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第117回都市経営フォーラム

日本型次世代情報都市社会の構築
“21世紀都市論”への試論

講師:加藤敏春氏
内閣審議官・金融監督庁設立準備室主任室員


日付:1997年9月24日(水)
場所:後楽国際ビルディング・地下1階大ホール



はじめに

 加藤でございます。私、実は現在の所に来る前には通産省におりまして、そこで日米構造協議、大店法の規制緩和等の問題を担当したり、また、商業集積関連の施策にかかわる機会を得まして、これをきっかけにして、都市や、まちづくりに大きな興味をもつにいたったわけです。そしていろんなことをやったわけですが、「商業ソフトクリエイション」という、商業集積の開発に関するコンサルティングの会社をつくったりしました。私の都市へのかかわりは、こうした商業集積面から始まっていますが、それは、単に都市計画だけではなくて、楽しい、豊かなソフト的なものも入れたまちづくりに取り組んでいくという面もあったわけです。
 私にとってみれば、その頃の3年間は、まちづくりに対して非常に強烈な印象を持った時期でございまして、それが終わって、アメリカに出かけたわけでございます。そこで、ちょうど93年〜94年ぐらいから、シリコンバレーの情報社会の中で、身の回りがダイナミックに変わってきたのです。単に、インターネットあるいはパソコンをオフィスで使うということでなく、ショッピング、教育、私の子供が行っていた学校も含めて、情報社会が大きく変わって、ライフスタイルも変わり始めたわけでございます。
 アメリカに行く前に持っていた3年間のまちづくりに対する強烈なイメージと、シリコンバレーに行きまして、情報化ということで、また3年間非常に強烈なイメージを受けたわけですが、向こうにいるとき、ある日、これは両方同じように考えられるに違いないと思ったわけです。それで、まちづくりと情報化というところに、ぜひ自分でも解答を出してみたいと考えてきました。
 日本に帰ってきてから2年少したったのですけれども、実は商業集積をやっていたときに、週末日本の地方をかなり歩いて、35の都道府県を市町村単位で歩いたのですが、その癖がまた出てしまいまして、週末特に情報化を基軸にして、新しい地域づくり、まちづくりをしている所にお邪魔しました。
 そして、先ほど申し上げたまちづくりと情報化の一体化というところに何か解答が出せるのではないかと思いまして、『シリコンバレー・ウエーブ』という本をことしの春書いたのですけれども、きょうお話しいたしますのは、さらに、本日お見えの泉眞也先生の、5月のこのフォーラムでのお話に非常に触発されて考えた部分もあります。あのときにいろいろおっしゃったのですが、質の高いメッセージのある空間が大事だとか、神と対話する空間が必要だ。これは、まさに21世紀へのメッセージじゃないかと思ったわけです。
 また、4月に吉村元男さんがここでお話しされたときに、新しいゼロ・エミッション型のまちづくりをいわれました。最近吉村さんにお送りいただいた『風景のコスモロジー』という本では、景観10年、風景100年、風土1000年ということを言っておられます。そして1000年前、特に1052年というのがちょうど末法思想のときに当たって、平安期道長から頼通にかけてのころ、日本のコスモロジーができた。我々は21世紀の展開に当たっては、そういうものを持っているに違いないという議論も言っておられまして、私は非常に感銘を受けました。
 私も時間のある限りこのフォーラムにお邪魔しているのですが、伊藤滋先生は先日、都市計画そのものの役割が、21世紀は随分変わるのではないかということをおっしゃられたので、きょうはあえて挑戦的な意味でサブタイトルをつけさせていただきました。私は、そういう意味では、まちづくりについても、情報化についても、両方ともど素人の域を出ないのですが、両方を融合、総合化させてみるというところで、あえて皆さんの議論を喚起させていただければと思っております。

(OHP1)
 きょうは、5つぐらい大きなポイントでお話しさせていただきたいのですけれども、1つは、今までの機械系のまちづくりを離れて、生命系のまちづくりをしなければいけないのではないかということでございます。最近私も複雑系の科学にちょっと凝りまして、あえて複雑系の議論をまちづくりに入れてみようという、またこれも無謀な議論でございます。
 2番目が、私が強烈な体験を受けたシリコンバレーを生命系のまちづくりで見たときに、どうおもしろいかというところを申し上げたいわけです。
 3番目に、この2年間ずっと日本を歩いてまいりましたけれども、日本型次世代情報都市社会づくり、すなわちシリコンバレーの輸入ではなくて、いかに21世紀の日本的な町をつくったらいいのか、しかも情報社会の中でのパラダイムといいましょうか、そういうものに対応した町は何だろうか。「エコミュニティー」というのは私の造語ですけれども、(後で解説をいたしますが、)新しいエコミュニティーというものが必要ではないかということでございます。
 それから4番目に、日本型次世代情報都市社会と私が言っていますのは、各地域でつくり上げている社会、コミュニティーであるわけですけれども、全体で考えたときに、日本の国土像は21世紀にどうなっているのかと余計なことを考えました。各地域でいろいろ選択してくるわけですけれども、日本の21世紀国土像を新しい発想で考えられないかという話でございます。
 5番目が、これもあえてですけれども、アジアという視点で考えたときに、実は最近新しいおもしろい都市形成が起こっていると思っておりまして、21世紀の日本を考えたときに、その視点から日本を眺めて、日本のまちづくりを考えてみるのもおもしろいのではないか。きょうお集まりの方々は随分御批判があろうかと思いますが、むしろその御批判を楽しみにきょう参りましたので、ぜひ後で御議論、御意見を賜われればと思います。



機械系のまちづくりから生命系のまちづくりへ

(OHP2)
 まず、「機械系のまちづくりから生命系のまちづくりへ」というところですが、私は、情報社会はインターネットが発達する、ネットワーク上のコミュニケーションだけではなくて、まさに人間が主役になってくる時代、人と人とのヒューマン・コミュニケーションといいましょうか、まさに人が知識創造といいましょうか、知識を生み出す。その生み出した知識が技術に合体されて企業の競争力を追求している。堺屋太一さんが「知価革命」ということを言われていましたけれども、あのときは私も余りピンと来なかったのですが、本格的に知識を持っているかどうかによって、人間としてのクリエイティビティーというのでしょうか、企業の競争力、あるいはコミュニティーの活力もまさに知識がポイントになってきた社会だろうと思うわけです。
 そうすると、オンライン、オフラインとここにございますように、ネットワーク・ウェブといいましょうか、全体の関係が網状にネットワーク化されていく。自己組織化という表現を最近よく使いますけれども、人間がお互いにネットワークを張り出しますと、揺らぎを生ずる。そこに何かクリエイティブな空間ができているという状況が、実は情報社会が工業社会と全く違った様相を呈し出したところだろうと思うのです。
 実は、私なりに都市論とか、情報論はそれぞれ少し勉強したのです。情報論は、最近いろいろ言われていますので、皆さんもインターネットの話とか、いろんなお話を聞いたと思うのですが、都市論でも、私の拙い知識では、80年代に世界都市論を展開した学者がいて、それがだんだん新しいタイプの世界都市というのでしょうか、知識創造の場である都市をつくっていかなければいけないという議論を最近展開しているようであります。
 私の印象は、情報ネットワークとか、情報社会を議論している人は、情報社会だけ議論して、都市論を議論している人は都市論を議論して、特に学者の場合は、そのタコつぼ性が著しくて、お互いに総合化されていない。情報の世界と都市の世界とを融合化する、統合する試みがないと、これからの新しい都市論ができないのではないかということで、21世紀の新しい都市を定義から考え直してみてもいいのではないか。
 新しい都市は、なぜこの3つの機能が必要なのかというのは後で出てまいりますので、ここは私のコンセプトだけ御理解いただきたいのですが、この3つ「知識創造機能」を持ち、「地球環境保全機能」を持ち、それから21世紀の人材、私はこれを「市民起業家」と称しているわけですけれども、21世紀の人材が、みずからコミュニティーの育成を選択し、それに伴う負担を負うという選択と負担の原則に基づいた新しい公共空間をつくり上げる。この3つを持ったものを新しい都市、情報論と都市論の統合化したものとして考えてみてはどうだろうか。
 その次の3番目になるのですが、今の議論の延長線上ですけれども、都市の中に、人間が生活して空間が発生し、産業活動、研究開発活動、居住活動、教育活動といろんな活動が行われるのですが、都市の中身とまちづくり、都市計画という、中身と器を一緒に考えていかなければいけないのではないだろうか。都市計画だけを切り離して、眺めて議論している時代は終わったのではないかというのがその次でございます。複雑系的に考えてみたらどうであろうかというのが発想の原点でございます。

(OHP3)
 そういう都市の中身と器を一体化して考えたときに、どういう21世紀の新しい都市ができるのかということですけれども、複雑系の科学にヒントがあるのではないかと思っております。複雑系科学は、簡単に要約しますと、3つのことを言っている。1つは、「全体は部分の総和以上」だ。今までの近代科学は、要素還元論というのですか、常に要素に分解をしていく。全体の効果というか、全体のありようを単に要素を足し合わせたものと認識するという発想ですが、複雑系科学はそうではなくて、そこに総和以上のものが出てくるという発想です。
 2番目に、「カオスの縁」というのは、この場合町をつくるという生命力は秩序とカオスの中間に宿るという議論でありまして、町の中にいかにカオスの縁をつくっていくかということが、これから町を生き物のように考えるときに大事なのではないか。
 3番目に、収穫逓増という議論がございます。従来の伝統的な経済学は、前提にしていますのが収穫逓減でありまして、追加的な投資、1単位ずつ投資するとして、最初の1単位で投資したことによって得られる収益と、n番目に1単位投資したことで得られる収益は、後者の方が減少している。だんだん減少していくというのが、現在の経済学の前提ですが、どうもこれも違うのではないか。
 例えば、マイクロソフトにしろ、最近ネットワークコンピューティングと言い出しまして、サンマイクロシステムズとか、特に私なんかは、シリコンバレーの企業で、ヤフーとかネットスケープも、もともとのはしりから知っている。彼らがちょっとヒッピーみたいな格好をしたときから知っているのですけれども、彼らの世界は、収穫は決して逓減していないのです。やればやるほど逓増しているというビジネスでありまして、情報ネットワークの社会はどうも物を売ったり買ったりする社会と違う。収穫逓増だ。やればやるほど収益が上がってくるという、今までの経済学では考えられなかった企業が出現してくる。こういう時代なわけであります。
 それから、複雑系科学が教えている大きな意味での2番目ですけれども、技術はパラダイムをつくる。ただ、いい技術がそのまま残るとは限らない。やってみなければ、いい技術が残るかどうか保証の限りではない。変な技術が残る可能性もあるという議論があるわけです。変な技術かどうかわかりませんが、我々はこの世界で既に実感をしておりまして、例えば、VHSとベータの議論、ある人に言わせると、「ベータの方が本当は技術的にはよかったんだよ」というわけですけれども、現実にはVHSがスタンダードになったわけです。それから、パソコンのOSでウインドウズ95がのしてきていますけれども、あれが本当にいいのかという議論があります。あれは立派なOSとはちょっと言えないのではないか。けれども、アップルのOSとか何とかを全部駆逐するわけです。
 今ブラウザの世界で、ネットスケープとマイクロソフトが競争していますけれども、どちらがいいのか。本当にマイクロソフトがいいのだろうか。あるいはネットスケープか。これはどちらがいいのかなかなか言いがたいと思いますが、結局いい技術が残るかどうかわからない。変な技術、悪い技術が残る可能性もある。悪い技術が残って、次の社会のパラダイムをつくることもあるということを教えているわけです。
 この議論は、我々がどういう世界をつくれるか、もうわからない。けれども、この不確実性が大きな社会の中であり得るとすれば、そこはもう実験を試みるしかないんだ。実験した結果、いい社会をつくれるかどうかわからない。いい技術が残るかどうかわからない。けれども、手をこまねいていてはおくれるばかりだ。だから、やるしかないんだというのが、この議論の我々の心意気、覚悟にかかっている。21世紀は我々の覚悟にかかっているんだというのが、複雑系の人が最後に言う一番美しいせりふですけれども、そういう世界があるわけであります。

(OHP4)
 私は、暴論かもしれませんが、あえてその技術の世界観を新しい都市づくりに応用することをこれから考えてみる必要があるのではないかと考えています。重要なのは組織の中に揺らぎをつくることです。これはさっきの「全体は部分の総和以上」という議論ですけれども、揺らぎをつくって、総和以上のシナジー効果を上げ、収穫逓増、ここで言っているのは知識創造、アウトプットは知識という意味ですけれども、知識がどんどん膨れ上がっていくような構造をつくるということではないか。
 経済学者のマーシャルは、「経済学は、広義の生物学の一分野である」と言ったのですが、その後の経済学は機械的に需要曲線と供給曲線で考えるとか、そういう議論になってしまって、このマーシャルの世界が忘れ去られているのが今の経済学の現状です。あえて申し上げたいのは、マーシャルの発想に戻って、生物学の発想で新しい都市をつくることが必要ではないか。多元的なもの、カオス的なものを包摂するような都市。そういう都市を考えてみたらどうであろうかということでございます。



情報社会とシリコンバレー・モデル

 非常に抽象的な話になりましたので、具体論でお話をしたいと思います。

(OHP5)
 大きな2番目ですが、シリコンバレーをモデルにとってみて、その生命系の町はどういうことかなという私が考えているのを申し上げたいのです。
 シリコンバレーが生命系の都市だと言えるのはどういうことかということですけれども、1つは、「産業クラスター」という言葉を使っていますが、新しい意味での産業集積がここで出現している。2番目に、経済だけでなくて、経済とコミュニティー。今までは経済は経済、コミュニティーはコミュニティーということで、我々も分かれたライフスタイルといいますか、会社の生活とコミュニティーの生活は、我々にとってみれば重複しないわけですけれども、シリコンバレーはライフスタイルが重複し始めている。3番目に、「市民起業家」という21世紀の新しい人材像が登場してきている。この3点でございます。
 シリコンバレーをとってみて複雑系云々という議論のイメージを具体的に説明したいと思います。まず、新しい産業集積という議論でございます。もちろんこの中にシリコンバレーをよく御存じの方もいらっしゃると思うのですが、あえて御紹介しますと、アメリカの西海岸、サンフランシスコから車で1時間ぐらい南に行ったところにスタンフォード大学がありまして、そのさらに30分ぐらい南に行きますと、サン・ノゼという町があるのですが、その一帯に広がっている、もともとは半導体とか、コンピューターとか、ハイテクで注目されたところでありますけれども、最近はネットワーク、情報化の新しい産業集積が起こってきているということで、世界一のインターネット群はもちろんアメリカですけれども、その中でもインターネットの情報の25%ぐらいがあそこで行き交いしているというぐらいのところでございます。

(OHP6)------- 資料1参照
 産業集積の視点からシリコンバレーを見てみますと、これは企業の売上高の推移を見たものであります。横に年代がとってありまして、縦軸に売上高を対数グラフでとったものです。シリコンバレーの発祥は、ヒューレット・パッカードが草分けの企業でありますけれども、その次に出てきたのが半導体の企業であります。この「Intel」は、最近マイクロソフトと組んで非常に羽ぶりのいい会社ですが、それに「National Semiconducter」「AMD」とかがあって、このあたりは半導体の企業です。その次に出てきたのが、この「Apple」とか「Tundem」とか「Sun Micro」のあたりですが、これがコンピューターの企業であります。その次に出てきたのがソフトウエアです。例えば、「Sylicon Graphics 」とかがこのあたりにずっと書いてあります。そして、最近出てきていますのがネットワークの企業でありまして、先ほどの収穫逓増との関係もあるのですが、新しい形態の企業、産業がわき起こるようにどんどん出てきて、しかも成長カーブがどんどん縦に立ってきているということで、まさにそこに何かがダイナミックにうごめいているというところであります。

(OHP7)--------資料2
 日本でもベンチャー論というと、決まってシリコンバレーが出てくるわけですが、これも生命系の発想で見てみると非常におもしろいのであります。シリコンバレーIncといいましょうか、これがシリコンバレー一帯の産業集積、産業クラスターの構造を書いてあるものですけれども、これがまさに生命系のつながりを持っているということであるわけです。
 まず、真ん中に起業家という実際のビジネスを起こして、それを遂行する人あるいは企業がいまして、その周りに6つのサポーティングセクターがネットワークを組んでいる。例えば、資金供給セクターということで、「エンゼル」「ベンチャー・キャピタル」。シリコンバレーがおもしろいのは、このエンゼルとかベンチャー・キャピタルは、単に投資先にリスクマネーを提供するだけではなくて、だれとだれをくっつけるとか、いろんなネットワークの全体のコーディネーターそのものをやっているわけです。だから、生命系の中でも何か媒介するものが必要だという議論が1つあるわけです。
 それから、産業ももちろんありまして、「他の経済主体」とありますけれども、企業が活動するときに、例えば技術、マーケティング、資金調達とか、いろんなところでアライアンスを組むわけです。皆さんには逆説に聞こえるかもしれませんが、最近アメリカの中で言われている議論は、企業は競争単位ではないということであります。むしろ、ビジネス・エコシステムが競争単位だ。ビジネス・エコシステムとは何かといいますと、一番端的な例としてはマイクロソフトとインテルでありまして、OS、ソフトウエアはマイクロソフト、それからコンピューターの心臓部のマイクロプロセッサーはインテルで、企業は違うわけですが、まさに「ウィンテル連合」と言われるように、マイクロソフトとインテルの組み合わせならばこそ、ほかの企業と戦っているわけです。それが競争単位であるわけです。
 ウィンテルの場合は、長くお互いに手を組み合っているわけですが、シリコンバレーの場合は、ビジネス・エコシステムのパートナーの組みかえが縦横無尽に起こるわけです。最近はマイクロソフトを打ちのめしてやろうということで、例えばネットワークコンピューティングとか、ジャバとかで、サンマイクロシステムズと、オラクルというところが手を組んだり、要するに、手を組み合って競争するというのが彼らの発想で、企業は競争単位ではないということであります。
 ただ、この生態系を支えるのは企業だけでなくて、大学も重要な役割を担っております。スタンフォード大学の役割がよく言われるのですけれども、スタンフォード大学がなぜシリコンバレーの礎を築いたか。これも話し出すと議論が非常に長くなるのですが、一言でいえば、非常に職住接近している。スタンフォードの先生が、大学に通勤するのは車でせいぜい10分か15分ぐらいの距離であります。日本だと、大学の先生が1時間あるいは1時間半ぐらいかけて研究所に行って、そこで産学協同研究をやるわけですけれども、スタンフォードの場合は、日本の先生が1日かけて産学協同研究をするところを半日でできるわけです。午前中でそれを仕上げてしまって、あとの半日は自分でベンチャービジネスをやる。1日を2倍も3倍も生きていく、これはパフォーマンスの違いだろうと思うのですけれども、いずれにしてもスタンフォード大学だけでなくて、例えばUCバークレーとか、スタンフォード州立大学あるいはコミュニティーカレッジ、日本の地方大学に相当するところまで、まさに大学が生態系の一部をなしているわけです。
 それから、インキュベーターとかインダストリアル・パークもまさにその一員でありますし、教育支援セクターもこの生態系の一員であります。
 会社の技術だけでなくて、マネジメントを支える会計事務所、法律事務所、専門コンサルタント、ヘッドハンター、人材派遣会社に至るまで1つのプロジェクトで、1つのプロジェクトが起こるときに、生態系のようにこういう人たちが結びつくわけです。状況が変わるとまた生態系が変わってくるという発展を起こしておりまして、しかもそれが生き物のように変化するというのがシリコンバレーの非常におもしろいところであります。

(OHP8)
 こういう産業集積が21世紀には生き物のようにどういうふうに変わるかをまとめた一例であります。現在シリコンバレーという一定の地域は、車で端から端まで行きますと1時間ぐらいの感じですけれども、そういう一定の地域にブドウの房のように、ブドウの粒がいっぱいあるわけです。それが今申し上げたような起業家だとすると、その周りにまた粒がいっぱいありまして、6つのサポーティングセクターがあったり、起業をずっと囲んでいるのがあるわけです。
 今の特徴は、「Semiconductor(半導体)」というブドウの房ができています。その次に、「Computer/Communications」というブドウの房がある。その中に、分野別に省略しますけれども、ブドウの房を構成する1粒の単位があるわけです。あと「Software」「Defense/Space」「Environmental(環境)」というブドウの房がある。今言ったように、生態系のように発展していくと、将来はこのブドウの房が変わっていくよというのが、右側の世界になります。まず「Information」という新しいブドウの房が生まれる。「Defense」がだんだん変わってきますので、「Space」が生まれる。それから、「Environmental」は非常に重要になって、いろんな形でブドウの房ができてくる。その次、「Bioscience」「Innovation Services」がいろいろ新しく左から右に生態系のように変わっていくというのが彼らの感覚であるわけでございます。それが、シリコンバレーが注目すべき、生態系として見た場合の産業クラスターということですけれども、次の視点で、経済とコミュニティーが融合化しているという議論であります。
 実は、日本のまちづくりは、まさに機械系の典型としか私は言いようがない。工場地帯は工場地帯、住居地域は住居地域、商業地域は商業地域という、要素還元論を地でいっているまちづくりではないかと思うのですけれども、シリコンバレーの発想は随分違いまして、今御説明した経済、産業を支える産業クラスターはいろいろあって、インフォメーションというクラスターであったり、エンバイアロンメントというクラスターであったりして、そのクラスターがブドウの粒のようにいっぱいいろんな人を支えている、うごめいているということであります。

(OHP9)--------資料3
 もう1つ、彼らはコミュニティーのことをいうのです。経済とコミュニティーが、当初は経済は経済、コミュニティーはコミュニティーということで、この2つの輪は随分遠くに離れたふうに彼らも位置づけていたわけですけれども、情報社会に入ってくると、経済とコミュニティーが重複して重なる分野が大きくなってきているというのが彼らの世界です。これは職住接近とか、いろんな議論にも応用できるのですけれども、非常におもしろいことを言い始めているわけです。
 どういうことかといいますと、例えばシリコンバレーという一定の地域が抱えるコミュニティーの課題はスライド上に丸で囲んでございます。例えば「教育」。21世紀型の創造性豊かな人材が欲しいというのが、シリコンバレーのコミュニティーの課題です。それから、「医療」は非常に大事で、遠隔医療とかいろいろありますけれども、医療サービスを充実したいというのがあります。医療とか福祉です。アメリカも高齢化社会になっておりますので、そういうものを充実させていきたい。それから、「芸術・文化」を起こしていきたい。
 実は、ゴールデン・ゲートブリッジを渡った北の方にシリウッドという新しい産業クラスターができているのですが、これは「アポロ13号」の打ち上げのときの非常にリアル感あふれた打ち上げシーンがあります。あるいは、「トイ・ストーリー」は去年やっていましたけれども、画面全てを3Dでつくるというものです。ジョージ・ルーカスという一風変わったプロデューサーが「ルーカス・フィルム」というのでそこで起こした。あそこで、「ジュラシック・パーク」もそうですが、全世界の今のおもしろい映画のコンテンツとか、最近「エンターテインメント」と「エデュケーション(教育)」を融合化したようなエデュテインメントソフトが非常に売れているわけですけれども、そういうものを全部起こしている。それは、ゴールデン・ゲートブリッジ(金門橋)を渡った、サンフランシスコのちょっと北の方に来ているわけですが、そういう芸術・文化、あるいはサンフランシスコの中ではインターネット芸術をやろうということで、彼らの発想は、技術と芸術の世界は融合化している。私はなかなか理解できませんけれども、アーティストとサイエンティスト、エンジニアは、融合化しているそうです。頭の中で一緒になっている。
 確かに、最近のディジタルミュージアムとか、ディジタル博物館が出てきましたけれども、ああいうのも確かにそうだなという感じがしなくもないのですが、サンフランシスコの中でインターネット芸術でやっている変なグループがあります。例えば、環境保全をしたい。最近特に地球環境保全ということで、全人類のため、子孫のために、迷惑のかからないような生き方をしようじゃないかという議論をしているわけです。それから、行政サービスということで、インターネットを使って行政情報を公開したい、それから行政は上から下に一方的に住民に流れるのではなくて、住民から逆に行政提案をいろいろな形で受けて、双方向で行政を進めようという発想があるわけです。そういうのもコミュニティーの課題です。もちろん商取引、エレクトロニック・コマースとか、バーチャル・ショッピングとか、最近アメリカも相当進み始めましたけれども、そういう商取引もコミュニティーの技術であるわけです。
 これをすべて情報技術を有効に活用してやっていこうということを彼らはやり始めたのです。それは、ジョイントベンチャー・シリコンバレーとか、スマートバレーとか称するプロジェクトで、私が92年に行ったときに、その活動がまさに開始されて、立ち上げから成功するまで3年間ぐらい見てきたわけですけれども、彼らはコミュニティーの課題を解決するために、情報技術を活用しようと92年に考えました。やり始めますと、実はコミュニティーの課題の解決のために情報技術を使う。もちろんこういう課題がかなり解決をされてきたわけですけれども、あわせてビジネスの需要を創出している。例えば、教育でいいますと、先ほどの教育コンテンツとか、あるいはエデュテインメントのコンテンツをつくらなければいけないというベンチャー企業がそこに育つわけです。これは、今かなり大きな成長産業なわけです。
 医療にしろ、福祉にしろ、日本もこれから少子化、超高齢化社会になりますので、連邦政府はどんどん福祉予算を切っているわけです。コミュニティーで自活するしかない。自活するにしても、コミュニティービジネスというのでしょうか、介護にしろ、保健にしろ、そこをビジネス化をしていけば、国の給付がなかなか受けられなくてもできるのではないか。21世紀型の地域医療システム、地域福祉システム、地域介護システムができるのではないかという議論になっているわけです。それがまたビジネスに派生需要を生んでいるわけです。 こういうことを彼らがやってきますと、ここの部分が重複してきたなというのが今の彼らの感じになっているわけです。この重複しているプロジェクトは、コミュニティーの課題の解決をビジネスマインドを持ちながらやるという人材を、彼らは「市民起業家(シビック・アントレプレナー)」と呼んだのですが、私はこれは非常におもしろいなと思ったわけです。工業社会は、経済とコミュニティーは水と油のように融和しない。別々に存在している。我々の都市計画も恐らくその発想の延長線上で、都市計画あるいは法律の体系ができ上がってきたのだろうと思うのですけれども、情報社会になってくると、両者でダブってくるという実際の世界観になったわけです。両者でダブっていない商取引とかというところがありますけれども、ここで「スモールオフィス」「ホームオフィス」と言われるパソコン1台を持って、例えばエレクトロニック・コマースの関係のビジネスをやる人たちは、21世紀の初頭期はアメリカの事業所数の40%を占めるのではないかというぐらい漠然としているわけです。
 そういう人たちは一定の企業には属さない。自分の家庭でパソコンあるいはワークステーションを1台持ってやっているわけです。その人たちは、もうライフスタイルは、自分のビジネスと生活は全く混然一体になっているわけです。感覚も、仕事も行って、後で休息するのではなくて、仕事イコール休息になったり、仕事イコール生きがいであったり、楽しみであったりしているという精神構造が少し変わってきている人たちが出てきているということになったわけです。それもある意味では、こういう総合ビジネスの人たちは、コミュニティーとの一体性を考えている。日本を例にとるとわかるのですが、会社人間ということで、会社がすべてコミュニティーの代替をする社会と随分違った人たちが、20世紀初頭にアメリカの中で事業所数で40%を占めるという感じにもなってきているということです。
 私は、最近友人が書いた『市民起業家』という本を翻訳して出したのですけれども、そこに若干解説をつけたのは、市民起業家はまさに21世紀型の人材ではないかと思ったわけです。コミュニティーの課題の解決、それとビジネスは物すごく一体化していく。ライフスタイルにおいても一体化していくような人材は、もとを返すと、アダム・スミスが言い始めた世界と非常に似ているわけです。18世紀に資本主義が勃興し始めたときに彼は言ったわけです。
 アダム・スミスは「見えざる手」とか、「公平な観察者(インパーシャル・スペクテイター)」というのでしょうか、マーケットという概念を非常に徹底した、資本主義の市場経済の元祖だと言われるのですけれども、そうではない側面を別途持っております。彼の著作に『道徳感情論』という本があるのですが、まさにコミュニティーと一体になった世界観で彼は語っているのです。資本主義は発展をすればするほど、左側の経済の方だけが肥大化をして、コミュニティーと遊離していったという社会であります。しかし現在の状況は、情報社会が変わってくると、18世紀にアダム・スミスが重複していると考える社会に戻ってきつつある現象なのかなと思います。
 19世紀末に、マックス・ウエーバーが、これからの資本主義を支えるのはプロテスタンティズムの倫理という考え方を持った人だと言ったわけですけれども、従来から私は、21世紀は新しい人材像が欲しいと思っていたわけです。21世紀においても、我々において社会主義ではなく、資本主義という選択肢しかないとすれば、経済は経済、コミュニティーはコミュニティーと分けて考えるのではなくて、両者を合わせていけるような世界観を持った人材は、非常におもしろいタイプかもしれないという解説を、僭越ですがつけさせていただきました。
 シリコンバレーは、私に言わせますと、産業あるいは経済の側面を見ても、生き物のように発展していく構造を持ったところでありますし、それ以上にさらにコミュニティーとの間で重複、融合関係に入っていくのは、生命的に発展、発達をしていくということでありますし、さらに新しいビジョンを持った人材を生み出しているということで、非常におもしろいなと考えております。生命系の町ということを見るに当たっても、シリコンバレーは非常におもしろい存在ではないかと思うわけです。



日本型次世代情報都市社会(エコミュニティー)

 その次に、日本型次世代情報都市社会(エコミュニティー)という議論をさせていただきたいと思います。

(OHP10)------資料4
 今の経済とコミュニティーの重複関係のモデルを日本に当てはめるとどうなるだろうかを考えてみたわけです。重複関係のモデルをここに置きまして、日本の一定の地域社会が抱えている課題を丸で囲んで置いてみたわけです。このコミュニティーが抱えている課題は、経済とコミュニティーと置くと大体スライドのとおりかと思うのですが、日本の各地域でこういう問題を解決していかなければならない。このモデルの両者の重なった部分を、できる限り拡大するようにまちづくりを進めていけば、非常におもしろい課題解決型の町が日本でできるのではないかと考えてみたわけです。
 最近は、それにもう1つ輪を加えておりまして、今申し上げた経済とコミュニティーの重複するところ、さらにもう1つ「自然(Ecology)」も輪として加えてみたわけです。シリコンバレーの産業クラスターを御紹介したときにも、エンバイアロンメントビジネスが至るところに出てまいりました。これから特に地球環境問題を考えていくと、私はやらなければいけないと思いますが、単に二酸化炭素の排出量を一律に抑える、徹底的な技術開発をやる。場合によっては、最近言われていますけれども、税制上のいろんな措置あるいは排出権取引とかいうスキームを導入してやる。
 これも大事だと思うのですが、どうもそれだけでは地球環境問題は解決できないところまで、我々が地球を汚してしまったというのは事実のようであります。もう一段、地域コミュニティーの構造自身を、地域単位で地球環境問題が起こらないような構造にすることなしには、ナショナルなレベルの対応だけでは満足がいかないのではないかということで、エコロジーも入れてみたわけです。アメリカの中で、サステイナブル・コミュニティーとか、まちづくりの段階から、地球環境対応の町をつくっていこうという議論は、アメリカの方でも最近どんどん出てまいります。それに発想のヒントを得て、もう1つ加えてみたわけですけれども、この3つの輪が重なり合った部分、エコノミーとコミュニティーとエコロジーと重ね合わせて、「エコミュニティー」という合成語をつくって、「生命と技術との共生」と書きましたけれども、そういうものを理念というのでしょうか、新しい地域づくりの理念として掲げてみたらどうだろうかという発想でございます。

(OHP11)----資料5
 そういう中で、日本型次世代情報都市社会を、先ほどの複雑系の話といかにマッチさせるかということで考えてみたのがこの図であります。
 まず下に「ハードインフラ」がありまして、これは3種類必要だと思います。「次世代情報通信インフラ」、実はアメリカではもう、次世代インターネットの構築、テラという容量の中で、次世代インターネットという議論がどんどん出ているわけですけれども、それらを活用した次世代情報通信インフラ、それから「次世代運輸インフラ」、それに「地球環境保全インフラ」。これは吉村さんがおっしゃったようなゼロ・エミッション的な発想もあり得ると思いますし、いろいろなインフラを常に循環させるだけではない発想もあり得ると思うのですけれども、ハードインフラとしてはこの3つが必要になるのではないか。その上に、ソフトのインフラが必要ではないか。
 1つの町の中にこういうのが必要だという意味で御理解いただきたいのですけれども、よく言われる情報技術、情報インフラは、コンピューターの世界でプラットフォームがあって、OSがあって、その上にアプリケーションがあるという議論です。これは01化できるディジタル情報で、難しく言えば形式知であるわけであります。コンピューターを通る情報です。ただ、コンピューターを通らない情報も非常に重要だ。01化できない情報、アイデアとか、ひらめきとか、人と人との触れ合いとか、そういう創作的な場が必要だと思います。 シリコンバレーでよく言われるベンチャーは、個人の資質が大事で、個人がアイデア勝負で、個人でやっているという議論があるのですが、私はどうも違うと思っております。シリコンバレーでも、2〜3人のアイデアを持った人たちがフェース・ツー・フェースでアイデアを交換し合う。あるいは議論する。その間にひらめく。そのひらめきのプロセスが、実はベンチャーのアイデアにつながっているわけでありまして、パソコンの前にずっと座って、パソコンオタクでやっていると、例えばヤフーのイメージが浮かぶというわけでは決してないわけであります。
 清水博さんの本を見ていると、これは柳生新陰流に似ているという議論ですが、これは御紹介だけにとどめさせていただきます。創作劇をやれば、柳生新陰流は、相手が打ち込んでくると、常に勝てる技は形式知なわけですけれども、どういう状況に応じて相手が攻め込んでくるかはわからない。そこで創作劇、即興劇ができるような場が必要だという柳生新陰流の形式知のみならず、暗黙知、臨床知を持っているという議論なので、これにそのアイデアをおかりしているのですが、この2つが知識創造というのでしょうか、先ほどの新しい都市の第1番目の機能をつくるために必要ではないか。
 スライドに「グループ・ウェア」と書きましたけれども、数人の人たちが集まって、形式知と暗黙知、臨床知が融合化していくような社会という都市が必要だ。そこに知識が生まれ、文化が生まれることかなと思うわけであります。それをやる仕掛けとして、その上に「プラットフォーム」と書いてみたのですが、実はシリコンバレーにいますと、スマートバレー公社という新しいタイプの組織がある。アメリカでは最近、NPO、NGOの役割が非常に大きく言われるようになってまいりました。市場も失敗する、政府も失敗する。市場と政府の間で、市場でもない、政府でもない、パートナーといいましょうか、「協働」ができるようなNPOは非常に注目されている。

(OHP12)
 ただ、政府も失敗する、市場も失敗する、NPO、NGOも失敗するのですが、その3つをうまく組み合わせていくというのがこれから恐らく必要という議論じゃないかと私は理解しているのです。いずれにしても、真ん中に新しいNPOを位置づけよう。
 スマートバレー公社は、日本の例で言いますと、資本金はわずか1億円のノンプロフィットカンパニーです。会社ですけれども、収益を上げない。従業員は十数人という中小企業の最たるものであります。プラットフォームはいろんな有形、無形の支援をプロジェクトごとに与えるわけです。プロジェクトはコンソーシアムという形で、例えば教育問題を解決したい、インターネットを入れて解決したいというと、そこにハイテク企業の人、教育コンテンツの開発をやる人、教育委員会の人、自治体の人が入って、コンソーシアムを組んでプロジェクトをやっていくわけです。そういうプロジェクトフォーメーション、情報の提供、人材の紹介、人材と人材のマッチング等々、いろんな機能をスマートバレーは果たすわけです。
 日々のコミュニケーションとしては情報ネットワークを使いまして、1億円で十数人の企業体であっても、プロジェクトベースでいきますと、六十数個というのですか、これはプロジェクトが終わったらすぐなくなって、また新しくつくられることになりますので常に変動するわけです。六十数個のプロジェクトのうち、事業規模にして日本円で400億〜500億円ぐらい、お金がプロジェクトのパフォーマンスをはかるいい資本ではないと私は思いますけれども、日本的にお金換算という発想でいきますと、そのぐらいのプロジェクトが動いている。例えば、コマースネットというプロジェクトがあって、今クリントンがインターネット上で自由貿易地域をつくったらどうかという時代になってきたわけですけれども、そういうエレクトロニック・コマースのまさに世界的なスタンダードをつくり上げているようなプロジェクトがいっぱいあるわけです。
 そういう新しい仕掛けを「プラットフォーム」と称しているわけですが、まちづくりで言えば似たようなものをいろいろ探しているのですけれども、日本では情報ネットワークを余り使ってはいないのですけれども、長浜の株式会社黒壁がやっておられるみたいな発想に近いのではないかと思います。
 先ほど申し上げましたように、「教育」「医療」「芸術・文化」「環境」「商取引」とかいうようなコンソーシアムベースで知識創造のプロジェクトをやるということでありまして、しかもこういう1つの地域がほかの地域と広域的に連携をしたり、直接地域と地域が国境を越えていろいろ交流をする。
 最近「シティーネット」という、お聞き及びの方もいっぱいいらっしゃると思うのですけれども、横浜市が事務局になりまして、アジアのいろんな都市と都市の単なる姉妹都市ではなくて、情報ネットワークを使って、都市が抱えるいろんな問題を情報交換をしたり、課題をお互いに相談し合ったりいろいろしていく仕掛けができていますけれども、そういう国際交流も直接的にやることが必要で、そういう世界観ではないかと思うわけです。

(OHP13)
 スライドに「フラクタルなデザイン」と書いたのですが、日本の都市の景観は、先ほど吉村さんが言った、風土は1000年かかってでき上がるという議論、あるいは風景は100年というのでしょうか。いずれにしても、これから人が住みたくなるようなデザインが必要かなと思いまして、そのデザインは何かと思いますと、先ほどの機械系から生命系への発想の一環ですけれども、部分がすべて全体と相似形になっているというフラクタルな形、日本のいろいろな美術は墨絵に至るまで、フラクタルな構造だということ、あるいは日本の伝統的な建築物も、ある意味ではフラクタルな構造を持っているのではないかと私は思うのですが、そういうデザインをもって人を引きつけるところを持った日本型次世代情報都市社会が必要かなと思うわけです。



21世紀の情報都市のありよう

 皆さんだんだん本当かなと思っていらっしゃると思うのですけれども、さらに4番目の独断と偏見の議論を続けさせていただきます。
 今申し上げた日本型次世代情報都市社会は、1つの地域で選択と負担をするということです。地域でそういうことを選び取っていき、選び取った結果にはちゃんと負担をするという発想の考え方です。最近そういう議論をしますと、大前研一流に、これからは主権国家は要らないんだ、地域国家の時代だという議論があるのですけれども、どうもこれは違うのではないか。私は国の役人だから、あいつは中央官庁のレーゾンデートルをあえて探しているのではないかと思われるかもしれないのですが、決してそうではありません。
 例えば、江戸時代を考えて、300ちょっとぐらいの藩があった。リージョンステートで、藩札も流通していたということですが、日本の姿、形も江戸時代にはあったのではないか。もちろん明治国家以降のネーションステート、富国強兵をしてきた日本とは随分違ったかもしれない。司馬遼太郎の『この国のかたち』を読んでいくと、私も古い歴史にさかのぼって、日本が近代国家づくりを開始し始めた以前にも、この日本の形があったのではないかという感じがしているわけです。

(OHP14)
 地域地域で選び取ってくるというのはまさにそうですけれども、それでも日本のグランドデザインが欲しいなと考えました。これはまだ余り詰まっていませんので、御批判をいただきたいのですけれども、「現行都市計画の脱却」「区分配置+スプロール+オープン・スペース喪失」等々、かなり悪口を書いて、建設省の方がいらっしゃったらちょっと恐縮ですが、批判ではありません。「新しい都市の定義」は、先ほど申し上げましたように、「知識創造空間」「サステイナビリティ」というのがありますけれども、別途「サブシディアリティー」という議論があります。これは、ヨーロッパでEUという国民国家を超えた仕掛けをつくっているわけです。
 この前スコットランドでの自治権の確立に見られましたように、あわせて起こっているのは、地域がかなりクローズアップされてきているという流れで、マーストリヒト条約上はそれを「サブシディアリティ」と言っているわけですけれども、そういう議論が世界の潮流かな、日本の地方分権論もそういう世界の潮流の中で起こってきているのかなと私は思っております。
 そういうものを考えていくと、新しい都市の定義を言わなければいけない。それは、先ほど申し上げたように、あえて私は3つの要素を入れて考えてみたわけであります。そうなってきたときに、21世紀の日本の形は何かということですが、エコミュニティーと先ほど申し上げましたけれども、大別して2つあるのかなという感じが最近しております。
 1つは、グローバリゼーションの流れも無視できない。それから、若い人たちが都市に情報のダイナミック性を求めている部分もあるのではないだろうか。それから、グローバリゼーションが発達すればするほど、あるいは今私は金融の世界に関連していますのであえて思うのですけれども、世界単一市場になって、ダイナミックにお金が動いている。東京がそのための世界市場の拠点にならなければいけない。ビッグバンをやらなければいけない。こういう金融の流れは、スピードが非常に速い。しかも、ダイナミックな流れです。それにも相呼応していかなければいけない。
 ということで、例えば、東京という首都圏を考えてみると、ここに「地球都市」と書きましたけれども、一方で「高機能生活圏」というダイナミックな、若者を引きつけるような躍動ゾーンを持ったところと、その横の「ビオトープ空間」、ほっとするゾーン、またさらにダイナミックな空間。我々は、通常はビオトープ空間的なところに住んでいて、金融ビジネスをやる、ハイテクビジネスをやるというときに、ライフスタイルをそこでスイッチする。田舎的な生活もできるし、21世紀のダイナミックなライフスタイルもあわせてできるような、3300万人の東京の首都圏を少しそういうふうに分割して考えていくゾーンと、もう1つ「田園都市」と書いてみましたけれども、情報ネットワークを有効に活用して、新しい田舎が日本のいろんな地方都市でできる。こういうものと組み合わせをする必要があるのかな、それが集合化していくとこの国の形になるのかなというのが、私のおぼろげながらのイメージであります。
 「ライフスタイルのスイッチ」となってくると、よく言われますように、文明は非常に普遍で、例えばインターネット上は英語でないとだめだ。確かに英語教育を日本もしっかりやらないと、世界に取り残されるということであるわけですが、文化の独自性というか、あわせてむしろ日本らしさを今つくり上げていかなければいけないのではないか。そういうところで、ライフスタイルのスイッチをうまく議論していけば、最後に「文明の普遍性と文化の独自性」というのでしょうか、それに対しても解答が出せないであろうかと考えてみたわけです。

(OHP15)
 これは鳥瞰図です。それぞれが人口数万ぐらいの単位でありまして、それがネットワーク型に一定の地域に所在している。いろいろ機能が書いてありますけれども、ネットワーク化することによって、こういう機能をいろいろ持ち得るということであります。しかも、情報通信ネットワークを先ほどの一番下に、「次世代情報通信インフラ」と言いましたけれども、いろんな形で情報通信ネットワークを入れていく。これは、モバイルというのでしょうか、そういうことも含めて、単に生活とか、ビジネスとかということではなくて、地域環境の保全というところにも、情報通信ネットワークを使っていくことで考えてみたらどうかなというのがイメージであるわけでございます。



アジアへのネットワーク展開

 最後に、あと5分か10分程度アジアの話をさせていただいて、質疑応答という形にさせていただければと思います。

(OHP16)
 一番最後の行から入った方が早いのですが、私はシリコンバレーを見ていて、情報化社会になったときに、アジアがもう一つ違った変化をするのではないかという仮説を持っていたわけです。新しいタイプの産業クラスターといいましょうか、あるいは都市というところを中心にアジアも変わってくるに違いないと思っておりまして、その仮説というか、このことがやってみたら実証されたのです。

(OHP17)
 今ごらんのシートの次の次、「産業クラスターの発展段階(イメージ図)」というものをごらんいただきたいのですが、知識創造は、日本あるいは先進国だけの課題ではなくて、アジアも一律にこういう課題を抱えている。発展の段階がだんだんステージアップしてきておりまして、一番下にあります「加工組立型産業の産業クラスター」の「建設期」、その上は「完成期」。例えば、インドネシアとかフィリピンとか、中国、インドでは、今建設期にある。マレーシア、タイは、日本企業がかなり進出いたしまして、現在完成期にある。さらに、その次が私の関心事だったわけですけれども、「知識創造型産業クラスターの形成」がアジアで起こってきている。具体的には、シンガポール。都市計画と一体になって、情報化政策、IT2000とか、シンガポール1とかいうプロジェクトがあるわけです。ある意味では、日本よりも画期的な内容を持ったものであります。そういう新しい発展段階にある。
 あるいはマレーシアのマルチメディア・スーパーコリドーは、首都機能とか、空港機能もあわせてつくっていく。サイバーローというのですか、情報社会を規律する法律をつくってしまったわけであります。あの一帯が飛び地として、まさにシリコンバレー的なゾーンに生まれ変わろうとしている。実は今ちょっと通貨危機の話があってアセアンがおかしくなっていますけれども、そういうものです。日本の各地域、例えば岐阜、岡山、高知等々、いろんな地域で、この知識創造型集積をつくろうという流れが出てきております。シリコンバレーは、さらにそれを脱皮して、「次世代高度情報化社会」という話になっているのだろう、まさに生命系のあれになっているだろうと思うのですが、実はシリコンバレーを追っかけるように、アジアでもそういう動きが広がっている。
 先ほどの新しい都市の第2番目の機能で、私は「地球環境保全機能」をあえて加えてみたわけです。知識創造だけではだめだ。今アジアが抱えている問題は、単にバーツ危機を脱出して、またもう一回成長パターンに戻るかということではなくて、むしろ新しいパターンを考えなければ、アジアが発展すればするほど地球環境の問題が深刻になる。それから、アジアの人たちに「成長するな」あるいは「いい生活を夢見てはいけない」とは言えないという非常に悩ましい課題があった。
 例えば、11月のIPCCの京都会合なんかでも、そこでどういうふうに利害調整がなされるかは、非常に重要な頭の痛い課題に恐らくなっているのですが、私は新しい都市が内在的に地球環境保全機能を持っていれば、かなりの部分はそういう街づくりを進めることによって、地球環境保全と知識創造の両立が図られていくのではないか。それを推進する人材が必要であるということで、シリコンバレーでは市民起業家が、新しい地域づくりの人材像として注目されているわけですが、これからは人に着目しないとうまくいかない時代ではないか。
 実は、先週経済同友会に呼んでいただきまして、そのときのテーマは、「なぜ日本は本当にベンチャーが起こらないか」でした。第3次ベンチャーブームと言われているわけです。簡単に申しますと、ストック・オプションまでやれるようになりましたし、いろんな規制緩和が行われまして、本年度中にはアメリカ型の制度もほぼできる。あと経済同友会が、最初に意図していたような何か提言をする。特に政府にツケを回したいというところですが、私があえて申したのは、来年度以降もうツケがなくなりますという時代に入るわけです。ただ、制度が完備されたからとして、日本で本当にベンチャーが起こるというわけではどうもないのです。皆さんもそれがわかってるから、日本の起業家の方々はなかなか自信を持てない。21世紀の経営は、いま一つ自信が持てないというのは、今の日本の現状だろうと思うのです。要するに、仏をつくっても、魂を入れないと全く意味がないことの典型であります。
 私が申したのは、日本の今までのアプローチは、シリコンバレーと180度違う。シリコンバレーの政策の優位は人、その次に技術、その次に金だったわけですが、今までの日本がやってきたアプローチは常に金、それから技術、最後に人という議論になっていたわけです。それでは情報化社会はうまくいかない。人に着目した政策というか、政府の政策という意味だけではないのですけれども、ボトムアップの政策も含めてやっていかないとうまくいかないという議論をしたのです。まさに地域づくりも同じことじゃないかと思うわけです。

(OHP18)
 そういう中で、アジアがネットワークで本格的につながってまいりました。「情報流」「商流」「物流」「資金流」「人流」の5層構造になっているということを申し上げたのですけれども、お配りした資料の中で、先ほどごらんいただいた資料と、次の「産業クラスターとネットワーク」という中の太い枠で囲んだのが1つの新しい都市と考えていただいていいのですが、中世のハンザ同盟のように、都市と都市が広域ネットワークを組む。実はアジアも15〜16世紀まで世界の中心だったわけですけれども、まさに都市と都市がネットワークを組んでいく社会で、構造を持っていました。ヨーロッパのハンザ同盟は、12世紀から17世紀に500年間にわたって、人類がつくった国際的な組織としては最も長く続きました。私はアジアハンザ同盟がこれからできていくのではないかという仮説を持っておるのですが、そのときにネットワークのノード(結節点)に知識創造が起こったり、地球環境保全が起こったりという、ネットワークが5層構造になっていて、そのネットワークが集まるところが新しい意味での都市、アジアも新しい都市が出現して、それをつないでいくことが必要ではないかと考えたわけでございます。

(OHP19)
 最近これをテーマにして、「アジア・エキュメノポリス構想」を提唱しています。
 今申し上げましたように、これから新しい意味での都市は非常に重要になってくる。都市と都市がネットワークを組み始める。実はもう組んで、5層構造でダイナミックに展開していることを理念として打ち出してみたらどうか。「エキュメノポリス」というのは、ギリシャ語で「世界都市」というのでしょうか、そういうことを言っている言葉ですけれども、この斜線で囲んであるところ、日本から出発しておりまして、朝鮮半島に行って、中国の沿岸部をずっとおりてきまして、一方は沖縄に行っている部分もありますし、台湾に行って、あるいはフィリピンにつながっていく部分があるのですが、インドシナ半島を経て、インドあるいはアラビアの方につながっていく流れ等、南下をしまして、タイ、マレーシア、インドネシア、オーストラリア、ニュージーランドとつながっていくようなネットワークの流れです。この中で、21世紀の新しい知識を創造し、非常に厄介な問題になっている地球環境保全機能を持った都市づくりを日本が提唱してみたらどうかというのが私の発想であります。
 ちょっと大ぶろしきになっているのかもしれないのですが、最近日本から悲観論ばかり聞かれますので、こんな話もおもしろいかなと思って、あえてつけ加えさせていただきました。
 以上で話を終わりにさせていただきまして、忌憚のない御批判と御意見をいただければと思います。どうもありがとうございました。(拍手)



フリーディスカッション

司会(谷口)
 どうもありがとうございました。
 開始がちょっとおくれましたので、少し時間を延長をしたいと思います。今の加藤さんのお話に関して、御自由に御質問、御意見がありましたらお願いいたします。

加藤(日立製作所)
 大変興味深いお話をありがとうございました。私、会社の方でコンピューターに携わっておりまして、こういったマルチメディアとか情報化社会という話はいろいろ耳にするところがあるのですが、ちょっとわからないのが、シリコンバレーのことについてというか、収穫逓増のことなんです。
 たしかMITのフォールツ・クルードマンも収穫逓増のことに触れていたと思うんですが、収穫逓増が起こるのは、そもそも意図的なものではなくて、歴史的な偶然から始まってしまう。その後、合理的なもので後追いしたものが争っても勝てないだろう。それをシリコンバレーでなくて、別の地域のモデルで説明していたと思うのです。
 シリコンバレー自体も、最初のHPの人間であるとか、あるいはインテルのアンドリュー・グローブでしたか、シリコンバレーをこういう町にしよう、世界をリードする情報基地としようと考えていたのではなくて、たまたまそこでつくり始めて、後から入ってくる人は、あそこでやると何となくメリットがたくさんあるんじゃないかということで収穫逓増になっていたと思うのです。
 ここで新しい町をつくるときに、このシリコンバレーをモデルにしてつくろうとしても、最初からグランドデザインを書いて意図的にやっていこうというのは、具体的には無理なんではないかなという印象があるのですが、そこら辺は具体的にはどういったところから手をつけられるのでしょうか。

加藤先生
 まさにおっしゃるとおりで、かなりポイントをついていると思います。まずシリコンバレーが偶然でできたかどうかというところですけれども、99%偶然だと思います。ただ、1%作為があった。例えば最初のターマンという教授がスタンフォード大学に来たのは、両親が病気だったから、西海岸に面倒を見に来ざるを得なかった。それは偶然です。ヒューレットとパッカードに対して、ガレージの発信機をつくるといい出したときに、お金を与えたのも偶然じゃないかと思います。
 ただ、先ほど申し上げたように、生態系のようにだんだん発展してくる。最初に1%のきっかけをヒューレットとパッカード、インテルをつくったグローブとかノイスとかいう人たちが作ったんです。彼らは東海岸に対する違った企業文化をつくった会社あるいは企業構造を持った会社をつくろう。ヒューレットもパッカードも徹底的に会社を水平型にしました。社長室をつくらなかった。自分たちは常に従業員と一緒に歩き続けよう。横のネットワークをその会社でつくりました。それはインテルのモリスもそうです。
 よくいわれるのは、ヒューレット・パッカードはアテネで、インテルはスパルタに例えられるんですけれども、フェア・チャイルドができて、それが分散してフェア・チルドレンになって、孫、ひ孫がどんどんできていった。ただ、子供、孫、ひ孫、すべてその理念、東海岸と違った企業カルチャーで、東海岸と違った企業構造で、新しい企業社会をつくろうということをHPウエーとよくいいますけれども、それをまねていたのです。最初にヒューレットとパッカードが、実はつくりたかったと言ってつくった会社、これは1%のひな形をつくったんですけれども、それが実は発端でありました。
 確かにクルーグマン(MIT教授)の言うように、自然環境まで、いろんな偶然があるんですけれども、そういう偶然というんでしょうか初期条件、複雑系のカーブじゃないけれども、初期条件の設定が大事だったということです。複雑系で「北京で蝶々が羽ばたくと、翌日それがニューヨークで嵐になっている」というバタフライ効果が言われるのですけれども、初期条件の設定によって、先ほどの技術のパラダイム、いい技術が本当に勝ち残るかどうかわからないというパラダイムですね。悪い技術であっても初期条件の設定があれば、それは相手を負かせるかもしれない。初期条件の設定の仕方が非常に重要なんじゃないか。
 そういう意味で、シリコンバレーの最近の姿を見ますと、実は80年代後半に彼らは初めて絶不調期に陥ったんですね。日本に抜かれたわけです。日立の半導体にも抜かれた企業がいっぱい出てきたんですけれども、そのとき、例えばスマートバレーでジョイントベンチャーをつくろうぜ、最初、実はジム・モーガンという人物が10万ドルのポケットマネーを出したところから始まったんですけれども、彼がこういうスマートバレーのことをやりたいというのは、やっぱり1%の初期条件の設定だったんじゃないかな。その後、2000人の人たちが92年から開始された運動の中に入っていった。それがクリティカルマスというんでしょうか、最初のうちは、初期条件を幾ら与えても、彼らもうまくいかなかったわけですけれども、ある段階で、95年の夏ぐらいだったんじゃないのかなと思うんですが、彼らの活動がぐっと成功し始めて、プロジェクトも成果を出して、しかも、世界的に認知されてきたわけですね。インターネットの社会への普及も随分似ているだろうと思います。
 そういう1%の、例えばジム・モーガンの発想があって、彼が提唱してそういう人を集めた。あとは雪だるま式に2000人の人たちが入って、その人たちが市民起業家になって、それが子になり、孫になるというような位置づけの人たちが出てきた。この後半部分の99%はかなり偶然だと思うんですけれども、最初の初期条件の設定が肝心なんじゃないかと思うわけです。
 日本も今そういう時代なんじゃないかなと感じていまして、余り作為があり過ぎるとかえってよくないということなんですけれども、1%の初期条件とは何なのかを考えていく時代じゃないかなと思っているんです。

吉野(朝日航洋)
 先ほどシリコンバレーの中の民族の話がありました。アメリカ社会は多民族社会と言われますけれども、我が国と比較すると、かなり違う面があり、そこで生ずる異民族間の摩擦エネルギーというふうなことが、こういう社会なり経済を押し上げているのかなというふうに、先ほどのお話から感じたんです。シリコンバレーもそういう多民族社会、あるいは異なる宗教集団、宗教が背景にあると思いますが、その辺をお聞きしたいと思います。

加藤先生
 シリコンバレーでは、ICというのは、Iはインディアン、Cはチャイニーズだと言われるのです。例えばシリコンバレーのベンチャー企業、スタンフォード大学の研究室に行く。決まって出てくるのは台湾系アメリカ人とインド系アメリカ人ですね。シリコンバレーを支えているのはアジア人種なんです。実はシリコンバレーでももちろん日本食のレストランもいっぱいあるし、私はあれはアメリカではないのではないかと思うんです。そういう人種的な多様性といいますか、例えばインドのバンガロールが、今ソフトウエアで相当がんばっていますけれども、それはやはりシリコンバレーと衛星でつながっているから、インド人のクリエーティビティーが生かされているわけですね。逆に、シリコンバレーそのものがICで支えられているという構造もあるわけです。
 日本も、アジアとかヨーロッパ、アメリカを含めて、やっぱり多種多様な発想を持った人、そういう知的人材を企業の中に位置づける、社会の中に位置づける、地域の中に位置づけるということでないと、アイデアの授粉作業が行われない。同質化された人が、先ほど申し上げたように、創作的なパワーアップに集まるというのはなかなかできない。そういう発想の違う人たちが集まって、また独自の文化をつくり出す。
 あるいは、最近インターネット上で博物館をつくるとか、インターネット上でもちろんリサーチバーをつくるとか、インターネット上で美術館をつくるとかというのが始まっているわけです。そういうものも別にすべて集まっている必要は必ずしもないわけで、もちろん集まらないと本当の創作力は私はできないと思いますけれども、それを補完するものとして、ネットワーク上でそういうものを活用していきたい。そうすると、おもしろいアジアと日本ができてくるんじゃないかなと考えていまして、情報社会はその可能性をかなり拡大しているんじゃないかと思っています。

司会(谷口)
 まだ少し時間がありますので、他にどなたかどうぞ。

加藤先生
 ちょっと一言だけつけ加えます。この議論、シリコンバレーの話をしますと、私が決まって受ける質問、日本はそうはいかないという議論が二つぐらい出てくるんですね。さっきの経済とコミュニティーが修復関係に入ってくるという議論は、日本は徹底的に企業社会ですから、企業がコミュニティーの代替機能まで果たしている。さらに、家族も全部含めて、企業がいってみればコミュニティーの代替機能を果たしてきた。そういう徹底した企業社会なので、アメリカと全然違う。アメリカはコミュニティーがしっかりしていたから、ああいう社会ができ上がり得るのであって、日本では理想論じゃないかという議論があるのです。
 もう1つ出てくるのは、アメリカはやっぱり個人主義の国だから、やはりこういう発想になじむのではないか。個人の自立というところがもともと非常に強い土地柄だから、うまくいっているんじゃないか。
 1番目の関連で言えば、アメリカはもともとタウンミーティングとか、そういうコミュニティーから植民地のときは始まった土地柄で、キリスト教の伝統もあるし、こういうのがうまくいきやすい保障があるんじゃないかという議論があるのです。日米比較でやりますと、常にそういう議論が出てくるわけです。 私が訳した『市民起業家』という本は、シリコンバレーでまさにこういう活動をやっている私の友人3人の書いた本で、これは私は非常におもしろいな、メッセージが深いなと思って訳したわけなんです。それは実はアメリカのシリコンバレーと違って、ほかの6地域をいろいろ見て、その上でどういう挫折があったか。その市民起業家という具体的な人たち、固有名詞がいっぱい出てくるわけですけれども、そういう人がどういう町をつくってきたか、克明に書いてあるわけです。それを見たところで、余り回答だけを申し上げてもあれですから、ちょっとヒントになるようなことを申しますと、私は、アメリカも決してコミュニティーと経済が一体になった社会をつくるのに恵まれた構造じゃないなという感じがしました。
 現にシリコンバレーは、今は光の話ばかり全部いたしましたけれども、かなり影の部分も結構あるのです。情報に取り残されていく人たち、インフォメーション・パブノッツ(情報を持たない者)といっているのですが、そういう人たちがやっぱり出てきていますし、クリーブランドという町の市民起業家がやった街づくりを見ていますと、人種問題が絡んで、特にダウンタウンの活性化ということになると、そういう低所得者階層に手をつけないと、実際の町の活性化にならないわけです。そこは常に人種の、白人と黒人の従来歴史的にあった対立、そういう議論が常に出てくるわけです。それに10年、20年、物すごい時間を費やしているというのが実際に出てくるわけです。
 日本だと、権利調整が難しいとか、いろんな議論があったり、我々はコミュニティーの伝統がないとかいう議論もありますけれども、そういう特殊人種的な偏見に基づく問題はそれほど大きくない。社会自身が、アメリカのように貧富の格差が物すごく大きい社会と違って、割と等質化している。したがって、知的な関心レベルも割と似通っているというところは、実はむしろある意味では条件に恵まれた部分があるわけです。
 日本もアメリカも、長所、欠点がそれぞれあります。どっちがどうかというのはなかなか言えないんじゃないかなと思っておるのです。
 しかも、コミュニティーを彼らが意識し出したのは、直接的には、決してきれいごとではないのです。シリコンバレーの人たちがコミュニティーといい出したきっかけは、企業が国際競争力に勝ち残っていかなければいけない。そのときに、例えばマイクロソフトはシアトルにありますね。あそこと人材獲得競争をしなきゃいけないんです。シンガポールと人材獲得競争をしなければいけないわけです。優秀な研究者、技術者、あるいは芸術家もそうだと思いますけれども、そういう人たちを集めようと思うと、教育環境、居住環境、そういうコミュニティーがいいところでないと来ないわけですね。
 例えば優秀な技術者を集めようと思ったら、幾らストックオプションをやっても来ない。教育環境、子弟の教育で一番すぐれているところに研究者はいたいということになってきたときに、彼らはやっぱりコミュニティーとの接点を感じ始めたわけです。SOHOみたいなものがどんどんでき始めて、それがまた加速化したわけですけれども、もともと非常に激烈な国際競争に生き残るための優秀な人材を集めたいというところから、ああいう関心が始まったんですね。
 それからだんだんやっているうちに、じゃ、企業のためにもなるし、コミュニティーのためにもなるということになって、非常に高らかに市民起業家という美しい世界をいい始めたわけですね。発想は最初はそう美しくなかったんじゃないかと思うんです。
 実は日本の大企業を見ますと、日本の大企業の方々は、グローバル競争のパラダイムの変化というところをまだ肌に感じていないんじゃないか。これからは先ほどのビジネス・エコシステムという発想をしていかないといけないんじゃないかと思うのです。日本の企業は、まだ企業という枠にとどまっている。例えば日立にしても、いろんなところで戦略提携を外部の企業あるいはベンチャー企業の人たちとやりますけれども、戦略論の基本はやはり日立という企業に限られちゃうんです。そこを抜け出ないといけない。抜け出ると企業の競争力は何で支えるか。やはり人材だ。人材はどういうふうに集めるか。自分があるところのコミュニティーがいけないなら、そこを豊かにしていかなきゃいけない。
 ジム・モーガンという、初期条件1%を与えた人物は、彼はアプライド・マテリアルズという半導体製造装置をつくっている企業の社長さんです。彼はそういうことで企業の社長としてもそういう変化を感じ取っていたから、やり始めたわけでして、今、日立が日立市の空洞化論に非常に悩んでいらっしゃいますが、そういうことだけでなくて、大企業が生き残るためにも、豊かなコミュニティーをつくっていかなきゃいけない。
 それがだんだん進化していくと、清く正しい世界、コミュニティーの多面化が技術革新の創出につながるという、どっちかというと主従が逆転している世界に入ってくるのではないか。だから、日本でもこれだけ厳しい国際競争の中に企業がこれから生き残っていかなきゃならないということを考えたときに、コミュニティーを直視せざるを得ないのではないか。今までは企業メセナとかフィランソロフィーということで、売上高の1%を寄附しましょうという議論だったのですが、そういう消極的な発想では、企業自身が存続していけないということなのではないかと思って、ですから、日本の中でもやはりコミュニティーを大事にしていく動きが、これから当然出てくるに違いないと私は思っております。

松原(岡村製作所)
 今の先生の話を非常にいい話だと思って、支援する立場から申し上げたいと思うんです。実は私は東京でもちろん勤務していますが、茨城県に住んでいまして、まさにコミュニティー活動を土日やっています。毎月1回定例会をやったり、いろんな形でやっているんですけれども、一番問題はやっぱり大企業の社員が、先生のおっしゃるような認識にならなくて、そこに集まってくる人間はまだ少人数です。会員としては、出席する人は主婦も含めて10人ぐらい、でも、案内を出すのは70人ぐらい出してやっているんです。
 シリコンバレーのスマートバレー公社の話も我々の中で出しまして、市会議員なんかも入って皆さんと議論しているんですが、非常にいい話だ、これをどんどんうまくやっていかないと、日本が国際的にも立ち行かなくなるのではないか。
 私なんかもう年をとっていますから、年とってくると余裕が出てきますから、パワーがある限り、エネルギーがある限りは、そういう方にどんどんエネルギーをそげるのではないかと思っています。今はもちろん会社が8割、9割ですから、そんなところにエネルギーを注ぎませんけれども、考え方としては物すごく共鳴できるすばらしい考え方だと思っています。大企業の社員がみんなそういうふうになった形で、高齢化社会が迎えられれば、日本も捨てたものじゃないのではないかと思います。
 賛成演説のようでで申しわけないですが、何か一言でも頂ければと思います。

加藤先生
 60歳定年制ですね。ですから、75歳まではヤングオールドという議論をなさるわけですけれども、ヤングオールドが地元でコミュニティー・ビジネスを起こす。ハイリスク・ハイリターンのベンチャービジネスではないけれども、ミドルリスク・ミドルリターン、ローリスク・ローリターンで、そのうちカットされるかもしれませんが年金と、コミュニティー・ビジネスの収益があって、しかも、自分も第2の人生か第3の人生を別の生き方をしてみたいという人が、最近50代の方にふえてきていらっしゃるんじゃないかなと思うのです。
 私が、この前、経済同友会でお話ししたのは、コミュニティー・ビジネスもベンチャーだ。ハイリスク・ハイリターンだけがベンチャーだということではなくて、ミドルリスク・ミドルリターン、ローリスク・ローリターンもベンチャーだ。あるいはシニア・ベンチャーもベンチャーだという議論。そうすれば、今、医療保険の話の議論に入っていますけれども、介護の話、来年議論される年金の話いうと、国の歳出をそうふやせないわけですね。需要はもっとふえるわけです。これをどうしたらいいのかというところは、ちょっと発想を切りかえて、そういう発想をしていかないといけないのではないか。
 例えば長野県は、男性は全国一長寿、女性は全国第4位の長寿です。ただ、1人当たり老人医療費は全国で一番少ない。健康長寿県で、しかも、歳出負担が少ないという県です。なぜ健康長寿県になっているか、しかも、国、自治体から歳出を求めなくても暮らしていけるかというと、やはりそこにコミュニティービジネスがあって、自分たちが生きがいを持って働ける場が、しかも身近にある。通勤をえっちらおっちらするのでなくて、身近にあるという社会が自然にできているのだろうと思うのです。
 そういう発想を日本もこれから入れていかないといけないんじゃないか。私は茨城県の動きはちょっと存じませんでしたけれども、それに類したビジネスは東京周辺でも、あるいは東京の中でもいろいろ始まっているんです。最近おいおい出てきていると思います。ただ、中長期的にそれを育成していくという目で見ていかないと、直ちにビジネス化するのは難しいと思いますけれども、まさに今やっていらっしゃる活動が、私に言わせると、市民起業家社会かなと思うわけでありまして、ぜひ頑張っていただきたいと思います。

司会(谷口)
 それでは時間が参りましたので、これを持ちまして本日のフォーラムは終わらせていただきます。加藤さん、大変有難うございました(拍手)


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