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第168回都市経営フォーラム

地域づくりと森林政策

講師:森 巖夫 氏
明海大学不動産学部教授


日付:2001年12月19日(水)
場所:後楽国際ビルディング大ホール

 

1.いま、地域づくりは花盛り−伸びる地域とダメな地域−

2.地域づくりの主要な類型

3.決め手としての「人づくり」

4.地域リーダーの要件−4つの「ち」と4つの「き」−

5.当面する森林問題の主要局面−国民の森林観の変化−

6.森林・林業の現状−荒れる森林、衰える林業−

7.森林・林業基本政策の転換−新基本法の制定(01年)−

8.新林政への期待と不安

フリーディスカッション



 森巖夫でございます。ただいまは過分なご紹介をいただきまして恐縮、というよりはむしろ赤面の至りでございます。
 この都市経営フォーラムは既に167回を重ねておられるようでございまして、その間、例えば伊藤滋先生の著書を初めとしてフォーラムの記録などを拝見いたしますと、実に格調の高い、また密度の濃い研究というか話し合いが行われているようでございます。
 私、お引き受けしてしまってから、「これはしまった」と思ったんですが、私の話はそういった格調の高い話、というよりはむしろ泥臭い話で、しかもくだらないおしゃべりになるかもしれませんが、お引き受けしてしまった以上、1時間半ほどおしゃべりをさせていただきたいと思っております。おつき合いいただきたいと思います。



1.いま、地域づくりは花盛り−伸びる地域とダメな地域−

 ところで、私は仕事柄比較的多くの地域に出かける機会に恵まれております。というより、年がら年じゅう全国各地を飛び回っているといった方がいいかもしれません。今、全国どんなところに行っても、つまり、山の中の村でも、平場の農村でも、大きな都会でも小さな町でも、漁村、離島、どんなところに行っても、むらおこしとかまちづくり、いわゆる地域づくりの話が1つや2つ出てこないことはないといっていいくらいであります。まさに地域づくりは今花盛りの感がいたします。
 どうしてこんなに地域づくりが今盛んになっているのか。むろんいろんな背景なり理由、あるいは特殊な事情がありますけれども、全国をならしてみれば、共通することとして、もうかれこれ12〜13年になりますが、昭和63年度と平成元年度、2カ年にわたって、当時の総理の竹下さんが、全国ほとんどすべての市町村に、大きいところも小さいところも関係なしに、一律に1億円ずつ配ったあの「ふるさと創生資金」というのがあずかって力があったといっていいのではないかと思います。まだご記憶におありかと思います。あのふるさと創生資金は、これまでの国の予算や都道府県の予算とはいささか性格が違いまして、好き勝手に使っていい。何に使おうが自由だ。正式な予算の題名も、「みずから考え、みずから行う地域づくりの交付金」。大体中央官庁がこんな仮名まじりの予算名とか制度名をつけるということはあまりないことでありました。
 悪口をいう必要はありませんけれども、官庁のネーミングは、漢字の書き取りではあるまいにと思うほど、漢字だけダラダラ続いておりまして、そして課長がかわるごとに上と下を逆さにしてみたり、推進を促進と直したり、助成を支援といったり、いろいろ手心を加えて漢字ばかり並べているのが多い。戒名なら長いほどありがたいといいますが、国の制度や予算名はとてもそんなわけじゃない。これに対して、「みずから考え、みずから行う地域づくり」という仮名まじりの制度をつくったあたりにもいささか奇をてらっているところがうかがわれます。
 ともかくそういう予算を全国の市町村がもらって、確かに一面で喜びはしましたけれども、反面戸惑ったことも事実であります。喜んだというのは、1億円を大きいと見るか、小さいと見るか、一様ではありません。今申しましたように、県庁所在地で人口数十万で、予算額が4ケタ億円のところも1億円ですし、人口1000人未満で、年間予算額が30〜40万のところも1億円ですから、同じ1億円といっても、その重みは違いはします。1億円といえばそれなりにまとまったお金であります。それが自由に使えるわけですから、うれしいに違いありません。当時よく「お年玉予算」なんていう言葉も使われました。1億円のお年玉ですから、決して小さいわけではなかった。
 反面戸惑ったというのは、予算が予算であるだけに住民の関心も高いですし、マスコミも注目しておる。上手な使い道ができればそれにこしたことはないけれども、これまで市町村はみずから政策をつくって、そして何かをやるなんて経験もありませんから、なかなか妙案が出てこない。下手な使い方をすると、住民にたたかれるし、マスコミに冷やかされる。どうもあそこの首長は能がないとか、役場の連中は遊んでばかりいるとか、議会議員はよく視察に行っているけれども、何を見ているやらなんてたたかれますから、多くの市町村はそこで戸惑ったわけです。
 対応したやり方もさまざまですが、まず1つは、住民のアンケートをとる。今ならアンケートなんてごく当たり前のことですが、わずか12〜13年前、アンケトートをとるなんてことすらなれておらなかった。そしてまた、アイデアを募集する。単なるアイデア募集じゃなくて、懸賞金つきのアイデア募集がかなりやられました。
 さらに進んだというか、違ったやり方としては、このふるさと創生1億円の使い道を考える特別の委員会がつくられ、そこに任せられる。責任逃れといえなくもない。行政当局がみずから決めて一向に差し支えない予算ではあったんですが、ふるさと何とか委員会というのに任せる。しかも、そういうふるさと委員会に登用されたというか、メンバーに出てきた人は、地域によってはいつも同じようながん首が顔をそろえるところもあります。農協の組合長とか、森林組合長、商工会長、PTA会長、婦人会長とか、ボスが名を連ねているのも決して少なくありませんでしたけれども、それとは違うところもある。このころから新しい動きが出てきます。
 ちょっと一風変わった人、へそ曲がりというか、一匹オオカミというか、Iターン者、Uターン者、女性、若者などが登用され、そこに任される。これまでの地域の社会秩序の中ではとても表に出てくることができなかったような人間に任される。
 これは後の点とも関連しますので、いっておきたいと思います。今、地域を動かしているのは、私は前からそういう言葉を使っておりましたけれども、若者、よそ者、ばか者といわれる人たちだと思う。最近随分とはやっているようであります。
 若者というのは決して年齢だけをいっているわけじゃない。私は「気分年齢」という言い方をしております。「年を重ねただけで人は老いない」という有名なサムエル・ウルマンの詩がありますね。あれでいうような青春、そういう意味の若者。
 そして、よそ者。これまた差別用語じゃなくて、外部の情報に強い人。Iターン者、Uターン者。外部の情報をちゃんとつかめ、そしてみずからの地域の特徴を見ることのできる、そういう能力を持った人たち。
 そして、ばか者というのは偏差値の話じゃなくて、よく、「何とかばか」といいますね。何か1つのことについてトコトンこだわって、そのベテランになる。こだわるという言葉も従来日本語としては必ずしもいい意味で使わなかったけれども、言葉は生き物ですから、意味が変わるのは当然ですが、むしろ最近はいい意味で、こだわり人間ということがいわれる。そこには女性も当然入ります。そういう人たちが登用される。
 こうなってくると、ちょっと世の中は変わってきました。初めて、公の代表的な地位についたり、あるいは先ほどいったように、懸賞金つきのアイデアを考えるようになってくると、ご存じのように、どこの市町村も地方自治法2条に基づく地域の総合計画、マスタープランというのを持っております。つくらなければいけないことになっております。従来そんなものをあまり見たことがなかったんですが、しかし、開いてみると、中には随分ひどいものもあります。きょうは名簿を拝見しますと、いろんなコンサルタントをやっている方もいらっしゃるようですが、私の手元には全国のかなり数多くの市町村の総合計画が送られてきます。中を見ると、有名なコンサルタント会社がやっている報告書なのに、南と北では多少数字が違ったり、あるいは表現の仕方が違ったりしていますけれども、基本的にはほとんど同じというワンパターンの計画をつくって、それでウン百万とか、あるいはもっと大きい金を取っているような例もある。本当にひどいのがあって、いつか何かに書いてやろうかなと思うほどひどい。皆さんのところがそうだというわけじゃありません。
 地域の人たちは、コンサルタントというのは、根気よく、サルまねして、タンと儲ける人たちだ、こんな悪口すらいっている。
 そういう計画であっても、開いてみると、それなりにいろんなことがわかる。道路の計画はどうなっているとか、橋はどうなる、学校はどうだ、やれ寝たきり老人はどうだ、町の財政力はどうだ。初めて地域のことを地域の住民が知る、あるいは関心を持つ、そういうきっかけが与えられたという意味で、私はあのふるさと創生資金はそれなりの意味があったのではないかと思っております。
 一般にばらまき予算だったとか、人気取り政策だったとか、悪口の方が多いんですが、確かにそういったむだ遣いがないわけじゃないけれども、今いわれている地方分権の1つのはしりであったといっていいのではないかとすら思います。
 今よく、地方分権といっても、権限だけでは何ともならない。お金も人間も、つまり、財源、人間、権限、「三ゲン一体」ということをよく地方の市町村長さんたちはいいます。
 考えてみれば、あのふるさと創生1億円というのは、わずか1億円という限度の中ではありましたけれども、それは自分たちが好きなように自分たちで決めろというわけですから、言葉の正しい意味での地方分権の1つのきっかけであったと評価してもいいのではないかとすら思います。
 ともかくあれがきっかけになって、いろんなところでいろんな形での地域づくりの運動が始まりました。
 その結果、地域づくりにも競争があります。今地域づくりは競争の時代とか、戦国時代ともいわれます。まさにいろんな地域づくりがそれぞれ競い合っておるのが現状といっていいのではないでしょうか。



2.地域づくりの主要な類型

 それでは、今どういう形の地域づくりが展開されているのかといえば、大きくいって4つぐらいのパターンが挙げられのではないかと思います。その1つは、主として中山間地域あるいは農村、漁村を念頭に置きながら申し上げておりますが、地域の産業を振興して、就労の場をつくって、所得を高める。つまり、経済的な豊かさを追求する運動であります。
 かつて産業振興といえば、すぐ企業誘致が決まり切った方向でありました。しかし、右肩上がりの経済が終わった今日、企業誘致なんていっても、それは望むべくして実現し得ないし、しかもこれまで企業誘致をいうとき、地域には安い賃金の労働力がある、あるいは土地を安く提供する、こういうのが呼び水だったわけですが、ご存じのように、安い賃金などは、農山村地域にはもう既にありませんし、地域の所得を高めようとするのに、安い賃金の労働力があるから企業に来てくださいということ自体論理矛盾です。そんなことはともかくとして、安い賃金を求めて、生産拠点の海外シフトが進んでいる。ですから、せっかく進出した企業でも、最近ではリストラしたり、賃金の不払いであったり、工場閉鎖という事例が少なくなく目につきます。安い賃金を求めて韓国とか台湾、中国、アジア各国に進出しているわけです。
 よく冷やかしのように、秋葉原というのはアジアの製品が集まっているからアジアバラだなんていわれておる。こういう状況ですから、企業誘致といっても、実情からいって、決して可能性があるとはいえない。
 むしろ大事なのは、地域の資源を生かすことだ。地域資源利活用型の産業振興に目が向いてきている。いうまでもないことですが、資源というのは人間とのかかわりで出てくる概念であります。それを利用しようとしない限り、あるいは保全しようとしない限り、資源でもない。単なる物であります。海の中を泳いでいる魚は単なる魚であって、それをとろうとしたとき初めて水産資源と呼ばれるわけです。
 ですから、そういう資源の見直し。よく農山村地域では「宝探し」という言葉でいっておりますけれども、そういう宝探しが始まってくる。私は、農山漁村には限りない資源があるという言い方をしております。やや情緒的ですけれども、天の幸、山の幸,野の幸、川の幸、地下の幸、海の幸、そういった物的な要素ばかりじゃなくて、歴史、文化、人物、そういうものも地域の宝であります。それを利用しよう。
 具体的な例をお話しする時間はありませんけれども、例えば、天の幸の1つの例として、雪の問題を挙げたいと思います。名簿を見ますと、きょうは国土交通省の方もおいでのようですが、かつての国土庁時代でも、建設省でもそうですが、雪は邪魔物という見方が基本にあったでしょう。だから、「克雪対策」と呼んで、雪を克服するといっているわけです。それは今はやりの言葉でいえば、自然に優しい考え方ではない。人間のおごり高ぶった考え方であります。やはり雪は天からの贈り物。これはいうまでもなく、中谷宇吉郎先生の「天からの手紙」をもじっているわけです。雪は天からの贈り物という掛け声で、全国で最初に成功した事例は、新潟県安塚町。今まちづくりの話をすると、必ずといっていいほど出てくる有名な町ですが、安塚町であったといっていいのではないかと思います。
 具体的に何をやったかというと、後楽園球場がなくなって、あのドームができる直前に、空き地になっているところに、安塚町から11トン車のダンプ450台の雪を運んできて、そしてあそこにスロープをつくって、アクロバットスキーをやったり、雪の上で綱引きをやらせたり、雪合戦をやらせて、入場料2000円もらって、3日間で延べ4万5000人のお客を集めた。イベントグランプリ大賞をもらった大イベントをやって成功したわけです。私は、今の町長、まだ彼が総務課の係長のころからのつき合いで、私も一緒になってやりました。
 4万5000人掛ける2000円の売り上げがあった。その話をするときりがありませんけれども、やはり雪は天からの贈り物だということを町の人たちが初めて実感する。それがきっかけになって安塚町は雪だるま財団という財団法人を第三セクターでつくりました。町長が理事長で、私は頼まれて副理事長をやっています。前に長銀におられた竹内宏さんにも理事になってもらって、雪で商売をやっています。クリスマス用の雪を売るとか、真夏のお盆のときに雪祭りをやるとかいうことで、雪はやはり天からの資源である。
 山の生かし方については、森林とのかかわりで後で少し申し上げたいと思います。例えば、この水も今大変な売れ筋になっております。水売りが始まったのは、ふるさと創生よりもうちょっ早いですけれども、山形県西川町という月山のふもとの町が、サントリーのミネラルウォーターや何かを除けば、地方が自分の地域の宝として自然の水を売り始めた最初であったといっていいでしょう。
 あの西川町もまちづくりで有名な町です。福祉、保健、医療、そういう面でも有名ですが、それだけではなくて、地域資源の生かし方、ふるさと産物の東京、首都圏への宅配方式を最初に開発した町でもあります。
 地域の資源を見直す、そういう運動が最近の産業振興の目立った特徴であります。もっともその場合、農山村地域にある資源の賦存量というのは絶対量としては極めて少ない。限定的であります。ですから、1つの資源だけで工業生産のように規模拡大ということは限界がありますから、成功している市町村が気がついているのは、それの大規模化じゃなくて、いろんな品目、作物の組み合わせです。
 最近お聞きになっている方もいらっしゃるでしょうが、「6次産業」という言葉がはやっております。6次産業というのは1次産業、2次産業、3次産業、1足す2足す3という人と、1掛ける2掛ける3という人がおりますが、単なる1次産業の農業だけを振興するのではなくて、加工、さらに文化と結びつける。これも1つちょっと例を挙げましょう。
 岩手県の例ですが、水田跡に集団で転作、そこにそばをつくりました。今そばが大変なブームですが、単にそばに転作したということだけじゃなくて、そばをオーナー制にしようというわけで、仙台の都市の人たちに呼びかけて、そば畑のオーナーになってもらいました。最初のうちは健康ブームもあるし、自分のそば畑のそばを打って食べるという楽しみもあったかもしれませんが、あるとき、そのオーナーの奥さんが、自分のそば畑を見に行く。初めてそば畑を見る。皆さんご存じだと思いますが、真っ白でとてもきれいです。彼女は仲間を誘って、そば畑で花見をしよう。桜の花見はどこでもやりますが、そば畑の花見。しかも、中秋の明月を選んでやろう。この辺がなかなかおもしろいところです。中秋の明月でそばの花見をやると、おのずと一句ができ、あるいは一首が出てくる。そしてフラッシュをたかないで写真コンテストをやろうということまで運動が広まっていく。まさに文化活動であります。
 こういうものを私たちは「6次産業化」と呼んでいます。単なる単品としての規模拡大ではなくて、複合的な産業おこしが必要です。
 これも余計なことになりますが、地域特産物に目をつけ始めたのは大分県が最初であります。大分県の平松知事の一村一品運動という掛け声が、全国に広がり、日本のみならずEUの国々にも、あるいは中国でも高く評価されているようです。あの中心地は大分県の大山町というところです。農山村の指導者たちは、「大山参り」と私いっていますが、大山町に行ってみる。大山町でなくともいいんですが、やっているものはつけものだとか、エノキダケとか、クッキー、どこでもできるものです。今地域特産品とよくいうけれども、私は特産物のサンは、1、2、3の3ではないかと悪口をいっている。どこへ行っても、出てくるのは手づくりみそとか、何とかそばとか、何とかワインとか、決まりきったものしか出てこない。
 大分県の大山町に行ってみて、クッキーにしろ、キノコにしろ、つけものにしろ、そんなものならうちでもできるというわけで、みんなまねするわけです。もともとマーケットが狭いから特産物であったのに、みんな同じものをつくるから、たちまち過剰生産になってうまくいかないというのが一般的です。
 ですから、私は大分の一村一品運動は、1つの村、1つの品と書くけれども、ほかにある一村一品というのは1つ損して1つ貧しくなる「1損1貧運動」と冷やかしております。しかし、そういうことにも気がつき始めて、今さまざまな形での産物開発が行われていまして、それが地域の就業の場の拡大、所得の増大につながっている。
 2つ目の地域づくりの運動は、1番目は経済的な豊かさの追求といえば、2番目は住みよさの追求であります。これまで住みよい条件といえば、すぐ道路をつけるとか、やれ橋をかけるとか、やれ学校を整備するとか、病院がどうだとかいうハードの話が先行しました。確かに、まだハードで必要なものがないわけじゃないけれども、ごくわずかな例外を除けば、基本的にいえば、どんな農山村でも、どんな民家にも、ちゃんと車の通る道がついておるし、農山村には、どこかの偉い知事さんがいっているようですが、人の数より猿の数の方が多いところにナイターつきのグラウンドがある、けしからんといわれるほど、整備されている。
 あえて、私は、ハードの面で欠けているのは何かといえば、トイレの水洗化ではないかと思います。トイレの水洗化というと、すぐ環境問題と置きかえられるんですが、それも確かにある。農山村地域は上流地域ですから、きれいな水を下流に流すということは1つの責任でもありますが、それだけはないです。グリーンツーリズムの推進、あるいは配偶者確保対策などでも、トイレの水洗化は不可欠な条件だといっていい。
 それを除けば、ハードの面はほぼ終わっている。むしろ欠けているのは、ちょっと気取った言い方ですが、「ハードではなくてハートだ」という言い方をしております。ソフトといった方がいいのかもしれません。
 かつての農山漁村には醇風美俗、つまり相互の助け合いがありました。その助け合いがうるさ過ぎるとか、あるいは近代社会にとっては個の自立をはばんでいるなどということで批判されていますが、戦後50年の民主化教育の中で、昔のような封建的な縛りつけの社会秩序は今基本的にはないといっていいと思う。むしろ、ハードの面が整備されるに従って、地域の中の人々の結びつき、コミュニティーが解体している、緩んでいるところに農山村のよさがなくなってきているのではないかということに気がついた多くの農山村地域では、コミュニティーの再生ということをいっている。住みよいということはこういうことです。
 これも皆さん方ご専門家の方ですから、つけ加える必要ありませんが、あの阪神・淡路大震災の場合でも、北淡町と神戸の比較の中で、コミュニティーの重要性ということが、社会学関係の方から指摘されている。私も同感であります。
 と同時に、もう1つ、農山村を美しくしなければいけない。これもやっぱり住みよい条件だ。美しい地域づくり。かつての全国総合開発計画、今は5回目です。4回目までは美しいなんていう言葉は使われませんでした。私自身も、三全総から少しばかり関係しましたけれども、私は農林派として、農山村の緑の空間ということを強調したつもりですが、それは大体あざけり笑われておった。国土計画というのはもっとハードなものだ。国土軸をどうするかとか、そういう話に固まっていって、君がいうような「めめっちい」、これは差別用語だと思いますが、そんな情緒的なのは国土計画になじまないと、冷やかされておりました。
 5回目の全国総合開発計画は、ご存じのように、サブタイトルが2つあって、1つが「地域の自立」、もう1つが「美しい国土の創造」です。美しい国土の観点からむらづくりでも、アメニティーということが重視されるようになってきているのが最近の特徴でしょう。具体的な例を挙げる時間がありませんので、省略させていただきます。
 3つ目は、イベントによる地域おこしであります。このイベントは本当に盛んです。今1年間に、恐らく3万件ぐらいのイベントがあるのではないかとすら思う。1日1000件くらいのいろんな形のイベントがあるのではないかと自分の経験から思います。
 私自身も、時々イベントに引き出されます。コーディネーターやるのも多いんですが、実はきのうは、島根県の西、「益美鹿」といって、益田市から津和野町までの1つの広域市町村圏の中に、7つの市町村があります。その3カ所で2日間にわたって、いろんなイベント、フォーラムをやってきました。1年間に50〜60回はそういうのに引き出されます。私は冷やかして、「コーディネーターというのは楽な仕事。アーデネーカ、コーデネーカといっていれば大体コーディネーターは務まるんだ」なんて無責任なことをいっていますが、そういうイベント。いわゆるシンポジウムとかフォーラムのみならず、いろんな形のスポーツやお祭り。伝統芸能も昔の再現もあれば、現代風にアレンジしたもの。そういうイベントは本当に盛んです。
 これから年末にかけて商工会などは、「何とかフェスタ」というのをよくやる。これまたちょっと失言したことがありますが、「フェスタ、フェスタとよくやるけれども、一過性のもので後で何も残らない、そんなイベントは地域の活力にならない。フェスタというのは「屁した」とは違うぞ」なんていって、嫌がられたことがあります。そういう一過性の何も後に残らないイベントもいっぱいありますが、イベントというのは地域の人たちを元気づけます。若い者に楽しみというか、にぎわいというか、そういうものを与えるという意味で、地域づくりの1つの手法になっていると思います。
 4つ目の地域づくりは、地域間交流であります。かつて地域計画といえば、どこでも自己完結的な地域発展を探しがちでありました。しかし、今や交通条件も情報の条件も違ってきていますから、1つの村や町や市だけで完結的な発展方向を追求するのではなくて、他の地域、それは場合によると広域的な、今町村合併の話が出ておりますが、周辺町村と一体化の交流もあるし、あるいは都市と農山村の交流もある。川の上、下流の交流もある。同じ名前のもの同士、全く違うもの同士の交流、さらに国際交流ということで、さまざまな交流が今盛んになってきている。これもこの10年ぐらい際立った地域づくりのパターンであるといっていいのではないかと思います。



3.決め手としての「人づくり」

 問題は、今4つのパターンを挙げましたけれども、だれがその地域づくりの仕掛け人というか、原動力になるか、これが極めて大事なことであります。地域づくりで成功している地域に共通するのは、地域に内発力があることであります。俗な言い方をすれば、地域の中にそういった地域づくりを推進する人、担う人がいるということであります。
 先ほどいいましたように、地域づくりが今競争関係にあるわけですけれども、その中で成功している地域と成功してない地域の分かれ目はどこにあるのかということを少し見てみますと、地形がなだらかだとか、気候が温暖だとか、あるいは新幹線が走っているとか、高速道路があるとかいう自然条件や立地条件が地域づくりを成功に導いているとは決していえない。もちろん恵まれていないよりも恵まれているにこしたことはないけれども、遠慮なくいうならば、中途半端に恵まれている地域はだめな地域です。そして、その限界地とでもいえるようなぎりぎりの条件のところに地域づくりの成功事例がいっぱいある。
 私はそういうことを本にもまとめたことがあります。ついこの間、大学も間もなく定年になることもあって、今まで自分が歩いた全国の市町村、1000を優に超えております。これだけが自慢です。その1200〜1300の市町村に学校の教師の悪いくせで、地域の活力をいろんな物差しで評価して点数を5、4、3、2、1とつけて、地図に色塗りしてみました。
 そして気がついたことは、私が高い評価を与えた地域、だからいいというわけじゃないけれども、活力のある地域は県境に多いということでありました。今それを具体的に挙げることは決して難しいことではありません。大都市周辺の町村、これは元気がない地域が多いです。これは町村合併のあり方とも関係してくると思う。今町村合併が盛んに進められておりますが、大都市周辺の町村なら合併してもおかしくないけれども、県境地域の今頑張っているその活力が変な合併でスポイルされるのではないかなという危惧を感じます。
 町村合併の話はともかくとして、やはり自然条件や立地条件が決め手になっているわけじゃないということです。
 もう1つ、これは余計なことですが、特別に腕力のあるというか、政治力というか、国の予算や県の予算をふんだくっていって、ものづくりをやる、その代表的な地域がいっぱいありますが、そういう地域が、私の採点している活力指数によると、決して長続きするとはいえない。政治力は、確かに一過性の力としてはあるけれども、それが地域に定着するともいえない。
 結局は、それぞれの地域に住む人の問題であります。地域の中に地域を発展させようとする人たちがどれだけ育っているか。そういう人たちがどう手を結んでいるか。そして、そういう人たちの行動を地域の人がどう支えているか。裏返しにいえば、彼らが地域から浮き上がっていないか。これが地域づくり活性化の決め手だと思っております。
 先ほどいいましたように、人づくりを忘れた地域づくりは成功しないということです。これまでの行政の地域づくりというのはハード優先であったと思う。最近になって、やはり人づくりだ。それは行政の分野のみならず、あるいは地域づくりのみならず、企業、商売の分野でもみんな今強調されていることです。
 私自身は、学校の教師ではありますが、農山村地域のことを専攻しておりますので、その勉強のためには、本を読むことも大事ですが、やはり現場に学ぶことが大事だと思っております。単に現場を斜めから見るのではなくて、地域づくりの運動に直接参加する必要があると思って、学校を出てから半世紀近く、全国そっちこっちで地域づくりの運動に関係を持ってきました。地域づくりは人づくりですから、人づくりの運動を自分が教えるのではなくて、学ぶつもりで、地域の人たちと一緒にやってきました。
 学校の教師で、年が上だということもあってでしょう、今はやりの言葉でいうと、「塾」。「森塾」とか「森学校」とか「森フォーラム」というのが北海道から沖縄県までかなり数多くあります。その中には成功事例もあります。成功事例は新聞やテレビなどで報道してくれますから、少しばかり人づくりの専門家のように思われるらしいんですが、それは私がやったんじゃなくて、塾生が頑張ってくれたからです。
 そんなこともあって、かつての自治省は、13年前に全国地域リーダー養成塾という塾をつくりました。1期から6期までは阿部統先生が塾長をやり、7期から12期まで、この3月まで私が頼まれて塾長をやってきました。今は大森彌先生が塾長をやっておられます。お2人は地方行政の大先生です。



4.地域リーダーの要件−4つの「ち」と4つの「き」−

 私は、その人づくりの運動を通じて、これから地域を活性化させるのに、要らないのは4つの「ち」だという言い方をしております。必要なのは4つの「き」だ。では、4つの「ち」とは何かといえば、第1番目のちはぐちです。今農山村に行きますと、いい首長とだめな首長の差はそこに出ていると思います。まず、くどきや嘆きやぼやきや不平ばっかりいっている首長のところでは、絶対活力は出てきません。やはり自分の地域の特徴と利点を探すことが出発点でなきゃいけない。そういう意味で、ぐちをやめよう。ほらふき人間がいいということです。ほらふきとうそつきは違います。
 2つ目の「ち」は何かといえば「無知」。「無知」というのは知識がないこと、情報に弱いことです。情報に強いことが極めて大事なリーダーの要件であります。頭を使え。アイデアが必要だということです。貧しい時代は、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」。あれは貧しい時代の哲学です。今は豊かな時代。豊かな時代には自分のところはよそと違うよ。特徴を生かす、個性を伸ばす。悪い言葉でいえば、差別化しなきゃいけない。そのためには頭を使え。何もそれは産物開発のみならず、イベントのやり方1つでも、あるいは商品だとか物事のネーミングの仕方1つでも、頭を使っているか使ってないかの差ははっきりと出てくる。
 3つ目の「ち」は何かというと「けち」。「けち」というのは力の出し惜しみ。行動しない人間は、幾らいいことを考えても、あるいはアイデアをひけらかしても、それは決して力にはなりません。鬼軍曹みたいな頑張り屋が必要です。そういう意味で、旺盛な行動力を持つ人が必要です。力の出し惜しみという意味でのけちを追放しよう。積極的に実践してみようといっているわけです。
 4つ目の「ち」は「やきもち」。「やきもち」というのは、頑張っている人の足を引っ張る。これは特に農山漁村には多いです。足の引っ張り合い。リーダーは足を引っ張るのではなく、腕を引っ張る。出るくぎは打たれるというけれども、中途半端に出ているから打たれるんだ。はみ出した人間がいいんだ。はみ出し人間が必要だ。地域リーダー養成塾でそんなことばっかり吹いてきたわけです。
 全国にそういった4つの「ち」のない人間、変わり度の高い人間、「変差値人間」と呼んでいます。少し風変わった人間がいるところはやはり少し違います。とにかく4つの「ち」を追放しよう。
 他方、リーダーに必要な4つの「き」とは何か。第1番目の「き」は、「やる気」とか「勇気」です。困難に挑戦する気迫。これが1つ。
 2つ目の「き」は「根気」。継続しなければ力にはなりません。継続性のない人間はだめです。
 そして、3つ目の「き」は「ひらめき」です。やはり今ひらめかなきゃいけない。よそと違うことをやらなきゃいけない。そのためにはひらめきが必要だ。
 4番目の「き」は何かというと、「人気」です。これは先ほどいったように、今全国で地域おこしで有名になっている人が、新聞とかテレビなどでよく報道されます。皆さん方、頭に浮かべれる方もいらっしゃると思います。ところが、私が現地に行ってみて、その周辺の話を聞くと、確かにマスコミ受けしたり、あるいは東京受けしているんですが、地域の中では、「どうも、あの人はな」ということで人気のない人の方が多いといっていいくらいであります。地域の人たちに支持されないリーダーはリーダーとしては失格だと思います。それで人気ということを強調しているわけです。
 問題は、1人の人で、ぐち、無知、けち、やきもちがなく、根気があり、やる気があり、ひらめきがあり、人気のある人がいるかというと、決してそれはそうではない。問題は組み合わせです。ですから、リーダーじゃなくて、リーダーズなんです。よくワンマンで有名になっている町村がありますけれども、その人が引退したり、あるいは政治的に失脚したりすると、すぐだめになってしまう例がよく目につきます。必要なのは、今いったように、4つの特徴を持っている人の組み合わせをつくること。鬼軍曹みたいな頑張り屋もおれば、その上にお釈迦様みたいな人格者もいなきゃいけないし、読み書きそろばん、今ならパソコンもできる、そういう弘法大師もいなきゃいけないし、良寛みたいな心優しい人もいなきゃいけない。
 地域に行ってみますと、それぞれ持ち味というのをみんな知っておりますから、そういう組み合わせができている地域が伸びている地域だといっていいかと思います。
 地域づくりの話ばかり長話してしまいした。



5.当面する森林問題の主要局面−国民の森林観の変化−

 一転しまして、森林政策の方に移りたいと思います。
 地域づくりと森林政策。この真ん中の「と」が難しいんです。どう結びつけるか、ここのところをちょっと迷っているところです。話を切断して森林政策の方に移りたいと思います。
 ご存じのように、ことしの7月に林業の新しい基本法ができました。農業の基本法は2年前に、かつての農業基本法が廃止されて、新しく食料・農業・農村基本法となったわけです。新しい農業の基本法でも注目すべき点が幾つかある。例えば、中山間地域。中山間地域なんていう言葉、私は霞が関用語と呼んでいますが、こんな単純な言葉は日本語には10年前になかったです。今はどこでもみんな中山間地域といいますけれども、その真意は少し誤解されているようです。
 とにかく中山間地域の傾斜地の農業に対しては、10アール当たり2万1000円まで直接金を差し上げるという制度が始まったこととか、あるいは食糧の自給率、今40%ですが、これは先進国としては国の安全に差し障りがあるということから、10年間に45%まで上げるということを法律事項として定めたとか、あるいはグリーンツーリズムの話とか、高齢者や女性の役割をちゃんと法律で定めたとか、注目すべきことはあります。きょうは農業の話はともかく、林業の場合について申しますと、かつての林業基本法は昭和39年にできたものです。
 これを37年ぶりに、農業の場合とはちょっと違いまして、一部改正という形で、森林・林業基本法という法律になりました。法律の題名も変わったし、条文の中身もすっかり変わっています。法律上の手続上、一部改正という形ではありますが、すっかり変わったといっていいかと思います。
 かつての林業基本法ができた昭和39年、1964年は高度成長の真っ盛りです。木材の需要がどんどん伸びている。その時期では、我が国の森林から供給できる木材の量では需要が賄えないということから、基本的な政策課題は、産業として林業を振興するというのがかつての林業基本法の主眼でありました。
 念のためにいっておきますと、我が国の森林政策の基本になっていたのは、明治から森林法という法律がありますが、この森林法の中では産業としての林業のことなんか1つも書いておりません。木を植えるとか切るとか、あるいは林道をつけるとか、そういう物的な計画はあったけれども、産業政策ではなかった。だから高度成長の真っ盛りの39年に産業政策として林業基本法というものを定めたわけです。それ以来37年たつわけですが、日本の林業は振興するどころか、反対に衰退の一途をたどりました。
 例えば、林業の活力を示すのは、1年間にどれだけ木を植えるかという造林面積ですが、昭和30年後半、40年ごろの数字に対して現在は10分の1以下であります。1割です。1割でもまだ2万〜3万ヘクタール植えていますが、最近は造林放棄地も随分と出てきました。九州の南の方では、木は切ったけれども、あとは植えない。それは林業は産業として成り立たないからです。また、山に道がないことには木は出せないわけですが、閣議決定の林道計画があるのですが、実行率は6割ちょっとであります。あるいは山で働く人の数もかつての7分の1です。
 どの指標をとっても、林業が衰退していることを示す統計ばかりであります。特に今問題になっているのは間伐のおくれであります。ご存じだと思いますが、1ヘクタール、1坪に1本ぐらい植えると3000本植えるわけですが、3000本の木がみんな大きくなるわけじゃなくて、間引きをして残す木を育てていく。そして木材を生産するというわけです。間伐は木材の生産のためばかりじゃない。間伐をしないと、うっそうたる森林になる。うっそうたる森林というのはいい意味に使いますが、草ぼうぼうで、とにかく弱い森林になる。細いモヤシや線香のような木が密生していて、太陽の光が地面まで通りませんから、草が生えない。草が生えないから土砂崩壊が起こりやすいとか、あるいは水を涵養、養う力もないとか、そういう国土保全上にも問題を起こします。というわけで、間伐のおくれというのが極めて深刻な問題であります。
 一方、そういう林業や森林が荒廃しているにもかかわらず、国民の森林に対する関心というのは極めて高まっております。これも世論調査の結果などで明らかにできます。そこで、今国民の森林に対する関心は、大きくいって3つぐらいの局面があるのではないかと思います。
 その1つは、グローバルな観点から、地球温暖化問題などと関連づけて、森林の重要性を説く考え方であります。ご存じのように、国連が発表しております一番新しい統計によりますと、年間地球上から1130万ヘクタールの森林がなくなりつつある。1130万ヘクタールといえば、我が国の国土の3割です。我が国の森林の45%です。1日当たりに計算すると3万1000ヘクタールの森林がなくなる。その大部分は、「地球の肺」などといわれている熱帯林が中心であります。途上国の森林減少であります。そのうちの何割かは砂漠に近づきつつあるといわれているわけです。
 先進国の森林は、それとはちょっと様相が違いまして、指摘されるのは酸性雨による森林の劣化であります。ご存じのように、火力発電所とか自動車の排ガスなどに含まれている亜硫酸ガス、窒素ガス、有害物質が国境を越え、海を越え、雲に乗って、雨となり、あられとなり、雪となり、あるいは微粒子のまま飛んでいって、それが樹木を弱らせる。これが地球の生態系を破壊していく。そういう観点で森林に対する地球的規模での危機感があります。
 1992年、ブラジル・リオデジャネイロで地球サミットが開かれましたけれども、あそこの大きな問題の1つに、森林問題が取り上げられ、それを受けて、京都会議などの気候変動枠組み条約の討議がなされているわけです。この間どうにか落ち着いた形になりましたけれども、あの炭酸ガス、地球温暖化ガスの削減目標の中に森林の造成あるいは減少をカウントするということが正式に認められました。6%の削減枠の中、森林は3.9%の枠を認めているというわけで、この森林問題というのはそういう観点から注目されています。
 2つ目は、もっと身近な問題としての森林の重要性を説く説き方であります。森林が国土保全とか水資源に果たすメカニズムは説明するまでもないかと思います。よくいわれるように、森林は緑のダムですし、見えない水がめ、腐らないくい、生きた蛇かごです。今どき蛇かごなんてもう死語になっているようです。あるいは天然のエアコンディショナー。森は海の恋人といわれるように、水産資源も森と不可分であるという意味です。森林の重要性に対するラブコールが随分と高まっている。
 そういった物的なものばかりじゃなしに、もっと精神的なもの、教育的な機能というか、情操の面で果たす機能も大きいです。よくいわれるように、人偏に木と書いて「休」。人が木のそばにおるとなぜ休むとなるか。この議論をするとおもしろいんですが、とにかく昔からそういうようなことが体験的にわかっている。木から離された子供たちが今いろんな問題を起こしているということも指摘されている。
 きょうは都市経営の関係の方ですから、住宅の話をちょっとつけ加えておきますが、木造住宅と非木造住宅の話です。政府が発表しております林業白書に出ていることですから、各省庁認めたことでしょう。それをちょっとご紹介します。やや我田引水的な感じがしないわけではないですが、ハツカネズミをガラスの箱とスチールの箱とプラスチックの箱と木の箱で、同じ条件で飼うと、どのハツカネズミが一番元気か。結論は大体わかっていますが、木の中で飼ったハツカネズミが一番元気だとか、あるいは特別養護老人ホームで、同じような環境のもとでも、高齢者のインフルエンザにかかる率が、木造は圧倒的に低い。不眠症が少ないとか、転んでも怪我の程度が小さいとか、いろんなことをいわれています。
 学校の校というのは木が交わって「校」というので、「木を使ってない建物はあれは校舎じゃないよ」なんて、私は悪口をいっています。とにかく非行、不登校なども、同じような都市規模でも木造校舎の方がいい、林業白書にそう書いてある。
 そしてまた、木材というのは、ご存じのように、森林は炭酸ガスを吸収して、炭素を固定して酸素を出しているわけですから、炭素を固定しているわけです。10.5センチ角で3メーターの杉の木には6キログラムの炭素が固定されている。東京の平均の木造住宅は123平方メートルだそうですが、そこに23立方メートルの木材が使われておって、そこには5トンの炭素が固定されている。ですから、木材というのは、地球温暖化、循環型社会を形成する上で極めて大事な資材だ。こういうことが強調されております。そういう面からも、森とか木に対するラブコールがある。
 もう1つは、もうちょっと大きな立場で、文化文明論と関連づけて森林の重要性を説く説き方があります。もともと人間は森の中で生まれ、森に生かされながら文化文明を発展させてきたわけで、森を失うと文明が滅びる。「文明の前に森林があり、文明の後に砂漠が残る」という有名な言葉があります。「国家の盛衰は森林の消長とともにする」なんてこともいわれるほど、森林の重要性が、文化文明論と関連づけてとらえられる。
 梅原猛さん、たくさん著書がありますが、梅原さんが書いている本の題名に、『森の思想は人類を救う』、これは小学館から出ている本です。結構読まれているようです。私の友人で直木賞作家でちゃんばら物を書く高橋義夫という男がいます。山形県の月山のふもとにずっと住んでおったんですが、今は山形市に居を移しております。彼が、集英社から出ている単行本ですが、『知恵ある人は山奥に住む』という本を書いている。これも本の題名です。
 駄洒落ですが、大体、山に住む人つまり人偏に山と書いて「仙人」という。位の高い人です。都市におりていって、谷底にいるのを「俗人」といいます。仙人が偉いか俗人が偉いかは別として、そういう文化文明論と森との関係ということが今強調されています。



6.森林・林業の現状−荒れる森林、衰える林業−

 こういう意味では、確かに今、森林に対する追い風が吹いております。みんな森林は大事だ。右も左も、老いも若きもみんなそういってくれる。ところが、肝心かなめの森林というのは、先ほどちょっといったように、間伐のおくれ、あるいは造林放棄、そしてちょっと雨が降れば土砂災害が起き、降らなければ水不足が起きる。あるいは森から離された子供たちが情操不安定になっているというわけですから、これは国民の期待に対応できるような森林の状況になっていない。
 参考までに、総理府は毎年世論調査をやるわけですが、平成になってからも、森林とか緑に関しての世論調査が5回やられております。これほど頻繁にやられるということ自体、森林の重要性を認識しているからだと思います。それで、国民は森林に何を期待するかということを幾つか項目ほど挙げて、○をつけさせるわけです。3つに○をつけなさい。十数年前は、まず「国土を保全する」が第1で、2番目に「木材を生産する」となっていた。あと「大気をきれいにする」とか、いろんなことがあるわけですが、平成12年の世論調査の結果によると、10項目挙げている。その他が1つあって、具体的なものは9つですが、9つのうちの一番上は、「国土を保全する」。
次に、「水資源を涵養する」「地球温暖化を防止する」。こう続いているんですが、「木材を生産する」というのは9番目で一番低いんです。
 それはなぜか。木材は海外から入ってくる、こう思っているわけです。現実に日本の木材の81%、つい最近今月の初めに林野庁が発表したのによると、81.8%が外国から入ってきている。18%が国産材。ですから、木材というのは、例えば入学試験などで、「木材はどこからとれるか。山、川、海、空の中から選べ」という問題に、山と答えたら間違いで、海と書く方が正解です。(笑)
 漁業者の集まりのあるところで,眠気覚ましにこんな駄洒落をいいましたら、漁業者が私に、「先生、おもしろかった。魚はどこから来るか。正しいものに○をつけよ。海、川、空、山」「それは海だろう。川じゃない。海だろう」といったら、「間違い。空」だそうです。こういう状況はどう見たって正常じゃないです。



7.森林・林業基本政策の転換−新基本法の制定(01年)−

 こういう状況を背景にして、林政の転換が図られました。それが新しい林業の基本法です。林政を転換するに当たって、森林・林業・木材産業基本政策検討会という政府の諮問機関がつくられました。私はたまたまその座長をやりました。そこでいろいろ議論した結果、先ほどいったように、森林というのは国民共通の財産である。国民共通の財産だから、これは国家的な責任のもとで森林を守らなきゃいけない。かつての林業基本法は、木材需要が上向き、木材価格が上昇する。念のためいっておけば、当時はまだ外材は1割ちょっとです。日本の森林で日本の木材需要を賄わなきゃいけない。そしてまた、山村は、過疎は始まりはしたけれども、昭和40年ごろといえば、まだそれほど激烈ではないです。むしろ、かつての次三男問題が少しは解決されるだろう、期待すら持っておった。過疎法ができたのは昭和45年です。
 ですから、農山村に豊かな労働力があって、木材価格も高いから、放っておいても、森林所有者は山に木を植えることを、欲と2人連れで一生懸命やった。産業としての林業を振興することが国民的な期待でもあったし、森林所有者のビヘイビアとも合致しておった。そしてその段階で、国土保全とか水資源涵養の役割を忘れていたかというと、決してそうではない。法律の中にも書いてある。それはどういうことかというと、木材生産をするために、健全な森林をつくれば、国土の保全にも水資源にも役立つ。つまり予定調和論だったわけです。木材生産と森林の持っている公益的機能は予定調和する。これが昭和39年の林業基本法の考え方であります。
 今は先ほどいったように、産業として林業は成り立たない。ちょっと利回りを補足しておきますと、林業の利回り計算はちょっと複雑ですが、それはことし植えた木がことし、あるいは目に見えるうちに換金されるわけじゃないです。今切るのは50年前に植えた木ですから、その原価を計算していけば、今木材価格が安いといったって、利回りは高いんですが、今瞬間的に木材を生産するとすれば、どのくらい金がかかるか、利回りはどのくらいかというと、補助金がなければ、杉の場合はマイナス1.2%です。マイナスです。ヒノキの場合で、プラス0.6%。とても産業としての体をなさない。ですから、森林所有者に林業生産活動をお願いするわけにいかない。お願いするだけでは済まされない。
 ということともう1つ、公益的機能の中身が変わってきた。先ほどいったように、国土を保全するとか水資源を養うというのは健全な木をつくればいいんです。ところが、今国民が求めている森林への欲求というのは、森の中で遊びたいとか、子供の情操教育のためだとか、あるいは野生動植物を保全するためとなれば、杉やヒノキの産業としての林業活動と相反する。少なくとも両立しない、そういう分野に国民の森林に対する欲求が出てきた。こうなってくると、先ほどいったように、森林を守るには公的な責任のもとで管理しなきゃいけない。このことが新しい基本法の最も大きな変化であります。
 その場合、公的な機関といえば、まず考えられるのは国有林です。ご存じのように、国有林は「第2の国鉄」といわれるように、国有林の解体論も出たんですが、今もって国の直轄事業としてやられております。数年前に3兆8000億円の赤字を抱えて事実上破産したといっていいでしょう。3兆8000億円のうち2兆8000億円は税金で見る。ですから、例えば、たばこがあるときから値上げされて、皆さんもたばこをお吸いだと思いますが、たばこ1本につき1円ずつ国有林の赤字の方に向けられておる。これで2兆8000億円を何とかしよう。
 あとの1兆円は、国有林を所管している林野庁が50年かかって返済する。そのためには林業は今でも成り立ちませんから、土地を売らなきゃいけないというわけです。数年前になりますが、予想外の収入とはいわないけれども、六本木を売ってかなりの収入があったようで、都市の中のそっちこっちの国有林を売りに出しておりますが、今は土地を売っても予定収入を確保するのが困難になっているのが現実であります。
 きのうあたりの与党と政府との会議でも、本当に1兆円を50年間で返せるのかということが問題になっているようであります。ですから、現行の国有林事業に日本の森林全部を任せるわけにはいかない。まず自分の破産状態を解決しろ、こういうわけです。
 2つ目に出てくるのは都道府県であります。都道府県も、国有林と同じように山梨県と北海道が大きな森林を持っていますが、いずれも赤字会計であります。となってくると、やはり市町村がその森林の管理の直接的な、担い手というとちょっといい過ぎですが、市町村の力に依存しなければいけないというのが新しい基本法の考え方の1つであります。
 市町村といっても、これまでの国の林政というのは、国から県に来て、県から森林組合を通じて行政がなされておった。市町村はほとんどつんぼさじきに置かれておりました。もっとも十何年前から少しずつ変わってきましたけれども。そういう体制ですから、森林整備計画を立てなければいけない森林のある市町村、つまり林業のウエートが相当ある市町村が全国に1000余りあります。調べたところ、その中で森林関係の行政を所管する独立した課なり係があるのは38%。産業担当の中で専任の林業関係担当者が1人いるのを含めても5割ちょっと。四十何%は森林関係を担当する職員が1人もいないという状況です。
 さらに加えていえば、その市町村の財政も林業に関しては大変弱い。というのは、国から地方交付税がいっているわけですが、林業の地方交付税は、林業就業者数を基準にして配分している。林業労働力は先ほどいったように7分の1に減っているわけですから、当然のことながら配分額が減る。市町村の財政も弱い。これじゃとてもやれないというわけで、今全国の約1000の市町村長たちが全く自主的に、森林交付税という制度をつくれという運動をやっております。森林交付税創設連盟というのができております。念のためつけ加えておけば、かつて林野庁や建設省が水源税だとか、あるいは緊急河川森林整備税の制度をつくろうとしたことがありました。都市サイドの反対があり、あるいは通産省や厚生省などの反対があって実現しませんでした。あれの二の舞じゃないです。
 今の森林交付税制度の創設という運動は、市町村の、ある意味では名もない、財政政策にもそれほど精通してない人たちの極めて純真な要望であります。国の交付税制度がどうなっているかなんてことを詳しく勉強もしてないような市町村長たちの率直な要望であります。それが手弁当で始めた。したがって、林野庁にも建設省にも、どこの省庁にも、バックがあるわけではないし、あるいはどこの政党にも要望をまだ正式には持ち込んでおりません。しかし、その運動を10年間やってきました。私はその連盟の顧問をやっております。恐らく新しい形の政策形成というのはそういうことではないかと思う。というのは、既存の政党が、あるいは既存の団体が既得権益を守れという動きは、これからは小泉改革だからというわけじゃないけれども、国民の支持は得られないだろう。もっと率直な、国民がわかるような形にしなくてはいけない。森林を思い、国民の共通の財産だから、これを守るためには権限ももちろん必要だけれども、何とか森林面積に応じて国の予算を配分したらどうか、こういうことです。
 私は、こういう世論が少しずつ中央のトップにも反映しているのではないかと思います。その具体的な例としては、例えば今不況対策として緊急雇用対策事業というのを小泉内閣がとろうとしている。5500億円の予算を交付税として予定しておる。5500億円のうち3500億円を森林を守るのに使うというのが政府の原案のようであります。2番目は、学校の先生の補助に使い、3番目は福祉に使う。5500億円のうち3500億。特別に有力な政治家がいて、あるいは既存の政党が森林のことを弁護してくれたんじゃない。国民の世論がそういうふうになってきていることのあらわれではないかという気がいたします。



 

8.新林政への期待と不安

 新しい林業基本法の方に話を戻しますと、今いいましたように、森林を国民共通の財産として健全な状態に守っていく。そしてこれを後世に引き継いでいくことが現代に生きる者の責務であるという立場から、森林政策がつくり直されたわけであります。しかし、あの新しい政策で全部いいというわけじゃありません。確かに期待は半分あるけれども、不安も半分あります。それはどういうことかというと、日本の林業が、森林は黙っていても守られるわけじゃない。そこで山村に住む人たちが、日常的に森林を適正に管理しなきゃいけない。めちゃくちゃ切るのは全く論外でありますが、それ相応に手を入れなきゃいけない。適正に管理するためには、山村社会に人々が定住してなきゃいけない。人がいなければ森林は守れない。これも議論があるところです。中には人が住まなくたって、ランドサットで見ていれば森林の状態がわかるじゃないか、危なくなったら、緊急にそこに措置すればいいじゃないか、鉄とセメントを持っていけばいいじゃないかと考える人もおりますけれども、森林の管理というのは、それほど単純なものではないような気がいたします。
 私はこういう例え話をよくします。名医とやぶ医者の違いはどこか。やぶ医者は数字だけを見て「あ、あんた、どこが悪い」と、顔も見ないでいう。確かに数字は基礎データとして大事だけれども、名医というのは相手の顔をずっと見て、「うん」という。山村に住む人たちは何気なく森林を管理しているんです。私は年じゅう山村に行って、「あ、これがそうだな」と思うことがある。それは例えば、地元の人たちと山道を一緒に歩いていると、側溝というほどでないけれども、水が流れる溝がある。そこに小枝なんか落ちて、水の流れがちょっと悪くなっていると、山村の人は、なにげなしに足でその小枝をボンとけるんです。こういうのが日常的な管理だと私は思うんです。そのためには山村社会がきちんとしてなきゃいけない。
 ところが、我が国の林政、今度の基本法で初めて山村対策というものを林野庁政策の重要課題に入れはしましたけれども、まだまだ不十分であります。
 森林がきちんと管理されるためには、山村が健全な状態になきゃいけない。ですから、山村の健全化というのは林政の前提的課題である。ところが、これまでの林政の対応、今度の対応もそうだといっていいと思いますが、森林をきちんと管理し、そのための林業をちゃんと振興すれば、山村社会は結果として健全になるだろう、こういう考え方が基本になっている。主客転倒していると思う。山村地域の活性化、そのためには、先ほどいったように行政の分野もあるし、あるいは山村の人々が生き生きと行動できるようなむらづくり運動を、従来の行政の縦割りの制約にとらわれずにやるようなシステムが、今求められているのではないかと思います。ここが本日のテーマの「地域づくりと森林政策」の「と」のところです。
 そのためには、皆さん方都市サイドの方々が多いわけですが、山村だけで活性化できるわけではありません。都市の力が必要であります。今、例えばボランティアなり基金の造成なり、分収契約なり、いろんな形で都市の活力が山村に向けられつつあります。
 考えてみれば、都市は山村がなければ存立しないのではないかと私は思います。山村は都市がなくたって成り立ちます。かつて日本の長い歴史を見れば、大和の国はまさに山どころの国といわれています。山どころとして成り立ってきたわけです。低位だったけれども、均衡、バランスはとれておった。ところが、先ほどいったように、水の問題、温暖化の問題、国土保全の問題、さまざまな問題を考えれば、まさに山村、そして森林なくして、都市は成り立たないのではないか。あるいは都市が持っておるさまざまな問題を解決するためにも、森林の果たす役割は極めて大きいし、そのための山村地域づくりということが必要である。当然都市サイドと一体化すべきではないかというのを、ちょっととってつけたような結論でありますけれども、これを結論にして、与えられた時間が来たようでありますから、終わりたいと思います。
 長い時間ご清聴ありがとうございました。(拍手)



フリーディスカッション

谷口(司会)
 どうもありがとうございました。
 引き続き、少し時間がありますので、ご質問、ご意見その他承りたいと思いますが、どうぞ皆様方ご遠慮なく。

水谷(日本上下水道設計株式会社)
 先生のお話の最後のところで、最後はちょっと森学論争みたいになっていると思うんです。これから人口も減る時代であります。だから、山村とかに人が住むべきだ、べき論はいいんですが、そんなに人はいるんだろうかということです。具体的に3500億円予算をもらったとして、人にそこに来てほしいとなれば、どういう可能性があるのかとか、そういうことについて何かお考えがあれば。


 どうも最後のあたり、とってつけたような押しつけがましい、結論でもありませんが、勝手なこといって失礼いたしました。おっしゃるとおりだと思います。
 ただ、一般論として申し上げますと、確かに、向都性向、都市に向かって人口が動いていくという傾向は、全体の量的にはその傾向がまだ続いておりますけれども、私がそっちこっち歩きながら気がつくのは、山村に新しい人が入り始めておる。山村に向かって人が動き始めている。今までの長い間住んできた山村の人たちと新しく21世紀の終わりごろに山村に住む人たちはすっかり入れかわるんじゃないかなと思うぐらい、今山村の人口変動が起きている。というのはどういうことかというと、かつて山村に人が住めといったときは、「おまえは山村に生まれたんだから、山村に住め」というあきらめ定住だった。ところが、今山村に移ろうとしている人たち、かつてのような落ちこぼれの山村、ふるさとに戻るんじゃなくて、まさにそこに関係ないような、所得水準も高いし、学歴も高いし、知的活動をやってきた人たちが山村を選択して移り始めている。中には確かに山村でSOHO、スモールオフィスをやっている人たちもおるけれども、そうじゃなくて、きのう私がお会いした人もそうです。島根の津和野の隣に柿木村というのがありますが、広島でコンピューター会社をみずから経営しておった人が子供の教育が終わったから、自分が来て、ここで何をやりたいかというと、棚田をやりたい、農業をやりたい。山も欲しいんだけれども、山は買う気がしない。棚田で農業をやりたい。それは1つの例ですけれども、どうもそういう動きが今後強まっていくのではないか。都市のエリート、私はそういうのをアーリーアダプターと呼んでいるんです。早く適応する人たち、世の中の変化を先取りする人たちが出てきている。
 ちょっとつけ加えますと、今法律上過疎といっているのは、昭和35年を基準にしてそれからの人口減少率でいっているわけです。過疎法の指定。じゃ、昭和35年当時の山村の人口は本当に適正であったかというと、決してそうじゃない。先ほどいったように過剰人口です。戦後引き揚げてきたり、子だくさんの時期ですから。私がそっちこっちに関係している村で、この村の適正人口、この村の資源量からいって、どのくらいの人間が住むのが一番いいか。扶養力はどのくらいあるかということを計算してみようということをやりますと、出てくるのは大正の終わりごろがいい。今は5000人ぐらいいて、それが人口がへってきて3500人ぐらいになった。いや、2500人ぐらいがちょうどいい人口だとよくいうんです。今人口減少でうんと困った困ったというのは、首長たちが、自分の縄張りの力として、人口が減ると困っているというんですが、本当に山村が生活している人たちは5000人なんかいなくたっていい。今の例でいうと、大正の終わりごろぐらいの人口がちょうどいいではないか。
 その場合問題になってくるのは、学校と病院と子供の教育です。子供の教育は大体終わってから移った方がいい。これまで定住政策というと、定住イコール永住に考えている。定住イコール永住じゃなくて、そのライフステージに応じて、一定の期間だけそこに住むような、私は半定住と呼んでいます。子供の教育のときには都会の学校に入って出る。息子が進学したら、自分は帰って地方で創作活動なり、もっと人間らしい仕事につく。半定住の形でいく。だから、人口が年じゅう移っていく。そういうマルチハビテーション的な社会ができるのではないか。それが望ましいのではないかなという気がいたします。

市川(中野まちづくりを考える会)
 中野のまちづくりというものを考えています。
中野は都内23区内で下から2番目に緑が少ない地区です。赤字財政で、それこそ土地開発公社で、区が土地を買いあさって、そこの土地も売れなくてということで、緑がふえていくかどうか怪しいんです。町の中でどうやって緑をふやしていくかというのが今後の課題です。
 私が本当にお聞きしたいのは、スウェーデン、ノルウエー、カナダあたり、オーストラリアもあると思うんですけれども、森林税とか森林保護税という税金があるということです。今度の新基本法というのを私は読んでいませんので、よくわからないのですけれども、結局日本の8割から9割の地方自治体は赤字財政です。ですから、国が勝手に地方分権法をつくりまして、森林の保護や何かも地方自治体に任せようといわれても、これが非常に困るわけです。
 私は長野の佐久の出身ですけれども、そこの森林組合の人たちがいうのには、既に赤字で非常に困る。とにかく国にむだな公共投資を重点的にするよりも、森林保護税という形でやっていただくということをお願いしようということで今立ち上がり始めています。本当にやっていただきたいというのがお願いです。さっきの方がおっしゃっておりましたように、人口も少なくなりますし、税金の負担はこれからの人たちにかかってきますので、そういうことを考えて、地方に住んでお仕事している方もいらっしゃいますので、森林政策にかかわっている方をちゃんと招いて、税金の負担をきちんと全国に平等に行き渡るようにやっていただきたいと考えております。そういうことです。

 
 私も基本的に全く同感です。白い紙に、国の税制のあり方とか、地方への配分のやり方を考えよう。今おっしゃったような形、合理的になると思うんです。ところが、いわゆる既得権益にしがみつく勢力があるから、そういう力関係があるから、例えば炭素税とか環境税、水源税、いろんなアイデアは出てくるけれども、国民に税負担をさらにかけるというのは、私は基本的には国民的合意は得られないと思う。
 むしろ、今あるような変な既得権益に基づく金の配分の仕方を全部壊していくことが必要で、だから、小泉改革は、そういう意味では、山村地域にとってはいいチャンスだ。にもかかわらず、山村の町村長たちは動員されて、既得権益を守るということばかりやっているところがちょっとおかしいんじゃないかなという気がします。
 環境税とか炭素税とか、いろんな議論は出ております。

  太田(ケミカルグラウンド株式会社)
 私は実は個人的には5年ぐらいにわたって、間伐、下草刈りとか、そういう作業をやって、その仲間が各地で活躍をするようになっております。これを恒久的にやろうということで、来年からは田舎に我々の仲間の家をつくろうということを始めました。民有林は全体の40%ぐらいありますね。そういう民有林の方が国有林よりもやりにくいだろうと思います。そういうものの必要性は十分認識しておりますが、情報といいますか、応援を求める、あるいは都市の人たちも非常に関心が高いんです。そういうものの情報を求めるチャンスというのはインターネットによっても多くない。そういうのが今どういう状況で、先生はいろいろ情報をお持ちでしょうから、どういうふうな発展の仕方と、具体的な活動になってきつつあるのか、ちょっと教えていただきたいんですが。

 
 今私ども森林ボランティアの調査というか、勉強をやっております。その中で明らかになっていることは、お話のように、森林ボランティアに関心を持って、その関心の程度も、みずから作業をやって、中には熟練林業労働者と同じようなところまでなる人と、遊びの一部としての市民ボランティアの人と差がありますが、年ごとにボランティア団体がふえてきております。私も広島で、来年の2月に森林ボランティアの大会があるそうで、また呼ばれて、行って勉強してきます。
 他方、森林所有者の方も、自分の森林を自分で経営できない。何か都市の人たちに来てもらいたいという希望はありながら、森林所有者の方が閉鎖的です。森林所有者で都市の人にボランティアでどうぞ下刈りをやってください、間伐をやってくださいということをなかなか出さない。それはなぜかというと、せっかく植えた木が、間伐といってもまだ生きているわけですので、あの素人の人たちに勝手に切られたらというわけです。
 ことし主な調査をやっているのは、森林をボランティアに提供している所有者の行動なり条件を聞いているんです。結論からいうと、森林に入ってもらうこともボランティアだけれども、我々森林を出すこともボランティアだと、こういっているんです。森林を出すこともボランティアだ。ボランティアというのはもともと他人のために汗を流すだけじゃなくて、みずからも喜びを感じ、自己改革にもなるわけです。だから、森林を出すこともボランティアだ。そういう人たちと森林ボランティアをやりたいという人のミスマッチがあるんです。
 その情報機関が欠けているということが最大の問題じゃないかと思います。森林を出してもいい、あるいはボランティアの人たちはこういう能力があるんだということを結びつける情報、ネットワークが必要だと思います。
 1つ大事なことを忘れていました。
 新しい基本法に基づいて、森林林業基本計画というのを11月の中ごろ閣議決定しました。そうすると、日本の森林2500万ヘクタールあるうち、3つに分けます。1つは、水土保全林、国土保全と水資源を養う。水土保全なんていう日本語もなかったんですが、水土保全林、これが日本の森林の52%です。
 それから、森林と人との共生林。レクリエーションとか、野生鳥獣の保護、そういうのが22%。そして、木材生産をやる資源の循環利用林、正式名称です。これが26%。
 水土保全が52%。森林と人との共生林が22%。そして、資源の循環利用林が26%。先ほどいった市町村が管理するのは上の方です。水土保全とか水資源。そっちの方は公的資金で何とか面倒見させることができるけれども、今いっているのは、神奈川県の場合もそうですが、公的森林の方が多いんです。個人がやれない森林にボランティアに入ってもらいたいけれども、森林所有者は、都市の人たちを信用しないというか、そういうことでギャップがある、こういうことです。

佐藤(住宅コーディネーター)
 茨城県の竜ヶ崎から参りました。どうもありがとうございました。
 先生のお話の中で、熱帯林の消失のお話が出まして、木造住宅のお話が出ました。日本の住宅は、ご承知のように、健康の問題やら、長持ちしなくなったとか、外材中心の木造住宅についてはそういう問題が出ていて、その中で先生のお話の中で最後に、産業としての林業は成り立たないというお話を伺いました。その辺についての解決策なり見通しなり、その辺をお聞かせいただけないでしょうか。


 大事な問題をありがとうございました。先ほどいいましたように、80%以上が外国から入ってきている。その外国も時系列的にいうと、対象地域が変わってまいりまして、最初のうちはフィリピンが中心だったんですが、そのうちインドネシアに行き、マレーシアに行き、最近は北欧あたりからまで入ってきている。かつては丸太で入れておったわけです。ラワン材を中心にしながら、ところが、今は丸太よりも製品の輸入の方が多い。国と国との間の木材移動、つまり、木材輸出入量の4割が我が国に入っているんです。
 平成12年の統計、つい最近発表になったのを見ますと、1億100万立法メートルを1年間に木材消費するんですが、そのうちの8割ですから、8000万立法。8000万立法を250にして割ると、1日3万幾らになるわけです。トラックに積むと10トン車で360万台からの物すごい木材が入ってきているわけです。その木材は、今地球全体で森林がなくなるときに、ここが評価の分かれるところですが、海外の森林を荒らしている。ブラジルの地球サミットでも、森食い虫とか、森荒らしザルと日本がたたかれたりしている。それほど熱帯林を日本がめちゃくちゃ持ってきてしまった。これが国際的な批判を受けたわけです。
 これに対する日本政府の対応の仕方はもちろんあるんですが、今度の法律では地球の環境を壊すような木材輸入は規制できる。今までは途上国は自分の環境が破壊されても、日本に木材を買ってくれ。向こうは売り込みだったわけです。途上国の方は木材を売ることによって外貨を稼ぎ、自国の産業が発展していく。ですから、向こうは売りたい売りたい。ここで評価が分かれるというのは、ちょっと変な言い方ですが、1つの言い方は、特に財界に多いといったらいいでしょうか。地球的規模で見るなら、将来地球上から森林がなくなる。ならば、今お金で買えるうちに買っておいて、日本の森林を守ることが国益にプラスになるという見方です。これもそれなりに筋の通った考え方です。
 これに対して、今外国の地球環境を荒らしてもいいのかということと同時に、今外国から安い木材が入ってくることによって、日本の森林の手抜きをやっていれば、将来伐採の時期に来たときに、その森林は役に立たないよ。弱い林になって役に立たないよという意見とがあるわけです。
 どちらが正しいかは別として、今8割外材が入ってきている。今もって現実には外材の圧力がある。外材の圧力というのは、日本にもっと外材を入れろという要求がある。これに対して林業サイドは国産材を使い、先ほどの話のように、日本の木で家を建てよう。近くの山の木で家を建てようという運動が随分広がっています。ことしの1月1日も新聞全面借り切って、近くの山の木で家を建てる運動、1万円ずつ出して1000人集めて、私もその首謀者の1人ですが、1000万円集めてやったわけです。そういう外国の資源を荒らすのはけしからぬというのと2つあって、結局のところ、解決策として何があるかという質問ですが、今度の基本法では、木材の自給率を定めるか定めないかというのが大きな問題になりました。
 食糧の場合は40%を45%に上げるということが法律に基づく閣議決定になったわけですが、今度の法律では、木材の自給率を設定するということは法律事項にはならなかった。私も参考人として、農林水産委員会で発言したんですが、やはり日本の森林を守るためには、目標の自給率をきちんと定めなきゃいいけない。それを私がいったからじゃないけれども、政府は先ほどいった11月中旬に定めた森林林業基本計画の中で、今後10年間のうちに、今1億立法のうちに2000万立法メートルが国産材。平成22年には需要量1億は変わらない。国産材の供給量は2500万立法メートルにする。つまり、今の20%を25%にするということを基本計画の中で定めてそれを閣議決定している。2500万立法メートル日本の木材を出せば、地球環境破壊という問題は一応防げるという計算。三方一両損じゃないけれども、あちらもこちらも立つという議論。考え方です。

平野(株式会社創建設計)
 実はやはり国産材を使いたいということで、住宅の中で丸太を使った数寄屋建築を目指してやっております。数寄屋建築するときには丸太が必要である。銘木店に行かないとなかなかない。高いものになってしまうということで、数寄屋建築を国産材を使ってやる場合には、地方の山に行かなきゃいけない。しかも、長い間寝かせて、自然乾燥をやらなきゃいけない。時間がかかるわけです。
 そういうことをやりながら、いろいろ木を考えているときに、実は私の田舎は北海道の標茶というところで、町有地があって、森林が約4000ヘクタール。私の実家も森林をやっていまして、1000ヘクタールの林業を営んでおります。そこで、間伐材を使って何とか利用できないか。おっしゃるとおり、林業は現地では生活が成り立たない。補助金、助成金をもらいながら山を育てていく。その間伐材はただみたいなものなわけです。それをメインカーバーターにして使ったらどうかという提案をして、どういう機器がいいのか、今調査しております。
 そのときに問題になったのは、助成金をもらって森林を守るというときに、先ほどおっしゃっているように、町の行政の指導でやるのか。もう1つは森林組合というのがありまして、それを通して指導を受けるのか。あるいは先生のような学者あるいはリーダー、指導者がやって木を育てながら助成金の配分をどするかとか、こういうことが非常に大きな話題になっております。
 関連して、かつての酪農が農業の役割が当初あったんですが、最後はメタメタに農業政策が間違っているという批判もありまして、今森林組合の問題はどういう位置づけになっているのか、今後はどうなるのか、そこら辺、行政の関係から教えていただきたい。


 どうもありがとうございました。
 私も標茶はよく知っておりますので、多分お山は拝見しているかもしれません。カラマツですか。

平野
 はい。カラマツになっています。


 森林組合の話を直接申しますと、森林組合は全国の各市町村にあって、かつては町村の数ほどあったわけです。今広域合併で2000ちょっと切るぐらいになっています。端的にいうと、森林組合のうちの半分は完全に居眠り組合。名前はあるけれども、何も仕事をやっていない。残りの半分は補助金の手続団体。補助金というのは国から道へ行って、道から森林所有者に行くときの補助金のうちの1割以内を森林組合は手数料として取ることができるとなっていますので、その手数料で稼ぐ。何も林業生産活動はやらない。つまり、残りの4分の1の半分が、国有林とか緑資源公団とか公社の下請団体。あとの半分、つまり12%、そのぐらいが森林所有者の法律どおりの協同組合になっているというのが実体です。ほとんど居眠り組合。
 森林組合の中の理事会は、もちろん法律に基づいてちゃんとつくっているわけですけれども、地域の企業的意欲のない連中だけがやっている。なぜかというと、私は林業で一番大事なのは伐出部門だと思う。林業の世界では山師というんです。私は大学は林学じゃないんですけれども、勉強して、林政審議会の委員なんかやったから、山の先生になったつもりで、山師と名刺をつくろうと思って念のために辞書を引いたら、山師というのは詐欺、瞞着をする人と書いてある。一番企業的な人たちなんです。売り手と買い手、木材利用部門と森林所有者の真ん中で彼らが活動しておったわけです。今製材部門は外材にいっていますから、山師要らなくなってきちゃった。この山師の崩壊が日本の林業をだめにしていると私は思う。だから、山師を健全化すること。ところが、山師というのは素材業者です。製材業者も大体ケムが多いんですが、製材業の縄張りは通産行政。通産行政にとってみれば、製材業なんて吹けば飛ぶような存在ですから、あまり相手もしないわけです。
 今度の新しい基本法で初めて、この素材生産部門も林政の対象にすべきだ。造林については8割までは森林組合がやっているんです。素材生産は15%しかやってない。あとの85%のうちの10%が自分の山を自分で切るのがありますが、65%は名もない、あるいは土建業と兼務する山師さんたちがやっているんです。これを強くすることが必要だと私は思います。
 森林組合の制度改正問題が次の国会に出ると思います。これをもっと強化しなきゃいけない。おっしゃるように、農協も農業離れしています。銀行であれば,保険会社のまねをして、広域合併をやっているわけです。農協、JAというんです。私は悪口をいって、「あれはJAじゃない。じゃ、さよなら。」(笑)

梶山((社)経済同友会)
 ことしの9月から林業問題を集中的に検討しまして、いろいろと私なりに疑問に思い始めたのは、外材の輸入比率が非常に高い。先ほど話に出ましたけれども、これは海外の熱帯雨林に加えてシベリアのタイガとか、これの破壊につながっている。他方、基本的にこの国の森林資源は非常に豊富ですので、この自給率を高めることができれば、その分熱帯雨林の保護につながるわけです。そういうことから考えますと、林業の再生をまず考えるのが、一番の基本ではないかなと思うわけです。
 その点に関して、林業基本法を見ますと、いまひとつよくわからないところがございます。あと、どうして日本の林業がだめになったかを分析しますと、幾つか要因があると思います。1つは、山林の所有構造が非常に細切れである。したがって、計画的な伐採ができない。林道の整備もできない。森林組合のお話が先ほどありましたけれども、これも結局技術開発とかコストをいかに下げるかとか、そういう努力を全くしてこなかった。こういうことが日本の林業の高コスト構造につながっている。
 したがいまして、ここを抜本的に改革しないと、高コスト体質は依然としてそのままである。先ほど交付税の話も出ましたけれども、高コスト体質を温存したままで、税金で森林を整備しようとしたら、とてつもないお金がかかるわけです。順序といたしましては、徹底的に林業の再生を目指す。それで賄い切れないものについては交付税とかいう話が出てくるんだったら、わかるんですけれども、まず交付税ありきは、私は今の段階では非常に疑問に思っております。
 そういうことで林業の再生について主に先生がどういうふうに考えておられるかを伺いたいと思います。


 70何年か、21世紀のグリーンプランへの構え、かつて経済同友会が大変すぐれた将来方向を示されたあの意見に私も基本的に全く賛成です。
 今のように、森林所有者が零細である、そこで所有と利用との関係を分離する。森林所有者がみずから山の経営じゃなくて、所有と利用を分離する。分離して、利用、活動、生業といった方がいい山の仕事をやるのを、今の森林組合に任せることができればいいわけですが、今の森林組合じゃなくて、林業の組織をつくらなきゃいけない。林業担い手機構をつくる必要がある、私はそう思っています。基本的には同じだろうと思いますが、初めに交付税ありきというのは、先ほど町村の体制の話をし過ぎたから、そっちに行ったわけで、今の財政制度を変えなきゃいけないということであります。

前澤(株式会社プレック研究所
 手短に1つだけお尋ねいたします。
 最近森林認証ですか、FSC、少しずつ日本でも始まってきているようですが、今後の見通しといいましょうか、日本でどんなふうに広がっていくのか否かも含めて、先生のお考えをお聞きしたいと思います。


 今のところFSCは三重県の速見林業と高知の檮原林業、私は先週高知の檮原森林組合を見てきた。まだアサヒビールのは見ていないんですが、東京農工大学の演習林、この4者しかないんです。恐らく今後どんどん伸びていくと思う。伸びていくための条件としては、FSCのマークのついた材を国民が優先して選択してくれなきゃいけない。国民といっても、1軒1軒家を建てる人が木を選ぶわけじゃなくて、工務店なり設計士の方、つまり皆さん方がFSCの木材を使うように進めていく必要があると私は思います。
 1軒の家の中で木材費というのは大体15%からせいぜい2割です。数寄屋づくりはわかりませんが。そこで1割上がったって全体の中で2%、大したことないといっては悪いけれども。その意識を持って、FSC、環境を守る木材を使ってくれるのかどうかということを決めるのは施主じゃなくて、工務店や建築業界の皆さん方だと私は思っております。
 どうも大変失礼いたしました。(拍手)

谷口
 都市経営フォーラムはこれで今年は終わりになります。来年もまた引き続きよろしくお願いします。
 きょうは森先生においでいただきました。どうもありがとうございました。


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