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第121回都市経営フォーラム

都 市 計 画 の 社 会 的 視 点
─市民・住民そして隣人─


講師:伊藤 滋 氏
慶応大学大学院政策・メディア研究科教授

日付:1998年1月22日(木)
場所:後楽国際ビルディング・大ホール

市民・住民・隣人
地域社会と企業
商業地域における経済活動の活性化
誰が都市計画の責任を背負うのか
都市計画に新しい目標を受け入れる自由度があるか








 きょうのテーマは、資料も経験も十分に蓄積されていない話です。大体今までは仕事をやっている経験とか資料とか、そういうものがあって、それを整理する形で話をしていたのですが、きょうの演題はそうはは行かない。だけど、何か、こういう話題があるんじゃないかなということで、無謀にも準備しないで、こういうテーマにしました。
 しかし、私も一応都市計画の専門家です。そして、きょうは、私の尊敬する専門家の皆様、あるいはお若くて、現場でバリバリ仕事をされている専門家がかなりおられますが、多分そういう方もきっと仕事上でこういう話にぶつかって悩んでおられて、解けないことが多いのではないかと私は推察するのです。ですから、きょうは、結論は出ないかもしれませんが、問題は相当深刻だぞということをひとつ皆様と一緒に考えてみたい。できるなら、そして、答えは一体どういう方向にあるかぐらいは考えてみたい。そんなことで話をします。




市民・住民・隣人

  「市民・住民そして隣人」としていますが、とかく都市計画では、「住民」と「市民」という言葉が使われるのですが、「隣人」は余り出てこないですね。しかし、建設省の住宅局の人たちなんかは、常に「敷地を一緒にして共同建築をしたら補助金を上げるよ」なんてことをしつこく言っています。東京都もそういうことを言っています。ここで何回か話しましたけれども、その象徴が、墨田区が、東京で起きるであろう大地震の話題が深刻だった今から20年ぐらい前に、木造の建物の不燃化ということで、国や都に先駆けて、不燃化をするとつかみで150万円、隣の家と共造するとそれで100万上乗せして250万円やるという話がありました。金額はあるいは定かではありませんが、墨田区が率先してやったのです。不燃化でいくら、隣の家と一緒にやることでさらに上乗せしていくらと、つかみの補助金を出すいうことをやったのです。
  これと似たようなことを実は住宅局系の行政でもしばしばやられているのですが実は、うまくいかないのです。要するに、隣人とのつき合いが実は日常生活の中で一番危険きわまりない要素を含んでいるからなのです。そういう事実があるのですが、どうも行政の立場に入ると、隣人とは、感情的にもコミュニケーション的にも一番いいであろうという前提で、隣と手を結べば、よりよき地域社会、よりよき都市環境ができることになるのです。しかし、現場の調査をするとわかるのですが、およそ50軒から100軒ぐらいの住民という人たちの間では、割合前向きな話が出るのですが、隣人との相隣関係はいつもけんかの連続です。これは都市の中、特に山の手の市街地がそうですし、農村でも、隣人との敷地争いは非常に深刻なわけです。
  下町はどうかよくわかりませんが、下町は路地があるから、隣近所仲がいいだろうと言っていますけれども、きっと土地の境界争いは、下町でも相当深刻ではないかと思います。なぜならば、下町の商売をされている方の土地は、10坪あるいは15坪。15坪なんて大きい方かもしれません。そういうきわめて小さい敷地ですし、間口で商売しますから、間口が2間の奥行きが7間の14坪。隣から「おれの敷地はもう1尺そっちまでだ」などというので、この2間を1尺でも切り取られ、2間が1間5尺になってしまったら、多分商売の売り上げにひびきますから、きっと下町でもこれは相当深刻な話じゃないかと思います。
「隣人」というのは、都市計画でどう位置づけるのかということです。もし隣人とのつき合いがうまくいかないということならば、隣と手を結んで共同建築なんてむだなことを思い切ってやめてしまう。そして、むしろ隣人を包摂する「住民」ということで、話し合いが一番できる住民の集合体というのは20軒なのか、30軒なのか、50軒なのか。それぞれの町の特性とか地形条件とか、町を幾つか含んでいる都市なら都市の特性とかによって、住民が話し合いをして、反対、賛成を明確にできる大きさは一体どれぐらいか。こういうことを突き詰めていくことが必要になってくるかもしれないわけです。
   基本的には、隣人とのつき合いは難しいから無視して、住民の話の中でやるということは、一種のむら社会の話と同じで、要するに相隣関係で深刻な状況になっている1つ1つの事例を余り細かく考えていくと答えがないので、20人とか30人の住民でこの地域社会の地籍をきちっと決めよう。そして、その時には、個別の相隣関係については相当思い切ったけんか両成敗とか、実際に権利を行使する地域ルールをつくっていかなければいけないのではないかということです。
  そういう点では、今地区計画とか市民参加とか住民との話し合いとかがいっぱいあるのですけれども、ただこれを延々と続けていくのではなく、どこかでこれはやめようとか、これは継続しようとかいう判断を随所随所でやっていくことが、実は都市計画の中でこれから相当大事な話題になってくる。これを決めるには、やはりそれなりのルールが住民の中にあって、きちっと執行するということを都市計画の新しい話題として考えられるべきではないかなという感じがしています。

  実は私はそういう体験を、きわめて身近な、私の家の周りで今しつつあるのです。私は久我山に住んでいるのですが、久我山の駅は北口に出入り口があり、南口はないでのす。南側には出入口から踏切を渡って行きます。
  ところが、南の方は、有名な国学院久我山高校という、ラグビーが強い高校があります。生徒がいっぱいそこへ通うのです。もう1つは、東京都の盲学校があります。そこへやはりお母さんに連れられた子供とか大人の方も通われている。それからもう1つ、老人ホームを持った病院があるのです。もちろん工場もあります。ですから、朝の通学時になると、踏切がきわめて危険な状態になります。だから、朝なんかは、踏切の遮断機の前で、高校、盲学校へ行く通学生、病院へ行くお年寄り、また、逆に、住宅地から電車に乗る通勤の連中がめちゃめちゃにぶつかり合って、一つ間違えば大変な事故になるという状況になっています。
  この問題の解決に対して、だれがイニシアティブをとるかということです。今のところ交通事故も起きてません。込んでいますけれども、とにかくみんな工夫しながら歩いていますから、区役所から見れば問題がないわけです。そうすると、区役所は一歩後ろへ下がっているわけです。そして、実はこれを一番リアリティーを持って受けとめる人は、込んだところに面しているお店なのです。店屋は、込み過ぎているために全く商売ができない、品物が並べられない。それから、そこにバス停もあるのですが、バス停でおりた人が、こんな狭いところにいられるかというので、その辺で買い物をしないでそそくさと電車に乗ってしまう。駅前の商店街であるけれども、ビジネスチャンスがないのです。
  そういうところで、もう1つ新しい問題が出てきています。それは、こういう中で気がついたら、お店屋さんが成り立たないところがあという、よくある話です。例えば、表向きは小間物屋さんなのですが、70ぐらいのおばあさんが1人ひっそりと、生業的にやっている。子供さん方はもういなく、御亭主も死んでしまっている。そのおばあさんは、店はとにかく開けているけれども、もう、こういう地域社会で商売する気はさらさらなくて、実は、土地を売って息子のところに行きたい。そういう家が今急速にふえているのです。そこでここを再開発をしようという一種の住民運動が、商店街の元気のある御婦人方から出ているのです。
  ところが、住民運動で30人ぐらい集まりますと、これはいいことだとなり、アンケートをとっても、8割ぐらいはいいことだという。そこで相当いけそうだとなるのですが、そこの地域に一度入りますと、住民運動の中心になっている元気な奥様の隣のおそば屋さんは再開発なんかはやる気がないのです。おそば屋さんは、駅前の再開発でできたビルの中へ入って売上げが倍になることはないからです。そして、またラーメン屋さんの若夫婦で、10坪の土地をたまたま安く手に入れて、そこでこれから夫婦一緒に20年ぐらい一生懸命頑張って一財産つくろう、という人がこれがまた住民運動をやっている人の隣にいたりする。
  そうすると、これまさに隣人問題を解かない限りは、住民運動が幾らうまくいったって動かない。その住民運動にはルールがないわけですから、隣人という人たちの生業をかけて、そこで仕事をすることがまず第一優先されます。当然そうなります。そういう中で住民運動はむなしく消えていくわけです。話し合いを何回しても膠着状態です。
  そのときに杉並区役所がいるじゃないかという人がいるかもしれません。しかし、杉並区役所は、警察と同じで、リスクの大きい民事の紛争があるようなところへ簡単には入っていかないですね。きっと調査費もほとんど出さないでしょう。まずは地元の皆様方の合意を受けて、合意がまとまったときにしかるべき調査をいたしましょう、という。
  今話したことは、東京のどこの町にでもある。まさに都市を足元から直して行こうという時に、隣人という問題に対して、住民運動や市民参加という美しい言葉がどういう対応をしなければいけないかということです。
  非常に冷酷にいうと、例えば住民の中で、久我山の南側の町をよくしよう、駅前広場もつくろう、ちゃんとしたバスの停留所もつくろう、踏切も広くしようということに賛成する人が30人ぐらいで、これに対して2人が反対する。2人というのは今言った、そこでしか成り立たないおそば屋さんラーメン屋さんですが、それはやはり抹殺していくしかしようがないじゃないか、という話があります。30対2ですから。
  これは相当冷酷な話です。ルールをきちっとつくることによって、もちろんおそば屋さんやラーメン屋さんにはそれなりの補償をすると思いますけれども、いたずらに話し合いを連続させるのではなくて多数決で決める。これは全然役所は入ってない市民の中だけの話で、しかも両方とも善意の固まりです。しかし、都市計画は市民参加、住民運動に支えられて1対1の隣人関係ではなく、住民とか市民全体のよき方向を考えるわけですから、やはりこの2人に、基本的には再開発に賛同ではなくても、それに強制加入してもらう。こういう地域社会としてのルールがどうしても必要になってくるんじゃないか。そうでないと、この問題は解けないわけです。
  都市計画が地方自治体に下ろされて、さらに地区計画が重要である、そのためには市民参加が重要であるというようにずっと下へおりてきました。このとき今言った話がすぐに目の前に吹き出してくる。これまでは区役所が言ったからしようがない、東京都が言うからしようがない、国が言うからしようがないという言い訳があったのですが、それがなくなるわけです。まさにこれは社会的視点なわけですが、こういうことをまじめに考えていくと、やはり地域社会をよりよき方向へ持っていく一種の地域ルール。役人を入れない地域ルールが、相当大事な話になるのではないかという気がするのです。




地域社会と企業

  さて、これから第2の話です。
  住民の話し合いというのは、アンケートをやったり、結構お金がかかります。これはみんなのお金でやっているかというと、そうじゃない。実は2つの組織が人間を出し、情報を提供しているのです。しかしお金は出していない。1つは、駅前に大体あるスーパーマーケットという企業です。もう1つは、スーパーマーケットがよく使っている比較的中規模のゼネコンです。これもよくある話です。市民運動に対して、市民はもちろん、お役所も基本的にはお金は出さない。しかし、市民運動はそう組織的には動きませんから、どうしてもある段階で必ず専門家を必要とするのです。ただ、そのためのお金を、特定の企業に援助しろとはお役所は絶対言えません。
  そうすると、このスーパーマーケットは出入りのゼネコンさんに話して、駐車場が欲しい、あるいは仕入れの車を表のバス通りに駐車して、小商売をしている人たちから文句を言われないように、スーパーの店の裏側に車だまりをつくって持っていきたい。また、地元の商店の人たちも、おばあさんがもう死にそうになって、商売をするのも先が見えてきているというようなことも言う。そうすると、ゼネコンの方で、若い30代とか20代で一生懸命勉強している都市計画のことも知っている建築屋さんを送ってくるのです。これは企業ですから、あくまでも利益を考えているわけです。
  このように、住民組織に1つの企業が入り込んでくるとき、企業だからといって、また、後でみんなから陰口を言われたり、後ろ指を指されるからだめだ、といって排除してしまうと、実は先ほどの隣人と住民との間の答えは解けないのですね。
  企業でも、悪い企業といい企業、あるいはいい企業でも、途中で悪くなる企業など、いろいろあります。しかし、これが住民運動の中に取り込まれている企業であったら、自分たちもほどほどの利益を得ながら、その中で、地域に対するそれなりの社会貢献をするということがあっていい。例えばそのおそば屋さんとラーメン屋さんは、スーパーが店を大きくした入り口の左側にラーメン屋、右側におそば屋さんというふうに、その中に入れた方が、きっとお客さんの出入りは多くなるでしょう。そして、そのラーメン屋さんとそば屋さんが取り払われたあとには、バス停ができるわけです。
  このように、企業というものを初めから全然拒否をするのではなく、市民がうまく使っていくという立場で、その具体的な方法とか、あるいは市民側から企業に対して提案するルールとか、こういうものを考えていくことが、これからきわめて重要になってくるのではないかと思うのです。
  ところで、これは久我山の駅の南口のバス停を中心にした再開発の話ですが、これを北口の商店街の連中から見ますと、「あのスーパーはうまいことやりやがった」ということになる。うまいことやって地域住民をたぶらかして、結果として駐車場をつくって、こちらの商売よりも向こうの商売の売り上げを大きくするんだろう。あんなスーパーはつぶしてしまえという話です。ですから、住民組織、市民組織ももう少し、広い範囲で考えていくと、必ずそこに何らかの敵対関係が出てくる。これも解かなければいけない課題です。
  なぜならば、きっと区役所へこういう話を持っていけば、「近隣との話し合いはうまくいっていますか」と役人は必ず言う。近隣との話し合いがうまくいっていれば、いろいろ都市計画的なお手伝いもしましょう。しかし、近隣との話し合いができていないと、もう少し近隣との話し合いを継続してくださいというに違いないのです。これは杉並区だけではなく、どこでも同じです。そのときの「近隣」というのは、先ほどの久我山の南口の場合には、きっと北口の商店街です。
  こういうことに対するあるルールをきちっとつくっていかない限りは、私たちの町が、なるべくお役所の金を使わないで、民間の企業のお金をうまく使いながら、都市計画を通して身の回りのことを少しずつ直していこうということは、ほとんどできなくなってしまうのではないかということなのです。まさに役所抜きで地域社会としてそういうルールをきちっとつくれるかどうか。これから新しい都市計画法が施行されていくと、こういう実験が始まるのではないかなと思うのです。

  企業の話は、実はこれからお話することにも深く拘わってくることです。
  これまでの都市計画は、1戸の住宅地とか、市民がない金を一生懸命はたいてつくった小さい鉛筆ビルとか、こういう個人の資産を守ることについて、大きい仕事をこの5〜6年の間にしたと思うのです。役所の仕事だけではなく、そういうところに地域の住民の皆様方が都市計画に参加しながら、主として住宅地を中心にした地域社会の安定性と静けさ守っていくための、いろいろな都市計画上の法律や施策をこの5〜6年の間、役人も学者も住民運動のリーダーも一緒になってつくってきた。
  しかし、都市が今までのように、いろんなビジネスチャンスがマッシュルームのように発生して、むしろそのビジネスチャンスを抑えることによっていい都市がよくなる時代、それは一種のバブル現象と言えるのかもしれませんが、そういう時代はもう終わって、21世紀の初頭は、そういうことはほとんどないのではないかと思うのです。
  むしろ、今まで私たちがつくってきた都市計画のルールがあるがゆえに、市街地がきわめてスタティックになって、そのために、先ほどの小商売の話に代表されますけれども、中小企業の皆様方のビジネスがうまくいかないとか、あるいはこれはオーバーな話かもしれませんが、失業問題が逆にふえるとか、そういうことがこれから幾らでも起きてきそうです。
  私は時代がこういう不景気になったから、都市計画の法律とか政令とかについて見直せということを言っているのではありません。むしろ全体的には、これまでに作ってきた、住宅地の安定性を守る為のシステムなどは、まさに金科玉条で、一番必要なことには違いありませんが、しかし、片方で都市計画というのは、もうちょっと積極的に都市を活性化させるために、ソフトな領域、経済の領域といっていいかもしれませんが、そういうところに貢献できるのではないかないか、ということなのです。
  そうなると、当然これは企業と住民、あるいは企業と市民という話になってきます。住民と市民の違いと言うのは、「住民」として地域を考え、「市民」として都市を考えるということでしょう。そして、1人の人間でもこの立場の違いによって考え方が異なり、時には矛盾することもあるわけです。
  「住民」として考えたときは、自動車を通さない、歩道を大きくしよう、自分の家の周りの小さい道路にトラックか何かがとまるような小商売のお店なんか余り欲しくない、そういう小商売のお店はむしろ駅の周りにまとめてつくってくれというでしょう。しかし 「市民」になった途端に、住民税が高くなる、あるいはパートの仕事が減る、あるいは病院のサービスが非常に悪いという話が出てくるのです。公会堂をつくるよりも公園をつくれ、こういうのは市民と住民とのちょうど境界領域かもしれません。
  これからの時代で一番象徴的な話題は、多分税金の話だと思うのです。厚生年金とか健康保健料なども含め、これは住民というレベルよりも、市民として市長さんや議員さんに問題を突きつけていくことでしょう。そして、市民としての意識は、住んでいる地域社会がある程度経済的な強さを持っている場合と持っていない場合で相当違ってます。
  今、東京都は、千代田区とか港区とか中央区、ここには日本の大企業が集まっていますから住民税とか、特に固定資産税を吸い上げて、それを墨田区とか荒川区とか江戸川区とか、それほど豊かでない区に配分しています。一種のコントロールをしているのです。
  しかし、もし地方分権が徹底されてくると、東京都が区のそれぞれの税金を東京都へ吸い上げてそれを再配分するという機能は、もしかすると、今までと同じようにいかないかもしれない。というのは、区が市町村並みになるということは、他人を頼るなということです。都を頼るな、国を頼るな、隣の区を頼るな。そういうことがきわめて当たり前の話題として出てくるでしょう。
  そうすると、私の感じでは、例えば、隅田川を挟んで墨田区と台東区の2つの区では、墨田区の方が必死になって経済の振興を図ろう。台東区並みの1人当たりの税金を墨田区も取れるようになる。そして、その税金によって、市民からいろいろな不平不満が出る病院の問題とか、あるいは公民館の問題を片づけていく。こういうことを考えるようになってくるわけです。
  そうすると、地方分権が徹底していったとき、当然都市計画は地域住民の住環境の問題だけでなく、ビジネスチャンスに対してどれぐらい貢献できるか、ということを考えざるを得ないことになると思うのです。

  これも私はあちらこちらで話しているのですが、今は区の話をしましたけれども、むしろ、対比的に2つの市を比べて言えばいいかもしれません。よく私は、武蔵野市と三鷹市という例を引き合いに出すのです。これは1つのフィクションですから、本当に武蔵野市長と三鷹市長がそう思っているというわけではないのですが、これから私の言うことは両方の市の体質を大体あらわしているはずです。
  武蔵野市は、御存じのように、中産階級の割合上の人たちがいっぱい住んでいるところで、市民税収入が大きい。要するに、市民の皆さんの給料がいいから、そこから取る税金が多い。大変豊かです。それから、日本を代表するような工場もあります。ですから、大変品のいい町です。そういうところでは、住宅地をきわめてきちっと維持することがみんなが大事だと考えています。なぜならば、そこで商売して上がる利益よりも、皆さんがサラリーマンとして、千代田区とか中央区の企業に勤めて得る給料からの税金で、武蔵野市は清く、正しく、美しくやっているわけです。そして、住宅地をきれいにする。そして、なるべく住宅地の中に工場が入らないようにする。あるいは、商業地域も広がらないようにする。都市計画の最新の動きの典型かもしれません。都市計画はかくあらねばならないという見本が武蔵野市に体現されるということかもしれません。
  それに対して三鷹市は、三鷹市ももちろん品のいい住宅地はありますが、武蔵野に比べると、大部分の市民の所得は低い。所得レベルでいうと中産階級の下の方の人たちですね。かつて私は三鷹市に住んでいたから、その実感はよくわかります。
  それともう1つ、三鷹市は建売住宅が多い。それから、三鷹市は戦争前から中小企業がとても多かった。ですから、私の類推するところは、三鷹市は中小企業、工場を大事にして、その工場が払う法人税をより大きくしていく方が大事なのです。そうすると、三鷹市は、地元の企業に対して相当重点を置いて、場合によっては戸建て住宅地の中に小さい工場が入ったってしようがない、それによって市役所が手に入れる法人税が大きくなり、市営の病院に対する市の補助金が増やせるるということなら、それの方がいいじゃないか、となるでしょう。
  そして、これはちょっとオーバーな話ですが、三鷹市は低層の一種住居専用地域をやめてしまう。全部準工業地域にしてしまう。原則として、どこにでも工場が入っていい。そういうふうにしてしまおう。それをセールスポイントにして、例えば、大田区とか北区の工場に、「こっちへ来ると、工場としてもいい環境がありますよ」なんてことを言うかもしれません。これは1つのフィクションです。総体として狙っているのは、市の固有の税金を上げることが重要だ。
  そういう三鷹市は、境を玉川上水と接して、北の武蔵野市に接しています。これまでの都市計画の考え方であったならば、多分東京都はそういう用途地域の引き方はやめろ。武蔵野市が低層の一種住居専用地域を多くしているなら、三鷹市だって、例えば、一種低層の住居専用地域を武蔵野市並みに全市域の6割ぐらいにしろ。
  武蔵野市に準工業地域はきっとないと思いますから、三鷹市が準工業地域をどうしても欲しいなら、限定された場所に10%ぐらいにしろ。要するに、隣の優等生並みの土地利用にしろなんてことを言うと思います。こういう指導の仕方は、住環境をよくしようと考えている御婦人の住民運動のリーダーから見れば、あるいはそっちの方が筋が通っているかもしれません。
  しかし、三鷹市に住んでる人たちから見れば、それは全くおかしい話ですね。そういうふうに考える人たちは中小企業の経営者であり、そこで働いている従業員で、三鷹市に多いそういう人たちの中に、武蔵野と同じような土地利用を指導されるなんて全くおかしいということは当然出てくると思うのです。
  市境を接して、地形的には全く同じような状況にある、武蔵野市と三鷹市とは全く違うまちづくりを考える。その原因は、やはり経済的なよりどころをそれぞれの市がどこへ求めているのかということであり、そういうことで、土地利用の姿は当然変わっていいわけです。こういうことが自然に地方分権と経済状況の閉塞状況の中で出てくるのではないかと思うのです。




商業地域における経済活動の活性化

 都市計画のこの5〜6年来の議論は、先にも言いましたが、住宅地域については、これ以上手当てしなくていいというぐらいいろいろな制度的な変更を試したはずです。しかし、商業地域、準工業地域については、非常に保守的というのですか、旧態依然とした姿勢で、果たしてその将来像をちゃんとつくるということをやっていたかなという疑問もあります。
  台東区とか中央区を考えていただきたいのですが、例えば、容積率400、500という商業地域は、一見建物の形式が2階建て、3階建ての古い木造の建物が多いかもしれませんが、しかし、そこに住んでいる人たちの自分の資産に対する考え方から見れば、そこにビジネスチャンスがあれば、自分の土地を最高限に使って儲けたいと思っているでしょう。だから商業地域になっているはずです。商業地域というのは、そういう地域指定ですね。
  それがとかく商業地域の中にも、それなりにつつましく暮らしている生活があるから、この生活を無視した地域の再開発をやるべきでないという話があった。これは一見、正しいように見えます。
  しかし、バブルのときにどういうことが起きたかというと、その土地を持っていた人たちが本当にその地域を愛して、その地域に根をおろし続けたというと、必ずしもそうでなくて、虫食い状態になった空き地と古いお店が残ったわけです。これがそうでないことを証明しているような気がするのです。
  ですから、相当乱暴な言い方かも知れませんが、商業地域というのは、そこで最大限のビジネスチャンスを発揮するために指定されて、それを優先していくことが第一義的であるならば、それを思い切って達成することに主眼に置いてもおかしくないのではないか。何もそれは商業地域全部について、非常に大きなオフィスビルやデパートや、場合によっては工場をどんどんつくれということではありません。
  場合によっては、非常にオーバーな経済活動があったときには、それを抑えることもあるかもしれませんが、少なくとも経済活動に対してセンシティブに、経済の活性化という観点から、これに強い関心を持って都市計画を運用することが必要であり、商業地域の中で起きる集中的な民間投資のすべてよくないということはおかしいだろうということを言いたいのです。だから、商業地域の中のプロジェクトについて、容積とか高度地区、また日影規制などという、そういう一般ルールの中で、あなたのプロジェクトはこれだけのことしかできませんということではなく、そのプロジェクトがそれなりに筋道の通った、その地域社会に対して特別に困らない、迷惑をかけないものであるならば、思い切ってそのプロジェクトを進めていくことの方が──ここからが皆さんと議論したいところですが──市民社会的な観点で自分の土地を考え、自分の都市の経営を考えるときには、いいのかもしれないという気もするのです。
  要するに、都市計画が都市の経済状況に対して、今までと同じような姿勢をとっていていいのかどうかということなのです。

  少し、突拍子もない話を申し上げましょう。少し前に、経済企画庁の尾身長官が大胆な発言をして新聞誌上などをにぎわせました。
  銀座の三越が違反建築だから、建てかえられないが、あそこを1300%にすれば、すぐ建てかえるだろう。だから銀座の商店街のところを全部1300%にしてしまえなんていう発言もありました。
  ご承知のように、銀座の商店街の容積率は800%ぐらいですか、1000%ではないですね。1000%というのは、東京駅の丸の内側と新宿西口だけです。800%を1300%にするということは、今の都市計画法では、例えば、再開発地区計画とか、高度利用地区とか、いろんな方法を講じても、今までの東京都がやってきた前例だと、2割から3割ぐらいまでしかいかない。丸の内なら1250%とか1300%までいきますけれども、銀座の800%を1300%にはできない。だからこれは難しいというのが通常の都市計画課の役人や、大学の都市計画の先生の答えなのです。なぜならば、丸の内が1000%で、商業的土地利用は、東京の場合は東京駅を中心にして、遠くへ行けば行くほど下がっていくものだ。それを公理のごとく考えているからです。
  ところが、ではなぜ銀座が1000%であっておかしいのか、という設問が出たとき、それ対して答えられるでしょうか。あるいは、昭和通りに面した場所が、昭和通りという大変立派な道路がありながら、なぜ700%なのか。
  それは丸の内が1000%で、そこから離れるに従って、八重洲の方が900%、昭和通りはそれよりさらに何キロ離れているから700%だという理屈なのでしょう。これは20年ぐらい前なら、「うん、そうか、そうか」となっていたのですが、今はよく考えると、そうかとは言えない部分もあるわけです。
  経済活動の展開がフリーになってきて、オフィスビルの立地も固定的でなくなってきた。高い建物は丸の内から順序よくずっと並んではいません。突然用賀のようなところにオフィスビルが建ったり、新宿西口に突然オペラシティーのような大きい建物が建つ。東京の景観は、そういう点では、ニューヨークやパリと違って、建物の高さはむしろ真ん中が低いかも知れなくて、新宿みたいなところで突然高くなっていく。渋谷でも駅の周りは低くて、ちょっと離れたところに高いものが建つ。これはある意味で、東京の方が、実はビジネスチャンスに対する地域社会の見方に、タブーみたいなものがないからなのです。私はこういう方が、ある意味では土地利用を健全な方向に持っていける可能性が、ニューヨークやパリよりもあると思うのです。
  例えば、ニューヨークで、西側のハドソン川の方にはつい30年ぐらい前までは旅客船が着く桟橋がいっぱい出ていましたが、今は旅客船が着かなくなって、廃墟になってしまった。東京では同じように廃墟になった、竹芝を東京都は一生懸命再開発して、オフィスビルを建てました。赤字ですけれども、あれは役所がやったから赤字なのかもしれません。民間の再開発だったら、黒字になってきたかもしれない。しかし、ニューヨークのハドソン川の方は、桟橋のところにいまだ、ちゃんとした建物は建ってないわけです。
  また、タイムズスクエアからちょっと上の50番街近くに、10年ぐらい前のバブルのときに、日本のあるゼネコンがオフィスビルと高層マンションを建てたのですが、あれはは失敗したはずです。なぜならば、そこは本来オフィスビルを建ててはいけないとタブー視されているところなのです。あそこから西側は、プエルトリコ人とかラテン系の人たちとかが住んでいて、それなりのエスニックな地域社会が頑張っている場所で、そこは再開発によって排除されるかというと、排除されないのです。そのせいで、東京で言うと、丸の内から見て神田の鎌倉橋をちょっと越えたぐらいのところなのに、全然オフィスビルが成立しない場所なわけです。
  ロンドンもそうです。ロンドンでのいい例は、イーストエンドとのぎりぎりのところにバービカンという地域があって、その近くに銀行街とオフィスビル街があるのです。そこの駅前広場を再開発をしたのですが、そこから道路1本東へ行ったら、インド人たちの住む地区がある。すばらしい再開発の建物の道路1本東へ行ったところは、もう再開発ができない場所です。ロンドンでもパリでもニューヨークでも、こういうふうに地域のタブーを持っている地域がいっぱいあるのです。
  それに比べると、東京はそういうタブーはない。だから、たまたま土地事情がよかった、土地の取得が容易であったというので、思わぬところでポコンポコンと高い建物が建つ。そして、それはそれなりに、空き室はあるけれども、その周りが決定的に犯罪が多いとか、あるいは鉛筆ビルが全部空き家になって、そこ自体がゴーストタウンになるということはないのです。
  そうすると、そういう自由度がある方がずっと健康な土地利用じゃないか。そこのところに、ここは1000で、次は900だ、800だというルールを決めていること自体、もしかしたらとんでもない間違いをしているのかもしれない。そういうことを私は思うのです。

  尾身さんは、都市計画の専門家ではないですから、専門家がそんな深刻な思いをするなんて考えもしないで、銀座を全部1300にしようと言う。非常に単純ですね。容積率を上げることで、三越も資生堂も松阪屋も建てかえて、容積1300%の商業ビルのができると思っている。そして、東京都心部の容積率を千何百%にすると、10年間でビルがどんどん建つので、何十兆かの経済刺激があるという。ある意味では、これは相当刺激的で、おもしろい話ですね。
  ところでその時、どこの新聞もそのことに対して、住民運動とか住環境とか日照権とか、つい10年ぐらい前まで抱えていた観点からの批判の記事を1つも書かなかった。それは当たり前かもしれません。今言った尾身さんの言っていることは、住居地域でもないし、近隣商業地域でもないし、準工業地域でもない。まさに商業資本が蟠拠している中心部について、これまでの都市計画の矛盾を突いたから、それについて意地悪なことは、さすがの新聞も書かなかったのでしょう。発生交通量がどうのこうのという役人が言うような話も書かなかった。
  実は私は、その後尾身さんに会った時、中央区はおもしろい区だから、中央区でそういう方向でいろいろ考えてみたらいいですね、と言ったのです。中央区長がその気になれば、容積を今の700から1000ぐらいに上げることができるのではないですかと言ったのです。ところがこれは間違った発言でした。どういうことかというと、今度の都市計画法の改正で、地方自治体の一番中心的存在である市役所は、原則として、みずからの地域の土地利用を県庁に対して伺いを立てる必要はなく、市役所が主体的に決めることができると直したのです。だから、福島市長は福島県庁にお伺いを立てなくても、福島市の用途地域をバサッと変えることは可能です。それに対して県庁は、それは拒否すると言えないわけです。そして、中央区も市並みの力を持つことができるならばそうだろうと思ったのですが、これは自分で昔これでいいと言ったことを、すっかり忘れた発言でした。
  どういうことかというと、全国的には今言ったようなのようなルールが適用されるけれども、3大都市圏の規制市街地と近郊整備地域については、きわめて都市が連帯して人口が多くて、そこの土地利用の変化は、国の性格を変えるほどの大きい影響力を持つであろうから、これについては東京都とか千葉県とか埼玉県が市町村の話を聞いて、最終的には今ある東京都と地方都市計画審議会、埼玉県の埼玉県地方都市計画審議会が決めると書いてあるのです。私の発言ははそれをすっかり忘れてしまってのことでした。後で調べたら、実は役人は周到に重要と思われるところには必ず県や都を介して国が発言できるようなストッパーをちゃんとかけてあるということです。
  だけど、私はそれにへこたれません。実は今、それではというのでいろいろ考えています。それはなぜかというと、きょうお集まりの方々にもいろんな方がおられますが、やはりこの景気の中で、再開発を思い切ってしたい。そして、町を活性化したい。あるいは、仕事をふやしたいということでは共通じゃないかと思います。住民運動だって、実りある仕事をしたいというのが共通だと思います。
  そうすると、そういう社会状況の中で、まず一番おかしいのは、非常にスタティックな、東京駅中心の富士山型の容積地域とか用途地域のつくり方は、21世紀日本ではもうやめよう。場合によっては、千代田区の、関東財務局とか関東地建とか気象庁があるところは、とても貴重な国有地ですから、あそこを一種低層住居専用地域で用途100%ぐらいにしておいても、緑地空間としてはおもしろいかもしれません。国もそれくらいの貢献は東京にしていいでしょう。実は、そういうことを本当はやりたかったのは、東京フォーラムのところで、本当は東京都市計画の中であそこを第一種低層住居専用地域にして公園にしておけば、変なものは建たなかったのです。それがたまたまあそこは商業地域の800ぐらいだったから、ああいうものが建ってしまった。(笑)

  そういう、少しあまのじゃくみたいな考え方も含めて、固定的な土地利用を変えることを積極的にやる価値があるということなのです。そこが突破口だと思うのです。
  つまり、確かに今経済はふん詰まりです。景気はよくない。それならば緊急に5年を区切って、2003年でも2005年でもいいですが、例えば2005年までの8年間ぐらいの時限立法で、中央区と台東区と墨田区。この区は私の好みです。絶対港区とか千代田区は入れない。(笑)中央区と台東区と墨田区でビッグプロジェクトのオフィスビルをつくりたいという連中は、容積無制限で、何%でもつくっていい。2000であろうと3000であろうと、どうぞおつくりなさい。そういうことを中央区と台東区と墨田区に言えば、きっとその住民はおもしろいと思うに違いないです。だけど、それを港区へ持ってくると、おそらく大反対です。これは三鷹市と武蔵野市との比喩と非常に似ています。港区が武蔵野市で、中央区が三鷹市と思えば似ています。
  とにかく、現在の容積率が例えば700%の地区に、1500%の建物を建てても違反建築にしない。この5年を区切って、緊急の都市計画として、経済に対しても発言できるようなプロジェクトについては、オフィスビルやデパートをつくって、結果が1300になっても、その建物は違反、既存不適格ではない。時限立法の期間、つまり2005年以降、そこに700%の一般ルールが適用されても、2005年までに1300をつくったら、1300の権利は永久に保持できる。そういうことをやっていいんじゃないかと思うのです。
  それがどうして困るのかということです。それが前例になって一般化して、台東区と中央区と墨田区の道路は自動車でめいっぱいになるということは絶対ないでしょう。なぜなら、バブルのときでもそうではなかったと思いますが、まして、この経済不況の時、5年か8年の間に、中央区、墨田区、台東区、たかだかこの3つ。それも企業から見れば、「まあしようがない、あそこでもやるか」というようなところです。そこでオフィスビルや商業ビルをつくるドンキホーテ的な企業が何百も出てくるわけがないのです。これは理屈をこえた経験的事実です。
  英米法的に言えば、つまり今までの事例は、これだけの事実しかなかったから、そういう事実を前提にしてルールをつくろうということですが、まさにその事実を前提にして考えれば、 向こう5カ年の間に突然、秋葉原の再開発ができ上がって、その周りに、あるいは上野に1100%、1200%のオフィスビルが建ち上がって、浅草も元気になってなんて、そんなのはありっこないですね。
  それならば、こういう非常にチャレンジャブルに世の中を変えていこうという、半分無謀とも見えることをする住民や企業に対しては、国全体としてそれなりのメリットを与えよう。こういうルールの方が、都市計画がずっと前向きになってくるんじゃないかと思うわけです。
  この話は、さっきの久我山の駅前の再開発の話と無縁ではないのです。久我山の駅の再開発は、もしかすると、交通事故で死者が出るぐらいの危機的状況ですが、今の状況では、お客さんは何とかあそこで処理している。だけど、今後、高齢化社会になって、歩く人たちがもう少し敏捷に歩けなくなったら、必ずそこで事故が起きるとわかっている。そういうところを突破しようということをやろうとするのが、あるスーパーであるならば、そして、それと一緒になってやろうとする久我山の南の小商売のおかみさんとかおじさんたちが10人ぐらいいるならば、その試みを実験的にやるなら、金は出せないけれども、用途地域の問題とか、そういうのは全部野放しにしようということがあってもいいのかもしれません。周りの人たちに迷惑をかけなければ、どうぞ自由におやりください。なぜならば、そこは商業地域で、住居地域でないからです。住居地域ではそういうことは許されないでしょう。
  こういう話は、都市計画法が改正され、市町村が都市計画の責任を持ち、地区計画が展開され、都市のマスタープランがつくられ、手続論的なルールが完成されましたけれども、その後に、どのように具体的に都市計画を活性化して、広く展開していくかということを考えるときには、前向きに、地域社会も区役所も学者も受けとめていかないと行けないようです。そうしないと、むしろルールが非常に完成されたがゆえに、そのルールに縛られて、ますます地域は、例えば、近隣商業地域の鉛筆ビルはお客さんがいなくなってそのままになってしまうとか、あるいはバス停もできない、道路がそのまま放置されてしまうということがどうもいっぱい出てきそうな気もします。




誰が都市計画の責任を背負うのか

  ところで、都市計画は、ルールさえうまくいったなら、それにみんなが乗っかって、審議会とか協議会とか、あるいは住民参加の話し合いとか、そういうところで集団で物事を決めていくということになって、結果として都市計画に対してだれが責任を持つのかということが、不明確になるということが起きるかもしれません。強烈な行政的リーダーシップを持っている市長さんがいるところは別として、大多数の市長さんはそうでないし、事なかれをもってよしとする市議会を含め、こういうトップを抱えているほとんどの地方自治体で、都市計画の責任はだれが持っているかわからないという状況になって、多分ルールだけが動いて結果が出ない。延々と議論され、調査が繰り返され、しかし結果が出ない。むしろ都市づくりの具体的な成果は非常に得にくくなる。重要なことは、都市計画の責任ということについて、今、私たちは余り厳しく問い詰めていない。みんなで集まってやればいい答えが出るに決まっているという話になっているのです。ところで、都市計画は、ルールさえうまくいったなら、それにみんなが乗っかって、審議会とか協議会とか、あるいは住民参加の話し合いとか、そういうところで集団で物事を決めていくということになって、結果として都市計画に対してだれが責任を持つのかということが、不明確になるということが起きるかもしれません。強烈な行政的リーダーシップを持っている市長さんがいるところは別として、大多数の市長さんはそうでないし、事なかれをもってよしとする市議会を含め、こういうトップを抱えているほとんどの地方自治体で、都市計画の責任はだれが持っているかわからないという状況になって、多分ルールだけが動いて結果が出ない。延々と議論され、調査が繰り返され、しかし結果が出ない。むしろ都市づくりの具体的な成果は非常に得にくくなる。重要なことは、都市計画の責任ということについて、今、私たちは余り厳しく問い詰めていない。みんなで集まってやればいい答えが出るに決まっているという話になっているのです。
  ここから相当大事な話です。責任を負うのは、最終的に私は市長さんに負ってもらわなければいけないと思います。今のルールでは、市に設置される都市計画審議会があります。これが与えられた権限の範囲の中で、県に設置されている審議会とは別行動をしています。しかし、その市に設置される都市計画審議会に、こういうことを審議して決めてくれよと頼むのは市長さんです。だから、市長さんと、市につくられる都市計画審議会とは非常に強いパートナーシップを持って、いい形で動けば、それこそ世の中の都市評論家とか経済評論家とかが言っている市民参加のまちづくりが動くかもしれませんけれども、しかし実体は、大体凡庸な市長さんと、まあ事なかれ主義の市議会とが集まれば、答えが出ないまま、延々と議だけ繰り返されていく。
  それをどこかで節目をつくって、この話題はこれでやめ、この話題はもっと頑張っていけば答えが出るという判断をするには、やはり専門家が必要です。その専門家は、既存の都市計画の考え方でない考え方にたって、三鷹市は全部準工業地域にしてしまったっていいじゃないかとか、また、富士山型の容積地域は本当にいいのか、とことん詰めていって、そうじゃないと言うことななるかもしれない。つまり、これまでの都市計画のルールをすてて、別なルールに置きかえるということです。そういうことまで考える専門家が出てこないと、専門家がいても、集団のデュープロセスという手続論の落とし穴に入って、都市計画は全く動かないということがことがありそうです。
  「だれが都市計画の責任を背負うのか」といったとき、第一義的には今言ったように、審議会とか市長さんですが、これをを支える専門家の存在がもう一つ重要だと言うことです。その専門家というのは実は決定権は持っていません。決定権はあくまでも市長であり、審議会が持っていますが、その決定権を行使する人たちに対して、過ちがないような情報を提供し、場合によっては、幾つかの選択の方針を提供するのが専門家です。そういう専門家が21世紀の町にとってどういうことが重要であるか、という認識の仕方が非常に重要なのです。しかし、どうもまだいまひとつ、余りにも20世紀的な都市計画の枠組みの中でしか動いていないのではないか、という感じがするのです。




都市計画に新しい目標を受け入れる自由度があるか

  これまでの都市計画は、道具がはっきり決まっていました。用途地域や地区を決める。それから道路や公園などの都市施設をつくる。また、再開発や区画整理をする。そういうことで、道具が決まっているんです。その中で都市計画が動いているのですけれども、それが本当の21世紀の都市計画の重要な目的か。公園をつくることが目的なのか、一戸建ての一種住居専用地域をなるべく多くすることが目的なのか、あるいはきわめてゆったりとした安い、日の当たるマンション街をいっぱいつくることが重要なのか。それが本当に都市づくりの重要なことなのかというと、どうもそれだけではない、新しいことが起きてきそうです。
  身近な話では、ごみの問題がある。これは奥様方にとっては、きわめて深刻ですし、ごみをどこへ集積するかという集積場所をめぐって、1つの道路を挟んだ12〜13軒のまさに住民組織で喧々がくがくの議論をして、ごみの集積所を1年ごとに回り持ちにしましょうとか、何かそういう話をやっています。こういうことの方が、例えば、家を建てるときに、「あなたのお家は敷地から1メーター離れて建てないと、町の景色がよくないからだめなのよ」なんてことよりももっと大事な話になってきました。ごみの話は、単に生ごみを処理するという部分的な話ではなく、20世紀文明の非常に大きい欠点をどうするかということです。ごみが20世紀文明の欠点をもろに露出しているわけです。
  それに対して、都市計画は、それは別なことですと言って、いつまでも道路と公園と屋根の高さと庭の広さということをやっていていいのか。こういう観点から、都市計画を考えていくとすると、ごみ集積所をつくることが都市計画の第一目的になるなんてことを考えてもいいかもしれません。
  それから、例えば、先ほどの話のように、経済を刺激するとか、あるいは環境を守るとかいうことで、社会的に意味があることは、既存の都市計画のしがらみを全部取っ払ってもいいよといった中で、例えば、晴海の再開発の地下にLNGを使った地下発電所をつくってみるということを中央区が考えて、それに対して東京電力は金を出せという。つまり、おれたちは晴海の再開発の下に地下発電所をつくることを認めた。遠くへつくると、送電線もつくって、例えば、土地を収用して、田舎の人たちに補償をしてなんていうと、5000億ぐらいかかるけれども、晴海の下だったら3000億円で済むはずだ。東京電力が2000億円儲けるから、1000億円よこせなんていう理屈が組み立てられるでしょう。都心立地型の地下発電所は環境に貢献します。
  そうすると、都市計画は、道路を広げたり、公園を決定するよりも、まさに都市の地下に東京電力の地下発電所を都市計画決定することが物すごく重要になります。それを中央区民あるいは晴海の住民がイニシアティブをとって、中央区の都市計画審議会へ持っていって、中央区の都市計画審議会としては都市計画決定で地下発電所をつくることを決めましたと言ったら、港区や大田区の区民が反対しても、きっと通らないでしょう。危ないなんて言ったって、中央区が決めたということの方が重要な都市計画決定かもしれません。
  それから、相当奇抜な話ですけれども、皆さん東京を愛すれば、やはりお墓が必要になります。お墓は今八王子の奥とか青梅の方の山を削って、そこへ石積みして、相当の金を使ってお墓を手に入れています。お墓が遠ければ、お墓の方も余り幸せじゃないですね。それなら、臨海副都心に墓を全部きれいな東京都営の臨海型の墓場にして、真ん中に火葬場をつくって民営でやったらどうでしょうか。民営の火葬場をつくる業者に墓場を安く売ることを奨励した方が、よほど意味のある臨海副都心の土地利用として皆さんに喜ばれます。ゆりかもめでオフィスビルへ行くよりも、ゆりかもめで墓場へ行った方がいいですね。(笑)そして、場合によっては、立体墓場も考える。だから、部分的には20階建ての立体墓場があって、一番上に行って東京湾を眺めて、お線香を立てて帰ってくる。そのマンション墓場は50万円です。地べたの方は150万円です。八王子へつくると、石と土地代込みで250万円です。こういう話の方が、都市計画としてはずっと夢があります。
  これ以上は相当危ないことを言うからまずいのですけれども、(笑)ごみ処理場と墓場と一緒にするなんていうのも相当ひどい話かも知れませんが、地球環境を守る意味では、いいですね。
  要するに、そういう議論ができるような都市計画の自由度を私たちは持っていたかというと、持っていないということを言いたいのです。

  市民、住民そして隣人という社会的視点から、私の得意な方にずれてしまいましたが、首都移転の話も、今の私のような議論の組み立てから見ると、あれぐらい地球環境を汚す計画はないということになります。豊かな森林地域か農村地域にクラスター状に宅地開発をするのですから。それを道路でつないで、クラスターのところには、森の中に埋め込まれるように低層のオフィスビルをつくって、住宅は一戸建です。その都市の交通はというと、そういう町は自動車しか使えない。このイメージはキャンベラですね。だけど、キャンベラぐらい地球環境に対して冷酷な都市はないということも、現場へ行った方はおわかりだと思います。
  そんな都市、21世紀に地球環境に対して一番トラブルを起こす首都を、何兆円かけてつくるなんてことを根本から問い直し、本当に日本が世界の中で尊敬されるプレゼンスをつくるのには、今、首都移転のことを考えている役人も委員さん方も、余りにも年をとり過ぎてしまって、考え方にやわらかさがない。
  先ほど、市民社会にルールが求められるという話をしましたが、、そのルールは同時に、生活感覚の積み重ねの中から一般的な都市計画の既存概念を打ち破るルールであっていい。
  そういう、新たなルールの一番のよって立つところは、私は日本では環境問題だと思います。足元の環境からお星様が見えるか見えないかという大気の環境まで、あらゆる点で、日本の都市計画にかかわる専門家が市民と一緒になって環境を守るルールを発見して、それをほかの国にも示していく。そういうビジョンを実は専門家はこれからつくっていかなければいけないと思うんです。
  これは数日前に言ったのですが、例えば、地球環境的に見て、一番むだなく住宅の建てかえを進めるためにはどうしたらいいかという観点から、定期借家権を議論するということがあってもいいですね。現在の借地借家法は、虐げられた貧乏人と悪徳きわまりない建主、そういう観点から成立していますが、そういう借地借家権をベースにした借家住宅は、そんなに金をかけられなず、相当質が悪い。また、30年ぐらいで、木造でもプレハブでも、次々とスクラップしてつくりかえていく方が、今の借地借家法にとってはいい。それから、開いているところに人を入れない方がいい、という状況もあります。空き家になったところに人を入れると大変だから、空き家のままにしておいて、早く腐らせてしまって建てかえるわけです。
  そうではなくて、建物は100年もつんだ。なるべく空き室を少なくして、常にローテーションをきちっとして、借家に人が入ってくればくるほど、建物は長く維持管理されて長持ちするという観点でいけば、その方が借家のライフサイクルコストは低いかもしれないし、ライフサイクルエネルギーも低いかもしれない。地球環境的貢献をするという点では、定期借家権は意外に無視できない存在だということを都市計画が言ったら、これはまた住宅の人たちにも大きい影響力を持ちます。
  一言で言うと、「風が吹けば桶屋が儲かる」ということを何となくからかって言っていたけれども、やはり21世紀型の都市づくりの中には、20世紀の既存概念では考えられない、「風が吹けば桶屋が儲かる」的な重要な事象を我々は忘れてきたのではないか。あるいは、余りにも硬直化した都市計画の中で、それは枠の中の外だと言っていたのではないか。こういうふうに思うのです。
  もう一つ、先ほどの容積率のことに戻りますが、例えば中央区とか台東区とか墨田区で、いくら容積率無制限で作れといっても、現実には作らない。確かにニューヨークやロンドンやパリと違って、今では住宅地にオフィスビルが広がっていく自由度があります。しかし、賃料が高くて、質のいいお客さんが借りてくれるようなオフィスビルは、それなりの地域的限界があります。マンションだって、墨田区や台東区や中央区に建つマンションは、港区に建つマンションとやはりそれなりに違うでしょう。
  安くて質がよい、つまり、地震のときに絶対壊れない、そして1人当たりのスペースが大きい、そういうものを建てるとなると、現実には多分13〜14階です。
  高さが150〜200メーターで、容積が1500ぐらいのオフィスビルで、質のいいエレベーターがついて、それにまたスプリンクラーもついているような、そういうオフィスビルに見合うお客さんがあるところというのは限られて来るわけで、それは、ディベロッパーも地主もよくわかっています。
  仮に中央区の小伝馬町とかああいうところで土地が1000坪ぐらいあったとして、容積制限をはずすといったとしても、そこに2000%の建物を建てるかというと、そうではなくて、現在の容積率が仮に700%だったら、せいぜい1000〜1100%でしょう。それが一番お客さんに貸しやすくて、地震にも強い。
  それを役人は、こういうことが非常に一般化して、世の中が全部埋まってしまったら大変だというレトリックでこれまでやってきたわけです。逆に、そんなことはありえなないといえば、それだけで都市計画は随分おもしろくなるでしょう。

  話があっちに行ったり、こっちに行ったりしましたが、最後にレジメの項目を、話の順にそって、もう一度整理してみましょう。
  「住民と隣人は共通の立場をとれるのか」--とれない。これは認識しなければいけません。住民で決めたことが、場合によっては隣人の意思を踏みつぶすことがあるかもしれないという相当冷酷な話が出てきます。
  「隣人と当人だけの話し合いは可能か」--不可能です。これも認めなければいけない。だから、ここに必ず専門家が必要だということです。それは弁護士であってもいいし、都市計画の専門家であってもいい。
  「企業は市民に含まれるのか」--今のところ含まれていません。しかし、やはり企業を市民の中に入れて考える事例をいっぱいつくっていくのも、これからの都市計画に必要ではないか。
  「住民は企業を常に敵対視するのか」--大体敵対視しています。もしかすると、これで大事な宝を見逃す危険性もある。もう少し住民は賢くなれ。企業を見抜け。あるいは企業をおだてろということです。
  「都市計画には都市をもうけさせる動機がないのか」--今はないですね。むしろそれが、本来の都市計画だと我々はつい10年前まで考えていた。それこそ本来の市民社会に貢献する正義の白馬の騎士であるというようなことを言っていたのですが、どうもそういうことだけで世の中うまくいくかなということです。オーバーですが、都市計画も商業地域ぐらいは日本経済、地域経済に貢献するようなやり方を少しぐらい考えてもいいのではないかということです。
  「誰が都市計画の責任を背負うのか」--今度の都市計画法の改正で、だれもが都市計画の責任を負わなくていいということになってしまう危険性がある。そうすると仕事が動かない。
  「都市計画には新しい目標を受け入れる自由度が存在するか」--今の都市計画には自由度がありません。もっと新しい目標を求めてもいいということです。

  きょうはあまり整理された話にならなかったですが、残りの時間でぜひ皆様方のご意見や質問などをいただきたいと思います。どうも失礼いたしました。(拍手)




フリーディスカッション

小瀧(共生プランニング)
  お話をお聞きしまして、私どもも非常に勇気づけられました。というのは、今、私どもでも、流山市民ネットワークというところで、こういう本を出しています。これは市民でつくったマスタープランということで、今の分厚い都市計画法に象徴される発想を変えていこうと、私ども自身でつくったんです。町がどうあるべきかということを念頭に置いて考えたものです。この中には専門家の方も執筆していますが、主に執筆している人は、都市計画に関しては素人の方です。そういう意味で、今までの都市計画法をある程度踏まえながらも、斬新な発想で考えていこうという気持ちでつくりました。
  まだ若干ありますので、もし希望される方は買っていただければ・・。(笑)
 

伊藤先生
  今のことに関連してまたおもしろい話をします。多分、市民ネットワークの方にも役に立つかなと思うのですが・・。最近、新聞にも出ていたのですが、特別用途地区、つまり文教地区、あるいは第1種特別工業何とか地区というのを、今度の都市計画法の改正の中で全廃して、自治体独自に設定出来るようにするという話がありました。これは相当おもしろいことになるんですね。特別用途地区は、基本的な12区分の用途地域制の上にさらにかけるものであり、きわめて限定された場所について指定するというのが今までの常識だったのです。しかし、特別用途地区は全部の用途地域の1割を超えてかけてはいけないなんて、法律では一言も書いてないはずです。
  そうすると、特別用途地区を、今の地域制の全部についてかけることがあってもいいのです。また、特別用途地区はこういうものだと限定せず、流山市の人たちが気分で考えた特別用途地区と、八潮市の都市計画審議会の人たちが考えた特別用途地区では、全然違っていいはずです。もっと平たく言うと、これは行政法の立場からからいえば、基本的な12種類で色を塗った用途地域の上に、さらに、そこの建物や地形地物を特別なものにしてしまう条例をどうぞおつくりくださいというのと同じです。これは相当おもしろくなりますよ。
  例えば、大規模ショッピングセンターが来るのを阻止するのに特別用途地区を使うことができるのです。だけど、阻止するのをあたりまえに思うのは、あるいは流山とか柏とかの人かも知れませんが、逆に、例えば、筑波の山の後ろの方で、益子とか、ああいうところの小さい町や村の人達が、自分たちの町の用途地域には、どこへでもショッピングセンターが来ていいぞという特別用途地区をかけることもできるのです。
  さっき私は、都市ごとに用途地域が非常に変わって、こんなにも住宅に対する思い入れとか、あるいは工場に対する思い入れが違うかという都市が、境界を接してできると言ったのですけれども、それに拍車をかけるようなことができるのが、実はこの特別用途地区の改正なのです。今までのように、1特とか2特という工業のモーターの大きさで、特定のモーターを持つ工場はここへ入れてはいけないとか、あるいは逆に特定の馬力以上の工場しかここへ入ってはいけないとかいう特別用途地区ではないわけです。美観地区とか文教地区とかもそうです。これはやりようによっては、すさまじく、我々の想像がつかないスプロールが起きるか、想像もつかない美しき田園が誕生するか、それが隣を接して起きるかという時代になりました。
  私は、八潮について1つ提言があるのです。八潮なんかは、率直に言って全部準工業地域にした方がいいと思います。中途半端な住居地域とか、中高層の第2種の専用地域とか、そういうものをつくるのではなく、徹底して準工業地域にして、そのかわり今言った八潮市版の特別用途地区を考えて、その考え方は、工場はどこにでも立地していいけれども、しかし、工場から出る騒音、振動については、工場の建物が絶対にそれを外部の住宅に伝えてはならないという特別用途地区を決めていく。
  それから、八潮市では、特別用途地区で、建設残土の不法投棄を絶対に許さない。建設残土の不法投棄は八潮市全域に許さない。見つけた場合には、八潮市の条例で、これは罰金をとるという特別用途地区を決めるなどいうのも、おもしろいのではないかと思ったりしています。
 

大村(東京都建築審査委員)
  先生の首都理想論をお聞かせいただきたいと思うのですが。東京を含めて、どういうふうに首都建設をすべきか、お考えを教えてください。
 

伊藤先生
  実は2週間後に渋谷の東邦生命で、首都移転のお先棒を担ぐのですが、それは本音じゃないと思って、きょうここで言うのが本音です。(笑)
  昌文社から出した『提言・都市創造』の一番後ろに書いてあるのが、僕のかなりの本音です。要するに、都市再開発をして、駅前のところに民間のオフィスビルを6棟ぐらい建てて、それを賃貸で中央政府に貸せばいいじゃないかというのです。場所は名古屋駅の西口です。あそこは御存知のように、坪当たりきっと40万円ぐらいの低コストのビルが建っていますから、あっという間に壊せます。
  その西口のところに、霞が関ビルクラスの賃貸ビルを5〜6本建てますと、多分そこに全省庁が入れるはずです。そして、6本をそれぞれ別の不動産会社がやります。6本建てると100万平米です。霞が関が大体15万平米です。100万平米ぐらいでも、中央省庁も再編しますから、そんなに肥大化しなければ、絶対入るはずです。それさえ決めれば、あっという間に首都移転は可能になります。名古屋だったら、新幹線があるし、小牧の飛行場がありますし、区画整理がちゃんとしています。いい住宅を国家官僚も手に入れられますし、それにふさわしい地下鉄は入っていますし、ちゃんとした大学もあります。それに、何を置いても日本のへそ、中央です。
  名古屋は地震が多いじゃないか。地震の多いところへなぜ持っていくのかというかもしれませんが、名古屋で地震になったら、東京が生きるわけです。東京と名古屋が一緒に地震になるなんてことは絶対あり得ない。それは何千兆分の1ぐらいの確率か何かで起きるかもしれませんけれども、そんなことは考えてもしょうがありません。東京が地震のときには名古屋が残る。名古屋が地震のときは東京が残る。
  一番土地を使わなくて、一番民間の金を使って、多分一番エネルギーをむだに使わないで、遊ぶことについても一番多様な遊びができる。だからそこに人生がある。だから国家官僚も少し生々しくなる。これがキャンベラみたいなところへ行ったら、国家官僚はますますつまらなくなって、ロボットみたいになっていきます。1年半ぐらい前になりますけれども、かなり本音で書いた名古屋首都論です。ただ、今度しゃべるときは、私はそれはしゃべりません。(笑)
 

司会(谷口)
  ありがとうございました。ちょうど時間になりましたので、きょうはこれで終わります。伊藤先生、どうもありがとうございました。(拍手)
 


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