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第185回都市経営フォーラム

日本のこれからの産業政策とまちづくりへの提言

―地方の実験を中心に―

講師:関 満博氏

一橋大学大学院商学研究科教授


日付:2003年5月22日(木)
場所:後楽国際ビルディング大ホール

1.島根県斐川町

2.北上=花巻

3.三鷹市

フリーディスカッション




  皆さん、こんにちは。初めまして。1時間半ぐらいしゃべって、あと30分ぐらいご質疑があるということらしいので、そういうパターンで進めたいと思います。
 最初に自己紹介申し上げますと、私は昭和23年の3月生まれの55歳になります。生まれは富山県です。おなかに入ったのが中国大陸の遼寧省で、日本の富山県で生まれたということであります。
 父親が鉱山技術者という仕事をしていましたので、とにかく転勤転勤の連続で、私は随分あちこちに住まわされました。生まれたのが富山で、その次が千葉の館山、東京、そのころやっとおやじが帰国できて合流しまして、それから徳島、秋田本荘、それから新潟県の中条、やっと東京。転勤、転校の連続で、転勤を伴う仕事だけにはつきたくないと思いました。
 最初、私は東京都庁に入ります。東京都庁だったら東京都内だけだろうという気楽な気分で入ったんですが、仕事は中小企業の経営指導とか、工業団地の計画づくり、診断指導、そんなことをやっていました。これはなかなか気に入りまして、大変よかったんですけれども、途中でちょっとストレスがたまりました。それは私の名前の真ん中に「満」とありますが、これは当然満州の満であります。子供のころに盛んにおやじから、「大人になったら大陸で仕事をする人になりなさい」といわれていまして、35ぐらいのときにそれを急に思い出しまして、そこから慌てて中国通いを始めて、以来20年近く毎年2〜3カ月中国の現場にいるということであります。
 40まで都におりまして、40で大学に移りました。ですから、東京都の役人生活、役人らしくないポストでしたけれども、それが15〜16年、大学に移って15〜16年ということであります。
 若いときにつくった生活スタイルというのは変わりませんで、今でも年間2カ月ぐらいを中国を中心とした東アジアの製造業の現場に行くというふうにしています。4カ月ぐらいを日本国内の至るところの製造業の現場に行く。残り半年で大学の仕事を含めて首都圏の仕事をするということで、ほとんど365日24時間体制という過酷な毎日になっています。これは病気というしかないということであります。
 そういった仕事をしている側から見て、きょうのテーマがどういうふうに見えるかなと思って、きょう来がけに紙を見ていたら、えらい題名になっていて、それまで気がつかなかったのですが、これをどうやって話すのかなと思って頭を抱えたのがさっきです。見たところ、これは無理があるということですので、特区政策については、必要であれば、質問で受けるということにしまして、この2番ぐらいのところからお話しした方がいいのかなということで、お話しさせていただきたいと思います。
 2年ぐらい前、NHKの松山放送局から私のところに連絡がありまして、30分ぐらいの番組をつくりたいといってきました。どんな番組かというと、そのちょっと前に出した私の本で、『新『モノづくり』企業が日本を変える』というのがあります。私は非常に気に入っている本なんですけれども、一回売り切れたら、講談社が出したものですが、再版してくれないんです。講談社あたりは平積みが終わるともうやってくれない。平積みを維持できない状況になると、もう再版しないということで、残念ながら絶版になっています。私としては非常におもしろくないんですけれども、そういう本があります。その本の四国バージョンの映像を撮りたい、こういう話なんです。
 全体の流れはどういう話かというと、日本の地方には頑張っている中小企業がいる、それと頑張っている地方自治体がある。大体そんな話なんです。私の本では、それを東日本のケースで書きました。長野県ぐらいから岩手県ぐらいまでです。その範囲でつくった本なんです。それを四国バージョンで映像にしたい、こういう話でした。「じゃ、やりましょう」ということになりました。
 とりあえず、四国で頑張っている中小企業の映像を撮ってくださいよという話になりまして、日本は相当奥行きが深くて、どこにでも非常に魅力的な中小企業がいますので、四国にも当然ありまして、非常に魅力的な映像が撮れました。あとは自治体です。四国の自治体で頑張っていて映像になりそうなところを撮ろうという話になりましたが、NHKのクルーにいわせると、それらしいところは幾ら探してもないという話です。じゃ、もう少し広げて、中・四国ではどうだということで、どこかありませんかというから、私の知る限りですと、岡山県の津山が音大を倉敷にとられて以後、頑張っている話がありますので、そのあたりから、津山を勧めましたところ、NHKのクルーはどうも気に入らないらしい。じゃ、西日本全体でどうだという話になりまして、いろいろ検討しましたが、「どうも、ない」ということになって、「しょうがない。それならどこでもいいですよ」ということで、結局岩手県の花巻を映像に使ったこういうことがありました。
 そのとき、反省会で、「西って、どうしてこうなんだろう。東だと、映像になりそうなことをやっている自治体がいっぱいあるんだけれども、西はないな。やっぱり西の方は豊かだから、そんなことやらないのかな。東の方は厳しいですから、自治体も頑張っていろんなことをやるのかな」、そんなことをそのときに話した覚えがあります。



島根県斐川町

 たまたま2年ぐらい前に島根県から私のところに打診がありました。どういう打診かというと、産業振興を本格的にやりたいから、手伝ってくれないかという話で、県知事のブレーンになってくれ、こういう話なんです。私の方にはそういう話はいっぱいありますけれども、私も身は1つですから、何でもかんでも来るわけにいかないんですけれども、私は、島根県と聞いたときは、ちょっとやりたいなという気がしました。というのは、多分島根というのはある意味で、言い方は悪いかも知れませんが、最もおくれているといえるのではないか、ということです。
 私は、一番進んでいるところと一番後ろ側をやることにしているんです。真ん中はやらない。真ん中とは基本的につき合わない。一番前に出ているところと、一番後ろ、ここを際立たせて全体を構成していくというのが私のやり方です。島根県は私のやりたいところの1つでもあったということで、引き受けました。
 引き受けたら、知事のブレーンにするとかいって、起案文書が要ります。担当者が文書をつくるわけです。その担当者のところにしょっちゅう遊びに来る人がいるらしいんです。デスクの横の丸いすに座って、情報収集に来る人がいる。その人はだれだと聞いたら、それは島根県の斐川町という町の町役場の企業振興室長のFさんという男だ。こういう男がいる。Fさん。50歳ぐらいの人です。しょっちゅう来ている、何だか知らないけれども、いつもいる。しょっちゅう、この辺の文書をのぞいている。こういう人がいるらしいんです。
 その男が、私をブレーンにするという起案文書を見て、「関さんを呼ぶのか。県は関さんを呼ぶのか。県庁では関さんは使い切れない。島根県で関さんを使えるのはおれだけだ」、こういうことをいっているという。私は会ったことないんです。(笑)そんなばかげたことをいうやつがいるということが残りました。以来、島根にしょっちゅう行っていますが、どうしてもこの人に会ってみたいですね。常に気になっていまして、あるとき、「彼に会いたいから段取りしてくれ」といって、調整しましたら、日曜日の午後なら会えるということで、日曜の午後に斐川町の役場に行くことになったんです。
 行きましたら、役場があけてありまして、2階に連れていかれたら、町長室の隣に応接間がありますね。応接間はこんな感じで、入り口があって、奥の方にあって、ここにソファがある。ここら辺に地図か何か張ってある。この辺にドアがあって、町長室がこっち、こんなパターンの応接間がよくあります。何となく入っていったら、人がいっぱい座っているんです。10人ぐらい座っている。「どうぞ、どうぞ」といわれて、私がとりあえずここに座るということになります。
 そして、Fさんというのはここに立って、いろんな地図だとか何かを相手にして説明するんです。実に熱心です。冬だったんですが、汗だく。この人、名物男で、身なり全く構わず、ワイシャツやネクタイも乱れているんです。そんなのはどうでもいい人らしくて、実に熱心にいろいろ説明してくれるんです。
 2時間ぐらいやりましたが、時々私に振ってくるわけです。「先生、これはどうですか」。私もそれらしくもっともらしく答えるでしょう。そうすると、「うーん」とかいって、クルクルと回って、ここにいる連中に「だろう?」とかいうんです。ここにいるのは町内の中小企業の経営者なんです。Fさんに全幅の信頼を寄せている人たちです。しょっちゅういろんなことを彼はいっているんでしょう。私がいるものだから、私を利用してもう一回確認するわけです。そういうことを盛んに彼はやっている。それで、2時間話をしました。
 そして、大体話が終わったら、「実は先生に見てほしいものがある」という。岩手県花巻にSさんという方がいらっしゃって、この人は日本のインキュベーションマネージャーではナンバーワンです。この人の右に出る人はいないという方です。何をいい出すのかと思ったら、「私はSさんの弟子です。斐川に花巻の分室をつくりました」というんです。後でお話し申し上げますけれども、花巻には花巻市起業家支援センターというインキュベーション施設、日本で最も活発といわれているものがあります。それを真似してつくった。だから、「私はSさんの弟子で、花巻の分室を斐川につくりました。見てください」というんで、連れていかれて見たら、なかなか大したものをつくっていました。「さすが」ということです。
 どうして、こんな話になっているかというと、斐川というところは、私も2年前まで知らなかったんですけれども、大変な町なんです。ここは70年のころの人口は2万2000人です。こんなところですから、普通だったら、今ごろ、1万5000人というところじゃないでしょうか。ところが、実際に今人口どのくらいかというと、2万7000人にふえているという不思議なところです。大都市にくっついている町村ですと、人口がふえているところがありますけれども、これは関係ないところです。そんなところで5000人も人口をふやしたということですから、これはちょっと物が違う。
 なぜふえたかというと、この町は企業誘致で成功しています。誘致で成功した町です。どんな企業がいるかというと、セラミックコンデンサのムラタ。それから富士通、これはノートパソコンをつくっている。今話題の島津製作所とか、こういった企業をトータル25社ぐらい誘致できた。これがこの町の特徴です。
 一部上場企業を3つも誘致できている町村はこの斐川だけしかないそうです。市はありますけれども、町村レベルで一部上場企業を3つも誘致できたのはこの斐川だけだ。この誘致によって6000人の雇用が生まれている。何だかんだと定住者もふえて今や2万7000人になっている、こういう話です。
 要は、誘致に成功したわけですから、Fさんの果たした役割は際立って大きい。役人というのは3年ぐらいでコロコロ変えていくということで、それがなかなか信頼されない最大のがんである、こういうことをいいますけれども、彼はずっともう変わらない。斐川町町役場の企業振興室長、そんなポストで、二十何年自由に、好きなようにやることが出来てきたらしい。その間町長は3人変わりましたけれども、彼は変わらないという立場で、プロですね。ある意味での天才的な営業マンです。彼がこれだけの企業を連れてきた。それで6000人の雇用を生み出したということであります。
 連れてこられた企業たちに、「どんなぐあいだったですか」と聞くと、「いや、Fさんに攻められたら、もうだめだ」。行くしかないそうです。不思議な魔力があるということです。それで25社も来て、誘致で成功した町ということになります。
 島根県には59市町村あるんです。工業出荷額というのをよく使いますが、この工業出荷額で見ますと、この斐川は島根県59市町村で第1位です。松江もあれば、出雲もあれば、安来も、いっぱい市があります。この斐川が断トツ1位。出荷額が3700億円、当然誘致企業が寄与しているということです。第2位は安来市です。ここは例の日立金属の城下町です。第2位が安来市で、出荷額は1500億なんです。だから、2位を倍以上離している、信じがたい、そういう町だということになります。
 こんな調子で圧倒的に豊かになっちゃった。この町に行くと、非常に不思議なんです。きょうの話題とは関係ありませんが、日本3大散居の一つです。日本はどこでも田んぼがありますが、普通、集落はまとまっています。散居というのは、水田地帯にポツンポツンと1軒ずつ農家が点在していて、北は防風林で固めて、南側は見渡す限り自分の田んぼを眺められる、こういう設定になっています。日本には3大散居というきれいな景色のところがあります。1つがこの斐川なんです。あとは山形県の長井。それから富山県の高岡の隣の砺波です。この3つを日本3大散居といいます。実にきれいな景色です。斐川もそういうところだ。見渡す限り水田地帯なんです。水田地帯が大半で南側に少し丘陵になっている。こういう地形です。
 水田地帯を車で走りますと、道路は基本的に農道も全部舗装しています。それから田んぼは全部水道でやっています。水を順番に引くなんてことやってなくて、農作業をされる方がきょうから始めようといったら、水道をひねって1昼夜で大体田んぼができる。こういうふうにお互いのことを関係なくできる、そういうところまで整備が進んでいるということで、極めて豊かな町になっている。それをやり抜いたのは、何といったって、このF氏であるということであります。
 そういった形で今までは成功しました。成功したんだけれども、それを引きずったFさん自身がここ数年ちょっと不安になってきたんです。なぜかというと、どうも誘致した大企業というのは不安要素が大きい。ノートパソコン、セラミックコンデンサなどは将来どうなるかわからない。つまり、主要な3つの企業のうちの2つ、特にそれらは従業員規模の大きい企業です。これがいなくなった日には今までの成功物語がどこかでちょん切れるということを、彼は何年か前から感じていた、こういうことです。
 ある日、私の雑文を読んで、花巻のことを聞いた。それで彼は花巻に弟子入りをするんです。「Sさんの弟子です」といった背景は、こういう事情なんです。その後Sさんに会う機会があったときに聞いたんです。「あんたの弟子だという男がいるけど、どんな話ですか」と聞いたら、「いや、あいつには参った」というんです。ある年の冬、雪の降っている日、彼が8時半に起業家センターに出勤したら、入り口の前に立っている男がいる、それが彼だった。その人がSさんと認めて、土下座して、「弟子にしてください」といったというんです。そんなことをいわれたって、困りますよね。
 「じゃ、中にどうぞ」と連れていって、「何だ」と聞いたら、「あなたから学びたいことがいっぱいある。邪魔しないから、朝8時半から、夜の12時過ぎのご自宅に帰るまで、ずっと横におらしてくれ」というんだそうです。そして、ずっと横にいたそうです。結局、彼は1週間いたというんです。8時半に玄関で待っていて、それで夕方終わった後、あちこち接待があるわけですが、ずっとついてきて、それを1週間やって、それを3回やったというんです。全部有給休暇をとってきた。そこで彼はSさんのノウハウを盗んだということですから、まるで木下藤吉郎ですね。見てくれは刑事コロンボで、やることは木下藤吉郎。こういう人材であります。
 そんなことで、西が頑張ってないわけじゃなくて、斐川みたいに頑張っているところがあるということを寡聞ながらやっと知ったということです。今やこういうサイクル支援とか、インキュベーションマネージャーの世界では、東のS、西のFといわれるということで、この2人は圧倒的な役割を果たしてきたということであります。
 そこで、Fさんが学びたいと思った花巻、次にこのあたりのお話し申し上げたいと思います。



北上=花巻

 岩手県という県がありますが、年配の方だと思い出すでしょうけれども、少し前までは日本のチベットといわれていました。日本で最も貧しいところだったということです。東北には6県ありまして、南東北、北東北という分け方がありますが、南東北の各県と北東北の各県には、これまでは大きな溝があいているんです。どうにもならないぐらいの経済的な格差がありました。北東北ですと、かつては秋田県が一番上でそれから青森、岩手。要する岩手が一番底だったんです。そういう状況でした。
 ところが、この30年ぐらいの岩手県の努力によって、今は北東北ではもちろん1番ですけれども、南東北で一番後ろについている山形県を抜いたのではないでしょうか。こういうことは起こり得ないといわれていましたけれども、この30年の地元の努力によって岩手県は非常に大きな興味深い歩みを見せたということになります。そのお話を少しまとめてしていきたいと思います。
 岩手県は日本の県の中で一番広くて、四国4県と余り変わらないぐらい広いんです。四国って、こんな格好をしているから広そうに見えるでしょう。逆に岩手県って、こんな格好ですが、実は面積は余り変わらないぐらい広いです。
 その真ん中に盛岡があります。これが30万都市。私も全国を歩いていますが、30万都市の中で、私の住みたい町の第1番に盛岡を挙げたいですね。実にいいですね、都市の規模もいいし、落ちついているし、山のものがうまいのは当然ですし、すぐ宮古ですから、三陸の魚がどんどん入ってきて海のものもうまい。酒もそこそこだ。何よりいいのが、秋田美人が田沢湖線を通って盛岡近辺まで進出しているということです。(笑)
 盛岡の南が花巻で、それから北上、水沢、江刺、一関、こう連担しているということになります。こちらは奥羽山脈、こちらに北上山地があって、その向こう側が太平洋、こういうふうになるわけです。
 どうでしょうか。盛岡って、遠く感じますか。東京から時間距離で一番遠い県庁所在地ってどこだか知っていますか。理論的にこれは考えたらだめですよ。普通に、じゃ、今から行こうかという感じで、東京から一番遠い時間距離のあるところ。これは奈良です。これはしようがないです。京都から50分ぐらいかかるから、3時間半以上かかってしまう。2番目がどこだか知っていますか。2番目は三重県の津です。これも3時間超えてしまう。実は3時間を超えるのは今はこの2つ。去年の春までもう1つありました。どこかというと、神戸です。神戸は3時間15分かかりました。去年の春からのぞみが1時間に1本とまりますので、今は2時間45分ということです。盛岡はどうかというと、意外と近い。2時間25分ぐらい、2時間半かからないくらいで、意外と近いということになっています。だけど、花巻、北上あたりに行くのには3時間15分ぐらいかかっちゃう。1日に1本ぐらいは速いのがありますが、それに乗らない限り3時間半ぐらい。結構遠いですね。仙台から各駅停車でトコトコトコトコ行かなきゃいけない。10分おきにとまるという感じのところであります。
 これらの中で、まず何が起こったかという、北上で物事が起こったんですね。ここから物事が始まった。こういうことであります。

 北上というのは、昔、黒沢尻といわれたんですね。ラグビーを好きな人は、「あの黒沢尻か」ということですが、黒沢尻町というのを母体に、昭和29年だと思いますけれども、町村合併で現在の北上市という名前になった。この北上という名前をとったのが成功の第一歩だと私は思います。これがよかった。
 どういうことかといいますと、私が初めて行く町に行った場合、市役所か会議所に行きます。「地元の企業のリストを見せてください」、ここから始めます。そうすると、名前っていうのはすごく重要なんです。そういった目で見ますと、例えば製造業の場合、後ろの方にいろいろつけますね。最近片仮名になって困っちゃっているんですが、かつてだと、製造業ですと、何とか製作所、工業、鉄工、鉄工所、精密、技研とかありますね。あれって、地域によって偏在しているんです。
 例えば、新潟県の長岡みたいに割と古い工業地域にどういう名前が多いかというと鉄工、鉄工所が多いです。明らかにそうです。諏訪とか岡谷みたいなところ、あそこに何が目立つかというと、明らかに精密、技研なんです。恐らく諏訪、岡谷の人たちは、おれたちは精密をやりたいという思いがあるから、名前も精密とか技研とつけるそういうことが名前でわかるんです。大体、鉄工、鉄工所の多いところは古い工業都市ですね。すぐわかります。
 そういう形で常に関心を持って見ているんですが、北上の名簿を見たときに驚きました。北上というのはその後、企業誘致に成功するんですけれども、北上の名簿を見たらみんな東京の会社なんです。関製作所の何とか工場なんです。何とかのネーミングに私は驚いたんです。普通ですと、関製作所が北上に工場を出しましたというと、一般的には関製作所東北工場なんです。東北にもう1社あれば、北東北工場か岩手工場ないしは盛岡工場です。盛岡でなくても。これは普通です。埼玉県にある大阪の企業の工場は全部東京工場ですから。そんなもんなんです。見たら、これはどうなっているかというと、大半が北上工場なんです。こういうケースはほかでは見たことがないんです。
 つまり、北上という響きのよさにひかれている部分がある。そういうことは意外と重要なことだろうと私は思っています。そんなことでネーミングが非常によかったということがあります。
 今また市町村合併が盛んにやっていますけれども、このころはいわゆる例の昭和の大合併ということでどんどん合併をやってしまったということです。合併について、当時の自治省が合併の目的とか理由を述べよといってくるわけです。どうしたかというと、隣の花巻は観光だ。水沢というのは今は大したことありませんが、昔はこのあたり一帯の物資の集散地です。ですから、商業が栄えたことがある。過去形に近いんですが、そんなところです。
 じゃ、我々の住んでいる北上はどうしようかということで、引き算をするんです。うちは工業化でいこう。これはほとんど引き算に近い。そのとき、昭和29年、30年、北上に工場があったか、歴史をひもといてみますと、倒れそうになっている紙屋さん、製紙工場が1つあるだけなんです。何もなかった。何もないのに工業化できるという無謀な出発をするんです。
 そこでどうしたかというと、やっぱりこれは誘致しかない。誘致によって工業化をしようということで、工業団地をつくろうということになります。
 市町村のつくる工業団地というと、大体その町で一番要らない土地を使うんじゃないでしょうか。河川敷でいつ洪水が来るかわからないとか、急峻な山のふもとでいつ土砂崩れが起こるかわからない、地元の人は近づかない。そこを造成というお化粧をかけて、東京の企業にだまして売る、これが普通のパターンです。みんなそうです。すぐわかります。工業団地があるところは大体危険地帯です。
 私が20年ぐらい前に北上に初めて行ったときにここの団地に連れていかれて驚きました。こんな団地は見たことがない。こんないい場所に団地が形成されているケースは見たことがない。まず駅から近い。それと、パッと見て、「ほう」と思ったのは、古代人が住んでいた遺跡があっちこちにいっぱいありますね、あれに共通する地形というのがあるでしょう、ああいうところなんです。一番安全なところ。どこの遺跡もそうですけれども、ちょっと遠目に、歩いていける範囲に川が流れていて、高台になっていて、緩い高台で、絶対大丈夫という場所です。そういう場所に工業団地があるんです。こんなの今まで見たことない。
 よく企業誘致については、地元の熱意が一番重要であるといわれます。熱意の表現の仕方はいろいろありますけれども、いい場所に団地をつくるなんてことも多分熱意のあらわれの1つじゃないでしょうか。だって、一生懸命探している側は、いっぱい見ていますから、わかりますよ。これは危ないなとか、すぐわかりますけれども、そこにばかでかい団地をつくっちゃったんです。120ヘクタール級です。県もいろいろサポートしましたけれども、まだ地域公団も多分できないころで、そういうころに127ヘクタールの巨大な工業団地をつくっちゃった。造成に入ってしまったということです。
 市町村がやるときは、規模はせいぜい広くて20ヘクタールぐらいでしょう。100ヘクタール超えるのは、地振公団あたりの中核団地ぐらいしかないです。なのに、ここは120ヘクタールを超える工業団地をドカンとつくった。つくったはいいけれども、ここはチベットですから、30年代はだれも来ない。借金がかさんでしようがない。返済が大変だ。人間って、やっぱり借金を背負うと頑張りますね。苦しい思いで借金してつくった団地で売れないということの怒りとプレッシャーでその後、ここは頑張るんです。
 そのころの語りぐさがあります。どういう話かというと、当時の市の商工課の職員は、朝登庁しますと、最初にやるべき仕事は何かというと、日刊工業新聞と日経産業新聞を読めといわれていました。でかい記事を見る必要はない、小さい、10行程度の記事だけを探していけと指導されていました。どういう記事に反応するのかというと、各社の増産計画に反応しなさい。関製作所が生産量を3割ふやす、こういう記事に反応しなさい。10行です。どうしてかというと、生産量の増加は現有工場の拡充の場合と新工場の場合がある。わかった話は終わっていますから、わからない話。だから、いいんだ。それを見たら、9時から即飛び出して、当時新幹線ありませんからとにかく東京に行け。夕方までに何とか会社にたどりつけ。その新聞を持って会社を訪問しなさい。このことについて教えてくれといったって、せいぜい総務係長ぐらいしか会ってくれない。まるで相手にされない。そしたら、3日泊まれといわれているんです。翌日は8時半に行け。門の外で待っていろ。3日もそれを続けますと、10件に1件ぐらいは、実は新工場をという話がある、こういうことです。それを聞いたらすぐ戻って市長に報告しなさい。市長は予定を最優先してトップセールスに入る。こういう仕組みをとっていました。
 やっぱり市長が来れば、相手だって社長か専務が会わなきゃいけないですね。その後過激に勧められますと、実は別のところにしようと思っていたけれども、一遍ぐらい見に行かなきゃ悪いかなということで、「専務、おまえ、数人連れて見てこいや」ということになります。これは単なる表敬です。嫌々行く。ところが、これがまた北上の不思議なところなんです。まず、団地を見るでしょう。「あれ、これ、すごいいいじゃないか。うちが決めていたあそこよりはるかにいいな。だけど、向こうに決めたしな」と思うわけです。夕方からがすごいですよ。とにかく攻められる。まず居酒屋に行って飲むでしょう。それから、1時か2時まで5軒か6軒スナックを回るんです。
 実は私も20年前にそれにはめられまして、えらいところに来ちゃったなと思いましたね。何より不思議だったのは、スナックに30分ぐらいいて、次々に行くんです。そのときに不思議な感じがありましたね。どういう感じかというと、座って10分ぐらいたつと、「あれ、ここ、おれ、10年通っている常連の店じゃないかな」という感じを与えるんですよ。あれがホスピタリティーというやつでしょうね。そういう感じですっかりはめられて、しこたま飲んで二日酔いで朝起きて、専務以下5〜6人で朝飯を食うときに、「ここ、いいな。こっちにしよう」ということで、結局北上は約160社の工場誘致に成功した、こういうふうにいわれています。
 日本で市町村別に上位3都市というのは、第1位が北上なんです。第2位が石川県の松任です。第3位が長崎県の諫早といわれています。1位と2位は相当差がある。北上は恐らく日本で市町村別で企業誘致で最も成功した都市ということになっています。
 そんなことで、最初全然だめだったんですけれども、新幹線が昭和57年、東北自動車道が昭和52年、これが見え始めた昭和40年代の後半から誘致が順調に進んでいったということになります。
 北上の誘致のノウハウは半端じゃないです。あるとき私驚いたことがあります。北上市は毎年、今でもそうだと思いますが、誘致の説明会を東京と大阪でやるんです。東京は大半が虎の門の地域公団の会議室でやります。北上の場合は人が集まるんです。公団がやったって、30人か40人しか集まらないところを北上がやると120席満席になっちゃうとか、独特のノウハウがあります。時々私も出されるんです。実は私は北上市のふるさと大使なんです。営業部長でもあるんです。(笑)だけど、第三者みたいな顔をして、市長をそこに置いて、30分ぐらい話せというから、もっともらしいことをいって、時々市長に注文するわけです。「市長、大丈夫ですか」とか、そんなサクラを入れながら営業をやるわけです。
 ああいうのは終わった後に地下の食堂か何かで軽く立食をやって、皆さんに帰っていただく、こういうパターンが多い。あるときたまげたことがあります。大体5時ごろ終わりますから、5時ちょっと過ぎぐらいから下で立食をやる。30分ぐらいで皆さんお帰りですね。6時半になるとみんな帰っちゃって、結局残ったのは関係者だけです。ですから、東京事務所の人もいれば、北上からやってきている職員の方もいる、あと私みたいなのが何人かいて、最後に隅っこでチョコチョコッと打ち上げをするわけです。
 そのときに、北上から来ている人に、まだ6時半過ぎぐらいですから、「きょう、お帰りですか」と聞いたことがあります。そしたら、「いや」というんです。「じゃあしたお帰りですか」といったら、「いや」というわけ。「いつお帰りですか」といったら、「わかりません」というんです。「どうなっているの」と聞いたら、120社来ていただいたでしょう。そこに手分けして全部あいさつしてから帰るそうです。こういうのが普通の市町村はできない。ここが違うところだ。これが北上の成功の最大のポイントだと私には思えます。
 そういうことで北上は成功しました。どういうふうな企業が来たかというと、東芝の半導体とか、3Mとか、シチズン系の企業がいっぱい来ているんです。いすゞもいる。名前のあるのがいっぱい並んでいます。
 工業団地の面積は、最初120ヘクタールぐらいでしたが、今や450ヘクタールあるんです。450ヘクタールの工業団地を持っているというすさまじいことになっちゃった。一応誘致では大成功をおさめた、こういうふうにいわれていまして、人口もふえているということであります。
 だけど、私、十数年前からちょっと問題提起をしていました。これはちょっと危ない。これはみんな落下傘じゃないか。アジアから風が吹いたらみんな飛ぶよということをよくいっていました。当時市の人たちは、「大丈夫です、うちは」。称賛されていましたから、北上は工業化で成功したということで、「もう大丈夫です」といっていた。
 ところが、10年ちょい前ぐらいから、新聞にM社の話が出た。Mという会社の記事が出まして、さあどうしましょうか、これをどう扱うかということになりました。これは絶対にもらおう。これは何が何でもとらなければだめだという話をしたんです。「どうしてですか」というから、理由は2つである。
 1つは、工作機械メーカーなんです。NC旋盤メーカーです。自動車産業が主たる得意先です。それ用のNC旋盤のメーカーである。工作機械というのは総合産業なんです。機械部分にかかわるすべての要素がなければ工作機械というのは生まれません。東北はもともと工業後進地域ですから、工作機械メーカーなんかないですよ。悲しいかな、何もないです。こういう企業こそ、落下傘じゃなくて、地元に根っこを張る。我々は技術の地域化といういい方をしますが、こういう企業は地域化に貢献する。だから、ぜひこういうのをとろう。東北にこういうのはない。これから東北はこういう企業を育てなければ安定しない。だから、これは非常にいい、これが1つ。
 2つ目の理由は、M社というのはもともと戦前は東京の三鷹なんです。戦時中に疎開で、どこに行ったかというと、長野県の上田のちょっと先の坂城町というところここに行った。皆さん、坂城に行ったことがありますか。名前ぐらい聞いたことがありますかね。多分聞いたことないですね。日本ではだれも知らない。だけど、欧米の日本研究者で知らない人はいないですよ。欧米の日本の産業経済の研究者で坂城を知らない人はいない。坂城のことは英文で厚い本が1冊出ています。日本ではだれも知らない。
 どういう町かというと、ここは農村機械工業化に成功した世界で唯一のケースなんです。これは開発経済学で問題になっていますが、発展途上国が急に発展を始めますと、農村に過剰労働が発生して、それが大都市に行けば飯が食えるんじゃないかとどっと来るわけです。日本も30年代そうでしたね。日本の場合はちょうど高度成長期にぶつかっていましたから、京浜工業地帯の工場がそういう人たちを受け入れてくれた。特段問題は発生しなかった。ところが、ほかの国は、来たはいいけれども、仕事もないから、すぐスラムを形成するわけです。マニラ、バンコク、いずれもそうです。これは世界の共通するパターン。それを避けるにはどうするかといったら、農村地域に人をとどめておくべきだ。就業の場を提供すべきだ。工業化が必要である。その中でも機械工業は一番深みがあるから、機械工業化は農村でやるということは世界の開発経済学の大きな課題だけれども、実際の成功例はないんです。
 唯一ここだけ成功しているといわれている。だから、世界的に有名なんです。ここは金型屋さんとか、プラスチックの射出成形屋さんとか、そういうのがいっぱい成立していまして、ちょっと興味深い話です。
 この坂城町にM社は戦中に疎開しまして、戦後この坂城に残ったんです。戦後優秀な従業員をどんどん独立させたそうです。機械を取り付けてあげて。それが1つの流れになって、この地域では農家が納屋にマシニングセンターとか、NC旋盤を入れて始めるようになった。機械の数を機械屋さんが500ぐらいセールスした。中には世界的な企業があります。例えば、プラスチックの射出成形機に日精樹脂工業という世界のトップメーカーがありますけれども、それはここの出身です。中くらいで、結構世界的なメーカーも幾つか出たという非常に興味深い都市です。
 その中心的な役割を担ったのがM社ですから、いい経験しているんですね。インキュベーションをやってくれる工場なんです。こういうのはありがたい。だから、ぜひこれはもらおうということで、過激に誘致をやりまして、結局M社さんは「わかった。じゃ、行きます」と。本当は宮城に1つ工場がありまして、そこのそばに行こうと思っていたらしいんです。ところが、いつものパターンの強烈な誘致にかかりまして、「まあ、いいや」ということで、北上に来てくれることになった。
 このあたりは高速道路が縦に入りまして、こういうところは大体流通基地をつくるでしょう。北上もちゃんと流通基地をつくったんですけれども、その中の26ヘクタールをM社に割り当てたということになります。結構大きいですね。
 M社さんはもう来るということは決めたんだけど、「1つ、うちの話も聞いてくれ。うちは何といったって、工作機械メーカーだから、機械工業のすべての要素がなければ成り立たない。だから、少なくとも、北上のこのくらいの範囲でうちの下請けになる企業を100社ほど紹介してほしい」と要請しました。細かい調査をやったんです。機械の年式まで全部書く。プロが見ればどのレベルかすぐわかるという調査票を100部渡されました。北上の市役所の人は「任せなさい、うちは成功した」と。自信満々100部をM社の購買担当に手渡した。購買担当がこれを全部見て、最後に「ウワーッ」といった。「何ですか。ちゃんと100あるでしょう」といったら、「うちのレベルに合うのは10ないな」といわれた。
 そこで初めて、頭数とカッコいい名前の企業がふえたけれども、何のことはない、落下傘の集団だったということを北上はそのときに自覚するんです。
 「さあ、どうしますか」というから、「とにかく根っこをつくらなきゃだめですよ、そうしないと、いつ風が吹いて消えちゃうかわからない」ということになりまして、「じゃ、どういうのからいきますか」というから、「まずメッキじゃないの? メッキからいきましょう」という話になりました。「メッキですか」というわけです。「メッキって、公害でしょう」というから、「公害です。だけど、金かければクローズできますよ」といったんです。
 メッキ工場というのは日本からどんどん減っているんです。例えば東京都内には30年前に1600ぐらいのメッキがありましたが、今は500です。3分の1。今後日本国内でメッキ工場がふえる可能性はゼロ。減りこそすれ、ふえることはあり得ないという状況です。一番の嫌われものなんです。だけど、ハイテク産業にメッキがなかったらどうにもならないんです。ジレンマなんです。そこを突こうといったわけです。
 だから、まずメッキを呼ぶ。メッキ工場を誘致するなんて話は聞いたこともない。だけど、北上がメッキ工場を誘致するということになれば、北上は工業化をきちんとやるというメッセージだ。それをまずいきましょうということで、市長もその気になりまして、結局メッキ工場を3社呼びました。仙台と川崎、横浜ですね。この3つのところからメッキ工場を3社呼びまして、着地させました。
 特にこの横浜のメッキ屋さんは私は昔からのつき合いがあります。横浜西口の駅から10分ぐらいのところにいかがわしいホテル街があります。10軒ぐらい固まっているところ、その中にいたんです。後で社長に「どうだったの」と聞いてみたら、そこに北上市長が来たというんです。「来たんだよ。役人が来れば、早くやめろとか、どこかに行けという話ばかりだった。ところが、ぜひ来てくださいといわれた。創業以来そんなことをいわれたのは初めてだよ。頭に血が上っちゃって、その場で『行く』といっちゃった」というんですね。(笑い)
 それに対して北上がちゃんと受けて、結構広い面積を割り当てまして、優遇した。最初は東芝あたりのリードフレームのメッキをつけていたんだけど、広い土地もあるしということで、もっとやろうということで、ここは今やリードフレームメーカーになっています。もちろんメッキやっていますけれども、リードフレームの日本で5本の指に入るメーカーに成長したということです。
 そういった格好でまずメッキだ。あと、どんなものが要りますかというから、あとは金型とか治工具ですね。精密研削も要る。ハイテク産業に要る機械工業系の中小企業をがっちりそろえた方がいい。それがこの地域の将来の工業集積の充実につながりますよという話で、そういう方向にだんだん方向転換をしてきたということです。以前は名前のいいところだけ集めていたんだけれども、その後そうではなくなったということであります。
 こうやって、北上は成功するんですが、これはもちろん北上の人たちの努力が一番の要因です。だけど、この一連の流れにおいては、実は県庁の果たした役割は極めて大きいんです。私は県庁というのはもう要らないんじゃないかと思っているんですけれども、岩手のこれまでの流れを見ると、いや、まんざら悪くないなと思わざるを得ないですね。

 県庁にA氏という人がいます。まるで明治の志士みたいな人ですね。年は私と同じ55歳です。55歳というところは、団塊組といういい方と、もう1つ全共闘世代というのがあります。彼は岩手県生まれで、もと福島大学全共闘委員長なんです。学部は何だか知りません。そういう人は民間企業に勤められないから、県庁とか市役所に行くんです。東京都庁とか神奈川県庁とか横浜市役所の55前後の連中はみんなそうですよ。全員ほとんどそうです。ほかでとってくれないからなだれ込んだ。結構まだちらちらと燃えるものがあるんです。
 彼とはずっと30年つき合っています。この人も余人をもってかえがたい。この人は商工と企画しか動かない。商工ベースなんです。動かさなきゃいけないときは隣の企画に行くわけです。企画に2年ぐらいいてまた商工。とにかく商工で30年以上やってきた。この人は余人をもってかえがたいという人間です。県庁内での信頼は極めて高い。特に若い人。それから市役所とか地元企業の信頼も極めて高い。岩手県がこれだけ変わった最大の功労者はこの人だと私は思っています。増田知事もなかなかだけど、知事よりもこの人の貢献度は高いと私は常々思っています。
 彼とは30年つき合っていますが、20年ぐらい前でしょうか、「盛岡に来ない?」といわれて、遊びに行きました。夜、若い者を何人か連れて遅くまで飲んでいて、そのときに彼はこういうことをいい出したんです。「岩手県は貧しい。県土も広い。これまで県はいろいろやってきた。いろいろやってきたけれども、何にもなってないだろう。限られた金を一生懸命ばらまいて、結局何にもなってない。こんなばかげたことはやめましょう」というんです。「どうするんだ」と聞いたら、「全共闘のときのことを思い出せ。あのときにいい戦略論があった」というんです。毛沢東語録にあったとかいって、本当かどうか知りませんが。
 「何だ」と聞いたら、「弱小勢力が戦うには資源を集約して、1点突破の全面展開以外ない」。懐かしい言葉ですね。1点突破の全面展開というだけで、もう頭にグーッと血が上ります。地域政策をそれでいこう。あまねく広く少しずつ薄くやったって意味がないから、一番可能性のあるところにドカーンと投資したり、人をくっつけたり、いろんなことをやって、1つの成功をつくるべきだ。1つの成功ができれば、必ず周りが反発エネルギーを蓄えて、次の展開に踏み込むというんです。
 「どこだ」と聞いたら、北上にその動きがあるから、全面支援するというんです。県の産業ビジョンにはあまねく広く何もやりませんと書くけれども、実際には人間も金も、私みたいに外人も含めて徹底的に北上に投入して、1つの成功をつくろうということを彼が企画したんです。で、みごとにやり抜いたということであります。
 大体この北上の成功が見えてきた90年ごろ、また東京で戦略会議を開いたんです。「じゃ、1点突破の2番目はどこだ」と聞いたら、「それは当然花巻だ」というんです。かつては花巻の方がはるかに豊かだった。だけど、どうだ、逆転しちゃった。飲み屋だっていつの間にか花巻から北上に移っちゃった。多分花巻の人間は悔しい思いをしている。ここを突くべきだというんです。
 ということで、90年ごろに、まだ北上プロジェクトが終わってなかったんですけれども、そこに花巻の若手2人を入れたんです。Aさんが指名して、花巻市役所の人と地元の工業団地の、若い事務局長でしたが、その2人。市役所の人はKさんといいます。彼をAさんは呼び寄せて、北上プロジェクトを見せつけるわけです。隣の町の成功をわざと見せつけるわけです。それは頭に来る。隣の町はどんどんよくなってうちはさっぱりだということですから。それを実感させるわけです。
 それからしばらくして、93〜94年のころ、このころから少しうねりが起こる。もう北上は仕上がったから、A君から、「あまり北上には行かなくていい。むしろ花巻に行ってくれ」ということで、それから花巻通いが少し始まるんです。あるとき商工会議所あたりが講演をやってくれというので、行ってきました。もう90年代は新幹線がありますから、日帰りは簡単にできます。実はそのとき日帰りしようと思ったんです。終わったら、Kが来て、「先生、夕方から若手の研究会をやるから泊まっていってくれ。花巻温泉をとりましたから」「じゃ、いいや。わかった。泊まろう」ということで、泊まることにしました。「6時半ぐらいからやるから一風呂浴びていてください」といわれて、一風呂浴びて、6時半ごろいわれたところに行ったら、ホテルの中の宴会場でした。「何だ、宴会か」と思って、20人ぐらいの席がつくってある。そしたら、市役所の若手、会議所の若手、若い経営者、若い技術者、いろんな人が来ていました。みんな30代の中ぐらい。
 ごく普通の宴会が淡々と進んで、9時半ごろになって、仲居さんに、そろそろお客さん上ってくださいよといわれて、じゃというので、終わりにしました。私が部屋に戻ろうと思ったら、みんなぞろぞろついてくるんです。どうしたのかなと思って、かぎをあけながら、ちょっと変だなと思ったんです。そのときフッと思い出した。「そういえば、チェックインしたときに入った部屋は、えらい広い部屋だった。何でここにおれ1人で寝るのかな」という不思議な思いをした。あけてみたら様子が変わっているんです。会議ができるような格好で、座卓がきれいに並べられていまして、おにぎりか何か山のように置いてあるんです。お茶と漬け物。「何ですか、これは」といったら、「先生、これからですよ。朝までやりましょう」というわけです。
 それから朝まで激論をやるんです。これは印象に残りましたね。どんな感じかというと、みんな叫ぶんです。何て叫ぶのかと思ったら「北上のばかやろう」ですよ。(笑)北上のばかやろう連呼をやるんです。そうやって自分を鼓舞するんでしょうね。「北上のばかやろう、ばかやろう、ばかやろう」といって、「北上なんか、うまいことをやったって所詮人のフンドシだろう。おれたちは違う」。北上は誘致型だけど、おれたちは違うという。「あなた達、何考えているの?」と聞いたら、「おれたちは違う。おれたちは内発型でいくんだ」というんです。
 内発型なんて、格好いいでしょう。何となくひかれちゃいますね。「おれたちは内発型でいく」「それは立派な話だ。どういうストーリーなんだ」と聞いたら、彼らもよほど悔しかったんでしょうね。やっぱりちゃんと考えたんですよ。みごとなことをいっていました。どういうパターンかというと、大体東北一帯に80年代ぐらいからハイテク企業の工場がいっぱい建ったでしょう。そこらじゅうにハイテク企業の組み立て工場が80年代ぐらいからいっぱい建った。これは安い労働力を求めただけなんです。手足さえあればいい、ネコでもいいという感じなんです。ということで、みんないったんです。
 ところが、85年ぐらいから、だんだん様子が変わってきまして、日本で長男長女社会が際立ってきたんですね。この辺出身の人間で東京の理工系の大学を出て、どこかの東京のハイテク企業に勤めた連中も戻りたい。戻れば車も買ってくれる。みんな戻りたい。むしろ東京に技術者がいなくなってきた。薄くなってきて、地方に潜在的に少しずつふえてきた。こういった時代状況が80年代の中ごろなんです。
 それを受けとめて、手足だけだと思っていた各工場も、少し頭脳部分を持つようになってきた。Uターン人材だとかを組み合わせて、頭脳部分を持つようになってきた。これは地域にとっては極めていいことだろうと思っていまして、こういう流れがうまく進めば日本もいいなと私は思っていました。
 ところが、85年というのは例のプラザ合意です。ここから、240円だった円が1時期78円になっちゃうというすさまじいことが起こった。そのときに日本の企業って、まじめなものだから、何とか国内生産を維持しなきゃいけないといって、我慢するんですね。5年ぐらい我慢してました。90年ぐらいまで我慢したんですけれども、ここまで来ちゃうと、もうだめだという企業もふえて、「もうだめだ。中国に行くしかない」という企業がふえ始めたということです。
 そうしますと、田舎に戻って、こういうところに勤めて、じっくり家から通って研究開発をやりたいと思っていた若者たちが、急に工場長から呼ばれるわけです。「今度うちは中国に行くことになったから、おまえも行ってくれ」ということが普通にいわれるようになったのが90年代に入ってからなんです。
 東京も嫌で戻っているのに、だれも、中国なんか行きたくない。彼らが、花巻の数少なくなったスナックでぐちをこぼし合っているわけです。行くところは大体決まってますから、そこでぐちをこぼしているわけです。そうすると、さっきのKさんみたいな連中、地元にもともといる連中が、行くところは同じです。行ったら、昔の同級生です。中学か小学校かわからないけれども、田舎ってそんなもんです。みんな同級生なんです。久しぶりに会って、「あっ、何だ、おまえ戻ってきたのか」「実は2年前に戻っている」「よかったな」というと、「よくもないよ」「どうして、よくないの」と聞いたら、「今度、中国に行けといわているんだよ」という話がスナックで語り合われたという。
 これだと彼らは思った。これが突破口だ。どういうふうに考えたかというと、やつらを行かせないで済むようにしてやろう。それにはどうすればいいんだ。それはその会社をやめさせるのが一番いい。やめさせて独立させちゃえということをそのときに彼らは考えた。それを内発型といったんです。そのためにいろいろ検討した。そしてシンガポールあたりの貸し工場のケースが話に出て、「これだ」となった。花巻市内に汚い使ってない倉庫があります。それを市が借り上げまして、ベニヤで4つに仕切りますと、この辺にコピー機を置いて、好きに使っていい。口説き落としてやめさせて入れたんです。Kさんが先頭になって、やめさせて入れた。
 みんな不安ですよね。そんな、役人にやめろといわれて、場所をただで貸してやるよといわれたって、大丈夫かと。とお思いでしょうけれども、この岩手県というのはおもしろいところで、INSという集団があるんです。これは正確にいいますと、岩手ネットワークシステムというんです。だけど、だれもそんなこといわない。どういう集団かというと、岩手大学の工学部の先生方、県庁、試験場、市役所、中小企業の人たち、こういう人たち500〜600人で構成されています。もっと多いかもしれません。500〜600人がメンバーで極めて緩い組織なんです。
 日本の産学連携って、惨憺たる状況ですけれども、その中でもこのグループが一番先行しています。日本の産学連携って、恥ずかしい限りですけれども、その中にあって、岩手大学を中心としたこのグループが一番よくできているということです。
 寄ってたかってサポートするんです。おせっかいをやいちゃう。やめさせてここに放り込んだ連中を寄ってたかって世話する。技術的に、営業までやっちゃう。そして、そこそこのものにしちゃったということであります。
 ちょっと脱線します。岩手大学は日本の中で産学連携が一番うまくいっているというお話をしましたけれども、どうしてかというと、私も外部評価委員だったので、いろいろ見てきたんです。いろいろわかりましたね。関係者がいると怒られるかもしれませんが、工学部の一生懸命やっている先生方に、「あなた達、どうしてそんなに一生懸命やっているの」と聞いたことがあります。「ほかの地域じゃ、大学というのはろくでもないのに、岩手大学は何でこんなにやっているの」と聞いたら、「おれたちはもう東京に戻ることはねえからな」というんです。45も過ぎるともう東京に戻ることがない。だから、ここで満期まで勤めて、あとはここに住む。だから、「おれたちはここにいるんだから、それはやることないし地元につき合うのは当たり前だろう」、こういういい方なんです。
 そういう意味では、中くらいの国立大学が一番危ないですね。名前は出しませんが、そういう中のいくつかの大学の人達って、みんな東京とか京都を見ているんですね。地元なんか知ったこっちゃない。だから、そういうところで産学連携は起こり得ないと思います。
 もう1つ、余分な話ですが、岩手には県立大学があります。西澤潤一先生みたいなすばらしい学長を置いています。しかし、やっぱり問題もあるんです。どういう感じかというと、県立大学をつくるときは、普通、地元に貢献してもらおうと思ってつくる。そうですね。そのために、教授陣を地元貢献してもらえそうな感じだということで、民間の研究所の人を入れるんです。例えば日立の研究所とか、富士通の研究所の学位を持っている人を教授でお迎えするんです。で、あとは地元の企業とつき合ってくださいよと、こうやるわけです。これがやってみたら、大きく読み違えなんです。
 どういうことかというと、彼らにしてみると、東大の同期が、東大に残ったやつは教授でいて、業績は十分にあるわけです。おれは民間にいたためにやりたくもない仕事をいっぱいやってきて、あまり気持ちが十分じゃない。やっとおれも自由にやれるようになった。自由になるのに何で企業とつき合わなきゃいけないのという発想になってしまうことが多いということが、最近の事情を見ていると、観察されることが多い。もちろん、すべてそうではないですけれども、そういう懸念があります。結構難しいですよ。
 話をもとに戻しましょう。そんなことで、とにかく寄ってたかって、面倒を見ちゃって、独立させたら、そこそこいった。それで、このことを本格的にやりましょうということで、郊外に花巻市起業家支援センターというインキュベーション施設をつくったということであります。これが6〜7年前です。そこまではK君がやったんです。役人がそこまで持ってきたんです。Kさんの偉いところは、普通、役人はそこまで持ってくると、あとも自分でやりたくなる。これはだめ。物をつくるまでぐらいは役人もなかなかうまいんだけど、これを回すのを役人がやると最悪ですよ。そういうことはさんざんいい聞かせていたから、彼もすぐ身を引いて、「ここまではおれだ。じゃ、あと、どうしましょうか」「それは民間人を使うしかない。このあたりはUターンで帰っているのがいっぱいいる。そういう中から技術と営業がわかる者を選べ」という話です。
 そうやって、あれこれ選んでいったときに見つかったのが、さっきのSさんという方であります。彼は地元出身で富士電機にいたんです。富士電機の研究所にいて、半導体の設計か何かやっていた人です。そういう技術屋ですけれども、営業もやってきたということでした。いろんな人を彼に会わせると、みんないう。「これはすごい営業マンだ」という人なんです。大変な営業マンで、今や東のS、西のFといわれています。彼にかかっちゃうと、みんなイチコロですね。彼がかなり自由にこれまでやってきた。最近ちょっと問題があるんですけれども。
 今、先ほど言ったこの施設は大体40コマぐらいあります。一番大きいのは150坪あります。150坪のインキュベーション施設をつくったということで、いろんなサイズが用意されているということであります。
 そのときに、1つ重要なことは、これをつくるときの1つの前提なんですけれども、あまり立派な居心地のいい施設はだめよと。早くここから出たいと思わせなきゃだめなんです。だから、冬は雪が吹き込むとか、夏は幾らクーラーをかけても暑くてたまらない。こんなところにいられるかという気持ちにさせなきゃだめ。日本中に今、インキュベーション施設が200ありますけれども、良過ぎちゃってだめです。あれでは、出る気にならない。ここが大きな問題でしょう。花巻は実に簡易な施設で、本当に冬なんか雪が吹き込むんじゃないかという感じです。それに耐えて、何とかそれを抜けるということが重要であるということであります。
 それで、この花巻のインキュベーション施設は、今や日本で最も独立創業しやすいところだといわれています。我々もあちこちで花巻が一番いいですなんていうもんだから。そういうふうにいい続けると、そう思うようになってきて、だんだん改善されていて、今や花巻が日本で最も独立創業しやすい町といわれるようになってきたということであります。
 北上と花巻はおもしろい関係で、私は両方つき合っていますが、ものすごいライバル意識で、お互いに名刺の交換もなかなかしないですね。そのくらいのライバル意識を持った方がいい。隣をぶつけて頑張らせると一番いいですね。だから、今日本国内で活性化しているところって、割と隣がライバルなんです。この北上、花巻がしかりでしょう。
 あと、東京の三鷹、武蔵野。これもすごいですね。あそこはどういう感じかというと、例えば片方が何か新しいアイデアの事業をやるでしょう。成功する。そうすると片方は絶対に10年間はそれをやらないんです。大変なところです。そのくらいライバル意識があるから、お互いいい感じでどんどんいくということです。
 それから、長浜、彦根なんかもそうですね。大体目に見えるところに同じぐらいサイズの町で、持っているものが違うものがあると、お互い戦い合う。これが活性化の多分最大のポイントじゃないかということを私は最近痛切に感じています。
 今仕掛けているのが、県をまたぐんですが、八王子、相模原です。両方とも大体55万ぐらいです。規模的に同じぐらい。今までは東京しか見てなかったけれども、隣を見てみろ、おなじみのやつだぞ、ここで戦えと今やっています。5年後ぐらいに成果が上がればいいかなと思ってやっているところであります。

 さて、そういうことでKさんはそこで引いて、あとはSさんを中心に動いていましたが、これをどういうふうに運営していくのかということについては、さっきのAさんを含めてみんなでいろいろ議論するんですね。
 そのときに話題になったことがある。どういうふうにやっていくか。そのときに感じたのは、我々日本はこの種の機能とか施設の経験がほとんどない。せいぜい10年とか15年でしょう。ほとんど経験がない。そういう経験のないことをやるときにどうすればいいのか。私の原則なんですけれども、そういう場合は判断をしてはいけない。徹底的にやるだけやるか、全く何もしないか。中間の、これとこれをやりましょうなんてことはやめた方がいい。これとこれをやりましょうというための経験が我々はないんですから、そういうときは一切知らぬふり。あるいは自分でやって、嫌っていうほど面倒を見ちゃうというか、おせっかいをやく、どっちかだと考えています。
 そこで、これについてはどうしようかという話だったんだけど、徹底におせっかいをしよう。徹底的におせっかいをして、それで幾つの成功をつくろう。幾つかの成功が積み重なると、どこまでやれば適切なのかが見えてくるということで、ここは徹底支援の形で今は進めてきているということであります。
 今やここは日本で一番独立創業しやすい状況で、結構ほかの地域から来ているんです。例えば、福岡で独立しようと思ったけれども、なかなか難しくて、それでハイゼットに家財道具一式を入れてここに飛び込んできたという金型屋さんがいます。なかなかいい方です。あるいは三重県からも来ていますし、愛知県からも来ている。隣の青森県からも来ている。
 これもまたおもしろい話ですので、ちょっとご紹介申し上げると、これはAという会社です。青森県の五所川原です。五所川原市というのはすごいところですね。冬なんて地吹雪ですね。一番気候のきついところじゃないですか。あの辺には、「地吹雪」というブランドの酒がありまして、大してうまくはないんだけれども、地吹雪のときはついつい注文するときに「地吹雪」といってしまうんですね。(笑)そういうところです。
 このA社というのは、社長が61ぐらいなんですが、彼は、ここは出稼ぎの本場だから、何とか人々が出稼ぎをしなくて済むような状況をつくりたいということで事業を起こして、今600人ぐらい雇用している。立派な会社です。主たる事業はDVDの組み立てとか、建設会社をやったり、いろいろやっています。とにかく地域に雇用を生み出すんだというのが社長の発想です。
 社長というのは、中小企業の場合後継者がはっきりしてくるとまた頑張るんですよ。今日本の中小企業がどんどん減っていますけれども、最大の理由は明らかに後継者がいないからなんですよ。後継者がいるとおやじはみんなまだ頑張るんです。彼の息子は今35ぐらいなんですが、東京音大のテノールなんです。ところが、彼は継いでくれることになった。おやじはまたエネルギーが上がりました。また600人も抱えている五所川原の企業ですから、当然五所川原の一番の企業です。Uターンをした人たちは行くところはここしかないんです。地方ではよくあることです。特定の企業に集まっちゃうんです。そこしか行くところがないから。だから、ここは40ぐらいの技術屋とか営業で優秀な人がいっぱいいるんです。それを社長は、跡を継いでくれる35の息子にくっつけて、「今やっている仕事はそれほど長く続かない。おまえらで新しい仕事を考えろ」と任せたわけです。
 そこで、彼らはいろいろ考えて、産学連携だということで弘前大学に行くんです。行ったはいいけれども、弘前大学は工学部がない。理学部と農学部、これはだめだ。うわさを聞いて、岩手大学がよくやってくれるということで、それで盛岡に行って岩手大学の門をたたいたら、「さあ、いらっしゃい」といわれて、盛岡にオフィスを置いて彼らは新規事業の立ち上げに入る。どんなことをやっているかというと、地図情報システムですね。2次元の情報を3次元にしようとか、あとは有機ELですね。そんなことをやっています。
 岩手大学というのは非常にフレキシブルですから、じゃ、やりましょうということで進めていったら、だんだん本格的になってきちゃった。どこかに試作とか少しつくる工場がないとまずいんじゃないのということで、岩手大学は花巻のSさんを紹介した。彼らは花巻に行くんですね。会って1時間ぐらいでここに決めたそうです。この人だったらやっていけるということで、A社は五所川原でやっていますけれども、研究開発部門をこの花巻起業家支援センターに置いたということであります。最初は小さいのでやっていたんですけれども、今は150坪のものを借りまして、有機ELをやる。結構いい仕事やっていますね。
 そんなような形で花巻というのは大変興味深い展開に踏み込んできたということになります。このSさんは天才的なインキュベーションのコーディネーターですけれども、彼にはちょっと前まで「支援の10カ条」というのがあった。支援のための10カ条。10なんか覚えられない。多過ぎるから3つにしろというので、私の方で10カ条をじっくり眺めまして、3つにまとめ直して、人間の頭に入るのは3つだけだということで、今「支援の3カ条」というのを浸透させるようにしています。
 第1条は、「いつも明るく元気で笑顔」ですね。これはすべての業界に通じます。まずこれだと。
 2番目は、「否定語は使わない。できない、しない、やらないはいわない」。これが2番目。
 3番目は、「相手が来なければこっちから行く」。
 これが「支援の3カ条」ということで、それを徹底して進めてきたということが花巻の成功につながったということです。
 このように岩手県は北上、花巻という2つの都市を県がうまく配置しながら持ち込んでここまでの成功に至ったということであります。
 1点突破の2点目までいったから、次、3点目をやらなきゃいけないねという話を4〜5年前からやっています。どこにするのかというのをAさんと議論すると、この辺に行くと、2つも成功して、この並びが黙っていられるわけがないでしょう。放っておけばいい、こんなのは。絶対自分でやる。それよりもっと岩手県はしんどいところがある。北上山地が間にありまして、こっちに太平洋があって、ここに久慈、宮古、釜石、陸前高田、大船渡、3万から 5万ぐらいの都市が5つある。沿岸地域というんですね。こういうところは日本に結構あります。こういうところに希望がなかったら、日本も困るでしょう。岩手県にとってもそうです。ここに希望がなかったら困る。ここで1点突破をやろうという話なんです。
 どうするんだといったら、結局ここをやろうということになりました。宮古です。ここは盛岡からバスで行くか、鉄道で行くんだけれども、いずれも2時間かかるんです。宮古というのは5万人ちょっと超えている市なんです。5万人以上の市で東京から一番遠いのはここなんです。どうやったって、5時間半はかかる。大変しんどい遠いところです。こういうところに希望があったら、日本も何とかなりそうじゃないですか。だから、ここをやろうということで、4〜5年前から私もここに相当入れ込んでいます。
 たまたまなかなか魅力的な市長がちょっと前に生まれました。お医者さん出身なんです。まだ50になってないでしょう。1年前ぐらいの2期目のときは無投票でした。宮古というのは戦後、2期続いたことがないんです。大変な政治都市です。ところが、初めて2期続いたという市長です。そういう市長も出てきたし、雰囲気が随分変わってきた。県としても3番目は沿岸地域の突破口として宮古を考えていきたいということで、今いろんな形で取り組んできているということであります。
 そんなことで、岩手県というのは極めて戦略的にこういう地域産業振興政策をやり抜いてきた。そういう意味では日本で一番進んでいる。かつて一番おくれていたがゆえに、むしろ先頭に立つことができたということではないかなと私は思っています。その15〜16年前の岩手県庁の雰囲気が今、島根県庁にあるんです。島根県庁の担当者たちの雰囲気がかつて私が15〜16年前に岩手県庁に感じた、そういったものが今島根県庁にあるということで、島根でもう1仕事やっておきたいなと思っています。



三鷹市

 時間の配分がまずくて、三鷹になかなかたどりつけないですけれども、少し三鷹の話をします。
 地方で今、地域産業振興の代表選手は北上・花巻で、次が斐川。都市部で一番いい線をいっているのは三鷹なんです。明らかに三鷹が次世代型の地域産業政策をやってきているということであります。
 どんな流れか。三鷹というと、皆さんにどんなイメージですかと聞くと、住宅都市とか学園都市とかいろいろいいます。福祉のレベルも非常に高いんです。旧自治省、今の総務省が、都市別のランキングとかいろんなものをつくりますが、財政豊かなベストテンというのは、大体常連組で固まっている。武蔵野、三鷹、調布、府中、鎌倉、芦屋、最近は浦安が入っています。これが上位を占めるということで、三鷹というのは財政的に非常にいいんです。なぜかというと、ベストテン組というのは高額所得のサラリーマンが多いところです。企業城下町ですと、景気がよければ、でしゃばるけれど、景気が悪くなると、引っ込む。ところが人間の給料って、そんな変わりませんから、比較的高いところでこういうところは安定しているということで、極めて健全な財政を続けてきたということであります。だから、非常に細かく福祉もできたということです。
 この三鷹で89年におもしろいことが起こったんです。今から14〜15年前ですね。何が起こったかというと、この年、朝日新聞が創刊110周年か何かなんです。周年事業というのをよくやります。このとき朝日は、バブルの前後ですから、バブルな周年事業、懸賞論文をやったんです。1等賞金500万円という懸賞論文をやりました。たかだか30枚ぐらいの原稿で1等500万。こんなにいい原稿書いたことないから、私も参加したいなと思ったら、「だめ。あなたは審査員の端くれだからだめだ」といわれました。
 膨大な量の応募がありました。最終的にだれがとったかというと、三鷹市の職員がとったんです。若手職員4人。男性3人、女性1人。4人の共同論文が1等500万をかち取った。こういうことがありました。
 500万とった彼らは、まず100万ずつ分けて、100万を残すんです。これを基金にしまして、自主的な研究会を立ち上げようということになりました。三鷹市超都市化問題研究会、通称超都研といっています。こういう研究会を立ち上げた。要するに、地域の課題がいっぱいありますから、それを自主的に研究していきましょうということで、若手職員中心に市民、商工業者、我々みたいな専門家という人間が次々入っていって、いろいろ考えていくということです。
 どんどんやっていくうちにふえちゃって、一時300人ぐらいになった。市の職員が100人ぐらい、あといろんな人たちです。これじゃ、一緒にできませんから、分科会に分けまして、分科会で地域活動をしましょうということになって、多いときは15くらいの分科会に分かれました。何でもあります。ごみ処理の研究会、介護の研究会、幾らでもある。それが各分科会になって、分科会が各自独自の活動をするということになりました。
 私も1つ持っていまして、どういうパターンかというと、塾頭というのがいるんです。例えば、私が持っているものだったら、私が塾頭。事務局長がいて、これは大体市の職員。あとは20〜30人のメンバーで自主的にやる。私のところの研究会の場合ですと、大体月に1回。月曜か火曜の夜でした。7時ぐらいにスタートして夜はエンドレス。こういうパターンでやるんです。
 こういう研究会というのは世の中に幾らでもあるでしょうけれども、三鷹の超都研のすさまじさというのは、並外れているんです。どういうふうになるかというと、1年とか2年やるでしょう。そうすると、レポートをつくります。印刷物にします。それを関係部門に配ると同時に、市長に上げます。安田養次郎市長、この前やめちゃいましたけれども、彼に上げる。市長のところには毎年何個か来るわけです。それらを見て、市長は、これは非常に必要なことであると判断すると、翌年、100万円ぐらいの調査費をつけるんです。だから、自主研究会なんだけれども、若干オフィシャルな色をつけてくる。1年後にちゃんとした答申を出してくれ、こういうふうになります。
 1年やって答申書をつくります。それを塾頭と事務局が持っていく。それが翌年事業として採用されるということです。市民との共同事業が事業に採用される。しかも、そのとき一緒に持っていった事務局をやっていた人が、その新規事業の担当者で配置される。役人というのは大体3年でかわっていきますけれども、三鷹の場合、このケースはその事業の見通しが立つまで異動は認めないということになっていますから、下手すれば一生やることになるんです。下手な提案できない。それだけ責任もある。ということでやられてきた。
 異常時だと、こういうことはありますね。例えば、神戸で震災でプロジェクトチームでやった例があるけれども、平時でこれだけの仕組みを持っているのは日本では三鷹市だけですね。三鷹の下からの積み上げ方式の政策形成は日本で1番。そういうことの中で福祉のきめの細かさが生まれていったということであります。
 こうやって超都研というのをやっていましたが、私が持っていたのは、三鷹市産業政策研究会というものです。私は5年やりました。5年毎月、今じゃ、とても無理ですけれども、当時はまだ暇だったので、これを私は主宰しました。何でこんなことを始めたか。産業政策。それは単純なことで、いろんなことをやっているうちにいろんなことがわかったんです。
 三鷹市は、人口が16万人ぐらいです。最近少しふえていますが、あまり変わらない。人口をいろいろ分析してみたら、おもしろいことがわかってきたんです。大体70%の人は動いてない。固定層。中央線沿線って、そういう傾向がある。一たん住んだら動かない。7割ぐらいが動かない。3割が動いている。これは学生とか、会社の寮なんかがありますから、若手のサラリーマンが来る。毎年3割動く。3、4年で全部入れかわるということはないです。3割のところだけしか動かない。そして、7割の人たちが高額所得のサラリーマンの人たち。この人たちが財源の基本になっているということがわかりました。だから、極めて安定的なんです。90年のころにそういうことがわかった。あ、そうか。この人たちがこの市のベースになっているんだということがわかりました。
 ただし、7割が動かないということは、大ざっぱにいうと、毎年0.7歳ぐらい平均年齢が上がってくる。10年たつと7歳。日本じゅう高齢化になって、特に首都圏の割と近い郊外都市でここに来て急速に高齢化が進んでいます。その典型なんです。
 そこで、ちょっと心配になりまして、まず10年後の2000年をシミュレーションしてほしい。2000年の財政構造はどうかとやったら、全然問題ないんです。市長は喜びましたね。大体市長は8年先しか関心がない。2期分ですね。全然問題ない。喜んだ。おかしいなと思って、2005年とか2010年をやってみたら、ぼろぼろ。団塊を卒業したあたりから、もう税金払うよりも年金の方が多くなっちゃうから、一気に財政構造が逆転するということがわかった。わあ、これは大変だと、私は脅かしちゃった。うちのメンバーに、「あんたたちが部長になるころに給料払えないよ」。そうしたら必死になりましたよ。さあ、どうするかということになった。
 いろんなことをやったんですけれども、まず、これからは、高齢社会ですから、多分支出は読めるでしょう。どのくらいのサービスを提供すれば、どのくらいの金がかかるかわかるでしょう。それを自前で稼いだらどうですか。こういう数式にしました。これを地域経営という。「地域経営」という言葉は昔からありますし、そういうタイトルの本もありますけれども、読んでもよくわからないですね。もっとシンプルに、かかる費用を自分たちで稼ぐ。これを地域経営という。実にシンプルにしました。
 ところで、このころは分権化でしょう。分権化するには当然自己負担、自立、こういう文脈ですから、お金は自分で稼ぐんだということになります。最高の傑作はこういうのがありました。どうやってこの町はこれから稼ぐのかといったら、ある人いわく、当時、ベストセラー作家で森村誠一という人がいました、大変な時期がありました。ピークのころ彼は厚木市に住んでいた。厚木の財政の数%は彼1人に依存していたんです。だから、ベストセラー作家を誘致したらどうだという話になりました。(笑)悪くはないけれども、ベストセラーの翌年はもうドボンですから、それは大変だ。もっと地道にやらなきゃいけないんじゃないのという話になりました。
 やっぱり産業化が必要でしょうということになりました。産業というのは、歴史的に1、2、3となっていますね。三鷹の場所で1次産業というのはあまり現実的じゃないですね。我々が生きているうちはね。100年後は知りませんよ。我々が見える範囲で1次産業で三鷹をアップするのはかなり冒険があります。じゃ、3次産業かというと悲しいかな、この隣は武蔵野なんです。吉祥寺。西東京最大の商業地の吉祥寺が隣にある。
 吉祥寺というのはどんな感じか。実は私は吉祥寺に住んでいまして、土日は町に出たくないですね。余りの人の多さに。土日は西荻の方に回っちゃうというふうにしています。ちょっと遠くから買い物に来られるご夫婦は、ちょっと前まではどういうふうにしたかというと、駐車場が少ないから、まず奥さんをどこかでポトッと落として何時間後とか時間を決めて、その間ずっとあちこち旦那は車で動いている。そして決めた時間にいって拾って帰る。これが吉祥寺の土日の買い物の基本といわれていたんです。
 最近それをする人が少なくなっています。理由は何か。いろいろ調べたらわかった。吉祥寺の隣の三鷹の駅前の駐車場は全部ガラガラなんです。だから、皆さん三鷹の駐車場に車を置いて、ご夫婦で1駅乗って、吉祥寺で買い物、食事して、そして三鷹に戻って帰る。そういうことになっている。つまり、三鷹というのはそういう扱いなんです。
 これじゃ、とてもじゃないけれども、3次産業でまともに戦うことはできないということになりまして、また引き算をやりまして、じゃ、第2次産業だということになりました。
 三鷹というのは昔、中島飛行機というはやぶさ戦闘機をつくる工場がありまして、一時4万人の大工場がありました。こういうのは米軍は見落とさないですね。ピンポイントの空爆をやりまして、19回ほど空爆を受けています。武蔵野市役所が昔の中島の本社なんです。あの辺は、ちょっと工事をやるといまだに不発弾が出てくるんです。出ると、半径2キロ以内の人は即刻退去、そういうところなんです。だから、昔は航空機産業があった。ところが、日本は戦争に負けた後、そういう危険な企業は根本的につぶされる。だから、中島は一部富士重工として残っただけで、本体は完全に粉砕されたんです。
 そういったところに勤めていた連中が三鷹、武蔵野、小金井、あの辺で中小企業を起こしていまして、航空機で鍛えた技術ですから、かなり高いという人たちがいっぱいいたんだけれども、美濃部都政のころに、「工場は悪だ、出ていけ」とやったでしょう。そのために有力なところはみんな地方に行っちゃったんです。あるいは都内でも昭島とか青梅に行っちゃった。ということで、三鷹あたりは、残っている企業は、「おれの代でやめるから、ごめんね」といって、門を高くして静かにやっている人だけなんです。
 そういうことがわかってきまして、彼らがやっぱり次の担い手かなと思うと、ちょっとしんどい。これも何とか重要な存在だけれども、彼らの市民権を確保しなきゃいけないということで、いろいろ私のその当時の研究会にも随分入ってもらいまして、いろいろやりました。
 ところが、とてもじゃないけど、これじゃ無理だということで、私がよく使う手なんですが、大体こういう拠点性のある駅の周りのマンション、10分ぐらいのところは、人が住んでないんです。会社なんです。こんなのメールボックスを見ればすぐわかる。ところが、そういう情報は役所は全く持ってないですね。それで、回らせてみたら、80社ぐらいニュービジネスを拾いまして、それをみんなで調査しろといって、行かせたら、こちらの想定どおり。「なぜ、あなたはそこにいるのか」という話です。
 1つは、都心に比べて家賃が安い。これはいえます。2番目は、日本のハイテクゾーンというのは八王子方面なんです。都心から八王子を見たときに、ちょうど中間ぐらいの着地として、位置的には悪くない。これが2番目。3番目が、三鷹の駅は3線入っている。中央線、しかも特快がとまる。それから東西線と総武線。3線入っているということです。
 三鷹から西って、1線でしょう。あれは困るんですよね。私、昔国分寺に住んでいて、困ったことがあった。要は、中央線って、人身事故が多いでしょう。そうするとすぐとまるんですよ。だから、三鷹から西側だと逃げようがない。三鷹から東側であれば、何とか逃げられます。東京駅でも羽田でも行けます。三鷹から西だとどうにもならない。サラリーマンはうれしいですね。もう理由が立ったから、ゆっくりお茶でも飲んでいけばいいんですけれども、我々はそうはいかない。何時何分にどこに行かなきゃいけない。実は私、それで東京駅で1回失敗、羽田で1回失敗、2回失敗しています。だから、もう三鷹の向こうに住むのをやめましたよ。だから、吉祥寺に住むことにしました。以来一度もミスがないということです。そういう意味で、三鷹の位置的重要性が高工場いということです。
 4番目、これが一番重要だと思います。何かというと、大体マンションで1人、2人やっている人たちって、人手が足りないから、時々いろんな人を欲しい。あのあたりって、ちょっと物を頼むときに便利な人がいっぱいいるというんです。要するに、大企業の技術屋OBたちがいっぱいいる。それから、奥様方の学歴の高い人たちがいっぱいいる。
こういうケースがあります。ある会社がパートのおばさんを雇ったらすごくできる。どんどんレベルの高い仕事をやらせてもどんどんついてきた。一体あなたはどういう人ですかと聞いてみたら、東工大の大学院の数学を出ていたとか、これは雇わなきゃいけないといって、すぐ本採用にしました。技術営業のトップにしたら社長よりはるかに優秀、(笑)そういうことがあのあたりでは起こるんです。
 それと、美術系と理工系の学生もいっぱいいますから、多様な人材があの辺に多いということが、小さい仕事をやる場合に非常に便利だということがわかってきた。
 それがわかってきたので、例のSOHOをやっていますね。SOHOのことはあちこちで皆さんいろんな情報をお持ちでしょうから、ここでは話しませんけれども、98年の12月から実験的に、全部で60戸ぐらいのSOHOを始めています。公共がやっているSOHOの実験としては三鷹が一番進んでいるといわれています。
 注目すべき点を1、2だけご紹介しますと、これをやっているうちにおもしろいことが起こったんです。2番目の施設が産業プラザという施設で、7階建て、地下1階の施設です。1階にインターネットカフェをつくって、2階をオフィスにして、あと上を倉庫にしたり、会議室。そういう仕組みにしました。これをやったら、慶応大学のOB会、三田会。三鷹市の慶応大学の三田会の人たちがやってきて、私たちは技術屋でコンピューターが得意だ。60過ぎの人です。このインターネットカフェの一部を貸してくれれば、市民に無料でコンピューターを教えてあげる、こういう申し出があったので、「さあ、どうぞ」ということで、そこを彼らに任せました。
 そしたら、だんだんそういう高齢者が集まってくるようになった。これは最初三田会だけだったんですが、そんなのはなくなりまして、今はNPOです。シニアSOHO普及サロン三鷹という名前に変わりまして、今250人ぐらいのメンバーです。
 どういうことかというと、これから高齢社会を本格的に迎える。60歳定年になりましたといってもみんな元気なんです。元気になって地域に戻るんです。恐らく60から80まで、元気だけど、その間99.9%の時間は三鷹か武蔵野で過ごすんですよ。大体このくらいの地域の範囲で。人間って、そんなもんです。そしてそれぞれ年に1回ぐらい同窓会で銀座に行く。そういった人生になります。
 ところが、残念なことに、40年間会社勤めした人って、その地域に戻ったときに宇宙旅行から帰還したようなものなんです。まず、奥さんとも言葉が通じない。ましてや近所のおばさんとなんか絶対通じないですよ。「おれは会社では40年会計ばかりやっていた。だから、おれは会計士よりも経理に詳しい」という自負心を持っていたけど、地域におりたら、残念ながらこのわざはごみなんですよ。会計士を持っていれば事務所も開けるでしょうけれども、普通の人はそういうことをやっていませんから、幾ら実力があっても、残念ながらごみ。ほとんどのサラリーマンにとって、40年の経験が地域におりたらごみになっちゃうんです。というのは、昔は日本の男は60でくたばっていたから、周りを何も考えなくてよかったけれども、今はさらに20年間みんな元気なんですよ。
 自分の経験が生かせる形で受けとめられる仕組みになってないというのが日本なんです。みんなそれで悶々としているわけです。だから、元三菱商事なんていう名刺を持ち歩く人がいるとか。(笑)そういう人たちがここに集まってきた。いろんなプロなんです。会計とか営業とか法務とか。一方ここに60ものSOHOがある。SOHOは大体1人でやっていますから、営業ももちろんできない。技術もわからない。会計なんかまるっきりだめ。税務もだめ、特許もよくわからない。おれたちは専門家だということで、これをサポートする。つまり、40年の自分の経験が地域で初めて生きた。やりながら「おれもSOHOやろう」という人も出てくる。結構な話です。中には、「おれは自分でやるのはしんどいから、サポートの方がいい」という人もいるということで、これからの高齢社会に向けて、極めて先鋭的な取り組みを行っているということです。今こういう実験が行われているのは日本では三鷹だけなんです。
 それで、面倒見ている人がいます。彼女に、「この人たち、最近どのくらいいますか?」と聞くと、聞くたびにふえているんです。この集団の話を聞いたら、高齢者が入らずにはいられないそうです。やっと居場所を見つけたということで、高齢化社会に新しい希望を与えるものとして、三鷹の取り組みというのは極めて注目すべきところではないかなと思います。
 とりあえず、雑談でしたけれども、最近感じていることをお話し申し上げたということであります。



フリーディスカッション

藤山(司会)
 先生、どうもありがとうございました。
 それでは、残りの時間でご質問を受けたいと思います。
吉村(三井不動産(株))
 ちょっとやぼったい質問かもしれません。
 非常に興味深いお話を伺いました。特に自治体の方が営業マンのような働きをしておられる、非常におもしろいと思いました。ちまたでいわれておりますグローバル競争、あるいは基本的には直接投資によって世界的に技術移転が起きて、中国でも、テレビでも自動車でも何でもできるようになった。そういうようなことの中で、地方都市の、今までの産業が難しくなっていろいろな問題が起きているということ。もう1つ内需関連では、高齢化とか、そういうようなこと。グローバル競争みたいなことと国内の変化みたいなこと、いろいろあると思いますが、先生が今お話しになられた事柄の、根底というんですか、産業という言葉で語られたと思いますが、何を生産するのかというか、そういう部分の肝になる、1つには国際競争力、あるいは内需の創造とかいうのかなと思うんですが、その種というか、肝というか、元というのはどこに求めたらよろしいものかという質問をさせていただきます。

  私も1970年ぐらいから15年ぐらい、ずっと日本とアジアの現場をやっていまして、85年ぐらいまでというのは物すごく盛り上がっていましたね。日本の製造業の現場に行くと、皆さん気合い充実でした。まさに日本は中小企業とか製造業でもっているということを実感させられる毎日ですね。ところが、85年を過ぎたら、全く別の国ですね。85年を境にして日本は別の国になってしまったというふうに思うんです。
 この前半の70から85は何でそんなに盛り上がっていたかというと、理由は2つありまして、1つはオイルショック、ニクソンショックとか、いろいろありました。国際経済情勢というのがこのころから起こって、今までは固定相場制でアメリカだけ見ればよかったという国でしたが、どうもそうはいかなくなった。これからは自分のことは自分でやらなきゃいけないとプレッシャーがかかりまして、経営者は非常に緊張感を高めた。これが1つあります。
 2つ目が、ちょうどこのころに技術革新が現場に非常に普及してきた。特にマシニングセンターとか、NC旋盤、ああいうものはこの時期に大量に安く入るようになってきたということで、それを入れないと、やっていけない。みんな小さい企業でも何億円も投資して、借金して入れた。国際経済情勢と技術革新が重なってきたのがこのころなんです。それにどう立ち向かうかというはっきりした課題がありました。15年頑張って、85年のころにはある種の達成感があった。当時何がいわれていたかというと、日本の製造業は世界一だとうぬぼれましたでしょう。達成感ですよ。だけど、確実にここで15歳年を重ねたということですから、達成感と疲労感がここで出ちゃった。それ以後どうしていいかわからない状況が続いている、こういうことではないかなと思うんです。それで、我々の置かれている前提が85年を境にして大きく変わってきたと思います。
 85年以前というのは対外的には対米依存ですね。アメリカの傘の下。これが基本でした。アメリカの背中だけ見ていればいい。今でもやっぱり、この前の9.11とか、イラク戦争を見ていてわかるんですけれども、何だ、日本は相変わらずアメリカの植民地かと思わざるを得ない。だけど、アメリカだけというわけにいかない。明らかにアジア、中国という存在が大きなものになってきたということです。対米関係だけでなくて、アジア、中国との新たな関係という中で、日本国とか日本企業、日本人個々が自分の位置を明確にしなければならない問題になってきたということです。
 国内的にも変わったと思います。国内的には、以前は、どちらかというと日本人はみんな若かった、ちょっと貧しい、こういう時代でした。今はどうかというと、今はみんな高齢なんです。高齢で、住宅を除けば世界一豊かという感じに変わってきました。だから、かつてのように若くて貧しいから、アメリカだけ見て頑張ればいいという枠組みではないわけです。非常に難しいいろんな要素が入ってきている。
 これにさらに、ITは当たり前、環境問題、これも当たり前であるということですから、我々は少なくともこの4つぐらいの要素が複雑に絡み合った連立方程式を自分なりに解かなきゃいけない。今まではただ頑張ってアメリカだけ見ていればいい、極めてシンプルだったけれども、今は複雑な連立方程式です。しかも、これは世界に例がないときている。日本人は例があると楽なんですけれども、自分でやらなきゃいけない。ある意味では我々が初めて創造力を問われているところですから、こういうことに挑戦的になれるかどうかということが極めて重要と思われます。
 こういう枠組みの中で、先ほどのご質問にあったグローバル化の中でどうするのという話です。私はまず、1つは、今の状況からしますと、いろんな方がご相談に来られるんですけれども、いつもこういうふうに対応しています。いろいろな話の中で、その方のやっているお仕事が、国際競争と深くかかわりを持つかどうかということをまず判断します。どっちかというとコスト競争ですね。それに深くかかわり合う仕事なのかどうかということをまず確認する。もしそういうふうに、コスト競争力、国際競争が非常に重要な要素になっている企業に対しては、今どき、日本だけでやっていたら、確実に死にますと。少なくとも中国、アジアを含めた形でビジネスを立て直していかないと、生き残れっこありません。無理です。今は日本はゆでガエル状況で、みんな縮んでますから、自分も縮んでいるけど、彼も縮んでいる。彼も縮んでいるから平気なんだけど、あるところに行ったら、全部ストンと落ちるということで、縮んで我慢しているというわけにはいかない。むしろ果敢にアジア、中国との関係をどうしていくのかということを考えないと、事業展開上重要だというものについては、少なくともアジア、中国規模で事業を組み立てなさいということを申し上げます。
 やり方はいっぱいあります。直接投資もあれば、委託加工もあれば、いろいろあるでしょう。それはそれぞれの状況の中で考えたらいかがですかと申し上げています。
 そういうふうに国際競争が非常に重要な要素になっている場合はそうですけれども大半の企業はこんなことなかなかできないですから、特に中小企業で、対アジアで仕事したらなんてのは無理ですよ。だったらどうすればいいのかというと、国際競争から無縁の世界を探すしかない。国際競争が基本的な条件の場合には、とにかくアジア規模で仕事をしないとだめですよ。それが嫌だったら、国際競争とは無縁な領域を探しなさいというふうに指導します。
 じゃ、どういうのがあるんですかといわれるから、できっこないけれども、オンリーワンはどうですかというんです。オンリーワン、簡単に皆さんおっしゃるけど、とてもじゃないけど、難しいですね。やれるところは100分の1ぐらい。でも、それはぜひ目指してほしいと思います。うちしかできなきゃ、それは何とでもなるわけですから。そういう企業はたまにあります。
 そういうと、ハイテクですかというんですが、ハイテクの方が危ないですよ。ハイテクの方はすぐ追跡される。それよりも人々の忍耐と努力の積み重ねのアナログの方がいいですよ。こういうローテクの方が意外と持つ。だから、ハイテクかローテクかの問題ではない。いずれにしても、うちしかできないというオンリーワンを目指すというのが1つのあり方です。ただし、これも極めて難しいということです。
 じゃ、どうすればいいのかということになると、やはり国際競争と無縁な世界だということです。じゃ、どこでやるかというと、それは私は自分の身の周りを選んだらどうですかというんです。私たち自身の身の周りのところに新しい事業の可能性を見出す必要があるんじゃないですかと申し上げています。
 というのは、我が国は、これまでは外貨獲得、対米輸出。外貨獲得が至上命題で、日本人すべてがアメリカにベクトルを向けてとにかく必死に頑張ったという時代でした。そのころ、じゃ、我々の身の周りの生活についてはちょっと我慢しておけ、成功してからやるんだから、おまえら、少し我慢せいやということで、実はひょっとしたら、自分たちの周りものをきちんとやってきてない、というふうに考えるべきだと思うんです。むしろそこは残っている。むしろこれから高齢社会になれば、もっと重要になってくるという領域がある。
 そういうところに我々はもっと目を向けるべきではないか。特に中小企業は地域的な存在です。中小企業は地域とともにいる。だから、地域の身の周りのことが一番よくわかるのは中小企業じゃないですか。そういうところに関心を寄せることが重要なんじゃないでしょうかと申し上げています。
 そうすると、もう少し具体的にどういう事業でしょうかねなんておっしゃる方がいます。本当はそれは自分で考えてほしいですが、私なりに考えて、何かというと、多分まず食べることに関連する。これもまだ未踏の領域がいっぱいあるでしょう。私にはよくわかりませんが、多分未踏の領域がいっぱいある。これに関連するものが意外とお粗末だということです。
 それから、住まうこと。これなんか最悪でしょう。ハウスメーカーのパッケージされたやつを選ぶだけですから。自分のあれなんか全くないし、またいろいろ空間のつくり方なんて違うはずなのに、どうもワンパターンで押しつけられているということで、納得できる住まい方ができてない。ここにも可能性がある。
 それから、いい環境で生きるというのが大切なんですね。いい環境で生きるために何かあるでしょう。
 それから、自分が高齢者になって不安のない人生を送りたいという意味での福祉というのが当然ある。
 この食、住、環というあたり、これはすべて自分たちの身の周りの話だということです。ここに新しい可能性を模索するしかないんじゃないかと思えるんです。
 そんな話をしたら、あるとき質問が出まして、「私のところはハウスメーカーです。先生のいう住ですから、うちは大丈夫ですね」とおっしゃる方がいたわけです。「えっ私はそんな話をしましたか。そういう発想が一番危ないですよ」(笑)。
 全く別の角度から入るしかないですね。それは我々自身がこれから考えなきゃいけないことだ。今まではそういうことを考える役は欧米だったので、我々は考えたことがないんだけれども初めて我々自身が、本当に豊かに生きるためにどうするべきかということを考えなきゃならないし、考えるチャンスが来たということで、それに可能性を感じられるかどうかということが、今後重要なポイントではないかなと思います。
 ぜひそういう領域に新しい可能性をご自分自身が感じられて、一歩踏み込むということが必要なんじゃないかなと私は思います。
海老塚(国際建設技術協会)
 都市基盤整備公団から今あるところに出向しております海老塚といいます。
 たまたま私、今イギリスとかアメリカの先進国の住宅問題とか、あわせて開発途上国のアジアを中心に住宅問題の研究をしています。産業立地については専門外なんですが、私、今アジアのバンコクとかマニラの住宅問題、スラムとかそういうことを研究しています。本当はタイにしてもフィリピンにしても、地方に産業が立地して、大都市集中が起きないと私の仕事はなくなっちゃうんですけれども、問題解決になるんですね。
 だけど、残念ながら、今までの流れを見ていますと、バンコクにしてもマニラにしましても、なかなか均衡ある国土の発展ということができなくて、どうしても富を求めて大都市に集中してくるという感じを持ちまして、私、日本もそうじゃないかと思っていましたが、先生のお話を聞きますと、むしろ地方で今動きがある、起業家精神のあることが起きているということです。それは日本だけではなくて、タイですとかフィリピン、アジアの通常は、プライムシティ、首座都市といいますが、大都市に集中してくる傾向に対して、今地方に産業が立地する動きが始まっているというふうに理解してよろしいんでしょうか。

 恐らく途上国の場合にはそういう段階ではないですね。日本の最近の状況をちょっと申し上げますと、例えば、私のメインのフィールドは京浜工業地帯なんです。近いということがありますから。だけど、今京浜地区の工場に行くと、あったはずの工場がないんですよ。3K色の強い順番でなくなっています。一番最初になくなるのが鍛造、鋳物、熱処理、大物精加、大物機械加工、順番が決まっているんです。久しぶりに遊びに行くといない。駐車場になっている。「あれっ」と思って、残っているところに入っていくと、今50以下の人はほとんどいないんです。20代、30代はまず見ることがない。平均年齢は50を超えているという状況です。息子が継がないというのもやめる原因ですけれども、従業員が集まらないというのがもう1つの原因なんです。
 そこで、「どうなっているの」と聞くことになるんです。こういうことなんです。今首都圏で「普農商工」。昔は「士農工商」でしょう。現代の首都圏は「普農商工」があるんです。この言葉は差別用語だから、本に書いたら怒られました。ですから、本から削除されました。この方が一番わかりやすいです。これは何かというと、中学から高校へ行くときの偏差値の話なんです。今どき、よっぽど変わり者でない限り高校に行きますから、ほとんど全員行くわけです。特に、神奈川県というのがこういう問題について一番厳しくやっていまして、きちんと学校の先生が偏差値で配分してくるんです。
 そうしますと、まず上から順番に普通校に行くんです。2番目が農業高校です。これは首都圏の場合ですよ。こういうのを聞くと、日本の農業も将来が明るいと思ったら、大間違いです。行く子は何かといったら、ガーデニングなんです。農業じゃないんです。ガーデニングの方に行くんです。これは行きたい子がいっぱいいますから、農業高校は意外と人気があるんです。東京の府中の都立農業高校なんて、すごい人気ですよ。そういうことで、農業高校までは行きたい子がいます、首都圏の場合。地方は違います。
 その次が商業高校なんです。商業高校は女の子がいっぱい行きますから、そんなにすごいことになりません。せいぜい茶髪とルーズソックスと、もう一歩踏み込むと援助交際。大したことはないですね。
 問題はここなんです。工業高校。これは中学のときに暴れてどうにもならない子たちの収容所なんです。悲しいぐらいそうなんです。工業高校に行きたくて行っている子はまずいなくなっちゃった。これは我々の責任なんです。製造業をやってここまで来た日本が製造業をばかにし過ぎたでしょう。特にTV局などのマスコミが3Kとか、まじめに働くことをばかにしたでしょう。こういうところにだれも行かないです。
 この前電車の中でおもしろい話を聞いたんです。八王子から横浜に横浜線で行こうと思ったんです。夕方。八王子から乗って橋本のあたりでワッと乗ってくるんです。工業高校生が2人私の前に立ちました。寝てたんですけれども、ああいう環状線は出入りが多いからすぐ目が覚めますね。放射状の線は少しずつ減っていくだけだけど、ああいう環状線は乗っている人が全部おりてまた乗ってくる。目が覚めちゃった。彼らが話しているのを聞いていて、余りのおもしろさについつい聞きほれちゃったんです。
 どういう話かというと、多分2人とも工業高校の3年生で、片方が「卒業だけはしようよな」とかいうから、こいつらなかなかだな。「そうだよな」とかいっている。こいつらなかなかまじめだなと。その後がふるっていました。「おめえ、デーゲク行くのかよ」。大学行くのかと聞くわけです。片方が「いや、受かるわけねえよ」「そうだよな。じゃ、就職か」「そうだな。工場だけは行きたくねえよな」「そうだよな。どうすんだよ。専門か」「そう、専門だ」。専門学校に行くというんですね。「おまえ、専門、どこに行くんだ」「美容だよ」といったら、片方が「おれも美容だよ」。こういう格好になっていまして、今、首都圏は惨憺たるものなんです。
 人がいなきゃ事業なんか成り立たない。そうでしょう。こういう人たちが工場に来ないんです。全然来ません。
 地方の工業高校はいいんです。よくいわれるんですけれども、遠くになればなるほどまともだといわれている。明らかにそうです。全くそうなんです。私は見てて、調査しているんですが、山形あたりが一番いいですね。あのあたりの工業高校生が一番まともです。
 ということで、地方の工業高校の子をとるでしょう。なかなかいいですよ。首都圏とはえらい違いだということでほっとします。3年、5年、10年と育てていって、これでうちの現場の柱になるなと思うでしょう。ところが、その後が大変なんですね。今って、昔と違って長男、長女でしょう。東京の場合は大体東北から来る。山形あたりは雪が深い。10年たつとおやじも10年年とっている。田舎に若い人がいませんから、1日に1メートルの雪が降ると雪おろしをしなきゃいけない。去年と同じつもりでおやじが屋根に上っても、1歳年とっているから、フラッとバランスを崩して落っこって、腰を打って入院、よくある話です。そうすると、お母さんから彼に電話がある。「お父さんが屋根から落っこって腰を痛めて入院しているから、おまえそろそろ引き揚げてこっち来ないか。家もあるし、戻ってくれたら車買ってやっから」ということになると、みんな戻るんです。だから、幾ら首都圏の工場が頑張って人をつくってもだめ。人の問題からだめになってきている、こういう問題があります。
 要は、日本は今は長男長女社会だということです。だから、昔みたいに農家の次三男が田舎で食えないで東京に出てきたというのと全く違うんです。東京に出てきたって、東京の女と5年ぐらいつき合いたいな、それはよくわかるから、それはいいけれども、男は確実に戻る。戻りたいということで戻るということだから、むしろ今は地方の方に人材がいるんです。あるいは潜在的にいます。
 昔は工場立地、どこに工場をつくるのが一番いいかというのは、特殊な条件を除きますと、輸送費が一番かからないところに行っていた。例えば、原料がこんなにでかくて重い、製品はこんなになっちゃう。さて、どこに工場を置きましょうか。それは原産地に置いて、そこで小さくして運びなさい。これが工場立地論です。シンプルにいいますと。
 だけど、今どきそんなものはどうでもいいですよ。輸送費なんか問題ではない。今はどういうことかというと、人の問題なんです。人という字はこういう字を書くんですね。靴をはいています。歩けるというのが1つ。今までは県道の下に工場を構えて「おまえら、こっち来いや」という、人は移動できるということが前提に組まれていました。だけど、日本は年々人が動けなくなっています。もう全然動かないです。地方に戻っちゃう。だから、今は人のいる方に向かって工場が行くしかない、だから、日本は今は、事業所が人材立地の時代です。もう輸送立地じゃないんです。人材のいるところにこっちから事業所は向かっていかなければ事業自体が成り立たない、こういう時代に入ってきているということではないかなと思うんです。
 こうやって見ますと、じゃ、地域振興にとって何が一番重要かといったら、もう明らかに人材養成しかないです。我が町は将来どういうふうにしたいのかといったら、それに見合った人材を育成するしかこの町の将来はない。これを誤ったらいけない。人材って、物すごく時間がかかります。だけど、それしかもう手はない。だって、日本には人材以外の資産はなさそうですから。これしかないということになります。
 この問題で一番私が手がけているのは、さっきの山形県の長井なんです。日本は、地方小都市はことごとく企業城下町なんです。皆さん、企業城下町というと、室蘭の鉄鋼とか、釜石の鉄だとか、古典的な城下町をイメージするでしょう。ああいうのは工場が来てから町が形成されましたから、見てすぐわかる。ところが、日本の地方小都市は、実は今ことごとく企業城下町なんです。
 例えば、山形県長井市、3大散居の1つだということで、いいところですね。行かれると本当に美しい田んぼが広がっています。川が流れていまして、駅を中心に集落が形成されていて、遠くを見ると青い山脈と、イメージどおりです。電車をおりて市役所に行って、「統計見せてくださいよ」と、見て愕然とする。こんなに田んぼばっかりなのに、GDPにおける1次産業の比重って、2%ぐらいなんです。今どき地方小都市で3万人以上のところで、農業、第1次産業が10%を超えているところを探す方が難しい。みんな2%、3%なんです。こんなにほとんど田んぼなのに。何が多いかと思って見ると、建設業はもちろん多いですね。意外と製造業があるんです。製造業が3割ぐらい。だけど、工場は見えない。私はプロだから、わかりますよ。どこに行けばいいかといったら、一番条件の悪い場所、河川敷とか、そういうところに行けばある。
 要は、そんな形で、どこの市町村もこの30年の間、飯を食うために誘致企業を入れているんです。大体人口3万人のところで、外に提供できる労働力は2000人位です。1社で2000人使われちゃったら、あと入れない。500人だったら4つぐらいというパターンです。
 そんなことで、この長井も全くそのパターンです。ところが、そのお殿様が「帰れ」というわけです。ごく普通のパターン、日本じゅうどこでも起こっていること。それでどうしましょうかとえらい騒ぎになって、今5〜6年やっています。いろいろ見ていたら、結局ここに長井工業高校という高校があるんです。これしかこの町の資産はないということがわかった。この高校生たちが東京から工場を連れてきているケースが結構あるんです。どういうことかというと、同じ高校から同じ企業にいっぱい行っている。彼らが10年たつと戻ってくるでしょう。だから、工場も追いかけてくるしかないですよ。だから、私は長井工業高校の校長にはっきりいった。「この町はこの高校が一番の資産だから、市の産業課とじっくり話し合って、欲しいと思った企業に毎年人を入れなさい。10年後にはそれをしょって帰ってくる」。
 そのとらの子の高校が、廃校になるというんです。皆さん、ご存じかどうか知りませんけれども、子供が減っているもんだから、数合わせで教育部局は高校半減、特に専門高校半減です。例えば東京都の場合は、都立の工業高校が28校あるんです。これを数年中に14校にするんです。これは要するに教育畑の数合わせ。これに対して産業界が何もいってないのはどういうことかと思います。我々がこれだけ工業高校を荒廃させておきながら、この先日本はどうやって生きるのかという議論の中に、工業高校とか専門高校が重要なんですけれども、そういう議論は全くしないままに数合わせで減らすことを放置しているというのが現実です。私はクレームつけているんですけれども。
 この山形の場合、この長井高校は廃校だということになった。で、みんな何もいわない。これはまずいので、「よく考えてみなさい。この町の財産はこれしかないのに放っておいていいの」ということで、それで初めて気がついて、反対運動を始めたんです。これまた大時代的な名前で山形県立長井工業高等学校建設促進期成同盟会。周辺の町村もかかわってくれて大反対で、むしろ旗立てて、県庁に乗り込んだら、県庁もあきれて、そんなにいうんだったら残そうということで残すことになった。もう建って35年もたっていますから、ぼろぼろですので、建てかえもあわせて要請したら、県も折れまして、それで去年竣工しました。
 そのときに、入れ物は何とか獲得したけれども、問題は、これはオールジャパンの問題だけれども、高校生が自信を失っている、希望を失っているのはなぜかというと、親が見捨てているからですよ。子供が工業高校に行くと親がもうあきらめちゃうんです。親から関心持たれない。しかも、町の経営者としても関心を持たない。だれからも関心を持たれない子たちは希望を失います。これはよくない。まずいということで、地元の経営者はほとんどこの高校の卒業生なんです。「最近のやつらは」とかいっている。これが問題なのです。「あなた達が彼らに一声かけなきゃ、だれが声かけてやるのか」ということで、高校を再建するときに、みんなで測定器を寄贈しなさい。会社で測定器なんて毎日使うわけじゃでしょう。月に一遍しか使わないやつがいっぱいあるじゃないですか。そういう足りないものを買いそろえて、工業高校にそれを寄贈しなさい。測定室を寄贈したらどうですか。それを高校生に使ってもらう。そして、企業自身も校門を入って、それを使うという関係にしたらどうですかということを進めていって、なかなかいい関係になってきまして、今、長井工業高校の倍率が1.3倍になっています。こういうのは全国に例がないんですよ。ほとんど定員割れしているんだから。ここは1.3倍。来たい子がふえてきた。少し希望が出てきたということです。
 要するに、人が財産であり、工業高校みたいなものがその地域にとっての大きな資産であるということをやっと理解できた。この種の問題では、この長井というのが日本で一番成功しているといわれているということです。
 ですから、今のご質問、回答が非常に迂遠な形でありましたけれども、日本はそういう状況にあるということじゃないかなと思います。
藤山(司会)
 ありがとうございました。
 それでは、お時間も過ぎてまいりましたので、本日のフォーラムはこれにて終了したいと思います。
 本日は、関先生に、ちょっと演題の方が変わりましたけれども、地方都市の産業政策についてお話しいただきました。先生、どうもありがとうございました。(拍手)


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