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第142回都市経営フォーラム

ソーシャル・マーケティングとまちづくり
−21世紀型社会への視点−

講師:澤登 信子 氏
  ソーシャル・マーケティング・プロデューサー


日付:1999年10月20日(水)
場所:後楽園会館

 

暮らしの断面から見る今日の家庭像

個人化社会に暮らす

21世紀住環境の条件 

近未来の高齢社会の住まいとコミュニティへの視点

新しい社会の潮流と地域・家庭の再生を目指したインフラづくりを

森林化社会に向けて

 フリーディスカッション




 初めまして、澤登でございます。
 今ご紹介いただきましたように、私はソーシャルマーケティングをプロデュースするという立場で、生活者が企業あるいは行政といい関係をどう結んでいくかということを仕事としております。
 実はマーケティングの世界に籍を置きまして、かれこれ30年近くたっております。ライフカルチャーセンターというのは私が30年前にスタートさせた会社で、小さいながら、30年間継続ができている会社でございます。
 最初は、商品開発とか、できたものをどう販売していったらいいのかというところに視点を置きながら仕事をしてきましたが、ここ14〜15年前からソーシャルマーケティングというジャンルを少しきっちり手がけてみたいと思いました。ソーシャルマーケティングというものが日本に定着しているかどうかはよくわかりません。あるいは明確な概念がどうかもよくわかりません。しかし、私ども生活者が求める生活財あるいは生活基盤整備を、企業、行政に委託していかざるを得なくなると考えます。例えばハウジングメーカーに、住宅を頼み暮らしがなされ、あるいは幸せを生むことを期待して、その住まいを購入したり、借りたり、各々の目的を持って住まいを手に入れるわけです。しかし、供給側である企業は、目的として住宅を売り、利益を生み出すことで終わることが多いのです。「その後のことは関係なし」で終わることが余りにも多過ぎます。
 もう1つ例をとるならば、食生活を考えたときに、生活者、食べる側である人たちは、いろんなものを日常的に食べ続けるわけです。供給側である食品メーカー、食材関係者は、法律の中で決まった添加物あるいは防腐剤等々の中で、食べ物を商品として手渡していくわけですが、そうしますと、受け取る側は、何百種類、何年もずっと食べ続けていくことになりますと、さまざまなものが集積される肉体への影響がどういうことなのか見えてこないわけです。
 したがいまして、企業も行政も社会の仕組みの中でどういうような場所に位置づけられ、その企業活動がどういう役割を担っているかという関係の中で考えない限り、本来的に役目が全うできるのかという疑問を感じたからです。社会全体を見て、その企業活動がどうあったらいいか。1つの社会の中の大きな装置の中から物を見ていく。あるいはエンドユーザーである生活者側から物を見たときには、必然的に多様なことやものが関係づけられ、社会全体を透視しながら考えざるを得ないというところに15〜16年前に至ったわけです。地域社会全体とマーケティング的にとらえ活性化を考えます。
 このような思考をもとにしながら、今、幅広く動いております。とりあえず、私が最近手がけてきているものは、ご存じの方もいらっしゃるかもしれませんが、建設省の河川関係の荒川下流工事事務所が4〜5年前から打ち出しております住民参加型の動きの1つとして、私どもは、荒川自由放送局というプロジェクトを立ち上げ2市8区の地域住民の方々の声を集め行政とのパートナーシップをとりながら情報の受発信システムを築いてきております。
 具体的には、ホームページをつくったり、イベントをしたり、あるいは調査をしたり情報誌をつくったりしてます。形は、電子媒体であったり、パフォーマンスであるイベントであったり、活字であったりします。
 また、労働省の両立支援事業、子育てをしながら、あるいは介護をしながら働く人のためのサポートシステムがあるわけですが、働く側に立ってどんな情報を手渡したらいいかということを、構築しております。これは全国展開をしてきております。
 あるいは、きょう改めて後ほどお話しさせていただきますが、林野庁の方で、丸々3年前、長官の雑談の中から生まれ出てきましたMori・Moriネットワークという山村と都会の暮らしを結びつけていくネットワークを組み立てています。
 このように、私どもの仕事は、テレビとか映画のドラマ等を制作する場合、表に出てこない裏方であるプロデュースをしたり、物語をつくったり、場を構築している人たちがおりますが、私の役割も経済社会の中でこのような立場と思っております。したがいまして、生活側の実感あるいは動きを、企業、行政に伝えてつなげていく役割です。
 このたび、男女共同参画社会の基本法ができ、これからは性別の役割分担ではなくて、家庭のこと、地域のこと、職場のこと、個人を基本として、お互いに固有関係の中でなされていくはずです。国全体のコンセンサスを得たわけですから。
 そこで、ちょっと気になるのは、今、ビジネス社会である産業社会がどうしても厳しくなってきているという経済の疲弊した状況。男性が働き続けていくのも大変であり、特に中高年の問題は大きいものがあります。また片方で、情報化社会が高度化していく中で、働く側の状況は大変厳しくなってきています。
 そこに、女性たちも入って一緒に競争原理の中で勝ち抜かない限り、生き残りが難しくなっています。ビジネス社会での成果を得るのは覚悟が必要です。男性たちがこれでいいのかという疑問を感じている文化の中に、女性たちが入っていくことしかないのか、大変気がかりです。
 産業社会の中に生活者が囲い込まれることではなくて、生活全体の舞台の中に企業活動、あるいはビジネス活動の一部を占めるのではないかと私は考え、仕組みをつくり直すことが必要だと思っております。
 今、私どもの周りではコミュニティービジネス、等身大のサイズで物事をとらえさまざまな人々でコミュニティーをつくり上げていく動きが大変盛んになってきております。この主役は子育てを終えつつある女性とか、セカンドライフに入った男性、あるいは若者たち、用は、産業社会の中の少し脇役の人たち、勤めることができない、雇用形態に疑問を持つ人たちが、自分たちのみずからの暮らしを自分たちのこだわっていることでビジネスを成り立たせようという動きが注目されております。
 私も、最近通産省のサービス産業課長の加藤さんとともに、『市民企業』という本を出したばかりですが、生活サイドに立った新しいビジネスのありようを、必然的に生み出してきているグループが、実はこれからのまちづくり、あるいはコミュニティーのソフトのインフラ整備をしていくのではないかという期待があります。この人たちが元気に活動できることが、先ほど申し上げました産業界の中に生活者が組み込まれることではなくて、生活の現場の中から必要性から生み出され、みずから働いていく働き方ができ上がってくるような気がしております。
 ソーシャルマーケティングの視点の1つに、このようなさまざまな想いの人たちがそのコミュニティーの中や社会全体の中で役割を果たせるのか、それぞれの役割が何なのかということを整理したり、組み立てたりすることをサポートすることもソーシャルマーケティングのフィールドとして考えてきております。
 ここに参加なさっていらっしゃる方々は研究者あるいはゼネコン、ハウジング関係の方々が多いと思われますので、マーケティングそのものは少し耳なれないことかと思います。わかりやすく、私なりに考えていますマーケティングは、人々が困っているもの、不安なもの、不便なもの、負の部分を、だれがいつどんな形で提供していけばよいのかを考え、市場を築いていくことが役割だと思っております。
 あまり難しく考えることなく、どこにどんな状況の中で、だれが困っているのか、なぜ困っているのか。それを解決するにはどんな仕組みがあり、何を提供したらいいのか。生活者と同じ目線、あるいは思考が新しい事業を生み出したり、企業活動そのものが社会において必要としていく状況を生み出していくはずです。
 私はあまり左の脳が発達しておりません。30年間会社をつぶさない程度にやってきましたから、嗅覚は間違いなくあると自負はしております。きょうは、ぜひ右の脳や心の目、頭を柔らかくしながら、聞いていただき、感じたり、関心のある暮らしをイメージしていただければ、何かの参考になるかと思っております。
 私の手元にある幾つかの、今まで私が携わってきた資料を少し用意しました。
 話の中では、あちこち飛ぶかもしれませんが、後ほど30分間の質問時間がありますので、いろいろとご質問あるいはお考えをお聞かせいただきたいと思います。



暮らしの断面から見る今日の家庭像

 まず最初に、暮らしの現場が一体今日どうなっているのか、断片的なものですが、少し切り口を考えてみました。表紙の裏側にあります「暮らしの断面から見る今日の家庭像」なんです。(資料−1)
 まず、多様化する家族構成がさまざまな形態になってきております。見開きの個人が単位という中の下のところに、家族構成が多様化するさまざまな家族の構成のパターンが出てきております。これは以前私が高度情報化社会を考えるのに引用して、参考にした資料です。
 一般的に住宅関係、建設関係では、標準家庭というものを基軸に物は考えられてきているわけです。標準家庭というのは、親がいて子供がいるということを1つのファミリー単位として考えてきております。
 私が(財)アーバンハウジングに籍を置きながら、12〜13年前に「都市と働くと女性」というキーワードで、どんな住まいが今後求められていくのかという研究を始めました。その結果、すぐに答えが出てきたのは、最近よくいわれておりますグループハウジングだったんです。ハードの面から見たときには、集合住宅の中にもちろん専有住宅としての台所があって、お風呂場があってという普通の住宅以外に、もう1つの台所が欲しいということが働く女性たちの多くから出てきたわけです。その研究結果を建設省あるいは住都公団等に提案したところ、「まず家庭は、標準家庭として親がいて子供がいることを核として考えていかないと、働く女性、あるいはシングルの女性、あるいは高齢者というものは少数派にすぎない。」という話が出てきまして、相手にされなかったわけです。研究結果になかなか日が当たらなかったんです。
 しかし、女の人たちは、確実にそのときから、なぜもう1つの食堂が欲しいのかという話が、もうわかっているんです。働きながら家族の面倒を見るということで、一番気になっているのはやはり食生活なんです。買い物をしながら慌てて帰って、つくって、食べて、後片づけをする、その流れがトータルとして食生活と女性たちは考えています。毎日じゃなくてもいいから、その準備段階と後始末の段階をだれかがやっていてくれたら、とても気が楽になる。いざといったときに助かる、働き続けられる。しかし、男性たちは食生活といいますと、食べることだけなんです。準備段階と後始末は自分たちの視野に入ってないんです。そのときにも、男の人たちがよくいいいました。「日本人は食生活が大変ぜいたくだ。何で他人がつくったものを食べるのか」という話ばっかりでした。したがいまして、もう1つの食堂を持つ意味がよくわからなかったわけです。
 しかし、このところ、都知事選においても、グループホーム、グループハウジングにおいても話題の中心になっていました。女性たちは生活実感から物を見、考えています。これからは少人数家庭が増加し、家族関係が変わってきたことにおいて、家庭の機能が非常に低下していくことになる。
 人生の後半に至って、セカンドライフに入ってきた家庭、子供が育った後、50代半ばから、60代ぐらいになると個人生活が中心となってきて、自分なりの暮らしを見つめ直し、第2の青春を楽しんだり、不自由さを感じたり、あるいはお年寄りの女の人たちは、自分のためにお料理するのが面倒くさいといっているんです。家族がいて、だれかを食べさせていかねばならない使命感からお料理をつくっていたところもあるのでしょうが、その生活から解放された人は、もう1つの考え方を求めてきています。また子育てをしながら働く人たちは、食生活の課題が大きいのです。
 1つ例にとりますと、セキスイハウスが北区志茂につくりました集合住宅が話題になっています。私はアドバイザーとして関係してきました。さまざまな共有空間を持った賃貸の集合住宅です。住んでいる人たちは、今お話ししましたような、田舎から上京してきたおばあちゃんやひとり暮らしになったおじいさん、あるいは子育てピークの共働きの人たちが、ちょっとしたところで気を配り合ったり、手をかしてくれるということで緩やかにつながっています。
 作業をともにするというよりも、家族的、あるいは家庭の機能が低下した点を補い合っている。日常の暮らしには家族の役割を果たしてくれる身近な人々が必要になったり、空間や設備を共有することが合理的で便利なことも多いのです。
 標準家庭そのものを否定するわけではないんですが、少人数だったと思っているいろんなパターンのグループが出てきて、総体的には半数以上のボリュームになってきたということが重要なポイントなのです。



個人化社会に暮らす

 家庭の姿も大いに変化してきましたし、これから男女参画社会が本格化してくると、男の人、女の人の性差による組み合わせというよりも、個人の生き方、暮らし方において役割分担が出てきます。
 きょうは、データをお持ちしてないんですが、現在は生活時間が細切れの女性と、仕事中心の男性がはっきり分かれていますが、多分皆様方のご家庭の中でも、そのような状況が多いと思います。
 今女性たちは仕事をしたいと望んでいる人が多いのです。従来の組織の中の雇用形態にはそぐわないけれども、何かしたい。そこで、SOHOだとか、お店や教室を開く夢を彼女たちは抱いています。家庭生活、子育てをしながら働くという「ながら族」としての働き方を模索しているのです。昔の日本社会の中では、田畑に子供を連れていって、経済行為にも女の人は参加したり、あるいは店番をしながら、経済生活には当然参加していたんです。職住が近かったり、同じ空間の中にあれば「ながら族」になれたわけです。ですから、これからは21世紀型の「ながら族」が大変新しい働き方となるでしょうし、ベースになってくるような気がしております。そのオピニオンリーダーは団塊の世代や40代の女性たちでしょう。
 2枚目の資料を見てください。これは私どもが経団連の広報機関の経済広報センターの仕事で、ライフレポーターの仕組みを組み立てたときのデータです。そのときにおける気持ちの満足度がどうであるかを調査した結果です。(資料−2)
 対象者は、都市型の暮らしをしている人たちで、しかも、大体30代後半を中心とした人たちの回答です。ライフ・レポーターというのはその女性であり、パートナーとあるのはその夫、あるいは父親です。これを見ておもしろいなと思うのは、「わくわく」する時間というのは楽しい気持ちで素直にできる作業であり、時間の過ごし方です。逆に「イライラ」するというのは、マイナス要因になっています。女性たちの方が、自分のために費やす時間に大変満足をし、また大切にしているわけです。それは趣味やスポーツ、あるいは情報収集が高い得点です。一方、一家だんらんというのは半分ぐらいです。食事をしたり、買い物をしたり、いわゆる家事に費やしている時間は「もくもく」、あるいは「だらだら」、「イライラ」する時間と回答しています。それに比べて、男性たちは、第1位に挙げているのが、一家だんらんなのです。ビジネス社会から戻り、家族とともに費やす時間を貴重に考えております。男性と女性の気持ちのギャップは大きいようです。女性たちの方が家庭離れをしております。男性たちの方が家庭や家族の状況がわからないために、幻想を抱いているのかもしれません。女性たちは自分軸というものを確実に中心に置きながら、家族との関係、夫や子供の距離関係をちゃんとはかりながら、家庭を営み、自分の暮らし方を考えております。
 いわゆる家族のための時間を第1番目に必然的にあらわすのは、子供が生まれて手がかかる間、85年間の人生の中で十数年という一番短い時間帯が、家庭を中心にして回る時間帯なんです。
 最近私はセルフプロデュースプログラムを開発しました。自分の人生をどうデザインし、プロデュースするのかが問われています。家族、家庭が最終のものではなくて、自分の時間の使い方、社会への参画を女性たちがみずからプログラムを立て、行動する必要性が高くなってきております。
 個人化社会になってきたのも長生きをし始めたということが一番大きな要因だと思います。大体50代から50代半ばで家庭から解放されるわけです。実は子育てを中心に費やす時間、大体40歳ぐらいから、子供との距離ができていくわけです。午前中ぐらいは自分の自由になる時間を手にし始めるわけです。そうしますと、やはり自分時間をどう活用するか。彼女たちは考えています。40歳にして自分時間を手にした人たちは、平均寿命85〜86歳として考えれば、人生の半分以上が、自分時間としてあり、暮らし方が変わり、生きがいを見出さざるを得ない生活環境となっているのです。
 平均寿命が60歳ぐらいの時代は、そんなに昔のことではなくて、半世紀前ぐらい前までです。その当時は家族の数も多く、あるいは便利な道具もなく、地域に密着しながら、それなりの役割があったわけです。ほっとして、自分時間を楽しみながらあの世に旅立つまで7〜8年といわれていたわけです。50代半ばぐらいから60前後まで。それに対して、今の女性たちが自分時間を手にして40年以上あるわけです。したがいまして、40歳くらいから自分の人生をどうしていけばよいのかを焦ったり、不安になるのです。今日では年金がどうなるのか、介護はどうしていくのか悩みは大きくなってます。女の人たちが自分の人生をみずから組み立てていかざるを得ないし、現在の女性たちは主体的に暮らしていく力を有しているのです。
 蛇足ですが、女性たちが40歳にして家庭から離れて、自分の暮らしを徐々に身につけていくのに対して、男性は60歳、退職の時期を迎えてからその心境や環境に出会います。20年という差があります。男性たちが住宅ローンや教育費という第1番手の稼ぎ手としての役割を担わされている限りにおいては、女性におくれること20年です。これは時間の長さだけじゃなくて、40歳のときから解放された人間と60歳からの解放では、体のエネルギーや残された時間からもその状況は全然違うわけです。
 したがいまして、男性が今つくづく受難の時代だなと思っております。男女参画社会が本格化したときに、男性たちが家庭、地域社会の中でどういう役割をしているのでしょうか。いつの間にか女性専科になっている家庭の中、地域の中で、個人として社会に参画し、役割を果たしていかない限り、これから男性たちにとって大変きつい世の中になっていくのではないかと感じております。
 個人が単位になっていく社会。もはや家庭単位ではなくなった現実に対して、社会システムの再構築が求められています。
 以前経済広報センターで私が手がけた調査の1つに大変おもしろい調査があります。4〜5年前の話ですが、100年後の企業、100年後の家庭はどうなっているかレポートしてもらいました。普通の女性たちの答えは何と、100年後の家庭は、母系社会、女性社会、通い婚でした。多分私はその方向に行くと思っています。少子高齢社会と成熟社会の到来は腕力よりも少しのエネルギーを上手に使いながら静的な社会になっていくでしょう。立線的より曲線的な文化が根づいていくと考えます。さまざまな家庭の構成を含めて、多様な暮らし方が認め合っていると思います。
 同時に、どういう企業が100年後繁栄しているかという答えは農業でした。企業と質問したのにもかかわらず農業。それは食べるものは決してなくなることはない。しかも、健康な暮らしを求めていくので、食べ物を見詰め直し、生産の仕方も多様化して、組織としても、株式会社もあったり、さまざまな形で行われていると答えています。回答者は全国の都市型の女性たちですが、客観的に情報を読み取り、分析できる人たちが育っています。
 女性たちの行動は、仲間を求めながらネットワーク型になっています。オピニオンリーダーから情報を手渡ししていきます。女性たちの特性は、形を求めていく前に、おもしろい、楽しい、いいことだからということで行動を波及させています。新聞、テレビのマスコミ情報は角のとれた、平たい情報です。行動誘発情報はその人たちにとって、自分にとってどうか、おもしろいとか、おいしいとかです。町の情報でも、あそこの病院のあのお医者さんがいい、なぜいいのかとか、あのレストランのあのメニューが安くておいしい、おいしさも、甘さが中ぐらいであるとか、あるいは辛さがどうかとか、盛りつけがどうかとか、決して、記号情報ではなく、行間にあらわれた雰囲気を伝え合っていきます。
 私は、一昨年し、スタートさせた、アンテナネットという全国の生活者のネットワークがあります。明日を支える口コミ情報局という地域に密着したネットワークです。これは100万人ぐらいには情報を手渡せる装置になっておりますが、参加者は100万人を目指すなどといっております。それはどういうグループかといいますと、子育てや環境、あるいは福祉をテーマにして、形はNPO、有限、株式会社などさまざまですが、地域に根づいた人たちのネットワークです。さまざまな地域情報を生活者の視点で自分なりに組み立て直しています。いわゆる供給側が広告でつくるタウン誌じゃないんです。同じ日本語を生活用語に翻訳しております。先ほど触れましたように、なぜ自分たちにいいのか、甘さというものはどういう甘さなのか。需要者側に立って情報を加工し、自分たちにとっての付加価値をきっちり伝えていっているんです。
 彼女たちいわく、「私たちの情報は信頼があるから」といっています。めたらやたらに企業情報は載せないともいっています。この企業はなぜいいのか。どうなのか。企業が生活者にすなわち、供給側が需要者に選ばれる時代になってきているのです。情報化社会になってきたからこそ、口コミで手渡される情報に価値を見出しています。情報の行間や五感で何かを伝え合っていく関係が大切になっていきます。
 多分、情報化社会になればなるほど、空間が必要になってくると思います。人を結びつけたり、あるいはそばに仲間がいてくれた、手を引っ張ってくれた、おしりを押してくれたという仲間と出会うためにも、やはり空間が必要だと思います。オンライン上ですべてのことができるかのように今いわれておりますが、あくまでもコンピューターのものは道具立てにすぎないということを再度認識する必要があります。中間に人がいて、情報を整理してくれたり、選んだりあるいは手渡してくれる関係が求められていくでしょう。インテリジェンスとインフォメーションの両方の情報の受け渡しがあるはずです。
 まちづくりや都市計画をなさっていらっしゃる方たちは、求められている空間が大分変わってきたことや、空間の持つ意味性、機能をもう一度見直す時期に来ているような気がしております。
 今お話ししたアンテナネットの資料をお持ちしました。横組みの資料です。これまでの社会は、ピラミッド型のヒエラルキーの文化の中にさまざまなものが押し込まれてきているような気がします。(資料−3)
 これからは、個人が単位になって、ネットワーク型の社会が誕生していくだろうと考え、創出されるマーケットと提案しています。個人としての人間の充足感、満足感、成長、あるいは個性を生かしてどう暮らしていくのか。多様化した流れの中で、人々が暮らせるための仕組みとマーケットを考えています。
 情報は双方向でオープンにした、情報の循環のためには気持ちを伝え合うことがポイントだと思っております。



21世紀住環境の条件

 これからの考えは、自然との一体感が基本になると考えます。今までの都市の住まいあるいは都市の空間のあり方を見ますと、やはり効率性が優先して、光とか水、あるいは風というものはあたかもぜいたく物のような位置づけにあったような気がします。ゆとりがあれば、光がさんさんと入る家に住めたり、庭を持って木々や花々を楽しめる。しかし、生き物であるということを前提に置けば、都市も緑豊かであり、光にもさんさんと当たれること、もちろん水はポイントです。現在の大都市は私たちが生き物であったということを忘れた生活環境になってしまっています。しかも動物である。動物である限りにおいては動き回り、植物を必要としているという大前提に立つべきで、都市の緑化、これは最優先すべきものだと私は考えております。
 ただし、これから都市を緑化していくときに行政が主体となったり、企業がビジネスを優先とした発想でつくるのではなく、地域住民が参加し、当事者となり、心のバリアを取り除けて、つながり合いながら、そして一緒につくり上げていく生活環境づくりを自覚する必要があります。そのために幅広い人々が参加するシステムの開発が優先事項でしょう。
 私は、十数年前茨城県の田舎に週末ごとに訪れていた時期が7〜8年ございます。なぜ、そのような行動をしたかと申しますと、ちょうど人々が物の充足から心の豊かさを求め出した時期で、心の豊かさってどういうことかと思ったときに、自然学者である土壌菌の博士と偶然に出会いました。そのときに「水」というテーマで話を聞きました。飲む水を見たときに、まず私たち都市の生活者は、安全なのか、おいしいのか、きれいなのかという評価で水を見ていたわけです。
 そのときに、その博士に「生きている水」ということをいわれました。生きている水といわれて驚き、どういうことをいっているのかわかりませんでした。それは見えない自然界のことだったんです。水が媒体になり、生き物としての、宇宙とつながり、自然と一体となることができます。小学生のときに学んだはずですが、この当たり前のことを私たち大人は忘れています。食べ物をつくっているお百姓さんたちが水を研究していました。水を研究しながら農業に勤しんでいるのです。
 その実態を見学に行ったのですが、そこでは志のあるお百姓さんたちが集まり、けんけんがくがくと討論し、行動していました。都市に暮らす研究者や多様な人々が集まってきていました。その後鎌倉の市長になられた竹内さんは当時朝日新聞の環境担当の責任者でしたが、仲間のお1人でした。かやぶきの曲がり家で囲炉裏を囲んだ時間は非日常的な時でした。各地からお百姓さんたちが来ていたのに私は驚きました。決して東京では味わえない集まりです。
 そこは、自然と一体になって、暮らす人々がおり、大地をフィールドに多くの試みを重ねながら健康な模索をしている農業をかいま見ました。与える水を研究し健康な豚や牛を育て、液肥をつくり、健康な作物を育てる循環農業を彼らは試みていました。そのときに、都会の私たちは、消費という立場だけでかかわっているのですが、つくっている現場からどんどん遠ざかってしまい、口にするものががどうなっているかわからわけです。お互いの距離は開き、情報が分断されています。
 対立関係で物を見る時代は終わりました。男性、女性、あるいは都市と農村、企業と消費者という二元論的な思考ではなくて、さまざまなものつながりあって物を生み出す時代になっています。消費のみの暮らし方は生活が空洞化していきます。心はいつも満たされず、いつも何かを追い求めてしまいます。心の豊かさは体を使い、協働の中から生まれてくる気がします。日々の生活の中に生活する時間が引き続きと感じます。時間の重さ、人間のつながりの楽しさを人々は求めているのではないでしょうか。
 消費が当たり前になってしまった都市に暮らす人の行為を“お金”で交換することしか頭になくなってしまった気がします。茨城の曲がり家での経験です。集いで多くの人々が集まってきますと、地元の女の人たちは、いわゆる肉体で、一緒に何かをする。草をむしります、茶碗を洗います、何かしますという作業に、いとも簡単に、体を動かしているわけです。私たち都会の人は、そういう作業、食べ物をお金で買うことだけになれているわけです。お客になり、「会費幾らですか」から始まります。
 都会の暮らしは生活財や機能をお金のみで交換していることを実感し始めました。これは一体何なのか。消費者運動、生活クラブ生協等もいろいろと食べ物に関して新しい動きはしているんですが、買う側の論理で押し進めているのではないか。安全でおいしくて、きれいで、安くなきゃいけないという論理を出します。
 農業のお百姓さんたちの現場は、新しい試みを始めた人々は今までのしきたりや仕組みと戦っています。まずその土地の成功者をつくらない限りだめなんです。私たちの求める作物が容易には手に入りません。私たちは買う側の論理のみで、物を求めるのではなく、とりあえずいわれた値段で買い続けて、お百姓さんの成功者をたくさん誕生してもらわなくてはいけないということに気がつかされたわけです。
 心の豊かさも、このような参加の仕方でも何かを生み出す当事者になることから心の空洞化が満たされていくのかもしれません。
 次に高齢化社会の中で大きな課題は、健康とともに、孤独からの脱却なんです。都会の人たちは匿名社会の快適さを味わってきました。集合住宅の暮らしは内と外の関係がはっきりしています。廊下は基本的に外の機能、バタンとドアを閉めれば内、人々が緩やかに結ばれながら暮らしている実感を持てないように暮らしています。あの重たい人間関係はつらいが、内と外との関係のみの、弾力性のない社会に不安を抱いている人々も多いのです。
 個人化社会になったからこそ、血のつながりのない身近な人々が出会い、交流できる中間領域が重要な意味をもつはずです。中間的な気持ちをゆったり、何かを生み出すこれからの空間はどんなものなのか。昔は家の中にもコミュニケーションの広場があったり、さまざまな工夫があったわけです。そこで人と人をつなげてきました。ゆとりを失った現在、孤独からの脱却が難しく、また心の充足感がなくなってしまっているのではないかと思います。
 これからは重なり合う場、関係し合える機会の開発が問われています。個人化社会になればこそ、プライベートな時間の重要さと同時に、さまざまな関係し合うポイント、共用空間のありようという問題です。この会場にいらっしゃる方々の課題ではないかという気がしております。



近未来の高齢社会の住まいとコミュニティへの視点

 次に、近未来の高齢者の生活イメージの資料を用意しました。今のお年寄りを厚生省では65歳以上を前期高齢者とし、75歳以上を後期高齢者として位置づけております。これからのシルバーの予備軍として、団塊の世代の人たちが、1つ新しい時代をつくる人たちとして注目しております。
 団塊の世代の人たちは、ボリュームが多く、それまでの世代の人々とは異なった意識と行動をします。いつの世にも新しいものを生み出してきています。友達夫婦の言葉も彼らが生み出しています。これからの企業のゆくすえを担っているといわれております。彼らが今現在の高齢者と同じ生活の仕方をするかというと、そうではない。セカンドライフをどうつくっていくのか。あるいは夫婦の関係においても、随分多様になってきております。
 子育てのピーク時まではライフスタイルはそう多様化しないんです。暮らし方は大体決まっているのです。自分が誕生して、学校へ行って教育を受け、働いて、結婚し、子供をサポートする間は同じようなパターンで暮らし、子供の日常に追われています。
 多様化するのは、セカンドライフに入ってからなんです。それだけ自由になる時間があるわけです。家庭という枠組みから緩やかになるのです。そこで、価値観や暮らし方が多様になっていきます。これからは個人生活を重視して、自分の時間を楽しむ高齢者がふえてくるでしょう。高齢者のイメージも随分異なってくるでしょう。
 したがいまして、暦年齢で人々をはかる時代は終わり、精神年齢、肉体年齢の個人差により、暮らし方が個人によって随分違ってきます。それと同時に、どこに住んでいるのか。どんな家族構成なのかなどの生活環境によって大分違ってくると思います。
 現在、本当に介護が必要な人は20%くらいとよくいわれております。元気で自立して暮らしたいと思っている人たちが80%です。介護保険ができ、新しいビジネスができるというので、さまざまな企業が介護をテーマにフィーバーしています。家族だけでは介護がしきれませんから、社会化することは必要なことなんです。しかし、それと同様に、元気で暮らせる人たちに向けてのサポートする仕組みや空間のあり方が問われています。
 今リフォーム市場が非常に注目されておりますが、リフォームを考え出す一番のきっかけは、子が育った後に、住まいの使い方が異なってきて、主婦が、これからの自分の人生を楽しむために、自分の時間の使い方を考え、趣味やビジネスのために自宅の活用を考え出すのです。元気なうちに、10年か15年ぐらいの間、自分の生活をエンジョイしようとしています。そのとき、高齢期のためのバリアフリーを同時に行うのです。いつ倒れるかわからないし、老後の経済面が心配になり働きたいと多くの人は考え始めます。
 老後幾ら生活費がかかるかという調査した結果、何とこれは8400万と出てきております。そんなに必要なのかと思われる方が多いと思いますが、20年間と考え、年間400万と割り出しております。介護のための費用は含まれていなく日常の生活に大体400万ぐらいかかるだろうと考えております。じゃ、400万あるいは8000万近いお金をどう得るのか、みんな呆然としますね。年金にも期待できないと思っている人が多く手当てがないんです。したがいまして、働かなきゃいけないと思っています。今の高齢者は年金もあり、働かなくても済む人たちなんですが、これからのことを考えたら、不安になり真剣に考えています。そのときに、住まいはどう機能しいてくのでしょうか。
 現在は住みかえのシステムが確立していません。子育てのために郊外で家を持ち、子供が育った。もう一度都市に帰りたいけれども、住まいが自由にならない場合が多いのです。最近おもしろいのは、郊外で暮らしている団塊の人たちがさまざまな動きをしていますね。場所的には多摩のニュータウンを注目しています。
 都市の文化とほどほどの自然環境が残っています。高齢期を考え出した人々が自分たちの暮らし方やコミュニケーションのあり方を模索し始めています。その人たちは昔の自然のよさを知っていたり、あるいは楽しみ方も味わっています。何も都心に出てこなくて働けて、遊べる機能を求めています。多分このエリアから新しい高齢社会の1つのパターンが誕生すると思います。緩やかな人々のつながりと生活の囲い込みによって自立するコミュニケーションの試みが必要です。
 高齢期の生活が変わってくれば、住生活、住意識も随分変わります。
 ちなみに、私どものアンテナネットで1000人の調査を昨年したところ、女性は住まいにこだわって、持ち家が欲しいと思っていても、買ってしまったら家に全然こだわってないです。次には自分時間、したいコトに焦点を合わせ始めます。男の人たちが住まいにこだわっているんですね。ローンを返さなきゃいけないために。したがいまして、そこいら辺も男女の見方がかなり違っているのではないかと思ってます。
 このような状況の中でリバースモーゲージに対しても、まだまだこの言葉がわかりにくいし、一般的になっておりません。説明できれば関心がもっと高まっていくと思うんですが、これからでしょう。
 また、住みかえのシステムも組み立ててほしいものです。多様な質の高い賃貸住宅も求められています。よくいわれておりますように、35歳を過ぎたら、シングルの男性も女性もなかなか住まいを貸してもらえないのが現状です。特に女性の場合には厳しいようです。2年おきに早くかわってもらった方が、家主にとっては都合がよく、ビジネスになりますから。居座られたら困るのです。若者向けばかりで需要と供給がミスマッチしています。
 生活者意識に合った住宅の供給を多様にし、選択できるシステムが大切です。もっと住まいに対して軽くなってほしいものです。あくまでも経済財ではなく、生活財であることを認識し直す必要があります。



新しい社会の潮流と地域・家庭の再生を目指したインフラづくりを

 次の資料は、これからの近未来の高齢社会の住まいを考える上での視点はどんなものなのか記したものです。(資料−4)これは私が所属し、参加してきました研究会でまとめたものです。視点の1として、住む場としての充実した生活圏を構築する。家庭の機能が低下してきた現実の中で、コミュニティーの内で支え合える仲間や空間が必要になってきます。歩いていける範囲を私どもは生活圏(ライフエリア)称しています。またもう少し広い範囲の中にあってほしい機能はどんなものなのかを研究しております。
 自分空間や専用住戸によって質の高いプライベートタイムを過ごせる空間と家族と過ごす空間、地域の人々や機能とつながれる共有空間や中間領域を見直し、再構築し、整備することが重要です。
 次に、住まい方の多様な選択性をどう保証していくのか。最近では賃貸を積極的に求めてくる人々も出てきております。そういう中で、ストックとフローの関係をどうとらえ直したらいいのか。今までは住宅というものが経済財としてのみ見られたことが多かったわけです。それが右肩上がりではなくなってきたというところから、所有に対する不自由さを感じてきたり、あるいはそれを信託として何がどうできるのか考えたりする人も多いのです。本当にストックしていくものがどんな価値を生み出していくのか。根本的なところから考え直さざるを得ないのではないでしょうか。
 3つ目の視点としましては、高齢者イコール、ケアする発想からの脱却が重要でしょう。今はすべて高齢者が弱い者であり、障害者は手をかさなければいけない人々として見ておりますが、1人の人間として、しっかり社会に参画をしたいと多くの人たちが望んでいます。大阪の方では障害者がチャレンジャーとして税金を払っていく、自立して暮らしたい人々に関心が寄せられています。彼らはコンピューターを駆使しながらいろんなことを始めています。高齢者を弱者として閉じ込めるのではなく、望む人は希望に応じて社会に参画できるというインフラをつくっていくことです。それはソフトとハードのインフラです。
 サラリーマンの場合には、幾ら元気でも、年齢で60歳になったら終わりということになってしまいますが。私どもの調査では、元気なのは自営業の人たちです。その理由は自分の人生は自分で句読点やピリオドを打てることにあるようです。自分たちが働きたければ働ける。サラリーマンの第2の人生が自由に振るまえる環境が求められています。サラリーマンと専業主婦のグループが一番ピークなのは団塊の世代です。昔からそうであったかのように錯覚しますが、決してそうではなくて、昔は多くの人々が自営者であったり職住近接で時間や暮らしがつながっていました。“ながら族”として合理的に暮らしていたのです。職住が離れてしまった点に問題の大きな要因があると思います。
 したがいまして、21世紀型の職住接近を生み出す必要があります。空間はどうあったらよいのでしょうか。家庭やコミュニティーと消費の場としてとらえたところに、そもそも間違いがあるのではないかと私は思っています。それは産業社会の中から見たときに、家庭は消費の場であり、その代表が主婦であり、経済社会を主として見ています。しかし、家庭は生命の生活再生産の場であり、あくまでも経済社会より上位概念であるのです。日常の食べること、雑事を重ねるところにおいて、人々は生命を維持し、暮らしをしているわけです。
 したがいまして、冒頭お話ししましたように、暮らしの場と働き方の場の関係を見直すところからのスタートです。人々の行為や作業がお金のみで交換され評価される点にも問題があります。気持ちのつながりや支え合う関係を大切にしたいものです。先ほど老後の生活費が8400万円必要と考えている人々の話をしましたが、自分で野菜をつくったり、魚を釣ったりすることで買わなくても済む場合も多く、また、洋服をつくる楽しみがあればそれだけ現金が少なくて済みます。住まいの周辺に庭や畑があったり、もう少しゆったり時間を過ごせば、それが可能になります。もう一度話を原点に戻し、その暮らし、町のありようを見たときに不足しているモノ、暮らしの変え方が見えてくるのではないと思っています。少子高齢社会は否応なしに1人1人の暮らしを変えていくでしょう。
 その点からもケアサービスや福祉のあり方が問われています。現在のビジネス社会中心の表層的な見方で左右されるのではなくて、どうあるべきかそれぞれの立場で考えていくことが大切です。
 介護保険導入の混乱の一因も制度やシステムから暮らしを見て、合理的な仕組みを考えざるを得ないから、生活の実態からかけ離れていくんじゃないでしょうか。福祉的マインドをどう育てていくかといった視点が欠けていると思います。困っている人がどんな困り方をしているか日常生活の細々した行為や時間の連続から暮らしは成り立っているのです。メッシュの細かい見方から始まります。等身大の味方や行動であれば、1人1人がイメージができやすくなります。個々人が元気になればコミュニティーは元気になります。
 4番目の視点は共同性(相互扶助性)の考え方をどう導入していくのか。個別性と共同性のバランスをどうとるのか。いわゆる自分と他人、自分空間と共有空間のあり方のバランスのとり方が課題となっています。
 重たい人間関係はつらいなものがあります。この点については今まで随分触れてまいりました。
 視点5は、住まいの中で行われてきたさまざまな家事、介護、子育てなどが家の外で他人のサポートを受けなければならない社会となっています。少子高齢社会が進むに従って、その状況は盛んになっていくはずです。介護保険の導入によって介護が社会化することになるのが代表的な例です。
 ところで公共事業が非常にやり玉に挙がっていますが、私は新しい公共事業の考え方を導入し、インフラを再整備することをしなければだめだと考えております。いろいろと住みにくいです。道路、駅から道路との関係など、互換性ができていません。歩けないお年寄りにとって大きな通りから入っただけで、大きな通りまで出られないために介護の託老所に連れていく車が来たとしても乗れないのです。公共事業は、ハードだけを指すのではなく、多用なソーシャルサービスのソフトが含まれます。これからの公共事業のあり方を生活者サイドに立って整備しておかなければ、元気なお年寄りも寝かされきりになってしまうでしょう。大変大きな問題です。よくいわれておりますように、寝かされきりになるとだんだん痴呆症になってくるわけです。このまま行くと被害者の第1号は夫の親です。夫の親が最初に、言葉は悪いですが、捨てられていきますね。次に生活者と自立していない中高年の男性ですね。今の女性たちは自分の親をサポートしたいと考えています。夫の親の介護が必要になると、多分奥さんはこういいますね。「あなたはあなたの兄弟がいるじゃない。私は私の親の面倒を見なくてはいけないから」ということになるんですね。高齢社会とは4世代、5世代の社会ですから、中堅といわれております30代後半、50代の人々に長男、長女、少子化の現象から見ますと、最大公約数、8人の先輩をサポートすることになるわけです。
 つい最近も、老老介護がテレビでも話題になっておりました。実際にはそういう60代後半の人が80歳以上の人を介護している状況です。
 今まで介護や家事、子育てが女性の役割として考えて、企業社会の中心は男性でしたが、これからは男性が「介護のためにちょっと休みます。早く帰ります。遅刻します」ということになるでしょう。できる男性ほど介護に参加していきます。その人は企業にとって大変重要な人材です。ということで、企業のシステムを変えざるを得なくなります。必要性があるところなら変わるでしょう。現在のパートで働いている女性たちの働き方に、男の人たちがどんどん近づいていくいるわけです。
 これからは道具立てとしても、情報化の道具やシステムが普及しますので、在宅で就業したり、専門家としてフリーな働き方の人が増していくでしょう。働き方が多様化していきます。住まいの機能が複合化します。職住が一体化したり近接していくでしょう。私は悲観的じゃなくて、現在の男性の雇用形態も多様化すると、今一番パワフルなパート的に働いている女性たち、家事もし、適当に働き、地域社会のことをし、自分の趣味を生かしていく。彼女たちはバランスのとれた生活の仕方といえるかもしれないんですね。男女性の何か暮らし方が行われ、個人の関係が多様化すると同時にコミュニティーの中で相互扶助を行える必要が出てきます。それに合わせた生活環境の整備が必要となるわけです。
 一方、高度な情報社会の進展とともに住まいは情報機器化するはずです。住宅そのものが単なる空間ではなくて、情報の受発進の基地となり必要な道具立てや仕組みがセットされた空間となることでしょう。それと比例して生活環境の中に自然環境にポイントが置かれてほしいとと思います。質の高い生活には自然環境が欠かせません。
 米国でも、いわゆる自然環境の豊かなところで自分なりの働き方に人気が出ているようです。森林環境の中で、ハイテクの技術を使った暮らし方、その地域は森林都市のイメージがします。
 日本でも、若者たちに話すと、共感が大きいです。最近、森林組合の人こちと話したのですが、今森林組合に就職したがっている若者が多いそうです。しかし、雇用できる力がないそうです。きっと人の流れが変わっていく気がします。地方都市や山林にハイテクやバイオなどの新技術が導入されて新産業がおきてくるはずです。
 価値観や物の見方が変わり、心の豊かさや静かに暮らしたい人が増していくことでしょう。少子高齢化社会、情報社会、成熟社会をかけ合わせてみると、住まい、都市、コミュニティーを根本から見直す時期であり、おもしろい時期だととらえております。
 先ほども触れましたが、家族以外の人々と暮らし方に人気が出ています。グループハウジングです。参考資料は1995年、少し古いデータになりますが、グループハウジングが20%を超えています。この時点、しかも狭山市で行った調査ですが、今ではもっとこのニーズは高いはずです。住み合いのパターンはいろいろありますが、このような需要に合わせて住まいを真剣に考えてほしいものです。新しい事業が生み出されるでしょう。この場合、グループハウジングは実は建物以上に、運営管理がポイントになります。すなわち管理会社のあり方が大きいわけです。今までの管理会社は、ハード面だけの管理ビジネスだったわけですが、ソフトの面が非常に重要なんです。人と人とのお世話を焼いたり、つなげたり、争い事をさばいたり。管理人は、知的な作業ができる人が要求されます。管理人はステータスがなければならないでしょう。人を対象にするほど難しいことはないわけです。
 ハード面で多様な共用空間を持つ住まいをつくることはそう難しくはないのです。しかし、それを維持し、気持ちいい空間を保つのは、今のような管理会社がしておりますハードの管理だけではだめです。そこにソフトのメンテナンスが必要なのです。1つの例として私がアドバイスしてきたセキスイハウスが北区の赤羽に建てた集合住宅には、さまざまな共有空間がありますが、私どもは、大きなお風呂場に人気があります。男女別々、サウナもあります。有料です。1日100円で、いわゆる温泉に毎日行ったような気分でリフレッシュできます。朝6時から夜中の12時まで開いています。今や専用住戸のお風呂場は倉庫になったりしています。それは掃除から解放されたり、住戸にある小さなユニットバスでは得られない心身のリフレッシュが何よりなのでしょう。それは共用だからこそ得られる場です。お風呂で裸のつき合いをし、その隣の食堂で1杯飲んだりしながらお父さんたちはコミュニケーションをとっています。また食堂では、朝が350円、夜が650円で食べられます。回数券が利用されています。会社の食堂の雰囲気です。そこでは、隣のおじちゃんと他の家の息子が一緒に食べていたり、おすそ分けが始まってもいます。
 他に、保育、託児室があります。これは地域の住民の人にも有料で貸し、専門の保母さんがおります。地域の子供部屋になります。あるいは学習室兼図書室があるんですが、これは半年で2000冊の本が集まってきています。週刊誌などは自分が読み終わったものを捨てずに持ち込まれています。あるいは受験シーズンには子供が勉強したり、活用されています。コピーの機械も事務所にはあります。
 秋田の人間関係が重たいので、おばあさんが出てきて終のすみかといってもいます。その方はお花の先生をしていた経験から、ちょっとした花を、荒川べりでつんできたり、安いお花を買ってロビーや食堂にいけています。管理の方が「○○さんのお花です」と書いています。「おばあちゃん、ありがとう」といって、住民がつながっていきます。また、ビデオテープのマニアのおじいさんはひとり暮らしですが、黒沢明が亡くなったときには、エレベーターの中に「ビデオを貸し出します」というチラシを掲載したら、7人の人が貸してほしいといってきたそうです。緩やかな人のつながりができています。若者もこの集合住宅を誇って友達を連れてくるそうです。
 この建物は管理会社が一括借り上げをし、世代の偏りがないように配慮され、多世代交流型、外人なども住んでいます。ファミリータイプとシングルタイプの間取りになっています。合計で72戸です。グループハウジングには小さな戸数の方がいいという説もあります。あるいはコーポラティブがいいという人たちもおります。
 私は、賃貸で気軽な方がいいと思っております。この場合は敷金、礼金制度で共有費が少し高目ぐらいのことです。やはり72戸あるので経費を安く抑えていくことができますし、また人間関係も、大勢な人数ですから、少し緩やかになれるんです。7〜8人の場合では、いいときはいいんですが、こじれてきたときにはつらい関係になります。また、コーポラティブ方式では、大きなお金が動きますから、1人が抜けたら、そこでまたそのプロジェクトはストップしてしまいます。グループハウジング中に1人亡くなったとき、財産権などの問題が出てきたとも聞いています。
 賃貸の方が気軽に住めます。このような住まい方を必要としているのはライフステージが限られています。子育てピーク時や高齢期に入って自立して暮らせるが少し不安な時です。需要は高いので、これからはふえてくるでしょう。大都市周辺の農地活用として注目されてもおります。広い土地利用の仕方として、コミュニティー面配慮型の住まいができてくると住みやすいコミュニィーが生まれてくるはずです。
 生活者が求める暮らしをとらえていけば、ハウジング市場はたくさんのビジネスチャンスがあります。暮らしの場としての住まいとコミュニティー、住環境の整備が求められています。
 これから進む社会の潮流を踏まえて、すなわち情報化社会、少子高齢社会、成熟社会の中で安心して、快適な暮らしの具現化を供給側である企業や行政のあり方が問われています。ソーシャルマーケティング的な視点から見ていくと、個人、家庭、地域をおのおのが元気で、さまざまな関係の中でコトやモノが見えてきます。生命連鎖を基本としたビジネス連鎖が起きてくるでしょう。
 これからのオピニオンリーダーは自立型、ネットワーク志向の人たちで社会をリードしていくと思われます。コミュニティーの中にはさまざまな価値観の人が住み合い、お年寄りも社会に参加し、評価を受け、自立した暮らしを求めています。人々がつながっていけば消費は喚起されていきます。例えばおばあちゃんもちょっとお小遣いが稼げたり、人の集まりに出ていく機会が多くなれば、お化粧もしよう、おいしいものを食べていこうということで元気になり、コミュニティーの中で消費が活発になるわけです。
 コミュニティーファンドという話も出てきております。住民同士が小さな投資をして地域のお店やコミュニティービジネスを起こし、助け合うための資金運用の仕方です。例えば、おすし屋さんに、人々が投資しよう。1万円、10万円投資して、投資した限りは成功してほしいものですから、PRしたり知恵や情報を持ち込んできます。人の輪、ネットワークがつくられていきます。資源を持ち寄って、付加価値を築き上げていくのです。
 顔の見える、等身大の大きさだからこそ、お互いが当事者になれる関係が保たれます。生活に必要な機能をコミュニティーの中で受け取っていく。信頼をきずなにした人間関係、ビジネス関係が生まれるコミュニティーは元気で安心して暮らせます。暮らしをコミュニティーの中に根づかせながら、グローバルにつながれる社会の創出が求められています。ローカルからのスタートです。そうすれば歴史や風土の違いによる多様な地域の文化がつくられていきます。



森林化社会に向けて

 今まで述べてまいりましたように、今日の問題は複雑に絡み合っています。暮らしの足元が空洞化の中で、個人化社会となってきました。元気に安心して暮らしたいと願う思いはだれも根本的な思いです。その実現には自然との一体の暮らし方が欠かせません。
 多分21世紀は、森林化社会になっていくだろうと期待しています。しなければいけないと思っております。このフォーラムでも、以前林野庁の平野さんが森林化社会、森林都市構想をお述べになったと記憶しております。私も平野さんの考えに共鳴しております。今までは都市に暮すには火、水、土、緑はあきらめざるを得なく、お金がかかることになっています。自然界から生まれた私たちは生き物であり、自然豊かな地は必要不可欠で大前提であるはずです。社会的に露呈してきた多くの課題も自然環境が整えれば、解決されると私は考えます。自然豊かな環境を人々は求めているのです。これからは地方都市、郊外、山村がリードする時代になるでしょう。これから活気づく要素がたくさんあります。経済面から築かれた都市文化、都市空間は閉塞感を多くの人々が抱いています。
 環境型社会を個人・企業が具体的な行動を起こして築いていかなければいけません。個々人がライフスタイルを変えねばならないのです。ライフスタイルを変えるきっかけが重要になります。時間的なゆとり、豊かな自然環境の中から少しずつ暮らし方が変わる。あるいはライフステージの変容により意識的に変えていくなどが考えられます。生活に必要なモノをすべてお金で購入する暮らし方から自分でつくる生活へ発想を変える。すなわち消費から始まらないで、生産から、何かを生み出す暮らしの楽しさを味わうことから始めればライフスタイルが変わり、エネルギーの問題も多少なりとも解決ができるはずです。そのフィールドは山村が可能性が高いのです。多様な面が変容している社会において、二元論的な思考と構造からの脱却が必要なのではないでしょうか。私も意識しながらも、ついつい二元論的な思考が頭をもたげます。時代のキーワードは「CO」と「Re」でしょう。「共に」と「再び」をぜひ評価基準の中に入れたいものです。人々の心がやわらかく、緩やかになり、仲間や環境を見わたす余裕が持てますし、時間の使い方が変容していくことでしょう。人々の気持ちや行為がお金のみで交換する社会の厳しさや、他の楽しみを味わうことができてきます。
 相互扶助による自立型コミュニティーもこのような環境から生み出されます。既にいろんな先進の事例もありますので、参考にしながら、学び、あるいは課題の中から学ぶものが多いような気がします。このところリスクを持たずに成功を夢見たり、リスクをだれも取りたがりません。新しいことや変更はリスクはつきものです。失敗を恐れている間に社会の至るところがねじれてきたのではないでしょうか。
 個々人がリスクを持ってコトが起こせる社会になってほしいものです。その中におもしろさや人生の楽しさがあるんじゃないでしょうか。私も30年来自分で会社経営をしながら、NPOを幾つかつくってきましたから、継続の大変さや合意形成の難しさをイヤというほど味わっております。大きな住まいや宝石とは縁がないんですが、おかげさまで、おもしろく、楽しく、何よりも元気に過ごしています。
 これからは二元論的思考から生態学的な物の見方で住環境を構築してほしいものです。
 ぜひ森林都市をイメージしてその方向に歩を進めてください。先端技術の中で、「グリーンベンチャー」の枠をつくり、ハイテクやバイオの技術で質の高い暮らしを提供していただきたいものです。
 お約束の4時半が来ましたので、大変駆け足に乱暴な論を展開しましたので、おわかりにくい点も多々あったと思いますから、ぜひご意見とともに、いろんなご質問をいただけたらと思います。ありがとうございました。(拍手)



フリーディスカッション

司会(谷口)
 どうもありがとうございました。
 新しい家族の形とか人間関係とか、それをもとにしての住まいとか環境についての話題提供がありましたが、今お話があったように、後30分ありますので、どなたかご自由にご質問、ご意見その他いただきたいと思います。
 最初に私から質問をさせていただきます。お話は大変おもしろく伺いましたが、結局、こういう話は物づくり以前に、社会システムとか、関係の構築ということが非常に重要だろうと思います。それがまさにソーシャルマーケティングだとおっしゃりたいのかも知れませんが、あるいは一般企業の人とか市民は、政策的にそういうことをやるためにはどういうことをやったらいいのか、そのあたりをお教えいただきたいと思います。

澤登 
 私もいろんな住宅関係の仕事をしているいらっしゃる方たちとお話し合う機会が多いんですが、暮らしそのものはちょっと横に置いておいて、建物から入るわけですね。お1人お1人が自分の暮らしや身近な人たちの暮らしはどうなっているのかの気にするというところから始めるのがよいと思います。まずはご自分の思考や行動が基本ですから、調査のとり方にしてみても、定量調査では生活の実態はつかみにくいものです。何%、どうだといわれても、中間的な日常的なものがなかなか見えにくいのです。
 1人の生活者として、自分のわかるところ、疑問を抱くところなどを切り口として社会を見たらいいと思います。そこからどんどん関係づけられた暮らしが見えてくるはずです。ビジネスの中心より、その脇で新しい芽が生まれてきます。今までなさってきた仕事の中で、これしかないという見方からでは何も見えないんじゃないかという気がするんです。同質で固まっていても見えない。新しい風、新しい力は外にあると私は思うわけです。

石黒(中央大学) 
 中央大学で学生をやっております石黒といいます。ほかにもいろいろあるんですけれども、そこの立場でお伺いしたいと思います。
 きょう出てきて非常によかった、2時間かけて出てきたんですけれども、非常にいいお話をお伺いすることができたと思って感謝をしております。私自身も、いろいろこういう方向で模索しているところがありまして、参考になりました。感想ですけれども、ここにおられるかなりの方が、今聞いたお話を理解するのには10年、20年かかるんじゃないかという気がしないでもない。私自身もこういう思考をして10年ぐらいたつんですけれども、それでも、まだ全部理解できないという感じがします。女性の視点になれるか。男性のサラリーマンということで限定しますと、こういうお話が理解できるにはかなり時間がかかるという感じ、これは感想です。
 質問なんですが、1つは、コミュニティーファンド、これは私が非常に興味を持っている分野です。これがローカルな市場が成り立つのか。ファンドがいいのか。債券みたいなのがいいのか。株というのはちょっとあれですが、債券かファンドか、その辺のところが本当に成り立つのかどうか、市場性があるのかどうか、ここがちょっと気になるところです。
 それと、もう1つは、最後のところはちょっと飛躍があったので、ソーシャルマーケティングの中で森林化社会がいきなり出てきた。先生の生い立ちとか、いろいろ私知っていますので、それで出てくるのはわかるんです。昔ちょっと林業の話で、林業というのは大変でビジネスにならないというお話をお伺いしたことがあります。その思い入れというのはわかるんです。ただ、なぜ森林化社会か、ちょっと飛躍があったような気があるので、もうちょっとそこのつながりをいっていただけるとありがたいと思います。

澤登 
 コミュニティーファンドの件ですが、私もこれから学んでいきたい部分です。昔、よく私の母親あたりは無尽というものをしていたんです。無尽をしながら、女の人たちがお小遣いを使ったり、何かするときに必要な時期にそれを出し合っていました。多分信用組合等も無尽の発想から誕生してきたと思いますが、身近なところに成功者をどんどんお互いにつくっていく、そのために必要な経費は出し合っていく。生きたお金の使い方を考えていく。個人の資金運用の面から考えていく素朴な発想です。現在商店街も、大型店が出てきて、商店街が崩壊しています。人と人とをつなげてきた機能がポシャっちゃうわけです。したがいまして、商店街をはやらすためや人と人をつなげるために必要な経費を身近なところから集める。そのときに胴元、だれがどうするのか信用をどうつけていくのか課題はありますが、法人格を持つ組織がつくれないものでしょうか。
 最近、今ナスダックとか、投資の話題が出ますので、ぜひ専門家で検討してください。大きな話だけでなく、もうちょっと小さな組織、例えば匿名組合、市民バンクなど、NPO的要素を持って考えてみたらと思っています。
 思いついて行動することは結構簡単なんですが、継続していくためにはやはりマネジメントがしっかりできてなければいけないのに、小さいところほどマネジメントができてないんです。市民起業家のための資金調達、運営管理のサポートが必要です。この分野で経験を積んできたのが、企業での男性たち、経営管理や組織のまとめ方を心得てきた人たちがいるわけですから、男性たちがコミュニティーの中に入っていくきっかけにもなるわけです。今までのノウハウをコミュニティーの中に、持ち込んだら活躍の場がつくれます。特に金融関係の経験がおありの方はコミュニティーファンドの研究していただきたいと思っております。お金の集め方や維持して、信頼性の獲得など難しい問題があると思いますが、そこをぜひ考えてほしいという思いです。
 後の質問の森林化社会に関しては話をはしょってしまいました。実は私が取り組んでいるのに「Mori・Moriネットワーク」があります。丸4 年前にその当時林野庁の長官であった入沢さんとの雑談の中からスタートしました。都市と山村の暮らしを結びつけていく。女性たちが中心になって活動してます。もはや女で固まる時代ではないのですが、山村の方はまだまだ女の人の活躍の場は少ないことと社会全体に生活者の視点が弱く、生活実感の中から課題を出し、その解決を企業や、自治体が受けとめる関係を大切にしています。現在では男性が30%以上になりました。
 「コミュニィーフォレスト(協働の森づくり)」の活動を1つの枠組みにしています。都市と山村の人々が資源を出し合って共に山村の活性化をはかっていきます。3年間試行錯誤を繰り返し、これからの山村に企業社会で活躍した中高年の男の人たちがコーディネーターとして入っていくのではないでしょうか。
 林野庁の政策も変わり、今までは森林づくりイコール林業と解した感がありますが、これからは森林の総合利用に力を入れていくようです。今までの縦割りの行政から多様な角度から森林の活用を考え、行動できる時期を迎えています。山村には山があり、川があり、自然環境が残されています。体験学習を通して次世代の子供たちに思い切り自然の力を学ぶ機会を手渡したいものです。一方、都市の中で中高年のセカンドライフの場として活躍できるはずです。例えば、地域の産物の売り方、加工の仕方など、まとめ上げていくことが山村では苦手のようです。また、パソコンやインターネットの世界もまだまだ普及していません。私は中高年の人たちを自由人とイメージしながら、ニューワーカーとして、新しい働き方のオピニオンリーダーになれると思っています。
 家庭から自由になったからこそ自分のこだわりを社会に還元できますし、今まで企業で培ってきたコトを社会に還元してほしいものです。森林社会のリーダーにふさわしいのではないでしょうか。山村には中高年が山村の仲間になる1つのキッカケとして自分空間をその地でできた木材を利用してつくり、土地を借りて住むことです。都会の住まいは家族とともに暮らす空間、山村は個人生活を楽しむ場です。
 男性たちが自分空間をつくらないとだめになっていくと思います。都市は地価も高くとても自分空間などは持てないわけで、家族から離れて1人になるのはいかがでしょうか。小さな話ですが、既にMori・Moriネットワークでは、6畳の自分空間、屋根裏部屋3畳のモデルを飯能から15分ほど入った東吾野の森林組合と建てました。好評のようです。
 一級建築士のデザインしたセンスのよい小径木を使ったムクでつくられ、180万円の住宅です。そこにはバイオのお手洗い。設備の費用が高いようですが、300万円以内でできます。都市に近い場所に、10人ぐらいでも移り住んでくるとその地域は変わり始めていきます。
 都会にある家と行き来しながら暮らし、マルチハビテーションはいかがでしょうか。田舎暮らしを求める男性は多いようですが、妻がついていかないのではといいます。女性はついていかないと思わなきゃいけないんです。女性が一緒に行くと思うところに大体間違いがあります。(笑)ですから、もっと自由にすればいいんです。できた野菜を持って帰ったりすることで、妻の気持ちも山よりになっていきます。山村の人々との交流を通して新しいビジネスもできるはずです。例えば、環境条例ができて、山村でも漁村でも環境に配慮して業務を行わなくてはならず、生ごみ処理機械とか、業務用の新しい機械が必要ですが、メーカーの企業は、隅々まで営業はできないんです。そこで、その地区に住み始めたニューワーカーが、コンサルをしながら、橋渡しながら収入を得ることもできるでしょう。自分を大切にしながら、直接に地域社会に参画した職場にもなります。山村は交流の場であり、働く場となります。世の中シニアベンチャーが話題になっていますが、50過ぎてベンチャーをゼロから起こすのは大変なエネルギーが必要です。長いこと企業にいた人はベンチャーはつらいことでしょう。もう少し自立して稼げる機会があればよいと考えます。緩やかなクラブ組織的モノかもしれません。そんなことを考えながら、山村と中高年を結びつけてみました。この話をリタイアメントしつつある男性たちと話し合うと、これで日本の男性も長生きできるかもしれないともいっていました。このような人たちによって森林化社会は少しずつ具現化していくのかもしれません。
 また、山村のフィールドを生かして新規産業や新規事業が誕生していくでしょう。例えば、薬品や食料の資源が、山の中には豊富にあります。それを見分ける目、あるいは育てる力がないだけです。
 例えば、杜仲茶も、日立造船がスタートを切りました。熊本県の東海大学の戸田先生という植物学者との合作と聞いております。これから多様なモノやコトが生み出されていくことを楽しみにしています。
 一方、若者も情報化の進展により、自然環境豊かなところにほどほどの都市の文化を享受しながら暮らしたいと思っている人も多くなりました。きっとこのような若者の新しい暮らし方がかっこよく映る社会が21世紀に訪れると思います。情報化のめざましい発達がそうさせると私は考えます。
 したがいまして、これだけは確かにいえます。自然豊かなところで暮らすことは気持ちがよく、だれしも望みます。これからは我々が自然界の産物であることをすべての上位概念に置かねばならず、社会の大前提にすべきです。幾らコンピュータが発達しようが、どんな社会の仕組みができようが、これは人為のつくった仕組みにすぎないのです。根本は、我々が命ある生き物であったという前提を壊してはいけないのです。多分男性たちは生き物や命という言葉を口に出すのは恥ずかしくていえないかもしれません。女性たちは日常の中でご飯をつくったり、子育てをしたり、介護しながら、命というものに対して正面切ってかかわっていますから。女性たちからメッセージを出す時代かもしれませんね。
 森林化社会は女性たちがリードするのでしょう。崩壊精神のないところには創造性はないのです。暮らしやすい社会を築くためにも、21世紀のイメージをつくりたいと思います。私は、自然の持つ力、自然が教えてくれるものを素直に見ていったら、何か見えるんじゃないかと思っています。
 整理されておりませんが、自然を取り戻す、自然をすべてのものの土台とした生活基盤を再構築しなければならない時期を迎えています。

赤松(藤沢地区市民会議)
 藤沢のまちづくりの担当をいたしております赤松と申します。よろしくお願いいたします。
 先生のお示しになった今後の展開は、私自身としても確かにメジャーな流れになる部分だと思っております。ただし、私自身もまちづくりの活動をさせていただいておりまして、そういった活動に参加していただいている方は1000人で3人とか、あるいは下手をすると、1万人で3人とか、そんなレベルだと思います。
 そうした中で、こうしたものがメジャーなものになっていく転換点をいつごろだと想定されているのか、お話を聞きたいと思います。

澤登
 いつの世にも、気がついた人が行動し始めていくと思っています。今までとがっている人たちは消されてしまった。標準を基軸にして物事が進んでおりましたが、これからは暮らしのさまざまな場面で多様化が課題になります。各人が情報を収集したり判断する力をつけることです。自分の気持ちや行動に素直になることかもしれません。
 社会全体がどうなるといった論議の前に自分はどうしたいのか、1人1人の個人から社会は成り立っていることを忘れないでいたいものです。
 参考までにこんな話があります。明治時代に100年後を調査した本があったんですが、そのときはほとんどの人が、「2年先のものがわからない。100年後がわかるか」というんですが、10人ぐらいの人は、「すべきだ」という意思の力、夢の力で社会はつくられていくと答えられていました。いつの世にもそうじゃないかなと思っております。

山枡(三井不動産株式会社
 三井不動産でまちづくりを担当しております山枡と申します。
 僕自身は、山間部よりも、雑踏と緊張感の中で生活をしたいと思っているんですが、先生のお話を聞いていて、「ああ、確かにそうだな」と自信を植つけられたんですけれども、私が入社して10年ぐらい手がけたまちづくりがございまして、これは板橋のサンシティという住宅団地です。4万人です。
 先日NHKで「森を育てた団地」ということで放映をされました。これが当時はオイルショックの年で、その前に40階構想で、靴でも入れるマンションということで、かなりモダンなものを考えていたんですが、オイルショックですべて挫折、中断をいたしまして、そこで考えたのが、それでは、木を1本でも多く植えよう。
 そのときに私自身、木の価値は一般的な価値ぐらいしかなくて、予算も少なかったんですが、極力植えたわけです。5万本ぐらい植えた。それが22年たちまして、住民の方々が緑を守り育てられて、緑を介在したコミュニティーが随分成熟といいますか、できて、しかもクラブ活動も30ぐらいある。緑を育てる過程でいろんな関係が生まれてきた。そういうお話を放映した。
 子供たちも大きくなって外に出た。しかし、結婚して、その団地の中古マンションを買って帰ってくる。また、田舎にいるお父さん、お母さんを呼び寄せて、住居を近くに買って住む、3世代で住むようになった。非常に定住性の高いマンション。おっしゃる森林化社会を都心の中で、都市の中で実現した例ではないかと考えて、大変気を強くした次第でございます。
 感想というか質問と申しますか、私自身はずっと都市の中に住んでいたいと思うんですけれども、先生は、これから後期高齢者になられて、どんな住宅、どんな町に住みたいとお考えになっているのか、その辺ちょっとお話を伺いたいと思います。

澤登 
 私は風の人だと思うんです。土の人と風と人がいたら、風の人はいつでも動き回っています。行ったり来たりしているような気がしております。やはり都市も享受していますし、いろんな意味で流れ者だと思っておりますから、多分今後もそうだと思います。
 先ほどの方の答えにも関係してくるかと思うんですが、どんな組織にも2割の行動的な人と、何も動かない2割と、中間的な人が残りの人たちだといわれておりますが、多分私はいつもバタバタやりながら、動いているグループでしょう。
 最後に縦割りの仕組みが根づいている現在、足りないのは横の串で刺していく人たちです。人や暮らしをつなげていく役割が必要です。
 同時に、各人が総合力を身につけることでしょう。総合力というのは体験から始まり、自分はどんな行動をするのかを考えることが大切だと思います。その際は、おもしろいとか、楽しいとか、おいしいとか、素直な気持ちの実感を大切にしたいものです。
 「快の力」から骨太の生活者になれると思います。時間が参りました。本日はありがとうございました。

谷口
 どうもありがとうございました。
 時間になりましたので、きょうはこれで終わりたいと思います。どうも、皆さん、ありがとうございました。(拍手)


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