょうか、市場性が将来生まれそうな気がする。そこに先ほどおっしゃったような課題とリンクしていくといいなという展望があったものでから、お聞きしてみました。どうもありがとうございました。

○中筋先生
 よく賃貸にしたり、だれか入居者を探してというとき、近所の不動産屋にお願いしたりすることがあるんです。その近所の不動産屋はみんな都住創のことは知っているんです。だから、一般の中古よりは値段がちょっと高めにつけても売れると言っております。それを聞いたときは非常に嬉しかったですね。
 うちの狭い500メートル角ぐらいでは割と有名です。1キロ先になると、もうみんな知らないかもわからないけれども、500メートル角ぐらいでは、都住創に住んでいる、この建物に住んでいるというのは、そば屋のおやじでもちょっと尊敬してくれるんです。(笑)
 僕がよく昼休みに行くそば屋なんかは、何かイベントをしてお金が足らないときは、「ちょっとおまえも広告代出せ」とか言うて、1万円とか3万円とか巻き上げたりいたします。(笑)落語のチケットなんかも「10枚ほど買え。買って、来たらあかん」とか言うて渡すわけです。満員になったら困るから。(笑)そういうわがままなことも少しさせていただいています。だから、僕は500メートル角の中では結構有名人なんです。そこから一歩出たら、もう全然だれも知らない。  ちょっとはしょってしまったのですけれども、都住創の事業のお金勘定の話をしてみたいと思います。
 これは基本的には、全部専用面積の案分ですべてをやります。土地代も設計料も案分それは全部土地代なら土地代、面積の案分比でやります。それから、先ほど言ったプラス3万とか5万とかいうのがあるでしょう。あれはそういう比重をつけて、建設費で調整をします。例えば、プラス3万とか5万、20坪だと60万の差になっていくわけです。だれかが60万円安い。それはかかった建設費からそれを足したり引いたりします。
 それから、建築工事費の中は共通工事と各戸工事の2つに分かれます。共通工事は何かというと、もちろん躯体。設備に関していえば、一次側まで、それが共通工事です。それは全部面積比で案分いたします。各戸工事。家の中のかかる費用に関しては、全部見積書どおりということであります。だから、えらく安い家もあるし、えらく高い家もあります。家具にしても、キッチンも全部つくらせるわけですから、150万ぐらいの家具代の家から700〜800万ぐらいの家具代を発注なさる方もいますから、それはバラバラです。それはプライバシーがありません。一覧表になって全部に常に配っているわけです。「ええッ、あいつ、こんな金、何で出せるの」とかいうのが全部ばれちゃう。それは外へは出さないけれども、ここでは全部ばらしています。そういうふうに全部きれいに常に計算で出ているということになります。
 それから、我々がいただく設計料は、コーディネート費用も全部入れて10%です。 それは建設にかかる費用の10%です。土地代については一切いただかない。本当は10%はしんどいと思います。もちろん都住創はこんなことで僕らは利益を上げようとも思ってないし、ほかの儲かる仕事も常に並べていっているわけですから、これはうちの事務所の看板の仕事だから、10%でずっと今までやってきました。3億ぐらいから5億ぐらいのものでしょうか。だから、年に1回か2回ずつ3000万から5000万ぐらいの設計料をいつもいただいている。
 こういうコーディネートができるのが、僕以外にもう1人、2人おります。だから、複数のプロジェクトは常に動いています。僕が担当している仕事、それから、また僕の相棒が担当している仕事、それは同時に複数で常に動いていて、その情報さえお互いに全部交換している。みんなの前で交換し合うわけです。隠し事は一切ありません。建設 会社をどつき回して1000万値切ってきたといえば、それはちゃんとマイナス1000万とそこへ書かれるだけの話です。家具屋に全部発注するとか、あらゆるものはここから安いと言えば、「おまえ、行って買うてこい」。それも書面の上で別途出ます。
 というぐあいに、いわゆる共通工事と各戸工事に分かれて、共通工事については、全部面積の案分。各戸工事については見積書どおり。その資料が常に変わっていくわけです。だから、会合のたびにちょっとずつ変わっていきます。Aさんの金額がちょっと高くなったり、Bさんが下がったりとか、あるいは面積を調整しているときに、もうちょっとここを膨らまそうとか言ったら、それだけで全体の持ち分が変わりますでしょう。だから、本当は土地を入手したとき、登記したときは設計がまだ固まり切っていないんです。持ち分で一たん独占できませんでしょう。最終的にわずか変わっていると思います。みんな変わっているけれども、面倒くさいから置いておこう。固定資産税がひょっとしたら、だれかが年間もう1000円ほど得したり損したりしていることがあるかもしれないけれども、面倒くらさいからやめておこうかと言って、一番最初の「えい、やッ」とラフで決めたときの持ち分でほとんど最後までいきます。だけど、お金勘定の持ち分は最も正確にやります。0.00まできちんとやりますけれども、登記の持ち分はかなり初期の段階のままで固定してしまうということをいつもやっていました。
 それから、お金は必要なときにたくさん出した人、後でしか出せないという人については、全部金利の概念を適用する。それも当時の金融公庫の5.5%という金利を適用 して、土地を買うときに、「私はこの1000万を出しても構わない」「僕は出せない」という人が必ずいるじゃないですか。それは全部金利で解消しましょう。「おまえさんは最初に土地を買うときにようけお金を出したからと偉そうな顔をするな。ちゃんと金利は払うてるぞ」という形をとるわけです。だから、何かでだれかが負い目を感ずることは絶対にない。これをやっておかないと、何か妙なことになるんですね。
 口では乱暴なことを言いますけれども、とにかく基本的にいかにすれば公平になるか。公平というのは、非常に難しいのですけれども、絶対的な公平は絶対あり得ないわけですから、ある種の判断については、悪いけど信頼してちょうだい。僕が考えるできるだけの公平なことをやる。そのプロセスはこうですということを全部申し上げます。それでもめたことは一回もないと思います。
 やっているときは結構夢中でやっていましたね。あの苦労をもう一遍したいとは思わないんだけれども、毒薬のようなもので、またしたいなという気持ちと、痩せるかなという感じと両方あって、複雑な心境ですけれども、基本的にはもう一遍やろうと思っています。
 今うちで先ほどちょっとお見せした芦屋の建てかえとか、神戸の地震の建てかえのお世話を幾つかさせていただいているけれども、こんなインパクトはありませんね。結局僕は何をやっていたのかなと思うと、うちの事務所の近所だけで仕事をしていたわけです。近所だけで仕事をしているということは、ある程度エンドユーザーも似たようなところに絞れてくるんじゃないでしょうか。そういうことでやってきたから、何かいきなり当てがい扶持みたいな、30人とか50人、20人とかいうところに出かけていって、最初はよかれと思って一生懸命やるんですけれども、どうも反応がいまいち薄くて、おもろないなと思っています。

○司会(谷口)
 私から1つ質問ですが、大変面白い運動と拝見しましたが、これを他にも広げていくということは考えない方がいいのか、あるいは広げるとするならば、どういうことをお考えになっておられるのか、何かお考えがあったら、お願いいたします。

○中筋先生
 こんな変態みたいな運動は広がらないと思います。これは非常に特殊な出来事を大阪市中央区のある一角で僕らがやっているにすぎないわけで、これがどなたかの目に触れて、何かのヒントになればよろしいかと思います。これと同じことをどこかよその都市へ行ってやったってしようがないんです。
 先ほど東京で2つあると申し上げましたでしょう。あれ実はみんな大阪人なんです。隈君に設計してもらったものは、全部で8軒ですけれども、オーナーは隈を除いて、全員大阪の人間です。しかも大阪で事務所を持っていて、東京事務所を出す連中が出てきたわけです。それがある日何人かうちの事務所へ遊びに来ておったわけです。それで、「筋やん、今度東京でせえへんか」となるわけです。「何を言うのよ。こんなアホなことが何で東京でできんのよ」という話をしたら、「いやいや、我々は東京にオフィスを持っている。マンションの一角を借りたり、オフィスを借りたりしていて、ばかばかしい。大阪と同じようなものが東京にできるやないか」と2〜3人のやつが言いにきよったのです。おもろいなと思って、それでたまたま東京の隈に言ったら、「いや、僕も入りたい」と彼が言い出したわけです。「そしたら、おまえさん、設計せい。僕が残りのやつを大阪から集めてくるから」というので、大阪人が7人で、東京の人間は彼がたった1人ということで、公用語は大阪弁である。(笑)大分隈もおろおろしていました。それでもよくやってくれたと思います。
 そういうわけで、非常に特殊な出来事です。たまたま早稲田の近くで2本建っていますけれども、1本の方は本当は事業は破綻したんです。これはもう涙なくしては語れないような話ですが、(笑)最終的にはよくわけのわかった建設会社のトップがその建物を気に入ってくれて、本社を移転してくれたのです。
 天神町の隈君に設計したもらったものは、ちゃんと今も使っています。僕のところも1つ東京事務所をつくろうと思ったんです。東京で幾つか仕事をしていたんですけれども、バブルがはじけて、もうそんな仕事もなくなって、今は友達に貸しています。
 この話を広げたらどうかという御質問だったですけれども、決して広げるつもりはありません。僕は大阪の僕の手の届く範囲、強いて言えば、事務所から歩いて現場へ行ける範囲でしかやりたくないと思っています。大熊さんたちもが昔何人かでおやりになったことがあるんですが、それはみんなそれぞれその場所でおやりになるのは特殊なことでいいわけです。僕らはたまたま特殊なことを複数やってしまったにすぎないわけです。
 一時、例えば博多からとか、あるいは東京からとか、「こんなんがあるねんけど、世話焼いてくれへんやろか」という話が持ち込まれてきたことは何回かあります。だけど、土地の事情がわからないところで、僕にはできないと思いました。役所のだまし方とか、このぐらいまでやっても大丈夫かいなというある種の読みがあるじゃないですか。それから、近隣。例えば、ここにこんな建物を建てて、反対されて立ち往生するかしないかとかいうある種の読みもあるでしょう。まだもっといろんな読みがあると思うんですけれども、暗黙のうちに自分の熟知している場所ではそれらのことができます。だけど、例えば、僕が広島あるいは博多、東京へ行って何かやろうか。たまたま東京で2つやりましたけれども、あれは身内のやつを引き連れていったわけで、それはできたのですけれども、よその都市へ行って、何度か指導してくれと言われたことはあるけれども、それはできん。我々ではわかりまへん。僕らがやってきたことについては、何なりと全部資料は上げるから、勝手にしてくれといつも申し上げています。

○司会(谷口)
 予定の時間になりましたので、これをもって本日の講演を終了させていただきたいと思います。最後に中筋さんに拍手をお願いいたします。(拍手) 


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