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第129回都市経営フォーラム

安全・安心まちづくりと行政・市民・マスメディア


講師:重川 希志依 氏
(財)都市防災研究所・研究部長

コメント:森野 美徳 氏
日本経済新聞社東京地方部・記者


日付:1998年9月28日(月)
場所:後楽園会館




災害対策と防災対策

我が家は一番安全

防災対策の中での官・民の役割分担

市民の力を最大限に生かす行政

(森野氏のコメント)
 
  大震災の中でのメディア

  安全・安心まちづくり女性フォーラム


フリーディスカッション




 皆様こんにちは。ただいま御紹介いただきました都市防災研究所の重川と申します。
 実はこのお話を谷口さんから承りましたときに、今までこの都市経営フォーラムで話されてきた内容、あるいはお話をされてきた先生方のお名前を拝見いたしますと、それぞれに専門分野できちんとした学問体系をつくり上げてこられたような、大変そうそうたるメンバーの方ばかりでございまして、「そんなところに私のような者が出てお話をするのはちょっと……」と申し上げましたら、「いや、そうじゃなくて、偉い先生はもちろんだが、ここらで少し現場を走り回っている若い者に現場の声を話してもらえるような機会を考えている」とおっしゃっていただきました。
 つまり、翻訳いたしますと、大して難しい話を期待しているわけではなくて、現場を走っている我々が一体どんなことを感じているのか、それを素直に皆様にお伝えすればいいのではなかろうかと私なりに解釈をいたしまして、きょうここにお伺いしている次第でございます。
 私が今所属しておりますのは、財団法人都市防災研究所という機関でございまして、昭和54年に設立されました。建設省都市局と国土庁の防災局という2つの役所の共管の財団法人でございますが、理事長が、今慶応大学の教授をしております伊藤滋先生でございます。役員、職員ともに一切役職の天下りとか出向人事を受け入れていないという、純粋に民間の人間だけでやっている研究機関でございますので、非常に珍しい、こういう形態を今でも保っていられるのは、多分うちだけではないかと思いますけれども、そういう組織に属しております。
 そういう意味では、安全、安心という問題に対しまして、割と公平な立場でいろいろ物が見られるし、考えられるし、発言することもできる、そういう立場で仕事をさせていただいているということをまず前提にお話をしておきたいと思います。
 ちょっと前置きが長くなりましたけれども、今申し上げましたように、現場で事実をかき集めながら、阪神・淡路大震災以降、この3年半の間に我々は一体どんなことに気がついてきたのか、どんな思い込みをしていたのか、勘違いをしていたことは何か、予想もしなかったような事実って一体どんなことなのだろうか、そういうことについて残りの時間でお話をさせていただきたいと思います。



災害対策と防災対策

 〔OHP1〕
 まず初めに、災害対策、防災対策の全体像を今見ていただいているような分け方にしてはどうだろうかということに気づきました。どういう分け方をしているかというと、横軸が対策の実施者でお上の側と民の側でございます。縦軸がは時間軸で上が「事前対策」、下が「事後対策」です。わかりやすく言いますと、災害が起きる前にやっておくこと、災害が起きてしまった後にどうすればいいのか。
 まず日本の防災対策は、阪神・淡路大震災の後に改めて気づいたのですが、非常にいびつな構造をしておりました。どういうふうにいびつかといいますと、圧倒的に「官」が災害が起きる前にやっておく「事前対策」。「構造物安全性向上 道路・公園・緑地・ライフライン」の部分が強い。この部分に集中的にお金をつぎ込み、労力を費やしてきたのが日本の防災対策だったなという気が今になってしております。
 この部分は何かといいますと、官の側が、とにかく何があっても被害が起きないように、事前に構造物あるいは公共的なもの、道路、公園、緑地、ライフライン、この手のものに被害を出さないように、事前にがっちりとつくっておく。ここに大変な力を注いでまいりました。
 どいういうことかといいますと、何か起きても、例えば、高速道路は壊れない、市役所はつぶれない、被害は起きない。これだけ一生懸命事前対策をやっていて、関東大震災級にも備えてつくっているのだから、いざというときに被害が出てはいけない。これが今までの防災対策の考え方だったような気がいたします。とにかく被害が出ないことになっていますから、行政がつくる、例えば地域防災計画なんていうのも、市役所が壊れたらなんてことは当然書けないわけです。無線システムが壊れてしまったら、さて事後対応をどうしようかなんていうことは、みんなでオープンに議論し合うことはできなかったという大きなひずみがございました。
 一方、民の側はどうだろうか。後からお話しいたしますけれども、我々市民の側にできる最大の事前対策、みずからの住まいや町を災害に対して強くすることがありました。
 一方、市民の側でも、災害が起きた後に被害を少なくするために、例えば、防災活動をする、いろいろなものを個人レベルで備えておく、そういう対応もあったわけでございます。とにかく防災対策というのは、この4つが組み合わさって初めてきちんとした対応ができるということですけれども、阪神・淡路大震災の3年半の経過を見てきまして、日本が非常に弱かった点が、実はこの民の側の事前対策と官の側の事後対策でございました。この2つにウィークポイントがあったことがわかってまいりました。逆に言いますと、やはり官の側の事前対策、民の側の災害後の対応は、行政がひっくり返った割には、民の側は非常にうまく対応できたと思っております。
 ここから順番にお話をさらに進めてまいりますけれども、とにかく今言ったように、日本というのは、事前対策に力を入れてきたために、ある意味で、事後対策が非常に弱かった。阪神・淡路大震災の後、御承知のように、日本の防災対策、危機管理はなってない。アメリカではFEMAという組織があるそうです。みんなアメリカへ行って、アメリカの防災対策を学べ、学べと言われました。企業も学者も行政も一斉にアメリカに行きまして、一生懸命勉強してまいりました。確かにアメリカの危機管理はすぐれています。なぜすぐれているかというと、今までアメリカは大変景気が悪く小さな政府を目指していました。いつ起きるかわからない地震に備えて、彼らは事前対策に多くのお金を投下することができませんでした。ここにお金を使えないということは、当然災害が起きたら、被害はどこかで出てしまうかもしれない。出てしまうのは仕方ない。出てしまった後に被害を軽減させる努力をすればいいじゃないかというのがこれまでのアメリカ人の考え方でございました。
 日本は被害が出ないような対策をとっているのだから、出たときのことは考えてはいけない。彼らは、事前対策をやっていないのだから、事後対策で頑張ろう。
 ですから、アメリカ人が日本に来まして、例えば、東京都の防災センターなどを見せてあげますと、よだれを垂らさぬばかりにうらやましがります。「うちの国にもあんなものがあったら、どんなにすばらしいだろう」。立川に建てられました災害医療専門の病院なんかに連れていきますと、びっくりします。災害のときしか使わないのに、こんな立派な病院を建てている。アメリカ人からすれば、日本の事前対策はやはりすばらしいものだと今でも言います。今でもアメリカ人はそう思っております。お互い得意とする分野が違っていたというだけの話だったと思っております。

 〔OHP2:地震が起こった時いたくない場所〕
 都市の側で一体どんなことが起きたのか、何がウィークポイントだったのか、少しお話を続けます。今見ていただいておりますのは、一般の方たちの地震災害に対する意識です。普通の人たちに「皆さん、地震のときに何がこわいですか。どんなところが危ないと思っていますか」とお聞きしますと、大体今見ていただいているような答えが返ってまいります。地下街や高層ビル、地下鉄、こういう大規模な施設、あるいは道路、電車、言ってみれば、都市の公共的なストックといいましょうか、もちろん民間のものもございますが、そういうものを挙げます。
 一方、最下位が、自分の家でございます。つまり、普通の人にとって、災害のときに被害を起こしそうなもの、危ないなと思っている場所というのは、やはり官の側がコントロールしているようなものについて潜在的な恐怖感を持っている。一方、自分の持ち物である我が家というものに対する危機意識は極めて低いという結果が出ております。
 では、一般の人がこんなふうな漠然とした気持ちを持っている都市の上のさまざまなストックが、阪神・淡路大震災という震災でどんな被害を起こしているのか、みんなの予想どおりだったのかということですが、既に皆様建築・土木等の御専門でいらっしゃるので、結論はおわかりのことと思います。

 〔OHP3:写真〕
 今見ていただいたような、みんなが危ないなと潜在的に思っているような施設は、実は非常に被害が少なかったことがわかっております。例えば、超高層ビルにいたしましても、今回致命的な被害の出た超高層ビルは1棟もございません。あるいは、地下鉄にしても、開削工法でつくられた区間に一部は被害が出ておりますが、他はほとんど被害が出ておりません。私自身も震災後、1週間目か10日目だったでしょうか、被災地に参りまして、唯一動いておりました公共交通機関が地下鉄でございまして、乗った記憶がございます。

 〔OHP4:写真〕
 見ていただいている地下鉄、神戸市の長田区を走っている駅の部分で、既に10日目ぐらいだったと思いますが、一部の区間を除いて運行しておりました。

 〔OHP5:写真〕
 ちなみにこの地下鉄のちょうど真上を写した写真がこれですけれども、ここに地下鉄への入り口がございまして、道路の真下に、今見ていただいた駅舎の部分があります。道を1本隔てまして、木造住宅が全壊被害をしておりますし、このビルも大分傾いているのですが、震度7の激震地区でございます。こういう被害が出ておりました。
 これ以外にも、もちろん高速道路が倒れたりという被害がありましたけれども、一般の方たちが思っているような、さっきアンケートの結果で見ていただいたようなものが、たまたま今回は多くの人的被害を生み出していない。たまたまということは後でお話しいたしますが、そういう結果がわかっております。

 〔OHP6:純然たる「公共財」の復旧は驚異的な速さで完了〕
 そして、今回の震災で非常に特徴的だったのは、この部分です。最初にお話をいたしました、官の側がコントロールをしている都市のさまざまなストックの部分、言ってみれば、純然たる公共財の部分の復旧は驚異的な速さで完了いたしました。最後に復旧いたしましたのが、阪神高速道路で、平成7年1月の地震発生ですが、平成8年の10月には最後のところが通れるようになりました。1年10カ月ですべての公共財は元通りになっております。
 平成7年の1月の発生ですので、6年度の補正と7年度、このときに短期集中で事業費に8兆円使っております。うち国費が3兆3800億円ですが、極めて短期間に大量の公的資金をつぎ込みまして、日本の威信をかけて、公共財の復旧をあっという間にやってしまった。
 先進国の大都市が地震災害の危険にさらされているのはアメリカと日本しかないのですが、例えば、阪神・淡路大震災の1年前に起きたアメリカのノースリッジ地震では、阪神・淡路大震災の復旧がすっかり完了していたころに、まだ高速道路をトンカチトンカチとのんびりと直しておりました。大変ゆっくりと復旧をしてます。
 日本はなぜこんなに一生懸命復旧したのか。やはりいつまでも残骸が目の前にぶら下がっていると士気にかかわるとか、いろんなことを言われましたけれども、大変なお金を使って直し切ってしまった。これは今回の震災で非常に特徴的なことだったと思っております。とにかく復旧というものは、今見ていただいたように、非常に早く終わってしまいました。



我が家は一番安全

 〔OHP1〕
 一方、先ほど一般市民の感覚として、我が家を災害のときに危ない場所と挙げる人は極めて少ないと申し上げましたけれども、今回ここがだれも予想しなかったような壊れ方をしたわけでございます。

〔OHP7:人的被害〕
 特に、人的被害、死者の発生ということに的を絞ってみますと、震災当初は5500人の方が亡くなっておりますけれども、このうちの9割が、一番安心していた我が家で発生しております。しかも、検死の結果を見ますと、震災が午前5時46分の発生なのですが、午前6時までに亡くなっていたという方が96%もございます。まさかと思っていた、つまりみんな危ないなんて思っていなかった我が家において、地震発生と同時に、5500人の死者の90%が発生していたというのが人的被害での1つの大きな特徴になっております。この話をいたしますと、「確かに阪神・淡路大震災は、住宅の被害が多かったかもしれない。でも、それはみんなが我が家にいる時間に震災が起きたからだろう」ということをよく言われます。確かにそのとおりなのです。お昼に地震が起きていたら、違う場所で人が死んでいたと思います。起きる時間帯によって、人が死ぬ場所は当然変わっていたと思います。
 ただ、今回私が非常に強く感じておりますのは、そうは言いながら、地震なり、風水害もそうですが、我々はどこでいろんな災害あるいはアクシデントに遭う確率が高いのだろうか。言いかえますと、我々の生活の中で、どこで過ごす時間が一番長いのだろうかということを考えてみますと、実は圧倒的に長い時間を過ごしておりますのは、我が家でございます。

 〔OHP8:小中学校登校日数〕
 例えば、毎日学校に通っている子供たちが、どれぐらい学校の管理下にいるかを調べてみますと、こういう結果が出ました。これは遠足とか修学旅行、運動会等も全部を含めまして、とにかく子供が親の手元にいない、学校の管理下にいる時間、1年のうち小学校4年生でも9.5%、中3の子供でも11%ぐらいしか学校の管理下におりません。
 つまり、子供たちは、毎日学校に通っていて、子供の安全対策なんていうと、「とにかく学校で何とかしてよね」と親なら思ってしまいがちですが、とんでもない話でございまして、たった1割の時間帯しか子供は学校の先生のもとにおりません。ということは、どこで過ごしている時間が長いかというと、当然塾だ、遊びだとありますけれども、それを差し引いても我が家が圧倒的に長い時間を過ごす場所です。
 我々サラリーマンでも、恐らくこうやって計算をしていきますと、大差がないと思っております。つまり、今回の震災、最初に申し上げましたように、民の側の事前対策、具体的に言いますと、住宅という我々の生活の基本単位であるストックが地震災害に対して極めて弱かった。これが人的被害を出した非常に大きな原因になっています。
 それと同時に、今申し上げたように、住宅というストックを安全にしておく。自分の住まいにいる時間、我々の安全、安心が守れるつくりにしておくというのは、実は我々の人生の3分の1とか半分をそこでクリアにしてくれることになります。

 〔OHP9:住宅 長引く被災者対応〕
 ところが、大変に残念なことですけれども、今回住宅の被害がこれだけ震災の爪あとを大きくしているにもかかわらず、建築学をやっている学識経験者の中に、相変わらず木造住宅の専門家が育っておりません。
 住宅というのは、最初に言いましたように、人的な被害をたくさん生み出すということにとどまりません。今現在被災者支援法案も通りましたが、実は行政にとっての被災者対応というのは、平たく言いますと、住宅を失った人への対応でございます。
 避難所、仮設住宅、災害復興公営住宅、さらにこういう人たちへの生活支援。被災者対応、被災者対応と言いますが、何をもって「被災者」というかというと、罹災証明書で全半壊の証明をされている人を指しております。つまり、神戸市、兵庫県、あるいは日本の防災対策費、予算を阪神・淡路大震災につぎ込んでいかなければいけない、大変な苦労をしていかなければいけない。何に対してかというと、もとを正せば、みずからの住まいがこっぱみじんに壊れてしまった人への対応でございます。今回全半壊が20万棟強でございますので、それだけの対応をずっとこれから引きずっていかなければいけないという問題を背負っております。
 住宅が被害を受けるというのは、単に個人にとって、一義的に、下敷きになったり、命を失ったり、大けがをしてしまうというだけではなく、公的に見ましても、その後に多大な災害復旧、復興の予算をそちらに回さなければいけないというところにつながってまいります。そういうことを考えましても、今回の震災をもう一度振り返りまして、すべての人にとって、一番安全、安心のために基本の場となる住宅、さらにその住宅が被災することによって、公的な負担も非常に多くなっていく。なぜその住宅に対する安全、安心のきちんとした専門家が育とうとしないのか。
 きょうもしいらっしゃったら、大変申しわけないのですが、阪神・淡路大震災の後、いわゆる構造系の方、SRC造、そういう方たちは、非常に熱心に、一体どんな壊れ方をしたのだろうかということを子細に調査されまして、たくさんの論文発表をされました。にもかかわらず、さっき言った住宅の被害に目をつけた人は極めてまれです。さらに一番問題なのは、新しい住宅よりも、既に建っている住宅をどうやって、今後こういう被害を受けないようにするのか、そういう現場レベルでの工夫なり研究をしてくださる学者、研究者、あるいは現場の方がほとんど見当たらない。そういう方たちのネットワークがいまだに我々にもよく把握できないという現状がございます。
 一番大きな教訓を、やはり私たちの学会なり研究者は見落としたまま通り過ぎようとしている。事あるごとに、そういう方たちに、今申し上げたようなお話をしまして、なるべく工務店とか大工さんとか、住宅メーカーの方たちがそういう意識を持ってくださる、あるいは情報を共有し合える場合を設けようとしているのですけれども、3年半たっているのですが、一体どこまで進んだかと言われれば、胸を張って答えられるような成果は、まだ我々は何も出しておりません。
 今申し上げましたように、民の側が事前にやっておかなければいけない、住まいなり町を安全にしておく。官の側の都市ストックではなく、民の側の都市ストックに今回多大な被害が出た。そのために人的な被害、長引く復興対応も大きな影響を受けているというお話をさせていただきました。



防災対策の中での官・民の役割分担 

 さらに、ここから少し話題を変えまして、「危機管理」の部分のお話をしたいと思います。
 苦手だと言った、官の側の事後対応は、今回一体どうだっただろうか。それから、官よりはずっとまともに機能したと申し上げました民の側の事後対応は一体どうだったのだろうか。後半は、起きてしまった後のことについて、少しお話を進めていきたいと思います。
 我々はこの震災以降3年半の間に、被災者の方たちが一体どういう対応をされてきたのか、被災者だけではなく、行政の方、ボランティア、あるいはお医者さん、避難所となってしまった学校、それから再建復興にかかわる銀行の方とか、都市計画プランナーの方とか、そういうどちらかというと、災害対応に従事されている方たち、それから、被災者としてこの震災を通り過ぎてきた方たち、その両方の方たちから、皆さんが通ってこられたいろいろな体験なり教訓を伺うという研究会をずっと続けております。その研究会を通じましてわかってまいりましたことについて、後半でお話をしてみたいと思います。

 〔OHP10:消防〕
 きょうはこの中には、消防、防災関係の方は、多分余りいらっしゃらないのかもしれないのですけれども、まず、今見ていただいたようなお話の中で、あの被災地の中で、消防の方たちがどう動き、何を教訓として得たのか、まず皮切りにこのお話をしたいと思います。
 実は、あの震災の後、我々は悩みました。火事が起きる、けが人が出る、あちこちで生き埋め者がいる、ガス爆発が起こりそうだ、そういう状況の中で、非常に限られた資源である消防の人たちに何をやってもらえばいいのだろうか。あの震災を体験した消防の方たちが出した結論がこれです。
 何をやっていいかわからないようなあの状況の中で、まず消防が最優先するべきだったのは、延焼火災を鎮圧すること、つまり火災を延焼拡大させないこと。これが1番目です。2番目にやるべきことが救出救助、3番目が救急、こういう優先順位をつけられました。つまり、けが人とか病人の搬送は放っておいて、すべての資源を動員して火災を燃え広がらせない。これをやるべきだと消防の方がおっしゃっていました。
 それと、この中で我々にも意外だったのですが、初日には救急の要請は1件も入らなかったということでございました。救急隊は救急車を用意しまして、今か今かと119番がかかるのを待っていたのですが、救急要請は1本も入らなかったということです。
 さらに当然不眠不休で活動されるわけです。3日間が我々にも限界でした。4日目になってきますと、言っていることとやっていることがみんなばらばらになっていく。言ったと思ったことを言ってない、やったはずのことをやっていない。4日目に人間としての限界がやってくるということもお話を伺いました。
 さらに、消防団の方たちは、以後1カ月間にわたりまして地域密着型の給水活動をやっていくのです。消防団は小さなポンプ車を持っております。自衛隊の給水車は大きくて、1日1往復しかできないのですが、消防団の方は地域のことをよく知っていて、小回りのきく車を持っています。消防団員だって、当然親が亡くなった、家族が亡くなったという方がいましたが、こういう活動をやってくださっている。
 実は消防というのは、震災の後約3日間でやることは終わってしまいました。それ以降は比較的暇というと大変語弊がありますが、別に暇なわけではないのですけれども、ほかのセクションに比べると勝負が早いのが消防隊です。

 〔OHP11〕
 では、救出救助はどうすればいいのだろう。あるいは、救急搬送はだれがやればいいのだろうか。被災地の声を通じてわかったのは、阪神・淡路大震災級の大規模な災害が起きたとき、救出救助、あるいはけが人を病院に運ぶ、あるいは小さな火災の初期消火、これはすべて我々市民がやらなければいけないということがはっきりといたしました。

 〔OHP12:20万棟を超える倒壊家屋〕
 これは神戸の方たちも実践をされていたことです。阪神・淡路大震災での例を見ますと、さっき申し上げましたように、20万棟以上の住宅が全半壊しておりまして、数万人ぐらいの人が生き埋めになっていたであろうと言われております。自衛隊だ、警察だ、消防だ、遅かった、早かった、散々といろいろと言われましたけれども、自衛隊の人たちが救い出してくれた命は何人あったのか。被災地全体で165人です。消防の人たちが助け出してくれた命はどれぐらいあったか。733人でした。消防団の人はどうだろうか。819人の命を救っています。この消防と消防団というのは、神戸市に限った数字なのですけれども、こうやって見てまいりますと、自衛隊より消防、消防より消防団、地域に密着している組織であればあるほど、救えた命の数がふえております。これに警察を足しましても、大体2000人から3000人ぐらいにしかならない。ということは、残りは全部市民が自分たちの手で救っていたということがわかりました。
 火災についても同じです。例えば、神戸の場合、地震発生直後、10〜20カ所ぐらいから既に煙が上がっていたそうです。当時神戸市の消防局のすべての消防力を動員しても、消せた火災の数は10件だった。ということは、当然消防だけでは数が足りないことになります。今回この消防では手が回らない火災を市民が初期消火できたかどうかということが、その後延焼火災が起きてしまうかどうかということにつながりました。

 〔OHP13:医療〕
 次に、医療の方たちは一体どんな体験をされたのか。医療の現場では一体何が起きていたのか。これは医療に限ったわけではないのですけれども、我々が想像していたのと全く違った一番大きな点は、医者も看護婦も市役所の職員も消防職員も警察署員も全員が、まずその人たちが被災者だったということでございます。その人たちが被災者だったというのは、我々部外者からしてみると、意外とピンとこないのですが、ここに「記念写真をパチパチと撮る災害医療専門医」と書いてあります。
 どういうことかといいますと、ある被災地に住んでいる災害医療の専門医です。名前を挙げれば、医学界では皆さん知っていらっしゃるような、極めて有名なお医者さんでございます。その方が兵庫県西宮で被災しました。家の中のすべての物が地震でひっくり返り、揺れがおさまって窓から外を見たら、どこかで火事が燃えている。しかも、バタバタと家も倒れている。そういう状況を見ながら、そのお医者さんは、以後数時間にわたって、自分が災害現場へ行って医療活動をしなければいけないということを全く思いついておりません。家の中を片づけまして、少し布団の中で横になりました。そして、大阪のある大きな医療センターに勤めているので、さて大阪にそろそろ出勤しようかな、でもこんなチャンスめったにないから、カメラを持って、途中写真を撮りながら出かけよう。「記念写真をパチパチと撮る災害医療専門医」というのはそのことなのですが、写真を撮りながら我が家を出発しました。
 やがてマンションNというマンションが倒壊している現場に行き当たりました。この固い建物が倒壊しているのを見て、初めて視点の展開が起きます。どういうことかというと、状況が初めて把握できた。これは大変なことが起きた。大量の死者と負傷者が出ているに違いない。自分はすぐにどこかの病院に駆け込んで医療活動をやらなければいけない。これに気がつくのに5時間かかっています。
 つまり、災害医療の専門医ですら、自分自身が被災者になるということは、そういうことが起き得るということです。これはこのお医者さんだけではなく、消防職員もそうだったでしょうし、ましてやそういう意識を持っていない県庁、市役所の職員の方はさらにそうだったと思います。
 よくあの震災の後の職員参集率ということが話題になります。さっき消防のお話をしましたが、消防の方は8割がその日の午前中に来ています。一方、市役所、県庁の方は、その日の夜のうちに2割から3割。この差は何かというと、自分勝手だとか何だとかではなく、やはり役割意識を持っていたかどうか、この1つにかかわってくると思います。何かあったときに、自分は何をしなければいけないのかという役割意識が本当に持てた人は来ています。
 逆に言うと、この災害医療の専門医は、おそらく災害医療を専門にしていながら、本当には役割意識を持てていなかったのではないかという気がいたします。被災者になったときには、とにかくこういうことが起こり得る。
 さらに医療機関の中で、今回非常に特徴的だったのは、我々は、あの後病院の中は阿鼻叫喚、たくさんの人がごった返しというイメージをしておりましたが、実は病院へ担ぎ込まれたのは、死者か軽傷者。治療を要する重傷者はほとんど来ておりません。
 さらに、午前5時46分に震災が起きましたが、当日の夕方には、どこの病院もピタッと患者は来なくなってしまいます。それ以降、実は被災地の中の病院は暇でした。暇というよりも、医者が不足するという状況はありませんでした。さらに、病院の中というのは、阿鼻叫喚ではなく、だれも文句を言わない、静まり返っていたといいます。みんな黙々と、音を立てず、物を言わず、亡くなった女の子の死体が置いてある廊下をみんなものも言わないで、その子の腕を踏んで乗り越えて歩いていく。みんな順番をただ黙って待っている。我々の想像とは全く異なる状況が、被災地の真っただ中の医療機関の中で起きていました。この話は、我々がヒアリングをした医療機関の方たちが異口同音におっしゃっていました。
 実は救急医療というのは、その日の夕方でもう勝負がついてしまっていました。ところが、被災地の中で大変だったのは、その後です。3〜4日たってきますと、慢性疾患とか感染症予防、メンタルケア、こういうものへのニーズが出てまいりました。そして、大量の医療ボランティアが被災地に押しかけたのもこのころでございます。避難所では、医療ボランティアの人たちが、最高の医療サービスを施そうといたしました。
 ところが、結果として、避難所では過剰サービスをしてはいけない。それから、病院の薬は持ち出さない、その場にある薬を使うべきではなかろうかという結論が出ました。
 どういうことかといいますと、これは被災地の中での医療機関が3〜4日たつと機能し始めます。民業圧迫ではないのですけれども、ボランティア対被災地の中の経済、これは医療だけではなく、あらゆる分野で必ず葛藤が起きてまいります。被災地の中の医療機関が早く立ち直って医療サービスを開始したいときに、すべてただで持ち込んだ大量の医療ボランティアが、避難所の中で非常に高い水準のサービスを行う。これが結果的に被災者自身にも後々「薬なんてただでもらえて当たり前。文句を言いさえすれば、どんどんいい医療をしてくれる」という感覚にしてしまったのも、このあたりだったのです。
 それと医療機関の中でもう1つ大変でしたのは、実は被災地の中の病院は、もともと入院患者を抱えております。大病院になれば、1000床、2000床のベッドがあります。電気、ガス、水道のライフラインがとまったときに、まず外から来る患者をどうするかよりも大変だったのが、既に抱えている入院患者をどうしようか、これが大問題でございました。ある大学病院では、1000人いた患者を1週間で300人にまで数を減らした。具体的には、つてのある病院に転院をさせております。
 抱えている患者をどうするか。水と電気と水道がとまった中で今の医療は施せません。そもそも給食さえ出せないという状況の中で、いかに食事を出すかということもございました。

 〔OHP14:災害対策本部〕
 次は、市の災害対策本部での対応です。一体どんなことが起きていたのか。市民からの最初の電話は、「助けてくれ」の一言だったそうです。さっき役割意識がある、ないと言いましたけれども、指示が出せない上司と、何をしていいかわからない職員がいる中で、何もない、ないない尽くしの中でスタートした今回の震災対応です。
 最初の2日間は、24時間電話が鳴りっ放し。ところが、非常に興味深いことに、最初の1〜2日は市民も納得しているそうです。これは異常なことが起きたのだ。苦情の電話が鳴りっ放しとは言いながら、ある意味で、市民もこれはしようがない、役所も大変、我々も大変。ところが、大変になってまいりますのは、この後でございます。3〜4日たちますと、行政への責め、苦情が非常に殺到してくる状況になりました。
 それから、この自治体で気をつけてやったことは、トップが必ず同じ場所に座っている。それと市民を安心させるメッセージを市長なり市の顔が流すということもおっしゃっていました。それから、職員のローテーションが組めるようになったのが、やはり市役所でも1週間後です。これぐらいの災害が起きたとき、市役所、県庁は、1週間全職員が、とにかく全く休みなしという対応を迫られていたということでございました。

 〔OHP15:災害対策本部〕
 それから、同じく行政、災害対策本部の方たちのお話の中で、先ほど私は罹災証明書という話をいたしました。早く罹災証明書を出さなければいけない、出すことによって市民を安心させなければいけないということで、数十万棟に及ぶ建物の認定をいたしました。
 ところが、後になってみれば、家屋の被害調査はもっと後でもよかったのではないか。さっき言ったように、全壊、半壊の判定、急げ急げと言われたので、余りよくわからない人たちまで総動員して全半壊の認定をやり、罹災証明を出しました。実はいまだにこの罹災証明書がずっと効いてくる。言葉は悪いですけれども、あのときいいかげんに出してしまった罹災証明書がこんなに後まで効いてくるとは、職員も市民も思わなかった。ずっと矛盾を感じながら対応しなければいけなかった。さらに、その罹災証明書を出すときに、何時間も寒風吹きすさぶ中で並んだ被災者が、渡した途端、市の職員に対して「これ、何に使いますの?」と聞いてくる。そのときにはほとほと泣きたくなったと言っていました。
 つまり、みんなこれだけ苦労しているにもかかわらず、一体何なのだろう。市民の意識はどうなっているのだろう。あるいは、我々職員の意識は一体どうなっているのだろう。結局震災が起きてからどうこうではなく、個人の暮らし方、あるいは自治会なり市民の成熟度がこの震災ではっきりと見えてきたような気がするとおっしゃっていました。

 〔OHP16:避難所・学校〕
 それと、今回これも民の側に大きな対応を迫られたことですが、避難所あるいは学校の問題がございます。避難所、ボランティアの受け入れなど、今回の震災で、多くの自治体でこの対応をどうしようかと随分頭を悩まされました。
 避難所というのは、はっきり申し上げまして、そんななまやさしいところではないというのが、避難所対応をされた方たちの結論です。「避難所というのは、恐怖と不安に駆られた尋常でない人が1000人以上集まるところだと思ってください」と、ある校長先生に言われました。
 それから、非常に長期間にわたって、学校は「占拠」されました。出ていかない被災者が長期間にわたって居すわったわけです。その中で、学校だけではないのですが、特に多かったのが学校です。教育委員会との連携もほとんどなくて、結局校長先生とその学校の先生が一手にこういう方たちを相手に大変な思いをしてきたのが、この避難所でした。
 その経験を通して、先生たちが今一番強く感じていらっしゃるのは、教室を避難者に明け渡してはいけない。青空学級でもいいから、教育をとにかく第一優先で継続すべきだった。被災者への対応ではなく、子供の教育の継続をもっとまじめに考えなければいけなかったというのが、避難所学校の結論です。長いところでは、2カ月間義務教育が途切れた学校があります。今の日本で、子供が2カ月義務教育を受けられなかった。これは大変な事態なのですが、このときにはだれも何も言いませんでした。マスコミも避難者の人に何も言いませんでした。子供たちに教室を譲ってやれ、あるいは少し工夫して授業ができるようにしてやれということをだれも行動しなかった。とにかく避難者はかわいそう、かわいそう、この一点張りでございました。
 次に災害が起きたときには、とにかく教育だけは途絶えさせてはいけないというのが、震災を体験した先生たちみんなの意見でした。

 〔OHP17:避難所・学校 1000時間(40日)〕
 さらに、校長先生は「歩く秩序」だった。何があっても、とにかく全部校長先生が行ってトラブルを解決した。やはり我々市民にとって、今でも校長先生というのは特別な存在だったようです。校長先生が話してくれる、校長先生が聞いてくれる、校長先生が決めてくれる、これがトラブル解決のために非常に重要だと思います。
 それと避難所閉鎖の落としどころは、結局子供のため、教育のため。ごねる被災者を納得させる最後の切り札がこれでした。
 そして、長いところでは、1997年3月、つまり震災が起きて3回目に初めて自分の学校で卒業式ができた。それまで体育館は被災者に占拠されていた。そういうところもありました。

 〔OHP18〕
 避難所の中でもう1つつけ加えてお話ししたいのは、恐怖と不安に駆られた人が1000人以上集まる場所だと申し上げました。この中で、とにかくさまざまなトラブルが発生しております。アル中、ヤク中、男女のもつれ、ありとあらゆる出来事が起きました。それらはすべて子供たちのいる目の前で起きている。それが今回の避難生活でございます。
 人的被害の中で、さっきお話をしなかった「震災関連死」というのが、今申し上げた避難生活の中で出ております。どういうことかといいますと、避難所の中に入ってきた、いわゆる弱者です。高齢者、寝たきり、あるいは身体的なハンディを持った方、そういう方たちへのしわ寄せがいろいろなところで起きました。
 例えば、おしめをしている寝たきりのお年寄りが避難所の中でおむつ交換をする。くさいからやめてくれ、迷惑だと言われます。お年寄りはおむつを汚さなくていいように、水も飲まなくなりますし、食べ物も食べなくなります。当然脱水症状を起こして栄養状態が悪くなります。そこにインフルエンザが蔓延する。お年寄りを中心にした弱者の方たちがバタバタと命を失いました。その数が500人です。震災当初5500人の死者がいました。9割は住宅で命を奪われたと言いましたが、500人は、命が助かって次の段階、震災後の生活を何とか送ろうという段階になって、震災関連死によって亡くなっております。
 そういう弱者の方たちへの対応というのが、行政にすべてできたかといったら、おそらくそれは無理だったと思います。さっき申し上げたように、行政も被災者だったのです。実際に自分が被災者でありながら、被災者対応をしなければいけない人のつらさというのは、「これは話してもわからないでしょう」と震災を経験したあるお医者さんに言われました。
 震災関連死を防ぐというところでも、これからお話をしますけれども、やはりボランティアとか民の側の力をたくさん動員すべきではないかと思います。



市民の力を最大限に生かす行政

 〔OHP19:ボランティア〕
 震災後にキーワードのようになりました「ボランティア」という、民の側の方たちの活動がありました。最初の区分けで見ていただきますと、まさに民の側にできる、被害を軽減するための災害後の対応の中の1つの大きな柱として、このボランティアが挙げられています。
 ボランティアにつきましては、これもマスコミの方がただひたすらボランティア礼賛をされておりますので、今回あえて逆のお話をしたいと思います。阪神・淡路大震災以降、先般の北関東の水害、あるいは高知の水害、パプアニューギニアの津波、災害が起きるたびに、日本でも多くのボランティアの方が動いています。
 ボランティアというのはいろいろなタイプがあるのですが、ある分け方をいたしますと、阪神・淡路大震災では、「駆けつけ型」「業務命令型」「被災者型」の3つに分けられました。
 「駆けつけ型」ボランティアは災害発生後、一番早く来る。遠いところからほど早く来ます。神戸でも、北海道とか沖縄という遠くから若い人たちが、とにかく何かしなければという気持ちだけで駆けつけてきた。この数が最も多く、しかも時期的に最も早かった。
 次に来るのが「業務命令型」です。これは何かというと、YMCAとか、あるいは日赤の何とか団とか、いわゆる事前に組織されていて、被災地の中でどんな業務をやればいいのか、組織的にある程度リサーチをして、いろいろな装備を備えてやって来る。これは業務命令型のボランティアです。
 3つ目、これは一番最後に動き出しますが、「被災者型」のボランティアです。被災者自身がやるボランティアでして、スタートの時期は一番後からです。自分も被災者で大変だった。でも、自分は何とか生活を取り戻した。周りを見たら、まだ困っている人がたくさんいる。これは同じ市民として何かしなくてはという気持ちでボランティアを始める人が多いのです。今現在被災地の中でボランティア活動をされているのは、この被災者型のボランティアの方たちでございます。
 この中で、実は一番困るのが、とにかく何かしてあげなくてはという思いだけで駆けつけるボランティアです。
 この方たちをどうさばこうか。これは自治体がこの3年間いろいろと苦労されまして、ワンクッション置いて直接入ってこられないようにするとか、いろいろ工夫をして、何とかこの方たちにかきまぜられないようにしております。むしろこれからあてにしていいボランティアとして我々が期待しているのが、今組織的に目的意識を持って動けるボランティア、あるいは被災地の中で、教育とか福祉とか、もともといろんなボランティアをやっている人たちが、そういう方たちがもし被災者になってしまったら、やはり同じ市民としてその地域の中でボランティアをやっていただきたい。外から来るボランティアを当てにするのではなく、市民たちが自分たち自身でやっていくボランティア、この2つに尽きまして、我々はきちっと位置づけた上で期待できるのではないだろうかと思っております。
 とかくボランティアというと、きれいなものと思われがちです。また彼らはマスコミを使うのが非常にうまいですから、一部のかわいそうだと思われる被災者を盾に、マスコミにいろいろなことをアピールいたします。さっきの避難所が閉鎖できなかったのも、実は今申し上げたようなことでした。仮設住宅からまだ人が出られないのも、ある意味でそういうことが影響しておりますけれども、そういうボランティアもいる。一方で、当てにしていいボランティアをきちんと位置づけていこうというのが、今の我々の考え方でございます。

 〔OHP20:阪神・淡路大震災に係る人的支援状況〕
 さて、このボランティアを含めまして、行政の側、あるいは市民の側、市民の側というのは、企業とかボランティアなんかも含めて、いわゆる民の側です。この民の側と官の側は一体どういうふうに役割分担をしていけば、何か起きた後に少しでも痛みを少なくすることができるのか、被害を小さくすることができるのかということですが、今までは、行政が災害対応は第一義的に当然やるべきだし、多くの経験、責任を持ってやってもらうべきだと思っておりました。
 ところが、今回のように、行政が被災してしまったら、みんなが力を合わせるしかない。例えば、「みんな」というのは、一体どういう人たちがいるか。1つは、被災地の行政はダメでも、全国の行政は生きているではないか。2つ目が、今申し上げましたボランティア、3つ目の大きな柱が企業だと思っています。
 1つ目の、被災する行政がダメでも、全国には同じ仕事ができる行政マンがたくさんいるではないか。これは阪神・淡路大震災でも、まさにこういう方たちによって被災地の震災後の対応が支えられたわけです。
 例えば、今見ていただいておりますように、都道府県の職員の方たちで一体どれぐらい被災地の応援に行っているか。市町村の職員の方でどれぐらい被災地に行っているか。案外と防災関係の人は少ないのです。例えば、都道府県の方たちの中で、一番多いのが、病院と水道関係。それに比べると、防災関係の人は、延べの人数ですが、極めて数が少ないです。市町村もそうです。圧倒的に多いのが、水道あるいは衛生環境、土木、そのあたりの生活関連です。
 つまり、これはどういうことを言いたいかといいますと、行政の方たちの意識としまして、災害対応、防災対策は防災課の仕事でしょうという意識が非常に強いです。ところが、実際災害が起きて大変な思いをするのは、防災、消防の方ではなく、他の部局の方です。さっき私は、消防の方は非常に勝負が早かった、3日で暇になったと言いました。防災課の方もそうです。もちろん忙しいには忙しいのですけれども、大変なのは、水道の復旧、病院、教育関係、ごみ・し尿の処理、瓦礫の処理、公共施設の復旧といういわゆる消防・防災課以外の方たちです。防災担当主管課ではない方たちが大変忙しくなるのが、実は災害時でございます。
 この感覚がまだ余り直っておりませんで、今でもいろんな公共団体へ行ってお話を伺うと、防災計画の中で、いろんなセクションが計画をつくります。でも、そういうものを各課に持ち回っていっても、「でも、それは防災課さん、考えてよ」の一言で、やはりみんな終わってしまっている。それぞれが自分の役割を認識していないという状況がいまだに起こっております。

 〔OHP21〕
 2つ目の力が企業です。企業につきましても、もちろん社員をボランティアとして派遣するとかお金を寄附するとか、自分のところの製品を提供するという一時的な貢献の仕方もあるのですけれども、私は今回その手の貢献よりもすばらしいなと思いましたのが、被災地の中の企業活動を継続するということでございました。これは防災対策というよりも、むしろ企業経営の方の話ですが、御承知のように、壊れなかったコンビニエンスストアは当日から物を売りました。スーパーのダイエーは2日目から営業を再開いたしました。
 コンビニが物を売り始めたときに、一部の方は、「コンビニはこんなときにまで金儲けを考えているのか。こんなときぐらいタダで物を提供できないのか」と言いました。私は、それは間違っていて、物を売ったのがよかったと思っています。
 なぜかといいますと、我々女性に限らず、男性もかもしれませんが、特に女性というのは、物をタダでもらえるということになりますと、必ず並びます。今必要なくても、タダでどこかで物をくれているというと並びます。このときに、コンビニが物をタダで放出しましたと聞いた途端、大量の人が殺到していたと思います。ということは、被災地に幾ら物を送り込んでもキリがない。
 一方、全く物が入らない、コンビニも開いていない、物を売っているところもないということになりますと、一挙にみんな不安になります。物を奪い合って暴動が起きたり、一部で物の値段がつり上がったりします。
 ところが、コンビニにさえ行けば物を売っている、これは大変大きな安心感を被災地の方たちに与えたと思います。コンビニに行けば何か売っているのだから、とりあえず今は買う必要がない。なくなったら買いに行けばいいということをみんなが感覚として持ちました。
 あるいは、ダイエーはヘリコプターでインスタントラーメンを運び込んで、1個100円で売りました。このダイエーが物を売り始めたということが、被災地の中の物価を統制することになりました。実はそれまでこの機に一気に儲けてやれという考え方をする人がやはりいまして、被災地の外から入ってきて、高い値段で物を売ろうとした動きが少しありました。
 ところが、ダイエーがオープンして物を売り始めると、おばちゃんたちはダイエーへ行って物の値段を見るわけです。「プロパンガスコンロは3980円で売っとるやないか。あんたんとこは、なんでこんなに高いん?」。つまり、ダイエーで設定した値段より高ければ、だれも物を買わないということが起きました。
 物価統制令というのが、実は日本の総理大臣は出せることになっています。こういう緊急事態に物の値段が非常に乱高下するときには、それを統制する。内閣総理大臣はそういう権限を持っておりますが、今回の震災ではそれは行われませんでした。もし物価がハチャメチャになって、統制令を出したとしても、押さえは効かなかったかもしれない。でも、そんなことをしなくても、ダイエーとかコンビニが全力を挙げて通常の企業活動を継続してくれたということが被災地の中で大変大きな安心感を生む、目に見えない大きな貢献をしていたと思っています。
 さっき官の側の危機管理はこけたけれども、民の側の危機管理はすばらしかったと言いました。この状況の中で、お弁当を売り続けることができたコンビニエンスストア、あるいは宅急便を配達して回っていたクロネコヤマトとか佐川急便のノウハウはすばらしいです。これは今問題になっている大手の金融機関等のように、役所に庇護されて育ったのとは全く逆の、いじめていじめていじめ抜かれながら生き延びてきた企業が持っているノウハウというのは、本当にすばらしかったと思っています。
 ここから次に考えられるのが、こんなにすばらしいノウハウがあるのだったら、もたもたしている行政のかわりに、少しこういうノウハウを取り入れられないだろうかということです。
 例えば、避難所での救援物資。何でいつまでもうちの避難所に来ないのか。えらく怒った避難所がありました。何でそんなことが起きるかといったら、物を集配することは全く素人の行政がそれをやったからです。この道路がきょう通れます、避難所はこういうふうに分布しています、被災者の数はこうです、そこに一番効率よく物を送り込むノウハウを持っているのは、例えば、コンビニストアとか宅配便の業者でございます。彼らはプロです。大雪が降ろうが、台風が来ようが、時間時間に必ず物を届ける。そのノウハウを、例えば物資の集積や集配に使えないだろうか。あるいは、住宅のマッチングに不動産のノウハウが使えないだろうかと思いました。
 震災後たくさんのところから、全国から空き公営住宅の提供とか申し出がありました。そのときに、ここにこういう条件の住宅があります、ここにこういう条件で住宅を欲しがっている人がいます、こういう期間、こういう条件で貸せます、そういう情報をマッチングするノウハウ、これも実は今回の震災で、当然役所のお仕事と決められておりますので、役所がやりましたが、余りうまくいきませんでした。
 そういうノウハウを行政は持っていません。役所がやる住宅のマッチングというのは、平常時年間わずかな公営住宅をつくって、それを募集して抽選して鍵を渡すというぐらいのことしか不動産的なノウハウを持っていませんので、今回のように大量な物のマッチングということは、やはり不得意でした。
 こうやって見ていきますと、今まで多くの部分を官の側がやらなければいけないと思ってきた防災対策の中に、実は「これはボランティアが得意だ」、あるいは「これは企業の方がずっと優れている。ノウハウの蓄積もない行政があえて税金を使ってやるような話じゃない」という災害対策がたくさんあることがわかりました。
 今まで我々日本の防災対策というのは、さっきも申し上げましたように、ある意味で、非常にいびつでございました。とにかく何か起きても、被害が起きないようにしっかりつくってくれているのでしょうね、お役所さん。そして、何かあったら、すぐに災害対応なりカンパン配ってくれたりしてくれるのでしょうね、行政の方たち。これが我々国民の、皆さんも含めまして、公の立場を離れた1人1人の人間が抱いている防災対策に対する潜在的な意識だったと思います。
 ところが、今回の震災の教訓として、それでは防災対策なんて全然動かない。まず大事なのは、「お役所の方、ここしっかりね」どころの騒ぎではない。自分の住まいと町並みというのも、個別の住宅だけではなく、ブロック塀が倒れて人を傷つけないだろうか、あるいは4メートル未満の道路に接道義務違反で建っていて、次に建てかえるときにも、こっそりと違法のまま建てかえようとしていないか。そういう市民として最低限守るべき住宅、あるいはまちづくりのルールを私たちが守らなければ、まずどうにもならない。
 それと同時に、起きてしまった後にも、救出、救助とか、けが人の搬送のみならず、長期的にもボランティアあるいは企業が持っている社会貢献というよりも、むしろ企業本来の経営活動の継続によって、行政にはできない被災地の中の不安を取り除く。結果的には、経済を立て直すことが被災地の復興につながる。そういう意味で、私自身は、今回の震災を、この部分が防災対策に占める非常に大きな位置づけにしていかなければいけないと結論づけました。
 ところが、3年半の動きを見てみますと、相も変わらず、役所の側はたたかれたことですから、この2年ぐらい防災対策というと、無条件で予算がついたそうです。北海道から沖縄まで、この際何でも買っておこう、何でも見直しておこう。いつ使うかわからない無線機を買ってしまったり、たくさんのお金を出して防災センターをつくってみたり、ありとあらゆることを官の側が2年間で短期集中、お金の出るうちに、防災という切り札が通じるうちに整備しました。
 民の側はこの3年半、一体何をやってきたか。さっき言ったように、木造住宅の研究者すらまだ満足に育っていない。我々市民の意識、まちづくりの意識、災害が起きた後に自分たちがやらなければいけないという意識を、市民がこの3年で本当に持てたのか。残念ながら、今現在まだ持てていないというのが正直なところでございます。
 そういうことがありまして、この後森野さんの方から、引き続いて御報告いただけるかと思いますけれども、とにかく我々が今やらなければいけないのは、民の側の安全、安心が、住まいと町と、あるいはソフトな体制づくりなのだ。これが日本の防災対策、安全、安心対策をバランスよく育てていくために絶対不可欠なことなのだという意識を大変強く持っておりまして、昨年からこの対応をみんなで始めているところでございます。
 特にきょうは森野さんにお話をしていただきますが、安全・安心女性フォーラムという名前がついておりまして、女性が中心になって、全国でいろいろな活動を始めている。後半、そのあたりのことを森野さんからお話しいただければと思います。



(森野氏のコメント)

 森野でございます。
 重川さんから、非常に具体的なお話を聞いた後、若干雑駁な話になるかもしれませんが、重川さんの御指摘も踏まえながら幾つかお話したいと思います。
 神戸の阪神大震災の教訓を一言でいうと、「行政の限界」ということが、行政の側も市民の側も身にしみて分かったということ、それを阪神大震災の一番の大きな境目にするべきだったと思います。
 「だった」というのは、「すべきだった」と思うにもかかわらず、実際問題として、そこの限界はいまだに行政の側も企業の側も住民の側も本当に自覚しているかというと、十分自覚していないという印象をいまだに強く抱いているからです。
 行政の限界というのは、今回の場合、重川さんのお話にあったように、一瞬にして9割の方が即死状態になっている。この辺の実態というのが、実は震災直後、村山内閣の危機管理能力がさんざん政治問題になった、あの過程でどこまで認識されていたのかということになると、私もメディアの側に身を置く人間としては、本当に的確に伝えていたのかということについては、かなり首をかしげざるを得ないし、私の立場として、「頭を垂れる」という言い方の方が正しいのかもしれませんが、そういうことしかないと思います。
 重川さんが、幾つかマスコミという話をされたので、まずメディアに関することを少し補足いたしますと、一言でマスコミと言われても困るよというのが、実は新聞という今やメディアの世界では最も古典的な分野に属するメディアに属する人間の立場です。



大震災の中でのメディア

 なぜ困るかというと、今回の震災報道は、大勢のボランティアが全国から集まったわけですが、まず最初に集まった若者たちというか、彼らはもう新聞を読まない世代です。まず何によって震災を知ったかというと、ほとんど大半の人たちが、テレビを見て、この震災のひどさを知ったということです。
 ところが、きょうここにおられる方は、大半は当然、当日のテレビ報道をずっと見ておられて、ご記憶があろうかと思いますが、とりわけ長田区の延焼がずっと続いている現場の同じ画面を何度も何度も繰り返すテレビの報道、時間がたってもまだ燃えているかのごとく映し出していたテレビの報道が焼きついていて、それが、やれ自衛隊を派遣するのが遅かったというような話になっていくわけです。
 なぜかというと、これはやはりメディアの特性にあるのだろうと思うのですが、メディアの特性と同時に、もう1つは、まず最初に、メディアが伝えるべき情報というのは、情報の発信地、ある信頼できる根拠のある発信地がないと、メディアはそれを伝えることはできない、という根元的な問題にさかのぼります。
 もう少し具体的に言うと、阪神大震災のときに、神戸市内、とりわけ灘とか東灘のあたりが、あれだけの激烈な災害に見舞われているという情報はほとんど入ってこなかったわけです。まず京都が震度5とか、関西の方にとんでもない地震が起きたらしい。そのうち淡路島で震度6なんていう情報が入ってくるとか、その日の少なくとも8時ぐらいまで、私が家を出るのが8時過ぎでしたから、そのころまで、神戸の震度が数字として入ってきたのは、多分7時は優に過ぎていたのだろうと思います。
 ですから、結局、新聞に即してわかりやすく言うと、夕刊をつくる段階では、神戸にあれほどひどい地震が起きているというのは、つくり始めている時間にはわからなかった。
 一方で、テレビでは、空からヘリコプターで行って、たくさん流すものですから、これは大変な火災が起きている。これは一眼してわかったわけです。ただ、全体のとにかく大変な地震だということはテレビの映像ではわかったものの、まず初動段階で、気象庁なり気象台の発表とか、いわゆる行政、権威あるところから出た情報が非常に少なかったものですから、まずそういう意味で全体状況をきちっと確認、把握した上で行動することができなかった。
 そうなると、今度は見たままの動きだということになりますが、これは実際は、乱暴なようですが、やはり新聞記者なり、テレビマンなりが現場に行って、見たままをありのまま、ある程度それなりの訓練を経た人間がそれなりの仕方で情報を収集して、それを圧縮して、記事、映像として流すことは、メディアの役割として非常に重要なことだと思うのです。
 ただ、やはりテレビの特性として、どうしても絵になるものを流す。その場合、赤々と火がずっと燃え続けている場面の方が、空から見ては一見わからない倒壊した家屋や、その下に閉じ込められて、既に圧死しているかもしれなかった方々のことよりも、状況としてははるかに伝わりやすかった。
 そういう状況があって、やはりほとんどの印象がそこにいったということと、やはり新聞とテレビの違いです。また、両方にも言えることなのかもしれませんが、もう1つの限界というのは、神戸に消防の方はいましたけれども、あれだけの6000人からの死者が出る災害を報道するだけのジャーナリストが現場にいたかというと、これはほとんどいなかった。大阪から、あるいは東京からも日を置かずして駆けつけるわけですけれども、そのときにとにかく一番ひどい、灘、東灘から芦屋にかけての現場にはほとんどたどり着けなくて、姫路方向から来た人間は、鷹取からずっと長田区のあたりまでをまず見ていく。そういう状況なものですから、そういう意味では、地震のエネルギーが最も激烈に打撃を与えたところについては、現場に歩いていくメディアがたどり着けなかったということがあろうかと思います。
 もう1つ、さっき権威ある情報という言い方をしましたが、権威というほどのものでなくていいのですけれども、ある程度フィルターがかかった情報が必要だということを補足的にひとつ言っておきますと、今回の震災の中で、もう1つ情報面で脚光を浴びたのは、インターネットがこれを契機に非常に有効なツールだということが判明して、日本のインターネットブームのいわば火付け役になったようなところがあります。
 この場合重要なことは、神戸から発信されたインターネットの情報というのは、神戸市の郊外にある神戸市立外国語大学の図書館の主事の方で、非常にインターネットが好きな人が、倒れていたパソコンを何とか動くかどうか確かめて、稼働して、まだ電話回線がつながる間に接続している。きょうは行政の方もいるから、おわかりでしょうけれども、市立大学というのは大体総務局に所属します。教育委員会とは別です。神戸市の場合、総務局に広報課がありますから、市の広報課を通してある程度フィルターにかかった情報をオートバイで大学の図書館まで運んで、そこからインターネットを通じて流した。ここが、ただだれもが見たままの情報を流したのではなく、非常に確度の高い正確な情報を流したということです。
 そういうこともあって、情報の伝わり方はメディアによって非常に特性がある。今回のことについて重要なことは、さまざまなメディアがあり、インターネット発のメディア、今後はだれでもデジタルカメラを持って、パソコンを持って歩いてくる時代ですから、同じ神戸でことし起きた酒鬼薔薇事件のように、だれがどういう情報を流すかわからない時代に、この3年半の間に変わっています。ですから、いかに正確な情報をどういうふうに流すか。そういうさまざまなメディアをうまく使いこなし、また情報を識別する能力が逆に行政の方、企業の方、さまざまな専門の方、それから何か起こったとき、現場に駆けつけていこうと考えたり、自分の身の回りのことを考えようとする多くの市民の人たち。その人たち自身が、情報面でも、自分の身の安全といいますか、仕事上の身の安全でもいいのですが、それを守らなければならないという時代に入ったということが、この阪神大震災の情報面の大きな変化だったと思います。



安全・安心まちづくり女性フォーラム

 私が行政の限界という言い方をしたのは、もう1つ意味があります。というのは、特に私は主に都市の行政を中心に取材してきていますが、とりわけ一番取材対象として長いのは東京都庁です。この秋で20年間、東京都政を取材してきました。その前に3年ほど神奈川県とか横浜市を見て、今は全国の自治体行政を見ていますが、多分美濃部都政から鈴木都政までの東京都政は、自治体行政と言ってもいいのかもしれませんが、大体あらゆることは行政が責任を持って面倒を見ます、災害対策はここまでやっています、食糧備蓄はここまでやります、避難場所はこういうふうに指定してありますという、行政の側のできる範囲を精一杯、自分たち行政職員の想像力の範囲でできる範囲のことを目いっぱいPRしていた。
 そういうのがこれまでの行政であったのに対して、今度の阪神の大震災を境に、安全面での自然災害に対しての行政の限界がはっきりしてきました。そのほか以前からわかっていたことですけれども、例えば、ごみの問題にしても、これはやはり市民1人1人が分別収集、物の購買行動から始めていかないと、ごみの問題は最終的に解決しない。そういう環境問題も含めて、行政の持てる機能がある種の限界に来ている。そこのところは行政が何でも面倒を見てくれる、また逆に行政に甘えている。言ってみれば、甘えてしまっている市民をつくり出してきた。このお互いのもたれ合いの構造はもはや通用しない時代になってきたと思います。
 それを東京都政に置きかえてみると、鈴木都政、その前の美濃部都政も含めて、安井都政からずっと見てもいいのかもしれませんが、私は、半ば冗談ですが、「大御心の都政」という言い方をしているのです。要するに、東京都が1200万人の都民を温かく大きく包み込むような行政をやっていたし、そういうつもりで行政マンもやっていたのだろうと思います。都民の側もそれを期待していたのかもしれませんが、今や財政的にも、災害対策1つとってみても、行政の限界ははっきりしていて、どこまで行政ができるのか。どこから先がむしろ都民1人1人が考えなければいけない問題なのかというところをお互いにはっきり明確にしていかなければいけない。その場合に、企業が果たすべき役割、それから市民と企業とのまた別の意味での立場で、ボランティアとかNPOという自治体がどういう役割を果たしていくのか、そこら辺をもう一度明確にしていく必要がある。そういう時代になってきたのだろうと、私自身は認識しています。
 その中で、お手元に「安全・安心まちづくり女性フォーラム」のパンフレットがあります。これは開いていただくと、見開きの下の方に、「基本3年計画」と書いてあります。ここにありますように、去年の10月に東京イベントを開催しました。これのちょうど1月前、9月22日に、右上にある金平輝子前東京都副知事----今は東京都歴史文化財団の理事長---をはじめとする28人の方が発起人になり、ここにおられる重川さんや、そこにお名前が挙がっている方々が実行委員ということで、実際のフォーラムの企画運営を考えています。
 3カ年計画は、去年スタートいたしまして、10年度は全国10拠点程度で展開する。初めは20とパンフレットにはありますが、10カ所程度ということで予定していたのですが、最後のページにありますように、小樽から長崎、湯布院、早稲田とか自治体消防50周年とのタイアップのイベントを含めて、23拠点でさまざまなフォーラムを開催しています。
 私もこれまで仙台と、まず東京ビックサイトでやったのが6月の初めです。先週は東京で東京建築士会が主催のフォーラムがありました。その前の週は金沢市であったのですが、金沢市の前の日に東京都の足立区で女性フォーラムがあった。先々週は湘南フォーラムを江ノ島で開催いたしました。
 こういうふうに全国何カ所もやったというのは、さまざまな安全・安心まちづくりを考えようとする市民の自発的な活動と、それに多少の行政の支援。行政の支援といっても、正確には3つのタイプがあります。
 1つは、市民の女性を前面に掲げながら、男女を問わず市民のある程度NPO的な担い手が考えているタイプ。2つ目は、市長を初めとする自治体が熱心でやっているタイプ。3つ目は、下の方にあります早稲田の都市計画フォーラムとか、東京ビッグサイトで開かれた国際消防防災展のような既存のイベントと地方のイベントを含めてタイアップしてやる連携型のタイプ。この3つがあります。いずれのイベントについても、単に一方的に話すということではありません。
 金の話を言いかけたので言いますと、自治体がかなり主導しているところは、これは自治体がそのまま予算をつけていることもあります。これはそのままです。市民が中心となっているところについては、50万円の活動助成金が出ます。後で報告書も全部作成するということから、資料から会場費からすべて込みで50万円程度でどれだけできるかということでやっていますが、この50万円で相当おもしろい活動をやっているところもあります。
 話が前後しましたが、もう一度中身の話をしますと、ここでいう安全・安心というのは、単なる防災対策ということではなく、むしろ身の回りの我々1人1人の生活から考えた場合の安全・安心とは何か。本当に日々の生活は安全・安心なのか。その安全・安心というのは、むしろ身の回り、きょうは随分住まいの話が出ましたが、建物だけの安全ももちろん重要です。それから、それ以前に、我が家だけが深刻なのかもしれませんが、夫婦間の安全・安心というのもかなり重要なことです。(笑)家族、子供たちの安全・安心も大事です。そういった絆を家の中でどう保っていくか。それから、同時に御近所との関係をどうしていくか。そういったところから始まって、あるいは、我々1人1人の手には負えないオゾン層の破壊のような地球環境の問題とか、そこら辺が何ともいえない話です。
 そういうところも含めて、どんな安全・安心があるのか。それから、本当にいわれなきさまざまな犯罪も今たくさん起こっていますし、どこに危険があるかわからない。そう言いながら、まずそういうさまざまな安全・安心をもう少し人とのつながり、街とのつながりの中で考えていこうということで、全国で展開しています。
 その1つの事例を挙げると、例えば、仙台で最初に開いたフォーラムは、ほとんど育てるとか、老いるとか、遊びとか、働くとか、9つのテーマに分けて120人ほどがワークショップをやりました。その結果を3分ずつ発表したのですが、80歳のお年寄りから、本当に乳飲み子自身、ゼロ歳児、それを抱えたお母さんまで集まってきまして、あるグループは、乳飲み子を抱えたお母さんが、まず最初は抱きながら発言をしていく。だんだん乗ってくると、子供を左手に抱えるようにして議論に参加して、書き込む段階では、子供を隣の大学生に預けて、一生懸命ポストイットにいろいろ書き込んでいる。そのお母さんは、結局最後は3分間の発表もやっておりました。そのときまたその隣で大学生がごく当たり前の顔をして赤ちゃんを抱いている。そういう形で多くの人たちが、自然と安全・安心について語られるような機会ができました。
 全国展開がほぼ半分近く終わりかけて見てきたところで印象を一言で言うと、やはり自分の身は自分自身で守らなければいけないということの基本認識については、全国各地で大体できてきたのかなと言えます。
 次は、では、どういうテーマに絞り、どういう方法論でというところをもう少し具体的に詰めていくのが今後の全国展開の課題だろうと思いますし、来年度その結果を集約してパワーアップイベントを東京で開いて活動を終わる予定ですが、多分10月半ばに阪神イベントがあります。ここは日ごろいろいろ関係の難しい兵庫県、神戸市、芦屋市、それに大阪府・市が加わって、それにさまざまな団体の人たちが一体となって開催します。芦屋を中心に、北村春江市長も発起人の1人でもありますから、芦屋市を中心に結束してやります。
 ここではむしろ震災を教訓に、どういう目に遭ってきたのかということよりも、むしろ震災後3年半で自分たちは何を築き上げてきたかというところをメインテーマに討論すると聞いています。ですから、多分阪神フォーラムあたりを境に、その後の全国展開はむしろお互いの基本認識を確認し合うことから、もう一歩進んで、より具体的に、では、身近な地域のテーマは何か。どこから取り組むかという具体論に後半の全国展開はつながり、最終的に来年のパワーアップイベントにつながっていくのだろうと思います。
 そのときに重要なのは、役所、これは建設省など6省庁、それから多くの自治体の後援をいただいていますが、同時に、多分、企業の役割、それからさまざまな職能団体的な全国組織といったさまざまな主体が、単なる行政と、一種のNPO的なもの、それから専門家とはまた別に、どういう組み合わせが考えられるのかなというのをひとつ試行錯誤していく場になろうかと思います。
 したがって、今現在進行中の全国展開は、個々の地域、地域の事情に合わせた多様性、またそれに向き合う方向についての多様性をまず示すことができれば、それはそれで一定の成果かな。そこでそういったものを示すことによって、行政がそういう安全・安心のまちづくりに対して、それぞれの専門、役所ごとに何をやっていくか。企業がまたどういうふうに関与していくか。市民がどう関与していくか。今度NPO法案ができますが、そのための仕組みとして、どういう制度が必要なのか。そんなことを考えるアイデアを出し合う1つの場になればなということで、「安全・安心まちづくり女性フォーラム」をやっています。
 皆さんがそれぞれの地域なり、お仲間の中で、こういったものを一緒に考えるためのプランニングノート、きょうは手元に持ってきていませんが、そういうのも実行委員の皆さんがずっと議論した結果、つくり上げた非常にわかりやすいツールもあります。そのパンフレットは、都市防災研究所の方が事務局をやっていますので、そちらに言えばお送りいただけることになっています。話はかなりはしょってしまいましたが、何かの機会があれば、またより詳しく都市防災研究所の方にお尋ねいただきたいと思います。
 最後に、このフォーラムはメディアタイアップということで、日本経済新聞社が3年間協力することになっています。ただ、私がこれに参加することは、あくまでもボランティアとしてつき合っていて、もう1つは、会社がやるということで、それとしても、その一環としてつき合っておりますが、3つ目、本来的に、さっき言いましたように、仙台で起きていること、金沢で起きていること、関門海峡を挟んで起きている市民の動きというのは、大変なニュースです。したがって、自分の目で見て、またまとめて、ことしは8月18日に掲載しましたが、報道していくという新聞記者本来の仕事の中でもまた紹介していきたいと思っています。
 お近くでまた何かイベントがありましたら、ぜひ顔を出していただければいいと思いますし、来年は東京でもう一度やりますから、きょうここにお集まりの方々は、ぜひお集まりいただきたいと思います。
 若干PRめいてしまいました。重川さんの刺し身のつまみたいな話だったかもしれませんが、以上で私の話は終わりです。
 ありがとうございました。(拍手)



フリーディスカッション

司会(谷口)
 
ありがとうございました。
 少し時間がありますので、最初の重川さんのお話、その後の森野さんのお話、どちらでも結構ですので、御質問、御意見がおありでしたら、どうぞ挙手をお願いします。

村山((株)みんなのまち)
 コンサルタント『みんなのまち』をやっています村山といいます。
 森野さんにお伺いします。先ほどの震災の最初の時期に、被害の規模、その他の掌握は速やかにできなかったというお話がありました。そして、今回の震災に遭って学習ができたわけですけれども、今後震災の規模、被害の規模を速やかに把握するにはどうしたらいいのかという対策があるのだろうかというのを伺いたいのです。といいますのは、その規模がわからなかったわけではなく、関西電力ではいち早くつかまれたわけです。20万戸か30万戸か、停電した。したがって、縦横に切れた。発電が絞れないから、電圧が上がった。数%電圧が上がると、電気の機械がみんな壊れますから、人為的にさらに停電を広げなければいけない。したがって、隣接する電力会社に電気を流すのは、用水発電所を動かすという操作を瞬時にやったわけです。その段階で、70万軒の家に被害が起きて、停電をさせているということは把握できた。その情報が、メディアなり、政府なり、行政なりに、被害が起きたよという情報に切りかえて届かなかったというところが、今回の失敗だと思うんですけれども、今後やはり関東であれば東京電力、そういうところから、そういう情報をきちっとメディアが吸い上げるようにした方がいいのではないか。もしくは行政が吸い上げた方がいいのではないか。その方が対策が早く動き始めるのではないかと思うのですがそういった何らかの対応を考えたらどうかということについて伺いたいと思います。

森野
 多くの新聞社は地震の後、災害対策マニュアルというのを、大阪本社を中心につくったようです。どうなんでしょうか、すべての報道機関がそれをつくっているかどうかというのは、確かなことは言えません。したがって、一般論になりますが、今の関西電力の話もそうですし、例えば、建設省でも、一番情報が早かったのは道路局だったのです。あれだけの高速道路が倒壊したわけですから、あの情報は真っ先に阪神高速道路公団を通じて、近畿地建、あるいは道路局には伝わった。ところが、そこで被害の規模は、とにかくこれは尋常なことではないというのは、そこのところの情報は、行政の中でも上がっていた。
 それから、NHKの神戸放送局などは、そこに置いたカメラの激しい揺れを起こしている場面を見て、「これは尋常な地震ではない」というのを感じた専門家も多数いたことは事実ですが、ただ、震災に強いはずの、国土計画とか都市計画の専門家が、そのことに全く触れなかったということもあって、やはり最終的な情報というのは、従来型の気象台発表なり、県警発表なり、そういう正確な「死者何名」という警察、消防の発表に依存せざるを得ない。そういうところに対する対策は必ずしもまだ確立されていないと思います。 ただ、今おっしゃったように、実際問題としては、地震の被害状況などを把握するようなシステムは、例えば、首都圏ですと、東京ガスが一番進んでいるのだろうと思います。そういったところからいかに情報をとっていくかというのは、個々の記者の才覚としてアクセスできるということは考えられますが、マスメディア全体のシステムとして、そういったところから情報をきちっととってくる仕組みはまだ確立されていないのが現状です。

大熊(大熊喜昌都市計画事務所)
 大熊です。
 森野さんと重川さんにお聞きしたいと思います。重川さんのお話でも、行政と市民、官と民という軸で物事を整理されていると思うのですけれども、市民サイドが、まちづくりの話とか、こういう防災の話を考えたりするときにいつも思うのですけれども、市民をそれぞれの個人として考えるのか、あるいは、コミュニティーとか、ある程度パブリック、本来的な「パブリック」という意味の、事を起こすことのできる対象として考えるのかで非常に違ってくると思うんです。
 今やっておられるフォーラムも個人対象で、個人を啓蒙してくるという話なのでしょうけれども、私がわからないのは、本来的な意味の「パブリック」の感覚の自治体を育成していくというか、そういうのがなかなか見えてこないということで、1つは、例えばこの女性フォーラムの中にも、議員とか、要するに政治家が1人も入っていないというのも、私はちょっと奇妙に思えるんです。その辺何かお考えがあるようでしたら、お聞かせください。

重川
 政治家や何かが入っていないのはなぜかということで、私もそういえば入っていないなと思います。排除するつもりもなかったのですが、そもそもどういう経緯でこのメンバーが決まったかも、自分がメンバーでいながら、よくわからないです。お役所主導でない形にしようといいながら、多分原案は役所あたりが考えまして、裏でそんなに突拍子もないことを言わないような人を選ぼうとか何かあったのかもしれません。そうはいいながら、集めてみたら、突拍子もないことを言う人がたくさんいて、今困っていると思うんですけれども、ちょっとそこら辺は考えてみたこともありませんでした。
 今お話しのパブリックなものというのは、物すごく大事で、市民の側を個で言っているのか、それともマスで言っているのか。私自身は、それよりもむしろ個で言おうが、マスで言おうが、目立つものが公共の福祉というか、パブリックな安全・安心というか、公共のために一番得する答えって何なのだろうか。探すものがパブリックのためのものであればいいと思っています。
 ですから、極端なことを言えば、我々の安全・安心フォーラムに公共の方がかかわってくれてもいいんです。民の側というのは、個人であろうが、あるいはもうちょっとプライベートでありながらも、組織的なものであろうが、形態や何かはどうでもよくて、今まで我々は個の利益が大切にされてきまして、公の利益、公のために何をすべきかということは余りにも忘れ過ぎていた。それは個人もそうですし、ある意味で、行政もそうだったと思うのです。行政は、よく公共の福祉目的と言いますけれども、考えてみると、ある意味で全く逆差別的な不公平なことを公共事業なんかでもやっていると思いますし、まちづくりでもやっていると思います。そこらあたりでもう一度目指すべきものをパブリックなものにした、本当の意味での公共の福祉になるものを目指したいなと私自身は考えております。

森野
 今の質問に対する答えと若干関連するのですが、さっき言い残したことで、重川さんが随分マスコミの話をされたので、1つだけ付け加えます。
 基本的に今の公共ということとも、官と民という話とも関連するのですが、今までのマスメディアは、テレビ、新聞を問わずですが、やはり事件報道というものが基本的にベースとしてあって、したがって、犯罪の場合は、だれに罪があるか、犯人がだれで、だれに罪があるか、その責任を問うことに意味があったわけです。ところが、5000人を超える人が一瞬にして圧死してしまうという自然災害に対しては、だれに罪があるのかということを問うても、全く意味がないわけではないけれども、責任の所在を問うことよりも、むしろもっとほかに報道しなければいけないことがあるにもかかわらず、今回の震災をめぐる報道そのもの、それまでの報道も含めてそうですけれども、やはりいわゆるステレオタイプ的な、勧善懲悪型のといいますか、そこにやはり官と民が対決して、やはり常に公共の範囲はあやしげだと思いながら、被災者たちも尋常でないのですけれども、そこに取材をかけてしまった。そういう図式を少し見直さなければいけないというのが、私の基本認識です。
 それから、女性フォーラムについていえば、これは実行委員の方々で違うと思います。したがって、専門家として加わっている方もいれば、いろんな立場の方がいるんですが、一言で言うと、おそらくこれがお役所の人たちとフォーラムをやっている人たちの決定的な違い、私自身の基本的なスタンスもそうですが、専門家として重川さんがいろいろ一般的に発言する、これは発言していくのですけれども、よその地域に対して、決して高見に立って物を言わないというところが、このフォーラムの議論の特徴だろうと思うんです。
 よくいろんなよその町へ行って、この町はこうすべきだと言って歩く宣教師のようなプランナーなり、どこの役所が公認したのか、よく知りませんけれども、最近まちづくり専門家がまた別の意味で、いろんな分野でいるらしいのですけれども、そういう方々が非常に多いのに対して、少なくともこれはまず自分の目で、地面に自分の足をつけたところから何を考えるかというところから始まっているのがこのフォーラムです。
 自信を持って言えるのは、私は江ノ島の近くに住んでおりまして、日曜日はほとんど仲間を引き込んで湘南フォーラムというのをみずからやっているんですが、最近は新聞記者もみずからボランティアもやらないと成り立たない時代で、そういう意味で、まずやってみて、その結果をほかの人たちに得た教訓として伝えて合う。そういう活動だから意味があるのだろうと思います。
 やはり本当に大きな都市計画などを考える場合、それだけではもちろん十分でないのですけれども、やはりそっち側の視点が、今までの行政、あるいは、申しわけないけれども、とりわけ都市計画プランナーという方々にはやや欠けていたということを、最近非常に痛切に感じています。そういうことからすると、やはりまず自分の身の回りはどうなのか、自分自身がどうなのかというところでもう一度考え直そう。やはり特にその視点が乏しかったのは行政ですから、これをやっていく中で、いろんな行政として、自分たちの地域に、自分たちの町に、こんな論客の女性もいるのか。今実際に国とか自治体の審議会は、女性委員の選定に困っていますから、そういう意味で、ちゃんときっちり発言ができる女性たちがこれだけいるのかということを再認識したという効果もありますし、やや言い過ぎかもしれませんが、役所は、今後のそれぞれの役所を背負って立つ若手幹部候補生の教育訓練の場だ。私はそう割り切ってボランティアと言っているわけです。そうでなければ、こんな面倒な仕事に時間を割いてやるのはもったいないと思います。それなりにそこを追ってつき合っていく個々のお役所の方々が、霞ケ関も地方自治体の人たちも、それを通じてどんどん変わっていく姿を目の当たりにしていると、多少つき合ってみてよかったなというのが、今現在の実感です。

司会(谷口)
 ありがとうございました。
 実はちょっと時間を超過しておりますので、ほかに質問がおありかもしれませんが、大変申しわけありませんが、これで終わりにしたいと思います。
 重川さん、森野さん、本日は大変ありがとうございました。(拍手)


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