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第161回都市経営フォーラム

まちづくりの発展に向けて
−部落のまちづくりの経験から学ぶこと−

講師:内田 雄造 氏
東洋大学工学部建築学科教授・工学部長


日付:2001年5月23日(水)
場所:後楽国際ビルディング大ホール

 

1.「まちづくり」ということば、その含意の変容

2.部落のまちづくりの経緯と特徴

3.人権のまちづくりの興隆

4.世界で行われているさまざまなコミュニティ・ディベロップメントの特徴−部落のまちづくりを念頭において

5.都市計画はまちづくりに何を学ぶか

フリーディスカッション



 ご紹介いただきました内田でございます。どうぞよろしくお願いいたします。
 私は、日本の被差別部落のまちづくりや、アジアのいわゆるスラム、ロー・インカム・セツルメントのまちづくりにかかわっております。ただ、日本の被差別部落のまちづくりをここで詳しくご紹介しようという気持ちはあまりなくて、むしろ私としては1つの日本の一般的なまちづくり、特に既成市街地のまちづくりの先行的な事例だと思っているわけでございます。そういう思いで取り組んでおりまして、その中からどういう可能性なり問題点があるのかということを皆様にお話しできればと思っております。
 きょうたまたまこちらに参りましたら、何人かの学生時代の友人にもお会いしました。私が何でこんなテーマに取り組むようになったかというのは、時代の状況がありまして、ちょうど大学院に在学中、ドクター2年のときに学園闘争でございました。東大の吉武、鈴木研究室、特に鈴木先生の部屋におりました。当時は都市工ができたけれども、まだ院生がいない、あるいは少ないという非常にルーズな時期でした。ですから、私は高山研にも机がありましたし、日笠研にも机があった。それで本拠地は鈴木研だったという自由な時期でございました。高山研では山形の都市計画をずっとやりました。
 それから、日笠先生のところでは、先生が持っておられた膨大なコミュティ関係の資料がありまして、その整理を渡辺俊一さんの指導のもとでやりました。
 あともう1つ、筑波のマスタープランを1年間くらいかかわり、住宅公団に通っていたという時期にたまたま学園闘争になったわけです。
 学園闘争の後、国立の歩道橋の反対運動とか、当時低層住宅地に結構マンションが出てきまして、そういうマンションのあり方を問うという形で幾つかマンション建設反対運動をやっていましたけれども、学生時代からプランナーとして自己形成してきて、物をつくりたいという思いが非常に強いわけでございました。
 どうにかそういうことができないか。それも今までの行政とのつき合い方じゃなくて、そこに住む人と関係をもう少し取り結びながらつくりたいと思っていたときに、たまたま高知県の土佐市にあります被差別部落の計画の話がありました。それにかかわったのが1975年のことでございます。ですから、もう4半世紀被差別部落のまちづくりにかかわっています。
 そうこうしているうちに、当時国連のESCAPでアジアのまちづくりをやっていた穂坂さん、あるいはNGOの立場から、アジアのスラムとかロー・インカム・セツルメントのまちづくりをやったアンソレーナさんから、日本でそういうことをやっているのだったらば、経験交流にぜひ出てこいという形でアジアのまちづくりに引っ張り出されました。それ以来アジアのまちづくりにもかかわっています。アジアのまちづくりというのは、私たちの場合、国連とやることもありますけれども、多くは運動体としては、Asian Coalition for the Housing Rigths、ACHRといっていますアジア居住権連合というところで、まちづくりにかかわっているわけでございます。
 私たちの場合、私たちが現地、例えばフィリピンなりタイに行って、まちづくりの計画をするというスタンスではありませんで、お互いの国の経験を交流し合う。例えば日本の被差別部落のまちづくりをテーマとし、日本で交流会を開催する場合には、アジアの各地から自治体関係の方、NGOの方、現地のコミュニティ・ベースト・オーガニゼーションの方の3人ワンセットで来ていただいて、お互いに経験交流をする。そういう中での経験も一応ある程度整理して、きょうお話ししたいということでございます。



1.「まちづくり」ということば、その含意の変容

 このごろよく「まちづくり」という言葉が使われて、人それぞれまちづくりに思いを込めたり、定義したりしておりますけれども、私は比較的早く、学園闘争の時代から日本の都市計画は少し問題があるんじゃないかと思っていた世代だったわけです。身近に川上秀光さんなどがおられまして、彼は学位論文の中で、日本の都市計画は富国強兵、殖産興業の都市計画だ、要するに明治のあの時期に出発した都市計画で、そういう特色を持っているといっておられますけれども、私たちも大体そんなふうに思っていたわけでございます。
 日本の都市計画は、余りにも道路とか港湾、鉄道というインフラ整備が中心に置かれ過ぎているということ。それから、戦前にはかなり軍事的な要因も強かったと思います。鉄道が戦争のたびに西へ西へと延びていったわけです。ご存じの方が多いと思いますけれども、今の中央本線を敷くときは、東海道線が太平洋岸にあって艦砲射撃に非常に弱いということで、わざとああいう形で中央本線を敷いたわけです。
 私の勤め先は川越にございますけれども、八高線は、東京で何か事があったときでも、北と西をつなぐために、東京をバイパスして通るという明快な意図を持って敷かれていて、そのために八高線の沿線には火薬の工場とか軍事関係の工場がかなりあったということも知られています。今はそういうことはあまりないんですけれども、富国の方、産業基盤整備が非常に色濃い都市計画だというのは今日でも変わってないように思います。
 日本の都市計画の場合、今度、地方分権で若干状況は変わりますけれども、国家の都市計画あるいはお上の都市計画事業というのが強いように思います。これは旧都市計画法で、お手元に配布していただいた「同和地区のまちづくりが今後日本のまちづくりに示唆すること」の中で書いておりますけれども、旧法では、都市計画は主務大臣これを定むるということで、国がやるんだということがはっきりしていたわけでございます。
 それに対して、私たちは当時から、身近な住環境整備を中心にして、あるいはソフトの分野、そうはいっていましたが、ソフトの分野が具体的にどういう分野か、当時は弱かったと思います。今になってみれば、例えば福祉のまちづくりとか、環境共生のまちづくりという形で、テーマがかなりはっきり見えてきているわけですけれども、当時、1970年代の初めは、そこら辺非常に弱かったと思います。それから、住民がもっと参加して、基礎自治体が中心になったまちづくりをやっていきたいと思っていたわけです。
 特に、皆さんご専門家で私より強い方がおられると思いますけれども、イギリスの場合には、産業革命に伴ってスラムが形成されて、このスラムの住環境をどうするかというのがイギリスの都市計画の1つの源泉になっているわけです。
 もう1つの都市計画のオリジンは、19世紀末から20世紀の初頭、イギリスに植民地からの富が非常に流れ込んで、中産階層の居住地ができてきて、その中産階層の居住地をどういう形でコントロールするか、制御するかというのがもう1つのオリジンだと思います。
 最初のオリジンはスラムの問題で、それに対して、ご存じだと思いますけれども、一番初めは公衆衛生法なり労働者住居法という形で対応して、それがやがてハウジング・アクトになるわけでございます。ハウジング・アクトというのは、ご存じのとおり、日本の建築基準法とは違って、住居の質を規定している。例えば、中学生以上だったら1人1室なくちゃいけない。トイレとか台所は専用でなくちゃいけないというかなり細かい規定がありまして、この規定を満たしていない場合には、アンフィット・フォー・ヒューマン・ハビテーション、人間居住に反するという形で、行政当局は居住禁止を命ずることができる。居住禁止を命ずることができるというのは、逆にいえば、適当な公営住宅をあっせんする、あるいは低利のお金を貸し出して建て替えさせるというシステムになっているわけです。
 私が知っている限りでも、建設省で何回か住居法とか住宅基本法をつくろうという動きがあったわけですけれども、うまくいかなかった。一定の居住水準を確保して、それに対して行政が責任を負うというところまで建設省はどうしても踏み切れなかったんだと思います。
 現在の住宅建設法の場合でも、例えば最低居住水準とか、いろんな水準はありますけれども、あれは1つのインデックスにすぎなくて、例えば、公営住宅に住んでいるが、私は最低居住水準に満たないから、どこかにあっせんしてくれといった場合、行政はあっせんはしてくれますけれども、義務は負ってないわけでございます。そういう面では大分違うところがあるように思います。
 そういう中で、私はまちづくり、住環境中心に、あるいはソフトの分野、あるいは参加ということをスローガンにずっと考えてきました。田村明さんが岩波から2冊本を書かれたりいろいろしておられ、大いに力づけられました。
 それから、国際的に見た場合に、ちょっと系譜を異にしますけれども、ずっと長い間、コミュニティ・ディベロップメントと称するものが普遍化されているわけでございます。これはレジュメにも書いてございますけれども、発展のおくれている主として発展途上国のコミュニティとか、あるいは荒廃、英語でいうと、ブライトという言葉をよく使います。ブライトというのは、わくら葉、シワシワと葉っぱがしおれていくというイメージです。荒廃した先進国のコミュニティの発展なり開発、活性化を目指す総合的な開発事業をコミュニティ・ディベロップメントというわけです。内容的にはずっと長い歴史があって、その歴史の中で、どこを中心に置くかというのも変わっています。当初、コミュニティ・オーガニゼージョンという言葉がかなりいわれましたけれども、やがて住民のパーティシペーション、今はイニシアチブという言葉が使われているんじゃないかと思います。
 やっていることはコミュニティとしての仕事づくりとか、公衆衛生、特に上水の確保、トイレの改善、生活改善、ファミリー・プランニング      バース・コントロール、識字教育、あるいは住宅供給といったような非常に多面的な計画です。
 例えば、アジアで開発計画にかかわった方はご存じだと思いますけれども、識字教育をめぐってもいろんな流れがありまして、単なる、日本でいえば「あいうえお」を教えるのは識字教育ではない。むしろその地域で何が問題なのかという問題意識を発掘しながら字を覚えていく。その中で初めて字も覚えられるんだという主張が、ずっと南アメリカなどで発展しているわけです。ですから、単に字を教える技術ではないわけです。
 そういうコミュニティ・ディベロップメントというのがあります。私は、東洋大の元学長をしておりました磯村先生から随分お教えを受けたわけです。彼の話によれば、19世紀の終わりごろ、イギリスのイーストロンドンで、我々の知っている哲学者のトインビーの叔父さんなんだそうですけれども、トインビーがトインビーホールを設けて、そこのスラムのセツルメントをやった。セツルメントというのは、そこにセツラーが住み込んで、全人格的な教育というか、住民の相談に乗って生活改善に協力するというのがセツルメントで、日本語に訳したときに「隣保事業」と訳されたわけです。セツルメント・ハウスが「隣保館」と訳されて、現在でも行政用語になっているわけでございます。あるいはそれがシカゴでも、これは磯村さんは随分調べに行ったらしいです。ハルハウスで有名なセツルメント運動があった。
 当時、内務省では部落の問題、もっと一般にスラムの問題が社会政策の大きなテーマだったわけです。内務省の社会局というのは、昭和の10年代になってから、厚生省になるわけです。厚生省が戦前は公営住宅を管轄しているわけです。当時の社会局、それも内局から外局に移ったりしますけれども、社会局の方々が随分調べに行っているわけです。
 一方では、インドのタゴールなどが推進した農村地域再建運動、要するにイギリスへの抵抗運動の一環としてなされているわけですけれども、ガンジーなどもそうです。ですから、彼はいつでも綿をつむいでいますけれども、そういう再建運動とかインドで随分いろんな運動があるわけです。
 そういうさまざまな運動の中で第2次大戦後、国連がコミュニティ・ディベロップメントをかなり幅広く推進していくわけです。国際的には開発途上国の農漁村、私はアメリカのことはあまり知らないんですけれども、この時期アメリカでは農村開発にコミュニティ・ディベロップメントという概念を使ったということを教えてもらったことがあります。
 それから、特に1980年代の後半以降、このコミュニティ・ディベロップメントがかなり質的に変わってくるわけです。1つは、アメリカにおいて、特にスラムとかブライテッドの地区で、後でお話ししますけれども、コミュニティ・ディベロップメント・コーポレーションによって、アメリカの都市のスラムなりブライテッドのまちづくりが行われる。
 それから、発展途上国あるいは開発途上国においても、単なる国連の事業としてというよりも、むしろ地域に住んでいる人たちが運動としてコミュニティ・ディベロップメントに取り組むわけです。私たちがかかわっているACHRは、そういう運動としてのコミュニティ・ディベロップメントにずっとかかわっている。運動の中ではコミュニティ・ディベロップメントという言葉をあまり使いませんけれども、私から見れば、コミュニティ・ディベロップメントです。
 それから、今私自身がかかわっている日本の被差別部落のまちづくりも、日本においては数少ないコミュニティ・ディベロップメントだと思いますし、そのコミュニティ・ディベロップメントも1990年ぐらいから随分内容が変わっていると思います。



2.部落のまちづくりの経緯と特徴

 部落のまちづくりの経緯と特徴を簡単にお話しします。明治5年、身分解放がなされて、一応、穢多、非人といったような名称は使ってはいけない。あるいは戸籍も一本化しなくちゃいけないということになったわけです。しかし、それまでは皮革関係とか、幾つかの雑業に関して、部落民にある面で優先権が認められていたわけです。そういう優先権が同時に返上させられますので、経済的には厳しいというか、むしろ明治になってから苦しい生活を送ったといわれています。
 特に、明治10年代の松方デフレのときに、部落は窮乏化したといわれているわけです。それに対しさまざまな生活改善運動が行われている。特に日本の場合、ご存じの方が多いと思いますけれども、日露戦争で日本の財政は物すごく疲弊するわけです。
 そのために、当時、地方改良運動が内務省のお声がかりで全面的に行われる。地方で国民の生活改善をして貯蓄を奨励し、税収を高めてということをやるわけです。同時に、この時期に塩とたばこを専売にしているわけです。地方で生活改善、地方改良をしようと思うと、部落を抱えている自治体は大変だということになりまして、部落問題が国家的に取り上げられるようになったわけです。日露戦争が94年ですから、1800年代の最終のころが一番問題だったわけです。
 そういう中で、部落民はまちの銭湯に入っちゃいけないとか、部落の子供が学校でいじめられたという問題があって自分たちで共同浴場や小学校をつくったということもあります。それはそれで評価すべき問題で、部落の人たちがみずからの生活を振り返る、それは必要なことなんですけれども、なぜ差別されるのか、差別の構造的な問題などは取り組まれない。そういう自分たちのライフスタイルを一面的に改善する試みは長く続かないし、結果的にはうまくいかなかった中で、1930年代に融和事業が随分行われるわけです。
 1918年に米騒動があって、部落の貧民が多数参加した。そして、1922年に全国水平社ができるわけです。水平運動が社会主義運動と結びつくことを危惧して、国、当時の内務省が、積極的に融和事業という形で上から部落対策を行うということです。
 この融和事業は欧米のスラムのセツルメントを学んでいると思います。例えば、コミュニティ・オーガニゼーションとか、奨学金を与えるとか、上水道とか下排水路を確保する、トイレをちゃんとつくる、住宅を供給する、授産事業を行う、部落産業に融資する、そういうことを随分やっているわけです。当時の内務省の施策としてやはり評価されるべきことだと思います。
 一方、運動としては、全国水平社が1922年に設立されて、実質的な解放運動なわけです。当初は、この解放運動は、差別への糾弾が中心で、部落の生活改善という取り組みは弱かったといわれています。しかし、それでは運動が行き詰まって、その後は、運動としてコミュニティ・ディベロップメントが、コミュニティ・ディベロップメントとは意識されていませんけれども、随分行われているわけです。
 その中で特に、内務省の外郭団体によって、1935年に融和事業完成10カ年計画という立派な計画がつくられています。しかし国家財政が戦争に巻き込まれる中で事業はほとんど放棄されるという状態になるわけです。
 戦後再び、特に住宅とかまちづくりでは、関西で非常に問題になったわけです。ご存じの方が多いと思いますけれども、戦前内務省は幾つかの注目すべき住宅政策を1910年代から20年代にかけて行っている。例えば、この時期内務省は、諮問機関(救済事業調査会)に対して、細民住宅をどうしたらいいかという諮問をするわけです。そうすると、それに対して、「細民住宅」なんていう言葉を使ってはいけない。「小住宅」という言葉を使えというコメントがまずあって、そのとき内務省に対してなされた答申(1918年「小住宅改良要綱」)は、例えば、公営住宅ではないんですが、公共が住宅を供給せよという問題とか、不良住宅に対して、不良住宅地区改良事業を行えとか、住宅会社をつくれとか。これは今の公団とか公社もそうですけれども、その当時のヨーロッパの各種の住宅組合を考えたと思います。
 この住宅組合というのは傑作で、ちょっと脱線しますけれども、今日、コーポラティブ住宅の建設が随分盛んなわけです。ヨーロッパに行って、ハウジング・コーポラティブといえば住宅組合になるわけです。ハウジング・コーポラティブというのはどうかというと、もともと、労働組合運動の中で出てきた概念で、協同組合です。みんなで組合員の人たちが住宅をつくる。例えばアパートをつくる。そうすると、アパートの所有権はコーポラティブが持っている。利用権を組合員が持っている。組合員は、転居するときは利用権を次の人に譲っていく(売っていく)というのがシステムです。
 今の日本でいえば、今後マンションの多様化の中で、あるいは建て替えの問題などで、これもあり得るんじゃないか。私は、今マンションの総プロにかかわっているんですけれども、議論としてちょっとなされたこともあります。ただ、今のところ日本ではそういう制度はない。ヨーロッパではかなりあったし、アメリカでもあります。アメリカでは最近むしろ減っているんです。なぜ減っているかというと、担保価値の問題です。
 もう1つは、だれかが経済的に破綻した場合、ほかの組合員が補償しなくちゃならない。例えば、今のマンションだったらそういうことはないわけです。そういう問題がある。
 日本のコーポラティブというと、建てるところをみんなでやる、あるいは管理のところまで延藤さんなんか踏み込んでよくやっておられますけれども、それだけではなくて、1つの法人として認知されて、お金の問題、融資を受けられるとか、あるいは所有権が認められるとか、全体的なシステムがヨーロッパのハウジング・コーポラティブなんです。
 例えば、戦前の住宅組合というのは、それのまた一部をとって、当時当然のことながら、日本では個人に対する住宅融資なんてないわけです。今でもアジアでいえば、つい10年ぐらい前まではほとんどなかったわけです。今では韓国、台湾、香港では随分ありますし、いろんな国で個人に対するさまざまな融資を考えていますけれども、一般的にいえば、個人に対する融資なんてリスキーで、第一手間ばっかりかかるわけです。それで、戦前日本の住宅組合は、職域で組合をつくってもらうんです。例えばおまわりさんの組合とか学校の先生の組合とか、建てるのは個人住宅ですから、ばらばらでいい。それで連帯保証をさせるというのが当時の組合だったわけです。そういうことをやったりもしているわけです。
 住宅に関していえば、1910年代から20年代、ちょうど都市化が激しくて、近代的な土地問題、住宅問題ができたときに、日本の住宅政策は1つつくられたわけです。
 もう1つは、ご存じのように、第2次世界大戦が間近になって、住宅営団なんかができたときです。若い人たちがどんどん兵隊に行って、兵隊に行った後、住宅の安定が損なわれるようだったら、銃後の守りは成立せず、戦争なんてできないわけですから、家族の生活を保障するという意味で、特に借地借家法が強化されて、正当事由など現在のようになったのが大体1930年代の終わりから40年代にかけてです。
 そういう中で、不良住宅地区改良法というのが戦前ありました。これは今の住宅地区改良法と基本的に同じで、全面的に、ここは不良住宅だというと、そこをスクラップして、その後に公的な住宅を建てる。改良住宅といいます。これはアジアでも非常に多い事業手法です。
 ところが、戦後になって、適用を考えてみると、戦前のですから、手続的には非常にあいまいなところがあるわけです。ここがスラムだというと、一方的に自治体が指定すればいい。デュー・プロセスがちゃんと踏まれてないとか、権利義務の関係が非常にあいまいだということがあって、不良住宅地区改良事業はどうも使えないということになったわけです。でも、神戸の番町とか、そういう大きな部落で改良事業をどうするかというのが非常に問題になりました。特に、GHQの中にニューディール派が随分多かったわけですから、そういう方が日本の部落問題を一生懸命注目して議論になるわけです。
 そういう中で、初めは細々と公営住宅法でやるわけですけれども、公営住宅法ではスクラップができないというので、やがて1960年に住宅地区改良法が新しくできるわけです。
 戦後また部落解放運動がいろんなところで始まりました。その中で、もう一回国策樹立、戦前の抜本的な計画と当時いわれた融和事業完成10カ年計画の戦後版をつくれという運動が非常に盛り上がるわけです。
 1960年に同和対策審議会がつくられて、65年に答申が出る。それを受けて、1969年に新しい事業体系がつくられていくわけです。このとき、解放運動のグループは、これは非常に難しいところですが、部落解放基本法的な基本法を要求すると同時に、もう1つ、基本法だけではだめだから、事業法をつくり、事業をちゃんとやってくれという2つの要求を出すわけです。
 一方、国の方は当時経済的に厳しくて抜本的な計画はできなくて、そういう中で、部落対応の事業法を用意することにとどまるということになるわけです。そうすると、住民なり解放団体の方は、総合計画ができなかった、国のちゃんとした国策ができなかったというので、それだったら、おれたちのところで、地区レベルで総合的な計画をつくろうというので、特に力を持っている運動体が非常に多い関西の大阪、京都などがそういうことをやるわけです。
 当時、住宅地区改良事業が使われて、全面的なスクラップ・アンド・ビルドが行われた。ご存じだと思いますけれども、京都市内の部落はほとんど今改良住宅団地になっているわけです。しかも早い時期の改良住宅ですから、40平米ぐらいのかなり狭い住宅の団地が多いわけでございます。そういうことだったわけです。
 当時問題になったのは、都市部落はいい。都市部落は確かに住宅地区改良事業でスクラップ・アンド・ビルドができる。ただ、ご存じの方が多いと思いますけれども、住宅地区改良事業の適用要件はかなり厳しいわけです。まず、1軒1軒の住宅に対して点数評価をして、マイナスが100点を超えると、これは不良住宅だとなります。不良住宅率が地区の80%を超えているとか、地区の1つの住宅地として不良住宅が50戸以上あるとか、人口密度が幾ら以上とかかなり厳しい、要するに都市部落を対象としているわけです。
 日本の部落は、確かに都市にもありますけれども、全体から見れば農山村に多いわけです。農山村の部落はそれでは改良できないということで、もっと小さい部落を対象にした事業が必要だ。小さいということと、もう1つは、農山村の部落の場合には、自分で建て替えたりしているわけです。不良住宅も多いわけです。ですから、良住宅率も下げてほしいという強い要望が出てくる。
 当時、建設省の方もそれに対応しまして、小集落地区改良事業というのをつくったわけです。これはある面では、運動体との力関係の中でつくって、建設省のOBの方もおられますけれども、当時でいえば、運動体につくらされちゃったみたいな感じが強かったと思います。
 ただ、これはおもしろくて、今から考えれば、改善型のまちづくり事業を初めてつくったんです。それまでは日本では原則としてスクラップ・アンド・ビルドだったわけですが、それほど不良住宅がなくても、あるいは良い住宅が残っていても、住宅地区改良だと、全部スクラップしちゃうわけですけれども、良いのは残しておいて構わない。あるいは不良住宅でも手を入れて改善しても構わないという、小集落地区改良事業はある面では融通無碍な事業だったわけです。
 実は、私は高知市で、70年代後半にかなり大きい1000戸ぐらいの部落の計画をこの小集落地区改良事業でやろうと思って、当時の建設省に相談に行ったら、建設省の人から、「内田さん、これは大集落地区改良事業ですね。とても小集落じゃない」と冷やかされました。小か大かというよりも、むしろ改善型のまちづくりが可能かどうかというのが、当時でいえば大きな問題だったわけです。
 フルペーパーの方には書いておりますけれども、私は、75年から90年代にかけて、数多く同和地区のまちづくりにかかわったわけです。そうしますと、運動に伴いさまざまな問題があるんですけれども、当時まちづくりというのは、一般地区ではうたわれていながらもほとんど進んでないのに対して、とにかく部落の場合にはかなりの進捗状況があるということが1つです。
 もう1つは、既成市街地のまちづくりなわけです。例えば、当時団地がつくられたり、工場跡地が再開発されたりしていますけれども、既成の市街地のまちづくりというのはなかった。私は、同和地区のまちづくりにかかわる中で、なぜ同和地区のまちづくりがそれなりに、問題はさまざま抱えながらもうまくいっているのか、それをどうやったら一般的にまちづくりに生かすことができるのかという問題意識をずっと持っていまして、それで、当時たまたま論文を書いたんです。
 私は1970年に形式的に大学院のドクター課程が終わったんですけれども、当時学園闘争の真っただ中で、論文を書くなんてことを考えたこともなかったんです。東洋大に行ってからたまたまある学科をつくるという話があり、そのためには僕が学位を取らないとできないということになりまして、書かされたんです。
 その中でいろいろ調べて回ると、運動としてまちづくりをやっているのは非常に稀有な例だと思いました。部落解放同盟が中心になって、かなり力づくでやっているところがありますし、彼らが行政との力関係を利用しながら、あるいは地区レベルの解放運動としてまちづくりをやっている。
 一方、行政の方ではそういうまちづくりですから、かなりきめ細かな情報公開とか参加をやっているわけです。例えば、まちづくり協議会みたいなものが開かれて、おおよその計画はそこでオーソライズされて、「あんたのところは大体幾らぐらいで買収される」とか、「家賃はどういうことになる」なんてことも、全部そこで決められているという状況だったわけです。
 もう1つ非常におもしろく感じたのは、さっきのコミュニティ・ディベロップメントなんですけれども、単なる物的な計画ではないんです。部落の総合計画の一環としてのまちづくりだったわけです。戦前からの流れがあって、行政の方がそういうふうに仕向けたところもありますし、運動の方がそういう経験があってやったところもあります。
 単に、例えば道路をつくるとか、家をつくるというんじゃなくて、部落産業をどうするかとか、子供の教育の問題をどうするか、あるいは生活保護の問題をどうするかとかいう、さまざまなことをテーマとしながらやられていたまちづくりだったという点は非常におもしろかったと思います。これについてはまた後で触れます。
 これは不公平だという批判は一方でありましたが、行政の方がかなりの程度まで負担の軽減措置をとっていたわけです。例えば、皆さんもうご存じだと思いますけれども、日本で事業に対して公的に負担の軽減措置をとる代表的な例は、災害復旧事業です。災害復旧事業は大変な事業ですから、実際的には全部交付税で戻しているわけです。災害復旧ほどではありませんけれども、それと同じような、例えば産炭地とか離島、部落、そういうところに対しては優遇措置をとったわけです。事業に対しては補助率を高くして3分の2の補助が原則で、しかも、借金するわけですけれども、郵便局の貯金を使って国が引き受けて、それから地方交付税で、3分の1の補助と裏利子を返すわけですが、それの5分の4を地方交付税でバックするという形で、自治体に対して優遇措置をやったわけです。
 実際問題としてそれほど優遇措置をとったとしても、ご存じのように、各種の超過負担があります。超過負担というのは、規模の問題、対象の問題、小学校でいえば、今は違いますけれども、昔は花壇はつくっちゃいけないとか、単価の問題、建設費では幾らまできり単価はみないとか、そういうさまざまな超過負担があって、実際には自治体の負担は結構多かったんですけれども、それでも計算の上では負担を随分カバーしていたわけです。
 それから、住民に対しては、当時住宅金融公庫などが利率数%の時期に2%の住宅改善資金とか住宅新築資金、宅地取得資金とかいう安いお金を貸していたわけです。そういうさまざまな軽減措置をやってきた。
 それから、先ほどいいましたように、改善型のまちづくりの手法、小集落地区改良事業といいますが、一連の特別措置法の失効に伴い、来年の3月で最終的になくなりますけれども、これはやってみたら、非常に小回りが効いていいというので、やがてこれを一般化したのが、コミュニティ住環境整備モデル事業、コミ住なんです。現在そのコミ住は、いろいろ変わりまして、密集住宅市街地整備促進事業、まちづくりをやる方はよく使っておられると思いますけれども、まさに小集落事業を一般化した事業が発展してきたのが今の密住なんです。そういう流れの中で、非常にフレキシブルな事業手法が随分開発されたと思います。
 私はそれをまとめて、もし一般地区の既成市街地、特に木造住宅が密集しているようなところでまちづくりをするとしたら、こういう部落でのまちづくりの経験をちゃんと生かしていく必要があるということを、事例を挙げながら一生懸命書いたわけです。
 私のレポートはちょっと変わっていまして、実際に私が参加したまちづくり、高知県の土佐市なんですけれども、それがずっとメインストリームになっていまして、今の言葉でいえば、パーティシペートリーなリサーチ、参与型とか参加型リサーチです。参与型リサーチというのは、60年代にアメリカで非常に発達して、カウンターカルチャー、特にフリーセックスの問題とかマリファナの問題で、若い優秀な社会学の人たちが、パーティシペートリーなリサーチだといって、入っていってちっとも戻ってこないというので、うんと問題になったことがあります。私はパーティシペートリーのリサーチを考えて、今でもアジアの場合にはまちづくりとか、調査自身をパーティシペートリーにやるほかないわけですね。例えばアンケート調査なんて、インドなんかでできっこないわけです。字がわからないわけですから。そうすれば、大道で、パフォーマンスをやりながら、みんなを集めて、そこで、豆つぶなんかを使っていろいろな調査をするとか、さまざまなパーティシペートリーのリサーチなり調査なりが行われているわけです。
 私の場合は、日本では早い方だったと思います。そうしたら、どういうことか、都市計画学会がこれに対して論文賞をくれました。それから、たまたまですけれども、私たちがやった北九州市の都市計画、同和地区のまちづくりに対し建築学会は業績賞をくれたんです。その面では評価されてうれしかったんですが、そういうことをやってきたわけです。



3.人権のまちづくりの興隆

 ところが、最近になって、同和地区のまちづくりも随分変わってきたというのが、人権のまちづくり。人権のまちづくりという言葉にとらわれないでほしいんです。まちづくりの内容が随分変わってきたということを申し上げたいんです。何で変わってきたかといったら、社会的な動向の中であって、1つは、部落と一般地区の格差が縮小した。部落の事業を優遇するという一連の特別措置法があったわけですけれども、それも最終的には来年の3月で打ち切られるわけです。
 客観的に見れば、部落に対する環境整備事業、あるいは部落に対する投資などは、高度成長期の日本の財政の豊かさの反映で、ある面ではそういう中の余裕があった部分が部落に流れたわけです。今みたいにバブルがはじけて、公共投資が抑制される。あるいは社会福祉が非常に切り詰められる中で、部落に対しての投資もどんどん厳しくなっているわけです。
 それから、同和地区のまちづくりの一番大きな問題は、圧倒的に住宅の問題だったんです。それは住宅が厳しかったから。総合的なディベロップメントだったといいますけれども、圧倒的に大きいのは住宅の問題です。
 しかも、これは非難もあると思いますし、評価もあると思いますけれども、当時の実態調査はすごいものです。部落の方とか行政の人、大学の関係者が2人とか3人でチームをつくって1軒1軒実態調査をして回る。それから要求を聞いて回る。そういう中で、一生懸命オルガナイゼーションをやるわけです。ですから、部落のまちづくりというのは、当時の解放同盟でいえば、運動を活性化する、あるいは運動のオルガナイゼーションだったわけです。
 その1つのてこが住宅だったんです。当時部落内では保守派が圧倒的に強くて、保守派の方々は部落、部落と騒ぐことには反対だったわけです。「部落なんてことをいわなければだんだんわからなくなる。部落なんていえば、かえって差別が残る」なんてことも多くて、そういう中で、「同和対策を呼び込むのは反対だ。もし同和対策で住宅が建ったら、おれは逆立ちして、町じゅうを歩いてやろう」なんてことがよくいわれたわけです。
 そういう中で、解放同盟が中心になって、同和対策をかち取って、改良住宅を持ってきたわけです。これは結構強引なところもありまして、まちづくりに、住宅運動にどれだけかかわったかによって優先権を決めるなんてこともやっているわけです。それはちょっとブレれば、解放運動にどれだけかかわったかということで、へんてこなレッテル張りが行われる危険もあるわけです。
 おもしろいことがあります。もともと部落というのは定住のコミュニティなわけで、そこのところを改良住宅で建て替えるわけです。公営住宅の場合には、こんなこといったら建設省の方に怒られるかもしれませんけれども、「この公営住宅を建てた。入居したい者はこの指とまれ」というので、希望者が入ってきて、どんどん動いていってくれた方がいいわけです。だけど、部落の場合もともと定住のコミュニティですから、改良住宅の場合にはそうはいかないわけです。そういう難しさがある。
 ですから、改良住宅を建てるに当たっては、住民の方々がどういうふうに自分たちの要求をそこに反映させるか、住宅要求者組合というグループをつくって、自分たちで要求する。あるいは住宅ができれば、それが自治会になって管理するということを随分やったわけです。そういうことが随分ありました。
 その中で、皆さんこれもご存じだと思いますけれども、公営住宅法が変わったわけです。今までは公営住宅法は、第1種公営住宅、第2種公営住宅で、補助率が決まっていたわけですけれども、一応応能応益家賃になったわけです。部落の家賃は正直のところ非常に安かったんです。これは、僕は問題だといっていたんです。改良事業のころは、地元の家賃はえらい安かったわけです。それから逆規定されて、公営住宅とか改良住宅の家賃も安かったということと、改良住宅をつくるときに、事業としては、「あなた、済みませんけど、土を売って協力してください」みたいなことになるわけです。行政はむしろ協力をお願いする立場で、家賃も高くできなかったという面もあるわけです。
 地区内に改良住宅と公営住宅とあった場合、行政からいえば、これは改良住宅、これは公営住宅となるけれども、部落の方、借家人からいえば、たまたまこっちに入ったみたいなところがあるわけです。ですから、改良住宅の家賃が安いということは、公営住宅の家賃も非常に安い。
 一方で、公営住宅はどんどん値が上がってきたのに、部落の家賃は力関係で抑えられていましたから、えらく安かったわけです。一般の公営住宅の5分の1とか10分の1ぐらいだったと思います。
 私は、解放同盟に「そんなの変だ。国は間違いなく応能応益家賃にいくんだから、部落の方から、あるべき応能応益家賃を考えろ」と大分いいまして、解放同盟のリーダーレベルでは了解されて、案までできたんですけれども、住民の方々の納得を得られなかったわけです。「おれたちがかち取ったものを何で放棄する必要があるのか」。それも1つの論理でして、できなかったわけです。
 今度、応能応益家賃になってきますと、改良住宅にいるメリットもなくなってくるわけです。結構家賃が安かったということもあって、狭い改良住宅も多かった。そういうのをどうするかということが問題になってきたわけです。
 それから、農山村の部落でいえば、若い人はどんどん大都市に出ちゃう。大阪や京都の部落でも、応能応益家賃になって、家賃が高くなってくるとすれば、今のうちにマンションを買っておこうとか、今まで安い家賃でお金をためているから、うまく立ち回ろうとか、いろんなことを考えるわけです。それで出ちゃう人もいるわけです。若い人がいなくなっちゃうと、部落の運動は一種のコミュニティに根差した運動ですから、活性化がなくなっちゃうという問題も出てくる。
 そういう中で一番大きなのは、今までの運動に対して、アジアでも同じような問題がありますが、解放同盟自体が自己批判をしたわけです。例えば、戦後、京都でオールロマンス事件がありました。ほかの住宅地に比べて部落はこんなに水準が低い。例えば道路も悪い、住宅も悪い、あるいは下水も整備されてない。これは行政責任だといって、行政を追及して、同じようにせよという運動が、それはそれなりに一定の成果をかち取ってきたわけです。それだったら、格差がなくなってきたらどうなるかというのがもう1つ出ないわけです。
 それから、解放同盟というのはある面で力のある団体ですけれども、そういう中で結局行政の手のひらの上で運動が行われるわけです。お釈迦様の手のひらの中でAかBかということが争われるようになる。結果的に本当の意味での自立が不十分だったんじゃないか。もっと自立とか自前という問題を考えるべきだ。あるいは今までは一般が進んでいて、部落はおくれていると考えていたのは変じゃないか。自分たちの部落の歴史とか部落の文化というものも再評価しようじゃないかといった点が今盛んに問い直されているわけです。
 これは、アメリカのブラック・イズ・ビューティフルだって同じ流れです。アジアのスラムでも同じ流れがあります。そういう中で日本の運動もそういうところがあって、まちづくりも変えなくちゃいけないということになったわけです。
 具体的にいえば、レジュメの後ろから2枚目のところを見てください。今運動として一番進んでいるのは大阪の西成です。私は北九州の北方の計画、きょうは当時、建設省から北九州市の建築局長として出向していて、北方の計画ができたのはあそこにおられる若山さんのおかげです。私の方はそういうプランナーのサイドでかかわりましたけれども、彼が行政の責任者でいて、彼の方がそれを受けて、いろいろ事をやってくれた。ですから、建築学会で賞を受けたときは、業績賞の代表は市長だったわけですが、実際には彼に一番世話になりました。私にとっては、日建の山際さんとか若山さんは同級生なんです。当時の同級生でそんなところで会うとは思いませんでした。
 ちょっと表を見ていただきたいんですが、いろんなテーマがあります。コミュニティ・ディベロップメントですから、参加とかコミュニティ・オーガニゼーションとか、仕事保障とか部落産業の振興、学校教育、市民教育、住宅供給、住環境の整備、福祉、さまざまなのがありますけれども、1970年代から80年代にかけて、例えば、私が高知県の土佐市の戸波という部落でやったり、高知市でやった、あるいは当時の大阪でやっていたときのテーマは、参加とかコミュニティを培って、部落解放運動をいかにつくっていくかとか、生活実態調査をいかにやっていくかとか、そういうことだったんです。
 例えば、さっきも申し上げましたけれども、公営住宅の要求としては公営住宅要求者組合をつくる。保育所を要求するお母さんたちは、保育所要求者組合をつくる。そういう組合がたくさん集まって、例えば総合計画策定委員会をつくって、それがコミュニティ・ディベロップメントの元締めになって、それと解放同盟が組んでまちづくりをやっていたわけです。そういう時代だった。
 ですけれども、今では、むしろ一方でいえば、部落が高齢化したり、コミュニティが弱体化しているけれども、そういう問題をどうしたらいいか。それから、行政とはどういうパートナーシップを結んだらいいか。あるいは、単に行政に対して問題を突きつけたり、要求するだけじゃなくて、ワークショップという形で自分たちの思いを空間なり施設の運営にどういうふうに反映させていくかというのがテーマになっているわけです。
 それから、住宅の問題でも、かつては不良住宅をどうにかせいというので、デモをかけたり大変だったわけです。そういう中での公営住宅とか改良住宅の建設が問われたわけです。改良住宅とか公営住宅だと家賃の問題や公営住宅法による縛りもあって、自由にいろんな計画ができないわけです。ですから、今では多様な住宅とか、コレクティブハウスはどうだろうかとか、行政が持っている空いている土地を定期借地権で設定して貸し出してもらって、そこにコーポラティブを建てるとか、あるいはグループホームをつくる。グループホームなんてまさに、部落にずっといたお年寄りが年を取っているからおもしろいんじゃないか。そういうことがテーマとなっています。
 あるいは福祉の問題でいえば、部落ぐらい、食事サービスとか、高齢者に対するさまざまなケアが行われているところは少ないと思います。私もたまたまそういう年齢になって、文部省の科学研究費とか、幾つかの財団の研究プロポーザルのお金をつける委員に否応なくなるわけです。今、そういう中で福祉のまちづくりが注目されるテーマなんです。単なるバリアフリーなんていう問題じゃなくて、高齢者の自立支援とか、あるいはそこでの生活を全体的にどういうふうに考えていくかというのがテーマです。そういうのを見ていますと、部落が一番進んでいるように思います。
 それから、住環境のことでも、かつてはスクラップ・アンド・ビルドで住宅地区改良だったのが、今は北方でも、改善型のまちづくりだったわけですが、そういう改善型のまちづくりとか、周辺と一体的に考えようとか、かつては、とにかく「おれたちはひどかったんだから」といって、自分のところだけはやったんですけれども、北方の場合は周りの地区の方にも参加してもらって、周辺と一体的にやろうということを考えた。
 それから、北方の場合でいえば、集まって住む。部落で、いい意味でも悪い意味でも共同体が強かったんですけれども、そういう共同体をどう考えるか。ネガティブに考えるだけじゃなくて、持っている一種の結、九州では結のことを「もやい」というんです、そういうもやいみたいな関係をどういうふうに継承したらいいか。あるいは路地みたいな空間をどういうふうに生かすかということを随分気を遣いながら、住環境整備をやったわけです。
 改良住宅をつくる場合でも、単に一般的な改良住宅をつくるのではなくて、若山さんたちと協力して、当時熊本大学にいた延藤さんに参加してもらって、改良住宅ですから、入る人は決まっているわけで、住み手参加で改良住宅をつくる。北九州市の方はずっと若山さんが中心になって勉強会をやっていて、若い建築家のグループを指名して、一般の入札じゃなくて、指名して設計をさせたわけです。延藤さんがリーダーになって、非常におもしろい試みをやる。あるいは文化の問題でも、今までは歯を食いしばっておくれた生活を改善していく。一般に追いつけというスタイルだったわけですけれども、今となっては、まちづくりなり解放運動を楽しんでいこうじゃないか。歯を食いしばってなんていったらやっていけない。スタンスを変えようじゃないかというふうに随分変わりつつあるわけです。まちづくりが随分変わっているという気がするわけでございます。
 それはレジュメの3の(3)のところを見ていただきますと、1970年代後半からの総計と1990年代以降のいわゆる人権のまちづくりといわれているのの差でいうと、運動を重視している点は変わらないけれども、行政との関係では前者は格差論に基づいて行政要求闘争だったのが、現在ではパートナーシップだ。これは後でアジアのことでいいますけれども、アジアでもそういう流れです。
 それから、前者では、すべての面で行政への要求は強かった。行政を追及するけれども、行政に頼っていたわけです。日本の行政は、一方でいえば、非常にパターナリスティックなわけです。家父長的というか、面倒見てやるみたいなところが強いですから、いよいよおんぶにだっこみたいな形になったと思いますけれども、やっぱり自分たちでやろう。あるいは運動論の中では、かつてはとにかく部落内で解放同盟をつくる、あるいはヘゲモニーを確立するというんだけれども、もう少し周辺と一体的にやっていこう。部落の周りというのは、関西でいえば朝鮮の人の居住地があったりスラムが多いわけです。それを部落だけやれば、当然批判もあるわけで、周りと一体的にやろうなんてことを随分考え出しているわけです。
 それから、さっきいったように、多様な住宅とか文化、そういうふうに変わっているといえると思います。



4.世界で行われているさまざまなコミュニティ・ディベロップメントの特徴 −部落のまちづくりを念頭において

 一方で、じゃ、世界でコミュニティ・ディベロップメントは今はどういう状況なのか。
 私は、アジアに関してはACHRの日本の世話人をずっとやっておりましたので、アジアのまちにはかなり行っているんです。アメリカは、私自身は最近行ったことがなくて、私の研究室の学生が行ったり、あるいは友人が行ったりして、レポートは随分読んでいますが、不十分なところがあります。
 ただ、アメリカのコミュニティ・ディベロップメントを見てみると、はっきりした特徴があります。1つは、NPOであるコミュニティ・ディベロップメント・コーポレーションが主体になっている。そのCDCという一種のコーポレーションですが、それが中心になって、アメリカにおられた方もおられますから、間違いがあったら後で指摘してほしいと思いますが、住民に働きかけていくというスタイルが多いんです。
 アジアのまちづくり、あるいは部落のまちづくりは、部落民みずからが立ち上がる。アジアのまちづくりもアジア。アジアの人たちはみずからコミュニティ・ベースト・オーガニゼーションといっているわけです。ですから、ACHRという私が関係しているアジアのネットワークでも、会議では「CBOの皆さん、そしてNGOの皆さん」と呼びかけるわけです。
 その場合、CBOといったのは、スラムに住んでいて活動している人。NGOといった場合には、例えば、特にキリスト教の関係でヨーロッパから資金を随分アジアにカンパして国際NGOもありますし、それの受け手になって、それを今度インドの地区内でディストリビュートしている国内NGOもあるわけです。それはコミュニティ・ベーストではないわけです。
 アメリカの場合にはCDCが主体だというのが特徴的だと思います。運動の内容は、住宅をつくったり、アルコール依存に対するメディカルケアをやったり、仕事づくりをやったり、文化運動をやったり、商業の活性化をやったり、サンフランシスコとか、非常に多様にやっているわけです。
 それから、CDCに対しては地域社会からさまざまな財政的な助成、援助があるわけです。1つは、アメリカのキリスト教の風土なのかもしれませんけれども、地域の住民が遺産をCDCに寄附したり、あるいは企業も儲けたら、そこに寄附するのが1つの風土になっているわけです。
 それから、日本と違って寄附行為に対して税制が非常に好意的なんです。日本の場合には、ひどいのは、とにかく大蔵が全部抱え込んじゃうわけです。税制の面で優遇されるのは、日赤とか、本当に限られたところなんです。今NPOになったとしても、NPOに対して、どこまで好意的な税制になるかという見通しは非常に難しい。NPOで問題なのは、税制の問題と、もう1つは、NPOを維持するために営利行為をするわけですけれども、それに対して税金をどこまでかけるかというのが問題なんです。そこら辺が日本は非常に固いわけです。
 それに対してアメリカはやわらかいということと、地方分権で、弁護士の五十嵐さんとか千葉大の福川さんが非常によくやっておられるし、私たち、例の1992年法の都市計画法改正のときは大谷先生が中心になって、五十嵐さん、福川さん、林さん、水口さん、石田先生、私たちが一緒になって建設省に対して申し入れをしたわけです。
 それの一番大きなねらいは、自治体の都市計画マスタープランの問題だったわけです。それは高山研でいえば、1968年法の時点から、日本においてはマスタープランがない。イギリスの場合にはストラクチャープランがあって、実際のアクションプランとかディテールプランがある。西ドイツの場合では、Fプランという全体的な骨組みのプランがあって、Bプランがある。Bプランというのは拘束力を持っているわけですけれども、Fプランとかストラクチャープランは、行政を拘束しますし、大きな計画は拘束しますけれども、実質的には下位になるディテールプランを拘束するわけで、個々人に対する拘束力はないわけです。そういうふうになっている。
 それに対して、日本においてはマスタープランがないというのは、当時直接の大学関係者はみんないっていたし、建設省もよくわかっていた。建設省の方でいえば、再開発法ができたときに、市街化区域、市街化調整区域にかかわるいわゆる整・開・保をもって、マスタープランするなんていいましたけれども、ご存じのとおり、あの整・開・保というのは、今ある計画をうまく位置づける。あるいは後で出てくる計画に対しては非常に幅広く受けとめられるようにしておくというのが1つのテクニックみたいになっているわけですから、あるべき姿に誘導していくというか、あるべき姿を住民と行政でつくっていくという姿勢は非常に弱いわけです。
 私たちとしては、都市のマスタープランが必要だ。しかも、都市のマスタープランが自治体の総合構想に即して行われるのはいいけれども、整・開・保に即してやるのは変じゃないかということを大分いったわけです。そういう面では、通らなかったけれども、整・開・保とある程度切り離せということをいいましたし、議会の議決要件にしよう。これは1919年に都市計画法ができたときに、当時都市計画は国がやるもので、地方議会なんてかましたら、とても大変だというので、都市計画委員会をつくって、専門家の参加のもとで計画をオーソライズしたわけです。初めから議会をかませることに対しては、当時国は非常に否定的だったわけです。今でも都市計画は都市計画審議会でやっているわけです。
 私は、都市計画の審議に当たり、専門家の参加も必要だと思いますけれども、やっぱり議会にかませないのは変じゃないか、そこら辺を中心に建設省に言ったわけです。
 そもそも議会で十分審議しないとマスタープラン自体が行政内計画になってしまうし、県や都に対抗し得ないと考えています。ただ、私は建設省の都市計画行政の中で都市計画マスタープランは大いに評価しているわけです。
 それはそれとして、当時、そういうことを一緒にやったりして、CDCの問題なども議論したわけです。アメリカの場合には地方分権が非常に強いわけです。そもそもユナイテッドステーツですから、内政は全部州が持っているわけです。その中で州ごとに、地方自治もいろいろなタイプがあるわけですが、日本みたいなことはない。例えば、日本では私権にかかわる都市計画行政は法律で定め条例では認められないというので、開発指導要綱とか何かつくりましたけれども、あんなのアメリカだったら端から条例です。それは当然のこととして認められているわけです。ああいう条例を認めろということも随分主張したわけです。
 大谷先生も石田先生も賛成でしたが、用途地域を12地区にしたのは私は個人的には反対なんです。用途地区というのは4つぐらいでよくて、あとは自治体ごとに自由に用途地区をつくらせればいい。一律に用途地域を細分化するのは違うんじゃないかと私は思っています。特に福川さんを中心にアメリカの地方自治を調べましたが、州や市がそういうCDCに対して仕事を頼む、与えるわけです。州から市に対しては、日本だと事業ごとにつまらない補助がついてくるなんていったら怒られますけれども、アメリカでは一括助成なんです。ブロック・グラントといったと思いますけれども、かなり幅広く都市計画の案件の助成をする。
 それから、全国的なフォードの財団とか、そういうすごい財団があって、地域で活動をしている財団に対して、職員のトレーニングとか、政策に関する情報の提供とか、経理の仕方とか、全部トレーニングしてくれるわけです。たしかインターミディアリーといっていたと思いますけれども、そういう組織もある。アメリカのCDCをバックアップしているのは非常に強かった。そういうふうに思いました。
 それはそれで非常におもしろいと思いましたが、ただ、アジアと違うのは、そこに住んでいる人たちが中心なんじゃなくて、そこの人ももちろん入りますけれども、コミュニティ・ディベロップメント・コーポレーションという第三者の方が中心になってやっていく。CDCと行政が組んでうまくまちづくりをやっていくのがアメリカの特徴だなと僕は感じているわけです。
 それに対して、僕たちACHRでは「スラム」という言葉をあまり使いたくないんです。「スラム」というのもいろいろありまして、低層密集市街地とか、ロー・インカム・セツルメントとか、そういう言い方をしています。この場合にはコミュニティに住んでいる人たち、コミュニティ・ベースト・オーガニゼーション、CBOといいますけれども、彼らが中心の運動なんです。コミュニティの住民の方が中心になっている。コミュニティの方が中心になって、ネットワークをつくっていくという発想なんです。
 ですから、一番有名なのは、パキスタンのオランギのプロジェクト、これはカラチの郊外にある都市のまちづくりで、住宅協会から国際賞を受賞したりしています。そこのカーン博士というのは物すごい優秀な人で、東パキスタンの、後で西パキスタンと戦争になって、彼は西に移りますけれども、日本でいいますと、国土庁の次官みたいなことをして、そこで有名な地域の開発計画をつくるんです。それがうまくいかなかった。その後アメリカの大学に行って向こうの大学の学部長か何かになって活躍されるんです。その方がパキスタンに戻ってきて、もう一回運動をつくったのがオランギのまちづくりです。
 これは非常に多面的な運動で、一番初めは下水の問題なんです。パキスタンの町、オランギという地区だけで20万人、どこからどこまでというのは非常にあいまいなところがありますが、スプロールしてできた居住地なんです。住宅でいえば、本当にその所有権なり利用権を持っているかといえば非常にあいまいなんですけれども、じゃ、全然ないかというと、これもまた非常に難しい。一種の不動産業者がいて、その不動産業者が有力者で、県会議員だったりするわけです。彼が宅地分譲をするわけです。そこにお金を払ってみんないる。本当に安い宅地だけの分譲です。そうすると、行政は後からそこに水のタンク車をやる。住民の組織もできて、いろんな運動があったりして、上水が引かれるぐらいのところまでいくわけです。上の方にも業者を通して鼻薬は効いているんでしょう。
 だから、業者というのはある面ではアウトローなんですけれども、ある面ではまちづくりのオルガナイザーでもあるわけです。こういう例がアジアなんか非常に多いわけです。
 本城先生が、「君、家賃が払えなかったり、地代が払えなくなったって、スクォーターなんだよ」という言い方をされていました。スクォーター、不法占拠居住者といいます。スクォーターといいますと、いかにも仰々しく聞こえますけれども、そういうあいまいなところが多いわけです。
 オランギのプロジェクトではどういうことをやったかというと、下水の問題です。かなり高密度に住んでますから、下水が非常に問題になるわけです。ごみも問題になりますけれども、ごみは豚が食ったり、下水も豚とかアヒルが活躍するんですけれども、それでもベチョベチョして大変だ。どうにかしなくちゃいけないといったときに、国が頼んで、国連の調査団が来たり、ワールドバンクが来たり、アジア開銀が来たりするんですけれども、当然のことながら、終末処理場をつくって、太い管を引いて、それから枝管を引いてと、物すごくお金がかかる。住民の方はとても待っていられないということで、住民の人たちが力を合わせて枝管からつくっていくわけです。枝管からつくったって、当面は川の中に行くわけです。だから、川がまた汚れて、川が行ったカラチ湾が汚れるわけですけれども、そしたら今度は川に親管をつくろう。太い管をつくろう。そこまでみんなが行ったら、今度は終末処理場をつくろうというふうに、運動論に基づいてまちづくりをやるというすごいことをやるわけです。
 それから、自分たちで縫製工場をつくって、そこでお母さんたちが中心になって、ステッチングをやったり、袋をつくって売りに出す。あるいはバースコントロールを一生懸命やる。あるいは庭先で空き地があると、そこに野菜を植えて生活改善運動をやるとか、さまざまな計画をやっている。今まで行政が上からやるのは、地域の住民にそっぽを向かれてうまくいかなかったわけです。それが地域の住民がむしろ積極的にまちをつくる。行政も無視できなくなって、今はパキスタンで行政とのパートナーシップといえばオランギが1つのモデルです。
 ほかのスラムでも、まちづくりに当たってはオランギモデルでやることが一般的になっている。そういう新しいまちづくりが随分起こっているわけです。
 そういう中で、最近ではCBOと行政とのパートナーシップということも非常に大きなテーマになっている。
 一方では、居住権が非常にあいまいですから、一番大きな問題は、追い出されないようにすることです。エビィクションといいますけれども、強制立ち退きに対抗する。それは、あるA地区で強制立ち退きが起こったら、その都市じゅうのCBOが全部集まるわけです。デモをやったりして、とにかく頑張る。
 韓国でちょうどオリンピックのとき、かなり強引なエビィクションが行われたときは、韓国のNPOが呼びかけまして、アジアの規模でNPOが集まったわけです。韓国に行って、韓国の建設大臣とかソウル市長に対して、もっと居住者の権利を考えてくれ、単にオリンピックで町を美化すればいいという問題じゃないということを申し入れたんです。なりゆきで、日本の代表団のトップに私がなって署名をして申し入れをしたんです。これで韓国は来られなくなるなと思いながら。そしたら、日本の建設省よりずっとスマートで、僕に返事が来たわけじゃないんですが、僕らのネットワークに対して、「あなた方からこういう申し入れを受け取った。いわれていることは私たちも考えてないことではない。今私たちはこういう状況でこういうことをやっているけれども、もう少し長い目で見てほしい」ということを延々と書いてあるんです。
 その後、僕は韓国で行われた向こうの住宅公団、大韓住宅公社の国際シンポジウムにゲストスピーカーとして招かれました。日本よりそういう面ではずっとスマートなところがあります。
 そういう中でいろんなことをやっているわけです。それはレジュメの一番最後のところを見ていただきますと、日本の部落だってそうですけれども、男性は仕事があまりなくて、あるときはえらいきつい仕事で、後は酒を飲んでいるなんてのが多いわけです。アジアでもそういうのが多くて、日常的に生活を支えたり、子供の教育をしたり、保健に気を配ったりするのは女性です。そういう面では女性が中心の運動、「ジェンダー」と書いてありますけれども、そういうのが物すごく強いわけです。
  高利貸しが非常にはびこっているわけです。女性の人が少しでも自由に使えるお金があれば随分いいんじゃないかということで「女性銀行」というのができているわけです。女性銀行でも、一方では日銭を貯金しながら、あるところまで来たらその何倍まで自由に使っていいというタイプもありますし、「あなた、何に使うの」という形で、生活設計をみんなで考えるというタイプもある。とにかくそういうふうに自由に金融にアクセスできることを追求する運動もあるのです。
 それから、住民の方でも適性技術、例えば、ビルディング・トゥギャザーというタイで有名なプロジェクトがあります。アジアでも結みたいな組織はどんどん崩れつつありますけれども、結とか頼母子講みたいな組織を生かしてみんなで住宅をつくる、それができるような住宅を組み立てにしたプレハブ化方式の1つがビルディング・トゥギャザーです。
 スラムにコミュニティをつくって、それを法人化させるわけです。そのスラムの地主さんと話がついて、ここの土地を売ってもらえるといったら、この土地を担保にスラムの法人にお金を貸すのが、コミュニティ・モーゲイジ・プログラムです。これも非常に多いわけです。住んでいる土地じゃなくて、ほかの代替地でもいい。単に、コミュニティの住環境、道路とか下水、上水だけじゃなくて、1軒1軒の住宅建設にも貸すという形です。運動があるコミュニティに対しては投資枠、融資枠を拡大していくこともたくさんあるわけです。
 ホームスクールとか識字教育。識字教育といっても、単に、あいうえお、ABCを習うんじゃなくて、この地域の歴史とか文化、何で我々はこんなに貧しいのかということをやりながら、識字教育をやる。いろんなタイプのオールタナティブ・テクノロジー、あるいはアプロプリエート・テクノロジーのトイレなんかがあります。そういうことが行われているわけです。
 アジアのロー・インカム・セツルメントのコミュニティ・ディベロップメントに対し、カンポン改善事業(KIP)は、インドネシアスラムともいわれるカンポンを対象とする物的なまちづくりです。これも1期、2期、3期とレベルが上がっていまして、初めの計画は簡単な道路と下水道をつくっていたわけですけれども、今は下水道の計画までいっているし、だんだん総合的な事業、すなわちコミュニティ・ディベロップメントに変化しつつあります。タイのランド・シェアリング、土地分有事業はどんな事業かといいますと、都市の結構いいところにスラムがあるわけです。それも王室の土地を借りていたり、陸軍の土地を不法占拠している。そうしますと、王室としてはそれをたたき出すのは嫌だ。だけど、一方で、高度利用したいというときに、日本でいえば地主と借地人が持ち分で土地を分割すると同じようなことを、スラムの人と地主がやるわけです。土地を分有し表の方に商店をつくって、裏の方に住宅をつくるというのがランド・シェアリングの典型です。
 それから、フィリピンの土地抵当事業はさっき申しました。
 スリランカのコミュニティ・アクション・プログラムは、むしろコミュニティを行政がつくらせて、そのコミュニティに要求を出させて、そのコミュニティと対抗したり、協力しながらコミュニティ・ディベロップメントを行っていく。
 ですから、学園闘争のときに、私は、「抵抗の都市計画」といっていたんですけれども、友人の水口さんは、都市計画というのは都市運動体計画だ。運動体といかにやっていくかということを議論した覚えがあります。まさにアジア規模の都市運動体計画がコミュニティ・アクション・プログラムです。
 そういうさまざまなまちづくりが行われていて、そういうのをアジアレベルでみんな経験を交流しています。それをACHRがやっているわけです。



5.都市計画はまちづくりに何を学ぶか

 私が一番積極的にかかわったのは部落のまちづくりです。あるいは部落のまちづくりを通じてアジアのまちづくりにかかわってきたわけです。
 考えてみますと、私は1965年に学部を卒業したわけです。当時都市計画の条件は、日笠先生からWHOの安全、利便、快適、健康の4つ基準を学びました。当時、WHOはこの基準で住宅地の環境評価をしていたわけです。その後、実際にアジアのまちづくりで、国連のコミュニティ・ディベロップメントを見ていますと、そういうことよりもむしろコミュニティのオーガナイズとか、住民のパーティシペーションとか―パーティシペーションとインボルブメント。インボルブメントというのは上から抱え込むわけです。パーティシペーションは積極的な参加。住民のイニシアチブといった場合にはもっと住民がヘゲモニーを握るという感じで使い分けられています。そういう動きがあるし、仕事、産業、教育、生活改善、家族計画、公衆衛生、そういうふうにテーマも非常に多様です。
 それがさらに、今日のまちづくりでいえば、福祉のまちづくりとか、景観という形での文化とか歴史的街並み。私はたまたま川越にいて、川越の歴史的街並みには随分かかわっています。前者では福祉の面での自立支援、さらに環境共生などが日本のテーマになっているわけです。
 そういうことを考えた場合、部落も同じようなことがいえると思います。1985年の時点では、私は運動としてのまちづくりがユニークだと思った。あるいは部落のまちづくりがあれだけうまくいっているのは、とにかくきめ細かな参加が保障されているからだ。あるいは単なる環境整備だけではなくて、地区の総合計画の一環としてのまちづくりだ。区画整理の現場の方がおられるかもしれませんけれども、実際に区画整理の現場で、区画形質の変更だけやっている技術者なんていないわけです。おばあさんの相談に乗って、家の設計をしてやったり、おじいさんとおばあさんのやっている小さな商売をどうしたらいいかということで、商店の設計をしてやったり、みんなそういうことをやっているわけです。そういうことがいよいよ一般化してくるだろうと思います。
 例えば、我々の分野でいいますと、町の総合計画という概念はありましたけれども、今まで地区の総合計画はあまりなかった。ドイツなんか、地区の総合計画といい始めているわけです。これから、こういう形でどんどん変わっていくと思います。
 さらに住民なり地元の自治体の負担の軽減策が必要だ。あるいは改善型のフレキシブルなまちづくりが必要だということを1985年にいったわけです。
 今の時点でさらに考えれば、ワークショップ。ワークショップというのは、我々の分野でいえば、ハルプリンが公園計画でやったのが最初なわけです。あれが1960年代の終わりごろだと思います。公園というのは、アメリカの中産階層でいえば全くプラスイメージなわけです。そのプラスイメージのものをいかにみんなで楽しくつくるかというところで発展したわけで、これはワークショップの持っている可能性と、ある面では限界を示しているように思います。いずれにせよ、北方ではワークショップを、若竹まちづくり研究所の畠中崇行を中心に一生懸命試みたわけです。
 また、畠中さんが考えたのは、集まって住む楽しさ。昔持っていた路地ごとのまとまりみたいなものを新しい団地の中でどういうふうにつくれるかを考えた。あるいは高齢者、弱い立場のおじいさんとかおばあさん、お金が少ない方でもどういうふうに住み続けられるか。それは家賃を安くするとか、いろんな問題もありますが、単にそういうことではなくて、自立支援を考えていく。今西成では配食の問題とか、地区に小規模分散型の特別養護老人ホームをつくるとか、グループホームをやるということを考えているわけです。
 さらに、彼らはそういうノウハウを持って、部落から周辺の地域社会に進出し新しい仕事をつくっていこうと考えているんじゃないかと思います。そういうことまで来ているわけです。
 私は、まちづくりにおいて行政とのパートナーシップが必要だと思いますけれども、行政の基本的なスタンスは支援じゃないかと思います。住民なりNPOなりが先に立ってやって、行政はそれといかにパートナーシップを結んでいくか。あるいはバックアップしていくシステムをつくるのが行政の役割なんじゃないかということを感じているわけでございます。
多面にわたって雑駁なレポートで申しわけございませんけれども、一応終わらせていただきます。どうもありがとうございました。(拍手)



リーディスカッション

谷口
 
どうもありがとうございました。
 歴史的な状況を俯瞰していただきながら、運動論としてのまちづくりというお話が中心だったと思います。

若山(若山和生事務所)
 
指名されて困っているんですが、なかなか一言でお話ししにくいんです。
 私、建設省にいたんですが、今はかみしもを脱いでいますので、本当に勝手なこと、好きなことをいえる立場です。ただ、いうためにはちょっと時間が欲しい。建設省に入りまして4年ぐらいたって、同和問題を中心に住宅地改良事業を担当しました。在日朝鮮人の人々の河川敷スラムや原爆スラムなど、まだまだ戦後を引きずった不良住宅地があったわけです。その中で一番大きな課題としてクローズアップされていたのが同和対策だったわけです。
 3代前の大蔵省の斉藤次郎さんという事務次官がおいででしたが、当時建設省担当の主計局の主査で、私は新米の係長で、予算をめぐって激論をしたことがあります。斉藤さんが書類をボーンと私の顔にぶつけまして、大蔵省の担当主査を怒らせたということで、建設省の自主規制でしばらく大蔵省出入り禁止という扱いを受けました。
 当時のその議論を振り返りますと、斉藤さんは、金をつけるということで、地区の皆さんの自立を助けることになるのかという正論をなさっていたような気がします。我々事業の担当者は、運動団体の圧力がかかる。それを逆に利用して予算を確保する。先ほど話があった高度成長のその余った部分を投入するという余力はあったと思います。
 そういう中で、とにかく数を稼ぐといいますか、公営住宅の標準設計主義であるとか、そういったものをずっと引きずっていました。例えば、炭鉱の閉山した中にいわゆる炭住がある。それを鉄筋コンクリートに建て替える。ところが、従前の図面も計画図も、並行配置の、当時OECDから批判されたラビットハッチ―うさぎ小屋−の箱が並んでいる。要するに個性がない小さな箱を詰めさせる。そういうものに建て替える意味がどこにあるか、図面の上では、前も後も変わらぬではないかという批判もあったわけです。そういうものをつくり続けたという建設省の住宅行政の戸数主義の基本的な問題、それを同和地区にもそのまま持ち込んだ。
 1951年の京都のオールロマンス事件がきっかけとなって、部落の問題は、実態差別、劣悪な環境が差別を再生産させている、この実態の解消なくして部落問題の解決はない、という認識が拡がった。そういうところから環境改善が動き始めたのですが、住宅行政は、もう一度コンクリートの中に問題を閉じ込めてしまう、そういう過ちを犯してきたのじゃないかという気持ちが私にはありました。
 10数年前に、北九州に建築局長で行ったとき、私、若いときの経験、その後の動きも脇で見ていたことを現場で生かす立場に立ちました。北方というまちづくりがまさに始まろうとしていた運動団体の物取り主義が昭和40年代から相当批判されていましたが、北九州では、例えば、同和向けの公営住宅の用地を運動団体幹部が土地転がしをするとか、同和地区の公共事業の発注に介入するとか、そうした物取り主義が相当強く先鋭的に出てきて、社会から厳しい目で批判されていました。こうした中、行政も運動団体も地元の皆さんも本当にくたくたにくたびれていた。
 そういう時期に私赴任したのですが、北方では、内田君の指導による計画づくりが進んでいました。ただ、北九州のほかの地区は、それまでと同じようにクリアランスして、全部コンクリートの箱に置きかえる仕事が進んでいた。私は北方は、今紹介あったような方向で仕事を進めたわけですが、他の地区も計画の見直しができるものは全部見直して、箱で置きかえることはやめようとしました。運動団体にも、行政の中で長い間汗をかいてやっと計画を組み立ててきた皆さんにも大変困難なことをお願いしました。
 北方ですが、建築局の局長という立場は、ハードな環境改善からが任務ですが、まず心がけたことは基本的にインフラ、生活道路をきちんと整備する。全く道路がない世界です。
 それから、集合住宅、改良住宅や公営住宅は、小さな単位で、数棟単位で地区の中にさりげなくはめ込むというインフィル型の市街地づくりをしました。また、持ち家を持ちたい方はぜひ持ち家をつくってもらいたい。これも、先ほどちょっとあったもやい住宅。「もやい」という言葉が地区にあって、兄弟もやいとか親子もやいとか、親戚もやい、仲間もやい、何でもいい、2人でも3人でも一緒になって、2戸、3戸の共同住宅ですか、そういう住宅をつくっていこうじゃないかということを皆さんに呼びかけたり、これは持ち家ではなかなかうまくいきません。戸建ての立派な御殿が建っちゃうような傾向がありました。
 私が建設省に入って数年後、改良事業を手がけたときに、余りにも改良事業というのは固過ぎるためできるだけ融通の効く、地方の集落でもできる制度として、先ほど紹介あった小集落地区改良事業という制度を、私が担当してつくりました。それを北方で大いに役立てることができたと思います。
 今内田さんがおっしゃったまちづくりのごくハードの世界だけでしたが、何とか、とにかくまた新しいコンクリートの中に問題を封じ込めてしまって、ある意味でスラム的環境を再生産するという轍を踏むことは、北方では避けることができたと思います。
 ただ、全国で従来つくり続けてきたコンクリートの箱が、2次的に大変大きな問題として尾を引いているという現実については、建設省で担当した者の一員としてじくじたるものがあります。

内田
 一言だけ。皆さんご存じの方も多いかもしれませんが、今、公営住宅が応能応益になりました。入居できる人というのは、公営住宅だと、50歳以上の方は所得分位で下から33%ですが、一般的にいえば25%以下なんです。昔の改良住宅は12.5%以下なんです。25%といっても、全国ですから、4人家族の下から25%というのは、東京だけだと十数%になっちゃうと思うんです。生活保護に近い人たちきり、公営住宅に入れなくなっちゃう。そうなりますと、今の公営住宅というのは巨大な一種のロー・インカム・セツルメントというか、空間になって、本当にあれでいいんだろうか。部落も今若山さんもいったように同じなんですけれども、単に部落にとどまらず、公営住宅はえらい大変な問題になると思います。
 私はよく関西に行きますけれども、マンションの本を見ていたら、「賢いマンションの買い方」みたいなので、千里の公営住宅の辺は買うなと書いてある。それはスラム化するからと書いてあるわけです。買うんだったら、そうじゃない地区を買えと書いてあって、本当にそういう厳しい状況になっているということをちょっと追加しておきたいと思います。

阪本(パデコ)
 
途上国のスラム問題あるいはコミュニティ問題に興味を持っていろいろ勉強しています。日本もそうですが、行政の縦割りが途上国の場合日本よりひどい場合がありまして、先生が先ほどおっしゃいましたように、こういう住宅問題は、コミュニティ・ディベロップメント、物を供給すればいいというんじゃなくて、運動論にまで行くんだという話になったときに、住民の要求は当然住宅もあれば教育もあるし、いろんなインフラもありますし、仕事がないと生きていけないとか、いろんな分野にまたがって、建設省なら建設省だけで対応できない、あるいは文部省だけでも対応できない。行政側も集まって対応しなきゃいけないという話になると思いますが、うまくいっている例には何かそのあたりで行政側の対応がいいとか、あるいは住民側がうまく立ち回って縦割りをなくしているとか、何かそういう法則があるんでしょうか。あるいは法則でなくても、縦割りを打破したこういう例があるというものがありましたら、日本、あるいは海外でも何か教えていただけたらありがたいんですが。

内田
 阪本さんは私もよく存じ上げています。途上国のディベロップメントを専攻なさっています。日本の場合は、いい点も悪い点もあったんですけれども、同和対策に関しては、同和対策部局がある程度総合的な部局だったんです。特に大阪、京都の場合には同和対策部局の中に、ある面ではかなり建築的なメンバーもおりましたし、形式的にはほかの部局に頼むにしても、実質的には同和地区の企画調整権限は同和対策部局が持っていた。しかも運動体が強かったので、ある程度総合行政ができたと思います。
 ただ、田舎に行きますと、同和対策部局の中に技術部門というか、まちづくりのスタッフを抱え込むと、小さな事業はしやすい。だけど、大きいことは担当部局にそっぽを向かれてできないというので、よし悪しがあった。大阪でも運動が強いときはともかく、運動がある程度厳しくなってくると、そこら辺が出てきたかなという気がします。
 ニューヨークでは有名な話があって、ニューヨーク市、たしかリンゼー市長だったと思いますが、市がスラムにリトルシティホールというのをつくった。市長に直属部局で、そこに権限を与えたわけです。そこの行政に関して一定の責任を持たせるという形でやって、それでかなりの成果を上げたと聞いています。僕が知っているのはその程度です。

大熊(大熊喜昌都市計画事務所)
 
まちづくりをやっている、都市計画コンサルタントと称しています。
 先生のお話では、まちづくりと対極としての都市計画というお話がありました。私最近考えておりますのは、特に東京のまちづくりを考える場合に、下町とか特定の地域にはかなりの低層高密でいまだにコミュニティの健在な町があると思いますが、圧倒的広い区域で、既存の市街地、新しい団地等においても、完全にコミュニティが崩壊している状況にあると思います。
 確かに密集市街地とかアジアの姿とか、そういうところでのまちづくりの考え方と、東京みたいな大都市で、いってみれば、いろんな形で市街地の状況がモザイクに入り込んでいる。工場跡地にできる高所得者の住宅地はまた別な要素がある。かなりめちゃくちゃになっているようなところがあると思います。そういうところをどういうふうに考えているのかというところをちょっと……。

内田
 実態は大熊さんがおっしゃっているのが正しいと思います。僕はあえて都市計画に対して、対極云々とまちづくりを申し上げましたけれども、これだけですべていえるとはとても思えないわけです。こういうアプローチも含めて都市計画自体も変わっている。あるいはさっきいいましたように、今は行政も随分変わっている。かつてみたいに、まちづくり団体と行政がけんかしているという状態では今はありませんし、パートナーシップとか、どういうふうなワークショップでどこまで譲り合えるかということを考えながらやっているわけで、そういう面では1つの局面だけできれいに表現ができるとは思わない。
 ただ、木造密集市街地、あるいは大熊さんなんかもよくご存じの阪神の震災跡地を考えた場合、1人1人の利害をお互いにどう調整し共有していくか。あるいはその中で弱い人の立場を全体としてどう考えていくかという姿勢がないと、進まないんじゃないか。そういうアプローチというのは、部落のまちづくりとかアジアのまちづくりの中から我々学んでいっていいんじゃないかとちょっと思っているわけです。ですから、それがすべてとは思いません。
 それから、もう1つ、ちょっと脱線します。私は主に今述べたような点に興味を持ってやっておりますけれども、友人の穂坂さんは、アジアのまちづくりから何を学ぶかといった場合、我々が学んできた都市計画は、都市の構想があり、基本計画があり、その計画を実現すべくお金とか組織とかを注ぎ込んでやっていくわけですけれども、アジアはそうじゃないわけです。そんなことをやっていたんじゃ間に合わないし、お金もないわけです。むしろ1つ1つのアクションみたいな、即地的な計画がどういうふうに全体の計画につながっていくかということを考える必要があるんじゃないかと主張しています。
 我々が考えてきたブループリントのマスタープランがあって、それに即していくのは、近代的な我々が住んでいる世界の都市計画であって、それと違うものとして、私はそういうアプローチはしてこなかったんですけれども、穂坂さんから触発されているのは、オランギの計画は確かに下水の枝管からやっていくのは、変だといえば変だけれども、そういう中から本当にまちづくりがどんどん行われていく。それで終末処理のところまでいくという一種の運動的なすごさです。
 そういう面でいえば、特に私たちの木造密集市街地でいえば、アジアのまちと共通項が多く末端のできるところからやっていって、それをバックアップする形でという発想があっていいんじゃないか。余りにもきれいな全体像があってというだけではまちづくりはできないんじゃないかということを感じていることも一言つけ加えておきたいと思います。

印南(印南総合計画事務所)
 地場産業とか地域産業に助成とか支援とか、そういうことをちょっと研究しています。
 部落産業という形で、部落のまちづくりとかコミュニティ開発の中で、そこの町なり地区自体が自力でサステーナブルに生きていけるような仕組みみたいなものを、実践している、何か事例があればちょっとお聞きしたいという気がします。
 実は、高知で、たまたま今橋本知事が四面楚歌になっている副知事の問題、あるいは「モード・アバンセ」の問題も、部落産業、同和対策という中から来た問題じゃないかと思います。たまたま私高知の出身で、浦ノ内の計画に携わっていまして、土佐から浦ノ内の方を回ってきたばかりだったもので、先生の話を聞いていて、非常にびっくりしました。なおかつ、20年ぐらい筑波で開発をしていまして、先生が筑波の開発にかかわっていたということを聞いてちょっとびっくりしました。
 そういう中で、同和とはいわなくても、新しい自力で生きていけるビジネスモデルみたいなものが町としてできた事例があれば教えていただきたいと思います。

内田
 高知の副知事が失脚した事件は部落の最も悪い面というか、ダーティーな部分が出たというふうに僕も思っています。もっと明らかにされる必要があると思います。実は、高知で初めてやったときは、地元にうんと零細な建設の業者が多かったわけです。何億かのお金で地域の事業が行われるわけですから、それだったら、一種のアメリカのコンストラクト・マネジメント、具体的には市の直営方式をとり、一種の仕事の技能習得にも充てられないかということを随分考えたんですけれども、うまくいきませんでした。
 というのは、部落の人がお互いに全然信頼してないんです。あいつにやってもらうなんておれはとても嫌だという感じでした。アメリカのスラムのコミュニティ・ディベロップメントで建設労働者の職業訓練を兼ねようとしたところがあったんですけれども、あまりうまくいかなかったようです。
 ただ、ご紹介しますから、ぜひ見ていただきたいんですが、西成はそういう問題を結構やっていると思います。1つは福祉の問題です。部落の人を中心に配食サービスを行い、部落外の人も含めて地域全体に対してそういうことを広げようとしている。部落はかつて皮革産業が多かったとされていますけれども、現実的には70年代に私がかかわった時点では圧倒的に建設労働者が多かったんです。それも今は非常に厳しいんです。むしろ大阪では福祉の問題を考えている。
 もう1つは、地域貨幣を使って西成のまちづくりをやりたいとか、あそこはいろんなアイデアを持っています。福祉の方ではある程度めどが立っているように思いますが、他にも骨粉を使って新しい陶芸を起こすとか、文化の問題と絡めてやっているんです。そういう面では一度ごらんになって、可能性も含めてチェックしていただきたいと思います。僕が今までやったのは大体失敗でした。
 もう1つは、高知県の土佐市のときには、宇井純さんが当時オランダから学んだ簡単な終末処理場をつくろうかと思ったんです。そうすれば、それで食っていくのも可能じゃないか。なかなかおもしろい終末処理場で、簡単なプールをつくりまして、そこに自動車のエンジンを入れてローターを回して、1つの水槽で曝気と沈殿と両方できるやつです。それで不十分だったら、魚に食わせればいいというやり方で、それを導入してということを考えたんですけれども、下流部分が反対したこと、差別の問題、下排水を扱う仕事という問題が絡んでうまくいきませんでした。

 国武(ナブコシステム)
 
私、今は、ナブコシステムの顧問をやっていますが、地域振興整備公団に長い間いて、日本全国回っておりました。また、ちょっと、議員もやっておりましたが、病気で退任しております。ジャスコ株式会社の方で用地を確保する仕事もやっておりまして、今も顧問契約でやっております者でございます。
 こういう公の席だから、どうなるということはいえないと思いますが、例えばジャスコのいろんな出店計画について、中心市街地がだめになっちゃうということもあるかなと思ってちょっと心配しております。
 それから、地域公団のそういう土地の販売政策について、分譲じゃなくて、賃貸にしたらどうかということを今でも一生懸命私なりにお願いしております。感想でもいいですから、何か述べていただいたらと。あるいはそういう方たちがぜひ講演をお願いしますといったときには行っていただけるかどうか、お願いします。

内田
 私は、ここ10年ぐらい、自治労の自治研のまちづくりというか、都市計画とか住宅関係の助言者のようなことをやっております。自治労の自治研というのは2年に1回ずつ全国大会をやっております。ここ2回ぐらい一番大きなテーマは中心市街地をどうするかということでした。地方都市は大変です。それはもう皆さんご存じのように、車両交通の変化とか、中心地区からどんどん外に大きな店舗が出ているという問題とか、市役所とか図書館なんかもどんどん出ちゃっているとか、そういう中で、今自治労は、商店街だけではとても難しいだろう、福祉の拠点をつくることによってもう少し中心市街地を多面的に見直してまちづくりをできないかということは考えています。
 今度岩波新書で中心市街地の本が出ました。あれを見ますと、全部万々歳なんていえませんけれども、地元の方々、商店主の方々が本当に頑張るところは結構やっているということを感じて、僕ら、今までどっちかといえば、だめだということを前提に考えていたことを反省させられました。別な可能性も本気で考えればあるのかなということをちょっと感じています。中心市街地の問題は、日本で1つの都市計画のテーマになると思います。
 実は都市計画学会で、これは大熊さんがかんでおられるかもしれませんけれども、創設50周年の記念事業として、研究助成のプロポーザルコンペをやってお金をつけたわけですけれども、その当時都市計画学会が考えていたのは、日本で一番大きな問題は、中心市街地をどうするかという問題です。アジアに関しては、アジアのまちづくりをどう受けとめているか。特に方法論の問題としてどう考えるかというのをテーマにしていたように思います。

谷口
 きょうは東洋大学から内田先生においでをいただき、大変興味深く、また、示唆に富んだお話をいろいろ伺いました。
 時間がまいりましたので、これで終わりにしたいと思います。
 内田先生、どうもありがとうございました。(拍手)

 


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