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第160回都市経営フォーラム

快適都市空間をつくる
−生活空間再生への視点と提言−

講師:青木 仁 氏
都市基盤整備公団居住環境整備部・再開発部次長


日付:2001年4月25日(水)
場所:後楽国際ビルディング大ホール

 

1.大きな疑問

2.その原因

3.責任者はだれなのか

4.この現状は変え得る

5.生活空間を取り巻く社会問題

6.都市計画・建築規制の問題点

7.よりよい生活空間のためのキーワード

8.生活空間の総合的再編成

9.庶民のための都市計画の実現

10.生活デザインの推進

11.行政システムのリストラクチャリング

12.生活者主導の変革

フリーディスカッション



 ご紹介いただきました青木です。1時間半ほど、OHPとスライドを使ってお話をさせていただきたいと思います。
 ご紹介していただいた本を書いたのは、20年以上ほとんどすべて役人として働いてきた自分自身の自己批判です。自分は自分なりに、都市政策とか住宅政策、建築政策の分野で少しでもゲインをしよう、少しでも世の中によいことができればということでいろんなことをしてきましたが、実際の街を見て果たして本当によくなっているのかどうかを強く反省したわけです。どうも私の答えはノーだったということです。
 そのときに、頭の中に思い浮かびましたのは、江戸時代末期とか明治の初年で、建築政策も都市政策も住宅政策もないときにできたきれいな街が日本じゅう、特に地方に行きますとたくさんあるということです。何でその当時の人が、政策的な枠組みも、皆さん方のような立派な産業人も、立派なデザイナーもない時代に、こんないい街をつくることができたのか。それに対して、私たちは、戦後55年以上たって、戦災もありませんし、神戸を除けば大きな震災もなかった。産業も発展し、経済力も世界第2位になったにもかかわらず、どうしてこのような都市の状況にあるのかということに疑問を抱いたわけです。



1.大きな疑問

 (OHP1)
 それが「大きな疑問」なのです。なぜ私たちの暮らす日本の生活空間は魅力に乏しいのか。私たちの日々の生活というものが、ゆとりや快適さからほど遠い味気ないものになってしまっているのはなぜなのか。これをまちづくりに携わる人間として、もう一度考え直してみよう、反省してみようではないかということで本を書いたわけです。
 私だけがこのように思っているのかといいますと、そうではないようで、ここで政権が変わりましたけれども、森政権以来、今度の小泉政権でも、政府は「都市再生」ということを、景気対策というか構造改革の4本柱の1つにしています。政治家の皆さん方、そのバックにおられる学者の方々、財界の方々も、日本の都市はこのままではだめだと思っておられることの証左だと思います。
 また、石原知事は、東京の都市問題について熱心にいろんな試みをされておりまして、その中でも、特に国際的な都市間競争の視点から、日本の都市をこのままにしておいてはいけないという危機意識が見受けられます。そういう意味で、この疑問は私だけの疑問ではなくて、中央の政界も地方の政治も巻き込んで大きな問題になっているのではないかと思っています。ですから、そんな見当外れなことを私がいっているのではないということを、私自身は自信を持って言いたいと思います。
(OHP2)
 どんなに味気なくてゆとりがないかということを、少しここに書き連ねてみました。長距離満員通勤は、大都市であれば皆さん周知の事実です。週末、都市から田園へ出かけようとしても交通渋滞に巻き込まれてしまう。私が一貫して言っておりますように、土地代が下がって大変だという方もいらっしゃいますけれども、まだまだ日本の土地は高過ぎる。一生かかって稼いだお金の大半を土地や住宅に取られてしまう今の日本のシステムはおかしいと思っています。
 それから、病院についてもそうで、ちょっとした病気になって心配だというので、大病院の外来に行けば、1日つぶしてしまうような状況です。
 歩道を散歩しようにも、ごみ箱とか障害物でいっぱいですし、歩道のない道路もたくさんあって、歩行者は自動車に追い立てられる場合すらあります。近ごろでは無謀な自転車走行が増えてより大きな危害を加えられる危険があります。
 それから、「狭苦しく窮屈なレストランやカフェ」と書きましたけれども、ヨーロッパなどに行きますと、古い街ですけれども、天井の高い空間にまばらにテーブルが並べられたレストランとかカフェになっていて、本当にゆっりとした空間の中で食事ができたり、お酒が飲めたりするわけです。それが日本ではなかなかできないということです。



2.その原因

(OHP3)
 そこで、包括的に反省をしてみて、問題意識を持って、一体その原因は何だろうかと考えたわけです。これは私なりの結論でありますけれども、その原因は、都市を産業都市として構想してきたこと、これに尽きるのではないかと考えております。都市における生活とか生活者の視点を全く無視してきたということにあるのではないかと思います。
 これは日本で稼いでいる私たち全員の問題ですけれども、戦後は特にそうですが、稼ぐことを最優先にしてきたのではないか。まず稼いでから、お金を得てから、生活のことは後で考えるという発想になっていたのではないかという気がしています。
 子供たちにも、遊ぶよりは、将来ちゃんと稼げるように勉強しろということで勉強に追い立ててきたのではないか。家族の中の稼ぎ手というのは、稼ぐことにすべての神経を集中していますから、家にはいなくなってしまう。地域にもいなくなってしまう。稼ぎ手がいるところは職場か家と職場の間の満員電車の中という状況になってしまったのではないかと思っています。これが最大の原因ではないかというのが私の結論です。
 明治維新の前の段階では、経済成長もさほどありませんでしたから、稼ぐことよりは、いかに生きるかということの方がきっと重要だったのではないかと思います。100年以上前の日本人の考え方をこの100年間日本人は忘れていた。その結果このような状況に立ち至っているのではないかと考えています。
 それから、先ほど申し上げたように、国のレベルでは都市再生の議論がある、東京のレベルでいえば、石原知事が、東京の再生、東京の創造についていろいろな試みをされています。こういう冊子にもなっています。私が見て思いますのは、経済力の発展、経済的な地盤沈下について非常に危機感を持っておられて、それを物事の中心に据えられている。世界の新しいビジネスセンターを東京につくろうという発想に立っておられて、生活のことは触れられてはいるんですけれども、どうも片手間に触れられているように思えてならないということです。それが私には大きな不満です。そういう意味で、もう一度生活ということを起点に物事を考えるべきではないかというのが、私のここでの強い主張です。



3.責任者はだれなのか

(OHP4)
 現在の街は、産業中心、物をつくること、富を生み出すこと、その生み出した富の分配をするための都市になってしまっています。責任者はだれなのかということですが、先ほど冒頭で申し上げたように、私は行政官として深く反省をしています。行政官は悪かったと思っています。よい街をつくるサブシステムの提供を怠ったということです。
 一番悪いのは縦割りです。縦割りになりますと、都市全体のことは考えることができなくなって、都市の中の一部分、住宅を担当していれば住宅だけ、下水道を担当していれば下水道だけ、公園を担当していれば公園だけ考えるということになるわけです。それで、狭い範囲でしか物事を見ていませんから、公園をどうやってつくればいいかということばかり考えている。そうすると、公園で豊かに時を過ごし、道路を楽しく散策し、楽しくドライブをし、ゆったりとした住宅に住む、そういったことが総合されて豊かな生活空間ができるんだという視点を失ってしまいます。
 そういう視点がなくなりますと、人々の生活をどのように潤いのあるものにするのかといった公園のそもそもの目的というのを忘れてしまって、公園が何しろ多くできればいいという発想になってしまいます。公園についた予算が全部消化できればいいとか、ある地区の公園をつくるために収用をかけなければいけないけれども、その収用がうまくいくことを願うということで、結局、生活を豊かにするために公園をつくっているのではなく、自分の仕事がうまくいくために公園をつくっているということになってしまうのではないか。これが縦割りの一番よくないところです。
 それから、本の冒頭でも書きましたけれども、前例主義というのがあって、行政は抜本的に変えるということが難しい組織です。これをつかさどっている最大の部局が内閣法制局というところです。これが法律を改正しようというときに、必ず障壁となってあらわれるわけです。
 ちょっと考えていただきたいんですけれども、法律を変えなければいけないとか、法律を新たにつくらなければいけないというのはどういう場合かということです。法律を改正する、直すのが一番必要な状況は、その法律自体が間違っている場合です。法律が思ったように機能していなくて、思ったような効果を上げていない。だから、法律を変えなければいけない。法律はあるけれども、実体に何らよい影響を及ぼさない。だから、法律そのものを抜本的に変えなければいけないと思うわけですが、内閣法制局は、もともとは、行政官が勝手に法律案をつくったりするのを阻止するためにある組織ですので、なるべく新しいこととか変わったことはしない方がいいという根本原理に立っています。
 悪意を持った人たちがあらわれたときには、よい効果を発揮するかもしれませんけれども、本当に問題意識を持って、現行制度の問題点を指摘して、世の中に合わせようという善意の意図を持った人に対しては、どちらかというと、マイナスの影響を与えてしまいます。我々が法律を変えたい、こういうふうにしたいんだけどというときに、「なぜ、そういうふうにするんですか」と問われるわけです。そのときに私は、正直にいえば、「今の法制度が間違っていて、全く新しい制度をつくった方がいいからです。今の法制度では世の中を律することもできなければ、それをよい方向に誘導することもできない。間違っていたから変えたいのです。」というと、それは認められないわけです。
 彼らの金科玉条としているのは、法律無謬主義。法律は誤っていないという主義なんです。ですから、口が裂けても法律が誤っていたから変えたいという説明は通してはいけないわけです。法律は正しかったけれども、世の中の方が少し変わったので、その変わった世の中に応じて少し制度を直したいんだという説明しか受け入れてくれないわけです。これでは微調整しかできません。
 現状、真上を向いたベクトルで法律が構成されているとします。私が考える最も正しい方向は、皆さん方から見ると、左側に90度振れた方向であるとします。これを90度一遍に変えることは許してくれませんので、これを1度ずつ変えていくわけです。法律は、毎年毎年変えるようなことをすると、定見がないといって怒られますので、2〜3年に1遍こういうふうに変えていくとすると、90度変えるのに300年ぐらいかかるということになります。これが行政が持っている2番目の問題点です。今我々の周りにある行政制度がどうも物足らないというのは、こういうところに起因しているわけです。
 3番目の問題点は、特に中央の行政機構にはいえることですけれども、大方机上の空論でつくられているということです。介護保険制度もそうですし、都市計画の制度なんて全くそうだと思います。机上の空論でつくられていますから、現実に合うわけがない。なぜ机上の空論になってしまうかというと、実体を知らないというのがまず第1の大きな要点です。
 第2番目に、例えば景気対策もそうですし、政府の予算もそうですけれども、毎年予算をつくらなければいけない。毎年景気対策を打たなければいけない。それから、毎年総理がかわるという状況では、1年ごとに目新しいものを要求されるわけですが、そんなものを考えつくわけがない。したがって、机上の空論で、テーブルの上に紙を広げて、ササッと2〜3時間で書いてしまう。そういうものが景気対策として出てくるわけです。こんなものが世の中に効くわけがありません。
 行政官にはそういう問題点がある。先ほど申し上げたように、縦割りでいいますと、本当に我々がそれに対して仕えなければいけない街とか街のよさとか、生活者に対するサービスとか、そういったものが全く忘れられてしまっているということになるわけです。
 次に、今日来られている方の大半がそうだと思いますけれども、専門家の責任を私は問いたいと思っています。ここにははっきり書いちゃっていますけれども、公共性意識が希薄だったのではないか。公共的枠組み設定には責任を持てないとか、決められてしまったものだから、それに従おうという態度があったのではないかと思っています。
 公共性意識が希薄だったというのは、建物とかインフラ、それがどのようにうまくつくられるかということによって、私たちの生活の質に大きく影響を与えますから、そういった意味で、自分がつくるものがどのように社会に、都市に対して貢献できるのかということを常に真剣に考えていていただきたいわけです。先ほどの役人の例と同じかもしれませんけれども、仕事を請け負ってきて、デザインをするとか、仕事を請け負って建物を建てる、それをグルグル、右から左に回すことによって売り上げが伸びていくわけです。そういう形で都市とのかかわりとか、生活の質とのかかわりをあまり真剣に考えずに、どんどん大量生産をしてきたのではないかというのが1点です。
 それから、後でスライドをお見せしたいと思いますけれども、斜線制限などの制限があるわけですが、それによってどんな街ができているのかということをよく考えていただきたいんです。これは決まったものだから、特に道路斜線なんかは、市街地建築物法の当時からあるわけですから、それについてほとんど抗議といったものもしないままに、それを受け入れて、その中でデザインするということに没頭してきた、そういうところがあるのではないかと思っています。
 役人は机上の空論で物事を考えていますし、皆さん方、最も造詣の深い方々が、制度は変わらないと思って、それを受け入れてしまわれては、もう出口はないわけで、最も不幸な状況だということです。そういった公共性意識とか、物をつくる、街をつくる枠組みについて、皆さん方はもっと発言しなければいけないという意識を持っていただきたいと思っています。
 3番目に「生活者」と書きましたけれども、行政官と専門家のほかに生活者がいるわけではなくて、私は行政官としても生活者ですし、皆さん方、専門家としての生活者なわけです。我々が全員生活者ですから、その生活者が街を使っているわけです。その生活者である私たち全員が、先ほど申し上げたように、稼ぐことが物事の中心にあって、生活環境の質、生活の質にむとんちゃく過ぎたのではないかなということです。
 20年〜30年前、日本の輸出が物すごい勢いで伸びたときに、外国からエコノミックアニマルだとやゆされました。まさしく我々はエコノミックアニマルだったのではないか。したがって、生活下手になってしまっている。したがって、よい生活とは何か、よい生活を支えてくれる街とは何かというように考えることができなくなってしまっているのではないかと思っているわけです。



4.この現状は変え得る

(OHP5)
 じゃ、悲観する一方なのかということですけれども、私はここはオプティミスティックで、現状は変え得ると考えています。変えなければいけないということのいいかえにすぎないかもしれませんけれども、現状は変え得るんだ。だから、何らかの取り組みを開始しなければいけないと思っています。
 そこで、私が考えたのは、街をつくっているのは実は税金と民間投資だということです。公の側が公共投資で街をつくっているように思いますけれども、その原資はすべて税金ですから、税金と民間投資で街はできている。税金は私たちが払っているということです。ですから、私たち全員、それを生活者と呼べば、生活者は納税者であり、投資家であるということです。ですから、生活者が街をつくっているんだ、パワーがあるんだということをぜひ考えていただきたいと思うわけです。
 経済の専門の方がいらっしゃると、あまりに単純化し過ぎていると怒られるかもしれませんけれども、都市はどういうふうにつくられているのかを模式化したのがこれです。都市というのは、住宅と非住宅、オフィスとか店舗、そういったもの、病院、学校もそうです。それから、公共インフラとライフライン、この3つによって構成されていると考えます。
 住宅はほとんどすべて家計の住宅投資によってできているわけです。4000万円も5000万円もする住宅をローンを組んで買おうという非常に勇気ある決断をするのは家計です。30代、40代ぐらいの若い男女が、本当に清水の舞台から飛びおりるつもりで住宅投資をしているわけです。
 それから、非住宅建築物はどちらかというと企業、経営者の設備投資でつくられています。企業は何のためにこういうものをつくっているかというと、そこで売り上げを上げるためで、それを支えているのは家計の消費です。
 公共インフラとかライフラインは、公共事業とか、今は民営化されましたけれども、そういった会社がつくっているわけですが、その原資は何かというと、税金なり料金です。税と料金はだれが払っているのかというと、家計が払い、企業が払うということですから、この図の要点は、一番大元を全部家計が占めているという点です。私たちのお金が街をつくっているんだ、役人が街をつくっているんじゃない、道路公団の総裁が道路をつくっているんじゃないということをぜひわかっていただきたい。私たちには、すべてのものについて文句をいう責任もあるし、権利もあるということなのです。そのことをぜひ皆さん方にわかっていただきたいと思います。
(スライド−1)
 これは、私は今新宿区の大久保というところに住んでおりますので、家のそばの神田川です。コンクリートの3面張りになっているわけです。何のデザインも考えずに、水害対策のためにつくられた放水路のような施設ですから、そういう意味でこういうデザインになっています。
(スライド−2)
 これはワシントンDCのジョージタウンというところを流れているオハイオ運河です。チェサピーク湾からオハイオ州まで、上流の農産物を首都まで運ぶために開削された運河ですけれども、こういうデザインになっている。今では観光資源になっています。
(スライド−3)
 これは目白の住宅地の中にある建設会社の資材置き場です。資材置き場をフェンスとブロック塀で囲ってあるんです。その間が、見ていただくように歩行者専用道路になっているわけです。これが私たちの生活空間です。目白というのは、どちらかというといい住宅地で、都心に近いですし、地価も高い。向こうの方には高級なアパートも建っています。その中でこういうことを、この人たちは稼ぐために平気でしているわけです。
 ここを毎日通っている人々、どちらかといえばお金持ちの人々も、少し頭のどこかで違和感を覚えるかもしれませんけれども、「まあ、こんなものだろうな」といって暮らしているのが私たちの生活ではないのか。では、日本人は昔からこうだったのかというと、違います。
(スライド−4)
 これは高知県の安芸市のある民家の塀です。先ほどのブロック塀と比べていただきたいんですが、先ほどのブロック塀は、戦後の高度経済成長の中で世界有数の大都市東京の人がつくった塀です。これは明治維新前後に高知県の安芸という、今でいうと過疎地になるような一寒村でつくった塀です。これだけ手間をかけ、デザインする目を持って物をつくっていた。今から100年以上前、日本人はこういう民族だったはずですが、先ほど見ていただいたように、100年たったらこのようになってしまっている。ということは反省しなければいけないと思います。
(スライド−5)
 これは行政の縦割りのことを説明するときに使っている写真です。これは明治通りです。都立戸山公園というのがここへ出っ張っています。目白通りに拡幅の計画があるので、ここから先は早稲田大学の理工学部ですが、ちゃんとセットバックしている。都立戸山公園だけはここへ出っ張っているんです。なぜかというと縦割りだからです。東京都の公園部局は、ここを削って道路に出してしまうと、公園の整備面積が減ってしまうわけです。だから、「おまえは公園を減らしたのか」といって怒られますから、道路の側で幾ら、「歩道に提供してください」といっても、同じ東京都の中で「嫌だ。ここはあくまでも公園なんだから、ここは囲っておく」という発想に立つわけです。と私は思います。そういうふうになっているわけです。ここまでゆったりと来た歩道が狭くなって狭窄しているわけです。
 東京都の交通局はちょうどそこにバス停をつくっています。このバス停の名前が「東京都障害者センター前」というバス停なんです。(笑)ここで、車いすの方が、交通局が一生懸命つくった可動デッキつきの低床バスに乗ってやってきて、ここでおりるわけですけれども、ここでその人がおりるときには交通混雑になってしまう。雨の日なんか大変です。
 そのことについて、障害者センターを所掌している東京都の福祉局からも、交通局に対してきっと何の働きかけもない。交通局は交通局で、公園部局に対して働きかけもしていない。街路は街路で、公園に働きかけはしていると思いますけれども、公園はそれを拒むというような縦割りの構図は、私たちの生活の中、ありとあらゆるところに見えるわけです。
 そういうことを私も生活者の身になって街を見てやっとわかったということです。きっと都の交通局の人とか街路の人、公園の人は自分の仕事に一生懸命で、ここへ来ても何の疑問も感じないと思います。何の疑問を感じないということが非常におかしなことです。



5.生活空間を取り巻く社会問題

(OHP6)
 ここから、私も建築が専門なものですから、専門的な目で見てみたいと思います。日本の街のつくられ方に対してさまざまな問題点があると思います。都市イメージがまずないという点があります。例えば、東京という街をどういう街にしようか、どういう街並みにしようかというビジョンがほとんどない。銀座の中央通りのような場所であれば、銀ブラをする商店街があるということは、我々にとって非常に楽しみで、都市に住んでいる者の特権みたいなものですから、ああいう空間がつくられてあるべきだという共有のイメージがあります。もしあそこに総合設計制度で、街並みと関係なく、足元にオープンスペースをとったような建物が建ったら、街並みは寸断されてしまいますから、そういう意味で人々は反対するだろうと思います。 
 そういったどういう街にしたいのかという都市イメージを、私たち共有で持っていないような気がします。それは我々がどういう生活がすばらしい生活なのかという生活イメージを持っていないということにも直結するわけです。
 もう1つ思うのは、空間の重要性のヒエラルキー、何が都市の中の空間として重要で、何が2次的なものなのかということについての理解がきちんとなされていないのではないかと思っています。端的にいうと、道路空間といいますか、公共のオープンスペースの方が大事なのか、自分の庭先にある小さな空地の方が大事なのかということに尽きるわけです。
(OHP7)
 その都市イメージといいますか、都市ビジョンがある場合とない場合でどういう違いが生まれるかということですが、ちょっとポンチ絵にしてみました。日本の場合は都市ビジョンというものがないわけです。個別の規制制度はあります。建ぺい率がこうであるとか、容積率がこうであるとか、斜線制限がこうである、日影規制はこうであるというのはありますけれども、それが四方八方からかかってきて、最終的にどういう街になるかということは考えられていないわけです。都市ビジョンが不在なのです。そうすると、どうなるかというと、私は建築抑制メカニズムが働くと思っています。
 隣にどんな建物ができるのかわからない。そうすると、既にある建物についていえば、隣に高い建物が建つのは嫌だとなりますから、必ず紛争が起こります。それですったもんだもめたあげくに、少し低くしようではないかということで、建築抑制メカニズムが働きます。ここに高い建物が建っていますけれども、総合設計の建物であれば、今はどうやって認めているかというと、周辺への影響を極力少なくするように、周りにオープンスペースをとることによって解決しているわけです。ですから、これは建築を促進、慫慂しているようでいて、実はバッファーをとらせていると考えれば、抑制に働いているのかもしれません。
 こういう状況に今日本の都市はある。こういう状況に対応して、個別個別に規制メニューをつくって、それを四方から重複的、重層的に課していって、それで街を押し込めるような規制のシステム、計画のシステムになってしまっているんじゃないかということなのです。
(OHP8)
 仮にこれがスカイラインとします。このような都市ビジョンが私たちの頭の中に入っていたら、状況はどうなるかということです。そうすると、ここに建物がありますけれども、その間に歯抜けの白地のところがあったら、私たちはどう感じるか。これは不完全な状態であって、魅力ある一体の街並みはまだ形成されていない、形成途上であると思うわけです。そのときには、早く建物を建てて、街並みを形成、完成させてほしいと考えられるはずです。そういう場合には建築期待が高まって建築促進メカニズムが働くのではないかということです。ですから、都市ビジョンを持つということは非常に重要なことだと考えています。
 今の日本のさまざまな規制制度というのは、日影規制なんて特にそうですが、建築抑制的です。都市ビジョンがありませんから、建物が建つというと、周りの人たちに非常な不安を与えるわけです。なるべく建物が建たない方がいいと考えていますから、紛争が起こり、建築抑制メカニズムが働いてしまう。こういう状況を、都市ビションについてまず議論を始めるということによって変えていかなければいけないと思っています。
(OHP9)
 それから、空間の重要性のプライオリティーといいますか、ヒエラルキーが混乱していると申し上げましたけれども、欧米の街、これもさまざまな街がありますから、図式化して単純化してしまうと、都市の共有空間である街路というものを認識している。できればこの街路という空間を豊かに共有したいと思っているわけです。
 そうすると、どうなるかというと、なるべく街路の側はセットバックしましょう。後ろの敷地とバック・ツー・バックでくっついたって構いませんよとなります。オーペンスペースをとれる余地があるのであれば、それは街路側に、既存の街路を付加される形でとり、この共有空間を強化する形で建築計画がなされます。当然こういうオープンスペースが大きくなれば、環境を害さずに建てられる建物の高さは高くなりますから、高度利用も進むということになると思います。
 逆に、日本ではどうかというと、街路は共有の空間だという認識はないですから、みんな個別の敷地の中の自分の庭といいますか、自分の支配できる私のスペースに関心があるわけです。南側の敷地では、なるべく高く建てるために建物を南側に寄せて隣の空間との間のバッファー空間としての庭をとる。北側の敷地は、南側に日の当たる庭をとって、自分は北の街路側に目いっぱい寄せる。こういう行動になります。これもさまざまなケースがあって、100%こうだとはいい切れませんけれども、こういう行動があって、貧相な街並みができあがる。オープンスペースはあるんだけれども、私されていて、隔離されていて、都市に住んでいる人たちの共有の財産にはなっていない。街路、共有のオープンスペースが狭いですから、当然低度利用しかできない。こういう構造になっているのではないかと思うわけです。
(スライド−6)
 これは幹線街路沿いに建っているマンションです。幹線街路の南側に建っていますので、このマンションは道路に影を落とすことによって高度利用を獲得しています。当然日本のマンションですから、片側の開放廊下システムになっているわけです。これは街路の南側ですから、当然街路側には北側の面が向くということで、ここは幹線道路なのにもかかわらず、それを飾るような街並みのファサードは生まれない。スチールのドアと照明のための蛍光灯と排気孔、換気孔が並ぶような街並みができてしまいます。
 主たる開口面といいますか、バルコニーは街路の側に置くのではなくて、南側、奥の民地側を向いているわけです。民地には将来建築計画があるかもしれません。一般的にはバンド状に高い容積率が指定されていますから、向こう側に高い建物は建たないかもしれませんけれども、仮に南側の敷地に同じようなマンションの計画があれば日照をめぐる壮絶な建築紛争が起こるのは必定です。しかし、そんなことはわかっているのにこのようにしている。北側は意味のない空間であると日本人は認識している。マンションをつくるディベロッパーも、マンションを買うマーケットもそのように反応しているから、こういうものが次から次にできていくんです。ここだけじゃないというのを次にお見せいたします。
(スライド−7)
 これも同じです。1階部分にはデニーズとか、サンクスとか、利便施設が入っていますけれども、そこから上はこのような空間になってしまう。これは江東区です。
(スライド−8)
 これも早稲田のところを都電が走っていて、こちら側が神田川です。こういう街並みになっている。
(スライド−9)
 これは虎ノ門30森ビルという、建築センターが入っているオフィスの会議室です。ここにあるのは実は窓です。窓の向こう側は民地になっていますのが、隣の民地上に建っているビルの側壁が、50センチぐらい向こうにあるわけです。この窓はだまし絵のようになっているわけです。こちらのビルができたときには隣はまだ空き地だったので、ここに窓をとっておけば、眺望もあるし、開放性も高まるということで窓が計画されてつくられたと思います。けれども、それから数年を経ずして、隣のビルが建ってしまって、こういう状況になっています。
 これをお見せしたいのは、私はこの部屋に15年ぐらいは通っていたと思いますが、こんなもんかなと思っていたからです。ここにある日外国人を連れていったら、その外国人は、これを見て非常に驚いたのと同時に大笑いをして喜んだわけです。(笑)「何ておまえたちはばかなことをするんだ。隣の敷地にいつかビルが建つのがわかっているのに、何でこんな窓をつくったんだ」といったときに、確かにそうだなと目からうろこが落ちたわけです。私たち日本人は、これを見ても、だれも違和感がなくて過ごしてしまう。けれども、世界の目から見れば、ごく一般的なありふれた目から見れば非常におかしいことを私たちはしているということをわかっていただきたいためにお見せしました。
(スライド−10)
 これは日本女子大のすぐそばの高級住宅地といってもいいところの細街路です。ここは工務店です。工務店の一家が暮らしているオフィス兼住宅だと思います。この人は自分の車を一生懸命守っているわけです。ビニールのシートをかけて保護したあげくに、キャンバスをたらして自分の車を守っているわけです。この人には車を守りたいという意識はあっても、街並みに貢献したいという意識は全くないということです。こっちもガレージのシャッターをおろしていますし、この人は2項道路でセットバックしていますが、だれかに入られては困るので、チェーンを立てています。
 こういうふうに、道路というのはここに住んでいる人たち共有の財産、例えば、社交の場であり、交流の場であり、子供たちが遊ぶ場であるという認識はほとんどだれにもない。これではどちらかというと、サービス通路みたいなものです。車が通行できればいい、歩いてどこかに行ければいいとか、そういうサービスの動線ぐらいにしか考えていない。道路というものの公共スペースとしての質をみんなでおとしめているわけです。道路とはそんなものでいいんだという意識が、私たち全員の中にあるということだと思います。
(スライド−11)
 これもそうです。道路のところに物置を出してしまうということになってくる。一生懸命花などを並べているわけですけれども、建物の中に収容し切れなくなったものは道路側に出してくる。ここまで頑張っている人でも、そうせざるを得ない。そうしてもいいんだと思ってしまうような考え方が私たちの中にあるのではないかということです。
(スライド−12)
 これも細街路です。これは東京三菱銀行の独身寮です。東京三菱銀行は、この空間を道行く人たちのためにもう少し開放してあげようとか、これは障害者センターに続く目の悪い方々の誘導ブロックですが、そのために自分の敷地をセットバックしてもいいじゃないかという発想は全くなくて、コンクリートの塀をそびえ立たせて、非常にお金がかかっていると思いますけれども、巨大な鉄扉をここにつけて人が入るのを拒んでいる。道路などには一切貢献するつもりはないし、道路の側から自分の敷地に一歩でも入ってくることに非常に警戒感を持っている。それが私たちの考え方ではないかということです。



6.都市計画・建築規制の問題点

(OHP10)
 今までは社会的な問題点といいますか、私たちの考え方の中にある、社会全体として抱えている問題、都市ビジョンを持っていないとか、都市の中の空間で一体何が重要なのかということについて定見を持っていないということをお話ししました。都市計画とか建築規制自体にもさまざまな問題点があります。
 ここに6つ並べてありますけれども、縦割りについては先ほど申し上げました。ここでは建築制限思想と実態に即した基準の不在、それによる実効性の喪失ということをお話ししたいと思います。
 先ほどの都市ビジョンの話でもそうですけれども、我が国の法制は、どちらかというと、建築を制限しようという発想に立っています。建築というのは環境を攪乱する物質であって、それについてはなるべく小さく、なるべく遠くに建ってほしいと思っているわけです。例えば建ぺい率ですが、建ぺい率はどういう働きをしているかというと、建物を敷地の中心に寄せよう、寄せようとしている。敷地の中心に寄せて、それを日影規制や斜線制限によって角をそいだ上に、容積率で建物ボリュームの上限を決めているわけです。建物がいっぱい都市の中に建つことによって生み出された建築空間で豊かな文化的な活動、経済的な活動が展開できるんですけれども、そういった建築物についてなるべく少ない方がいい、大きく建てたらだめだよという発想に立っているので、いつまでたっても高度利用が進まないのは建築制限思想のせいだと私は思っています。
 それから、実態に即した基準がないので、実効性を喪失して、人々の信頼を失って違反行為が横行するという構図になっています。
(スライド−13)
 これは東京の鉄賃です。廊下の脇の空間は建ぺい率によって生み出されているわけですけれども、建ぺい率60%によって生み出された40%空間というのは一体どういう意味を持っているのかというと、結局、こういう物が堆積されるようなあいまいな空間を生み出しているにすぎないということをちょっと見ていただきたいんです。この空間がとられることによって市街地の環境が向上しているとは私には全く思えません。むしろ、こういうデザインされていない空間がここに生まれて、それが格好の物置き場になってしまって、都市の乱雑さをますます増進している、助長しているというふうにしか見えないのです。これが建ぺい率制限の逆効果だということです。
(スライド−14)
 これは三田の風景です。建築会館という建築学会があるビルの会議室から外を見たものです。ここには総合設計制度によって非常に大きなNECのビルが建っています。向こうは広い道路が向こう側にありますから、高いビルが建っているんですが、こちら側は慶応大学の方に行く非常に小さな商店街の通りです。そこに建っているビルは容積の制限を受けている。幅員4メートル×60で、240%の制限を受けて、小さいビルしか建ってないわけです。これでは当然物が入り切れません。下で商売を営んでいる人たちは、ストックヤードがないわけですから、そういう意味で屋上にみんな増築をしている。屋上にのどかな戸建て住宅地が出現しているような状況になっています。これは明らかに違反ですけれども、違反せざるを得ないような今の容積の設定になっていると私は思っています。
 少なくとも、今土地を持っていて、その上で自分の生活を営まなければならない人に、「おまえのところの容積率はこれだから、もっと広いスペースが必要だったら、隣の敷地を買い増せ」ということをいわなければいけないとしたら、やはり規制のレベルはおかしい。この人たちが生活の上で必要な空間をまず十分に確保して、その上で周辺に対する影響とのバランスを考えてどこかで決めるべきであるのに、この人たちにとって必要な建築空間の総量に全く関係なく、容積のレベルが決められていると思えてなりません。ですから、この場合私は、違反をしている人が悪いんじゃなくて、容積率を指定している今の建築規制制度、都市計画制度をつくっている側の責任、運用している側の責任だと、これを見て思います。
(スライド−15)
 この建物上部は日影でこういうふうに削られているんですけれども、この空間は一体だれのために、行政が皆さんの負担を強いてまで確保しているんでしょうかという疑問です。この空間はその前の街路を歩く人に関しては全く何の恩恵も与えていません。隣の建物についても、向こう側に回ってみればわかりますが、さしたる窓もありませんから、この上部空間が斜めに切られていることによって何の利益もないわけです。市街地環境上の何のゲインもないにもかかわらず、こういう規制がかけられている。
 なぜこういうふうになってしまうかというと、規制が一律にかけられているからです。状況をしんしゃくするとか、実際の市街地環境がどうなのかということに即して規制の程度を強めたり、弱めたりするシステムがないことです。ですから、一律にかけているから、必要のないところでも建物上部を切らなければいけないし、逆に建築紛争が起こるところは、当然こんなものは建ててはいけないというところに、容積限度いっぱいに適法に建ってしまう悪い例もあるわけです。
 そういう意味で、本当に実施されている規制が善をなしているのか、なしていないのかということをもう一度見直さないといけない。見直さないで今のままやっていると、こういう奇妙な空間がどんどんつくられてしまいます。これは空間の損です。この建物の建築コストはきっと上がるでしょう。防水のコストも上がりますから、建築コストも損です。それは国民にとっても損です。そして、こういう街並み、スカイラインを失って、魅力のある街並みになりませんから、都市に住んでいる生活者全体の損です。
(スライド−16)
 これもそうです。隣にはオフィスビルが建っていて、こちら側には全く窓がありません。壁を建ててくれているんです。しかし、規制がかかっているから、上部空間が切られる。隣の人が開放性を求めていないにもかかわらずこうなっているということです。
(スライド−17)
 これも同じです。
(スライド−18)
 これも非常に幾何学的に上部を削られている建物で、私これを見たときには、何てむだなデザイン努力を皆さんはしているんだろう、何てむだなコストをこの施工のためにかけているんだろうか、そして何てばかな規制を今の行政は行っているのかということを痛切に感じました。
(スライド−19)
 これも小さな住宅ですけれども、上部を切られてしまっている。
(スライド−20)
 これは実効性の喪失の第2番目です。これは2項道路です。両側はすべて耐火建築に建てかえられています。しかし、ここに建築基準法が想定した4メートル幅の整然とした道路は生み出されていないわけです。この持ち主は建物を建てかえましたけれども、塀は撤去しませんでした。この人は建てかえて、2メートル下がっているんですが、そこのところに塀を建てて、植栽をして自分の領域を主張している。これも工務店なんですけれども、資材置き場、下屋を出している。このおかげで車が通れないので、この空間が歩行者空間としていい空間にはなっているんですけれども、こういうことをみんながやっている。
(スライド−21)
 これも、ちょっと先を見たもので、建物が全部耐火建築に建てかわっていますけれども、もとからあった塀はそのまま残してある。ここでは塀を突き出してある。後からカーポートをここにつける。一たん中心線から2メートルの空間を供出しましたけれども、また自分のために再度囲い込んでいる。
(スライド−22)
 今度は逆から見たものです。ここに工務店の資材置き場があって、ここから狭窄していて、車が通行できる4メートルの幅の道路ではなくて、人しか通行できない空間になっている。これが全くみごとな2項道路です。制度の趣旨によれば4メートル幅の道路がなければいけないのですが、そんなことは全然、ここでは満たされていないわけです。
 しかし、2項道路という制度について、抜本的な問題提起は実はなされていません。今でも同じように運用されている。要するに、建築基準法が一番根幹としているシステム自体が、現実には全く機能していない。そこで、街の中で相身互いだから、お互いやっていることだから、これくらいいいだろうということで受け入れらることによって、街の中で皆の同意、コンセンサスによる基準法とは別の建築ルールができてしまっている。全くというのはいい過ぎかもしれません。建物自体はそれぞれルールを守っているわけですから。しかし、オープンスペースについては建築基準法の精神は何ら影響を与えていない、規制の実効が上がってないということだと思います。
(スライド−23)
 これは、昔お屋敷が建っていた敷地で、今は駐車場になっています。何らかの指導によって隅切りをさせられたように見えますが、その後で頑丈な石を置いて、コンクリートで固めて、あくまでも隅切りをないものにしようとしているわけです。これくらい、生活者なり、地権者なりの皆さんは独自の考えを持っていて、それはきっと道路サイドから考えているような円滑な車の通行ができる道路網をつくろうということではなく、車は危険であるから、なるべく徐行してもらった方がいい、塀にぶつかられては困るから、車を阻止しているというのが実情だと思います。
 人々が、車というのは住宅地の中まで入ってこなくていい、入ってくるときも、本当に徐行しながら入ってくる方が安全だと思っているのであれば、4メートル幅の2項道路を要求する今のシステム自体を見直さなければいけないのではないかと思っているわけです。



7.よりよい生活空間のためのキーワード

(OHP11)
 ここからは提言めいたものになっていきます。まずは、生産中心であった都市をよりよい生活空間にするためにどのようなことが考えられるのかということです。ここでは、シェルターの再評価、歩くことの復権ということをお話ししたいと思います。定型の再発見は後でお話ししたいと思います。
 自動車を前提とした街ではなくて、歩くことを前提にした街に変えていくという発想をとるべきではないかと思っています。そうすることで、今の都市構造そのものを少しでも変えられるきっかけになるのではないか今思っているわけです。
(スライド−24)
 ここからはシェルターの例を少しお見せしたいと思います。人が歩くということを前提に公共空間を考え直したらどうなるかということです。これはブリュッセルのガレリア、商店街です。
(スライド−25)
 これはマドリードのプラサマヨルという大広場のアーケードです。広場空間の周りを一周グルッとこういうアーケードが取り囲んでいます。
(スライド−26)
 これも同じです。こういうアーケードがあって、雨の日でも人々は歩いてショッピングができます。
(スライド−27)
 これは京都の錦市場です。非常に狭いところですけれども、屋根がかかっていて非常に魅力的な空間になっています。
(スライド−28)
 これはオペラシティーにあるガレリアです。こういう空間、屋根がかかっていて、車がいなくて、人が歩ける空間を都市の中にネットワーク状につくることができたら、どんなに楽しいだろうということを、これを見て私は考えたんです。雨が降って、傘を差してもぬれるという状況だと、我々は列をなしてタクシーを待つわけです。タクシーはなかなか来ない。雨の日で乗りたいときに限って来ないという状況になります。車の数はふえますから、道路も渋滞して、ふだん10分で行けるところが30分もかかってしまうということになるわけです。
 もし、こういう守られた、プロテクトされた歩行者空間が、都市の中に地下であれ地上であれ、さまざまなところにあれば、私たちはもっと歩いていろんなところに行けるようになるはずです。車いすに乗っている人にとっても非常に有効だと思います。少し考え方を変えて、自転車もこの中を通行できるようにすれば、雨の日に傘を差して自転車に乗って危険な思いをしている人たちを、もう少し楽に移動できるようにさせてあげることができるんじゃないかと思います。
(スライド−29)
 これは東京駅です。中央線の下にこういうアーケード空間ができています。
(スライド−30)
 これは渋谷のマークシティー。こういう歩行者空間がある。ここであれば、雨が降っていてもぬれないで歩けます。
(スライド−31)
 これは京都御所。これはとってつけたようなものですけれども、アーケードの空間が建物にはついているべきではないかと思います。
(スライド−32)
 これは晴海1丁目の再開発に合わせて、晴海運河につくった動く歩道です。ちゃんと壁と屋根がありまして、雨の日、横なぐりの風雨になったときでもぬれないで歩けるように、川の上だけですけれども、こういう空間をつくって、人々の快適な移動を保障しているということです。
(スライド−33)
 これは空港ターミナルです。こういう空港ターミナルの中を我々は1キロぐらい歩かされる場合があるわけですけれども、こういう空間があるからこそ歩くのであって、これが全く吹きさらしで屋根もなければ、私たちは歩くことができないと思います。ですから、都市のインフラ、道路は本当はこういう形状のものじゃないかというのが私の主張です。
(スライド−34)
 これは非常に狭い池袋周辺の街路です。この辺の人たちにとって唯一の生活道路になっているわけです。人は通行できますから、このままの形でももっと魅力的なものにできるはずだと考えるわけです。
(スライド−35)
 これもブリュッセルのグランプラスの周辺にある本当に狭い路地です。片側は建物の壁ですけれども、反対側の建物は1階をレストランにして、レストラン街になっているわけです。2メートルもないぐらいの全くの路地ですけれども、魅力的な空間になり得る。これで人々が通行できて、都市の生活上全く問題がない空間になっているということです。
(スライド−36)
 これは香港のヒルサイドのエスカレーターです。こういう勾配だって克服できるということです。こういう新しい都市空間のイメージというものをふくらましていったらどうでしょうかという提案です。



8.生活空間の総合的再編成

(OHP12)
 ここから、もう少し具体的にこういうふうにしたらどうでしょうかということを申し上げたいと思います。
 まず、生活空間の総合的再編成をすべきだと思っています。今までの都市は、冒頭申し上げたように、産業中心で構成されていましたから、生活という視点ではつくられていないわけです。
(OHP13)
 これが従来の産業都市のダイヤグラムです。産業都市の中では職場というのが最も大きな位置を占めていて、海沿いとか川沿いには工場、生産施設があって、都心にはオフィスがあるという構造になっています。人々はどこに住んでいたかというと、郊外の住宅地に住んでいる。郊外の住宅地で家族が肩を寄せ合って住んでいた。その家族のうち働き手は、この1本の満員電車という生命線によって職場に行く。子供たちはやはり1本の生命線で学校に行く。主婦(夫)はターミナル駅のデパートまで買い物に行く。大学病院はどこかにあって、そこまで1日がかりで行って帰ってくる。こういう構造になっていて、家族というのはどちらかというと、都市の外側の方に追い出されていた。自分の必要なものを得るためには非常な労力をかけてそこまでたどりついて、働いたり、サービスを受けたりする構造になっていた。
 これからはこういう構造になってほしいということについては、都市の枠組みの中で1人1人が自分の生活テリトリーというのを持っているという状況にしたいということです。なるべく都心に近いところに、都市と融合した形で住宅を持っている。その中で自分の職場とか、自分が遊びに行く六本木とか、自分が行く新宿御苑とか、自分の生活に必要な施設をプロットしていって、それをつなぐと自分のテリトリーになります。都市の中に自分自身のテリトリーを切り取っていくわけです。そのテリトリーの中で、不便なものがあれば直すようにみずからも努力し、人にも働きかける。行政にも働きかける。あるときには法律、制度さえ変えてもらおう、そういう努力をすることによって、こういう生活テリトリーというものをつくっていく。これを1人1人、1家族1家族が持つことができれば、それを足し合わせたものが都市の形になると思っています。そうすると、従来の構図とは全く違う構図になるだろうと思っているわけです。
(OHP14)
 ですから、こういう現在の都市のつくられ方に対する批判的な分析、再点検をしてみるべきだということです。それが1つ目の方向になるのではないか。その結果、都市の中にも、ここでは完全生活圏といっていますけれども、何であれすべての用が足りる生活圏というものが集合的に形成されてくるでしょう。駅のそばには集合住宅が建っていて、人々のための生活関連施設とか、医療施設、公園とかいうものがこのコミュニティーの中にすべて整っている。横にマストラがありますから、オフィスにも行けるし、中心商店街にも楽に行ける。こういう完全な生活圏が都市の中に形成されていく。それが集まった形で形成されていくものが都市になる。それが生活都市ではないかと私は夢見ているわけです。
 今ある都市を、先ほど申し上げたような再点検手法によって解析をして、悪いところ、不足しているところを足して直して、完全生活圏の集合体にしていくという取り組みを始めなければいけないのではないか。先ほどお示しした東京都のプランの中にも、生活者にとって便利で安全な街をつくろうと書いてありますけれども、そこにたどりつく道筋は書かれてありません。東京都のお役人も、それについては具体的なイメージを持っていないと思います。こういうことを1人1人がやることによって方向性が見えてくる、何をすればいいのかということが見えてくるのではないかと考えています。これがまず第1点目です。これはいつでも、今からでも皆さん方自身が1人1人でやっていただけることだと思います。



9.庶民のための都市計画の実現

(OHP15)
 2番目に考えているのは、庶民のための都市計画の実現です。今の都市計画というのは、どちらかというと、広幅員街路に面して街ができているということを前提につくられているような気がしてなりません。例えば、容積率でいうと、12メートル未満であれば、道路の幅員1m当たり40%とか60%に割掛けられてしまうわけです。敷地が小さくなれば、当然斜線制限を逃げることができなくなって、相当過重な規制がかかってくると私は思っています。
 都市計画の学識経験者の方々の大半は、小さな敷地はフリーライドしている、小さな敷地というのはほとんど規制を受けないで勝手気ままなことをしていて、都市を悪くしているのは小さな敷地だ。零細敷地が悪いから大きな敷地にして、大きな立派な建物を建てるんだという、全部を高層ビルで覆い尽くそうという発想の論理が多いんですけれども、私はそうではなくて、実態の規制を見てみると、零細になればなるほど規制の実態は厳しくなっていると思います。だから、零細な敷地になればなるほど違反が横行していると思っています。
 であれば、市街地の80%を占める細街路地域については、今の広い幅員の街路を前提にした都市計画とか建築規制の仕組みがあって、12メートル未満になったら、そこから罰則、ペナルティーがかかって、より厳しくなりますよというシステムではない、こういう細街路地区に適切に対応した基準を全く別につくるべきだと考えています。
(OHP16)
 これは住宅地図ですけれども、大久保です。早稲田の理工学部や都営住宅、官舎があって、公園がある。ここは昔日本軍の施設でしたから、跡地をこういうふうな公的な利用にしているわけです。北側は昔からの住宅地です。この部分では幅員2メートルもあればいい方という市街地が、山手線の高田馬場の駅から歩いて5分から10分ぐらいのところに広がっています。
 これが表側と裏側という全く違う市街地のつくられ方が混在している東京の状況を示しています。
(OHP17)
 これはよく目にしますが、住宅統計調査によると、4メートル未満の道路に接していない住宅は何と38%もある。建築基準法は4メートル以上の道路に接しなさいといっているわけですけれども、4割近くが4メートル未満の道路にしか接していない。これが現状です。この現状を見ないで、今のままの規制制度を続けていては、先ほどの2項道路の例もそうですけれども、市街地自体おかしなものになってしまうのではないでしょうか。
 本の中で提案しているのは、今現状は2メートルぐらいの道路しかなくて、延べ床面積は、規制を守ると70平米ぐらいしか建ちません。純容積率で130%ぐらいの建物しか建たない。これを建ぺい率も容積率も、斜線制限も全部撤廃してしまって、こういう地域であれば、10メートルの高さ制限だけは守ってもらうことにする。みんなが10メートル程度の3階建て建物を建てる状況をつくっておいて、だれかさんの建築計画について隣近所で相談をして、これだったらいいよと、反対が出なければ、その程度のものは建てられるようにしたらどうかということです。
 ここでは1つの要件として、セットバックを要求しています。セットバックすることによって、従来は塀が建っていて、塀に挟まれた2メール足らずのサービス通路のような空間しかなかったところに、塀もとってもらい、建物も下げてもらって、全体で6メートルぐらいの、道路とはいいませんが、公共空間をつくってもらう。それによる市街地環境の担保を根拠として10メートルぐらいまでの高さの建物だったら、どんどん建ててもらおう。こうすると、70平米の床面積が、同じ敷地面積で、延べで108平米まで、1.5倍ぐらいにふえるということになります。
 建物の広さを1.5倍にできるのであれば、皆喜んで即座に建てかえてくれるだろうと思います。もしこれが非常に老朽な建物で、今のままだったら建て替えてもしようがないと思っている人も、建て替えたらいいことがあるんだということで、耐震耐火性能を持った建物に建てかえてくれるかもしれません。そのときに、借りたお金が返せないというのであれば、このくらいの容量の建物を建てることができれば、例えば3階部分はだれかに貸せばよい。ワンルームマンションよりは広いですから、だれかに貸して、その賃料でもってローンの返済計画を立てようということもできるようになります。現行のシステムを維持したまま、建ぺい率だ、何だと少しずつ緩和をしていくのではなくて、こういう道路がない零細な敷地によって構成されているような市街地については、ゼロから全く違う規制のあり方を考えた方がいいんじゃないかと思っています。これはぜひ実現していきたいと思っています。
(OHP18)
 では、零細な敷地にどういう建物が建つのかということですけれども、これは1戸建ての住宅地の様子です。大体こんなふうになっています。敷地でいうと150平米ぐらいのところに、70〜80平米の建築面積の2階建て住宅が建っているという状況ですから、建物と建物の間の空間は環境のよくない空間になりがちです。例えば、片側に洗濯物を干すテラスがあって、それに隣家の和室が向いているような状況とか、ダイニング同士が向き合っているような状況になってしまう。
 日本人にはどちらかというと、自分の敷地の中に1戸建てをつくろう。できれば4面を開放させたいという考え方があるようです。これは今の郊外住宅地、分譲住宅地の売り方、つくられ方にも反映しています。
 港北ニュータウンでも、多摩ニュータウンでも、1戸建ての住宅地に行っていただくとわかりますけれども、2階には寝室があるわけです。棟間側の窓は昼間行っても雨戸が立てられていることが多いです。せっかく窓をつくるんですけれども、それではお互いに見合ってしまって、開けたとしても、隣の建物の壁がすぐ見えてしまうわけですから、魅力的な開口部になりません。結局いつでも雨戸を閉めている状況になってしまうわけです。
 こんなことをしているぐらいだったら、この1戸建てというシステムを捨てて、つながるシステムに変えていった方がいいのではないかと考えています。長屋建てといってもいいですし、テラスハウスといってもいいと思います。
 これについては20年ほど前にタウンハウスという形で取り組みがなされたことがありますけれども、どうしても、日本人の1戸建てといいますか、独立性にこだわる志向に阻まれて普及はしなかったわけです。ここでもう一度再トライをしてみるべきではないかと考えています。
(OHP19) 
 そういう試みをしている人たちも出てきまして、これは東京でタウンハウスの供給をしているセボンという会社のパンフレットからとったものです。昔は木造のミニ開発をやっておられた業者さんです。今はこういう新しいテラスハウス、タウンハウスをつくっていまして、テレビで宣伝もしています。こういう奥行きの深い敷地で一辺でしか接道していない敷地について、1戸建てのミニ開発に割るのではなくて、連棟式のマンションといったらいいんでしょうか、そういう形で配置をして、公共のスペースもつくり、車については地下2層か3層の駐車施設にまとめてしまうという計画をされているわけです。
 こういう考え方が、一時期大手のディペロッパーがタウンハウスで失敗して撤退された後で、また市井のレベルから出てきているというところがすばらしいと思います。
(スライド−37)
 これが1戸建ての住宅のパターンです。これは本牧にある住宅地です。敷地面積は150平米ぐらいで6000万か7000万円します。
(スライド−38)
 これがもう少し都心に近くなってきますと、敷地面積が非常に小さいですから、大阪では一般的にやることですけれども、1階がガレージになっている3層、4層のミニ開発が出現しています。敷地面積が60平米くらいまで小さくなってしまうと、4面を開放するということ自体が無理ですから、いわばタウンハウス的な方向に進化しつつあるということです。敷地規模の零細化が進んでいる今、我々は真剣にもう一度連棟式、タウンハウスの可能性を探るべき時期に来ているということをこの建物が指し示していると私は思っています。
(スライド−39)
 これはワシントンDCのジョージタウンというところです。古い市街地です。これは建物は1つずつ独立しているけれども、先ほどのミニ開発と同じように、壁と壁がほぼ接するような形で建っていて、連続した街並みをつくっているということです。こういう形でも街並みは構成できると思います。
(スライド−40)
 これはオーストラリア、シドニーの市街地です。こういうイギリス流のテラスハウスの街並みがずっとつながっています。つながっていますが、住戸1つ1つはさまざまな色で自己主張しているわけですが、街並みとしてつながった感じがします。
(スライド−41)
 これはベルギーのアントワープです。ここでは広場をめぐって、壮大な建物をつくるほどの権力者もいなかったし、大金持ちもいなかったので、個別の敷地ごとに人々が建てていったわけです。デザインも、高さも統一されていませんけれども、やはり壁と壁を接して建てることによって、街並みができています。
(スライド−42)
 その最たる例がブリュッセルのグランプラスで、これはギルドの建物だそうですけれども、おのおのがこういう壁を接する形で次々に建物をつくっていくことによって、世界一美しい(とベルギー人はいっている)広場ができたというものです。
(スライド−43)
 これが先ほどのセボンのタウンハウスです。これは中央に1本袋路の道路状空間が広がって、両側に南欧風デザインのタウンハウスが建っているという構成です。
(スライド−44)
 これはまた別のところのオープンスペースですけれども、タウンハウスをつくることによって、従来であれば、壁と壁の間のすき間空間にとれらてしまっていた敷地をまとめてこういう広場状の空間にできるということを示していると思います。
(スライド−45)
 これもそうです。
(スライド−46)
 私がおもしろいと思うのは、タウンハウスにしますと、みんな個別の屋上を持てるんです。全く視界をさえぎるような形ではなく、ちょうど肩あたりまでの高さの囲いによって覆われた1人1人の屋上空間ができるわけです。そこで屋外生活が楽しめる。第2の地表面がここに出てきたといっていいと思います。例えば、マンションのような共同住宅ですと、屋上は管理上だれも入れないようになっていますけれども、こういう自分で管理できる空間があると、屋上にこそ庭ができるということになるんじゃないか。何も地表面だけでオープンスペースをとることはないんじゃないかという根拠になるよい空間ができているということです。



10.生活デザインの推進

(OHP20)
 3番目ですが、これは専門家の方々に申し上げたいんですけれども、「生活デザインの推進」です。特に街並みについてはデザインが不足しているのではないかと私は考えています。自分の建物と街とをつなぐ部分のデザインにもう少し皆さんに取り組んでいただけないだろうかと思っています。前にも皆さんに集まっていただいて、運動を立ち上げようとしたことがありますが、なかなかうまくいっていません。それをまたぜひ言いたいと思っています。
 建築デザインの中で、たとえ1%でも、周辺について貢献をしようという発想を持っていただくと、それが1棟、10棟、100棟、1000棟とまとまることによって、街並みが一変してしまうのではないかと私は思っています。このことをこれからの建築デザインをするときに、建築デザイナーの方にぜひ考えていただきたいと思っています。
(OHP21)
  日本のデザインを考えたときに、非常によくなったところもあります。ヘアスタイルなんかも、男性でも今の若い人たちのヘアスタイル、ヘアドウというのは、我々信じられないぐらい変わってきて、自己主張していますし、インテリアデザインとか、インダストリアルデザインは非常にいいものが我々の身近にたくさん生まれるようになりました。「狭義の建築デザイン」も、建物1棟1棟見れば非常によくなってきたと思います。着る物もとてもよくなりました。でも、決定的に欠けている部分がここにあるのではないかということです。
 最初に生活下手と言いましたけれども、我々はお金を稼ぐこと、働くことしか考えてなくて、そのお金をどうやって使えば自分の生活が豊かになるのかという人生デザインといいますか、生活デザインは、どうもこれは哲学に近いものかもしれませんけれども、大きく欠けています。
 それから、もう少し物理的なデザインでいうと、生活空間デザインとか街並みデザインの部分が欠けている。これが狭義の建築デザインとかインテリアデザインと全く別個にあったのでは、その間の対立が起こってしまいますから、私が考えているのは、狭義の建築デザイン、インテリアデザイン、この周辺に、ここから街並みのことを考えたデザインが出てきて、それが街並みのデザインとか生活空間のデザインに連結して集合していくようなシステムを考えたいと思っています。デザインを考えるときには、ぜひそういうふうにしていただきたいと思っています。
 私が思うよいデザイン、悪いデザインを少しお目にかけたいと思います。
(スライド−47)
 住宅デザイン推進会議というのを5年ほど前にやろうと思って、そのときにそれを思い立った原因になったのがこの建物です。これは都市基盤整備公団が千葉でつくっているちはら台というニュータウンの駅前に建っている建物です。このニュータウンは鉄道まで引いてありまして、非常にきれいな駅ができています。駅前にはショッピングセンターの建物ができている。ショッピングセンターはまだ出てきていませんが、きれいな建物は建っています。歩車分離が進んでいまして、プロムナードのための非常にすばらしい橋、これは車道を越えるための歩行者のためだけにつくられた物ですごくお金のかかった橋です。コストは宅地の価格に載っているわけです。こういう本当に計画の粋を集めて、お金をいっぱい使ってつくったニュータウンのすぐ駅前にこういうデザイン不在の建物が建っているということです。
 一生懸命プランニングをし、デザインをし、お金を使ってつくったこの街、この基盤が、どうしてこの建物のデザインに反映しないんだろうか。この建物を建てた人、デザイナーとか建築士はいるはずですが、その人はなぜそのことを一切考えないで、とにかくできればいいということでこういう建物を建ててしまっているのかということに、私は愕然としました。デザイナーの方々にもう少し自覚を持っていただかなければ世の中はよくならないんじゃないかと思っております。
(スライド−48)
 これも同じデザイン不在の建物です。このくらいのスケールになると、いいか悪いか評価が分かれるかもしれませんけれども、何しろスペースができればいいということで、こういう建物がつくられてしまう。
(スライド−49)
 一番最初の方で高知県の安芸のお話をしましたけれども、これは室戸市の吉良川というところで、これも寒村です。漁村ですけれども、美しい塀をつくっています。材料が足りなかったのかもしれませんし、こういうものしかなかったからかもしれないけれども、海岸の石をうまく組み合わせてデザインをして、街並みを考えてつくっているわけです。
(スライド−50)
 これも先ほどと同じ写真です。
(スライド−51)
 これも非常にうまくデザインされた建物だと思いますけれども、ここには6面点検しなければいけないので、受水槽がむき出しの形で置かれている。またごみ置き場の下屋も置かれているということで、建物のデザインはいいのかもしれませんけれども、建物と道との間の空間のデザインに、なぜもう少し思いをめぐらせていただけないのだろうかということを、これを見て痛切に感じます。
(スライド−52)
 これはいい例です。これも高田馬場周辺の細街路です。手前側に先ほどの東京三菱銀行の巨大な鉄扉があります。専門学校がこのようなミニスペイン階段というような空間をつくっていて、学生たちがここで三々五々集まっておしゃべりをしたり、スターバックスコーヒーを飲んでいたりするといういい空間になっているわけです。これはデザインの力だと思います。
(スライド−53)
 これはミニ開発です。昔のミニ開発から比べれば非常にいいデザインになっていると思いますけれども、位置指定道路の空間はコンクリートのたたきになっていまして、非常に味気ない空間になっています。
(スライド−54)
 これも、いいか悪いか評価が分かれるかもしれませんが、都市型の戸建てに近い、ミニ開発です。ここでは駐車スペースと位置指定道路のところを同じタイル鋪装にしてます。デザインを考えれば、少しはよくなるということです。
(スライド−55)
 これは京都の町家です。向こうに御所の門があります。こういうつながりの空間が町家空間としてあった。これは日本人ならだれでも好き、外国人でもみんな好きという景観なわけです。それが今どうなっているかといいますと……。
(スライド−56)
 こういう形でミニ開発が進んでいる。これも、ほかの都市、例えば東京にあればだれも文句をいう筋合いはないかもしれませんけれども、京都でもこういう町家をつぶしてこういう住宅に建てかわっている。デザイン、街並みに関して何か欠けているように思えてなりません。
(スライド−57)
 これは昔の京都の路地を通して、その両側の裏の宅地を使うための仕組みです。入り口があって、これがいわば位置指定道路になっていて、奥にミニ開発が続くようなシステムだったんです。それが今どうなっているかというと……。
(スライド−58)
 こういうごくありふれた4メートル幅の位置指定道路を突っ込んでいる。ここは全部で8軒になっていますけれども、こういうミニ開発に変わってしまっている。こちらの道路からはアスファルトで鋪装された位置指定道路がそのままの形で見える。昔のような門構えがあって、路地を通りから少し隔てるような仕組みは何も講じられていません。
(スライド−59)
 これはお地蔵さんを建物のファサードの中に取り込んでいる。道行く人たちに対して、自分の空間を提供しているわけです。自分の、私の空間を公のために提供しているようなモラルというか、気高さを感じます。
(スライド−60)
 そういう中に、新たに建てられた非常に立派な建物です。お金持ちがつくっている。自分のガレージをつくって、車を突っ込んでいる。その前の犬走りのような空間にはチェーンを立てて、従来は公共の空間に提供されていた軒下の空間を、ここでは自分のために私してしまっている。この人はお金を持っている、経済力のある人だと思いますけれども、今の日本人、特にお金を持っている人たちには、公共に貢献しようという意識は全くない。自分の車、BMWの方が大事だ、自分の敷地の方が大事だ、自分の自転車の方が大事だと思っているのです。
 この建物もデザイナーがついてデザインしているわけです。これは非常にお金がかかっている建物だと現地に行って思いましたけれども、もう少し街並みのことを考えていただきたいと思っているわけです。



11.行政システムのリストラクチャリング

 (OHP22)
 次に、4点目は、行政システムのリストラということです。行政のシステムは変えなければいけません。先ほど申し上げたように、誤った行政論理があります。縦割り、前例踏襲主義、建前主義、総花主義というのもあります。そういうものによって、本来であれば、もっとまともな形になっていなければいけないものがまともな形になっていません。これは絶対にこのままではいけません。直さなければいけません。
 それから、偏った公共資金配分があります。箱物に対する投資で、何の利益も生まなくて、逆に維持管理にお金がかかっているような建物が非常に多く建っています。東京国際フォーラムもそうだと思います。そういった誤った公共資金配分をやめなければいけないと思います。
 それから、規制に関していうと、先ほど建築制限主義といいました。我々の頭の固い諸先輩は、建築制限主義に凝り固まっていたために、都市の上空には過度の規制によって生み出された余剰空間が残っています。森稔さんは「平面的には密集だけれども、立体的には過疎だ」と言っています。それは当たっていると思います。
 そういう意味で、我々の周りには、誤った行政のシステムによってさまざまなひずみがあるんですが、そのひずみは実はこれからの日本の都市再生を考える場合の財源になるのではないか、そういうとらえ方ができるのではないかということです。
 建築制限主義で上空に生み出されていた余剰な空間、使われていない空間は、これは空間が貯金されていたんだ、今からこれを使うべきときなんだと考えるのです。それから、この誤った行政論理の下でも、今この国はまだそこそこいっているわけですから、もし縦割りをなくしたら物すごくすばらしい社会になるんだと思えば、夢もわいてくる。公共資金配分も、むだなことに100億、1000億円と使っているわけですから、それをやめて、こちらに持ってきて、私たちが必要だと思うところに使えれば物すごい資源になるわけです。
 ですから、今よりも予算をふやさなくたって、減らすことによって、我々の街をよくするための財源は幾らでも生まれてくるんだと考えるべきだと思っています。
 私は、行政の内部にいてそう思いますし、皆さん方も、タックスペイヤーとしてそういうふうに思っておられると思いますので、いわば国民的な運動によって変えていくべきだと思っています。政治に期待できるか、期待できないか、このところの状況で少しは変わってくるのかもしれませんけれども、やはり我々1人1人が意識を持たなければいけないと考えております。



12.生活者主導の変革

 (OHP23)
 そのために何をしなければいけないかということです。生活者主導の変革を目指さないといけないのではないかと思っています。今いった行政システムのリストラについて、「おまえも行政官のはしくれなんだから、おまえが何とかしろ」といわれても、実は私1人の力ではどうにもなりません。縦割りが悪い悪いとみんなわかっていても、みんな縦割りの中に住んでいますから、縦割りをなくそうとしたら、物すごい反発が起こります。
 例えば、特殊法人改革を今やっていますけれども、中には要らない公団、要らない法人もありますけれども、それを所掌している諸官庁は、例えば、リストラしようではないかという働きかけがあれば、いかにこの法人が必要なのか、いかにその法人が世の中に役に立っているかということを全能力を挙げて立証しようとします。
 1つの全く要らない、取るに足りない法人をつぶすのでも、物すごい労力がかかるのが実態です。それを事務的に行政官が行政内部で変えることは不可能に近いといっていいいと思います。ですから、生活者主導で変えていくんだということです。生活者の力は総合性を持っているのです。この後ポンチ絵でご説明したいと思いますけれども、生活者は総合力を持っています。
 これから生活時間というのはますます増大していきます。今ですら、週40時間労働ですけれども、21世紀の半ばには週休4日ぐらいになってもおかしくないといっている人もいるぐらいですから、我々の生活時間はどんどんふえていきます。家にいる時間かもしれませんし、街にいる時間かもしれませんが、生活時間はどんどんふえていきますから、生活者の力、生活者である割合は私たち全員の中でどんどんふえてくるわけです。そのことを考えていくべきだと思います。
(OHP24)
 私は行政官です。他に政治家と生産者、勤労者。ここではこういう3分類にしています。これを狭い立場の自己というふうに考える。実は行政官であっても、政治家であっても、専門家であっても、民間の企業家であっても、裏を返せばすべて生活者なんです。四六時中、生産者であり続けること、政治家であり続けることはできません。家に帰れば生活者、昼間昼飯を食べているときは生活者の立場に戻るわけです。行政官の立場に立っていると、民間と対立してしまったり、市民団体と対立してしまったりすることになりますけれども、行政官でも、家に帰ればただの市民ですから、市民団体に加盟していて、市民団体で運動していたって構わないわけです。
 そういう意味で、みんな自分は生活者であるということをまず認識しようではないか。そうすると、狭い立場の自我が抑制されて、あ、そうだなと思えるようになります。例えば、1億円の予算があったときに、住宅屋と道路屋が、自分の仕事になりますから、それを求めて熾烈な闘いを繰り広げる。この1億円は住宅の予算に下さい、1億円は道路の予算に下さいと競争するわけですけれども、その1億円があって、自分の街で何がなされたらいいのかと考えると、やっぱりここは道路だとか、いや、住宅でも道路でもなくて、ここはやっぱり公園だなと思えば、住宅サイドは1億円をよこせというのをやめて、この1億円は公園に上げようよと考えられるはずです。
 ですから、自分が狭い自我にこだわっているのをやめて、都市というものから便益を受ける、生活者である立場に立ち返って考えてみたらどうだろうかというのが、私の勧めです。
 生活者にはどういう力があるかというと、納税者、タックスペイヤーとしての力があります。行政のやっている仕事はみんな税金でやっているわけで、行政がむだ遣いしたり、何もしなかったりしたら、それは納税者として文句をいえばいい。政治家の首根っこをつかまえているのが有権者です。投票権を持っている我々、有権者としての生活者です。それから、産業について力を持てるのは、消費者としての生活者です。だから、生活者というのは実に強い力を持っているのです。
 この一番いいところは、生活者というのがだれ1人例外なく生活者だというところです。ですから、生活者の立場に立てば、狭い立場に立ったときの利害対立が克服できる可能性があると考えています。
 そういう意味で、「おまえは行政官なのに、行政のリストラをおれたちに説いてどうするんだ」とお考えの方がいるかもしれませんけれども、行政を変えるのは納税者としての生活者です。行政官はいわれたことをやっているだけです。まして自分がいなくなっても構わないという発想で物事を考えている行政官はどこにもいません。
 最後にスライドを見ていただいて終わりにしたいと思います。
(スライド−61)
 都市の中の身近な空間を再点検をしようと皆さんに呼びかけています。街の中におかしいことはいっぱいある。先ほどバス停の話をしましたが、これは細街路と公園の例です。公園は一応セットバックしてガードレールを建てて歩道をとっているんですが、歩道はすぐにとぎれてしまいます。だから、ここを歩く人はだれもいません。街路には自動車が駐車していますから、この自動車と向こうの建物との間の空間を人が歩き、走行する自動車が共有しているわけです。ですから、こんなガードレールは外して、道路と同じ鋪装にして、車をこちら側に寄せてもらったら、向こう側の道路空間は広くなりますから、人々の生活の利便性も向上するし、私は好きではありませんが、車の走行の利便性も向上します。
(スライド−62)
 これもおもしろい。不忍通りの歩道の真ん中に立っている郵便ポストです。電柱も郵便ポストもこういうところに立っています。非常に狭い歩道なんですけれども、平気でこういうものを立てている人の神経を本当に疑います。
(スライド−63)
 これもそうです。ちょうどバス停のところに電柱が立っていて、バスに行く空間が狭くなっている。これは後から立てたのか、先に立てたのかわかりませんけれども、何でこんなところにバス停をつくるのか、これもつくる人の神経を疑います。
(スライド−64)
 これもガードレールです。池袋の駅前で、日本ワーストワンの放置自転車天国です。ガードレールがあったり、植え込みを守るための構造物があって、それが何をしているかというと、結局、違法駐輪自転車を引き寄せるんです。中にはチェーンでもって盗難防止のために自分の自転車とかオートバイを結びつけている人もいるぐらいですから、これだったら、ガードレールも、構造物もない方がよりすっきりします。そうすると、心細いですから、自転車を置いていく人もいなくなるだろうと思います。これをつくるのに莫大なお金がかかっているわけですから、お金も要らないし、空間もすっきりするし、違法駐輪自転車もなくなる。ガードレールなんかはない方がいいんです。
 ここは自動車が高速で通行して、このガードレールがなければ、歩行者の安全が守れないという空間では絶対にありません。
(スライド−65)
 これも同じようなことです。ここはごみ置き場と化しています。ここに最初はツツジが植わっていたと思います。故意にか自然にかわかりませんけれども、ツツジが全部枯れてしまって、そこにものが置かれています。じゃ、これは一体だれが置いているのかというところがおもしろいところです。
(スライド−66)
 花屋さんが置いているんです。植物を大事にすべき花屋さんが、自分の商売のために、悪意に考えれば、前のツツジを引っこ抜いて、そこを物を堆積するスペースにして、自分の商売のために使っている。近所の人たちはごみ置き場に使っている。
 だから、こんなものをなぜつくっているのか。花をめでるべき花屋さんが何でこういうことができるのかというところが、私たちの考え方がおかしくなっていることを如実に物語っているのではないかと思います。私自身も反省しなければいけませんけれども、日本人全体でもう一度大いに反省すべきところだと思います。
(スライド−67)
 これも警察が来て取り締まってくれていますけれども、目の見えない人がここを通ってくるにもかかわらず、誘導ブロックの上に自分の車を駐車しているやつがいるんです。これは練馬ナンバーですから、ご近所さんだと思いますが、こういうことを平気でできる神経が信じられません。
(スライド−68)
 これは老朽建物が並んでいる路地の空間です。この人は花を植えて一生懸命この空間をいいものにしようと努力してくれているんです。自分の建物を建てかえるお金はきっとないんだと思います。でも、街に貢献しようという意識があります。この例は、お金をかけなくても、手間暇かければ街に貢献できるんだということを示していると思いますし、私はこの花を育てている人に敬意を表したいと思います。
(スライド−69)
 これは先ほどの神田川です。堤防は依然としてコンクリートの打ちっ放しのままですけれども、春になると桜が咲いて非常にきれいな空間になります。植物でさえ、桜の木でさえ、都市に貢献しようと一生懸命、年に1度は咲いてくれるわけですから、お金もあり、地位もある我々も、もう少しましなことを考えてまちづくりをしていくべきではないかと思います。
 以上で私の話を終わらせていただきます。(拍手)



フリーディスカッション

谷口
 どうもありがとうございました。
 さすがに行政官でなければわからないような具体的問題などを取り上げていただきながら、説得力のあるお話だったと思います。
 時間がまだ少しありますので、この際にご質問あるいはご意見という方がいらっしゃいましたら、2〜3受け付けられると思います。

末(末商会)
 後楽2丁目に住み、本日、再開発の準備組合が設立される西地区の1人でございます。
 きょうのお話、行政の方がこんなお話をするとは、私は目をみはりました。私が今まで3つやった中で、随分困ったことがあります。まず、この地域に影響があるかもしれません小石川後楽園庭園保存会の私は代表です。なぜ保存会を設立したかということについては、差し支えのある企業の方もいますので、いいませんけれども、公園の南側に下水道局がありまして、そこに20階の高層ビルを建てるという話があって、それは私どもが知らないうちに基礎ができておりました。最初は都営住宅をつくる予定だったのが、急遽、東京都の下水道局はお金がないということで、180億円の権利を東京都が民間に売った形になった。
 そういう中で私がびっくりしたのは、特別地域、特別名勝という、日本に6つしかない立派な国宝級のお庭、これも東京都、下水道局も東京都、この2つの間で何で話がつかないのか。ということで、私は見るに見かねて郷土愛から声を出しました。そうしたら、私の声が天の声になりまして、東京都の中で大問題になった。なぜかというと、下水道局と副知事の間でやってしまったことなんですが、それを再度練り直しまして、それに関係しているのが6つぐらいあるんです。東京都は4000人の課長さんがいるそうですけれども、その中で5つの課、多分都市計画課、下水道局、教育庁の学芸員、それから公園緑地、最低この4つ、もう1つある。私は素人ですから、この問題は公園緑地課に行けばいいのかと思ったら、そういう課が全部絡んでいる。
 ですから、先ほどいったように、そういう人たちが縦割りでやっているために、公園が守れない。私からいわせれば、都市計画局で、公園の南側は高いものは建てない、こういう1つの規制さえすれば、例えば10メートル以上とか20メートル以上は建てないという1つの形があれば、私はこんなに努力しなくても済んだ。
 私は政治家を使ったりいろいろやって、やっと10メートル下げさせて、しかも、公園周辺をきれいに整備してやりました。そういうことが1つ。
 2つ目は、交通局。九段下の俎橋という手前に、小滝橋から来ているバスがある。私はたまたま神田の神保町にビルを1つ持っていますので、俎橋でおりるとわずか5分で神保町に行ける。ところが、そこにバス停がないために1回り、靖国通りをグルッと回って、日本債権信用銀行まで持っていかれる。この時間は靖国通りを越えて行きますので、渋滞のときは15分から20分そのバスの中でばかづらして待たされる。俎橋でおろしてくれればわずか5分で神保町に行ける。これについて、何でできないのかと、政治家に頼んで交通局の人を呼んでもらってみましたら、距離的にバス停がつくれるんです。私びっくりして、7月にいいましたら、何と9月にはバス停が1つできちゃった。これが2つ目。
 3つ目は、さっき申し上げましたように、再開発ができるんですけれども、日建設計の方が何百人と、ここに勤務していらっしゃる。皆さんご存じのように、住友不動産主導でやった後楽2丁目東地区の再開発。この再開発はオフィスだけつくって、そこのオフィスに通う3000人の人たちの食事とか、そういったものも配慮しない。
 この3つ目の問題については、今度私どもが再開発する段階において、日建設計がやるんですから、皆さんがこういうデザインにして、町を補完するものをつくってほしいなということを、1つずつプランを出していただけば、すばらしい町になる。その3つです。

青木
 本当によくわかります。行政が自分で変えるのではなくて、市民の力で変えていく好例だと思いますので、力強く感じます。

赤松(藤沢地区市民会議運営委員)
 地元の藤沢等でまちづくりの担当をさせていただいております赤松でございます。よろしくお願いいたします。
 2つご意見と、1つご質問申し上げたいと思います。1つは、専門性の問題、専門家の問題をご指摘いただいたことは私非常に重要だと思っております。かつ生活者と専門家という、成果のある行政官も多いわけですけれども、そのかかわりという点では、私は生活者が市民的な専門性といったものを持っていることが非常に重要だと考えています。
 それから、建築デザインにおけるプラス1%の街並み配慮ということに関しては、今申し上げました市民的専門性という点と若干かかわりがあると思いますけれども、かつて今の神奈川の岡崎知事の前の長洲県政の時代に文化のための1%システムというものが行われていたわけです。県民と直接かかわるという形での1%システムの展開にはなかなかならなかったのかなという感じがいたしております。
 したがいまして、本当の意味のある1%システムということをもし考えるのであれば、やはり市民的専門性を育成する、その上でそれらをどう生かしていくかということが欠かせないのではないかということを感じております。
 その上で最後、1つお尋ねしたい点があるのは、行政官の立場というか、姿勢の中でのサブシステムの提供というご指摘があったと思います。私もそういう部分、非常に重要だと考えておりますが、なかなかつくり得ないんじゃないかと考えておりますので、どういうふうにつくっていったらいいのか、もし補足をいただければありがたいと思います。よろしくお願いいたします。

青木
 行政システムというのは、生活者にサービスを提供する、我々全体がより快適に、より安全に、より幸福に住めるようなシステムをつくるために行政があるべきだということに立ち返るべきだと思っていまして、すべての糸口は、一遍行政官の立場を離れて、生活者の身になって考えることです。繰り返しいっていますけれども、行政内部から、外圧なしに変わることはあり得ないと思うんです。変わらないのが行政システムの宿命みたいなところがありますから、外から抗議して変えていくということしかないと思います。

角家
 きょうは貴重な講演ありがとうございました。角家正雄といいます。建設会社、ゼネコンOBです。
 青木さんの話を1時間半、約2時間にわたって聞かせていただきまして、日本の国には、特に都市には美観がないということを強くおっしゃったと思います。日本には国土利用計画法というのがあります。これはあくまでも利用を基本とした法律ですから、日本国土美観法というべき基本法でもつくってもらって、その中から体系的に、内閣法制局を、時間がかかるかもわかりませんが、説得しながら、日本美観基本法、基準法というものをつくりまして、時間をかけてでも、日本を立派な美観の国につくっていくように法整備もしながら、大いに頑張っていただきたいと思います。以上です。

青木
 今の点に一言だけ申し上げたいのは、机上の空論で国のシステムをつくっても結局機能しないおそれが強いと思いますので、皆さん方1人1人の街を見る目、それを養っていただいて、街に貢献する意識、気持ちを高めていただくことが最も近道ではないか。そういう土壌ができれば、それをうまく支援するための法制度もできると思いますけれども、それをしないで枠組みだけつくっても、仏つくって魂入れずになってしまうような気がしてなりません。

角家
 そうですが、なおかつ法律をつくって、体系的に長期にやっていけば、その両方が必要だと思います。市民の力も必要ですし、国としてそういう長期的なビジョンに基づいて法体系も備えながら、両輪でやっていけば、世界に誇る日本のいい街並み、あるいは京都とか奈良とか、千数百年たってもまだ立派な町があります。長期計画でお互いにやっていきましょうよ。以上です。

青木
 はい、わかりました。

 谷口(司会)
 
本当は多分もっといろいろお話しなさりたい方がいらっしゃると思いますが、大変残念ながら、ちょうど今5時になりましたので、きょうのところはこれでお開きにさせていただきます。
 どうもきょうはありがとうございました。(拍手)


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