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第167回都市経営フォーラム

環境の世紀−くらしの未来像を考える

講師:黒坂 三和子 氏
世界資源研究所(WRI)日本担当


日付:2001年11月27日(火)
場所:後楽国際ビルディング大ホール

 

自己紹介

くらしの未来像

地球規模で抱えている問題

如何に暮らすか、如何に生きるか

なぜ、今、暮らしなのか

フリーディスカッション



 ご紹介いただきました黒坂と申します。きょうはお招きいただきまして、ありがとうございます。
 私、久しぶりにプランナーの方たちとお目にかかる場でお話をする機会となりました。私は、いわゆる知識を皆様にお伝えするというよりも、むしろ皆様から少し意見を伺いたいというのがありまして、このお話を引き受けた次第です。
 そういう意味で、ほかの今までの講師の方々のように、きちんとしたお話ができるかどうかわかりませんが、皆様に私がお話を聞きたい理由をこれからしばらくお話しして、そこに持っていきたいと思っております。
 資料を用意させていただきました。世界資源研究所というグローバルに地球環境や開発の問題、そういう視点で、しかも政策研究というシンクタンク的な仕事をしている研究機関の者が、なぜ暮らしなのか、その辺をお話しするのに、しかも皆様と同じくらいか、ちょっと若いぐらいかもしれませんので、こういうことをしてきたということを資料でお見せして、単に本を読んだとか、そういうことではなくて、実際の自分の経験からここにたどり着いた。地球が丸いように、いろいろあがいて、自分の10代後半の疑問を解決する、答えを見出そうとしていろいろ動き回って、世界にも行って、世界の地球環境問題のそれなりの人たちとお仕事をして、そこに答えはなくて、戻ってきて、やっぱり足元に向かわなきゃいけないという、当たり前のことですけれども、そこにたどり着いたということを、皆様に一応理解していただくために、データでそれなりの資料をつくってみました。
 資料の最初のところに、私は今、世界資源研究所の日本担当と同時に、持続可能な開発のための日本評議会事務局幹事と書いてあります。幾つか、シンクタンクでの役割を日本で果たすと同時に、日本の政府とか産業界、NPO、地方自治体の方たちと一緒に、マクロのところから日本の持続可能な発展の問題に取り組む役割を担っております。「くらしの未来」は、生活者の視点からその問題に取り組んでみよう、そういう意図があって、この2つを受け持っております。
 その次のページでは、今なぜ21世紀になって、地球環境とか人間の安全保障という視点から、日本の役割を考えるべきなのかについて、幾つかのデータを示しました。私たちは20世紀の最後の世代でありますし、また21世紀の最初の世代でもあります。そういう意味で、ある大きな人類の節目の時期に来ている私たちとして、本当に何をすべきなのかということを考える上で、幾つかデータを用意しております。
 3番目には、「なぜ、今、くらしなのか」。地球規模というか、世界規模というか、そういう流れの中で、歴史的背景の中で、では日本人として何ができるのかということを考えたときに、私の1つの解決のアプローチとして、もう一度1人1人が生きていくというところに戻って考えてみようという流れになっております。



自己紹介

 最初に、世界資源研究所(WRI)を谷口さんはほとんどご存じなかったとおっしゃっていましたので、WRIを少し紹介させていただきます。
 最近は、NPOとかNGOという言葉が日本でも理解されるようになりました。政府でもなく企業でもない立場、いわゆるノンプロフィットセクター、そういう立場で政策提言、しかも地球規模の環境と開発の問題にかかわる政策研究をする、いわゆる政党からも独立した立場で行うNGOです。シンクタンクという形になります。
 日本の場合シンクタンクというのは、証券会社とか、銀行がつくったのをシンクタンクと呼びますが、欧米の定義では、むしろノンプロフィットセクター、非営利の民間の、しかも、委託研究ではなくて、政策提言をするというのをシンクタンクと定義しています。
 私どもWRIのことを簡単に、配布資料に設立の経緯とか使命とか実績という形でラフに書いてあります。1982年に設立されております。皆さんご存じのレスター・ブラウンのワールドウォッチというのは1974年に設立です。ワールドウォッチの役割は、地球規模の環境問題なり開発の問題に対して、今こういうことが起こって大変だ、もちろんデータを使いながらジャーナリスティックに警告していくというのがワールドウォッチの役割です。
 私どものWRIはその後に、いろいろ問題が起こっているのをどのようによりよく変えていくのか、もう少し具体的に、何が原因でどのように変えていったら、この問題を解決できるのかということに取り組む機関として、82年に設立されています。
 アメリカのNPOとNGOの概要を、有斐閣から『環境法研究』の19号と20号、22号にそれぞれ欧米のNGOの紹介と彼らの活動の概要を紹介してあります。基本的にNGOには、体を張っていろいろ活動するのもいれば、ロビーイングをしたり、キャンペーンをしたり、法律的に訴えていくとか、決して政治的な行動はしないが、土地を買うことによって保全するとか、多様な活動をしているNGOがいる中で、ワールドウォッチが出てきて、WRIが出てきたのです。一種のNGOの進化の過程ですけれども、それらを紹介しています。
 WRIの創設者はジェームス・グスタフ・ガス・スペスといい、カーター大統領のときに、大統領環境問題諮問委員会の委員長をしていて、アメリカ中の学者や研究者を動員して調査し、その結果を「Global2000」、日本でいう「西暦2000年の地球」、そういうレポートにまとめております。
 そのときに初めて温暖化の気候変動の問題がその中で述べられているようです。日本にも地球環境問題に対する一種の目覚めというのでしょうか、それはこの「Global2000」知った当時の原文兵衛等の政治家の方と、環境庁の方々が懇談会をつくった。そして、今日本の地球規模の環境問題への意識がここまで展開しているという経緯があります。
 その「Global2000」のレポートを82年に出しましたが、すぐカーター政権からレーガン政権にかわり、レーガン政権はそのレポートの内容を無視しました。そのレポートでは、今起こっているいろんな問題に対応していかないと、2000年の地球は大変なことになりそうだという勧告が出されています。
 レーガン政権がそれを無視したということで、責任を感じた所長のガス・スペス、そのレポートの中身に衝撃を受けた人々、例えばベトナム戦争で有名になり、その後世銀の総裁にもなったロバート・マクナマラとか、当時のアメリカのエスタブリッシュメントの方たちも協力して、政府がしないのであれば、その責任は我々がというので、建てたのがこのWRIです。
 私がここに入りましたのは、その創設者のガス・スペスさんが88年5月に日本に初めて来られたときに、前の年87年にその組織にいたアラン・ミラーという方から頼まれて、彼と会いました。それ以来、日本の中で地球環境問題に対する取り組みを、直接、間接的にいろんな形でかかわってきたという経緯になります。
 そういう意味で、レスター・ブラウンというか、ワールドウォッチが小売店を相手にするとすれば、WRIの場合は問屋を相手にする。対象は各国の政府だったり、国連機関だったり、日本の場合も企業、経団連とか、そういうところです。ですから、あまりメディアには載らないので、知られていないのは当然のことです。
 今の川口環境大臣も、堂本暁子千葉県知事も、日経新聞が環境問題に取り組むのもそうですし、今の経済産業省が技術移転という言葉を使っているのも、WRIがひそかに静かに影響を与えたと思っております。
 日本ではかなりよい影響を与えることができたのですが、残念ながら本家のアメリカの方が、あのように政権がかわると、振り出しまでは戻りそうになる状態が起こる。アメリカの政治制度というものを何も知らないでWRIに入りましたけれども、この十何年で、アメリカの政治を直接、間接に学ぶ機会がありました。このことはいずれ、もう少し時間がたったら、どこかにきちっと書いてみたいと思っています。今自分がその渦中にいるときは、ゴア副大統領を含めかなり身近に接していましたので、こういう話は……。
 そういうWRIというところで、日本との間でかかわるようになりまして、私の役割は日本の主要な組織、主要な方たちに地球環境問題を理解していただく。そしてそれぞれの取り組み、対策をとっていただくように働きかけることと、WRIが出しています政策研究の報告書を日本語で出すというのが私の役割でした。
 最新版の「世界の資源と環境」というのを、「日経エコロジー」から今回出していただいています。今まで、12年間の間にかなり日本語版を出してきました。
 3つ目の役割は、日本の幾つかの機関とWRIと政策研究の共同研究を進めていく、そういう役割でした。
 ただ、これはかなり努力しましたが、なかなか難しい。日本の場合は大体財団法人というのがあり、あとは企業。企業でもない、政府でもない立場で、もう少しニュートラルで、政治的に自由で対等の立場で政策研究するところがないのです。日本に政策研究者というのがほとんどいませんので、非常に難しい。大体失敗に終わっています。いつか失敗の背景については書きたいと思っています。
 原因の主要因はお金の出し方です。欧米の場合は、ご存じのように、助成財団、皆さんご存じのフォードとかロックフェラー、マッカーサー、ファウンデーションとか、助成の基金、グランド・メーキング・ファウンデーションというのが何万団体もありまして、そのノンプロフィットセクターにアメリカのGDPの7から9%ぐらいとかなり大きな額が流れていて、しかも日本のように、大蔵省に管理されてない自由なお金です。そのノンプロフィットセクターにはハーバード大学とかエール大学という私立の学校もそのセクターに入っているようですし、教会も入っている。
 もちろん、民間と政府からもそこのセクターにお金が流れてきますが、決してそれが政府の管理の中にあるわけではないという。彼らの言い方をすれば、政府は、大統領でさえ、せいぜいアメリカの将来、世界の将来を2年の長期の視点でしか見れない。企業はまして3カ月か6カ月の視点しかものを見れない。もっと長期的な視点でものを見て、アメリカの将来のことを考えるのが、このノンプロフィットセクターなのだという自負を彼らは持っていて、ある意味では知的な人たちもそこに入ってくる。そこにきちっとお金がつく。そういうお金の流れが全く違うので、共同研究を進めるのは人材の面で難しかったというのがあります。
 それと、もう1つ、89年の7月にアルシュサミットがあって、地球規模の環境問題が初めてサミットのアジェンダに上がった。その9月に日本政府とUNEPが主催して、地球環境問題に関する東京会議を開いたのですが、それまで日本にはこの問題に関する専門家がいないということで、私どもの研究所が背景資料をつくりました。NGOのシンクタンクがつくったにもかかわらず、そのときの会議には日本のNGOとアジアのNGOは会議場に入れてもらえなかったという背景があります。
 私はそのときにWRIのスタッフになっていましたので、日本人ですけれども、アメリカの組織人として、会議場に入るべきかどうするかと悩みました。私、カナダで勉強していたときに、東洋人がアメリカナイズ、カナダナイズされると、バナナといわれて、外は黄色だけど、中は白いという皮肉ないわれ方をしたことがあって、私もそのときに、私はどっちの道を選ぶのかと思いました。私自身日本の社会の中で、10代のときから日本の主流ではない、日本の社会が無視している環境問題に取り組んでいこうと思って来ていましたので、ちゅうちょなく私は会場に入らない、アジアのNGOの人たちの方の側をとりました。所長が私に打ち合わせに来るのに、外務省の人たちがとどめている間を通り過ぎて来てくれるという経験もしました。
  そういうふうに入り口にあってチェックをしていた外務省のその当時の若い人が、その後に「黒坂さん、これから後は、どうもNPOとかNGOを無視することはできない。これからは地球環境問題に取り組むにはここの問題も無視できない。黒坂さん、このことはほとんど知られてないので、ちょっと調べてほしい」というので、アメリカ、カナダ、イギリス、オランダ、ベルギー、NGOをインタビューして回りました。そして、当時のグリーンピースでさえ、300万とか350万の会員で成り立っているとか、アメリカには、例えば500万ぐらいの会員制のNGOがあるとか、ドイツだって200万ぐらいの団体がいるとデータで、欧米のNGO、NPOの活動の全体像を初めて調べました。
 その報告書を外務省も各国の大使館やメディアの人にも送ったとかいっていました。所長と一緒に海部首相に会ったときにも、NGOというのは政府から見たらうるさい存在かもしれないけれども、環境問題をいつも前面に推し進めていくドライビング・フォースですから、役割を認めるようにとお願いしたり、それなりの各省庁のトップの方々にも、静かに、メディアの人がいないところで、そういうお願いをしました。
 地球環境問題に関して、89年以前には日本には専門家がほとんどいなかったのです。ところが、89年の9月の東京会議以後、温暖化の問題、熱帯林破壊の問題など、幾つか問題として認められると、次の年の春には主要な企業には地球環境室ができるほど日本は対応がすごく早かったと思います。
 それから、研究者、大学の先生方もすぐににわか専門家といったらいいのか、解釈というのでしょうか、すぐにその問題についていろいろ書き、話す方がふえてきました。
 そういう意味で、ここに書きましたイシューアプローチとインスティチューショナルなアプローチとありますけれども、日本での対応を見ていて、日本ではイシューアプローチの方は、いろいろな先生方、研究者が、かなり簡単に取り組むようだと学びました。今環境税の問題で、グッズとバズという言葉もご自分の言葉のように使っていらっしゃる先生方もいますが、私どもは93年ぐらいにそれに関する報告書を翻訳しています。
  ところが、インスティチューショナルアプローチという仕組みをどう変えていくかということに対しては、それが研究者の成果にならないのか、よくわかりませんけれども、そのようなアプローチをとる方は少ないので、私はインスティチューショナルアプローチの方を日本国内でやってみようと思いました。ただ、それは本来の私のWRIの仕事ではないのですけれども、私の日本人としての1つの役割と考えました。
  そのときに、切り口としてNGOとかNPOの進展を考えました。日本の場合には、政府でもない、企業でもない、もう少し自由な立場で、長期的な視点、グローバルな視点でものを見ていくようなセクターを日本に育てることも重要ではないかと考えました。そのためにどういうステップをとったらいいか、私なりに幾つか試行錯誤しようと考えたのが、4つの段階です。最初はとりあえずNGOとかNPOというセクターの役割の重要性を理解してもらおうということで、次は、政策形成過程にそういうセクターの人が入れるようにしていく。3番目は、独立した立場で政策研究能力を持つようにする。最後は政治的意思ですが。まだここまではいっていません。
  最初の日本の方々にNPO、NGOセクターを理解していただくということに関しては、先ほどいったように、調査をし、レポートを出し、いろんなところでお話をしているうちに、92年のリオサミットがありましたので、それで政府の方々も、実際のブラジルのリオに行ってみると、いろんな人たちがいるというので、かなり意識が変わってくれました。それに伴って、地球環境基金とか、経団連自然保護基金ができたりしまして、変わってきています。京都会議の気候フォーラムの仕組みをつくるのもお手伝いしました。もうあとは、ある程度まで行くと私はあまりかかわらないでも、大きく展開してきています。
  2番目の政策形成過程にかかわるということに関してですが、これが実際に現実の形としたのが、持続可能な開発のための日本評議会、JCSDというものです。その概要は、添付資料にございます。
 これは1996年にできたものです。93年ぐらいからいろいろ日本に働きかけたのですけれども、なかなか理解されなくて、1年ぐらいかけて、96年の6月に行政府、10省庁、産業界も10団体、地方自治体、非営利組織10団体という形でできました。こういう形で、初めてNPOの人たちが、政府の人、企業の人と対等な立場でテーブルにつくという仕組みをつくりました。
 4〜5年やってきますと、政府の方も、産業界の方も、初めは、「黒坂さん、これを非公開の会合にすると、いろいろ批判されるから、一見オープンにするけれども、変なNGOの人たちには来てほしくない」ということがありました。1年ぐらい続けていると、皆さんなれてきて、産業界の方も、政府の方も、自分の審議会や研究会にNGOの人たちを招くようになってきました。そういう意味では私の目標は大体達成してきております。
 そのような過程の中で、京都会議を日本で開いたことによって、1つの区切りができたと思いました。私どもの組織が、気候変動の問題とか、政府の多様性の問題を、それぞれ条約という形に持っていくように働きかけて、国際条約まで持ってきているわけです。
 私の組織の前オフィスは本当にホワイトハウスの並びにありまして、大統領がヘリコプターで着くのが窓から見えるわけです。そういう隣にいながら、米国政府の多様性条約もなかなか批准しない。最初のころはサインもしなかったのですから。気候変動も、ご存じのように、ウダウダしていました。クリントン政権になったときに期待したのですけれども、それほど前進しなくて。私は時々、世界中に影響を与えたけれども、隣に影響を与えてないといって、WRIの同僚の痛いところを突いてしまいました。
 そうすると、私の役割としては、日本は気候変動の問題も、産業界がいろいろ足を引っ張るという意見もあるかもしれないけれども、全体として見れば、日本としては前進している。
 そう見ていると、米国のシンクタンクは確かに政策研究のレポート、政策分析し、ある大きな視点で提案していくということに関しては非常に強い。つまりコンセプチュアライゼーションというのに対しては強い。テクノクラート的にデータを整理して、問題を抽出し、そしてそのための対応策をきちっと整理して提言するというテクニックというんですか、そのスキルは非常に高いけれども、それを実際の実施(インプリメンテーション)するときにはアメリカはストーンと弱くなる。
 それと、たまたまリオサミットまでの間、クリントン政権ができるまでは、ゴア副大統領、ブルース・バビット内務庁長官、みんな野党側でしたから、自由で、彼らと一緒にいろんなところに行ったりした方たちです。あれだけの人たちがいるのに、クリントン政権になっても余りできないというのはどういうことなのだろうかと思いました。リオサミットのときの事務局長のモリー・ストロング氏も、WRIの理事長になったこともありまして、彼の組織とも、彼とも直接お仕事もしましたけれども、どうもこれは本当に解決しているのか。本当に地球環境問題は解決してきているんだろうか。一方日本というのは、確かに世界の考え方を引っ張っていくところまではできないけれども、ある段階に達するときちんと実践していく。特に京都会議を境にして、私自身、日本の持っているいいところを生かしつつ、世界に貢献するのは何なんだろうかと考え始めました。
 一方で、グローバル化が進んで、途上国のアジアの人たちとか、いろんな人たちと話ししていくと、アメリカ的なアプローチに対してかなり批判をいろいろと聞くようになる。私自身がもし白人の女の人だったら、彼らもいわないんでしょうけれども、たまたま私日本人ですし、あまり大きくなくて、こういう顔をしているものですから、話しやすいのか、いろいろ本音をみんないってくるわけです。
 私はアメリカの仲間たちの話も聞くと同時に、途上国の人たちの話も両方聞く。そういうことで、今回のテロに対しても、私は複雑な気持ちを持っています。そんなに単純にアメリカの人たちのようにはなれないのです。
 88年にガス・スペス前所長が来日して、NGOの人たちと持った会合の場には3人しかNGOがいなかったのに、今は……。日本ではだれもが気候変動のこと、京都議定書を知るようになっている。私のある役割はもう終わったようだと1998年春ごろから思っていました。



くらしの未来像

 一方で、日本社会で、子供の問題とかいろんな問題が起こってきている。そして理論的にグローバル化が進めば進むほど、本当にローカル化がより必要になってくるのではないかと考えるようになりました。我々の足元を固めることの重要性の方が、また最先端のことになるのではないかと直観し、もう一度暮らしを見直してみようと思い至ったのです。
 国際条約たくさん出てきている。アジェンダ21でもいっぱい行動規範が出ている。日本でも法律がいろいろできている。でも、これは全部縦割り。私たちの毎日は横のつながりの中で生きている。上からじゃなくて、下から、このごろは生活者の視点といわれますけれども、そういう視点でもう一度見ていく必要があると。しかも、環境というと、あれもしちゃいけない、これもしちゃいけないと、何となくストイックになっていく。
 環境家計簿の話もそうですが、女性の人たちに聞くと、「家計簿なんて、普通でさえなかなかつけないのに、さらに環境家計簿なんて、とっても負担が重くなる。あれは大体霞が関の男の人で、奥さんに家計簿をつけさせているか、何もわからない人たちがつくったやつだね」という話になったりします。
 一方、環境問題をいろいろいう人は、江戸時代に戻るようなことを簡単におっしゃったりする。あれは女の人の視点でなくて、あのときにどのくらい女の人とか子供たちに負担が来ているのかという発想がなくて、無責任。しかも、人間って、やっばりつくるところに創造していく一種の喜びを見出すわけです。
 私、WRIに入る前に本を訳したときも、人間って、外に出ていく初動をどのくらいプラス、創造的に使うかというのが人間の未来を形づくるのではないかと、私30代後半、40代初めのときに思いましたので、単にこういう環境問題があるから、これをしちゃいけない、あれをしちゃいけないというのは生産的ではないし、楽しくないし、多分そういうのは広がらない。しかも、環境関係の100人ぐらいの会合に出て、六本木だ、原宿だに行きますと、全くそういうことに関係ない人たちがたくさんいる。私はそういう人たちにどう理解してもらうか。私のマーケットはそっちなんだ。もう環境に入ってきた人は私の対象ではないと思いまして、表参道や渋谷にいる人たちをどのように巻き込むことができるのか。
 ストイックな環境志向の方は確かに理想的な人かもしれない。だけど、100%できる人が10人いたって1000。でも、30%しかできないかもしれないけれども、それが10万、100万になったら、絶対量はすごい影響です。日本は日本の暮らしという、我々の感覚に合った言葉で、未来志向のあるアプローチで取り組むのはどうだろうかと考えた次第です。
 しかも、私の年代は、戦争直後に生まれて物がふえるに従って育ってきた。私の親は明治生まれです。そうすると、彼らの生きてきた世界と、戦後の物量の世界は、あの方たちの生活感覚とはもうヒューズが飛ぶくらい違うわけです。基本的に洋服の買い方、選び方など、衣食住含めて、あらゆることについて、親から学んだことはほとんど我々の生活に役に立たない。50歳ぐらいになっている人は、男性は企業戦士でしょうから、あまり考えないかもしれませんけれども、女性は働きながらなおかつ生活の方も、自分でやるので、考えなきゃいけない。そうすると、与えられたものを、テレビのコマーシャルに乗り、そしてやってみて失敗したといって反省しながら、試行錯誤してきている。
 どういう暮らし方が望ましいのか。環境も考えた上で、なおかつ私たちそれぞれが生き生きと楽しくし、なおかつそれぞれの基本的機能を持つようなものになるモデル像は何なのか、本当に何が必要なのかという視点から望ましい暮らし方を教科書でも家庭科でも教えない。私たちある年齢に達していろんなことを経験した者として、その辺を私たちなりに見直してみることが必要ではないかと考えたわけです。
 もう1つ、私はアメリカ、ヨーロッパ、アジアへも行って、日本の食べ物とか、洋服もそうですし、日本にいいものがまだまだ残っているし、それは十分誇ってもいいのではないか。そうすると、未来志向と同時に、いいものをし、なおかつ環境とか資源の視点も入れ、そういう形でもう一度どういうものがそういう条件を満たした暮らしのあり方のプロトタイプ、原型みたいなのかというのを整理する。東京の場合と地方の場合、北海道と九州ではその具体的な姿は違うでしょうし、多様なのがあっていいのでしょう。単に食と農と健康と何とか、家と自然ではなく、もう少し総合的に整理してもいいのではないか。「くらし未来像」を考えてみよう。未来志向のイメージをつくっておいて、みんなそれぞれで実践してみると、うまくいったとか、何が足りないとか、何が不便だとか、いろんなのが出てくる。そんな実験をしてみようというのが背景にあります。
 日本は自分が実践することでモデルになっていくことが世界への貢献じゃないかということ。日本の持っている一番いいところは、一般の人々が実際の生活の中で工夫してやっていることであり、そこに美しさもあって、なおかつ世界の人たちにも役に立つのではないか。というところにたどり着いたのです。
 去年の11月下旬に皆さんに呼びかけましたけれども、私自身もみんなもなかなか忙しくて、なかなか進みませんでしたが、時が熟してきましたので、来年1月26日にワークショップを予定しております。



地球規模で抱えている問題

 資料の中にいろんなデータがあります。日本がいかに地球規模の環境問題にかなり直接的に影響してきたかというのを、いろんな形のデータであらわしております。そういう意味で日本は暮らしを見直して、持続可能な日本社会に移行していくということは、国際的な視点からも1つの大きな貢献であるという視点をデータで皆様に紹介しました。
 最初のデータを見ていただきますと、ここに地球が2つ書いてありますけれども、本当は地球は1つです。地球の天然の資源から原材料をとって製品と商品をつくり、そして廃棄物を出したり、汚染物を出しながら動いている。これがOECD諸国、工業先進国がやっている工業化の過程です。今左側の方が少なくなり、右側の方が多くなってきている状態です。
 日本でいわれている循環型社会は、右側だけで循環しようとしている。この自然資源を採取する、このパイプを細くすることを努力はしますけれども、流れを変えるところまでは今の循環型社会、循環基本法でしたか、循環型社会何とか基本法は考えていないようです。もちろん世界レベルでもそうです。しかし今地球そのもの、我々を支えている生命維持能力さえかなり危なくなっている。しかも、これから人口がますますふえる。そういう中でここの生命維持能力を地球レベルで調べようというミレニアム・エコシステム・アセスメントという大きなプロジェクトが始まりました。そのことを書いているのが、この「世界の資源と環境2000−2001」(日経BP社)です。
 図1のこの流れを根本的に変えていくという発想までは、今のアメリカの経済の主流の方々は残念ながら考えていません。そういうこともあって、暮らしというのは、デマンドサイドで、限られた資源の中で何をつくり出すかということをもっと考えなきゃならない時代になってくるでしょうし、なおかつそのためにも、本当に我々が生きていくのに何が必要なのか、を整理するのが重要じゃないかというのがあって、暮らしというアプローチを考えたのです。単に日本がこれでいけそうだというだけではなくて、少し大きな視点を持っています。
 それから、日本が世界の中でどういう位置にあるかのデータは図3。日本が、他国の原材料に頼っているという基盤のあやうい産業構造の中で得てきているデータは表1、2。そうして得た所得を本当に有効に使っているのか。社会保障とか公共事業にいかに使われているか、そういうのを図4、5で示しています。
 表1、2には過去40年ほどの日本の輸入と輸出の品目の推移も書いています。日本はまだ今のところ、自動車が1980年から輸出の総トップになっています。
 アメリカのCO2の排出量が多い多いといいながらも、日本の輸出は車ですから、アメリカのCO2の排出量に日本が貢献している。こういう貿易、産業構造のあり方で我々日本が生きていけるのかどうか。そういう問題提起をしたいのです。一方、食糧の自給率は40%ぐらい、一方、稲の青刈りがある。こういうことがいいのでしょうかというのをいろいろデータで示しています。
 図6にありますように、日本の位置づけを見ると、この中ではこんなところです。これからバングラデッシュ、パキスタン、インドネシア、インド、中国が先ほどの日本のような産業構造になっていったときに、どこから資源をとってきて、どこに売るのかという問題があるということをわかりやすく紹介したのがこのデータです。
 今テレビでいろんな人たちが、アメリカの経済衰退と絡めて日本の問題をいろいろおっしゃっていますけれども、自分たちのよって立つところの基盤をきちっと考えた上で経済成長の問題をおっしゃっているのかどうか、私は本当に疑問に思います。



如何に暮らすか、如何に生きるか

 1月下旬のワークショップは、「如何に暮らすか、如何に生きるか」、「生活基盤と生活圏の未来のあり方を探る」というタイトルにしています。
 参加者は基本的に小売店の方というよりは問屋の方で、グループを持ったり、ネットワークを持ってたりしている方々に集まっていただいて議論しようと思っています。
 全体会合のときは、できるだけ今私たちが抱えている問題を幅広く議論してみよう。基本的に女性の側からは、音楽家の人、俳人の方、岩手に住んでいる畜産家の方、もう1人、都会で子育てをされている方を探そうと思っています。そして、男性側、いわゆる経済成長で日本をここまで持ってこられた方々に、どういう視点で彼らは一生懸命働いてこられたのかをお話ししていただこうと思っています。
 ここで参加者の共通の問題意識をつくることにして、衣食住に分かれて、それぞれの分科会をしようと思っています。皆様は都市経営ということですので、衣食住それぞれというよりも、生活圏のところにそれなりにお仕事としてかかわっていらっしゃる方が多いのではないかと思いまして、ご意見を伺いたいと思った次第です。
 生活圏というのは、どういう役割を持っているのか。家族、個人、その人たちがウイークデーとウイークエンド、その中で快適にするためにどういう役割を持って、どういうのが理想なのか。どういう施設。日本では昔はどのように共同体が存在していたのか。そのときは何が問題で、何が好ましかったのか。そして今何が残っていて、何が消えてしまったのか。それによって今どのような問題が起こっているのか。これからもし新たにつくり、再生していくのであれば、どういう生活圏にしていくのがいいのかということを少し議論したいと思っているのです。余りにも幅が広いものですから、ここでお話しする機会が与えられているのであれば、皆様がそれぞれ実際の現場でいろんな方たちにぶつかりながら、いろんな要求を実現するために苦労されているお話を聞きながら、議論の持っていき方を考えてみたいと思っております。



なぜ、今、暮らしなのか

 このような日本の状況を視野に入れて、もう一度足元から見直して、未来の日本を考える必要があるのではないかというのが「くらしの未来像を考える」活動の動機です。
 理論的に説明すれば、まず、大量生産型の工業社会から日本が移行するために、需要サイドから考え直すことが理由として挙げられます。
 次は、現在の法律や条例は、縦割り行政と右肩上がりの経済の中でつくられたものであり、横のつながりの中でトータルに生きる日常生活の視点が欠けている。それらを変えていくことができそうです。
 3番目は、日本の生活の知恵は、世界的にも誇り得るものが多い。それを再発見し、新しい感覚で再生していくことができる。それは多様な地方文化の再生であり、多様な生活の創造であり、地方の自然を生かす道ではないかと思います。
 最後に、日本が21世紀型の新しい「暮らし方」を創造し実践することができれば、大きな国際貢献になるだろうと考えるからです。
 このような理論的な資料は、来年1月下旬に予定しているワークショップに向けて、今作成中です。



フリーディスカッション

谷口(司会)
 どうもありがとうございました。
 最後に黒坂さんからお話しいただいたように、結論があってきょうこちらに臨まれているというスタンスではなくて、一緒に「くらしの未来像」を考えてみませんかということだと私は理解をしました。ただ、全く白紙じゃなくて、そのためにキーワードが幾つか出されてきたと思います。そんなことを考えながら、「くらしの未来像」を考えるという点について、ご意見があれば自由に出していただきたい。あるいは、冒頭に質問があればとおっしゃったこともあるので、その2つ合わせて、これから時間をとります。

大熊(大熊喜昌都市計画事務所)
 
「くらしの未来像」ということでお話を聞いていまして、どうしても合点がいかないところがありますので、それだけちょっとお聞きしたいと思います。
 未来のことを考えて、今一番不安に思っているのは、将来我々が何を糧にして食べていけるのかということで、衣食住それぞれのカテゴリーの中で、何を食べるとか何を着るとかどういう住まいに住むということはそれほど真剣に考えないんじゃないか。というのは、生活基盤の中で、今おっしゃった衣食住が必ずしも基盤的なものだとはこれからはいえないんじゃないか。食べること、着ること、住むことだけが。1つであるかもわらないけれども、ほかにも要素があるということです。

黒坂
 最初の食べることにという意味は、何で食べていくかということ、何で生きていくかという意味は、それはどういう意味でしょうか。日本社会として、それとも実際として。

  大熊
 そうじゃなくて、生活の中に、職業とか、生産とか、そういうものが未来的にはもう少し混然一体とした形であるんじゃないかと思っているわけです。生活だけが別にあって、肝心な、生きていくために何をやっていくのかというのが論じられない。ただ、消費する部分の議論だけでは何ら新しいものは出てこないんじゃないか。

  黒坂
 どういう職業で食べていくか。それは個人のレベル、それとも日本のレベル、どういう……。

大熊
 ここで論じられているのは個人ですから、個人のレベルです。だから、どういう住まいでなければいけないと同時に、どういう仕事をして生活していくのかということも同次元で論じられていいんじゃないかということ。
 それと、もう1つつけ加えると、教育の問題がなぜ入らないのか。それは生活圏というか、「邑」という言葉を使っていますけれども、こっちの方で入ってくるのかなという気もするんですが、その辺ちょっと、暮らしの全体像というのが見えてこないという気がしたんです。これは誤解かもわからないんですけれども。

黒坂
 今おっしゃっている教育に関していうと、この生活圏のところでと思っているのです。いろんな分野を含めていきますと、また政府でやっているような広まりになってしまうので、とりあえず、1つ資源とか環境という視点で枠をつくっておいて、物質の流れの枠の中で考える。どういう職業を持とうと、食べて着てやすむ、これはみんなに共通のものですね。
 それは次の段階になるかもしれません。今回は一番の基本のところを、だれもそういうことを総合的に整理してないので、とりあえず議論してみよう。その次の段階でその話になるかもしれませんし、今の職業ということにおいて、これから未来どうなるか。でも、それは日本がどうやって生きていくのかにかかっています。今までのような産業構造のあり方で、日本はこれから10年、20年、30年いけるとは、確実にないわけですから、職業というのは、今の社会を前提にしておっしゃっているので、もっと根本のところから整理したいというのがあるのです。

大熊
 前提が崩れるだろうから、そういうことまで考えないといけないのじゃないかという話です。今の職業を前提にして考えるじゃなくて、例えばSOHOとか、ライフスタイルと物すごく関係してくると思うのですけれども、自宅で職業するようになれば、生活の中にもろに入ってくる話ですね。それから、それに対して交通の関係も出てくるでしょうし、もう少し社会的な大きなフレームの中での、産業構造の話にもありますけれども、未来的にはそういう部分がかなり多くなってくるのじゃないかと考えたときに、暮らしの中にそういう部分も含めて、ライフスタイルということで考えると、当然入ってくると思います。
 先ほど、自動車を持つことがどうのこうのという話もありましたけれども、これもやっぱり生産というか、何で食っていくかというかかわりの中で出てくる話で、それ抜きにしてグラウンドの話とか、住まいが非常に貧しくて自動車がどうのこうのという話はなかなかできない。問題提起ですから。

黒坂
 問題提起として、宿題とさせていただきます。

松原(潟Gフエム・ソリューション)
 私はもちろん東京に毎日勤務しているんですが、住まいは茨城県の竜ヶ崎です。
 今の大熊さんの話じゃなくて、先生のきょうのお話は、私はほとんど、99.99理解できるのです。最初から繰り返し繰り返しいっておられるので、最初の15分で全部わかった感じがするのです。ところが、私は個人的にそう思うのですが、ここにおられる聴衆の50%以上の人がわからないのです。それはなぜかというと、今のテーマになるのですが、要するにここにいる人は、生産者側というか、供給側の立場でしかものを考えてない人なのです。「生活者」という言葉を私は時々いろんなところでいうのですが、「生活者」というときには、やりがいを持って働くという概念が1つある。金を稼ぐ概念が1つある。もう1つは、消費という概念がある。もう1つは、文化をするみたいな概念がある。3つぐらい生活者がトータルであるのじゃないのということを私はいうときがあるのです。
 いろんな議論をするときに、稼ぐ、仕事をするという部分でいきますと、生産者の立場でしかものを考えないのです。消費者の立場でいうと、消費者のことしか考えないのです。文化をするという感じのところはほとんどないのです。なぜなら、私も朝5時半に起きて、会社人間でこっちに出てきて、夜帰ったら11時ごろになるのです。ウィークデーは毎日。それで、どういうことになるかというと、文化をするみたいな話はないです。トータルでそれをやるという感じのことをいっておられるんだと僕は理解した。
 実は、私は、地域で土日、人を集めてこういう議論をやっているのです。したがって、会社側の議論と地域の議論とかみ合わないのです。地域へ帰っても、なおかつかみ合わないのです。要するにコミュニケーションの問題だと思うのです。
 先生の思いはものすごくよくわかるのです。コミュニケーションをうまく仕掛けないと、価値観の問題だから、例えば、今経済学者がテレビに出てものをいっているのは、全部成長路線の中の、景気を活性化することしか考えてませんから。環境の問題というのは二の次です。金を稼ぐということしか考えてないのです。金を稼いだ話は全部金融ギャンブルにつながっている。僕はそう思っているのです。
 実際の生活というのはボランティア的な価値観がないとだめなのです。自分が一生懸命働いていることが、世の中に貢献しているなという実感。これはお金じゃないのです。その実感が日本人の中に足りなさ過ぎる。それは先ほどいわれたように、囲まれた牢屋の中で育てられてきて、そういう実感を持たずに来ているから、理解できないのです。そういうものを理解するような場づくり。衣食住といわれるのですけれども、衣食住の前に価値観を共有する場をつくらないとだめなんです。
 私は何をしようとしているかというと、自分の家のほかに土地を購入しまして、そこに自分のコミュニケーションハウスを今度つくるのです。地域の人の集まりとか、コミュニティ・ビジネスをそこでやろうと思っているのです。コミュニティ・ビジネスの話は、フュージョン長池の富永さんの話がこの前ありましたけれども、ああいうレベルの話が日本全国でフツフツとわいてこないと、会社人間は今の話はほとんど理解できない。そういうふうに私は思います。
 したがって、その辺のところをこういうフォーラムをおやりになるときに、何か誘導できる形をとられた方がいいんじゃないかという提案なんです。この意見をうまくまとめられる人は、私は内橋克人さんじゃないかと思うのです。あの人はこの話をうまくまとめられる人だと思います。ぜひ呼んでください。
 そういうふうにして輪を広げていただけると、話が見えるようになってくるのじゃないか、提案でございます。

黒坂
 ありがとうございます。
 この話がわからない方でも関心があるという方は、黄色い紙に入れてください。

末(特別史跡・特別名勝小石川後楽園庭園保存会)
 地元後楽に住んでおりまして、きょうの話は大変ありがたい話で、年齢は、ここに70年住んでいますから、おわかりだと思います。
 何をいいたいかといいますと、私の友達あたり、60過ぎてからだんだん定年になり、重役をやっていたやつも、みんな完全にリタイアしている。知恵が余っている。体もまだ余ってます。そういう人たち、お金はたくさん要らないのだけど、何か働いてみたいなという人が相当いるということをまずご提案申し上げます。
 それから、私は実際ボランティアとして、ここにある一番重要な、特別名勝の小石川後楽園を守る運動をやっている。これ、単純な話で、公園の南に何でビルが建っちゃうんだろう。これが第1の発想でした。70年も住みますと、郷土ですから、郷土で何か守っていくものはないかといったら、皆さん、一番大事なものを忘れているんです。東京都でも勝手に建てさせてしまうということで、森ビルができちゃって、私は10メートル下げさせ、公園の遊歩道をつくるとか、いろいろやりました。また、その次に、特殊法人の住宅金融公庫が隣の土地を確保しようとしていた。これは例の特殊法人の関係でできなくなりました。
 そこからしか、小石川後楽園に冬場日が差すところはないのです。11時半になれば、冬至の時期でも日が差すけれども、その間の日がない。何でこういうことを政府が、行政がやってしまうのか。それで、私は市民運動を起こしました。今回は東京都の副知事まで会ってくださいまして、何とかしますというお約束はできているのです。
 私は、そのことを考えますと、やっぱりNPOかなと。NPOを我々がつくって、それを企業の方々、さらに、極端にいえば都庁のお考えですけれども、我々高齢者が、子孫のために、今65歳以上は無料の入場券ですけれども、これを例えば200円もいただいて、自分のためじゃなくて、将来文化財を残していくという形の中でいただく。高齢者が喜んで子孫のためにお金を払う、こういう形をとりたい。それには来年あたり、江戸幕府開府400年ですから、庭園サミットをつくろうかとか、いろんな発想が次々とわくのです。
 それに対して、観光資源という形を育てれば、そのための労働力、働く場ができるのじゃないか。高齢者になって1週間バッチリ働くという人はいません。1日でも2日でも世の中のために尽くしている、給料なんかろくになくてもいい、こういう人は今いっぱいいると思うのです。その辺の視点で、生活というか、日本人というものを考え直していただかないと、今こんなような状態になっても、戦後私どもが働いてきて、今日の文化を築いたという自負を持っていますので、その辺をうまく育てる形でお考えいただけると、この運動はかなり伸びるのじゃないか。先生のお話は非常にいいお話でした。ありがとうございました。 

黒坂
 いえ、こちらこそありがとうございました。
 私、通産省の審議会やいろんな審議会に出ますけれども、私はいつもちょっとラジカルなことをいう役割で、そうすると、大学の先生方も、建設省のときもそうでしたけれども、私よりももうちょっと先のことをいうようになるというぐあいで動かしてきた経験があります。
 「やっぱり、黒坂さん、僕らは余りにも、男の人は正面からそういうことをいえない。だから、黒坂さん、女の人だから、そういうの平気でいえるだろう。男の人はちょっと恥ずかしくていえない」というのがありました。私の役割は、そういう審議会でも、そもそも論ですけれども、男の方たちはかみしもを着て、それなりの役割の中で言葉を発しなきゃいけないようですけれども、私はたまたまそういうことのないところで生きてきましたので、特に今のお話を伺っていて、私にできることはこういう問題提起をして、ちょっと恥ずかしいと男の人は思われるかも知れませんが、私がぶつけることによって皆様が持っていらっしゃるのを引き出していただければ、私の役割は果たせるのかなと思っています。
 皆さんが働いていらっしゃるときはなかなかそういう発想にはまいりませんでしたでしょう。元気な30、40、50のときは。
 もうそろそろ時間ですけれども、今のように、50%も30%もわからなくても関心あるという方はお名前を書いて、どういうことに関心があるということを書いていただければ、枠のある限りお招きしたいと思いますので、よろしくお願いします。
 もし、きょうはそういう意味では問題提起でしたけれども、どういう結果になっていくのか。それをちゃんと知りたいという方は、谷口さんの方にお話しいただければ、2年か3年か4年後ぐらいに、こちらで報告するような機会を谷口さんに持っていただこうと思います。

谷口
 ちょうど時間になりましたので、きょうのフォーラムはこれで終わらせていただきます。きょうは黒坂三和子さんにおいでいただきまして、「環境の世紀−くらしの未来像を考える」というテーマでお話しいただきました。どうもありがとうございました。(拍手)


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