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第177回都市経営フォーラム

個の総体がまちをつくる

講師:柴田 いづみ 氏
滋賀県立大学環境科学部教授


日付:2002年9月30日(月)
場所:後楽園会館

 

1.個の再生が、今、社会をよみがえらせる

2.リーダーの条件

3.専門知識をもったボランティア

4.まちを創る建築

5.自分のまちは自分で守る

6.環境再生と個の力

7.一石七鳥:7つのキーワード

フリーディスカッション



 本日は、お招きありがとうございます。滋賀県立大学の柴田です。
 題として「個の総体がまちをつくる」ということでお話しさせていただきたいと思います。
 まず、この題名ですが、皆様の中でNPOやボランティアの経験があったり、個々の仕事に対してもまちという視点を持っていらっしゃる方はかなりたくさんいらっしゃると思いますので、そういう方にとってはなじみやすい題名ではないかと思います。実際には、霞が関の皆様には、自分たちの国は自分がつくるぐらいに思っていらっしゃり、地方の話、地域の話というものに対しては、あまり興味を持たれない方もまだまだいらっしゃるような気がいたします。
 何で、「個の総体がまちをつくる」という言い方にしたかといいますと、現在これだけ閉塞感が続いております。阪神・淡路大震災等の実際の天災では、その後の復興に対してのコミュニティーづくりの有効性は認知されましたが、個々のまちについての閉塞感や会社の閉塞感は続いています。その閉塞感を破れるのは、「個」が発進してその連携が総体を変えていくことだけではないかなと思っているからです。
 ことしの初め、中小企業の方のために原稿を書いてくださいといわれました。そのときに本当に困りました。2001年9月11日のあのニューヨークでの出来事、その後のパレスチナの問題、アフガニスタンの問題、いろんな問題を考えても、世界的にもあまりうれしいことはありませんでした。去年の12月に皇室で愛子様がお生まれになられた他にあまりいい話がないような気がいたします。そんな状況の中で、自分たちの社会、日本というものの枠組みをつくり直す中で、どういうふうに中小企業のあり方を考えていけばいいのだろうかということを悩んだわけです。今の時代に何をいっても、現場はそんなもんじゃないよといわれ、リストラされそうな方々の背中を押してしまうようなことになりはしないか、いろいろなことを悩みました。
 そのときに1つのことわざに会ったわけです。それが「メイク・ヘイ・ホワイル・ザ・サン・シャイン(Make Hay While The Sun Shine:太陽のあるうちにわらを束ねよ)」という言葉です。いわば、「鉄は熱いうちに打て」とか、「機会を逃すな」という意味になるわけです。いつ太陽が照って、いつ鉄が熱いのかという判断が難しい時代です。でも反対に最初の一歩というのは、いつでも踏み出せる、そういう時代になっているのではないかと思います。



1.個の再生が、今、社会をよみがえらせる

 そこで、その中小企業の方々のための原稿の中では、「最初の一歩」ということをキーワードにして書きました。その中では、8つのキーフレーズをつくりました。その最初が、「ブラックホールにならないで」という言葉です。ご存じのように、ブラックホールというのは、巨大質量にすべてが飲み込まれてしまうという衝撃的な宇宙の神秘なわけです。そのブラックホールは光さえ飲み込んでしまって、存在があっても存在が見えない、そういうことになっています。
 銀行などが統合してこの春いろいろ問題を起こしました。それと同じように、企業も周りをみんな飲み込んで巨大になってしまい、存在があっても存在が見えないような時代になっているのではないでしょうか。
 1人1人が価値ある1人として輝いて、それぞれが違う立場によって違う行動ができる、その違いによってお互いの輝いていることが見える、そういう時代であってほしいと思っています。
 ブラックホールみたいな大げさなこととか、星に例えなくても、地球上でもお互いの共存の論理がわかってほしいと思いました。
 2番目に、「異業種との交流」ということを挙げました。これは違う法則で成り立っているという社会を知るということです。エドワード・ホールが「隠れた次元」中で、「自分の言語を当然と思っている限り、その囚われとなっている。」といっています。つまりお互いのコミュニケーションが成り立っているというわけにはいかないわけです。
 自分のよって立つ場所を知ることができる。それはむしろ異業種の中にあってこそ、自分のよって立つ立場ということを知るのではないでしょうか。異なる考えの方たちと一緒に行動を起こすことによって、新しい地平線が見えるのだと思います。それぞれのプロが出会って、その中で、とんでもなく奇妙かもしれない、でも斬新なプロジェクトというものが生まれることだと思います。
 3つ目に書きましたのが、「企業内ベンチャーの勧め」ということです。ベンチャーであったらという発想はとても大事で、常にそうあってほしいと思っています。人というのは財産で、そこで、「やる気、元気、本気」というのが社内にあふれる企業やその成果が評価される企業、現場がトップと常に情報が交換される、社会に柔軟に対応される、そういうベンチャー企業というものがその会社内に存在する。これは非常に大事なことだと思います。これは中小企業の方々のために書いた原稿ですが、むしろ大企業にとって、企業内ベンチャーというのがもっと必要になっているのではないでしょうか。



2.リーダーの条件

 4番目に、「リーダーの条件」というものを挙げました。これも1つのことわざをお話ししたいと思います。「失敗は成功のもと」といわれています。英語では「エブリ・ファリア・イズ・ア・ステッピング・ストーン・トゥ・サクセス(Evry Failure is A Steppingstone to Success) 」。要するに、すべての失敗というのは成功に対する1つ1つのステッピング・ストーンであるということです。ところが、最近は、「成功は失敗のもと」といってもよいことが社会に非常に多く出てきていると思います。皆様すぐ頭に、狂牛病の問題とか、日本ハム、雪印、いろいろなところで問題が起き、そして、原発もと思い浮かばれるでしょう。ああいう問題点はすべて、「成功が失敗のもと」であるといえるような事象ではないかと思っています。
 特に、リーダーの条件の中でお話ししたいのは、行政改革の中でよくいわれる「プラン・ドゥ・チェック(Plan・Do・Check)」ということで、このサイクルがうまくできているかということ、これが非常に大事なことですが、行政改革という1つの分野だけに行われる問題ではないと思います。
 多くの成功者がいらっしゃいます。その成功者たちの創業時代というのは、大変に明確なビジョンを持った「プラン・ドゥ」という非常に素早い決断というものがあってこそ成り立ったものだと思います。しかし、時代はどんどん変化していきます。先ほどお話ししたように、成功は失敗のもとにならないように、現場の声がいつもチェックとなること。その声がリーダーの耳に入るルートがきちんと成り立っているかどうか。その判断が逐次現場に届けられる、双方向の伝える努力が非常に大事に考えられると思います。
 しかし、行革から始まった言葉の「プラン・ドゥ・チェック」というものは、私は責任をとるという部分が欠けているのではないかと思います。この中には行政マンの方がいらっしゃるかもしれないので、申しわけないんですが。これが行政の今の問題点といわれています。だんだんと責任問題は出てきています。けれども、「プラン・ドゥ・チェック」の中に、もう1つプラス、「責任をとる」が必要です。これはむしろ民間の方が明確にそれを意識していると思いますが、悪い行政の見習いはしてほしくないと思っています。
 そこで、4番目のリーダーの条件という中には、「みずから企画立案して、実行して、責任のとれる人」というものをリーダーの条件として挙げたいと思います。
 これは私が、今大学におりますので、ふだんから大学生にはいっていることなわけです。社会に出るとなかなかそれができないというのは、社会そのものの組織、企業、それらが少しゆがんだ形になっているからだと思います。要するに、人は非常に優秀である。責任をとりたいと思って社会に出ました。でも、それができないというのはその社会の組織そのものが今変わらなければならない時代になっていると思います。
 そのためには、「いつも目の前のちょっとしたことにも発想がわいて、確実に責任を持つことからすべては始まります」と学生たちに話しています。それにはまた意欲も必要です。でも、意欲というものが正確に評価される、そういうシステムが、今の社会が必要とする点ではないかと思います。
 5番目に、「ストック」という言葉を挙げました。フローだけではなくてストックが大事であるということは、都市計画の専門家の方々がここにたくさんいらっしゃると思いますので、あえていうこともないと思いますが、その都市的なストックというものと同時に、1人1人のストックが非常に大事になると思います。確かに仕事が大変で、なかなか自分のグレードアップする時間も、旅行をする時間もなくて、自分自身を押し詰めてきたという社会の状況はあると思います。
 旅行に行かなければ、本を買わなければ、映画を見なければという、そういうものではなくて、自分の力を蓄える、変な言い方ですが、いろんな雑多なこと、新聞1枚からでも人と話すことからでも非常に多くの知識が得られると思います。そういうストック、1人1人が、ついてないと思うときこそストックをためる。お金もかからない、場所も要らない、そういう方法が必ずあると思います。



3.専門知識を持ったボランティア

 それから、6番目に、「まちに出よう」というキーワードを挙げました。力があり余っているばかりでなくて、自分の力が足りないと感じたとき、そういうときこそ人のためにできることがないだろうかという発想をしてもらいたいと思っています。それこそNPOとかボランティアとかに関係している方々はよくわかる話ですが、掃除でもお祭の手伝いでも、ボランティアでも有料でも何でも結構です。まちには自分の仕事、自分の経験の中でできる発見みたいなものがたくさんあると思います。まちは、困ったこととか、解決しなければならないことでいっぱいだからです。人手もアイデアも必要な現場はどこにでもあるわけです。他人の小さな手になることで、自分自身の価値や自分の居場所が見つけられると思います。そのまちのマイナスを自分のプラスに変更しようではありませんか。これは自分の専門にも必ずもう一回戻ってくる大きな宝になると思います。
 それから、7番目として、「専門家として、ボランティアとしてできること」を挙げました。昔、寺山修二が「書を捨て、まちに出よう」といっていたことがあります。私は、学生たちに「書を持ってまちに出よう」と呼びかけています。これはボランティアの中でも専門家だからこそできることがあると思うからです。皆さん、それぞれすばらしい専門家でいらっしゃるわけですけれども、その専門家だからこそできること。専門家には専門知識を持ってまちに出ようという言い方をしています。これ自身は、その場では実はお金にはならないかもしれません。けれども、自分自身の生活を豊かにして地域の価値を高めるという満足があると思います。個人としても、企業としての地域貢献というものも、これからは大事な要素になっていくと思います。
 8番目として「コミュニケーション」ということを挙げました。コミュニケーションの復活は、最近いわれたことではありません。昔から礼節という言葉などでいわれていることもあります。あいさつさえできない子供たちがいる。そういう現実もそばにあります。社会の構成員であるという現実を見たら、まず家庭で教えられること、それから社会に出るまでの間、地域でもって子供たちに対して面倒を見るということも必要です。でも、子供が社会人になるには大変に時間がかかります。また、皆さんのように企業人でいらっしゃれば、大学を出てから、または高校を出てからでも、子供たちが社会の成員として一人前になるには、そこにもまた時間がかかるということをご存じだと思います。そのときに、最初のあいさつができるということ、それが非常に大きなコミュニケーションの始まりだと思います。
 社会に出て、自分の知らないところを知るというところからスタートするわけです。そのためには、相手に対して礼節を持つ、それがあいさつということになると思います。
 非常に単純な話と思われるかもしれませんけれども、今の8つの言葉を中小企業の方たちのための原稿のキーフレーズにしたわけです。
 さて、これでもって中小企業の方々が元気になったかどうかというのは、アンケートでもとらない限りはわかりません。けれども、この幾つかのキーワード、まちに出るとか、専門家のボランティアとしてとか、リーダーの条件、企業内ベンチャーの勧め、これらは今社会の問題点をポイントアウトできる能力のある方々には、当然に頭の中に浮かんできている話だと思います。
 きょうのお話をさせていただく項目の中の「個の再生が、今、社会をよみがえらせる」、それから、2番「リーダーの条件」、3番目の「専門知識を持ったボランティア」、この辺に関しましては、以上のようにまとめさせていただきました。



4.まちを創る建築

 私は、建築家として仕事をしておりました。そして滋賀県立大学に赴任して7年目ですが、初めて教育の現場に立つようになりました。その中で社会全般の教育界の問題点を学びました。といいますのは、高校までの勉強というものが社会にとってとても大事になっているにもかかわらず、かなり不完全な形で、突然に大学という専門教育に投げ入れられてしまっているということ、それから学生たちが社会に出るその手前の大事な最高学府の大学にいるにもかかわらず、社会というものを見ようとしない、そこに出ていこうとしない、そういう学生たちがかなり多いということ、これは私にとってはかなりショックでした。
 そういう状況をはねかえそうと幾つかの活動をしております。4、5、6番目の「まちを創る建築」「自分のまちは自分でつくる」「環境再生と個の力」という3つの項目で、今まで私が建築家としてまちに対してどういうことをしてきたかということと、普通の大学とはちょっと違うと感じていただけるとうれしいのですが、滋賀県立大学で学生たちとやってきたことを現実的に見ていただき、このレジュメの項目を理解していただきたいと思います。
 スライドに移りたいと思いますので、よろしくお願いします。
 まず最初に、私がまちをつくる建築としてどういう項目を現実的に実現しているかということをお話ししたいと思います。
(スライド−1)
 これは広尾にありますフランス大使館の職員集合住宅ですが、私がフランスから帰国してきてすぐに、コンペで1位になり実施設計をしたものです。昔の徳川さんのお屋敷ですが、緑がたくさんありました。その一部を職員用の集合住宅につくるということを依頼されたわけです。後ろ側は密集した住宅地でした。ここにはフランスの大使の公邸があり、こちらにチャンセリーがあるという配置の中の一番隅に当たる部分です。
(スライド−2)
 集合住宅としては、皆さん専門家でいらっしゃるので、ここではお話ししませんが、敷地はこの大きな緑です。その隣にフランス大使館の大使の官邸があるわけですから、工事の中でここにあった樹木全部を大使館との境にして動かしました。また前面道路は2項道路で非常に狭かったのですが、今はここに歩道が大きくあります。そこに大きな木の並木もあります。
 この並木はどうして成り立ったかといいますと、まず最初に、フランス大使館側に、塀の内側にある並木を塀の外に出して、塀を内側につくることによって、歩道上空地をつくりましょうということをお話ししました。そうしましたら、フランス大使館側は、「ちょっと待ってください。ここはフランス政府の土地です」という返事でした。私たちは、その地域全体がよくなるという方向で物はつくられなければいけないということと、この緑の木と歩道上空地というのは、地域の人たちのためにまずあるべきで、それプラスここに住む家族の方たちの安全ということも考えてのことですとお話ししました。そうしましたら、フランス大使館側は、「じゃ、これを、ケー・ドルセというんですけれども、パリの外務省まで行って話してこよう」ということになり、了解をいただきました。これは、敷地内の木々を街路樹として外に出すという計画になりました。
 ところが、今度は、フランス大使館側から「木は1本も切らないでください」というお話をいただきました。「もちろん、そういうふうにいたしましょう」と計画し、二十何メートルの木まで全部含めて、大使の官邸と集合住宅の敷地との間に移植しました。これは実際には、大使館には大統領も泊まるわけですから、狙撃などが行われないような安全のための防護柵という形にもなりました。
(スライド−3)
 もう1つ、これはパストラル・コートという、目白の集合住宅です。1期工事、2期工事、3期工事にわたって17年かかっています。決してディべロッパーが大きく一気につくったわけではありません。
 何のためにこの建物をつくったかという発端をお話しします。2期工事の家族用集合住宅というところに住んでおります今79歳の婦人は、関東大震災の前日の8月31日に生まれました。1923年の9月1日に大震災に遭ったわけです。皇居のすぐそばに住んでいましたので、皇居に逃げ込んで助かりました。そのときの記憶、彼女が大きくなるに従って周りからの、あのときはこうだった、あのときはこういうふうに危なかった、このときはこうやったら助かったという話がずっと耳にあったわけです。そこで、子供が家をつくるときに、「それでは、とりでをつくってください。防災のための防火擁壁をつくるならば、そこに住んでいいです」といったわけです。ですから、この1期工事は、その防火擁壁のためにつくられたわけです。2期工事ができて、本人たちが住み、最終的に3期工事ができました。
 その中で、まちをつくる建築として一番重要に考えたのが、この歩道上空地になります。この壁面緑化が防火壁ですが、まちに対して防火壁をつくる、ということはとりもなおさず、まちに対して壁をつくるということです。そうなりますと、万里の長城をつくるわけではありませんが、外部との遮断というイメージ、それこそまちとのコミュニケーションを断つという姿勢を見せてしまうわけです。そこで、緑化計画を考えたわけです。それから、もともとが防災計画ででき上がっていますから、東西北の3面は建物の防災壁ですが、それに対して、南は緑化計画をすることで緑のシャッターをつくっているわけです。
(スライド−4)
 右側が竣工当時で、少しテーパーがかかっているところも、やはりまちに対してあまり直角では申しわけないので、斜めにしているわけです。南面が歩道上空地になっています。
(スライド−5)
 中庭です。外は壁状ですが、中に向いて中庭をつくって、そこに緑をたくさん植えているわけです。
(スライド−6)
(スライド−7)
 玄関ですが、これは中から外を見たところ、こちらは外から中を見たところですが、庭の中の緑も、外部からそれを楽しめるような形にしています。お互い緑を楽しむコミュニケーションは取り入れても、お互いのプライバシーと、防災的なもの、そういうものはシャットしましょう。そういうところからこの扉も含めて計画されています。
(スライド−8)
 ここは2期工事への階段です。集合住宅ですが、ところどころ人の集える、そういう場所をつくっています。これは3期工事の中庭風にした、それぞれの住戸への階段です。
(スライド−9)
 外に回ってみますと、これが3期工事の西側ですが、ここにも歩道上空地をつくって、並木を植えています。ところが、道路の反対側のお隣の家では、こういう形で駐車場だけになっていて、ここにブロック塀があるわけです。このブロック塀を何とか生け垣にしてほしいということをお話ししているんですが、木はメンテナンスが大変だから、やりたくないということをおっしゃっています。最後に、緑化計画の7つのキーワード、一石七鳥という形でお話しいたしますが、実際にこのブロック塀が震災時に倒れたらどうなるかという問題も、ヒートアイランドの問題もあります。このブロック塀の駐車場は非常に熱が高くなっています。一方、パストラル・コートの中は、夏でもかなりひんやりした空気が流れています。
(スライド−10)
 これは、道路の南側のお隣です。このマンションを建てられるときに、「パストラルコートと同じように、少しでもいいから、緑を並木道風にしていただけませんか」ということをお話ししました。そうしましたら、協力していただけました。
(スライド−11)
 それがここです。こちらがパストラル・コートの南面で、その緑と、道路の反対側の南側のマンションの並木が、緑のトンネル風になっています。
(スライド−12)
 これはただ1つのコンパウンドを設計したにすぎないわけですが、この動きは、周りにも波及しています。これはすぐ近くにできました目白の森という公園です。ここでも、住民の人たちが、緑がもう少し地域の中にもあってほしいということを考えて運動いたしました。住民の運動と行政のサポートが合致いたしまして、1000坪の「目白の森公園」というのができたわけです。
 もう1つここに住民のコミュニティーが目白に存在したという例があります。この公園よりも少し遠いところにクスノキが1本切られようとしていました。それを私が見つけまして、豊島区に行って「あれを切らないようにしてほしい」とお話ししましたが、土曜日だったせいもあって、事がどんどん進み、切られてしまいました。そこで、この木を目白の森に持ってきました。これは根っこです。その根っこを彫刻家の方に、彫刻として見られる形にしてもらいました。近くの住民の人たちでお金を集めまして、設置費用をつくり、行政に話を持っていきましたら、行政も少し手伝いましょうということで、アーティストに払ったお金と運搬費を住民が払い、設置費用の一部を行政が出してくれました。
 こういう形で、自分のまちは自分でつくっていくわけですが、そのときに大事なのは、自分でもきちんとした、お金という形にしろ、その地域に対して支払いを出すということです。いろんな保護運動の中で、あなただったら、この自然を守るために幾ら出しますかという調査方法もあるわけですが、それにまさに合致したわけです。みんなでお金を集めて、行政に、これだけのお金を集めました、そちらは設置してほしいという要望を出したわけです。今の時代に、行政にただただやってほしいということは絶対にあり得ないわけですが、そのいわば例としてこれをお見せしたわけです。
(スライド−13)
 これは私の事務所、SKMの方でやりました弦巻の集合住宅です。これも歩道上空地を必ず集合住宅の周りにつくります。
(スライド−14)
 これもそうです。ここに皆さんの公園ですということも含めて提供しております。
(スライド−15)
 これは世田谷のちょうど遊歩道に面しているところです。ここが遊歩道側からの入り口ですが、そこに壁と緑の生け垣、そういうものを組み合わせて、まちとの接点を構成していきます。
(スライド−16)
 これはマンションの上から見た写真です。ここが世田谷の遊歩道です。この方たちはこうやって楽しんでいらっしゃるわけですが、壁を、見ていただけるように、全部をコンクリートにはしないで、こういう生け垣にして、中の緑がお互いに共有できるような形で計画をしているわけです。
(スライド−17)
 これは幕張のH1街区で、鞄建ハウジングシステムの渋田一彦さん、それから南條設計の南條洋雄さん。それから、SKMの柴田知彦が一緒に設計し、統括を都市環境研究所の土田旭さん、上山良子さんがランドスケープをやってくださっています。ここのH1街区の特徴といいますのは、街区線よりも内側に必ずまちに面して樹木があるということです。幕張では、あれだけの大規模開発がされておりますが、その中で街区の中に、小さな木は幾つかの街区ではありますが、こういう大きな並木道に将来するような木というものを街区の中に入れている計画は、このH1街区だけだということがいえます。
(スライド−18)
 例えば、ここは中庭に入るところの入り口ですが、そういうところにも並木をつくって、人と車との共存をしていたり、建物の間からこういう中庭の緑が外からも見えるという形にしております。
(スライド−19)
 これは中庭ですが、上山さんが頑張って計画してくださいました。こういう遊具とテラスが共存しているわけです。
(スライド−20)
 これは幕張をご存じの方はよく知っていらっしゃると思いますが、これだけの大きな集合住宅ですから、駐車場をどこにつくるかというのがいつも大変に問題になります。その駐車場の上が屋上庭園になるわけです。そこにガーデニングの緑と子供の遊び場と大きなテラスが配置されています。大変にうれしいことですが、まず最初に上山さんが、この緑をキープするためのクラブ組織を募ってくださいました。そのアマチュアのクラブと近くのプロの造園の人たちとが一緒になって、こういう緑をキープしていきましょうというクラブができました。このスライドのイベントは設計者たちも呼ばれて、住民の方たちが一緒にガーデンパーティーをしましょうという集まりです。幕張でも幾つかの街区でスタートしているそうです。
 それから、幕張の打瀬小学校のような小学校では、この街区を1つのまちの、1丁目、2丁目と見立てまして、池田小学校で小学生が殺されるという悲惨な問題がありましたが、その後小学校単位でどういう活動をするかということに対しても、この街区の中を町会と見立てて、そこから子供たちのイベントの発信とか、登下校をするようにしています。
 ですから、小学校側からの働きもありますが、このH1街区は、リーダーが非常に頑張ってくださって、何回目かになるんですが、こういうガーデンパーティーをしています。これもコミュニティーが発生した例だと思います。
(スライド−21)
 こういうふうに子供たちにゲームで景品をあげて、お母さんやお父さんたちは頑張っています。この方がリーダーです。そして、集会室でバイオリンを弾いているのが南條さんで、ピアノを弾いているのが渋田さんで、それに土田さんと主人の柴田です。設計者も呼ばれながらこうやってみんなで楽しんでいるという姿があります。
(スライド−22)
 私がプロジェクトリーダーでやっている主な仕事に駅があります。駅といいますのは、精神的に不安定な人が来る場所です。変な言い方ですが。自分の場所を、ある地点からある地点まで変えなければならないという、不安に満ちた人たちが来る場所といってもいいと思います。ですからこそ、遠方からのお客様とか、年をとった人、体の不自由な人、そういう方たちが早目に来るのはそのゆえだと思っています。元気な人だったら、わかっている人だったら、ギリギリに、パッと乗ります。ですけれども、そうじゃない人、体が弱い人、お年寄りの人、見知らぬ人たち、そういう人たちのためにどういう居場所をつくるかということが私のいつもテーマになっています。それは「人の居場所」という言い方をしています。
 最初に、行橋駅のスライドですが、まず、昔の矢吹駅を見に行ったときのことをお話しします。子供たちが、高校生なんですが、学校から帰ってきて駅の前にペチャンと座って、トイレの前にもペチャンと座って、所在なさそうにしていました。私は子供たちに、自分たちのまちを誇れるような自分の居場所をつくってあげたい、そういうふうに思ったわけです。
 ですから、私にとって駅というのは、いつも「人の居場所」をつくる場所と思っていただければと思います。
 そこで、行橋駅ですが、九州の日豊本線の小倉から南へ1つ目の特急がとまる駅です。この駅をつくったときに、フランス人の作家のロビダという人がかいた絵をイメージの中心に置きました。といいますのは、駅というのは、鉄道事業者・例えばJRだったり、私鉄だったりするわけですが、この場合はJR九州で・それから市と県という複数の施主がいるわけです。JRの後ろには、今でいうところの国土交通省、この当時は建設省がいます。それから、市の後ろには市議会がいて、JRの後ろには、JRというのは非常にたくさんの部署によって成り立っています。営業だけではなくて、土木と建築も違います。通信と電気も違いますし、運行も違います。いろんな部署、複数が非常に複雑に絡み合っています。ましてや、車との問題、交通問題としても非常に大きな問題があります。
 そして、連続立体高架をつくってくださいといわれましたとき「私は万里の長城をつくるのは嫌です」とお話ししました。万里の長城をつくるのは嫌で、まちを2つに分けてしまう、その真ん中に私の作品がその分けるための壁としてあるというものは絶対つくりたくないとお話ししました。それでロビダの絵を1枚、イメージとしてみんなに共有しましょうということにいたしました。私はこの絵に「やさしいモンスター」という名前をつけました。
 要するに、鉄道とか川とかまちとかがあって、まちというのは大体が雑多で、すべてが絡み合わなくて猥雑で、けんかし合っているようなところがありますしかし、この「やさしいモンスター」としての彼女は、それをすべて優しくまとわりつかせて受け入れているというイメージがありました。行橋駅は、土木ですから、10年近く非常に時間がかかりました。設計を始めたころは、通常の高架では架線柱と下の土木躯体が同じピッチでないということさえありました。例えば、電柱同士が12メートルで、土木躯体の方は10メートルであるというふうに、ずれていても平気であったり、架線柱のトップが、もう要らないのにそこからツンツン飛び出て、それも高さが違っていたり、架線柱受けが非常に露骨であって、また30メートルに1カ所ずつ調整桁というのをつくるんですが、その調整桁が周りと全く違っていたり、雨どいがまとわりついていたりするわけです。
(スライド−23)
 これは幕張で今も建っている連続立体で、悪い例です。例えば、これはあごというんですが、このあごに桁が乗っています。これがずれることによって壊れないでいるわけです。高速道路に比べて高架橋というのは重たい物体が高速で走っているわけです。ですから、それを調整するための躯体というものは、高速道路では考えられないぐらい大変な要素が出てくるわけです。次に、ここは防音スクリーンといいまして、防護スクリーンは、これはまだコンクリートで打ってあるからいい方なんですが、こういうふうにPC板をただはめ込んだり、コンクリートブロックをただ積み上げたり、雨どいをこうやって柱にまとわりついているのが平気であったりとか、いろんな問題がありました。これでいいわけはないわけです。
(スライド−24)
 これは行橋高架の方ですが、それぞれの部署の方たち全員に集まってもらって円卓会議を開きました。そこで、さっきのテーマとしての「やさしいモンスター」を守りながらみんなで考えていきましょうと決めました。ですから、ここに調整桁がありますが、ほかのラーメン部分とほとんど変わらない形状になっています。まちの景観要素としてのデザインを考えていきました。
 また、雨どいをなるべく中に内蔵させることもしました。これは桁式部分ですが、ラーメン式にした場合には、道路と交差部分の調整桁のあごが雨だれで汚くなるのが普通でした。そこで、道路交差部分はきちんとした門構えにして、両サイドに桁を持ってくるとか、いろいろな土木的な提案をして、今それが実現したわけです。
(スライド−25)
 下がまだ駐車場になっていますが、ここに将来ショッピングセンターができる予定になっています。この壁面が防音壁になっています。先ほどのPC板みたいなものではなくて、必ず現場打ちにいたしまょうと、このかまぼこの形を提案したわけです。また、架線柱受けに関しましても、まちにとげとげしいものが出さないということを今回のコンセプトにすることにして、丸くしたり、かき取ったりしました。さらにフキ電線といいまして、帰りの電線がありましたが、それがよくまちの方に飛び出ていたりしますが、それも全部内側に入れて、きれいな架線柱を設計していきました。
(スライド−26)
 これがそうです。雨どいが柱の中に入っている。桁式の方です。
(スライド−27)
 これはラーメン式の方です。調整桁を全部そろえていったわけです。
(スライド−28)
 広場に関しましては、春、夏、秋、冬に対して、それぞれ四季折々の花が咲くということ、駅から出たら必ず、まちに対して歩行者が優先してつながるということ。つまり、駅を出たら、目の前をバスが通っていったとか、目の前をタクシーが通っていったとか、交通広場を迂回しないとまちに到達できないとか、そういうことはやめましょうという提案をしたわけです。ですから、最小限の車回し、半径などもいろいろと線型プランを考えました。ここはタクシー乗場です。おろした車がそのままグルッと回って後ろにつく、ここがタクシバースです。これはキスバースといわれている送り迎えの人用です。それから一般の人たちが使う駐車場、そういうものの組み合わせと、こちらにイベント広場をつくりました。
(スライド−29)
 こうやって花のことなどいろいろ設計しましたが、実際の広場は、線形だけは受け入れられましたが、市の方が自分で設計しましたので、基本設計は私で、その後の実施は市がやるという形になりました。
(スライド−30)
 コロネードでは、普通ですと、ここまでがJRの敷地ですから、JRは店舗とかつくるときにはぎりぎり敷地までを使いたいと思うわけです。大体高架下の商店街は真ん中に1本通路があって、その両脇にお店が並んでいるということが多いです。この場合は、今は駐車場になっていますが、まちに対してつながるような外向きの商店をつくってくださいとお願いしました。このベンチと照明についてお話しします。土木というのは都市に対して非常に大きなスケールです。そのスケールというものを都市のスケールから、建築のスケール、そして人間のスケールに落とすためにはどうしたらいいかということを考えて、この列柱をつくるということと、ここの間にベンチがてらの照明をつくるということを提案し、ここをコロネードとしてまちに提供してもらったわけです。
 先ほどフランス大使館が、歩道上空地をまちに提供するといったときにびっくりしたのと同じように、JR九州も確かにびっくりしました。けれども、その後の計画でこうやってJR九州も協力してくださったわけです。
(スライド−31)
 これが入り口のところですが、4本の塔が建っています。これは行橋という名前もあったので、ブリッジというイメージもあります。ここに1つのシンボルとしてのタワーを建てるということがまちとの約束になったわけです。実はできなかったんですが、タワーの上に丸くプレートが載っかりまして、太陽電池をつける。雨の水はここから流れて、タワーの足もとに小さなプールがそれぞれあって、そこに雨水ができる。要するに、風や雨、太陽というものをこのタワーが象徴しているという形になるはずでした。けれども、県まではオーケーでしたが、結果的には、予算がオーバーになるからだめだという形でできませんでした。10年前の提案ではなくて、今提案したらできたかもしれないという時代の経緯は感じています。駅に対しての広場の象徴的なものはつくっていく。ですけれども、一般的な高架部分はなるべく引いて引いて、マイナスにして、マイナスのデザインにして、だから丸くなっていくという形で、マイナスのデザインとシンボルとしてのプラスのデザインを組み合わせています。
(スライド−32)
 コンコースです。ここは東西をつなぐコンコースですが、一番最初に万里の長城はつくりたくないとお話ししたように、いつも開放して、ジョギングで人が走ってきて、ここを通り抜けて、反対側に行ってまた戻ってきてということができるぐらい開放したかったんですが、やはり管理面で扉はつけました。いつものテーマである「人の居場所」のためのベンチです。普通より幅の広いベンチで、その上にあぐらをかいておにぎりを食べている人もいます。そういうことが可能な場所をつくりたかったわけです。
(スライド−33)
 コンコース自体、中も外も、みんなまちの一部と考えています。そのためにユニバーサルデザインとして高さを考えています。ここは普通の緑の窓口ですが、ここの部分だけ低くなっていまして、ここに車いすの人が到達できるようにしています。カウンターにちょっとしたハンドバッグ置き場があって、実際にこの部分は非常によく使われています。それは身障者の人がちょっと寄りかかるとか、そういうことも含めてこれは非常に有効になっています。
 そして、この駅で、10年に計画したときにエレベーターは絶対にだめだといわれました。絶対だめだといっても、つくれるように穴だけあけておきますといい続けていましたら、いつの間にか運輸省の指導で、エレベーターをなるべくつくるようにといわれ、そうするうちに、エスカレーターまでもつくことになりました。時代はどんどん変わっていくということをこの10年で実感しています。
(スライド−34)
 駅のホームですが、これもかまぼこ型のアールでアーチが連続した形、それもカーブしていますので、実施設計が大変でした。広場との間に防風スクリーンのガラスがあって、先ほどのタワーが内側から見えているわけです。
(スライド−35)
 スライドを見ていただけると、すぐわかっていただけると思いますが、もしここにヘビのような長い連続したただの屋根があったならば、まちのスケールと非常に違うものが出現していたと思います。それはやはり万里の長城になってしまうわけです。それをなくすために、これだけアーチの連続という形で、プラットホームの上にもアールをつくっていったわけです。ここが駅の出入り口で、人は車の列を横切ることなく、まちにそのまま到達できる、そういうコンセプトはきちんと守られています。ここはコロネードです。コロネードから線路沿いにずっと続いていてまちに到達できる、駅に到達できる場所になっています。ここに幾つかの空き地があります。旧国鉄の清算事業団の土地で、それがJRの所有になったり、市が買ったりして、これから公共施設がどういうふうにつくられていくか、これも1つのここの課題になっています。
(スライド−36)
 もう1つ、矢吹駅、この方が先に竣工しました。新幹線の新白河と郡山との間、新幹線は真っ直ぐ走っていますので、東北本川を弓型に新白河から郡山までつなぎ、そのちょうどど真ん中に矢吹という駅があります。そこにつくった駅です。
 最初に、当時の町長さんの、シャトルのようなイメージがあるんですという言葉がありました。ここでも一番のテーマが「人の居場所」です。そして、自分たちのまちを見るということが私のテーマになっています。
(スライド−37)
 橋上駅といいますのは、地上から7メートルぐらい高いので、上まで上がらなければなりません。どんなに気持ちよく上がって、どんなに気持ちよくおりてくるか、これが1つのテーマだと思いました。ですから、まちとの接点として踊り場に大きなステージをつくりました。これは太鼓の大会とか、ロックのステージ、そういうのにまちとしても活用してくれています。このステージは、こちらの西側だけではなくて反対側の東側にもつくりました。この駅そのものが最初にできた理由が、町村合併で、今まで駅裏といわれているところが70%の人口と70%の敷地になってしまいました。よくある話ですが、駅裏側にも駅をつくらなきゃならない。じゃ、そこをつなぐために橋上駅をつくろうではないかという、普通にあるパターンでこの話が持ち上がったわけです。
(スライド−38)
 エレベーターも確かにつくりました。このまちは小さいですから、エスカレーターがある初めての公共建物になったわけです。階段のステップも168ミリ、これはJR推奨の高さです。お年寄りでも楽に上がりおりができます。
(スライド−39)
 そして、もう1つのテーマ、人の居場所としてつくりましたのが、自由通路の長さ57メートルありますが、その57メートルのできるところは全部ベンチをつくったということです。突端に至るまでつくりました。要するに、人は、先ほどお話ししましたように、遠いところから来る人とかお年寄り、病弱な人たちは早目に来るわけです。その人たちがいつも自分の居場所をどこかしらに楽しげにつくれる。ここは駅側がクラシック音楽も実は流してくれましたが、そういう居心地のいい場所をつくりましょうというのがテーマでした。
 後でお見せしますが、駅裏側のもう1つの広場の方は水広場になっています。そこに向かって旧市街の方から子供の手をつないだおじいちゃん、おばあちゃんがここまで来て駅の通路のところから列車を見ながら、昔駅裏だった反対側の水広場におりる、そういう風景が展開されています。また、今ここでは、東側、西側の両方の広場とこの通路を使ってのフリーマーケットも行われているそうです。
(スライド−40)
 ここは小さな図書コーナーです。ここにはまちの住民票などをとるための小さな出張所もできました。この図書コーナーでは、本は、列車が来たらそのまま持っていっていいですよという図書コーナーです。これがエレベーターで、東側と西側とちゃんと2基あります。これも車いすの人が使ってくださって、非常にうれしく思っていますが、不届きなことに、自転車までもそのまま乗せてきてしまう人もいます。考えてみたら、そっちの方が正しかったかもしれないと、今思います。これからはこういう橋上駅のための自由通路は、もしかしたら自転車がそのまま乗れるエレベーターが必要なのではないかと思っています。
(スライド−>41)
 これは外側です。チューブですが、地表からの高さが一番低くなる方法ということで、楕円でつくっています。写真だと見にくいのですが、横広の楕円です。有効の7メートルをきちんととるということ、それからその高さがあまり高くないということで楕円を、これは解析が大変でしたが、構造の今川憲英さんがしてくださいました。
 これは昔駅裏といわれていた東側です。畑が周りに幾つかあって、新興の住宅地が建ち始めたという場所です。そこに大きな階段でおりてきます。そして踊り場にステージがあって、こちら側からはエレベーターでもおりてこれます。その前に水の広場ができています。
(スライド−42)
 これは駐輪場のところの屋根です。これがステージです。広場の中にもう1つ丸いステージをつくりました。それがずっと滝のようにカスケードとして流れていき、小川のように流れて、またそれが循環します。この水は昔々この地域に農業用水がなくて、すぐ近くに羽鳥湖という人工湖をつくりました。そこから大変苦労して水を引いてきました。今その水がここに使われたということで、住民の人たちは、自分たちの水を持ってくるという苦労がここに結集したということで非常に喜んでいます。
(スライド−43)
 これがその噴水です。ここから水がカスケードとして流れてきています。舞台が手前側にありますので、舞台で何かするときにはこの水をとめます。そうしますと、それぞれが段差が、舞台を見るための観客席のひな段になります。ここにもう1つ舞台があって、こちら側にも舞台があって、それをまとめて盆踊りとか、そういうものができるようになっています。
(スライド−44)
 これが東側の舞台です。舞台にはケヤキの株立ちを植えてあります。これはどうしてかというと、駅というのはいつもイベントしているわけではありません。1人でいてもみんなでいても楽しい場所が必要なわけです。この丸い舞台の水は、農業用水ですから、夏は水があります。田植えの季節から水が出るわけです。刈り取りの季節には水がもう来ません。ですから、冬で使えるとき、夏で使えるとき、舞台に人がいるとき、いないとき、木陰になるとき、ないとき、そういう2通りをいつも季節の循環を考えながら設計していきました。
(スライド−45)
 大学人として7年目になりましたが、その前まで建築家としてやってきて、今も続けている「まちを創る建築」に対してお話をいたしました。



5.自分のまちは自分で守る

 その後レジュメの5番目「自分のまちは自分で守る」に移ります。この都市経営フォーラムですが、1999年の6月23日に「早稲田のまちづくり」の安井潤一郎さんがお話しに来ています。この方は、環境ということをキーワードにしてまちづくりを始めました。そして、1999年当時はまだ環境だけだったと思います。その後に仲間である乙武洋匡君が『五体不満足』という本を出し、福祉ということ。今彼らは実は防災ということでいろいろな形のまちづくり活動をしています。
 99年に話を聞いてくださった方は、ラッキーチケットが出てくるペットボトルと空き缶の回収機のことをお聞きになられたと思います。その機械が設置された全国で第2番目が彦根、私の大学のあるところです。既に全国で60カ所になりました。その仲間たちで全国リサイクル商店街サミットというのをしていますが、去年の高知で300人、ことしの神戸で400人が集まっています。安井氏は去年の秋の園遊会にまで招かれてまして、ことしは平成14年度防災功労者内閣総理大臣表彰を9月にいただいてしまいました。
 96年から始めた活動ですから、まだ6年しかたっていません。その間にこれだけの動きになってしまいました。今は疎開パッケージといいまして、例えば震災が東京であった場合には、長野県の飯山市でそれを受け入れる場合にどういうふうに受け入れができるかということをパッケージにしたものとか、いろんな形で全国規模で動いています。
 私は、そのエコステーション館の1号館を、ボランティアの仲間と一緒につくった関係もありまして、私は97年から一緒に早稲田のまちづくりをしております。
 また、別のまちづくりの実例といたしましては、先ほど目白の森公園というものを目白でつくったというお話をしましたが、それがもう1つ進みまして、駅そのものは私の設計ではないのですが、目白駅前広場を目白のボランティアで計画しました。駅前広場は、東京都とJR東日本と豊島区で、それぞれ分割して持っていました。東京都の部分は線路の上なので樹木は植えられませんといわれましたが、でもどこかに樹木を植えましょうということから活動を始めました。学習院側の豊島区のコーナーは、今はまだ小さな木ですが、我々の地元の専門家知識を持ったボランティア集団の人たちでつくった「目白まちづくり倶楽部」が計画し、計画どおりにコーナー広場ができています。
 次の段階としましては、目白の駅前に交番をつくる計画で、これも「目白まちづくり倶楽部」が今設計しております。そして、目白駅の目白通りですが、ここにも、歩道をつくろうとしています。今もありますが、もっといい歩道をつくりましょうと提案しています。並木のある歩道をつくりたいので、6メートルの道路にしてほしいということを、東京都の第8建設事務所にお願いしています。今、6メートルはちょっと難しいのですが、5メートルぐらいならもしかしたらということになっています。これもこれからの公共のこと、道路1本にしても、地元がどういうふうな意向を持って動いているかということが大事にされる時代になってきていると思います。
 行政が一本やりで何かを決めてやれる時代ではありませんし、そのときに、じゃ、地元がどれだけの力とエネルギー、そして金銭を出せますかということが問われてきています。まず「自分のまちは自分で守る」ということでは、早稲田と目白の例が、私にとっては非常に身近な例になっているわけです。



6.環境再生と個の力 

 「環境再生と個の力」という、滋賀県で私が身近にしている活動をパワーポイントでご紹介したいと思います。
(パワーポイント−1)
 滋賀県といいますのは、ごらんのように、沖縄から北海道までの間でちょうど真ん中辺にあります。隣の岐阜県が「日本のへそ」という言い方をしていますけれども、まさにそこにあります。赤いところが滋賀県ですが、真ん中に黒くあるのが琵琶湖です。琵琶湖というのは滋賀県の6分の1の面積を占めているほど大きいわけです。といいますのは、滋賀県そのものは山の稜線が県境になっています。その水が全部琵琶湖に入る。そういう責任を持った場所にあるわけです。それどころではなくて、ご存じのように、京都や大阪、京阪神の1400万人の水がめとしても琵琶湖は機能しています。
(パワーポイント−2)
 これは昭和12年から15年代の琵琶湖の周囲です。「内湖」は琵琶湖に対する非常に特殊な言い方です。川が流れてきます。そこの先に砂州とか、地形の変化によって川の流れていった先が湖になって、それも閉鎖された湖ではなくて、琵琶湖とつながっている湖になっているものを内湖といいます。この昭和12年から15年のあたりでは、大変に大きなたくさんの湖岸線が内湖やラグーンに囲まれていたわけです。滋賀県の内湖の面積は、戦前が2902ヘクタールで、現在が425.4ですから、現在は7分の1になってしまったわけです。
(パワーポイント−3)
 私が環境フィールドワークという授業でかかわり合っていますのが、「近江八幡市、津田の干拓地のこれからをどうしたらよいのだろうか」という漠然としたテーマです。この昭和25年の地図と45年の地図を見ていただきますと、わかりますように、このように内湖がありました。けれども、戦中、戦後の食糧難の時代に干拓決定されてしまいました。大中の湖が先に干拓され、これは田んぼとして成り立ちました。ところが、津田の内湖の方は、干拓が決定した直後に、減反政策が始まり、田んぼとしてはスタートできませんでした。畑としてスタートすることになったわけです。
 干拓といいますのは、琵琶湖の水面がこの高さにありますと、そこに堤防をつくりまして、低い部分、昔の内湖の底の部分を畑としてつくるわけです。そこから水を抜く、干陸という方法でここの大中の湖も津田の干拓地も畑になったわけです。こちらが田んぼでこちらが畑です。畑といいますのは水の影響を非常に受けます。この辺は鉄分が多いわけですから、そのために赤くなったレンコンができてしまったり、おいしくないタマネギができたりとか、そういう悲劇が起きました。
(パワーポイント−4)
 こういうラグーンがあったのが、今はこれだけの干拓地になってしまったわけです。
(パワーポイント−5)
 減反政策への政策転換のための農水省が干拓中止を発表します。結局、干拓されますが、それは「畑」としての干拓でした。その後1990年に通称リゾート法によって、琵琶湖リゾートネックレス構想の重点整備地区になりました。実際問題、これまでの間に高齢化も進んで、後継者もいなくなって、水も悪いから畑もよくない。琵琶湖の水面よりも低いところで畑をつくっているわけですから、おいしいものができない。そういう問題が多く出てきました。そこにリゾート法ですから、皆さん非常に乗ったわけです。ところが、ご存じのように、それはつぶれてしまいました。日本各地によくあるパターンになったわけです。
 私は96年に赴任して、その年にこの琵琶湖の問題点、内湖の問題点として、津田の干拓地を考えてみないかということを、当時の学長の日高敏隆先生にいわれました。そこで、授業である県立大学環境科学部のフィールドワークの案として、「内湖の再生プラン」を提案いたしました。
 つまり、リゾートネックレス構想風の人工的なものをつくるのではない提案です。琵琶湖総合開発で10年間にわたって琵琶湖の治水・利水はかなりよくなってきました。一番考えなければならない環境面に対しては、むしろ周りの護岸がきれいになって人工的になりすぎたからこそ考えなければならないわけです。学生の中から、「琵琶湖に今一番必要なのは内湖じゃないでしょうか。それだったら、あそこの土地利用計画は、内湖の再生プランにいたしましょう」という案が出ました。
 そこから、2000年には「津田内湖復元研究会」を近江八幡市がつくり、また2000年に「津田内湖を考える市民会議」、これはまだNPOになっていませんが、市民会議が立ち上がりました。去年は、私がリーダーになりまして、「近江八幡津田内湖リサーチコンプレックス」を設立いたしました。
(パワーポイント−5)
 状況を見ていただきたいのですが、排水路はできていましたが、実際には琵琶湖の水面より低いので、おいしい作物ができず、作物をつくっても、キャベツがそのままであったり、ダイコンが花になるまで放ってあったり、そのままつぶされてしまいます。残滓、廃棄物みたいな形で放置されてしまったわけです。現在農業を続けたい25%の土地は土地改良をしています。
(パワーポイント−6)
 97年からこうしていろいろな活動をしておりましたら、だんだんと注目をあびててきたのか、最近は耕作をされるようになってきました。さて、これからどうなるのかなというところがあります。授業では写真のように現地のフィールドワークをいたします。次に、ことしは、「あそこの土地を水面にした方がいいのか」。それとも、「もう一回農地としてやり始めていた人もいるみたいだから、農地としてやった方がいいのではないか」という2案に分けてディベートをいたしました。それから、公開ヒアリング会をいたしますが、土地の古老の方が、このように昔のラグーンの様子を絵にかいてくれました。
(パワーポイント−7)
 これは97年からずっとやってきたことです。学生は学生ワークショップをして、その発表会をします。それから、エコロールプレイといいまして、「魚の精になったら」とか、「県の農水の役人であったら」とか、司会役は「大学教授であったら」という形でロールプレイングをするわけです。それを公開でいたします。
 それから、去年から公開ワークショップをしています。去年は実験湖をどうやってつくっていったらいいかということをいたしました。ことしは「津田の干拓地の名前をもっと広めるためのイベントはどういうものがあるか」ということをテーマにしました。
 それぞれ学生たちが事前に枠組みをつくり、ファシリテーターをします。住民の方たちも、行政マンも来ています。それから青年会議所の人たちも来て、その方たちを中心にしてワークショップをしていました。
(パワーポイント−8)
 公開ヒアリング会とかワークショップのこういうポスターも学生たちがつくります。
(パワーポイント−9)
 これが琵琶湖の形で、昔の干拓前の内湖はこういうふうに干拓されてしまったわけです。既存のスポーツ施設があり、農地として約25%を残しますが、農地としても普通の農地ではなく、いわばスローデザインとかスローフードとか、いわれるように、身近な作物が、顔の見える作物として、そしてせっかく内湖を再生するわけですから、内湖にふさわしい、環境に優しい農業をするための農地として残しましょうという提案をしています。
 先ほどリサーチコンプレックスができましたというお話をいたしましたが、環境科学部の中に建築があるということ自体が、非常に特殊な場所にあるわけです。環境アセスメントとして頭の中に浮かばれる分野、つまり、水のこと、植物のこと、鳥のこと、昆虫のこと、いろんな問題を研究する専門家がいます。そういう研究者の中にものづくりとしての建築家がいるわけです。ですから、それを有効に使いまして、かつ琵琶湖博物館、琵琶湖研究所、そことの連携によって、研究者のグループができました。
 それから、ヨシというのは水の浄化に非常に良いといわれています。ですから、ヨシ屋さんも、どうやって一緒に参加できるかということも考えています。ヨシは、刈り取ってそれを産業して使わない限り、もう一回水にそのまま放っておいたら、また水を汚す形になってしまいます。ですから、ヨシを使った発電のベンチャー企業もリサーチコンプレックスのメンバーに入ってもらいました。これはヨシ発電という言い方ではないですが、バイオマス発電としてのグループがあったので、その方たちを呼び込んだわけです。
 こんな形で環境というのはいろんな側面があります。エコロールプレーをやったように、それぞれの立場があれば、それぞれの意見があって、それぞれの問題は、たった1面だけでは解決できないということがお互いかなりよくわかっているわけです。その辺を全部さらけ出して討論する場として、リサーチコンプレックスをつくったわけです。
 今、実験湖をつくる予定になっていますが、そこの予定地をかなり大規模に土を掘り、その一部をアメリカに送り花粉等による年代測定をしています。発芽実験としては、今、南津田という場所にまいて、ばらまき調査といいますが、どういうものが発芽してくるか観察しています。
 周辺に小学校が2つありますので、そこにもバケツで土を渡し、発芽観察をしてもらっています。これは民・官・産・学プラス子供たちというリサーチコンプレックスです。津田のことはこれで終わりです。
(パワーポイント−10)
 もう1つ私がかかわり合ってきました大きなテーマは、都市再生についてで、ACTというサークルのことをご説明したいと思います。きょう偶然ですが、卒業生のACTのメンバーも来てくれています。授業ですと、私は見つけると、「いらっしゃい」といって、学生に話させるのが多いんですけれども、きょうは私が説明させていただきます。
(パワーポイント−11)
 1998年の10月がACT誕生です。このACTは、私が、まちの方からまちづくりについて考えてくださいといわれて始まりました。まちというのは、考えてくださいといわれて、レポートを出せばいいものではありません。私が大学人ではなくて、昔の建築家の私だったらそういうふうにしたかもしれません。要するに、行って調査をして、こんなのがいいですよと提案して、レポートにして出す。そういう作業をしたと思います。でも、商店街というのは、そういうレポートは山ほど持っています。私が大学人になったからこそできることは何であろうかということを考えたわけです。それが学生たちに、「まちに何ができるか考えてください」。まちの人には「学生に何ができるかを考えてください」という呼びかけだったわけです。
 そのときにスターティングメンバーが集まって考えてくれ、ACT(Action Connect with Town)というサークルができました。このACTといいますのは、時間軸と空間軸と、ハードとソフトが、こういうふうに少しずつ時間もずれながら、空間的にも少しずれながらできています。まず、その辺から説明したいと思います。
(パワーポイント−12)
 ここは彦根の中心市街地。地方都市の中心市街地といえば皆さんよくおわかりのように、今陥没状態です。ましてや銀座街といえば、どんなに疲弊しているか、皆さんすぐ頭に浮かぶと思います。その一番目立つところに一番目立つビルがありました。それが全館7年間も閉じられた6階建てのビルでした。そこを見まして、「ここのシャッターをあけましょう。まちづくりの初動エネルギーを学生に借りましょう」ということをお話ししたわけです。
 何で初動エネルギーかといいますと、まちづくりというのは、結局はそこで、「生きがい、死にがい、働きがいがある人たち」がやるべきことだと思います。4年しかいない学生に何ができると一時はまちからいわれたぐらいです。事実そうです。継続していくのは大変で、学生たちの知恵がなければ続きません。ですけれども、そこまで学生に望むのはおかしいと思います。ですから、初動エネルギーです。「まちづくりは、生きがい、死にがい、働きがいがある地元がやるべきこと」なんです。ですから、初動エネルギーをまず学生に借りましょうといったわけです。
 ここは昔は美容院でした。
(パワーポイント−13)
 まず第1期改装。夜中までみんなでシャッターのペイント塗りをしていました。
(パワーポイント−14)
 こうやって色を塗りました。汚いアーケードの中でした。
(パワーポイント−15)
 壁も張りかえてといいたいのですけれども、何をやっているかというと、壁紙をはがしています。お金がないので、はがすことによってきれいな白い部分を出す。そういう作業をやっているところです。
(パワーポイント−16)
 半年間トイレも上下水道もないところにいたわけです。そうしましたら、商店会会長さんが「トイレもないところに学生は来ない」と彦根市にいってくださり、半年後の3月の末に少し予算をつけてくださり、水を引くことにいたしました。建物のど真ん中にキッチンをつくりたいという学生の要望で、このように裏通りから延々と自分たちで掘削工事をして、配管をしました。
(パワーポイント−17)
 これは美容院の一部だったシャンプー台の上にある棚です。下のシャンプー台の棚は、それをはがして手前に持ってきて、つくりかえてカウンターにしています。
(パワーポイント−18)
 このようにカウンターができました。2000年に何回目かの改装をして、かなりきれいなお店ができました。この中で私も非常にびっくりしているんですが、その辺に捨ててあるもの、拾ってきたもの、それから使われてないものをうまくつくり直しています。最近リサイクルということはたくさんいわれています。ですけれども、リサイクルの前にリユースというものがあります。もう一回使えるものは使いましょうということですが、それを単に使うといっても、自分たちの知恵とデザイン、そういうものを使ってつくり上げているわけです。
(パワーポイント−19)
 ここがサロンの入り口です。これも真っ赤な扉でしたが、ペイントをはがして鉄の扉にしました。今は少しさび始めています。それもまた風合いがあります。ここは美容院でしたので、ピンクのタイルが張ってありました。それも外して、白セメントでこういうふうにつくり上げています。
(パワーポイント−20)
 今のがハード面です。ソフト面としましては、トイレができた年に新入生を迎え入れるための若葉祭というのをいたしました。これは隣のパチンコ屋さんも使っていいということになりまして、そちらも改装しました。パチンコ屋さんの写真です。天井がすごく汚いんですけれども、軽鉄だけ残して、改装したわけです。
(パワーポイント−21)
 これも若葉祭です。日高学長です。
(パワーポイント−22)
 その半年後、ACTができて1年後ですが、まちの人たちとの共同企画としてハローウィンパーティーをいたしました。
(パワーポイント−23)
 こうやってまちじゅうで楽しんでくれました。
(パワーポイント−24)
 そして、2000年の3月。湖北21世紀事業という県の事業がありました。そのときの企画、講師の手配、グラフィカルなデザイン、会場設営、そういうものも全部ACTの学生たちがメンバーを集めてやってくれました。
(パワーポイント−25)
 2001年の4月です。インドで大地震がありました。
(パワーポイント−26)
 そのときに、豊田勇造さんという歌手が出演してくださることになり、大学の同僚の先生が、インドに行ってその惨状を写してきてくださったので、壁にパワーポイントで写真を流しながら、舞台で豊田さんに歌っていただくというチャリティーライブをいたしました。
(パワーポイント−27)
 これがハードとイベントです。
(パワーポイント−28)
 これがリアルコミュニティーとしてまちに今あるものです。
(パワーポイント−29)
 これがバーチャルコミュニティーです。ACTネットといいます。メーリングリストは、皆さん、よくご存じと思いますけれども、この98年当時はまだ珍しかったと思います。バーチャルコミュニティーとしてのまちの人、行政の人、私たち教員、そして学生たち、今はOBたちも全国に散らばっていますから、そういう人たちのネットをつくって、情報交換をしています。
(パワーポイント−30)
 これは第2世代の人たちが頑張ってくれたイベントです。2000年の12月に「銀座光路」と名づけたイベントを行いました。銀座街というのは、先ほどもお話ししたように、本当に疲弊した、ひどいところでした。空き店舗も彦根全体で22%となっていたわけです。銀座街が、アーケードを改修し、学生たちに依頼してきたのが、「何かイベントをしてほしい」ということでした。何をしてほしいということはありませんでした。それで、ACTの学生たちが、空き店舗と協力店舗の屋上から布をたらしまして、そこをライティングすることも提案いたしました。それから、アーケードに昔の写真をプリントした布をたらすイベントをしました。
(パワーポイント−31)
 これがそうです。昔の写真とかコメントをプリントしました。そうしましたら、おじいちゃんやおばあちゃんがそれを眺めて非常に楽しんでくれたという状況が生まれました。これは地元以外では非常に評判がよく、彦根はすごいことをするなということで評判がよかったのですが、彦根のここの商店街の人たちにとっては、夜やるので、お客様が来てもお金にならなくて、あまり評判がよくありませんでした。学生たちが、これだけのことをやったのですが、文句をいわれました。ですけれども、次があるんです。
(パワーポイント−32)
(パワーポイント−33)
 これが拠点のACTStaionのライティングです。この部分がパチンコ屋で、Q座としてライブハウスになっています。
(パワーポイント−34)
 銀座光路の方がお客様があまり来なかったといわれたものですから、じゃ、お客様の来ることをやろうということで計画したのが、2001年3月になりましてからの銀座画廊です。これもACTやQ座だけではなくて、空き店舗や協力店舗、銀座街全体が一斉に画廊になりました。銀座街全体が「光の光路」になったように、銀座街全体が「画廊」になったわけです。
(パワーポイント−35)
 これは地元のアーティストや趣味でやっている方たちに参加していただきました。
(パワーポイント−36)
 そうしますと、昼間していますし、知り合いが参加しているわけですね。ですから、商店街が非常ににぎわいました。銀座画廊中は、お友達がお菓子とかお花を持って「おめでとうございます」といって、展示会場に行くからです。皆さんお土産を持っていくので、商店街が非常に潤い、ACTというのがここで認知されたと思います。そういう意味では1998年からスタートしているわけですから、結構時間がかかったということもいえます。
(パワーポイント−37)
(パワーポイント−38)
 スーパーのファサードのところにもこういうふうに絵をかけてしまいました。
(パワーポイント−39)
 それで、活動がまちにつながるということでACT(Action Connect with Town)です。これにはまだ次の段階があります。Q座というのは、先ほどお話ししたように、元パチンコ屋さん、元ビリヤード場をライブハウスに使っています。そこで、音が漏れます。その防音工事をやりましょうというのがことしの春で、防音工事の材料を何にしたかといいますと、あれだけのビルですが、1、2階しか使っていません。3階以上は消防から使うなといわれています。そこで、3階以上のところにあった飲み屋さんから畳を持ってきました。畳を持ってくると下に板がある。じゃ、板も持ってくる、板を持ってきたら、根太がある。じゃ、根太も持ってくるという形で、畳の両側をパネルで挟んだ防音パネルをつくりました。それで防音壁をつくり、ついでに調整室までつくってしまいました。
 そうしていましたら、まちの屋根屋さん、金属鉄板などを扱っているところが、亜鉛鉄板で余ったのがあるから上げるよといわれて、それを表面に張ったんです。ですから、まちから見ると、パチンコ屋さんのガラス扉の内側に1枚銀色の壁がありまして、それは畳を挟んだ防音扉になっています。
 それから、ACTの学生たちと、間伐材や廃棄木材、それこそかんなできれいにしないと形がとれないようなものですが、それでベンチをつくるという「ベンチプロジェクト」を立ち上げました。そのベンチプロジェクトの次にかんなくずを使って、先ほどのバイオマス発電のグループとタイアップしまして、「くずくず発電プロジェクト」をつくっています。これも今動いている最中です。



7.一石7七鳥:7つのキーワ−ド 

 「一石七鳥:7つのキーワード」というのをお話ししたいと思います。
 これは実は書き間違いまして、「一石七鳥、緑化計画7つのキーワード」です。1人1人が緑化計画をやることによって、防災のこと、環境のこと、いろんなことができますよということを7つのキーワードにまとめたものです。
 その1が、防災です。これは阪神・淡路大震災のときに、街路樹が火どめの役割をしていたということは皆さんご存じだと思います。パストラル・コートそのものも、南面が空いているわけです。そこは緑の防護にして、それを火どめのかわりにしているわけです。まず1つ目は防災です。
 2つ目が、ヒートアイランドを防ぐです。先日、都庁でヒートアイランドのシンポジウムがありましたが、東京は100年で3度上がっているそうです。これはニューヨークが1.6度に比べて、倍近いわけです。ご存じのように、もちろんいろんな理由があります。この緑化計画そのものもたった1つの提案かもしれません。でも、いろんなことでも1つずつでもやれば、かなり大きく変わっていくのではないかなと思います。もちろん、隅田川ような川にいわばヒートポンプの役割をさせて、熱交換をさせるとか、大きな計画もあります。ですけれども、個というものの大事さというものがあると思います。
 3番目は景観。これは皆さん、説明要らないと思います。
 4番目がビオトープ。もちろん自然の生態系ですね。それを都市の中にも入れて、大きな生態系につなげるわけです。
 5番目は、資産価値です。これは私がいろいろなところで、まちづくりは経済戦略であるという形でお話をしています。緑化計画そのものは、木々は大きくなるためには時間がかかりますが、それ自体が歴史になるわけです。それは経済効果にもつながっていくわけです。
 6番目の集客力は、もちろん名所とか花見とか、そういう言葉で昔の広重とかの絵を見ていただければわかると思いますが、それでなくても、現在の原宿の表参道を見ても、その集客力が、1つ緑化計画の中にあると思います。
 7番目。実は一番大きい声でいいたいのですが、感性の豊かな子供が育つということだと思います。あるとき私が車を運転していましたら、きれいに紅葉したイチョウの枝が切られ始めていました。それで東京都に電話して、「何で切るんですか」と聞きました。そうしましたら、「たくさんあるので、3月までに切り終わるためには今スタートしなきゃいけないのです」ということと、「まちの人たちから、枯れ葉が邪魔だから切ってくださいという要望が多いんです」という2つの答えがありました。多分どこでもそういう言い方をされると思いますが、これはやっぱりエクスキューズだと思います。事実かもしれないけれども、それを解決していく方法だってあるわけです。一方、住民サイドの個々の意識が変わらない限りは難しいかもしれません。でも、変えるべくみんなが考えていかなければ、計画者としてはいけないんではないかと思っております。
 情操教育とはいわなくても、花が咲く、葉っぱが落ちる、その前に紅葉する、そういう1つ1つの時間の流れ、季節の流れを大事にして感性の豊かな子供が育ってほしいと思っています。
 京都での環境会議なども、滋賀県でしたから、すぐ近くでしたし、その前のリオ会議も含めて環境問題について、私もいろいろと考えております。環境問題に関していわれますのが、「シンク・グローバリー・アクト・ローカリー(Think Globally ActLocally)」。要するに、地球のことを考えて、実際には行動は地域でやって、ローカルアジェンダをつくりなさいという言い方をされるわけです。でも、これは国連という機関があり、国という機関があって、それがだんだんと地方におりてくる、そういうやり方でしかないと思います。
 一方、私は「アクト・ローカリー、アクト・ローカリー、アクト・ローカリー(Act Locally、Act Locally 、Act Locally )」。要するに地方でずっと活動して、それで「シンク・ローカリー(Think Locally)」。要するに地方を考えて、その後に「ムーブ・グローバリー(Move Globally)」になるのだと思います。最初にグローバリーがあるんじゃなくて。同時多発というと、嫌なイメージがありますが、全国のいろいろな地域で既に行動に移している、そういうグループがあり、発言もしています。そういう人たちが連携することによって、「ムーブ・グローバリー」。最終的には全体を動かしていく、そういう形になってほしいと思っています。なっていくと信じていますということです。
 それで、きょうのタイトルですが、「個の総体がまちをつくる」ということでお話しさせていただきました。ありがとうございました。(拍手)



フリーディスカッション

藤山
 柴田先生、ありがとうございました。
 時間がございますので、質問を受けたいと思います。質問等ありますでしょうか。

水谷(日本上下水道設計株式会社)
 地域の方から考えようというのはよくわかるわけで、地域だけでほぼ影響がおさまるものはそれでいいと思うんですが、そうじゃないものも多いと思うんです。先ほどのお話の中でも、例えば琵琶湖のラグーンの改造計画がありますね。あれは地域だけでは済まないと思います。例えば、琵琶湖の水質であるとか、特にラグーンを再生しようというのは水質面からの要請も多いと思うんです。そういうようなことについてはどのように取り組まれたのか、教えていただきたい。

柴田
 おっしゃるとおりだと思います。実はこの干拓は県の干拓ではなくて国の干拓なんです。当然のことながら農水省がかかわり合っています。この間の国会では成立しませんでしたが、自然再生事業というのが今農水省と国土交通省と環境省で行われようとしております。津田では、堤防自身は国土交通省のもので、中には農水省の水路敷があったり、干拓そのものが農水省であったりということです。ですけれども、まず今の国の公共事業では、地元が要請しないことは、たとえ国が決めてもできないと思います。
 ですから、強い地元が必要になります。先ほどリサーチコンプレックスは民・官・産・学というふうにお話ししましたが、民・官・産・学は全部そろっています。それと子供たちなんです。こんな形で、実質的に着実に、粛々という言い方も合っていると思うんですが、大きな流れがどういうふうに動いていくかということを見ながら、地元で粛々とやっていくと、実際にはこうやって96年に話が来て、97年ずっとやってきますと、実は国の方が自然再生事業なんてものをポコッと打ち出したりしているわけです。実際にはそういうローカリーな動きと国の動きはそうはずれてないと思います。
 先ほどちょっとお話ししたヒートアイランドみたいな話も、個々がやるということと、大きく全体像がやるということはまた違うと思うんです。それはそれぞれの専門家がそれぞれの次元でやれることをやるのが必要だと思います。今までですと、小さな1つをやってもだめだよという風潮があったと思うんです。ですけれども、そうじゃない。先ほどのリサーチコンプレックスの中には、水の人もいれば、植物の人もいる、鳥の人もいる、魚の人もいる、そういう形で、自然界を考えると、やることがたくさんあると思うんです。それぞれの研究者の方々と合意形成ということを専門にしている社会学の先生にも入っていただいています。それから、計画学の私たちです。ですから、それぞれが主張します。
 ヨシだってヨシ屋さんは焼いた方がいいといいます。でも、鳥を研究している人からすれば、カイツブリなんかの巣が焼けちゃうからだめだといいます。エコロールプレイングでいろんな立場の方と話すということを授業でやるように、必ずそこはぶつかり合います。それをどうしたらいいかというのが、イエスかノーかじゃない方向というものをつくっていく。それを授業でも考え、一方現実的な動きをし、私自身も文部科学省に行ったりしますが、自然再生事業に向かってのいろいろな方たちに話したりとかもしています。全部並行しているという状況です。ぜひお力をお貸しください。

角家(コンピュータ パソコン IT講師)
 いろいろ貴重なお話をありがとうございました。
 「個の総体がまちをつくる」という、非常にいい表題だと思います。「個」だけでなく、全体のグランドデザインも描いて、両方が整合性をとりながらやっていくのが、結果的には一番いい社会、まちづくりができるんじゃないかと思います。もちろん現在日本は資本主義ですから、個の力がエネルギーを発揮しないと、前に進みませんが、それとともに、全体を巨視的に眺めてどうするかというグランドデザインの方も必要だと思います。その整合性についてますます今後先生に頑張っていただきたいと思います。

柴田
 ありがとうございます。
 まさにそのとおりだと思います。、ACTの活動は、TMOは関係なく動いていますが、周囲で旧通産省がスタートさせたTMOでハードのまちづくりもかなり動いていたりしています。ですから、個ができることをスタートさせることによって、全体の流れがちょうどうまく見えてくる、そういう時代ではないかなと思います。
 現在のような先が見えない、いつ何が起きるかわからない、それこそ一番最初にお話ししたように、いつ太陽が照って、いつ鉄が熱いのかわからない。鉄は熱いうちに打てといっても、いつ打っていいかわからない。そういうときだからこそ、最初の一歩はいつからでもできると思います。そういう意味で、中小企業の方たちに、いつからだってスタートですよ、そういうエールを送ったつもりです。
 それと同時に、個だけでできるわけではなくて、総体というグランドデザインの大事さというのはわかっています。ただ、今回、私が強調して何で「個」というかというと、今まで明治維新はもちろん、戦後ももちろん、全体を考えてすべて上意下達だった社会が、現在は閉塞感にこれだけ打ちひしがれています。そのときにもう一回、「個」、会社内での「個」とか、まちでの「個」、そういうものを考えてみましょうという投げかけだと思っていただければと思っています。

藤山
 そのほかございますでしょうか。
 本日は、柴田いづみ先生に、「個の総体がまちをつくる」というテーマでご講演いただきました。先生、どうもありがとうございました。(拍手)
 これをもちまして、きょうの講演を終了させていただきます。どうもありがとうございました。


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