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第188回都市経営フォーラム

日本の伝統文化の再生と地域づくり

講師:セーラ・マリ・カミングス 氏

桝一市村酒造場取締役

日付:2003年8月21日(木)
場所:後楽国際ビルディング大ホール

 

北斎

桝一プロジェクト

小布施ッション

さまざまな発展へ

フリーディスカッション




 こんにちは。(拍手)
 ご紹介いただきましたセーラ・マリ・カミングスと申します。どうぞよろしくお願いいたします。
 お盆明けにお集まりの皆さん、この話を聞きに来ていただきまして、ありがとうございます。また、きょうの人数は思っていたよりも多くて、ちょっと資料が足りないかもしれません。申しわけありませんでした。
 実は、お盆の間、アメリカに帰っていました。ニューヨークで8月10日に松井さんとイチローさんの2人、ヤンキースとマリナーズの試合を見に行ってから、実家のペンシルベニアに帰りました。
 きのうの夜10時ごろに日本に帰ってきましたので、まだ時差ぼけが若干あるかもしれませんが、よろしくお願いします。
 皆さんは、ニュースを見ていてご存知だと思いますが、先週、東海岸の停電が大変な問題になりまして、いま、どれだけ電気に頼った生活になっているか、改めて実感できました。電気だけではなく、水も電気のポンプによってアメリカでは運転されているので、停電になると、水まで心配しなければならないという状況です。まちづくりを考えるときに、ただきれいな町にするというより、もっと過ごしやすい町にするとか、また、最低限の生きるための安全性とか、セキュリティー、お互いにつながっていることの重要性を改めて今回は実感しました。
 アメリカではいろいろなテロのおそれが常にあるわけです。また、同じような停電がいつ起こっても不思議でないことになっています。21世紀、こうした状況の中で生きていく道を見つけなければならないんですが、私にとって、この世の中に生きることは、やはり今住んでいる小さな町の、ふるさとの心の重要性を強く感じます。
 地方もどんどんと都会化してきて、つながってもいいものが、別々になって、自分さえよければいいみたいな感覚でいる人がたくさんいます。でも、本当に自分のためになるためには、やっぱり周りがよくなって初めて、全体的につながるわけです。全体がよくなって初めて、自分たちが暮らしやすいところにもなると思っています。そもそも日本の伝統的な町、あるいは伝統的な企業では、やはり周りのために自分たちがいるんだということが、強く伝えられてきたことでもあると思います。
 今勤めている会社は、社長が17代目になります。10代の人もいれば、80歳代の人も勤めていますので、1世紀ぐらいのスパンの経験を重ねてきた、いろいろな角度、同じ日本人でも同じとはいえない考えを持っている人達が、会社の中でも1つのコミュニティーのようになっているわけです。



 私は、長野オリンピックの開催にあわせて、長野に就職した後に、元の上司に紹介していただいたおかげで、今の会社に9年前から勤めることになりました。
 自分がわざわざ日本にやってきたのも、こうした島国に何百年も何千年も続いてきた文化、歴史、ライフスタイル、生き方そのものにあこがれてでしたが、その知恵、その考え方、今の生活に合った楽しみ方など、どんどん新しい提案がないと、せっかくいいものがあっても続けられなくなってしまいます。自分が見つけたかった日本を長野の小布施に見つけたんですが、せっかく最近まで続いたにしても、黙っていると簡単に消えてしまうものもたくさんあるので、自分自身の務めとして、見つけたかった日本をもっと生かしたい。死んだ文化にしないで、どうやったら生き生きとしたものにしていけるのかを、常に日々の生活、暮らしの中でも、仕事の中でも考えています。
 今着ているこのコートも、藍染めのコートです。「桝一市村酒造場」と書いてありまして、後ろに桝一の紋があります。こうたものも昔から酒屋にあったように見えるだけで、実は新しいものです。こうしたコートを持っている酒屋は桝一だけなんです。こうしたものも、あっても不思議ではないけれども、なかったものです。でも、自分たちが意識的に選択することによって、こうしたものが生き残るか、生き残らないのかの違いになってくると思います。
 やっぱり和文化というのは1つの輪で、全部つながっているわけです。でも、残念ながら、部分的にはちゃんと残っていても、全体的に動いてないというか、つながってないことによって、消えそうなものがたくさんあるんです。でも、うまくその点と点とをつないでいけば、何とか、あまりたくさんはできないかもしれないけど、仮に1%だけでも残っても、ゼロよりもましだというふうに思っています。
 きょうは暑いですので、もっとも情熱が熱いものですから。(笑)このコートはちょっと脱ぎます。
 こうした半てんにしても、最初に頼んだ値段は、もちろん高いものです。普通のカタログで注文できるものより高いんですが、ただ長く使って、洗っているうちにどんどんとよくなっていくものです。私があこがれている日本は、値段とか、今高いか安いかの判断よりも、よいものでそれなりの価値があれば、何とかそういうものも生かしていけるようにしていきたいと思います。



北斎

 パワーポイントのプレゼンテーションをお見せしながら話をしたいと思います。
 きょうのテーマは、「日本の伝統文化の再生と地域づくり」ということです。伝統文化の再生と地域づくりはつながっていますので、1つの背骨のような、1つの町の基本になると思います。
(図―1)
 私達の小布施の町で、江戸時代に北斎がこの波を描きました。この波は、今北斎館にある祭屋台の天井絵です。こうしたすばらしいものは、江戸時代に小布施が豊かだったからできたのかというと、そうでもないわけです。そのときでも、実力以上に江戸時代に生きた小布施人が一生懸命頑張って生きてきたからこそ、こんなすてきなものが残っているわけです。
 特徴としては、やはり祭屋台の天井絵として描かれたものは、1人で楽しむものではなくて、みんなで楽しむもの、早い時代のパブリックアートの概念でもあるというふうに思っています。このほかに、岩松院というお寺の本堂の天井絵も、鳳凰を描いたり、それは今の勤めている会社の5代前のトップが寄付したものです。寄付したものは、民間が自分たちの住んでいる町に常に貢献し続けるのは、今風でいえば、コーポレート・シティズンという言葉がキーワードだと思います。コーポレート・シティズン、会社も一住民であるということを、昔の会社がむしろ、日本のやり方ではまさにそのとおりの考え方だったと思います。
 なぜか戦後の考え方は利益中心になって、短期間の目先になってしまった。いま、幸せなことに、長い歴史のある会社に勤めていますので、もっと長い目で、長い将来のために考えて頑張っていけるんです。
 こうした作品は常に励みになっています。自分たちは北斎と同じようになることはできませんが、自分たちなりの頑張り、それに負けないものはできると思っています。それぞれの時代の波がありますから、今の時代の波は自分たちでつくろうと思っています。自分たちの努力で何を将来に報えるか、あるいは我々の世代は何を次の子供の世代に伝えていくのか、頑張っていきたいと思っています。
 (図―2)
 北斎は亡くなってから150年以上はたっていますが、今でも世界じゅうの1つのかけ橋的な存在でもあります。北斎の浮世絵にある傘をオリンピックに向けて、蛇の目傘を五輪の色でつくったんです。今でもそのデザインが生き生きとしたものだと思います。
 どうしてこの話をするのかと思うかもしれませんが、私にとっては、この傘を提案したときは、会社も職人も両方反対して、「ノー、できません、無理だ」といっていました。でも、本気でやりたかったら、無理なことは世の中にあまりないことだと思います。できないというのは、したくない証拠だと思ったので、30人ぐらいの傘職人に、「ぜひ、オリンピックに向けて日本の職人の腕を世界に見せたいので、傘をつくってくれませんか」とお願いしたら、「本当につくりたかったら、中国でつくりなさい」といわれました。中国のオリンピックは2008年にやるので、そのときでよろしいというんですが、日本の顔になる長野オリンピックのときに、やっぱり日本の職人の腕のよさを見せたいと思いました。こうしたことは、北斎の作品がインスピレーションになったんです。
 何度も何度もお願いして、断ることの方がつくることより大変なことに気づいたら、「わかりました。やります」ということになりました。(笑)粘り強さによって粘り勝ちということは、多分どんな仕事でも大切なことであると思います。
 いろいろの壁がありますが、最初の壁に当たったときにあきらめてしまって、もう少し頑張って押し続ければできたことが、できなくなるのはもったいないということなんです。



 オリンピックが終わった後に、国際北斎会議を小布施で開催しましょうということになりました。第1回と第2回は90年と94年にイタリアで開催されていました。せっかく北斎が日本で活躍したのに、日本で1回も開催してなかった。イタリアに1995年に行きまして、90年と94年と98年と、オリンピックと同じ4年ごとにやるのであれば、北斎のゆかりの町小布施でぜひ開催したいということで、世界じゅうのいろいろな教授の許可を得て、オリンピックが終わった後に開催することになりました。
 このように、国際北斎会議は、せっかくオリンピックが日本で開催されるのであれば、単にスポーツ競技だけではなく、もっと文化の交流がそこを出発点、スタートとして始められて、同じ共通の興味を持つところが、1回だけではなく、何度も続けられる継続性のある交流が誕生できるのではないかと思ったんです。1つの祭が終わると寂しくなるので、その次の楽しみが必要だと思ったんです。
 オリンピックを開催することによって新幹線もできたし、道路もできたし、飛行場も、ちょっと中途半端なんですけれども、一応少しだけ広くなって、人間のインフラは充実されてきたので、オリンピックの前だったら国際北斎会議を小布施で開催することはちょっと無理なことだったかもしれないけれども、それだけの経験が重なった上であったら十分にできるということでした。
 北斎の人気が150年以上たっても高いというのは、90歳までずっと絵を描き続けてきたという、1つのものをマスターして、それだけで満足しないで、どんどんとチャレンジ精神を持って、いろいろなことに取り組んで、独自のスタイルを考えて描いてきたところが、北斎の人気の秘密でもあると思います。
 なぜ小布施にひかれたのかと考えたときに、日本酒は大きなきっかけにはなったと思うんですが、日本酒だけではなくて、日本のつくり酒屋の旦那文化にやはりひかれたと思います。日本の旦那文化は、自分の世界だけではなく、いろいろな業界を越えた方とのつながりを持って、お互いにぶつけ合うことによってお互いに磨き続けてきた。そこに行くと刺激したり受けたり、そうした刺激的な場所であったというふうに思っています。



桝一プロジェクト

(図―3)
 この「酒」の原絵は、江戸時代の終わりごろの絵です。昔の浮世絵にはいろいろな隠し絵が入っていますが、この絵にも隠し絵を入れています。実際に会社に行くと店の入り口のところに、4メートル掛ける2.7メートルの大きな絵があります。江戸時代の掛け軸をそのまま掛けるわけにいかないので、拡大して今の店にあります。小さいと見えないものが、大きくなると見えてくるものがたくさんあるので、いろいろな隠し絵を入れておきました。
 よく見ると、曲尺を持っているのは、建設の大工です。一番の特徴としてユーモアがあるんです。楽しさがある。実際に仕事をしながら、それなりのみんなの役割を持ちながら、ユーモアがあり、楽しさがあると思っています。「酒」の字の「さんずい」の下の部分がいつまでたっても運べないというのは、常に未完成であることを意味するので、完成することはない、常にそのプロセスを楽しもう。そのプロセスが一番大事というふうにこの絵を見て思っています。



 自分たちの原点はどこにあるかを考えたときに、桝一の江戸時代の屋号、「□」の下に「一」を付ける形は、たまたまスクウェア・ワンに見えるので、「スクウェア・ワン」という名前をつけました。英語のスクウェア・ワンの意味は、最初の状況に戻るか、あるいは原点に返る振り出しなどの意味があります。英語で「Let's go back to Square one 」というのは、振り出しに返るとか、あるいは出発点、再出発の場合も、スクウェア・ワンです。
 そもそも今勤めている会社、小布施堂は栗菓子をつくって、桝一は日本酒をつくっています。両方はいずれも、生活の上では不可欠のものではありません。日本酒を飲まなくても生きられる、お菓子も食べなくても生きられますが、あった方が生活が楽しくなる、充実した日々を過ごす。代々伝わってきた食文化、仲間と一緒においしく日々を味わいながら生きるということが、シンプルなことではありますが、ぜいたくなことでもあるわけです。
(図―4)
 こうした寄り付き料理というのは、造り酒屋で4 人の蔵人だけしか楽しめなかったものです。これだけのおいしいもの、いい雰囲気があるのに、少ない人数しか楽しめないのはもったいない。大正ロマンのときに、桝一市村酒造場に倶楽部がありました。早い時代に、英語が入ってきて間もなく倶楽部という名前をつけて、酒屋の一部を、若者の遊び場、スライドを見せたりする、交流の場所としました。
 こうした文化、せっかく桝一にしかないものがあるのですから、そのものがわずか4人の蔵人しか楽しめないことにしないで、もっと地域に分かち合う。いいことだったら分かち合えた方がいい。大変なことだったら、自分で抱えておくことですが、いいことはみんなと分かち合えた方がいい。
(図―5)
 そこで、桝一の蔵の一部を、「蔵部(くらぶ)」という名前をつけて、オリンピックが終わった後、1998年10月1日、日本酒の日に、この形でオープンしました。
(図―6)
 この部屋は「座敷」と呼んでいます。座敷がいすになっているところはあまりないかもしれません。私自身、正座は40分ぐらいはできるんですが、日本にいながら、家族連れ、あるいは友達同士でどこか旅に行きたいと思うと、ゆっくりとエンジョイできないのは和食なんです、不思議と。日本にいながらもイタリア料理なら、だれも足を痛い思いしなくても済むんですけど、日本の場合は極端なんですね。居酒屋になるか、料亭になるか、その間のもっと普通の日常的にあきが来ない料理を皆と分かち合って楽しむ場所は意外とない。
 こんな形で気楽にだれでも楽しめるような形になっています。ここの壁はしっくいです。このしっくいの色は、中庭にある土が混じっているので、その場所でなければこの色にはならないわけです。小布施だからこそ、こういうものができるんです。
(図―7)
 この場所が入り口です。「矢場」と呼んでいます。元社長が弓道の練習場としてこの長細いところを使っていました。今の時代に合った新しい、キューピッドでもないんですけど、ロマンチックディナーができる場所であってほしいということで、2人だけのロマンチックディナーがアロールームみたいな形になっています。
(図―8)
 でも、こうした形でもっと皆さんと分かち合える時間が欲しい人のための場があります。カウンターと呼ばないで、「寄り付き」と呼んでいます。蔵人が分かち合える場所を寄り付きといいますが、その場所は通常一杯飲む場所でもあるし、休むところでもあるし、会合する場所でもあるし、食事するところでもあるんです。こうした台所に入って食事できるような形で、非常に親しみやすい距離感になっていると思います。
 日本人にとっても、戦後の酒屋が閉じたような形になって、日本人にとっても壁がたくさんあったところが、もう一度開かれて、完全にオープンになっているんです。一方通行の会話ではなくて、もっとインタラクティブに楽しめる場所が必要だと思ったんです。
 レストランをつくったときに、1つの大きな問題が、どうやって後継者を育てるのかでした。若い蔵人は1人もいませんでした。でも、キビキビとした仕事ができる場所ができれば、それなりに若い人が入りたくなって、今20人ぐらいの若い人が実際勤めています。普通、蔵で働く酒づくりの人は蔵人といいますけど、今回は「蔵部」ですから、「蔵部人(くらぶびと)」というのが新しい名前です。
 それだけ若い人が蔵に入ってくることによって、一切機械化してこなかった蔵でもあるので、人の力が一番大事になっています。機械は1つの機能しか維持しないんですが、人の力は、きょうやる仕事、あしたやる仕事、あさってと、いろいろな仕事が実際にできる。昔の小布施はどうしてこういうふうにできたのか、いろいろ考えると、みんなの力を合わせて頑張ったからこそ、今があるということを改めて感じました。
 小布施では、かって、小学校もみんなの力でつくったり、あるいは図書館をみんなの力でつくったり、学校も病院も、あるいはお寺の手入れも、いろいろな形で皆の力を合わせてやったのです。



 この「蔵部」をつくるところまでは予算が足りましたが、桝一の蔵の方と店の方と、蔵人の寮のプロジェクトをやるときは、予算が足りなくなって、自分たちの高望みを低くするのか、あるいはその差をどうやって埋めるのかを考えたとき、若い人が自分の将来をこの会社に賭けるのであれば、自分たちの力で精いっぱい頑張ることによってかなりのところまでカバーできると思ったんです。
 ですから、職員が職人の道に入ることによって、自分たちの会社を自分たちの力でよくしよう。いろいろなたくさんの建物があると、日本酒をつくっているだけでは間に合わない、あるいは和菓子だけでは間に合わない。設備の管理、アフターケアも必要になります。自分たちでつくることによって、手直しも自分たちでできるようになります。アフターケアもできるような形にするのが大事です。みんなが、私も含めて大工ではありませんが、それなりの仕事をやってきました。
(図―9)
 桝一の店の方の仕事は、電気とガスと水道とこの看板以外は全部自分たちでやりました。半年も看板なしで営業しました。この看板をつくるために。それは、日本の伝統文化を生かしたものにしたい。せっかくやるのであれば、手彫りで下に10回ぐらい漆を塗って、その上に、昔の白金という酒をつくっていたので、どうしてもプラチナでやりたかったので、半年かかったんですが、できました。
 こうしたことは、昔だったら、もっと時間をかけてもいいものを選ぼうとしたのを、今はすぐできるために、こうしたことはできないことになってしまいましたが、私にとって、今の5カ月とか6カ月よりも、50年後、60年先の方が気になります。昔のいいところを生かしながら、今の新しいテクノロジーも取り入れることによって、自分たちの酒屋の独自の道を生かそうと思いました。
 事務所があったところも、事務所を完全になくして、壁も完全になくして、そこは酒づくりの季節になると、蔵人が休憩する場所でもあるんですが、入ってくるお客さんも隣に座って、質問したり、いろいろと交流ができる場所になっています。
(図―10)
 今のところは4種類の酒に絞ってやっています。「碧漪軒」と「鴻山」と「スクウェア・ワン」、それに「白金」です。全部オリジナルの瓶でつくっています。オリジナルの瓶の2つは、15年前ぐらいに500ミリでつくりました。500ミリを2人で分けると一番飲みやすい、余らない量です。こういうことは流通に乗せてないからできることなんです。今でも桝一の酒は全部直売のみでやっております。流通に乗せようとすると、お客さんにとって親切であっても、4合瓶にしてくださいとか、違ったことになってしまいますので、桝一が、独自で責任を持って頑張って、つくるだけではなくて、売るまで面倒見ないと、手が届かない時代でもあります。
 見えないところで物を売ると、だれが自分たちのお客様であるかが見えなくなってしまいますので、こうした形でオープンに開かれて、直接、ダイレクトにお客さんの声が聞ける場所があるのは非常にぜいたくなことでもあります。お互いがよりおもしろくなるし、楽しくなるし、やりがいがあります。
 「スクウェア・ワン」も陶器の瓶でつくりました。小布施で江戸時代から瀬戸物とのつながりがありますから、こうした新しい瀬戸物の瓶をつくることによって、そのまま徳利にもなるということです。
 こうしたことは、今使っている瓶をつくってくれている会社とか、陶器の会社とか、全部ダイレクトにつながりを持つことによってできることなんです。間に人が入ってしまうと、もっとこういうふうにできないでしょうかと、いろいろの提案したいと思ったときにつながらない。できたことができなくなるので、こうした形で直接つなげられるようにしています。
 また、小さな伝統的な会社が一気に人数をふやすことはできませんけど、インターネットがあることによって、かなり世界的に、あるいは全国的にもアピールができることにもなります。また、対応できるようになります。自分たちにとって、古い物を守るためにこそ、新しいテクノロジーが必要だと思っています。



 また、新しいテクノロジーだけではなく、もてなしの心が一番重要だと思います。日本人でも、和菓子にしても、例えば、お正月はこうしたものに接したい、あるいは味わいたいという気持ちを持つ人はたくさんいます。そういうところであいていなければ、すれ違ってしまいますので、1月のお正月が日本にとって一番重要な休みにもなりますので、そういうときこそ、思い入れのある日本酒があれば、もっとこれからつながっていけると思います。
 それで、2年前から、1月1日に、餅つきを「餅ベーション」という名前をつけて、ただで餅をつくって、来る人に配っています。甘酒もつくります。こうしたイベントを始めたときは小布施はどこも、1月1日、お正月は休みでした。
 こうしたことをやることによって、別に周りの人を呼んだわけではありません。ただ、小布施に人は来ていましたが、どこももあいていなかった。仕事として考えると、お正月に働くのは大変かもしれないんですが、仕事として考えないで、おもてなしとして、一番寒いときにせっかく遠いところから人が来ているのに、そういう人を迎えようとしないことの方が日本らしくないと思います。
 ビデオを撮りながら、広島から来ました、沖縄から来ました、北海道から来ました、静岡から来ましたというように、それぞれ初めて小布施に来た人がたくさんいました。「小布施だったらお正月でもやっていると思ったのに」と、がっかりした人がたくさんいました。でも、「来年も頑張りますから、ぜひまた来てください」とお願いしたら、また実際来てくれた人もたくさんいます。
(図―11)
 お客さんと一緒に1月2日の日に書き初めもやりました。そのときに自分が書いたのは、「知行合一」なんです。ちょうど「口一」が入ります。(笑)考えと行動が1つということで、やらないのはしたことにならないし、やってみなければならないことでもある。考えを実際に実行することが重要なんです。この考えは陽明学の重要な考えです。5代前の北斎のパトロンの高井鴻山も、この言葉は好きな言葉でした。



 皆さんのところに、桶仕込み保存会の案内があると思います。そのように、日本酒を手づくりでやっています。一切機械化してこなかった蔵で、今の酒づくりのおやじさんが77歳なんですが、彼が蔵に入った最初の10年間は全部木桶だったそうで、彼が現役だからこそ、木桶を復活できました。
 こうしたものはシンボリックなもの、日本独特なものでもあるんですが、気がつくと、日本酒の酒屋がどこでもやめてしまったことです。2000年のミレニアムに合わせて、木桶を50年ぶりに桝一で復活できることになりました。
こうした姿がわずか1代だけで日本から消えてしまうことが、もったいないことでもある。経済的な事情がないとどうしても成り立たないことなんですが、結局頼まないから、桶屋さんは成り立たない。今度頼みたいと思ったときは、前に頼まなかったから、今度はできない結果になってしまいます。
(図―12)
 何とかもう一度、循環型社会へ戻したい。森を守る。酒屋が中心となる酒屋がどうして中心となるのかというと、酒屋が一番先に桶を発注して、50年から75年ぐらい使った後に、みそ屋さんとか、しょうゆ屋さん、やがて漬け物屋さんなどに流れていく循環型のシステムがあったんです。みそとしょうゆは水分ではありませんので、毎年の手入れをしなくてもできることなんですが、日本酒は毎年の面倒見が必要になってきますので、桶屋さんは日本酒の仕事がないとなかなか成り立たない産業でもあるんです。
 今はお風呂だけは若干残っていますが、お風呂は口にするものではありません。本当の桶の技術はそこまでできません。でも、桝一では、日本の桶を復活して、ことしは3本目の新しい桶をつくっているところです。一番大事なのは、一時だけのいい思い出ではなくて、もっと継続できるものにしていきたいので、そのためには桝一の力だけではできません。だから無理だ、だからできませんといわないで、どうやってやればできるのかを逆に考えて、今桶仕込み保存会をつくって、35社ぐらいの地酒をつくっている蔵に参加していただいています。去年の冬は16社ぐらいが実際に木桶を使うことを復活しました。また、ことしは10社ぐらいがさらにふえます。それだけでは安全とはいえませんが、経済的に成り立っていける形にしていくことによって、ちゃんと生かせるものにしたいと思っています。
 生きている文化として、これを次の世代まで伝わっていけるようにしたい。それは、資料館になることとか、博物館になることよりも、実際生きているままで伝えていけるような形にしていきたいと思っています。今桶仕込み保存会はそのような頑張りをしています。



小布施ッション

(図―13)
 きょうお集まりの人数より若干少ないと思いますが、毎月、ゾロ目の日に合わせて「小布施ッション」というのをやっています。小布施にセッションという言葉をかけて「小布施ッション」です。英語ですと、オブセッション(obsession)は"u"は入らないんですが、小布施(obuse)は"u"が入るので、あなた方が不可欠、"you" が必要ということです。(笑)
 このことをやりたいと思ったのは、やっぱり地方に住んでいると刺激が少な過ぎると思ったんです。蔵部をつくることによってコミュニケーションのとれる場所、昼でも夜でも1年じゅう毎日無休で営業していますので、蔵部ですと、それなりのコミュニケーションのとれる場所になっていますが、実際、町内の人とのコミュニケーションはどれだけできているのか。若い人は家に住んで、仕事に通って、また帰ってくると、テレビだけの生活になってしまう。ちょっと受け身になって、一方通行になってしまいますので、生の感動、生の経験、同じ空気、同じ場所の同じ時間を過ごす共通感が必要だと思いました。
 普通は、こうした会ですと、1時間なり2時間なり過ぎると終わってしまいますけど、自分たちの企業の場所でやりますので、時間の制限はしません。だから、始まる時間だけは6時半なんですけど、終わる時間は終わったら終わるということです。大抵、朝の2時とか3時まで平均的に続くんですけど、最近私の方が早く帰ることが多いです。1時とか。
 こうした場所でやることは、特徴としては、舞台に立たないで、同じ目線で話ができることになります。また、テーブルとか壁になるようなものを外して、距離を縮めて、もっと親しみやすいことにしています。
 また、若い人、私より若い人は若いという解釈ですが、若い人が一番前に座布団で座って、周りがいすになるんです。座布団で、非常に親しみやすい空間になっていて、同じ場所にいることが大事だと思っています。
 また、話し終わった後に質問の時間があるんですが、幸せなことに質問の時間になると、質問が多過ぎて、応じられないくらい手が挙がるという状態です。多分全国でも珍しい例であると思います。
好奇心を持つ、質問を持つということはやっぱり大事なことだと思いますので、先生の側も気合を入れて話をするし、また聞いている側も、一方通行としてではなく、交流できる楽しみにもなっています。
 この小布施ッションというのは、あらゆるジャンルの人を呼んで、まちづくりの話をするためには単に専門家だけではなく、例えば心理学の先生とか、小布施生まれの日本画作家の中島千波先生、あるいは建築家もいれば、デザイナーもいれば、スポーツ選手などいろいろな人が参加することになっています。
 ゾロ目の日にしたのは、五節句が日本の特別な日ですが、もう普通の日のようで特別な祝いはないことから、ゾロ目の日を、酒屋こそ、和菓子屋こそ、大事にすべきだと思ったんです。また、9月9日の日は、栗ご飯と菊酒の日でもあるのです
が、知っている人はほとんどいません。それこそ、栗菓子の小布施堂と桝一にふさわしいことであったわけです。
 8月8日は末広がりになります。末広がりも、夏も1つぐらいの楽しみが欲しいなと。オリンピックが終わった後、寂しくなる前に次の楽しみがある。北斎会議があったり、蔵部をあけたりとか、熱がさめないうちに次の刺激があることも大事ですので、五節句だけではなく、毎月の方がいいと考えたんです。
 また、先ほどの伝統的なつくりも大事にしたいんですが、新しい提案もしたいわけです。小布施ッションでは、月々の新しい日本酒をベースにしたカクテルもつくっています。1月は「キジ酒」、ヒレ酒みたいなキジを使った酒があったり、あるいは「桃酒」は3月3日。9月は「菊酒」。でも、1カ月たったんだなとか、あるいは今月の1つの新しい楽しみがあるんだなということが欲しいと思ったので、5月5日は、「マンゴ・タンゴ」ということにしました。マンゴーを使った酒です。マンゴーは「子供の男で、マンゴ」。子供の日。通じないこともたくさんあります。(笑)通じなくても、自分たちが楽しんでいることが大事なんです。7月7日は「バナナナナ」、10月10日、「フレッ酒」というスポンジゼリーに日本酒。いろいろな新しい提案もしています。
(図―14)
 最初の1年間の小布施ッションのことはこのような本になっています。1年たったところで気がついたのは、記録が大事だなと。記録があるかないかによって、あったかなかったかもわかる。でも、役に立つ情報であれば、もっと早い方がいいというふうにも考えて、1年後にまとめるより、もっと前から欲しかったりするので、去年から月々のバイリンガルの本にすることにしました。
 自分たちは何を伝えたいのか、何が大事だと思っているのかを、ほかの人に分かち合えるものにしていきたいと思っています。
 そもそも小布施ッションは100人ぐらいの人しか入りませんので、それ以上ふやすことはできませんが、こうした冊子をつくることによって、仮に参加できなかったにしても、あるいはしなかったにしても、役立つことはできます。
 バイリンガルで冊子をつくるのはとても大変なことなんです。時間もかかるし、お金もかかるし、大変なんですが、やりながら覚えていくことですので、大変だからやれないんじゃなくて、大変だからこそやってみる。やってみるだけではなくて、やり続けるということです。
 来月になると、やっとアップ・ツー・デートになりますが、大体ことしは4カ月おくれとか、5カ月おくれで、遅くなっても絶対にやめない。やると決めた以上は絶対にやるということで、そこまでやるのがわかると、自分たちでできないことでも、何とか努力は身につきます。最初は完璧なものにはならないにしても、どんどんと頑張っているうちに、できるような形になります。プロセスに自分たちがかかわるからこそ、自分たちがレベルアップしていけることなんです。



さまざまな発展へ

 また、自分たちの町の中の瓦が重要なことであると思います。全国旅をすると、あまりおもしろくない風景になってしまっている。同じ住宅とか、大量生産の時代が長く続いたことによって、それまでの集落の構成が薄れてしまった。自分たちの町が瓦やカヤぶきの屋根がたくさんある。黙っていると、どこにでもあるアパート、どこにでもある住宅に変わってしまいます。変わらなくてもいいように自分たちが、この町のために、地域の資源を大切にして、千曲川のそばにある粘土を使って瓦を焼くことにしました。
 古い伝統文化を生かすためにも、新しいテクノロジーが必要になります。昔のダルマ窯をつくりますが、その上に、きれいに焼くための煙突が必要になってきますので、そのことはことしの1つの新規事業として始めます。
 焼きたてパンではなくて、焼きたて瓦というのは、これからのカスタムメードです。一番おもしろい町は職人のいる町、物づくりできる町で、小布施はやっぱり職人の多い町にしたいと思っていますので、そのためにもパターンが必要になってきます。なかなか独自にやるのは難しいことでもあります。
 こうした古い伝統文化、例えば酒づくりは冬の間に集中的にして、春と夏の間は畑の仕事をするなど、役割分担をすることで、1つだけではうまくいかないことも、いろいろなことをやることで、うまくつなげていけることにもなると思います。
 今は瓦を焼く人はかつての職人、60代、70代、80代の経験者を生かしながら、若い学生、素人、これまで経験なかった人にも伝えていく、次の世代を育てていく。失敗は成功のもとだと思います。失敗しながらどんどんうまくいくようになると思いますので、失敗を恐れずに、時間をかけて、長続きできるような形にしていきたいと思っています。



 若い人も、先輩の方々も、町のお互いの共通する場所を大事にしていくことが必要だと思っています。小布施に来たときに、1人でも草取りをやったりしました。最初から1人だけではとても間に合わないけど、まず自分のできるところからやり出す。その後はまたどういう仕組みにしたらいいのか考えればいい。みんながやらないからできないというのではなく、自分のできるところからコツコツとやってきました。
(図―15)
 そして、2003年、ことしの1月15日から、「市−ごみ−ゼロ」運動を15日と30日に始めました。1はお小布施が市場町だから。あと、ごみ、ゼロ。5月30日だけは国の決めている「ごみ0」の日ですが、年に1回だけ町をきれいにしてもきれいになったことにならないので、どうしたら実際にいい町に住めるのかは、定期的な、サスティナブル・コンティニュアス・エフォート(継続可能な努力)が必要です。本当は24時間やっていくのがベストなんですが、いきなり0から24時間にしていくのは、ちょっと無理なので、できるところからやり出す。2週間ごとに1回やります。毎月15日と30日の2回やります。また、雨が降っても雪が降っても、台風が来ても、どんな天気でも必ずやります。雪なりの仕事もあれば、いろいろなことがあります。
 こうしたことを年に24回というのは、1カ月分働くことが、結局道をきれいにするために使っているということにもなります。そう考えると、もっと効率のいい掃除の仕方を考えなければならないというふうにも思っています。
 この会は全部ボランティアの活動なんですが、今度道路の掃除機を購入する予定です。ヨーロッパとアメリカの道路の掃除機は進んでいますが、日本はちょっと閉鎖的でした。行政だけを相手にした企業でしたので、大型の、大型といっても、車のタイヤが私の背丈ぐらいの、すごく大型の運転しにくい機械でした。今度、海外から仕入れてくる小型の、だれでも30分あれば運転できる使いやすいものに変えていくことで、同じ15日と30日でも、よくしていける距離をかなり拡大していけると思います。その頻度をふやして、また頻度だけではなく、実力をつけ加えていくと、かなりのところはよくしていけます。
 東京でもそうだと思いますが、日本はどんどん治安が悪くなってきています。治安が悪くなると、お互いの共通の生活場所が荒れてくる。大事にすべきことを大事にしなくなってしまいますので、お互いに大事にし合っているということが実感できるものであることが、1つのいい町を保ち続けることにもなると思います。
 実際、こういうことをやることによって、かなりの友達ができることにもなっています。若い人は嫌がってやっているんじゃなくて、本当に自分の力で自分の将来をよくしていけるんだという喜びにもなっています。こうした通常の頑張りがあることによって、ほかのことを何かやりたいと思ったときは、協力がすぐできることにもなっています。
 また、「市−ごみ−ゼロ」はこんな形にしていますけど、ピンチ・イコール・チャンスとして、ごみを拾うことによって、いろいろなほかのこととつなげていくということにもなる。
 こんなことを見せているうちに、ごみが問題であることはだれでも、いうまでもなくわかることなんですが、共通した意識を持つことから、問題の解決につなげていけるので、言葉遊びにも見えるかもしれないんですが、一度聞けば絶対に忘れない。「15日と30日は確実にやりますから、ぜひご協力をお願いします」というと、いつ、だれが、どういうふうに協力すればいいのかわかれば、それなりに協力しやすくなります。



(図―16)
 ことしから、「鬼は外、電柱は内」と、電柱を埋める運動をやり始めました。目標は10年間で小布施の電柱を100%埋めたいと思っています。こうしたこと
も、電柱を埋めてないのは問題ではないと思っている人もたくさんいますが、共通の意識を持つことが必要なんです。いいのはわかっているんですが、よく、いわれるのは、「電柱がなくなったら、犬は困るでしょう」(笑)と、本気でいう人はたくさんいます。でも、電柱のあったところを木に植えかえると、自然を取り戻すことによって、自然に問題が解決できると思っています。(笑)
 こうしたことも、別に2月3日でなくても、電柱を埋める日はできるかもしれませんが、1つの目標をつくって、それに向かって一生懸命走る、一生懸命頑張るという目標をつくることが大事なことでもあると思います。ことしから始めていますけど、来年の2月3日までに、ことし研究したことを発表しようと思っています。
 また、今の日本における地中埋設のやり方が、ワンパターンになってしまっていることが非常に残念なことです。大変にお金もかかるし、町の構成がそれによって薄れてしまいますので、やっぱり小布施に合ったやり方は小布施で見つけたいと思っています。そのために日本全国のやり方だけではなくて、同じ問題をアメリカとかヨーロッパでも抱えているので、そうした国はどんな条例があるのか、どうやって問題をクリアしてきたのかということを勉強していきたいと思っています。
 電柱を埋めることだけではなく、例えば、ケーブルを埋めていくとか、あるいは下水道の問題もあるし、あるいはガスの栓はどうするのか、本当は合理化して、トランスになれば一番いいかもしれないんですが、やっぱり小布施の路地とか、狭い道を狭いままで生かす、自然も生かす、どうやってやればうまくできるのかを研究していきたい。
 フランスとかドイツでは、地下室に必ずトランスフォーマーを置く場所が義務づけられますが、日本の場合は民間はノーサンキュー、行政も民間と協力し合うのも大変だから、あまりやりたがらない。でも、1つの町なので、パブリックであろうが、個人のものであろうが、快適な町になるのも、お互いにつながっているので、考えていく必要があると思っています。
 こうしたことは、専門家ではないからこそ、ここまでできることなんです。日本人は、それは自分の専門じゃないからできないといって、片づけたがる人がたくさんいます。でも、専門家になってしまえば、自分のこれからの道を考えるとどうしても保守的になってしまいます。一個人の住民であること、快適な町に住みたい。また同じお金を使っても、その可能性を伸ばしてやった方がいいと思いますので、こうしたことも暇を見つけたときに、海外出張とか休みを兼ねていろいろなことを勉強しています。



 私自身、もともと長距離の選手でしたので、私はやっぱり人生はマラソンだと思っています。完走することも大事なんですが、それよりも目標を置くことによって、それに向かって一生懸命頑張ること、充実したプロセスが大事だと思っています。
 いい町はどういう町なのかと考えたとき、やっぱり動きのある町が、活発な町にもなるので、設備とか町が不完全であっても、元気な人がいるんだ、それだけでもこれからの可能性をたくさん実感できると思います。そうした町を小布施でもつくりたいと思っています。
 4月から3カ月かけて、7月20日に合わせて、7月20日は海の日ですが、海のない小布施に波をつくろうというテーマで、「小布施見に(ミニ)マラソン」を企画して、開催できました。3カ月でマラソン大会をつくることも大変なことですが、時間がたくさんあればもっと難しくなることがたくさんあります。
 皆さんの資料の中にも、『RUNNERS』の雑誌の記事になっていたところをコピーして配付しました。反対側を見ると、100の理由をつくりました。どうしてこの大会をやるのか。多分7つぐらいの理由だけいうと、断られてしまいますけど、100もつくればあきらめてくれるかもしれない。(笑)「どうせやるんでしょう」と思ってくれると思って、実際30分ぐらいかけて、100の理由をつくって、町長さんと警察署長さんと、かかわっている町の議会の皆さん、自治会の皆さん、みんなにそれを差し上げました。
 普通は、思い切って頑張ると、もし転んだ場合は恥ずかしいとか思うのですが、そう思わないで、むしろ思い切って頑張らないことの方が逆に恥ずかしいと思うので、できることだけ精いっぱい、それ以上のことはできないので、できるだけ頑張りたいと思っています。日本の場合は、何をやるにしても、手続とかすごく時間がかかるんですね。走ることでも、最初は、やっぱり3カ月では無理だといわれたんです。でも、理屈の上では、走るためには靴さえあれば、だれでも、どこでもできるはずです。靴がなくても本当はできるけど、一応あった方がいいと思います。
 そうしたことは、自分たちの町に住んでいる人々が楽しめる町、また、住んでいる人々が、外から来ていただいた人と接していけるところが大事なので、先ほどの「市−ごみ−ゼロ」運動も、コツコツと一生懸命やっていますが、マラソンがあることによって、21キロの距離を3カ月でみんなで精いっぱいきれいにしましょうと。落ちているごみを拾う、道側に出ている雑草も拾う。先頭のところをきれいにしていたら、先頭のところに住んでいる方々の庭とか畑もやっぱりきれいにしました。ちょっとしたプラスのよい励みになると、また良いさざ波が働きます。悪くなると悪い波になりやすい。前向きの努力が、ささいなことであっても、よい気分になると、そのエネルギーがほかの人にもつながっていくと思います。
 (図―17)
 私にとっては、土手の道を駆ける、路地を走るというテーマで、小布施の町は小さな町ですが、小さな町なりのよさを生かしておこう。クロスカントリーのオフロード、立派な大通りではなく、むしろ狭い道で、景色が抜群のところは、非舗装の道なんですけど、非舗装の道なりの魅力があります。非舗装の道が日本に珍しくなってしまって、小布施でもこの非舗装の道をそろそろ舗装しましょうという話になっていますが、非舗装の道は雨がちゃんと下に沈んでいく。自然なところは、この写真だけではわからないんですが、雁田川の足元なので、本当に景色のいいところです。そういうところは交通の多いところでもないし、今のままでもいいと思うんですが、マラソンをやることによって、「こういうところはよかったですよ。ずっと大事にしてほしい」という、外の声が挙がってきて、大事に守りたいところを守っていける仕掛けにはなると思っています。
 また、最初にお見せした絵の中に祭屋台がありました。祭屋台は、短い祭のために、そこまでの傑作の絵をつくったのは、仮設的なものですから、中途半端とか、あまり気合を入れなくてもいいということではなく、むしろ祭に向けて、非日常、通常の頑張り以上の頑張りがあったわけです。同じように、その日に自分たちの町の腕が見せられるきっかけでもあると思ったので、今回は建設会社にボランティアで橋をつくっていただいたり、別の園芸の仕事をしている人に、プロフェッショナルな仕事ではなく、ボランティアとして周りのコースの整備をしていただいたり、あるいは大工の仕事でスタートとフィニッシュの門をつくってもらったり、あるいは染め物で看板をつくってもらったり、最初の1年だけで考えると高くつくかもしれないんですが、何年間も使っていけるので、むしろその方がより経済的になる。
 こうしたことをやることによって、ばらばらでつながらなかった若い人、あるいは先輩の方々と、コミュニティー感覚がどんどんと薄れてしまっていたのを、もう一度つなげようということをしていきたいと思っています。
 今回は実際、警察の許可を得るために2カ月1週間かかったので、ランナーの募集は3週間だけでやりました。普通の人は、それでも、「無理でしょう、無理でしょう、無理でしょう」といっていましたけど、ことしでできるところまで頑張ってみて、また来年は来年なりにもっと盛大に頑張っていくということです。最初の酒の絵のように常に未完成であるから、できるところをどんどんとよくしながら、またやりながらよくしていけることを考えながらやっていくことが、一番うまくいくことだと思っています。
 日本人は完璧主義の人が多いので、最初から完璧にできなければ、完璧にできるまでずっと我慢して待っていこうということになってしまうんです。例えば私の日本語でも、今でもまだ完璧でありません。でも、できるところからやっていくしかできないわけです。頑張りながらやっていくしかできません。完璧になるまで待っていたら、死んでも間に合わない。(笑)完璧であることよりも、自分の実力精いっぱい、それ以上の頑張り、できない頑張りをやってみせることの方が多分重要なことだと思いますし、やってみせるよりも、自分でやることによっていろいろなことで気のつくことはたくさんあると思っています。
(図―18)
 「小布施ミニマラソン」は、山国の海なので、ポスターのデザインは山の波になっています。新しい流れを自分たちの力でつくっていこうと思っています。
 「小布施ミニ(見に)マラソン」というのは、小さいマラソンと、見に来るためのマラソンです。小布施は小さい町です。今、全国の合併問題がありますが、小布施でも問題になっています。ただ、小布施は何があっても、合併しませんという独立した道で走ろうと思っています。
 日本に来て、日本の国こそ、小さいものの美しさ、魅力。すべて大きければいいというものでもなく、小さい体なら小さな体なりの元気さ、自分に合ったライトサイズがあるはずなんですが、大きければいいと思ってしまっている。小さな問題を拡大すると、大きな問題にしかならない。自分たちは、ミニ町、小さい町であっても、ちゃんとやっていける規模でやりたいと思っています。今の時代は企業にとっても危機なんですが、町まで消えてしまう時代でもあるので、自分たちの頑張りによって小布施という名前は消えない小布施でありたいと思う。
 そのために住民の力をもっと身につけないといけない。目標は3年ぐらいで、このマラソンをチャリティーマラソンにすることによって道の整備は町の負担でやらなくても、民間側で面倒見ていけるような形にしていきたいと思っていますので、いろいろな形で今頑張っています。



 いろいろな形で地域のために頑張ろうと思っていますけど、私は、外国人だからできるとか、あるいは日本人じゃないからできるというふうには思っていません。日本人でももっと頑張ろうと思えば、もっともっと頑張れると信じています。これからも続けて、精いっぱい頑張っていきたいと思っています。
 今度、次のプロジェクトをやり始めました。今回のプロジェクトで桝一のハードの部分はこれでとりあえず終わりましたので、今度、「桝二」の仕事をやり始めました。「桝二」は自分でつくった言葉ではありません。「桝三」まであります。桝二は、桝一の分家で、三代前にみそとしょうゆの部門を次男に任されました。大体30年前ぐらいまでみそをつくり続けていましたが、時代の流れに流されて、今はもうつくっていません。
 町の中心部に土地がありますので、そこで今度ゲストハウスをつくります。町の中心部ですと、どこにでもあるお土産屋とか、町のしんにならなければならない場所が、小布施らしくないものになってしまう。小さなふるさとがせっかくここまで頑張っているのに、どこにでもあるような町になってほしくないので、中心部に小布施らしいおもてなしがフルにできるような形にしていきたいと思っています。
 さきのマラソンは3カ月でつくりましたが、ハードの部分は時間をかけてやる。ソフトの部分は速成、ハードの部分は熟成と思っています。だから、ソフトはどんどん変えて、ハードの部分は100年なり200年なりの長持ちできる、あるいはすぐ捨てたくなるようなものではなくて、再利用したくなるようなよいものにしていきたいと思っています。
 以前、桝一のプロジェクトで、ハンマーで自分たちで壁を壊したところから、「台風娘」というニックネームがついてしまいましたけども、そのときの経験から、今回は、14名の学生をインターンシップにしています。若い人と職員の力を合わせて、例えば、左官屋さんの仕事とか、壁塗りの建具をちゃんとできる人はあまりいません。いることはいるんですが、5年か10年の間に、今のうちならば、次の世代までつなげていけることがたくさんあります。そうした仕事を授業料を払いながらやる。桝二はいつ完成できるかは全くわかりません。自分たちの頑張り次第です。でも、変に完成日を決めてしまうと、逆に自分たちの力はそれでできるかどうかはわからないので、そういうところはちょっと余裕を持って頑張っていきたいと思っています。
 また、今、北斎の使われたアトリエの茅葺きのふきかえ工事をやっています。それもやっぱりよしずづくりから、80歳代の職人に、昔は小布施でどうやってやったかを聞きながら、現役の人にわかっている人はいませんので、掘り起こしながら、昔の知恵を生かそうと思っています。そのために時間はかかるんですが、そういうところに時間をかけて、日本のいいところを将来に伝えていけるようにしたいと思っています。
 あとは、質問の時間があるので、話をここで終わりにしたいと思います。これからもいろいろとご指導をいただけるように、ご協力もよろしくお願いいたします。ありがとうございました。(拍手)



フリーディスカッション

里見(司会)
 
ありがとうございました。
 それでは、ご質問を多少お受けできるかと思います。
斉藤(地域総合研究所)
 大変すてきなお話をありがとうございました。
 今、日本はとても元気をなくしていますけれども、セーラさんのように、停滞した日本に元気を与えてくれるアメリカの女性を私はセーラません。知りませんというのをしゃれていおうとしたんですけれども、あまりうまくいかなかったかもしれません。(笑)
 質問は2つあります。日本は観光の面では外国にたくさん出ていて、どのくらい出ているんでしょうか、2000万人ぐらい出ているかもしれませんが、外国からお見えになる方はとても少なくて、10分の1か、20分の1か、正確な数は知りません。もっと外国の方が日本に来てくれるようにするのにはどんな考えを持っていらっしゃるのかというのを1つ知りたいです。
 もう1つは、ちょっとおちゃめな質問かもしれません。最初、ヤンキースとマリナーズの試合をごらんになったとおっしゃったので、もしよければ、松井とイチローのどちらがお好きなのかということを教えていただければ楽しみです。
セーラ
 2番目の質問が一番簡単です。両方とも大好きです。欲張りなので。だから、試合を見に行ったときも、両チーム、マリナーズもヤンキースも応援していたから、どっちに転んでもハッピーでした。
私自身アメリカ人ですが、やっぱり、日本の観光に問題はたくさんあると思います。日本人にとっても快適な旅をすることは難しいことになっていると思います。日本の国内でも。やっぱり最後は人のつながりが一番重要なことだと思います。この町にこの人がいるから行ってみたい。あるいは口コミで伝わる。単にPRとか、宣伝したからだけではだめだとと思います。日本人にとっても外国人にとっても、共通点は、本物を見たいということ。観光客のためにつくられたものだったら、生活空間もなければ、インチキみたいな感じになってしまうと思うので、やっぱり簡単な解決はありません。長い間の積み重ねていく努力しかないと思います。
 例えば、小布施ッションを月々必ずゾロ目の日にやっています。同時通訳は使っていませんが、終わった後に英語で伝えるような形にはなっています。例えば言葉の問題だけでも、メニューは英語になっていても、見るところに英語の説明がなかったり、不十分であったり、深く入っていけるような形が欲しいと思う。私自身、地球の裏から日本にやってくるのは、日本にしかない独特な魅力的なライフスタイルがあるからこそ、来たいと思うんです。あるところまでは言葉が通じなくても、見るだけでも感動できるものがあると思います。ただ、残念ながら日本の場合は、すごくいいところもたくさんあるけれども、いいところの隣に全く合わない、バランスのとれてないところもたくさんあると思います。ただ、最初のところは、でき上がったものである必要はない。常に未完成でもこれからの可能性があるというのが、魅力的なことでもあると思います。
 例えば、国際北斎会議では北斎に関しての関心の高い方々で、小布施を訪れている方もたくさんいらっしゃるんですが、そういう人が来ても、町の人と接点がないことになってしまうと、つながってこない。接点をどんどんとつくることが必要です。例えばマラソンは、好きな人同士が走れるということで、今回は申し込みが3週間でした。でも、優勝した人はイタリア人の男性でした。1時間19分で走れました。3番目の女性はアメリカ人でした。そうした楽しいことがあれば、参加したくなることがあれば、また参加して、自分がいる存在の意味を感じるとか、そういうところから、コツコツと、一気に津波のように来て、すぐ流れてしまうことよりも、少しずつできるところから頑張っていくことが一番長続きできると思います。
 また、日本酒を飲むのは、夜の10時までレストランで食事できることになっていますが、その後バーがあるので、そのバーで12時までゆっくり飲みながらコミュニケーションがとれるけど、飲んで、どこかに帰らなきゃならないのは大変だから、ゲストハウスをつくることによって、小布施流のもてなしができることになると、より海外からでも人を招きやすくなります。
 ただ、今回は大型のホテルとか旅館とか、そういうことではなくて、小布施に合ったブティックホテル的なシンプルなものにしようと思います。
 日本の場合は、欧米人を呼ぶのは無理だから、アジアに中心を置こうとかいいますが、私はアメリカ人なのに、日本は大好きなので、簡単に欧米人は捨てなくてもいいと思うんですけれども、それなりに日本の魅力があることに自信を持ってほしいと思うんです。
 でも、対策が非常に単調で、安売りでアジア人をたくさん呼ぶと、高い値段で呼んでいる日本人が、それによって追い出されたりしてしまう。そういうやり方ではなくて、個人個人、1人1人を大切にしていけるような形にしていきたいと思う。
 だから、人数で勝負することではなく、やはり日本は価値のある、質のある日本であってほしいと思うのです。数では数えにくいことだと思います。
小林((財)日本環境衛生センター)
 いろいろな考えを実施に移していく上でそれを担ってくれる人たちをどうやって見つけ、呼びかけ、集め、みんなで力を合わせてやっていくか。その支えている人について、少し詳しくお話し下さい。
セーラ やっぱり人が人を呼ぶこともあるんですけど、自分が楽しくおもしろく仕事をしている姿を見ると、それにかかわりたい、参加したいと思う人は自然に出てきます。でも、中にはやっぱり結構ハードな仕事ですので、三日坊主になる人もたくさんいます。でも、三日坊主になるから、どうせだめだと思わないで、頑張ってやってみることによって、中には継続する人はいます。
 みんな同じじゃないし、そのチャンスをどんどんと人に与えていく。小布施ッションも1つの大きなきっかけにもなっています。学生は無料にしています。学生は毎月毎月小布施ッションに来て、お酒に酔ったりして、気がつくと病みつきになっている人もたくさんいると思います。
 自分たち少ない人数でも、大きな違いのあることはできるということ。大きな都会にいると実感することは難しいことかもしれないけれども、小さなコミュニティーでは、自分たちの頑張りによって、1万2000人の町の皆さんの生活に直接貢献できると実感できることもあると思います。
 うまく説明されてついていくことよりも、いきなり現場に飛び込んで、ともに頑張っていく。やりながら、それまで気づいてなかったことに気づくことがたくさんあるかなと思う。
 よくわかりませんけど、類は集まる......(「類は友を呼ぶ」と発言する人あり)そうなんですね。(笑)あるいは「朱に交われば赤くなる」。(笑)自分が精いっぱい頑張るから、その精いっぱいの頑張りを見ると、ほかの人はまた絶対に負けないよと、それ以上の頑張りをするから、熱い人だけが集まることになっています。
 小布施ッションの特徴としては、団体は受け付けません。個人個人の本当に来たいと思う人しか来られない。グループになってしまうと、遠慮したりとか、年功序列とか、いろいろなことがあるので、それをなくして、熱い人しか来ないようになっているので、そういうことも最初からフィルターがあるかもしれません。私は別に意識的にフィルターをつけているわけではありません。むしろ刺激が欲しいと思う人だけが刺激を受けられるようになった方がいいと思います。
 マラソンの場合はボランティアは500人も参加できることになりました。みんなが少しずつであっても、協力できることが楽しくなるんですね。当事者意識。人のことじゃなくて、自分で頑張るんだということ、小布施ッションもそのような雰囲気になっているので、どんどんとそうなるんです。
自分にとって一番うれしいことは、学生さんが参加すると、1年間で顔が変わる。本当に締まってくるんですね。目が輝いていて、すごくカッコいいと思います。
 そういう刺激の多い方が自然に好奇心がわいてくる。苦しいこともたくさんあるけど、それなりに楽しいことがたくさんある。波があるけど、次の楽しみは必ずあるということが、続けられる1つの秘密かもしれない。
中溝(立川ブラインド工業株式会社)
 今のお話を聞いていますと、セーラさんの場合は、一企業の再構築から始まって、広く小布施町そのものの広がりまで持っていかれた。企業というものと町全体には、1つの壁があるんじゃないかと思うんです。その辺を実際問題としてどのような形でやられたのか。例えば、さっき掃除の車を買われるというお話もあったけれども、これは一体どこが費用を出してやるのか。あるいはマラソンにしても、いろんな費用は、小布施堂そのものがかなりの負担を払ってやられているのか、そういった1つの企業と一般との分かれ目というのはどのような形で実行されたのか、お聞かせくださればありがたいんですが。
セーラ
 それはいい質問です。最初小布施に来て間もなく、国際北斎会議を提案して、それは町と共通のボランティアの仕事でした。ボランティアの仕事のいいところは、頼まれてやっているわけじゃないんです。自発的ですから、強い立場なんです。やりたいからやっているのがボランティアなんです。国際北斎会議は町の皆さんも喜んでくれて、町を挙げて500人の規模の人を世界から迎えて、みんな喜んでくれた。町が最も大事に思っていることを大事に生かせる1つの手法になった。そういうグッドウィルが最初からあったんです。
 会社にグッドウィルがあったことよりも、町にグッドウィルがあったから、会社に立場ができたといえると思います。むしろ職人系の会社の従業員、大工さんとか、蔵人に人気があったんですけど、普通の従業員にはとても人気がなかったです。
 私がいることによってみんなの仕事がふえるし、休みもなくなる。私が会社に入ったときは土日も工場は休みだったし、レストランは木曜日と火曜日、交代で休みがあったり、今は全部無休に変わっちゃっている。(笑)私が会社に入るときに、例えば1人でもできることを5人でやっていた。みんなで集まらないとできない。1人でもできることは1人でやるんだと、どんどん私が1人でやると、私だけがいい子になろうとしているとか、通常の社員にはあまり人気なかったんです。
 でも、無茶であると思われていたこと、そもそも小さい小布施町にそれだけの規模の大会を開催できないと思われていたのが、小布施なりのもてなしでできた。いい出した以上は最後まで面倒見た、手を引かない。そもそも大事に思っていたことですけれども、なかなか口に出すことがなかったことが、提案することによって、存在させたことになった。その辺ではそもそもあったんですけど、残念なことに担当がかわったり、あるいは時間がたつとどんどんと状況が変わっていくので、国際会議が5年前なんですが、今のまだつながりがあるうちに、熱いうちにまた次のことをつなげることがよりやりやすい。
 でも、楽になったわけでもないです。例えばマラソンをやることはかなりリスキーなことでもあったわけです。3カ月でそれだけの規模のものを事故1つもなく、本当に200人とか300人が最低必要なボランティアの人数を、本当にそろえられるか。面倒見れるのか。あるいはことしはラッキーなことにあまり暑くなかったけど、皆が、「なぜ一番暑いときにやるのか」とかいう。「一番暑いからやるんだ」。自分たちの町の実力が最高に難しいときに合わせて実力を上げると、普通の日々が楽に過ごせると思うので、逆に工夫の余地がある。例えば、暑いから、農家は水をかけてくれたりとか、いろいろなサービス、アイスキャンデーをあげたり、実際、畑の前の桃がちょうどフレッシュな時期だったので、「どうぞ」ということもあったり、一番厳しいときに合わせてやるから、できる。
 大変だったわけですけれども、ただ、1ついいことは、日本人は会議になると、皆さん、空気を読むんですね。ですから、個人個人で話し合って理解していると思っていても、会議の雰囲気がちょっとどこかの方向にいくと、そのままいっちゃう。
 でも、今回は、例えば自治会が小布施に28人あるんですが、1人ずつ個人個人で話をして、理解していただいて、しかも1人の自治会に対して2人の組でいたので、証人もいた。大体2人で相談する。なので、反対する理由がないということで、反対しないというのは、ある意味で協力ということで、その形で皆が実際決定する会議でそれなりにコンセンサスを得てできることになったんです。ただ、警察にとっては一番クレームに弱いので、そのクレームがどうしたら出ないようにできるのかを、3回ぐらい28人のところに個人個人で話に行ったり、その方が長い道で、結果としてそれだけの段取りができたから、ついにできたといえます。
 でも、難しいからとか、大変だからとか思わないで、自分たちで頑張らなかったら、だれが頑張るんでしょうと。ただ、今回は本当に短い間で、3カ月しかないから、みんなできない理由を考えている暇がない。(笑)できることしか考える時間がないことは結構いいことなんですよ。だから、来年まで待ってしまえば、その方がより上手にできたとはいえるかもしれないけど、多分壁がよりたくさんあって、1つクリアすると、また次の次のと出て来る。だから、絶対今年やるんだと。
 一番難しかったのは、警察の許可でした。許可がなくても走るのは自由ですから、走りますということで、逮捕される覚悟で。(笑)やるといい出したら絶対やるんだと。ただ、かかわった人が最後にみんなやってよかったという気持ちになることが一番大事だと思います。
 楽しければ、また次に、お願い、お願いと回らなくても自然にやりたくなると思います。また、来年も来年なりの楽しさ、大変さもあるけど、今から募集をやり始めますので、大丈夫だと思います。来年は終わった後、バーベキュー大会もやりたいと思っています。せっかくみんなが集まっただけではなく、交流、それによって新しい知り合いにもなれるし、そうした「RUN DAY VIEW=ランデブー=逢瀬」を小布施の場所でやってほしいと思っています。
 なお、清掃車の購入については、町が買い、町民がボランティアで活用する形を考えています。
里見
 ありがとうございました。
 それでは、時間も参りましたので、本日のフォーラムを終わらせていただきたいと思います。セーラさん、どうもありがとうございました。(拍手)
 


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