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第133回都市経営フォーラム

経済復興と都市計画

講師:伊藤 滋 氏
  慶應義塾大学大学院政策メディア研究科・教授


日付:1999年1月27日(水)
場所:後楽国際ビルディング・大ホール

 

都市型公共投資の内容

都市型社会の姿・弱者救済の都市計画

制度型都市計画と事業型都市計画

都市計画の非柔軟性

民間の投資活動を都市計画は活性化できるか

都市計画は本当に必要か

 フリーディスカッション




 きょうは、非常にチャレンジャブルといいますか、「経済復興と都市計画」という、こんなことを書かなければ良かったと思うようなことをテーマにしてしまいました。例えば「震災復興と都市計画」とか「戦災復興と都市計画」というと、大変なじみがあるわけです。一言で言えば区画整理、再開発をどういうふうにすればいいかというようなことで、震災復興の区画整理の結果として、東京の下町が今の姿ですし、山手線沿いの駅前のある程度の道路と広場は、戦災復興の区画整理でできた。
 しかし、経済復興というのはこれとはちがいます。問題は経済復興という話を都市計画の方でも持ち出さざる得ないほど、どうも日本の経済の調子が悪いということではないかと思います。



都市型公共投資の内容

 経済復興に都市計画がどんな貢献ができるかということですが、これがもう1つはっきりしておりません。ただ、世の中の新聞などで、公共投資のやり方が、自民党・政府は農村型であって、それでは民間の資金を誘発する力が弱い。都市型の投資をすれば、民間資金がもう少し活性化して、世の中に出てくるのではないか、こういう指摘が常日ごろあります。
 それでは都市型公共投資の内容とは何かということになります。この内容は多岐にわたりますが、ジャーナリズムが最近一番言っているのは、都市の中の道路を徹底的につくれということだと思います。東京や大阪では、都市計画街路、幅員が大体24〜25メートル以上のものをつくることにより、その両側にマンションあるいはオフィスビルが建って、民間投資が誘発されるというのですが、これだけで果たして済むかということなのです。
 実は、公共投資を別の見方をしなければいけなくなったわけです。つまり、20年ぐらい前ですと、経済は右肩上がりで、人口もふえて、先に行けばすべて量的に拡大する。このまま放っておけば、交通量がふえて交差点で渋滞が起きてと、技術的に非常に説明しやすい話があった。だから、都市計画街路をある程度事業化することが緊急の課題だったわけです。交通渋滞は日本の経済に何も生み出さないということだった。10年間たって都市計画街路が、仮に1キロ、ある地点からある地点にできると、それで車の流れが非常によくなって、周りにオフィスビルも建ってという状況が当然考えられた。繰り返し言いますけれども、これは日本経済が量的に拡大する、人口がふえる、都市集中が起きるということだからです。10年間たって仕事が完成しても、まだその状況が続いているということです。
 ところが、最近では10年後の日本経済・社会、人口というのは、常に右肩上がりじゃないわけです。これから10年かかって道路ができ上がったときに、都市の姿が一体どうなっているかということがわからない。人口が減っていますから、自動車のふえ方もそんなにふえないかもしれない。あるいは鉄道も、一生懸命つくっているけれども、完成したときは、高校生がほとんど乗らないかもしれない、こういうようなことがあるわけです。要するに、都市型の公共投資、大部分は都市計画事業ですが、その中にひしひしと時間の要素が押し寄せてきているということだと思うんです。
 もう1つ例を挙げますと、最近の話ですが、私は、大学に行くのに、久我山から下北沢乗りかえで小田急を使って、相模大野から江ノ島線で湘南台というところまで行っています。その小田急は、ご存じのとおり、下りの方は朝割合順調に来ますが、上りはノロノロ運転です。小田急の急行は朝は絶対普通を追い越さない。全部べったりとくっついて動いている。ですから、小田急の沿線は、非常に品のいい人がお住まいだし、住宅地としての格も高いけれども、あの沿線に家を買った途端に亭主はつぶされてしまうかも知れません。何となれば、すさまじい通勤のノロノロ運転の中に巻き込まれて、亭主は出世しないかもしれないのです。京王線の方がまだいい。
 小田急の複々線の話は、着々じゃなくて、ゆっくりゆっくり進んでいます。今、多摩川のところから成城学園までは複々線になりました。成城学園から下北沢のちょっと手前までは工事中ですが、問題は下北沢から代々木上原までの複々線がいつになるかわからない。この事業はもうかれこれ30年かかっているんじゃないかと思います。
 運輸政策審議会が小田急の複々線化を決めたというと、建設省が連続立交で、公共事業として複々線化することをオーソライズするわけですが、その完成はまだ10年ぐらいかかってしまうのではないかと私は思うんです。
 そうすると、小田急の複々線化が、着手してから四半世紀以上かかって、ようやっと実現したときに、小田急沿線では若者がいなくなって、リタイアのおじいさんとおばあさんだけが住んでいるということは、それほどひどい邪推ではなさそうなのです。その時、この複々線化は一体何のためにやったのか。こういう根本論が起き上がってくるわけです。
 道路もそうだと思います。例えば、マッカーサー道路といわれる環状2号線。ようやく東京都がつくることに決めたんですが、今となって環状2号線をつくることが、東京の都心部の自動車交通量の軽減にどれくらい役立つかというと、私はそんなに効かないんじゃないかと思う。環状2号線以外の都市計画街路をつくったり、高速道路をつくったり、あるいは地下鉄を一生懸命つくったり、いろいろなやりくりをしながら、都心部の通勤の交通量を何とか破局に持ち込まないような努力が、この30年の間に払われてきているのです。
 もし環状2号線が東京オリンピックの後ぐらいに一気呵成につくられたとすれば、多分それによって東京都心のオフィスの形態、あるいはオフィス全体の規模、環状2号線がフルに、非常に効率よく使われるということで、例えば、246沿いの首都高速道路の渋滞がなくなるとか、プラスの面が出てきたかもしれませんが。また、皮肉なことを言えば、環状2号線ができなかったことが、東京一極集中を加速するのを食いとめていたということが言えるかもしれません。
 都市計画は時間の要素、時間による都市の変化に対応しなきゃいけないのに、そういうことについて全く弾性力がない。非弾性的なのです。
 現在いわれている都市型公共投資をどんどんやれという意見を聞くと、東京や大阪に公共事業をどんどん入れればすぐに道路がよくなって、首都高速道路の中央環状線がパッとできて、港湾のコンテナ埠頭もちゃんと機能するようになってとか、4〜5年の間に公共投資が生きて動くのではないかと、普通の人は考えてしまうんですが、実はそうじゃないということです。
 むしろ、公共事業で、道路なり公園なり、あるいは建物、流通団地などを2年間なら2年間の間に完成するというのは、東京や大阪へお金を投入するよりも、地方都市、例えば福岡とか広島、あるいは県庁所在都市、こういうところにお金を投入する方がずっとスピードが速くて、非常に質のいいものが安くできる。また、それによって地方都市の経済的な体質が変わっていくという効果の方が大きいのではないか、ということがあるのです。
 ですから、現在いわれている都市型公共投資の意味することは一体何かというと、それによって都会の中で民間の建設活動が刺激を受けて、華やかに展開されるということではなくて、露骨に言えば、戦後の失業対策道路を思い出すのです。東京や大阪の道路は建設省がつくっているのではなくて、労働省がつくっていたという時代があった。昭和22〜23年から多分30年ぐらいまででしょう。失業者が非常に多いために、失業者救済のために道路づくりをやっていたのです。堂々とした都市交通計画などにもとづくものではないのですね。それを何となく今、思い起こすわけです。
 道路に対する投資が何のために役に立つかということを、時間の要素を入れて考えますと、失業対策、あるいは企業の倒産を公共事業によって防ぐためということであり、その点では、東京、大阪も、広島、福岡も、青森、山形も、長岡、場合によっては鶴岡も、事情は同じようなものだろうと思うのです。

 これまで、いろんな失敗を繰り返しながらも、都市計画がうまく動けば、世の中はよくなって、自動車でドライブするのも楽しくなって、通勤も楽になる、こういうことがいわれて来ました。だから、こういう都市計画にしようと、いろんな提案がされてきたわけですが、果たしてその通りにたったかというと、それはとんでもない夢だったのかもしれません。
 何回もここで申し上げますが、その1つの一番象徴的な例は、これは都市計画よりも住宅行政かもしれませんが、建物の共同化です。戸建ての小さいお店を2つまとめて2個1にすれば、同じ金でもうちょっといいお店ができるとか、あるいは小さい戸建て住宅を町の真ん中につくるよりも、2軒、3軒共同化してマンション化すれば、不燃化して、なおかつ1戸の規模も大きくなる、そういう話がずっと続いてきていたわけですけれども、実際には、御年配の方は御存じのように、共同化という話は、この40年ぐらい同じことをずっとやっていて、ちっともうまくいかない。お役人と都市計画コンサルタント、学者も一緒になって、世の中に一種の幻想を振りまいてきていたのかなという気もするのです。
 一方で逆に、意外と、思わぬことをやってみれば、これは難しいと思うことでもできるかもしれないというマーケットも、この都市型公共投資の中にはあるかなという気も実は私はするんです。そういう分野について、都市計画についてこれまでどれぐらい目を向けていたかというと、必ずしもきちっとした目の向け方をしてしない。
 この前に申し上げた話ですが、今度の国土計画の中では、御存じのように、美しいということについて徹底して論陣を張っっています。これは無理筋もあるのですが、少なくとも今度の国土計画は1年前につくったばかりですから、まだこの5〜6年は、この美しい国土をつくろうということに、それなりの確証を、運輸省も厚生省も建設省も協力してくれてるのではないかと思います。
 それにも関連する話として言いたいのですが、長年言われていながら、なかなかできないことで、しかし、都市計画がそれに目を向けていくと良いこととして、僕はよく電柱の地中化ということを挙げます。これは東京電力が中心ですが、NTTも電柱を使っている限りでは同じです。
 電柱の地中化というのは都市計画に即効性がある。やり出したらすぐできるということです。なぜならば、既に与えられた公共空間の中で仕事をできるからです。それから、その仕事に対して住民側から反対がない。電柱を地中化することによって、あのうっとうしい歩道が随分見通しがよくなったとか、これで街路樹が伸び伸びと伸びるようになったとか、住民側の支持があるのです。
 まだある。3番目が、都市計画として今まで考えなかった電柱の地中化は、雇用に結びつくということです。ジャーナリズムは、コンピューター技術者が足りないとか、環境について水、空気を測定する専門家が足りないとか、いろいろ言いますが、そういった環境問題や情報産業にかかわる専門家は極めて先端的な専門家ですから、40、50の男どもがすぐにこれになることを期待することは実は無理なわけです。
 ここで初めて、20世紀後半の中高年の失業対策という問題を矢面から取り上げなきゃいけないという話が出てくるわけです。中高年の失業対策、それはちょうど都市計画街路が、あるいは区画整理の砂利道が戦後、失業対策でつくられたと同じように、今まさに経済復興の観点から、失業問題を正面に据えて、それを解くことに公共事業が貢献する、そういうことが必要になってきているわけです。 
 電柱の地中化というのは、いってみると、中級と下級の技術を使えば大体できるわけです。下級の技術というのは道路を掘り返すだけということです。これも御存じのように、土木事業とか建築事業は、素朴に言うと、技術革新で新しい材料を入れたから儲かるんじゃなくて、根本的には土量を動かすので儲かるんです。土を動かす量が多ければ、コンクリートの量を多くすれば儲かる。非常に単純です。
 そういう点では、電柱の地中化というのは、穴を掘るわけですから、中高年においても非常に単純だし、儲かる。それから、測量もそうです。また、地中化するのが電力ケーブルであれば、コンピューターの前に町の電気屋の仕事もあります。これは一種の中級の仕事ですが。
 こういう話をどこがイニシアチブをとって出してくるか。経済の調子が悪い、失業者が増加する、そのために公共事業を投入しなきゃいけないといったときに、今言ったように、失業をある程度のところで食いとめながら、ローカルな経済を活性化させる。そのためには仕事に即効性が必要だ。そういう形で都市計画を見る、あるいは公共事業を見るというのはほとんどやられていないんじゃないかと思います。

 非常に抽象化した経済復興の議論というのは数多くあります。例えば首都高速道路の中央環状線に膨大な金を投入するというような。しかし、そんなことをしても、それが品川まで貫通するのに一体何年かかるかというと、絶望的な時間がかかるのです。多分20年ぐらいかかるんじゃないかと思います。何度も言いますが、20年かかって、中央環状線が赤羽から品川まででき上がったといっても、その時の東京の姿は、中央環状線が本当に必要かねという状況かもしれないのです。
 地中化の話に戻しますと、これは今いったように、仕事のスペースに複雑な権利関係がない、住民のサポートが得られる、なおかつ、その仕事について、稚内から沖縄まで、ローカルな形での経済振興の地域貢献ができる。こういう特色があるわけですが、そのイニシアチブを誰が取るかと言うことがあります。電力会社は損するだけですから、絶対やらない。建設省も、こんな細々した話を相手にはしない。都市局も、ましてや道路局なんて、こんな話は鼻にもかけない。プイとあしらわれるだけでしょう。道路局にとっては公共投資をドンと入れるビッグプロジェクトが仕事としてやりやすい。河川もそうです。
 そうすると、この仕事は、まさに市役所がやる。それを県庁が束ねて、全国知事会なら全国知事会、あまり役に立ちませんけれども、知事と市長が一緒になって、地方の経済復興ということでこういう都市計画事業をやるのが、今非常に時宜にかなっているということになるのではないか。
 こういうことこそがまさに地方分権の具体的な展開じゃないかと思うんです。もしかすると、電線の地中化こそ、経済復興に都市計画が貢献する重要な戦略だ、相当ヒステリックな見方かもしれないが、そんなことを考えることも出来るわけです。

 いずれにしろ、ずっと申し上げてきたように、時間の要素に対して、都市計画が一体どれぐらい今までいいかげんにしていたかということについて、21世紀は相当反省をしていく必要がある。
 時間の要素というのは、住民の反対があるかないかということにもかかわりますが、片っ方で都市像についての明確な専門家側の指針と立場がしっかりしていないと、住民から出てくるいろんな反対に対して説明する姿勢が維持できないということがあります。そういうところで、これまでの都市計画が持っていた幾つかの公理みたいなもの、よく言われる快適性、効率性などでは都市計画は守れない。それを都市計画の武器にして我々のマーケットを広げることはできないということです。



都市型社会の姿・弱者救済の計画都市

 これからは、都市に住むのが、どういう人にとって一番有益であり、そういう人が住むことによって、それ以外の人も、フリンジ・ベネフィットをどれぐらい手に入れることができるのか。そういう都市を都市計画がつくるという話をしなければならなくなるかと思います。
 20世紀初頭には、私たちが教科書で習ってきた幾つかの理想都市的な議論が展開されました。住居と工業地域を分離することで、都市の市民の健康を守ろうといったトニー・ガルニエの工業都市、農村地帯と住居地域と商業地域をうまく身近なところにくっつけようというので、ロシアとスペインで見られた帯状都市。それから、有名なコルビュジエの超高層居住で緑と太陽をというのがあります。田園都市もそうです。しかし、これらは全て形態論であって、そこでは、21世紀の機械文明を市民全体が先取りするということの空間的姿がこうだということを言っているわけです。
 実は、20世紀初頭でも、だれが一番そういう都市像を必要とするか、それによってだれが利益を受けるか、不利益を受けるかという問題があったはずです。しかし、20世紀の初めは圧倒的な機械技術の発展で、そういう問題を吹き飛ばしてしまうほど、耐久消費財が急速に広まって、貧乏人も、気がついたら先進諸国では中産階級になっていたわけです。
 しかし、20世紀の終わりの今、そういう認識は全く見当外れといえます。そういう認識ではなくて、地球の中で、例えば空気とか水は有限である、あるいは大地は永遠に安定したものではない。阪神・淡路はそれを証明しました。それから、家族制度が崩壊するのは当然のことである。その中で、都市の中の安定した人間関係を維持する居住形式はどうしたらいいか、それを欲しているのはだれか。こういう見方から、都市が要求する都市計画施設の内容を考えていかなくてはいけなくなってきているのではないかと思うのです。
 そういうことを十分考えずに、建設省は「都市型社会」という言葉を使ったのかもしれませんが、中心市街地活性化の問題で、商店街を持ち出すというのは本当に皮相的であり、とんでもない時代錯誤的なことになると思います。中心市街地に昔あった大店のお店が夢よ再びなどというのは、だれが考えてもばかばかしい話です。中心商店街の大店が復活して、昔の名士たちが繁華街の中で、それぞれ、「おれのうちは100年、200年の伝統があって、3代目だ、4代目だ」、こういう仲間ができ上がる、そういうことを市民全体が期待しているわけでは全くないわけです。
 中心市街地の活性化をもし考えるならば、大きい流れに竿を差して、できもしないことを2〜3年で調査をして、中心市街地活性化の処方せんを商店街振興にすりかえてやっていくのではなくて、これから中心市街地に住んでいる人の大きな入れかえが起きるだろう。その中に、21世紀に都市に住んでいて、このままではいろいろな不利益をこうむる人たちがいる。中心市街地活性化という公共事業の投入、行政の姿勢によって、その不利益をできるだけ軽くして、都市の中で生きていくことができるようにする、こういう見方で中心市街地の活性化を考える必要があるのではないか。
 それは言うまでもなく、お年寄り、あるいはひとり者です。要するに世の中で一番バランスのとれている核家族、夫婦と子供2人、そういう核家族の1人1人の幸福のシグマが最大になると考えますと、それがどんどんふえていく時代ではなくってしまった。ひとり者も家族数に入れれば、全家族数に占める核家族の比率はどんどん減っていくわけです。
 その中で、今いったような準家族、単身者、あるいは老夫婦、身障者、こういう人たちが、地域社会に大きな社会的負担をかけないで暮らすことによって、自分自身の精神的安定もかち取る。こういう場面として中心市街地が使えないか。こういう見方をすれば、おのずから中心市街地の話題は長期的スパンの問題になってくるのです。
 そうなれば、ある程度は都市計画がそれにかかわることができるだろう。なぜならば、再開発や区画整理、あるいは工場跡地の跡地利用をすることによって、中心市街地が必要とする住宅供給とか、あるいはその他のいろいろな高齢者向けあるいは単身者向けのアメニティー施設、そういうものを都市計画が供給することが可能になってくるのではないか。
 この話題は、多分にイメージとしては、東京や大阪よりも、どちらかというと、地方の大都会、県庁所在地が私の頭の中で1つの理想形として描かれるわけです。
 片方でまた、こういう話が1つあると思います。
 今僕は、都市計画の古い殻を取って新しい目標設定をしろと言いましたけれども、都市計画は何のためにあるかというと、依然として都市の中の弱者に対して、公共側が関与して、弱者が徹底的に弱者にならないように食いとめる。そういうための施策であるわけです。これが都市計画の主流であり、これは変わらないのです。だから、中心市街地の活性化については、新しく21世紀に生まれる、20世紀とは異なる都市の弱者に対して、弱者を弱者と感じさせないような都市空間あるいは人間関係をつくるという点で都市計画が関与すべきだと思うのです。
 これは19世紀の終わりから20世紀にかけてのイギリスやフランスの都市計画や住宅建設で出てきた一種の啓蒙主義。よくいわれる、工場主の奥様が「労働者の子供さん方、かわいそうね。保育所でもつくりましょうね」なんていう話で、都市計画の教科書に出てきます。例えばイギリスのキャドベリというチョコレート会社のボールドウィンでしたか。それと空間形態はちょっと違いますけれども、考え方としては似たものを、21世紀に向けても都市計画は引きずっているわけです。
 しかし一方で、今のように、経済の調子がよくならないと、弱者救済の原資がなかなか手に入らないではないか。原資を稼ぐことについても都市計画はかかわるべきだという話が出てきた。つまり、都市計画の本来持ってきた筋道とは全く別の都市計画の使われ方が、特にこの10年間ぐらい起きてきているかなと思います。果たして、これが、イギリス、ドイツ、フランス、アメリカでも同じような議論が行われているかどうか、私は十分知りません。確かに、ニューヨークの再開発では、ゾーニングを通して、都市計画が経済の振興にある程度つながってくることがあります。ヨーロッパでは一般的に都市計画は弱者救済ですが。
 そういう面で、政府の経済復興の有力な道具として都市計画を見るのは、その本来持っている性能をねじ曲げるわけですから、できもしないことをさもできるように動いてくるわけです。本来、都市計画という行政手段のもつ性能というのは何か。それは規制の警察力です。規制、コントロール、これが都市計画の本来持っている姿です。一般市民の財産に対して、広く市民社会の安心と安全を確保するという点から、財産権の行使に対して制限を加えるのが本来の都市計画なのです。
 強力な規制権、レギュレーション、警察権、これをどれくらい解除すると、今までそれに圧殺されていた民間の商業活動、ビジネス・アクティビティーが強力になってくるかという議論をせざるを得ないのが今の時代なのです。
 しかし、本来、警察力を緩めれば緩めるほど、また、制度的基盤がしっかりしてない限り、ろくな町にはならないのです。それは発展途上国の大都市の現状を見れば十分おわかりでしょう。
 残念ながら、東京や大阪もそういう点ではヨーロッパ型、アメリカ型の都市ではなく、アジア型の都市ですから、都市計画の規制を緩めれば、早速そこで違反建築は建つ、道路は気がついたら6メートルじゃなくて4メートルになり、あるいは非常に質の悪い建て売りの住宅がどんどん建つということが、幾らでも起きてくるわけです。
 しかし、そういうことが起きるとしても、片方で規制をして、片方で規制を緩和する。自動車で言えばドライビング操作というか、アクセルとブレーキをうまく使い分けながら、東京の経済力、大阪の経済力をもう少し強力なものにする手はないかという議論になるわけですが、そのためには技術的に相当複雑な議論をしなければならないことになります。



制度型都市計画と事業型都市計画

 都市計画法制度を扱っている国の役人は、この問題にまさに今直面しつつあるわけです。1つの例を申し上げますと、銀座の三越を建て直そうとすると、銀座のあの辺の容積は800か900だけれども、三越の容積は、地下3階ぐらいまであって、地下3階から上が8階か9階までというと、100%使っていると、既に1000%を超えているわけで、これを建て替えると、「おまえのところは地域性でいうと、900しか建てられない」となる。壊して建物を建てて、2割ぐらい床が目減りすることになる。建築基準法の不適格の建物は、僕たちの頭の中では、どちらかというと、墨田区とか北区の、終戦直後に建てた木賃アパートみたいなのが不適格住宅だ、という頭があるんですが、意外や意外、心斎橋、あるいは銀座通りとか、そういうところに、現在の容積を前提にする限りは、建て替えたら違反建築になってしまうというのがいっぱい出てくる。
 そこから、都市計画の、どちらかというと亜流、つまり、本流の弱き者のための都市計画ではなくて、金儲けのための都市計画、これを国のためにやらざるを得ない。そういう観点から見る、都市計画のよって立つ目的は何かということになります。
 この銀座の場合を都庁の都市計画の担当者が考えると、違反にならないように、容積率を、「じゃ、あそこは900を200ぐらい上げることで、用途地域の色を塗りかえる、そうすれば違反にならない。」ということになる。200上げるためにはかくかくしかじかの理由が要るというので、建設省の都市局がその理由を都市計画法の制度の中に1つ文言を入れるわけです。「市街地において、かくかくしかじかの観点から再開発をする場合には、特に既存容積率に対して200%ぐらい上乗せの容積を与えることを認める」という制度ができる。多分、これは去年の初めぐらいにできました。大都会の中心市街地の中で町並みををそろえるために容積を上げなきゃいけないなんて、取ってつけたような、だれもその文章を読んで、これでいい町ができると思わない文言で書いてしまった。銀座では、資生堂もそれに従って建て替えるんでしょう。
 しかし、その根本へ戻ると、「そんなことまでして容積を決めなきゃいけないの」というタブーに近い話があるのです。しかし、今年はどうしても、東京都庁の役人も、千代田区役所の役人も、当然建設省の都市計画の役人も、このタブーに取り組まざるを得なくなるわけです。「何のための容積率なのか」という話です。
 例えば、自動車交通について一番考える必要のある場所は、東京の中でどこかといったとき、通常、教科書的に言えば、霞が関周辺に来るお役所もうでの乗用車に、社長や相談役や会長が乗っていて、彼らの頭の中に入っている陳情請願の迫力と情報は、ほかの人の100人分ぐらいあるから、その車が円滑に霞が関まで来るようにということで、ここを中心とする都心である。従ってそこでの道路と容積率の関係は極めて重要であるなどという話を、都市計画の交通関係の人はします。
 僕も、昭和の35、36年ごろ、それをやっていました。ところが、今の時代に交通と市街地環境との問題を真剣に議論しなければいけないのは、そういう問題ではないと思うのです。例えば、今から20年ぐらい前、都市計画のとても優秀な日笠先生という方と一緒に、杉並で調査をしました。子供の通園、通学路と交通量。交通事故、例えば配達の車と保育所に行く女の子が接触事故を起こしたとか、出会いがしらに自動車がぶつかってしまったとか、そういう意味で、一番交通の危険性を考えなければいけなかったのは、戦争前の畑を住宅地に細かく分割して、道路をサイの目のように2間道路を入れて、真ん中に時々3間道路を入れるとかやる。3間道路が6メートル、2間道路が4メートル。1つ1つのサイの目に切った街区の大きさが40×60とか、50×30とか、そういう大きさです。これは何も荻窪の北口とか南口だけの話でなく、東上線のときわ台とか大山の辺の住宅地もそうだった。
 そういうのがずっとと並んでいるところに、御用聞きのミニキャブが通っていったり、タクシーがおばあちゃんを乗せて来たりする。しょっちゅう、危ないところが連続するわけです。そこを昼間通っているのは、大体小学生か幼稚園の子供かおじいちゃんかおばあちゃん。そうすると、地域社会の交通量と、そこに住む人、市街地の関係を一番真剣に議論する必要があるのは、今では霞が関でもなく、銀座でもなく、新宿でもなく、きっとほどほどに道路の入った、中産階級の住宅地ではないか。そこでこそ、容積率と道路幅員の関係をきちっとしなければいけないという議論が出てくるかもしれません。
 容積率について厳しく議論する必要があるのは、意外と、都心ではなくて山手線の外側とか、あるいは川向こうで言えば江戸川区とか葛飾区、足立区などの話であって、都心においてそういうところと同じような議論の仕方で、ここは容積率が800%だから、それを1000%にするのはなかなか難しい等という議論が本当に意味があるのか、ということを真剣に検証すべき時代が今来つつあると思うんです。
 日本全体の人口が減り、社会は高齢化し、情報産業化する。情報産業化によって、ゆっくりとした動きの中年男の社会が町の中にでき上がって、その中年男がコンピューターをおたくになってこれをいじり、営業車で会社訪問しなくても、お互いにコンピューターおたくになって、これを通して仕事を成立させるとか、そういうことになってきますと、発生交通量というのはまた、全然違う視点から議論しなきゃいけない
 そうするとむしろ「容積率って、なくたっていいんじゃない?」中央区、千代田区、港区、台東区、新宿区、文京区あたりから「容積率なんて、そんなの、もう要らないんじゃない?」という話も出てくる。
 もう1つ、時間の要素もあります。昔こういう話がありました。容積率はどうやって決めるかというと、発生交通量というわからないような変数を仲介にしながら、建物の床と自動車交通とが、さも何か数理的関係があるように結びつけてきめるというのですが、実際はそうじゃない。昔からでき上がってきた建物が、おおよそ3階建てなのか、4階建てなのか。例えば、この地域は4階建てが80%でき上がった。残りの30%ぐらいが2階、3階だといったときに、4階建ての建物が建て替わるスピード、建て替えのときに何割ぐらいふえるかということを、職人的に土地利用の専門家が判断して、「それならここは容積400じゃなくて、今4階建ての建物が8割あるんだから、20年後ぐらいにはきっと5階建ての建物が3割ぐらいにふえるかもしれない。それならここは容積500にしておこう」。要するに、建物が替わるときに、2〜3割の余裕しろをつくっておけば、その中でとにかく四半世紀はここの地域制はある程度安定して、みんなが文句言わないで、のみ込んでくれるのではないか。そんなことでゾーニングが決まってきたのではないかと僕は思います。
 それを後で取ってつけたように、発生交通量の話をして、都市計画として、さも1つの筋道としてでき上がっているようにしている。また、これと似たようなことで基準法で言えば斜線、公開空地などの理屈もあるわけです。
 公開空地ぐらい、僕たちがインチキだと思っていることはないですね。東京都庁の人もそうだと思います。1階の公開空地と2階の公開空地、3階の公開空地、多分係数で換算するんでしょう。だけど、そんなのは考えてみれば全くナンセンスで、デザイナーがよくてビルのオーナーがよかったら、3階の公開空地がすごく豊かで、そこに出た途端に、福岡のアクロスのように、気がついたら1階に出たとか、そうすると、3階の公開空地の方が1階の公開空地よりみんなに親しまれ、よく使われるなんてことがあるわけです。このように20世紀後半の都市計画のテクノクラートがつくってきたこと自体に、経済復興の足を引っ張るようなことがいろいろありそうなのです。 

 そうはいっても、都市計画の元締めは建設省と東京都庁とか大阪府庁、そういうところだから、そこのOBも含めた伝統的な都市計画技術官僚は、そんなに簡単に今のシステムを変えるわけはないという、守旧派的な流れが1つ考えられます。
 しかし、地方分権で、かなり前向きの知事さんや市長さんが出てきました。三重県の知事とか、宮城県の知事とか、高知県の知事とか、相当前向きな知事が出てきました。そういう知事さん、あるいはおもしろい市長が、その知恵袋の先生にあることを言われたときに、それを一丁やってみるかということを考えないとも限らない。
 どういうことかというと、都市計画法がなくたって、地方自治法に基づく条例だけで土地利用はコントロールできるということです。市町村の首長さんは、必ず都市計画区域を決めて都市計画法を運用しなければならないというオブリゲーションはないんです。だから、場合によっては杉並区にできる杉並区都市計画審議会がある日突然「杉並区の土地利用、地域制は全部やめた。土地利用は地方自治法に基づく杉並区条例で決める」となったら、それは憲法違反と言えないんです。
 建築基準法だって、このごろの時代、画一的なスタンダードじゃなくていいと言い始めたでしょう。単体規定については性能で決める。住宅だって、僕のような昔の連中は、2階の木造住宅だったら、3寸7分か3寸8分、仕上がり3寸5分ぐらいの通し柱でつくらなきゃいけないという頭があるけれども、そんなことは毛頭必要ない。性能さえよくて新しい金物がきちっと発達すれば、通し柱1つも要らない。蔵柱とはり、けたでいいじゃないかということが起こる。こういうのは一種の性能規定でやれるわけです。
 都市計画も性能でやればいいじゃないか。何も画一的な都市計画法を守らなくてもいい。特に、都市計画法を使わないために、生命に対して著しい危険性が生じるということはないわけです。財産を失う著しい危険性が生じるということはない。だから、「いいよ。そんなしち面倒くさいことを都市計画が言うなら、我が市は都市計画法を使わず、条例でやる」となる。そういう芽は既に起きてきているのです。
 いろいろ批判がありましたけれども、神奈川県の真鶴はそういうことをやりました。やったけれども、都市計画法を使うようになりました。それから、掛川の市長も相当おもしろい市長で、「伊藤さん、都市計画法要らないんじゃないか」なんていうことを言いながら、都市計画法を使っています。しかし、条例でできないことはない。
 そうなってきますと、今まではこの法律はエクスクルーシブに、この法律がなければまちづくりはできないと言っていたんですが、もしかすると、エクスクルーシブでなくて、法律相互の中で、まちづくりについて、この法律がだめならこっちの法律を使えばうまくいくとか、そういう代替性が起き始めてくるということが考えられます。
 特にその代替性を必要とするのは、住環境を守るという領域よりも、経済について極めて強い刺激を必要とする大都会の中心部、こういうところが今のような話題を受けとめていかなきゃならなくなってくるだろうと思います。



都市計画の非柔軟性

 この辺のところに入ってきますと、都市計画が硬直的でなくて、先ほどいったように、アクセルとブレーキをうまく使い分ける必要があるということです。
 都市計画が基本的認識で一番誤っているのは、ある市街地の容積が350%であるが、10年前には300%だった。だから、4半世紀たったら、500%の容積を与えなきゃいけないというふうに、常に市街地の建物の量も拡大し、人もふえるという前提で、それが満度に全部埋まる、容積率を全部使い切るという前提で都市の地域性の色塗りをしているのではないか、ということです。そうだとすれば、これはとんでもない間違いです。容積は必ず途中で余ってしまうということが、これからは幾らでも起きるわけです。そうなれば、朝令暮改で構わないからより柔軟に変えていく、それぐらいの見方で、これまでの都市計画を点検してみる必要が出てくるのではないかと思います。
 その極致は、私は最近言っているんですけれども、埋立地域は全部都市計画を外してしまっていいんじゃないか。東京でいえば新木場から豊洲、晴海、東雲、東京臨海、港区辺の埋立地から大田区羽田へかけて、場合によっては浦安の方の埋立地まで。臨港地区とか工業専用地域とか、全部取っ払っちゃっていいんじゃないか。それぞれの地域が属する船橋市や浦安市、江戸川区、江東区が、好きなようにその使い方を決めるということでいいのではないか、そういう感じを持っているのです。
 こうした、白地の地域をうまく使う事業者が出てくれば、当たり前に今までの役所型の使い方をするより、もしかすると、マンションの売り値にしても、3分の1ぐらい安くなったという住宅街ができるかもしれません。
 それから、「経済復興と都市計画」という領域で直視しなきゃいけないこういう事実がもう1つあります。アメリカの友達が時々僕のところに来ます。今までは、どちらかというと、麻布の国際文化会館とか、学校のファカルティークラブで、向こうの都市計画についての本をもらって、それをもとにして、アメリカの都市計画はどうなの、日本の都市計画はどうなのなんてことを議論していた。
 ところが、ある日、東京のある区の5メートル角の1000分の1の模型をつくった。大学の建築等の学生を動員して、写真を撮らせてコンピューターで画像処理をして、それをスチレンペーパーで箱に張りつけるという形です。その横に1000分の1のニューヨーク・マンハッタンのちょうど真ん中、セントラルパークの南側でイーストリバー沿いの比較的アッパーミドルの連中が住んでいる住居地域の模型を並べてみた。そしたら、外国から来た都市計画の連中が「こんなに東京というのは農村か」と言うんです。いつも「東京の町はおれは好きだ。赤坂の飲み屋街の路地の横町へ行くと、赤提灯があって、切り石、料亭の入り口に塩をまいて水を打ってあるとか、はち植えがあってとか、自転車だってうまくおさめて、2階建てでいいな」とほめまくっていた男が、突然、マクロに俯瞰型で東京の既成市街地の状況を見たら「こんなにもひどい、農村集落の固まりか、東京は」。それぐらい低い。ベタベタなんです。コケが張りついている。それも乾いちゃって、いいかげんくたびれて色が黒くなっているコケです。
 これで本当にいいのかなという素朴な疑問は私も確かに持ちました。もちろん、その状況も、例えば中野区とか杉並区とか目黒区、そういうところであれば、随分違うんです。ああいう地域社会へ行けば、ベタベタの2階であったとしても、必ずそこに隙間があります。例えば農地が介在したり、大きい屋敷があって、木が植わっていたり、水路が流れていたり、あるいは大企業の運動場があったり、要するに、緑地空間が介在すれば、2階建てのベタベタの、どこかの農村集落がびっしりつながったという感じではないのです。
 ところが、都心の市街地は、何のプラスの応援も与えられないぐらい、ただただ質の悪い木造2階建てが並んでいる。あるいは質の悪い軽量鉄骨3階建てのペンシルビルが並んでいる。そこには、仮に局所的にはエトランゼを楽しませるようなアメニティーが幾らあったとしても、それをもって低層、低密の状況を全面的に擁護するというふうにはならない。もちろん、マンハッタンがいいというわけではありません。しかし、今の状況をそのまま肯定して、そこから何か経済復興の知恵を出せといっても、なかなか出てこない。
 その点で、 私は既存市街地の再開発について、今までの都市再開発を全く新しいものに組みかえていく必要があると思っています。公共が金を出し渋って、民間に容積のコントロールだけしておいて、キーテナントを入れて、店子が来たからそれでそろばん勘定は合うだろうという権利変換方式の、ああいうスタイルだけで都市再開発が出来ますというのは、とんでもない間違いではないかと言うことです。
 そうではなくて、それなりのしっかりした公共的な資金投入をして、質のいい、都心でもウォークアップタイプの4階建て、5階建ての建物、小ぶりのマンションが並んで、その間に、大きい工場跡地とかお屋敷跡地に超々高層のマンションがドンと建つ。そういう姿をもう少し積極的に考えてみてもいいのではないか。
 ついでに言うと、超々高層について、今あるディベロッパーが一生懸命プロパガンダを打ってますが、あれは勝手にやらしておけばいいのです。あれがインフルエンザのように広がることは絶対ない。半分趣味でやっているんですから。半分趣味というのは言い過ぎですが、再開発でなるべく大きな敷地を取得して、経済の景気が悪い、いいとに関わらず、15年とか20年かけてつくろうとしているわけです。
 それだけのことをやれるディベロッパーが東京に何十社もあるかというと、ありゃしないわけです。A社、B社、C社と消去していけば大手ディベロッパーでやれるのは、先ほどのオーナーディベロッパーぐらいしかない。だから、容積をべらぼうに与えて、超々高層のマンションをつくらせても、それが前例になって、あっちこっちでボンボンふえてくるのではないかと考える必要はないのです。区、都、国は、これが前例になって引き金になっては困るという。だけど、そのために最後に東京が滅亡するとか、そのために夫婦げんかがべらぼうに多くなって、離婚率が急上昇するとか、そういうとんでもないことが起きるかというと、起きやしない。
 超々高層ビルをつくって、それががらがらでも、それは自分のやったことで自分で責任をとればいい。そのためにお金を後で投入するなんてことをやっちゃいけない。
 銀行についてはそれをやったわけですね。銀行というのは信頼できるジェントルマンがいっぱいいて、知的にも、金銭的にも、性格的にも、すべて満点の人が銀行マンだと思ったら、全くそうじゃないということはこの10年で証明されました。
 ですから、役人が考えているほど、みんなレベルがそろった人間じゃないんですから、うまくいく場合もあればうまくいかない場合もある。前例という意味では、もしかすると、ああいうことをやればくたびれるだけでやめようという前例になるかもしれないですね。
 そういうことをやる企業は限定的であり、一般市民は全然別なことを考えているとか、世の中の実際の社会の動きの状況認識の中で、容積を含めて、ディベロッパーに対するいろいろなコントロールをやるべきなのです。



民間の投資活動を都市計画は活性化できるか

 片っ方でもう1つ、都市計画のなかで、特に経済的な問題は再開発に求められることが多い。なぜ再開発かというと、再開発というのは非常に簡単で、例えば10億円の道路を投入したからといって、沿道に30億円分の建物が建つかというと、建つ保証はない。再開発というのは、再開発に20億円の公共事業費、税金を入れれば60億から80億ぐらいの民間の金がくっついてこないと、再開発に絶対ならないんです。だから、投入する税金とそれが引き起こす民間のお金が絶対にくっついてくるということでいえば、再開発は民間の金を一番引きずり出すわけです。
 そう考えますと、再開発に対していろんな知恵、多様な知恵を、いろんな場所で発言できる専門家が沢山必要になってきます。「経済復興と都市計画」を結びつけての話は先ほどの電線の地中化から始まったわけですが、その電線の地中化の話、また、年寄りの要介護施設とお医者さんを町の中にぶち込むという話、さらに再開発の話、こういう現代的な意味での話題を一般の人に積極的に語りかけながら、まちづくりについての具体的像を提供できる、そういう人材を膨大にふやさなければいけない。そういう点では、私たち都市計画のソサイアティ、特に再開発のソサイアティは守旧派です。役人からコンサルタント、学校の教師、私も含めて、人材養成がなかなかできない。根本的には、人材養成しても使ってくれない、そういうことだと思います。
 この点では、商店街振興で調査費を1カ所の中心商店街に投入するより、駅前の商店街とか、バス停のある小さい交差点のところの商店街と銀行のある町とか、あるいは区の公民館の辺の住宅地の小さい手直しとか、そういうことに対して公が、仮に3割補助する。また、そういうことでいろんな調査をやる。そういうことを組み込んでいって、燎原の火のごとくではありませんけれども、特定の象徴的な大規模で派手なものではなくて、例えば、稚内のお医者さんのいなくなった後に、特別養護老人ホームができたとか、それから、沖縄の那覇市のバスターミナルの近くに、離婚したおじさん用のマンションができた、というのでもいいのではないか。
 そういうのに公共事業の3割を投入すればいい。最近、“スケルトン・インフィル”というのがあります。100年住宅をつくろうということで、番傘でいうと骨と傘の油紙とを別にして、その骨屋の商売をこれから住宅公団はやるべきだと私はいっているのです。柱、梁、屋根、もちろん基礎回り、それについては公共財でやり、100年持たせるようにする。中に作る引き出しはプライベートプロパティー。そういう考え方で今言ったようにきちっと割り切って、真ん中に私有財産の建物があって、外側を公共財にする。これは登記のときに一体どうするんだという問題もありますが、そういう考え方で再開発の建物をつくれば、当然公共的な資金投入は、100年リサイクルしながら、建物を壊してむだな廃材を出すとか、あるいはメンテナンスにべらぼうな金がかかるとか、あるいは水回りもなかなか手入れすることができなくて、赤水が出てしまうとか、そういう問題もない。全体のメンテナンスも非常に楽になって、格好よく言えば“持続ある発展”につながる。中に入る年寄りも永遠に死なないということはありませんが。(笑)
 こういう話題も入れてきますと、再開発のイメージは、ここまでは公共がやっても構わない、それに見合うだけの金が投入されて構わないんだという理屈はできそうな気が僕はするのです。

 一番重要なことは、ここで言う都市計画が考える経済復興というのは、何も特定の業者に儲けさせることでは絶対ない。都市計画というのはあくまで公的な手段、レギュレーションの手段です。その手段をぐっと緩和して、その立場から日本全体の経済をどうよくするかということを考えれば、基本的にはずばり中小企業対策です。失業対策。それに対する21世紀的な社会的な目的を都市計画が与えればいいわけです。
 そして、その種が一体どこにあるかを探し出すエキスパートが猛烈に足りないし、残念ながら、役所はそういうことに対してまだ及び腰です。こういうエキスパートを育てるのに、お墨つきで、例えば技術士とか、1級2級の何々施工士とか、区画整理士とか、コーディネーターとかいろいろありますが、あれはあまり意味がない。排他的でなく、ただ、名前を使っていいだけだからです。意味のある資格というのは医者と弁護士、この2つだけです。建築士だって、第3番目の自由業というけれども、建築士じゃなくても、建物を建てられます。1級建築士持っていない建築家は意外と多い。国から与えられた資格を持たないと、仕事ができないなんていうのも変な話。要するに、国が資格を与えるんじゃなくて、我々が資格をつくって、それを世の中に広めることの方がずっと気楽です。そのことについて、詐欺横領といって警察が口を出さない限りは、役人はちょっかいかけられない。
 だから、専門職業ということについても、国とか県とかに頼みます、財団法人つくって。社団法人自身も相当ナンセンスな話になってきたので、むしろ、大阪は大阪、東京は東京、札幌は札幌で、それぞれ専門家集団としてのソサエティー、協会をつくってお互いに競争すればいいのです。最近はこういう話は幾らだってあります。
 分割して競争させるというのは21世紀的課題です。道路施設協会が分割されてひどい目に遭ってますけれども、競争してなかったからです。今、道路施設協会は、2つに分割されて、さらにどこのスーパーや企業だろうと、どうぞ道路施設協会と同じようなサービスをしてくださいということになった。NTTの分割もそうです。それと同じように、協会というのも1つの協会が威張って排他的である必要は全くない。競争社会の中でそれぞれ民間が、「どうだ、おれのところはいい専門家抱えているぞ」と言って、本当にいいサービスを提供する。そういう切磋琢磨の関係が、再開発の中で出てくれば、都市計画が日本の経済に貢献する側面が理解できるのではないかと思います。



都市計画は本当に必要か

 私の観測ですが、今年から来年へかけて、都市計画法がもう一回相当変わるかもしれないという気がします。今、国の審議会を整理していますね。随分審議会がなくなりました。建築審議会、それから住宅宅地審議会、国土庁の土地政策審議会、道路審議会もなくなる。けさの新聞を見ると、建設省関係で残るのは、国土審議会と運輸政策審議会、都市計画中央審議会、企画立案に関わるのはこの3つぐらいです。
 都市計画中央審議会と都市計画法には、今までと全く違うことが要請されるのではないか。それは何かというと、国土の土地利用全体について強制力を伴ったレギュレーションを展開する。ここは農林省のテリトリーだとかいうことはもう関係なく、少なくとも全国津々浦々で、非農林業的な土地利用をしているところは、都市計画法の網を打ってしまう、そういうことがあってもおかしくないのです。
 そうすると、都市計画区域は一体どういう意味を持つかというと、全国全部が都市計画の対象になると、富士山の上の気象庁の観測ドームがありますが、あれだって、もしかすると、開発許可の対象にしなきゃいけないとなる。また、リゾート地域など、都市計画でびしびし、コントロールする。そういうことが出てくるのではないか。
 そうなってきますと、警察力、レギュレーションの内容についても、例えば地域制の12種類、あんなのはやめてしまえ。地域制なんていうのは、何種類でもいい。それは大阪府は大阪府で決めてください、堺市は堺市で決めてください、それで構わないじゃないか。それから、線引きだってなくてもいいじゃないか。
 イギリスのように、この人はという専門家が、例えば役所に都市計画主事の資格、それにはどんな試験が必要かわりませんが、それを持って、その人が「これはいい」と言ったら、その人が開発許可のスタンプを押す。それによって田んぼが学校用地になるとか、線引きは要らない、というようにする。それから容積率だって要らない。容積率というわけのわからないものを使いたければ使っていいけれども、使いたくなければ使わなくていい。建ぺい率なども要らない。住宅地で住環境を保証するのに容積率幾らで、建ぺい率幾らで、斜線が幾らでなんて、全く何の役にも立ちませんから、ここは3階建て、1階部分が3.2メートル、2階以上各階が2.8メートルとか、決めて、それで割り切ってしまう。
 要するに、都市計画をわかりやすくするということです。技術者集団の中でさもわかったような、大して根拠のない複雑な算術をやったりして、もっともらしいことを言うのは、およそ時代錯誤も極まれりです。都市計画を市民社会の中で広めていって、こういうのがないと、おれたちの生活はよくならない。うちのおやじもこういう都市計画に従った軽費老人ホームに入ったから本当によかったというような、そういう都市計画が重要なのです。そういうふうに都市計画を変えなきゃいけない。
 もうちょっと技術的にいうと、“整開保”なんて全部やめてしまおう。“都市マス”がいいかげんだから、都市マスをビシビシときたえ上げようということもあります。地方都市には市役所の連中にひどいのがいます。「都市マスの予算が500万円ついたから、入札だ。大手のA社とか何かが来た。どこにしようか。Bとかいう変なやつも来たが、A社の方が名前売れているからそこにやらせるか」というようなもので、住民参加もあったものじゃない。「建設省が言ったからつくりました」、そういうことをやっている地方自治体が幾らでもあるんです。とんでもない。そんな予算はつけてはいけない。“整開保”がなくなれば多分都市マスは変わる。
 これも相当大事な話になってきます。やることは相当いろいろありそうです。建築主事も必要だけれども、先の都市計画主事という資格を持った人が日本国じゅうに1500人ぐらいいたとしましょう。それは市役所の職員でなくていい。市長と契約した3年の嘱託でもいい。3年間ある市の再開発について何とかさんという都市計画主事が入って活発に議論すれば、それは県庁の役人よりもいい再開発案を、住民の反対を物ともせずやって、つくり上げるわけです。嘱託で契約しているから、何も住民におもねる必要はない。あるいは議員におもねる必要はない。市長の支持さえとればそういうことがやれる。3年で契約が終わった、「ご苦労さんでした」と言えば、また別のところに行って仕事をすればいい。
 こういうようなことは、意外と必要かもしれません。この3年間ぐらいに都市計画は何をやったかというと、地方分権をやりました。市町村は前向きにいろんなことをやってくれるという前提のもとに地方分権をやりました。しかし、実体は、特に東京都の区役所は全く何もやらないのです。
 いつか、ここで言ったと思いますが、私は墨田区の都市計画審議会の会長をやっていますが、墨田区の都市計画ぐらい何もやらないのはない。この20年ぐらいの間に墨田区の都市計画部が、例の16メートル以下は自分でつくれるんですが、つくった道路は1本もないです。墨田区というのは地震で一番危ないところで、避難路が必要です。必要な避難路の何本かあったうちのこの道路だけ必要だというのを、最後に我々都市計画の専門家が選んだ。それで墨田区の都市計画部長に「これをやれよ」と言ったら、「ええ、まあ、だけど、いろいろ問題がありまして」。大体、役人というのは、何が何だかわからないことを「いろいろ問題がありまして」。(笑)
 この間、墨田区の都計審でたまりかねて、何と共産党の議員が「墨田区、道路1本も抱えないで何やっているんだ」と言っていました。共産党というのは道路をつくるのが反対なのに、その共産党の区議が「道路1本もつくれないで、何やっているんだ。」と言うんです。だから、地方分権で市町村が格好よくやるかと思ってたので、ちょっと裏切られた感じがしています。
 だけど、一応付託していますから、県庁は市町村の後ろで文句言うなということまでくっつけてあるんです。日常的な都市計画は、これからの責任はすべて市区町村がしょわなきゃいけない。ぜひそこを監視してください。 

 今言いたいことは、この2〜3年では、このように、分権という方向に制度的に都市計画を変えてきましたが、21世紀の都市計画は一体何を目標にして、だれのためにやるのか、そういうところの理念が全然まだ組み立っていないのです。全部戦後のアメリカやイギリスやドイツの借り物なのです。これはよくない。だから、これから2〜3年の間に、都市計画は本当に必要なのかというところから始まって、必要ならば、だれにとって必要で、専門家というのは一体どういう姿勢で、どういう専門性を身につけていなければならないのか。そういう根本の議論を今年から来年、再来年にかけて、国もやりますし、都庁もやるでしょう、神戸市もやるでしょう、心ある市町村はやるでしょう。そういうのに積極的におつき合いいただいて、我々のマーケットが、古色蒼然として、カビて、老朽化して、集まった人の顔を見るだけでも嫌だとならないようにぜひしていただきたい。そのころは私はもう死んでおりますので、ぜひ皆様方頑張ってやってください。(笑・拍手)



フリーディスカッション

月見里(多元空間「えんがわ」)
 私は小さな空間を使う実験をやっております。
 柔らかく使えというお話、大変共感をもち、よかったと思います。今一番問題なのは、規制を外すとか、自由化というのは、権利に対して、1人1人が義務観とか、倫理観がないかあるかで議論が分かれるんじゃないか。私が今集まるたびに言っているのは、今こそ平成天皇から教育勅語を一回出してもらわなきゃだめだということです。もともと性善説的な日本に性悪説的なヨーロッパの規制をいろいろ入れてきて、この辺が今ごちゃごちゃになっているんじゃないか。
 それはそれとして、今こういう非常事態にやるときは、さっき例外処置、ある場所だけ規制を外してみたらという、全くそのとおりだと思うんですが、これももう1つ時限的なことにして、2年間に手を挙げたら、勝手にやれて、それはあと50年ぐらいは権利を守るとか、こんな運営をしないとだめなんじゃないか。だから、空間と時間をうまく織りまぜる必要があるのではないかと思うんですが。

伊藤
 私も同じことを3カ月ぐらい前にしゃべったんです。要するに、企業というのは、二番手で行くのと、一番手で戦うのと、両タイプがあります。日本の企業で一番ずる賢いのは松下ですね。必ず商売の利潤を獲得できる最後のチャンスに、松下は、一番手がやったと同じことを出す。その後にサンヨーとかがやると儲からない。うまいんですよ。 
 だけど、都市計画、都市開発は、今の御時世は第一に着手する連中に猛烈なボーナスを与えるべきなのです。それも2年なら2年、3年なら3年と時限を区切るべきだと思う。その間、誰も来なかったら、日本の企業経営者ってこんなものかとみんな覚悟すればいいんです。そこでチャレンジしようというやつには「よくぞ来た」というので、つくったものについては後々も、平成10年、20世紀後半の大恐慌のときに身を賭してつくった建物だから、この容積はずっとこのままでいいんだというぐらいのことにしなきゃいけない。
 今、違反って一体何だということで思い出すのは、皆様御存じの極めていいかげんな扱いをしている分野の話です。それは道路拡張にからむことで、建築基準法では前の道路を5メートルとられるときは、前の道路になるところも入れた敷地に対して、容積が300なら300建ててしまう。たしかそうですね。そして、道路部分をとられると違反になるんです。そういう建物がいっぱいある。これはほんとにばかげたことです。そうでなく、道路部分を5メートルなら5メートル、買いやすくするためには、基準法の方で300じゃなくて500にしておいてやればいいんです。そしたら、道路事業者はこの用地を安く買える。この議論は10年ぐらい前、高速道路の用地取得のときに、それに対して建築基準法が一体どういう建ぺいと容積の対応をするかというので、この話をくっつけようという議論をやったんですが、どうもくっつかなかった。ばかみたいなことが今でもあります。
 こんなばかみたいなことをやっているから、道路用地になる容積300のところは時価相場で道路公団は買わなきゃいけない。それを300の道路用地になるところは別にして、道路用地の外から自分の民地のところは500だとなれば、その土地の値段は上がります。片方はもう使えない、抜け殻ですから。それでもある値段で売れれば、儲かっただけ得だということになります。
 こういうばかなことを1つ1つ引っ張り出さなきゃいけない。 
 僕は、きょうは都市計画の話をしましたけれども、都市計画法は形式主義です。形を整える、そういうものです。都市を一番コントロールしているのは実は基準法なんです。基準法に対して、どれくらい住宅局が甘いか、底抜けか。世間が基準法についてどれくらいいいかげんな目で見ているか。これを徹底的に変えなきゃいけない。
 それなくして、都市計画法の将来のあるべき姿をやっても本当にナンセンスなのです。しかし、都市計画法は変えますから、住宅局も頑張って、基準法の集団規定なんて、都市計画に持ってきちゃえばいいんです。それぐらいのことをやらなきゃだめですね。そして、罰則を強化する。先ほどの教育勅語じゃございませんけれども、罰則を強化するというのが一番いいですね。
 そして、こういうことは警察よりも税務署をかかわらせた方がいいですね。敷地境界が明確でないところは、税金の取り立てについては、過重な税金をかけるとか。市民社会の中では税務署が一番怖いですよ。執行権を持っている警察力、そういうので脅しをかけながら、建築基準法を守らせる必要があるかなと思いました。

月見里
 もう1つよろしいですか。 この間の神戸の地震じゃないんですけれども、地下は割に安全だという問題。別の意味でいうと、日本は戦わないんだったら、あらゆる家に地下シェルターを設けるべきだと僕は昔から言っているんです。天災、地災、人災。これを全部を賄う地下シェルターというのをつくったらどうだろうと。何かあったらそこにもぐり込めば、とにかく大丈夫だという、潜航艇みたいなものをポンと埋めるだけ。マイホームに、地下シェルター基準地下室というものをコンペでもって公募して、埋める。また、防衛庁の予算を1%ぐらい持ってきまして、半分くれるとか。これも時限で3年間に手を挙げた人を対象にするというのはどうかと思うのです。
 もう1つは、大規模な地下、つまり大深度の問題。こういう問題について、都市計画の方はどうお考えなのでしょうか。

伊藤
 シェルターの話は今から四半世紀前、日本でもにぎやかでした。冷戦の話がホットでしたから、そういう情報はスイスがどうだとか、ストックホルムはとかいっぱいありまして、日本でも地下シェルターを勉強したことがありました。また、それとは別に、15〜16年前に議論したことですが、東京で地震が起きて大火になったときに、燃えるところははっきりわかっている。例えば、そのとき話題になったのは、東大の駒場の国際高校へ行く窪地がありますが、あれは神泉の方から一番燃えやすいところです。ところが、あそこに老人ホームがある。老人ホームの人を避難させるというのは物すごく大変なんです。ですから、都内に老人ホームをつくるというのは、平常時は非常にいいんですが、一たん何かあったとき大変です。病院もそうです、長く寝た切りの人達をどこにおさめるかといったときに、病院とか老人ホームの地下に、2時間なら完全に空気の供給はできて、水もきちっと壁のところを濡らしてあるから温度も上がらない。2時間か3時間持ちます。そういう地下構造物をつくれという議論をかなりやりました。そのための補助金を東京都は出すべきだということをやったんですが、依然としてこの話題は残っていると思います。神戸に限らず、東京、名古屋、そういうところでは特にお年寄り対策、病院対策で、非常に性能の高い核開発用のシェルターではなく、一時的に、3時間ぐらい避難できるという設備に力を入れる。これはまだまだ非常に重要な課題であると思います。
 それから、地下全体についての認識ですが、私非常に皮肉な見方をしておりまして、公会堂とか美術館とか、何でもいい、公の人が集まるところは、建物が10年たち、15年たつとあれほど外壁が汚れるものはないんです。こういう公の施設で、不特定多数の人を集めるものは全部地下に埋めてしまったらどうか。そういう点では東京フォーラムなどは愚の骨頂でございまして、あんなものをつくる必要はなかったのです。3000人ぐらいのホールと、100人、200人の小集会ができるものを地下に埋めて、あの上は木でも植えておけばよかったんです。
 市役所だって、地下にしてしまえばいい。そして、ドライエリアをつくればいいんです。昔の建物はB1は必ずドライエリアを巻いていた。だから、全部ベタッと土を埋めなくてもいい。少なくとも公共建築物の小汚くなる横面を我々の目の前にさらさないだけでも、都市は美しくなりますから、そういう点では地下の使い方は、単に公共下水道とか、共同溝、そういう土木施設だけじゃなくて、僕は公的な建築物はどんどん地下に入れた方がいいと思っています。
 おまえの話はとんでもないインチキで、いいかげんだという御意見ないですか。

水谷(上下水道設計株式会社)
 インチキだとは言わないけれども、都心に人を集めようというのは世の趨勢に合っているし、そういうようになってくるのではないかという気もするんですが、ただでさえ人口が減るというのに、都心に人口を集めてしまうと、田舎は特に人がいなくなるんじゃないかと思います。それはどうなんですか。

伊藤
 
そんなことはないですよ。そんな民族の大移動みたいなことは絶対に起きない。我々の一番困るのは、世の中を0.5動かしたら、幾らマキシマムでも5ぐらいしかいかないというのを、加速度がだんだん上がっていって、1000も無限大もその傾向がワーッと流れる、そういうふうに思うのはやっぱりおかしいんですよ。

水谷
 そこまでは言わないけれども、一生懸命田舎の方で開発しようとした人たちは、どうするんですか。

伊藤
 ディベローッパーで?それはほおっておけばいいんですよ。(笑)企業をもっと出すということは、これから幾らでも失敗が起きる。失敗が数多く起きないところに成功なんてあり得ないんです。今の世の中は、失敗がなくて成功だけさせよう、そのためにいい仕掛けはないかということをやっている。これはおかしいんです。

水谷
 その失敗の後がめちゃくちゃになるという気がするんです。

伊藤
 
都市計画が農村地域まで乗り込んでいって、ちゃんと土地利用規制をやるしかしようがないと思います。

藤井(経済戦略会議事務局)
 先生のお話、いろいろ考えさせられながら聞かせていただいたんですが、今、経済の問題で銀行の話がございまして、不良債権が都心の中にたくさんできているという問題がございます。東京都の調査でも、不良債権土地まで全部含めてなんでしょうけれども、低未利用地が6000ヘクタールぐらいある。戦災復興のときに、焼けたところが1万6000ヘクタールということですから、東京が焼け野が原になったと言っても、今の低未利用地の3倍程度のものでしかなかったということです。逆に言いますと、戦災に近い東京の今の土地利用の状況になっているところがあるんじゃないか。
 そういう前提に立ったときに、先ほど先生の再開発にもっと国費を入れなさいというお話がございましたが、再開発に入れるのも必要だと思いますが、片っ方で、大きな防空帯といいますか、東京の戦災における防災、バリアフリー、お年寄りの車が入れるとか、そういうことを考えますと、例えば、6000ヘクタールぐらい戦災復興のときは区画整理をやろうという計画をしていて、全部とまってしまったとか、100メートル道路、緑地帯をつくってという戦災復興計画がございましたけれども、景気対策という意味で、国が直接乗り出さないとなかなかそういうことはできないと思いますが、ほとんど全部東京の区画整理をやってしまう、いわゆる戦災復興計画の最初のプランニングをもう一回ここで、現代版に焼き直して実行するという考え方もあるんじゃないかと思うんですが、そういう基盤的な都市計画に対しては、先生はどういうふうにお考えになるでしょうか。

伊藤
 都市計画のオーソドックスな答えはそれなんです。不良資産が6000ヘクタールある、それがバラバラだ。バラバラなところの不良資産を整理して、いい市街地にするのが区画整理なんです。まさにそうなんです。ところが、不良資産というのはどういうことか。御存じのように、権利関係は極めて複雑で、土地の境界も画定していない。そこをまずきちっと資産の内容を整理し、土地の境界を画定してから区画整理が始まるわけです。
 区画整理というのは、皆さんの土地がきちっと自分の土地となるまで大体20年から30年ぐらいかかる。そういうことも重要ですけれども、今の非常事態は、先ほどから繰り返しているように、3〜4年で勝負しなければいけない。経済の緊急事態に都市計画が貢献するとすれば、2〜3年の中でできるものは何かと考えますと、不良資産を1つ1つ解きほぐしていくことに1000億円の金をかけるよりも、浦安の鉄鋼団地とか、新木場の木材旦那の土地を1000億買って、そこに住宅公団や、人のいいどこかのディベロッパーを入れて、高層住宅をつくる方がずっとスピードは速いし、市街地がよくなっていいと思います。まさに今スピードなんです。
 もう1つは、6000ヘクタールの土地をほぐすということは、物すごく難しいことで、その問題が政府の議論の中で矛盾を抱えて存在していると思います。不良資産を住宅公団が買っている。民都機構が買っています。富久町など、すさまじいのを住宅公団が手入れしなきゃいけないと思いますが、あれにつかまったら住宅公団は命取りになるというぐらいの覚悟をした方がいいと思います。土地の権利関係の整理が何ら進展しないと思います。そのうちにばあさんが死んで、じいさんが死んで、子供が受け継いで、相続の問題が発生して、ようやっと整理したらまた相続でまたもめるとか、そういうのなんです。
 あれは50年でも100年でもほっぽっておけばいい。そのお金があったら、みんながやりたいところ、例えば、八重洲の両側、あの辺に100階建てぐらいのマンションと事務所をくっつけた、250から300メートルぐらいの棟を2つドーンと建てる方が、ずっと前向きだと思います。その方がきっと経済に貢献する。
 それは時限で3年でやる。やらなかったら、元に戻してしまう。そういう話題になってくるんじゃないか。ただ、社会正義的にはおっしゃったとおりです。しかし、繰り返し言いますが、都市計画が世の中で糾弾を受けているのは、時間に対して全く無感覚だということです。それは皆さんの周りの都市計画街路の整備の状況を見れば、いやというほどおわかりだと思います。

司会(谷口)
 ありがとうございました。ちょうど時間が参りましたので、これで終わらせていただきます。伊藤先生きょうはどうもありがとうございました。(拍手)


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