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第178回都市経営フォーラム

都市環境のデザインと街の活性化

講師:中野 恒明 氏
アプル総合計画事務所長


日付:2002年10月24日(木)
場所:後楽国際ビルディング大ホール

 

1.地方都市の現状:さびれた街、元気な街

2.欧州の環境再生型まちづくりの報告

フリーディスカッション




 中野です。今ご紹介いただきましたが、私はアプル総合計画事務所を主宰して18年になります。私どもの事務所は十数人のアトリエといいますか、小さい組織ですが、建築設計から都市デザイン、景観設計などを含む都市総体のデザインに関わることを目指してきました。前置きとして、私、土木の景観設計なる分野での作品を雑誌とか、そういうものに発表させていただいてきましたが、これはあくまで私どもの活動の一部でして、最終的には都市という大きな器の空間のデザイン、計画にかかわることを目標にしてきましたし、今もその方向で関わるつもりです。アプルの建築設計につきましては、私のパートナーであります大野秀敏の作品という形で発表させていただいております。
 私には3人の師匠がいると自分なりに解釈しています。1人が私の大学時代の恩師であります大谷幸夫先生。大谷先生はご存じのように建築家として大成されて、先日喜寿の会のお祝いをさせていただいたわけです。物をつくることの厳しさをとことん大学時代に教わりました。その後、槇文彦先生のもとで、10年間都市デザインチームの中でいろいろご指導いただいて、実務を鍛えさせていただきました。その間に横浜市の都市デザイン行政との接点があり、そこで知り合ったのが田村明先生。特に実践的都市デザインという形で、いろいろ本に紹介されております。建築の設計と違って都市デザインは、野球のバッターと同じで30%打てたら大打者だ、そう思えということを教わりました。
 私たちがつき合っている都市は、クライアントが自治体であったり、民間であったり、場合によっては市民であったり、いろんな階層、立場からの依頼を受けます。それと同時に、私どもが物をつくっていく、または計画を実践していく中でいろんなしがらみがあります。これは法制度の問題であったり、特に国の縦割り行政に象徴されるような垣根がたくさんあります。それと、これは欧米と日本を比較するときに、なぜ向こうではできて、こちらでできないんだろう。これは制度だけじゃなくて、市民の意識のレベルの問題もあるのだろうと私は考えております。
 実は、今から6年ぐらい前に、『日経アーキテクチャー』という雑誌のインタビュー記事で、建築には仮囲いというものがあって、その仮囲いの中で100%能力を発揮できる、そういう仕事が多々ある。それに対して都市というのは垣根がない、かき割りがないもんですから、私どもが絵をかいている最中にいろんな方々からの雑音が入ってきます。いろんな立場からの意見が出てくる。例えば、これは行政の中の仕組みの問題であったり、もう1つは、つくる立場と物を維持管理していく、そういう立場によって全然意見が違います。
 例えば、警察の方々は、道路交通法とか、そういうものを盾に、市民の安全を守るという立場で、新しいものについてなかなか積極的に取り組んでいただけない。ただ、それのおかげで我々のつくるものは事故のない、そういうものができてくる。それはある意味では無難なものかもしれませんが、長い年月使い込んでいく中ではそういう仕組みも必要なのではないかと私は解釈をしてきました。おつき合いしている方から、人間サンドバッグとよくいわれるんですが、いろんな提案をして、最初はだめだといわれても、1年、2年たったら、どうも私の言っていることが、ものができている、そういうことが多々あるといわれていまして、それが幾つかの作品に出てきているということだと思います。
 私の場合は地方都市の出身です。山口県の宇部という小さな、人口17万の街で育ちまして、その街が、ご存じのように、シャッター通りという名に象徴されるように、中心商店街がほとんどシャッターの街になってしまった。現在の市長さんにはいろいろ形でアドバイスをさせていただいてはおりますが、近代都市計画は地方都市に何をもたらしたんだろうかというのを常々疑問に持ちながら、東京で仕事をし、地方の実務にかかわるということをさせていただきました。
 それと同時に、今東京でも幾つかのプロジェクトを進めさせていただいておりまして、昨今の都市再生法案に基づく中心部、都心部の超高層の建物を含めたプロジェクトの提案も、地元の方々と構想づくりをしています。そういう意味で、私の関わりは都市というものを常に目指すという形でアプローチしているということでございます。
 映像に入る前に、皆さんにテキストとして参考のシートをお渡ししております。これは「都市環境のデザインと街の活性化」というキーワードで話をまとめさせていただいています。
 概要だけ少しご説明しておきます。最初にあけていただきますと、「中心市街地の活性化と都市デザイン」というテーマで原稿を書きました。本日出席の方で何人かいらっしゃると思いますが、財団法人都市づくりパブリックデザインセンターという財団法人がございます。そこの機関誌で、中心市街地の活性化ということをテーマに原稿を書いてくれということでしたので、書いたものです。先ほど言いましたように、「都市計画、特に近代都市計画は地方に何をもたらしたのか」というところに問題提起をさせていただいております。
 もう1つは、「生活の場としての都心の再評価を」ということで、特に地方都市の場合は都心部にほとんど人が住まなくなってしまった。大都市ならいざしらず、地方都市のあんなのどかな街になぜ人が消滅していったのかというところの問題提起です。
 それと、私どもが常にテーマにしておりますのは、都心再生のための都市デザインの必要性。北九州の門司港のプロジェクトは、ある意味では観光政策としてとらえられておりますが、私たちはあくまで都市の活性化のためには中心市街の環境整備を積極的にしていくべきだ。それは観光という形での外部からの経済力が地元に投下されるということを期待はしておりますが、その名目のもとに私たちは市民のための空間、環境を提供してきたということです。
 そういう意味では、都市環境のデザインというのは必ずしも華々しい建築ですとか、都市のデザインだけじゃなくて、人間の生活に密着した形のデザインというものもあって然るべきではないかということを主張し、実践させていただいてきた、そういう立場で、原稿をまとめさせていただいております。
 それから、もう1つは、もう1枚あけていただきますと、「生活感のある都市デザインを目指せ」というテーマで書かせていただいたものが、残念ながら休刊になりましたが、建築資料研究社から発行されていました『造景』という雑誌がございます。そこでbQ0の特集が、「転機の都市デザイン」という内容でした。そこで私なりに、都市デザイナーという職能を目指しつつ、都市デザインは今まで何をやってきたのか、何だったのかということを自問自答する意味で、都市デザインの転換点を述べさせていただいたものでございます。
 この「都市デザインの転換点とは」というのは、東京大学の丹下研究室を中心として都市デザインという新しいキーワードが生まれました。そのおかげで私の出身学科でございます東京大学の工学部の中に都市工学科という学科が生まれました。そこで、都市デザインを目指すという立場で私もそこに席を置きました。勉学をさせていただいた経緯がございます。その歴史を少し紐ときながらまとめたものです。
 もう1つ、「形骸化した都市美思想からの脱却」と書きましたのは、都市デザインというのが都市美、これは戦前世界でいろいろな建築家ですとか、都市計画家の間で研究をされて、世界的な運動になってきた都市美運動、シテイ・ビューティフル・ムーブメント、それの歴史も私なりに研究させていただいておりましたので、それと都市デザインとの関係、それを見ていきますと、どうも審美的なところにかなり重点が置かれていたのでないか。そこで、抜けていたのは、生活感と言いますか、そういう人間的なものだったんじゃないかという主張です。
 「生活街・那覇の魅力」と書いています。私も沖縄の那覇の仕事にもう6年ばかりかかわり続けております。これは具体のプロジェクトというよりは、むしろ国際通り商店街という1.6キロ、1マイルにわたる那覇の街の商店街があります。これは6年前に照明デザイナーの面出薫さんからのご紹介で、一緒にまちおこしのプロポーザル提案をしようじゃないかという、それに応募して何と1等になりました。その後が波瀾万丈でした。地元だけでまちおこしをやるには限界がある、ということで、私の都市計画家、都市デザイナーとしての立場で商店街支援策を提案しました。中心市街地活性化法案ができましたので、その法案の枠に合うような調査を行政にお願いされたらどうでしょうか、それで調査費をつけていただき、これも地元のコンサルの方が調査を担当されて、その結果、商店街の環境整備にかなり国費を使える形の事業展開になりました。
 設計は当然のことながら地元の設計事務所の方でなされています。私は一応商店街の顧問として、アドバイザーという形で現在も続けています。きょうもうちのスタッフが現地に乗り込んでいます。何をやっているかというと、TMO、商店街支援のためのいろんなアドバイザーをさせていただいて、後4年間つき合うことになっています。その中でいろんな政策提言、交通計画等にかかわる。そういう意味では私は那覇にどっぷり入れ込んでいる1人だと思っています。そういうものの紹介をさせていただいています。
 最後に、「街を使い込むことの重要性」ということを最近私はテーマにしていろんなまちおこしの提案をさせていただいています。これは北九州市の門司港です。後で映像をお見せしますが、形だけの、物のデザインだけではやはり限界がある。そのつくった空間を市民がどう活用するか。特に私たちの空間をデザインするというのは、ある意味で都市という舞台を設計する訳ですが、舞台でどういう演者が、どういう活動をしていくのかそこが重要なのです。沖縄の街がハードな意味で空間はかなり貧弱なんですが、ソフトすなわち市民の活動が実に豊かなんです。かなりゲリラ的な活動も含めて市民がいろんな空間の使い込みをしてくれています。
 ある意味では私たちが戦後、現在を含めて都市計画というもので様々な器、空間をつくってきましたが、本当に幸せになったんだろうかという疑問を私は持っています。これも先ほどいいました財団法人都市づくりパブリックデザインセンターという財団法人と都市環境デザイン会議、(ジュディ−JUDI)、土木、建築、造園、工業デザイン、そういう方々で都市というキーワードで関わりのある人たちが10年ばかり前に結集し、今では全国で600人ぐらいの会員の方が活動しています。そのジュディと共同研究で都市の公共空間活用実態調査というのをさせていただいた経緯もあります。お祭りですとか、イベント、オープンカフェ、いろんな活用の実態が挙がってきました。私も責任者の1人として関わらせていただいたものがあります。
 そういう意味で、前置きとして解説をしましたが、少し映像の方をご説明して私の考え方を述べさせていただきたいと思います。テーマで掲げたものと若干順不同ではございますが、その点ご容赦ください。



1.地方都市の現状:さびれた街、元気な街

(パワーポイント−1)
(パワーポイント−2)
 これはシャッター通り。東京都内に居を構えてそこで活動をされている方からすると、不思議な風景かと思いますが、日本の地方都市にこういう商店街がたくさんあります。私の田舎もこういう形で日中も店のシャッターがおりているのが実態です。これがこの10数年間顕著になっている。そこで今、都市再生ということで地方都市にいろんな活性化のためのプロジェクトが出てきていすが、残念ながら商業近代化のための事業と都市計画とがなかなかリンクしないとか、いろんな問題がありまして、必ずしも成功している事例は多くないと言えるんじゃないかと私は見ています。
(パワーポイント−3)
 そのシャッター通りというものと対極的なものを幾つか目にすることがあります。右側の映像は中国のある街の風景です。中国の街はどうしてこんなににぎわっているんだろうかと考えますと、ある意味で近代都市計画の遅れから公共交通機関がほとんど整備されてない。そうすると、人々が都市に職を求めてくると、もう都市に住むしかない。かなり密度の濃い住み方をせざるを得ない。都市に人が集まるということは、当然そこで物が消費されます。近郷在住農家の方が、都市に物を売りに来る。それがこういう日常的な風景になっている。よく考えてみると、日本の昔もこうだったのではないでしょうか。これは私の尊敬しています北山創造研究所の北山孝雄さんがまとめられた本にあった映像です。昭和初期の、ある街の風景です。ここには車もありません。人がとにかく歩いて、物を買い、それを楽しむという風景がありました。
(パワーポイント−4)
 幾つか日本で元気になっている街、皆さんご存じだと思いますが、一応ご紹介させていただきます。滋賀県長浜市の黒壁、これはご存じのように、黒壁という旧北国銀行の解体騒ぎをきっかけに地元の方が立ち上がって保存再生に自ら資金を出し合って、株式会社黒壁というものを設立されて、かつて空き店舗だったところを借り上げて改修して運営する、今ではすばらしい街になっています。
(パワーポイント−5)
 これがそうです。古い銀行はガラス館としてされました。地元にガラス産業を定着させるきっかけにもなりました。行きますと、本当に人がたくさんいます。街が元気になった。大したことをやってないと私は見ているんですが、不思議とそこに人が集まっている。そういう現象が起きている。
(パワーポイント−6)
 最近元気になった首都圏近郊の街で、栃木県の栃木市があります。これは今から10年ぐらい前、たまたま蔵のある街が、シンボルロード整備事業という国費を投入できる街路整備が行われまして、そのときに蔵の街を隠していたかき割り建築を取り払った。取り払って街路を整備しただけなんですが、どこからともなく、観光客の方が、いい街だからということで訪れる。それを起爆剤に川沿いに街並み修景をやったり、ポケットパークをつくったりということで、どういうわけか、人が集まるようになった。そういう街があります。
(パワーポイント−7)
 北海道の小樽市の小樽運河、皆さん、ご存じだと思います。これもたまたまシンボルロード整備事業を適用しているんですが、かつてこの小樽運河、機能を喪失して、汚い運河になっていた。それを都市計画事業で全部埋め立てて街路にしようという計画が持ち上がりました。それに対していろんな方々が反対運動を起こされて、結局半分残して、半分埋め立てをしました。そのときに、それなりに設計者のレベルも高いと私は評価していますが、道路からレベルを少し下げた小段をつくって、遊歩道をつくった。何てことない話です。ところが、この遊歩道をきっかけに街に人が来るようになった。こういう形で水辺を少しきれいにしただけで人が来る。
(パワーポイント−8)
 ライトアップの風景もありますし、あと、すたれた倉庫群が、人が来るものですから、レストランとか、いろんな展示スペース、ショップ、そういうものの改装が行われました。行政側も歴史的な建物保存活用について助成、補助をするようになってきた。街全体に観光客もふえて、地元の方もそこに住むことを誇りに思うようになった。かなり元気になってきたと評価されています。
(パワーポイント−9)
 そういうような流れの中で、北九州の門司港のプロジェクトも、15年前にスタートしました。これは『新建築』という雑誌に紹介していただいた映像です。後で詳しくご説明しますが、この船だまり沿いに遊歩道をつくって、古い建物を再生した。これが駅前広場です。広場の部分を多目的広場としました。
(パワーポイント−10)
 古い倉庫の外壁だけ残し、それを駐車場として活用した例です。当時の計画では全面的に解体撤去をして、レンガの壁も全部なくしてさら地にした上で駐車場をつくるという計画でしたが、私たちが逆提案をしまして、とにかく解体処分するコストを考えると、むしろ残した方がいいのではないか。たまたま同じコストでできるということがわかりましたので、この場合は補強してさら地の駐車場を隠す、そういう意味では風景の継承ということをずっと唱え、実現したプロジェクトの1つです。
(パワーポイント−11)
 少し話を変えますと、これは私の自宅で、自ら設計した環境共生型の住宅です。テレビ朝日の宇宙船地球号の「エコ住宅に住みたい」で放映された映像です。実は私は門司港のプロジェクトで15年になりますが、あるときから「環境」というキーワードで物事を整理することをはじめました。古いものを捨てることの罪悪感、とにかく歴史を経たものを残すということを主張してきました。これは現在を生きる我々の責務ではないかということと、もう1つ、地球環境の問題に対して、たまたま今から十数年前に政府系の委員会の委員を仰せつかった経緯があります。いち早く環境に対する、目からうろこが落ちるといいますか、そういうことを勉強してきました。そういう立場からすると、自らそういうキーワードで生活を実践してみようということです。海のそばの浦安に私住んでおりますます。千葉県の浦安の風土に合った形で、風を取り込むとか、雨水の活用、自然エネルギー活用型の省エネ生活をみずから実践しています。雨が降れば雨水がたまって得したなと思うし、台風が来ると、風力発電が電気をつくって、屋外照明の電源にしています。晴れたら晴れたで当然のことながらソーラー発電を、東京電力に売っていますし、太陽熱温水を使えば夏場はほとんどお風呂はガスを使わなくていい。また夏は西日を避け、風を通すために、このような伝統的なすだれを二十数枚張りめぐらしています。屋上緑化ですとか、いろんな体験型の生活をさせていただいているという経緯があります。



欧州の環境再生型まちづくりの報告

(パワーポイント−12)
 そういう意味で、私もたまにヨーロッパ、アメリカなどにブラッと行ったり、視察団を組んで視察ツアーというのを仰せつかることもあります。特にヨーロッパに行きますと、環境ということをキーワードに、街のつくり方、市民の生活ががらっと変わってきています。この象徴が自然エネルギーの活用、これはオランダの風車の絵です。景観的に見て必ずしもいいかどうかという議論もありますが、とにかく人類存亡の危機という大きな命題の中で、自然エネルギーをどう活用していくか、裏返していけば、地球温暖化問題に対する化石燃料の消費抑制のためでもあります。
(パワーポイント−13)
 その中で、EUの中心都市でありますストラスブール。これは公共交通機関を根本的に見直して活用していくという大きな政策をとって一躍有名になった街です。
(パワーポイント−14)
 そこでは、排気ガスの抑制のために公共交通機関。あわせて街の中全体を排気ガスのない街にしていこう。ある意味では人間的な環境を取り戻そうという大きなプロジェクトが進行しつつあります。
(パワーポイント−15)
 あわせて水辺の再生も行われています。こういう形で水辺の再生も成功してきています。快適な環境を求めてかなり観光客も増えましたし、当然街の中に人が住むということが平気で行われるようになってきました。
(パワーポイント−16)
 北欧のコペンハーゲンに行きますと、これはストロイエといいますが、中心部の歩行者空間。これは二十数年前にできまして、私もいち早く飛んでいった経緯があります。街の中がとにかくにぎやかなんです。人口60万ぐらいの街ですが、車いすの方も平然と街歩きをしているという状態です。この街のすばらしいのが、中心部に排気ガスを呼び込まない都市政策をとっていますので、街の中心部も快適な環境があります。街に住んでも気持ちがいいんですね。少し路地に入ると、純然たる住宅街です。例えば、銀座通りの一歩裏が住宅街という感覚です。そういう生活感のある街になっています。
(パワーポイント−17)
 かつて車に占拠されていた広場、そこも車を排除していますから、どういう活用をしているかというと、八百屋さんですとか、露天、オープンカフェ、そういうものが街の中の至るところに営業をしています。
(パワーポイント−18)
 これはニューハーンという再開発プロジェクトで有名な地区です。古い港で、かなりさびれた街でした。そこの再生を市当局が再開発プロジェクトで、再開発といっても、日本でいう再開発、スクラップ・アンド・ビルドじゃなくて、修復計画の手法ですね。古い建物を修復して、住める環境にしていく。あわせて、いわゆる物揚げ場といっているような場所、そこを完全に車をとめて、こういうレストラン、オープンカフェのような状態をつくり出しました。私も何回か行っていますが、こういうオープンカフェはこの10年ぐらいじゃないかと思います。もともと北欧という地域は冬寒くて、夏が短いので、路上で食事をするとか屋外で食事をするという習慣はほとんどなかったと聞いています。今は街の中全体でこういうオープンカフェがはやっております。
(パワーポイント−19)
 地元の方が主体になって、そういう屋外での活動をする。当然我々観光客もそこで交流しているという街になっています。
(パワーポイント−20)
 これも環境政策で有名なドイツのフライブルクという街です。この街も旧市街の歩行者空間化をいち早く提唱しました。要は、街の中から排気ガスをなくすという政策をとり続けていまして、車から歩行への切り替えのための駐車場を市街地のフリンジの環状道路沿いにつくったり、自転車利用の促進などを積極的におこなってきました。当然郊外にはパーク・アンド・ライドという形の大規模な駐車場をとって、そこから都心に入るときには必ず公共交通を使う、そういうことが習慣づけられており、街の中は実に気持ちがいい。
 ついでに石の舗装です。私もいろいろなところで雑誌に書かせていただいておりますが、この街はヒートアイランドの現象に対して、いち早く自然石の伝統的な舗装を復活させました。ライン川の上流に産する自然石の玉石を半割にして埋め込んだ一種の透水性舗装です。インターロッキングブロックの原点である石と石の噛み合わせを利用した舗装で、これは目地浸透ですので、雨が降ると地中に水が浸透します。なおかつ、晴れたときはその目地から水が蒸発していくということで、環境再生という形になっております。最も重要なのは、この街は公共事業で道路の掘り返しがある際に、この石の材料は処分してはならないということを条例で定めていることです。ですから、公共工事の廃棄物を基本的に出しちゃいかんということを政策で打ち出してます。
(パワーポイント−21)
 そういう形で、街の中の環境再生をやっていくと、どういうことが起きるかというと、市民の方が街の中に住んでもいいんじゃないかという感覚になります。当然のことだと思います。街に住むことが楽しい。昔、車社会の中で市民が完全に郊外に出ていった地区を、市が買収して、そこの保存、修復、再生を建築家の方が参画してやっています。古い建物を買い取って修復する。これが中庭でガラスのアトリエ形式のものとか、そういうものをつくり上げてきました。外から見るとほとんど歴史的な街の風景ですが、中を見ると、実にモダンな生活があります。そういう形で市民が街に住むことを当然のように受け入れるようになってきた。
(パワーポイント−22)
 こういう形のオープンカフェですね。
(パワーポイント−23)
 例えば、オープンカフェで有名なパリのシャンゼリゼ。これも建築学会の活動の一環で、ある調査報告書が出ておりますが、パリ市の場合でも、このオープンカフェについて細かな規定が設けられておりまして、原則として撤去命令が出てから8時間以内に撤去できる仮設工作物であるということが条件になっておりますし、もう1つは、きちっとした地代を払っている。その地代収入が市の税収の何%かになるという記述が学会の報告書にもあります。
 もう1つは、この使用されている店が道路の清掃、そういう義務も負っています。そういう意味では、日本の街でなぜこれができないのかというのを実に不思議に思って、いろんな法令を調べてみますと、基本的に日本では公共空間で営業行為をさせること自体がまず認められてないんですね。ただイベントと称すれば大丈夫だということがよくわかります。
(パワーポイント−24)
 もう1つは、パリの街が実に生活感のある街だなと思います。工場の移転した跡地は、再開発で住宅をつくるというプロジェクトもかつてはありましたけれども、今は積極的にオープンスペースをつくる政策に切りかわりつつあるんじゃないかと見ています。これはシトロエンパークですが、車の世界的メーカーの工場の跡地です。国際コンペがありまして、ランドスケープアーキテクトと建築家の二案が採用されました。こういうすばらしいオープンスペースをつくり上げてきた。そこに沿って集合住宅をつくっています。そういう意味では実に幸せな環境がつくられています。
(パワーポイント−25)
 そういうふうに見ていくと、私たちももう少し都市のオープンスペース系の環境デザインに着目すべきではないかと考えています。
 次に、私がかかわったプロジェクトをいくつか紹介する中で、解説してみたいと思います。
 まず、皇居周辺の道路景観整備のプロジェクト例です。対象となる道路は、国道を国土交通省、当時の建設省、都道を東京都、区道を千代田区が管理者です。そこに宮内庁という役所がありますし、お堀の石垣自体は文化財ですから文化庁、御苑の緑地は環境庁です。周りの警備とか交通信号、交通整理については警視庁がかかわっている。ある意味では日本の縦割りの縮図と言っても良いでしょう。時は昭和の末、天皇が崩御される直前で、何かあった際に世界各国から国賓を迎入れるに当たって本当にふさわしい風景だろうかというところで起き上がったプロジェクトで、昭和30年代の東京オリンピックのときに整備されて以来数十年間ほとんど手がつけられなかったところです。そこの再生事業に着手したわけです。
 当初、縦割りですから、全部ばらばらにデザインが計画されていたのを、当時の建設省のある方がこれじゃおかしいというので、当時東京工業大学の中村良夫さんとか、東京大学の篠原修さんなどに相談され、委員会をつくってくれまして、その作業部隊長として私が指名をされまして設計にかかわった。何をやったかというと、「こんなすばらしい環境を何をするねん」ということだったんですが、お濠端の緑地、特に緑が鬱蒼としていて、緑のおかげでお濠の水面が見えなかった。その部分を見えるようにしようということを提唱したわけです。取っ払って水面を見せるようにすることが第一の眼目です。この緑地も旧江戸城の濠に沿う道路敷の残地ですが、このように開放的な都心のオアシスとなっています。そして街路灯とかいろんなものの整備にも関わってきました。ジョギングコースとして、多くの市民の利用できる実に開放的な空間になったんじゃないかと思います。
(パワーポイント−26)
 これは皆さんご存じだと思いますが、新宿の歌舞伎町に行く参道といっても良いくらいの地区があります。そこの環境整備を私も17年かかわり続けています。新宿モア街という名称ですが、スタジオアルタから、後楽園アドホックまでの十数本の街路を含む一帯を、ここは当初ドイツのフスゲンデルツォーネ(fussugengerzone)つまりこの区域全域を歩行者空間にしようということを提唱して、地元の商店街の方々といろいろ検討した経緯があったんですが、残念ながら100%は実現できませんでした。
 なぜかというと、世田谷の用賀の「いらか道」騒動の余波をもろに受けたのです。象設計集団の方々が設計されて、用賀駅から世田谷美術館に行く道をコミュニティー道路のような歩行者共存道路の「いらか道」をつくられました。それが警視庁の逆鱗に触れた。そのとばっちりで私たちのこのプロジェクトが、面的な歩行者空間化するのがかなり限定されまして、単なるカラー舗装と言いますか、個別の時間規制に終わってしまいました。
 そのときに何をやったかというと、車道でも全部カラー舗装、御影石の舗装にして、歩行者が喜んでくれれば、これこそ立派な歩行者空間じゃないかということで、実は車道ですが、全部石張りにしました。あわせて車道のど真ん中に木を植えました。交通管理者の方からは車道のど真ん中に木を植えるとは何事ぞと、こういう危険行為をしては困るということだったんですが、道路管理者である区と商店街とが団結して、抜けるものなら抜いてみろということで、中央分離帯という形で木が植わっています。今かなり木が大きくなっていますが、この周辺の環境整備にかかわりました。
(パワーポイント−27)
 鹿児島の市役所前のみなと大通り公園の例です。これを幅50メートル、延長250メートル道路の中央分離帯を広く確保し、そこに広場と芝生、また歩車道一帯利用のイベント型の道路にしようということで、車道、歩道を含めて全面石の一帯舗装にし、行政の方にいろんなイベントを仕掛けさせていただきました。かなり活用されていると聞いています。
(パワーポイント−28)
 これはつい3年前に竣工した松江の宍道湖湖岸のプロジェクトですが、きょうの出席者名簿に入っております建築家菊竹清訓さんと共作と言っても良いでしょうか。この建物は菊竹さんが水の美術館のコンペで1等になってつくられたすばらしい建築です。私は何をやったかというと、この部分の護岸整備のコンペがあり、これは土木のコンサルの方から声がかかり、共同チームで提案をさせていただいた。もともとここにはずっと細長い、ここに堤防があったんです。脇のこの部分が市の公園用地でした。その奥が美術館用地です。その3つの敷地を単純に緩傾斜の土手で提案しただけです。昔の風景がこうだったと聞いていますので、昔のように砂浜から土手がずっとつながるようにしようと提案したら、何と1等になりまして、普通に設計したつもりです。別にデザインというのはほとんどしてないと私は思っていますが、画期的だといわれたのは、国の施設、市の施設、県の施設から全部一体的な緩い傾斜になって、それが大雨が降って洪水になると、市の公園は全部水没します。県の美術館用地も水没するわけです。けれども、一応用地は国と県と市。市民の方はそんな縦割りなんか関係ないわけです。こういうふうに自由に活動するわけです。その結果、美術館も全部旧建設省の国の用地内に彫刻を置くということを積極的にされておりまして、本当にすばらしい公園になっております。
 ですから、この周辺に私の知り合いが事務所を持っていますが、しょっちゅうこのあたりを散歩するそうです。実にこの周辺の環境がよくなったと評価していただいています。その結果、菊竹さんと私が同時に島根景観賞をいただいた経緯があります。何ということないプロジェクトをやっているつもりなんですが、行政の縦割りの中から見ると、実に異常なことをやったという評価らしいです。
(パワーポイント−29)
 空間をどう活用するかということで、横浜の赤レンガ倉庫の広場のプロジェクトを一応基本設計まで担当しました。最終的な実施設計は新井千秋さんにお任せました。現実にできたものは樹も無い、若干殺風景な空間になっております。私どもは一応イベント型の空間として、当初日よけとかパラソルとか仕掛けを提案したんですが、今はそこまで至ってないんです。
(パワーポイント−30)
 その関係で対岸にあります横浜税関の保存修復・増築のプロジェクト、これもコンペがありまして、建築家の香山寿夫先生と大野と共同で提案しました。これは一応建築のプロジェクトで、私が何をやったかというと、まず1つは、かつて槇事務所の時代に象の鼻パーク周辺整備の調査をしておりましたので、都市デザインの視点から様々なデザインコードを建築家に条件づけたことでしょうか。例えばこの象の鼻パークから増築棟がほぼ2倍の面積になるときに、これを超える建物にしたらコンペに落ちるよというところとか、いろんな条件を建築家のチームに与えたところ、これが功を奏してか、何とその案が1等になりました。これは実は私たちもずっと都市デザインの仕事にかかわっていますと、何を残すか、どういう風景を残していくかという、行政の立場の方々とある共通のコンセンサスを持っている。それを当たり前に条件をつけただけなんですが、最初は建築家のチームも、ほとんど壊して再生しようということをかなり主張されました。私は風景を保存するという消極的な提案でないと、絶対受からないという、そういう意味での共同作業です。今は現場に入っておりますので、あと1年ちょっとでオープンすると思います。
(パワーポイント−31)
 これもコンペで1等になりました。昨年出雲のまちづくりコンペのワークショップの風景です。これは駅前の出雲市駅前矢尾線というシンボルロードの設計者選定のコンペだったんですが、私たちは道路だけデザインしても意味がありません。こういう新規の道路の沿道の建てかえを想定して、沿道の街並みをどうふうにつくっていくかを提唱する。それと、地方都市にしては25メートルという道路幅員は実に広いんです。その道路をどういうふうに活用するかという地元の組織を立ち上げようということで提案させていただいて、こういう会合をしょっちゅうやり続けまして、今工事に入っております。
 地元の地権者の方に集まっていただいて、それぞれ設計者を連れてくる。建築家と地主さんと私たちプランナーとが共同でいろいろ議論を交わして、それぞれ個別に建物を建てる方の案を持ち寄ってもらい、それで模型をつくって、それを並べて、お互いどういう関係で物ができていくかというのを検証していった。必ずしもいい街になるかどうかは保証の限りではないんですが、そのときに参加者の方が初めておっしゃったのは、隣の建物がどういう設計をやるというのを初めて見させていただいた。これによって少し案を変えましょうということですとか、最終的にはまちづくり憲章をつくって、シャッターの問題ですとか、街並みの建物のテクスチャーですとか、色、そういうものについてもある程度決めましたし、最終的には街路灯の光と街路に漏れ出す建物側の光の色をある程度そろえませんかということまで提唱させていただいて、一応まちづくり憲章に盛り込んでいます。こんなことをやっています。まだ終わったわけじゃありませんが、そういう活動もやっています。

 

(パワーポイント−32)
 本題の方に入りますと、門司港レトロで何をやってきたのかというところのお話です。これが全体像と、概要です。先ほどいいましたように、いろんなアクティビティーが小さな街の中で展開しています。
(パワーポイント−33)
 門司港は、戦前に神戸、横浜、門司といわれた国際商業港。日本でナンバーワンの時期もありました。特に大陸交易が主でしたので、第2次大戦の敗戦を契機として、国際貿易港としての機能をほとんど失うことになります。関門トンネル、関門橋の開通によって、ターミナル都市が、単なる通過都市になってしまった。
 もう1つ、九州の最初の近代化は必ず門司からです。日本の最初のオフィスビルは大体東京ですが、九州の最初の近代オフィスビルは門司なんです。エレベーターを使った高層オフィスビルも門司です。かつて日銀もありました。それくらい栄えた街です。その街が急速に冷凍保存されたようなさびれ方をした。それが幸せだったと私は見ています。中途半端な形だとこのように歴史的な資産は保存されなかったはずです。急速に人口も半分以下に減ります。街の中から人も消えていく。
 港の機能も様変わりしてきました。コンテナ輸送の大型船が主流になり、水深を確保できる外港、外側の方に港をつくってそこで荷役をする。こういう古い港ではコンテナの積みおろしができないんです。そうなってくると、この近辺の港湾倉庫もほとんど使われなくなってしまうということです。明治22年につくられた旧船だまりも釣り船が何隻かとまるという形でした。
 これが門司駅前で、当時の写真はここにロータリーがあります。駅から見た海側ですが、関門海峡が見えないような風景でした。
(パワーポイント−34)
 そこで、北九州市の方で門司港地区を観光というキーワードで再生したいということがきっかけで、この計画はスタートしました。実は私どもが入る前につくられたマスタープランですが、これが船だまりです。明治22年につくられた近代港湾です。この港を埋め立てて、土地の売却益によってこのまちづくりの起爆剤にしようという話だった。
 こんな街でこんな埋め立てしたら、街死んじゃいますよというのが私たちの提案でした。私だけじゃなくて、私が入る前にいろんな方々がこの埋め立てについては疑問視されていまして、意見を述べられていました。
 最終的に私が入った段階で、私も、「これは反対だ」と申し上げました。市長さんが最終的に埋め立てはやめようといってくれた。ところが、運輸省には埋め立て申請をしておりますし、港湾計画では埋め立てが前提になっていた。それを市の担当者の方が、我々の願いを聞き届けてくれて、国の方に日参していただき、この港湾計画の埋め立てを回避した。埋め立てを前提とした絵にはここに臨港道路があります。これは海側を走る国道199号線、それが門司港駅前を通過しているのです。それの交通を迂回させるために臨港道路が計画され、運輸省の補助金でつくる計画になっておりました。私たちはこの船だまりを再生すべく、もう一度船を入れるという提案をしました。この臨港道路があると船が入れない。そこで、市の担当の方が、じゃ、臨港道路を途中でストップして、ここをはね橋にしよう。車道橋を建設するとお金がかかるから、歩道橋にしようという単純なことではね橋ができたんです。
 そういうことでまちづくりをいろいろ展開しているときに、この大型のマンションの計画が持ち上がってきました。素晴らしい赤レンガの倉庫だったんですが、それを所有者がディベロッパーに売却され、そこに板状のマンションをつくる案でした。この計画が実現すると門司港の景観は台無しになる。そこで市長さんも地元の反対が強いので、確認をおろせないということになりました。そこで困った建築局長さんから私の方に電話がありました。「確認申請をおろせなくなった。恐らく裁判で負けるだろう。だけど、裁判をしている間に地元の方を組織していいまちづくりの誘導をしてくれないか」という依頼がござました。それで早速私が、あの当時まだ東京大学の非常勤講師という肩書がございましたので、東大講師という肩書で新聞に投稿をさせていただいて、景観論争に火をつけまして、それ以来、街並みの勉強会、シンポジウムを開催させていただいた。
 最終的にはこのマンション業者の方が、板状マンションはやめる。然るべき設計者に依頼すると和解してくれました。一応私どもでマンションのカウンタープランを作成し、同じ戸数をとるのであれば、ポイント型の高層型がいいという提案をしました。設計者に建築家の黒川紀章さんが入ってくれたので、私たちの先輩にも当たりますので、これは、「しめた」と。黒川さんのことだから、お施主さんに話をして、この街にはこんなでかいのより小さいやつの方が似合うよといってくれるだろうと期待しておりましたら、何とこういうどでかいマンションをつくられまして、してやられたなというのが本音です。これは私の門司港での唯一の失敗だと思っています。
 そういう数奇な運命を遂げてきたのがこの門司港です。
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 ここに門司港駅があります。テルミニ形式と言いますか、JRの鉄道がここで終点になります。ここに駅があって、この駅前広場が交通広場だったんですが、これを多目的広場に再生しようということで、ここに噴水とイベント型の広場をつくりました。この交通機能をこちら側に持ってきました。
 あわせてこの部分は埋め立てがされておりましたので、港湾緑地ということで、この部分の設計を私どもが担当しました。
 最初は、この門司港のレトロ事業は、竹下内閣のふるさと創生事業の一環で自治省の補助金事業でスタートしました。運よく自治省だった。自治省ですから、旧建設省、旧運輸省ほどの大きな縛りがなくて、割と自由な枠組みで、地域おこし、観光ということをキーワードの包括的な事業が可能で、それの計画設計業務に私どもがかかわるということでした。
 歴史的な建物を買収して保存する、これもこの事業ゆえに可能となりました。アインシュタインも宿泊した旧門鉄会館、これは山側から移築されたものです。これはJR九州で担当してくれました門司港駅舎の保存修復。この駅前の多目的広場は土地はJRなんですが、整備費は市がふるさと事業を使って整備をしていくという形のものです。
 このあたりの船だまりとかウォーターフロントの緑地整備は、それに連動して旧運輸省の歴史的港湾環境創造事業というものを適用してもらったものです。
 当初私どもの設計の依頼は公共側のふるさと事業だけだったんです。民活の再開発プロジェクトがありまして、RTKLという日建設計さんと同じくらいの規模のアメリカの設計事務所が指名され、そこが担当した。その意味では二人三脚で始めたプロジェクトなんです。
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 最終的にはRTKLさんは計画だけつくって、あとは経済状況がなかなか伴いませんでしたので、再開発はそう簡単に進みませんでした。ところが、ふるさと創生事業がらみの公共事業は予定通り進行する。これまで私たちが最終的にかかわったのが、このオレンジ色に塗られているところで、この地区全体の環境デザインとか土木空間の設計についてはずっとかかわり続けております。
 いろいろなところでいわれるんですが、こういう公共事業で、私どものような民間人がずっとかかわり続けるということは、どういう裏工作をしたんでしょうかという話もありました。本来なら入札ということで、ケース・バイ・ケース、金額が合えば設計をいただけるという仕組みの中で、私どもがずっとかかわるということは何か裏があるのではないか。市長とよっぽど深い関係があるんじゃないかとか、よくいわれるんですが、私はほとんど市長さんとは接点がありませんで、むしろ若い担当者の方が、あの当時私を買ってくれ、自らの職を賭して私を推薦してくれたという経緯があったと聞いています。
 それと、市長さんがたまたま私の最初の作品を見て信用してくれました。こういう公共事業を海外ではマスターアーキテクトとかそういう責任者がずっと見続けて、街をあるコンセプトで統一することがよくあるんだということを市長さんがご存じだったので、私にこの街を託そうということをいってくれました。市の担当者の方は極力随意契約というものができるのであれば随意契約ということをしていただきました。なおかつ、港湾関係の施設ですと、当然のことながら入札になりまして、港湾関係のコンサルさんがとられるんですが、その中のデザインが不得手なところもいらっしゃいますので、デザイン業務を必ず仕様書の中に入れていただいて、そこで私たちが下請けに入るということです。その逆のケースもあります。いろんな設計スタイルをとりまして、環境全体のコントロールをさせていただいています。
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 これは西海岸緑地という、最初のプロジェクトで担当した緑地です。これも私たちが入る前は普通の公園の設計案だったんですが、それを根本的に見直しまして、海、海峡を眺める公園にしようということで、若干傾斜をつけて芝生だけにしました。工事費の枠もありましたので、石の舗装の部分もある一部だけ、あとほとんど芝生で海側に傾斜をつけて海を臨む公園ということにしましたら、いつの間にかデートスポットになったということです。
 照明柱も、北九州市さんは、補助金がつきますので物つくるときには金をかけるんですが、維持管理についてはほとんど金がつかない状態でした。そんなに裕福な自治体じゃなかったと聞いています。そうすると、維持管理をしなくていい材料は何かというと、鉄じゃなくてコンクリートを使おうと、鉄は海のそばでは維持管理をしないと、さびまくるんです。それでコンクリートの電柱のポールをちょっと改造して、プロストレストコンクリートの遠心成形という、我々設計をやる立場からすると、電柱は実に新鮮な素材だった。それの型を少し工夫して、レトロがキーワードでしたので、陰影をつけた。たまたま私の事務所の近くの東京大学の三四郎池のすぐ脇にこういう感じの照明柱が立っていたんです。今はないはずですが。それをイメージして、戦前流行ったコンクリート照明柱を再生しようじゃないかということで、それを電柱メーカーさんの方に声をかけたら、いろいろ試行錯誤、古い職人さんを発掘していただいて、それを再生するということをしました。それが結果的には、最初のころですから、平成4年ごろでしたか、通産省のグッドデザイン賞の景観賞の第一号いただくことになった、そういう経緯です。
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 門司港駅前というのは、先ほどいいましたように、交通広場だったんですが、単なる見せる広場にしても仕方ないだろう。街おこしの起爆剤になるようにいろんな使い方ができる広場にしよう。これは運よくこの広場がJRの鉄道用地だったんです。鉄道用地で何ができるか。普通、駅前広場というと、建運協定という、旧運輸省と旧建設省の協定があったりして、基本的には街路が大半だったりするんです。街路となりますと、公共の用に供する公的な空間ですので、道路法、道路交通法の適用とか、そこでは営業行為ができないとか、そういう縛りがございまして、ここは駅長さんの許可さえあれば何でも営業行為ができるわけです。ビアガーデンとして利用したり、これは街頭結婚式。近くの幼稚園がここをしょっちゅう運動場がわりに使ってくれたり、常に動きのある広場になっています。
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 あと、船だまりの周辺でこういう空間になっています。日本ではオープンカフェができないのに、何でここではオープンカフェのような状態になっているんだとよく質問を受けます。夏場になると、こういう風景です。ここは物揚げ場という概念の空間ですが、そこの設計を担当したときに、これはアルド・ロッシが基本設計をした再開発ビルです。当初は再開発のテナントさんがなかなかつかない。なぜかといったら、賃料に比べて店舗面積が少ない。これじゃ、売り上げが伸びないということがありましたので、早速いろいろ勉強を皆さんとやって、ここにオープンカフェの状態をつくり上げたらどうだろうか。ここは基本的には市が休憩施設としてテーブルとベンチをつくります。夏暑くてカンカン照りでは困るでしょうということで、観光協会がパラソルを設置しましょう。ここのお客さんはこういうお店で買い物をして、ここで食事をしましょうと、仕組んだわけじゃないんですが、必然的にそうなった。その方が海のそばで気持ちいいんです。
 日本はそういう公共空間で物を売ったり、買ったりということはしちゃいけない、これを一般市民が勝手に店で買って、そこで食事するのは別に構わないはずだということで、そういうことをさせていただいて、常に人がたむろしている風景をつくり上げています。
 こういう一部埋め立てをせざるを得なくなった広場があるんですが、これは一応水が入るという仕組みをとっています。特に、干満の差が2メートルありますから、その空間の利用を提唱しました。こういう空虚な広場でいろんな活動が行われるように、地元の方が運営組織、門司港レトロ倶楽部を立ち上げ、そこが様々な企画をしてくれています。「門司港レトロ」とホームページを検索されれば、大体2000から3000ぐらい出てくるんじゃないか、その中の上位の方にレトロ倶楽部があります。それを見ていただければどういう活動をしているか閲覧できます。
 これが先ほどお話ししましたもともと臨港道路だったのを最終的にはね橋になりました。これが門司港ホテルです。
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 あとは大体風景を見ていただければよろしいかと思います。この建物は旧運輸省の税関です。大正から昭和初期に使われた。設計者は咲寿栄一といいまして、当時の官庁営繕の雄・妻木頼黄の弟子です。妻木頼黄が監修したと記録が残っています。その建物を保存修復しました。これは運輸省の補助金を使いました。私が知恵を出したんじゃなくて、役所の方が知恵を出された。港湾緑地の休憩所なんです。ですから、トイレとお休みどころがあるだけの施設名目でこれだけの規模の施設を買収して保存修復した。画期的なことです。これが先ほど見たように、イベントに使われる広場です。ここに木が2列になっていると思いますが、1列目のこっち側は最初のころ自治省のお金を使った整備です。ここからここは旧運輸省のお金を使わせていただいた港湾緑地整備事業です。それぞれ私たちが両者の、同じ市役所ですが、部局が違いますので、共通の1枚の絵をかいて、ここからここは旧運輸省系の補助事業、こっちは自治省系の事業という形で仕切りをさせていただいて、発注の時期はずれるんですが、全体の調整をする、調整のデザインということをさせていただきました。
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 これが船だまりの風景で、これは昔の風景、今の風景。これだけ街が変わりました。
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 これが港湾緑地。こういう埋め立てしたばかりの茫漠とした場所がこういうふうにきれいになりました。
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 駅前の多目的歩行者広場です。日常的には噴水を出しています。これは戦前から噴水があった。形は違いますが、ここに馬の水飲み場もありまして、特に馬は軍馬がここから大陸に船出していって、1頭も戻ってこなかったという歴史があります。
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 これが船だまりの南側からの風景で、これが昔の税関です。はしけとか、そういうのが停泊しておりました。今は第2船だまりに移転しまして、まだ積極的な船だまりの利用までは至っておりません。むしろ私たちもこれから積極的に提案をしていかなきゃならないだろうと思っています。これが黒川紀章さんが設計した建物で、現地に行くと、「何、あの怪物は?」という皆さんが驚くぐらいのスケールです。
 これは容積率400%という周辺との関係の中で標準的な値なんです。なぜ、周辺が建たないかというと、臨港地区になっておりまして、臨港地区内は建物が高いのは建てられない。住宅を建てられないということなんですが、ここは政治的な理由で、この敷地だけが臨港地区を外れておりました。それで400%でこれだけ建てられました。まず私たちはこういう地方都市にとって容積率をどういうふうに考えていくべきなのか。こういうのが建つんです。臨港地区を全部外してしまえば、こういう超高層が林立する風景になります。とすると、都市計画では私たちは臨港地区をどうするか、臨港地区がもし必要なくなったとき、解除したときに、それを地区計画とかそういうもので担保できるような制度をつくる必要があるんじゃないか。まず原点としては、容積率をどういう根拠で、どういう論理で決めていったのか、それがどういう風景をもたらすのか、ということに対して、我々はもう少し強くアピールしなきゃいけないだろう。
 そう考えると、地方都市の場合は、むしろ積極的にダウンゾーニングをすべきではないか。私は積極的なダウンゾーニング論者です。伊藤滋さんもはっきりこの研究会で10年前に提唱されていました。私は地方都市の仕事をすればするほど、こういう高容積のものを許してはならないと思っています。特に地方都市の場合、パイが限られています。東京とか大都市と違って、同じパイの中でそのパイをどう配分するかというところをむしろ都市計画でやらなきゃいけない。ところが、容積というのは、一度得たものは既得権であるという神話があって、ほとんど議論されないんです。票にならないということもありますし、逆に反発が大きい。ところが、高容積を許して、こういう風景が出現することによって、この街がどういうダメージを受けるのか。それがこのマンション計画でいろいろ反省させられた経緯があります。
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 昔の風景がこういうふうに変わって、十数年でよくぞここまで変わったものだと、見ておわかりだと思います。
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 先ほどいいましたように、アルド・ロッシの基本設計による商業施設です。2階建てです。容積目いっぱい食いませんでした。容積食ったところでテナントつきませんので、まず私たちの提案は、そういう都市開発は投資額に対するリターンの率なんです。過大な投資をすると、一種の日本のバブルに象徴されるように、まず身のほどに合った投資をする。身のほどに合った投資をするということは、それに見合った都市計画の規制をすべきではないか。といいますのは、日本の土地の値段は容積率に応じて1種幾らというばかな計算方式がかつてまかり通ってきました。今でも若干そういう流れがあります。これも商業地区ですので、ある程度地価は高いのです。それに対してこれだけの低い建物をつくっていただいたというのは、実に賢明なことだったなと評価をさせていただきます。
 これは物揚げ場の休憩施設です。これはベンチです。これはコンクリートの新しいタイプの照明柱です。十数年たちますと、古いタイプだけじゃなくて、いろいろデザインさせてもらっています。地元の方でどうしてもガス灯をつけてほしいという要望があり、市が設置を決めました。門司港は歴史的にガス灯設置の歴史はありませんので、クラシックなガス灯には抵抗がありました。最終的にガス灯のデザインを私の方に一任させてもらって、照明デザイナーの南雲勝志さんという、最初のグッドデザイン賞をもらった照明灯もご一緒させていただきました南雲さんに協力依頼をしました。柱はコンクリートの研ぎ出し仕上げです。
(パワーポイント−47)
 これは旧門司税関の保存修復の事例です。これが昔の風景。地元ではもう解体した方がいいのではないかという意見がたくさんありました。最終的にはこの保存の意義を私たちの方で調査、提案させてもらって、委員会をつくり、その座長にこの地域の研究をずっとされていた九州芸術工科大学の片野博先生、保存活用の提案を一緒につくり上げました。最終的には休憩所という枠での保存修復ですが、今では……
(パワーポイント−48)
 こういうふうなイベントホールとしていろいろ使ってもらっています。かつては倉庫になった時期に2階の床をぶち抜かれ、2層の吹き抜け空間になっていました。それをそのまま活用しよう。文化財指定するかどうかという議論がありましたが、文化財指定すると、自由な空間利用ができないということで、最終的には文化財はやめてもらって、むしろ運輸省系補助事業でつくり上げました。十数億かけていただきました。設計は私どもの事務所です。
(パワーポイント−49)
 門司港ホテルも完成してなかなか稼働率が上がらなかったので、市長さんが、夜を魅力的な街にしたいと発想された。実は門司港地区というのはあまり金のかからない場所だということで、団体バスが休憩所に使うんです。お金をかけなくても、じっとしているだけで心休まる、当時関門海峡の風景が実にきれいで動きがあるんです。ですから、観光業者の方々も九州に来て、例えば1時間とか2時間、時間があくと、門司港に立ち寄ってトイレ休憩をして、少しお金は落としますが、お金を使わなくてもいい街だという評判がありました。ほとんど日帰り客だったんです。それを市長さんが、泊まりがふえるようにということで石井幹子さんを登用されまして、門司港地区のライトアップ計画をつくられました。最初の段階から私ども、石井さんの協力者として参画をしまして、ライトアップ計画を一緒につくり上げていきました。特に旧運輸省系の港湾にかかわるいろんな規制がありました。規制というか、実際船が着く港ですので、そこに照明器具をつけた場合強度がどうだとか、維持管理面での様々な課題もあり、それのアドバイスも含めて私どもが協力させていただきました。古い建物やはね橋を石井さんの方で光のデザインコントロールしてもらいました。
(パワーポイント−50)
 あと、建物の屋上からのライトダウンと言いますか、これは実は私が提案したんです。無用の長物といわれているようなマンションがあります。これは住む人には眺望の良いマンションなんです。どうも地元の方からするとやっかいもの扱いにしておりました。だったら、このやっかいものの上に投光機をつけて、水面に光を落とすことで、水面が結構明るくなります。その光がさざ波によって反射をすることで、建物にダイヤモンドダストのような風景が出てくる。そういうことをねらったら、案の定うまくいきました。
(パワーポイント−51)
 あと、これが重要な話ですが、私たちはハードの設計屋です。計画から設計までをかかわる。ところが、ソフトの仕掛けについてなかなか手が回らないところがありまして、広場の設計をしていく中で市の担当者の方に、我々は舞台を設計するんだ、演者は市民、地元の方なんだということをきちんと理解してもらって、地元で運営組織、運営団体を立ち上げようじゃないかということで、市の方がかなり動いてくれた。地元の商店街ですとか、地元企業の方、市民の方々が加わって、1月から12月までさまざまなイベント、いろんな仕掛けをしていただいています。
 若者も結構この街に来てくれます。そういう意味ではハードからソフトまで充実した街がこの門司港地区だと思っています。
(パワーポイント−52)
 これが最後になりますが、年次別の観光客の推移で、私どもがかかわる最初の年、平成元年、計画以前のときに観光客が50万満たなかったんです。広い意味での門司港地区となっていまして、狭い意味の門司港地区と和布刈地区という2つの地区、和布刈地区というのは関門海峡の部分で、瀬戸内海国立公園の一部です。そこに年間50万人ぐらいの観光客が訪れている。実は私も対岸の山口の方の出身ですので、小さいころ、親の手に引かれて、関門トンネルを歩いて渡った記憶もあります。駅前のトイレで用を足したことも覚えています。修学旅行のときには乗る前にここで集合して、そこで宮崎方面に夜汽車で行った記憶があるんです。
 そういう観光は、当然ありますが、門司港の街にはゼロだった。それが最終的に平成12年に300万人を突破しました。今年はどうも350万人ぐらい観光客が来るのではないかという予測されています。これは何を意味しているかというと、それだけお客さんが来るとなりますと、当然お金を落とすんです。そこで、就業の場がかなりふえつつあります。レストランとかショップ、お土産物屋さん、そういうものが立地してきました。
 もう1つ、一番大きいのは、先ほどの黒川紀章さんのマンションは即日完売だったんです。私どもがかかわった門司港レトロ地区の第1期計画は総事業費300億使いました。港湾の埋め立てとか護岸整備、あと道路バイパス事業にもかなり金額をつぎ込んでおります。鉄道の跨線橋、そういう事業費が大半を占めています。そのうち環境整備にかかった費用が、大体私の試算では50億〜60億、私たちの設計した部分の環境デザインの部分です。そういう意味では60億ぐらいの環境デザインによって、これだけの観光客が来る。
 それだけじゃなくて、港湾緑地が実にすばらしい風景になってきましたので、マンションが続々計画されて、この地区は大体売れるんです。要は環境がよくなって風景がいい。なおかつ物も、観光客がふえていますから、お店がふえて、レストランがふえておいしいものがある。もともと食べ物がおいしい街ですが、それだけの経済効果、環境の質の高さを売り物に、民間のマンションがかなりできてきました。この門司港地区は北九州の景観条例に基づく景観整備地区になっておりまして、一応ある程度の規制はかけておりますが、その枠の中で高層マンションがちょっと離れたところにできていまして、大体即日完売といわれています。ですから、そういう意味でも人口がふえつつあります。

 

 きょうのテーマで「都市環境デザイン」というキーワードを使って、我々はもう少し生活者の立場のオープンスペースのデザイン、心地よい空間を提供するということを提唱していく必要がある。先ほどヨーロッパの事例をお見せしましたが、街の中に住むというのは何かというと、まず排気ガスがなくて暮らしやすい環境である。いろんなまちづくりにかかわっていますが、まだまだ車中心の都市計画、そういう政策がとられていまして、生活者の立場での環境デザインに予算が投入されない流れがある。私たちはこれから都市の再生というキーワードで考えていくと、本当に街の中に住んでもいいというまちづくりに予算投入していく。場合によっては、極端にいえば、特定の区域を用地買収すれば、真ん中に公園をつくって、公園に沿う形で住宅をつくるとか、そういうオープンスペースと上物の同時整備をしていくとか、そういう意味での環境を担保した形の住宅供給、または環境をよくすれば、当然そこに住宅が立地する。そういう仕組みをしていくのが都市再生の根本ではないかというのが私の今日のテーマです。そういう意味ではキーワードとしては環境の時代を意識したまちづくりとは何かということで、環境デザインの必要性を述べさせていただきました。
 都市再生ということをいろいろ議論していますが、究極は街の中に人が戻ってこない限り、その街は再生しない。やはり誇りに思えるような街に再生するためにはやっぱり箱物だけじゃなくて、もう少しオープンスペースの環境デザインといいますか、そこに着目する必要があるだろう。箱物をつくるコストから考えると、オープンスペース系の整備費というのはかなり低廉で、安くいけるというのが私の経験です。
 時間が来ましたので、これで一応第1部は終わりにしまして、第2部の方に入りたいと思います。



フリーディスカッション

藤山
 ありがとうございました。
 それでは、あと20分ほど時間がございますので、質問の方をお受けしたいと思います。

赤松(まちづくり神田工房)
 3点ほどお尋ねしたいと思います。
 観光型のまちづくりをすると、生活の場としての部分が見えにくくなってしまう事例がかなり多いと感じております。当然農村部での観光開発が、グリーンツーリズム的な取り組みもあるかと思いますが、そうした中で都心部の観光で生活の場をうまく生かすという取り組みはどんなふうにしていったらいいのかということを補足をいただければありがたいと思います。
 それから、2点目は、横浜のお話がありましたが、横浜の臨海部の開発が進むにつれて、従来の関内地区はどちらかというと、マンションが立地したりとかで、土地利用が変化しているわけです。こういう土地利用の変化のあり方については、観光地、業務地と都心居住とのかかわりでどんなふうに評価されるのか、お聞きしたいと思います。
 もう1点は、私が地元でございます藤沢で数年前に都市マスの策定にかかわらせていただきましたけれども、その中で私が住んでいる場所も非常に駅に近い市内の中心部といわれるところですが、一部従来商業的な土地利用をしていたところが、高容積を利用して集合住宅がふえてきているということがあって、そこの部分については基盤の整備も十分ではないので、ダウンゾーニングをした方がいいんじゃないかという議論もしましたが、残念ながらそういう方向性は都市マスの中ではうたわれませんでした。
 そういった中でダウンゾーニングを本格的に取り組んでいくとすれば、どういうふうなステップが考えられるのかということをお尋ねしたいと思います。よろしくお願いいたします。

中野
 まず、観光と生活というのはかなり相矛盾するところがありまして、私はいつも観光協会の会長さんと激論をさせてもらいます。観光という名のもとに市の予算をつけるのはいいんだけど、本当に観光客のためのまちづくりをしたら街が死んじゃうよと。といいますのは、観光客というのは移ろいやすい存在なんです。例えば、あるテーマパークができても、次にもっといいところができれば別のところに行ってしまいますし、テーマパークだってある意味では時限が切られています。賞味期限。実は門司港地区についても私が一番危惧しているのは、ある意味で生きたハウステンボスといわれているんです。私がかなり危惧しておりますのは、それに便乗する形で建物がにせ物のレトロがボンボンできてくるのを危惧しています。一部出てきています。多少は許容しているんですが。観光という名で予算を生み出すのはいいんだけれども、究極は地元に住んでいる方のためのまちづくりをすべきである。公園緑地の整備とか、そういうときに観光客というより、生活者の視点に立ってそこのデザインをしようじゃないかということをずっと提唱し続けてきました。
 結果的に観光客がふえていますが、やはり地元の方が本当に自信を持って「おらが街」といえるような環境にあるからこそ、外から来た人に誇りを持って接することができる。そういう街であるべきだろうと思っていまして、生活者の視点をまず第一義的に考える必要がある。
 次に、外部経済に依存せざるを得ない、産業を持たないという街にとってみると、観光というのは1つの産業です。特にこれから余暇時間がふえてきたり、高齢化社会を迎えて、仕事をリタイアされた方々が何をするかというと、若くて元気なころ仕事ばっかりしていたので、行きたかった街にこれから行こうじゃないか。門司港地区がレトロといわれているのは、リタイアされた方に気持ちよく街歩きしていただける、緩やかな時間で、特に都会で育った方が、あの街に来ると本当に命を洗うことができるということなのです。時間のテンポがすごく緩やかなんです。
 ですから、観光客のためのキッチュなにせものをつくって、そこでテーマパーク性を持ってやっていく限りその街は廃れるだろうと私は言い続けていまして、観光協会の方と激論をしているのはそういうことなのです。
 それと、市の職員の方が、観光客が何人来たと自慢されるんですけれども、「あんたら、旅行代理店の回し者か」ということをよくいうんです。本当に生活者のための環境づくりを忘れてはならない、とだれかが言い続けなきゃいけないので、私も15年間ずっとつき合ってきたものですから、一応地元の方からは感謝してもらっていますので、地元の方の代弁者として行政に物申す、そういう立場でおります。
 また、門司港地区は港町という歴史がありまして、外部の方を受け入れることに手なれていらっしゃるというか、そういう街ですね。ですから、農村型の街と違って、商業港であったというところが、市民が観光を受け入れやすい素地にあったんじゃないか。
 この15年間の間に街が本当に生き返ってきました。それに対して否定する方は少ないと思うんです。本当に就業の場がふえて、今まで子供たちが都会に出ていったり、東京に出ていったりした。地元の就業の場が少しでも増えましたので、親子で暮らせる環境ができつつある、そういう意味では成功しつつある。私が今懸念していますのは、生きたハウステンボスといわれていますように、あるときにテーマパーク性を持ったところで、バタッと観光客が来なくなるだろうという危惧を持ち続けています。ただ、住宅がふえつつあるということで、そこはむしろ良い方向に展開しつつあるのかと思っています。
 もう1つは、ウォーターフロントの地区にはお金が落ちるんですが、まだ古い旧商店街にはなかなかお金が落ちないんです。それをいかに引っ張っていくかという形の再生プロジェクトを幾つか手がけていまして、少しずつですが、店ができつつあります。これから新しい建物の設計に私たちも入るんですが、そこは民間の方が資本投下して、そこの建物については、私たちがデザイン監修させていただいてオープンするという状況になっています。
 あと、古い建物ももう撤退して空き家になった古い歴史的な建物にある家具屋さんが入るとか、そういうことも市の行政の方とうまく連携しながらやっていますし、あと古い建物で、JRさんが撤退する建物については、私たちがこれをホテルとして転用できないかということを全部ボランティアで提案をして、出店をお願いする。そういうことをやっています。そういう意味では門司港地区については、生活者と観光のフリクションというのは少ないんじゃないかと見ています。
 横浜の話がございましたが、私はやっぱり業務地区、商業地区だけに特化できるような都市規模といいますと、それは限界があると思います。横浜の場合は、もともと元町ですとか、伊勢佐木町、その周辺は住宅街だったんです。その一角に商店街ができた。本来職住近接というのが都市の姿ではないかと見ていますので、場合によっては、東京だったら、銀座周辺にもう一回住宅街をつくろうという話があります。世界の都市を見ても、住宅がなくなった街は究極は死んでいくんじゃないかという実感を持っています。ニューヨークにしても何にしても、もう一回住宅をある地区に呼び戻すという政策をとらない限り、魅力的な風景はできないだろう。ですから、私は関内地区に住宅がふえるというのは大賛成です。ただ、住宅が立地する理由は何か。利便性だけであれば、私は問題だと思う。もう少し環境がよくて、実に住んで気持ちの良い環境をつくらない限り、その住宅はすたれてしまうだろう。特にこれから住宅は都心居住がふえて、マンションなどがボンボン出てきますので、地域間競争となります。住宅の性能、個々の建物の性能じゃなくて、環境総体を含めた性能を評価する時代が来るはずなんです。そうなったときに、廃たれたマンション、流行るマンションの格差は絶対出てきます。それを環境というキーワードでもう一回見直す必要がある。
 正直いって、今の政策が続く限りは、横浜の関内地区は住みよい環境になり得るとは思ってない。もう少し都市再生型のオープンスペース系を含めた整備をする必要があるんじゃないか。それにひきかえ、東京都内は実に緑が多いですね。これは歴史的な経緯もあります。東京という怪物だと私は思っていますが、至るところに良好な緑地があって、特に皇居のお濠端なんかはすばらしい、あれはマンション街ができてもおかしくないぐらいの環境を持っています。問題は地価の問題が若干ありますが。そういう意味で、横浜の一番の課題は、これから緑地系の整備と住宅政策をどういうふうにリンクできるかということじゃないかと思います。
 ダウンゾーニングの話ですが、私は今回の銀行の金融問題、竹中さんの話と同じようにだれかが強権を発動してやらなきゃいけない時期が来ているんじゃないかと思っています。専門家の方々はみんなダウンゾーニングすべきであるということを声高にいうべきだ。いっていると思うんですが、それを市民の方が支援しないんです。なぜかというと、資産が目減りするんです。
 私は世田谷のまちづくりで地区計画を事務所の初期のころずっと関わっていまして、世田谷の地区の第1号は私が担当したんです。そこでマンション紛争があったんです。ワンルームマンション紛争です。当時、第一種住居専用地域と住居地域が隣接していて、住居地域のところに中層のマンションができる。裏の第一種住居専用地域の方々が反対運動を起こして、そこには弁護士の方、ある有名な新聞社の局長さんだとか、建設会社の部長さんとか、そうそうたる、教育水準の高い方がいらして、マンション紛争、反対運動を起こされてました。
 私はそこに地区計画の調査ということで入って、個別面談、夜な夜な地元に入って、最終的には私はマンション反対運動の方々の意を酌んで、マンション業者に乗り込んだんです。世田谷区の建築主事の方から、区が幾ら行政指導してもだめだから、法律的にとめられないから、中野さんやってくれということもありましたので、マンション業者に乗り込んで、例えば、5階建てを4階建てにしてくれ。なおかつワンルームをファミリータイプにしてくれ。けんもほろろに追い返されたんですが、最終的にその業者さんは計画案を全部差しかえてくれたんです。
 私は当然マンション紛争の住民の方々の活動をずっと説明をしました。ところが、その地区は住居地域で高さ制限がないんですが、その地区は一応4階建てにしましょうとか、そういう段階的な高さ制限を提案した経緯があります。そこで、マンション反対運動の方々に、第1種住居専用地域の方ですので、当然のことながら地区計画でもう少し縛りを入れた提案をしたんです。
 ところが、反対されたんです。自分の代は良いが、孫子の代まで規制されたら、資産が目減りする。皆さんがそうおっしゃるんです。それだけ、知的水準の高い方でも規制をされることで拒否されるんです。資産が目減りするということをはっきりいわれたんです。それ以来私は地区計画で住民運動の側に回るということはやめようと決意した。門司港地区では血が騒いでまたやりましたが。そういう意味では市民の方々と我々専門家の見識との乖離があり過ぎるんです。
 それをもう少し市民にアピールしなきゃいけない。私は門司港地区の例を出して、容積400%じゃどうなるのか。あれが200でもまだ半分なんです。それでも高いんです。基本としてはあの地区は150%でもいいのかもしれないです。それをやらない限り街はよくならない。それと、都市のパイというのは限られているので、どこかにでかいのをポンとつくると、その周りはほとんど駐車場になってしまうんです。都市のポテンシャル理論からすると。そういうことをもう少しアピールしなきゃいけないだろう。それによって税制を考える。地価の評価を考える。
 恐らくこれから地価を評価する指数として環境指数というのが出てくるだろうと思います。ですから、商業地区のように、当然利用効率による地価評価というのも出てきていますから、それはそれで適正な方向に来ていると思うんです。ところが、もう少し環境指数というのを入れて、ここは本当に住みよい環境であればあるほど地価が上がる。一説にそういわれています。成城学園とか田園調布とか、そういわれていますけれども、それをもう少し市民レベルに落とさないと、ダウンゾーニングはできないだろう。強権発動をだれかがするのか。市民の意識を変えていくのか。両方やっていかなきゃいけないだろう。そういう意味で、特に地方都市の場合はまずやるべきだ。東京の場合は上げてもいいんじゃないかというところはたくさんあると思います。上げると同時に、都市のパイはある程度限られていますから、上げると同時にどこか下げる。一概に下げるんじゃなくて、一部上げるという弾力的な運用をしても良いのではないかと思っています。

藤山
 そのほかご質問ございますでしょうか。
 きょうは少しお時間もありますので、こういう機会に各自ご質問を。
 1つ、私の方からご質問させていただきます。
 門司港レトロ地区についてですが、50万人ぐらいの観光客が300万人というふうに非常に大きな効果を上げていらっしゃると思いますが、ここの地区の運営の母体といいますか、今のお話では北九州市さんが引っ張られているようにも伺えたんですが、その辺の、地域の方と商業者の方、そういった方々のかかわりというのはどのようになっていますか。

中野
 まず市の方のかかわり。経済局の観光課というところがありまして、この地区のまちづくりに関してはすべて今そこが所管しています。港湾局が一部港湾行政についてはかかわっていますが、道路は門司建設事務所、建築については建築都市局というのがありまして、そこが所管して、縦割りの枠の中で動いています。それを横断的に調整していくことを経済局の観光課というところがやっています。そこにはまちづくりにかなり理解のあるといいますか、そういう経験のある職員を配置して、そこで観光というキーワードの枠でありながら、街おこし的なものの対応をしています。
 そこで、門司港レトロ倶楽部というのが十数年前に発足しました。これは市の観光協会が母体になっています。観光協会が立ち上げまでは事務局をやりまして、それから地元企業、門司というのはそれなりの地元企業が、門司港発祥の全国規模の建設会社もありますし、石油会社、出光興産もそうです。いろんな会社があって、その支店がまだ残っていたりします。当然のことながら商店街。ホームページを見てもらえば、構成率はあらわれています。
 そういう意味で、行政が主導型でやっているのは事実です。一応建前では地元主体といっていますが、まだ行政が調整役をしているのは事実です。ただ、当初より行政の関与の仕方はかなり減ってきています。あれだけのイベントの企画とか、そういうアイデアは行政の方からは出ません。地元にかなりアイデアマンの方がいらっしゃるということです。
 もう1つは、市民を巻き込む運動を、地元で芸術家の方、特に人口が減ったものですから、小学校の空き部屋がたくさんあります。また廃校になった学校もありまして、そこをアトリエとして芸術家の方に安く貸し出すということを市がやってくれています。それは地元が仲立ちをしています。そういう意味で地元に芸術家とか服飾関係のデザイナー、あと職人さんたち、焼き物、そういう方々が少しずつですが、入ってきて、逆に地元の刺激になっているということもあります。
 今のところ主体としては市と地元両方でありますが、少しずつ地元にシフトしてきているというところじゃないかと思います。

藤山
 ありがとうございます。
 ついでにもう1つ聞かせていただきたいんですが、景観のコントロールという意味では、何か地区計画的なものであるとか、景観ガイドライン的ものであるとか、そういったコントロールを、先ほど超高層の住宅のことを問題に挙げられておりましたが、そういう対策とか、レトロ地区全体のコミュニティーづくりということは考えられているんでしょうか。

中野
 一応景観条例というのを北九州市は制定しておりまして、もう10年以上になります。何地区か指定済みですが、門司港地区も今から7〜8年前に、私も検討委員会の委員になりまして、マンション紛争の直後からいろいろ研究会を重ねて、最終的には地区指定をしています。一応建物の高さとか、ガイドラインをつくっています。ただ、私にいわせると、日本の景観ガイドラインなんて有名無実で何でも建つような解釈ができます。そこが残念ですね。
 ただ、もう1つ北九州市の場合おもしろいのは、対岸の下関と関門景観協定というのを結びました。それは門司港地区のいろんなマンション紛争が起爆剤になっているんですが、北九州市長と対岸の下関市長とが協定を結んだんです。それはお互いに、見る、見られるという関係です。もともと県が違うんですが、かつて関門市で合併しようかという話があったくらいなんです。下関と門司を合併しようかという歴史的なつながりがあった。関門海峡の一番短いところは670メートルですから、ちょっとした海外の都市の川よりはるかに狭い。それだけ関係が深いんです。その間に渡船もあります。10分、260円で渡れます。それだけつながりが強いところです。
 私も初期段階の委員会の委員で参画したんですが、対岸の下関側から見たときに、門司港の山並みから黒川紀章さんのマンションのヘリポートがポーンと上に出て、山の稜線を切るんです。それをもう少し前にアピールすべきだったねと、だれもがいうんです。せっかくの山の稜線が切られちゃっている。そういう意味では市民の意識は物すごく高くなっています。
 それと、関門景観協定を結んだおかげで市民の意識が高くなった。景観を守るということが経済効果を生むということを理解してきた。下関側の方が門司の整備に触発されて、唐戸市場の再開発が成功しています。建築家の池原義郎さんが設計された唐戸市場がかなり観光客で賑わっていますし、日本設計さんがコンペでとられました下関の水族館、海響館というのができています。それがかなりの集客力。その間にカモンワーフというのができました。門司港地区と対岸の下関地区が本当に渡船で10分のところで、お互い目玉を持ったものですから、観光客の滞留時間といいますか、関門地区の滞留時間が伸びたんです。お互いに相乗効果が出てきています。
 景観のコントロールというのは日本では、あまり細かい規定は市民の方がオーケーを出してくれないんです。ですから、玉虫色の表現にはなっていますが、意識としてはかなりよくなってきているんじゃないですか。建物の設計をしたときに、北九州市の場合は都市デザイン室というセクションが、建築都市局の中にありまして、確認申請を出す前に必ずそこの景観コントロールを受けなさい。そこの役所から困った案件があると、私もついつい呼び出されて、アドバイスを行っています。それが義務だと思っていますから。アルド・ロッシが設計した門司港ホテルの建物もそのコントロール対象になりました。景観条例に基づく解釈が市の担当者はガチガチで、これだめ、これだめということを言おうとしたので、逆に私はロッシの建物こそ景観条例に合致しているということを主張し、ロッシの個性をむしろ生かした方がいい、よいしょして、ほとんどフリーパスにしてもらった経緯があります。
 それと、北九州市は、幸か不幸か、景観アドバイザー制度というのがありまして,公共事業に関してのデザインについて事前に全部審査する。建築局の方で公衆便所を、ある用地に設計を発注したんです。その設計がまとまった後で景観アドバイザー会議にかけから、景観アドバイザーからバツが出たんです。要は単独でその建物をつくるよりは、むしろその周辺に大きな建築計画が予定されているので、それとの合築をするようにということを指導してもらって、全く設計を見直した経緯があります。そのくらいに景観アドバイザー制度が有効に働いているということがあります。
 一番大きいのは、私たちの設計も当然のことながら全部審査を受けるんです。景観アドバイザーという目ききの方が見るものですから、設計者の方がかなり気を使った設計をする。門司港地区にあるべきデザインはどうなのかということを自問自答しながら、それなりのレベルの設計をされている。またはいろいろなコンサルさんもそれなりの担当者をつけている。そういう意味での効果はかなりあったと思っています。これから景観というのが注目されていますので、門司港地区の建物を設計する設計事務所、施工会社さんも含めて設計担当者は、気を使った設計をされるという期待を持っています。
 似たようなことが横浜でありました。今から20年前に私も横浜市の都市デザイン行政に仕事でおつき合いさせていただきました。横浜市の場合は、都市デザイン室があるとか、都市整備課のだれだれがいるというだけで、その地区の建築担当は設計事務所の中でも優秀な方をつけられたという話もよく聞きます。そういう経緯が出てくれば、門司港も少しはよくなるのかなと思っています。

伊藤(NPO1u自然農園の会副会長)
 2つあります。1つは、中野先生は先ほどスライドでいろいろな事例を出されまして、成功例がいろいろあると思うんですが、その中で印象に残りましたのは、各担当される地域の人とのコラボレーションというか、生活感を取り入れるためには非常に気を使っていらっしゃるということに私理解しました。これは土地によって、郷に入っては郷に従えといういわれ方がありますので、多分そういうことを重視されているんじゃないかと思います。2つか3つの比較的な成功例と失敗例があれば、典型的なのがあれば、ちょっとご説明いただけたらというのが1つ。
 2つ目はちょっと大きな問題になりますが、今中国で上海がこの5年間で超高層ビルが1000本も建っていると聞いております。自分自身はまだ見に行っていないのですが、聞いております。んこういう世界的に見ると、世田谷の問題も含めていろんなことを考えた場合に、専門家として危機感としてその辺をどういうふうにとらえて、さっき強権を発動して云々というのがありましたが、私は日本もやっぱり戦後これだけたてば、強権をどなたか発揮して、もうちょっと木造住宅の問題も含めて、景観の問題を含めて、その辺の根幹のところで問題意識としてどういうことをお持ちなのか。ちょっと僣越でございますけれども、ご質問したいと思います。

中野
 コラボレーションという話の中で、私の今回お見せした仕事は、建築というよりは土木の範疇に入る仕事なんです。といいますのは、私はもともと設計事務所で修業した立場ですが、都市の公共空間というのは残念ながらすべて土木の領域です。道路にしても河川にしても港湾にしても。そうなってくると、私は専門家じゃないんです。そうなると地元の方と組む。基本的には港湾技術者の方、土木技術者の方、河川技術者の方、それがどうもその地域地域でキーパーソンの方をあてがっていただいて、そういう人材の方とめぐり会えるという幸運な立場だったということです。
 そういう意味では我々のデザインが地元でどういうふうに活用されて、維持管理していくか。また補修とか細々とした設計が後々出るんです。それについては地元で対応してくれる方がいらっしゃる。そういうケースの場合は成功です。
 ただ、それが運悪くめぐり会えないで、落下傘として東京から行く場合があります。そういうときはどうも後々維持管理、設計変更の対応とか、勝手にデザインが変えられるという不幸な例もないわけじゃない。
 先ほどの鹿児島の例なんかは、彫刻家の速水史朗さんが、私がつくった広場のど真ん中に彫刻をポンと置いた。速水さんが、彫刻の除幕式に「私の彫刻のためにこんなに立派な広場をつくっていただき、ありがとうございました」。何か違っているんじゃないかなと。そういう失敗例もあります。
 そういう意味では、私たちは自分がやった作品をかなり世間にオープンにして、これをおれがやったと、おれが責任持ってやったから、今後何かやるときは一言おれにいってくれとか、何か情報を流してくれとか、そういうことはアピールしなきゃいけない。特に建築の場合は設計者というのは世の中に全部名前は出るんです。土木の場合は名前が出ないんです。それはおかしいと。責任をとらなきゃいけないから、私は下請けを入れても名前を出しますよということで名前を極力出させてもらっています。
 失敗した例もあります。新宿の東口の事例なんていうのは、放置自転車置き場になったり、浮浪者の巣になったりしています。それもまた地元の方と勉強会をしながら、それは第2期改造計画を着々進めています。そういうことをやっています。
 そういう意味で失敗例もオープンにすべきだと思っています。
 あと、上海の話は、私もこの前行ってきましたが、すごい街です。よくあそこまで世界の富が集まるなと思うぐらいに集積しています。ある意味ではバブル的な風景が出現しています。ただ、中国の場合は後背地があれだけ広大なものがありますし、人件費が安い、ああいう場所ですから、まだまだ当分の間大丈夫だろうと思っています。
 ただ、これから東京がどうなるのかというのは心配ですね。特に私は汐留の周辺のところにちょっとかかわっています。汐留は一切かかわっていませんが。あの汐留の風景は、だれがあのデザインコントロールしたのだろうか。あと、もう1つは品川。あそこも、実際あそこに働いていらっしゃる方が、よくこんなのを許したなというぐらいに高容積、高密度のドライな空間です。風景として見れば、あれは僕は失敗だったんじゃないかと言いたいんです。ただ、できちゃったものですから、どういうふうに環境をよくしていくかというのが次の課題であって、そうなってくると、都市再生というのが今キーワードになっていまして、私も若干民間のプロジェクトを応援させてもらっていますが、よほどうまく仕掛けていかないと、失敗するんじゃないか。
 それと、地域間競争といいまして、今度は都市間、地域の競争になりますので、バブル期に高い坪単価でつくったオフィスビルは賃料を下げられないものですから、大変だろうなと思います。今、地価が安くなり、工事費が安くなっていけば、賃料は当然安くできます。そこと、かつてつくったものとの競争を考えていくと、これはお寒い風景が今後出てくるんじゃないかという心配はしています。そういう意味で、我々ももう少し責任持った発言をしないといけない時代が来ているような気がしています。

長塚(長塚法律事務所)
 先ほどちょっと出ました彫刻の問題とか、あるいはこういう先生がおやりになっているデザインの場合には、立川の方の体育館が館林でまねして、著作権侵害で裁判になった。そのような紛争が起きがちな分野じゃないでしょうか。

中野
 実は私も著作権問題、いろいろ言わせてもらっている立場の1人です。ただ、公共構造物とか公共施設についての著作者人格権というのは、我々デザイナーが持っているはずだと思っています。著作権については、建築の世界についてはある程度契約によって守られるケースとか、それを譲渡するケース、私も契約にかかわっていますので、見ていますが、公共施設、公共土木に関してはほとんど著作権がない状態ですね。それがいいのかどうかというのは、今後いろいろ研究しなければならない。まず、その著作権以前に、公共土木の方でやるべきは、著作者人格権というもの、これがだれから生まれたかということをオープンにする権利なんです。それは譲ってないと私は信じているんです。今の役所との契約書を見る限り。著作権、工業所有権は発注者に寄贈するというのが大半です。一部私もコンペで1等になった例では、著作権については両方で持ち合うという条文で契約したケースはあります。
 ところが、それ以前に一番の問題は、だれが設計したかというのはだれも公表されないんです。ほとんどの方が。特に公共土木の場合は、大手のコンサルタントの方が受注されます。時には基本計画、基本設計、詳細設計、現場監理というのはみんな細切れになるんです。その点、門司港については、基本計画から詳細設計、現場監理まで一貫して私たちがやらせていただいており、著作者人格権は明確になっています。そういう意味で、公共空間であるがゆえに、設計者は責任を負わなきゃいけない、または評価されなくてはならないと私は思うので、著作権以前の著作者人格権をもうちょっとアピールしていくべきだと思う。
 建築の世界と同じように、それによって設計者のレベルも評価される。そうやって淘汰していく必要があるだろう。それができてから、著作権の議論をすべきじゃないか。または同時にやるべきだと思っているんですが。
 公共土木の場合は正直いって、著作権を我々が持っていたところで、問題だなと思うのは、例えば、北九州でやった設計をそのまま東京に持ってくるということに対して、我々、著作権を持てばできるんです。ところが、我々は地域のデザインとしてその作品をその地域に残したからには、その地域で使ってほしい。門司港の照明柱は大体同じデザインをずっと続けているんです。それを東京に持ってきたら、地元に対して、設計料を払ってくれたのに、それは冒とくじゃないかというふうに思いますから、私は決して著作権を欲しいと思ってないんです。正直いって。建築の場合と違って、ケース・バイ・ケースですね。ですから、そういう議論をもうちょっとやりたいですね。
 実は都市環境デザイン会議で、私は著作権とか著作者人格権の問題提起をしたんですが、そんなことをやったら仕事を干されるという方がほとんどでしたし、特に、公共土木のデザインのかなりの率が民間の小さな設計事務所、デザイン事務所で担当されているという実態がよくわかったんです。ある時期土木系の世界ではデザインの教育をしていませんでしたので、そういう業務を受注したコンサルさんも自分できないので、下請けとしてそういう事務所に頼むケースが多かったと聞きました。その方々は全く匿名でデザインをされるのです。逆に名前を出すと干されていくんです。例えば、土木学会の田中賞をもらった橋の作品のデザインを担当した芸大出身のある方が、おれがやったと一言いっただけで、その事務所から仕事を干された経緯もあったり、それだけ厳格なところがあります。
 それに、発注者側が下請けを使うということに対してかなりナーバスなところがありまして、下請けを使うと、おたくは能力がないと決めつけられるきらいがあるというところで、まず発注者側の意識の問題を解決しないといかんだろうと思っています。そういう著作権などの問題を発言する機会に呼んでいただければ発言したいと思っていますので、ご協力お願いしたいと思います。

藤山
 ありがとうございました。
 お時間も参りましたので、この辺で終わらせていただきます。本日は中野恒明先生に、「都市環境のデザインと街の活性化」についてご講演いただきました。先生ありがとうございました。(拍手)


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