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第151回都市経営フォーラム

都市計画が克服すべき課題

講師:伊藤 滋 氏
慶応義塾大学客員教授


日付:2000年7月19日(水)
場所:後楽国際ビルディング・大ホール

 

1.惰性的・図式的な都市空間像

2.住宅市街地改善に対する公共介入の弱さ

3.利用者へのサービスを忘れがちな都市施設の建設

4.時代変革の波に鈍感な行政対応

5.個人の権利主張の無責任

6.時間消費に対する無責任

7.新しい都市計画法について




 きょうは、「都市計画が克服すべき課題」という大上段に構えた項目を並べましたが、これは前回、ことしの1月26日に「20世紀都市東京を変革する視点」ということで、用意した10ばかりの項目のうち4つまでしかしゃべれなかったものですから、その後をしゃべらなきゃいけないと思って、残りのの項目を、少し文章を変えながら、ここへ並べた次第です。
 1月にしゃべったのはのは、1番目が、「資源無制約の都市運営」。土地とかエネルギー、労働力、全部資源無制約。
 2番目が、「文明の吸収と文化の創出」。これはアメリカ自動車文明とヨーロッパ文化の枠組み、こういうことを例に挙げながら、日本でもアメリカ文明を吸収し、日本の都市の文化がなくなったと、嘆いたりしました。
 3番目が、「国家戦略の中枢部と東京都心」。これは非常にデリケートな話ですが、首都移転論に関係しながら、グローバル、地球的規模で、日本の存在意義を日本以外の人に認識してもらうときに、東京都心は、それなりの重要な使命を持っている、こういうことをしゃべりました。これは「20世紀都市東京を変革する視点」ということで、前回しゃべりましたので、大都市、東京や大阪の都市構造は、実は鉄道と港湾を酷使した都市形成であった。これも歴史的に考えれば、当然でございます。こういうのをしゃべったわけです。
 その後にあげていた「画一的、図式的都市ビジョンの方向」は、今日のレジュメの1番目「惰性的・図式的な都市空間像」です。
 同じく「個人にゆだねた住環境の形成」が、今回では、2番目「住宅市街地改善に対する公共加入の弱さ」となっています。「利用者サービスを軽視した都市空間形成」と、前回いっていたのは、ちょっとおとなしくなって、「利用者へのサービスを忘れがちな都市施設の建設」。
 また、「時代変革の波を避ける行政体質」。これは今回、「時代変革の波に鈍感な行政対応」、少しやわらかくしました。
 前回の9番目の、「個人の権利主張の無責任性」。これは今回の5番目と同じです。
 また10番目の「東京への過剰な期待と東京批判」。これは今回、東京ということではなくて、「都市計画が克服すべき課題」ということで、全体のタイトルにしたわけです。
 このように、1、2、3、4、5は、前回の後半の話をちょっと項目を変えて再掲したもので、今日はこれに、6番目として「時間消費に対する無責任」、7番目として「美しさや風土の価値の視点が欠除した法制度」ということを加えてお話をしたいと思います。
 と同時に、実は、もう一方で、新しい都市計画法の考え方もお話ししたいと思います。今お配りしたのは、新しい都市計画法の内容を表現したものです。新しい都市計画法は一言でいうと、こういうことになるということです。これを全部しゃべるとなると、大変時間がかかるので、先ず、レジュメのなかから私がいいたいことを2つか3つ取り上げて、残ったのは次回やるということにします。それに関連しながら、新しい都市計画法について、これは一体どういう法律なのかということをお話ししようと思います。




1.惰性的・図式的な都市空間像

 「惰性的・図式的な都市空間像」「どこでも同じ将来像、公的プロジェクトの波及力の弱さ、民間と公共の相互信頼の弱さ」。これだけ読んでいただければ大体わかると思うんですが、日本の都市計画あるいは地方行政の特徴で、25年後の都市像とか、50年後の都市像ということを必ず知事がいったり、市長がいったりします。それから、県庁の都市計画の人たちも、25年ぐらい先なんていうのは大好きな話題です。市役所ですと、ちょっとそこが違っていまして、目の前にデー・ツー・デーの仕事がありますから、10年ぐらい先の都市像をつくっておかなきゃ、現場の仕事に対応できないというのが、このごろの市役所の対応だと思います。
 しかし、25年後とか50年後の都市像。特に石原都知事が50年後の都市像というのは、一種の噴飯物です。年とったので、口がからくなるのですが、石原知事、ちょっと血迷っているのかなと思うんです。ところが、50年後というのを埼玉県知事も、神奈川県知事も、鹿児島県知事も同じようなことをいっている。
 日本人はお祭りが好きで、21世紀になったのをミレニアムといって騒いでいる。ミレニアムというのは1000年ということです。1000年も先の話をまことしやかにする日本人の感覚は、広告会社とか、世の中のジャーナリストは全く信用できないと私は思うんです。100年先だってわからないんです。
 ここで前にも何回も申し上げましたけれども、50年先で確実に変化がわかるのは2つしかない。1つは、人口の量とその年齢別構成のヒストグラム、これは50年先ぐらいまでかなりわかる。それでも、何とか再生産率というのが、今専門家の予想に反してどんどん下がっていますから、50年先の人口といえども、少しずつ狂ってくるけれども、経済予測や技術予測より、一番確実なのが人口予測です。
 2番目に確実なのは木が成長することです。50年先にこの木がどれくらいになるかというのは大体わかる。森がこのまま手を入れなかったら、どういう森になるか、50年先、これもわかります。手を入れたらどうなるかもわかります。
 ですから、非常に変な話、50年先にちゃんと議論できるのは、人口と年寄りが何割になったかということと、森の話しかない。あとは、役に立たない。しかし、それを25年先、50年先といって、都市像をつくるというのは、一体何の意味があるか。これこそ、20世紀の最後に考えてみなきゃいけないことです。
 20世紀の最後に考えるというのは、第2次大戦に負けた戦後50年間に、日本人は計画を何万とつくったはずです。国家だって経済企画庁だって、2年〜3年おきに経済計画をつくっていますから、経済企画庁だって、この50年に20個ぐらい国家経済計画をつくっています。
 それから、東京都だって、知事がかわるたびに計画をつくりますし、計画の再修正をします。国土計画は5つつくっていますが、その間に中間の計画がありますから、10個ぐらいつくっている。
 計画を専門家は物すごく好きです。その計画をつくると、さもその計画ができるような暗示が日本人全体の中にあって、この計画に従って、特に地方では土木事業が一体幾ら来るかなということに最終的には結びつく。計画像が描く国土像とか、生活像なんていうのはあまり役に立たない。しかし、性懲りもなくつくっている。
 これはまだまだ続くだろうと思っちゃいけないと僕は思っているんです。国土の将来とか国民の生活の将来とか、都市の空間の将来というのは、10年おきにつくった計画像が違っている。例えば、都市の中心部の将来の姿がどうなるかというのを、今から20年前と10年前と現在と3つ書くと、明らかに現在の方が皆さんに感覚的に納得できて、20年前より変わっているものを提示しているかというと、僕は提示してないと思うんです。
 これは多分に専門家批判になるんですが、片っ方で、何回書いても同じような都市空間像を皆さんの前に出す意味自体ももうないという立場で、計画をつくるのはやめよう。「惰性的・図式的な都市空間像」をつくるなら、それはもう要らない。
 今何が必要かというと、できないことをできるようにはいわない。できるだろうと思うことの中でも、非常に具体的に絞って、なおかつ政治的な意味でも、広告媒体の面でも、それを国民全体に納得させ「そうか」と、これだけの金でこれだけの年限でこういう組織が本当に動けばできるんだなということを専門家として一生懸命話をしていくという立場に立つことが必要なのだと思う。
 国家計画というのは、ある程度のあいまいさと、あいまいさの中での未来像を提示するという政治的な性格を持っていますから、国土空間計画についてはあまりぎりぎりしたことをいいませんが、都市計画になりますと、相当皆さんの生活やご商売に関係することです。従って、そこでアドバルーンをふくらませたものを何回も出すのは一種のペテン師の仕事です。花見酒みたいに、不動産屋と都市計画家と建築屋が、そういう夢の世界を見せて、さもその夢が本当になるような形で土地を売買したり、建物をつくったりするというおろかなことはやめようということです



2.住宅市街地改善に対する公共介入の弱さ

 その最も象徴的な話が、2番目の「住宅市街地改善に対する公共介入の弱さ」ということです。これは何かといいますと、木造密集市街地の話です。木造密集市街地というのは、知事さんや市長の課題としては絶対取り上げなきゃいけない課題です。ご存じのように、神戸でも地震に対して弱かったのはどこかというと、木造密集市街地です。建物が倒れるだけじゃなくて、大体が社会福祉的にも極めて弱い人たちが住んでいるところ、都市計画の別の領域として知事さんや市長さんの政治的課題。だから、木造密集市街地の建物の質をよくしなきゃいけないわけです。
 また、そういうところは都市計画的に見たって、道路や公園がほとんどないとか、都市の専門家の常識的な話題としていえるわけです。
 ですから、僕はこういうんですけれども、風水害でも地震でも火災でも、かなり大規模の災害が都市を襲ったときに、災害というのは金持ちを避けて貧乏人を襲う、こういうのが1つの公理みたいなものだと思う。実際そうなんです。その象徴的なところが木造密集市街地なのです。
 それに対していろんな提案が、建設省の住宅局を中心にしてやられている。区画整理を中心にして、都市局の連中もいろんな提案をしているんですが、空間的なことに責任を持つ国の行政である、この建設省の住宅局や都市局のアナウンスメントとに基づいてこの過去50年間に、木造密集市街地のどれぐらいが、ちゃんと消防車の入れる道路ができて、木賃アパートがなくなって、お母さんたちが安心して遊べる児童公園ができたかというと、できないんです。これにはいろんな理屈がある。
 そういう点で、住宅市街地改善というのを一体都市計画がどう取り上げるか。ここでも、20世紀の終わりに、できないものはできないとすれば、木造密集市街地のことは都市計画が責任を負いませんという姿勢を出す方が、できますできますといって、皆さんに中途半端な夢を与えるよりもいいのかもしれないんですね。これは、実は相当深刻な話です。
 石原知事は50年といいました。25年ぐらいの東京の都市像というなら、それを相手にしようかなと思っているんですが、そこので取り上げる課題の中に、地震という問題が絶対に出て来る。地震に対して強い市街地をつくるため、木造密集市街地を直すというでしょう。
 ところが、木造密集市街地を直す公的主体の体制がどれくらい整っているか。東京でそれを直す現場の区画整理事務所とか再開発事務所に人がいるかというと、区画整理事務所は5つぐらいで、再開発事務所は3つぐらいで、それぞれの事務所に20人いたって、全部で160人でしょう。現場っていったって、そんなものなんです。
 だから、公的主体が責任持ってやれるなんてことは絶望的だという認識もできる。
 いまずっと話してきたこと、これは最終的には都市計画を使う、あるいは都市計画によってつくられた都市空間を使うユーザーとしての一般市民が、どれぐらい公的セクターにいろんなことを要求し、期待し、そして自分たちのやるべきことについてどれぐらい責任感を持ってやるかということについて、それなりのはっきりした成算をしなきゃいけないということなんです。
 その話をしてきますと、こういう話につながるんです。この10年間ぐらい、都市計画は市民参加とか情報の公開とか、地区計画とか、こういうことをずっとやってきました。その前提は、役所が非常に硬直的で、市民社会の変化を見失ったということです。市民社会の変化を見ると、なるほど役所のやることは時代錯誤的であって、行動も硬直的だったから、それを直しましょう。現場感覚も忘れていたので、現場感覚のあるところで都市計画をやってもらいましょうということでずっと来ました。、僕も「市民参加の都市計画」というのを書きました。
 しかし、そのときに1つ大事な前提がありました。それは、そういうふうにして問いかける市民集団が良識的であるということです。ところが、どうも必ずしも良識的でない。良識的でない人もいるわけです。
 例えば、地域社会で動き出して、本当に地区計画をつくろうなんてやり出すと、そういうことをひしひしと感じるんです。
 ですから、今度の都市計画法で非常に重要なことは、強い都市計画、きちっとした都市計画、要するに、ルールにのっとってやるということです。これまで役所は、ルールはあるけれども、世の中の実情はそうじゃないよということを、地方の議員さん方がいうと、「そうですな」といった。
 つまり、イエス、バットです。日本人はよく、「あなたの意見について非常にいいご意見をいただいたと思いますが」とかいって、それから本当の話をはじめるでしょう。これはよくない。本当に地震のときにも強い、いい町をつくる。ルールはルール、きちっとした契約は契約ということで実行する。それを役人がやらなきゃいけなくなった。市民社会にそれをいっても僕はできないと思います。市民社会って、最終的にはバラバラになってしまうわけですから。
 役人がやらなきゃいけない強い都市計画。これを21世紀には市民社会に持ち込まないとだめだと思うのです。市民社会は良識ある市民社会としてすべて見ていいか、本当に行動してくれる市民の集団は何か。実は私、2カ所ぐらいで、地区計画にかかわって、自分の周りでやったりしているんですけど、最後はだめですね。この1年間ぐらい絶望的に敗北感を味わっている。
 地域住民もそうですけれども、区役所がだめですね。地方分権で都市計画は市町村にかなりおりました。これが全部だめとはいいません。いいこともあります。いいことは、きょうもやってきたので、その話をしましょう。
 僕は墨田区の都市計画審議会の会長をさせられております。きょうやったのは、錦糸町の駅の南側に600台の地下駐輪場をつくる都市計画決定です。これは墨田区の都市計画決定で、4月の1日から東京都には関係なくなりました。その審議会をきょう9時半から開いてたんですが、実はこれは2回目になります。区役所の役人は1回で済むと思ったんですね。なぜかというと、会議室に図面や説明資料を持ってきて、役人が説明して、区議会議員とか大学の先生とか、設計事務所の人たちがずらっと並んでいる。ところが、みんな錦糸町の駅の南側の道路の下に600台の駐輪場をつくるって、現場どうなっているのというのはわからない。わからない中で役人がもっともらしい説明したって、簡単にオーケーというわけがないわけです。
 去年の今ごろなら地方分権の前ですから、錦糸町南口の地下駐輪場の都市計画は東京都都市計画地方審議会に行って 都庁のどこかで、もっともらしい都市計画地方審議会の肩書は立派な委員さん方が、それを聞いていて、ご質問はありませんかというと、何もいわないで、シンとしていて、ご了解いただいたで、通っちゃうんです。現場を知らないで。そういうばかなことがなくなったというのは相当立派なことなんです。いいことなんです。
 だから、きょうは2回目の審議会で僕はやって、現場へ行って、そして駐輪場から出る避難口が歩道のどこへ出てくるかなんていうのを確認したり、いろいろやりました。そうすると、なるほど、この都市計画駐輪場は、いろいろ問題があるけれども、南口にとって必要なんだなということを皆さん納得して、現場感覚でオーケーとやるんです。これはいいことです。
 今の駐輪場なんて道路の下ですから、いいですけれども、墨田区でいえば、地震のときに火災が起きる木造の住宅が密集しているところがあるんです。そこに16メートルの都市計画道路を避難のために必要だというので決めたんです。しかし、事業は絶対できません。皆さんの個人の住宅がいっぱいあるところに道路を引くとなると、そこにいろんな人が住んでますから、墨田区の都市防災の大義のために、土地を市役所が土地収用法で借りに来たら、売り渡そうという人もかなりいるでしょうけれども、理屈が何もわからないから反対だという人もいるはずですね。そういう人がいたら、区役所の人は収用とかそんなことをやらない。じっと待つだけです。
 だから、今いった16メートルの道路を都市計画決定して、10年以上手がつけられないでいる。このように、地方分権で下におりれば、都市計画が動かないという現実的な話が次々と起きているわけです。
 つまり、住民、市民には良識があって、公共のやることについて色々議論はあるが、最終的に公共のやることがいいことだと思ったら、みんながそれについてある良識的な行動をとるという前提があるから、地方分権で、都市計画が下におりる。だけど、実際にはそうじゃない。こういう問題があるわけです。
 そうすると、どこかで強い都市計画を動かす人がいなきゃいけない。それがどこかというと、県庁と都庁だと思うんです。今までの都市計画の流れでは、県庁や都庁の都市計画のスタッフにそれほど緊迫した切実感があるかというと、ないと思うんですが、僕はそれをこれからしばらくは県庁や都庁の都市計画担当の人には絶対やってもらわなきゃいけない。そうできゃ、住宅市街地改善、来るべき東京の地震に対応するような思い切った木造密集市街地の改善なんかできないと思うのです。


3.利用者へのサービスを忘れがちな都市施設の建設

 それから、3番目ですが、これもこれまで都市計画でおかしいといわなかったことです。例えば公園の配置ですが、住宅地をつくるときの3%の公園用地は不動産業者に任せておくと、一番売れない、盲腸みたいなところにそれを配置して、「はい、できました」といい、それを役所は「3%充当しているから、認める」というわけです。
 これは役人と業者、供給側のなれあいです。役人は公園の位置をユーザー側から見てきちっとやるべきなのに、そこへ介入しない例が多い。これはおかしい。2%でもいいから、公園を真ん中に持ってきた方がよっぽどいいのです。真ん中に持ってくれば2%だって認めるよといわない技術基準の運用を、役所はやりがちなんです。2%の運用をするというと、きっと建設省から怒られるでしょう。ですから、そういう点ではまだ地方分権の今でも、技術屋が補助金を握っている建設省の住宅局や都市局や河川局というのは怖い存在なんでしょうね。
 だけど、だれが考えたって、3%で盲腸みたいで、痴漢が出てくるようなところに公園をつくるよりは、みんなの住宅地の真ん中に2%で質のいい公園をつくった方がみんなに喜ばれますね。
 そういう自己責任、自分の責任でいいものをつくるという視点が出てこないと、公園とか駐輪場とか、つくりましたというだけで、結局だれも使わないということが幾らでもありそうです。
 もっと、これはやめさせるべきだと思うのは、病院とか大学、研究所、博物館、美術館を郊外に作ることで、21世紀にはこんなことは絶対にやるべきではないと思うのです。
 調査してみたらおもしろいと思うんですが、僕の頭の中に相当事例が入っていますが、過去25年間に、知事と市長を足して600人ぐらいいますか、それが音頭をとってつくった博物館、美術館、あるいは市役所、病院をつくった場所を地図に落とすと、全く使いにくいところに博物館ができたり、美術館ができたりしています。市役所にもそういうところがあります。
 市役所が随分不便なところに行ったときに、こんなところに市役所を持っていっていいのかという質問がきっと議会であったと思うんです。そのときに、役人のいうことは、長い目で見てくださいということをいっていたはずです。これは一時的なものじゃなく、長い目で見れば、この市役所の位置は絶対役に立つはずですといっていたんですね。
 今から30年ぐらい前、人口がふえて、市街地が大きくなってくるときには、長い目で見てくれというのは確かに理屈があったかもしれませんが、21世紀になって長い目で見たら、人口はどんどん減って、市街地の中に空き地がどんどんできるわけでしょう。そういうときに、みんなが使うべき病院とか、あるいはみんなが文化を吸収すべき美術館とか博物館を、市長の好みで、丘陵の見晴らしのいい丘の上にポンとつくることはもうやるべきではないと思うんです。
 このごろ思っているのですが、筑波学園都市の動きがあったのは30年ぐらい前、昭和40年ぐらいですか。そのころから日本人は研究者をどう見ていて、どういう扱いをしていたか。今考えてみると、皆んな、研究者というのを当たり前の人間として認めてなかった。研究者というのは静かなところで実験をして、ひたすら黙々と本を読んで、家のことなんか顧みなくて、論文を書いて、特許をとってと、まるでロボットみたいな形で研究者を考えていたから、筑波の研究学園都市ができた。研究者、技術者は、それに反抗しないで、そこに行って、それなりの都市ができましたけれども、多くの国の研究所があそこに行ったからといって、日本国民、あるいは日本国の経済のためにどのくらいの貢献ができているかと考えると、なかなかそうはいえないような事例がいっぱいありそうです。
 例えば、建築研究所、土木研究所もそうだと思いますが、その職員を想像しますと、月曜から金曜までのうち、きっと2日ぐらいは東京へ来て、関東地建とか本省とかに行って、何か情報をとったり、学会に行って情報をとったりしてつぶれる。月曜と水曜に東京へ行って、学会に行ったり、建設省に行ったり、関東地建に行ったりする。火、水と金曜ぐらいが勉強する日でしょうか。研究というのはそんなものでできるわけがないんです。研究というのは徹底的にむだなことに時間を使って、1週間なら1週間、10日なら10日、土日もつぶして使って、そして、何か仕事ができる。1つの作品ができるとか、研究成果が出る。そういうのが技術開発とか研究なんですね。それをさも事務的なことのように、そういうことをさせている筑波の学園都市はあまり役に立ってないんじゃないかと思うんです。
 また、僕は横須賀にしょっちゅう行くんですが、みなさん、YRPってご存じですか。横須賀リサーチパーク。あれは日本の先端的なNTTの研究センターがあるところです。ですから、有名です。ところが、あれがどこにあるかといったら、横須賀の先の久里浜の先の駅からまたバスで延々と10分ぐらい行った丘の中にある。周りに何もないんです。研究棟が建っているだけ。
 そこへ行くために横浜辺から、くたびれた顔をした27歳〜28歳の優秀な顔の技術者が電車に乗って、僕は横須賀中央でおりるんですが、まだずっと先に行くんです。
 そういうことを痛みも感じないで、当然だと思う会社の経営者とか、役所の事務屋は、技術者を人間として扱っていないと思うんです。特に、情報産業やなんてITというときには、そういう研究所は、技術者も研究者も普通の人間ですから、町の中にそういう人たちにいてもらった方が、日本国家のためにずっといいんです。
 おもしろい話を、ある若い人がいってました。建研の材料試験の大きい実験装置があります。実在のコンクリートブロックで住宅をつくったり、それをつぶすものです。「伊藤さん、あんなのは現場にいなくたっていい。今だったら、ロボット化して、リモートコントロールで、ハイビジョンで立体的に東京の丸の内や霞が関で見れるなんて幾らでもできますよ。建研にコンクリートや構造の技術者がいる必要はないと思う。そこはロボット化していいんだから、最小限メンテの人がいればいい」というわけです。なるほどそれは十分理解できますね。だって、私たちはそういうことをやっているわけです。インターネットを使いながら設計製図なんて送っているわけですね。東京から例えばアメリカへ設計製図を送ったとか、やっているわけですよ。筑波というのは無人の都市でいいわけです。
 筑波のようなことはもうやめてもらいたい。研究者も技術者も大学の先生も普通の市民なのです。僕は湘南藤沢キャンパスに行ってつくづく思いました。あそこに行かないで、日吉の理工学部にいたら、僕の研究の生産性は倍以上あって、慶応のためによかったと思いました。
 このように、市長が大好きな見晴らしのいい丘の上の美術館とか、田んほつぶして、病院とか、そういうのは全くナンセンスなのです。特に人口が減っていることを考えると、利用者へのサービスを忘れがちなこうした都市施設の建設は多分に為政者、知事や市長に反省を迫っているといえるでしょう。そして、そのことによって「惰性的・図式的な都市空間像」が少しは変わってくるかもしれません。


4.時代変革の波に鈍感な行政対応

 4番目は「時代変革の波に鈍感な行政」です。新しい技術に対する消極的姿勢、古い技術基準の放置。これはあまり具体的なことをいうと怒られるんですが、こういう話をうわさで聞いたことがありました。私鉄の車両のモーターの性能が物すごくよくなっているそうです。音も低くて、加速度も速い。だから、新しい車両は見てくれだけじゃなくて、モーターの性能もいいし、モーターの耐久性もいいということになって、若い技術者がそれを入れようというので、どこかの大学の電気工学科の助教授あたりに相談すると、「それはいいよ」という。そういうモーターがあるなら、ドイツでもスイスでもそういう技術ライセンスをもらって日本でつくってやればいいという。そこまで皆さん理解できますね。電力消費も安い。ところが、だんだん上の方に上がっていくと、技術部長は、どこかの名誉教授で、車両のモーターについて社会的影響力がある先生に相談して「待てよ」という。「古い車両を動かすために必要なモーターはそんな性能のいいモーターでなくていいはずだ」。これも一理あります。
 その私鉄会社で、持っている車両は、車両が故障したとか、モーターが故障したときに古いものから少しずつリプレースメントなんかで、変えていっている。そのとき、新しいモーターより古いモーターの方が保管が効くというのです。そこで、新しい性能の良いものを入れるという話になると、技術部長は「あ、そうですか」といって、実はメンテのこと考えると、古いモーターの安定したやつを使った方がいいそうだというんで、担当の課長代理ぐらいにいう。課長代理はそれを大学の助教授にいうと、大学の助教授は、「せっかくのアイデアがつぶれた」といって、嘆くといううわさ話を聞きました。
 だから、見てくれの車両の格好はいいけれども、モーターは古いやつを使っているというのがあるんだよという。都市計画でもそういうことは幾らでもあります。
 建築基準法で斜線の1.5とか2とかありますね、あれ何で決まっているんだというのは、ここで何回か話しましたけど、とことん詰めていくとわからないんですよ。わからないならやめりゃいいじゃないかっていうんですけど、それが建設省の本省の若い人というと、「そうですね。やめてもいいですね」というけど、3年〜4年前の建築基準法の解説書というのが、県庁や市役所に行っているはずでしょう。そこの技術者は、斜線のことをいわなきゃ技術者としてのこけんにかかわるといって、とくとくと斜線についての話をして、これは重要だというんです。だから、そういうのは「やめた」とはなかなか言えない。おかしいと思ったことをやめるということに行政は鈍感なのです。
 古い技術基準の放置というので、これもうわさ話です。港湾関連の法律の中で、運河に沿った埋立地に石油タンクがあって、その石油タンクから一定の距離を離れたところでないと、そこに不特定多数のための集会施設、例えばサッカー場、音楽堂、そういうのをつくることができないというのがあるのをご存知ですか。なぜなら石油タンクに火がついて爆発したら、爆風が広がって、多数の人がサッカーに夢中になっているところに、もしかすると、爆風が来るかもしれないし、火の粉が来るかもしれないからというのです。安全の面からいえば、確かにそうです。
 ところが、その石油タンクの隣にいすずや日産などという自動車会社があったりする。今のいすゞや日産は、残念ながら工場を売り払わなきゃならないメーカーになっていますが、両方とも、戦争中は国家が一番優遇した自動車会社だったんです。いすゞは海軍、日産は陸軍。戦争中相手にもされなかったトヨタが伸びてきて、浜松にあったホンダが伸びてきた。これも日本社会の非常に不思議な構図なですね。
 それはそれとして、とにかく自動車会社がその土地をそれを売ろうとすると、ちょっと待てという。調べると、そこを売ったって、そこに集会施設つくれないわけです。
 よく考えてみますと、石油タンクがあったときはきっと野っ原だったんです。野っ原のところに、自動車会社だったら、自動車組み立てのための原材料みたいなのが野積みになって置かれているとか、あるいは石炭が置かれているとか、そういうところだったと思うんです。それが都市化して、だんだん原材料置き場のところに工場が建っった。工場の間はまだ良いのですが、その工場が今度つぶれて、今度は例えば川崎市に売ろうとしたときに、川崎市はそこを買ってスポーツセンターをつくろうとしても、港則法で建てられない。これは、古い技術基準なんです。
 今の時代だったら、非常に強力な、爆発しても、火が上の方に上がって、火が横に行かないような障害物をつくるということは幾らだってできるはずなのです。
 建築基準法でいう延焼のおそれある箇所というのがありますが、あれと同じ話です。あれは隣地境界線から7メートル。そこで裸木造をつくっちゃいけない。防火造にして、窓にどのくらいの厚さかの鉄板の雨戸をつければ、7メートルが1メートルぐらいまでいいということになるんです。しかし、延焼のおそれのあるところも、建物の技術改良をしたらぐっと近寄せていいわけです。また、そういうことをしないと、町の中で建物を建てられないから、建築基準法の技術者はそういう理屈を考えた。
 ところが、港則法というのは、市民社会に関係ないところで、ずっと古い基準が残っている。
 古い基準の中で、おかしいものを全部検証して、もっと土地を有効に使えるような新しい基準にして、新しい基準と古い基準の中で安全面について非常に問題があったら、それに対しては、もしトラブルが起こったときには、そこに不特定多数の集会場をつくる市役所なり後楽園なりが保険を掛ける。保険と新しい技術基準は古い技術基準に対応する。そういう考え方をすれば、町の中はもっと使える土地が出てきたり、いい意味での土地を高度に利用するということが可能になるだろうと思うのです。
 都市計画をもし今の制度改革をしながらも、常識的な都市計画の技術指南ではどこか壁にぶち当たる。都市計画でやれることはあるところでもう見えちゃったという無力感に襲われたときに、それを破るのに1つは制度改革がありますけれども、もう1つは技術の問題が物すごく重要だと思うんです。
 例えば、こういう話を聞きました。免震構造の超高層マンションが随分できているんだそうです。免震というのはべらぼうに金のかかるもんじゃないかといったら、いや、そんなことないですよ。一定のある程度大規模な集合住宅をつくれば、下の免震のコストは吸収できるから、それによって5%ぐらい売り値が高くなったって、免震だということの方が経済的な面でお客さんにずっと安心感を与える。また、免震で切った上階の部材は軽くできるから、1割とか1割5分高いなんてことになりませんよと不動産、マンション経営者がいっています。マンション経営者は真剣にそろばん勘定しますからね。部分的なことに詳しい技術者よりずっと大勢を見きわめるということがある。
 このように、時代変革の波に鈍感な、特に技術に対する行政対応というのは幾らでもあるのです。


5.個人の権利主張の無責任

 これはさっきからいっていますから、もういわなくてもおわかりだと思いますが、1つだけ僕が都市計画でやりたいことがあります。それは「来年の1月1日から皆さんの土地で50坪以下のところは分割して建物をつくると、罪に問われますよ」ということをいって死にたい。もしそれができたら、本当に死んでもいい。
 僕は、これがやはり、美しさや風土の価値の視点が欠如した法制度の最たるものだと思うのです。
 僕が学生で建築をいろいろ勉強したときに、今、阪大の教授をしている東さんという人がいて、彼は青山の5坪ぐらいの土地に4階か5階建ての自分の家を持っていて、その現場を見に行ったことがあるんです。客が来たら、階段に座って東さんとしゃべる。これを応接間空間だというんですね。そういわれればそうかなと思うんですけど、普通の人には階段が応接間だとはいえないですよ。建築屋の卵が兄貴分のところに行ったから、「これ応接間空間です」といわれて、「なるほど、そういう概念があるかな」と頭の中で、建築屋の妄想で理解しているだけなんです。
 そういうことをやっては実はいけない。古い歴史的な町並み、風土を保全するとか、皆さん、非常にいいことをいいます。しかし、片方で敷地の歯どめのない細分化が続いて行くと、これは取り返しがつかない。これを手直しするのは手間暇かかるんです。歴史的風土なんていえない建物がいっぱい建ってしまう。いま、これがどんどん起きているんです。
 これは実は恐るべきことです。僕が今いったのは、歴史的風土が守られる一方で、町並みが壊れる方が多く、結局、町がだめになるという話です。
 このことと直接関係がないかも知れませんが、こんな話があります。
 僕は、東ヨーロッパに15年〜16年前から時々行きます。10年ぐらい前、東ヨーロッパの、今は景気よくなったハンガリー、チェコも経済はどん底だった。そのころチェコのプラハに行ったんです。今は少し経済成長率が高くなったからよくなったんですが、その時、市役所の建築や都市計画の技術者と話をしていて、「プラハって美しいな、すばらしいな。こんな美しい町を手入れをしてもっとよくしたら、観光客がもっと来るし、世界の文化人がここで会議をしたい場所に絶対なるに違いない」という話をしましたら、彼が悲しそうな顔をして、「おれもそう思う。だけど、戦争中から戦後、約50年かけてプラハの町の市街地については、ほとんどメンテナンスの手が入ってなかった。みんなが見ていいなという建物でも、内部は全部ガタガタになってきている」。
 確かにガタガタで、コンクリートとレンガはちゃんとしていますが、天井はたれ下がるとか、窓枠や敷物は腐っている。「そういうのは直したらよくなるだろう」と僕がいったら、よくなるけれども、君たち外国の都市計画や住宅の専門家あるいは文化財の連中が、直すべきと言っているものにお金を使うと、普通の一般住宅、ロシアの戦後の社会主義建築の住宅、プレハブでティルトアップした住宅が膨大な勢いで役に立たなくなる。雨漏りがして、冬は部屋の中で凍ったり、扉があかなくなったり。経済成長率が現在のように1%を切るか切らないかという状態では、よくする戸数とだめになる戸数と比較すると、これから20年後には、プラハの町の既成市街地の住宅はほとんど使い物にならなくなるだろうという。金がないからです。
 それで、「日本はいいな。日本は経済成長率5%か6%で、恵まれている」という。当時の日本はバブルが問題になっていたんですが。
 経済成長率が1%や2%でも、悪い建物を直すというリフォームの建築の産業は育ってくると僕は思いますけれども、分割した土地は都市基盤整備公団や不動産会社が入らない限り、もとに戻りません。そうしようとすると、必ず新聞は地上げ屋が来たという。地上げ屋という言葉自体に、うさん臭さとか、およそ世の中で市民として資格がないという響きがあります。
 ですから、極端に言うと、違反建築なんてどうだっていいんです。ただ、土地の細分化が問題なのです。細分化された土地は、市役所が埋めた境界石があって、きちっと登記所の土地台帳に登録されて載っかっていることがあるかというと、ないですね。東京では、23区の既成市街地の10何%です。
 僕は50坪以下の土地は分割しないで、50坪というのをきちっと土地台帳に載るように、区役所とか県が測量士を頼んで整理して、こうだといってくれれば、この方が変な都市空間像なんて考えるより、よっぼど日本の都会はよくなると思う。このことをしっかりといいたいんです。


6.時間消費に対する無責任

 もう1つ、これも大変大事な話ですが、時間消費に対する無責任さ。今度自民党が負けた。その理由は、地方にお金を投入するのに、東京や近県にお金を投入しない。公共事業をやらない。そういうことも原因。「自民党の有力代議士は東京、大阪の企業やサラリーマンや技術者が儲けた金を、強引に地方に持っていく運び屋だ」という新聞の記事がありました。
 それで反省をして、森総理が、つい2〜3日前の新聞に、内閣の重要な施策として、今までは、情報化と高齢化と環境問題だったけれども、4番目に都市再生という会議をつくるという。だけど、この都市再生という会議は、死んだ小渕さんが大都市再生懇談会というのをやっているんです。だから、そんなのをつくるといっても、また同じことかと思いますが、これは前置きです。
 いずれにしても、東京とか大阪の再開発や道路整備や下水網の改善に、例えば東京でことしは道路と再開発と区画整理と下水網の拡充に3000億円の金を投入した。東京に3000億円を投入する方が、山形市と秋田市と青森市と盛岡市に3000億円を投入するよりは、経済の雇用効果も、大都会東京だから、雇用者もふえるだろうし、GDPに貢献する、公共事業が民間の企業の成長率を刺激する効果も大きいだろう。こういう話があります。エコノミストはそういいます。
 それはある条件があればたやすいんですけれども、その条件がないから、僕は正しくないとこのごろいっています。例えば、環状8号は戦争前から都市計画道路としてあるんです。板橋区の辺からずっと来まして、大森のところを通って、東京湾の方に行く。長いこと、あそこはお寺さんが出っ張っていて、元気よく第2京浜の入り口ぐらいまで高井戸の方から走っていても、お寺さんのところで環状8号がとまっていて、そこから細街路、周りの住宅地のところを迂回してもう一回行くなんてことをやっていました。ようやくそれがとれました。とれましたけれども、環状8号というのは、昭和の10年ぐらいに決めた幅員で全部まだでき上がってないはずです。
 東京の都市計画街路は、環状8号、環状7号、環状6号と調べると、60年たっても70年たっても、全部きちっとできてないわけです。今東京の町の中で道路が広がっています。多分横浜でもそうやっていると思います。例えば、1キロの今まで8メートルの道路を都市計画決定して二十何メートルにしよう。一体何年かかって1キロを完成するかというと、多分事業着手して10年は確実にかかりますね。というのは、土地買収でいろいろな問題がある。大体、反対だというごね得。収用法は使えない。最後まで「お願い、お願い」といってやる。
 そうすると、その1キロに500億円の土地買収費から道路築造費をかけたって、その500億円は、率直にいうと10年か15年塩づけなんです。何にも意味がない。効果が生まれない。きちっと道路ができれば、建物が建ちます。きちっと道路が通れば、それは500億円かけたって、ちゃんと自動車の流れがよくなって、場合によっては首都高速の渋滞がずっと減るということがあるかもしれませんけれども、それができない限りは、必ずぎざぎざになるわけです。蛇が卵を飲んだように。だから、8メートルの道路の効用しかほとんどない。そういうのがあっちこっちあるんです。再開発でも区画整理もよく似たことがある。
 それに比べれば、地方の都市は、住民が一致団結して、代議士から市会議員から農協から一致して、「おまえ、30億円の金が来て、県道とバイパスをつくるんだそうだ」といったら、農業委員会はもろ手を挙げて、認めます。「30億円、3年〜4年で使っちまえ。次また30億円だ」という。県道、バイパスをつくる。3けた国道でもバイパスをつくる。すぐそこにとりあえずスーパーマーケットとか、ガソリンステーションとか、パチンコ屋とか並ぶでしょう。
 だから、地方都市では30億円の公共事業というのはすぐ民間の需要を誘発するんです。それを都市計画屋はスプロールだといって、深刻な顔をします。確かにスプロールですが、少なくとも地方都市から見れば、スプロールよりは中高年のパートのご婦人やおじさん方の職場を確保するという点では、市長にとってはこんなに大事なことはないし、公共事業はまた次に30億、次に30億ととれるわけですから、スピードが違うんです。
 そこまで踏み込んで考えると、さっきいったように、延々と外郭環状道路の都市計画決定して、40何年そのままに放っておくような連中が都市計画をやっている東京都なんかに金をやるよりも、地方に公共事業をやった方がずっと雇用効果もあるし、エコノミストの計算する乗数効果という数字にはならないかもしれないけど、少なくとも自民党の安定基盤には貢献するという、金を配る方からすると、筋が通るんです。
 ですから、東京がもし本当にみずからの体質を直すとすれば、ここで東京都庁が、強い都市計画、ルールに乗っかったものはビシッとやる。ただし、少数者に対する救済は徹底してやる。少数者に対する救済は徹底してやって、場合によっては、ごね得というぐらいでもいいんです。要するに、公共事業のスピードを速くする。区画整理のスピードを速くする。再開発のスピードを速くする。スピードを速くして、都市計画というのは動いている、飾り文句ではないということを皆さんに示さない限りは、21世紀はもう日本で都市計画を語らなくてもいいと思います。都市計画は死語にしても、日本は経済的にうまく動いていく。そうなるでしょう。


7 新しい都市計画法について

 以上6項目の話をしました。必ずしもうまくつながらないかもしれませんが、皆さんにお渡しした資料を見ながら、新しい都市計画法について少しお話したいと思います。
 今回の都市計画法改定の一番の目玉商品は、「都市計画区域外における開発行為及び建築行為に対する規制の導入」です。今回の都市計画法で1つだけ何が画期的だったかというと、これです。これは計画なきところに開発なしという学者の空回りの、しかし恨み節でもある言葉を、ある程度実現させてあげようというふうにした分野なんです。
 もっといえば、例えば、昔のリゾート法で、猪苗代湖とか、よくわかりませんが、どこかで湖の周りとか温泉のあるところでマンション建てたり、ホテル建てたり、スキー場をつくったりして、全部だめになりましたね。その場所は全部都市計画区域の外なんです。外ですと、そこに建てられる建物は、何建ててもいいし、宅地造成もどんな宅地造成をやっても、法律的には許される。都市計画区域の外ですから。それから、1000坪のホテルを建てるとしますと、今まで、制限なし。だから、敷地はなるべく最小に買って、7階建て、8階建ての建物を建てて、周りは借景と称して、入会(いりあい)の手入れのいい杉林とかヒノキ林を自分の庭のように眺めさせて、前に湖がある。横っちょには入会の土地を買ってスキー場にするというタイプが多かった。
 少し良心的なホテル屋さんならそれでもいいんですが、そこへレジャーランドができたり、いろいろ食べ物屋ができたりすることに対して、建築も都市計画も全く手が及ばなかった。リゾート法はみんな失敗して、ああいうことは二度とやるんじゃないと、みんながやけどしましたから、そう思って、それはそれでいいんですが、問題は、高速道路がどんどん延びていきます。例えば、第2東名、あんなのできるかといったら、着々と静岡辺からつくっているわけです。静岡から神奈川県を通って横浜のところまでつくっている。横浜市の外郭環状自動車道路を横浜市がつくって、そこに第2東名がぶつかることになっている。第2東名は、じゃ、そこから横浜市の辺を通って、川崎市通って、東京へ出るかという計画は全然ない。とにかく横浜市の外側の環状道路まで第2東名がぶつかるようになっている。静岡あたりから今つくっているんです。
 この静岡から愛知県、岐阜県、あっちもずっとつくっています。それがどこへ通るかといったら、大体山の中です。第2東名は山の中、下は東名。比較的ここは平地と丘陵地の境。そこにつなぐ道路が全部できますね。第2東名と今の東名をつなぐ自動車道ができます。あるいはその自動車道路、専用自動車道路じゃなくたって、第2東名の出入り口と東名の出入り口のところを少し県道をよくしようと静岡県だって、神奈川県だって考えます。そこは全部都市計画区域の外が多いんです。
 あるいは新潟から小名浜、いわきへ抜ける関越自動車道路だって、よく見ると、阿武隈高原のところに小野という町があります。皆さん、ご存じないでしょうが、あそこは福島県庁が首都移転の重要な場所にしているんです。「森に沈む首都」なんていううたい文句で。実は僕もそれにかかわったことがあるんで、内心ちょっと消耗しているんですけれども。しかし、小名浜市の、多分都市計画区域の外ですよ。それからずっと、猪苗代湖から会津を通って、最後は村上の方を通って、新潟東港の辺まで行って、北陸自動車道にくっつくんです。
 そこと、会津若松の間のところにインターチェンジができるでしょう。そこも多分都市計画区域ではないんです。
 要するに、道路公団の悪口ではなくて、自動車時代というのは、具体的に高速道路網のネットワークによって加速化されたときに、インターチェンジというのは、そこを拠点にした新しい意味の市街化を生み出す重要な場所になる。そこに対して、今まで何にも手立てがなかった。これは明らかにおかしいんじゃないかということです。ですから、これは自動車時代に対応しても、日本国土の中でパチンコ屋とか、何とかホテルとか、そういうとりあえずつくって儲けようという建物が、山の中までバラバラ建つという国辱的な光景をつくることはやめようというんで、準都市計画区域というのをつくったんです。自動車時代ですから、第2東名のインターチェンジの前なんかは民間の特別養護老人ホームなんかつくるのに一番いい場所です。土地は安くて、皆さんの監視の目が行き届かなくて、息子や娘も、そういうところに、行けると思うけど、心理的距離は遠いから2年に1回か2回しか行かないというところだったら、これは特別養護老人ホームの経営者としては、相当の利益を手にする危険性があります。そういうのはおかしいじゃないか。
 そういうところを準都市計画区域にしたわけです。ところで、だれもが知っている裏話ですが、準都市計画区域はどこに引かれるかというと、大体が森林です。農地にはほとんど引かれないはずです。それを了承して、農林省は準都市計画区域を都市計画区域の外につくっていいよといったはずです。農地のところに準都市計画区域をつくるっていったら、大変なことが起きます。
 それは農村地域、田んぼ、畑があって、集落のあるところには農林省は都市計画を既にやっていますね。集落排水、下水道、農村公園、集落整備。集落整備っていうのは、しゃれた歩行者専用道をつくったり、農道をうまく集落の周りに張りめぐらせれば、自動車が集落の外を迂回する。道路事業から公園事業から下水事業から、全部やっているんです。もちろん水利事業が多いんですけれども、集落整備でも全部足すと年間1兆円の公共事業を農林省は持っているんです。そこは農林省のテリトリーです。
 森林は今、日本の林業って全く成り立っていませんから、農林省は関心の外なのです。どうやってもいいよ。だから、森林のところで、準都市計画区域をつくるならまあいいでしょうというのが、僕の独断的で、相当いじわるじいさん的センスで見た、建設省と農林省の合意事項ではないでしょうか。
 もうちょっと高尚な話をします。準都市計画区域を厳しく運用すれば、こういう建物を建てちゃいけないよとか、建ぺい率は30で、容積率50でしかつくっちゃいけないよということが指定できます。この精神はアメリカの自動車文明に対して、ささやかな日本的規制を加えるということです。
 ところが、こういう規制は、ヨーロッパの小さい国は結構やっていまして、私の尊敬するヨーロッパの都市計画のそれなりの男がいて、デンマークの環境住宅計画省の都市計画のチーフですが、彼といろいろ話していたら、デンマークでは、ショッピングセンターは絶対に農村地域、森林地域にはつくらせない。どうしても必要なら、極めて限定した市街区の端っこにつくらせる。ショッピングセンターは絶対つくらせないと、はっきりいっていました。
 立派なものだなと、日本はそううまくいかないといったら、「日本人って、どうしてアメリカにいつもこびるようなことやっているの」と言う。しかし、日本の人口は1億2000万、世界第2の経済大国で、デンマークは人口わずか500万か700万で、デンマークがアメリカに反抗したって、アメリカはそれよりも日本をコントロールしている方がよっぽどいいから、やっぱり人口量と経済力からいったら、アメリカの締めつけは日本の方の方が大きいのでしょう。
 だけど、理屈からいったら、当然そういうことをやっておかしくない都市計画の行政的姿勢というのは立派なものだなと思って、近々日本に呼んで、講演させるからそのつもりいろといったら、喜んで行ってしゃべるといっていました。できたら、こういう場所でもしゃべってもらったら良いかも知れませんね。
 これが一番重要なことです。都市計画が山へ上がる。船頭多くして船どこかに上がるのではなくて、筋のいい都市計画の考えが山の中に上がってきたということで、これは相当大事なことです。

 次にいいたいことは、スピードアップの話です。先ほどからずっと申したように、公の仕事はなかなかスピードが上がらない。公だけに任せておいたら、絶対にスピードが上がらないというので、うまくいけば相当効くと思うんですが、資料の都市計画法定システムの合理化のところに「市町村の条例で定めるところにより、地域住民から市町村に対し、地区計画等の案の作成の申し出」と書いてあります。
 これは割合おもしろいんです。地域住民から市町村に対して地域計画等の案の作成の申し出をするときには、多分地域住民は地域住民としての地区計画の原案を持っているはずなんです。持ってなきゃ申し出ないでしょう。素手でつくれなんていうのは、あまり地区計画のことを知らないところです。地区計画を勉強して、こういう案ができた、できたら、地区計画に従って、小さいところの再開発でもやりたいなんていうのがまとまる案に入ってきます。
 それを市町村に出しますと、市町村は、3カ月か6カ月以内にそれに返事を出さなきゃいけない。いつも、来たやつを役所で受け取りましたといって、書類出した人が帰っちゃうと、すぐ下にやるという話がいっぱいありますね。今はそんなことないと思いますが、うるさいのはいつも下に回しちゃう。そういうことしちゃいけない。
 これが広がってきますと、小さい規模の地域社会の、特にご婦人方がNPOなんかを使ってデイケアセンターをつくるとか、あるいは車いすで散歩できるような歩道を広げるとかいう地区計画をつくると、これはさっきいったいい意味での地方分権の市や区に対しての極めて強いプレッシャーになって、いい意味で区役所や市役所が、それに限られた時間で返事を出す。返事を出すというのはイエスかノーですから、多分日本的慣習でいえば、イエスの方。イエスになったら金がつかなきゃいけない。問題は金なのです

 さっきいったように、森総理大臣が都市再生会議を総理直属の組織としてつくるという話が新聞に出ていましたね。その前に、亡くなった小渕総理大臣が大都市再生懇談会というのをやっていて、東京と大阪とそれぞれ2回目までやった。2回目のときに、いろんな委員の方が、都市のビジョンを語るわけです。経済界とか学校の先生とか代議士さん。みんなビジョンですから、美しいんです。
 ところが、だれも金のことをいわない。僕はきょうしゃべったように、金がなきゃ何もできない。前から考えていたんですが、ウルグァイ・ラウンドというのがあったでしょう。10年前に米の関税化。要するに、数量制限で日本は米の輸入を阻止していたんですが、米の輸入を数量制限でも守り切れなくなって、関税にする。今でも二百何十%の高い関税を掛けていますけれども、関税化しますと、関税率を徐々に下げていかなきゃいけない。250から、だんだん170、150とかいうように。その代償として自民党はウルグァイ・ラウンド対策というので、10年前に農村の振興に6兆円のお金を約束した。
 それがウルグァイ・ラウンド対策で特別枠。それを使って農道をよくしたり、田んぼを大きくしたり、集落排水をつくったり、いろいろやってきた。ウルグァイ・ラウンド対策の恩恵に浴している農村地域は、人口30万の県庁所在地を抱えている県みたいなところですから、足しても3500万ぐらいしかないでしょう。3500万、4000万の国民に対して、10年間6兆円出した。
 ことしでその10年目が切れるんです。そこで、次、都市部をどうする。都市部には1億2000万から4000万を引けば8000万いるはずだ。8000万いたら、10年間で12兆円の金、都市部に出したっていいだろう。10年間12兆円の金を、予算措置は何も税金だけじゃなくていいんです。PFIとか、皆さんの郵便貯金でもいいし、銀行の定期預金、あるいはNTTの無利子融資でもいいですよ、利息のつく金、利息のつかない元本だけ返す金、それから元本も返さない税金とか、いろんなレベルの金をまとめて、10年間12兆円、8000万の都市的市民のために使うことをちゃんと考えろといったら、公式議事録に載りました。だから、その内容を考えなきゃいけないんです。結構、それが使えるんです。 さっきの「住宅市街地改善に対する公共介入の弱さ」。これが一番問題なのですが、ここに使う金どれぐらいにしようかって、頭の中で簡単に計算したんです。友達の入れ知恵なんですけれども、東京23区の市街地面積は道路から皇居まで全部入れて、600平方キロになる。道路から多摩川のような水域から皇居から入れて。25キロ、25キロぐらいです。皇居を中心にして半径12キロぐらい。その中で、純粋の宅地が半分、300平方キロだというんです。300平方キロの中で弱いもの、災害がおきやすい部分が3分の1として100平方キロです。
 一方、2兆円ぐらい何かそういう金に使えることないかなと考えていたとき、パッとひらめいたことですが、東京の宅地の値段が仮に坪100万円、平米30万円位にしましょう。そこで、仮に金利3%とすると、1万円なんです。平米1万円。広い意味で何兆円かのお金を平米1万円当たり投入すると、木造密集市街地は100平方キロありますから、1兆円なんです。1ヘクタール1億円でしょう。
 1ヘクタール1億円って、どう使えるかというと、100メートル×100メートルの密集市街地があったときに、そこに幅5メートルで、長さ100メートルの道路を1本つくります。土地買収費は多分5000万円ぐらいです。道路造成費5000万円。足して1億円。5メートル幅で100メートルの道路を100万円で買収するよといって、これを墨田区や荒川区や北区の密集市街地に行って持ち込めば、木賃アパートを抱えて家賃経営で苦しんでいるお年寄りのおばあ様方は喜んで売って出ていいという値段だと思います。
 そういう道路ばかりでなくたっていいんです。ある地区では50メートルピッチにごみ捨て場を道路に接したところに必ず10坪ぐらいずつ確保して、その後ろに30坪ぐらいの子供の遊ぶ場所をつくって、お便所をつくって、そういうのを足して全部で30坪を3カ所つくって100坪、そういうのでもいいんです。それはみんなの考え方による。
 これは、東京の地震対策、非常に質の悪い100平方キロの木密地域に対して1兆円のお金を10年間、年間1000億円投入する事業です。この仕事は高齢者の男性に向く仕事です。なぜかというと、高齢者同士の相談をしなきゃいけない。土地の境界を確定し、権利関係を整理する。若い気の早い男が行くより、時間を気にしない退職したお年寄りが、夜な夜なうわさ話をしながらやっていくという人が、NPOでいっぱい展開すれば、仕事は動く。
 そういうイメージを具体的に出した方が、惰性的・図式的な都市空間像を描いたりすることよりよっぽど意味があるかなと思います。
 どうしてこれをいったかといいますと、こういう都市再生会議とか大都市何とか会議というので、それなりの学識経験者とか経済界のリーダーなんかが出ると、大体が重点プロジェクトというのを出すんです。100万坪の製鉄所を環境保全のためにどういうふうに利用するかとか、あるいは武蔵野線の貨物ヤード、武蔵野操車場、あれは千葉県の常磐新線の武蔵野操車場ってかつてやった。地盤沈下しながら残っていて買い手がいない。そういうところについて、リサイクルセンターにした方がいいなんてことは、ちょっと勉強すれば、経済団体連合会とか経済同友会とか商工会議所の若い人たちは簡単にそういう理屈のものを出せます。
 それから、第2湾岸道路と環境に調和した第2湾岸道路とか、そういうのがあります。それから、東京電力になれば、なるべく経済的に建設省から補助金を出してもらいたいというので、電線の地中化に税金幾ら投入しろ。こういうのは非常にはっきりわかったプロジェクトなんです。
 だけど、それはあまり市民社会に波及しないんですね。東京電力は、補助金要らないです、とにかく少しずつ電柱地中化やりますといったら、100年かかったって、電柱は残るでしょう。東京電力の考え方次第になってしまう。そうじゃなくて、あるプロジェクトを、みんなで一斉にやれば、失敗するのもあるけれども、成功もする。成功例を多くするのは、着手例をうんとふやすしかしようがない。着手例をふやすためには、難しい話はしない。ばかでも年寄りでもできる話をする。それが都市計画だと思うのです。
 失敗しても傷は少ない。失敗したことについて、ある程度、公的なところで3年間で3000万円使って失敗したら、保険だと思って、それはもういい、そういうふうにすれば、本当に都市が動く。そういう感じがするんです。
 繰り返しますが、そのためには都市ビジョンではなく、非常に明快に何兆円の金、どれぐらいの金を何年間で何のために投入する。それを市民社会に問いかけたときに、それを聞いた人がなるほどこれは使えるというように、それなりのレスポンスが出てくることを一生懸命考える方がおもしろい。
 1つの例は、私鉄の駅の周りの再開発です。JRではありません。あそこにデイケアセンターと託児所と退職した警官がいる準交番とお手洗いと、お年寄りがゆっくりと本を読んでも怒られないようなゆっくりしたコーヒーハウスをつくる。そういう再開発を東京と大阪の私鉄の駅の周りでやれば、お年寄りにもいいけれども、地震や火事のときに一番いいよりどころになります。鉄道というのは大事な、日本人のつくった都市計画的な資産です。
 金を本当に大都会で使うために、時間を区切って消化して、なおかつ周りにソフトな社会的影響を持つことを考えるのが21世紀の都市計画とすると、都市計画の教科書は多分全部変わるかもしれません。

 また、 都市計画法の話に戻ります。さっき私は1番目に準都市計画区域をいいました。2番目に、地域住民から市町村に地区計画の申し出。次にいいたいことは、非難もあるんですが、「商業地域内の一定の地区において、関係権利者の合意に基づき、他の敷地の未利用容積を活用」とあります。これは意外とおもしろくなると思う。
 例えば、お寺さんの上の容積、本当はお寺さんの上に容積をかけちゃいけないんですが、建築指導の人たちは、お寺さんとか神社に容積を載っけちゃった。お寺さんや神社はその容積を自分の財産だと思っているんです。それを使った例が、日枝神社と三菱地所がつくって、清水建設がやったみにくくてでかいビル。あれはでか過ぎる。日枝神社の容積が余っていたから、ああいうふうになってしまった。
 ああいうのではなくて、もう少し細やかな生きのいいお寺さんや神社を残しながら再開発するといったら、お寺さんや神社の容積を一定の地域の中で、例えば区画整理されていて、あるいは昔からの町で、道路率が35%で、公園が10%ぐらいあって、宅地のネットが50ぐらいだ、そういうところでお寺さんがここにあって、こちらの方に工場があって、工場の再開発をしなきゃいけない。そのとき、お寺さんはお寺の上の容積をこっちに売る。こっちは容積300だけど、600になって建てられる。こういう話が出てくる。
 今のような話はきな臭い話かもしれませんが、今、社会的正当性を持っているのは東京駅の3階化復元なんです。東京駅というのは皆さん2階だと思っていますけれども、僕の心の中では3階建てで、屋根がネギ坊主のような形であったんです。設計は辰野金吾でした。真ん中に小さい塔屋の3階建てだった。東京駅のレンガ造というのは、世界じゅうの駅ステーションをごらんになって、世界の中で一番すばらしい駅舎かもしれませんよ。オルセー美術館のオルセー駅、あれは再開発ですが、あれと東京駅とは同一レベルじゃ比較できないけど、あれも立派、これも立派という中で5つ挙げれば東京駅は1つに絶対入る。
 東京駅を3階にするのをだれがやるのかというと、JR東日本がやるんです。あれは国の補助金なんか入らない。JR東日本は株式会社ですから。JR東日本は自分の利益を棒にしてまで、300億か、そこらかかると思いますが、それを出せるかといったら、出せないでしょう。何するかというと、容積を売るしかしようがない。容積を売る相手はといって見渡すと、あの辺三菱地所ぐらいしかない。あるいは八重洲へ飛ばすということもあるんです。
 東京駅の容積率の余った分は、よくわかりませんが、霞が関1本分ぐらい大きいのが余っているんです。3階で使うのはほんのわずかです。12万〜13万平米余る。どこに持ってくるかというと、丸の内側では郵政省の裏側の東京ビルぐらいしかない。あれも細長くて質の悪いビルですから、いずれ建て直すとしても、そこだってせいぜい3万か4万平米しか割り当てられない。残り8万平米ある。どこに持っていくか。意外と八重洲の方に持っていったらいいという話になる。大丸のビルをつぶしてしまえという話にもなる。 
 この話は、建築の環境系の先生方はもろ手を挙げて賛成する。これは僕何回もここでいいました。大丸の建物がなくなると、隅田川から上がってきて、昔の八丁堀の辺を通ってきた冷たい空気が八重洲通りを通って、東京駅の3階の屋根を通って、行幸通りを行って、皇居の森に合流する。(笑)わかりますか。夏はすごく冷たい空気があそこに通るようになる。これまじめな話です。都市環境を議論している先生方は皆さん、それに賛成です。
 地球環境的にいうと、大丸のビルもけしからぬ建物だ。だから、つぶして両側に2つ大きいビルを建てればいいんです。丸の内は千代田区だから品がよくて、建物の高さを自主規制したり、容積を自主規制したりして、1300とかいってますが、八重洲側は中央区だから、あまりそんなことは考えない。(笑)高さだって幾ら高くしてもいい。容積だって、あの辺の人たちは商人ですから、理屈に合うようにしかもうまくやる(笑)。だから、東京駅を3階にして、東京駅の余った容積は八重洲の方が活用されるかもしれない。
 このように、文化財を生かして使うといったときに、意外と使える。神社、仏閣、駅、まだきっとあると思います。大学の古い建物のあるところの容積なんかも移せるかもしれません。大隈講堂を残すために大隈講堂の上の容積を早稲田大学がどこかに売るかもしれないです。
 これはあまり知らない人はけしからぬというんですが、うまくやれば使えるんです。ただ、移すといったって、ある程度道路もちゃんとして、下水もちゃんとして、電力供給もちゃんとしている場所でなきゃ移せません。突然木造密集市街地に600%のオフィスビルつくるなんていう移し方は絶対やっちゃいけないんです。ただ、都市を品格よく維持する。歴史を感じさせるときに、うまく使えば相当おもしろいことになると思います。

 最後に申し上げたいのは都市計画に関するマスタープランの充実とあります。都市計画をちょっと勉強なさった方は、「何だ、これ。市町村マスタープランがあるじゃないか」。市町村がどんどんつくっていて、役に立たないけど、数だけはふえた。そういうことをいわれる。そんなに役に立たないけど、市民参加でみんなで議論して、都市を理解するという意味で、市町村マスタープランは社会的貢献はしているんです。実態としては貢献しなくても。
 実はここでいうマスタープランは県なんです。県が何かやりたい。官僚は仕事がないとしょぼけちゃいます。仕事のない官僚はやめた方がいいということになります。県庁は何をやるべきかというので、地方分権の結果随分戸惑っている。都市計画もそうです。ところが、考えてみたら、埼玉県とか千葉県、市街化区域と市街化調整区域を引く線がありますね。線引きをするために役にも立たない調査をいっぱい押しつけて、整備開発保全の方針とかってだれも知らない、役人だけが1人よがりしている法律がある。整備開発保全の方針って、線引きのための1つの作業です。市町村の役人は、あれはマスタープランだと前からいっていた。それを県庁レベルの都市計画の役人と国の役人は、市民的に名前が評判よくない整備開発保全の方針をやめて、都市計画の方針という名前で、通称県版の都市マスというやつをつくったんです。
 これは何のために必要かというと、さっきの父親的な都市計画ということに結びつく。こういうところで市町村版の都市マスと同じように、市民参加で皆さんの合意を得て、楽しく一緒に輪になって踊ろうというのではない。そういう仕事をしたって、これはむしろ市町村を冒涜するものです。市町村に対する越権行為。県としてやるべき都市計画は何か。毅然とした都市計画です。だから、市町村が線引きの外側に住宅地をつくりたいとか、住宅地開発したいというときに、県は絶対それをさせないという方針を盛り込んで、市町村のわがままを封じ込めちゃう都市計画をやるべきだし、外郭環状自動車道路なんか、東京都は責任持ってやることを明記すべきだし、ごみ焼却場は民間がやれるなら幾らでも民間にやらせるべきだという東京都の都市計画方針があれば、それだっていいんです。1区で1ごみ焼却場というんじゃなくて、民間に補助金をやって、民間がちゃんとルールを守ってごみを焼いて発電して、リサイクルして、熱を使うということができれば、そういうことがやれそうな製鉄所や機械系工場は、探すと、千葉から川崎の間に何カ所かあるんです。東京都のごみを住民運動反対じゃなくて、焼くのは川崎製鉄に持っていって焼いたって、民間ならいいでしょう。千葉市が反対する必要ない。そういうのを東京都と千葉県が合意してやれば、自区内処理なんてことしなくて済む。これもちょっと男っぽいですね。
 東京第3空港を東京湾の中につくれなんて、東京都の都市計画がやらなきゃだめです。国は絶対いいません。これは千葉県と闘ってでもやるぞとか。
 そういうことを都市計画に関する県のマスタープランに入れなきゃ何の意味もない。嫌なことは全部県が引き受けるという時代になった。甘いことは全部市町村がやる。きょうは極めて自虐的にしゃべったんですが、明快な責任と目的の負担を国と県と市がやらない限りは仕事は動かない。みんながもたれ合って、ぼかした領域で、これは県でも市でもないし、国にやってもらうということをやっていると、結果として、その受益をする市民もそれにおぼれてしまって、税金も払わないで、自分の家は違反建築をしながら、隣にマンションが建つのを反対するということが社会常識だとなるかもしれない。そういうことなのです。
 ちょうど時間がきたようです。これで終わらせていただきます。(拍手)


司会 きょうは残念ながら質問の時間がなくなってしまいました。これをもって終了します。 
本日はどうもありがとうございました。(拍手)


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