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第144回都市経営フォーラム

都市文明の危機

講師:井尻 千男 氏
  拓殖大学教授・日本文化研究所長


日付:1999年12月16日(木)
場所:後楽国際ビルディング・大ホール

 

1.流通革命と都市−市場原理の遠心力

2.情報革命と都市−仮想空間と遠近法の喪失

3.都市のボーダーレス化−中心の喪失とスプロール

4.集住する根拠はあるのか−都市原理の危機

5.都市の規模−人口論の再構築

6.リアリズムの回復−身体性の新しい意味

7.人生の舞台としての都市−時間と空間のリアリズム

8.市場原理から共同体原理へ−連帯と共生の場

フリーディスカッション



 ご紹介にあずかりました井尻でございます。
 1時間半ほどお話し申し上げまして、その後に質疑応答したいと思います。
 きょうは私が講演するさまざまなケースの中で一番レベルの高い聴衆の前でお話しするという気持ちで臨んでおります。したがいまして、少々の飛躍をお許しいただいて、勘のいい皆さんに補強していただきたいと思います。
 最初に私がなぜ都市論をやるようになったかということをちょっと申し上げたいのです。私は少年のころから都市とか建築、美術を見るのが大変好きな少年だったわけです。ジャーナリストになって、50歳に近づくころ、自分のジャーナリストとしての最終コーナーをどんなふうに展開してみようかとひそかに思ったわけです。
 文化、哲学、美学、それに社会学の経済、政治、それらをトータルに議論できる形の都市論を考えてみたいというのが私のモチベーションでございました。つまり、人間のあらゆる条件、あらゆる要素が露出するのが都市だとすれば、そういう都市論があっていいではないかというひそかな野心を抱きまして、都市論に取り組んだというわけでございます。したがいまして、私は、工学的な知識はほぼ皆無でございます。ということを申し上げた上で、きょうは「都市文明の危機」ということをお話ししたいのです。
 私が、事務局長の谷口碩さんに最初に提案したのは、「都市をつくる根拠はあるのか」ということでした。ちょっと言葉が飛躍しておりますが、それに対して谷口さんが、「都市文明の危機」という非常に落ちつきのいいタイトルをつけてくださったわけであります。なぜ、私が都市をつくる根拠ということを今あらためて問いたいのかということから入りたいと思います。



1.流通革命と都市−市場原理の遠心力

 例えば、皆さん、「流通革命」とか「情報革命」という言葉は耳にタコができるほど聞いており、それなりにお考えであろうと思います。私はこの2つの革命というものが一体何なんだということを都市論の立場から考えたいのです。流通革命ということがいわれるようになってから20年から25年ぐらい。情報革命は10年、15年ぐらいとしておきましょう。そういう25年から30年ぐらいのスパンで、今振り返ってみたい。流通革命って一体何だったんだ。一言でいうと、私は「沈黙の経済」に突入しているという言い方をするんです。この「沈黙の経済」というのは言葉を必要としない経済。それは即、人間をいかに省いていくかという流通システムといってもいいわけです。
 つまり、経済、物を媒介にして人間がコミュニケーションをする。あるいい物づくりの人間が丹精込めてつくり、それを理解する人の手に渡る。そこに信頼と永続性という関係が発生する、そういう古典的な人間関係を媒介にする経済というものから、はるかに遊離してしまった上に、言葉が省かれる、つまり人間が省かれる。「沈黙の経済」に入っていく。これが一番著しい特色だと思います。日本のような国に住んでおりましたら、小銭さえ持っておれば、言葉は一切不要で生きていける。買い物ができる。極端にいえば、バーコードを読み取るレジスターの音ぐらいしかない。そういう意味の沈黙であります。沈黙ということは、人間関係のコミュニケーションが非常に希薄になっていきゼロになるということです。
 もう1つ、振り返ってみますと、マーケットの原理というものが猛烈な遠心力で都市拡散している。つまり、都市のスプロール化といわれるような遠心力の原理は、マーケットのいわば生理とでもいうか、マーケットの原理、その遠心力によって都市がスプロールしたというわけです。
 では、昔からマーケットは遠心力だったのかといいますと、例えば、古代の地中海で「フェニキアの商人」という言葉があるわけです。「ユダヤの商人」の前のフェニキアの商人、あるいはその後のユダヤの商人でも結構ですが、ボーダーを楽々と越えていく経済があったことは間違いありません。同時に、そういうボーダーレスな経済に対してボーダーフルな経済といいますか、いわば都市共同体であれ、地域共同体であれ、そういう共同体の中の経済循環というものがあったわけです。
 つまり、ボーダーフルな経済とボーダーレスな経済とでもいいましょうか、その両者のバランスというものがあった。しかし、流通革命の過程でそのバランスが破壊された。いわば遠心力とボーダーレス。このボーダーというのは国境だけじゃありません。都市というものを共同体としてイメージしますと、そこにおのずとあるボーダーというものがなくなっていく。そういうことが流通革命の結果生じた。そんなふうにいえると思います。
 かつて、共同体内の経済循環、地域循環、内部循環という言葉を使ってもいいと思いますが、そういう経済は、いわば人間と人間を取り結ぶ、Aという人間とBという人間の信頼を取り結ぶ媒介として経済があった。長期的な取引が成立した。それを私は「饒舌の経済」という。つまりおしゃべり。この饒舌というのは、何も話し言葉だけじゃありません。心ひそかに相手を信頼すること。あるいは相手に猜疑心を抱くこともあるかもしれませんが、信頼と不信をめぐる、いわば言葉の領域が非常に豊かな経済。そういう意味で、かつてあった「饒舌の経済」が今「沈黙の経済」に突入している。都市というものを共同体的にイメージするとき、そのことが大きな意味がある。東京のようなところにいますと、都市というものを共同体的に考えにくいと思います。しかし、仮に、わかりやすく人口10万以下ぐらいの都市でしたら、緩やかであれ、そこに共同体がある。そしてその共同体をどう活力あらしめるために経済がある。今も全国津々浦々で議論されていることの根本的問題がそこにあると思います。



2.情報革命と都市−仮想空間と遠近法の喪失

 次の、情報革命ということを考えるときに、今からもう7〜8年前になりましょうか。アルビン・トフラーが『第3の波』という本を書いて、日本でもベストセラーになったわけです。このトフラーは、文明批評的ジャーナリストといっていいと思いますが、彼は、「最早人々はどこに住んでもいいのである。エレクトロニクスを装備すれば・・それをエレクトロニクス・コテージという言い方を彼はしておりますが・・そういう装備をすれば、山の上であろうが、森の中であろうが、どこに住んでも、何ら支障はないのである」。こういうふうに高らかに宣言するわけです。
 彼は、その『第3の波』の中で都市論をやっているわけじゃないんです。ただ、そういうセンテンスに出会ったときに、多分皆さんも「待てよ、これは反都市宣言かな」。つまり、最早人々が集まって住む集住の理由なんかありゃしないんだ。トフラーの修辞学というのは、ある傾向を非常に端的に要約して、単純化するという癖があるわけです。これはつまり、人々が集住する根拠はもうない、エレクトロニクスを装備していれば、どこに住んでもいい、こういう議論の仕方をするわけです。それをあたかも技術革新によって人間がすばらしい自由を得たという形で展開するわけです。
 もう1人、典型的なのはビル・ゲイツです。ビル・ゲイツはたくさんの本を書いていますが、例えば、『ビル・ゲイツは語る』という大部な本で繰り返されているキーワードが2つ、3つあります。1つは、隣に住む人間と地球の裏側に住む人間は、等距離、等価値だという文脈です。隣に住む人間、地球の裏側に住む人間、これが等距離、つまり瞬時にしてコミュニケーション可能だという意味で等距離である。つまり、空間の障害は克服された。あるいは空間と時間というものが克服できたんだと宣言します。
 時間と空間といえば、古来人間は、時空の桎梏、桎梏というのは手かせ足かせのことですから、時間と空間の手かせ足かせを受けているのが人間の存在なのだ、その桎梏から解き放たれたということをビル・ゲイツはいいたいのでしょうね。
 ビル・ゲイツは、もう1つ、「摩擦係数ゼロのマーケット」というイメージを提出しています。つまり、マーケットにはいつもマーケットにそごをきたす摩擦があるんだという考え方です。それは情報というものの偏在、あるところに情報があって、あるところに情報がないという情報格差が、マーケットの摩擦を生む、したがって、もしその情報格差がなくなれば、摩擦係数がゼロに近いマーケットが成立するはずだというイメージなんです。
 ビル・ゲイツは、ハーバード大学のときには経済学をやっていたそうです。大学の選択科目は、日本の大学と向こうと違いますから、一概に日本でいう経済学部といっていいのかどうかは、ちょっと疑問ではありますが、経済に大変関心を持っていたビル・ゲイツらしい言い方です。
 これはインターネットをすべての人間が装備し、すべての人間がマーケットに耳を澄ましているということを前提にしないと成立しないわけですが、人間はそれほどマーケットに関心を持つか持たないかという散文的な疑問は別です。歴史的に形成されたマーケットの地域的限定、それが地域社会であれ、国家であれ、そういう地域的な限定を取っ払って、グローバルマーケットが成立するというイメージの中で、「摩擦係数ゼロのマーケット」というわけです。
 この2つの言い方、2つのというのは、隣に住む人間と地球の裏側に住む人間が等距離、等価値だということ。それから、「摩擦係数ゼロのマーケット」が成立するんだというこの2つは、先ほど申し上げましたように、時間と空間は最早桎梏ではない。つまり、手かせ足かせではないということを高らかに宣言しているといえると思います。
 こんなふうに考えますと、今のエコノミストたちがグローバリズム、ボーダーレスエコノミー、グローバルエノコミー、つまり国境はない。地域社会のボーダーも都市の境界もない。そういうイメージになだれを打って、インターネットの普及が象徴する情報革命というものに乗るんです。
 さて、ここまで来ると、今いった2つの革命は、古典的な意味で都市をつくる根拠はないよといっているのと等しいと私は受けとめるんです。
 これは私が現実にそうなるといっているんじゃありません。人間はものすごく複雑な生き物ですから、そうはいくまいと思っているんですが、論理的帰結としてそうなるというわけです。エコノミストはエコノミストで、そういう摩擦係数ゼロのグローバルマーケットというものをイメージして、それが未来だと確信していますから、現実にそうだということと、論理的構造がそうだ、可能性として将来そうなり得る、このことを議論するということがクリティックといいますか、批評の本質であります。
 「流通革命だ、何だといったって、まだまだ人間関係を取り持つ経済はたくさんあるよ」という議論はそれなりに成立するんですが、時代のある方向性といいますか、その論理的帰結をどれだけ先取りして議論するかということが、議論のおもしろいところだと私は思っておりますので、2つの革命というものが、都市をつくる根拠を相当破壊しているといいますか、取り壊している。そのことを前提にしないと、現代の都市論が成立しないと思います。
 建築という単体を議論するのは、どんな時代になろうが議論できるわけですが、都市というものをどうするのか。その都市も、東京や大阪のような巨大都市を議論するのではなくて、県庁所在地以下ぐらいの規模の都市を考えますと、この2つの革命がどのくらいの深傷を負わされているかということを想像しておかなければならないと思います。
 そういうことを抜きにして、地方都市の活性化もなかなか難しい。私にいわせればほとんど不可能だと思っています。地方都市の存立の条件って何だという議論をせざるを得ない。これは東京や大阪でいうことと、仮に10万都市で、あなたたちの10万の町がきょう一瞬にしてなくなったって、日本じゅうだれも気がつかないかもしれないぐらいの薄弱な根拠しかなくなっているんだ。そのことを自覚することによって、何とか10万の都市を根本的に考え直し、復活させようという議論をしないとだめだというのが私の姿勢なんです。 
 そう考えますと、どうしても必要になってくるのは、国土計画ないしは国土というものと都市をどういうふうにイメージしていくかということです。私は、建設省の国土計画と都市計画の関係を考える研究会と、産業政策と都市計画を考える、2つの研究会を掛け持ちしているのですが、これは非常に大事なことでありまして、均衡ある国土、日本列島全体のバランスをどういうふうに考えるかを押さえた上で議論しませんと、地方都市の存立の条件といいますか、存立することの意味はまことに薄弱になっております。
 私は、断固擁護派なんです。一応存立の条件なんかありゃしないんだと脅してはみるものの、しかし、何とか存立の条件を議論し、整えるべきだというのが私の立場であります。あるいは私の哲学と申し上げていいと思います。
 そういうふうに考えますと、都市というものは、何なんだ。1つのイメージは、古い言葉でいえば、緩やかな共同体だ。まずその答えが出てくる。この共同体という言葉を使えば、ヨーロッパの人々、特にドイツ人は共同体論が非常に好きです。都市というのは共同体に決まっている。イタリア人に聞いても、都市というのはこの地域社会、完結度の高い、自立した地域社会という共同体です。大体ドイツ人も、イタリア人も、フランス人、スペイン人もそうですが、サッカーの熱狂を見ていると、地域共同体の旗を振る、地域共同体を代表する戦士が出場して戦っている。形を変えた戦争みたいな興奮をするというのは、あれは地域共同体の成立している証拠なんです。
 私が日本のJリーグが発足したときにまず疑問を呈したのはそういうことなんです。日本のJリーグが熱狂的に盛り上がるかどうかというのは、地域共同体をどれだけ愛せるかということの関数であるというのが、終始一貫私の見方であります。
 この地域共同体をどう自覚しているかということは、その時代によっても大変違いますし、マスコミや情報によっても違うんです。日本人は、情報革命、流通革命といったら、何かいいことが起こるに決まっているとほとんど疑いを持たない。むしろ疑いを持たないというよりも、あるトレンドというものはもう抗しがたい。それについて是々非々をいっている場合じゃないという意識なんです。空気です。山本七平流にいえば。空気がある流れをつくったら逆らいようがない。そんなものに逆らっていたら、文章1つ書けない。
 ジャーナリストの実感で申し上げますと、人間が文章を書くときに、流れに乗って書いていれば、文章というものは鼻歌まじりです。少なくとも私においてはそうです。流れというもののうさん臭さ、あるいはその中に多々込められている疑問符に1つ1つこだわったら、文章というものはなかなか書けない。ほとんど煉獄状態になるぐらいの苦しい思いをするんです。私自身そういうことを経験してきたので、鼻歌まじりで文章を書いた覚えはないと申し上げておきます。



3.都市のボーダーレス化−中心の喪失とスプロール

 さて、そういうことで、2つの革命によって起こったことの1つは、都市においては、遠心力が徹底的に働き、求心力は極めて希薄になる。求心力はほとんど喪失したといっていいと思うんです。この中心の喪失というテーマは、20世紀の哲学の最も大きなテーマであります。それは当然、「神は死んだ」とニーチェがいって以来といってもいいですが、神を失った時代の求心力は何だという文脈になるわけです。
 有名なのは、ハンス・ゼードルマイヤーの「中心の喪失」という哲学論があります。これは、美術史、美学的な見地なので、直接的に都市論に援用することはほぼ不可能です。ただ、構造的にいえば、中心を失った現代人の精神の形がそもそも都市に反映しているんだと、ワンクッションつけると、都市論にも役立つヒントは多々あるわけです。
 私の見るところ、2つの革命が結局は求心力を失う。つまり、遠心力によって都市がどんどんスプロールしていくんですから、当然中心は喪失される。そのうえ今でいえば、製造業の空洞化とか、アウトソーシング、途上国へどんどん製造業を移してしまうとか、あるいは地域循環が確認されるとか、皆さんもさんざん経験されていることがボーダーレスエコノミーの根本的な問題になるわけです。
 さて、そういうことを考え、都市論に戻しますと、例えば10万の都市は相当程度、共同体的なものだと考えることによってしか存続の契機をつかめない。いやいや、都市はマーケットだよという人がいます。けれども、マーケットの原理と共同体の原理というのは、歴史的にいえば、いつだって、激突しているわけです。2つはなかなか相いれないんです。そのことを最もみごとに描いているのは、マックス・ウエーバーの『古代ユダヤ教』です。その話をすると、それだけで時間をとってしまいますから、ポイントだけ申し上げます。
 つまり、古代ユダヤ教は、利息論、利息を同胞から取っていいか悪いかということが大問題になるわけです。旧約聖書の申命記の中に、同属から利子を取ってはいけないという利子取得禁止の文章がある。ただし、異教徒からはこの限りではない。これなんです。つまり、共同体の原理は利息を取ってはいけない。お互いに助け合う原理なんだ。ただし、異教徒あるいは異民族に対しては利息を取ってもよろしい。このただし書きによってユダヤの金融業は成立するわけです。異民族、異教徒のところで、ユダヤが金融業のネットワークをつくっていく。
 マックス・ウエーバーがいっていることは、こういうことなんです。対外の倫理、外に向かう倫理と、対内の倫理、つまり、共同体ないしは家族、家族的な共同体の中には、仮に愛と贈与、そういう倫理学があるじゃないか。外に対してはマーケットの倫理学があるけれども、内と外の倫理学は違うんだ。これがマックス・ウエーバーのユダヤ論の基本的構造なんです。
 確かに明文化したのは、ユダヤ教の申命記かもしれないけれども、共同体の原理とマーケットの原理が違うという程度のことならば、あらゆる民族がやってきた。それをやってきた民族だけが今生き残っている。つまり、共同体の倫理学を全然持てなかったら、とっくに民族移動とか戦争で消滅しています。だから、今日民族がある文化を持って生きているとすれば、その民族は長い間、対外倫理と対内倫理を使い分けてきた。それで生き残っている。日本だってそうです。これをダブルスタンダード、二重基準としてマックス・ウエーバは認める。それを認めなかったらだめだということをいっているんです。ただ、露骨にやり過ぎると、少々気になるのはそれはしようがない。
 外交交渉で見ているとおもしろいですね。アメリカはアメリカで、日本や諸外国には規制緩和から非関税障壁撤廃、ニューカマー、つまり新参者を平等に扱えということを徹底的にいうけれども、国内ではすぐダンピング法発動でしょう。鉄鋼であれ、何だってダンピング法を発動して、関税をかけるとか、牽制するとかして、露骨なダブルスタンダードを平気でやります。平気でやるからいけないといっているんじゃないんです。日本人も平気でやるぐらいの才覚を持たないとだめだということをいっている。
 つまり、都市を考えるときに、都市はマーケットなのか。もしマーケットだったら共同体とボーダーがなくなって消滅している。その運命を甘受する以外にないでしょう。
 では、そのマーケットの原理、この遠心力、拡散する力に抗して、中心を何とかつくろうとしたら、共同体の原理をもう一度自覚し直す以外にないという、この1点が今の都市論に欠けているんです。
 共同体というと、皆さん、丸山真男の影響、その他あって、何か村落共同体でお互いに相互監視でうっとうしくてしようがない。個人を抑圧するネガティブな共同体をすぐイメージするでしょう。私がいっているのは、そんなことじゃないんです。何の拘束もしなくていいんです。いいけども、地域社会の経済循環は大事だよということを市民が自覚すればいいんです。ですから、消費者という概念と市民という概念は大違いです。市民というのは、その地域社会の構成員だという自覚が市民なんです。消費者という概念は、ボーダーレスエコノミーに反応する砂のような個体にすぎない。
 ですから、消費者というのなら、ボーダーレスエコノミーに対して、インターネットを使って一番安いところから買えばいいんです。原理的にいうと、消費者は町をつくれません。共同体をつくれません。これは原理的なことをいっているんです。
 ちょっと脱線しますけれども、例えば、東急日本橋店、これが店じまいするとなれば人々が行列する。新聞、ジャーナリストはそれを映像にして、消費者マインドは健全だとかいっているが、ああいうのは、いってみれば、バッタ屋ですね、倒産したところにパッと行って買いたたいてくるのと同じです。いってみれば市民がバッタ屋風情になったんです。消費者本位という言葉はそういうところに行き着くんですね。
 そうじゃなくて、自分の人件費がどうやって保障されている、あるいは守られているという原理を自覚して、相手に対しても発動しなかったら市民ではないんです。



4.集住する根拠はあるのか−都市原理の危機

 さて、そういうわけで、今まで申し上げたことは、人間が都市をつくる根本の原理を回復しようじゃないかという提案なんです。
 皆さんもよくご承知だろうと思いますが、ヨーロッパだと、半径15キロの共同体を大事にするんです。半径15キロというのは、都市住民と農民を含んでいる。半径15キロの共同体が歴史的に成立しており、今もって生きている。サッカーに熱狂するのもそういうわけです。
 私、イタリアの都市取材に行って、何軒かのレストランのおやじさんに、あなたの食材はどういうふうに購入するんだと同じ質問をしてみますと、たいがいの人が、半径15キロというか、20キロというか、およそこの地域というか、その表現はまちまちですが、大体近いところでいいものを、いい食材を購入して、それをおいしい料理にすることが喜びなんだと答える。私のようにジャーナリストは、「そうはいっても、地中海を南に下がれば、アルジェリアとかモロッコ、エジプト、人件費の安い国があるじゃないか。西に行けばポルトガルもある。東に行けばルーマニアその他崩壊した東欧諸国があるじゃないか。人件費が安いから、農産品も安い。それ輸入して、利幅を大きくして、支店網をどんどんふやしたらどう」と質問する。
 答えはもう承知しているんです。彼らはそういうことをしない、あるいはそういうことに価値を置かない。「それを日本人とアメリカ人がやっていることは我々だって知っているんだ。ただ、我々の価値観にはならない」。これはある意味では堂々たる確信なんです。
 そういう庶民、町のレストラン、家族労働でやっているようなレストランの主人までが、そういう堂々たる価値観を主張するんです。日本人はどうしてそういう価値観を主張しないんでしょうか。情けない。
 そういう地域循環、経済の地域循環が都市を支えているんです。少なくとも10万以下の都市。ヨーロッパはほとんどそうです。10万以下の規模、日本でいえば、県庁所在地以下の都市、これを存立させるためには、そこに住む人々、その周辺の農民を含めて、そこを基盤にした経済循環をイメージして、そこに人間の連帯というものが成立しなかったら、都市をつくる根拠がありません。仮に、10万の市民がグローバルエコノミーだ、ボーダーレスだといっていたら、みんなどこかへ行っちゃったらいいんです。その町なくなったって、だれ1人、痛痒を感じない。そういうことです。



5.都市の規模−人口論の再構築

 さて、2つの革命による都市づくりの根拠の危機。都市原理の危機。この議論をするときに、人口論というのが非常に大事なんです。皆さん、ここにも地方自治体の方がいらっしゃるかと思うが、どの自治体も人口はふえることを望んでいるんです。ふえることを全部の自治体か望んでどうなるんですか。
 過密と過疎。ほとんどの自治体は悲観論しか成立しないじゃないですか。いつまでたっても、人口はふえた方がいいんだという発想にがんじ絡めになっている。それに今日における、少子社会、あるいは資源問題を視野に入れた人口論をやっているかといったら、私の知る限りやっていない。人口論の再構築が大事なんです。
 例えば、ドイツやフランスやイタリアで都市を取材するときに、私は地元の大学の歴史学者や哲学者の、都市学以外の知識人にインタビューを申し込んで話すわけですが、共通していえることは、人口と自然条件の均衡するイメージをみな持っていることです。
 イタリアでウンブリア州の知事と市長を歴任した政治家は、工場団地とか企業誘致もやってみたが、大変難しい問題だ。産業構造が変わると、またそこに就職している何千人かを労働者を動かして失業を減らすかとか、そういう経験を踏まえていえば、やはり人口はふえもせず、減りもせずという均衡が大事だというんです。
 これは大事なポイントなんです。そうでしょう。人口はふえた方がいい、ふえた方がいいって、全部の自治体がいっているということは、つまり美的秩序感覚の落ちつきどころが見えないんです。減ったら減ったでさあ大変だといって対応しているわけです。人口は均衡する。その均衡の根拠は何をもって善しとするかということが今一番おもしろい議論なんです。
 例えば、皆さん、自然保護ということを考える。有限の資源をどういうふうにするかということを考える。自然の浄化力ということを考える。エコロジカルな浄化力。空気の浄化。炭酸ガスを吸着する葉緑素が必要だ。あるいは川もコンクリートじゃなくて、水藻が必要。水藻によって川の水が浄化される。あらゆる意味で、この自然の浄化力というものを考えているわけです。
 もう1つ、さっきの共同体論でいきますと、およそ15キロから20キロの範囲で、食糧の生産性が10万の都市をつくれるのか、5万なのかということがあるんです。これが歴史的な規模ですね。だから、自然の浄化力と食物の生産性。これはほぼ地理的条件。ただし、交易が盛んですから、今その条件を引き受けなくても、生きていけるんです。しかし、交易が自由でも、ある規模の、自然と人口の均衡点を考えて、それで美しい都市をつくろうと考えた方がいいに決まっているんです。
 ですから、私がいうのは、貿易を禁止しろとか、地域循環だけでやれといっているわけじゃないんです。イメージとして、ここは歴史的にいうと10万ぐらいの規模がいいんだ。自然の浄化力や食物の地域循環によってそうだっだという、地理的な宿命というか運命を潔く引き受けた形で何ができるかということを考えるべきなんです。ヨーロッパの知識人たちはほぼそう考えています。エコノミストはちょっと別ですが、都市学ないしは歴史学をやる人間たちにとって、人口論というのは大事ポイントなんです。
 その人口論のポイントは自然条件との均衡をどこに見るかということなんです。人口のプラス、マイナスの微増減は歴史によって変わるわけですが、意図的にふやせばいいんだという考え方には、何の均衡点もないんです。経済は自由だ、貿易は自由だ、人間はどこに住んでも自由だ、ただそれだけの人口論では何を根拠にふやそうしているかすらわからないんです。
 ただ、税収がふえるとか、税収はふえるけど、学校をつくる、道路をつくる、上下水道をつくるで、結局は社会資本、社会投資の消耗戦に入るわけです。
 日本社会というのは公共投資の消耗戦です。こんなに効率の悪い都市づくりはないですね。コンパクトシティ。例えば、10万でコンパクトにすばらしい都市をつくろうと考えたら、公共投資は消耗戦をしないで済む。投資した施設は24時間稼働するというか、市民全員によって享受される。
 私、日経をやめる前年にヘルシンキ市の招待で、フィンランドの都市の取材に行きましたが、北の方のタンペレという都市は地域暖房をする。地域暖房を決断して、それがほぼ完成しておりました。地域暖房するということは、十数万の都市ですから、それだけで求心力が高まる。都市の中で集住すれば、暖房の心配は一切要らないわけです。ライフラインの地下道の中に給湯の配管がしてある。そうすると、スプロールしようがないんです。そのかわり外に出るんだったら、自分の責任で暖房のことを一切やらなきゃならない。そうすると、公共投資はそのエリアの中でどんどん蓄積できる。
 日本の都市はスプロールしながら、どんどんゾーニングを変更して、社会資本を整備していく。日本の政治は利益誘導型だとよくいいますが、私にいわせれば、都市を見れば、利益誘導型にならざるを得ないでしょう。単なる荒れ地を宅地に造成する、宅地に転用する。何十倍かに地価が上がる。そこに道路、上下水道を引く。まず、電気、ガスから、ライフラインを整備する。その中の0.1%をピンハネしたって莫大な額になる。
 つまり、利益誘導型政治というのはどこに根拠があるのか、これは都市を見ればわかります。私は、地方都市に講演に行ったときに、まず知らない町だったら、駅前におりて、すぐタクシーを拾わない。15分もブラッとしてみれば、そこの市長が仮に3選だとしますと、12年です。大体地方自治体の長は3選します。4選ぐらいから対立候補が出てきます。12年かかって、駅前のバスのロータリー1つ解決つかない。つまり、パブリックスペースがつくれないというのは一体何なんだということです。
 皆さんは、利益誘導型政治というと、田中角栄とか金丸信を思い出して、他人事のように思っている。そうじゃないんです。日本じゅうの都市が利益誘導型政治をやってくれといっている。その利益誘導型政治によってスプロールしているわけでしょう。
 今タンペレの話をしたのは、タンペレは、たった十数万だけど、その中でセントラルヒーティングをやったおかげで、全部解決しちゃう。おもしろいのは、タンペレの展望台から湖を見ると、水辺には建物がひとつもない。原始さながらの水辺だ。かつては水辺にサウナをつくって、温まってドンと湖に飛び込むのが、ご存じのように、昔のフィンランドの観光案内のフィルムです。それがなくなったんです。それはもう1つ、水辺50メートルに建物を建てないようにしようという法律があります。そういう法律をつくると同時に、町の中に入ってきたら、セントラルヒーティングで快適だという、その2つがセットになっているから美しい。展望台から見ると、本当にシベリウスの「フィンランディア」、ああいう音楽が聞こえてくるような荘厳さだった。
 もう少しいっておきますと、フィンランドは水辺50メートルの奥に物を建てますから、展望台から見ても、夏は広葉樹の林になっていますから、建物は森の中に隠れている。秋、落葉すると、今度は雪が降る。雪に隠れてしまう。
 私は、「フィンランド人は森に隠れ住む」というフレーズで文章を書きましたが、古来都市というと、森を切り開いて都市を築くという文脈ですが、森に隠れ住んでいるフィンランド人。それは近年のことです。近年といったって、戦後のフィンランドの都市づくりの中心的テーマです。それは一度森を破壊してしまうと、緯度が高いですから、回復に時間がかかるということもあるんでしょうね。



6.リアリズムの回復−身体性の新しい意味

 さて、そういうことで、人口論をもう一度確認するということが非常に大事だ。もう1つは、身体性、人間というこの存在は2メートルを超えない身長で、五体五感を持って生きている、この身体性というものが再び議論されないといけない時代です。先ほど私、情報革命のことを申し上げました。情報革命というのは時空の桎梏、時間や空間の桎梏から人間を解放した。解放されたと思ったときに、そこに何があったかというと、バーチャルリアリティー、仮想空間があった。仮想空間というものは、ある意味では便利かもしれないけれども、人間の身体性のリアリズムからいったら、リアリズムから遠く隔離されるというか、乖離してしまう、そういう世界です。
 インターネットその他の、世界じゅうの人間とコミュニケーションができるんだという論理と、しかし、その結果として、リアルなコミュニケーションが何もできない人間がつくられるということは既に若い世代で起こっていますね。じゃ、その人間はバーチャルリアリティーで世界じゅうとコミュニケーションしているかというと、本当はしてないのかもしれない。
 コミュニケーションの根本的原理は何だというと、いろいろの情報手段があっても、しかし、最後に回帰する、戻ってくるのは身体性じゃないでしょうか。例えば、これだけ情報通信が発達したって、相変わらず、人間は会議をする。握手を交わす。この欲望は全部身体性なんです。
 例えばワープロの年賀状を、署名だけボールペンでやるか、万年筆でやるか、毛筆でやるか。きっと署名ぐらいは毛筆でやってみようと思ったりする。毛筆というのは一番身体性が敏感に反映されるわけです。例えば、会社だって、ある基本的な情報はさまざまな機器を通じてやるけれども、いざ、決断するとなったら、やっぱり役員会で密室に入って、相手の表情を見て、これをやると決断した限りみんな本気でやるかと、確認し合うわけでしょう。ある種の共同体ですよ。やくざの血判と同じですよ。やるといったら、やるんだと。
 つまり、そういう身体的確認が物すごく必要だということを、人々が自覚するようになると思うんです。時空の桎梏から解放されて、それは結構なことだ、バーチャルで瞬時にして大英帝国のナショナルギャラリーもボストン美術館も見られる。ルーブルも入れる。モナリザも近くで見られる。ミケランジェロの天井画だって、肉眼よりもずっと鮮明に望遠レンズで接写するような形で見られる。どう考えたって、現実の視覚の能力よりはるかに高いものを見られる。だけど、人間というのはそれで満足できない。ミケランジェロの天井画をインターネットその他で見たが、現場に行ってみたい。現場に行ったら、美術全集やインターネットよりもはるかにぼんやりしか見られない。ライティングだってそれほどしてない。しかし、人間はそのリアリティーのために足を運ぶわけでしょう。
 例えば、聖地巡礼なんて、その典型ですね。あらゆる情報、メディアによって聖地のことは知っている。しかし、その現場に行って、五体投地をして祈りたい。ほこりっぽいけども、そのリアリティーを獲得したい。こういうことが人間の本質なんです。ですから、必ず身体性の復権ということが求められるようになる。



7.人生の舞台としての都市−時間と空間のリアリズム

 さて、私の一番強調したいのはそこなんです。人間の身体性の復権の受け皿は何か。都市なんです。「都市は人生の舞台である」というフレーズはたくさんの先達がいっています。確かに都市は舞台なんです。その舞台のリアリティー、つまり、人間の身体性のリアリティーをちゃんと受けとめる都市をつくることが、都市づくりの根拠の第1に挙げるべきことだと僕は信じております。
 そのとき初めて都市はマーケットなのか。先ほどいったように、そのマーケットで遠心力に身をゆだねていいのか。そうじゃないだろう。身体性のリアリズムを確認する舞台だとしたら、求心力がなければなりませんね。拡散して、だれも見てないところで、「人生は舞台」だといったって、意味ないですね。人生が舞台だということは観客がいるということです。観客というのは、都市における視線の被曝量というもの、これが舞台に欠かせない条件だ。我々は見つつ見られる存在だ、こういうことですね。これは身体論と都市が古代からつながっていたんだということを確認してもいいぐらいのことなんです。
 ギリシア人が都市国家をつくって、なぜあれほど立派な野外劇場をつくったのか。もちろん宗教劇が演じられたでしょう。あるいは政治家の演説会もやられたでしょう。しかし、そういう舞台、都市というものが人生の舞台であることの証明として、都市には必ず劇場がある。オペラ座がある。という構造は、少なくともギリシヤ・ローマ型都市にとっては、共通した原理です。
 しかし、この問題は、ヨーロッパとイスラム。例えば、特に女性の身体性を見せないということに重きを置いたイスラムの場合、都市は人生の舞台だというのはちょっと無理がある。あれは見せないということによって、女性の平等論を保障している。美醜というどうしても起こる差別を、見せないことによって平等にする。この話をすると脱線しちゃいますから、やめます。
 少なくとも、ヨーロッパ、ギリシヤ・ローマ型の都市から、近代の先進諸国の都市まで流れている1つの普遍性として、都市は人生の舞台だということまでは皆さんも想像していただけると思います。
 また、地方都市に戻ります。私は地方都市に講演に行くときに、仮に半日でも2〜3時間でも、中心街を案内してもらうこともあるし、小さな町なら自分で見て歩く。
 さて、こういうことを考えてほしいんです。地方都市の中心街がシャッター街になっちゃった。その商店街をどう活性化するんだ。郊外にショッピングセンター、スーパーができたために、もうどうしようもない。どうするんだ、どうするんだと話をしている。しかし、商店街の活性化自体を第1目標に掲げて議論して見通しはつくんだろうか。つまり、経済は経済の原理がある。郊外店にかなわないわけです。商店街の活性化をしたいんだったら、別のことを考えなければ勝負にならないわけです。
 私は、こんなふうにいうんです。聴衆によりますけれども。例えば、市民の皆さんがいるときには、あなたたちのお子さん、思春期の坊ちゃんや嬢ちゃん、どこでデートをして、落ち合って、どこでお茶飲みながらどんな会話をし、映画を見て、ボウリングをして、何をしてデートを楽しむんだろうか。想像してみてくれというんです。
 私のアフォリズムといってもいいんですが。「恋愛は都市を模倣する」、私がつくづく都市観察の中で思うことなんです。恋愛は都市を模倣しているんです。皆さんのお子さんもそうなんです。いい恋愛のできるような舞台を日本人は意識してつくったことがあるのかということを問いたいのです。そうはいったって、恋愛を意識して都市をつくるなんてことあるまいと思うでしょう。
 恋愛という言葉をもうちょっと広く拡大していくと、活力に満ちた人生が成立するような都市の条件があるんですね。それを一番歴史的に知っているのはヨーロッパでしょう。僕はこういう議論をするときに、一番ポピュラーな都市パリを例に挙げます。パリならば行っている人が多いでしょうから。パリの少年少女がどこで落ち合って、何を見て、どんなカフェで2時間、3時間おしゃべりしているかということを想像してみてください。
 青春にとって文化というのはほとんど必需品なんですよ。文化というのは文化財保護みたいな、あるいは美術館や博物館で保存するのが文化だと思っているのは大間違いで、文化というのはもっと切実な存在なんです。若い男女がコミュニケーションする、相手の感受性の形を直観的にわかる。それは会話だけで、「あなたの趣味は何ですか」なんていっているのは、普通答えようがない。つまり、人間のトータルな感覚というものは答えようがないんです。だから、会話は弾まないんです。その男女がいい音楽会に行く、あるいはいい美術を見る。そのときの微妙な感銘や興奮というものをお互いに表現したら、おのずと相手を深く理解できるわけです。
 恋人たちにとって文化、芸術、これは必需品なんです。そういうことに気がつかないと、現在の日本の若い恋人たちのように、2人でデートして喫茶店でテレビゲームをやっているとか、ほとんど会話が成立しない。最初に、「あなたの好みは」なんていって、3分で終わっちゃう。かわいそうじゃないですかと僕はいっているんです。
 そんな町をつくって、今は車社会ですから、どこかのファーストフードで落ち合って、どこかドライブして、あとはラブホテルだ。そこまで行くのにたくさんの過程があるじゃないか。最後はそこだって構わないんだが、そこに行く間にどれだけの相互理解が、あるいは相手を知った上で好きになるというプロセスがあるじゃないか、これが文化なんです。
 そういう意味では、日本の都市は恋人たちにとって、実にだめです。日本の都市論は、せいぜい盛り場論でしょう。消費といえば盛り場だよ。一気飲みの世界だよ。どうしようもない。一気飲みしている大学生のコンパがいろいろ事件を起こすのはわかりますよ。ほかにやることないからです。安い酒場に行って一気飲みやる以外に、一体何やるんですか。どこを歩くんですか。ないんですよ。
 つまり、日本の都市に関係する人々が、恋愛の舞台を意識しているとは思えません。



8.市場原理から共同体原理へ−連帯と共生の場

 さて、人生の舞台をどうつくって、そこに集まることによっていい視線を被曝する。視線の被曝がボディーコンシャス、肉体の意識を目覚めさせる。そこにファッションが成立する。洗練が始まる。立ち居振る舞いの洗練が始まるのも、全部見られているというボディーコンシャスでしょう。演技する動物だ。人間はホモルーデンスだと、ホイジンガーはいっているけれども、全くそのとおりだ。それは都市を見たらわかる。ホモルーデンスに決まってます。
 僕はもっと強調したい。都市をつくるということ自体が人間の表現欲の壮大な表現でしょう。1つの大聖堂を考えてください。あらゆる職種の人間が自分のわざの限りをそこに表現している。しかも、何世代もの職人たちが表現している。僕はああいう建物を見て、何を考えるかというと、何万人もの職人が技と情熱の限りを尽くしてこれをつくっているという、そのことなんです、感動するのは。
 ただ、定規とコンパスで正確にやってくれというのと話は違う。つまり、古典的にいえば、都市をつくるということは、ホモファーベル、物をつくる人間、これが寄ってたかって都市をつくる。そういう人間の表現欲によって都市はつくられ、そのつくられたものが舞台のようになって、人々が視線の被曝を受けて、演技するようになり、ファッションや言葉遣いや立ち居振る舞いが洗練される。
 明治の文豪で幸田露伴も実はそういうこといっているんです。『一国の首都』というのが岩波文庫にありますが、一国の首都に住んでいる人間たちは、立ち居振る舞いから言葉遣いまで責任があるんだ。つまり、首都に住む人間のマナーや振る舞い方が文化として地方に伝播するんだ。こういうイメージを、ほんの数行ですけれども、語っているんです。
 そういうことを都市の原理だとすれば、先ほど申し上げまし人生の舞台だということとの関連でいえば、ギリシヤ劇には「三一致の原則」がある。そこにいる観衆と舞台は同じ空間を共有していますね。同じ時間を共有していますね。それから、舞台でいえば人物の出入り、死んで消えた人物がまた出てきてはいけない。つまり、舞台における出入りのテンス、時制はリアルでなければいけない、これがギリシヤ劇の「三一致の原則」です。日本の能のように、あの世に行っている人とお話しするというのは、これはギリシヤ劇とは別の原理です。けれども、都市が舞台だ。人生をそこで生きるんだという活力が商店街の、中心街の活性化にもなるわけですね。
 さて、そうなりますと、都市の求心力、かつては大聖堂、あるいは世俗の政庁、彼岸の権力と此岸の権威。それにマーケットという3つの原理で都市はつくられるわけです。
 今日本はほとんど宗教に関しては、どうにもしようがありません。地鎮祭もいけない、塩をまくのもいけない、宗教的習俗というのは、全部排除しよう。そういう訴訟に巻き込まれているから、宗教問題に行政はナーバスになって避ける。それはそれでとりあえずいいとして、残ったのは政治と文化なんです。
 そうすると、今地方都市で起こっていることは、旧市街地は手狭になったから、図書館を大きくして郊外へ出そう。新しい美術館ブームがあって、美術館も外に出そう。車社会だから駐車場が必要だ。郷土資料館も駐車場が必要だ。そうすると、東西南北の町が、コンサートホールはこちらにせよといって分捕り合いをする。その結果、全部の文化施設が外側に配置される。それに加えて市庁舎が手狭になったから外に出そうという。
 つまり、中心街の空洞化というのは、マーケットの原理であると同時に、今の自治体の原理が全部外に出すようになっちゃっている。何1つ、断固中に入れようというものがない。
 人間の歴史的固有の場所に対する愛着がないんです「。三一致の原則」というのは場所に対する愛着なんです。場所に対する愛着をなくして、美術館も文学館もコンサートホールも全部外に出していくということは、どういう哲学で成立するのかということを私は問いたいんです。いわれることは、結局は駐車場の問題だ。便利だ。便利には勝てない。そういうことです。つまりスーパーをどこに立地するのかと同じレベルの議論しかしてないんです。
 私の言い方は、都市は人生の舞台だということがおぼろげながら共有できるとしたら、さっきいったように文化は恋人たちの必需品だ、絶対欠かせない栄養素だという議論をやりましょう。どれだけ豊かな中心部がつくれるかによって、恋愛は都市を模倣してますから、いいイメージの恋愛になるかもしれません。そういう議論をしませんと、都市というものの復活は大変難しい。
 今私は場所に対する愛着ということを申し上げました。最近は少なくなりましたが、一時期革新系の、つまり社会党系の市長ができると、町名変更をしました。あれは本当にいけないことです。地番の整理とか、郵便局、配達の便利に応ずるぐらいはかまわないですけれども。つまり、日本人が固有の場所というものに対する愛着を失い、憎悪さえ抱くようになったのはなぜだろうかということなんです。全国のどこに行っても、郷土自慢をほとんど聞けない。地方に行くと、「うちの町は古臭くてね。あのボスがねえ」とか、もう郷土卑下、自分の国を卑下する。そういうのは10分も聞いていると、「そうはいっても、あなたもうちょっとお国自慢でもしてくれ」という。お国自慢しているときははニコニコして聞いていられる。それにしてもなぜ自分たちの生まれ育った場所に対するコンプレックスと憎悪というものを持つようになったのか。これは僕のような人間から見ると耐えがたい。
 場所という、時間と空間に限定されているその固有性こそが文化の胚胎する場所でしょう。場所というものを大事にしなかったらだめです。バーチャルリアリティーのインターネットでの場所は幾らでも粗末に消費できる。しかし、都市論をやる限り、場所に対する愛着。その限定された固有の場所にしか文化はないということ。技術文明はどこにでも伝播する普遍性を持っていますが、文化というものが育つには特定の場所が必要なのです。
 そういう場所というものに対する愛着。これを都市論、あるいは都市設計の人たちにどういうふうに意識してもらえるかということが、私には非常に気になるんです。その場所の固有の歴史、それに対する愛着が前提にならないと、町はよくなりません。
 私がよくいうのは、先ほどの話に戻ります。その青春時代にいい思い出が蓄積できていれば、大都市に出しても、きっと愛着があって、何かのきっかけで戻ってくる可能性は高い。
 そういう意味で都市の論理は、流通革命など、市場の原理に対して、都市住民の共同体の原理というものをどういうふうに均衡させるか。つまり、二元論なんです。共同体の原理とマーケットの原理をどういう割合で、どういうバランスで均衡できるかということを考えるのが都市論の根本命題なんです。
 例えば、豊かな田園地帯で、これといった地場産業もないような町だったら、なおのこと内部循環が大切です。3度の飯ぐらい、近くの農家のつくったものを食ってやろうよ。輸出力のある産業を持っていたら、まあ、あれだけ輸出しているんだから、フォアグラぐらいは輸入して食べてやろうよ。あるいは外車ぐらい使ってやろうよ。そういう心理があるんですね。僕なんかそういうことが気になる人間ですから、どこか旅先で1万円の晩飯を仮に食べますと、この1万円はどういうふうに循環するのかなと思ったりする。
 例えば、長野県が冬季オリンピックを開催するということが決まって間もないころ、長野市に講演に行って晩飯を食べた。長野市では一流のところだ。ほとんどが海の幸だ。エビの天ぷら、ホタテ貝のムニエル。おひたしとカモの肉。そういうメニューを見ていると、地元に落ちるのは板さんの手間賃と、納入した業者のマージンしか落ちないな。あとは瞬時に県外に出るなと思う。
 そういう金の行方を想像することが大事なことなんです。その翌朝10時から各自治体の議長さんたち120人に僕はその晩飯の話からしたんです。長野でオリンピックをすることは決まっているんだから、遠来の客をどうやってもてなすか。8割方県外に出ていってしまうようなメニューにするのか。6割方県内で調達できるようなメニューをつくるのか。200万、300万の遠来の客を迎えるオリンピックだから、大事なポイントですよ。政治家というのはそのことを考えるべきなんだ。
 即刻、長野県産の食材でどういうメニューがつくれるか、検討したらいい。中華料理、西洋料理、和風。足りないものは何だ。県内で何とか供給できるものは努力すればいい。3割ぐらいの素材は外から買ったって一向に構わないが、そういうことを考えるが政治家なんだと。
 そうしましたら、非常に喜んでくれました。喜んでくれた人は民宿でスキー客をもてなしているような寒村の議長さん。つまり、地元のもので、自分たちはそういうもてなししかできないということをコンプレックスに思っていた。しかし、基本は間違っていないことがわかった。長野県の人が海の幸を食べたいというのは、山国ですから、わかるんです。だけど、そのことと遠来の客をもてなすことは違いますね。
 その反対はもうおわかりのように、大分です。1村1品メニューといって、100%1村1品でメニューをつくってしまいますから。そうすると、私が1万円を払っても、とりあえずはその辺でぐるぐる回って、その果てにヨーロッパのブランドのハンドバッグや家具を買うために出ちゃうでしょう。それはそれでいいんだ。都市学者たちが議論しなきゃいけないポイントなんです。
 もっとひどいのは、ある県に行って、農業者が自分の農業はもう立ち行かない。とてもじゃないが、途上国の農産品とはコスト的にもう太刀打ちできない。そういうぐちをさんざんいった後、その農業者は、ライトバンに乗ってスーパーに行って、今度は途上国のあらゆる安いものを買うわけです。これはどういうことですか。自分が立ち行かないと嘆きながら、雑貨であれ、食品であれ、東南アジアの途上国の安いものを買うということは、論理的にも倫理的にも整合してないということに気づいてないんです。生産者としてぐちをいったけれども、消費者になったとたんに生産者を裏切るんです。
 僕にいわせれば、日本じゅうみんなそうですよ。日本人がみなバッタ屋のようになっているということです。自分が倫理的に整合性のないことをやって生きているかということに気がつかない。だから、地方の中小都市が衰退する。



 さて、もう1つ、ここには建築家の方もいらっしゃるでしょうから、伺いたい。これは建築論ですが、日本の建造物の無防備な空間というものが気になっているんです。例えば、地方の裁判所の裁判長のいる壇上、あるいは自治体の議場の形、壇上の議長席みんな平面でしょう。戦前の国会議事堂の議長席などの空間にはそれぞれ工夫があります。ところが今日の日本じゅうの空間が物すごく間延びして、無防備になっている。どうしてこんなのっぺりした空間をつくるんだろうかという疑問なんです。
 例えばイスラム文化というのは、空間をすべて埋めつくすということはよくいわれますね。これは哲学的にいうと、ボーリンゲルの『抽象思考と感情移入』という名著があります。これは空間というものを埋めつくすこと、あるいは茫漠たる空間というものに対する不安、「空間恐怖」という言葉が出てきます。ピラミッドをつくったのは、あの茫漠たる空間を仕切るためにあれほどの大きいものになったんじゃないかという仮説を立てるんです。
 私が気になってるのは、あらゆる自治体、あらゆる裁判所、あらゆる建築の内と外において、どうしてこれほど無防備な空間、のっぺりした壁面をつくるんだろうか。かつてはあらゆる職人が参加してその空間を埋めた。あらゆる職人が建造物に対して参画していたのです。
 ところが、日本人が機能主義とか、合理主義というものをほとんど何の疑いもなく受け入れて、あの無防備な空間を平気でつくり上げている。職人を感じさせない空間。建物だってそうです。都市をつくるというのは、物をつくる人間にとっては、表現の喜びでしょう。無作為の平面は物をつくるということに対する喜びを失っている。これは実は都市の問題と離れた建築の問題ですから、建築に関連している人々にボールを投げかけたい。
 もう1つは機能主義の問題です。機能主義というものをあくまでも追求していきますと、機能が変わったらスクラップするという運命にある。しかし、今は100年、200年持たせようという時代でしょう。そうしますと、機能主義というのは単一の機能の追求ですが、100年、200年先を考えると、幾つかの機能にこたえ得るような汎用性の建築ということを議論しないといけないんじゃないか。汎用性によって、あるときは住まいに、あるときはレストランになるかもしれない。あるときはオフィスになるかもしれない。そういう最小限度の手直しによって対応できる。そういう建物をつくったら、100年先、200年先でも存在意義があるだろう。
 港区が、オフィスの需要が爆発するといったバブルの末期に、オフィスの建築が盛んになった。港区の区会議員が私のこういう講演を聞いていて、港区はバブルがはじけて空室だらけになって困っているという。僕はそれはいかにも無防備だ、全財産、何億円もの借金をしてつくるんだから、東京の戦後の50年考えたって、住宅がオフィスになり、オフィスがいつ住宅に戻るかもしれない。臨海副都心に計画どおりオフィスができたら、港区なんて、もう最適の住宅街に戻るだろうという議論をした。
 人間の不用心さですよ。設計家も、施主がどういったというんじゃなく、自分のかかわったものを100年持たせるためには、最低2つや3つぐらいの時代の変化に対応することが必要だ。それを考えない。精神の無防備さにつながっている。ちょっときつい言葉ですが、そういう問題を本当に議論してほしいんです。
 建築の汎用性とともに、建築における装飾と様式の可能性について議論してほしいんです。なぜならば、「細部に神宿る」という言葉もありますが、ディテール、細部をどういうふうに楽しむかということが、多くの関係者、建築者や技術者やデザイナーなど、あらゆる人間の喜びなんです。
 僕こういうことをよくいうんです。1冊の俳句の本を見て、「これみんな俳句じゃないか。みんな俳句じゃ退屈だよ」という人はいない。つまり、五七五の中に全部微妙な差がある。この差を鑑賞できる人間はいいとして、微差のわからない人は、全部俳句じゃないかと文句をいう。そんなの退屈だと。でも、似たようなことを建築家たちはいってますね。我々は、様式と細部の装飾というものを楽しむ度量というか、勇気を失っているということです。
 これはまた建築から離れます。ここ10年間ぐらい、規制緩和だ、規制撤廃だと、規制を撤廃すれば、人間のエネルギーが爆発すると思っていっているわけでしょう。規制撤廃すれば日本経済がよくなると。本当に規制撤廃したらエネルギーが沸くんですか。そんな文化論は中学生同然ですよ。本当にエネルギッシュで危うい人間がいたとすると、そういう人間は戒律とかマナーとか規制とか、もっといえば掟が必要だということをよくわかっている。芸術における様式もそれに似ているんです。
 したがって、都市の議論をするときにも、必要な規制は断固必要だという議論をしないといけないんです。建設省関係の文章を読んでも、「美しい都市をつくるために、より一層の規制緩和を必要とする」というセンテンスが何回も出てくる。これを本気で書いているのか。規制緩和という時代の流れに合わせているだけじゃないか。
 時代の空気に対して「待てよ」といったときに、本当の議論が始まるんです。ともに根本的に考えましょうというのが、きょうの私の問題提起であります。
 時間を超過してしまいまして、失礼いたしました。(拍手)



フリーディスカッション

司会(谷口)
 どうもありがとうございました。
 鋭い問題提起とか、考えさせられるお話を随分伺えたと思いますが、時間があるだけ、ご質問、ご意見その他承りたいと思いますので、どうぞ、ご遠慮なく挙手をお願いいたします。
 先ほどののっぺりした空間、無防備な空間ということで、ボールを投げ返したいとおっしゃる方、いらしたら、ぜひ。

井尻
 あれ、何か規制があるんですか。裁判所でも、県会議事堂でも、議長席とか、市長がいるところ、あのヒナ壇には装飾はしちゃいけないんですか。市長と議員を差別するから、平等にという規制があるなら、その規制を撤廃してほしいですね。(笑)
 僕は首都機能移転論に反対している男だということを最初にいわないとフェアじゃないけれども、デザインで国会というドーム、東京ドームそっくりのものをつくられたら、国会はアミューズメント施設じゃないんだから。これ、ぜひいいたい。建築の格というものは必ず人に何かを要請しているんです。例えば、わかりやすい例で、フランスでインタビューして、あなたが旧オペラ座に行くときのファッションと、バスチーユの新オペラ座に行くときのファッション、どう違いますか。必ず「違う」という。つまり、建物のディグニティーが、人間のファッションから立ち居振る舞いまで要請するんです。
 何で、古来建築家たちが意匠の限りを尽くして、そういうディグニティーあるいは教会の荘厳さというものをつくったのかというと、そこに入ってくる人間の精神をそういうふうにしたいからなんです。だから、建物は必ず人に何かを要請しているんです。アミューズメント施設は、要請するとしたら、金使いなさいよ、金使って楽しみなさいよと要請する。気楽に振る舞ってください。親しみやすければそれでいい。東京ドームのような新首都の国会議事堂は親しみやすければいいという話でしょう。政治家は堕落しますよ。(笑)東京フォーラムだって、関係者がいたら悪いけども、僕にいわせれば、ドームの内側の建築は模擬店なんだ。スチールの強度とかガラスの強度とか、素材の革新によって何が可能かということを、東京フォーラムやアミューズメント施設で実験することを批判しているんじゃないんです。政治とか宗教的建造物というものは、建物自体が人に何を要請しているかということを、古代ギリシアのパンテオンから今日まで考え続けてきた歴史なんです。何も要請してないなんてはずはないのです。だから、ヨーロッパの国だったら、国会議事堂、市庁舎、例えばウィーンの市庁舎はゴシック建築で、教会かなと思えるような市庁舎だった。国会議事堂は民主主義の元祖であるギリシヤの古典様式。それはそこに行く人間に対する精神の要請なんです。この議論を僕は強調したいのです。
 東京の大手町は何を要請するのか。僕はよくいうんですよ。あそこはせいぜいビジネススーツなんです。パリの旧オペラ座はブラックタイ、女性だったら、しかるべきロングドレスを要請するとか、建築が要請しているはずです。そのことをどういうふうに建築家たちが議論しているのか、聞きたい。ちょっと挑発しますが。(笑)

谷口
 どなたか、今の挑発に乗られる方いらっしゃいますか。あるいは、そのことでなくても結構です。

伊藤(リョ−ワ)
 
先生のお話は私は2回目なんですが、きょうのに関連してご質問申し上げます。
 それは、今ヨーロッパの例を挙げられて、半径15キロ。確かにそうだと思います。それと、今起きているEU、ああいう政治的な問題、この辺のところが、もうひとつ先生の持論といいますか、大きなところと小さいところとの関連を勉強させていただきたいと思います。関係ないことで申しわけありませんが。

井尻
  関係あると思います。イタリアの場合、地方自治体の政治家や役人に取材するのと、中央政府の役人に取材するのと全然トーンが違うんです。中央政府の人はいまだに「イタリアは統一国家じゃない」と嘆いてます。税金の徴収が難しいと。アングラ経済が大きいわけです。しかし、ヨーロッパ連合に統合されるとしますと、地域の共同体が強くて、国家の権限が弱くて小さい方が移行しやすいだろう。地域共同体がしっかりしていると、かえって統合しやすいというのが私の考えです。一番抵抗するのはフランスです。中央の官僚機構がしっかりした国ですから、これがむしろ抵抗するのではないか。
 地域の共同体がしっかりしていると、例えば、オウエンが思い描いたような、管理社会の官僚国家にならない。イタリアの地域主義の強さを僕はそんなふうにプラスの要因として考えています。

大熊(大熊善昌都市計画事務所)
 
まちづくりのサポートを仕事にしています大熊と申します。組織ではなく、個人でやっています。
 1つ、ご質問ですが、都市論から外れるかもわかりません。先生の都市論の背後には、国土全体を見渡したときに、農村の問題があって、先生の都市論も出てきていると思うんです。その辺のこと、もし何かお考えがありましたら、お聞きしたい。

井尻
 大変うれしい質問をしてくださいました。
 私は、もちろん、農業問題は大事だという常識的な考えはあったんですが、実は都市論をやっていきますと、都市の問題を共同体としてどう構想するか、マーケットの原理と共同体原理をどういうふうに均衡させるかということに思い及んだ途端に、農業問題というものが大きくなってきます。
 私はいわゆる自然保護派ではないんですけれども、自然の浄化力というものと、自然と人間の共生、そのバランスが人口論だということを先ほど申し上げましたが、この2つを考えますと、都市と農村というものは、古来表裏一体のものだったことに気づく。日本人はしばしば農業がおくれていて、都市の方が進んでいる、近代だという短絡しがちですが、考えてみますと、古代メソポタミヤのギルガメシュ神話というのが象徴しているように、古代都市をつくったそのときから、都市と農業は表裏一体だったのですね。ギルガメシュ神話は、森の神様、自然の生命系の神様と、人工の都市の神様の激突なんです。それで、森の神様を都市の神様が殺してしまう。そして、森を切り開いてどんどん都市を造営した。そこで、雨が降って表土が流れ、やがて荒廃して大洪水が起こる。大洪水が起こったことがいい伝えられて、旧約聖書の大洪水とノアの箱船の物語になる。
 ということで、その神話で象徴していることは、都市と生命系の農業というものは、成立した最初のときから、争っちゃいけないもの、均衡しなきゃいけないものという寓意、寓話でしょうね。このことを現代人はもう一度よみがえらせる必要があると思うんです。
 日本の近代の殖産興業や高度成長などで、いってみれば、都市文明が突出した。農村というものはおくれている。前近代みたいな、時間の縦軸で議論し過ぎたと思います。どうしても両者を均衡させなきゃいけない。自然観というか宇宙観でいえば、大自然というのは精妙な均衡です。星空1つ見たって、精妙なる均衡であるわけですから、日本人が目覚めなきゃいけないのは、そういう均衡とか平衡というものに対する感受性なんです。
 なぜ、日本がおろかなバブル経済をして、おろかな失敗をするかというと、エコノミストが美学の教養と感受性がないということです。ですから、エコノミストの必須科目に美学を入れろと私はいっている。美学というのは、ダイナミックな均衡という言葉に置きかえてもいいわけですけれども、人間はその均衡が崩れていることを予知する能力を持たなきゃいけない。日本のエコノミストはそれが一番弱いんです。ほとんどそういう感受性がない。それ行けといったら、みんながワァーッと雪崩をうつ。みんなが買いといえば、1億不動産になって買いまくるでしょう。終わったと思ったら、みんな売るわけでしょう。日本人はマーケットを実は機能させていないということです。
 農業の問題に戻りますと、都市との関係においても均衡論は絶対不可欠だと思いま す。

長塚(長塚法律事務所)
 長塚と申しますが、お話の流通革命と情報革命の問題です。インターネットが進歩して、世界は均一化してくるんじゃないか。後進国と先進国でも。取引が1対1でやっていたのが、一瞬にして地球の裏側との取引その他もできるようになった。そういう地球的な観点について、ちょっと先生のご意向をお聞きしたいと思います。

井尻
 均質化するだろうという言葉をお使いになった。固有の文化が衰退して均質化してしまうということ、固有性がなくなるという意味で、非常に警戒すべきこと。つまり、エスペラント語というものがどうして失敗したのか。あるいはマルキシズムのいう世界革命の論理がどうして失敗したのかということと似ています。均質化は情報革命の論理的帰結といえる。だが、実は人間の身体性がどこかで抵抗を示している。何だ、つまらないといって撤退する可能性はゼロではない。
 情報革命の世界はひとり勝ちの経済とよくいわれます。何と、ビル・ゲイツの総資産はアメリカの下位から1億1000万人の資産と同じなんです。レスター・サローは『富のピラミッド』という本で、今アメリカの所得格差が急速に拡大しているといっている。
 そのひとり勝ちの原因は、インターネット革命の結果でもあるわけですが、特に、国際金融は、アメリカのひとり勝ちになるだろうということになります。WTO、世界貿易機関の会議がシアトルで開かれましたが、そのシアトルが騒乱状態になったことを、皆さんどのように受けとめられたか。
 レスター・サローは、日本のようなスケールの大きい、つまり、世界のGNPの15%〜16%もあるような国が貿易立国なんていうこと自体がはた迷惑でどうしようもないという。経済規模が小さい国から見れば、本当に象に踏みつけられるようなものなんです。これがいけないと、レスター・サローは以前からいっているんです。日本が貿易立国というスローガンを挙げていることが世界の攪乱要因になっているのだと。
 アメリカが対日批判でやっていることの繰り返しでもありますけれども、横浜のみなとみらいとか、千葉の幕張などは世界貿易拡大というWTOの理念が、永遠に続くという前提のもとにつくられた都市ともいえます。けれども、20世紀的都市づくりの原理が崩壊しつつあるわけです。シアトルの騒乱はその象徴的事件だったともいえるのです。

谷口
 どうもありがとうございました。
 時間を少々超過しておりますので、きょうはこれで終わりたいと思います。井尻先生、本日はどうもありがとうございました。(拍手)


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