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第200回都市経営フォーラム

21世紀のあるべき日本の「顔」と「身体(からだ)を考える

講師:川勝 平太    氏

国際日本文化研究センター教授

日付:2004年8月26日(木)
場所:日中友好会館

1.日本の「顔」は首都それとも首都機能?

2.なぜ日本は「顔」を変えてきたのか

3.「東京時代」を総括する

4.日本の「顔」は鎮守の森?

5.日本の「身体(からだ)」の改造試案

フリーディスカッション



 

 

 

 

 


與謝野
 ただいまから都市経営フォーラムを始めさせていただきます。このフォーラムは本日で200回目を迎えることになりました。こういう大きな節目を迎えることができましたのも、ひとえに、このフォーラムの運営につきましての皆様方のご理解とご支援の賜物であると心より感謝しておりまして、改めましてここに厚く御礼申し上げます。
 さて、その200回目の大きな節目の本日のフォーラムでございますが、かつて「文明の海洋史観」という誠に際立った文明史観を打ち出され国際的にも大変に広くご活躍されておられます、国際日本文化研究センター副所長・教授の川勝平太先生にご講演をお願いすることと致しました。
 本日は、これからの日本の国土のあるべき姿について新鮮な切り口で分かり易く説いて頂き、日ごろ、この種のテーマで私どもの頭にめぐるさまざまな思いに愁眉が開くような内容のお話をお聞かせいただけるのではないかと期待しております。
 それでは、川勝先生、よろしくお願いいたします。

川勝
 ご丁重に紹介を賜り、ありがとうございます。川勝でございます。
 都市経営フォーラム200回をお迎えになり、まことにおめでとうございます。
 さて、国際日本文化研究センターという名前は、あまりご存じではないと思いますが、いかがでしょうか。恐らく皆様方の奥様は、「日本文化センター」なら、ご存じではないか。(笑)通信販売の会社です。それに「国際」がついているので、国際商品の通販の回し者ではないかと思われる向きも、ままあります。(笑)
 国際日本文化研究センターは、日本文化を国際的、学際的、総合的に研究するために1987年(昭和62年)に創設された国立の研究機関です。この4月1日からは独立行政法人になりました。日本ならびに日本文化への外国の関心が高まり、日本から発信する本格的な学問的基地が必要であるという内外の要請で、中曽根内閣の時に、優れた研究者を集め、京都は西山の中腹、桂坂につくられました。初代所長は梅原猛氏です。かれこれ17年になります。私がそこに移りましたのは、6年ほど前です。国際日本文化研究センターという名称は長すぎるので、海外では「日文研(にちぶんけん)」として知られています。
 選任の研究スタッフが30名、半分以上がプロフェッサーです。1割ほどが海外の方で、アメリカ人、カナダ人、ニュージーランド人、中国人、ドイツ人等です。毎年20名弱の外国人学者をお招きして、1年間をめどにご滞在いただき、一緒に共同研究をしています。もう17年間ですから、300名以上の方々がたくさんの国々から日文研にお越しになりました。
 「国際」とつきますと、すぐに英語と思うのは日本人の悪弊です。実際は英語圏以外の方々がたくさんいらっしゃっています。ロシア、フランス、トルコ、フィンランド、ハンガリー、ベトナム、中国、韓国等々、全世界からいらっしゃるので、日文研の共通語はおのずから日本語です。お越しになった時には日本語がたどたどしくても、受付で「おはようございます」「きょう、私あての郵便が来ていますか」「どうもありがとう」などと、簡単でも、日本語で会話をするのが外国人にとってはうれしいようで、日本の国際化の一番の大事なところはやはり「日本語の国際化」であると、最近強く思っております。
 さて、日文研が設立されたことと、これからお話しさせていただく「21世紀のあるべき日本の『顔』と『身体(からだ)』」、国を 代表する顔としての首都と、身体としての国土についての話は関係しています。
 80年代を思い出してください。アメリカではレーガン大統領の時代です。レーガンさんがいわゆる宇宙戦争構想を出して、ゴルバチョフさんが降参し、冷戦が終結しました。
 一方、日本の方は1970年代に石油危機がございましたが、先進国の中では日本だけがみごとなパフォーマンスで乗り切り、日本に対する関心が先進諸国の間で高まりました。すでに60年代末に軽工業でアメリカの産業を脅かすまでに復興をとげた日本経済は、70年代には重化学工業、造船や鉄鋼などでもアメリカを追い抜いていきます。そして、一種の総合産業というべき自動車産業において、1980年には日本の国内における年間生産台数が1000万台を超え、アメリカの同年の生産台数を上回り、アメリカのホームグラウンドを脅かすところにまで成長しました。
 70年代から80年代にかけて、私はイギリスにおりましたが、ヨーロッパでも事態は同じで、メイド・イン・ジャパンの製品があふれていました。ソニー、パナソニック、トヨタ、ホンダなど、日本の名前が周囲にないことはない。そして、1981年には800年の歴史を誇るオックスフォード大学で、日本研究所、インスティチュート・オブ・ジャパニーズ・スタディーズが設立されました。インスティチュートと名のつくのは数学の研究所、マセマティックス・インスティチュートあるいは経済学の研究所、インスティチュート・オブ・エコノミックスなどで、数学、経済学などと日本学が肩を並べるまでになりました。それはオックスフォード大学に学びに来る内外の秀才が、日本学を学んで学士号、修士号、博士号を取れるということです。日本学が普遍学の1つになったことを象徴するのが、1981年に設立されたオックスフォード大学の日本研究所です。
 このように80年代に日本の存在感が一段と高まり、今から振り返りますと、日本は1985年に歴史の分水嶺を越えたと思います。足かけ20年前です。この年をもって日本は欧米社会へのキャッチアップを終えたと後代の歴史家は記すようになるにちがいない。1853年にペリーが来航し、54年に和親条約を結んだ結果、日本の開国路線が決まりました。そのようなある特定の年を分水嶺にして国の形が変わる、1985年はその1つではないか。
 1985年というと、何を思い出されますか。阪神が日本シリーズで優勝したのが1985年。道頓堀に阪神ファンが飛び込むようになった。ゴルバチョフさんが書記長になったのもこの年。以後、ソビエトが自壊をしていきます。
 そして、ここでの主題である日本と欧米との関係では、ニューヨーク、アメリカをリーダーとする自由主義圏の牙城ニューヨークの一等地で、セントラルパークを見おろすプラザホテルにおいて、「プラザ合意」が、今は先進8カ国ですが、当時の先進5カ国の間で同意されました。1ドルは、当時は240円ぐらいだったのが、この合意を受けて、1〜2年で120円、100円台に突入しました。日本製品は一気に割高になり輸出産業は大打撃をこうむったのですが、一方で、安い労働力を探して近隣のアジア地域に日本の工場が進出する、資金が投下され、技術が流出し、人材が派遣される、そして、近隣のアジア経済が高度化していく中で、アジア諸国の目が日本への憧れに変わる、日本はアジアからキャッチアップされる国になるのです。
 1985年を分水嶺にして、欧米へのキャッチアップの時代が終わり、アジアからのキャッチアップの時代に入った、ということです。あるいは、日本にとっては欧米との競争の時代から、アジア地域との競争、「アジア間競争」の時代になった。日本の製品の流入によって欧米の市場をつぶしてくれるなという要望、要するに日本に対してかぶとを脱いだのが、プラザ合意の歴史的意味であったと思います。
 ちなみに、ニューヨークのプラザホテルは、今度、売却されるそうですが、セントラルパークの正面にございます。セントラルパークは幅800メートル、長さ4キロの、広大な緑の庭園です。これが高層ビルが並び建つマンハッタンの狭いところで、150年間、維持されてきました。そしてますます大事にされるようになっている。それは、これからの都市を考える上でも象徴的です。
 それはニューヨークの市当局や公園の担当者とのお話などを通して知ったことですが、もともとホワイト・アングロサクソン・プロテスタントいわゆるWASPがつくったアメリカ合衆国ですが、そこにイタリア、ポーランド、ロシアなどのキリスト教の別の宗派の人たちが来る。さらに、ジューイッシュが来る、ヒンドゥ、モスレム、コリアン、ジャパニーズ、チャイニーズなどまさに人種、民族のるつぼになっていくわけですが、教会というか、祈りの場所がそれぞれ違います。その一方で、信仰心の厚いアメリカ人でも、教会に行く習慣が昔ほどでなくなる。
 そうした中で人々がコミュニティーを確認できる場が、実はセントラルパークである、そのような話を伺いますと、これは一種のエコ・レリジョン、自然宗教とでも言えるかもしれませんが、セントラルパークは、新しい宗教の形態、未来の1つの教会の役割を果たすようになっていくのではないか。
 さて、プラザ合意を受ける形で、日文研がその2年後に設立され、今や日文研というと、皆様方の間ではともかくも、海外の日本研究者で知らない人は恐らく1人もいない。日本語以外の言葉で書かれている日本に関する研究コレクションにおいては世界一です。
 そういう研究所から参りました。



1.日本の「顔」は首都それとも首都機能?

 

 1985年の分水嶺の流れの中で、昭和天皇が崩御され時代が平成に変わり、翌平成2年に、新しい時代の空気とでも言いましょうか、衆参両院で国会議員がこぞって、首都機能の移転決議、その時は「首都」という言葉を使っていましたが、首都を移すとお決めになった。法律が定められ、国会等移転審議会が足かけ10年の調査等々を踏まえて、20世紀の最後の年1999年、実際は20世紀最後の年は2000年ですが、気分的には1999年が20世紀の最後という感じがありますが、その最後の年の暮れに国会等移転審議会が首都機能の移転先について、最終報告書を出し、国会議員の決断にゆだねました。
 報告書をお読みになった方もいられると存じます。なかなか反論が難しいみごとなできばえです。そこで、筆頭候補地に挙げられたのが那須です。第2位が東濃。多治見、瑞浪、土岐のあたりで、美濃焼を産する地域。両方とも里山の景観とでも形容できる美しいところです。その報告書を受けて、那須にお決めになるために衆議院に特別委員会が設けられました。
 ところが、彼らは決めることができない。自分の選挙区から遠いとか近いとかいうレベルの話になる。一年かけても決められなくて委員長が辞任し、もう一回鉢巻きを締め直して、今度は東日本出身の議員と西日本出身の議員を同数にして議論したのですが、結局、綱引きに終始しました。そして、3年間がたち、「決められませんでした」という報告をなさったというのが今の状態です。



2.なぜ日本は「顔」を変えてきたのか

 

 首都を移転する理由は、東京一極集中を打破し、首都機能を分散して来たるべき災害に備えるとか、政治システムを変えるためなどと言われています。この議論に関しては、皆様方も嫌というほどお聞きになったでしょう。このフォーラムでも何人かがご報告されたようです。
 外国の例では、ブラジル、オーストラリア、オランダ、カナダ、広く言えばアメリカも首都を移しています。フィラデルフィアからワシントンに200年前に移していますが、そういう海外の事例を引いて余り成果が上がっていないというレベルの話が多かったように思います。しかし、日本の歴史をふりかえると、たびたび首都機能を移し、そのたびごとに発展してきたことに気づかされます。首都移転の事例は、外国ではなく、みずからの日本に範を取るべきです。
 明治、大正、昭和、平成は、天皇陛下の1世1元の元号で時代区分されています。仮に首都が那須に移れば、明治以後、天皇4代の時代を歴史家は「東京時代」と総括するでしょう。どうしてかと言いますと、日本の時代区分を思い浮かべていただきたいのですが、飛鳥時代、奈良時代、平安時代、鎌倉時代、室町時代、そして江戸時代。みな地名です。それは立法、行政、司法の、3権が必ずしも分立はしておりませんけれども、そういう権力機構が置かれた場所です。あえて首都機能という日本独自の使い方をいたしますのは、首都とは本来、元首の居住するところです。
 日本の元首は天皇陛下です。日本の国体は、英語でいうと、コンスティチューショナル・モナキー、つまり立憲君主制です。陛下は、立法権、行政権、司法権の一切をお持ちでない、つまり権力は一切お持ちでない。しかし、憲法の第1章は「天皇」で、国事行為が書かれています。衆議院の解散、召集、大使の接受、恩赦等々。そういうお仕事以外にもたくさんのご公務がございます。そういう国事行為として憲法に定められている陛下のお仕事を抜きに日本の政治は動かないのです。権力はないけれども、天皇は権威の保持者です。
 権威と権力が、日本の場合、平安時代以降分かれています。では、権威の所在地と権力の所在地のどちらに注目するべきか。やはり、権力でしょう。陛下はずっと平安時代以降明治維新まで京都にいらしたのですが、日本の時代区分は、権力機構が置かれた地名になっています。つまり、権力の所在地ないし首都機能の場所を変えて、時代を変えてきた国です。
 このことは何でもないことのようですが、世界史年表を開いてごらんになりますと、地名で時代区分している国は、日本以外にないことに気づかれるでしょう。アメリカに1492年コロンブスが到達した時までは、年表の一番左、つまり西側にイギリスが書かれており、そしてヨーロッパ諸国、中東諸国、それからアジア諸国、そして中国、韓国、日本という順で並んでいます。それを縦横にごらんになりながら、それぞれの国々の時代区分を見られると、どの国として地名で時代区分をしている国がありません。お隣の中国、隋、唐、宋、元、明、清という時代は地名と関係ありませんし、高麗、李氏朝鮮、日韓併合、そして、大韓民国、これも地名とは関係ございません。そして、西の方に参りましても、イギリスですとチューダー朝、スチュワート朝、ハノーヴァー朝、ウィンザー朝という時代区分ですし、アメリカは独立宣言、独立革命以後あるいは南北戦争以前、以後、こういう区分をしているわけであります。
 また、首都を移転した国でも、その地名で時代を区分していないことに気づかれるはずです。それゆえ、地名による時代区分は日本の特殊性として理解できるのです。そのことに注目したいのです。
 なぜかと言いますと、それは、首都機能の所在地に応じて時代区分をすると、日本の国の形が非常によく見えるからです。だからこそ、時代名に地名を冠しているのです。ただ、学校で先生方が歴史を教えるときには、古代、中世、近世、近代といった教え方をします。本屋さんに並んでいる東大出版会なり岩波書店のような権威のある日本歴史関係の講座シリーズを見ても、日本の古代、日本の中世、日本の近世といった区分になっています。最近は少なくなりましたが、封建制とか資本主義とか、そういう時代区分をとっている書物もございます。これらはご承知のように、ヨーロッパの歴史区分の適用です。古代のギリシャ・ローマ文明はゲルマンの侵攻で滅ぼされた、というのが教科書的理解でしょう。ただ、ゲルマン人はギリシャ・ラテン文化を大事にしてきましたから、ゲルマンの侵入によってローマ文化が滅んだというのはドイツ人の前では言わない方がいいと思います。むしろ、イスラムの侵攻で地中海世界が非キリスト教勢力に支配され、暗黒の中世になり、それがルネッサンスを媒介にして古代が復興して近代になった。栄光ある古代、暗黒の中世、栄光の古代が復興する近代、こういう見方や、奴隷制、封建制、資本制というマルクス主義の見方が日本の学界を席巻してきたわけです。
 そういう学者の時代区分論を聞きますと、「日本の封建制はいつからか」という議論では、「日本の封建制は鎌倉時代に始まった」「いや、室町時代だ」「いや、江戸時代だ」という論争をしている。たとえば、「室町の末までは名子や被官という奴隷がおったので奴隷制だ、江戸時代になって初めて本百姓という農奴ができ上がって、日本は純粋封建社会になった」という言う人がいるかと思えば、「いやいや、鎌倉時代に在地領主が生まれて、主君と家来との忠誠関係が生まれる、これが日本における封建制だ。つまり、封建制は鎌倉時代からだ」など、かんかんがくがくの議論をしてこられた。
 ところが、激論を交わしながら、どの学者も、平安時代、鎌倉時代、室町時代、江戸時代という言葉を使う。結局、一番ベースにあるのは、そういう地名を冠した時代区分である、と言えるのです。
 そうすると、「東京時代」とは何か。欧米スタイルの近代的建物群が建ち、欧米の衣食住の文化を入れ切っています。つまり、東京というところは、欧米の文物を日本が入れ込む受容の場所であり、東京で一たん日本化し、日本人にわかるように変電すると言いますか、西洋文明の高い電圧を変電して、日本各地に配電する欧米文明の変電所が東京です。
 それなら、奈良時代の奈良はどうだ、平安時代の平安京都はどうだとなりますと、奈良や京都に修学旅行で行くと、奈良時代や平安時代がどういう感じであったかはパッとわかったはずです。当時の奈良は平城京と言われました。その平城京はどういう都か。中国の西安(当時の長安)に行けば、博物館がございまして、そこに長安の模型が大きく飾られており、その隣に、平城京の小さな模型が併せて展示されています。つまり、「長安の模倣が平城京で、平城京のような小さなものを見るには値しない、長安だけ見ていれば十分だ」とは書いてございませんが、そうとしか読みとれないような展示がしてあります。実際、中国人が奈良や京都に来れば、彼らも奈良・京都は中国の模倣だと思うのです。
 奈良時代は、710年から784年で、わずか74年の歴史ですが、結果的に、内紛のため、あるいは大仏に水銀を使って公害が出たという議論もありますが、奈良では落ちつけなくなり、長岡に移る。長岡では不祥事が起こりまして、最終的に桓武天皇が京都平安京を造成された。そこで、遣唐使を送り、長安を模倣し、都市づくりをしていった。
 それ以前とどう違うかと言うと、天皇がずっと同じところにいることになったということ自体が画期的でした。『古事記』のイザナミ・イザナギの神話をひもとけば、すぐわかりますが、イザナミが亡くなって、イザナギが黄泉の国に会いに行けば、「黄泉の国の食事をしてしまったので、もう戻れない」「いや、そういわずに戻ってきてほしい」「それなら、ちょっと待っていて」と。待てども何の返事もないので、のぞいてみると、うじ虫がわいて、汚く、腐乱しており、恐れをなして逃げて帰る。それを追いかけてくる。女に追いかけられると怖いわけです。(笑)死に物狂いで逃げて帰ってみそぎをした、この話が示しているように、死者は汚れている、従って、居住場所を変えるのが当たり前だったのです。それが長安の都城制を真似た奈良時代以後はずうっと1カ所に住まわれるというように劇的に変わったのです。
 なぜ模倣したのか。日本が唐との戦争(白村江の海戦)で敗れたからです。強大な唐のシステムを入れることで、唐に侮辱されない国づくりをしようという決意をし、都城制、律令制、日本書記という正史を編むといった中国の政治システムをフルセットで入れ込みました。その入れ込む場となったのが奈良であり、平安京都であったということです。それで、奈良・平安時代の基本的な説明は済むわけです。
 それなら、鎌倉時代はどうか。鎌倉こそ日本の最初の独創的な都市だと言う向きもあるかもしれません。けれども、ちょっと考えますと、鎌倉に鎌倉五山というのがございます。建長寺、円覚寺、寿福寺などです。建長寺を開山したのはだれか。蘭渓道隆。蘭渓道隆はどこの人か。南宋から日本に逃げてこられた学者です。円覚寺は、鈴木大拙さんがそこで座禅を組まれて、禅を世界に広められる根拠地になった寺です。その円覚寺、だれが開いたか。無学祖元です。宋から亡命した学者です。こういうふうに見ていきますと、モンゴルに滅ぼされた宋から日本に流れてきたたくさんの臨済宗の学僧(禅僧)が鎌倉にいるわけです。
 鎌倉五山の「五山」というのは日本の独創ではありません。南宋で初めて五山の制が定められました。南宋とは1120年代から元寇の前後までです。1120年頃から1280年頃ぐらいまでの160年間ぐらいで、臨安(杭州)に都がありました。それまでは黄河流域に都があった。それが西夏、モンゴル、遼、女真族の金、女真族は後に清を興しますが、そうした万里の長城の外側にいた外敵が長城を乗り越えて侵入してきたので、時の王朝である宋朝は南に逃げて、黄河の流域から、揚子江の河口にまで下って、都を移した。それが臨安と言われた。その臨安、今の浙江省の省都杭州です。この杭州と日本は非常に深い関係を持っていました。そのころ、日本では平清盛が生まれ、政権を握ると、彼は福原、今の神戸の近くまで都を移そうとまで試みます。それは杭州との貿易が狙いであった。それほどに南宋との結びつきが強かったのです。
 やがて、1274年と81年の元寇になりますが、74年の文永の役では5万人が来襲した。その次の弘安の役では15万と言われます。10万人増えているわけです。どこでリクルートしたのか。それは南宋の兵隊10万です。これは新付軍という。江南軍とも言われました。それを率いた范文虎将軍は、南宋の海軍の将軍でした。
 ちょうど1270年と81年の間に南宋はモンゴルに敗れて滅びました。滅ぶ前後に学者が日本に逃げた。そして、日本の文化の中心、京都に来た。京都の学僧は天台宗とか真言宗を信じています。中国の学僧からすれば「古い学問をやっているな」となります。当時の日本では「南無阿弥陀仏」と言えばそれで救われるというような宗派もうまれ、戒律もないので、中国人の学僧からみると、変な仏教をやっているということになるわけです。京都人はイケズなところもありますので、ともかく居づらくて、鎌倉の北条家が大事にしてくれるということもあって、南宋の学僧は鎌倉に逃げたのです。
 そのような経緯で南宋の五山の制を鎌倉幕府が入れることになったのです。鎌倉には南宋の文化のエキスが受容されたのです。中国では南宋に朱子学で有名な朱子が出ています。朱子学は、太極とか理とか気とかの概念が示唆しますように、仏教の影響を入れ込んだ儒学ということができるでしょう。当時は理学とか、宋学と言われましたが、新しい学問を身につけた学僧(禅僧)が来日する。彼らは即身成仏の禅を実践するので、仏像を大事にするよりも、目の前のお庭、一服の茶による心の悟りの境地、また座禅を生活の形にしておりますから、禅、お庭、お茶がセットとして鎌倉の武士の間に広く普及するようになります。鎌倉の学問の高さにさすがに京都の人も気づき、後醍醐天皇が、京都にもそういう学問が欲しいということで、京都五山を定められたのですが、南北朝の内乱になり、それを収束させた足利氏は室町京都に幕府を開き、やはり、五山の制を定めて、南禅寺を筆頭に万寿寺、東福寺、建仁寺など、中身は多少入れかわりますが、ともかく京都五山の制を定めたのです。
 これは一体何を意味するか。中国の北の文化と南の文化の両方が日本に入ったということを意味するのです。鎌倉が、中国の南の文化の粋を集めた杭州文化を前提にしているということです。中国の杭州は揚子江の河口で、これは大陸の黄河の流域、その奥地の西安ないし長安とは、まったく文化が違います。実際、西安に行きますと、万里の長城が近くにあって、長城の外側には北狄がいる。領土には非常に敏感だし、政治的意識も研ぎ澄まされるような風土です。ところが、杭州のような港町に参りますと、人々は季節風を利用して南の海に出かけて、季節風が吹くまでとどまって、また帰ってくる。現地では寂しいから現地妻をかかえる。イスラム教徒、ヒンドゥ教徒、ペルシャ人、アルメニヤ人など、いろんな民族が港に来ているので、そういう外国人たちと交流するものですから、国境意識がほとんど育ちません。非常に国際性があります。信頼できるのは地縁、血縁の人。
 こういう船を中心にした津々浦々の世界の世界観を持っている人たちの本拠地が杭州です。つまり、大陸の長安とは文化が違う。中国文化を表現するのに「南船北馬」といいます。南方は船で、北は馬、北方は陸地中心、南方は海洋中心で、2つの文化があるということです。最近ですと、北京と上海です。北京が都になるのは元以降のことですが、北京は政治中心、公式主義。上海は経済中心で非公式主義。華僑の人々にとって余り国境意識はない。商売さえうまくいけばいいという文化風土は、日本人にもわかるようなところがあるでしょう。
 北方と南方で違う中国の文化が、それぞれ京都と鎌倉で形を整えて、まず、北の中国の文化を京都で日本化し、つぎに、南の中国文化を鎌倉で日本化し、室町時代に、両者が京都で融合された。中国文明の総合化を果たしたのが室町京都の文化景観である、というようにまとめられるでしょう。そうまとめると、室町時代のたたずまいがよく分かるのです。
 室町時代の有名な建物は、銀閣寺、金閣寺、天竜寺などですが、そこで一体何を評価するか。金閣寺に行って、金閣寺の建物自体、なるほど美しいと思いますが、京都のメインストリートの四条通りに金閣寺の建物を持ってきたら、全く似合わない。キンキラキンの趣味の悪い建物と見えるでしょう。金閣寺は衣笠山を借景にして、池を掘って、山容が鏡の池に映る。そういう自然を際立たせるために金閣がある。そういう構図が見えてくるはずです。銀閣も一緒であります。
 建築家の安藤忠雄さんは独学で建築を勉強した人ですが、まだ若い頃、京都に初めて建築を見に行った時に、「京都には建築がない。庭だ。建築は庭をひきたたせるためのものだと思った」と書いています。彼は天竜寺とか龍安寺、銀閣寺を挙げています。東大における最初の講義録『建築を語る』の最初の部分で自分の経験を語られているのですが、庭を引き立たせるのが日本の建築の本質だということに安藤さんは気づいた。
 京都の室町時代を代表するのは、庭、禅、喫茶、和敬静寂を旨として精神修養の場でございます。これは見ればわかります。室町時代には中国の北の文化と南の文化を総合した都市景観を呈した、こう言ってよろしいかと思います。
 しかも、室町時代の日本における通貨は明銭でございました。当時中国は元が滅び、明という国に変わっておりました。その明の公鋳銭を日本が国内通貨として通用させていました。ただ、中国の銅銭の材料は日本の銅です。日本の銅を輸出する。あるいは銅と一緒に出てくる銀を輸出する。それで中国の銅銭を買う形で日本の国内通貨にしていたのです。言ってみれば、中国経済の首根っこを日本が握っていたのが室町時代です。
 ちなみに、中国にはいろんな通貨がございますが、漢の時代以降、銅銭だけは中国でみずから鋳造する、公鋳して、貨幣大権を振るうわけでございます。丸くて中が四角の穴があいている通貨の形は漢代以来ずっと一貫しているわけです。朝貢すると、銅銭を回賜品としていただける。そういうシステムです。漢代から銅山を掘っているので、銅が枯渇してきた。そのとき、日本の銅がその穴を埋める形で大量に中国に入ってきて、それを材料として銅銭に鋳造した。そこには「永楽通宝」「洪武通宝」などと時々の皇帝の名前が印刻されていました。こうした明銭を日本人が持ち帰って国内通貨にしていたのです。それは明の通貨なので、中国にあるもので日本人が欲しいものはなんでも買えたということです。雪舟などは、向こうに行って、もう学ぶものがないということで日本に帰ってきています。室町時代に中国文明をほぼ入れきったと言ってよいでしょう。
 戦国時代の日本では、鉱山開発が進み、銅を掘っていたら銀も出てきた。銀を探したらば、金も出た。15世紀から16世紀の日本は日本の鉱山史ではもとより、世界史的にみても、未曾有の鉱山革命ともいうべき金銀銅の鉱山の開発が進みます。そして、その資金を経済力として戦国大名たちが争うことになって、やがて、信長、秀吉、家康により、順次国が統一されました。
 織田信長の場合、安土に居を構えて、これからというときに、残念ながら本能寺で悲劇の死を遂げました。次の、伏見桃山に拠点を定めた秀吉の時代を思い出していただきたい。秀吉は「黄金太閤」と言われました。黄金の茶室をつくったり、北野の大茶会を催したり、聚楽第や大阪城を建設し、豪華絢爛たる桃山文化をつくりあげます。中国からいわゆる唐物を買っているうちに、しまいには「目利き」と称する人たちが出て、朝鮮半島で日常雑器として使われているものを、名品であるというと、そこに何百両、何千両の大金を投じる。当時、日本に来て南蛮文化を伝えた宣教師から見ると、気違いざたと言えるような贅沢なお金の使い方をしたのです。金銀銅が日本の桃山時代にはあふれていたのです。
 そうした中で、秀吉は明を征服しに参ります。その行動に中国へのあこがれはございましょうか。もはやありません。安土・桃山時代、なかんずく桃山時代の日本は中国を征服できると思い上がるぐらいの実力をつけました。
 少し思い切ったことを言いますと、それは「平成バブル」に匹敵する、「桃山バブル」と名づけられるものです。桃山バブルとは東洋(中国)文明に追いついた時の一種のお祭り、祝祭、宴です。日本は1985年のプラザ合意の後、バブルに入り、アメリカ買いに出ました。日本の円が強くなり、それによって土地を買う、土地の値段が上がる、またそれによってお金を借りて土地を買うということで、日本の資産価値がアメリカの3倍ほどになって、アメリカの資産を買うことができるようになりました。ジャパン・アズ・ナンバーワンというようなことをアメリカ人から言われて、日本人はおごり高ぶりました。このときのバブル現象は一種のお祭り、祝祭、宴と言うと不謹慎かもしれませんが、長くあこがれて、仰ぎ見た欧米の文明にようやく追いついて、欧米列強がそのことを公式に認めたのですから、浮かれても仕方がなかったと思うわけです。それは東洋文明に追いついて、ほぼ追い抜いたと思った時、日本人がおごり高ぶって、天皇を北京にお移し申し上げるという野望を抱く秀吉のような人間が生まれてきたのと似ています。「桃山バブル」も「平成バブル」も、目標を達成した時のお祭りであったのではないでしょうか。
 桃山バブルは中国を中心にした東洋文明に追いついた過程が終わった時のお祭り、そして、平成バブルは西洋文明に追いついて追い抜いたということが自他ともに認められた時のお祭りであったと総括しておきます。
 さて、江戸に新しく幕府を開いたとき、どこかをモデルにした形跡がありません。既に鉄砲が南蛮から渡来しており、それを日本は渡来の翌年には国産化に成功し、鉄砲製造技術でも日本はヨーロッパを抜き、世界最大の鉄砲生産・使用国になっていく。城郭も鉄砲の届く距離を考慮して掘り割りをし、城郭を構えたのですが、こういう城郭もどこにもモデルがない。モデルをなしに日本独自の文化を築いたのが江戸のまちづくりではないでしょうか。
 江戸時代初期に徳川家康が「1国1城」を命じました。それまでに、各藩には複数のお城があったのです。それを取り壊して1つにするということになりました。当時の足軽、今日のゼネコンですね、堀をつくったり、石垣をつくったりすることの名人たちがたくさんいたわけであります。元和偃武で、戦争がありませんものですから、その人たちが、1国1城で、日本は北は津軽藩の弘前城から南は薩摩藩の鶴丸城まで、江戸のまちづくりの変形した、亜種としての「小江戸」をつくっていくわけです。そのつくり方で共通しているのは、兵農分離が原則なので、武士が城下に住む、そこに町人も住まわせ、周囲には農村を配する。また山を借景とする。もちろん、そこに中国的な思想がありますが、それはすでに自家薬籠中のものにしている。要するに、江戸時代の都市づくりには、日本が求めたモデルはなかった。日本独自のものです。それは言いかえますと、中国文明から自立した姿が江戸だと言えます。
 江戸を、日本を訪れていた外国人が見ています。その記録がやがて西洋人の日本イメージをつくっていきました。日本の伝統と言われるものは、ほぼすべてと言っていいと思いますが、江戸時代に形づくられています。東洋史家の内藤湖南が、応仁の乱以前は外国史だと言っています。要するに中国史の変形だ。中国史の一部だ。それ以降初めて日本史が始まると喝破したのですが、日本の伝統と言われる、日常茶飯事の茶にしても能にしても歌舞伎にしても生け花にしても庭づくりにしても、江戸時代に形を整えて日本独自の伝統になったものです。
 江戸時代は「鎖国」といわれて、国を閉ざしていたと思われていますが、「鎖国」という言葉は1801年以前にはありませんので、日本人は鎖国していると思っていない。ヨーロッパではオランダが日本の貿易を独占したと思っています。日本は金銀銅を産するので、日本に中国品を持っていけば、高く売れる。わざわざ新大陸に金銀を求めなくても、日本に中国品さえ持っていけば金銀銅を獲得できるので、長崎貿易の日中間の中継貿易で、オランダ人は富を蓄積し、17世紀のオランダは東アジア貿易、つまり日本貿易を通して巨万の富を築き上げて、「17世紀はオランダの世紀」と言われる繁栄を築きます。
 江戸時代の日本には戦争がありません。同時期のヨーロッパ社会は戦争につぐ戦争です。1625年に、オランダ人のグロチウスが『戦争と平和』を書きました。それは30年戦争の真っただ中で、キリスト教徒同士がなぜ戦争するのか、という危機意識のなかで、グロチウスは戦争には正しい戦争と悪い戦争とがある。防衛のために国王がする戦争だけが正しい戦争だ、と論じて、防衛戦争を国家主権の1つとしました。いわゆる「交戦権」を認めたのです。その後、ヨーロッパでは「防衛」の名のもとに戦争が繰り返されました。
 ところがオランダ人は、日本との付き合いでは、暴力を振るわない。これは日本の平和システムがオランダの対日政策に反映したと見てもいいでしょう。オランダからすると、日本に頭を下げて日本貿易を独占できたというのが実情です。それゆえ、江戸時代の「鎖国」を文字通りにとるのは誤りです。長崎を通して、オランダ東インド会社に雇われたドイツ人のケンペル、スウェーデン人のツンベルグなども日本の記録を残しています。シーボルトも日本の記録を残しており、そうした日本論を読んでペリーは来日したのです。
 ペリーの『日本遠征記』の翻訳書が岩波文庫で復刻されていますので、ぜひお買い求めいただきたい。興味のない方は立ち読みで、文庫4巻本のうち第1巻本の最初の10ページだけお読みになるといい。ペリーはこう書いています─「自分はコロンブスが行こうと思っていた日本に、コロンブスの志を遂げるために行く。コロンブスは結果的にアメリカに到達した。そのアメリカでつくられた文明を担って、知性が高くて洗練された文明の日本に行くのだ」と。つまり、ペリーは日本を文明と見ていたのです。
 なぜ、彼は日本を文明とみたのかというと、ペリーは、ケンペル、ツンベルグ、シーボルト、ドウフなどオランダの商館長の記録を読んでいたことがわかります。それらの情報から、日本人の知的レベルの高いことを知った上で来日したのです。日本人は洗練された文明を持っているから話せばわかるはずだ。日本はアメリカの言うことは必ずわかる。大した相手だという前提なのですが。その気持ちを力づくにして開国を迫るのは、いかにもアメリカ人の強引さであり、それはペリーの『日本遠征記』にもあります。ともあれ、条約締結をきっかけにして続々と来日してきた欧米人が見た江戸の姿は、大きな田舎、ガーデンシティーという言葉で集約できるイメージで紹介されています。

 以上をまとめましょう。日本は、まず、奈良・京都に中国の北の文化を入れ、次に鎌倉に中国の南の文化を入れ、それを室町京都で総合した。その都度、受容場所を変えて、中国文明にキャッチアップし、それに追いついて、そして、中国文明からの離脱を示す場所を新たに江戸で作った。江戸で日本独自の文明の基礎をつくったのです。それらの場所はいずれも首都機能の所在地です。そして、江戸時代が終わり、天皇が江戸城に移られて東京時代になって今日を迎えています。
 皇居の江戸城への移転は日本の全力を東京に結集しようというシンボリックな行為です。日本は廃藩置県で、江戸時代の分権システムをやめ、中央集権国家になりました。戦前期は大英帝国を追いかけ、大日本帝国をつくり、大日本帝国と大英帝国は、さきの大戦で渡り合いました。日本はひけをとらなかった。大英帝国との競合において、経済面では、戦前期に南アジアに日本製品が流入し、英領インドは輸入関税を設けて防衛。いわゆる日英印会商で貿易摩擦問題が1930年代から厳しくなります。経済力でイギリスを圧倒したのです。軍事面でも、香港、シンガポール、マレーシア、ビルマ、さらにインドまで侵攻する勢いを見せて、イギリス人に日本の「サムライ」が、イギリスのノブリス・オブリージュ、勇敢なジェントルマンのますらおぶりに匹敵することを体で知らしめたのです。
 つまり、日本は大英帝国との間では戦前期に互角ないし勝つところまでいった。しかし、日本はアメリカとの戦いで完膚なきまでに敗れました。敗戦の理由は物量の差である。そのことを日本人は、進駐軍が上陸するや、全員たちどころにさとって、1億総懺悔と言うより、1億総アメリカ化する決意を立て、半世紀後の1985年にニューヨークのプラザホテルで、アメリカに脱帽させました。



3.「東京時代」を総括する

 

 かくして、東京時代は1つのサイクルを閉じました。東京時代が終わりました。それは東京否定ではありません。それどころか、東京は非西欧圏で唯一政治的な独立を保ち経済的発展に成功したシンボリックな都市です。それも強制されたのではなく、主体的に西洋の文物を、役に立つものも、役に立たぬものもフルセットで全部入れ込んできた場が東京です。戦争で焼け残ったのは宮城と明治神宮ぐらい。あとはみな焼け野ヶ原になって、そこから新たにアメリカ化をめざし、それに成功したと言っていいでしょう。
 東京時代が終わった今、日本の国の顔を変えようという動きが出てくるのは、日本の国土の発するいわば地霊の声とは言えないでしょうか。地霊が国会議員を通して「場所を移せ」と語らしめた。そういうと、非科学的で笑われそうですが、日文研は怨霊を学問対象にしているようなところです。たとえば、初代所長の梅原猛氏は「法隆寺がなぜ再建されたか。それは山背大兄王子の怨霊を鎮めるためだ。菅原道真の怨霊を静めるために天満宮をつくった。日本の神社仏閣は怨霊を鎮めるためにつくったものだ。それゆえ、たとえば靖国神社は日本人しか祭っていない。日本は、敵の怨霊も合わせて鎮魂しないと本来の死者の弔いにならない。日本人よりもたくさんアジアの人たちが死んでいるから、その人たちも一緒に祭らないとだめだ」と、なかなか首尾一貫したことを言われる。
 ともかく日本人には地霊を信じるところがある。信じればこそ、建築の前に、お払いをする。近代日本人がお払いをして地霊を鎮めてから建物を建てている。
 それはともかく、東京の役割は終わったので、つぎにどこに「顔」を定めるかという段取りになります。筆頭候補は那須です。首都機能は金がかかるとか、財政赤字だという議論は承知していますが、ひとまず、私は那須への移転を前提にして、未来の日本の形について話します。
 日本は首都という日本の顔を変えることで国の形を変えてきました。東京に変わる新しい顔として、国会等移転審議会が10年かけて出した報告書は、那須をもって筆頭候補にしました。容易な反論が難しい立派な報告書です。報告書は旧国土庁から冊子で出版されており、インターネットでも見られます。本日は国交省の方も来てられるので直接お聞きすることもできますが、30〜40ページの報告書なので、すぐ読めます。お読み下されば「ウーン、やっぱり那須だ」という感想を持たれるでしょう。
 ちなみに、報告書には皇居については一切書かれていません。水はどうか、景観はどうか、地震はどうか、東京との関係はどうか、16ほどの項目について点数がつけられ、その合計点、もちろん重要な項目と重要でない項目がありますから、 それをも勘案して、最高点をとったのが那須です。上から、ここにしろ、と決めたものではありません。
 第1候補の那須にしろ、第2候補の東濃にしろ、きれいな里山の景観です。新しい首都は10万人から60万人ぐらいの人口と想定されています。すると、現在の中央省庁のうち移転する省庁が限られてくるでしょう。それならば、どの機能を首都として持たねばならないかといえば、国家主権にかかわる機能です。外交、防衛、安全保障、通貨、司法などです。
 それと関連して、この8月に、全国知事会が補助金削減リストについて報告書を小泉首相に提出しましたが、そこに文科省、国交省、農水省、厚生労働省、経済産業省、環境省、総務省などの省庁名があげられています。世間で騒がれたのは義務教育費の削減でしたが、文科省は大反発しました。削減リストに関わる他の省庁も反発しました。それらの省庁は、いずれも内政にかかわるもので、必ずしも、中央省庁がやるべき必然性はないのです。
 地方分権であった江戸時代の末を思い出してください。開国に際して国家主権が問われた時、どのような機能がかかわったのか。まず、条約調印を井伊直弼がした。それは勅許を得ていないということで国論が割れました。つまり、外交は国全体にかかわる、主権にかかわるのです。主権はだれが行使するかについて、全員の承認がなくてはいけない。それから、あの時に治外法権を認めました。欧米人が日本で何か悪いことをすると、それを日本人が裁けない。これを認めたのもおかしい、と言うことで国論を揺るがしました。司法も国家主権にかかわるのです。
 通貨も国家主権にかかわります。幕末の日本と外国では金銀比価が違っていました。日本では金1に対して銀が5、世界では金1に対して銀が15でした。15の銀でようやく1つ金を手に入れられるというのが世界経済の実態であったのに、日本では銀5個で金が1つ手に入る。銀15個持ってきたら、金が3個手に入る計算で、ものすごい量の日本金貨が流出したので、幕府は金銀比価を世界標準に合わせて貨幣を改鋳しました。つまり、通貨は、外交、防衛、司法と同様に主権にかかわります。それ以外のものは幕末まで各藩のやっていた仕事であり、中央の権限・財源・人材を地域に譲り得るのです。
 そうしますと、慧眼の人は、「あっ、これはEU(欧州連合)の日本版か」と思われるでしょう。そのとおりです。EU諸国はそれぞれの国家主権を譲りあっています。そして、EU全体にかかわる、パスポートとか通貨とか防衛などについては、EUの議会、EUの本部が担う。しかし、他のことは、イギリスの内政はイギリス、フランスの内政はフランス、ドイツの内政はドイツで、EU内部の地域行政をする。そういう地域主権が日本の課題です。そして、新しい首都に置くべきは、日本全国にかかわる機能のみ。それ以外のもの、つまり幕末まで各藩で大名がやっていたこと、たとえば、どこにどういう農産物を植えるかといった農政、治山・治水をどうするかといった国土政策、どういう殖産興業を起こすかという経済産業政策、こういう政策は各藩がしていました。それらにかかわる省庁の権限・財源・人材を一括して今後は地域に委譲するということです。
 先ほども触れましたが、全国知事会の提出した補助金削減リストについては、義務教育だけが話題になっていますが、知事会があげている補助金行政にかかわる省庁は中央政府になくてもいいので、新しい首都に移転しなくていい。しかし、そういう省庁にもきわめて有能な人材がいます。トップクラスの日本のエリートであり、国家経営のノウハウを百年以上にわたって蓄積しており、それを継承している存在です。そうした国政のエリート層の受け皿を真剣に考えなくてはいけません。
 既存の地方団体は都道府県と市町村ですが、市町村レベルで、国家レベルの大きな政策、例えば島根県の市町村で日本海新幹線を敷こうというような構想を立てても夢物語です。都道府県にしましても、東京都だけで90兆円近い富を毎年つくり出しているのに、四国4県を合わせても14〜15兆円しかない。都道府県間の格差が非常に大きいのです。そこで、バランスをとるために、都道府県間の広域連携が必要になってきます。都道府県間の広域連携を展望しつつ、新しい地域単位を構想しないことには、国のノウハウを引き受ける受け皿ができません。つまり、道州制が出てこざるを得ない。
 来年春に市町村合併が一段落しますと、次に都道府県間の広域連携問題が出てくるでしょう。都道府県の広域連携の単位としては、国の出先機関がおかれている地域単位が思い浮かびます。北海道、東北、関東、北陸、中部、東海、近畿、中国、四国、九州、沖縄の10の単位です。省庁では、これを「東北ブロック」とか「関東ブロック」というふうに「ブロック」と呼んでいます。これら10のブロックが道州制の単位になるだろうというレベルの話しかまだ進んでいません。
 しかし、ちょっと考えてみますと、それは不十分です。北海道を、道州制のモデルとして小泉さんが推進されていますが、北海道のGDPは20兆円ぐらいのレベルで、埼玉県や兵庫県よりも低く、福岡県ぐらいのレベルでしかない。一方、関東ブロックは180兆円で、北海道はその9分の1です。四国のGDPは15兆円、中国は30兆円、九州は50兆円。このように道州間あるいはブロック間の格差は歴然としています。関東ブロックが180兆円で、他の地域ブロックとの較差は大きい。従って、今のブロックのままで道州になれば較差がうまれる。それゆえ、ブロック間の連携が課題になります。
 地域ブロックを本気で考えるなら、基準が要ります。東京一極集中の解消が大きな共通目的ですから、東京の経済力を基準に据えることが不可欠です。国内基準として東京ということです。それから前後しますが、これは分権のために分権をするのではなく、日本の国家機構が制度疲労を起こしており、それを解消し、日本が活力を取り戻すためのものです。制度疲労の1つの典型的な例は、一般予算です。歳出が82兆円。歳入は41兆円。「不足の41兆円はどうするのか」「国債で借金をする」「借金はどのくらいたまっているのか」「500兆円を超しています」というような、あきれかえるような財政状態です。三菱総研などが2010年には日本の国家政府の国民に対する借金総額は1000兆円になるという試算をしています。中央政府が日本国民のお荷物になっている。これは解体せねばなりません。
 このまま放っておいたら、日本政府のために日本国民は犠牲になるから、システムを変えないといけない。そのことは共通認識になっている。政治制度の非合理性は末端にまで及んでいます。例えば、市町村の合併がすすんでいますが、在任特例で既存の議員は2年間は身分が保証される。弱小の市町村ながら、合併で100人以上も議員が出てくる。東京都議会でも議員は120名あまりなのに、合併後には、それを上回る数の議員がいる市町村がでてきています。議員所得を一番高いところに合わせようと決めた不埒な地方議会があって、住民の反対に遭いました。当然です。歳費の無駄です。ボランティアでもできることが多いので、議員諸氏はやめろ、という議論が出はじめて、在任特例も果たして効くかどうかは、難しい状況です。
 ことほどさように、議員の数が多すぎ、地方政府の規模も大きすぎて、冗費がかさんでいることが見えてきたのです。同じ話は、県会議員でも、国会議員のレベルでも当然出てくるでしょう。国会議員は、日本は480人の衆議院と二百数十人の参議院の議員がいらっしゃる。700名以上。アメリカの上院でも100人しかいないのに、なぜその倍以上が日本の参議院にいるのか、という素朴な疑問もあります。しかも、議員が意思決定能力と言いますか、ステーツマンとしての資格を持たれているのかと言うと、どうも持ってないと思われる人の方が多い。
 こうして、地方、中央を問わず、現代日本の政府には相当無駄があることがわかってきました。その無駄を省くために、だれが先頭に立ってやるのか。今の日本の客観的な力に応じた国の形についても、着地点を見定め、ついでそれをだれが実行するか考えていかなければいけない。日本の実力は、欧米を追いぬき、少なくとも欧米と相並んでいます。日本の国富はGDPでは500兆円余りですが、それはアメリカの2分の1、カナダの6倍、イギリスとフランスとイタリアとカナダを合わせたぐらいの力です。イギリス3カ国分、フランス3カ国分の実力を日本は持っています。
 そういう観点の国際比較で東京を見ますと、東京のGDPが大体85兆円ぐらいです。日本の大体6分の1ぐらいの地域力を担っている。東京とカナダのGDPが匹敵します。地域分権でもカナダぐらいの規模だと、先進国としての国の経営がその地域においてできると考えるのがよいと思います。そうしますと、北海道は経済力が低すぎるので、東北とは1つにならないとやっていけない、と言ったことが見えてきます。1998年に策定された第5次国土計画「21世紀の国土のグランドデザイン」では、それを「北東国土軸」と言っています。「北東銀河プラン」というのは、1990年代から北海道・東北の知事が練ってこられたものですが、「21世紀の国土のグランドデザイン」でも「北東国土軸」として北海道・東北を一体として見るという見方をしており、それを尊重すべきでしょう。
 北海道・東北はカナダよりちょっと経済的には劣るぐらいですが、十分に先進国に伍してやっていける地域単位になり得ます。つぎに、関東ブロックは東京と東京以外の関東平野でほぼ同じで、カナダが2つ分もの実力になります。中部地方のGDPが大体90兆円ぐらいで、東京やカナダに並びます。中部9県で大体それぐらいです。近畿のGDPも90兆円。そして、中国・四国・九州を合わせると80兆円から90兆円ぐらいのGDPです。
 つまり、大体80兆円から90兆円ぐらいのGDP規模でみれば、「北海道・東北圏」「東京圏」「東京以外の関東」「中部」「近畿」「中国・四国・九州」という6つの地域単位が均衡ある形になり、現在の日本の補助金行政をやっている各省のエリートもそれぞれの地域圏に根をおろして、先進国並みの地域経営ができるということでございます。
とりあえず、国内基準としては東京、国際基準としてはカナダをとって、6つの地域単位にわける案を出してみました。だが、関東ブロックは、東京と東京以外の関東とに分けるのは、実態としては難しい。首都圏として関東ブロックは1つと見るべきでしょう。関東ブロックは180兆円の規模のGDPを持っており、それはフランス規模のGDPです。
 関東ブロックのようなフランス並みの巨大な地域単位ができると、それに匹敵する地域単位が少なくとももう1つないと、バランスを欠きます。関東ブロックだけが突出して、それの2分の1の「北海道・東北」「中部」「近畿」「中国・四国・九州」の4つできることになり、不均衡です。それを解消するには、中部圏と近畿圏とが組むか、近畿以西が一体になるかの、どちらかしかないように思います。私は次のような理由で、近畿以西が1つになって関東ブロックと対等の地域圏になるのが望ましいと思います。
 昔から近畿以西には関所がありません。「関東」という言葉の語源ですが、関東の「関」は関所の関です。関所が置かれた当初、「三関」すなわち三大関所がありました。越前の「愛発(あらち)の関」、関が原の「不破の関」、三重の「鈴鹿の関」です。これらの三関の東を「関東」と言ったのです。その後、関所はだんだん東に移り、やがて、箱根の関所、白河の関所などができていくのですが、興味深いのは、今申しました三大関所の以西には関所がない。つまり、昔から近畿以西は一体であったということです。
 では、近畿以西の地域アイデンティティーはどういうものか。「津々浦々」の関係です。「津」とは港で、「浦」とは海です。津と津を海でつなぐという「津々浦々」というのは、今日の言葉でいえばネットワークです。津々浦々は日本独自の言葉で、決して韓国とか中国から来た言葉ではありません。津々浦々の関係が成り立っていたのが西日本です。日本で一番島の多い県は長崎県、次に鹿児島県や愛媛が続きます。瀬戸内海には島々が蟻集しています。
こう言うと、地域の風土性の相違に気づかれるでしょう。関東は日本で一番大きい平野です。それゆえ、関東ブロックと言うよりも、「平野の州」と呼んでみましょう。そして、近畿以西は瀬戸内海を囲んでいる4つの地域なので「海の州」と名づけてみます。馬に乗って平野を駆ける源氏のイメージは関東の「平野の州」にピッタリで、舟を操る平家のイメージは瀬戸内海の「海の州」にピッタリでしょう。
 「海の州」も「平野の州」も、どちらもフランス規模のGDPを持ちます。その「海の州」と「平野の州」の間に位置する「北陸・中部」は富士山のほか南アルプス、北アルプス、中央アルプスなどの日本アルプスが隆々と天を仰いでいますので「山の州」と特徴づけられるでしょう。「北海道・東北」はそれらとの対比においてどういうふうに特徴づけられるでしょうか。北海道の原生林、白神山地のブナ林、青森のヒバ、奥羽山系の深い緑を思い浮かべますと「森の州」という名称が適切です。
つまり、日本は北から「森の州」「平野の州」「山の州」「海の州」という4つの自然名を冠した州ができます。そうすることで、これからの時代の日本の世界に対する発信のコンセプトが自然に立脚しているという面を強調できるのです。



4.日本の「顔」は鎮守の森?

 こういう観点から見て、新首都の筆頭候補の那須はどういう地域性を持つでしょうか。那須は「平野の州」が尽きて「森の州」に入るところ、あるいは「森の州」から「平野の州」に出るところです。そういう境界に、古来、日本人は神社を建立して森を「鎮守の森」として大切にしてきました。森から流れ出る水が平野の田畑を潤したからです。そうすると、那須は「鎮守の森の都」というイメージを喚起するでしょう。「鎮守の森の都」としてのイメージを持った日本の顔ができるのです。「鎮守の森」は日本には、北は北海道から南は九州まで各地にあります。しかも、北海道は亜寒帯的あるいは落葉広葉樹、南の島々は照葉樹林というふうに生態系が違います。そういう生態系の違うさまざまな森を大切にする、そういう「鎮守の森の都」をモデルにした町々すなわち「ミニ鎮守の都群」が群生するでしょう。かつて、京都に対して小京都が、江戸に対して小江戸が、東京に対してミニ東京が、それぞれ首都の顔を模倣して全国各地に広まりましたように、21世紀の日本では「鎮守の森の都」は、それを日本の顔とした「鎮守の森の都市群」を形成する突破口になることが期待されます。
 しかも、那須には、幸運なことに、御用邸があります。那須は近代の皇室の明治天皇、大正天皇、昭和天皇、今上陛下、さらに皇太子殿下がいずれも好まれている土地柄です。しかも、大正天皇のときの御用邸は、現在は公園になっていますが、大正天皇みずからが選ばれた場所です。今の御用邸は昭和天皇がみずから選ばれた場所です。御用邸では陛下は執務ができます。第二候補の東濃には御用邸がありません。その点で格段に劣ります。東濃を首都候補にこだわられる人は、まず、御用邸をおつくりください。それはともかく、私自身は関西の人間ですから、関西人から言うと、むしろ三重・畿央がいいと言う人もいるでしょう。そういう自分の住む地域本位のエゴイズムではなくて、日本全体のことを考えた場合、那須が「鎮守の森の都」として適切だと思います。



5.日本の「身体(からだ)」の改造試案

 これに関連して2つの問題があります。1つは、それをだれが主体的に実現するかということです。もう1つは、それぞれの州都をどこに置くかということです。
 まず、実現主体ですが、700人以上の国会議員の先生方は2つの首都候補地の1つに絞り込むことさえできない。国会議員が決定機能を発揮するのはとても期待できないように思います。私は見限っています。もとより、1人1人の国会議員は立派です。けれども、七百数十人も集まると、船頭が多すぎて船は丘に上ってしまい、にっちもさっちもいかない状況ではないかと思います。
 しからば、他に変わる主体はいるでしょうか。結論からいえば、知事です。正確には知事連合です。今回、小泉首相が補助金削減4兆円を打ち出し、そのうちの3兆円余りの税源を2006年までに地方に移すから、知事はどの補助金が不要なのか、そのリストを出すようにと、全国知事会にマル投げしました。マル投げされた知事が本当に削減リストを決められるかどうか、だれも確信が持てなかったのですが、なんと全国知事会は、それをまとめあげ、8月下旬に首相に提出した。知事がまとまって意思決定をするなどかつて考えられなかったことで、画期的です。
 この全国知事会案に対して、文科省、国交省など名指しされた8つほどの省庁は、即座にすべて反対を唱えました。もとより補助金行政に携わる省庁の反対を承知の上で、3兆2000億円の削減リストを全国知事会が決めたのです。知事が国政の根幹にかかわる問題についてついに意思決定をした。案件について反対の知事もいましたが席を立たない。多数決で全体の意見を集約し、47人の都道府県知事が2006年までに3兆円、2007年から3年かけてさらに6兆円、合計すると9兆円の補助金削減案を用意しています。それが、さらに3年と続ければ、補助金額は合計20兆円ですから、補助金行政をしている中央官僚や、補助金を地方に持ち帰る仕事をしているいわゆる族議員の仕事を奪うことになります。つまり、これは全国知事会が日本の国家機能の根幹を揺るがしうる運動体になりえたことを示したものです。
 国家機能を変えることができるのは、本来なら国会議員、中央省庁の自助努力によるのですが、身を切る仕事だけに、かれらにはそれができない。悲観的な現実のなかで、47人の知事が意思表示をした。明治維新の廃藩置県当初、知事は勅選で、政府の命令を地域におろしていくという仕事でした。知事は戦後になって民選になりました。しかし、国の仕事を地域におろしていくことに変わりない。国から仕事をいただいて、それを地域に潤わす仕事です。けれども、このベクトルが逆になって、地域から、あるいは県から、県の連合で国の形を変えていくという気概を持った知事たちが出てまいりました。
 そういう知事の名前を挙げると、石原慎太郎東京都知事。石原知事はお子様が小泉さんに人質にとられてから、余り思い切った国政批判はトーンダウンしていますけれども、(笑)東京から地方を変えるというのが石原知事のスタイルです。お隣の神奈川県の松沢成文知事は首都圏連合をつくっていこうと言われている。岩手の増田知事、秋田の寺田知事、青森の三村知事の3者は「陸奥の国」をつくる構想を出し、静岡県の石川知事は政令指定都市をまず静岡でつくり、次に、浜松でつくり、さらに三島と沼津で合市して、3つぐらいつくって、県の仕事は政令市に譲り、県の仕事は、それ以外の弱小の中小の市町村に県のノウハウを入れていくという、いわば県の自己解体をやっておられます。あるいは信州の田中康夫さんは「脱ダム宣言」すなわち脱補助金宣言をなさって、これから道州制になるなら、それを先取りして「信州」にする。信州県でなくて、信州。彼の名刺は信州泰阜村田中康夫と書いてあります。(笑)私は信州に住民票を移していますので、彼と名刺交換しますと、信州と書いてあったので、「本気だ」と感心しました。
 さらに、旧三重県知事の北川さんを事務局長にして、榊原英資さんと共同で8つか7つの知事さんが地方分権のための研究会をつくって動いておられます。知事の数は47人ですが、47という数字はまとまりやすい。日本の仮名の数と一緒なんです。「仮名手本」と言うじゃないですか。「仮名手本忠臣蔵」、つまり、「元禄の47士」が手本を示したように、「平成の47士」がことをおこそうという構えになってきている。47人ならまとまる。それが480人とか二百数十人になると、これは多過ぎてまとまらない。
 知事のやり方しだいでこれから地方分権は推進していくだろうと強く期待しています。重要なのは課税権です。憲法92条に地方自治の本旨が書かれ、93条には直接選挙で長を選出し、94条には「財産を管理し、事務を処理し及び行政を執行する権能を有する」とあります。しかし、課税権はない。私は憲法改正をする場合には、地方自治のところに課税権を持ってきて、今申しました森、山、平野、海の各州で、今の国税を全部徴収する。ちょうどEUがそうしているように、まず地域で税金を徴収し、それぞれの地域力、人口に応じて中央政府に分担金を差し出し、国家全体の仕事を那須の都でやっていただくという段取りがふさわしい。これを知事たちが公約に掲げれば、例えば、九州7人しかいませんが、その「7人の侍」が、九州府長官を選んで一体化を促進し、九州で国税を集めて、九州の人口、経済力に応じて分担金を中央政府に支払い、残りは自分たちの地域のために使うと公約し、それで当選して実行する運びになれば、さて、どうなるでしょうか。中央政府が自衛隊を派遣して、九州を植民地にするということになったら、これはまたおもしろいかもしれませんけれども、(笑)そんなことはまずないでしょう。すなわち、全く暴力抜きで、住民の納得づくめで地方分権ができる見通しの1つでございます。
 主体については、これでひとまず置いて、つぎに、それぞれの州都をどこにするかについてです。「平野の州」の場合は、既に大宮にブロックの中心がございますから、大宮もしくは東京かもしれません。これはそんなに難しい話ではないと思います。
 それから、「山の日本」に関しては、新首都の第2候補地になりました東濃が、その地域の人々が日本の重心だとこれまで言ってこられたわけですから、東濃、に決まるのが筋でしょう。
 もとより、これは外野席から言うべきことではなくて、住民がお決めになることですけれども、1つの考え方として申し上げているのですが、「森の州」の州都をどこにするか。仙台だ、盛岡だと、すぐに出てきそうですが、ご承知のように、伊達藩と南部藩とは仲がよくなかった。(笑)また、出羽の国と陸奥の国も違うわけです。東北のどこに持っていっても必ずほかの県の人たちが嫉妬をするというか、余りうまくいかない。
 日本に、東京以外でもう1つ日本各地域からの人たちが共同してつくった場所がある。北海道です。まさに北海道こそ、日本の屯田兵、その前においては開拓使が力を尽くした地域です。アメリカの開拓者精神を持ったケプロン農務長官あるいはクラーク先生、こういう人たちが日本の武士出身者に開拓者精神フロンティアスピリットを与え、日本人はそれによくこたえて、北海道をこれまでにしてこられた。しかし、まだ足腰が弱い、いや、可能性がいっぱいある。北海道こそ、東京とならんで、日本全体でつくってきた地域ですから大切にしなければならない。では、具体的にどこか。千歳空港と札幌の三角形を考えると、「支笏湖がある、洞爺湖がある。すばらしい国立公園」ということで、森の都はその辺に定めるのが「森の州」にはいいということが見えてくるわけです。
 では、「海の州」の都はどこにするか。これは大阪だ、神戸だ、広島だ、それぞれ個性の強い人たちばっかりで、どこに決めてもうまくいかない。どこと決めない方がいい。(笑)そのかわり、動かせばいい。フローティングキャピタルにする(笑)。「海の国」ですから、フローティングアイランドでやる。フローティングアイランドをどこに浮かべればいいか。瀬戸内海に浮かべればよい。風光明媚ですから。旧運輸省が、ご承知のメガロフロート、これは和製英語ですけれども、横須賀沖で飛行機の離着陸の実験をして成功した。その後解体されました。つまり、メガフロートでは、飛行機の離着陸も、病院を建てることも、会議場をつくることも、運動場をつくることもできる。メガフロートは組み合わせができるのです。津々浦々の「海の州」は山が迫っております。西日本は平野が小さい。そういうところで陸路が遮断された時に、阪神・淡路大震災のときにそうでしたが、海から助ける、あるいは海に逃げることができるということもあります。ある時には別府温泉に入るために別府湾に、ある時には神戸港に、ある時は大阪港にと動かせば、これはだれからも恨みっこなしということになると思います。
 こうして一応、「森の州」の州都は北海道。「平野の州」の州都は関東平野の大宮あたりに、現在のさいたま市ですね。「山の州」の州都は東濃。「海の州」の州都はフローティングキャピタル。
 フローティング・キャピタルという考え方は荒唐無稽ではありません。日本というより、もともとはギリシャにあった。ギリシャのアテネでマラトンの戦いの十数年後に、最後のペルシャ戦争が行われます。最後の決戦になったサラミスの海戦ですが、サラミスの海戦の前にアテネがペルシャの陸軍のために完全に焼き払われる。そこにいた人たちはみな死ぬわけです。
 デルフォイの神託は「木の柵によって守れ」ということだったので、アテネの人は船をつくって、乗船した。やがて海戦になる。海戦のときにアテネの海将テミストクレスが作戦を言おうとすると、「アテネはもう滅びたから、君には発言権がない」と別のポリスの海軍大将が言う。この時に、テミストクレスが「いや、アテネはこの船がある限りにおいて、アテネの国家、国民は健在である」という名演説をぶって、彼の意見を聞くことで、サラミス沖の海戦においてペルシャ海軍を壊滅して、クセルクセスは気が変になって逃げ帰る。さすがということで、その後アテネには寄附金が集まりまして、神殿が再建されて、アテネの栄光の時代が始まるということであります。そういう故事もありますから、フローティングアイランド、フローティングキャピタルというのも一考の価値があるでしょう。
 さらに、世界の3極、EU、北米、東アジアと見ますと、EUは大陸、コンチネンタルヨーロッパ、ヨーロピアンコンチネントです。基本的にドイツ、フランスの共同関係から今のEUはスタートした。イギリスはそこに引きずり込まれる格好です。抵抗していますけど。ともかくEUの本体はコンチネンタルな地域単位です。アメリカの北米も大陸です。
ところが、日本はもとより、日本の周りで発展している東北アジア、東南アジアは海洋地域です。私はこれを東アジアと言わず 「海洋東アジア」と言った方がよいと唱えています。世界銀行が「東アジアの奇跡」と呼んだ「東アジア」の実質は「海洋東アジア」なのです。「海洋東アジア」とは日本、韓国、台湾、中国の沿海地域、多島海の東南アジアです。海洋東アジアの南にはオセアニアが広がっています。オセアニアの中心はオーストラリア。オートラリアの最大の輸出先は日本です。輸入元もアメリカについで2番目が日本です。
 オーストラリアの日本に対する結びつきは非常に深くなっている。そうなりますと、海洋東アジアはオセアニアとあわせて「西太平洋」とひとまとめにした方がよい。それはその名の通り海洋世界です。世界の三極のうち北米とEUという大陸世界であるに対し、新極の西太平洋は海の世界であります。
 西太平洋津々浦々連合の中心地をどこにするのかとなると、やれシドニーだ、シンガポールだと迷いかねません。それならばフローティングキャピタルでよろしいでしょうというアイデアが生きてきます。新しい首都が北に向かい「海の州」からは遠くなる那須になるのであれば、「海の州」としては、日本の新首都からは遠くても、西太平洋津々浦々連合の中心地であり、その基本的なコンセプトは「海の州」である西日本にあると思えば元気がでるでしょう。
 ところで、関東ブロックとか西日本ブロックと言わないで、なぜ「平野の州」「海の州」「山の州」「森の州」などと自然名を冠するのか。それは冷戦後の世界の人たちの環境問題への関心を意識してのことです。
 ご承知のように、国連環境開発会議が1992年リオデジャネイロで開かれ、そこで本当にたくさんの人が参加した。まさに地球サミットでした。当時178の国連参加国のうち172カ国が代表団を送ってくる。日本は宮沢さんがビデオで撮った自分のメッセージを送られてお茶を濁されて、その程度だったのが、そこに1万数千人のNPOの人たちも駈けつけて、即座にそこでバイオダイバーシティー、生物の多様性がこれからの地球全体にとって大事だ、それからまた持続可能な形での開発をしていくべきである。開発至上主義はやめようじゃないか。いわゆるサステーナブル・ディベロップメントということが全会一致で決まるわけです。
 そういう生物の多様性を保障する場はどこだ。これがフォレスト、森だ。それで、森を保全し、育てていこう。地球の温暖化に対しても、森は二酸化炭素を固定する。こういうように地球環境問題に意識が高まってきました。
 そういう中での日本の国づくりは、経済力を必要条件と言いますか、下部構造として押さえつつ、森だ、海だ、山だ、平野だというのが地球社会に対して発信力をもつことになるのです。自然はどこの地域にもありますけれども、そういう自然を大事にする国づくりをしていくことが、これからの日本にとっては大切です。今まで日本が東洋の文明を入れて京都をつくった、また西洋の文明を入れて東京というものをつくった。やがて地球社会に対して還元していかなくてはいけないという時に、土地に聞くという形での国づくり、地域づくりをして新しい21世紀の日本を世界に対してプレゼントするという考え方は、世界の「時代の風」を受けたものと言えます。
 日本の歴史をみると、もともとは鎮守の森から始まっている。縄文文化は森をつくる文明であったと言われております。三内丸山では栗を栽培していたことが今わかっています。栽培は決して稲作から始まったのではなく、むしろ栗といった樹木、森を栽培する、木を栽培する。木は巨木になると、そこに神が降りるということで、1柱、2柱というように、「柱」は神を数える単位です。柱あるいは樹木に対する考え方の中に神聖なものがあります。それが日本に森が保全されてきた歴史的遠因であると思います。地球の環境問題にかんがみましても、「鎮守の森の都」はすごくアピール性がある。鎮守の森が日本全体の顔になれば、日本全体の自然というものが、寒帯から亜熱帯まであるので、地球生態系のミニアチュアだと見立てることができ、「見立て」は日本の文化でありますから、北海道の木から沖縄の木まで全部集めて、鉄筋コンクリートではなくて、「鉄筋木造」の国会議事堂をつくる。早稲田の校歌に「集まり散じて人は変れど、仰ぐは同じき理想の光」というのがあって、校歌の3番で、私はなかなか好きなんです。「集まり散じて人は変われど、仰ぐは同じき日本の森」。北の樹木から南の樹木まで国会議事堂にある。そういう柱群をもった議事堂が望ましい。国会議事堂の柱ひとつひとつに、どこで何年に伐採して、樹齢が何年ということを書いておきますと、個体識別ができます。そうすると、その地域の守り神みたいな感じで見えてくるでしょう。
 新しい首都では、森の議事堂を構想する必要がある、ということです。森の議事堂という形で構想して、日本全体の代表、自然の代表の床柱群がずっと、1県から1本出しても少なくとも47本、それぞれ10本ぐらい出していけば470本でもいいと思いますが、壮麗なものになる、と思うわけであります。森の神殿という趣を呈すると思うのであります。
 日本の議事堂がそうなれば、やがて日本の樹木をこれからは活用することになり、地産地消を促すでしょう。今は世界の木材を輸入し、日本の木材の自給率は2割を切っております。それを中国は追いかけて、中国は日本よりたくさんの材木を輸入している。言いかえると、世界の森林を破壊するトップランナーに日本と中国がなっているのです。何とかそれをとめて、日本の木を使う方策をたて、樹木を大事にする方法を打ち出せれば、日本の全体の佇まいが、砂利とコンクリートだけから成るのでなくて、それらも活用しつつ、いわゆる純粋大型木造という完全な木造でなくて、「鉄筋木造」を皆様方で開発していただき、日本に新しい森の文化といいますか、森の文明といいますか、森の文化・文明を建設していただきたいと思う次第でございます。
 7分ばかり時間を超過いたしましたが、ご清聴いただき、まことにありがとうございました。(拍手)



フリーディスカッション

 

諸隈(司会)
 すばらしいお話、どうもありがとうございました。
 質問に移りたいと思います。どなたかご質問のある方は挙手でお願いいたします。
猪狩(潟Cカリ設計)
 川勝先生の『文明の海洋史観』を愛読させていただいております。きょうも大変すばらしい構想と深い含蓄のある、そしてまた夢のあるお話、ありがとうございます。
 先生の『文明の海洋史観』にもございますけれども、先生は、「ガーデンアイランズ構想」を提唱されました。私はそれに大変賛同しておりまして、たしかここでも5年ほど前ですか、ご講演なさったと思います。きょうのお話の中で、ある1本の筋を感じるわけでございます。
 1つは、西太平洋地域、豊饒の半月弧、そこから先生の「富国有徳論」をベースにされた中で、江戸から明治のころ、日本が最大のガーデンシティーだったというお話、深く感銘しておるわけです。そのベースの上の今のお話で、遷都論、那須を中心に北東日本国土軸という幾つかの道州制の中で、大変イメージ的な話で、中山間地域、那須を中心とした都市を形成される時に、周辺の住宅、先生は300坪ぐらいの住宅をベースとして、そこに江戸時代に日本人がつくったような広い庭のあるガーデンをつくって日本人らしい生活をするということでございます。
 そこで、先生にお聞きしたいのは、先生ご自身軽井沢にお住まいになっているわけですが、今の東京を中心に住んでいる都会の人、つまり非常に便利ということになれ過ぎた人間が、鎮守の森を中心とした多自然型住居地域のイメージの那須に住んだ場合、300坪の住宅、それにガーデンを楽しむというための、いわゆるガーデンアイランズ構想の中における先生の住宅観というか、住宅に対する将来像について、お聞きしたいんでございますが、いかがでしょう。
川勝
 猪狩さんの運動に、私は敬意を表しています。
 「生活の55年体制」が日本にはまだつづいていると思います。政治の55年体制、自由党と民主党が一緒になって自民党ができた。これは細川さんのときに崩れました。一方、1955年、昭和30年に住宅公団が設立されて「2DK」というみごとなフレージングで日本人の心を魅了して、2DK系列の箱物をつくってこられた。これはかぎ1つで安心して外で働けるし、プライバシーも守られるし、それなりの貢献をしてきました。ただ、現在、2DK系列の箱に1500万世帯ぐらいが住まわれている。これは行きすぎです。住宅公団は、先ごろ、都市基盤整備公団と名前を変えました。つまり、基盤整備、周りの環境整備に変わった。従って、忘れていたものに気づかれたと思います。
 それから、日本の建築工法が非常に進歩して、容積率を相当高めても大丈夫で、その分建ぺい率を抑えられるので、建物の周囲に緑が保証できます。そういう動きは集合住宅を取り囲む緑の環境の一体化で、いわば「家」と「庭」が一体となってきている、つまり「家庭」の回復が東京でも起こっています。
 私は、先ほど木造を重視した話をしました。東京は今度千代田区が立派な区役所を建てられるということでありますが、非常にモダンです。皇居の周りにある建物みんなそうでございます。東京は日本最大の平野の中心部ですから、山が見えないというか、山がない地域です。そこは人工の山がよく似合うのではないか。例えば、シカゴにしましても、ニューヨークにしましても、ヨーロッパの諸都市にしましても、山が見えないところでは高層建築群が建てられている。山が見えないところには人は人工の山をつくるのかなという気がします。
 京都が中国文明の生きた博物館であるという意味において、仮にアメリカ経済がうまくいかないとか、テロの問題で近代西洋文明の一角がいろんな事情で左前になった時に、18世紀、19世紀につくり上げられてきた欧米の近代文明がどういうものであったのかを見ようと思ったら、東京に来ればそれなりのものが見られるし、もっと洗練されたものが見られる、東京はそういう都市空間です。ただ、それがいわゆるガーデンシティーと言いますか、大いなる田舎としての江戸、その犠牲の上に建てられたということは忘れてはならないと思うのであります。
 皇居の周囲を歩かれると全然中の建物が見えません。つまり、森です。そういう森の中に沈む形で陛下が住まわれています。お城の中に住まわれているとはいえ、もはやお城ではなくて、そこを神聖な森にされているという気もするのです。
 さて、私、今、軽井沢に住んでいます。軽井沢は1998年に新幹線ができまして、毎年永住者がふえて、6年前まで人口が1万6000だったのが今は1万8000になっています。それは交通網が発達したことが一因だと思います。
 そういうことで、私は、道路に関しましても、東京に出てくるためというよりも、むしろ今申しました4つの地域が循環型に移行するために、環状型に経めぐれるような道路網は日本にとってはこれからもまだ必要であり、どういう道路をつくるかは地域の方々がお決めになればよろしいと思っています。
 住まい方について、那須に首都機能を移転するというのは日本の内陸に向かうわけです。それは何を意味しているかというと、「日本のフロンティアは日本の中にある」ということです。それはこういうことです。
日本政府が日本国民に対してやっかいなお荷物になっている。しかし、日本国民全体、日本国家全体としては対外的債務を負っていません。むしろ対外的には最大の債権国です。個人の金融資産も団塊の世代以上の人たちが4分の3ぐらい持っていて、「さあ、日本としてこの巨額の個人金融資産を一体どう有効に使っていくか」を考えねば、ハゲタカファンドにむしりとられかねません。
 臨海工業地帯は、原料をそこで輸入して、そこで加工して、輸出する。一番外貨を獲得しやすい方式ですから、臨海での都市づくりが合理的だったわけですが、現代の日本は、もはや加工貿易の国というより、NIESやASEAN地域から製品を輸入する純製品輸入国で、物をつくることとともに、どう使うかが試されています。1人1人のライフスタイルが豊かになるようなまちづくりをしなくてはなりません。となりますと、狭いところで、臨海工業地帯で働くというより、今言われたような、庭と  一体になったような、つまり、家・庭一体のような住まい方がいいのではないか。
 それは単に「家庭」という言葉の字義どおりの意味だけでなくて、奥地というか、中山間地域、へき地に行きますと、道路さえ通れば、土地はあり余るほどあるというと語弊ですが、かなり休耕地や荒蕪地などがあって、荒れている。そういうところでは、生活空間が倍増できる。生活空間を倍増すると、単婚小家族とは別個の住まい方も選択肢として出てきます。お友達を泊める、あるいはおじいちゃん、おばあちゃんと一緒に住む、あるいは被災した人たちがいれば、そこに引き取ることができるとか。ですから、安全効果というものが出てくる。
 生活空間が2倍になりますと、耐久消費財の消費が増えます。従って、これは日本の企業だけでなくて、日本に製品を輸出しているアジア諸地域の人たちにとっても、日本の需要増加はすごく励みになり、経済効果が出てきます。仮にそういうところで地震が起こっても、仮設住宅を公園につくってそこに住まなくても、自分の庭に仮設住宅を置いて、そこに私財を移すことができる。
 そういうことにとどまらず、庭を持てるので、花も咲き、実もなるということで、農業効果とか景観効果も出てくるのでございます。
 別荘の方々は、お越しになるのは実際は年にせいぜい1週間から2週間で本当に短い。別荘というのはすごくぜいたくに思われるかもしれません。しかしそこに永住するとなると、不動産価格は決して高いものでありません。具体的な話で恐縮ですが、千ヶ滝という別荘地がありますが、そこら辺でも坪5万ぐらいです。追分になると、坪2万ぐらいです。立派な別荘地でさえそうです。区画は300坪です。そうなりますと、都心で立派なマンションを買って、同じ額のお金を使う。マンションでは駐車場代プラス管理費を払いますが、それに10万円くらいかかるでしょう。遠くて交通費はかかってもマンションの管理費や駐車場代はないので、決して高いと言えないという合理的な計算もできるわけです。
 そして、都会の人が来ると、「広いね」とか「自然が多くていいな」と言われると、今度はそこに住むことが誇りになる。私は最初3年もつかなと思ったのですが、もう8年目なりました。庭の雑草が取れなくなるほど年齢が高くなれば、都会のマンションに移るかもしれませんが、住みかえとか、マルチハビテーションとか、狭い日本を広く使う、実際は広いわけですから、広い日本を広く使うために、日本が幾つかの地域単位に分かれて、そこで法人税やなんかもフレキシブルに運用して、企業誘致もできやすいようにし、日本の国富が有効に活用されることが肝要です。さもなければ、ハゲタカファンドにとられてしまうか、もしくは政府の借金を返すために全部使わなくてはならないことになる。
 私は56歳になりましたが、団塊の世代は、あと10年ぐらいで退職し、高齢者になりますが、どういうふうに日本に恩返しするか、おさらばするかというか、死に方を考えざるを得ないような時期に来ています。
 60歳になると「耳順」と言いますが、若い人の意見を聞くような落ちついた生活をするにはどうしたらいいか。ご承知のように、毎年3万数千人の人が自殺しているわけです。我々の世代が一番多い。国破れて、つまり企業が破産して帰るところがないというのは非常に哀れです。帰るところがマンションでなくて、帰るところが仮に土地のあるところであれば、ジャガイモでもキャベツでもトマトでもつくれる。ちょっとあれば何とか安心。保険みたいなもので、そういうものが可能なライフスタイルを考える時に、フロンティアは海外というよりも国内にある。だから、小渕首相の時に識者が集まって「21世紀の日本の構想懇談会」というのを行って、それが最終報告を出したわけです。「日本のフロンティアは日本の国内にあり」と。
 国内の住まい方、ライフスタイルを変えていくことが、日本にお越しになる外国人に対してもアピールすることになる。日本人の住まい方が、見て貧しいとなると、恥ずかしい。今は日本に外国人の学生が11万人も来ている。その9割がアジア人で、そのうちの7割が中国の方です。中国から7万人以上来ています。アメリカに行く中国人の数は6万人強ですから、アジアで最もたくさんの青年たちが、学問をする。建前上はそうでありますけれども、日本の生活を見に来ているということです。
 従って、教育の方法も変えないといけない。日本での内外の先生による内外の学生のための教育ということになりますと、外国人たちのための住まいを合わせた大学町も考えなくちゃいけない。大学町、教育町をつくろうということがあってもいいと思うのです。それを都会でやるか、地域でやるかといった時に、立命館のアジア太平洋大学がそうですが、別府湾を見下ろす絶景の地に、当時の知事平松さんが場所を選んで、外国人の宿舎を初めからつくった。来たら必ずそこでトランク、スーツケースをあけられる。下宿を探す苦労をしなくて済む。校舎と同じ建築様式でできていますから、どこからが図書館でどこからが宿舎かわからない。そこに日本人が同じ棟の中に住みまして、日本語でいろいろと相談に乗って差し上げる。彼らはあっという間に日本語を学びます。専門科目を学ぶ4年生ぐらいになると、大分弁をみな話している。こちらでは関東弁を話すとか、そういうところがあっていい。
 今度、アジア太平洋大学は卒業生を出しました。上場企業にたくさん就職している。しかも、企業の方々がそこに行って面接して、「君はどこの国から来たか。そこのところに自分の企業も工場を出しておる。そことのかけ橋にするには、君は日本のこともわかっているし、そこの国もわかっているから」というようなことで、就職口もでき上がりつつあるわけです。
 一見、学問と縁遠いようですが、生活を提供するつもりで外国人を招くことが大事ではないか。実際、世界の最高峰、例えばハーバードにしても、オックスフォードにしても、ケンブリッジにしましても、そこに行ったら寮があって、そこで最初のトランクをあける。大学に学びに行くというのは、その大学に住むということと表裏一体の関係になっているわけです。
 日本の場合、そういうことも含めて、おもてなしの文化をこれからつくっていく。そのためにはスペアベッドルームといいますか、人が来て泊まれるようなものがあった方がいい。
 それは一言で言うと、小渕さんの施政方針演説の言葉ですけれども、「生活空間を倍増する」と言うことです。それを国交省は間違って受けとって、公園を2つにする。あるいは道路を2倍にする。橋を2つ架けるとか、そういうふうにとられて、真意が伝わらないままに終わりました。我々は、生活空間を倍増するという、あの時の新しい21世紀の構想をそろそろ考えることによって、猪狩さんのガーデンシティー、ガーデンタウンも現実になってくるんじゃないかと思う次第でございます。
石渡(元気堂)
 先ほどの47人の各知事さんの中で、最近は大分おとなしくなりましたけど、石原さんが、東京から首都機能を移すなんてナンセンスとおっしゃっていますが、多分何度かお目にかかってお話しされていると思いますが、どういうふうにして石原さんを説得するかをちょっとお話して頂けませんか。(笑)
川勝
 ご承知のように、石原さんは「首都移転反対」と言われたとき、「皇居を移すとは何事か」と言われたわけです。首都機能移転の話には皇居のことなんか全然入っていない。だから、いかにご存じないまま発言されたか、ということです。ただ、石原慎太郎氏も、彼が国会議員であられたときに、国会議員の1人として首都機能移転、首都移転に賛成された。知事になって東京都庁舎が居心地がいいからかもしれませんね。
 ただ、彼も首都圏連合については賛成です。東京都を越えた形で連携していきましょう。実際、ごみ1つとっても、4分の3は、東京圏外で処理しないことには東京都の生活が維持できないということであります。周りの県のおかげをこうむっている。そういう意味で、首都圏の中心地をどこにするかといった時に、東京都に置いておくか、大宮にするかというのは、余り大きな問題ではないと思います。皇居に関しましては、天皇陛下は別に住民票を千代田区に届けていらっしゃるわけじゃありませんので、長くそこにいらっしゃれば、そこが皇居になる。那須には夏の間には行っていらっしゃるということですから、それをもう少し長く滞在されれば、(笑)夏は那須の宮に、冬は今の千代田城にいらっしゃるということがあってもいい。
 それから、あとの霞が関に関しましては、今の補助金行政をそのまま続けていくことはできないということで、この間の参議院選挙でも、民主党は20兆円の補助金のうち18兆円は削減するべきだ、つまり9割を削減するべきだ。そうすると、省庁で働いている人はどうなるんだということを考えざるを得ないと思います。ですから、東京から日本を変えていく、あるいは首都圏から日本を変えていくといった場合に、どうしても国家機能の現在のままを認めていくというわけにはいかないと思います。
 この辺のところは機会があれば、意見を戦わせてみたいと思いますけれども、彼の首都移転反対とは、あれはいわゆる土建屋さんを利するだけだとか、こういう財政赤字の時に何をするか、また東京というのはすべてものの中心だ、と言うようにだれもが言っているようなことであります。そういうことを踏まえた上で、先ほどいったような議論を申し上げましたので、私は譲るつもりはありません。(笑)
與謝野
 素晴らしいご講演を頂きまして、どうもありがとうございました。
 日本の国土の将来の姿について、緻密な歴史観と独特の豊かな想像力とを裾野にしての夢の膨らむような分かり易い具体像が、私どもが聞いていましても頭の中で絵として描けるような大変卓抜した表現力とお話しぶりとでお話しいただき、本当に愁眉が開く思いで聞かせていただきました。皆様の盛大な拍手をもって、お礼の気持ちを表現させて頂きたいと存じます。ありがとうございました(拍手)。
 

 


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