back

第191回都市経営フォーラム

都市・まちづくりとアート

講師:北川 フラム 氏

アートディレクター、アートフロントギャラリー代表

日付:2003年11月20日(木)
場所:後楽国際ビルディング大ホール

 

1.代官山

2.ファーレ立川

3.越後妻有アートトリエンナーレ

 

フリーディスカッション




 

 ご紹介にあずかりました北川フラムです。よろしくお願いします。
 最初に、この「フラム」ということだけいっておきます。本名でノルウェー語です。何百年前は知りませんが、わかっている範囲では日本人で、父がつけた名前です。今から百数十年前に南極とか北極とかいう極地探検熱が盛んなころ、ナンセンという人が船をつくりまして、北極に行ったんです。でも、一番乗りはできなくて、アムンゼンが譲り受けて南極に行きました。「前進」という意味です。そう思っていたら、大きくなって、マリア・レマルクの本を読んでいると、映画にもなりましたが、『凱旋門』にナンセン・パスポートというのがいろいろ出てくるんです。これは第1次世界大戦後、ノルウェーが独立して、ナンセンが国際連盟に入りまして、今でいう緒方貞子さんがやられた仕事で、高等難民弁務官みたいなことをやって、そこで国境の中で非常に大変になったあそこのいろいろな民族の人たちに対するパスポートを出した。どうもそっちからつけたんじゃないかと思うようになりました。
 きょうは、この夏第2回目が行われた「越後妻有アートトリエンナーレ」ということを中心にお話をします。これは、今、難民弁務官という話が出ました。緒方貞子さんが、前回、2000年に第1回が開かれたんですが、そのときはまだ現職で、4日間の休みの中の1日ここに来られて、大感激されて、ぜひこういうのをいろいろ手伝いたいということで、今年の妻有のアートトリエンナーレでは、地球環境シンポジウムの中でお話までしてくださいました。1泊して2日間ぐらい見て回られたということがあります。
 それは少し本題に関係あるんです。妻有で行われていること、及び私が方向性として少し意識していることは、今いろいろと面倒な時代ですけれども、地域と世代とジャンルを超えた協働、あるいはコミュニケーション、そういったものをどういうふうにつくっていくか。そういったやり方しか、流動性が起き、いろいろなことがいい形でつくられていくことはないんじゃないかと考えていて、それに緒方さんがアートを見ながら、越後の里山を五感で感じて、何かつかまれ、そこで動いている若い人たちと、そこに住んでいるお年寄りたちとのコミュニケーションに対して深く感動されたと思っています。
 そういったことをやって、わかりやすい言葉でいうと、ハードからソフトへというか、いろいろな流動性を、フェーズを超えてどうつくるかということをいろいろやってきた。そんな話をきょう、させていただきたいと思います。

 お手元に、ファーレ立川、代官山、越後妻有アートトリエンナーレという順番になっていますが、最初の私のいろいろな実感というものは、代官山に来てからいろいろなことを考えたということがあります。代官山からファーレ立川、越後妻有アートトリエンナーレの方に移動したいと思います。
 代官山にいく前に、美術そのものについてちょっとお話をさせていただきたいと思います。僕は、21歳になって突然絵をかきたいと思って美術学校に行きました。そのときは村上華岳とか、そういった日本画の作家あるいはボナールとか、そんな人たちが好きで、ただ単純に絵をかきたいと思って学校に行ったわけです。学校に入って勉強をするうちに非常に驚きました。
 日本の美術家、明治以降に限るんですが、非常にいい仕事をしている人がだんだんおもしろくない仕事をやっていく。鉄斎のように、90過ぎてからもっとおもしろくなる人もいますが、一般的に全然おもしろくなくなっていく。例えば、僕が最初感動した村上華岳という絵かきさんは、だんだん仏画に入っていくんです。そのほか、小林古径さんとか、速水御舟さん、あるいは今度は洋画になりますが、小出楢重とか、靉光という作家たち、そういう人たちもみんな後半生になって、おもしろくなくなる。何でだろうかということ。
 これは美術をやる前から思っていたことと結局は同じで、要するに、日本に市民概念がない。あるいは同時代性がない。あるいはいろいろな人たちとの感応する世界に生きてない。つまり、美術が美術としてだけしかなくなってしまったときに、根っこを失っていく。そうすると、わからない精神性というものに入っていくわけです。社会との緊張関係が全くなくなることにしか、絵をかく根拠がなくなっちゃう。それがあるわけです。それは今の日本の絶望的な原因となっている市民性のなさということとつながってきちゃう。つまり、美術の問題じゃないところにいろいろあるわけです。
 皆さんを前にしていっぱしのことをいわせていただいて恐縮なんですが、その市民性というのは、わかりやすくいうと、私たちを規定している根っこみたいなもの、あるいはそれを動かしている力、1つには、もちろん、ご存じのとおり政治的な権力というか、そういった決まりがあって、もう1つには、今は金融資本主義といってもいいと思いますが、そういった1つの世界がある。もう1つ、家族というのが厳然としてある。
 よくいわれることは、ヨーロッパはとにかく市民社会というものを形成している。これがみんながかちとった1つの大きな要因である。皆さんご専門ですから、ヨーロッパの広場を考えてみればいいと思います。つまり、みんなで時間をかけてそこを管理し、修景していく。みんながそこで何をするかは相談できるということ。それは他者と他者、上と下、そういったものがとにかくコミュニケーションできる形態を本当の意味で持ってきたということがあります。
 その市民概念というのが日本の場合、全く形成できなかった。途中まではうまくいったわけですが、こういうアメリカの冷戦下における庇護がなくなった大変な段階で、つまり、何かモデルがないときに、いろんなことをどうつくっていくかができなくなってしまう。
 ここにメンバーがおられるかもしれませんが、つい最近、この土日に合宿で研修会をやってきました。これは政・官・財の一線でやっている人たち、あるいは役員、社長さんたちが多いんですが、そういう中での研究会です。たまたま今回僕は5〜6人の方と世話人をやっています。反語として、「アメリカ。その魅力」というテーマをあえて出したんです。ところが、それに対して9割ぐらいの人が、「アメリカは頼りになる。アメリカについていくしかない。それは圧倒的な軍事力と軍事テクニックを持っているからだ。いってみれば、それに尽きる」。僕はみんなほとんど信じられないことをいっていると思いました。つまり、アメリカは頼りになるなんて、専門家はだれも思っていない。だけれども、そういうことを思っている。つまり、今こうなっているから、それに従わなきゃいけないということをみんながいっているわけです。
 つまり、そのときに自分たちはどういうふうな政治的なバランス、あるいはアジアの人たちとどうつき合うか、いろんなことを含めてやっていかなきゃいけない、そのコミュニケーションをどうとるかということが、全くできない。政治の話にはしたくないのですが、日本の今の構造的な問題というのは20年前からやばい。あるいは15年前から実際に、いろんな組みかえが行われていて、いまだに15年前と全く変わらない状態がある。それはやっぱり市民的なコミュニケーションの形成ができない、その仕方を日本人は全くできなかったと僕は思っているわけです。
 けれども、日本の中枢を担っている人、内閣の枢要にいる官僚の方がそういうのは、僕は信じられない。それは属米じゃないかということをいって、そういうのがかなりの討論の種になったわけです。そんなことがある。
 とにかく、いろんなときに、横同士がしゃべりながら、何か意識を形成することが全く苦手な国民、それをやってこなかった。この市民意識の欠如は大きな問題だと思います。

 本題に返りますが、皆さん、建築とか都市計画をやられている方だから、ここで挙手をしてもらうのはやめますが、一般的な、100人ぐらいの方がおられる中で、手を挙げていただきますと、同じように義務教育からやってきた音楽に対しては、「わかる、わからない」という人はほとんどだれもいません。「好き、嫌い」で皆さん述べる。最低限カラオケも含めれば9割ぐらいの人が自分で歌うわけです。ところが、100人の人の中でこの5年間、10年間、年賀状でもいいから、何らかの形で絵をかいた人、手を挙げてくださいというと、平均2人です。ほとんどの人は、「わかる、わからない」という。皆さん、ご専門だから、「わかる、わからない」ということをいわれないかもしれませんが、「わかる、わからない」という美術ということが日本の中で大きくなっている。これはある意味でいうと、市民的な意識がないということとパラレルだと思います。
 これだけじゃ、ちょっとわかりにくいかもしれませんので、もう1つ例を申し上げますと、例えば、僕の年でいうと、文学者は立松和平とか、村上春樹、津島祐子さんという人たちがおられます。その人の小説はおもしろいとか、最近は全然つまらないよとかということ、そういう同時代の人たちの表現として、我々は「好き、嫌い」をいう。ところが、美術になると、一挙に同時代性というのは抜けます。つまり、「いい絵だ」とか、「立派だ」とかいう言い方になって、これは同時代の表現ではなくて、何か飾られたもの、あるいはウィンドーに入ったものとしてやっている。
 日本人ほど美術の展覧会に行っている国民は世界にありません。だけど、実際上は、最初の15分は、作品をそれでも見ているんですが、10分か15分すると、みんな題名を見て歩いています。つまり、絵を楽しむという経験は全くない。あるいは日本人ほど美術全集を持っている国民はありません。カローラ版というのを含めていうと、大体数軒に1つの、このぐらいの厚さになる全集をお持ちである。何らかの形で美術の本は持っている。こんな国民は世界じゅうには全くありません。でいながら、美術は、「わかる、わからない」という範囲になっている。これがなかなかおもしろいわけです。つまり、同時代の表現じゃない、あるいは五感を通して感ずるものじゃない。
 後でお話ししますが、代官山をどうするかというのを時々相談する会があるんですが、今、代官山は高層ビルの問題がガンガン出てきていて、地区計画をとにかくスタートして何とか考えたいという動きをやっています。中心になっているのは、槇先生です。
 そのときに16階ならいいか、12階ならいいかという話をやらざるを得ない。だけど、本当は、昔お見合いのときによくいわれた言葉で、「写真と手紙と第六感」という言い方をしました。町の景観というのは第六感で判断するしかないんだけれども、計量可能なものでやるしかない。
 ここに行政の方がおられるとうまくないんですが、とにかく行政の担当者が景観というものに対して、ある感覚をほとんどの方は持っておられませんね。つまり、計量可能なものとして、物をやろうとしている。これが大問題だろうと思っています。
 つまり、美術なり、五感を通して物を考えるという訓練がなぜできないか。これはコミュニケーションの問題だろうと思っています。
 そんなふうに思っていて、美術というのをどう同時代的な中に持っていけるかということを私はやり出したわけです。つまり、絵をかくことから、そうじゃない、インフラの方に入っていったということがあります。
 今の美術というのは市場的には全くリアリティーがない。これも槇さんの話を取り上げさせていただきますと、何で日本の美術がだめかということを、彼は建築を含めて、あるいは漫画と比較して話すわけです。つまり、明治維新になったときに、美術というのは国の保護のもとに動いた。建築はそんな保護をだれもされなかった。ですから、実際の市場を探し、実際のファンを探し、お客さんを探していく中でしか生きられなかった。これが建築です。ところが、美術、アーチストというのは国家の保護の中で、わけのわからない芸術院会員とか、そういう方向に行くわけです。つまり、需要が全くなくても成立する世界がそこに出てきちゃったということがある。
 そういったことを、「好き、嫌い」の世界に持っていかない限りは、人は絶対に美術に対してファミリアな感じにならない、そういうふうに思いました。
 そこで、私たちは、町の中にアートを持っていきたいと思いました。そのときにはほとんど、つまり美術館の中では関係者しか行かない、だけど、町の中にある場合はみんな「好き、嫌い」で物をいいますね。それとか、「そんなの、ちょっとどけてくれよ」とかいうことを含めて、アーチストは市民というか、住民の目に本当にさらされるわけです。そのとき初めて社会とかかわるわけです。ですから、アーチストはパブリックアートを余り好きではありませんね。画廊で、あるいは美術館でやる美術をいいと思おうとしてきました。ところが、その世界が日本の中ではガタガタと崩れています。実際にそれを支持する人がいない中で成立してきたわけですから、バブル以降美術は壊滅状態。
 そんな中で、ただパブリックアートだけは、それなりに命脈を保っている。それは「好き、嫌い」を含めながら、何か、施設あるいは町と人をつないできたという実際の実績があったからだと思います。
 そういうふうに町の中にアートが入ることによって、「好き、嫌い」あるいは「おれは嫌だよ、こんなもの邪魔だ」という世界に美術が初めて出てきたということがあります。これは前置きで、私が美術の立場からこういったアートの仕事にかかわってきたという説明です。



1.代官山

 次に、これからスライドを使いながら、代官山のお話をしたいと思います。
 代官山は今からちょうど35年ぐらい前に、もともとの地主さんであった朝倉さん兄弟が槇文彦さんにお願いして、ハード、建物をつくっていくわけです。非常にスローに町をつくってきた。それが代官山の骨格になったという珍しい町です。できてから15年ぐらい、今から20年近く前に私たちに声をかけられました。これはオーナーとか槇さんとか、そこのデザイン計画をやった朝倉さんとか、槇さんの事務所で担当して、それから独立した元倉真琴さんたちが相談して、「ハードの時期はもう終わる。これからソフトの時期である」。槇さんがつくられた建物は、簡単にいうと、パブリックな山手通りに対して、セミパブリックな歩道をつくる。それと、透明な形をとっていく。住居とオフィスと店舗をバランスよく入れていくということです。
 だから、公に対して、民というかプライベートがあるとすると、その中にセミパブリックな空間を置くことによって、何かコミュニケーションを図っていこう。これをスローにやっていこうという計画でした。けれども、建物の骨格ができた段階で、今度はそれをどういうふうにコミュニティーの中に企画化していくか。美術、文化をやっている人間を引っ張り込もうということで、私たちが代官山に行ったということがあります。
 住居は僕は代官山でもありませんが、東京にいる限りは、1日のほとんど、平均すれば、3分の2か4分の3は代官山にいます。そこで、町というものに対して非常にいろいろな経験をさせてもらいました。
 今、代官山は、ずっとアーバンビレッジを目指そうということを考えています。ちょっと差し支えあるかもしれませんが、わかりやすくいうと、とにかく一挙に、いろいろな意味で人が入ってくるようなことを避けよう。そこは店長しかいない店をつくりたくない。店長しかいない店というのは、わかりやすくいうと、今のブッシュ政権みたいなもの、あるいはミヒャエル・エンデがいった、モモの灰色の人たちのように、こういうグローバリゼーションで、儲かるところに金融資本はいきますね。もっと儲かるところがあれば、次に動く。大げさにいえば、1つしか勝ち残れない構造、そういったものがあるわけです。そういうふうにならないようにする。
 店長しかいない店というのは、いつでもなくなることができる。つまり、すぐスラム化するわけです。とにかく資本はバッタのように一番儲かるところに動いていかざるを得ない。そのときにそんな状態にならないようにするためにはどうしたらいいかということを時間をかけて、いろいろな動きの中でやっていく。規模として、コミュニティーが効く範囲というのはやっぱりビレッジだろうと。阪神・淡路のときに、ここにご経験の方がおられると思いますが、私たちもいろいろな形でかかわっていたわけです。そこで、実に見事にいろいろなことがわかってきた。
 そこでの教訓、アート的には1つ出てきますが、校区を中心としたコミュニティーがぎりぎりの範囲である。つまり、校区を超えた計画は極めて意味がない。子供を通してつながる世界、そういったものが適正なヒューマンスケールだろうということがわかってきた。代官山はその範囲の中でやっていこう。住居とお店と事務所をバランスよくやっていく町にしていくために、とにかく急激に変えていくのはやめようとか、いろいろなことを考えています。
 ここにも関係者の方がおられて、苦々しく思っている方もおられるかもしれませんが、36階建ての建物が今18階建て、反対運動なしにお願いすることができました。反対運動に関しては、できるだけ僕らはそれを抑えました。つまり、大した話なんですが、それが区議会の場になると、とにかくクロかシロかという話になっちゃう。そうなっちゃったら何も進まないということで、そこの発注者にいろいろな形で、ぎりぎりのところはどこなんだということを話して、「あなたの子供さんたち、あるいはお孫さんたちが地域の人たちと一緒に今後やっていくためにどういうことを考えたらいいのか」ということから、お話を始めながら、そういう話になってきたということとか、テレビなんかで何度かやりましたが、落書き消しのプロジェクトをやっていくとか、そういう中でいろんなことをやっているわけです。
 そこで、都市の中で希薄になったコミュニティーというものを村の規模でどうつくっていくかということ、これはかなり時間をかけていることです。僕の時間の中では一番大きな時間を占めています。そういったことをやっています。
 代官山の話から、つまり、それは美術の話じゃなくて、町あるいはそこに住んでいる立場からどういうふうに考えてきたか。それから、先ほどいった妻有の方にいきたいと思います。
(スライド1)
 スライドが全部で200枚近くありますので、ダッシュします。ご存じのように、代官山は同潤会アパートがあることによってできていった町です。同潤会アパートは関東大震災の後、内務省が労働者対策としてつくろうとした、つまり矛先をよそに移そうとしてやったわけですが、建築家たちは、その職能によって極めてまじめに、すばらしい、当時としては先進的なアパートをつくったわけです。70年たってこれを壊さなきゃいけないということになりました。詳しい数字は忘れましたが、地権者600人ぐらい、これをどうまとめるかということがあったわけです。いろいろな理由があって、何とか建物を建てるということができました。ただ、残念ながら高層を建てる以外に、その地権者たちを満足させるようなことはできないということで、高層ビルが建つことになりました。
 もともと住んでいる人にとって、高層ビルはいいことは何もないわけです。だけれども、その人たちは入らざるを得ない。そのときに、じゃ、どういうふうにしようかというのが、この十数年の中で最初に出てきた問題です。代官山のいろんなことを新しい居住者たちにわかってもらおうということで、何をしようか。反対運動はやめよう。その人たちにうまく理解してもらう。結論としてそこそこうまくいっていますが、3つのことをやりました。
 1つは、同潤会の展覧会です。歴史的な展覧会です。どういった間取りであって、どういうふうにこれが変遷してきたか。これは今、結果として都市公団の八王子研究所に2部屋か、移築されています。
(スライド2)
  2つ目にやったのが「ステキ発見」です。これはいろいろな地域にかかわるときに、よくやっている手法です。そこに住んでいる人及びそこに通ったり、あるいは遊びに来る人たちみんなで写真によるコンテストをやろう。写真のうまさは関係ないよ。写真で代官山のおもしろさを探そうということです。
 後ほど時間があったら、申し上げますが、今大きな問題は、そこにいる人たちだけで、そこの問題を決定していいのか。そこにいる人たちだけでやってきた結果が今のそれぞれの町、あるいは地域ではないか。他者がかかわるという仕組みをどうつくるかということ、これはタブーに近いですね。今住民が意思を決定する、これは全く正しいんだけれども、住民だけで意思を決定することの危なさということを僕たちは考えているわけです。旅行者その他も含めながら、「代官山ステキ発見」をやりました。(スライド3)
 みんながいろいろなことを考えながらやるわけですが、その中で特別賞がこれです。これは非常によかったんです。このお2人は小さいころ代官山に住んでいた。代官山で何かいろいろやるぞと聞いたときに、その写真をこの姉妹が見つけてきて、同じ場所がまだ残っていたので、そこでこの姉妹が、65年ぐらいたってから、同じポーズを撮って写真を送ってきました。
 代官山の3つのイベントをやったときに、今まで住んでおられた多くの人たちが来られたわけです。その人たちも、その次の代官山に関しての意思決定に何らかの形で参加する。つまり、遺伝子というか、系統発生を町の中に入れない限りはだめである。つまり、資本の論理に対して、あるいは均質な合理性の理論に対して、時間をどう組み込むかということをやらなければだめであると考えているからです。
 こんなのが出てきまして、代官山って、どういうところがそこにあるか。空間だけの問題だけではなくて、時間を含んだ場所の問題として皆さんが考えるようになりました。
(スライド4)
  もう1つ、ここでアートの展覧会をやりましょう。ですから、壊す2週間前の10日間だけここの持ち主、東京都に話して、10の作品をこの中でやらせていただきました。これは遠藤利克さんの仕事で、この年の日本の美術のおもしろかった例としていろんな人たちが挙げておられます。説明しますと、割ときれいな部屋で残っていました。キッチンのシンクを閉じまして、水道局に行って、日中、チョロチョロと水を流させてもらいました。水が流れていって、シンクからあふれ出して、床にまで流れ出しているということ。それだけの仕事ですが、これを見たときに本当に胸が詰まりました。つまり、今壊されていくこの部屋に、恐らくだれだれさんがいて、だれだれさんのお姉さんがいて、だれだれさんの弟がいて、おじいちゃん、お母さんもいて、そこでいろいろな喜怒哀楽があったんだな、そういった何かをシンクから流れ出た水によって、私たちは胸をつかれる思いがしました。つまり、1つの建物がなくなるということは、どういうことなんだろうということをグサッとこのアーチストは私たちに問いかけたわけです。
 ただ、このときに、幾ら2週間後に壊すといっても、人が住んでいた家に水を流すということに対して、住んでいた人がどう思うかなと僕は心配してたんです。幸いというか、3日目ぐらいに住んでいた人が訪ねてこられまして、「本当にありがとう」といって、帰っていきました。そういうような時間という問題がここであった。
 「さようなら同潤会アパート展」でやった3つのこと、学術的な展示、それと「ステキ発見」及びアートのインスタレーションということ、これが新しく入ってくる人たち及びもともといた人たちに対して、代官山に対する認識を相当な形で変えたと思います。その後、代官山はいろんな意味でいい動きが始まってきたわけです。
(スライド5)
 その跡地にこういったパブリックアートが入りました。
(スライド6)
 この辺は簡単にやります。
(スライド7)
 これをちょっと申し上げておきますと、フランソワーズ・ブランという人の作品です。これは阪神・淡路の大震災、阪神に幾つかこういったものがあります。スクランブルがかかったときのいろいろなものが建物の中にあった。それによって建物が壊れたときにどうしようもなかった。そこでアートに何ができるかという話が、その後いろいろ考えられていったわけですが、みんなの記憶に残るものがあった。それが屋外にあって機能を果たしている。だけれども、一たん危急の折は、そこに何かがあるぞということです。このベンチの下がどうなっているかといいますと……。
(スライド8)
 こういったものが入っているわけです。つまり、そういったこともこの代官山では幾つか試みているということがあります。
(スライド9)
 代官山を先ほどの同潤会アパート展の後、いろんな意味でよその人とつながっていこうと。それに美観意識を持っていこうということで、2年に1回、インスタレーション展というのを公募でやっています。今年ももはや人は選ばれて、今製作中ですが、これは商業高校の前で、条件としては一切傷つけちゃいけないということで、商業高校の横のフェンスに、物すごい丁寧な仕事ですが、こういったことがあります。
 そんなようなことをいろいろやってきているわけです。代官山ではアーバンビレッジに向かっていろいろなことをやっていくということです。ヒルサイドテラスはメセナ大賞をもらいました。つまり、メセナとして一切ヒルサイドテラスはやってないんです。自分たちの場所のビジネスとしてやっているわけですが、ビジネスを成立するために、他者がかかわる。いろんな意味でコミュニケーションをとっていく仕組みをつくろうというビジネスがメセナという形で評価されたわけです。そういうアートということが1つの媒介になりながら、いろいろな話し合いが行われ出したということがあります。
 代官山に関してはいろいろな要素があるんですが、なかなかすごかったことは、空間的な最初の考え方、旧山手通りというのを大切にする、この中でいろんな意味のセミパブリックをつくり、なおかつ3つの、オフィス、お店、住居をバランスよくやっていく、そういう世界をつくろう。だけど、それは一たん1つ形としてはできた。空間的には用意したけど、それをオペレーションしていくために、いろんな意味のアクションを起こさなきゃいけない。このアクションというのが、芸術的な試みではないか。そのときに恐らくオーナー及び建築家の中にアートを中心として、アートというのは人と施設をつなぐだけじゃなくて、人と人をつなぐ作用があるんだということがあったんだろうと。この代官山のいろんな経験が次に動くわけです。ファーレ立川にいくまでにいわゆるパブリックアートというのがどういうふうに日本の中で展開されてきたかというのをちょっとおさらいしてから進みたいと思います。
(スライド10)
 これは僕がいるんですが、パブリックアートの一番典型的なものは、恐らく渋谷のハチ公だと思います。だれでもが知っているテーマ、それなりに彫刻家がちゃんとつくって、認知されている。これが出発ですね。大村益次郎像でも、二宮金次郎でも同じことですが、これが最初に屋外にある彫刻といってもいいと思います。
(スライド11)
 その後、これは歴史的な作品なので、出させていただきましたが、舟越保武先生の長崎の26聖人像です。もちろんこの建築は今井謙次先生がやられました。これは恐らくパブリックアートの絶頂といいますか、最も幸せ時代だったと思います。つまり、これを今井謙次先生及び舟越保武先生は、原爆投下の長崎と、豊臣秀吉の時代に堺から長崎まで、手かせ足かせして行って殉教した26聖人、この2つをオーバーラップさせたわけです。これはこれを見ている人、これの背景にある、恐らくその当時の日本人に最も共有感覚を持てるものとしてつくられたと思います。ですから、作品のリアリティーあるいは力というのは物すごくあります。今もまだ何とか存在できる。時代の共有の意味の中で成立したパブリックアートの最高傑作だと思います。こういう時代がありました。これはもうこの時代で終わりました。
(スライド12)
 次に、1965年に宇部市が戦災の後、いろいろ傷んだ風景あるいは人心というものを何とかしようと思って、公園で屋外の彫刻展を始めました。その後、神戸市の須磨が彫刻展を始めて、2者が相談しながら、順繰りに毎年やっていくということをやりました。ここで日本の彫刻、パブリックアートの原型ができたわけです。
 これは本来よしとすべきことではあって、外国がいいというわけではないんですが、日本にしかない彫刻の形ができてきた。それは悪くはなかったんですが、今や都市の中心地に金太郎あめのようにいろいろな作品が同じような形でできている。つまり、都市あるいは都市計画といったものが、ある場所を面とか線でつなぐものであるとすれば、恐らくアートというのはそこにひだをつくっていく。ひだをつくることによって面とか線に味を与えるということだと僕は思っています。
 それに対して、本来個人の生理的な表現であるアートが、何となく、建築の外縁のように今なってきちゃった。この作品は僕は好きなんです。例えば、わかりやすくいうと、こういったステンレス、鏡面仕上げの抽象的な形。
(スライド13)
 あるいは石を丹精込めてとにかく彫り込んでいる作品。
 この2つが圧倒的に日本の公共空間に出てきました。それは何か。それは人間の生理に対応した豊かさというよりは、まさに見事に建築の外縁になってきちゃったという問題があって、美術は美術であることを放棄し出したんです。本来美術というのは極めて個性的ものであるけれども、日本のパブリックアートのほとんどは似たようなものになってきて、ちょっと問題が起きてきたということがあります。
 これは先ほどの美術に対しての話とちょっと関係するわけで、決して批判ではありませんが、やはり建築家のほとんどの人たちも、とにかく美術そのものに対してはジャッジをしていません。つまり、建築の外縁である限りは安心だという考え方を恐らく皆さん持っているわけです。それはあまりおもしろくないと僕は思うんですが、そういう傾向があります。
 何でそうなったかといいますと、考えてもみてください。恐らく100年後の美術史は日本のこの彫刻を日本様式というと思います。
 もう1つ、日本の中で圧倒的な隆盛を誇ったものに版画があります。これは日本にしかない現象ですね。つまり、日本のマンション空間に非常にワンパターンの、駅や何かで30万ぐらいで売っている版画を考えてくださればいいです。ほとんど同じもの。壁紙としか思えないような形で日本のマンション空間に出てきた。これも恐らく100年後に日本様式といわれる非常に特殊な形です。
 つまり、この2つに共通していることは、僕は20世紀の理想だったので、批判するわけではありませんが、均質な空間にのみ成立する作品の形態。ですから、宇部と神戸で始まったことを考えていただけるとわかるんです。それ自身を僕が批判しているわけではないですが、つまり、公園という極めて安定的な場所によって成立する、一種の美術館というホワイトキューブにのみ成立する作品と同じような成立の仕方をしたわけです。ですから、駅前とか、あるいはちょっとした、何かパサージとか、そういうところの場所を読み込んでいる作品ではないわけです。公園という均質な空間によってのみ成立する作品、これが宇部、神戸で物すごく頑張っちゃったために、ほとんどの建築家なりアーチストなりが、それがパブリックアートであるというふうに思った。日本じゅうのいろいろなシチュエーションを抜きにして、この形式の作品がガーッと入り出したということがあります。
(スライド14)
 その後の時代でいくと、佐藤忠良先生の作品です。もう1つ違うタイプの作品がありまして、これも一たんは、やったわけです。仙台の定禅寺通、伊藤豊雄さんの作品のある通りです。そこにこういった彫刻設置事業をやりました。当初、こういった作品が置かれていったわけですが、今や女性のヌード像というのは恐らくどこでもオーケーされない形になってきているわけです。つまり、ここで出てきている問題は、共有の意味が成立しない時代に入ったということです。今やその事業は、もう6年前の作品です。
(スライド15)
 これは藤原吉志子さんの作品ですが、「昨日・今日・未来」というテーマです。つまり、そういったものの中で非常に抽象的なテーマで作品をつくるしかなくなった。建築とか都市というのは最大多数の人のためにある便利さを提供しようとするのに対して、アートはどうしても個の生理ということによって、時代の不安、あるいは同時代の中の少数の意見、あるいは今はなくなって見えてこなくなった過去のものというものを、人間の身体あるいは生理を通して表現するものを僕は美術だと思っています。そういったことはできなくなってきちゃった。これが大きな問題としてあるわけです。これは先ほどからのいろいろな問題と同時に、均質化という問題と関係していると思います。
(スライド16)
 その後、日本が好景気にわくころになって、景勝の地にこういったアートが置かれるようになってきている。これがパブリックアートの隆盛期です。
(スライド17)
 これは親子です。
(スライド18)
 これは瀬戸内海です。そういった時代がありまして、その後メセナということがはやり出して、いろいろなところに作品が置かれるようになりました。
(スライド19)
 その典型が、三井海上火災にある作品です。これはトレンディードラマの舞台に3回くらいなっています。そういった作品です。こういうふうに日本のパブリックアートというのは流れてきている。だけれども、どうも全体にあるのは、幾つか批判ぎみにいいますと、とにかく建築の外縁になってきちゃった。あるいはそこの会社はこんな立派なものを持ってますよという見せ方になっちゃう。それは本当にアートが人と施設をつないだり、人と人をつなぐ機能を果たしているのとはちょっと違うんじゃないかということを思ってきたわけです。
 そういう中でバブルが崩壊しました。バブルが崩壊するぎりぎりのところで、立川市の再開発事業が住都公団によって行われて、コンペティションが行われました。それがファーレ立川のアート計画の出発になるわけです。
(スライド20)
 そのときに、幾つかのアートの事例を、私は外国に探してみました。これは都市計画上かなり意味があるミネアポリスのキャッツウォークです。日本でも外国でも、どこも同じわけですが、駅の南北あるいは東西、あるいはこういった道路の南北、東西というものの地域の落差、仲の悪さというのは大きな課題になります。そのときにシア・アルマジャーニというアーチストが、こういったキャッツウォーク、このくらいの幅を提案しました。ミネアポリスの人たち、行政はカンカンになって怒って、人が2人通れるぐらいの橋のために何でこんなばかなお金をかけるのかというわけです。けんけんがくがくの大論争になって、とにかくできました。これはいいアーチストだから、何とか残ったわけですが、そのときにシア・アルマジャーニのコンセプトは次のとおりです。
 嫌い同士の集団としての南北が、図式的にいえば、2人が橋の中で会うことがあるだろう。そのときに、集団としては嫌いだとか、政治的には反対になっても、1対1で会うときは「ウーッ」という顔をして会うわけにいかないじゃないか。会った瞬間、「やあ」とかニコッとか、照れくさいなというぐらいの顔はするだろう。その2人しか通れない道を彼はつくろうとしたんです。それ自身のコンセプトとこの美しさもさることながら、アートのまちづくりにおける最大の機能は、アートといった瞬間にほとんどの人が反対するということです。
 つまり、1つの、先ほどからいっているように、同時代的な共有の感覚が、アートの場合、建築あるいはデザイン的な形で成立しないからです。つまり、100の作品がある場合、あるいは1つの作品に100人が「イエス、ノー」といったら、みんな好き嫌いは違うわけですね。だから、アートというと、ほぼみんな反対する。反対しやすいわけです。少なくとも機能的には役に立たないと思われている。
 そのアートといった瞬間に大反対したミネアポリスが、このけんけんがくがくの中で、この後、都市計画が極めていい形で進んだという例です。これは何代か前のモンデール大使の奥さんが、これをやっているときに学芸員だったんです。モンデールさんって、副大統領をやられた方です。これを見ていて、パブリックアートの1つの大きな意味は、その地域の文化あるいは時間というのを考えるために決定的に役に立つという信念を持ったそうです。
(スライド21)
 次、これはもう1つ典型的な例です。ルーブルの横にあるパレロワイヤルですね。ルーブルは年間何百万人の人が行くわけですが、ここにはほとんど人が来ません。だけど、このパレロワイヤルというのは、歴史的な建造物である。フランスのパリは、ご存じのように地下水道がすごいわけです。ジャン・バルジャンの地下水道を思い出していただければいいわけです。この下に下水道が流れている。その地盤を変えなきゃいけないというときに、ダニエル・ビュレンヌというシマシマのアーチストですが、こういった計画を立てました。シマシマなわけです。それに対して、当時の市長はシラクです。「冗談じゃない。この歴史的建造物の中にこんなシマシマのわけのわからないアーチストを使うな」といって、拒否したわけですが、そこはフランスで、いろいろな文学者とか、みんながワアワアやりまして、つくりました。夜の光景です。
 このビュレンヌを見に来ると同時に、それによってこのパレロワイヤルに人が来るようになった。かなり多くの人が来るようになりました。フランスは、この時点でフランスの文化政策を180度展開させました。つまり、古い建物、壊したり何かするときに、とにかく新しいアーチストを入れることによって、古い酒袋に新しい酒を入れるということをやろうとし出したわけです。フランスは、それによって古い学校、修道院、病院、その他が劇的に生き返ってきた。そういうことがあります。
(スライド22)
 フランスの話はまた出ますが、もう1つ、ミュンスターというところで、1977年から10年に1回、屋外彫刻展が行われています。その中の美しい仕事です。先ほど遠藤利克さんの同潤会アパートのお話をしましたが、ここでは10年に1回彫刻展がやられる。これはご存じ、キース・ヘリングの作品です。僕はこれが物すごく好きなんです。
(スライド23)
 ちょうどそのときに、子供がここで本を読んでいました。
(スライド22)
 この公園に、歴史的建造物として石づくりの農家が移築されたわけです。キース・ヘリングはこの農家は今は文化財だけれど、ここに人がいたんだよということをこの犬を配置することによって私たちに思い出させてくれる。先ほどと同じように、ここにケーニッシュという子供がいたとします。その子供にはお兄ちゃんなりお姉ちゃんがいて、そこでは事件があったかもしれないし、何かがあったかもしれない。そういうときの喜怒哀楽は、今は何も人のいない建物でしかないけれども、それは建物として見るな、そこに家族がいたんだよ、生活があったんだということを犬で出したわけです。恐らくそこの幾つかの家族は犬を飼っていただろう。だから、犬ぐらいちゃんとつけてあげようと彼は思ったわけです。
(スライド24)
 もう1つおもしろいのは、これは先ほどのシマシマのアーチストですが、これはちょっと「ステキ発見」に似ているわけです。彼がここでやったことは、こんな仕切りをつくっただけなんです。見事、ここにあるんですが、僕は全然わかりませんでした。町を歩いてやっと見つけた。「オペラ座の怪人」のポスターが張ってある。その話をビュレンヌさんにしたら、大喜びしていました。これは「ステキ発見」後、そのミュンスターの学校の先生がする。「君ら、この町の中でおもしろいものを探しておいで」というと、やがてこういうものを探して来る子供がいるわけです。「よく見つけてきたね。ほかにないか、調べてごらん」というと、子供は赤白だけじゃなくて、緑白、黄色白、青白の、こういった門を探すことができる。これもなかなかすばらしいわけです。
 「じゃ、何でそこに門をつくったかなということを調べてごらん」という。何の変哲もなくて、ちょっとした仕切りでアクセントが効いているなでいいんです、僕たちが見ている範囲は。でも、調べていってみると、この門が置かれているのはナチスドイツのときに、収容所をつくったところのよそとの出入り口のところにこの門が置かれていることに気づくことができる。
 つまり、先ほどいったように、時間というものの積層の中から何かを探してくるということも、アートの1つの務めなわけです。これもやっぱり時間という概念。場所と時間というのは極めて密接にかかわっているということをあらわしているわけです。
(スライド25) 
 その中でパリの先ほどのアート計画の中で、僕の大好きな作品は、「世界の部屋、ワロンの食堂」というものです。ここは人口が400人ぐらいの小さな町です。だけども、例に漏れず、昔からの町ですから、小さなシャトーがある。このシャトーしかここには財産がない。それを観光施設に変えようということを町の人は考えるわけです。それで、アーチストがここに参加する。物すごく人気があって、今は人がたくさん来られるそうです。だけれども、1日だけ休みがある。ちょっとよく見てください。暖炉の上。1日の休みに何をしているかということを次にお見せします。
(スライド26)
 つまり、あの暖炉の上にかかっていたのはお皿で、それは村人全員の横顔をかいていたわけです。皆さんは、1年に1回、村人全員が集まって食事をする会を開いている。つまり、ここには横顔しかかけなかったアーチストかもしれない、だけれども、横顔をかくということによって、いろいろな人と人をつなぎ、なおかつ、地域に人を呼び込みということをやっているわけです。これが僕が考える人と人、人と場所をつなぐ、こういったいい例になるかと思います。
 そんなことを勉強してファーレ立川に行くわけです。



2.ファーレ立川

(スライド27)
 ファーレ立川は、約6ヘクタールの場所にオフィス中心でホテル、デパート、町の公共施設を入れるという計画でした。機能的には極めてすぐれている町です。高さ制限が航空法にひっかかって45メートルぐらいで切れている。ですから、高層が建てられない。よって、町を細分化していって、道路がやたらに走っている。よくあるような高層、中層、低層で広場を中につくるというやりかたはとられなかった場所です。 物すごく便利にはできているけれども、全く陰影がない。コンペに私たちが最初にかいたのは、この町はおもしろくないということです。つまり、町に人がいないわけです。来るかもしれないけど、町そのものから時間が捨てられている。そのときのコンセプトは、1つは、機能をアート化するということです。実際上、建築計画はほとんど終っていましたから、排気口とか、ボラード、そういうものしか手を入れる場所はなかった。建築家はそのくらいしか許してくれなかったわけです。
 そういう中で、アートというのは、人と人をつなくべきものだろう。1つのアートが、みんなが60点をつけなくてもいい、嫌いな人もいたっていいけれども、好きな人もいるというアートを入れようということで、国籍、出身地及び技法、コンセプト、できる限り違う人たちに機能のある場所をやってもらうということをやりました。アートというのは、先ほどからいっているように、生理の表現です。そこで100人の人間たち、100人の何かを設置したいと思ったわけです。これは西北の角にある作品です。パッとラッシュします。
(スライド28)
 これはちょっとご説明しますと、本来はこういった車どめが置かれなきゃいけないんですが、拡大解釈しちゃったわけです。つまり、その位置に、ホセイン・ヴァラマネシュというアーチストが、一番身近なもの、自分の座っているいすとスリッパ、そして自分が一番好きな本を設置したということです。これはある人間そのものの変化した形として出てきているわけです。でも、アーチストって、出しゃばりですから、影そのもの、自分の影まで彫っちゃったということです。
(スライド29)
 ここでは、広告看板の規制をしました。だけれども、アートはよしという話なんです。つまり、こうやってみると、わかりませんが、これは灰色の空に鳥が1羽飛んでいるだけの作品です。いろいろなところで建築的にうまくいかない場所がどうしても出てくる。きつい条件でやればやるほどそうなってくる。つまり、アートというのは、建築が成立した後に、その弱点というと、建築家の方には怒られるかもしれませんが、何かやり切れない場所をどうこうするという部分がかなりあるわけです。
 アートというのは目は選べます。オーケストラと同じように、オーケストラに行くと、ハープの音も自分は聞くことができる。自分で耳は選択しながら聞いているわけです。アートも選択して物を見ます。それによって周りのいろいろな夾雑物を消すことができる。そういった例です。
(スライド30)
 機能のアート化ですね。
(スライド31)
 照明。
(スライド32)
 これはシャローの壁。
(スライド33)
これは縦横が斜めになりましたが、建築的に処理しにくいデッドスペースにアートがあることによって、明るい開口部にすることができる。
(スライド34)
 これは車どめの拡大解釈ですね。本来は、こことここの石の車どめができる位置に輪切りの自動車。これは車どめであると同時に、ベンチになっているわけです。これは今、中学生か高校生の教科書に相当載っています。
(スライド35)
 あるいは中の機械室を2年に1回、L型のパネルを外してやる。何も置けない場所、そこにアートの作品を入れる。そんなことをやったわけです。
(スライド33)
 これも条件を申し上げますと、デパートの車の出口、階段、支柱、わけのわからない青い線が引かれているデッキ、これは相当うるさい場所である。そこにこういったフニャッとした線をかいたわけです。手前は細く、遠くは太く。これがある場所から見ますと……。
(スライド36)
 こういった真円を描いているということです。こういうお遊びもやりました。これも町の夾雑物をまた1つ足すことによって消そうという試みです。
 そういったいろんなことをファーレ立川でやりました。これは数年前の世界都市計画学会がイギリスのブリストルで行われたときに、基調報告の中でやったわけです。都市の機能のアート化として、僕ら、「ファンクションをフィクションに」という言い方をしていましたけれども、そういったやり方。
 この当時は、日本は首相もバタバタかわって、海部さんとか、そういう人たちが3人ぐらいかわった時期かもしれません。とにかくベルリンの壁が壊れて、世界がもしかしたら安定するんじゃないかと思ったけれども、ガタガタになっていく。なおかつインターネットが始まり出して、通信の均質性といいますか、グローバル化が始まり出した。この当時の首相が3人続けて、皆さん記憶にあると思いますが、夜中の2時ぐらいに首相交代をしていた。つまり、日本の国民に対してメッセージをするのではなくて、ワシントンに対してお伺いを立てたという時期です。
 そういう中で、この町をどうしようかというときに、人間の変化した形としてのアート、それが都市と人間をつないでいくというようなことを考えたわけです。ファーレ立川では、今もボランティアの人たちがガイドをしています。大変な中ですが、何とか持ちこたえているということがありました。
 だから、ここでやろうとしてきたことは、そういったコンセプトもあるわけですが、あるストーリーをつくる。とにかく人がいない町ですから、その中に何らかの形で、好き嫌いがあってもいい、つまり、自分の友達が1人いるような町をつくりたいということで始まったわけです。
 これはそれまでにあった、先ほどの建築の外縁としてのアートということから、もうちょっと違う形のアートに変化させようとした試みです。
(スライド37、38)
 そんなわけでファーレ立川はやりました。



3.越後妻有アートトリエンナーレ

 その後、幾つかの計画があったわけですが、一転して、新潟の過疎地のお話をさせていただきます。
(スライド39)
 これは長野県の坂井村と接するあたり、人口3万人以上では世界一の積雪の地帯です。近代化の中で若い人たちが都市に労働力として出ていく。あるいはこの地帯はフォッサマグナの地域で、今から100万年前は日本が二分されていましたから、海底にあった地域で、地盤は極めてよくないという場所です。それで過疎はいくだけいっているわけです。最近はこれに追い打ちをかけて、日本が農業を捨てました。自給率40%の国は先進国ではありません。そういう中でこの地域の人たちは1500年かけてつくってきた、農業を通して自然あるいは大地とかかわるという生活の形態を国が拒否したというか、それを認めない。それだけでも大変でしたが、もっとひどいのは、直接支払いということによってコミュニティーを崩壊させ、働くな、お金はやるぞという形式をとってきた。これは大変な話なんです。
 この地域はお年寄りの自殺率は今から十数年前は日本のトップでした。何でそんなことが起きたかということを考えなきゃいけない。それは明治維新のときに、日本国民が約3000万人、そのときに新潟県が約300万人、つまり10分の1を養っていたわけです。それはなぜかというと、気候です。夏の高温高湿が米には一番いいからです。新潟県が高温高湿では夏は日本一です。それが冬になると大豪雪になるわけです。
 そういう中で、この松代、松之山という左側のところは平地がありません。ですから、すさまじい労力をかけて棚田をつくってきました。松代、松之山の棚田は、日本の棚田100選とか50選に、ガンガン出てきます。何でそういう美しい棚田といわれるかというと、1粒も多くの米をとるために、除草をよくやる、あぜをちゃんとつくる、そういったことがあるからなんです。
 そこまでやって、とにかく気候がいいことのために山の中にすごく労力をかけてつくってきた農業そのものを日本の国家が捨てたということに対して、彼らはすべてのアイデンティティーを失っていく。そういうことがあったわけです。
 その中で広域でソフト事業をやる。それしかとにかく手がないだろということになったわけです。その中で10年の事業をやっていこうということです。普通だったら、アートはこのまちづくりには効かないと僕は思いますが、ここではもともとガチャマンとか、手機3000軒といわれたほど絹織物が盛んだった。だけど、オイルショックで完全になくなりました。
 大阪では、淀屋橋とか天満橋という形で、お金持ちの名前が橋についています。これは司馬遼太郎さんがよくいわれていることです。つまり、財力を社会資本に変えていったそういう底力があるわけです。ところが、この地域はお金持ちが社会資本に投下していません。オイルショックのときに完璧なまでのリストラをした。ですから、十日町というのが人口7万8000人のうちの4万3000人ですが、十日町市及びそこの中心の人たちに対して決定的な不信感を周りが持っています。それが先ほどいった農業とか過疎の問題に加算されているわけです。
 新潟県はこれを何とかしようと思ったわけです。とにかく打つ手がない。広さは琵琶湖と同じぐらいの広さ、760平方キロです。その中でどういう手を打つかということで、アートを通してまちづくりをやるということを打ち上げました。アートネックレス整備構想といったわけです。それをいった瞬間から4年半の間、あらゆる意味での反対が起きて、6市町村で100人の議員の先生がおられますが、全員反対。僕に対する誹謗中傷は数を知らず。4年半の間にやった説明会は2000回。そういう中でも2000年の7月オープンには、1年延びた上でやっと5月にオーソライズされました。つまり、アートといった瞬間に出るべき話は全部出てきたという話です。
 ここで、なぜアートかというのは、先ほどお話ししたとおりです。1つは、アーチストというのは場を発見することができる。物質的世界に対してちょっと申し上げていきますと、物質的世界は、通信の均質化、いいこともあります。それから市場経済の均質化、つまりどこにでもお金がいけるようにした。1997年のアジアの通貨危機で壊滅的にアジアの国はだめになりました。そこからすぐ資本が動く。
 それが今生活システムの一元化ということをねらっているわけです。つまり、いろんな要素がとにかく均質であれば、それをシステム化すれば統御できる。それが1つの平和である。だけど、それぞれの地域に流れている時間を均質化することはできない。これはアリストテレス以来の、場に力があるかどうかという問題になってくるわけです。とにかく今までの時間を捨てることはできない。ただ、空間的に均質化することはできる。だけど、時間はその中に入っているぞという話です。
 ご存じのように、ミースファンデルローエの理想というのがあったわけです。それは20世紀の理想だったわけです。均質化あるいは民主主義。美術館もそうかもしれない。つまり、世界じゅうにあるホワイトキューブの建物、そこではアートは世界じゅうで同じように見える。それが20世紀の理想だった。ところが、その均質化というのはもっと危ない目に今来ているのではないかということがあるわけです。
 そうすると、この越後妻有という地域は、均質化でいくならば、あるいはグローバリゼーションでいくならば、絶対生き長らえないわけです。今世界の金融資本の流動化の中で、日本はどうしていいかわからない。その中で地方切り捨てがすぐ行われる。これは恐らくどの地域でもそうです。例えば、いろんな施設がディズニーランド化しているわけです。ディズニーランドのように資本を投下し続けてリニューアルすればもつかもしれませんが、ほかは全部生きることはできない。そういうことが行われているときに、こういった地域は生き残ることは基本的にできない。そうしたら、彼らがやるのに、あるがままのものとは何かといったら、独自に流れてきた時間をとにかく組織化するしかないということです。
 アーチストは場所を発見するだろう。アーチストがそこに入ろうとしたら、全員の反対を浴びる。そのときにアーチストは勉強する、あるいは学ぶ。そういう中でアーチストが黙々と仕事をしていき、村人たちは、とにかく最終的に参加することがあるわけです。
 つまり、ここで行われているのは、先ほどの市民性ということにもう一度戻ってほしいんですが、人の土地に物をつくることをアーチストがやろうとしたら反対するのは当然です。だけど、人の土地に物をつくるときに起きる批判、反対からコミュニケーションが生まれていって、そこであるものをつくろうとすることができたとしたら、それは大きなコミュニティーというか、横と横の関係ができるということです。
 ですから、この妻有では、アーチストは大反対を浴びるだろう。それはよし。だけど、アーチストがしぶとくやるならば、そこで初めてこの地域の人たちが全く拒否していた外部の人との協働性が成立するだろうということを考えたわけです。その大反対の中で1回目が行われました。
(スライド40)
 これも社会科の教科書によく出ている信濃川です。最高9段があります。参考までに、釈迦に説法ですが、こういうふうになっているわけです。そこを平らにする。そうすると、段差ができる、段差のところにまだ森が残っているわけです。これでテラスの数がわかるわけです。
(スライド41)
 棚田です。棚田をつくることによって生きてきたぞと。
(スライド42)
 豪雪です。
(スライド43)
 ちなみにいいますと、この地域では、後で出てくる学校では、最大8メートル50積もったという記録がある。柱に書いてある。8メートル50積もるということは、約4倍掛けていいんですが、30メートルの雪が降ったということなんです。それが8メートルの積雪になっている。そういう地域です。
 ここでは、予算が余りない。つまり、150のアートが入ってしまうわけです。いろんな仕事をしながら、それを3年に1回、あそこで公園事業があると、行って、何とかお金を少し割いてください、アーチストを入れてください、住民も参加させてください。こっちで道路があると、タッタッタと行って、何とかそういうふうにさせてもらえないかというわけだから、みんな嫌がるのは当然です。
 つまり、道路という管理のない世界、1キロ1億と、だれに落とすかさえ決めれば、あとは何の人間も入らない。仕事をする人は入りますけれども。そこにアーチストを入れ、住民が参加すると手間がやたらにかかる。その1億のうちの500万をいただくということをやろうとしたわけです。それは当然反対する。役所も忙しくなる。そういう中で、だけど、人がかかわることによって、そこはその人にとってファミリアなものになり、なおかつ、美しいものになる。花の道事業というのをやって、特にお年寄りたちはお花大好きですから、この広大な地域をまず連結しよう。植物を徹底的にやろうということです。これは道路ですが、なかなかできなくて、5年かかって最終的にできました。150人の人たちの参加です。
(スライド44)
 こういう花の道事業をやりました。
(スライド45)
 「ステキ発見」というさっき申し上げたようなことをやって、そのときにみんな結局出してくるのは、いい、悪いではなくて、この地域はとにかく農業を通して自然、大地とかかわってきたということしかないんだ、それしか宝物がない。宝物といっていいかどうかわからないけど。それをちゃんともう一度認識することだというところから出発したわけです。
 前回、約16万人の人が行ったといわれています。その数はメチャメチャな数なんです。これはかなり低目だと思います。それがもし150カ所全部は行かないとして、1人平均何十カ所だとしても、物すごい足跡がこの地域についたわけです。経済効率はメチャメチャ高かったわけです。だけど、みんな文句をいうわけです。広い地域、蒸し暑い、メチャメチャだと。みんなブーブーいって帰ってくるんだけど、帰ってきた瞬間「でも、何かさわやかだったな。おもしろかったな。変だったな」。この口コミがグングン人を呼んでいったわけです。
 つまり、そこで皆さんが感じたものは、アートを通して、里山を感じた。広大に歩くことによって五感を通して風なり、匂いなりを含めて感じた。東京都立美術館に行って、200のアートを見たら、みんな腹が立ってきて、「わからない、わからない、何だろう」といいますが、この自然の中、里山の中で見たアートは、みんな「わからない」なんて、だれもいいません。「おもしろくない、何だ、こんなものをつくりやがって」あるいは「ちょっとわかるな。ちょっとおもしろいな。変だな」。大体「変だな」といって帰ってきます。そういう感想を生んで、今年も、3分の2は雨でしたが、前回より物すごく多くの人が来られました。確実にいえるのは、1回来た人は必ず人を連れてくるということです。
 今まで、美術というのは、そういった均質な空間の中の外縁としてあったことに対して、美術が主人公ではなくて、そこの地域そのもの、あるいは地域に流れている時間を人々に伝えたということがここで行われたわけです。
 この地域は約200の集落があります。これは勘定の仕方によっていろいろ違うんですが、冬の間昭和30年代まで孤立していた時期、除雪がなかった時期に、雪の間孤立していた単位は約200です。この200に徹底的に寄りかかろうと私たちは思いました。
 あれだけ大反対していて、前回は、2つぐらいしか手を挙げなかった集落が、今回は1日で50手を挙げました。だからといって、本質はそんなに変わっていませんけれども、みんな楽しんでやりました。
(スライド46)
 これが最後の閉会式です。この写真を見てもわかるように、異常なことが起きてきたわけです。つまり、アートを通していろいろなことがつながったわけですが、人間の属性でいえば、過疎地の農業をやってきたお年寄り、それに対して都市の若い建築とか美術とか、よくわからないことをやっている人たちがここに参加して、大きな渦が起きていった。アーチストもそうです。外国の、あるいは都市の現代美術など、あとわからない建築をやっている人たち。その人たちが協働するということに賭けたわけです。初めは、物すごく大きな壁があったわけだけど、最後は、そういう若い人たち、あるいはアーチストと地域の人たちが何か新しい気分を持った。それは本質的にまだ変わっていません。ただ、過疎によって祭りすら失われていた集落が、もしかしたらよその人が加わることによって祭りぐらいはできるかもしれないと今思い出したという段階です。
 そういった動きに対して、お忍びで政治家の先生たち、代議士が30人ぐらい来られています。あるいは官僚たちは相当来ています。つまり、ここで起きていることは、アートを通してはいるけれども、とにかく先ほど申し上げたように、地域と世代とジャンルを超えた人間たちがどう出会うかという仕組みをつくったということです。
 後ほど出てきますが、結論的に申し上げますと、今でも首長さんたちは、「もっと便利にしてくれ。1カ所行くと50とか100見れるようにしてくれ」と。ここは東京よりはずっとドア・ツー・ドアです。そういう中で「いろんな人たちがブーブーいうからとにかく」といっていますが、それに対して僕らは、徹底的に「それだけはやれない」といっています。つまり、離散型で、とにかくできるだけ回ることだと思っているわけです。これはディズニーランドでない地域が唯一やっていける方法です。
 今でももちろん落ちているかもしれないけど、那智の滝と醍醐寺の上醍醐とか、あるいは四国八十八カ所でもいいと思いますが、そこには人は普遍的に行っているんです。それは時間があり、ある何かが流れている地域に人は行ける。だけど、時間が入ってない場所に関しては絶対に1回で飽きます。どこでも同じなんだから。大きいところほどいいということになっちゃう。これは見えている世界ですね。
 それに対して、全然違うアプローチがない。妻有でやったことは普遍的な部分を持っているかもしれないと思っているわけです。
(スライド47)
 この地域のあと、もう1つ大きな要素は高齢化率です。高齢化というのは悪いのか。つまり、高齢化率というと、もちろんそこはうまくいっているわけですが、バランスが悪いという言い方をします。高齢化率が高いといったときに、お年寄りが悪い。これも効率化社会の考え方ですね。この地域のお年寄りの高齢化率というのは40%近い。そうしたら、そこにその人たちがいるということ、そこから出発しようということで、例えばこういったことをやりました。
 これは最初、500枚も集まらないと思っていたんだけれども、実質4500人、こういった20センチの刺しゅうです。集まったのが1万3000です。お年寄りたちは子供たち、孫たちに刺しゅうを教えたわけです。昔でいう刺し子です。あるいは運針でやるわけです。そういったことによってこういったことをやりました。これはそこにかかわった人たちにとって、1つの豊かな思い出です。
(スライド48)
 あるいは「真実のリア王」というのをオランダのアーチストたちが来てやりました。5カ月ここの地域に住んで、お年寄りたちのインタビューをずっとやったわけです。そのうちのティピカルな10人のお年寄りが舞台の真ん中に出ています。インタビューをいろいろ編集して流すわけです。初め、この地域のお年寄りが出るというので、セリフをどうやっていうだろうと思っていたんですが……。
(スライド49)
 やっていることは、40分間の芝居の間、お年寄りたちは、自分たちが持ってきた食べ物を食べているだけなんです。だけど、インタビューが流れる。それは物すごい言葉です。つまり、お年寄りの孤独と妻有のこの地域の過疎地の孤独がわかってくる。これは2回やりました。最初は建物のこけら落としでやったんですが、みんなただ食べているだけなので、「じいちゃん、あれはないだろう。もうちょっと何かしたら」というので、2日目は、自分の声が流れてくると、パッと手を挙げたり、立っておじぎをしたりするわけです。そういった形が出てきました。
(スライド50)
 そんなことで大地の芸術祭は始まるわけです。ここでは4つの事業をやっているわけです。1つは、「花の道」、1つは、「ステキ発見」です。3つ目は、「ステージ事業」です。つまり、この地域、アートをきっかけにしてひとつ何とか元気を出す。そこから地域の将来、日本の国とか、そういうことだけじゃなくて、地域再生のための手がかりを探そうということで十日町は交流の拠点。
(スライド51)
 こうやってやっているわけです。
(スライド52)
 松代が「雪国農耕文化村センター」。つまり、雪国の農業を徹底的に掘って、この建物をすべての産物、あるいはグリーンツーリズム、そういったことの拠点にしていく。トンネルとトンネルの間のわずかな広場及び山をフィールドミュージアムとしてやっていく、その拠点をつくる。
(スライド53)
 これは松之山で、ここでは自然、放棄された棚田、そういったものをもう一度森再生のために動くぞ、それぞれが町の道筋みたいなものをつくろうということです。これはずっと進んでいます。そういうふうにしてやっていく中で、いろいろな公共事業の中に入ってとにかくやらせてくれと。
 ここに隠れたテーマが1つありまして、新潟県はご存じのように、公共事業天国です。これは麻薬だというのは百もわかっている。だけど、同時に点滴なわけです。グングン予算は減っています。その中で公共事業を何とか切りかえていく。それを意味あるものにすることによって、公共というものが参加する部分はあった方がいいと僕ら思います。その公共事業が切り捨てられないための、公共事業を本当の点滴にするための作業を裏でやっているのがこれです。これは建設の業界で調べられた人はおわかりだと思いますが、日本はもちろん、新潟県もかなり減っていますが、この地域は持ちこたえているんです。つまり、いろいろな工夫によって公共事業が住民のものに変わっていく。そういう中でこういったワークショップをやっているわけです。これは、ある集落で全員の人たちが手形をとって、それを焼いて公園の敷石にする。
(スライド54,55)
 この地域の子供たちはもうワークショップづけです。美術の先生は要らないぐらいです。世界のトップアーチストがずっとワークショップをやっている。そこの中では地域の村祭りと一緒にイベントをやる。
(スライド56,57)
 こんなことでやっているわけです。もう一つ重要なことは、大地の芸術祭という形、つまり、つくり手と見手が分かれている。最初に美術のお話でしたように、この不幸な「わかる、わからない」という、そういったものじゃない、美術の本当の出発みたいなもの、そういったものを私たちはここで見たいと思いました。つまり、コンテンポラリーアートなんていう概念、もうおかしいじゃないか。美術というのはつくる人と見る人が分かれているものだろうか。五感を通したつながりじゃないかということで第1回目をやりました。
 今回、企業の協賛は壊滅的に悪かった。ほとんどゼロに近かったけれども、外国の助成、協賛が1億近くありました。そのうちの1つです。
(スライド58)
 オーストラリアは政府あるいはビクトリア州挙げてこれに加わってきました。つまり、オーストラリアでは4万年前からいるアボリジニの人たちはこういった作品をつくってきている。それに対してオーストラリアは、「自分たちは侵略してきた、申しわけない」。これから多様の言語、多様な民族というのをオーストラリア政府はよしとしていくぞということをやったわけです。この妻有に全面的にかかわってきました。恐らく今までオーストラリアが一番大切にしていたアボリジニの作品を持ってきてワークショップをやりました。これを聞いたカナダ政府、「オーストラリアだけじゃないぞ。私たちもイヌイットに対して謝った。イヌイット展もやろうよ」という形でやっているわけです。こういったものがこの夏行われたわけです。
(スライド59)
 そんなようなことが行われたわけですが、どんなアートがあったかということをいいます。まず1つのタイプは、自然そのものを見せていくタイプです。
(スライド60)
 これはちょっとおもしろいんです。この田中信太郎さんはブリヂストン美術館の前に作品をつくっている方です。抽象的な作品をつくる人です。100人の議員の先生が全員反対だといっていたわけですが、こういうのが出てくると本当はうれしいわけです。だけど、自分は大反対した手前ちょっと、「楽しいよ」といえなくなっちゃいまして、そこで議会でいった言葉が振るっている。「教育上悪いぞ、こういう作品は。赤トンボは垂直に飛ばない」といって。だけど、それを聞いたときに、「お、しめたもんだ」と僕は思いました。
(スライド61)
 ブナの林の中に冬の光景を現出させているわけです。この人は、ちなみに先ほどスリッパといすを立川でつくった人です。
(スライド62)
 これはご存じのように、減反政策で田んぼはかなりあかせなきゃいけない。そこでこういう作品をつくった人がいる。
(スライド63)
 この田んぼでこれを抜きまして、今度は「黄金の牛」というイベントをインドネシアのアーチストはやりました。これ、おもしろかったんです。日本の牛は田んぼに入れないんです。入った瞬間全部ねんざするそうです。こういうところを歩いたことがないそうです。これはちょっと訓練して連れてきた。
(スライド64)
 これはまさに光景そのものを見せるもので、イリヤ・カバコフというロシアの人です。このお百姓さんは、2000年にこの田んぼをやめるつもりでした。ところが、カバコフさんが来て、アートを設置するといったときにやりました。頑張ってやっているわけです。さっきあった閉会式の日に、僕に握手して、「おれはまだ頑張るぞ。終わったら、おまえが跡を継げ」といって、「はい」といわざるを得なかったわけです。つまり、今まで国を含めて農業って、何か意味ないように思わされてきた。それに対して若い人たちが来て、「やっぱりこの土地って、いいな。何かあなたたち頑張ってきたね。僕らもわかったよ」ということで、全然違ってきたわけです。
(スライド65,66)
 これが手前から見ると、こういうスクリーンに詩が書いてあります。苗代から稲刈りまでの5場面が棚田にあって、こっち側にそれに対しての講釈がある。ここで、どれだけの人たちがこの1つをつくるために、膨大なエネルギーをかけたか、ちょっとご紹介します。イリヤ・カバコフはロシア人です。向こう側では向こう側の努力があったわけです。こちら側は、日本の農業に対してのガイダンスを全部しなきゃいけない。その上に……。
(スライド67)
 松代の、この土地の写真を全部集め、松代の町史、あるいは民俗的な聞き書きを全部送る。彼はそれを理解した上で初めてこの詩ができ、この作品ができるわけです。
(スライド68)
 これは苗代のころの田ごとの月、田んぼに水を入れたときに月が出てくる、その美しさを、真夏の稲がたわわになっているときにこのくらいの鏡面でやろうとしたわけです。あんまりうまくいかなかったんです。だけど、これをやるという日が2〜3日に1回ずつあったわけです。微調整でやるわけですから。この山の中にみんな延々といろんなところから人が来るわけです。待って、月見をするみたいなものなんですが、ピタッといくわけがないわけ。みんながそのアーチストを慰めるわけです。「ちゃんとやっているなら、科学者になっているんだから」といって。アーチストはしゅんとなっているんだけど。そういうことを含めた楽しさが起きているわけです。
(スライド69)
 これは今年の中の圧巻です。『地域創造』という雑誌の記者は「血が逆流する思いをした作品に出会った」といっています。毎日新聞は、「ここにある手の跡を考えると、この地域の人たちがこれに賭けた1つのエネルギーを見ることをできる」といいました。前の金融大臣の柳沢伯夫さんはこれを見たときに、「反減反のとりでだ」といって叫びました。それを俳句にして皆さんに配りました。つまり、いろいろな党派とか立場を超えて何かを感じさせた作品なんです。巨大なものです。
 これはおもしろい話があるので、ちょっとご紹介します。これは下条という十日町の一番北側の地域のエネルギーがあるところです。減反の田んぼ2枚を使って、土でやっています。わずかにわらと木っ葉を入れて、構造をつくっている。そういう中であと1カ月になって、初め、このぐらいの領域をつくろうとしていましたが、ところが、アーチストがみんな手伝ってくれるので、調子に乗って、これだけの量のものをやりたいといった。住民の長老たちが、「それは断るしかない、無理だ」といって、集まったんですが、でも、「おらが部落がとにかくアーチストにここでやめてくれといったのが記録に残るとまずいな」とだれかがいい出したわけです。そこで出した話がすごい。とにかく小中学生は学校が終わったら、ちゃんとすぐにここに寄り道しないで集まって手伝うべし。大人たちは土日の労働は当然だけれども、週1日有給をとって参加せいという指示を出して、これをつくったわけです。本当に、そういうカテゴリーを超えた、これが美術かというような作品ができた。写真で伝えられないのが残念です。ただ、冬は持ちこたえることはできないし、来年は田んぼにしなきゃいけないので、これはつぶしました。つぶすときにはみんな集まってきて、音楽と盆踊りをやりました。そういった何かが起きた作品です。
(スライド70)
 2番目のタイプはちょっと批評的な作品です。川は今直線で流れています。ただ、河川局はいろいろなことを抜本的に変えていますから、一様に悪口はいえないけれども、今まで速く流すだけをやってきた。それに対して、もともと川は蛇行していた。かつての川をもう一度考えてみた方がいいんじゃないか。磯辺行久さんの、6月の都市計画学会の論文に載っていました。これは前回です。5メートルごとに750本のポールを立てて、もともとの川を再現したわけです。地権者26人、これは最初全員反対ですが、最後は全部納得しました。
 僕らはとにかく田んぼには入れさせてもらわない。物を運ぶだけです。僕はほとんどのことを目撃してないんですが、これは目撃しました。おじいちゃんが息子と孫に向かって「じいちゃんはここでフナをとっていたんだぞ」とかいうことをいっているわけです。これはすごくよかった。そして、美しかった。
 今地域でいろいろな住民の人たちがアーチストとして参加することも多い。ただ、これは要注意です。地域でやるときほど、選べないわけです。東京都民はいろいろイベントも選べる。絶対、可能な限りのいいアーチストでやらなきゃいけないと思いますね。そうでなければ物は伝わりません。
(スライド71)
 磯辺行久さんが今年やったのはすごい。これは幅が130メートル、縦が30メートル。信濃川は1万2000年前、25メートル上を流れていたということを、ちょうどうまい断面を使って、科学の標本みたいなものです、これもアートといえるか。足場を組んでやりました。足場がまた壮絶なんです。ちょっとよく見えません。もともとのデッサンはこういうものです。
(スライド72)
 こんなものをやったわけです。
(スライド73)
 これは一番人がかかわった作品です。信濃川は山梨県の甲武信岳から千曲川になって、新潟県になって信濃川になります。そこの流域の高校生に詩、短歌、俳句を応募してもらう。これを全部回ったのはICUの学生。この審査をしたのは大岡信さん。全部自分で読みました。それを電信柱20選んで書く。この世界で一番長細い図書館をつくったのは理科大の小島さんです。学生がかかわっている。
 この地域にダムがあって、これが堰堤です。水がほとんど流れてないんです。私たちが、妻有と呼んでいる地域は、信濃川でありながら水は流れていません。ここで取水した発電がJR山手線を動かしています。
 しかも、この中里村には図書館がない。つまり、この地域は何か。あるいはこの地域は直に世界とどうつながるかということを、ナイジェリアのオル・オギュイベというアーチストはここで問いかけました。1000人を超える人たちがこれに参加しています。
(スライド74)
 蔡國強さんという世界的なアーチストが、2つのコンセプトを持って福建省の35メートルある登り窯を移築しました。この35メートルの登り窯は、中国も近代化の中でそういったことを捨てている。もう1つが、日本では美術館はとにかく大きいものをつくればいい。立派なものをつくればいい。だけど、そんなのは当てにならないよ。今まさにそうです。予算がないということでストップしている。だけど、美術館はそこで展覧会をやろうとするキューレーターがいて、やりたいというアーチストがいて、見たいという人がいれば成立するんだということを彼はやろうとした。今まで日本の美術館が頼んでも絶対実現できなかったキキ・スミスという人が今年、2週間も滞在して、物すごい美しい作品をつくりました。
(スライド75)
 こういう空間です。
(スライド76)
 これはキキ・スミスと蔡國強です。蔡國強が館長、僕はとりあえず理事長です。
(スライド77,78)
 こういう作品ができたわけです。本当に山の中の登り窯の中に異様な、だけどすごく清々しい空間ができました。
(スライド79)
 3つ目のタイプは古い施設を使うタイプです。これは田麦という集落ですが、廃屋に村の宝物、伝雪舟、伝横山大観というのがそこらじゅうにあるわけです。そういうのを持ってきたり、いろいろして、この中を飾りました。多くの人が来られます。おじいちゃんなんか、ふだん家でゴロゴロ、ワシ族になっているんですが、昼ぐらいになると、「おれも手伝いにいかなきゃ」とかいいながら、みんなここに集まってくる。ここではトマトそば、トマトアイスクリームなどをつくって、70万儲かっちゃったんですね。今、70万をどう使うかと考えているだけで楽しいわけです。
(スライド80)
 これも廃屋になる寸前の建物ですが、アーチストがこういう関係者の回り灯籠みたいなものをつくっているわけです。こういった美しい細工は、地元の人がアーチストの指導でやりました。
(スライド81)
 これは西永寺さんというお寺です。物すごく美しく飾ったんですが、重要なのはそうじゃなくて、アルバムです。この地域の家にあるいろんなものを整理して、地域の歴史をつくりました。これはちょっとおもしろい後日談があります。ここにたまたまアートを見に来た文化財の専門家がおられたんです。帰った後、これは重要文化財になりました。知られてなかったんですね。
(スライド82)
 これは1年に1回、今から40年前に東京に出てきたおばあさまが帰る場所です。やがてつぶさなきゃいけない。そこをアーチストが来ることによって宿泊施設に変えました。こういう宿泊施設です。
(スライド83)
 4つの部屋があるわけです。棺桶みたいなものなんですが、人気がありまして、2週間前の週刊朝日では、「一泊の愉悦」というシリーズの中で出ている。1回は行ってほしいけど、愉悦というふうにいえるかなと思います。ここで見る夢を書きつないで、それを本にしようということです。おもしろいから1泊はしてください。ただ、寝苦しいからよく夢見るんですよ。それがおもしろい。
(スライド84)
 その隣に2001年に1つの蔵、ちょっと離れたところに1つの家をつぶすという話が入りました。22軒しかない上湯という集落です。また走っていって、それはとにかく抑えてくれ。これは町や何かのオーケーなしでやり出すんです。後でとにかくオーソライズしますが。ここには地域の人たちと、「こへび隊」という若い人たちが2年かけて集めた薬草、それをみんな薬草酒として使っているということがあります。
(スライド85)
 これは離れた家ですね。そこにいろいろな花びらとか集めて物すごく美しい作品になっています。ここで、重要なのは、アーチストは本当にばかみたいなことを考えるわけですが、この廃屋寸前の家の手助けに入ったのは、全部建築家たちのボランティアです。これはちゃんとした立派な建築家たちが全部下支えに入りました。そうでなければ、美しいものはできません。
 ちなみに、新潟県は恐らくこの地域、2006年に向かって、廃校、廃屋あるいは集会所などの余り使われてない施設を全面的にもう一度切りかえて、いろいろな人たちにかかわってもらって、直そうという方向になると思います。まだ、オーソライズされていません。
(スライド86)
 これは2階です。
(スライド87)
 これは廃校を使った日比野克彦さんがつくった新聞社。中にはいろんな作品があったり、いろいろな活動をしています。
(スライド88) 
 時間が余りないので、そろそろにしておこうかと思います。これは廃校です。何枚か写真があるから、お見せします。入ったところにはスリッパ、奥の方の廊下、これは入れないんですが、穴からのぞくと、向こうにピアノがあって、童謡を奏でている。だんだん異様な気持ちになるわけです。
(スライド89)
これは音楽室。
(スライド90)
 理科室。
(スライド91)
 小学校の教室です。この作家は、前回は1ヘクタールの場所に使い古された白い布きれを等間隔で設置しただけですが、ここに行ったときにほとんどの人たちがいうことは、ここにいて亡くなった人たち、あるいはここから町に出て行った人たちの魂が揺らいでいるような感じがするといいました。このボルタンスキーというトップアーチストが第1回が終わった瞬間に電話をかけてきまして、「私は2回目も参加したい」と。さっきの廃校です。「ぜひエントリーしてくれ。ついてはお金がないのはよくわかっている。もし本当にないなら、私は自費で参加するから」という形でいってきました。
 この150人のアーチストは、彼らにとっても、パリあるいはニューヨークで生活しようとも、自分の生まれ故郷、自分の知っている人たちがこういった過疎になっている町にいるわけです。それを知っているわけです。ですから、この人たちが、先ほどからいっているように、均質な空間ではなくて、つまりアバンダンされている空間ではあるけれども、そこには本当に時間が流れている。時間をどういうふうに自分たちが考えるか。それしか、資本というものがあらゆることを動かしていく、それを動かすために世界が均質化になっているということに対して、生きていくすべがないのではないかということを、多くのアーチストたちは思ってくれているんだろうと思います。
 そういった意味で、時間というものをどう考えて、そこを僕らはソフトとしていいたい。つまり、ソフトというのは手法とか、そういったことじゃないんじゃないかと僕ら今思っています。図式的にいうならば、空間ということに対して、時間を私たちの側でもう一度見直したときに、初めてもう一度空間が生き返ってくるのではないか。今まで時間を抜きにしたものを私たちは考え過ぎてきているんじゃないか。
 別に批判ということではないですが、アメリカが巨大な余りに、あるいはディズニーランドが巨大な余りに、そういったものに対して、それがあたかも必然であるように思っていると僕らは思うんです。だけど、必然というのはもっと違うところにもいろいろなものがあって、それはもっと当たり前のところにあるんじゃないかなと思っています。
 まだ、スライドは延々と続くんですが、その辺でやめたいと思います。大体そんなことです。おもしろいのは、こういったいろいろな試みが実際に多くの人たちに伝わっていって、おもしろがられているということが何かの参考になるかもしれないと思います。とりあえず、話を終わります。(拍手)



フリーディスカッション

里見(司会)
 先生どうもありがとうございました。
 それでは、本日、お時間も迫っておりますので、お1人だけご質問をお受けしたいと思います。
清水(日本国土開発株式会社)
 建築物の設計に携わっております清水と申します。
 2年前にも一度お話を伺ったことがございまして、そのときにはソフトプログラムというのがいかにすばらしいものであるか、アートは人と人をどう結びつけるものであるかということに非常に感銘を受けた記憶があります。
 そのとき箱物行政、公共事業というものの限界をお話しされていました。3年前には、今スライドにもありました「夢の家」あるいは「光の館」という、建築物が前面には出てこないものをプロデュースされていたかと思うんです。今回は「キョロロ」とか、松代農耕文化センターとか、ああいった世界的な均一性の中にも存在できる建築物が今回出現してきたなという気がしまして、その辺の、どういういきさつで今回のような建築物をプロデュースされたのかというお話が伺えればと思います。
北川
 建築の話はこの後のスライドにいろいろありますが、それはすごい工夫をして、それが採算が合うように。例えば、今出てこなかったんですが、「夢の家」は、今人件費1人分が年間で赤字なだけです。集落の人の1人分です。もう1つ、「光の館」というのは、大黒字です。それぞれの施設をとにかく自立採算できるという前提でやっています。それは僕らが最初請け負う。それで、成立したらバトンタッチするというやり方を今やっています。若い人たちが多く地元に入っています。
 ただ、建物に関していえば、建築は20人以上入っています。つまり、百数十の作品の中で、建築家が、表に名前で出ている建築家で20人ぐらい。裏で手伝っているというか、名前を出してなくて、いろいろアドバイスしたり、参加している人はかなり多いですね。
 建物に関しては、これからは余りできません。ただ、ポケットパークとか、そういったものを、普通のよくある公園にはしないで、割と建築物をつくってきたということがあります。
 あとは、今後新しい建物はなかなか面倒ですが、とにかくやれる限りの道路とか、そういったのに入っていきたい。道路だって、いろいろ建物できるんですね。次回に関しては、ある集落ごとに全部ある集会所、これはほとんど使われていません。そういったものにとにかく入っていこうとしています。いろんなところで、熾烈なやりとりがあるんですが、県とかに、こういうコンセプトの事業をつくったらどうかということをとにかくやっていくわけです。そういった理由づけをして、それを住民の人たちは意味あるものとして使えればそれはつながっていくわけで、そういったことを今やろうとしています。
 ですから、ある建設会社の建築家が、ここのコンペに当選して、道路の中に花畑をつくった。その建築家は、地元の人たちといろんなことを一緒にやって仲がいいわけです。今度はそこにもし何かの事業がちょっとひっかかるとします。そうすると、地元はその建築家にアドバイスを受けながら、参加します。今までのように、パッと道路が来るよということは拒否するはずです。
 だから、200の集落に恐らく200人の建築家が将来つくだろうと僕は思っています。そうすると、廃屋なりのアドバイスも出てくるだろうし、こうしたらどうだろう。それが膨大なネットワークの中で生かされていけば、何とかもう一度やる。ですから、新しい建築はなかなかできない。土木的にはある程度出てくるわけですが。ただ、今農林とか、莫大な予算がこの地域におりています。それをただほうっておくんじゃなくて、やっぱり意味あるものに変えようとしています。ただ、これは並大抵じゃないです。縦型行政の中での格闘になっていく。
 ただ、地域全体として、アートネックレス整備構想というのを上げたためにやりやすくなっています。これを上げてなかったら、行政の壁で全部粉砕されていきますけれども、上げてさえいればいろんなことがまだできる。そういうことをここでやろうとしているわけです。だから、事業名をつくっちゃってやっていくようなことを結構やっていますね。ですから、予算上のことは詳しくできませんが、今回はポケットパーク事業というのを結構やって、ポケットパークで看板をつくっちゃったり、そういったことをやったりしているわけです。
 質問に対するお答えになってないかもしれませんが、そういう意識でやりました。清水(日本国土開発株式会社) 今回は、建築物が前面に出てきているような気がしたので、それはもともと意図されたものではないのではないかと。
北川
  全然違いますね。はい。
清水 (日本国土開発株式会社)
  わかりました。
里見
 それでは、これで終わらせていただきたいと思います。
先生、どうもありがとうございました。(拍手)


back