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第131回都市経営フォーラム

循環型都市へ向けた限界設定とTDM

講師:横島 庄治 氏
高崎経済大学教授・NHK解説委員


日付:1998年11月16日(月)
場所:後楽国際ビルディング・大ホール

 

 はじめに

 中心市街地空洞化の主因

 モータリゼーションへの都市的反抗

 TDM(交通需要マネジメント)概念の成熟


 東京都におけるTDMの社会化実験

 ETC(自動料金収受システム)の実力と汎用化

 循環型社会と限界設定

   フリーディスカッション





はじめに

 御紹介いただきました横島でございます。
 お届けしたレジュメには、あれもいいたい、これもいいたいというのを全部書いてありますので、流れ次第で部分的に割愛させていただくようになるかもしれません。
 都市の問題から解きほぐして、中心市街地がどうして空洞化してしまったかということを考えてみたい。さらに、その空洞化を取り戻す方策として、さまざまあることを考えながら、交通政策的な活性化論をお話ししてみたい。欲張っております。
 本日は131回目だそうで、 131という数字は私はきょう2度目であります。NHKのラジオスタジオで 131スタジオというのがございまして、けさ8時8分から10分間「時の話題」という月1回のレギュラー出演がございまして、そこでもお話をしてきたばかりで、来てみたら 131回、御縁があるようです。
 けさお話ししたのも、きょうお集まりの皆さんとかなり縁がある話ですので、その話を繰り返しながら、のどの調子を整えさせていただきます。

 「公共事業と大岡裁判」というお話を申し上げました。例の評価システムがいよいよ動き出した。再評価システムという方がいいんでしょうが、決定事業の再評価と新規採用事業の評価という2つの評価を含めていますので、事後評価というよりは評価といった方がいいと私は思っております。
 全国に約 100ぐらいの評価委員会が今できつつあります。8割ぐらいは立ち上がっていると思います。県段階につくれ、政令市段階につくれ、地建につくれ、運輸局につくれ、農政局につくれ、こうなってまいりますから、仙台は、宮城県の分をつくって、仙台市の分をつくって、東北建設局と東北農政局と東北運輸局の分をつくると6つになりますか。
 人が足りないそうでありまして、東北大学の先生は2つも3つもかけ持ちで委員を務めなきゃいけないという大変な事態になっているようであります。実は私も2つ受けております。
 関東地建の方もきょうはおいでかも知れませんが、関東地建の事業評価委員会の委員長の伊藤滋先生に、「先生、受られない方がよかったんじゃないですか」と、僕は冗談めかしたお話をしたら、「あなたも受けたじゃないですか」というから、「お互い、あまり大きなことはいえませんな」という話になりました。
 この話をもう少し雑談的に続けさせていただきますと、僕は3つ問題点を感じているのです。1つは、評価の対象事業をどうやって選ぶかという、ピックアップの主体が行政側であるというのはおかしいですね。この事業は継続すべきか、中断すべきか、あるいは採用以前にあきらめるべきか、採用に向かって進むべきかということの適不適の判断を経てモデル検討するわけですが、それを監視される側の行政側が主体的に選ぶこと自体、おかしいと私は思っています。国民なり県民なり住民なりが、この事業は要らないんじゃないかというものを評価委員会が公平に判断すべきものであって、そこで既にフィルターがかかるというのは、この精神にそもそも反しているというのが1点。
 2つ目は、その事業監視委員会の議論が非公開になっているということ。私は委員の1人として申し上げるならば、この手のものに公開して不都合は一切ありませんし、一部の方を除けば、他の委員の方も原則的にはそうだろうと思うのです。
 3点目は、地方の評価委員会が、よしんば「あるダム事業は要らない」といって、報告をいたしますと、それが最終的には建設省所管事業ならば建設省本省、運輸省なら運輸省に上がりまして、そこで運輸省当局、建設省当局が最終決定をするというスキームになっております。よって、監視委員会が「ノー」といっても、最終的に、本省の幹部会議、局長判断になるのかわかりませんが、そこが、やっばり要るとなれば、くつがえせるという方式になっております。全くもって意味がない。骨抜き制度になりかねない。それぞれの段階で地元住民の声を聞いて、「ノー」というならば、それに従うのを原則としなければ、事業監視になりません。
 よって、この3点で、この制度はスタート当初から骨抜きが過ぎるのではないかというお話をきょう私は申し上げました。どんな反響になってまいりますか、待ち遠しいわけであります。私は大いに議論を受けて立とうと思っております。
 皆さん、きょうは役所の方も多いかと思いますが、そもそもこの精神が出てきたのは、要らぬものはやらない、要るものは説得してでもやる。そのためには時間がかかっても仕方がない。こういう精神でないと、これからの公共事業は前に進みません。それらを否定するような制度ならば、慌てることはないから、もうちょって待ってからでもいいんじゃないかと思っております。
 町なか再生、あるいはこれからの新しい交通体系の見直しなども、こういう評価にかかってくる場合がございましょうが、ゆっくりと真摯に、利用者、住民、納税者の声に耳を傾けるという基本的な精神がなければいけない。アカウンタビリティー検討委員会なるものが建設省にできたそうでありますが、大変おもしろい。この間もその事務局からヒアリングを受けましたけれども、それらも一緒に含めて、そういう姿勢があればあるほど、なおのこと、この種の制度には魂を入れた方がいい。いち時のしのぎでやろうとすると、けがが大きくて、かえって傷を深くする、こういうことになるんじゃないかと思います。



中心市街地空洞化の主因

 さて、それでは本論に入ってお話したいと思います。
 「都市とは何ぞや」という定義は都市学者にとって永遠のテーマでありまして、私もわかりません。農村は神がつくったのに対して、都市は人間がつくったから人間的造作物である。それはそうでしょう。そこに人と物と金と情報が集まっていなければ、現代における都市は成立しないでありましょうが、それにしても都市の役割が大変に変わってきてしまったというのは、共通のお考えではないかと思います。
 その結果として最近都市がわからなくなってしまった。都市って一体何なのかという基本にもう一回返りたい気持ちにしばしば駆られます。それぞれの皆さん、都市行政、あるいは都市計画を業となさっていて、恐らく同じことが多いんじゃないでしょうか。一体都市計画って何だったのか、都市経営というのは何をもってすべきなのか。この辺の基本が最近がたがたと崩れているような感じがいたします。
 梅棹忠夫先生が、「都市ホテル論」という論理を展開なさっているのをある雑誌で読みました。梅棹先生は、「都市というのはホテルみたいなものだ。それは人々が必要に応じて入ってきて、必要なだけ滞在をし、必要な機能を利用して、また本来のところに帰っていく。その滞在者のために必要な機能を提供できるところ、必要な情報を提供できるところが都市であればいい」こういう定義づけをなさっておりました。大変おもしろいわけであります。
 ただ、必ずしもそれだけで現在の都市が機能を果たし切れるかというと、そうではないようです。ホテル的な機能が都市に必要と同時に、ホーム的機能が同じように必要ではないか。家という機能とホテルという両方の機能がなければ、今の都市は役に立たないのではないか。つまり、家という機能は、滞在者ではなくて生活者でありますし、通過者ではなくて長期滞留者でありますし、そこに家がある以上、家族もおりますし、「ゆりかごから墓場まで」の一生がそこに盛り込まれております。ホテルの滞在者は、不必要なときには去ってしまいますが、都市を家と見たときには、そう簡単に立ち去れませんし、決別もできない。非常に運命的なつながりも出てまいります。
 どちらが多いのかわかりませんけれども、梅棹さんがおっしゃるようなホテル的都市論というのは、超近代化された都市、今の都市そのものをすぱっと切れば、多分そういうことになるんでありましょうが、もう少し日本の都市の古い歴史をたどって、せいぜい江戸あたりまで戻ってみても、江戸の都市も、ホテル的機能だけでは多分成り立っていなかったんだろうと思います。
 宿場町、門前町、あるいは城下町、港町というような、中学、高校の社会科程度のあからさまな知識を駆使して考えてみても、この種の都市のさまざまな要因は、それを利用する機能として、宿場の機能、寺、神社の観光的機能や信仰的集客力、あるいは城下町としての行政的拠点性というものと同時に、そこに住まう人々がその都市を自分の生活の場として利用しているという側面がなければ、にぎわいも維持できなかったし、繁栄も続かなかったし、その都市を維持するためのさまざまなエネルギー、資源、財政といったものも、集中的に投資することが許されなかったんだろうと思います。
 その意味で、私が申し上げようとしている都市の成り立ちというのは、そこに住む人々と、そこに集まり去っていく人々の両面的な要求で、多くの機能を有することができてきたのが都市だろうと思うんです。
 多くの機能の中の最も大きなものは、例えば、城下町ということになればお城であったり、現代における城下町の例でいえば、政治機能中心の東京であったり、大阪であったりというところもそうですし、現代でいう門前町というのは、寺も信仰の象徴、それらはある種のイベント性の象徴だとすれば、さまざまな情報発信、観光発信の土地。行政の中心でもない、交通の中心でもないけれども、不思議と人が集まる場所というのは、現代流の門前町、城下町なんでしょう。門前町でいうと、どんなところになりましょうか。仙台などというのはそうでしょうか。あそこは伊達政宗のお寺ぐらいしかないですけれども、教育の杜があったり、松島観光があって人が集まる。もっと身近には、東京ディズニーランドというのは、ある意味ではイベントが集客力を持っている、今様の門前町ということになるのかもしれません。
 そういうところも含めて、私どもさまざまな形態の都市を今持っているわけです。そこで、私どもが知らず知らずのうちにエネルギーを割いてきた最大の結果は、社会資本の整備に対する集中投資ということになるでしょう。私的社会資本も公的社会資本も含めて、大変大きなお金が、長い時間かけてそこに投入されているのが都市であります。さまざまな形態、機能は別にしまして、一般的にいえる都市であります。
 ですから、都市というのは、生活をするためにも、企業活動をするためにも、その他の教育、文化、芸術、政治活動をするためにも便利なように、多くのお金を投じて、機能を整備したところである。そういうことは常識的でありますけれども、今何で中心市街地なんだという疑問にぶつかったときに、よくチェックしておかなければいけない点は、実はそのことだろうと思うんです。
 何で中心市街地を活性化しなければいかぬのか。それは人々が集まる場所は便利な方がいいし、そこに集まっていた古い商店街が空洞化して、廃業に追い込まれる、跡取りがいない、そういう不幸な事態を何とかしなきゃいけない。それで何となく答えになっているようでありますが、実は、それでは未完成でありまして、私の思う中心市街地活性化の最大の動機は、いかに我々が歴史的に長い時間をかけ、そしてその間にいかに多くの財政力を投入してつくったかという価値ある町中なんですね。
 その価値ある町なかが、別の事情で人々を去らせてしまったとすれば、非常に惜しい。あるいはもったいない。もっと使うべき方法があるのに、別の状況でそこが中心から外れてしまったということの矛盾、そのことに対して、今反省をしておかなければいけない、そういう意味だろうと思うんです。
 ですから、何でも町なかさえ活性化すればいい、こういうものではないでしょう。おのずと、そこには活性化する価値のある町なかと、活性化する価値のない町なかがあるはずであります。価値ある中心市街地の選び出しということが必要でしょうし、その価値をどう認めるかという価値判断と並行して、その町にふさわしい活性化の手法と目的がきちっと設定されなければいけない、こういうことになるんだろうと思います。



モータリゼーションへの都市的反抗

 きょうは、中心市街地空洞化の活性化が直接的なテーマではございません。
 中心市街地活性化という問題は、今、私どもが大きなテーマとして、新しい法律をつくって、「ふるさと創生」以来の全国的な総がかり運動にまで発展しかねない勢いになったわけですが、今日は、そのそもそもの原因といいましょうか、きっかけにつながる問題の解決に向けての手法、実はそのことを考えてみたいわけです。つまり、空洞化した最大の原因を取り除けば、それは価値ある中心市街地である以上、必ず活性化するはずなんです。
 皆さんの御職業柄で使われるとすれば、用語としては、「ストックの活用」ということになるんでありましょうが、ストックが活用できなくなってしまった日本の現在の都市的状況がなぜなのかということについては、レジュメの2に書いておきましたとおり、3つぐらいあるのかもしれませんけれども、最大で唯一に近い原因は、猛烈なモータリゼーションだったといえます。
 何年後かに、20世紀を過去の100年として区切りをつけて見たときに、最大の特性はモータリゼーション、「車の100年」になることは間違いないと思います。特に後半の40年ぐらい、日本でいえば後半の30年の車社会への変貌というものは物すごい勢いだったと思います。そして、物すごい量だったと思います。そのことは、日本の経済に対しても決定的な影響を及ぼしたのはもちろんでありますが、経済に及ぼす影響よりもさらに大きな影響を我々の生活スタイルの中に持ち込んでしまった。産業構造にも重大な影響を残してしまったということになるでありましょう。
 さらに敷衍させるならば、エネルギー論あるいは資源論に至るまで、このモータリゼーションの急激な発達が決定的な影響を及ぼしたということは、否定する余地がないところであります。
 このことが中心市街地の空洞化に拍車をかけた、あるいは決め手になったという認識は、必ずしも現代の我々の共通の認識にはなり切っていないという感じがいたします。そこが考えるところかなと私は思っております。
 モータリゼーションがいかに激しかったかという数字は、車の所有台数の伸び、免許保有者数の伸び、燃費の単位の走行距離の延び、どの数字をとってもはっきり出てくると思います。現在7000万台を超えて8000万台に近づこうとしている日本の車の保有台数、これは恐らく人口1人当たりでもアメリカに次ぐものでありましょう。
 私が住んでおります群馬県が、車の保有台数では日本一といわれております。乗用車の保有台数で見た場合でも、1世帯当たりの保有台数は1.22台です。乗用車だけであります。トラックとか農業用の軽トラックなどは入りません。こういうものを全部含めた車の保有台数の世帯当たりは2.5台であります。これがどちらも全国一です。群馬県に住み始めまして8年になります。そのうちの後半3年間は東京を引き払っての生活ですが、本当に牛乳1本、パン1つ、車がなければ買えない、そういう生活パターンになっております。
 群馬県に住んでいて、車のない生活を論じることは、国賊という言葉に従えば、県賊、あるいは地域賊に近い、全くの暴論になるようであります。私が事あるごとに叫んでいる車社会の見直しが非常にむなしい。むなしいからといってやめるわけにいかないといって、事あるごとにお話し申し上げているわけであります。
 そこで、群馬県が反省しなければならないいい事件がございました。9月16日の台風5号だったか、関東北部に物すごい雨を降らせました。時間雨量100ミリとか、レーザー観測によると、時間雨量で140ミリという計算もあったと聞いております。ともかく猛烈に雨が降りました。利根川上流の雨が2日後に一気に利根川に流れ込んでおります。群馬県の県庁は前橋市にございますが、県庁の職員と前橋市役所の職員は8割方車通勤といわれております。その車の置き場所がないために、市内にも当然それぞれの有料駐車場を借りていますが、一番大きいのは利根川の河川敷に1000台プールがございまして、ここを官公庁の皆さんの駐車場としております。
 この駐車場が、利根川のはんらんで一気に泥をかぶりました。60台近い車が流されました。「どかせ」といった声が間に合わないぐらい急激に流れていきまして、手のつけようがなかった。人的被害がなかったのが幸いといえば幸いでありましたが、このことで、県庁、市役所の利根川河川敷駐車場問題が一気に問題化しました。
 この河川敷の利用については、かねてから危険だという警告を受けていたようですけれども、何せ申し上げたとおりの車社会でございますから、駐車場がないことには何事も進まないという不幸な状態。そこで、国の方針に反してといいましょうか、無理に頼んでといいましょうか、駐車場を確保してきたわけであります。
 実際に水をかぶったのは2度目だったようです。この集中豪雨の体験を経て、ついに小寺知事は、この利根川河川敷の駐車場の返上を県として決意するわけであります。仕方がないから、前橋市役所もそういうことになりました。およそ1000台の車が、駐車場がないまま宙に浮くことになりました。
 このあとをどうするか。今いろいろと通勤対策を考えているようであります。知事の心中、どこまでこの問題を、天から与えられた忠告、警告と考えているか知りませんけれども、まさにこれは天の声だと受けとめてみてはどうか。群馬県が今まで車の利用が便利だという、そのことだけを理由にして野方図に車通勤を許してきた結果として、天から警告を与えられたというふうに考えてみてはどうか。そして、群馬県の車社会を見直す1つの重大なきっかけとしてこの天災を利用してはどうかと主張しているわけであります。
 では、どうするのか。役所を休むわけにまいりませんから、当面は有料の駐車場を個人が借りるとか、郊外の駐車場を借りてそこから相乗りで来るとか、もう少し外側に駐車場をつくって、そこからバスを走らせようということも考えているようでありますが、まだ具体的な解決には至っておりません。
 ここで考えるのは、皆さんの頭に浮かぶように、パーク&バスライドのような、後で申し上げるTDMの最もプリミティブな形が出てくるんだろうと思います。県庁の職員の皆さんの通勤もさることながら、公共バスをもう少し回してはどうか。高崎市は、武蔵野のムーバスをモデルにしたもので、「ぐるりん」という公共バスを4系統走らせております。利用者が少ない。おじいちゃん、おばあちゃんしか使わない。しかし、これをあきらめずに続けることによって価値を発揮してくるだろう。この「ぐるりん」のような公共バスを前橋も始めました。他の主な市もバス輸送をかなり考え始めまして、今群馬県内では、主な6市ぐらいが何らかの形で公共バスを動かし始めております。今度は全国一のバス県に生まれ変わる様相です。
 その中で、県庁の皆さんの通勤についてのバス輸送をもっとモデル的に動かしてみたい、こういうことになるでありましょう。そのときに出てくる駐車場は、相当郊外でなければ意味がありません。中に入れば入るほど車は渋滞します。駐車場は高いです。そして公共バスの輸送機関の距離が短くなりますから、バスに切りかえた効果が大きくならない。こういうことの逆をいくならば、できるだけ外側、外周部に拠点的なバスターミナルをつくって、そこに安い駐車場を確保して、みんなそこから乗りかえてくる、こういうことになるでしょう。この方法がどういうふうになるのか、しばらく見ていかなければいけませんけれども、群馬県が全国的なモデルになってほしい。
 これで、あるバスルートが確定してきますと、バスが満員になるとか、バスの時間性が不安定になることによる通勤の不安定が出てまいります。そうなりますと、専用バスレーンが出てまいります。専用バスレーンを使うことによってバスがうまく走り出すということになれば、今度は、LRTのような市街電車構想というのが出てくるでありましょう。前橋、高崎、二十数万の規模ですから、いまさら地下鉄構想というのははやりませんでしょうし、よしんば、2つの市が合体したとして五十数万。それでも地下鉄はあえて掘るべきではないと私は思っております。しかし、その分、軽軌道の市内電車という手は、かなり現実味のある話だと考えていいんじゃないかと思います。
 そうなって、例えば、前橋の周辺に5つのバスターミナルができたとしましょう。そして、当面バスでやるということになりますと、そのバスターミナルに1000台の車が分駐するわけですから、均等割りをすれば200台の車がその周辺に集まってまいります。そこからバス1台に乗り込みますから、50人ずつ乗って朝の通勤時間帯に4台のバスが往復する、こういう勘定になりましょう。入るときのバスは満員で、出ていくときのバスはがらがら。これは仕方がないでしょうけれども、昼間どうするかという問題が出てまいります。夕方は出ていくバスが満員で帰りががらがらという、こういう問題になってきます。朝の混雑と夕方の混雑が逆転し、昼間はだれも利用する人がないとなると、この公共バスは恐らく大赤字になります。
 この大赤字を赤字にならないためにどうするか、昼間これを買い物バスに回したり、福祉バスに回したり、あるいは企業にこのバスを使ってもらって、通勤時間帯以外は、企業の見学のバスとか何かに流用できないか。逆にいえば、企業が持っているバスを、朝と夕方にそちらの方向にだけお借りをして、通勤バスにし、昼間は企業にお返しするということだってできないことはない。企業の人も一緒に乗るなら共同で走らせましょう、こういうことになるかもしれない。
 高校や大学のルートに重なっているところは、通学バスに使うこともできる。大きな病院がそのルートにあるとすれば、病院のバスに日中の時間帯は切りかえられる。公務員が朝の8時から8時半までに来るとなれば、病院の開院時間を9時からにしておいて、9時からならばその病院にバスで行ける、さまざまな時間帯にさまざまな用途を拡大させますと、この外側にできた5つのバスの停留所は大変な拠点性を帯びてまいります。
 そうすると、だんだん駐車場も広がりますけれども、そこに人々が集まり始まれば、ある種の拠点になります。その拠点には自動販売機程度ではちょっと足りないとなって、お店ができるかもしれません。ちょっとした買い物センターができてもおかしくありません。そういうことによって、さらに郊外化していた大型店が、少し都心部に近いところに呼び戻されるかもしれません。
 中心市街地活性化の初歩的な変化の1つなんですが、このように外側に出ていった大型店、郊外店を中へ中へ呼び込んでくるという手法も、このバス通勤路線の開発によって誘導が可能になってくるということです。

 大店法の話がちょっとひっかかりましたので、少し横道にそれて、この問題についてお話しさせていただきます。
 大店法が廃止になったことについては、賛否両論ございまして、私も反対論者の1人でありました。中心市街地活性化と大店法は相入れない問題であります。大店法の規制を緩和することは、外に大型店が出やすくなるというふうに一元的には解釈できます。外に大型店ができやすくなれば、中心市街地に、いわば家族営業の小さな小売店が復活してくることとは相反する問題になります。
 中心市街地活性化法が新しくできて、どうして片方が廃止されたのか、非常にわかりにくい。よく見ますと、大店規制法の廃止された裏で、大店立地法というのができまして、こちらの方は、例えば都市計画法とか建築基準法とかいう新しい基準で大型店の規制をしようということになりましたし、その規制の具体的な活用は地方自治体に分権をして、地方自治体ごとに、大型店が進出するに当たってチェックできるようなシステムにしたから、通産省の言い分をそのまま持ってくれば、大店規制は経済的規制からははずしたけれども、大店立地法で社会的規制をかければ、思わしくない大店は排除できる。よって、問題はない。中心市街地活性化への矛盾でもない、こうこうことになるんですけれども、果たしてそのとおりいくのかどうなのか。
 それでなくても、大店規制法で大店の進出を規制しようとするときには、商店街がまとまって小さな力を結集させながら大きな店と闘った。そして、外国資本と闘う場合には、地方自治体ではなかなか力がないですから、国や県の力を借りながら抵抗してきたといういきさつがありますが、そういうものがポンと抜けて、分権という理想的な手法をイメージしながら地方自治体に権限を任せたというのは、表づらは格好いいんですけれども、「ノー」という力の減衰といいましょうか、弱まっていることは間違いない。
 経済的規制は排除して、社会的規制を新設したから、大型店の進出は適正にコントロールできるかどうかについては危惧を持っております。その意味で、今回の通産省の政策は、どうも合理的には思えないのです。

 さて本論に戻ります。
 モータリゼーションの極端な進展が、人々の生活、労働、生産、観光、文化活動、あらゆるものを外に押しやりました。車が可能にする行動範囲が、2けた、3けたの単位で広がってまいりましたから、中でごちゃごちゃするよりは、外で伸び伸びとする方がいい。小さなところで古いものにしがみついているよりは、外で大型店をつくって伸び伸びと新しいものを売った方がいい。外へ外へと出ていった。中心市街地の地価に比べれば郊外の方が土地が安いから、郊外には大きなお店ができる。大きなお店ができれば、若い人たちはそちらについていってしまう。若い人たちがついていけば、おじいちゃん、おばあちゃん、孤立して町なかに住みにくいから、一緒についてこいというので、一緒に外に出ていってしまった。
 こういうふうにモータリゼーションがもたらした行動圏の拡大、生活スタイルの変更、売り方や生産の方法の変更、あるいは観光、スポーツ、遊び、休日の過ごし方の変化、すべては、中より外、中心から郊外へと出ていってしまった。
 ここ30年間、日本の都市は、中から外への大移動をじわりじわりと重ねてきた結果として、中心市街地は気がついたら空洞化していた。こういう流れなんですね。30年かかって空洞化した中心市街地でありますから、法律をつくって、「さあ、みんなで市街地活性化をしようじゃないか」といって、幾ら補助金が出ても、幾らアラカルトメニューが並んでも、30年かかって過疎化した中心市街地が5年や10年で簡単に戻るはずがない。
 ペースで申し上げれば、そういうことになるんだろうと思うんです。
 時間をかけないと、中心市街地の活性化は実現しないだろうというのが問題の1つであります。と同時に、先ほどから申し上げている、車社会から必要な程度の離脱をしなければ、やっぱり外の方がいいという実態が残ってしまって、中心市街地がなかなか活性化しない。それでなくても時間がかかるのに、結果的に時間がかかっても活性化しないおそれもある。
 この2つの問題から、時間をかける問題と、車社会からの決別という問題をどのように現実のものとしていくのか。これが私の新しい都市づくりといいましょうか、基本的な構え方であります。



TDM(交通需要マネジメント)概念の成熟

 そのうちで、時間の問題は1つおいて、車社会との考え方を少し具体的に細かく検討しながら、中心市街地活性化論とつなぎ合わせながら、TDMという問題をきょうお話ししてみようと思います。
 このTDMの話に入る前に、1つ皆さんの頭に浮かべていただきたいのは、巣鴨のとげぬき地蔵の話であります。これは恐らく皆さん、一度は行ってこられたか、あるいは映像で見られたか、人の話を聞いたか、あのにぎわいについて何か情報をお持ちだと思います。すごいですね。私のゼミの学生を連れてこの間見に行ってまいりました。それまでに2度ばかり行っておりましたけれども、本当のところ、とげぬき地蔵に年間700万人人が集まるという話は信じられませんでした。
 わずか800メートルの参道に年間700万人、月に60万人ぐらい集まる。物すごい数であります。ところが、あそこの商店街連合会の会長さんとお話をして、学生にヒアリングをさせたら、何ということはない、仕掛けは非常に簡単でありまして、確かに来るんです。4の日が縁日でありますが、この日だけで10万人ぐらい出る。月にそれだけで30万人は来てしまう。普通の日、何にもない日で平均1万人を超えるそうでありますから、1カ月でざっと30万、これだけ足しても700万人は超えてしまう。
 何でそんなに来るのか。理由は幾つかあるんですが、1つは、お地蔵さんといういわば門前町の力、これは確かにあります。とげぬき地蔵のゆえんは、江戸時代に女中さんが針をひっかけた。それをお地蔵さんに頼んだらスッと抜けた。その御利益からとげぬき地蔵というそうであります。お地蔵さんのある寺は、高岩寺というんですが、あそこは1つの福祉施設になっている。本堂には自由に上がれるわけです。そこには大阪から来た人、静岡から来たおばあちゃん、群馬県、長野県、名古屋、こういう方々が本堂に上がって、近くのお店で買ってきた塩大福を食べながら世間話をする。そこにある風景というのは非常に安心した風景。お地蔵さんの前で悪いことをする人はいないだろう。えらく高く物を売ることもないだろう。安心して買える。そしてその買ったものを安心して食べたり、お土産に持っていけるという安心感と信仰が結びつけるコミュニケーション、この風景は、大切な風景です。
 全然知らない人が隣り合わせで仲よくやっているんです。そこでは病気の話、嫁の悪口、せがれが家を建てかえたけれども、自分の部屋がどうだとか、日常のいい話悪い話が何の垣根もなく語られている風景は大変いいんです。
 商店街に行きますと、何でも売っています。普通のデパートやスーパーでは逆立ちをしても見つからないようなもんぺとか、もも引き、手っ甲きゃはんのたぐいの古いものがある。足袋がある、帽子も麦わら帽子がある。その手のものがずらりと並んでいます。売っているのがみんなお年寄り。つまり同世代で全部やっている。そこに1つの安心できる風景がある。
 行ったことのある方はご存じでしょうけれども、真ん中よりちょっと巣鴨寄りにお地蔵さんがありますが、商店街が3つに仕切られているんです。あれは多分気がつかないと思いますが、入り口から高岩寺まではお土産屋さんばっかりです。高岩寺から残り200メートルぐらいはだんだんお土産屋さんが減って、日常品のお店が出てまいります。果物屋さん、魚屋さん、雑貨屋さん、生活のお店があります。その真ん中を過ぎて奥に入って、都電の庚申塚の駅に近づくにつれて、お店の様相がさらに変わってきまして、今度は薬屋さんとか、コンビニとか、パン屋さん、あるいは喫茶店などもあります。健康食品なども売っている。そういうふうに、いつの間にか一番奥は生活のお店。だから、観光客用のお店がずっとあって、それがだんだん色が薄くなって、最後のところは生活市場になっている。大きなスーパーマーケットまであるんです。
 つまり、巣鴨のとげぬき地蔵700万人でにぎわう1年間の数字は、観光客だけの数字じゃないんです。生活者の町でもあるというところが強みです。
 これは先ほどの梅棹さんの話じゃないですけれども、ホテル的に使っている人が手前にいて、ホーム的に使っている人が奥にいて、その人たちが一緒になって、あの800メートルの門前町をうまいこと利用している。この強みが巣鴨だなということに、今回気がつきました。
 だから、雨が降って風が吹いても、生活必需品を買う方は必ず参ります。そのにぎわいが今度は観光客をあきさせない。いつ行ってもだれかがいるということで、両方が刺激をし合うものですから、雨の日でもちゃんと、観光客のリュックをしょったおばあちゃんがスニーカーをはいて元気に歩いている。
 そういう混在した町のにぎわいがあの巣鴨の800メートルの中でみごとに調和してはめ込まれている。ここのところが、中心市街地活性化の1つの手法かな、つまり、生活者が後ろに控えているという強みが非常におもしろい。
 都市はホテルだという梅棹さんの話だけでは、これはどうも活性化できないだろう。都市がホームだという人がいなければ、中心市街地は活性化しないんじゃないか。こんなふうに巣鴨を読み取るわけであります。
 しかも、もう1つ大切なことは、年間700万人来られる巣鴨の観光客及び買い物客で、車で来る人は原則的には1人もいないですね。全部電車、あるいは歩いてくる、自転車で来る、都電で来る、都バスを使って来る。このいずれかでほとんどです。つまり、あそこにはモータリゼーションの波は全く押し寄せていない。このことの強みもやはり中心市街地活性化の中では非常に大事なモデルになるんじゃないかという気がします。
 群馬県の高崎や前橋が、車なしではどうにもならない、車の人はみんな外に行ってしまう、どうやって客を集めようかといって悩んでいるのに、よく相談に乗らされるんですが、そのときにお話しすることに最近はしました。巣鴨に行っていらっしゃい。車がなくてもちゃんとお客さんが来るんだから、車がなくてもいいように、歩ける町をつくればいいんじゃないですかということを盛んに申し上げるんです。それはそういう理由であります。
 そうなってくると、車を排除する知恵が必要になってまいります。車が全部「ノー」だというわけにまいりませんから、車とどの程度共存するのか。車との入り合いをどのくらいの歩どまりで混合させていくのか。この辺がそれぞれの都市の形態に応じたバリュエーションになると思います。
 そこのところで、今大事な概念として浮かび上がっているのが、きょうのテーマになっておりますTDMという概念だと思います。

 (OHP1)
 TDMという概念は、皆さんご存じのとおり、いろいろな概念を合計して、トランスポーテーション・ディマンド・マメジメント。つまり、車を使うときの利用方法を少し我慢しよう、そういうことだと思います。我慢の仕掛けをどうするかということがTDMだと思います。
 例えば、自動車をうまく使え。なるべくたくさんで乗り合わせろというふうな左上の問題。右上の問題は経路の変更をなるべくしろ。込んでいるところに入り込んでくるとお互い不幸になるよ。日本の車の渋滞による経済的ロスは12兆円といわれております。これなどをどのように解決していくかは自分たちの知恵じゃないか。都内の車の渋滞による経済ロスが4兆9000億、約5兆円ですから、12兆円分の5兆円は東京都に集中しているということになると、東京都民は相当損をしていることになるわけです。
 左の下は時間変更。つまり、混んでいる時間をなるべく避けて、すいている時間に車を運転してほしいという、ピークロードプライシングという概念はここに属してくると思います。
 それから右の下のところは手段の変更。つまり、車で都心まで乗り入れずに、どこかに置いて電車に乗る、バスに乗る、パーク&ライド、あるいはパーク&バスライドというような方法。あるいは電車に乗る場合にも、パークをすると駐車場が要りますから、キス&ライドという概念もあると思います。キス&ライドというのは、奥さんに駅まで送ってきてもらって、そこでキスをして分かれて、自分は電車で通勤してくるというキス&ライドというのはアメリカあたりにはあるようであります。共稼ぎなら無理ですけれども。そういう多様な方法で車を自分の思ったように、思った時間に好き勝手に乗り回すということは、いろんな意味で経済的ロスも大きいし、社会的混乱も招くから、少しずつみんなで我慢し合えというのが、TDMの基本的な概念であります。
 釈迦に説法でしょうから、そこまでにいたしまして、実は、このパーク&ライドにしても、ピークロードプライシングにしても、公共交通機関の活用にしても、今いろいろな都市が実験をしておりますけれども、なかなか思うような答えが出ておりません。



東京都におけるTDMの社会化実験

 (OHP2)
 そこで、4兆9000億円のロスを出している東京都で、少し本気でTDMをやってみないか。循環型社会を目指す政策を掲げているわけですが、そのことと、CO2 削減の目標値の達成など幾つかの目的を果たす上で、TDMは非常に有効ではないかということで、去年の9月に東京都でTDMの検討研究会というのをつくりました。私も委員なんですが、ここで取り入れられた新しい考え方を、そちらにお配りした資料にも頭の方で書いてございますが、東京都が地方自治体単独でやっても全然価値がない。まさに地方自治体のモデルとして国の方針を引っ張っていく位の意気込みでやってほしいということで、警察庁、環境庁、通産省、運輸省、建設省、この省庁の担当課長約十数人、ダブルで入ってもらっていますから、建設省も3人とか、警察庁が2人とか、十数人の国の担当課長に正式メンバーに入ってもらって、検討会議を1年間開いてまいりました。その結果として、ほぼでき上がってきた内容がここに出ております。
 「TDM東京構想」というものです。左側に6個書いてありますが、総括的な構えとしては、TDM検討のまとめをして、施策の事業化と総合的政策を検討していこう。平成11年度に「TDM東京構想」を策定しよう、そのための骨子を今年度じゅうにつくろうというところまで具体化をいたしました。

 (OHP3)
 その具体化に向けて、ちょうどこの時期、都内でTDMの地区を限定してのモデル事業が進んでおります。先週終わったものもありますが、主なものをちょっと御紹介しておきますと、マイカーの通勤対策としてパーク&ライドをやろうということで、西武線の練馬駅北口、ここは池袋線の練馬駅と地下鉄の駅が一緒になっています。ここの近くに民間の駐車場を30台分借り上げまして、モデルを30人選んで、ここでまず車をとめてもらう。強制的に駐車場に入ってもらって、車を置いた後、地下鉄有楽町線、西武池袋線、都営の12号線、バスと、この4種類の公共交通に乗りかえて、都心の会社まで行ってもらうという実験を先週までやりました。まだ結果は出ておりませんけれども、東京都のTDM、パーク&ライドの第一号実験でございます。
 
 (OHP4)
 もう1つは、大田区のJRと東急の蒲田の駅と京急の蒲田駅の間に小型のシャトルバスを運転して、バスでつないでもらうというバス通勤のモデル、これを来週の24日から29日まで、6日間行う。この2つのマイカー通勤のTDM作戦を現在進行させております。
 もう1つは、業務目的の車をタイムシフト、デイシフト、流入調整しよう。中央区で一定の企業にお願いをして、時間をずらして車を使ってほしい。偶数日、奇数日を分けて、幾日には末尾のナンバー1から4まで以外は動かないでほしいという日を決めて、企業の¥協力のもとに、車の流入、流動を制限しようという実験を11月1日から30日まで、今やっている最中であります。これもまだ結果は出ておりません。
 物流対策としては、路上の荷さばき対策ということで、港区六本木にポケットローディングを3カ所ばかり用意しました。ポケットローディングというのは、空き地を特定して、そこに宅配便に入ってもらいまして、そこで全部おろしてほしい。個別のビルごとに路上駐車をして宅配便の配達をする業務を中止して、そこで全部おろして、そこから先は手押し車でビルまで持っていってほしい、こういう実験を11月の4日から20日まで、まさに今やっている真っ最中であります。
 この1、2、3の3つを「東京TDM構想」のモデルとして実施をしております。
 もう1つは、立川駅の前で、商店街に入る買い物循環バスを運行して、立川の駅前まで買い物の車が入らないように、先ほどの高崎、前橋のケースと似たようなことですが、買い物のため、あるいはレジャーのための車のパーク&バスライドの実験を、10月の17日から11月の14日まで、つまり先週までですが、行いました。合わせて5つの対策を東京都はまさにきょうあたりを中心に実験を進めております。この分析が終わるのはちょっと先になりますが、ここで東京都民がどこまで協力してくれるのか。あるいはどういう問題があるのか。これは早稲田大学の浅田先生の研究室や日大の研究室と一緒になってやっているんですけれども、結果を皆さんぜひ注目をしていただきたいと思います。

 (OHP5)
 これは蒲田の駅のシャトルバスの運行のイメージですけれども、目蒲線と池上線で来た人は、JR蒲田駅でおりて、そこから先は必ずシャトルバスで動いてくれ、タクシーなどを使わないでくれ、京急蒲田駅との間を特別にバスを仕立てて走らせることによって人の流れを統一していこう。先ほどご説明したもののイメージ図でございます。



ETC(自動料金収受システム)の実力と汎用化

 東京都のこの試みがどうなるか、もちろん注目をしていきたいと思いますけれども、このTDMという概念の中には、幾つかの新しい仕掛けもこれから入ってまいります。TDMは車の使い方という、ソフトなマネジメントだけでは出来ない部分が出てくるわけで、これをどういうふうに機械の力を借りて考えていくかということです。そこで出てくる一つの概念は、ITS、インテリジェント・トランスポート・システムという概念です。つまり、高度道路情報化時代にどのような頭脳を道路に埋め込んでいくか。こういうことでTDMと並んで、狭い道路、渋滞する道路の活用を合理的にしていこう、こういう考え方であります。
 ITSというのは3つございまして、一番簡単なのは、ナビゲーションシステムを中心としたVICSシステム。つまり、走りながら情報を取り寄せて、すいている道路を選んでいく。一番近い道路に入っていく。事故渋滞を察知する。あるいは交通渋滞をきちっと避けていくというVICS系の情報集中と、もう1つは、AHSといわれる車の運転を自動化することによって事故防止をしたり、あるいは自然渋滞といわれる道路の形態から結果的に出てくる渋滞を機械的に解消する。つまり、自動ブレーキ、自動操縦、あるいは自動アクセルのたぐいですね。車を自動的に運転することによって、車幅が狭くても車間距離をあけなくても安全に運転できるというAHSのシステムが2つ目。
 そして、ITSを構成する3つ目の要素は、ETC。ETCというのは、エレクトリック・トール・システム、つまり、料金自動収受システムといわれるものです。首都高速道路の料金所を自動化して、いちいち止まって現金決済をしたり、回数券を渡す面倒をなくそうじゃないか、こういうシステムであります。
 きょうの緊急経済対策の中で8兆円の公共投資が計上されましたが、その中の目玉になっているのがこのETCでありますが、実はETCというのは単なる自動支払いシステムとしての道具などという程度のものではなくて、もっとずっと賢い道具であります。

 (OHP6)
 例えば、首都高速にこのETCを導入したら何ができるかとなりますと、ここに書いてありますように、支払いそのものが、前払いでも後払いでもいんですけれども、自動化すると同時に、大事なのは、この後の問題でありまして、対距離料金です。首都高速は今一律700円であります。神奈川線が600円、埼玉線が500円、これはどれだけ乗っても定額制で、極端にいえば、全ランプを通過しても、1ランプでも700円。これはまことに不合理な料金体系であります。やむを得ずとっている体制でありまして、これは首都高速の料金所がオンランプとオフランプ、両方つくるだけの場所的な余裕がないために、乗るときに取って、出るときは全部フリーゲートになっている。それは出口に人を置いたり、あるいはゲートを構える場所がないためにそうなっております。これをもしETCという自動の機械でやったとすれば、ほとんど場所をとらずに、入ったところで電子的にチェックをして、出たところで読み取り機が動きますから、この人は首都高速の3ランプだけ通過した、その場合なら300円でいい。しかし、7ランプ以上経過したら700円もらうというふうな対距離料金制度がこのETCという装置で可能になります。
 それから、ピークロードプライシング、つまり、込み合う時間は首都高は高いよ、すいている日曜日とか、昼間の時間は安いよという時間設定も、この電子読み取り装置に組み込んでおけば、きめ細かな料金体系をとれるわけです。ワンランプごとに午後の2時台は80円。午後の3時台は60円。しかし、午後の4時台から100円に上がって、午後の6時台は150円になるという料金設定をやっていけば、全部電子的に読み取って処理しますから、非常に合理的なピークロードプライシングができる。
 それから、乗り継ぎ料金として一定時間内に2回乗る人、3回乗る人はそれだけ割り引きすることも電子的に可能でありますし、往復料金の割り引きもできますし、多頻度利用とか、あるいはマイレージ制、つまり、毎日毎日使っている距離を積み上げていった人にはトータルとして割り引きをするなどさまざまな新しい料金体系が全部これでできるわけです。
 イタリアのアウトストラーデ社というのが世界で一番進んだETCを使っている。100万台が加入しております。今日ここに持ってきましたが、これです。テレパスという装置で、こんな小さいものです。これをフロントガラスにつけておけばいいわけです。ここに発信装置がありまして、これとゲート側の電子信号のやりとりで、今いったようなことが時速100キロの通過の中で全部処理できる。ノンストップで相当きめの細かい料金収受が可能になってくる。こういう夢のような話が現実であります。
 イタリアのテレパスというシステムは、92年から実施していますから、6年間でやっと100万台という程度の普及でありますけれども、これは割り引き制度がない。イタリアは人手不足のためにこれを使っているわけですが、日本は人手不足のためじゃなくて、渋滞解消、料金の合理化、あるいはTDMという別の目的で、割り引き制度も加えてやるわけですから、この機械さえ安くできれば、普及率は物すごく早いですね。
 イタリアの場合にはこれはただです。5000円の保証金を払ってこれを借り受けまして、月に200円の使用料の上に道路料金そのものを上乗せし、消費税も払います。日本は現段階では1万円ぐらい、この車載器にかかるといわれています。この1万円を5000円まで安くする、3000円まで安くしたらどのくらいになるか。これで今大競争しているわけです。2、3のメーカーが最近コマーシャルまでやっていますね。「ETCって何だ」「あ、そういえば昔高速道路で渋滞があったね」というコマーシャルは、実はこれのことをいっているわけです。
 私は、今回の景気対策で8兆円出たんだから、これを一気に全部国で買って、7000万台同時に全部一緒につけてしまう。高速道路は首都高も阪高も本四架橋も日本じゅうのJHの有料道路も、これがなければ走れない状態にしてしまって、全ゲート、人を全部ゼロにして、自動収受でやってしまえば、物すごい渋滞解消効果と、料金の多様なシステムの導入は一気に可能になる。景気浮揚も可能じゃないか。
 これを今しきりに建設省、道路公団に薦めているのです。どうも、きょう出た緊急経済対策の公共投資8兆円の中からかなりの額が、このETCの早期導入に向けて支出されそうな雰囲気になってきました。ことによると、私が今申し上げている話が実現するかもしれない。平成11年度から12年度の2カ年で一斉に国が買って全部レンタルでつけてもらうということになると、日本の有料道路は革命的に賢くなりますね。
 スマートウエーという発想がありますが、スマートウエーというのは格好がいいというんじゃなくて、利口な、つまり、電子頭脳を備えた道路をつくることによって、狭い国土で高いお金を払って渋滞にあえぐ日本の高速道路状況を一変させるという意味でのスマートウエーですが、こんな小さな機械で、格好いいですね、サッと行けるというのは。ある種の流行っぽくいくんじゃないか。若者は5000円でも買うんじゃないか。便利ですから。僕は1万円でも買いますね。これはどのくらい使えるかわかりませんし、決済方法とか何とか複雑な手数はあるけれども、おもしろそうだなと思います。
 ごちゃごちゃ申し上げましたが、1つはTDMという概念をどこまで都市が取り入れるか。もう1つは、その具体例として、このETCのように道路を賢く使う頭脳的な要素をどこまで取り入れるか。この2つの問題を合わせて車社会に対する1つの反省、路線変更というものが見えてくる。そのときに我々は車を上手に使いながら、町なかに、歩く生活、あるいはバスの生活、もうちょっと譲っても自転車で買い物をする生活みたいなものがよみがえってくるはずです。そのときに私どもは都市の中に住むということをもう一回取り戻せるかもしれない。
 私ども郊外へ郊外へと土地の安いところにマイホームを求めて出ていってしまいました。新幹線通勤しかり、ダブルハビテーションしかり、都市を働く場所としながら、生活する場をもう1つ求めたという形が、長い間の空洞化のもう1つの原因になっているとすれば、都市の中に一緒に住んで、その中で生活もある、仕事もある、あるいはさまざまな文化活動や余暇の過ごし方も出てくるというような、ホテルとホームの機能を一緒にした都市を取り戻す。そのことが中心市街地にいろいろな、古いお店をもう一回必要とし、そして必ずしも安くないかもしれないけれども、いい専門店、あるいは人情あるお店、あるいは会話のある売買みたいなものがちゃんと戻ってくれば、中心市街地をそんなに大仰な計画で考えなくても、結構これで活性化してくる。その原点が巣鴨にあったなと思うわけで、お話は1点目はそこまでであります。
 さっきの東京都のTDMに対して、都民がどう思っているかという、非常におもしろいデータですが、最後に御紹介しておきましょう。

 (OHP7)
 これは総合的な交通需要の調整について、東京都が都民に対してアンケート調査をしたものでありますが、生活行動を制限されるとしても、総合的な交通需要の抑制、つまりTDM政策を受け入れることについて賛成か、反対かと聞いているんですが、生活行動を制限されるとしても賛成であるという答えが56.3%というのは、非常に注目していい数字だと思います。半分以上の人が、もはや東京都内で車についての制限は甘んじて受けよう、その分で得られる別のメリットの方が大事だという概念をお持ちだというところを注目しておきたいと思います。
 特に、年代別では、男性の50台で60%、61歳以上だと64.5%という非常に高い支持率を得ていることについては、20代では50%を割っていることと比べると、世代感覚の違いかもしれませんけれども、多くの社会的地位のある方々が、東京における車のあり方について相当違った考え方を持っていらっしゃる。私にいわせれば進んだ考え方を持っていらっしゃるということを注目しておきたいと思います。



循環型社会と限界設定

 最後に、まとめになるかどうかわかりませんけれども、「限界設定」という概念をタイトルでうたい上げておりますので、少し持論を話させていただきます。
 車の急激な増加にしても、経済の成長にしても、都市の拡大にしても、あらゆる活動について、私どもは右肩上がりを続けてきたわけでありますが、これからは無限大の成長は無理だというのは既に概念として成立しました。ローマクラブの調査における「成長の限界」という概念が、持続可能な発展という概念に結びついた世界共通の考え方であることはご存じのとおりであります。
 成長の限界という意識をもう少しかみ砕き、みずからの限界を自分の力で設定をしておかないと、今まで申し上げてきたことも含めて、実現はなかなか難しいのではないか。その意味で、先ほど御紹介した56%の方々が、みずから制約を受けても仕方がないから我慢しようという考え方を持っていらっしゃるということを1つのバックグラウンドにして、私は3つの限界の設定というものを御提言申し上げておきたい。
 1つは、「成長の限界」の基本になっております資源とエネルギーには限界があるという概念の確認であります。これは改めて申し上げる必要のない既定の概念でありますから、これはおきます。
 2つ目は、消費の限界を設定するという考え方であります。そちらにお配りした資料の中で3つ続けて書いておりますけれども、消費の限界というのは、私ども、生産者である立場で労働時間を過ごし、消費者の立場に返って、家庭生活を営み、また昼間生産者であるという立場の方が多いでしょう。それは何次産業に携わっているということではなくて、個人と社会人としての役割のインタラクティブな関係というのはそういうものだと思います。
 そこで消費者に回った側の時間帯で考えたときに、消費を無限大に設定しておくことは、最早許されないという概念をもう一回確認をしなければいけない。ごみの問題しかり、車の利用の問題しかり、電力消費の問題しかりでありまして、私ども、あるから使っていいとか、便利だから、これを最大の武器にして、それによって最大のメリットを得ていこうという考え方は、そろそろどこかで我慢をしなければいけない。消費者としての我慢設定ということにもなるんだろうと思います。
 ここまでは別に耳新しい話ではございませんが、3番目の限界設定として生産の限界設定が要るのではないかということであります。市場経済を原則にしている現在、私どもが企業に対して、生産を限界設定しろということはいえない話であります。企業も、環境のために、エネルギーのために、あるいは資源保護のために生産に限界を置くことは、みずからの生命を断つようなことでありますから、多分それは「はい」とはいいにくいことだろうと思います。
 しかし幾つかの側面で、提供する側、つまり生産する側が生産量を限界設定することの概念がないと、これからの本当の循環型社会というのが立ちいかなくなるのではないかという気がしております。
 先ほどのTDMの概念における車の利用というのは消費の限界でありますが、しかし、TDMで車利用を控えろという、消費の限界が設定されたときに成り立つ生産の限界設定というのは、道路供給量の限界を設定してしまうことですね。これは公的生産量でありますから、企業活動とは直接関係はいたしませんけれども、道路を拡幅する、道路を延長することについて、少し限界を設定してもいいんじゃないか。国民が受け入れる素地があるとすれば、もうこれ以上道路は広げません。よって、今ある道路の中でやりくりをしてください。そのためにTDMという概念を導入します。あるいはETCのようなスマートな使い方でやりくりをしてください。こういうことも、広い意味でいいますと、道路供給における生産の限界設定をするということになるのではないかと思うんです。
 それは余りに漠としたお話ですから、もう少し具体的なお話をしまょう。1つは水の問題ですが、現在日本は3年に1度、あるいは10年に1度くらいの頻度で都市の渇水が起きております。文化的生活を営む上で、断水の都市などというのは極めて後進的な都市経営だ、こういうことになっておりまして、どんなに雨が降らなくても、その冬雪が少なくても、翌年の夏、水の供給が断たれないようにということを前提にダム建築が進んでおりますけれども、特異な気象状況の中で、一滴たりとも必要量を下回らないだけの水の供給をすることが本当に必要なのか、正しいのかということも、そろそろ考えていいんじゃないか。つまり、節水型社会とか、ある夏はどうしても供給量が足りないから、1日2時間の給水制限は合意のもとで受けてください。そのことが国家的な財政にいかに寄与するか。あるいは水の開発と自然破壊の関係をいかに合理的に解決するかということを納得してもらえるならば、私は、上水道の供給に無限大の供給を持ち込むことはそろそろ終わってもいんじゃないかと考えております。
 これも都市を経営していく上での新しい供給、生産の限界設定として成立してしかるべきではないかと思っております。
 もう1つは、最後になりますが、電力供給のケースであります。これも生産の限界設定ということを応用していきますと、今日本で一番電気を使う日は8月十何日の夏の甲子園大会の決勝の日、その夏の最高温度を記録する日の決勝戦が始まる午後1時から3時半までの2時間半のピーク電力をすべて賄うように、日本の9電力会社は電力供給量を設定しております。これは資源エネルギー庁を中心とした電力供給事業の命題であります。そのことが先進工業国のあかしであるかのごとくエネルギー設定されておりますけれども、本当にそれでいいのかどうかということであります。
 それはむだの限りでありまして、夏のこのピーク時に設定された電力供給は、同じ夏の同じ日でも、夜中にはがくんと落ちます。ましてや、春秋の電力消費量の少ない季節、冷暖房の必要のない時期には、恐らく3分の2ぐらいまで需要が下がるといわれております。平均的にいっても、日本の電力供給は、一番多いところと一番少ないところで半分、1対2ぐらいの関係まで落差が大きいわけであります。しかし、多い方の基準にそろえた電力施設の完備のために、幾つかの原発を無理をしてつくり、ダムをつくりということの社会的投資は膨大なものでありますし、そのことによって将来こうむるかもしれない原子力事故の危機というのははかり知れない。
 そうなってくると、そのピーク時設定をそろそろやめて、夏の暑い日で甲子園を見たければ、テレビは見てくれ、しかしクーラーを我慢しろということもあるでしょう。クーラーも我慢できないというならば、その日のその2時間半だけは、外にある自動販売機の電源を切りましょうといっても、ピーク時供給量というのはかなり落ちるわけであります。自動販売機は全国に200万台といわれます。その電力消費量は、私は具体的に数字はわかりませんが、相当のカットになるのではないか。
 そうなると、「あなたはオフィスの中でクーラーを効かす。自動販売機は要らないかもしれないけれども、外で働いている労働者や長距離トラックの運転手さん、どうするの」といわれそうです。それらの人々も含めて社会全体が、なるべく安い投資で、いい社会、いい経済を維持していくための譲り合い、我慢のし合い、それが限界設定の基本であるとするならば、そこは国民的説得であろうか、こう思うわけです。
 そういうものを恐れて、何でも最大要求に最大限こたえようとしてきたのが、右肩上がりの経済でありますし、それを実現させてきたのが右肩上がりの経済ですけれども、その基本が崩れてしまった以上、それに応じて何かを変化させなければ、社会はギャップを生じるのは当然であります。そこのところで、何を突き合わせていくのか。そのために私は供給の限界設定という問題について、あるいは生産の限界設定という問題について、一歩踏み込んだ考え方をしておかないと、21世紀の循環型社会というのは成立しないんじゃないかと思うわけであります。
 都市問題から交通問題、最後は環境問題で、論点が不明確だとおしかりを受けそうであります。まとまらなかったのは私の責任でございますけれども、どこかから1本でも2本でも問題解決の糸を引いていただければと思います。
 時間になりましたので、あとは御質問をいただくということで終わらせていただきます。どうもありがとうございました。(拍手)



フリーディスカッション

司会(谷口)
 
どうもありがとうございました。
 それでは御質問、御意見の時間に入りたいと思います。御質問のおありの方は、挙手をお願いいたします。

阿津澤(埼玉総合研究機構)
 
埼玉総合研究機構の阿津澤と申します。
 最初に先生は、中心市街地空洞化の主因ということで、モータリゼーションとの決別ということをとりあげられましたので、そのつもりずっと聞いていましたところ、TDMとかETCという話が出ました。しかし、こうしたことは、ただ単にモータリゼーションとの決別というよりも、単に渋滞を解消して車の流れをよくするだけじゃないかと思いまして、これが中心市街地活性化にどうつながるのかという面がよくわからないのですが。

横島氏
 中心市街地の活性化がきょうの私のテーマではなくて、「TDMと車社会の決別」という方がテーマでありました。中心市街地の活性化は入り口としてお話したもので、大きなテーマとしては「循環型都市へ向けた限界設定とTDM」というお話を申し上げたわけであります。入り口として、都市問題に御造詣の深い皆さんなので、中心市街地の問題に触れましたけれども、私のテーマはそちらではありませんから、そういうふうにご理解頂きたいと思います。

阿津澤
 
モータリゼーションとの決別というお話の後に、TDMとかETCという話が出て、こうしたことは決別という流れにはつながらなくて、ただ単に車の台数は変わらないけれども、流れはよくなるだけじゃないかというふうに私はとらえたわけです。
 それと、モータリゼーションとの決別が中心市街地空洞化を解決する最大の要因じゃないかという話の流れがよくわからないんですが・・。

横島氏
 
TDMの概念というのは、人間と車の関係を少し基本的に見直してみたいということであります。人間と車の関係を今のままで置いておくと、いろいろなひずみが出るので、人間が車を勝手気ままに使っていいという時代を少し反省してみたい。そのための概念としてTDMというものがあって、もう1つは、そのTDMの概念の中で、車を使う上での知恵としてスマートウエーという概念があって、それがITSという技術的な開発によって支えられている。そのITSの中で一番おもしろそうな問題はETCなので、それは具体的に申し上げたわけです。
 TDMという概念は、車と人間の関係を基本的に考えていく上で非常に大事なテーマである。人間と車の関係を考えていく上で、前段で申し上げた都市と車の関係というのは、車に対して人間が好き放題使って、車のモビリティーを最大限活用する都市化というものが、結果的に都市を郊外に進展させて、その結果として中心市街地の空洞化が起きたとすれば、それは都市計画上の考え方として、中心市街地を活性化する逆論をとってくるならば、車との決別が大事ではないか。つまり、車と人間の関係を、都市の再開発という問題に絡めて考えたときには、中心市街地活性化というのは、車と少し縁を切ることによって実現するのではないかというのが1つの私の主張であります。
 もう1つは、車と人間の関係をもう少し文明的に考えることによって、都市問題に限らず、我々の生活全体の中でどういう概念を持ち込まなきゃいけないかということについてのTDMの概念というのがもう1つ成立するのではないか。
 後段のTDMと人間の関係を考えるということと、中心市街地の活性化とは直接に結びつかなくても、私は何ら矛盾した論旨にはなってないと思います。
 

松本(経済企画庁)
 
エネルギー関係を担当している者ですが、先ほどの東京都の構想の件、あるいは日本の中で、TDMの関係でこういうことが考えられているか、教えていただければと思います。
 たしか、ベルリンとかで環状の列車、山手線みたいなものをつくるという計画があって、進んでいます。たしか2000年ぐらいだと思います。ある一定の範囲内、日本でいうと山手線内は、車と公共交通機関の比率を、公共交通機関が7としたら車を3、逆にそれ以外の区域は4と6、あるいは5と5とか、逆の7と3というような全体の、ここでいうところの交通需要の目標を設定して、それに近づけるための交通対策、人に優しいまちづくりというか、それが最終的に、おっしゃるような限界設定とか、循環型都市につながっていくんじゃないかと思います。そういう目標をもってやっていると思います。
 私が金沢市とか、いろんなところで聞いている例では、あくまでも渋滞対策からスタートしているとか、どちらかというと、道路側の理屈ですし、それに警察が乗ってきている。循環型都市というイメージを持っておられなくて、先ほどの御質問の方も、率直な、行政に対する投げかけじゃないかと私は理解していますが、そういうような全体の目標というか、公共交通機関と車との比率をどれだけにするとか、そういう議論は本来されているのかどうか。そういう事例とか、検討内容をご存じならお聞かせ願えないでしょうか。
 

横島氏
 
最初の方の御質問と兼ね合いのところでもう少し申し上げておきますと、私のいいたいことは後半なんです。前段の町なかの活性の問題は、最初にお答えしたように、あれもいいたいこれもいいたい話の中の一部だということで受けとめておいていただきたい。
 車と人間の関係をもっと文明的に考えなきゃいけないというのは、今の2人目の方のお説のとおりでありまして、単に技術的にどういじって、それによって具体的な渋滞を解消させるとか、あるいは車の運行を、目下のところの都市の中でスムーズにするとか、項目別の行政課題というのは、私はそれほど意味がないと思うんです。
 それは恐らく必要に応じて変化していくでしょうから、政策的に突っ込んでもなかなか利用できないと思う。ですから、東京都のこのTDM検討会議でも、何対幾つにするという比率の問題よりは、例えば、TDMという概念を東京都に取り込むことについての合意形成の手法は何なのかということについて非常に腐心はしているわけです。
 だから、今東京都の通勤人口が全体で100ある中で、車の通勤人口はそれほどないんです。20とか25ぐらいだと思います。それを10以下にして、それを全部公共交通に振りかえるという目標値は持ってないです。それは結果として出てくるものを受け入れざるを得ないと思うんです。それは東京都としてもないでしょうし、今日本の中で具体的にTDMを政策に取り入れるところはそれほどありませんので、数値として持っているところはないと思います。
 札幌も、ある程度、実験的な程度しかやっておりませんし、金沢もそうです。金沢のパーク&ライドは比較的やっていますけれども、それではどれだけ都市内交通を緩和したかという具体的な数字には多分出てこない。鎌倉がやっている休日のお客さんの車を外でとめてバスで入れる、これなどは、ほとんど観光対策としてやっているTDMでありまして、交通政策的に評価するなら、私はさほど大きなものではないと思っております。
 その意味では、ドイツのフライブルグのようなところが、公共の電車券をただで発行して、無料で乗ってもいいから、外側に車をとめろというふうな政策的なところまでいけば、かなりおもしろいと思いますが、それにしても、ごく限られた都市の問題で、ヨーロッパといえども、それほどTDMを具体的に導入しているところはまだありませんので、私はそれ以上のことは知りませんけれども、そんな意味では、どういう量をどれだけ誘導してどうやっていくかというところまで、世界のレベルはまだ追いついていないんだろうと思います。
 だから申し上げるんですが、TDMというのがまだまだ実験室、研究室の議論であって、社会の現場に引っ張り出して、さあ、どうなるんだ、ひとり立ちしてみろというところまで育っていないんじゃないかと思うんです。
 TDMを引っ張っていらっしゃる東大の太田先生とか、越先生とか、慶応の川嶋先生とか、それぞれ皆さん持論はお持ちなんですが、まだ早いんじゃないかというんです。東京都の現場に引っ張り出した話も、太田先生を座長に無理に引っ張り出してやっていただいているんですけれども、太田先生自体、「まだ、ちょっと東京都では完熟していないな」といって、しり込みなさっているのが実態なんです。
 その最大の原因は、さっきちょっと出ましたけれども、取り締まりの問題がある。警視庁が全部反対なんです。そこにも書いておきました。じゃ、TDMをかけて都内に乗り入れる車を、例えば偶数日は偶数車だとか、7時から9時まではトラックは入れるなとかいうことをもしやったとしますと、相当の強制的な規制が必要になってまいりますから、警察官を毎朝何百人も動員するとか、場合によっては、ゲートを設けて、違反車を無理やりにパトカーで追いかけるとか、そういうことまでしないと、きちっとした統制がとれない。
 そういうふうな統制をとるような方法でやっても本来意味がないことですから、「よし、わかった、それじゃ、おれは協力する」ということを大型のトラックの運転手さんから、タクシーの運転手さんから、通勤の車までが一言ですっと素直に従ってもらえるような、社会的なレベルというんでしょうか、合意の取りつけ方と、実施のレベルというものがある程度そろってこないと、うまくいかないんじゃないか。その辺から先生方が慎重論を取っているんだろうと思います。
 どのみち、TDMについての東京都の検討会の実験地域でやった程度では、まだ恐らく答えは出ないでしょう。私は自分で提唱している裏でこういうことをいうのは申しわけないけれども、今回のTDMは、会議を持って検討して、モデル実験地域をやったところでとりあえず終わるのかな。もう一回何かの時期を見て、社会全体の完熟した時期に本当のTDMが社会化するのかな。それにはまだ2〜3年先の話になるんじゃないかという残念な予感はしております。

安武(横浜市役所)
 
先生のお話の一番最後のところで、循環型社会と限界設定ということで、地球環境の問題とか、国民なり私たちの意識としても、そういう環境に優しい社会をつくっていかなきゃいけないし、ある程度我慢するところは我慢しなければいけない社会なのだというのは、概念といいますか、気持ちとしてはわかっている人も多いと思うんです。ただ、その中で問題になってくるのは、最後に限界設定ということで、ここが限界なんですよ、こういう限界を設定しましょうよというような、我慢に対する説得という言葉を先生はおっしゃいましたが、その辺が一番難しいところじゃないかと思うんです。
 これについて、限界設定の考え方、どういうところから、その人たちを説得できるような限界設定のやり方をしていくべきかということを、先生何かお考えがありましたら、教えていただきたいんですが。

横島氏
 
多分それが決め手なんですね。その方法論が見つかれば、あすからでもやらなきゃいけない課題ではあると思うんですが、おっしゃるとおり、これは非常に難しいです。日本の公共事業における合意形成の手法というのは、従来型でいえば、時間をかけてくたびれるか、お金をかけて妥協するかという形で合意形成をとってきた。そういう日本の、いわば行政から国民に向けての対応というのは常にそうだったわけです。それに対して、今アカウンタビリティーを中心を情報を共有して、きちっと説明した上で、住民側の意見も聞いて合意を形成していく。この方法を今ようやくとりつつあるところで、今その方法の最もいいところをすくい上げて、具体的な政策決定ができるか、こういわれると、残念ながらそれは恐らく無理でしょうね。
 だから、私はまず、道のりは遠いと思いますが、情報公開という概念について、少し変えてみてはどうか。情報公開というのは、行政の方の御質問だから、そういうお答えになるんですが、こちら側にある情報が公開されていなかった。そのことによって、住民は不信感を持った。あるいは十分政策を理解しなかった。だから、こっちにある情報を向こうに公開することによって説得しろ、こういう説得の材料が情報公開的手法といわれておりますが、それでは少し足りないんじゃないか。もう1つ進めて、情報の共有という概念が持てないか。つまり、同じ量の情報、同じ質の情報を行政と住民側が同時に持つことによって、情報は1つのテーブルに載るわけです。そのことによって理解度も多分同じはずなんですけれども、残念ながら、同じ情報を持っても、理解度は行政側が若干上で、住民側が追いつかない、こういう差が出るだろうと思います。
 その差を埋めるのがアカウンタビリティーですね。つまり、十分に理解していないけれども、情報はそっちにある。その情報を正しく十分理解してくれという補足説明がアカウンタビリティーだと思うんです。同じ情報を持って、同じ理解度まで達したというのが第2レベルです。しかし、そこでもまだすんなりと合意形成ができないとしたら、今度は向こうからこっちに対して、コメントが要ると思うんです。それがパブリックコメンツというものだと思うんです。
 つまり、情報を共有した。こちら側はアカウンタビリティーの責任を果たした。そこから今度は住民の側からコメンツが出てきた。これでようやくいわば平衡感覚なんですね。つまり、パブリックコメンツというのが3番目にありまして、情報公開、アカウンタビリティー、パブリックコメンツと、この3つが全部仕上がったところで初めて、日本のこれからの新しい政策に対する合意形成の基盤が整ったということになるでしょう。そこまで行くのにどのくらいかかるのかということが大変大事ですね。多分まだ何年もかかるんだろうと思います。そして、ようやく行政側の意向が伝わり、情報も同じだけのものが持たれ、住民のいうこともよくわかった、行政のいうこともよくわかった、よってこの政策は合意できるから、やろう、やらない、こういう話になる。
 そういう時期に、もしTDMという概念を住民側に提案して、住民側が、「よし、わかった、やろう」というならば、何のことはない。あしたからでもできるかもしれない。そういう完熟した時代というか、完熟した社会をつくる方が、1つ1つの政策でぶつかっていくよりは早いのかな。しかし、もちろん、ケーススタディーとして、住民教育という、言葉は悪いですが、住民のレベルを上げていくためには、何か具体的な提案をして一緒に考えていかなきゃいけない。
 東京都がとった手法というのは、少し唐突かもしれないけれども、TDMという同じ料理を一緒に食ってみませんかといって、今テーブルにつけようとしているわけです。まだついていませんが。そこから先、都民がテーブルについてくるかどうか。横浜市民がついてくるかどうか。その辺に2〜3年かかるんじゃないかという感じが僕はありまして、それ以上の妙薬は今のところないんじゃないでしょうか。この道は非常に遠回りですね。しかし、遠回りなほど、仕上がったときの実施度というか、踏み切り度というのは高いような気が私はするんです。抽象論で申しわけありません。
 

堀江(新潟工科大学)
 
2点、確認したいんですが、例えば、3番目のTDMの中に、パーク&ライドという項目がございます。このパーク&ライドというのは、40年くらい前から何回も何回も反復されて、そのたびに消えては浮かび、消えては浮かびという循環を繰り返しています。キス&ライドも同様な傾向がありました。それをここに来て果たしてパーク&ライドといって、例えば、横浜のどこかの鉄道駅の近くにそういう敷地を市が設定して、横浜市に通勤するんじゃなくて、東京に行く人のためにそういうものをつくるということは、果たして横浜市がよしとするかどうかという問題等がありますね。
 パーク&ライドというのはいうはやすしで、行うのは非常に難しい。概念はわかりますけれども、方法論としては非常に難しいところが多い。ですから、そういうものが今後また繰り返し繰り返し行われるんでしょうけれども、それについて横島先生はどうお考えになられるのか。
 もう1つは、今、横浜市の方からも御質問がありましたが、例えば「上水道給水への限界設定」というのは、30年以上前、前の総理府の首都圏整備委員会、現在の国土庁においても真剣に検討されたことがありました。結局、それは無理だということで投げ出されていますし、また「電力供給への限界設定」というのも、原発が無限大でできるというならいいんですけれども、プルサーマルの問題とかいろいろあって、国民のコンセンサスが得られないという方から押してくれば、限界設定ができるんでしょうけれども、果たして東京電力がそれでいいですよというのかどうか。
 そういう意味においては、日本人は、非常に残念ながら、戦後気ままな教育を受けてきました。そういう教育の積み重なりが今日の日本の社会構造のひずみを引き起こしているんじゃないかということも考えられます。そういう今の日本社会全体の教育水準、わがままな教育を受けた人に対して、今のような説得を果たして成功させることが可能かどうか。これについてもう一度御意見をお伺いしたいと思います。

横島氏
 
私を困らせる御質問なんでしょうけれども(笑)、3つの御質問に対して、最初に共通のお答えをしておくとすれば、そのような現実を追認するという認識が強ければ強いほど、今私が提言していることはすべて不可能でしょうから、私は、無理を承知で社会を変えていくために、だれかが頑張らなきゃ何もできないと思うのです。今の御意見は余りに保守的な御意見だというふうに思います。
 横浜のパーク&ライドを東京都のためだからという、その地域性の問題は確かに現状においてはあると思いますけれども、そのための費用の持ち合いとか、そのことによって得られるメリットの共有というものを、だれかがやるならば、私は大いに価値のあることだと思いますので、パーク&ライドの概念が日本で古くからやりながらうまくいってなかったから、これからも無理だということならば、そういうお考えの方は努力なさらなければいいと思いますけれども、私は頑張ってやってみたいと思っておりまして、それは広域行政圏の中で、あるいは7都県市の中の広域行政の中で解決する方法はあると思うんですね。
 東京都のTDMの委員会でも、現に千葉と神奈川と埼玉から参考意見を聞くことになっております。どういう意見が出てくるかわかりませんけれども、現実においては、練馬のさっきの分も、モデルをやっていただいている方は埼玉県の方なんですね。確かにただ券が出ればやるけれども、自分でお金を払うとなればやらないよという経済要因がそこにつながってきますから、モデル実験はうまくいったけれども、現実はなかなか離れていってしまうということは、想像にかたくないわけです。
 そういう経済的というか、金銭的な動向で、もし左右できるものならば、それは経済的に措置をすればいいことではないかという気がいたしますし、広域行政圏が科目単位にできるならば、それも1つの時代的な方法としてはあるのではないかという感じはいたします。
 水の問題につきましては、相当に難しいことはよくわかっております。しかし、トータルとして、30年前と現在で、資源、環境に対する国民の認識というのは、私は相当変わっていると思います。だからといって、まだなかなか答えが出ていませんけれども、常にそういう方向に概念を変えていくことによって、つまり、それは外部不経済を無限大に仮定しながら、常に得られるものを得ていこうということと、それを内部化しながら頑張っていこうということとの兼ね合いみたいなものがあると思います。経済における不経済の内部化という問題は、いろんなところで具体的に進みつつあると思います。
 例えば、家電リサイクル法における、あるいは容器包装リサイクル法における企業責任という問題も、EPRという概念、エクステンディッド・プロデューサーズ・レスポンシビリティー。つまり、今まで企業は生産活動の限界の中で果たせばいい責任というものを、一歩エクステンドさせることによって、拡大責任をどこまで果たせるかというようなことについても相当考えなきゃいけない時代ですから、行政といえども、その辺について一歩踏み込むならば、少し説得をすることによって、行政もそういう意味の責任を果たす。つまり、それは説明責任です。これ以上の水を供給することは、この財政難の折に、これだけの限界効用を超えたところに物すごい費用がかかるんだということを数字をもってきちっと説明することによって、それじゃ我慢するという答えが、きょうあすの答えとしては来ないかもしれませんけれども、得られるような方向に国民の資源、エネルギー、環境に対する認識というのは徐々ながら変化をしている、そこに期待を持ちたいというのが、私の心情であります。
 東京電力の荒木社長と、この問題について私は話をしたことがあります。「東電としては、電力の夏場の供給については、目下のところ、9電力の間でも需給調整をしてはいるが、国民側からの合意が得られるならば、実はそういう概念を取り入れたい」と、明確に答えていらっしゃいました。そこには、今先生がおっしゃるような説得のための時間、あるいはその理由づけのための論理構築は要ると思います。公共事業から出る社会的役割とか、電事法による責任設定とか、あるいは料金体系の問題とか、いろいろあると思いますが、それはある垣根を越えることによって出てくる概念ではないかと思っております。
 もう1つは、今のままの発電能力でも、夜間のロスというものを蓄電するとか、あるいは超電導送電によるロスの救済というもので、相当量の電力はカバーできるはずですから、そういう革新的な技術の導入によっても、電力需要を、今のまま置きながら、発電所をふやさない知恵だってあると思います。
 それは今私が申し上げたことと矛盾するようですけれども、国民が停電は絶対に許さない、しかし、原発は絶対に許さない、こういう難問を出してきたときに、対応すべき考え方としては、革新的技術開発はきわめて重要だろうと思います。大型のバッテリーをどこまで開発できるかとか、あるいは送電によるロスをどこまで減らせるかということについては、すぐそこまで来ている技術開発ですから、そこにも期待する価値はあるんじゃないかと思います。

長塚(長塚法律事務所)
 
今のお話を伺っていると、車というものを現状の中で考えられているようですが、いわゆる乗り合いタクシーとか何とか、そういう共同利用を考えるとか、また、野菜とか肉ヲ運ぶ大型の車については、コンテナだから、設備を近代的な者にしてスピードアップすることで、余計なものは排除できるんじゃないか。特に大深度地下利用の議論がはやったときに、地下でA点からB点に圧力でごみとかいろいろなもの、簡単な郵便物なども公共地の下あたりを走らせる構想が大分あったんですが、それはかなり予算を食うとしても、公共用地、道路その他の下ではある程度実現できるんじゃないか。こういう大きな面からの検討も必要なのではないかと思うのですが。

横島氏
 
先ほど私が申し上げたTDMの主役は、あくまでも乗用車を1つのモデルにしてのお話ですから、そこに話は限定しておりましたが、人流ではなくて物流におけるTDMの問題は、それと同じくらい大きな課題だと思います。もちろん、私自身はそれについて考えを持っておりますけれども、現在の東京都のTDM検討委員会も主に、人流対策でどうするかということを考えていることは実態でございます。
 きょうは時間もなかったから、そこはお話ししませんでしたけれども、むしろ物流に問題があるということはそのとおりだと思います。
 腐らないジャガイモを飛行機で運んでくる必要があるのかという問題を1つの例にとりながら、日本の物流体系の見直しというものが当然行われなければいけない。特に鉄道貨物に対するモーダルシフトという問題は当然の問題として現実考えなきゃいけない。その他、トラック輸送、船の輸送、それぞれがどのように合理的に運営されるのか。乗りかえるとすれば何を何に載せかえることによって、エネルギー消費と物流のエネルギーロスを節約できるのか。そこのところは大いに考えなければならないと思います。
 ごみの地下輸送の問題も、実は東京都の現在の都市体系の中ではなかなか難しいんですけれども、銀座とか新宿の生ごみが、朝ごらんになるとおり、猛烈な量放置されておりまして、それを収集する前にカラスがとりに行くということで、都内のカラスが2万羽にもふえてしまったという、動物の生態系まで変えている問題もありますので、真空の管路輸送をするというのは、すぐにはできないと思いますけれども、当面繁華街の飲食店の残物については、地下のストックをしてはどうかという話は出ているんです。
 つまり、上に置くことによって美観、悪臭、カラスのえさと、3つ問題があるわです。
 地下にストッカー、穴を掘って、それを銀座だけは全部1カ所に集まるような管路をつけてはどうかとか、新宿の歌舞伎町周辺だけそうしてはどうかとかという構想がないことはないんです。それも物すごくお金がかかるものですから、まず最初はいかに出さないか。あるいは飽食の時代をどう検討するかという人間系の話になるんでしょうけれども、構想としては今いわれたようなことは大いに考えなきゃいけないと思いますし、新しい首都機能のあり方としては、もしできるとすれば、新首都は廃棄物は全部真空で下のバキューム路を通せというようなことは、真剣に考えている人がいらっしゃるんじゃないかと思います。

司会(谷口)
 
ありがとうございました。
 新しく、また難しく、興味深いテーマで、まだまだ皆さんから御質問・御意見がおありかと思いますが、残念ながら時間がちょうどまいりましたので、本日はこれで終わらせていただきます。
 最後に、横島先生に拍手をお願いいたします。(拍手)


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