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第120回都市経営フォーラム

経済学の立場から見た都市計画の論理

講師:八田 達夫 氏
大阪大学 社会経済研究所・教授


日付:1997年12月16日(火)
場所:後楽国際ビルディング・大ホール

1.市場と都市計画

都市計画の失敗と個人の失敗
計画の失敗に対して、だれが責任をとるのか
都市計画家が住宅環境の良好さ劣悪さを決めるのか
市場における都市計画家の役割
2.都心の容積率規制と居住促進策の経済学的根拠
3.都市計画家に望むこと

付論:建築基準法の運用における市場機能の活用

単体規定
集団規定


 大阪大学の八田でございます。
 きょうは「経済学の立場から見た都市計画の論理」という題をいただいたのですが、まずは、都市計画における経済学の活用ということをお話ししたい思います。
 私は、40代半ばで日本に帰ってくるまで18年アメリカにおりました。オハイオ州立大学の経済学部の助教授が、私の生涯で最初の職でした。当時、都市交通の問題に興味を持っていまして、多少その面で論文を書いていましたので、経済学部で教える傍ら、スクール・オブ・アーバン・プランニングに行って、都市交通の授業をとったことがあるのです。
 そこで感じたのは、とにかくアメリカの都市計画は、工学じゃない。スクール・オブ・アーバン・プランニングにも、工学の人も確かに一部にはいらっしゃるけれども、経済学の人もいっぱいとっているし、社会学の人もたくさんいて、いろいろコミュニティープランニングのことなんかもやっている。中には法律の方もいらっしゃる。いろんな分野の人が協力して都市の問題を考えようとしていらっしゃる。これは非常におもしろいものだと思ったのです。
 私は、専門は公共経済学です。つまり、ミクロ経済学的な価格論をいろんな問題に応用する分野です。都市のことも当然経済学がある程度役に立つと思っていますが、日本では、建築関係とか都市関係で、経済学を使うことが意外と見られていないのに驚いています。私が思うには、都市計画の道具あるいは奴隷として経済学を大いに活用していただけるのではないかと思うのです。その面から、きょうはお話ししたいと思います。



T.市場と都市計画

 まず、現状の日本の都市計画と経済学を比較してどういう印象を持っているかをお話ししたいと思います。
 都市計画は、私の目から見て端的に言えば、大変なエリート主義である。要するに、おれたちが本当にいいものを知っている、美しいものを知っているんだと都市計画の方たちは考えていらっしゃいます。それから、大衆の蔑視と言っては悪いけれども、大衆に迎合しては世の中はメチャクチャになると考えておられる。
 一方、経済学の方は、ある意味では、徹底した相対主義です。要するにまず自分たち経済学者に価値は置かない。とにかく人々に選ばせればそれでいいという相対主義がその特色ではないかと思うのです。この違いは、学問そのものというよりは、その学問に携わる人たちの心情にちょっとそういう違いがあると思うのです。
 もう1つの違いは、両方の学問に携わっている人間のタイプです。都市計画の方は、見るからに頭脳明晰で馬力がある。非常に迫力がある。それに対して、経済の人は、どうも安楽いすに座ってボーッとしていて、何となく空理空論を言っているような趣がある。現実問題に対して馬力を持って分析をするスピードがどうもない。これは心情の問題というよりは、実際の人間のタイプとしてそういうことがあると思うのです。だから、何かの問題があると、馬力を持ってやっている人の方が結局はいろんな貢献をしていくという面がある。これはかなり、実際の政策に都市計画の方が大変なインパクトを持っていらっしゃることを説明すると思います。それがこの問題に対する、私のもともと持っているちょっとした偏見です。



都市計画の失敗と個人の失敗

 偏見と言えば、多くの都市計画家が持っておられる経済学に対する偏見について、まずお話ししたいと思います。
 「経済学というものは、『何でも自由にさせろ、市場に任せれば万事解決する』と言っている」と多くの方が考えていらっしゃいます。もしそうだったら、経済学という学問は要りません。要するに御本尊みたいなのがあって、自由な市場で何でもやれというのが1行あれば、それでおしまいになってしまう。
 ところが、ミクロ経済学の教科書をごらんになっていただければわかるのですが、そんなことはありません。例えば、今おそらく一番よく売れている、日経新聞社から出ている岩田規久男さんが書いた『ゼミナール ミクロ経済学入門』というのがありますが、随分厚い。この本には、ある条件が満たされるとき市場は資源を有効に配分する、しかし、そういう条件が外れたときは、市場はうまくいかないということが書いてある。それが市場の失敗です。市場が失敗するときに政府がどうやって直せばいいのか、どうやってあたかも市場が成立しているかのごとく資源を配分すればいいのか、ということが書いてあるわけです。
 したがって、「市場は失敗するから経済学はいらない」という計画畑の人の思い込みは的外れです。経済学は、ほうっておけばいいよという学問ではなく、むしろほうっておけばいい分野もあるけれども、多くの部分について、ほうっておいたら、ちゃんと市場がうまく機能しないところがある。そこをどうやって機能させるかということを考える学問なのです。そこにおいては目的はほとんど都市計画という学問と同じだと思います。
 市場の失敗とはどんなものがあるかというと、例えば、独占というものがあります。電力の売買を完全に自由にしてほうっておくと、電力会社は料金をやたらに高くするわけです。独占で競争がないですから、非常に高くする。そのため、電力会社が大儲けすることになる。大儲けすること自体が悪いわけではないが、この結果、社会的に見て過少な量の資源しか電力には投入されなくなることが問題です。したがって、電力のように技術的な理由で、自然に独占が発生するところでは、当然価格を国が規制しなければいけない。これは自由放任にしておいたらとんでもないことになってしまう1つの例です。
 それから、公害の問題があります。これも垂れ流しにして、その費用を自分自身が負担しなければ、当然その会社にとっては安く儲けるわけですから、ほかの人の迷惑を考えずにどんどん垂れ流しをする。これもほうっておいたらダメです。それに対してどういう政府の干渉の仕方があるかということは当然考えなければいけない。先ほどの独占とか、2番目の外部不経済がある場合は、市場が失敗する例です。
 ところが、一般には「市場の失敗」という言葉は、誤用される場合がよくあります。この言葉で、単なる取引の失敗、個人が取引で失敗することを言うことがある。例えば、こういうことをよく聞きます。個人は先のことまで考える能力が余りないから、ちゃんとした住宅をつくらない。だから、むしろ国がきちんと規制すべきだ。あるいは補助金をつけるべきだ。つまり、「個人が決断を間違うということは、市場が失敗することであり、したがって、こういう市場の失敗に対しても、経済学者も言うように、国が何らかの干渉をすべきだ」という話が出てくる。それは全然そうではないのです。
 個人が長い目で見て間違った判断をするのは当たり前です。これは短期的にも当たり前です。私なんかはしょっちゅう間違った判断ばかりして、すぐ後で後悔する。しかし、それはあくまで個人の問題で、そこで失敗したことの責任は全部個人に戻ってくるわけです。これは単に、大の大人が「自分でどうでも自由に決めていいよ」と言われている状況で間違った判断をした、ただそれだけの話です。それは個人の取引における失敗です。これは市場の失敗ではない。
 市場の失敗というのは、先ほど申し上げたような独占とか外部不経済の場合のように、すべての人が合理的に行動していて、非の打ちどころのないほど自分の儲けを最大化しようと行動すると、何も個人の失敗がないのに、そこで社会全体としては大変な損失が発生する。そういう状況をいうので、そのときには国の干渉が必要です。個人の失敗は、責任は個人でとるのだから、これに対して何も国が干渉する必要がない。個人は間違ってばかりいるから無駄があるが、失敗の結果は自分に降りかかるから、試行錯誤でだんだん直していく。まさに個人が責任をとるからこそ、大きく間違った判断はしにくいということです。
 これに対して、よく経済学は完全無欠な個人、非常に合理的な個人を考えているから、それはおかしいのではないかという議論がある。じゃ、個人よりももっと政府の方がちゃんと考えられるのでしょうかということです。
 国が知ったかぶりして「あんたはこういうことを本当はしたいんだよ」と言ったら、もっとひどいことになる。それはソ連で見たことです。これは程度の問題です。アプリオリに市場だけがいいなんてことは言えませんが、要するに、今までの我々の長い経験で、政府がいろいろえらそうに、「おまえのことは本当はよく知っているんだよ」と言ってきたのは、みんな失敗してきた例を知っているわけです。しかもその理由が、人々の多様な好みに関する無数の情報を集めるのに、官僚組織が向いていないからだということがわかってきた。
 その上、国が失敗したって国は何も責任をとれない。国の政策の失敗の結果、何億、何十億という損失をその日、その日にだれかが負うわけでしょうけれども、それの責任は橋本さんはとらないわけです。
 だから、そういう「責任をとる人にディシジョンをさせよう」というのが経済学の考え方です。個人の市場における失敗は当然あり得て、その責任は彼がとればいい。その前提の下、システムとしての市場の失敗があれば、それに対して国が干渉して矯正すべきだ。それが普通の経済学の考え方です。



計画の失敗に対して、だれが責任をとるのか

 そうなると、計画というのはどうするのか。国のことをちょっと申し上げたけれども、計画もいろいろ失敗するのです。私は、大阪の千里ニュータウンに住んでおります。ある意味では、人もうらやむ、なかなか広い道のある町です。しかし、例えば、学生が酒を飲むというとき、千里ニュータウンで飲もうという人はまずいない。阪急の石橋というごちゃごちゃしたところがありまして、みんな必ずそこに行く。そっちの方が居心地がよい。
 それから、前に私の研究所で、世界中から学者を呼んで大きなカンファレンスをしました。そのとき、うちの研究所の人間が、「千里ニュータウンにある千里阪急ホテルは、典型的なサバーバンホテルで、なかなか格好いい。ああいうものは外国にないから、ぜひあそこでやろう」というので、そこでやったのです。それはそれなりにしゃれた郊外のいいホテルで、カンファレンスをやるには良かったのですが、外国人の人たちは、夜はみんな難波に出かけていく。難波に行くと、みんな「これは日本的だ」と言うし、「こっちに行きたい。あしたは自分で行くから、行き方を教えてくれ」と言う。やはり計画した町よりも、どうも石橋とか難波とかの方がいいのです。
 千里ニュータウンでどういう問題があるかというと、例えば、千里中央には、カラオケがない、コンビニがない、レンタルビデオもない。要するに、新しいものが全部ないのです。それは、既得権を非常に重んずるような権利の配分制度があるからかも知れません。しかし、周辺に自由に新しい店が入ってこれない町の構造が、そういう既得権の維持を可能にしている。なにしろ、千里ニュータウンのショッピングセンターから一歩外に出ると、住宅・都市整備公団の高層ビルの住宅がずらっとある。したがって、町が横に自然に広がっていけない構造になっている。
 それから、千里ニュータウンをつくった時代に、反自動車主義があったのでしょうが、公園には歩いてきてくださいということで、公園の周りには駐車場が一切ない。したがって、今みんな違法駐車であふれている。いろんな失敗があるわけです。
 こういう計画の失敗をだれが責任をとるのかということがどうも明確でない。もしこれがコマーシャルなディベロップメントで、千里ニュータウン全体が民間会社の開発したものであったというなら、この失敗に対して、その会社が得るレントが少なくなるとか、次に事業をやるときの評判が悪くなるとかいった形で責任をとるわけです。しかし、国が失敗をする場合には、だれが責任をとって、だれの首が飛ぶのか、だれの配当が少なくなるのかということが全く明確でない。この責任をとる体制がないことが、「計画の失敗」の一番恐ろしいところです。この例は千里ニュータウンだけではないと思います。千里ニュータウンは、僕は大失敗だとは思いませんけれども、いろんなちょこちょこした失敗がいっぱいある。こういう例は他にもある。
例えば、筑波大学の社会工学類のあたりにいらした方があるかもしれませんが、私の目から見たら、世にも醜悪なビルです。しかし、見かけがよくないということよりも、物すごく複雑になっていてわかりにくい。これは都市計画の方がつくられたというのです。こういうものもやはり計画の主体が、あるいはその人が、どうやって責任をとるのだろうかということが明確でない。
 そういう計画と市場との差があります。つまり、市場は、それがうまく機能していると、個人の失敗が自分自身の損害として戻ってくるという仕組みである。それに対して、計画の方は、計画を失敗させた当人が、その失敗の損害を自分でひっかぶる仕組みがない。そこが計画の大問題であると思います。
したがって、ある程度の大規模な都市計画なんかをするときには、だれかに最終責任を負わせることが、計画の失敗を最少にする方法だと思います。最終決定をする人には、いかなる形で責任を負わせたらよいのでしょうか。もし計画が成功したら大儲けするし、失敗したら大損害をこうむる。そういう仕組みをつくることが、いわゆる計画と言われているものがもっとうまく機能する方法だろうと思います。
そのための方法として例を挙げたいと思います。私は、ワシントンD.C.から大体1時間ぐらい北に離れたボルチモアに1年間住んでいました。だから、ボルチモアのことはよく知っています。ボルチモアの港といっても、ヨットや何かが入るインナーハーバーの周りは、昔は倉庫街で非常に荒れていたのです。それをラウス・コーポレーションという不動産会社がきれいに整備して、そこに飲食店とか、ちょっと観光的な色彩の強いショッピングセンターをつくるという案を出し、市がそれに乗りました。しかし、反対派は、ここはせっかくきれいにするなら環境を改善するために公園にしろ、こういう商業主義はけしからぬと言って反対したわけです。
市側の説明では、「もしラウス・コーポレーションによるディベロップメントがあれば、そこから上がる固定資産税で、周辺をきれいにする費用は全部賄うことができる。したがって、経済的にもこれはペイする」という典型的な経済開発主義の議論をしたのです。他方には、そういうコマーシャリズムはけしからぬ、環境重視でいくべきだという議論があった。おそらく日本の都市計画でも、そういう際には意見が分かれるのだろうと思います。
これは基本的に物の考え方、趣味の違いです。片一方は、結局はお金をかけても環境を保全しよう、片一方は、いわゆる公園的な環境もいいけれども、楽しくにぎやかにやるのもいいじゃないかというのですが、これは趣味の問題です。どっちがいいなんていうことは最初から言えない。それをどうやって決定したかというと、住民投票で決めた。そして、ラウス・コーポレーションの案が採用され、住民投票が終わったらすぐに着工を始めて、完成して大成功しました。そういう例があります。
この場合には、投票したのですから、責任は住民がとったのです。市の議会は、この開発問題を争点として選ばれてきたものではなく、ありとあらゆる政治的なバランスで選ばれてきたわけだから、このことに対して責任をとることはできない。しかし、住民が決めたのなら、この結果市の財政が悪くなろうと、環境が悪くなろうと、決めた住民にかかってくるわけです。即ち、失敗した時損害を受ける人たちが決定できた。その意味では、自己責任が完結する方法で決められたといえると思います。
似たような例として、これは住民投票ではありませんが、やはりラウス・コーポレーションがやった話で、インナーハーバーよりもっと前にやったことがあげられます。1965〜1966年ぐらいだったのではないかと思いますけれども、ワシントンとボルチモアの間にコロンビアという町があります。そこはもともとは農村だったのですが、そこがある日突然気がついてみたら、ラウス・コーポレーションが全部土地を買っていた。そして、そこにコロンビアという職住接近で、しかもボルチモアにもワシントンにも30分もかからないで行ける町を突如つくったわけです。いわゆるニュータウンです。それを一民間会社がやった。そして、これで成功するか失敗するかの結果は全部このラウス・コーポレーションが負う形でやった。そして、これも成功した。
こういう計画の決め方は、1つは住民投票ですし、もう1つは民間会社がやったことですが、どちらの場合もきちんと責任をとっているわけです。そして、成功した場合には大儲けし、決定した人たちが得をする。失敗したときは、その人たちが損をする。ここが、先ほど申し上げた計画の失敗に対するきちんとした始末のつけ方、責任のとり方を明確にしたシステムだろうと思います。
その意味では、どうも日本のシステムはうまくいっていないのではないかと思います。大阪に法善寺横町というところがありまして、昔からの料理屋なんかが並んでいる小さな路で、おそらく建築基準法には違反しているのか、特例措置があるのか何か知りませんけれども、やたらに細い。ただ、味があって、なかなか面白いところです。お香のにおいがする水掛不動もありますし、その横には、非常に値段の高い料理屋もあるし、安い料理屋もある。
ところが、そこの入り口がいまやピカピカしたゲームセンターなのです。そういうものを許してしまった。これは誰がみても大失敗です。最初に申し上げたように、経済学の基本的な命題は、「外部不経済、公害がある場合には、自由放任は必ず失敗する」というもので、これはその典型的な例です。はっきり言えば、あれで法善寺横町の不動産価値はガクンと下落したのです。ほかのところの価値を落としたのです。もう一つゲームセンターができたら、もうこれで決定打になる。もう法善寺横町なんてだれも訪ねて行きたくもないということになる。
もし法善寺横町の人が、自分たちでその地域の規制をできるという仕組みがあったら、例えば、8割の人が賛成したら、ここは飲食店だけに限るというような、ある規制を置くことができたらどうか。アメリカの町でよくあるのは、例えば、看板は色を使ってはいけない、字体は何でもいいが、白黒だけにしろという規制を置くところもあります。そういう規制を自分たちの責任で置くことができたら、こんなものはあるはずがなかった。これをなまじ、もっと広い範囲のことを決定する市が責任を持って規制するものだから、そういうのは外れてしまうわけです。成功・失敗の影響を直接受けない人が決定をしてしまった。市では、そんな細かい規制ができるはずがない。
 これのもっと極端な例は、京都の先斗町です。先斗町もなかなか情緒のあるところですが、あそこの北側には、今2軒ぐらいファッションヘルスがあります。私は、ファッションヘルス産業自体に目くじらをたてるつもりは全くありませんが、それをよりによって先斗町につくらせるという神経がわからない。これも、もし先斗町の人たちが自分たちで都市計画をできるとしたら、そこが決断のユニットだったら、これを許すということはあり得なかっただろう。
 要するに決断する単位、主体が、それによって損したり得したりする人たちであるという体制がないということです。そして、それを決断する人たちが、結局は役人であったり、大学の先生であったり、何だか知らないけれども、余り責任のとりようがない人が理想論でやれる現在日本の状況は、何としてでも直していかないといけないだろうと思うのです。



都市計画家が住宅環境の良好さ劣悪さを決めるのか

 こうなると、「そうは言っても、大体人々が好ましい都市と考えるものは、ある程度の共通性があるのではないか」という反論が都市計画の方から出てくると思うのです。
そこで、「住宅環境の良好さ劣悪さを決めるのは、都市計画家の役割なのか」を考えてみたいと思います。
 素人にもいろいろ町について意見があるかもしれないけれど、玄人に言わせると、やはりいい町、悪い町がある。だから、玄人の言うことを聞いておくと、後で何十年かしたら皆さんきっと感謝するんだよ、という立場があると思うのです。これが先ほど私が申し上げたエリート主義です。
 よく言うのですが、私は、森進一が好きで、ドリカムも好きなんですけれども、ドビッシーとかシューマンとかは余り聞いたことがない。だけれども、そういう大衆的な曲ばかり聞いていてはダメだ、せっかく生まれてきて、ドビッシーとかシューマンとかを聞かなければダメだよ。都市計画の人と話していると、そう言われているような気持ちがする。やはり本当にいいものはどこかにある。おまえたちの好みはセンスがない。おれたちはいろいろ見てきたんだという感じがある。
 ところが、それを伺っていて私が思い出すことがあります。第1は、神戸で地震の後、私もどうなっているのだろうと思って見に行ったときのことです。ああいう状況ですから、案内役をだれかにお願いするわけにもいかないから、とにかくタクシーに何台も乗り継ぎまして、何人かの運転手さんにいろいろと案内してもらった。神戸の中心の三宮で乗ったときに案内して下さった運転手さんは、そのとき避難所に住んでいるというのです。「ご家族の方は本当に大変でしょう」と言ったら、「いや、家族はうちのマンションにいます」と言うのです。「マンションに住めるのですか」「住めるのです」「あなた、何で避難所にいるのですか」と言うと、「避難所の方が便利だから、居心地がいいんです」と言うのです。奥さんと大学生のお嬢さんはマンションの方にいて、自分は避難所で寝泊まりしている。避難所の方が勤めにも便利で居心地がいいというわけです。
 この運転手さんの発言は、少なくとも僕が今まで話した住宅学とか建築学の方の観点から見て、あってはならない発言です。建築学からすると、良好な住環境の整備こそが、最も大切なはずです。だけど、この運転手さんからみたら、いわゆる「良好な住環境」より、勤め先に近い方がいいのです。人と一緒に雑魚寝したって近い方がいい。これは多様性の問題です。事実、この例の示唆的なところは、その人のお嬢さんは避難所には来なかったことです。お嬢さんは、多少ひびが入っているかもしれないけれども、マンションの方がよかった。この運転手さんは、避難所の方がいい。人はやはり、好みに多様性があるものだと思うのです。
 第2は、大阪大学で、神戸地震のことをきっかけに、住宅問題に関心のあるいろんな分野の人が集まって、お互いに発表し合って、一種の異分野交流をしましょうという企画があったときのことです。私も工学部の方たちと一緒に参加して、また法学部の方もいらっしゃったのですが、そこで発表なさった1人に、少年犯罪がご専門の社会学の教授で、本職は和尚さんがいらっしゃいました。もっともどっちが本職か知りませんが、お寺の和尚さんもやって、阪大の教授もやっていらっしゃる。しかも少年犯罪だから、和尚さんとしてだけでなく社会学者としても、そこら辺のチンピラとのつきあいがおありになる、というわけで、ある意味で、趣味と実益が全部合っているような方です。
 そのときに、望ましい都市のあり方という議論をしていて、だれかがいろいろみんなの好みはあるかもしれないけれど、例えば、電線を地下に埋めてしまうことについては、みんなが一致できることでしょう、そういうことはやっていくべきではないかと言いました。そのとき、その和尚さんが突然反対して、「冗談じゃない。電線のない町は町じゃない。町というのは、電線があって、そこにスズメがとまっていて、それで町だ。それを埋めちゃうなんて、まるで町でなくしてしまう」というわけです。(笑)これも多様性の問題です。「おまえは無理やりドビッシーを聞け」と言えないのです。電線のある町に住みたい人は、そこに住めばいいのです。
 3つめは、2〜3日前に高校の忘年会があって、そこで出た話です。北九州の小倉に旦過(タンガ)市場という昔風の延々と続く市場があります。そこを今再開発を考えているらしいのですが、そこの魚屋さんが私の高校の同級生です。慶応大学を出て、その社長に戻った人です。ついでに言えば、小さな店ですけれども、もう100年続いている魚屋さんです。彼が言うには、彼が中学のときまでは、旦過市場では毎年火事があった。毎年1軒は必ず火事があったというのです。けれども、火事がそんなにいけないのか。火事があるから、旦過市場を全部つぶしてしまってもいいという議論になっていいのかというわけです。つまり、いろんな好み、いろんなリスクのとり方が世の中にはあっていいのだろうと思うのです。
 このように、さまざまな趣味の人がいる。そうすると、何が良好な住環境かは、都市計画家が決めるべきではない。そして、これは住民が決めるべきです。住民は場所によって全く違った選択をしていいだろうと思う。人々が都市を選ぶ。そのために多様な選択のメニューがある。そういうシステムをつくるべきだと思います。
 アメリカで私も随分いろんな都市に住みましたが、それぞれによっていろいろ性格が違うのです。例えば、ニューヨークは、ご存じのように摩天楼がある。しかし、都心でもそれなりの居住者がいて、都心の生活がある。ワシントンは、ご存じのように、高さ制限があって、非常にフラットな建物で、あれはあれで大変魅力のある開放的な町だと思います。それぞれに持ち味がある。そして、ワシントン都市圏にも実際問題として、容積率を外したような高いオフィスビルがあります。ポトマック川を渡って向こう側のアーリントンに行くと、高層のビルがいっぱい建っていて、こっちは自由になっている。これはビジネスのためだ。
 それから、私はボルティモアに長く住みましたが、ここは高さ制限もないし、ニューヨークのような摩天楼もない。このように、いろんな町があるのです。それぞれ規制もいろいろとその町で独自にやっている。その中から人々が選ぶことができるわけです。
 こういうあり方が最終的には望ましいので、どうも美の絶対的基準なんていうのはあり得ない。人によっていろんな好みがあっていいので、その町ごとにいろんなものを選んでいいのではないかと思います。



  市場における都市計画家の役割

 では、都市計画家や建築家の方たちの役目はどこにあるかというと、優れた選択のメニューを用意することにあると思います。洋服の一流のデザイナーは山ほどいるし、着物のデザイナーも山ほどいるわけで、買う人たちはさまざまな趣味で買っているわけです。カルヴァン・クラインは天才かもしれないけれども、全員がカルヴァン・クラインのジーパンを着て、結婚式でも葬式でも出ていくわけにはいかないわけです。それぞれの分野での専門家がいて、多様な選択肢を用意し、それを最終的に消費者が選べる体制が必要だろうということです。
 今、建築学会の会長をしていらっしゃる早稲田の尾島先生と中国を旅行をしたことがあって、そのときに建築家の業績はどういうふうに評価するのですかと聞いたことがあります。非常に変わった設計図をかいて、それが建築家仲間で、これはなかなか新しいコンセプトだと言われたら、評価されるのですかと伺ったら、彼は「全然そんなことはない。変わった設計図をかいただけでは評価されない。それに、実際にお客さんがついて建てられてはじめて、その人の業績と評価される。だから、何枚でも設計図を持っていていいけれども、それが全部実際に建ったものを持っている建築家が偉い建築家で、建たなかった建築家は偉くない」とおっしゃった。これは非常に話が合うなと思いました。要するに、芸術的なセンスのある方が建築物を設計される。しかし、それを実際に建ててみたいと思う人がマーケットで選択する。そうやって選ばれた人が、ちゃんと仕事のできる人だと評価されるのは健全だと思う。
 ところが、個人がビルを選ぶとか、会社が選ぶというのならいいけれども、地方公共団体が何かを選ぶとかいうことになってくるとだんだんおかしくなってくる。特に、例えば、都市計画。震災の後、神戸でいろんな区画整理の案を市が出して、住民にみごとに拒否されたことがありました。あれはまさに住民が欲しいものと、エリートが「おまえたちはこれを欲しがるべきである」とするものの壮大なギャップがあった例だと思います。これなんかは、プランナーが考えたものをどこかにセールスして回って、マーケットに買ってもらうという尾島さんの精神がまるっきりない例ではないか。本当ならば、そこのコミュニティーが、いろんなプランナーから案を得て、いろいろな説得を聞いて、その中から自分たちの一番欲しいものを選ぶ体制があるべきだ。それが、都市計画の市場です。市場での都市計画家の役割は、売り手です。全体として、多様な選択肢を買い手に促進するのがその役割です。実際には、市と特定の専門家がつるんで案を押しつけてくる状況になっている。そこが、現状のシステムの非常に大きな問題だろうと思うのです。



K.都心の容積率規制と居住促進策の経済学的根拠

 したがって、都市計画の中に市場を取り込めるかというのは、そんなに難しいことではない。結局集団的に意思決定しなければいけないことははっきりしているわけですが、その集団的に意思決定する主体が、そのプロジェクトが成功したら便益を得、失敗したら損失を得る。言ってみれば、自己責任として行為の結果と意思決定が結びつけられる人たちによって決定がなされるような仕組みをつくっていかなければいけない。それが現在の日本の状況ではないだろうか。
 その仕組みは、民間の開発であってもいいし、住民投票であってもいい。おそらくは住民投票のやり方、例えば8割、9割が決定すれば、あとの1割、2割は無視して、それに対する補償を行うことによって計画決定ができる。そういう体制をつくっていくことが必要なのではないかと思うのです。
 具体的に市場機能を都市計画の中に入れる方法として、今申し上げたような方法もある。ということは、市場機能を取り入れるということは、とりもなおさず意思決定の結果を当事者が責任を持って負うということです。これはコンセプトとしては非常に簡単ですが、もうちょっと具体的な例で、経済学的なマーケットの考え方と規制との関係を見ていきたいと思います。
 このため、今非常に話題になっている容積率規制の問題について考えてみたいと思います。
 都市計画の専門家の全員が、容積率を厳しくしろと言ってらっしゃるわけではないと思います。しかし、多数派の方は、町が余り大きくなるのは好ましくない、容積率を現状よりもっと制限しろと考えていらっしゃるのではないかという印象がある。
 ところが、 もう一方で、面白いことに、都心居住に関しては促進策を打つべきだ、政府はどんどん干渉して、都心に居住することをもっと奨励すべきだという議論がここ数年あります。都心居住促進を言ってこられた方は、計画畑にいらっしゃる方が結構多かった。この2つをどう考えていったらいいかということです。
 まず、都心で住宅をつくりたいという人の気持ちは本当によくわかる。なぜかというと、このまま人口がどんどん減っていけば、港区とか中央区はなくなってしまうかもしれないわけです。区のお役人にとっては死活問題ですし、政治家にとっては、そこの選挙区の人口が減っていったら、最終的には自分が困る。そこの商店街も困る。したがって、今の都心に既得権を持っている人たちみんなが困る。その人たちは公的なお金をどんどんつぎ込んでもいいから、なるべく人に残ってもらいたいと考える。それがはっきり言って本音です。要するに、地方分権をしたらいいことばかりではないという典型的な例です。自分の地域エゴを通すために、大変なむだ遣いをして都心の人口をふやそうとしているわけです。都心の区や市とつるんだ都市計画家が、都心居住を促進しようとするのはよくわかる。
 次に、容積率制限の話。成長管理政策が一時もてはやされ、特にサンフランシスコでやった例がよく言われましたが、成長管理政策は、バブルのときにアンチテーゼとして提案されたという側面があります。ところが、ニューヨークでは、成長管理政策として、実質的にはかなりな容積率の緩和をやったわけです。あるところは容積率2000ぐらいにまでしてしまった。そのかわりこっち側を抑える。そして、今までビルが足りなかったところにビルを引き寄せるということをやったわけです。しかし、ニューヨークのケースは余り強調されず、むしろサンフランシスの方が強調された。サンフランシスコの例は、皆さんご存じだと思うけれども、あの運動をやった人たちは、いってみれば左翼です。アンタイ・ビジネスです。初めからビジネスはよくないという考え方の非常に極端な人たちだったと言えるわけで、一種のイデオロギーであり、非常に特殊な例です。特にサンフランシスコの郊外で住宅を制限した結果、それまではサンフランシスコの住宅はそんなに高くなかったのですが、それ以後は、住宅を新しくつくらないわけですから、全米の都市で最も高価になってしまった。それでも、サンフランシスコの運動家は成長しないことが望ましいと考えている。
 それから、MITの不動産研究所のようなところがあって、そこの先生が口頭で言ったことですから、どこまで最終的に信用できるかわかりませんが、彼が言うには、サンフランシスコでは、何遍も何遍も容積率を制限しようという動きがあったのが全部失敗した。最後にうまくいったのは、制限運動が結局不動産屋と結びついたからだというのです。新しくビルができなければ、今まで持っていた不動産の価値が上がる。そういう不動産屋の思惑と結びついたのというのです。本当かどうかわかりません。バークレーの不動産研究所のローゼン教授にその話をしたら、彼は「私はサンフランシスコの不動産屋とかなり仲がいいけれども、そこまでちゃんと考えているやつはいなかったのではないかと思う」と言っていました。だから、いろいろ議論はある。しかし、非常に特殊な例だったことは間違いがない。
 そして、日本の都市計画の専門家が、サンフランシスコの尻馬に乗って町の発展を抑えようとされるのがなぜか、私には正直言って余りよくわからないのです。
 容積率制限について、私はいろいろ読んでみたのですが、都心で容積率制限をする根拠は、結局これだ、という明快な議論には余りお目にかかったことがない。結局は一番積極的な議論は、野方図にほうっておいたら交通容量を超えてしまう。通勤する人たちが際限もなくふえていったら、交通網がパンクしてしまうということらしい。
 もし、容積率規制の根本的な理由が交通容量の制約を満たすためにあるとするならば、目的が非常に明確化します。その観点から容積率をデザインすれば良いわけです。ところが、人によっては容積率にはいろんな目的がありましてといわれる場合がある。これはどうもおかしい。本当にほかにもたくさん目的があるならば、手段も目的の数と同じだけふやさなければダメなので、1つだけの手段でたくさんの目的を達成することは、私は無理だと思います。
 ほかの目的、たとえば都市の美観ということを言われるけれども、もし本当に都市の美観が重要で、余り高くないのが必要ならば、高さ制限をすればそれで済む。それとともに、容積率制限をする根拠としては、やはり交通容量への対策ということが、一番素直なすっきりした理由だろうと思うのです。

 しかし、そうであるならば、実は容積率制限は大変非効率なやり方です。実際今の通勤鉄道を見ますと、一番ピークの込んでいる時間は30分ぐらいですから、時間差料金(ピークロード・プライシング)を採用して、込んでいる時間に高い料金をとり、そのかわりすいている時間はただ同然にするのが混雑対策としては一番スタンダードなやり方だと思う。
 そんなことができるのかなとお思いになるかもしれないけれども、確かに、プリペイドカードができる前は大変難しかった。今はプリペイドカードがあるものだから、実行可能になった。例えば、ワシントンD.C.の地下鉄にお乗りになった方はわかると思うけれども、ピーク時は、その時間が来ると、引かれる時間が自動的にふえる。そしてオフピークは安くなる。料金は1回ごとに買う切符ではなく、プリペイドカードで払う。額の大きなプリペイドでやるから、定期券なんかもない。技術的には十分可能なわけです。
 例えば、東京駅を出る人が、8時、8時半、9時とあって、そのうち混雑度は8時半がピークだとします。もし8時から9時の間の料金を高くすると、8時よりちょっと後に来ていた人は、早起きして来るようになるので、8時前がふえる。それから、9時よりもちょっと前に東京駅をおりた人は、みんな9時直後に通るようになる。これではこのピーク一時間の幅の両端だけが減ることになってしまって、肝心の8時半のピークのところは全然減らない。ピークに通る人は、30分も早起きするのは嫌だし、30分もおくれて行ったら始業時間に間に合わなくなるというので、ピークは動かない。これでは困ります。
 この問題への対策は、5分おきに料金を変えることです。これはプリペイドカードでは何の問題もなく可能です。こうすると、ピークに来ていた人は5分早起きするか5分おそく起きる。そうするとピークが減ります。あたかもピークの人がピークの肩のところに移ったようだけれども、本当は押しくらまんじゅうでちょっとずつ動いています。こういう混雑対策がとり得ます。
 そして、これは今の技術では何の問題もなくできるもので、これが通勤混雑に対する対策としては一番スタンダードなやり方です。これで混雑の方を規制しておけば、ビルなんて幾ら大きくたっていいわけです。そして、たくさんの通勤客が来れば、ピーク時の料金をを高くすればいいわけです。
 それによって何がいいのかというと、1つは、通勤時間帯が広がれば、たくさんの人が来たってかまわないのです。込んでいる時間にみんなが押し寄せるのが困る。もう1つは、物すごく大きいコンピュータを持っているが、勤めている人は非常に少ないといった会社が、大きなオフィススペースを都心に持てることになることです。エリートのコンピュータエンジニアが2〜3人いればそれで済むというような会社は、別に通勤に迷惑をかけていないのですから、巨大なビルを持っていたって構わないわけです。大量の通勤が悪いことで、大きなオフィスを持っていることは悪いことではない。これは一種の自己責任です。問題を起こしている人がちゃんとその負担をしてもらう仕組みをつくれば、容積率なんてものは全く要らない。もし容積率が交通容量への対策だとするならば、その前に、このような直接的な通勤対策がまず、生まれてくるべき対策です。
 私は、料金制度を変えるのが絶対必要だと思います。私は『東京問題の経済学』という本の付録に書いたのですが、1人乗ってくると、混雑を増すことによってほかの人の疲労度を高める。その高めた疲労度を金銭換算すると幾らになるかという非常に珍しい計算をしました。これは実は私のほかにも2つ先行業績がありますが、全部やり方が違う。みんな奇想天外なやり方でやらないと、なかなか測定できないものですが、私の試算では、ピーク料金は大体現在の定期料金の3倍になります。その程度で、ちょうどほかの人にかけている迷惑を自分が払うことになる。一方、オフピークはうんと安くなる。
 ところが、料金制度は、いろんなしがらみで縛られていまして、やれ総括原価主義だとか何だとか言って、なかなか制度を変えられない。料金改革が無理だとすると、次にあり得る通勤対策は何かというと、容積率に一挙にいかなくてもいい。例えば、特別事業所税があります。これは各事業所に、そこで雇っている従業員の数に比例して、特別事業所税を払ってもらうというものです。これはあくまで混雑対策なのだから、人間の数に比例して払ってもらう。そういう対策を講ずると、人をたくさん雇う会社は東京にはいづらくなって、どこかへ出ていく。その意味では、さっきのコンピュータ会社が残るわけで、人をたくさん雇っているような会社は人減らしをしようとするし、あるいは、どこかに動いていこうとする。その意味で効果がある。
 ところが、そのやり方、特別事業所税の決定的にまずい点は、時間差料金ではないですから、ピーク時の混雑を減らす力がないことです。ピーク時には相変わらず込んでいることになる。それがまずい。しかし、その効果はないけれども、少なくとも1つの混雑対策にはなる。
 何らかの理由で、特別事業所税もできないとなると、そこで初めて容積率が出てくるわけです。容積率で制限することも、確かに混雑緩和に役に立つ。
 ただ、2番目の特別事業所税と比較して何が悪いか。もちろん時差出勤を奨励しないのは明らかです。容積率制限が時差出勤を奨励するなんてことはあり得ない。しかし、それだけではなく、人を全然雇わない、大きなコンピュータを置いている会社まで駆逐してしまう。大きなコンピュータを持っている会社は、人を雇っていないのだから、何も迷惑をかけていないけれども、そこも容積率制限で非常に賃料の上がったオフィスを借りなければいけない。反面、人をたくさん雇って、狭いところにいるような会社、あるいは1人1人には机も与えないでシェアさせるような会社は、本当は迷惑をかけているのに、残るかもしれない。そういう問題があります。

 容積率制限が抱えているもう一つ大きな問題は何かというと、これが都心の居住を抑制してしまうことです。それはなぜかというと、特別事業所税では、事業をしているオフィス、通勤する従業員がいる会社だけが、高い税金を払う。都心にオフィスを構える会社は高い税金を払わないといけないと、オフィスに対する需要を減らしますから、オフィスレントは、そんなに高くならないのです。そうすると、居住用のビルの方は、この税金を払う必要はありませんから、低い家賃で入れる。そうするとたくさんの人が住めるようになる。そんなに住めるようになるのかと言われるけれども、例えば、ニューヨークのイーストサイドをごらんください。随分たくさんの人たちが住んでいる。イーストサイドのグランドセントラルステーションからセントラルパークのちょっと南側ぐらいまでかかる間までの人たちの人口密度は、皇居を除いた千代田区の人口密度の7倍です。1平米当たり7倍の人間が夜間人口として住んでいる。
 ニューヨークでは、都心に行けば行くほど夜間人口密度が高くなって、都心でも高くなる。しかし東京は、例えば、高尾あたりから都心に近づくにしたがって、だんだん人口密度が高くなるが、途中で新宿あたりからガーンと減って、最後都心に行くと、何もなくなってしまうという構造です。それが、日本は、私に言わせれば、オフィス用と居住用の別なく、全部一律の容積率制限を行っているため、居住用のビルまで高い家賃を払う結果になってしまって、それが都心居住を妨げている。それが、日本の容積率規制の最大の副作用であると思うわけです。
 都心の居住用のビルに限って容積率を緩和することは決して悪いことではない。これはもともとがいびつな仕組みになっていて、一種の副作用を受けているわけだから、そこを緩和するのは悪いことではない。したがって、居住用のビルの容積率は引き上げるべきだという議論になる。
 要するに、理屈づけはまるっきり違いますけれども、都心に票を戻したい政治家と同じ議論になるわけです。一見悪魔の味方をするように見える。しかし私としては、もちろん嬉しくないわけです。そういう議員に全然同情しているわけでもないし、友達も1人もいないし、そういう人たちの味方は全然したくない。けれども、理屈としては、今都心に人が住んでいないのは、自然にほうっておいたからこうなったのではなく、規制の結果こうなっているということを申し上げたいと思うのです。
 ここまでは、ほぼこの間の建設省の容積率緩和の方針を正当化することになると思うのです。けれども、私の方は、建設省とは関係なく、はるかに先に、たまたまそういう理屈を、都市住宅学会の雑誌に載せたことがあります。
 しかも、都市住宅学会の雑誌では、ここではとどまらないで、もう一歩議論を進めました。それはこういうことです。居住用のビルだけ高い容積率を与えて、オフィス用のビルはそうでもないということになったら、町がいびつになってしまわないか。いかにも人工的なちぐはぐになってしまうのではないか。それを調整するには次のようにします。まずすべての敷地に、オフィス用の容積率を何%、居住用の容積率を何%と与えます。ここで、オフィス用の容積率は、さっきの交通容量の観点から計算されたものを与える。
 その上で、ある土地にオフィスを建てたい人は、自分のところで持っている居住用の容積率は要らないから、居住用のビルを建てたい人に売る。そのかわり、自分のもらったオフィス用の容積率よりもっと高いオフィスビルを建てたいならば、オフィス用の容積率をどこかから買ってくる。そして、居住用とオフィス用の容積率のマーケットができて、自然に流れる。ここで、交通容量に影響を与えるのはオフィス用の容積率ですから、当然のことながら、オフィス用の容積率の方が厳しく制限されています。
 このため、オフィス用容積率の値段が高くなる。だから、オフィスを建てるには高いオフィス用容積率を買ってこなければいけない。そのかわり、居住用のビルを建てるには、高いオフィス用の容積率を売り払うことができて、非常に安い居住用の容積率を買ってくればそれで済む。結果的には、オフィスを建てる人たちが居住用のビルを建てる人たちに対する補助金を出すことになります。そして、その結果、町全体としては、それぞれの敷地ごとに初めから制限されたオフィス用の容積率、居住用の容積率で縛られた建て方ではなく、町全体として交通容量を満たしているけれども、あとはその場所に一番ふさわしい容積率で建てられることになるわけです。
 そこまで最終的にいけるかどうかはわかりませんが、少なくとも容積率の取引が隣接する地域でできるような仕組みは、今度の建築基準法改正でできるようになりそうです。ということは、隣合う全体を1つの敷地としてみなして、その敷地の外に対しては基準法を当てはめるけれども、中は民々の契約でやるというシステムを導入することになるからです。ただし、その場合には、きちっと所有地同士の間の権利の取引がどこかに記録されていなければいけないから、建築物登録制度が必要なわけです。反面から言えば、そういう登録制度がないことがいろんな問題を起こしていると言えると思います。
 今申し上げたようなのは、都市計画の中に市場の考え方を取り入れて、都市計画の方が活用できる1つの方法ではないかと思います。そういう方法は全部都市計画の方が取り入れて、都市計画の専門の方が自分の道具としてやられたらいいのではないかと思うのです。



V.都市計画家に望むこと

 そういうことで、一応結論の方に参りたいと思います。
 私が今までお話ししたことは、結局市場では、意思決定した人がその決定の結果の成功も失敗もその成果が得られる仕組みになっているということです。
 都市計画の分野では、今までどうも意思決定する人の責任のとり方は弱かった。したがって、これを例えば住民投票とか市場に持っていくとか、民間業者に持っていくということは考えられる。先ほどの交通の例で言えば、一番の問題を発生させているところにペナルティーをかけ、高い料金をかけていくという考え方が必要になっていくだろう。したがって、計画の中でも、結局はこれをやるかやらないかということの決断をする人自身が、その結果を背負い込むような仕組みをつくっていくことが必要なのではないかと申し上げたわけです。
 都市計画に関する全くの素人がこんなことを言うのはおかしいのですが、最後に、今までいろんな都市計画の方とお話ししていて考えたことを、いくつか申し上げたいと思います。
 1つは、まちづくりのデザインをなさる上で、美的な観点、感覚的な観点からデザインをなさるのは当然のことである。それに賛同を与えない人もいるかもしれないけれども、多くの人がそれを好んで、お客さんがつくかもしれない。それは、当然都市計画家の重要な役目であろうと思います。
 もう1つは、費用便益分析ということもあっていいのではないか。こういう都市をつくったら、コストがどれだけかかって、どれだけ便益が上がるか。そうすると、一番金銭換算できないデザインの部分、環境の部分については、実はこれだけの資金的な負担を皆さんがする用意があるなら、これをとりなさい。要するに、こういうデザインのインプルーブメント、環境の改善は、結局金銭的にはこれだけの対価を払う。それを市民としては払う用意があると思うかどうかを問うのです。そのためには、どうしても費用便益分析が要る。したがって、これはデザインプロパーではなく、もう1つ都市計画の中に計画の費用便益分析をされる方がいらっしゃるといいのではないか。それがデザインに関することです。
 もう1つは、「集団的自覚的意思」による選択ということを都市計画の方がおっしゃるのです。集団的に、しかも自覚して意思決定をしなければいけない。そして、まちづくりのデザインを選択しなければいけない。そうすると、その選択するシステム自身をデザインしていただけないだろうか。どういう社会的な枠組みをつくったら、きちんとした自己責任を持った選択システムができるのだろうか。例えば、投票の制度が区画整理で、今6割だけれども、6割がいいのか、8割がいいのか。あるいは、今のように、照応の原則を乱すときには100%であるということは、本当にそれでいいのか。そういうものを諸外国の例も見、理論的にも分析し、そういう意思決定のシステムを何とかデザインしていただけないだろうか。法善寺横町にゲームセンターができたり、先斗町に風俗店ができるということがないことを、いきなり市が禁止するというのではなく、そこの住民が決定できるような仕組みを何とか考えていただけないだろうか。
 それから、今度はやはりソフトのシステムの問題ですが、都市計画のコンサルタントの方たちが、あるまちづくりに参加していくとき、正当な報酬が支払われて、正当な契約が行われる。そういう仕組みをどうやってデザインするか。いったんかかわったら義理人情で、あるコンサルタントがずっとつき合うというのではなく、いつもきちんとその場、その場で報酬が支払われる。それまでの仕事に対する対価はきちんと払ったうえで、最終的には住民自身が意思決定できる。そういうコンサルタントの報酬制度、契約制度についてもどうあるべきかということが、都市計画の学問の1つの重要な対象なのではないか。そういうことができるようになって、先ほど言った意味の自己責任を意思決定者に取り戻すという意味での、市場を計画の中に完全に取り込んだシステムができるのではないかと思います。
 ひとまずここで話を切ります。どうもありがとうございました。(拍手)



フリーディスカッション

司会(谷口)
 どうもありがとうございました。
 八田先生のお話にもありましたが、これからは質疑応答で話を進めて頂きたいと思います。御質問、御意見のおありの方、どうぞよろしくお願いいたします。

加藤(金融監督庁設立準備室)
 加藤と申します。 今のお話を聞いていて、なるほどなと思う部分が非常に多かったのですけれども、例えば、容積率のマーケットのお話をされましたけれども、これは環境にも十分応用できる。排出権取引の話で、まさにそういう側面があるんじゃないかなと思いました。
ただ、いろいろ考えていくと、結局先生のお話は、究極的には、例えば、まちづくりを処理するための資本市場を各地域でつくる。そこに債権なり株式が発行されて、住民がそれを買う。場合によっては、投信みたいな形で、ファンドマネージャーのプロフェッショナルが運用してあげる。例えば、そういう世界観になるのだろうと思うのです。そういうところは、結局、まちづくりの意思決定がマーケットでなされているということになる。
 そうすると、今住民投票とかいろいろおっしゃいましたけれども住民投票というのは、民主主義という政治的な意思決定システムだと思うのですけれども、ただ今度はマーケットという非常に経済的な意思決定システムで代替されていくことになっていくのではないだろうか。先生の論法を展開していくと、突き詰めていくと、究極的にはだんだんそういう議論になるような気がするんですが、果たしてそこまで推し進めていけるものなのかなと、ちょっと疑問がわいたものですから、どうお考えかと思いまして。

八田先生
 常に本質的な御質問だったと思います。私は、住民投票自体がマーケットの一部だと思っています。
 例えば、ある街区での最低敷地面積についての住民投票を考えてみましょう。それぞれの家にとっては、最低敷地面積を決めるのは損です。分割して売ったら、たくさん売れるかもしれないわけですから。ところが、そこのコミュニティー全体で最低敷地面積を決めると、町の格が維持され、そのことを通じて不動産価値が上がる。したがって、自分自身としては損だけれども、町全体として規制をすることには賛成だという住民投票をする。これは完全に市場の機能を取り入れて決断しているわけです。市場における選択の単位を個人ではなく街区にすることで、すべての人にとって本当に望んでいることが実現できる。住民投票をすることによって、自分自身の短期的な損得だけではなく、決断によって市場価値がどう影響を受けるかということをとりあえず判断する。これは市場における決断そのものだと思うのです。
 だから、非私は、住民投票とまちづくりがマーケット化することとは何の矛盾もないし、住民投票自体がマーケットの一部だと思う。マーケットで選ばれることは、本当に人々が欲しいものが選ばれていくので、結局それに即したバラエティーが出てくる。マーケットに任せておいたら、みんなテカテカの商業主義のビルだけになるということは絶対にないです。そうではなく、昔式の先斗町を望む人も、法善寺横町を望む人も出てくるのです。それはそこにマーケットのバリューがあるからです。そういう多様性のまとめ方が、結局は責任をとらせるやり方だと思います。
 住宅政策にずっと関与してきた方は、住宅市場にすべてを任せるわけにはいかないとおっしゃる。その方たちの論理というのは、住民は今、自分たちの行動に基づいていい家を買うかもしれないけれども、こういうものは世の中に残るもので、後々の人々がそれを良くないと判断するかも知れないということもあるから、結局良好な住宅をつくるためには、国が支援してやらないと、現在の人々の行動では判断できないというわけです。
 これはおそらく住民投票についても同じ論理が成り立つのです。今の住民投票では、今の住民たちの民主的な判断でやっているだけで、本当に長期的な見通しを持った決断はできないという理屈が出てくるのではないかと思うのです。
 ところが、実は私は、現在の住民が家を選ぶときには、将来の住民のことも全部考えてやっていると思うのです。それはなぜかというと、自分が住むとき、後でそれを売らなければいけない。売るときの値段ということを考えている。後で売れないようなものをつくってしまうのでは意味がない。後の人が買ってくれるならば、多少自分が今の家に不満でも、後で人に買ってもらうようなものをつくる。そういう考えがあって家をつくる。
 日本の家は余り売り買いしなくて、買ったらずっと住んでいるのに対して、アメリカではみんな売り買いします。アメリカではすぐ売ることを考えている。そして、非常に標準化された家で、これはコロニアルだとか、ジョージアだとかいうと、一言で大体こんなスタイルだなというのがわかる。そして、どこでも売れるという考えでやっている。これは将来の市場価値をみんな考えているわけです。住民投票も、そのように市場を意識したものになるでしょう。

長塚(長塚法律事務所)
 アメリカでは、空中権の売買はだれが評価するのでしょうか。それから、階層的な価値ですね。そういうことに関して、具体的な事例はどうなっているのか。また、この前の京都の国際会議のときも、CO2 の後進国と先進国との売買とか譲渡とか、そういう話が出ているのですが、これについても具体的にどういうふうにしたらいいのか、その辺の御意見をお聞かせいただきたい。

八田先生
 まず、ニューヨークの例を挙げる前に、大阪の例で言えば、全日空ホテルが新地にあります。あれは随分高いビルで、あのビルだけ見ると、容積率の基準を超えているのだそうです。結局あれができたのは、隣に何とかクラブというビルがあって、結果的にはそこと容積率の取引きをしたわけです。それはどういうふうにできたかというと、敷地の定義が、つながったビルがある土地だったら1つの敷地としてみなすというのがあるものだから、地下でつないだのです。だから、表から見ると、何とかクラブと全日空ホテルは別だけれども、地下でつないでいるから、全体を1つの敷地として見ることもできた。したがって、そこの登記では、一応別口だけれども、容積率の取引きが行われて、建築基準法上は一体としてみなしている。僕はお金が幾ら払われたのかは知りませんが、当然そこでお金が払われて、そういうことになっています。
 今やろうとしているのは、下でわざわざつながなくても、二つの隣接したビルを一体の敷地の上にあると見なせるようにしようというものです。一体化したことを、本当は登記で書ければいいのですが、そういうことは今の登記制度ではなかなかできないから、建築物登録制度をつくろうということです。それは、この土地の本当の容積率はこれだけだけれども、今後下げるといって、その分をこっちの土地にお譲りしますという協定書をつくる。その協定書を添えて建築物の登録をする。つまり、「はい、ここの土地の容積率は、これだけ下げました。あそこの土地の容積率はこれだけにしました。したがって、この土地を将来買う人は、ここにはもう高い建物は建てられないということを覚悟して買ってください」ということを天下周知になるような仕組みをつくる。そうすると、その間で取引きしたことは、当然民民の取引きです。一方、建築基準法自体は全体の敷地に対して適用されるから、敷地の外に対してはきちんとした斜線規制も全部守らなければいけないけれども、内側はどうでもいいという仕組みに今度できるだろうということです。
 それから、ニューヨークでは、隣接する土地で、隣の土地を借りて一体の土地として、容積率を全体としてみなして建物を建てるということが行われていました。この場合、隣地を借地することによって、自分のもとの土地分だけでは容積が足りない高いビルが建つわけで、そういうのがたくさんできた。ところが、何年かすると、借地契約が終わって返さなければいけない。返すと、残された土地に建っているビルは容積率オーバーで全く違法になるわけです。その違法なビルがずっと残ってしまった。一方、返された土地は、勝手にまた自分のところはこれだけ容積率があるといって主張できるわけですから、これじゃまずいだろう。それで容積率のトランスファーをすることにして、登記で書くことにした。土地を貸す必要はないから、ここを一体として見れば、容積率を売った場合には、今後ここの土地は低い容積率で我慢しますということを登記にちゃんとつけた。それはもともとの協定書をつくって、その協定書を付属資料としてつけるということをしたわけです。

小沢(西村総合法律事務所)
 弁護士の小沢と申します。
 先ほどおっしゃっていた中で、随分私も共感するところがあったのですが、要するに、都市計画とか土地利用規制の結果、便益を受ける人、また損をする人、そういった人たちの判断というか、決定によらせるようなシステムをつくるべきだというお話ですね。それをつくってくださいということでしょうから、先生にお聞きするのもおかしな気がするのですが、私もちょっと前にそういうことを考えたことがあって、さっきおっしゃった住民投票とかは区域が広いと思うのですけれども、もうちょっと狭く考えると、街区単位とか、複数隣接街区、そういう単位で考えるという話になるのでしょうけれども、結局土地利用規制をそういった人たちが自分たちでつくっていくインセンティブといいますか、すぐ目の前にはそういう利益とか趨勢は見えてこないので、そういった人たちにみずからやらせる気持ちを起こさせることが本当に可能なのかどうかということをちょっと疑問に思ったことがあります。
 前にちょっと自分で考えたのは、例えば、都市計画税を免除するとか、一定の自分たちの土地利用規制を考えたところには、そういうメリットを与えるとかいうこともあるかなと思ったのですけれども、非常に難しいというか、要するに選択肢は山ほどあって、その中から絞っていく作業は相当大変で、その過程で、例えば、コンサルタントを使うということもあるかもしれませんけれども、コンサルタントの費用をだれが出すかという話もあって、結局そのあたりのインセンティブみたいなものがないと、そういう形の土地利用規制の実現は難しいような気がするのですけれども、そのあたりはそういう問題を解決できるような方策は何かお考えでしょうか。

八田先生
 まず、コンサルタントの活用には大問題が横たわっています。現状の契約のあり方について、僕はコンサルタントの人たちから不満は随分伺ったけれども、外国でうまくいっている事例をきちっと調べて紹介していただいたことは余りないのです。いずれにしろ、日本ではうまくいってない。
 ところが、ことの主因は、意思決定をするのにコストがかかるから街区単位での意思決定ができないかというと、そうではなく、全然制度がなっていないからだと思うのです。例えば、大阪の千里で、バブルの時代に公団住宅を建てかえて今までより多く作ると、それを人に売ることができるから、非常に安く建てかえができ、みんな大きな住戸に住むことができるといわれた。しかし、1軒だけ反対して、物すごく決定がおくれたというのがあるのです。結局はバブルの機を逸してしまった。そうすると、結局1軒の反対を克服できない仕組みになっている。これは形の上では、8割の賛成とか何とかいろいろあるけれども、実質上は全員同意なければいけないという慣習というか、仕組みがある。やっぱりこれを変えるべきだと思うんです。
 理屈の上で全員一致はほとんど不可能ということはわかっているわけです。最後の1人というのは、ラショナルに行動する限り、自分がイエスということで、相手が得する額が物すごく大きいことがわかっているわけだから、当然ゴネる可能性はある。戦略的な理由でゴネないとしても、別な形でゴネる可能性がある。それから、それでいろんな感情のしこりが起きてしまったら、絶対譲れなくなってしまう。そういうことがあるから、8割の特別多数決で決定した上で、反対者に対する補償で意志決定をすることができたら、随分解決がつく。神戸の震災復興のときもそういうケースはあった。
 僕は、ばかの1つ覚えみたいに、神戸の湊川の例をよく挙げるけれども、これはそういう問題がいろんな意味で集中したと思う例です。低層密集住宅地で燃えてしまって、結局は全部違法建築ばかりだから再建できない。多くが4メートル道路に接していないわけです。だから、もとどおりには再建できない。それをやるには、区画整理をし、集合住宅に入ってもいいというところだけを集合住宅にまとめて建てて、もともと合法的な住宅を持っていた人たちで、戸建てでなければいけないという人たちは、一個所にまとめて建てられるようにしようと思った。しかし、そうやると、照応原則が崩れてバラバラになってしまうから、全員一致でないと区画整理が決定できないという。三百何人の人が全員一致なんてできるわけがないから、結局それはつぶれてしまったのです。非常に細分化された形での再開発になってしまった。例えば、8割の賛成で良いとか、そういう仕組みがあれば、随分いろいろ解決し得ると思います。

石川(工学院大学)
 石川と申します。
 市場の原理で都市計画ということの中で、私が先ほどから非常に疑問に思っていること、八田先生のお話の中に最後まで出てこなかったことですが、私は都市計画の中でも余りお金にならない、公園とかインフラ整備にかかわる仕事をずっとしていますが、アメリカの都市計画は確かにもともと都市計画法なんかもございませんから、それぞれの事業者の自治でやってきて、ちゃんとやれたところとやれなかったところで非常に落差があるものの、市場の原理は確かにある。ただ、そのときに大事なことは、基盤整備あるいは都市更新が成功した場合には、開発利益が生じるわけで、その開発利益をどのような形で基盤整備に還元するか。そういう開発利益還元の仕組みがアメリカの都市計画のいわば妙点だと思うのです。それは、市場の原理が片方の手にあるとすれば、開発利益の還元をきわめて民主的なガラス張りのルールで行う。この両方の天秤があって初めて市場の原理に基づく都市計画が動いていくと私は思っております。
 例えば、たまたま先ほどニューヨークの話が出ましたけれども、巨大なセントラルパークをつくるときには、受益者負担という原則を導入しまして、それを公園の初期投資にニューヨーク市が回しているわけです。ワシントンもやはり受益者負担でやりましたけれども、やはりうまくいかなくて、遂には市が破産して、連邦政府が基盤整備を肩がわりします。ボストンの基盤整備は、土地増加税という形でやっておりますし、シカゴは目的税を導入いたしました。中西部につきましては、特別賦課金とかでは間に合わなくて、それに基づく債権ということです。
 いずれの場合にも、市場の原理を活用して都市の基盤整備にかかわる資金を生み出す。財源の仕組みはさまざまだけれども、その開発利益の分配の妥当性に関しては、都市計画の意思決定機関、これはコミッショナーという制度ですが、それと妥当性を判断する裁判所、それからそれに基づいて実務を執行する行政の主体、いわば都市計画の三権分立のような仕組みができておりまして、開発利益を事細かにチェックしながら、公園みたいにお金にならない基盤整備に循環されて、特定の人が懐にお金をしまい込まないチェック機能が働いて市場の原理が動いてきたのではないかと私は理解しているわけでございます。
 昨今の日本のいろいろな都心居住云々ということで、容積率をアップするということでは、おそらく開発利益は相当生じるだろう。そういうときに、もちろん都心居住に腐心されるのは一向にかまいませんが、日本ではインフラ整備が非常に未熟なままで、上水道、下水道、それから公園などは言うに及ばず、きわめて脆弱な社会資本のもとに市街地ができる。そういうときに開発利益の還元の仕組みというルールが一向に不透明なままで容積率だけに関する規制緩和ということは片手落ちではないかと思うのですが、先生のお話の中でその部分が一貫して伺えなかったものですから、お伺いいたしました。

八田先生
 今のご質問は、大変大切な問題を提起されたと思います。都市に人口がどんどん集まる。都市には集積の利益がありますから、だれもが集まりたい。そうすると、結局は地価が上がるのです。例えば金融の自由化が行われる。そうすると、東京が非常に能率がよくなり、みんなが来る。しかし、場所は限られているわけですから、地価が上がるのです。それから、第3次産業が発展する。そうしたら、また東京の地価が上がるのです。開発を行った場合もその結果として必ず地価が上がる。これは言ってみれば、不労所得の最たるもので、これを財政収入として還元する仕組みがなければいけないのは当然です。
 私は、それについては、保有土地の譲渡益課税を、今みたいに土地の取引きの障害になるようなものではなく、一切障害にならないような仕組みにかえることを前から提案しています。土地税の強化が必要だということは、もちろん当然のことですが、私はどっちもやるべきだと思う。どっちかができるまではどっちもやらないといったら、永遠に何もできない。土地の譲渡益税の改善も絶対必要なことだと思います。
 いろいろ話したいことがあるのですが、開発利益還元の方法として、譲渡益税のことを一言申し上げておきます。この中にも随分地価税について関心のお持ちの方が多いと思うので言います。
 まず、個人の譲渡益税は、資産流動化の阻害になっているから低くしようという議論もある。しかし、先ほど私が申し上げたように、必ず都市の土地は上がっていくわけですから、それを何か還元する方法がなければいけないという議論とどうやって調整したらいいかということです。
 解決策は、個人については、買いかえ特例を認める。それも超全面的に認めるというものです。すなわち、売った土地よりも新しく買った土地の方がうんと安くても、譲渡益税は全部延納させてもらえるという制度にします。今は、前に売った不動産の額よりも高いものでないと、全面的な延納は認めてもらえないですが、これを完全に認めてもらえるようにしようというものです。
 ただし、新しく買う不動産の額は、延納させてもらった税の額よりは高くなければいけない。例えば、3億円の土地を売った場合、前は3億円以上の土地を買わないと節税にはならなかったのですが、今度はもし延納させてもらう税が2000万円ならば、2000万円のマンションをどこかで買えば、全額延納させてもらえる。これを夫婦とも死ぬまで延納させてもらう。あと何回売買をしても、そのたびに延納させてもらえる。ところが、死亡時には全部まとめて清算することにする。死亡時課税ということです。これはシャウプ勧告でも言われたし、今でもカナダとかスペインではやっています。
 現在の日本では、相続のときにもし売らないで済むならば、息子は全然払わなくていいですから、後で息子が売るときに払うわけです。これではなかなか売りませんから、譲渡益税収が上がってこない。売られたとしても、長期保有されると実効税率は下がります。ところが、買い換え特例の超復活と死亡時課税の組み合わせだと、とにかく相続までに全部まとめて払う。途中でいつ売ろうが、買おうが、そんなものは関係ない。とにかく死んだ時点でまとめて払うことになる。これで実効税率は今よりははるかに上がります。開発利益の還元です。
 一方、企業の方は死なないですから、死亡時課税ができない。企業の方はどうするかというと、これは発生時課税にする。キャピタルゲイン、譲渡益というよりは増加税の発生時課税にする。しかし、発生時課税は、毎年毎年発生した税に応じてかけるかというと、そうではなくて、それも延納を認める。しかも、無期限の延納を認める。ただし、延納を認めてもらった分に対する利子に課税する。だから、延納はさせてもらえるけれども、利子だけはちゃんと国に納めていく仕組みにする。買い換え特例も何もないわけです。とにかくずっとその利子の分だけを負担していく。
 そうすると、土地が急激に上がったときに、発生時課税だからといって、急に増加税がふえるわけではないですが、ゆったりとふえていくわけです。延納させてもらっている部分がふえる。しかし、現在のように、買ったときの土地よりも地価が安くなったときに、そういう増加税の利子税を払う必要は全くない。要するに、実際に下がったわけですから、そのときは何も延納する必要はない。そういう仕組みにすることはできます。
 企業は個人と違うわけです。企業は死なないから、そういう仕組みをつくる。ところが、たまたま現在ある地価税は、企業の税なのです。だから、地価税をさっきいったような利子つきの増加税に組みかえる。それが私の提案です。地価税の問題は、こんな不況のときまで払わなければいけないことが問題なのですが、利子付き増加税ではその必要はありません。先ほど石川さんがおっしゃったように、今のように不動産が売られていないときは、開発利益を還元する仕組みがないわけです。売らなければ税は出てこないし、税の仕組みは非常に不十分な仕組みです。
 譲渡益税を上のように改革すると、個人も企業もガンガン売って、しかも税収もどんどん上がっていく仕組みになると思います。そういった仕組みにする必要がある。
 アメリカの場合には、固定資産税は地方でやっていて、固定資産税の税収が中心ですが、日本もそれを昔につくっておけばよかった。しかし、今さらそのような制度をつくるのは難しい。固定資産税とか地価税とかをどんどん上げるとなると、その上がった時点の地主が将来に支払う人たちの分まで全部負担します。なぜかというと、税が上がった分だけ必ず地価が下がりますから、売ったときには安い値段で売ることになるからです。
 つまり、自分の地価税なり固定資産税を払うだけでなく、売るときにうんと安くなるということで、将来その税を払う人の分まで、今の地主が負担することになるわけです。だから、政治的に非常に難しい。それよりは、先ほどのように増加税をつくったらいい。それが開発利益の還元法に関する私の考えです。



付論:建築基準法の運用における市場機能の活用

単体規定

 さて、時間がございますので、建築基準法の運用における市場機能の活用という話をいたしたいと思います。単体規定、集団規定における建築基準法の運用にどうやって市場の機能を使うかということです。
 建築基準法には、単体規定と集団規定とございます。単体規定の方は、安全性に関することです。安全性に関する基準というのは、できたら当人がどうしても検査したいものです。建てた人が知りたい。本当に安全な家に住みたいと思う。ところが、もう1つ集団規定というのがあって、これが容積率とか建ぺい率とか、4メートル道路に接していなければいけないなどという、他人に対する迷惑に関する規定です。こっちの方は、できたら何とかごまかしたい。自分は垂れ流ししたいという気持ちのあるものです。したがって、国として集団規定をきちっと縛らなければいけない理由は明白です。一方、単体規定の方は当人が利益を感じるものだから、国があんなものをやる必要があるのかなといった感じがする。
 ところが、それにもかかわらず、安全性の規定を国がつくって、それを強制しなければいけない理由があります。建物がつぶれても、そういう安い家をつくったのだから、その人の自己責任であるといって済ませない理由があります。つまり、単体規定に関しては、市場が失敗するので、どうしても国が干渉しなければいけないという事情があるのです。これは要するに、建てた人がその家の質について判断する情報がないのです。建主が施工者から家を買ったわけです。そして、施工者は情報を持っている。しかし、建主は持っていない。サービスを買ったわけですけれども、買ったサービス内容について、それが正確にはどんなものであるか、売り手と買い手の間に共通の情報がない。経済学者の言葉でいう「情報の非対称性」がある。そういう商品については、市場はちゃんと機能しないのです。買い手と売り手とが、何について買われているかについての情報が非対称であるものは、市場がちゃんと効率的に機能しないことがわかっています。従ってこれはどうしても国が干渉していかなければいけない。
 したがって、実際にきちんと建てられたかどうかということを公の中間検査、完了検査をきちっとしなければいけない。それは公のところでやらざるを得ない。もちろん民間でもいいのですが、最終的には民間の検査機関がちゃんと信用できるかどうかということをどこかで確かめなければいけない。その意味で、国の関与がどうしても必要だという分野です。
 こういう情報の非対称性に基づいて国の関与が必要だというのは、意外に聞こえるかもしれませんが、健康保険とか年金とかについても言えます。アメリカでは、健康保険を民間でやっていますが、失敗しているので、多くの人たちが健康保険が得られない。市場が成立しないのです。健康状態について、当人と保険会社で持っている情報が全然違うからです。例えば、4〜5年前、ボストンの美容師さんは健康保険に一切入れないと言っていました。美容師さんという職業の人は、どんなにお金を払おうと思っても健康保険がない。要するに市場が失敗しているわけです。これはどうしてかというと、美容師さんとかインテリアデザイナーとか、美的な仕事をされる方には、ホモの人が多いのです。ホモの人が多いと、エイズが多い。エイズが多いから、保険会社にとっては出費がめちゃくちゃに多くなってしまう。だから、美容師さんといったら保険契約をやらないというのです。
 しかし、常識的に考えてみて、美容師さんの中でそこまでエイズの人がめちゃくちゃに多いわけがない。結局どういうことかというと、エイズの可能性のある人は健康保険にみんな入るわけです。したがって、保険料がうんと高くなる。そうすると、そんなに高い保険料を払って健康保険に入るというのは、相当あやしい人だけが入る。まともな健康状態の人は、健康保険に加入しなくなってしまう。そうすると、ますます健康保険会社としては給付が高くなって、採算に合わなくなる。これが典型的な情報の非対称性です。もし保険会社が個人個人の健康状態について正確な情報を持っていたら、そして大体この程度の確率で病気が予測されることがわかっていたら、ホモでない美容師さんに対しては低い保険料がかけられる。ホモの人に対して高い保険料をかける。しかし、実際には、情報の非対称性のためにそれができないので市場が消えてしまう。
 建築基準法の方も全く同じで、単体規定の方もそういった問題がある。やはり情報の非対称性があるところには国が干渉していかないといけないということです。ところが、実際問題としては、ほとんど公的な検査していないわけです。場所にもよるかもしれないけれども、大阪市の場合には、新築住居は、みんな違反しているのだそうです。検査されなくて済むからです。実際に中間検査、完了検査を受けるのは、全国でも3割程度の住宅らしいですが、大阪市の場合には、新築の住居は一切検査を受けない。みんな建ぺい率違反をしている。
 住宅問題の専門家の方から言ったら、けしからんということになるけれども、私なんかは素人だから、同情してしまうのです。要するに、狭い土地を買って、そこで住宅を建築基準法に本当に沿って建てたら、こんな狭いところに住まなければいけないわけです。その狭い面積に住むのが人間的かどうかということです。おまえたち、ちゃんと法律を守れといったら、こうやらなければいけない。守らないと、ちょっと人間的な生活はできる。そういう状況なわけです。もしそれが嫌なら、うんと遠くに住めと建築基準法はいう。そんな建築基準法さえ無視すれば、都心の近くで、便利なところにゆったりと人間的な生活ができるというわけです。(笑)それで違反を選んでしまうわけです。
 個人としては、集団規定をごまかしたいために、肝心の単体規定まで検査を受けられないでやり過ごしてしまう。ここが残念なところだ。私は、集団規定をいろいろ大幅に緩めて、これだけは絶対必要というところだけをきちっとエンフォースすべきだと思います。やはり単体規定=安全性が重要だと思います。そこをみんながきちんとしたいのに、それができない状況になっている。
 実際これはどうしたらいいかというと、私はやはり集団規定、単体規定、完全に分離してしまった方がいいと思います。そして、集団規定は、建ぺい率なんて外から見ればわかるわけですから、そこら辺のおばさんを訓練したってできる。ところが、単体規定の検査は専門家でないとできない。したがって、専門家による単体規定専門の、民間の検査士をつくってやればいい。
 ところが、検査士を急に何千人もつくれないから、当分の間は、一挙に全部の新築の家を検査するなんてことは物理的に不可能です。そうすると、先ほどの建築物登録制度に「ここは検査されました、単体規定をきちっとクリアしています」ということを登録できるようにする。それだけでそこの家は市場価値が上がるわけです。だから、後で中古として買う人は、ここは建築時にきちんとした検査が行われているから高く払おう。そういうことならば、高い金を払っても建築士を雇って検査してもらおうということになる。そして、集団規定の方では、一応切られているから、単体規定の方はそれで守られるようになっていくでしょう。
 しかし、そうはいっても、それでは今の非常に貴重な検査能力を持った人をみんなフルに活用できるようになるまで随分時間がかかる。実際問題として、「セキスイハウスはある程度信用できるじゃないか、一々全部検査しましたと言わなくたっていいじゃないか。それから、あそこの工務店も長いことをやっていて、すごく能率がいい」というような情報があるわけです。それを生かすにはどうしたらいいかというと、個々の建物が検査されたかどうかではなく、建築時に10年間の瑕疵保険に加入した建物は、そのことがちゃんと建築物登録制度に登録される仕組みをつくればいい。10年以内に建築基準法の違反で起きた欠陥が見つかったら、保険会社がちゃんと保険金を払ってくれますという保険を標準化して加入する。建築当初にこの保険に加入していたことが、将来この家を中古物件として買おうとする人にわかるようにすることが肝心です。
 そうすると、保険会社は全部悉皆検査をする必要はないわけです。ここの会社は今までの統計的な実績で信用できる、ここは信用できない。信用できるところはどんどんお墨つきを与えて保険に入れる。もちろん中には、違法建築をやるところもあるわけです。そのときは、もちろん保険金を払うことになる。しかし、少なくともこういう保険に入っていたことが、その家を買う時点でわかる。そういう仕組みをつくるということで、これは保険への加入を促すし、保険会社が、抜き打ちにサンプルして、そこの会社の能力を調べるサンプリング能力を活用することができる。これも一種の市場の活用であろうと思います。

 集団規定
 では、集団規定についてはどうしたらいいかというと、集団規定は、神戸の被災地で問題になったけれども、4メートル道路に30センチ足りないところは再建できないというわけです。もともと4メートル道路への接道条件は何のためにあるのか、私はよくわからないけれども、4メートル道路からちょっと入った路地に面しているところはもうダメだというわけです。そこの住民の人に言わせれば、消防車が入れないというけれども、燃えている家に消防車を横づけする必要があるか。ちょっとした路地があったら、ホースを持って入ればいいじゃないかというわけです。それに対する本当に有効な反論はないのではないか。
 とすると、例えば、4メートルが望ましいとしたら、多少欠けていたら賦課金をもらう。それから、容積率だって、超過したらそれから賦課金を取るという制度にすればよい。そうすることによって、違法建築である限り、賦課金を払い続けないといけないわけだから、新しく建てるときには、そのことを考慮して違反するかどうか決めることになる。違反すると、非常にぐあいがいいんだ、というときには、お金を払ってそれをやって納めていく。そういう仕組みをとることが必要ではないか。
 実際問題として、集団規定の違反に対して、今言ったようなのは、市場を利用して随分いいかげんなことを言う、という人がいるかもしれないけれども、では、対案は何だと言いたい。対案は、行政代執行です。代執行というのは、要するに違反建築をつぶすというわけです。代執行で違反建築をつぶすのは、日本で年に1件あるかないかです。大阪で去年あったのですが、大阪市で戦後3度目だというのです。これは例の淡路の低層密集住宅地の、2階建の長屋が並んでいるところで、1人の人が長屋の上に5階建てのコンクリートの塔をつくったのです。ただ、生活保護をもらっている人で、それをつぶしたら除却する費用を負担してもらえないので、大阪市が負担しなければならない。財政当局に、「結局市で負担しなければいけないのだけれども、やれるだろうか」と言ったら、財政当局が「絶対ダメだ。めったに代執行なんてやらないのに、よりによって生活保護のところでやるのは嫌だ」と言う。それじゃというので、写真を見せた。そしたら、財政当局が「これならやる」と言ったというのです。(笑)そのくらいひどい、特別の違反建築しか除却していないわけです。だから、みんな違反しているわけです。それを除却するには膨大な金がかかる。そうすると、こういう賦課金が唯一実行可能な対案ではないか。
 ところで先程お話しした容積率に関して言えば、本来は鉄道料金を上げれば一番いいわけでしょう。そのセカンドベストの特別事業所税も無理だというので、最後にサードベストとして容積率になっているわけでしょう。したがって、容積率違反に対して料金を取るということは、ある意味では、ファーストベストやセカンドベストに近づけるわけです。だから決して曲がった議論ではない。
 こういうふうに、一見市場機能とは全く関係ない建築基準法なんかについても、市場機能・価格機能は役に立ちます。法を施行するときに、その目的が結局は何だったかということを考えると、人に迷惑をかけていることに対する対価を払ってもらうという考え方、行為の帰結に対して適切に責任をとってもらうという考え方は、活用できると思います。
 時間が来たようですので、ここまでにしたいと思います。

司会(谷口)
 どうもありがとうございました。
 大変面白く、また刺激的なお話で、まだまだ御質問、御意見がおありかとは思いますが、ちょうど時間が参りました。申し訳ありませんが、今日はこれで終わりにさせて頂きたいと思います。  

八田先生
 どうもありがとうございました。(拍手)


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