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第197回都市経営フォーラム

ストック型社会への転換の必要性と考え方

講師:岡本 久人 氏

九州国際大学次世代システム研究所 所長

日付:2004年5月20日(木)
場所:後楽国際ビルディング大ホール

1.人間社会を生物モデルで考える(Economy as Ecology)

2.ストレス社会/日本の矛盾と問題点

3.ストック型社会への転換に向けた政策ロジック

4.国民性形成の生物的解釈

フリーディスカッション



 

 

 

 

 皆さん、こんにちは。九国大の次世代システム研究所の岡本でございます。
 今日は、私たちが研究しています「エコノミー・アズ・エコロジー」に基づいたお話をいたします。エコノミー・アンド・エコロジーではございません。この「エコノミー・アズ・エコロジー」という考え方で、いろいろなことをやってきましたが、「実は私もそう思っていた」とか、「自分もそう考えてたんだ」という方たちが集まってきまして、4年ぐらい前に、次世代システム研究会ができあがりました。
 そして、さらに、拠点をつくろうじゃないかということになり、とりあえず北九州の九州国際大学に研究所をつくったのが、この次世代システム研究所でございます。
 先ほどご紹介がありましたが、私、もともと新日鉄でIEとか、ORをやっていました。そこで工場診断や技術開発のようなことをやっているうちに、企業診断やコンサルのようなことをやり始めました。そのうちイタリアの製鉄所建設の技術協力の仕事などに関わるようになりました。最初は通訳で行きましたが、だんだんまたコンサル業に入りまして、ナポリやジェノバの会社のコンサルをやっているうちに、ローマ事務所の駐在員になりました。普通駐在員は4年なのですけど、84年から92年まで、8年間駐在員をやりました。
 本業の他に趣味で動物の研究をやっておりました。鳥です。ご存じと思いますが、財団法人日本野鳥の会というのがあります。ここで30年ぐらい前、財団法人日本野鳥の会の最初の「活動とその理念」というのを、ゴーストライターとして書いたり、3000人の会員をどうやったら10年間で3万人できるのかということなども研究しておりました。幸い会員の方は10年もかからずに、5万人になってしまいました。
 また、当時一番問題だったのは、自然保護の理由を問われた時に、単に「鳥が減っているからだ」とか「自然がなくなってきているんだ」と誰もが答えていたことです。つまりそのことの証明は実は誰もできない。そういう状況だったのです。
 しようがないから、私の専門がIEとかORでございますので、どういうデータをとって、どういうモデルをつくって、どういう評価をすれば、鳥が減っているか、ふえているか、判断できるかを考えました。
 そういうことをやっているうちに、定量調査法、例えば、無人島の鳥の総個体数をどうやってはかるか、今ですと、有明のような大きな干潟のバイオマスをどうやってはかるか、金がかからずに短時間にできるだけ定量的に実態把握するにはどうやればいいかという類の研究をずっと趣味でやるようになりました。
 そういう視点をもっていたこともあり、イタリア駐在員をやっていた84年から92年の間、つまりちょうど日本がバブルに向かって、ぐっと成長しているころに、この経済成長のあり方はどうもおかしいのではないかと、いろいろ考え始めました。
 ご存知のように、イタリアの日本人はみんなミラノにいます。ローマにいるのは、大使館と新日鉄とプレスの人ぐらいしかいませんでした。観光業者の方も少しいました。日本人の子供を集めても小中学生で40人以上にはならないという社会なんです。だから、いろんな省庁の方が来られていまして、エッセンスの議論をするのには非常にいい場所だったんです。
 日本の経済成長の仕方がおかしいと言っても、私は経済の専門家でも何でもありませんから、誰からも聞いてもらえませんでした。そこで仕方なしに、これを生物モデルでいろいろ考えてみたのがエコノミー・アズ・エコロジーです。
 その理由はもう1つありました。イタリアのターラントに君津と同じ製鉄所をつくるというプロジェクトで、ある壁にぶつかっていました。日本と同じ設計図で溶鉱炉、転炉、圧延工場をつくっていくわけで、1つ1つの工場の設備能力を年間換算すると、間違いなく1000万トンの量が出るのです。ところが、工場ができ上がって、それを一気通貫で生産しますと、なぜか、650万トンしか出てこない。これはなぜだろう。そのうち、これは生産管理がまずいんだとか、品質管理がまずいんだというので、今度はソフト面の技術協力をする。
 だがいろいろやっても、どうしても850万トンしかいかない。これは何故だろう。いろいろやった結果、国民性という問題に行き着きました。イタリアの国民性、ドイツの国民性、日本の国民性、これは言葉でいえば簡単です。ただ、こんなものは、証明しないと、国民性が合わないから850万トンしか出ないんだというわけにはいきません。
 そこで、生物モデルを使ってやってみたら、非常に明快になりました。例えば、日本の技術をドイツとか北フランスのダンケルクとか、オランダ、こういうところに送りますと、大体うまくいきます。ところが、フランスでも南のマルセーユとかイタリアとか南ヨーロッパに行きますと、なぜかうまくいかないところがある。これはなぜだろうというのを、いろんなデータをとって証明してみたわけです。
 こういうことをやっているうちに、当時の日本の経済成長の進み方も生物モデルで解いていったら、だんだん確信が出てきました。その後予測どおりに、日本がどんどん落ちていきました。この生物モデルからの仮説が正しいならば、問題がわかっているわけですから、この国をもとどおりにするのにはどうすればいいかというのもわかるわけです。
 前置きが長くなりましたが、今日はそういう話をさせていただきたいと思います。



1.人間社会を生物モデルで考える(Economy as Ecology)

 

(図1)
 人間の社会を、生物モデルで解けばどういうことになるかということです。1つは、日本の社会をヒト科ニホンジン種の生態系というふうに考えるわけです。このように考えると今の社会にはリスキーなポイントが2つある。これは日本人に限ったことではありませんが、1つは、多様化と細分化という問題です。
(図2)
 これはモノの多様化の例です。光源としての電球の種類が現在までにどのくらいふえていったか。おわかりのとおり、ものすごい数に細分化、多様化していっています。
(図3)
 これは技術の多様化の例です。新日鉄八幡製鉄所の製鋼工場という鋼をつくる工場の技術が、1950年代から現在までどのくらい多様化していったか。1950年代当時は、冶金学、機械、電気、計装、鋳造という5つの技術で成り立ってきました。冶金学がだんだん枝分かれして、例えば、冶金反応速度論とか、メタルスラグ反応論とか、いろんな技術がどんどん細分化していくわけです。機械についても同じです。電気についても同じです。
 大学の科に例えれば、50年代当時は5つだったのが、今は120あります。50年間でこの工場に関する技術分野が5つから120まで細分化していったということです。
(図4)
 つまり技術分野が5つだった1950年代の工場長ならば全ての技術は理解できる。だけど、120もあったら、工場長は自分の技術の全てを理解できない。そこで、組織化して、分業するわけです。分業して、専門家にそれぞれ任せます。
(図5)
 この細分化の傾向は工場の技術や成品だけではなく、社会全体に行き渡っています。社会全体が例えば大学ならば、学科がどんどん増えていって、それぞれの専門の先生がこの枝にぶら下がっているという状態です。
 自分のところは、正しくやっている。ほかのところも多分うまくやってくれているに違いない、こういうふうに思うんですね。それを前提にみんな前に進んでいく。
 どういうことになるだろうか。あまりにも細分化しますと、組織化、つまり、分業化した結果を目的に向かって協業することができないという事態が起こってきます。
 例えば、1980年代初めのころ、私は、フロンをよく使いました。製鉄所の熱回収で、あれほど安定して、コストが安くて、熱容量が高いものはないんです。まさか、あれが隣の分野では、地球温暖化の原因物質になるとか、あるいはオゾン層を破壊して紫外線の透過率を上げ、生命体を危険にするとは夢にも思わなかった。つまり、これをつくった人や使った人は、世のため、人のため、人類のためと思ってやったのですが、その結果、別の分野に行くと、とんでもないものになってしまう。というような類のことは実は世の中にいっぱいあるわけです。
(図6)
 これが細分化、専門分化の怖さじゃないかと思います。つまり、「部分最適解の総和は決して全体の最適解にならない」のではないか。これは恐らくいろいろなところ、例えば、皆さんのご専門のところでも体験されているんじゃないかと思います。 
(図7)
 次の問題は、指数変化という問題です。これは非常に怖い話で、基礎技術、例えばマイクロエレクトロニクス、メモリー容量はどういうように変わっていったか、超伝導臨界温度はどういうように上がっていったか、モーターの小型化がどういうように進んでいったかという話です。基礎技術というのは、特に1980年代ごろから、急激に右肩上がりになっています。これは皆さんお感じになると思います。
(図8)
 その結果、当然ながら応用分野がどんどん進んでいきます。そうしますと、例えば私たちが持っている情報量も指数的にふえていきますし、消費する資源の量も指数的にふえていきますし、紙おむつの量とか、アジアの車の量とかここにいろいろなデータがあります。それらはことごとく指数的な増加傾向を示しています。
(図9)
 これは1人当たりのエネルギーの消費量です。急にふえてきます。食糧もそうです。きわめつけは人口です。世界の人口は産業革命の頃から増えはじめ、ここにきて30億から60億にいくまでにわずか30数年しかかからなかった。こういう指数変化というのは非常に怖い問題ではなかろうか。
(図10)
 物理の世界ですと、例えば、応力集中がどんどん起こって、タンカーがボキッと2つに折れる。あるいは化学の世界だったら指数変化というのは爆発のプロセスです。生物でもそうです。何十年かに1回、竹の花が咲いて、ネズミの数が指数的にふえてくる。そうなったらどうなるか。集団大移動し集団自殺する。他の動物でも、殺し合いをやるとか、いろんなことが起こってきます。
 我々の社会でもこういう指数変化が起こってくると、何が起こるかわからない。この指数変化はヒト科の生物の行動で起こっているわけですが、問題はそのリアクションがあらわれるまでにタイムラグがあるということだと思います。一時、環境ホルモンが問題になりました。あれは、実は知らないうちにどんどん化学物質が蓄積されてきて、気づいてみれば取り返しのつかないことになっていたというような怖さです。
(図11)
 こういうふうに複雑系かつ指数変化の、我々社会のモデルをもっと単純に考えられないかというのが、エコノミー・アズ・エコロジーの考え方です。「as」です。多分、エコノミーというのが我々の現代の人間の行動の指針になっているんじゃないかということで、こういう名前をつけました。我々の社会をヒト科の動物の行動とその生態系というふうに考えてみましょうという意味です。
 例えば、日本の社会ですと、ヒト科ニホンジン種の行動とその生態系というふうに考えられます。そうすると、簡単に見れるのではなかろうか。つまり、複雑系を単純に、かつ、場合によっては、これを最上位の概念に置けるのではないか。先ほどから言っていますように、現代社会はどんどん細分化されていきます。細分化されてきますと、下位概念のところで最適を果たしていくということになるわけですが、もっともっと上で考えていくと、結局は、我々自身を地球の生物系の一端に置いてしまうという意味から、最上位概念に置けるのではなかろうかということです。
(図12)
 そこで、最上位概念、最も上から考えてみます。よくいう宇宙船地球号の話になりますが、これは太陽と地球の関係つまり地球の熱収支のバランスのことをいっているだけなんですね。入熱イコール出熱、これが持続の前提なんです。要するに、太陽から地球にエネルギーが一方的に入ってくる。ずっとたまりっぱなしでいくと、地球がドロドロに溶けるはずだから、入ったエネルギー量と同じ量のエネルギーが宇宙空間に向かって放散されているに違いない。
(図13)
 それが今騒いでいます温暖化の話でございまして、エネルギーがやってきて、地表の何か物質に当たると、分子の振動で熱が出る。それを大気の対流作用で大気上層から宇宙空間に向かって放出しているのですが、CO2 やメタンなど炭素分子が大気上層に貯まって、上層の温度が高くなり、対流がなくなって、だんだん大気全体が温暖化するということになります。
 このエネルギー収支の均衡モデルの中に実は生物が絡んでいる。植物が太陽エネルギーを使って有機物をつくるわけです。エネルギーを使うわけですから、基本的に吸熱反応です。有機物をつくる植物を生産者といいます。これを食べる動物が消費者です。有機物を食べてエネルギーに戻すから発熱します。我々も36度5分の体温を持ってちゃんと発熱反応しているわけです。そして、排泄する、うんちを出す。死んだら、その栄養塩をきちっと循環する。これが生命の発展過程で、太陽と地球の熱収支、物質収支の関係をきちっと均等になるようにやってきたわけです。
(図14)
 ここにきて、生態系の生産者と消費者は、だんだん複雑系になってきました。現実には非常に複雑なものです。だけど、ここは物質収支、熱収支が一定になるようになっているのです。
 小学校の教科書では生態系をピラミッド状の図に書いています。下から分解者、生産者、消費者、高次消費者、とあります。ここにも生物の権利と義務というものがきちっとあるのではないか。
(図15)
 例えば、陸上ですと、生産者は植物、消費者の昆虫、そして高次消費者にハヤブサとかワシがいます。海ですと、生産者に植物性プランクトンや海藻、消費者に動物性プランクトンやイワシ、そして高次消費者にサメとかイルカ、クジラがいるということになるわけです。
 個体数あるいはバイオマスからいって、ピラミッドの頂点は決して多くない。例えばサメがイワシと同じぐらいにジャンジャン数をふやしたらどうなるかというと、これは多分餌を食い尽くしてしまいますから、系のバランスが壊れてしまうに違いない。逆に、イワシがサメと同じように少ない数になってしまうと、これも持続のシステムにならないわけです。このように系の中では、持続のための権利と義務のようなものがあるのではないか。
(図16)
 ところで、現状の地球の生態系ですが、この頂点にヒト科の動物が大繁殖を極めている状態です。これが環境問題とか経済問題、持続の問題のそもそもの問題ではなかろうか。世界の人の数は指数的にふえています。
(図17)
 もともとヒトが介在しないときには、地球の資源の生産は、植物がやる。それを動物が消費する。消費されたら、その排泄物あるいはその死体そのものが窒素、燐酸、その他の栄養塩に完全に分解され、きちっと循環するというのが自然界の資源循環システムです。生産・消費・分解と全体が均衡を保って循環している。だから、決して廃棄物だけを循環させようというのが循環じゃないのです。
(図18)
 廃棄物の循環は当然しなくてはいけないのですが、92年のリオサミットのときは日本と他の先進国の間には大きな違いがありました。それが問題だったのではないか思います。資源循環にもっと本質的な問題があるのではなかろうかというのが、このECO−ECO的な視点から見たテーマなのです。これを今から詳しくお話しさせていただきたいと思います。
(図19)
 簡単にいいますと、島がありまして、この島にシカが何頭住めるかというモデルで、私たちの文明とか経済、環境を考えれば一番理解しやすいのではないか。と思うのです。島の面積は一定ですから。例えばこの島に400頭のシカが住んでいたとします。この400頭が、今、私たち人類がそうであるように、400頭が800頭、800頭が1600頭、1600頭が3200頭とふえることができるかと考えると、実はそうはいかないのではなかろうか。
(図20)
 ここに経済の原則があるわけです。つまり、生産者の植物が太陽エネルギーを使って生産したものをシカが消費するわけですが、これがふえていくとどうなるか。例えば夏の間はどんどんふえていく。秋になったら、もう植物は成長しませんから、餌が足りなくなる。どうなるかというと、悪いけど、弱い者から死んでいってもらう。これが自然の摂理なのです。シカの世界というのは、人間愛や人道主義もありませんから、400頭に合うように、体の弱い個体、高齢の個体は死んでいただく。そうしないで、もしみんなで助け合おうということになったらどういうことになるか。冬になって、植物の根っこまで食べる。春になると、芽吹きが一切来ません。これは砂漠化のモデル、植物も動物も生きられない破局のモデルです。
 この調整の仕組みは、弱い者から死んでいってもらうという以外の仕組みもあります。例えば、この400頭が、200頭は赤いシカ、ほかの200頭は黒いシカと、2つの種があったとします。互いにふえていって、種間闘争という形で調整することもあります。要するに、表面積一定の島では、太陽エネルギーを使って生産できる資源の量は一定でありますから、少しシカに知恵がついて、農耕を始めたり、技術を身につけて、もっと植物の生産性が上がるようにしても、400頭が1600頭、1600頭が3200頭というようにはいかない。地球の熱収支・物質収支の再生産能力が決まっているからです。
 我々人類は、その限界をもう既に超えているのではなかろうか。こういう気がするわけです。
(図21)
 先ほどいいましたように、生物原理で考えますと、現代の人類のように、1個体当たりの資源消費量がふえ、かつ全体の個体数もふえるというのは非常に難しいことではないか。
(図22)
 私たちは、多様化、細分化を進めながら、科学技術、学問を発展させてきました。その結果、特にこの100年間、その中でもこの30年間、40年間と指数的に人口がふえました。1人当たりの資源消費量がふえました。その結果、資源枯渇の問題もぼつぼつ出てきました。それから、環境問題も起こってきました。
 実は、この進歩発展というのはヒト科動物の特性として、止められないわけです。自然界の生物は欲求原理で行動しています。つまり、欲求が満たされたら、行動は止まります。我々ヒトは大脳原理、欲望原理で行動していますから、もっといいもの、もっと楽しいもの、もっと便利なものをエンドレスに求めて、行動は止まらない。
 私たち人類の成長の限界論について、これまで、ローマクラブやワールドウォッチとか、今ではいろんな方たちがいろんなことをいっています。水資源あるいはエネルギー、食糧、いろんな点から限界論がいわれていますが、予測される危機は何百年先ではありません。何十年先の問題なので、我々の次の世代ぐらいのところで、まずくしたら、何かの限界点に行き着くかわからない。
 もし、島のシカがもともと400頭しか住めないところに3200頭、あるいは6400頭すめるような技術を我々がつくり出せば可能かもわかりません。もし、そういう自然原理とか生物原理、特に物理・化学の原理を超えてやれないとしたら、私たちの持続の条件というのは、地球のもともとの原理に従っていく以外にないのではなかろうか。



2.ストレス社会/日本の矛盾と問題点

 

(図23)
 生物原理から人間原理を考えていくのがECO−ECOです。これから我々の日本の社会モデルをこれで解いていったら、どんなことになるのかということに入りたいと思います。
(図24)
 自然界というのは、時々、破局のモデルが出てきます。部分破局。例えば山火事が起こるとか、火山が噴火する。そういうときに、自然、森が焼け野が原になります。つまり、自然の経済システムがゼロになる。だけど、だんだん回復します。回復していく過程で、焼け野が原にまず最初の1年目は草が生えます。2年目も草が生えます。3年目も草です。草というのは1年で成長して、冬になると枯れます。その次もまた草が生えてきて枯れるんですが、この繰り返しの過程で地下に栄養塩のストックが貯まっているんです。このストックがだんだん貯まってきますと、草が灌木の林になります。これもやっぱり何年か続き、最後には大きな森になります。
 草原と森の違いですが、草原は1年置きにつくり変えていくのですが、森は何十年、うまくいったら何百年もそのまま続く。そうした社会ができ上がるんです。なぜ社会かといいますと、草原の間は草が生えてチョウチョウが飛んでいるとか、せいぜいバッタがいるぐらいです。だけど、森にはいろんな種類の動物、植物がいる。つまり、森は多様な社会、違ったものが共存できる豊かな社会なのです。
 森は長寿命型で、草原は短寿命型です。草原はパイオニア相といいます。森をクライマックス相といいます。人間の経済の成長も、このように進んでいけば実はハッピーだったのです。
 第2次大戦で日本の経済は破局になりました。その後の経済成長がこういうようにいったかどうか。
 結論をいいますと、ドイツはどうやら自然の経済のような成長をしたようですが、我が国はどうも違う成長の経過を経てきたのではないかといえる情況証拠があります。
(図25)
 これはGNPの成長です。昭和25年から平成5年まで、ずっと成長していますから、間違いなくパイオニア相からクライマックス相に成長しているといってもいいのではないか。
(図26)
 その結果、2000年には1人当たりのGDPは世界一になりました。これは「日本の統計」総務省のデータです。賃金のデータを見ますと、23年から平成8年まで、間違いなくクライマックス相まで成長している。平均賃金も世界トップクラス、イタリアは日本の65%しかありません。カナダも半分以下。日本を100として、超えているのはドイツ、オランダ、デンマークの順でアメリカでも日本の75%です。
(図27)
 私たちの仮説は、日本の経済成長は1年草のままのクライマックス相になったのではないかということです。つまりクライマックス相は木じゃなくて、草。冬になると、大木のような草がドサーッと枯れて、その次の春にまた草が大木のように成長して、夏には大森林のようになって、冬に消え去る。こういうのは持続的であるはずない。
(図28)
 この証拠を見ていただきたい。これは家の寿命です。この種のデータは計算の前提で結果が変わりますがいろいろ調べてみたところ、日本は平均寿命が30年とか29年とか27年。第2次大戦後のアジアはなべて短いわけです。韓国はもっと短いという説があります。ところが、フランス、ドイツ、イギリス、アメリカ、我々の3倍以上ある。フランスとドイツは第2次大戦のときに消失した応急建築物の更新部分のデータを除きますと、実は140〜150年になるというデータもございます。
 ちなみに、私、イタリアで、で調べてきましたが、地域によってはものすごく長い。210年からあります。これは家だけじゃありません。道路や、それから家具もやってみました。いろんな国々を見てみますと、極めてロングライフの社会とショートライフの社会がある。戦後の我が国は非常にストックレスの社会になってしまった。
 なぜ、ストックレスになったのかというのは、いろんな議論がありますが、今日はそこはやりません。
(図29)
 私たちにストックがないために、環境問題、経済問題、生活の豊かさの問題などで、本質的なな問題が起こっている。そのことをデータで確かめてみたいと思います。
(図30)
 まず生活の問題です。前述の「日本の統計」の「家計」のデータの中に、可処分所得がどのくらいあって、どういうように使っているか出ています。ちなみに90年代から今まで可処分所得はほとんど変わっていません。1世帯、人員が3.6人、有業人員が1.6人です。その可処分所得は48万なんぼだったと思います。それを40年間、働いたら幾ら収入があるか。生涯収入を計算してみました。一所帯約2億4000万ぐらいになります。
 一方私がいたイタリア人の平均収入は日本の65%です。ちんたら働いているわけです。だけどそこで生活している間に、私たちより給料が少ないイタリア人が私たちよりはるかに豊かな生活をしていることに気づきました。そのなぞを解くキーがここにあるわけです。例えば、日本の住宅の寿命をさっき30年と申しました。この住宅への生涯投資には、ローンの金利も入って6000万円近くになっています。計算の仕方によっては7000万近くにもなりますが、5000万円以下には多分ならないと思います。
 イタリア人の場合、彼等は前の世代からのストックがあります。家も家具も、いろんなものが何世代も続くようになっています。階層社会ですけれども、どんな家にも大抵そんな資産を持っています。私のところの門番も秘書もみな別荘を持っていました。持ってないのは私だけでした。
 収入は日本人の65%とはいっても、彼らの実質生活というのは自分の生涯収入に前世代からのストックを加えたものでやれるのです。我々は自分の収入分だけなのです。だから、ストックのある国では見かけ上、所得が少なくても、実質生活は豊かにできる。収入に対して必要な生涯コストを見れば、まだゆとりが出る。このゆとりは何だ、実はバカンスだということに気づきました。毎年、大統領から門番まで、誰もが1カ月以上バカンスがとれます。私たちは60歳の定年を過ぎたら、みんな老後を一生懸命です。年金もあまりないし、どうやって生きていくか、頑張っていますよ。建てた家も30年もしたら、ぼろぼろになるに違いない。一般的にサラリーマンは家を建て、子供を大学に行かせたらお金は何も残ってない。一方、イタリア人の友達が何をやっているかといったら、この前、Eメールが来ました。「おまえのところの長崎の造船所で13万トンの客船をつくってるだろ。あれができたら、あれに乗って女房と世界一周するから、日本に寄るからな」と、来るわけです。「なぜ、おまえオレより給料が安かったじゃないか」。
 実は、生涯収支、生活のバランスシートなのです。私たちの実質生活に、世界トップレベルのコストがかかるわけですから世界トップレベルの賃金でないと生活も経済も回らないわけです。このことが日本の産業の国際コスト競争力を低下させる大きな要因にもなってきました。
(図31)
 ソ連の崩壊の後に、経済のグローバル化が起こったわけですが、我々はこの意味にあまり気づかなかった。それは「技術移転の自由化」と「資本移転の自由化」です。どういうことかというと、日本の会社が東南アジアや中国に工場をつくれるということなんです。同じ会社ですから、同じ品質、同じ生産性が出てきます。ところが、賃金が違う。例えば人件費が、タイは10分の1で、中国は30分の1で、同じものが出てくる。
 空洞化は最初は第2次産業でした。今では第1次産業でもそうです。最初はネギ、シイタケが、どんどん出てきた。農産物は技術移転が、簡単なようで、シイタケは、ダボ木を中国に持っていっただけでできる。そしたら、めちゃくちゃコスト安で出来、輸送過程でCO2 をばらまきながら大量に輸入しても、このコストだからどうしようもない。第2次産業なら日本の工場の人たちには、「もう、国内工場つぶす」と、こうなる。雇用がなくなるのは嫌だ。何とか頑張るから、ということで、ラインに3人いたのを、1.5人でやれるように自らリストラすることになる。これは悲しいじゃないですか。このことはもっといろんなところにあるはずですが、これは統計のデータに出てこない。
 このところ、大企業の工場で新聞に出るような事故が起こります。いろんなところでいっぱい事故が起こる。研究開発も成功例が昔のようには出てこない。ロケット飛ばしても落ちる。その理由はコストを下げたからです。コストを下げるということは、人の数を落とすことです。つまり金がかかる日本人を使えないんです。
 いろんな国を回って、いろんな会社を見てきました。最後はICの会社に出向しまして、マイクロBGAなど当時難しかった技術の実用化にも関わりました。いろんな国を回っていろんなところでいろんな技術をやってきた過程で、日本人ほど勤勉でまじめな人たちは、多分いないんじゃないかと思うようになりました。だけど、せっかくすばらしいものがあるにかかわらず、日本人が生かされないのは、国際化になったせいだ。日本の技術レベルが高くてももっと安くつくれるところに、国外に出るしかない。国内を見れば、例えば介護費が高い。「じゃ、どこか外国から安いナースでも連れてくるか」。「それは待ってくれよ」という感じで。高賃金、根源は高い生活コストゆえに日本人はますます使われなくなる。
(図32)
 生活コストが高くなったもとの理由は、我々にストックがなかったからです。ストックをつくっておけば、ぎりぎり賃金をストック資産相応のレベルまで下げても同じ生活レベルを保てるのだから。だけど、現在の我々は、賃金カットしたら、どんどんデフレスパイラルにいくわけです。教育費が高いのも、日本人がこのコストしょって、教えているから、サービス費だって、日本人がこのコストをしょってやっているから、高いわけです。産業連関と同じような生活コスト連関があるわけです。
(図33)
 これは産業連関を高校生でもわかるように簡単に書いたものです。最終財があります。例えば自動車とか家電でもいいです。その人件費比率は2割ほどでも、途中で鉄を使ったり、プラスチック使ったりいろいろな中間財があります。
(図34)
 中間財の中にも人件費があります。また設備費は人件費のかたまりです。こういうのを全部最終財に集約したら、累積人件費は6〜7割になります。人件費というのは、人数×賃金。日本は世界じゅうのどこの人たちよりも少ない人数で頑張っているわけです。だけど、これが、悲しいかな、賃金が世界一高い。フロー型の経済で生活コストが世界一高いからです。これが我々の悲劇ではないだろうか。
(図35)
 このことは、もっと深刻な問題を起こしているのではないか。公共投資の総投資額の推移を東京都のデータから見れば、こういうのが分かります。
(図36)
 新規施設の投資も増えているが老朽更新への投資も同じようにふえています。これは30年前につくったインフラや各種設備の老朽更新に金がかかるということ。ここ当面は、できるだけ延命化するしかないだろうと思いますが、そうはできずに、バラバラ崩れてくるとか、つくり直さなければならないものがだんだん増えてくる。これは子供の世代から考えてみたら、親がつくった世代の老朽資産をつくり直さなければならず、しかもそれをつくった時の負債がずっと借金としてまだ続いている上に、つくった世代は高齢者になり、高齢者介護費や年金の負担を求める。これを世代間倫理問題といわずして何だろうか。
 世界じゅうの歴史を見ても、後の世代にこういう負の資産をつくった民族はいないんじゃないかと思います。
 例えば、ジプシーの人たちもずっと世界を回っている間に、金の首飾りとか、ダイヤの何とか、資産を貯めていく。貯めていって、必ず子孫につないでいく。「どこかで、おまえたち、住みたいところがあったら、そこで町をつくれ、そこで定住しろ」と、必ず資産を残す。戦後の我々だけはなぜかこういうことをやらなかった。
(図37)
 このことは、あちらの方から見れば、非常にアグリアブルな話です。要するに、フロー型の経済の国というのは、ストックのある国々から見れば、永久に続く市場なのです。
(図38)
 最後のテーマは環境ですが、我々は、戦後、熱帯雨林を切って成長してきました。生態系がもとどおりになるのに200年かかるそうです。皆伐した森は回復に250年かかるという先生もいます。
(図39)
 そうして得た木材を、家屋なら我々は30年で回します。そうすると、当然廃棄物が出てきます。CO2 も出てきます。人間社会から出てくる廃棄物はリサイクル法で面倒を見なければいけなくなったわけですが、一方では人間社会に入る資源量と森が生産する資源量がきちっとシンクロナイズしていることが重要です。先ほどヨーロッパの事例を見ました。ドイツですと、黒い森から切った木材を使ってつくる家具とか家が、黒い森の生産能力にきちっと同調しているかどうか。つまり自然の資源生産と地球の資源消費が同調していることが地球環境持続の上で非常に重要なことですが、我々はそれをやらなかった。
(図40)
 これはアジアの熱帯雨林の残存自然量が、どんどん下がっていく様子を示した模式図です。アジアの人口はどんどんふえています。そのままふえていくと、当然彼等も、家も家具も欲しいわけですから、もっと残存自然量が減ってきます。さらに、中国を初め経済成長していますので、指数変化ですから、我々が予測したよりもっと早く、自然の消滅、限界がやってくる。幸い、外材を輸入してきた我が国には森林だけは残った。これは実にハッピーなことですけど、余りこういうことはいえません。
(図41)
 私たちが環境を考える場合、資源循環型社会の実現とよくいっていますが、大きな誤解があったのではないでしょうか。92年のリオサミットのときに日本以外のG7の国は、これまで家の寿命、家具の寿命を地球の資源と人間社会の資源をシンクロナイズできるようにしていたのです。彼らが必要なのは廃棄系、つまり人間社会からの出側の部分への対応だけだった。ゼロエミッション型社会を実現するだけで、地球の資源循環に人間社会の資源循環を同調させることができたのです。我々は、実は地球の資源生産と人間社会の資源消費を同調させる入側の対応もしなければいけなかった。だけど、彼等から見れば黙っていたらいいのではなかろうかと。だって、永久に続く市場がアジアにある方がいいじゃないですか。バカンスをとりながら、あの人たちはGDPが我々より低いのです。楽ですよ。私たちは一生懸命やるだけ。こんなのやっておられるかという気になるわけです。我々の社会でも資産つくろうではないか。こういうのがストック型社会論。自分もそう思っていたとおっしゃる方がいっぱい集まるというのはそういうことなのです。
(図42)
 なぜそうなったか。最初申し上げたように、皆さん専門家だ。自分の専門の部分最適にどうやら陥っていたのではなかろうか。もっと統合的に見てみるというところに重要なポイントがあったのではなかろうか。こうして人が集まっています。
 繰り返しますがキーワードは、我々が物的ストック(資産)を貯めてこなかったが故に、生涯生活コストが非常に高くて、高い人件費構造になったこと。そうすると、国民生活、経済、環境、とりわけ経済の国際コスト競争力はどんどん低下します。さらに、産業では必要な要員をどんどん削減していきます。日本人を使えない。本当は研究開発にもたっぷり技術者をつけたかった、あるいは工場の安全、安心のためにも、人はたっぷりつけたかったんだけど、コストを下げなくてはいけないから、人材を生かせない。そうすると、いろんな問題が起こってきます。大型科学技術開発の失敗とか。将来の夢につながる基礎技術は今ならまだあるわけですから、優秀な日本人を十分つけてやればいいんですけれども、実は人件費が高いからやれない。リストラの問題や、社会不安が出てくる。内需は不振です。どんどん空洞化してきます。
 ついこの前、鶏の問題が起こりました。気がついてみれば、食糧の自給率は40%以下なのです。これも主因はコストなんです。ゆとりの欠如、未来についての不安。環境だって、熱帯雨林だってどうなるかわからない。
 だから、統合的にもう一度考え直して、後の世代に残る資産をつくっていこうじゃないか。フロー型社会からストック型社会に変わっていけばいいのです。



3.ストック型社会への転換に向けた政策ロジック

(図43)
 ストック型社への転換には2つの問題があります。技術に関わるハードの問題と、税制とか法制とかファイナンスのようなソフトの問題。こういう問題をどうやって解くかが、私どもの研究のテーマです。
(図44)
 世代が進むごとに資産がずっと蓄積していく。そうすると、資産の蓄積により、大きな資源消費量もだんだん減ってくる。生活コストも下がる。その分、文化的投資にどんどん入れたらいいじゃないか。時間的にも恐らくゆとりが出てくるのではないでしょうか。ここでたっぷり文化に対するコストを貯める、ヒトが人間として生きられるような、そういう社会が先進国じゃないかと思うのです。
(図45)
 ストック型社会への転換は家とか家具とか道路の長寿命化をすれば良いということではありません。というのは、50年後の子孫、100年後の子孫の人が使う家とか都市とか道路、家具とかこれから先のストックをつくっていくわけですから、その前に50年後、100年後の社会はどんなことになっているのかを考えなければなりません。
 最初申し上げたように、今、世の中は指数変化しているわけです。だから、単純にヨーロッパのストック型社会モデルを持ってくればいいというものではないし、江戸時代のモデルを持ってくればいいというものでもない。特に最初申し上げた指数変化、その中でも一番重要なのは、資源問題ではなかろうか。
 島のシカのことを思い出してください。島の表面積が一定で、その島にシカが何頭すめるのかと同じように、表面積一定の地球表面にヒト科の動物が何頭すめるか。世界の人口は、悪くすると100億いくというのですから、これは恐ろしい話。しかも、みんな豊かになりたいわけですから、1頭当たりの食糧の量もふえてきます。エネルギーの量もふえてきます。当然資源の問題が起こってくるわけです。
 例えば、今私たちは、材木・森林資源も、食糧も海外から輸入していますが、これが何十年も続くモデルかというと、生物的に見れば、持続的であるはずはありません。経済では持続かもわかりませんが、環境面では持続じゃない。なぜかというと、あれは窒素、燐酸など栄養塩の循環なのです。熱帯で固定した窒素、燐酸などが船で運ばれて、先進国に貯まっていく。今も富栄養化なんていっていますけど、世代を越えた長い期間、これを続けられるとは思われません。
 あるいは、私たちのライフスタイルも、昔は完全に資源循環だったでしょう。ヒト科の生物というのは資源の消費量がどんな動物よりも多いわけです。だから糞尿は栄養塩の固まりで、昔はちゃんとくみとりをやって、日本中循環していた。今はやってない。ヒトは死んでもCO2、つまり火葬する。葬式にはみんな車でやってくる。これが持続的か。これを計算すると、かなりやばい話になるんじゃないか。現代人の文化や行動も含めてとにかくストックの問題は全体的に考えないといけない。
 後の世代に通用するストックでもう1つ大きな問題は、我々ヒト科動物の大脳の問題なのです。人間以外の生物は、欲求原理ですから欲求が満たされたら行動は止まりますが、我々ヒトは欲望原理。ヒトの欲望はエンドレスで、常にサムシング・ニューを求める。行動は止まりません。
 この人間の特性は否定できないので、長寿命型のモノと常に新しいモノ、この相矛盾したことを全部満足するシステムができないと、多分ストック型の社会システムはできないのではなかろうか。
(図46)
 そこで、私たちが考えたのは、建築のSI工法の考え方によく似た話スケルトン&バッファー理論というものです。つまり、不易なもの、絶対に変わらないものはロングライフにしておこう。だけど将来、人々が変えるに違いない部分は、バッファー、つまりクッション機能にしよう。また将来はいろんなインパクトがやってくるに違いない。それは我々内部から出てくる、例えば流行など欲望に関するものであるかもしれないし、あるいは地球環境問題で、本当に温暖化で海面が1メートル上がってくるインパクトかもしれない。そういう変化のインパクトに対して、どうにでも対応できるようにするのがこのバッファー理論です。この絶対に変えない部分と、このフレキシブルな部分の組み合わせではなかろうか。このスケルトン部分にコストインパクト、あるいは環境インパクトが大きいものをできるだけ貯め込んでおいて、ほかは何とか変化(インパクト)に対応できるようにしておくことが一番理想ではないか。
(図47)
 そこで、ストックの定義をもう一回考えてみます。腐らないとか、さびないというものだけではなかろう。今申し上げましたように、変化できる部分をつくっていったら、役立たずにならない。つまり機能的な劣化が起こらない。それから、変化する技術や価値観、こういうものに対応できることですね。先ほど申し上げた発展の可能性を保証するものがなければ、不易なものをスケルトンにしても、それは続かない。また素晴らしいデザインとか、景観とかで物すごい付加価値があれば、それはそのままストックされるに違いない。
(図48)
 次に資源自律の話ですが、日本にこれだけ森林があります。恐らく木材などの輸入というのは、そう遠くない日に今ほど自由にできなくなるのではないかという気がします。そこで日本の自然の中で、利用可能な森林だけを確実にシンクロナイズして使うようにしよう。これは実は計算ができる世界なのです。
 例えば福岡県の森林があります、その中で利用可能な面積はこのくらい、100年後の人口は今と同じ状態とする。そうすると、その利用可能な森林で生産される杉の生産量(成育量)に対して、その杉財を何十年使えるようにしておけば、生産と消費を同調できるかという計算です。
 例えば100年とか110年とかの計算結果になるわけです。森林面積も広く生産量が多い大分や宮崎ですと、これが60年とか、もっと短くなるわけです。生産に余力が出れば当然それが基盤産業になる。次に福岡県で成長した杉を仮に110年間使える技術です。これは県の森林技術センターあるいは工業技術センターとか、木質をやっているところにあります。こういう処理をしたら、こういう家のつくり方をしたら、110年間の利用はちゃんとできる。こういう研究事例が出ております。こういうことは木材以外でも起こるわけです。
(図49)
 例えば、コンクリートとか鉄だったらどうなるか。これは簡単にこう思ってください。鉄はすでに資源量としてストックがかなりあり、将来は鉄鉱石を輸入して還元しなくてもよいほど資源ストックを持てるかもわかりません。
 一方、鉄やセメントなどの素材産業はエネルギー多消費型の産業です。日本のエネルギーのバランスシートで、入り側は石油とか石炭、天然ガスなどほとんどが輸入です。出側、つまり消費は、何にどのくらい使っているのか。その半分が産業部門です。また22〜23%は運輸部門です。ここで例えば鉄などの素材や成品の寿命を仮に3倍延ばしたら、次の世代のそこでのエネルギー消費は3分の1で済むはずです。セメントも化学もそうでしょう。私たちは、どうやって省エネするかを空間的に考えますが、時間的には考えない。長寿命化という時間の概念を取り込めばドラスチックに変わります。当然その結果、運輸部門のエネルギー消費も減るわけです。
(図50)
 長寿命化というのは、エネルギー・資源のモデルでもあるのです。つまり、長寿命にすれば、リデュースができます。廃棄物がどんどん減ってきます。長寿命にすると、生活コストが安くなって、賃金が安くなる。今の廃棄物関係の産業の方が何で苦労しているかというと、実はコストで苦労しています。例えば紙のリサイクルで、日本の古新聞集めてきてトラックで運ぶより、今はバージンパルプを輸入したほうが安い。しかし賃金が下がれば、その処理コストの大半を占める人件費が安くなる。かつ、今申し上げた、長寿命になるほど、エネルギーも使いません、資源もあまり使いません。後の世代に資産も残っていく。当然、森も残りますから、CO2の固定能力だって高くなるじゃないですか。これは非常に当たり前の話なのです。
(図51)
 これからスケルトンとバッファーの具体的な考え方を紹介します。建物ですと、SI工法、サポート・アンド・インフィルですね。建物ならば柱、床など骨の部分だけをロングライフ化しよう。今の人はは4畳半でも我慢するけど、将来の人は4畳半は嫌に違いない。だから間仕切りはいつでも変われるようにしておこう。あるいは室内のシステムが今後の技術進歩で変わるかもしれない。だから内側はいつでも変われるように、ショートタームでリサイクル型のものにしておきましょう。次の世代が自分に合ったように変えられるようにしておく。そうすると、次の世代で新たに使う資源量はインフィル部分だけでよい。スケルトン部分はそのまま使えるので、コストもインフィル部分への負担だけで済む。
(図52)
 ところで、家1軒だけ長寿命でも、何の意味もない。街全体あるいは地域全体が長寿命でないといけない。今は未だ日本では土地が高いですから、開発して、ぎっしりと家を建てます。だけど、50年後は日本の人口は減る。100年後、間違いなくもっと減る。だとすると今、何もかもロングライフ化することはない。50年後、100年後の世代にとって必要なところだけをロングライフにしておこう。50年後は、100年後はどうなるか。その将来図を先に描くことが重要です。
(図53)
 今はこうやってとりあえず建てていますが、将来図に照らして必要なところ(残る建物)だけがロングライフ、SI工法的な工法でやっておこう。
(図54)
 これは研究会のイギリス人が考えたコンドミニアムで中庭のある集合住宅の例ですが、日本でもこんなのをつくれないかと提案したら、断られたというのです。そこで100年後そうなるようにすればいいじゃないか。ということで、外周部の建物だけをとりあえずロングライフにして、街区内部の建物はショートライフ、つまり今までどおりの仕様でやろう。30年も40年もたてば、寿命に至って消えていく。その時代には少しは文化も変わっているだろうから、そこで新たに外周部に建物を追加して、こういうコンドミニアムの中庭スペースができる。この例のように工夫すればいろんな考え方ができるのではないかと思います。
(図55)
 さらに、スケルトン&バッファーの考え方は街区から町域・地域に拡大しても同じことがいえる。地域の中にも大きなインパクトに強い部分と弱い部分がある。つまり強い部分は長寿命型資産を集中したスケルトン・ゾーンとして使えるが、インパクトの影響を受けそうな部分はバッファー・ゾーンとしていつでも用途の切りかえができるようなゾーンにする。
(図56)
 例えばこの模式図では、山があって、海があって、地盤が岩盤でしっかりしたところはロングライフのスケルトン・ゾーンにしてもいい。だけど、臨海地は、温暖化で本当に海面が上昇してきたら困るのでバッファー・ゾーンにしておく。例えば工業地帯にしておく。産業というのは同じ形態で100年も続くことはあまりないわけですから、フレキシビリティーを確保できる。バッファー・ゾーンではあまり人が資産をためるような構造にしない。またお城とか旧街道とか歴史的なもの、あるいは希少な自然はスケルトンで資産として残さないといけない。既存の基幹道路なんかは、メンテナンスが要るにしても、多分スケルトンで「資産として残していく空間」だと思う。こういうことをいろんなレベル・段階で考えていく必要があるのではないか。
 一方、自然にもスケルトンとバッファーというのがある。今、里山をつくろうとか、ビオトープをつくろうというのがはやりになっていますが、生物原理の骨がなければ、意味のないものになってしまうかもしれない。
(図57)
 私は鳥を研究していました。日本列島を通過する渡り鳥の多くが北九州を通過します。今ではその渡りのルートもわかっています。例えばこの埋立地も渡りのルートでその上を鳥が飛んでいく。今、北九州市が、「鳥がさえずる緑の回廊計画事業」を展開しています。栄養塩がないため植物が育たない埋立地に、生ごみとか廃棄物系の窒素、燐酸などを持ってきて土をつくって、渡りのルートに沿って鳥に合わせた木を植えていこうとしている。これは自然のスケルトンに合わせた自然共生モデルの例です。
 これにどういう意味があるかというと、将来に向けて食糧の自律を図るとすれば、自然資源は栄養塩の循環なので、人と自然の共生が不可欠になる。
(図58)
 人口13億の中国が今後も経済成長を続け、海産魚の消費が増えれば公海の漁業資源が激減するかもしれない。
 このようなことが世界規模で起こってくると、最後はきっと自分の領海、沿岸内でやっていくことになる。そうなれば海の栄養塩の循環をきちんとして、海の生態系を健全にしておく必要がある。農業の方では地産地消という思想がありますがこれと同じです。
 自前の干潟を保全していれば少なくともアサリ貝は保障される。自前の川を保全していれば、そこに上がってくるサケやマスあるいはスズキやボラを保障できる。そのために、いったん汚染してしまった海や川や干潟があれば、その自然のスケルトンを回復する必要がある。30年後か50年後か分かりませんが、食糧危機になったとき突然に自然の修復はできません。これは次世代の人々の安全保障なのです。食糧の安全保障。
 先ほどの鳥もそうですけど、栄養塩の循環なのです。鳥はたまたま食物連鎖の頂点にあるだけで、この下にローカルな鳥がいて、昆虫がいて、それから植物があるのです。農業や林業をきちっとやれるかどうかは栄養塩の循環がきちんとあるかなので、それを地域レベルでやる。水産業も全く同じなのです。つまり生物資源の生産基盤は重要なストックとして、地域の設計図に機能と範囲を明示する必要がある。
(図59)
 資源の自律を図ろうとすれば、自然との共生をしなければなりません。これは今いった大きな話から、例えば公園をどう設計するかという小さな話にもかかわっています。地域自然のスケルトンに合わない芝生をつくる、ビオトープをつくるというのは前述の視点からはほとんど意味がない。私だったら土壌に栄養塩だけ与え、放置して雑草にします。ローカルな植物、ローカルな昆虫、ローカルな生態系ができます。それでも美しい公園はできる。そうすると、いざとなったときにそこを畑に変えられる。高齢者の方は戦後、公園や空地をイモ畑にした経験があると思います。
 指数変化の時代環境ではいつ、何が起こるかわかりません。シカの数がふえていって、400頭が800頭、800頭が1600頭になっていく過程で、資源の取り合いや種間闘争が起こるかもわからない。自然界では当たり前の話なのです。
 いいにくいけど、そういったことは大いに起こり得る。だから、何とかそれの対応をやっていきたい。それをやるには金が要るわけで、どうやってその金をつくっていくかという話が次にあります。
(図60)
(図61)
 先ほどお話した街区をつくろうとか、初めからロングライフに設計して、柱、はり、床だけは100年、200年使えるような建物をつくろうとか、道路とかインフラも決して劣化しないものをつくろうかといいますと、当然コストは高くなるわけです。
(図62)
 いろんな計算があります。長寿命型にすると2〜3割高い、あるいは50%は高い、2倍ほど高い、いろんなケースがあります。またこの増加分をだれが負担するのか。今は国も地方公共団体も金がないわけです。
 まず、環境保護から出てきたリサイクル法があります。この中でリース型社会という話が出てきていました。家電の電球なんかも、実は今の寿命の何倍ももつというものがあるのですね。そんなのをつくったら、モノが回転しないから売れません。だが電球を販売ではなくリースにしたら、きっとこれに長寿命にするに違いない。仮に電球だけでなく建物内部の電気系統の全てをリースにする。そうなると電気メーカーはモノを売らなくてもリース収入がある。仕事はモノの製造からメンテの仕事に変わる。
 リースにしたら、その間必ずリターンが来るわけです。
 もし、そんな資産がバランスシート上、重くなればこれを証券化する。今、建物など不動産でやっているSPCのようなもので証券化できるようにすればよい。金融面でみると、今はお金を持っている人が銀行に預けても金利がつかぬ時代です。それを投資に向けてもリスクが大きすぎる。場合によっては日本の金が国外に流出してしまう。それを不動産投資に向けて国内に確実に担保する意味では、モノの証券化はよい方法かもしれません。少なくとも国内で物ができるのだから。物があり、使われている間は証券のリターンが来るわけです。だけど、欠点は何かというと、建物などが今までのスペックですと、証券価値が30年か40年かたっていくうちに劣化していく。つまり証券価値が下がってくる。
 だが、これを長寿命型にすれば、この欠点は解決できます。
 長寿命型の不動産なら、時間が経っても商品価値は下がらない。このような特長を生かして工夫すれば、こういう仕組みは幾らでもできるのではなかろうか。
(図63)
 ここに1つの開発のモデルがあります。ご説明する時間がありませんので、私の研究所のホームページをぜひご覧になってください。
(図64)
 問題はこのような政策を誰がやるかです。長寿命型のインフラ、素材、工法、構造、いろんな技術の組み合わせから自然資源、食糧の自律まで技術システム、つまりハード面は多岐にわたる省庁が担当する。これは地方行政でも同じで多くの部局が担当しています。
 また、税制、法制、金融システムからいろんな連関の問題、まちづくりから、教育の話まで、ソフト面についてもいろんな省庁が担当します。我々の社会は、先ほどからいっていますように、縦割りの部分最適解型ですから、このままでは統合的なストック型社会への転換はなかなかできません。
(図65)
 各省庁に目標を転化するやり方では部分最適解の総和型になる可能性が高くなるような気がします。こういうところが問題になるかもしれません。
 今までの科学は、どうも帰納法ではなかろうか。どんどん細分化していくわけです。一番最初に申し上げたように、学問がどんどん細分化して、専門家はその先端でタコつぼに入る。その何人か集めて専門家会議をつくっても、恐らく部分最適解の総和にしかならない。物事を演繹的に考えるというのはどういうことかといいますと、各分野のシーズを積み上げていくのではなく、地球や人間社会全体あるいは次世代のニーズから、個々の分野にデマンドを与えていくプロセスになる。
(図66)
 何事もより根源から考えていく。もともと何だったんだというところから考えていく必要があるのではなかろうか。そのための論理の1つは未来のデマンドから考えることであり、もう1つは、例えばVE手法でよく使う機能系統図のようにストック型の社会の実現に関わる全ての分野の活動を、最上位側の概念から考えていくこと。
(図67)
 例えばこの系統図で見ますと、ストック型社会にする目的は、地球環境を持続し、かつ国家を安定し、国民を豊かにするため。その目的を達成する手段には理論形成、世論形成、それから政策形成が必要で、更にその下位概念、例えば理論形成の手段(内容)は・・・と、誰にでも理解できるようロジカルに展開していく。この手法も一つの例で今後は、もっといろいろ試さないといけない。研究する必要があります。
(図68)
 こういうものを全部体系的にまとめて、じゃ、ここは学問でいえばどういう分野がやり、省庁はどこがやる。地方自治でいえばここがやる、というように統合的に考えないとだめではなかろうか。
(図69)
 今から世の中はどんどん変わっていく。将来のことなんかわからないと無視するか、50年後何が起こるだろう、100年後何が起こるだろうとマクロ予測してわかっているところだけでも対応するかは、国民性の問題とも言えます。
 資源枯渇など問題が顕在化するであろう50年後を前提に資源の自律、生物基盤をどうするかとか、生活インフラ、社会インフラをどうするかを考える。50年後の地域社会の姿を絵にかこう。最初は絵をかくだけでいい。その実現は経済面でも技術面でも完全ではないかもわかりません。でも、これをやらないと、50年後の世代は持続的ではないわけですから、どうすれば50年後の持続型社会ができ上がるかというのを技術面から、税制から、法制から考え、議論を始めていけばいいのです。こういうようなことを地域にどんどんブレークダウンする。例えばこの道州、都道府県、この地域、どこどこの町、それごとに50年後の絵をかく。
(図70)
 この50年後の持続型社会の設計図を基にそれぞれ第1次産業は何するか、第2次産業はどうするか、行政は何するか、学問・大学は何するか、市民は何するかをそれぞれ自ら考える。おれたち、こういう夢を描いているんだ。かわいい子や孫の時代は必ず彼らがきちっとやれるように、やっていくからねと。最初はぎこちないかもしれません。別のやり方もあるかもしれない。でも、いきなりやれないわけですから。
 こういう設計図を3年かけてかく。最初は専門家がかいて、道州レベルから地域レベル、それから市町村レベル、街区レベルにみんなこういう設計図を持つわけです。これは夢を描くことなのです。次の世代へ向かって何をするか。そうすると、国民が、あるいは地域住民、市民が、私たちは何をすればいいかということがわかるじゃないですか。設計図もないまま地方分権したって、意味がないのではなかろうか。こういうものをやることによって国の政策と地方の政策を一度シンクロナイズできる。おそらく出てくる絵はみんな当然違う。東北の町と九州の町は自然環境も社会風土も違う、使う資源も違いますから。マクドナルドのような紋切り型の町ができるはずはない。当然そこには文化の違いが出てくると思います。それぞれの地域の誇りが出てくるでしょう。
 そういう地域モデルをやって、地域プロジェクトとか国家プロジェクトをやっていくと、次の世代に何をやればいいか、目標が明確に出てくる。できれば世界はいつも変わっていますから、10年おきに見直すということが必要なのではなかろうかと思います。次の世代が常に目標に向かって、この絵を修正しながらいくと、最初に申しました部分最適解型の国民性から脱皮できるのではなかろうかと思います。



4.国民性形成の生物的解釈

 実は、なぜ日本人は部分最適型の社会をつくってきたのだろうかという民族性を生物モデルで解くというのがあります。今後、日本のストック型社会に転換するならば、私たちの国民性の特性を客観的に理解しておくことが重要です。
(図71)
 国民性の問題は、私が技術協力で日本の技術移転をイタリアとかドイツにやっていく過程で一番困ったことです。国民性って、はかれるか。実は、はかれます。例えば、イタリア人は節操がないとか、ドイツ人は規律正しいというのをどうやって証明するか。みんな「うーん」と言いますが、それなりに証明できるのです。
 例えばローマの交差点にいて、青信号で何台車が通る、黄色で何台通る、赤で何台通ると、データをとる。またデュッセルドルフに出張した時に、同じようにドイツのデータをとる。黄色以上で通った車の比率の差の検定。統計的に確実に有意差検定できます。明らかにイタリア人はドイツ人に比べて節操がないといえる。ドイツ人はまとまっているがイタリア人はバラツキが多い。だけど、それだけいったら終わりです。
 次に交通事故の発生率。実は有意差ありません。ここがおもしろいところです。これ、自然系でも全く同じようなことが起こっています。僕らは思い込みでとんでもない間違いをやってしまうのではなかろうかということから、こんなことをやりました。前述の島のシカの社会学、規範の問題です。赤いシカと黒いシカの闘争で、どっちが有利かというのは、群のモデルでいろいろ分かる。
(図72)
 以前はこれを鳥の話でよくやっていたのですが、最近は魚の方がいいと気づきました。これは「動物奇想天外」という番組を見ていたら、ものすごくいいモデルが出てくる。昔は学者だけがこういう研究をしていたのですが、最近はアマチュア、つまりコマーシャルフォトグラファーが海にもぐって魚の写真を撮ってくるのですが、そこにとんでもない発見があるのです。
(図73)
 ひとつにカモメの群、イルカの群のタイプがあると思ってください。次にホシムクドリの群、イワシの群のタイプがあると思ってください。後者のタイプつまり、弱いものは群れるのです。イワシは食べられる一方ですから、1000匹で群れるより1万匹で群れる方がいい。なぜかというと、サメ、イルカが来たときに、数が多ければ多いほどやられる確率が減るわけです。だからより数多く密集して群れる。群のカタチとしてはバラツキが小さい分布です。一方、イルカが群れる、カモメが群れるというのは、自己保身のためではなくて、お互いに分業して、協業しようというバラツキが大きな離散型の社会です。
(図74)
 ちなみに、群の中の個体のベクトルというのがありまして、イワシやムクドリはできるだけ群の真ん中に入りたがる。真ん中の方が安全ですから。だから群はますます密集型になる。イルカやカモメの群は極めて離散的です。彼等の視界は広く行く方向もはるか先まで見えている。
(図75)
(図76)
 群のカタチのもう一つの意味を考えてみます。シジュウカラは冬に群をつくります。その群の型は南と北では違います。東北の落葉樹林のシジュウガラはバラツキが小さい密集型に分布しました。なぜかというと、葉が落ちてしまうと、オオタカからねらわれやすく、10羽で群れるより50羽で群れる方が安全だからです。群と群、個体間距離もぐっと狭い密集型です。ところが九州の照葉樹林は、冬でも葉っぱが落ちず、天敵にも見つかりにくく餌も豊富です。そうすると、群がばらばらで、しかもいろんな種類が違う鳥が一緒にごちゃまぜになっているのです。東北の群に比べ、はるかにバラツキが大きく、離散的です。
 つまり「弱いものは群れる、強いものはバラツキが大きく離散的」という群の性質のほかに、もう1つ「豊かな環境の群はバラツキが大きく離散的で、貧困な環境、危ない環境の群は密集型にまとまる」という群の性質がある。
 これをドイツ人とイタリア人に置きかえたらどうなるか。アルプスの南と北は、照葉樹林と落葉樹林の差のようなものが昔からあったわけです。アルプスから北は、冬がきて雪が降る前にみんな助け合って、食べ物の取り入れをしたり、屋根のふきかえもやらなければならない。群れてないと、つまり、村八分になったら、生存権を失います。アルプスから南は、冬になっても暖かいし、長寿命型のインフラはある。食べ物は野にあふれている。そうした環境が個人のわがままを許せる。つまり、どこにいても凍え死ぬことも、飢え死ぬこともない。やりたいことをやる。バラツキが大きな離散的な社会です。車でも、赤信号でも突っ込む人たちがここにいるけど、確実にルールを守る人もここにいるのです。一方アルプスの北では村八分になった途端に、生存権がなくなるから、みんなまとまる。バラツキが小さい社会になる。日本人の社会は、どちらかというとドイツ型のバラツキが小さな分布と思われます。
 製鐵所はマン・マシーンの統合システムです。設備をつくって、それを動かす人間もつくります。人間のほうは会社に入るときにまずセレクトします。さらに教育をどんどんしていって、できるだけ粒ぞろいの集団をつくってきた。だから、溶鉱炉から転炉まで溶けた鉄を運ぶのに、例えば13分プラスマイナス45秒できちっとつく。温度1400度プラスマイナス30度の範囲にピタリと入る。それと同じ製鉄所をイタリアにつくった。個々の設備を個々に動かせば間違いなく1000万トン生産できます。だが個々の設備を動かし、個々の設備の途中をつなぐのは人。その中で100人に1人、100回に1回そっぽ向く人がいる。
 そうすると13分の工程時間が、17分かかって、表面温度が1300度でやってくる。次の設備は、温度が下がっていますから、温度を上げないといけない。その間に次がつかえてくるわけで、調整が調整を呼び、全体の効率を低下させていた。
 つまり、人のバラツキが小さい会社を前提につくったシステムは、人のバラツキが大きな社会で運用しても無理がある。工程間を直行直結にするよりむしろ工程間にバッファーを持った方が安全なのです。
(図77)
 イルカ型、イワシ型、それぞれに長所と短所があります。離散的な群社会は、ばらつきが大きいですから、時々ルールを守らぬ者がいて、時々社会の効率を落とすけど、実はものすごくいいことがある。世の中の変化が激しいとき、今みたいな時代は、実はこれが有利に作用する。
(図78)
 イワシ型の社会の中にいる者は、前の人の背中と横の人の位置関係だけを見て競争している。一方、イルカやカモメのように離散的だと、遠くまで見えるので、ロングターム、ワイドレンジの視野を持っています。
(図79)
 ムクドリ・イワシ型の行動特性は、感受性も思考力も行動もみんな同じです。粒ぞろいをつくったのですから、チームワークにはすごく向く。一方で内部抗争などの問題も起こるが、世の中が直線変化している間はこの分布はものすごく有利です。
(図80)
 世の中が直線的に推移している時は、例えば、教育でいいますと、これは知識の教育だけでいい。覚える教育だけでいい。なぜかと言うと、昨日の続きに今日があって、今日の続きに明日がある世界ですから。ところが、世の中が指数的な推移になるとむしろバラツキが大きい社会の方が恐らく有利。
 例えば、Aという昆虫とBという昆虫と2種類いたとする。Aは5度から10度の温度帯だけで、Bは0度から20度まで生きられる。環境の温度が直線に推移して間はいいのだけど、気温が15度、20度と急に変わり始めたときに種Aは絶滅する。これに対し、種Bはこの変化に適応できる。種Bはその一部が生き延び、新たな適応に向かう。このような変化のときに何が大事かというと、感受性と適応力である。
 第2次大戦の枢軸の国でこの密集型の日本とドイツは、絶滅ぎりぎりまで突っ込んでいった。一方の分布型のイタリアはムッソリーニからバドリオにかわるだけで環境変化に適応した。何をもって適応したかというと、国民を何人殺したか。資源を幾ら消失したかの量的比較で言える。これで明快なように、今はまさにこの時と同じように社会が急激に変化している。
(図81)
 指数変化の環境というのは、次々にモノが旧式になるので、物の使い捨てが起こります。それから、知識の使い捨てが起きます。知識の使い捨てになるから、人の使い捨てが起こるわけです。「パソコン使えぬ高齢者もう要らぬ。」ということになるわけです。
 また、あふれる情報があっても、何が重要なのかという感受性と適応のための思考力がなければ、情報の中で埋もれるだけです。我々はこういう社会環境の中で、非常に特殊な密集特性をつくっているリスクがありそうです。縦割りとか、横並び型とかいう言葉をよくききますがこれもその一例でしょう。
(図82)
 いろいろ証拠を見ていきますと、最初に申し上げたストック型の社会というのは、50年先とか100年先のことを考えて、かつもっと広い視野で、経済も環境も文化も学問も技術も、幅広く統合的に考えなければならない。だけど私たちの社会特性はストック型への転換に向いていないかもしれません。
(図83)
 例えば、日本の立法府です。議員は4年おきに選ばれる。参議院だと6年おき。つまり、4年おきの最適解しか考えられない。地域から選ばれる、あるいは業界から選ばれる。そこにリターンを持ってこなければ、本人の生存権がないわけですから、ナローレンジにしか動けない。日本の立法府のシステムはショートターム、ナローレンジではなかろうか。つまり、国会議員の皆さんがみんな4年おきの資産しかないとはいいませんが、ロングターム、ワイドレンジで政策を安心して考えられるような環境じゃないという気がします。
 行政はしようがない。縦割りですから立法府で決まったことをやる。だけど、今はこの辺が一番感受性が強いのではないかという私の個人的な印象です。このままではまずいぞとおっしゃる方は行政府の中にいる。
 司法界も決まったこと、規範をやるわけですから、どうしようもない。
 産業界、昔はオーナー社長がいっぱいいました。だから、「自分の会社はつぶしたくない」とおっしゃるのですが、今は大企業、財界も、ことごとくサラリーマン社長です。自分の代の業績さえ上げればいい、だから何十年後の会社なんてだれも考えない、とは申し上げませんが。しかも、株主は、「業績を上げろよ。早く株価を上げろよ」とおっしゃるわけですから、しようがない。ロングターム、ワイドレンジで考えられない環境に置かれている。
 学問。最初に申し上げたように、細分化しました。国民は、覚える教育をやってきました。
 でも、何とか、私たちは破局を乗り切りたい。そのためには環境さえつくればいいのではなかろうか。鳥も、落葉樹林ですと密集して群れます。だけど、照葉樹林だったら、離散的になるのです。熱帯雨林と同じように、少しの違い、わがままも許せるような、そういう環境をつくっていく。つまりストック型の社会に転換できれば、熱帯雨林のようなゆとりのある豊かな社会ができる。
(図84)
 さてこれは「自分は感受性があるよ」とおっしゃる方のためにつくったモデルです。これで私たちの選択肢の幅を計ることができます。
(図85)
 ここに、タイが1匹ある。「この料理法を、何通り考えられるか」と15分ぐらい考えてもらう。ちなみに50以上考えられる自信のある人、手を挙げていただけませんか。いらっしゃいません。私たち日本人は知識を追いますから。50以上は考えにくい。
(図86)
 「魚の料理」といったら、「煮魚でしょう、焼き魚でしょう」と、知識を追っていくのです。ドイツ人とかイタリア人で実験しますと、中には、魚の料理とは何かと因数分解するものがいる。魚の料理とは、@形の整える方、A熱の加え方、B味のつけ方、C他の素材との組み合わせであると。
(図87)
 形を整えるというのは、そのまま、3つ切り、2枚におろす、3枚におろす等々10通りすぐ考えられる。熱の加え方は直火から、ゆでるから、天ぷらから、10通りはすぐ出てくる。味のつけ方はソースなんて無限にあるでしょう。4つの要因にそれぞれ10通り考えつけば、組み合わせですからたちどころに1万通りの料理法が考えられるはずです。
(図88)
 今、世の中が指数的に変化している。その変化に対応するのに私たちが50通りの方法しか知らないか、1万通りの方法を持っているかで大きく違う。私たちに1万通りの知恵や政策があって、その中から目前の状況に対してどれを選ぶか。つまり、我々は幅広い感受性を持って、世の中の変化を正しくとらえ、それに最適なカードを1枚選ぶ。私たちに50枚のカードがあるのか、1万枚のカードを持っているかということは、次の世代には非常に大事なことになるのではないか。
(図89)
 また、カードを選ぶときには、何のためのカードかという目的を考えることが重要です。そもそも何のために明治の人は経済を発展させたか。国家を安定させ、国民を豊かにするために経済を発展させたのです。その目的を達成する手段として産業を発展させた。競争力をつける、技術力をつけるというのは更に「産業を発展させる」ための手段。我々はもしかして、手段の側ばかり見ていて、目的の側を見ることをさっぱり忘れていたのかもしれない。
 こういうようなことがいっぱいある。「教育する目的は何」と考えたら、いい大学に入れることだけが教育の目的に合う手段ではなかろう。ちなみに自然界では、ちゃんと1匹で生きていけるようにするのが教育です。えさのとり方とか、敵からの逃れ方とか。
 エコノミー・アズ・エコノロジーでみればもっといろんなことがある。私たちがいいにくい倫理の問題とか、価値観の問題なんかも生物原理で考えると、比較的マクロ的に物事がいえる。ということです。どうもありがとうございました。(拍手)



フリーディスカッション

諸隈(司会)
 どうもありがとうございました。
それでは、ご質問のある方がありましたら、挙手でお願いいたします。
五本(椛蝸ム組)
 きょうは楽しい話をありがとうございました。
 先生のお話をいろいろ聞いていて、今後何十年か先に、もし日本が成功裏にストック型社会に移行した場合には、日本人も、メンタリティー、性格が今と違ってイタリア風になるというか、ホシムクドリからカモメの方に変化するというふうに期待していらっしゃるのかどうか。
岡本
 日本がストック型社会になるかどうかの話ですが、私は今の経済システムのまま例えばGDPの1.5倍ぐらいの外貨準備高を持つよりこれを国内の長寿命型インフラ整備に向けて、内需を拡大した方がはるかに健全だし、外国もこの選択肢のほうが喜ぶと思う。
 多分、メンタリティー的には、今どこに住みたいかといったら、個人的にはやっぱりイタリアかスペインか、あっちの方に住んだ方が私は幸せだなと思います。つまり、生きものとして熱帯雨林に住みたいか、寒帯のツンドラに住みたいかの違いなのです。いろんな選択肢、自由度が生まれる、つまり勤勉な人はそれなりに頑張って天才になれるし、物すごくわがままな人はやりたい放題やっても飢え死ぬこともない、私は、そういう社会を創るほうが地球のためにも、人間のためにもいいのではないかなという気がします。
 だから、もし個人的にどっちを選びたいかといったら、多分そういうイタリア型の社会。江戸の社会も、そんなんじゃなかったかなという気がするのですが、よろしいでしょうか。
三橋(商業・流通システム研究所)
 商業の世界でいいますと、建物も含めて、例えば日本の商店街もいろんな資産があります。しかし、今10年、20年あるいは30年ぐらいしかもたないような大型ショッピングセンターがどんどんできますね。小さいものがどんどんつぶれていく。やっぱり経済的に見ると、消費者はそういうふうな便利性だとか、そういったことを望んで、そちらの方に行くわけで、競争の原理からいいますと、フロー型の商業施設の方が圧倒的に強いという状況。それを変えなきゃいけないと思っている人も多いんでしょうけれども、規制もどんどん緩和されて、市場に任すんだと。エコロジーに任すんじゃなくて、マーケットに任すんだということで、そうなっていると思うんです。
 それを変える原理というか、今、市場主義から何々主義という考え方、あるいは日本人の今までの、フローが強いんだ、強ければ生き残れるんだという考え方を、どういうようなきっかけや言葉で変えていけるのか、またその辺の見通しについてお願いしたいと思います。
岡本
 こういう研究を始めたころに、ある財界の方が、「日本の社会とストック型社会はなじまない。だが失業率がどんどんふえて、例えば7%か8%になって、どんどん犯罪がふえていったら、多分日本人は気づくに違いない」と、92〜93年ごろそうおっしゃった。それから今になって、5.何%になった。実質的な失業率は、出ている数字よりもっと高い。このようなステーブルじゃない状況になって、やっぱりどこかで意図的に変えないとだめなんじゃないかとその方が最近言われてた。例えば、実験的なストック型街区をつくってでもと。
 私たちも、まちづくりの、商店街のモデルをやっています。先ほど絵の中で50年後の絵をかいて、斜めに線を引いていたのがあると思います。私たちのストック型都市モデルでは、都市中心や商業域は基本的にはバッファー・ゾーンとして考えています。そこは世代毎の顔でいつも変わるからです。商品そのものも商業施設も何もかもストックにするということも間違いじゃないかと思うんです。例えばモノですと、パソコンとか時計とかどんどん取り替えても、環境インパクトも資源インパクトも余り大きくない。あるいはサービス業、演劇でも何でもいい、歌でも踊りでも、それは地球環境にも資源にもあまり関係ない。商業施設も同じように考える。だが郊外の商業施設と違い、古い商店街の人々は「場」への強い愛着がある。ならば、ここでは意図的に変えることも必要になる。
 要するに、それまでの商店街は、世の中の流れに任せてやってきたんだけど、今から少し論理を入れて、子や孫の時代に残せるスケルトンがある商店街をつくりたい。例えば、50年後に残っているとしたら、こんな形しかないというものを描きながら、今やれるところからやっていっていくということをやっているのです。
 タイの料理50通りしか考えられない経験知の中だけで、いろいろ考えると不安だけど、街づくりの場でも実は無限に、9950通り、可能性があると考えていただいてもいいのではないかと思います。
諸隈
 お時間になりましたので、きょうは終わりにいたします。先生に大きな拍手をお願いします。(拍手)

 


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