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第176回都市経営フォーラム

都市のリスクマネジメントを考える

講師:鈴木 敏正 氏
鞄本総合研究所 理事・主席研究員


日付:2002年8月22日(木)
場所:後楽国際ビルディング大ホール

 

1.現代社会におけるリスク問題

2.都市におけるリスク問題

3.都市におけるリスクマネジメントシステム

4.リスクにタフな都市及び都市経営に向けて

 

フリーディスカッション




 ただいま紹介いただきました鈴木でございます。
 きょう私に与えられましたテーマは、「都市のリスクマネジメントを考える」ということですが、残念ながら、私ふだんから都市問題を考えているわけではございません。したがって、偉そうに都市のリスクマネジメントを皆さんにお話しするような立場でも資格もございません。ただ、リスクマネジメントという視点からもう一度都市を見直してみたらいかがでしょうかということを今日はお話したいと思います。
 先ほど申し上げましたように、私は都市をリスクマネジメントの視点からいつも考えているわけではございません。今回このような機会をいただいたことをきっかけに、リスクマネジメントという立場から見たときに、どんな都市が見えてくるのか、あるいは都市の将来が見えてくるのかということで、考えてみました。今日は、リスクマネジメント、危機管理という現代のキーワードになっている言葉の意味するところについて話をさせていただくと共に、リスクマネジメントに携わっている立場から見える都市を、ご紹介させていただきたいと思っております。



1.現代社会におけるリスク問題

 (パワーポイント−1)
 都市のリスクマネジメントを考えるというのは、別な言い方をすると、現代社会におけるリスク問題を全面的に語ることになるだろうと思います。皆さんが日々面しているというか、対している都市が、現代社会全部をある意味では反映しており、その中で皆さんは、リスクをどう考えるかという立場に立たされているということだろうと思います。
 いつか都市リスクを勉強したいと思っておりましたのでこの機会に都市問題というものを、リスクマネジメント的な視点で考えてみようと思い、今回の講演を引き受けさせていただきました。その考え方のベースにと考えたのが「リスクマネジメントシステム」です。「リスクマネジメントシステム」というのは、リスクマネジメントに関する「メソドロジー」と考えていただければよろしいかと思います。昨年JISに国内標準規格として発表したものですが、その視点から考えてみようと思います。
 ところが、いざ都市を考えたときに、ここにおける様々な行為の主体は一体誰なんだろうか、また、都市はどのようなメカニズムで動いているのかなどなど考えていたら、マネジメントシステムに行き着くまでにいろんなことを考えなきゃいけないということに気がつきました。
 そういう意味では、当初リスクマネジメントシステムということを基に都市リスクについて示唆できるものをお話しようと思っていたのですが、実はそこまで行き着いていないというのが正直なところです。したがって今日は「都市のリスクマネジメントを考える」の序章でご勘弁いただきたいと思います。
 都市のリスクマネジメントシステムは、名前だけにせよ、中世のころから提案されていました。そのあたりも踏まえて、メソドロジーとしてのリスクマネジメントシステムを都市に適用したときに、一体どんな姿が見えてくるのか、そこでの課題は何なのかということをお話したいと考えております。
(パワーポイント−2)
 さて、リスクというのは今どんな分野でも語られる、いわばキーワードとなっています。現代社会の混沌あるいは不確実性の中で、それでも未来に向けて進むためには、リスクも考えておかなければならないということなのだと思います。
 ところが、リスクは、それぞれの人の立場とか感情とかによって異なります。あるいは人によってリスクに関して思うところが全然違う場合もあるわけです。そういうことで都市におけるリスクを考える前に、リスク概念は、社会的にどんな形で出てきたのかというのを整理し、若干の定義を試みたいと思います。そしてそれを踏まえた上で今回のお話をしていきたいと思います。 (パワーポイント−3) 
 今日(こんにち)使われているリスクというものは、近代社会の中に入って初めて出てきた概念です。私の知っている限り、西欧、ヨーロッパ、あるいは伝統的な文化を持っている中国にしても、あるいは中近東にしても、エジプトにしても、中世のあたりまではリスクという概念はほとんどなかったと思います。
 歴史上、初めてリスクという言葉が出てきたのは、概ね16世紀から17世紀ぐらいにかけてです。ヨーロッパの探検家とか、探検家ではなくてもそれに近い冒険的な商人たちが、東へ東へ、あるいは西へ西へと世界に向けて航海を始めたころに出てきた概念と考えていただいてよろしいかと思います。
 もともとのリスクの語源は、ポルトガル語で、海図なき航海、要するに、海図もないところへ向けて海に漕ぎ出していくというものです。海図なき航海の「航海」というのは、空間にかかわる言葉ですので、リスクというのは、当初ある意味では未知の世界に行くというものだったのでしょう。
 その次に出てきたのは、時間にかかわる言葉としての意味でした。今日よりも明日、あるいは1年後、どんどん先が見えなくなっている。明日はどうするのだろうか、あるいは1年後はどうするんだろうか。その時間を考えたときに、不確実性を考えざるを得ない。そのときに時間に関わる言葉としてリスクが使われるようになってきたわけです。
 次に、空間、時間を超えて、人間の意思に関わるものとしてリスクが使われてきました。例えば都市あるいは建物をつくる、といった行動は人間の意思の結果としてあるわけです。しかしその出来上がったものが、この人間社会にもたらす影響は何なのか、といったことに関してその予測がつかない、ある人間の行為の結果としても不確実性が生まれるということが認識されてきたわけです。そういう人間の意思にかかわるものとしてリスクが使われてきたということです。
 現代いわれているリスクは、不確実な状況を全部ひっくるめて表したものと考えられます。空間、時間の不確実さ、人間の意思の不確実さ、あるいは結果の不確実さ、全部含めて一切合財、今のリスクの中には含まれているのです。
 そう考えると、皆さんが扱おうとしている都市は、空間、時間等全ての不確実を抱えた対象です。今あることがすべてではなくて常に変化する対象です。例えば、あした、あるいは何年後、何十年後も含めて都市ということを考えなければならないということです。また、そこに住んでいる人、来る人、去っていく人も含めて、どんな意思を持つのかを考える必要があります。これは都市を造った人、あるいは経営している人とは関係なく色々な意思が都市の中にあるからです。都市に集まる人々がどんな行動をするかわからないし、その結果、街がどうなるかわからないという意味で、都市というのは、空間とか時間、意思決定、不確実な状況、すべてを含む、ある意味ではリスクの集合体ともいえます。そこが都市の一番おもしろいところであり、難しいところでもあるんじゃないかと思います。
(パワーポイント−4)
 今非常にあいまいな概念としての空間、時間、人間の意思についてお話ししました。そういう情念的な話だけをしていても前に進みませんので、リスクをどういう形で捉えたらいいのか、あるいはリスク下である決定を下すときに、ロジカルに取り扱うためのべースになる考え方は何なのかということを示してみようと思います。
 いろんな表示の仕方がありますけれども、一番シンプルで、だれも異議を唱えないであろう定義の仕方についてお話したいと思います。
 1つは、アンサーテンティー(不確実性)を示す項です。さっきお話した空間的な不確実性、時間の不確実性、あるいは人間の意思の不確実性、すべての不確実さを表現する項です。
 もう1つは、不確実な物事が起きて、結果がもたらされることを示す項です。リザルタント、つまり物事の結果を表しています。後でお話ししますけれども、結果は受け手にとってマイナスだけじゃなくてプラスもありますので、この項は、人間の行為のもたらす結果そのものを示すと考えてもよいかと思います。
 このように、リスクを不確実性と結果という2つの項で表そうというものです。
 当然のことながら、結果は人によって異なります。つまり、だれにとっての結果なのかが重要となります。同じ事象であっても、私にとっての結果と、皆さんのうちのだれかの結果とは違うかもしれない。これは立場の違いとか考え方の違いによって結果が違ってくることを意味しています。そういう意味では、結果を考える場合、それがだれにとってのものであるかを常に明確にしないとだめだということです。
 さて、余談ですが100%確実な事象をリスクとは言いません。ともすると、危険な状態をリスクととられがちですが、これはリスクではありません。つまり確実にこれがおきる、あした必ずこれが起きる、あるいは10秒後にこれが起きる、そういうことに対してはリスクとは言わないわけです。なぜかというと、不確実ではないからです。このようにリスクというのは、不確実な状態、あるいは確実なものではないものをいいます。
 さて、いまだに我々の中で議論されるのは、リスクはプライオリに存在するかどうかということです。つまり、我々が何にも気がつかないうちに、危険な状態が迫ってきているという状況です。起きるか起きないかも当然わからない。それは私の上を知らぬ間に過ぎ去っていくかもしれないしある日突然身に降りかかってくるかもしれない。これをリスクというかどうかです。
 リスクは、認識して初めてリスクとなるという言葉があります。不確実であっても、どんな情報であろうとも、その情報を集めて、自らリスクがあるということを認識しなければマネジメントは出来ません。都市リスクが典型なのですが、我々は通常、リスクが顕在化して結果が出てから初めてリスクの存在を認知するわけです。
 それでは、どの段階からリスクとして考えるべきなのか、ですが、この解が都市リスクを考えるに当たって重要になると思います。
 それと、ある行動の結果としてリスクが発生するという事実に対する認識が重要であると考えています。先ほど言いましたように、人間は意思があり、その意思に基づいて行動します。その行動の結果、そこには何らかのリスクが生まれます。つまり社会とか組織、もちろん個人の意思がリスクを生み出すと考えたらいいのではないでしょうか。これは後でもお話しいたしますが、リスクの発生には、非常に重要なところで人間の意思が介在しているということです。
 もう1つ重要なことは、リスクの顕在化による他者への影響の可能性です。単純にいうと、ある結果がだれかの被害になることもあるということです。影響の受け手とある行為の意思決定者が相違しているということです。例えば、国、自治体、企業、あるいは個人がある意思決定を下したことを想定してみます。意思決定者である自分がその結果を受けるのだったら、それはそれで、ある意味、覚悟をしていたわけですから仕方のないことといえます。ところが問題は、意思決定者と影響の受け手、つまり被害の受け手が異なることがあるということです。これをリスクの非内部完結性と言います。リスクが内部完結すること、つまり、因果応報であればそれなりに納得できます。つまり私がやったことの結果を私が受ける、私が決めたんだから、これはしようがないね、と諦められるでしょう。ところが、意思決定者と関係ない人々が影響を受けることがあるわけです。これこそが現代で起きているいろんなリスク問題の重要な点であると考えられます。
 例えば、最近の食品問題。世の中に出ている製品を買うか買わないかというのはその人が決めることです。しかし、それ以上に安全であるとして売ることの意思決定をした企業、あるいはそれを認可した行政も、一方であります。後者の企業の意思決定に問題があったのであれば最終的にその会社が指弾されるべきで、その結果破産をしてもそれはそれで自業自得です。これはある意味では因果応報で報復を受けるということで仕方のないことだと思いますが、問題はそれを買って食べた人が被害を長期間にわたって受けるということです。
 もうちょっと別な例でお話します。あるところに工場があり、その工場で爆発事故が起こったとします。そこに住む人たちは、そこに工場があるということがわかっていても、どこまで危険かわからないでその近くに家を買ったと考えられます。さてある日その工場が爆発事故を起こすことによって、家族全員が亡くなってしまうという例です。家を買った人の意思に問題があったといえるでしょうか。この例は都市リスクを考えるに当たって非常に重要な示唆を含んでいると思います。
 ある人の意思、あるいはある組織の意思の結果を、その意思決定者と全く違ういわばいわれなき人々が被害として受けざるを得ないということがある、というのも、リスクの非常に重要で不幸な特徴だと思います。
 一般的には被害をいかにコントロールするか、あるいはマネジメントするかというのがリスクマネジメントの基本的な役割としてきました。ところが、これが現代になってきて、金融など、非常にブレの大きいもの、つまりプラスの大きいところからマイナスの大きいところまでブレるような結果を持つ例が現れてきました。そのため現在では結果は正にも負にもなる、とするのが一般的な考え方になっています。負だけじゃなくて、プラスも含めてマネジメントの対象にしようという概念が、金融を中心にしたリスクマネジメントの考え方です。
 それから、もう1つ現代のリスクの特徴についてお話します。リスクの顕在化による結果を被害だけと仮定してみましょう。この被害が不可逆性を持つということです。これは最初お話ししましたけれども、中世、16世紀ぐらいに最初にリスクという言葉ができたときに、それと対のところで、保険という概念が生まれました。冒険的に世界に航海をしていったその船に対して、出発前にいわば保険料に当たるようなお金を払ってくれれば、仮に沈んだときには、その沈んだ船の荷主さんなり船主さんにはそれに見合う保険金を払ってあげましょうという、今で言う保険の概念が出てきました。このように、保険で被害はカバーできると長い間考えられてきました。さて現代では、世界のリスクに対して保険でカバーできるのは10%を切っているんじゃないかといわれています。7%から8%ぐらいでしょうか。現代の企業なり国なり、あるいは個人も含めていろんなところが負っているリスクについて9割ぐらいは保険ではカバーできないということです。これには2つ理由があります。保険で幾らお金をもらっても、被害は回復できないと考えているものが多いということです。例えば人間の命とかけがなどはお金をもらっても被害の回復とは言えないというわけです。これが被害の不可逆性です。
 ビジネスの例でお話しましょう。金融機関などで、1時間コンピューターシステムが止まってしまった、あるいは6時間データが扱えないということを想定してください。この企業は保険を掛けていて、そのような事態になったときにはある一定の保険金を手にすることができるかもしれませんが、しかし、その間のデータ喪失についてはもう取り戻すことができませんし、その被害たるや、お金では取り戻せないということです。現代はコンピューターシステムに非常に依存する企業が多くなっています。コンピューターシステムが1時間止まったことによって、収益的には半年ぐらいリカバリーできない。それが1週間になると、1年たっても2年たっても、そのときの損失はカバーできない。1カ月コンピューターシステムが止まってしまうと、2年から3年のうちにそのような会社の80%はつぶれてしまうというアメリカの統計もあります。これが、現代リスクの特徴の一つとしての、被害の非可逆性です。
 もう1つは、リスクの個性化ということです。これは同じ被害であっても、人によって、あるいは、組織の立場、時代によって、その受け方が違い、重大さも違ってくるということです。1つ1つのリスクが保険でカバーできるような、別の言い方をすれば大数の法則になるようなリスクとして一般化出来るものではなくなってきているということです。リスクは1つ1つ全部個性化しており、個性化したリスクに対して、トータルとしてだれかが対応してくれるのでなく、自分たちが自らそれぞれのリスクに対してマネジメントしていかなきゃいけない、こういう時代になってきたというのが特徴なんじゃないかと思います。
(パワーポイント−5)
 これまで現代リスクの特徴についてお話をしてきました。次に、そういうリスクを抱えた現代社会は、昔の社会と一体何が違ってきたのか。あるいはそのようなリスクを受ける社会は、一体どんな社会なんだろうかということを考えてみたいと思います。
 皆さんご存じのように、リスクという概念は前近代文明にはほとんど見られなかったものです。これはなぜかというと、人の行動の結果は、運命であったり、宿命であると考えられていたからです。うまくいっても神の意思だし、悪くいっても神のおぼしめしであると考えていたわけです。日本でも災害は人知の至るところじゃない、神のなせる業だと考え、諦めてきたわけです。秩序、伝統文化の中ではリスクはないと考えられてきました。
 ところが、近代文明になって、将来の可能性を積極的に評価した上で、あえて危険を冒してもいいじゃないかという考えが出てきました。それが競争力あるいは差別化を生み出すもの、社会の競争の源泉であると考えられてきました。あるいは未来志向ともいえます。未来とは何かというと、征服と開拓の対象であり、未来というのは恐れじゃなくて、開拓なり征服の対象であると考えたわけです。そこにリスクという概念が出てきたわけです。
 別な言い方をすると、過去との決別を志向する社会がリスクという概念を生み出してきたわけです。近代文明はリスクを認識し、リスクに対して自分たちがどう行動していくのかが問われる社会です。そのような社会の変化の中でリスクという概念が出てきたと考えるのが一番わかりやすいだろうと思います。



2.都市におけるリスク問題

(パワーポイント−6)
 さて次に今回の本題である都市におけるリスクを考えてみようと思います。私がこれからお話をする目的、また何をポイントとして考えようとしているのかを先にお話をしておきます。1つは、都市におけるリスクを考える上において、都市に発生するリスクの原因者は一体誰なんだろうかということです。リスクというのは、先ほどいいましたように、ある意思を持った人がいて、その行動の結果としてある被害、あるいはプラスの結果を生み出すと考えられます。さてそのような意思を持った人とは都市においては誰なのでしょうか。神というのが前近代における意思決定者であるのならば、現代における都市の中で意思を持つのは誰なのでしょうか。これはリスクの原因者は誰なのかということを問うているのと同じことです。
 2つ目は、リスク進展のドライバーは誰なのかということです。リスクは、そのままとどまっているんじゃなくて変化します。都市の構造が変わったり、経済環境が変わったりすると、リスクも変わってきます。リスクが芽生えて、進展をする中で、それをドライブさせていく、あるいは進展させるのは一体誰なんだろうということです。都市という漠然としたものなのか、あるいは人という具体的なものなのでしょうか。
 リスクが進展して取り返しのつかない被害を起こしてしまうようなとき、そのドライバーは誰なのかという視点でリスクを考えていただきたいと思います。
 3つ目は、これが非常に重要なんですが、リスク顕在時の結果の受け手というのは誰なんだろうかということです。つまり、リスクが顕在化して起きた被害は一体誰が負わなければならないのかということです。誰が受け手なんだろうかということです。この視点も非常に重要です。これをあいまいにしている限り、有効なリスクの対策を立てることはできません。そういう意味では、1つ1つのリスクにとってその被害の受け手は誰なのかということを明らかにする必要があります。
 もう1つは、そういうリスクに対して、対応しなければならないのは誰かということです。これをリスク負担者と名づけましょう。このようなリスク負担者というのは、都市において誰なのかという視点をもって考えていただきたいと思います。
 そういう4つの視点で今からお話しすることを聞いていただければ幸いです。
(パワーポイント−7)
 まず、都市におけるリスクというものを考えるために、リスクを分類してみようと思います。これは最近イギリスの社会経済学者が提案しているものです。リスクは、外部リスクと内部リスクの2つに分類されるとしています。
 1つは外部リスクです。これは未来永劫変わることのない伝統などに起因して発生するものだとしています。つまり、固定的なもので、自分の営みとは関係なく、プライオリに社会に存在するものです。社会学的には伝統のようなもの、その他では地震とか、水害などです。これらを外部リスクといいます。
 一方、内部リスクです。これは今挙げたような伝統とか自然、そういうものに対しての人間の知識が進化し、それによって人間があるものを造ったり、あるいはある行動を起こしたことによって出来上がったリスクを指します。別の言い方をすると、人工のリスクです。もともとからあるんじゃなくて、ある行動の結果として生まれたリスクともいえます。あるものをつくりたい、例えばある世界をつくりたい、ある技術を使って物をつくりたい、という意思がありそれに従って物をつくったりするとその途端あわせてリスクを生み出すということになっているわけです。人間の行動の結果として出来上がったリスクともいえます。この2つのリスクについてこれから話を進めていきます。
(パワーポイント−8)
 先ほどお話しました外部リスクに対し、顕在化したときの被害をいかに少なくするかという対策は主として人間の知識や知恵の産物である科学技術の力を使います。一方、内部リスクは、そのような科学技術が造り出したものです。一方では科学技術で被害を軽減させながら、一方では科学技術によって造り出されるリスク、この二律背反の中で我々はリスクを考えなければならないという、とても難しいところにいるわけです。
 自然環境リスクといわれるものは殆どの場合、人間活動の影響を受けて造られて来たものです。つまり環境リスクといわれるものは、自然環境が、自ら変わってきたものじゃなく、人間の知恵とか人間の造り出した科学技術、そういうものから生み出されてきたということです。したがって、環境リスクは外部リスクというよりも内部リスクと考えた方がいいようです。
 新しいものをつくろうとすると、そこには何らかのリスクが併せて生まれます。つまり、我々の行動そのものが、リスクを生み出しているということを、先に話しました。我々の営みそのものがリスクを作り出しているといっても過言ではないのでしょう。
 さて、都市リスクに戻ってみましょう。都市の築造とか経営というのは、その行為自体がリスクの源泉になってきているとも解釈できます。最初つくった意思はその後時が経つに従って希薄になっていく中で都市がいつの間にか変わっていくという状況、都市の進展の中で色々な知恵や科学技術が投入されていくといった状態、それら、どの状況でも、新しいリスクは生まれてきます。都市というのはリスクを自ら生み出し全部抱え込みながら進んでいると考えられます。
 例えば、去年9月11日のニューヨークのテロについて考えてみましょう。都市をつくらなければ、つまり我々が都市なんていうことを考えなければ、ニューヨークは作られなかったでしょうし、もちろんマンハッタンという街も無かったはずです。マンハッタンの街がなければ、ワールド・トレード・センターも存在するわけがなかったでしょう。それでは、ワールド・トレード・センターがなければ、9月11日のテロはなかったのか?そういうことを考えるのが、都市のリスクを考えるときに非常に重要なことなんだろうと思います。
 次に都市のリスクとして、どんなものがあるだろうかという例を幾つか考え、その上で、我々はこれからどう対処しなければいけないのかというあたりをお話ししたいと思います。
 9月11日の事件というのは、我々リスクマネジメントあるいは危機管理をやっている者にとってとりわけショッキングなことであり、エポックメーキングな出来事でした。私は9月11日にマンハッタンにいました。そしてその後1週間、閉じ込められたわけです。社会の中のテロという事態をリスクマネジメントの対象に現実的な意味でするべきかどうかと以前から議論していました。その議論の中で、これはリスクマネジメントの対象なんかじゃない、との意見が多く出ました。なぜなら事前の対策、あるいは事後の対応共々社会の問題だと考えていたからです。テロ事件の発生とその進展シナリオを我々も書いていましたが、そんなことが現実化するわけがないとして発生そのものを否定的に見ていたところがありました。するわけがないとした前提は、社会の今の構造、政治的な枠組みも含めて、決してやらないという人間としての歯どめ、それが人間社会にあるだろうと考えていたからです。非常に弱いそうして楽観的な前提なんですけれども、それが社会の基本になっていると考えていたわけです。
 あの朝、セブンス・アベニューの51丁目のホテルにいました。ホテルの窓から見ると通りから車が全くなくなっているのに気づき、外へ出てみました。通りの真ん中に立って、ワールド・トレード・センターの方向を見ました。いつもならセブンス・アベニューからローアーマンハッタンを見ると、道の真ん中の空間にワールド・トレード・センターが見えます。当初、煙でその方向が全く見えませんでした。3日ぐらい経ち、煙がおさまって、青空が見えたのですが、それと同時にいつもなら、道の向こうにあるべきものがない、都市の中であるべきものがないと感じたときの心の空白感を1年たった今でも忘れられません。
 その後街がどうやって変わったのかを企業を例にしてお話したいと思います。ワールド・トレード・センターは、金融街の近くに位置し、とりわけコンピュータシステムの依存度の高い業種の企業が集積していたところでした。あの事件を経て、生き延びた企業と生き延びられなかった企業がありましたが、コンピュータシステムを物理的に失ったり、稼動できなかった企業は生き延びられなかった企業の典型です。その間、ビジネスデータを使えなかったり、データそのものを失った企業は致命的な被害を受けていたわけです。
 一方、生きているところはどういう企業かというと、他の場所でとにかく必要データを維持し続け、事業継続をした企業です。とりわけコンピュータシステムの稼動が重要でした。アタックを受けた直後に途絶することなくコンピュータシステムを稼動できた企業は、基本的に事業を途絶することなく生き延びたわけです。それらは、自分のところのセンターなり契約しているアウトソーサーが遠隔地にあり、そこで2カ月あるいは3カ月に1回テストをしながら、危機発生時に同じ環境のコンピューターでネットワーク管理、日常のトランザクション処理などの業務を実施できた企業でした。データは常にバックアップされ、さらにその運営ができるように必要な人材、人員もそこに来られるようになっており、そこですぐに活動を始められるようにな環境を用意していた会社です。世界中の事業をそのまま継続する方策がとられていたわけです。それが出来ていたか、出来てないかということで、会社の運命が大きく変わったわけです。これはビジネスコンティニュイティーという概念です。
 リスクマネジメントをやっている者にとって、ビジネスコンティニュイティーというのは概念としては知っていました。地震などの災害時の復旧という意味でディザスター・リカバリーを考えていましたが、どんな場合であっても、ビジネスを継続させる、という考え方が強くなったのは明らかに9月11日の事件をきっかけにしてでした。
 先々週もアメリカで、ビジネスコンティニュイティーをビジネスとしている会社と日本の中でのこのようなビジネスの将来可能性について議論をしました。近々、多くの企業でこのような考え方に基づいて事業継続のためのシステムを作るようになると思います。都市にいるということは、そのリスクが結果として出るまで殆どの場合わからない、あるいはわかっていてもその阻止は、一企業では無理である、というのがこれまでの認識です。このような場合、もし起こったときに被害をどれだけ少なくするか、どれだけフレキシブルに、あるいは機動的に動いて致命的な被害にならないようにするのかというのが重要であるか、ということです。事後の対応をどれだけできるかが都市のリスクマネジメントの成功の鍵を握っているのかもしれません。
(パワーポイント−9)
 もう1つの例として、阪神・淡路大震災をとりあげ、都市のリスクという観点から考えてみたいと思います。これは3年ほど前にある学会で発表したものです。阪神・淡路大震災の被害をどう考えたらいいのかということを考察したものの一部です。このときの被害は、公には9兆9500億円程度といわれています。一方、1994年のGDPは、478兆円程度でした。したがって被害はGDPの2.08%ぐらいとなります。GDPはいわば、経済でいうところのフローを示す指標です。被害の深刻さを考えるのならば資産に対してどのくらいの被害を受けたかで判断するのが適切かと思います。
 通常、国の資産は、GDPの3倍から4倍といわれています。仮に我が国の総資産をGDPの3倍としてみると、阪神・淡路大震災の被害は総資産の0.7%程度であったということになり今まで世界で起きた地震被害の中でいうと、かなり大きな方ではありますがそれでも総資産の1%以下だったわけです。このことからあの災害も、国家的な規模のものではなくローカルな災害と考えてもいいのではないかとの考えを示したものです。
(パワーポイント−10)
 ところで、被害地神戸のそれぞれの区である長田とか須磨でそのフローを生み出している事業所の数を数えてみたのですが、その数は97年になっても回復しないのです。あの災害で激震区では30%の事業者が都市からパッといなくなってしまったのです。これはまさに都市が抱えている重大リスクの一つであろうと考えられます。会社が失くなり、働く場が失くなって、そこの勤務者は職を失い、結局そこの街に住めなくなったわけです。そして住民がその街からいなくなりました。そして7年経っても、街を去っていった住民は戻ってきていません。
 都市が抱えているリスクは、単に建物の崩壊とかそういうものだけじゃなくて、あることをきっかけに人がどのようになるのかに大いに関係しています。したがって労働問題、就労問題、ホームレスの問題など多くが、都市のリスクの重要な要素になっているといってもいいのかもしれません。
 そういう意味では、阪神・淡路大震災は、都市問題の中での何が都市リスクなのかを考えさせてくれたきわめて貴重な体験だったのではないかと考えています。
 さてそういう都市のリスクが生まれるのは、どんなメカニズムなのかを考えてみたいと思います。社会の意思、個人の意思、つまり様々な意思が都市建設・経営の基本にあります。自然発生的に都市ができたり、今までの伝統に乗って様々な人々の間での意思のぶつかり合いもなく都市経営をまさに自然にやっていくことは恐らくこれから先、決してないだろうと思います。これからは我々の社会の意思をどのように集約しどうやって反映させるか、これが都市においては非常に重要なんだろうと思います。
 そのような意志に基づいての都市建設・経営のためには我々がつくり上げた科学技術、技能、そういうものを投入しなければなりません。つまり、意思と科学技術、この2つによって都市はつくられていきます。そこに人が集まってきて都市住民が誕生し、集積が起こります。残念ながら、あるものができた途端に、潜在的なリスクが誕生しているということを先程お話ししました。つまり被害を受けるものがあるからリスクも存在します。そう考えると、都市ができたこと、そのことがリスクの源になっていると言えるでしょう。
 一方では、人が集まってきて、新しい文化とか価値観が生まれ、その結果、多様な文化が出来上がります。それまでの伝統とか制度の崩壊、あるいは再構築されて、人間はより自由になり、行動選択の自由、多様な都市生活が可能となってきます。しかしながらこの一連の結果として潜在的なリスクが発生せざるを得ないというのも事実です。
 社会の意思に基づいて、都市の建設がなされ、その過程で、科学技術が導入され、その結果、外部リスク、内部リスクが発生するという都市の宿命があります。問題は、このような2種類のリスクをどうやってマネジメントしていくのかということです。
 内部リスクは、一般に推定不能だといわれています。顕在化するまで認識できないか、あるいは潜在化していて表に表れない場合が多いからです。内部リスクは様々な場所、場面等に現れてきます。また都市の中の住民階層、生活レベルの違いとか、地域、あるいは年齢層など、きわめて局部的に現れてもきます。注意深くそれぞれの場面を観察している人がいればある程度初期の段階でわかるのかもしれませんが、一般にはリスクが顕在化して初めてその重大性が認識されるものです。したがって結果が出るまで認知できないというのが、都市の中のリスクの非常に大きな特徴です。
(パワーポイント−11)
 リスクがふえ続けているにもかかわらず、われわれの頭ではリスクを認識できず、その結果「リスクはない」と思い込んでしまうということがよくあります。そういう意味では「it's too late to handle (overcome)」つまりリスクをハンドリングする決心したときにはもう遅いというわけです。非常に悲観的なことをいっていますけれども、現実の状況としてはそう考えざるを得ません。
 重大な結果を予測できない、またそのような事態が本当に起きるのかどうかも通常はわからないという2つの未知の中で我々は自らを守るという対処を求められているのです。
(パワーポイント−12)
 都市に関するリスクについてこのような特徴を考えたときに、我々はどのような対処をしたらよいのか。2つの対処の仕方があります。1つは、深刻になることなど今の時点ではわからない。どうなるかわからない。経済学者はこんなことを言っている。科学者はこんなことを言っている。住民の人がこんなことを言っている。だけど、どれもまだみんなが納得できるものではない。そんなわからない時点ではむやみに騒いだり、人々を徒に混乱させるべきじゃない。だから、リスクに関する知見を公表すべきでない。はっきりするまで、みんなには黙っていよう、という立場です。
 もう1つは、リスク発生、顕在化の可能性についてのはっきりした知見は無い。それでも想定するリスクが仮に顕在化し、それが深刻な事態になるようなものであればそうなったときの状況について積極的に情報を公表しよう、という立場です。あるいは警鐘を鳴らしておこうとするものです。みんなして大騒ぎしよう。これは大変だ大変だと、とにかく社会に知らせておこう。オオカミ少年になってもいいというわけです。被害を少なくする可能性があるのなら、ある意味では大騒ぎしてもいいじゃないかという立場です。
(パワーポイント−13)
 リスクマネジメント的立場で考える、という意味についてお話ししようと思います。
 1つは、どんなことが起きるか確かにわからないときには、とりあえず想定される結果の中で最悪のケースを考えておこうとの立場に立ちます。現代のリスク被害は非可逆的です。いったん起きてしまうと、被害を取り戻すことはできないものが多いと考えるからです。最悪のことを想定した上で、そこで間違ってしまったのなら諦めがつきますが、それを「大丈夫だよ、伏せておこう」といって、それで深刻な被害が実際に出たら、その被害を取り戻す手段は我々にはない場合が多いと考えるべきです。それがある意味では現代のリスクの大きな特徴だと考えています。被害軽減を考えるのだったら、危機管理的な発想、つまり最悪事態の想定をして、我々の社会がそれに対する対応策を持っているかどうかという議論をし、その結果を社会に公表して、より社会化して考えるべきだと思います。
 とりわけ身体的、精神的、環境的な被害は一度起こるともう元に戻れないということが強調されていいと思います。
 もう1つ、リスク対策に関する科学者、技術者の見解は、社会的に信頼されないような状況が生まれているという事実です。先ほど言いましたように、リスクを生み出したのはある意味、科学であり、技術でもあるわけです。そのような立場の科学・技術者がこれは大丈夫だよといっても、本当に信頼されるだろうかという問題です。そのような状況を冷静に考えてみたらどうだろうかというのが私の考えです。
 内部リスク、つまり、人工リスクに関してはその有無さえ統一的な見解がなく、もちろん対策の合意は形成されていないケースがたくさんあります。そのようなときに科学・技術の名の下に「安全である」とか「リスクはない」といってもそれがストレートに受け入れられる時代ではなくなってきていることも事実です。
 もう1つは、リスクを生み出した行為の決定者は誰なのか、また誰がリスクの原因者なのか、だれが被害者なのかを考えることが重要です。通常のリスクの場合、被害者は自らが行った行為の報復として被害を受けます。こういうのが基本的な構図です。ところが、都市においてはそのように明確になっていないのが現状です。自分とは関係ないところで、いろんな意思決定や都市行為がなされ、その結果としてのリスクの被害を実際に受けるのは都市住民それも当事者意識の殆どない人々であることが多いということです。都市リスクの被害者は、いわれなき第三者としての都市住民になることが多いという認識は重要です。
(パワーポイント−14)
 都市住民は、いわばいわれなき第三者として被害を受ける立場にあるという認識が、都市リスクを考えるときに非常に重要な視点だと先程お話しました。さてそのようなことを前提に、第三者的な都市住民が被害者の立場に立った時の対応について考えてみましょう。
 その原則は、「リスクの可能性が見えてきたとき、それを少なくとも無視しないでそこから想定しうる最悪の被害を自らが受けたと仮定して、対策を考えること」です。
 2つ目は、リスクに関して決定的な科学的な証拠がそろわなくても、とれる対策は実施するという立場に立つことです。つまり、可能性の大小に関係なく、これは結果としてこういう被害が想定される、こういう問題があるとわかったときには、その段階から対策を考えた方がいいということです。
 3つ目は、先ほども申し上げましたが、リスクを造り出した科学技術のこの件に関しての説得性は乏しいということを認識することの重要性です。もはや科学技術押しつけの対策は受け入れられないということです。科学技術が生み出したリスクを科学技術でまた強引に抑えていくことの説得性の乏しさです。対策の前に、全ての情報を公開し、誰が被害者で誰が加害者なのかということを含めて社会的に議論し、その結果を公表しながら対策を考えていくことが重要だと考えます。
 そういうことを踏まえた上で、被害者も自らの被害を最小化するためにやらなきゃいけないことが有る筈です。なぜなら、自らが対処することが最も効果的な対策になることも多いからです。それらを踏まえて結局は、都市住民自らがそのリスクを受け入れるか否か判断しなければならないのだと思います。結果、都市を去るという決断も下さなければならない人も出てくるでしょうが、それはそれで仕方のないことなのかもしれません。一方そのリスクを受け入れる場合にはその状況の中で未来に向けてどのような新しい営みを行うべきか自ら決めなければなりません。リスクの被害者であると同時に、リスクにある意味では自己責任で対処するということが都市住民の責務になっているのかもしれません。それくらい都市に住むということは覚悟がいることなのかもしれません。
 そういう意味では、都市住民はいわれなき第三者としての被害者であるにもかかわらず、実はリスク負担者にもならざるを得ないというきわめて不合理な立場にあるわけです。リスクに対してまず第一義的に対処できるのは都市住民本人であり、行政とか社会はその支援者にしか過ぎないのかもしれません。ただしある時間が経った段階、つまり被害が社会的になってきたときには、行政・社会は全面的にリスク負担者に変わって行きます。
(パワーポイント−15)
 結局、リスク負担者はリスクの被害者たる都市住民自らがならざるを得ないのでしょう。リスク発見とかリスクコントロール、あるいはリスクを負担する機能は行政組織を主にイメージした都市には基本的に無いと考えたわけです。
 結果が明らかになって初めて都市はリスクの存在に気づくという事実と、非可逆性のある被害の受け手は、都市住民あるいは都市で活動する企業にならざるを得ないとの認識は重要です。そう考えるとリスクの受け手がだれよりも敏感にリスクを発見して対処をすることが求められるということもご理解いただけると思います。そしてそのような住民や企業を、社会として、行政としてどうサポートし救済していくかが一方で求められるわけです。これは先ほどのアメリカの9月11日以来の企業の対処とか、そういうものを見て導き出した私の結論です。
(パワーポイント−16)
(パワーポイント−17)
 リスクを発見し、その情報を予防原則の立場から社会へ提供することが、都市経営に求められる非常に重要な役割です。

 ここでいう「予防原則」とは「危機管理の原則」と同義です。つまり最悪の結果を想定して現在の行動を決定する立場です。科学的知見が確立していなくても、あるリスクの発生によってもたらされる被害が深刻なものになるとの可能性があるのならばそれを前提に現在の行動を決めようという態度です。これはなぜかというと、結果が出るまで我々の社会はリスクの重大性に気づかないという傾向があるが、それでもその萌芽を感じたり、我々の頭の中で想像できる部分もある筈。そのような危惧のあるときは科学技術者の間で異論があったり有効な対策についての社会的な合意がなくてもとりあえず最悪の事態を想定してそれに対する対策を考えてあるものは実行に移していこうとする態度です。
 環境リスクについての議論がこれをよくあらわしています。地球温暖化について科学的にもまだ決着がついていません。このような中での国際的な対立は何かというと、まさに予防原則の立場に立つかどうかという点です。
 皆さんご存じのように、EU、主にドイツを中心にして地球温暖化について科学的な知見が不十分であっても、環境リスクへの対応は早目に講じなきゃだめだ。結果が出てきたときにはもう遅いのだ。今から対策を打たなければならないと主張してきました。
 一方で、アメリカは科学的知見が十分になるまで対策は待つべきだと主張しています。科学的な知見がはっきりし、因果関係がはっきりするまでは騒ぐ必要はないというわけです。
 この大きな対立は、予防原則の上に立つかどうかからきています。環境リスクに対する世界的な対立の軸であり、まだ今も続いています。
(パワーポイント−18)
 それでは次に、リスクに対して都市経営はどんな役割を果たすべきなんだろうかということを、お話したいと思います。先ほど都市リスク負担者は都市生活者であり、企業、組織にならざるを得ないと申しました。そのような認識の上で都市経営の目的は、リスク負担者たちの都市生活からの脱落を阻止したり、社会的に救済するための仕組みをつくり、公平、公正性のもとにその救済を継続的に実践すること、だと考えます。これは後でお話しする広義のリスクマネジメントシステムを都市においてどう構築するかということにつながってきます。
 不確実性を視野に入れて行動する人々が必要とする基本的な安全保障を提供するということも必要です。これは保険の概念そのものです。つまり、未来に向かって不確実な行動をする際に行う冒険に対して社会的に担保をするということです。冒険に失敗してもそれを支える仕組みが社会にあるということです。
 それと同じことが都市の機能の中になければいけないと思います。
 皆さんご存じのように、アメリカFEMAつまり危機管理庁は何か危機があったときに現地に入って、そこで軍隊の協力も得ながら、救助、救援を行うのが主機能と思われがちですが、それだけの機能じゃなくて、あそこは保険も引き受けています。
 それは、フラッド保険、つまり洪水保険です。日本では一般の保険会社が引き受けています。日本の河川は物理的、空間的にもかなり限定されておりその洪水面積もさほど大きくはなりません。ところが、アメリカでは例えばミシシッピー川などは、ずっと北からメキシコ湾までやってくるような川で、もしそのような河川が洪水を起こしてしまうととんでもない広い面積が被害を受けます。州をまたがって発生する被害額はとてつもなく大きくそれを幾ら再保険、再々保険に出そうとも民間保険会社では引き受けられないというわけです。そのような保険を引き受けるという機能もFEMAの中にあるのです。
 これはまさに社会の中での基本的な安全保障の1つを、国の機関が行うというものです。そういう意味では社会として、基本的にリスクに対する安全保障を人々に提供しているという側面があるということをご理解いただけると思います。
 少し古い話をします。イギリスのエリザベス王朝時代に救貧法、the poor lawというのがありました。これは国家における一番古いリスクマネジメントシステムだろうと思います。このときには教会が教区を単位として救貧税を徴収し、貧民の救済に充てていました。実際にはこれらのお金を使って慈善活動、子供たちの就業先の斡旋、労働機会の提供、などをしていたのですが、これらはリスクマネジメントシステムのある意味の形であると思います。
 もう1つ、地震を例にお話したいと思います。阪神・淡路大震災の4年後、1999年でしたか、台湾の集集で大きな地震がありました。あのときに調査団で4日目ぐらいに現地に入りました。通常は現地には入れなかったのですけれども、特別の計らいで軍隊の案内があり、集集の地元の町に入りました。
 そこでは、家族単位で道端にテントを張って被災直後からそこで生活をしていました。そのようなテントが至るところありました。そこに昼近くに行ったのですがテントの中に人がいないんです。何をしているかと訊いたところ、3日目ぐらいから、子供たちは学校に行っているとのことでした。もちろん学校も被災していて、青空なんですが、それでも子供を集めて学校を開いているのです。そこで子供たちに、今どういう状況になっているか先生が話しているんですね。
 大人はどうするかというと、仕事に行っているのです。被災者になってテントに住んでいてもです。国は地元にお金を出して、雇用を確保していたのです。工場、会社は閉鎖しているのですが、テントに入っているそれまで働いていた人たちを同じように雇用して、瓦礫処分とか、清掃とかをやってもらい、それにお金を払っているのです。被災者であっても働けるんだったら、仕事をするのが原則だとしたわけです。あの光景は神戸の震災のときと全く違うものでした。
 そのときに就労問題、教育問題、そういうものを含めて都市問題というのだと実感しました。
 そういう意味で、都市の中のリスクマネジメントとは、物を回復したり、つくり出すということだけじゃなくて、もちろん事前に耐震強化をしたりするのも重要ですが、それは本当に一部であって、リスク負担者である都市生活者あるいは企業の都市生活からの脱落を阻止したり、あるいは脱落した組織、人々を社会的に救済するための組織づくり、仕組みづくりを行うことだと思います。またそれを実行できるシステムを持つことが都市リスクに対して非常に大切だということです。、この原則に立って都市のリスクを考えなきゃいけないだろうというのが、私考えです。
(パワーポイント−19)
 その上で、リスクマネジメントシステムの中で一番重要だと主張したいのがリスクマネジメントポリシーです。リスクマネジメントをやるのは必ず人間であり、人間の意思がそこにある筈です。人間の意思があって、それに基づいて行動を起こすのであれば必ず目的がある筈です。その目的は誰でも一致するかというと必ずしもそうじゃない。都市におけるリスクを考えるときには、万人が納得する目的を設定するのはなかなか難しいだろうと思います。それだったら、我々の社会は何を大事にするか、何をしてはいけないか等を常にはっきりさせるのが重要なのではないかと思うのです。問題が起きそうになったり、起きたときにはそこに戻って考えればいいわけです。これが、都市のリスクマネジメントを考える上での非常に大きな原則になるんじゃないかと思います。
 企業においては、例えば社是や企業倫理に当たります。会社、組織は何を大事にしようとしているのかを明確にしておかなければなりません。例えばBSE問題では、その対処は行き着くところ、生産者か消費者かどちらを優先的に救済するかにかかっています。それを決めて宣言しなければどのような対策も中途半端になってしまうということです。我々の社会が何を目指しているのかを明確にしておかないと世界はどんどん不透明になってきてしまいます。都市においても何を大事にするかということを示すリスクマネジメントポリシーについて常に議論をし、その結果を社会的に明らかにしておくことが必要です。
 もう1つは、少なくともリスクの被害者の特定だけは責任を持ってするということです。原因と結果の因果関係が定かではなくても、とにかく被害者の特定だけはしなければなりません。
 もう1つは、被害者支援の弾力的な仕組みの確立です。社会保障とか生活保護とか労働機会提供、寄附の活用、固定的な手段じゃなくて、フレキシブルに活用できる仕組みを考え、被害者支援を実行しなければならないと考えます。
 今日は時間がないので、詳しい話はできないんですが、例えば、皆さんご存じの三宅島の被災者、あの人たちをどうやって救済していくかを考えていただきたいと思います。法律では昭和22年に出された災害救助法があります。ここでの原則は生活支援を基本的に物支援で行うことです。例えば被災者に食べ物を渡しましょう、住む場所を提供しましょう、ということです。
 しかし、多様な価値観を持っている被災者を一律に見て、お仕着せの「物」を支給することが本当に被災者の生活支援になっているかという問題があります。その壁を打ち破ったのは、寄附とか義援金です。その配分で被災者が、自分たちの生活に合った形でお金を使うことができるようになったわけです。ただ、基本的にはこの昭和22年に作られた法律の精神は変わっておらず、三宅島の被災者の方々に対し「生活支援」という本当の意味での支援がされているのかどうかを検証する必要があります。
 被害者救援、支援のフレキシブルな仕組みを都市の機能の中に組み込むことが必要であると考えています。都市の持っている様々な資源をどう活用し、どうやって被災者支援をしていくのかということを都市経営の中で常に考える必要があると思います。



3.都市におけるリスクマネジメントシステム

 昨年3月、「リスクマネジメントシステム構築のためのガイドライン」という表題でリスクマネジメントに関するJIS規格を世に出しました。今日のお話はそこで明らかにした「リスクマネジメントシステム」の考え方をベースとしております。しかしながら都市のリスクを今回考えてみて、まだまだ無力だし、メソドロジーとしては確立していないと反省しております。そういう意味では、皆さんにリスクマネジメントシステムの視点から、都市のリスクについて整理した形で未だお話できないことをお許しください。
 ただ、都市のリスクマネジメントを考える上においても、ここで提唱されているシステムの要素である機能を都市では誰がなすべきなのだろうかという視点で考えてみることは非常に重要かと思います。
(パワーポイント−21)
 リスクマネジメントの概要を示しているのがこの図です。リスクマネジメントシステムの構成要素とは次のようなものです。自分たちにとってのリスクとは何だろうかということを認識し、それに対して対策をつくること。さらに、対策を実施すること。その実施した対策の有効性を評価をすること。評価して、さらに必要なら是正改善すること。それら全体のプロセスについて最高経営者によるレビューを行いさらに高度なサイクルに入っていき、スパイラル的にシステムの強化を行っていくというものです。リスク変化の継続的な監視もこのシステムには要素として組み込まれています。
 これが計画、実施、評価、見直しという4つのプロセスからなる「リスクマネジメントシステム」です。また前提となる「リスクマネジメント方針の表明」、つまりリスクマネジメントポリシーも重要な要素として示されています。
(パワーポイント−22)
 リスクマネジメントシステムという観点からそれぞれの必要機能を「都市」においては誰が担うべきなのかということを考えてみてはどうでしょうか、というのが私からの問題提起です。例えばリスクを自ら発見するインテリジェント都市のイメージ、発見されたリスクの変化を常に監視している都市、リスクの危険性について警報を発する都市等を具体的に考えてみることが重要かと思います。都市住民が不安に思うリスクに対し、いつも誰かがウォッチングしており、もしそれが顕在化すれば、その被害をいかに少なくするかをすぐに考え実行に移すといった基本的な要素を実際行うのは誰なのかを具体的に考えることから始めるべきです。その上で、そのような機能を都市機能の中にどうビルトインすべきかを考えなければなりません。さらに、このようにして作り上げられたシステムの有効性の評価、監査機能を持たなければならないでしょう。
 ここでお話ししたような機能を果たすことができるのはどのような組織なのかということが次に問題となります。私は、これまでの行政に加えて都市のオンブズマンであったり、NPO法人であったり、社会のいろんな資源を活用しなければいけないのではないかと思っています。さらにはマスコミの役割も新しく出てくるのではないかと思っています。
 もう1つ重要な点は、システム境界についてです。非常にわかりやすい言い方をすると、都市と国の境界はどこなのか。あるいは都市と都市の境界をどこに置くべきなのかという問題です。
 東京都の或る市の市長と話をしたときのことなんですけれども、「私の町の住民に関しては、震災のときにどのような救済、支援をすべきかについて検討し、その対策も可能と考えている。しかし、そのとき都心部から流入してくる被災者のことを考えると、途端にわからなくなってしまう。」これはまさにリスクマネジメントシステムの境界の話であって、このようなシステムでは単純に行政のバウンダリーをシステムのバウンダリーとしていいのかという問題があります。



4.リスクにタフな都市及び都市経営に向けて

(パワーポイント−23)
 都市のリスクマネジメントシステムに関してお話ししてきましたが、結局各機能の具体的な担い手について言及することはできませんでした。これは都市のリスクマネジメントシステムを考える前に考えなければいけないことはたくさんあるということだろうと思います。社会というのはそれほど未成熟だし、その中でも都市のリスクを考える上においては、検討の前提についてまだまだ整理したり議論すべきことが多いというのが現在の私の心境です。これは都市だけじゃなくて、社会全体のリスクを考えるに当たっても同じだと思います。
 (パワーポイント−24)
 そろそろクロージングしなければならない時間が来ました。最後に、リスクにタフな都市とはどんなものかについて私見を述べさせていただきたいと思います。都市リスクは、顕在化するまでなかなか気づかれることのない、いわゆる内部リスクが多いという事実を踏まえて、私は都市リスクに対しては事前対策より事後対策がより強調されていいのではないかと思っています。確かに事前に対策をとるのが一番効率的だし、これからも追求すべきだとは思いますが、そのように事前にわかって対策をとれるリスクは一般的には少ないと思われます。そうでない、例えば全く気にもしていなかった新しいリスクが顕在化したといった場合でも十分に被害軽減の行動をすぐに取れるような仕組みを持つことがリスクにタフな都市の条件だと思っています。リスク顕在化を阻止する、あるいは起きても被害を最低にできるということになれば、これはまさにリスクにタフな都市です。
 そのためには都市の持っているいろんな資源、つまり行政の持っている資源だけじゃなくて、民間の資源も含めて、あるいは個人が持っている資源も含めて、いざとなった時にはすぐに活用できる、あるいは効率的に使えるそのような仕組みを、行政組織を超えて構築していくことが重要だろうと思います。
 そういう事後においても意味ある対応ができる、また被害を最小限にし、我々の社会が目指すある許容範囲に被害レベルに抑えることができるような、そのようシステムを考えなきゃいけないと思います。
 それでは、事後対策としてどのようなことをしなければならないかについて触れておきたいと思います。最初は、被害の特定です。いつまでもどうしよう、どうしようじゃなくて、いったいどこで何が起きているのかを適切に把握し、その上でその段階での被害を確定することが重要です。さらに、その時点でのリスク対策の目標、目的を明確に提示することが大事です。
 2001年9月11日のアメリカ政府、あるいはニューヨーク市の対応が参考になります。
 被害を刻々と特定し、まずその段階で我々は何をすべきか、あるいは何をしたいのかを整理したうえでリスク対策として何を目指すのかということをはっきりさせていました。
 2番目は、救済あるいは被害拡大の阻止が機動的にできる体制を持つということです。リスク顕在化後、速やかに被害軽減のための活動あるいは対策を考え、その上で再発防止策の実施さらには、システムの変更までも速やかに行えるような柔軟な体制を持つことが必要です。
 次に、外部リスクと内部リスクそれぞれに対してフレキシブルな対処のできる都市というのが重要です。外部リスクとして都市を襲う巨大地震を想像してみて下さい。複雑な都市システムを持つ都市においては、その被害は時間あるいは空間的な広がりを持っています。どの空間に被害が生じているのかを把握し、どういう時間経過で被害が拡大していくのかを把握し、一番効率的な対応をとっていくというのが外部リスクに対する基本的な態度です。
 次に、内部リスクについては、東海地震の警戒警報を考えてみたいと思います。警戒警報が出て、警戒体制に入るだけで経済的な間接被害が出るという指摘を8年ほど前に私たちの研究所はいたしました。そのときの試算では1日当たりの経済的損失が7200億ぐらいになりました。東海地震の警戒区域が名古屋の方まで広がったことによっての影響を計算しなおしたのですが、7000億円台後半となりました。詳細は近日中のNHKスペシャルで示されると思います。これは社会システムがどのように作られているか、そしてそのシステムの中で人々がどう行動するかを反映した被害です。被害を軽減させるためにある行動を起こすことで、新たな被害が出てくるという例です。人間の作り上げたシステムに起因して発生する被害なわけですからそれを下げるようなシステムに変更することも可能な筈です。内部リスクを考えるということは、我々の社会の様々なシステムの不断の点検をするということかもしれません。
 都市はこのように外部リスクと内部リスク、あるいはその両方を併せ持つ、いわば複合リスクの集積した空間とも言えるのですが、このような、複合リスクへの対応はかなりフレキシブルなシステム、組織でないとできないと考えています。外部リスクと内部リスクの両方が、融合したような都市リスクに対して、我々が対処するには、まさに新しい「都市におけるリスクマネジメントシステム」を構築するべきであるというのが本日の私の結論です。
 大分時間がオーバーしてしまいました。リスクマネジメントをやっている者から見た「都市のリスク」について今日はお話しさせていただきました。異論もあるかと思いますが、皆さんが「都市のリスク」を考える上でのきっかけになればと思っております。長い時間ご清聴ありがとうございました。(拍手)




フリーディスカッション

藤山
 それでは、残り10分ほど時間がございますので、質問を受けたいと思います。

吉村(大成建設株式会社)
 この種のリスクとして自動車の排ガスがあると思うんです。例えば、そのために、水素ガスとか、いろんなことを考えているんですけれども、今先生は、この状態をリスクが発生したと認識されているのか、それともアメリカ的にまだ現状ではリスクにはなってないと判断されるのか。リスクがちょっと違うかもしれませんが、その辺を先生個人の考えとして伺いたいと思います。

鈴木
 私は基本的には、リスクというのはプライオリにあるものじゃなくて、認識したときからリスクと考えるべきだろうと思っています。少なくとも排気ガスの問題はリスクとして認識されており、その被害は、最悪こういうことだってあり得るという認識は既にあると思っています。
 したがって問題は、その被害予測結果が許容できるかどうかだと思います。もし、許容できないとしたら、誰がリスク負担者として被害軽減対策を行うかを決めなければならないと思います。そのためには我々が持っている様々な知見を、情報公開することが必要となります。その上で負担者は住民になるのかもしれないし、メーカーになるかもしれないし、あるいは行政になるかもしれない。それはわかりません。もっとも適切な解を社会の意思として明らかにしなければならないと思います。結局はリスク対策として我々に何ができるのか、すべきなのかという議論をするのと同時に、最悪の事態になったときの対策の準備もしておくという2本立ての対応をしておく、というのが、一番現実的な方法だろうと思います。
 要するに認知したリスクに対しては、その認識に基づいて被害軽減の行動を実際にするのかどうかが問われているところまで来ているんじゃないかなという感じがします。これは排ガスだけじゃなくて、いろんなところに出てきていると思います。例えば都市におけるホームレス問題も同じです。リスクを認知したのであれば問題を先送りするのではなく、すぐにでも被害軽減等の検討と実行に入るべきだと思っています。 

長塚(長塚法律事務所)
 今の都市という問題ですが、都市というと漠然としていろいろありますけれども、今日の地方自治体のようにかなり独立性を持たせるような改正がされて、例えば、長野県の知事がどうのこうのとか、条例がどうのこうのという独立性が出ているわけですが、都市の今日における独立性の関係について、お考えを伺いたいと思います。 

鈴木
 先ほどの講演の最後に「リスクマネジメントシステム」の境界の問題についてお話ししました。私は必ずしも、今の行政単位がリスクに対応する上において、いわゆる「リスクマネジメントシステム」の境界にふさわしいものではないと思っています。
 リスクを考える上においてある都市の問題として完結させるのでなく、一度、国あるいは国際レベルの中で展開して考えることが重要だと思います。その上でリスクを仕分けし、どのような境界を持つ「システム」の中で解決していくべきかを考えるべきだと思います。グローバリゼーションと地方の時代というのは全然別なものじゃなくて、同時進行的に展開されています。そのような中では、地方化が進んでいる都市に発生したリスクでも国家的、国際的に考え対応しなければならないリスクも数多くあります。何でもかんでも地方化の問題として押し込めてしまうことの恐ろしさを感じます。
 そういう意味では私は、リスクは大半のものが地方リスクじゃなくて、グローバルなリスクとして考えざるを得ない時代になってきていると思っています。したがって「地方の時代」であるからこそ「地方のリスク」を国の問題として機動的に対応できる仕組みが必要になってくるんじゃないかという気がしています。

田中(日建設計シビル)
 今日は都市のリスクに関して大変示唆のあるお話を聞かせていただいてありがとうございます。
 2点ほど質問させていただきたいと思います。今外部リスクと内部リスクといわれて、内部リスクというのは、基本的に人間活動によって起こされる、科学技術に関連して起こされるもので、そのリスクを低減しようとすると、結局は人間の科学技術を適用して、内部リスクを低減していくということになる。それは堂々めぐりになって、ループを描いて、結局はリスクの低減にあまりならないとなっていくんじゃないかという思いがしています。その辺がリスクマネジメントとしてなかなか難しいところじゃないかなという気がしました。これについてのご意見をお伺いしたいのが1つです。
 もう1つは、命題を2つ挙げていただきました点です。1つは、最初にリスクがあると思われることに関しては対応するということと、科学的な根拠がない限りは対応しないというアメリカ的な対応の仕方があると思います。
 今、先生が講演なさったことなのですが、仮に、リスクを都市において負担する人が、主に住民、企業という形になった場合に、リスク負担者がリスクに対応するためには、ある程度判断基準が必要だと思います。その判断基準を与えてあげるためにはやはり何らかの情報公開しかない。そういう形になると、行政がするのかだれがするのかは別にして、存在するリスクに対しては、科学的根拠があるなしにしても、ある程度事前に情報提供して、こういうリスクがあるので、それに対してどういう対応をするのかというのは、リスク負担者の判断でやっていただくということが必要になるんじゃないかと思ったんですが、それはなかなか難しい話だとは思います。
 その辺で情報公開ができる、都市に関するリスクは、今までに何千年という歴史がありますので、それを踏まえて、潜在するリスクはある程度カバーできるんじゃないかなという形を思いました。質問がまとまりがないんですけれども、その2点についてお伺いしたいと思います。

鈴木
 1番目の質問と2番目のはかなり連動していると思います。私の言い方がちょっと誤解を招いたのかと思います。人類の持っている科学技術、それがさらにリスクを生み出していく、という、まさに今指摘された堂々めぐりを問題として指摘したわけではないのです。確かにそういう側面はあるかもしれないんですけれども、結局、我々はリスク低減のためには、科学技術を活用していくしかなく、その重要性は、これからも永遠になくなることはないだろうと思っています。
 
ただ、そこで1つだけ心しておかなければならないのは、科学技術がリスクを生み出す側面を持つことに気づいた人々に対して単純に、科学技術を信頼しなさい、あるいは私たちを信用しなさい、というだけではもう通じないということなんです。そのような状況で大事なことは、誰を守ろうとしているのか、何を守ろうとしているのか、我々の社会は何を目指しているのかを科学技術に携わる者が自ら示さなければならないということです。そうでないともう科学技術は信頼されませんというのが私の言いたかったことなんです。科学技術を否定しているのではないのですが、科学技術は何を前提に我々の社会の中で使われるべきなのか。あるいは開発されるべきなのかを明らかにしなければならない。また科学技術万能を居丈高にいう姿勢そのものが、もう社会には受け入れられないんじゃないか。というのが私の指摘したかったことです。
 もう1つは、情報についてです。リスクに関する情報とは、そのほとんどが科学技術の知見だと思います。ただ、リスクに関して完璧に知ることは不可能です。空間、時間を超えてすべてを我々は把握するわけにはいかないという現実があります。しかし、リスクへの対応を行うためには不十分な情報であっても、原則的には全て提供されるべきだし、リスク負担者はその全てを使って判断を下したり対応しなければなりません。また未来に向けてこういう行動をしよう、という時には、不完全な情報であっても、それは貴重なものであり、リスク社会であればあるほどリスク情報の公開が社会の原則になるべきだと考えています。
 不確実であればあるほど、リスクの時代であればあるほど、人は未来に向けた決定のための情報を必要とします。そのような不完全なリスク情報であっても、それを十分に活用して適切な意思決定を下せる人の価値は社会的に高まってくると考えられますが、一方で適切な意思決定ができなかった人の責任も同時に問われる、それが次の時代の形なのかなという気がします。

藤山
 それでは、時間も参りましたので、これにて本日の講演を終わらせていただきたいと思います。本日は鈴木敏正先生に「都市のリスクマネジメントを考える」という題でお話をいただきました。先生どうもありがとうございました。(拍手)


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