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第202回都市経営フォーラム

まちづくりの実践例

講師:長谷川 義明    氏

特定非営利活動法人 新潟愛郷会 理事長

日付:2004年10月21日(木)
場所:後楽園会館

1)新潟の固有の条件について

2)新潟のまちづくりの歴史について

3)災害の事例

4)現代の社会的要請について

5)新潟の課題

6)実践例の紹介

 @都心における市民の誇りとなる象徴的空間の創出

 A「湊まち新潟」の史跡と歴史の空間整備について

 Bラムサール条約登録湿地の確保とまちづくり

 C自然の湖の保全、農業との土地利用の調整、大規模スポーツゾーンの整備
  「鳥屋野潟周辺整備の事例」


 Dその他のシンボル事業について

 

フリーディスカッション



 

 

 

 

 

與謝野
 ただいまから第202回目のフォーラムを開催させていただきたいと思います。本日は、自治体の責任者の立場で長年にわたり、まちづくりに取り組んで来られました元新潟市長で、現在NPO法人新潟愛郷会理事長でいらっしゃいます長谷川義明さんにご講演をお願い致しました。
 長谷川さんのご経歴は、お手元の資料のとおりでございまして、新潟市にお生まれになられ、その後長年、旧建設省にお勤めの後、1985年に新潟市助役に就任され、1990年に市長に当選されまして、2002年の任期満了のご退任まで17年間の長きにわたりまして新潟市のまちづくりの陣頭指揮をとって来られた方でいらっしゃいます。本日の演題は、「まちづくりの実践例(新潟市の事例)」として、まちづくりの具体的施策を実践するに当たってどのような認識を持って臨むべきか、 その実践例と方法等について、郷土に対する熱き思いに支えられた示唆深いお話がお聞きできるものと楽しみにしております。
それでは、長谷川さん、よろしくお願いいたします。



長谷川
 皆さん、こんにちは。202回を数える都市経営フォーラムという、このすばらしい会合にお招きをいただきまして大変感謝を申し上げます。
 202回という回を重ねるということは、そして、お忙しい皆さんが、しかも現役で仕事をやっていらっしゃる皆さん方も含めて大勢ご参加になられるということは、今までの講師をお引き受けになられた方々が大変有益なお話をされたのではないか。 前回伊藤滋先生などがお見えになっているようですが、大学の先生方は、物事をちゃんと理路整然と整理してお話されるのだと思いますけれども、そういう意味でも、私は学究でもありませんので、話があちこち行ったり、論理性に欠けたりするかもしれませんが、反面教師の意味もあります。どうか経験豊かな聴衆の皆様方に、そのようなことまで含めて参考にしていただければありがたいと思います。
 今ご紹介いただきましたように、京都大学の建築学科を出まして、建設省に入り、その後住宅局とか都市局とか転々としたわけであります。秋田県庁にお世話になったり、福岡県庁にお世話になったりもいたしました。幸い昭和60年に新潟市の助役に来ないかと前の市長さんからお誘いをいただきまして、郷土のまちづくりに力を発揮することができればとお引き受けいたしました。
 5年間助役をやりまして、前の市長さんが突然おやめになりました。次に、どうかというお誘いをいただきまして、思い切ってやってみようということで市長をやったわけでございます。3期12年間、新潟市長を務めたわけでございますが、助役5年も含めますと、17年間も三役の一角を占めたことになりましす。ちょっと長過ぎるなということもあり、2002年にワールドカップの新潟大会を契機に、ちょうど任期満了ということもあり、退任させていただきました。今は新しい若い市長さんが張り切ってまちづくりをやっているわけであります。
 助役の5年間、市長の12年間というのは、私としては力一杯やらせていただいたな、という気持ちでいっぱいでございます。今日はどんなことをやったのかを皆さんにご披露申し上げたいと思っております。
 まちづくりの基本的な考え方ということで、皆さんのお手元に資料がいっているかと思います。いろんなヨーロッパの経験などからつくづく感じておりますが、まちづくりというのは、当然のことですけれども、それぞれの地域の持っている、あるいはそれぞれの地域の土地の持っている固有の条件、気候とか地形とか、他にはないその地域独特の持っている固有の条件に立脚して行われるものだと考えています。しかも、それぞれの歴史的な各時代における社会的要請に応え、それぞれの時代の技術的な開発の水準などを活用しながら、まちづくりが行われてきている。そういったものを活用しながら先人たちが苦悩し、知恵を出し、そしてそれにまちづくりの努力を重ねて、今の町が作られていると考えております。
その意味で、先人の知恵を学びながら、現代の社会的要請は何か、あるいは現代の持っている技術力というものをいかに発揮するかということで、まちづくりをやっていくんだろうと思います。
 皆さんもよくご存じだと思いますけれども、国際的に見れば、そうしたそれぞれの土地が持っている固有の条件によって町の形が随分変わっております。水の上に暮らしている町もあると思えば、地下の中に町を作っているところもあるわけです。日本という国を見ましても、それぞれの地域に固有の条件に基づいて町が作られていったんだということをつくづく感じています。そういう意味で、歴史に学ぶというのは大変大切なことではないかと思います。
 それでは、まず新潟の土地の固有の条件というのは、どんなものがあるのかということで、少しご説明をさせていただき、それを前提に私の行なってきた町づくりの実践例をお話をさせていただきます。
 まず、新潟の持っている土地の固有条件、あるいは新潟の歴史的なまちづくりがどんなふうに行われてきたか、ということを簡単におさらいさせていただきます。



1)新潟の固有の条件について

 

 新潟の持っている土地固有の条件というのは、何と言いましても、大河、信濃川、阿賀野川の河口にあるということです。日本で最大の長さ、最大の流量を持っているのが信濃川で、さらに阿賀野川が山から流れてきます。阿賀野川の河口、信濃川の河口が新潟の町にあるわけです。かつてはこの川は一緒に流れていました。大河信濃川あるいは阿賀野川の河口にあるということが新潟の町を作っていく上で大変大きな要因になっています。つまり、大変深い河口、そして天然の良港ということがあったわけです。
 大河であるということで大変大きな流域を背景に持っております。流域の経済の窓口という役割を、新潟は歴史的に背負うことになります。そのことが、新潟の持っている土地固有の条件の中でも大きな1つかなと思っております。
 それから、等高線が込んでおりますが、この辺に丘陵地帯があります。丘陵から海岸側は全部平らな土地でありまして、かつてはガマ原、蒲原(かんばら)と言われた平野部でございます。今は新潟平野と言っております。この平野部の形成の歴史についても、後ほど少しお話をしたいと思います。
 要するに、1万2000年ぐらい前の氷河期が終わりまして、だんだん地球が温暖化する、海進が進みます。海水のレベルは約100メートル上がったと言われていますけれども、そういったことによって海からの蒸発量が多くなる。雨がたくさん降るようになる。山脈から土砂が流れ出して、この平野部が形成される。昔は入江だったんです。そうした平野の形成の歴史があります。砂丘ができたり、砂丘と砂丘の間に葦沼と言われるような湖あるいは潟、潟湖の平野部などがあるという状態があったということでございます。
 もう1つは、何と言っても日本海側にあるということも大きな固有の条件の1つです。冬季は大変厳しい風浪にさらされます。それが砂丘を形成する原因になるわけです。フェーン現象なんていうのも、日本海側であるがゆえに起こる、日本海側の独特の気候条件でありまして、大火が多い。
 それから、対岸諸国との関係も大変大きな要因でございます。日本海側の対岸と言えば、朝鮮半島であるとかロシア、極東のシベリアですが、そこにいろんな国が興ったり、滅びたりいたします。そういう国々の使節がやってくるのは日本海側の地域に来るわけであります。そういったところとの関係、歴史的には緊張の関係あるいは平和の関係ですが、これらの関係が新潟のまちづくりに影響を与えていると思います。
 気候条件で言えば、先ほどフェーン現象の例も出しましたけれども、豪雨地帯ですね。積雪寒冷の地域でありますから、雪がたくさん降る。まちづくりに大きな影響を与えます。あるいは地震があるとか、フェーン現象による大火があるとか、そういった災害がありますし、堆積した平野でありますから、地盤沈下がありますね。大きな地震の影響も受けている。
 また一方で、日本海を回遊する魚、サケを中心にブリなど、魚をもとにした産業が興る。今でもそれが続いているわけであります。
 石油も採れますから、石油の精製に関連する化学の工場ができる。あるいは石油を掘削する技術は、当時の最先端の工業技術ですから、そういった産業が栄える。
 天然ガスも出てまいります。天然ガスの掘削によって、地盤沈下が起きたりするわけですけれども、石油ガス化学、天然ガス化学などが産業として出てくるというようなことです。
 雪は生活を困らせるだけではなくて、最近では大雪を利用したエネルギー源として、夏の冷房も全部、冬のうちに集めておいた雪でもって使うとか、食品を冷蔵保存するのに雪を使ったりいたします。降った雪をうまく使うようになれば、石油だとか、電力を相当節約できると言われております。
 そんなことで、新潟の持っている土地固有の条件についてお話をいたしました。



2)新潟のまちづくりの歴史について

 

 次に、まちづくりの歴史について、少し振り返ってみたいと思います。
 先ほど申し上げましたように、ここに山脈地帯があるわけですけれども、少し白っぽくなっています。これがいわゆる蒲原の平野と言われるところです。蒲原の平野は1万2000年前の氷河期が終わってから、流出土砂によってだんだん平野を形成して、今の海岸線になっているわけです。その中に砂丘の列があります。10列ぐらいあるんです。皆さんご存じかもしれませんが、角田山とか弥彦山というのがこの辺にあります。村上と言うところまで砂丘列が続いている。かつて、砂丘の上に人が住み始めるわけです。砂丘と砂丘の間は低湿地帯です。ところどころに湖が残っています。
 そして阿賀野川と信濃川が流れてくる。阿賀野川、信濃川の流出土砂によっ作られた平野ですけれども、かつては信濃川、阿賀野川は、河口が一緒だったんです。従って、ここに天然の良港があった。阿賀野川というのは会津の盆地から急流河川で流れてくるので、河口部を掘削したんですね。信濃川は緩流河川ですから、土砂をたくさん運んでくる。河口を浅くする方向になるんですけれども、阿賀野川が一緒に出ていたおかげで天然の良港ができていたわけであります。
 第1砂丘というのがここにあります。この辺が新潟市内です。第1砂丘で6500年前の縄文の土器が発見されました。私が市長をやっている平成8年ですから、考古年代から言えば、まだつい最近発見されたと言ってもいいと思います。つまり、6500年前の時代からここに人が住んでいたことがわかります。縄文の前期に当たるんですけれども、縄文と言っても縄の目ではなく、竹べらで1つ1つ描いてつくったもの。底にも文様が入っています。すばらしい精密な芸術作品だと思います。
 新潟を代表する土器で、火炎土器と言うのをご存じだと思います。複雑な形をした火炎土器があります。これは長岡あたりから出ているんですが、4000年から4500年ぐらい前のものなんですね。それから、さらに2000年前の6500年前の縄文前期の土器が新潟から発見されたというのは大発見でございました。最近までは新潟平野の形成時代が、もっともっと新しい、学者によっては室町時代じゃないかと言う人もいたぐらいなんですけれども、最近は、6500年前に既に人が住んでいたということがわかったわけです。それが阿賀野川べりのこの辺で発掘された。
 5000年前に、会津盆地にある沼沢火山というのが爆発いたしまして、その火山灰が出てくるんですけど、その火山灰層のうんと下の方から土器が出てきている。あるいは千葉の民族歴史博物館で炭素年代測定法で計って鑑定していただいきましたが、6500年前とわかったんです。
 第2砂丘、第3砂丘があります。今私どもの新潟の町は、この小さな部分にあるんですね。信濃川の河口の左岸側のこの辺に新潟の中心部がある。これが第3砂丘で、この辺は比較的新しく居住が始まっただろうと言われております。
6500年前には、だんだん海の方に人が住むようになっていく。あくまでも砂丘の上、あるいは川の自然堤防、そうしたところに集落が発展をしていくわけです。
 新潟に関連する地名が文献上、最初に出てくるのは日本書紀であります。647年に新潟に渟足柵(ぬたりの柵)を設けたという記述が出てまいります。647年と言いますと、大化の改新のすぐ後で、まだ大和に王権があった時代です。奈良時代の前ですね。その時代の新潟に、蝦夷の地域を征服していくための拠点として、渟足柵という柵を設けたと今まで考えられていたんです。最近の学説では、東北を征服するという意味もあると言われています。また一方で、朝鮮半島が非常に緊張していた時代でもありました。唐が興っておりまして、唐が高句麗を滅ぼしました。その唐の大水軍が日本を襲ってくるかもしれないので、日本全国が防人などを置いて、国防をしなければいけないという時代に当たっています。これは東北のための柵ということもあったかもしれないけれども、同時に、日本の国土を守るための対岸諸国に対する防衛拠点的な役割もしていたと言うのが、最近の学術的な調査の中でわかってきています。大和の王権の控えの都のような役割もしていたんではないかという学説もあらわれています。
 もう1つ、927年、今から1000年ちょっと前になりますが、延喜式という書物があります。延喜年間に書かれている式目です。当時の国の制度をいろいろ書いた式目ですが、その中に「蒲原の津」という表現があります。先ほど申し上げました新潟は蒲原の平野でしたけれども、それに対して、蒲原の津、つまり港という表現があります。927年は平安です。その時代に、信濃川と阿賀野川の河口に港を設けます。その港は公の港、国の港である、蒲原の津で、上流でとれる絹糸とか織物などを都に運ぶわけです。蒲原の津から京都まで陸路で行くと、34日かかったんですね。海路で来ると36日。2日しか違わない。しかも、運賃まで書いてある。海路で運ぶのは陸路で運ぶのの値段が5分の1なんです。非常に安い。
 つまり、当時の物流は船によって行われていたということがわかるわけです。ただし、冬は日本海が通れなくなるため、4月から10月ぐらいまでの、7カ月間ぐらいしか使えないわけです。それ以外の時は陸路を使うことになる。しかし、夏場は海路を使ってやっていた。どんな船でやっていたか残念ながらわかりませんが、埴輪に出てくるような船だったかもしれません。埴輪は真ん中に帆を立てるような船を使っていますから、かなり物が運べたんじゃないかなと思います。恐らく古墳時代から船はありましたから、それが使われたんじゃないか。
 ついでにお話しいたしますと、およそ5000年ぐらい前、大昔、縄文が1万年続いたと言われていますから、縄文ですけれども、糸魚川というところをご存じでしょうか。ヒスイがとれるんですね。ヒスイを加工したもの、勾玉などが青森の三内丸山遺跡から発掘されているんですが、それが糸魚川のヒスイとわかるんです。九州の遺跡から糸魚川のヒスイが発見されています。つまり、縄文の時代にもかなりの交流が行われた。原石を運んでいって向こうで加工しますから、船で運んだと思われますけれども、意外に大航海の時代と言われるようなものが、その時代からあったのかもしれないと思います。
 927年に、蒲原の津を国の港として整備して、信濃川、阿賀野川流域の租庸調の庸、調を京都へ運んだという記述があるくらいですから、相当な交流があったんではないかと考えられます。
私が申し上げたいのは、昔から新潟は港町、新潟の持っている土地固有の条件が新潟を港町たらしめていたんだ。その伝統が今でも続いているんだということなんであります。
 南北朝の時代とか、戦国時代には、いろんな勢力が新潟の港の権益を巡っての争いを繰り返すことになります。
 徳川時代に入りまして、1617年に新潟で初めて町建をしました。そして、信濃川の左岸側の船が着けられるような場所に古町通りとか、片原通りとか、本町通りといった名前を付けました。古町通りとか本町通りは今でも名前を使っている町です。今、新潟の中心街は古町通りです。そういった町の名前を課した町建をいたします。1617年というのは、徳川時代に入ったばかりですが、その時代にこういった町建を行って、徳川幕府としても港の権益、港の収益である税、利用税などを大きな収入にしようということでした。長岡藩でございました。
 白山島とか寄居島という大きな中州がありました。川の流れが変化したり、洪水が出るたびに、こういう中州ができたり消えたりする。船が着ける状態だったんですが、流れが変わって中州ができたりして船が着けなくなる。そういったことの繰り返しが江戸時代にあり、新しい町建を行いますが、これを明暦の町建と言います。1655年、17年からわずか40年ぐらいしか経ってないんです。この間に大きな流れが変わったこともありまして、明暦の町建では、白山島とか寄居島に町を新しく作りました。この時、1617年には大川端と言われていた船着き場が、ここでは町の中に入ってしまっています。旧信濃川と書いてあります。その前面に埋め立てをして町を作るんです。
 明暦の町建の時に初めて堀を作ります。つまり、流れてきた水を流していく治水上の観点もありましたが、それと同時に、港に入った船から、はしけ船でもって荷物を町の中に運び込むためでもありました。堀沿いの商店、物流の卸問屋に物を揚げるための船の交通路を作る。1655年に、こういう町建が行われました。
 これが現在の新潟の町そのものなんです。この当時から新潟の町は続いている。約400年こういった町並みで続いています。ここに片原堀と書いてありますが、現在の東堀。寺町堀は、現在の西堀です。この町の名前が、堀直寄の町建の名前をそっくり使って移転をさせている。つまり、古町にいた人はこっちの古町に行きなさい、本町にいた人はこっちの本町に行きなさい、何月何日までに移転をしなさい、そうしないと権利を失うよ、ということで、町をそっくり移転させているんですね。そういう町建がこの明暦の時代に行われておりまして、新潟にとっては、まさにこの時代に作っていただいた町のおかげで現在の姿があるわけです。
 こちらに砂丘がありますが、かつては完全に砂丘でありまして、木が植わってない。植わってないというか、植えられなかったんですね。そんな技術はなかった。ですから、砂がどんどん飛んでくる。町が砂で埋もれてしまうということになって、ここに寺町を作る。つまり、寺をたくさん並べて、砂防の役目もしていたと思います。
 有名な河村瑞軒という人が北海道から荷物を運ぶのに、それまではずっと太平洋岸を回っていた船を日本海を通って、下関を経由して、瀬戸内海を通って大阪に行く、そしてさらに大阪から江戸に行くという西回り航路を整備いたします。河村瑞軒さんの前からあったらしいんですが、特に河村瑞軒さんがそういう航路を整備したということになっています。とにかく新潟の米が、大阪あたりの米に比べて3分の1ぐらい安かったらしく、それで、新潟からどんどん米が下関、瀬戸内海を通って大阪の米問屋さんに行くという時代になったようです。
 17世紀から18世紀にかけてが新潟が最も繁栄した時代で、年間に3500隻、船が入ったという記録があります。年間に3500隻ですが、7カ月間しか使わないわけですから、7で割れば月々500隻の船が入る、大変繁盛した時代を迎えております。
 その後いろんな事件がありまして、阿賀野川が真っ直ぐ海へ出てしまったりして、港の機能が浅くなっていくんですが、明治の初めに例の通商条約で5港開港いたします。函館、新潟、長崎、横浜、神戸ですね。列強は江戸に港を開港してほしい、大阪に開港してほしいと言うわけですけれども、そんな日本の中枢のところに異国人が入っちゃ困るということで、横浜に新しい町を開く。あるいは神戸に新しい町、要するに租界ですね、外国人だけが居留するような場所を作って、そちらに住みなさいとする。江戸から離れたところにするわけです。
 新潟の場合は、港を開放しちゃうんです。なぜかと言うと、直轄領であったということが1つありますけれども、新潟は親鸞が来たりして、浄土真宗の信仰の厚いところですから、こういう外国人が来てもキリスト教に感化されることはないだろう、外国人にむやみやたらに切りつけたりするような乱暴なことはないだろう。横浜では生麦事件が起こったりして外交問題になりますけれども、新潟にはないだろうということで新潟が開港に選ばれるんですね。本当は能登半島の七尾港が深くていいと列強が言ったらしいんですが、やっぱり新潟にしてくれと言って、新潟が開港になる。明治初年に開港しますが、それから新潟は外に向かって開かれた港という役割を大きく果たすようになります。
 それは、今でも続いております。新潟は特定重要港湾、つまり、外国船、外国航路を持つ港の機能、つまりCIQと言う税関だとか、検疫、出入国管理、そういったものをやる機能を持っています。これは国の機能です。国の機能を持った港なんです。そのおかげで、新潟の空港も国際空港になっております。CIQの機能を持っている地方の拠点という役割が、この5港開港から続いてくるわけであります。
 イザベラ・バードという人が、明治時代にやってまいりました。イギリスの女性の探検家ですけれども、新潟を訪ねてまいりまして、この状況を見て日本一美しい町だと言ってくれたんですね。要するに、この町に住んでいた人たちは町をきれいに清掃するし、堀なんかも、みんなで掘り上げて堀の水をきれいにするということを江戸時代からやっていたようです。
 これは平安時代の図面ですが、弥彦山とか角田山があって、新津があって、新潟はこの辺です。これは平野部が全部入江になっていたという図面です。これは後世の人がそうだったろうと思って描いた図面なんじゃないかと言われていて、歴史家は必ずしも本物と言っていません。しかし、こんな状態が想定できるような平野の状態だったんじゃないか。つまり、信濃川と阿賀野川の大水が出た時には全体が入江のように見えたんじゃないか。山の上から見れば、こんな状態だったんじゃないかなと思われる地形なんですね。



3)災害の事例

 

 では、新潟の災害の歴史を、お話しさせていただきたいと思います。
 大雪ですね。昭和30年代にはこういう状態があったわけです。屋根の雪おろしをしますと、ここにみんな雪が落ちますから、これをそりで運び出したりしている図ですね。幸い、今はこんなに大雪降りませんので、すぐ除雪車が出てワーッとやってしまいますが、除雪車が入るような大きな道路はきれいになりますけれども、少し小さな小路の中は、依然としてこういうふうに雪がたくさん積もったままになる、という状態です。そういうハンディキャップを負っているわけであります。
 これは大火です。昭和30年に大火がありまして、古町という繁華街全体が焼けてしまいました。明治41年の大火ですが、5000戸ぐらい焼ける大火が1年に2回も発生したりして、町の主要な部分、要するに家が混んでいるから延焼するわけですけれども、つまり新潟の財産はみんな焼けているわけです。
 新潟は、先ほどちょっと言い忘れましたけど、殿様がいないわけです。港はありましたけれども、お城はない。ここには長岡藩の代官がいて、港から上がる権益、いろんな利用税を、長岡藩が徴収するという状態でした。言うなれば、商人が力を持っていたんです。商人が力を持っていたわけですけれども、商人の財産は繰り返される大火で全部焼けてしまっている。新潟にはシンボルになるようなお城、シンボルになるような財産、そういうものが残念ながら残されておりません。
 しかも、港も、川の流れによってどんどん変わってしまいます。港を移さなきゃいけなくなる。そんなことで、歴史的な資産が乏しいということになるわけです。残念ながら、そういう町の歴史を背負っております。
 それから、地盤沈下もありました。これが信濃川の水面と土地です。土地が、1メートル以上低くなっています。地震もありました。新潟地震、昭和39年です。倉庫群がこれだけ倒れています。これは、昭和石油のタンクの炎上ですね。残念ながらそういう大事故、流砂現象が起こる。今もう皆さん常識みたいなになっていますけれども、地盤の流砂現象によって基礎がやられて倒れるわけです。昭和39年は新潟で国体があった年なんです。オリンピックもありまして、国体をいつもの年よりちょっと早くやったんです。天皇陛下もお見えになって、天皇陛下がお帰りになった後すぐ大地震があった。国体がいつものように秋であれば、こういう事件が起きて国体どころじゃなかったんですね。何が幸いするかわかりません。
 次に、新潟では大河津分水という信濃川の水を早く外に抜くための分水路工事をやっています。この蒲原の平野の水害をなくすためには、信濃川の洪水をなくさにゃいかぬということで、ここに大きな水路を作りました。東洋一の大事業です。明治42年に始めて大正11年までかかります。約100人の犠牲を払ってでき上がったものなんですが、その大河津分水がもしなかりせば、つまり、信濃川は新潟の方に流れてくる洗堰という堰でとめているわけですが、洗堰なかりせば、こういう大浸水が起こってしまうだろう。被害額は3、4兆円に及ぶ被害になりますよということを試算しているわけです。そういう低湿地帯にあります。
 これが大河津分水です。大河信濃川が流れてきたら、洪水の時には分水路から水を日本海に流し、一定量だけ新潟の方に流します。ですから、本当の信濃川はこの大河津というところまで行かないとわからないんですよ。新潟に流れてきているのは、新潟に来る洗堰で計画的に水を流している。これによって港の水流、流れが安定するわけです。いい港を維持するためには、ここでもって、ある程度水量を調節して、洪水の時には全部こっちの分水路側に流しましょう、ということで明治時代に計画したんです。弥彦山と角田山が並んでいるわけですが、その向こう側に水路を引いたんです。このおかげで蒲原平野に水害がなくなったんですね。信濃川の本川が破れるような大水害がなくなった。その後新潟の安定が進んで、現在の新潟の発展につながっているわけです。
 もう1つ、新潟は関屋分水路というのがあります。昭和44年頃作ったんです。大河津分水を上流に作りましたけれども、まだそれでは不十分だ。大河津分水より下流の方に、今回大洪水になりました五十嵐川とか刈谷田川という川が流れ込んでいますから、これらの川から新潟の町を守る意味で、関屋分水路を昭和44年に引いています。今回、7月の大雨で三条、中之島が、水害になりましたけど、仮に関屋分水路がなかったら、新潟もやられていただろうと思います。それを試算すると、被害額は約2兆円になるということです。この関屋分水路のおかげで新潟は水害を免れています。
 関屋分水路の高水敷は、今は緑になっていますが、私が新潟に帰った昭和60年頃は、全部コンクリートのたたきでありまして、一切植栽はしてはならぬ、ということでした。治水上、水を流下するためにはこういうものはない方がいいんです。こういう灌木林と言えども水に流されてしまうと、橋げたにつかまってしまって、流量が抑えられます。流量が抑えられるということは水位が上がるということで、水位が上がるということは堤防を弱めるわけですが、今はこの程度のものはいいだろうということで緑になって、遊歩道にしてもらって、住民は喜んでここに花壇を作ったりしているわけです。
 もう1つ、新潟は、海岸の後退があります。かつての海岸線に比べて、250メートルから300メートルぐらい後退しちゃっているんです。新潟は海岸決壊が大変激しいところです。大河津分水ができたおかげで、逆に言えば、信濃川からの土砂の供給が少なくなっている。全部、寺泊という大河津分水の方に出ていますから、向こうの方がどんどん土地が広がっているんです。こっちは後退をするということになる。港の防波堤がありますから、ここにぶつかった海流が沿岸流を起こしまして、どんどん削りとっていくという現象になっています。私の子供の頃はまだ砂丘の上にあった測候所が海の中に落っこちてしまったりしています。
 そういうことで、今、国も大変力を入れて、離岸堤を作って市街地を守っています。そういうところに少し砂がつき始めているという状況です。
 これは町の中の防火帯です。昭和20年代に建築防火帯、町の中に鉄筋コンクリートの建物を連続で建てて、延焼防止をするという、そんな補助事業がありましたけれども、その後、防災街区でブロック全体を不燃化しなきゃいけない、という思想に変わってきています。そんな事業も新潟では行われております。



4)現代の社会的要請について

 次に、現代の社会的要請として、どんなことを考えているかということですけれども、何と言っても、自然との共生ということが大きなテーマになっているかなと思います。どこの町でも、皆さんそうしたことについて苦心をしておられると思います。市街化をした中でも、市街地の中にそういう自然との共生の空間が欲しいんだ、町の中に緑をもっと欲しいんだという要請が非常にあるわけです。
 それから、水質の浄化。新潟は信濃川の最下流ですから、つまり、上流域の町々で使った水がまた川に流れてきて、再生利用しているわけです。反復利用ですね。最下流の新潟も信濃川の表流水を水道水源にとっているわけですから、その水道水源にダイオキシンなどその他汚れていれば大変です。新潟市民も本流の水質の維持については大変関心を持っているわけであります。また、巨大な施設で高次処理をして、水道水質を保全するのに努めています。
 ですから、まず隗より始めよ、ということで、新潟は下水道整備に大変力を入れております。下水道の整備は大事ですね。 まず浄化してきれいな水にして川に返すということをやってもらわなきゃいけない。降った雨もなるべく地下浸透させる。雨水浸透枡というのを各戸に置きまして、降った水が屋根から樋を伝って下水に流れ出しますが、その前にまず自分の敷地の中に雨水浸透枡に浸透させる。1基2万円ぐらいでできるんですけど、その2万円を市が出しまして、各家庭に作ってもらったわけです。浸透させて、浸透し切れない分を下水道に流すということによって、下水道とか河川の負担を軽減するということに大変力を入れてまいりました。そういったことが必要なんですね。
 それから、大気の汚染も、酸性雨、新潟の場合は酸性雪も降るんです。つまり、これは大陸で発生した硫黄酸化物、これが偏西風あるいは大陸からの風に乗って、日本海の水蒸気となって、酸性雪となって降ってきます。酸性雪が溶け出すと酸性の水が流れ続けるわけですから、森の中の小さな植物、動物も含めてやられてしまうんです。ですから、これは日本の町の中における自動車から発生する窒素酸化物とか硫黄酸化物などがありますけれども、もっと大きく国際的な視野で酸性雨対策をしていかなければならない。
 そういった意味で、酸性雨の対策の東アジアのセンターを新潟に置かせてもらっています。あるいは新潟市とハルピン市が友好都市になっているので、ハルピンの市民の皆さんに大気汚染についての関心を持ってもらおうと、テレメーターを送ったりしています。ハルピンの街角に行くと、現在の窒素含有量がどのくらいと出てくるわけです。大陸も含めて酸性雨対策に取り組まなきゃいけないという時代ですね。
 何と言っても、町の中に緑が豊かにある。歩いていると野鳥の声が聞こえるという野生との共存を求めるのが、今の時代の1つの社会的要請になっているんじゃないか。そのためにいろんな対策をしなきゃいけないなと感じております。
 もう1つは、何と言っても高齢化社会ということです。高齢化社会ということは、自由時間を多く持った人の数が増えているということです。若い世代、勤労時代も、土日が休日という5日制になりましたから、自由時間が随分増えました。高齢者は、60歳定年ですけれども、今70過ぎ80歳近くまで生きなきゃいけません。そういう人たちが大変自由時間を持っています。そういう人たちの行動の中で、ゆとりだとか潤い、安らぎの空間、潤いの空間、そういったものを身近な町の中に求めるということが多くなってきたんです。そういう健康空間、潤い空間を町の中にどう提供していくかというのが、今まちづくりで大きな課題になっているんじゃないかと思います。
 それは必ずしも体を動かすだけの健康空間ではなく、文化活動への参加のし易さ、文化的な空間を町の中にどうやって配置をしていくか、ということが現代の社会的要請じゃないかと思っています。
 さらに言えば、もう1つはマイカー時代であります。マイカーにとって使いやすい町でなくちゃいけないわけですけれども、同時に、マイカーによって侵入されることがふさわしくない地域というのがあります。そういったものをどうやって誘導していくかということがあります。
 この都市経営フォーラムの中でも随分問題になっていますけれども、地方都市における都心の衰退というのは、1つには、マイカーの接続性の悪さというものがあると思います。つまり、町の中に行っても駐車場がない。駐車場まで行くのに重たい荷物を持っていかなきゃならない。ところが、郊外のスーパーは、駐車場は無料で、ちゃんと暖冷房が効いた中にいろんな品揃えがされてあって、重たい荷物はすぐそこの駐車場に持って行って運びます。そういう便利さがある。利便性が高い。町の中は、歩いて運ばなきゃいけない、あるいは駐車場も有料である。私も経験しましたけれども、ある物を買いたいと思って町の中に行って、有料の駐車場に車をとめてお店に行って探したら、お店にない。残念ながらそういう品物は扱っていません。そして、駐車場に来て出ようと思ったら、ちゃんとお金とられますから、要するに、空振りですね。探したけど、ない、駐車場料金はとられる。そういう不便さが都心の商店街に発生しているんです。
 私は、既存の商店街を励ますために、「郊外のスーパーはあなた方の町を目指してやっているんですよ。品揃えを多くする。単一の品物だけじゃなくて、映画館なんか文化的な空間を作ったりして、やろうやろうとしている。しかし、既存の中心商店街にはかないませんよ。既存の商店街はいろんなお店がありますからね。仏壇屋もありますし、本屋もそうですが、ほかにも中古品を売るお店があったり、いろんな店の品揃えという意味では既存の商店街がはるかに優れている。しかしながら、アクセスが悪い。車だけじゃありません。歩くところも少なくなっているんじゃないか。文化的なイベントとか文化性みたいなものをもっと強調してもいいんじゃないかですか」ということを言っております。
 商店街のおやじさんたちは、みんな郊外に家をつくりまして、8時にはもう店を閉めています。どうせ家でテレビを見るならお店で見てくださいよ、というようなことを言っています。商店街は、遅くまで皆さんの利便性を確保するようなことを考えてもらいたい。
 ヨーロッパでも同じことが起こっているんですけれども、ヨーロッパは逆に言えば、ノーカーデー。ウィークデーの日を決めてノーカーデーにして、歩く人だけですよということをやりながらチャレンジしていますね。そういう工夫をいろいろしなきゃいけませんよ、ということを言っているわけです。
 勝手なこと申し上げましたが、そんな現代の社会的要請を3つぐらい挙げてみましたけれども、もっとほかにもいろんな課題があるわけです。



5)新潟の課題

 

 では、今度は、新潟にとってどういう課題があると考えているかということになります。新潟の課題の1つとして、誇りの持てる風格のあるまちづくりということに新潟の市民はあこがれているんです。新潟市は、日本海側で一番大きな人口を抱えています。市民の皆さんは、地理、人口規模が同じぐらいだということで、よく仙台、金沢と比較をするんです。仙台は今、合併して100万都市になってしまいましたけど、仙台に負けるなとか、金沢は46万人ですか、新潟は53万人で、金沢の持っている文化的な香り、そういったものに負けるなという意識を新潟の市民はたくさん持っています。
 考えてみますと、歴史的に、仙台は300年間、伊達60万石の都であり続けたわけです。金沢も加賀100万石の都であり続けた。ですから、殿様がつくった町、殿様が力を入れた文化というものが育っているんです。それに比べて新潟は、長岡藩の出先の代官がいたところ、町衆の町です。求心性が少ない。そういう、文化的な広がりが少ない、ということをみんなは感じているわけです。ですから、庶民の作った町ですけれども、仙台、金沢に負けないまちづくり、風格のあるまちづくりということに皆さん大変強い関心を持っているわけです。お城がないかわりに、何か象徴するものが欲しい。
 しかも、ご承知のように、今、新潟は周辺の市町村と、先ほど申し上げた蒲原の平野、13市町村ありますが、蒲原の平野全部一緒になって、合併をしていい町を作ろうとしています。そうすると81万人になるんです。政令都市に近くなる。それでも、まだ仙台の面積より小さいんです。面積的に見れば、今、金沢市の半分ぐらいしかないんです。ですから、81万人の町で政令都市を目指そう、みんな集まっていい町を作ろうということで合併の話が進んでいまして、来年の3月に合併をいたします。合併をいたしますと、もう2年ぐらいかかって政令都市の実現というところまで来ていますね。
 政令都市になるということは、日本を代表する都市ということですから、日本を代表する都市にふさわしい風格のある町を作らなきゃいけないというのが私が助役になっていた時代からの命題であったわけです。そんなことが、まちづくりの前提としてあるわけです。
 もう1つ、昔から新潟は低湿の地帯ですから、杉は育たないんです。杉というのは深く根が生えますから、杉の木は平野部に育たないんです。そういう杉の木が育たないのに掛けまして、新潟には「男の子と杉の子は育たない」ということわざがある。そういう、言いならわしがありまして、何で男の子が育たないと言っているんだろうな、と私は悔しくていろいろ調べました。この言葉は、結局、越後の女はよく働く、農作業を含めて女の人は本当によく働くんですよ。ですから、女の人のほめ言葉に違いない。
 新潟にも偉い男の人は出ているよと、いろいろ調べたんです。ちょっと余談になりますが、私どもの子供の頃は、男の子があこがれる3つの職業、仕事、男の意気地を見せる3つというのがあった。大相撲の横綱になる。海軍元帥になる。内閣総理大臣になる。私の子供の頃、戦争中ですから、そういうことになります。新潟は羽黒山の出身地です。双葉山と並び称された羽黒山が新潟の出身です。海軍元帥では、有名な山本五十六さんがいらっしゃいます。内閣総理大臣は、田中角栄がいるわけです。
 3冠王じゃないかと。3冠王をとった県はどこにあるかと調べたら、岩手県と広島県しかないんです。つまり、3冠王そろっている県は新潟を含めて3つしかない。結局、横綱は北の方から出ますね。北海道とか東北から出ます。西にはいないんですね。広島は安芸の海がいた。海軍元帥というのは明治政府以降薩長閥ですから、薩長の出身が海軍に多いんです。内閣総理大臣もそうですね。薩長政府ができたんですから。東北にはいないんです。原敬の次が田中角栄ですから。今は中曽根さんとか、いろいろいらっしゃいますけど。そういう意味で、トリプルクラウンは新潟が誇っていいんだろうと思う。
 東京大学の総長さんもいらっしゃるんですね。小野塚総長。京都大学の総長さんもいらっしゃる。平沢興先生。経団連の財界総理もいるんですよ。斉藤英四郎さん。何だ、5冠王じゃないか。こんな県はほかにない。男の子と杉の子は育たないというのは変だな。もっと自信持っていきましょうよ、ということを言っているわけです。それにふさわしい文化振興がないから、もう少し文化振興して、すばらしい文化じゃないかというふうにしなければいけない。文化振興する、というのが新潟にとっての大きな課題なんです。



6)実践例の紹介

 

@都心における市民の誇りとなる象徴的空間の創出

 実践例の紹介をさせていただきます。
 現代の社会的な要請あるいは新潟における課題、そんなことから、まず「都心における市民の誇りとなる象徴的空間整備」ということです。専門家の皆さんですから、詳しい説明もお聞き取りいただけるんじゃないかと思います。
 これは信濃川です。ここに昭和橋という、例の新潟地震の時に落橋して有名になった橋があります。これがメインストリートになります。これは、白山公園という明治6年に指定された、都市公園としては日本で第1号の公園です。当時、新潟県は、人口250万で、東京に続いて日本で一番人口の多い県でした。ですから、官選の知事さんですけれども、有力な知事さんがお見えになったんですね。ここに白山公園というのが太政官布告第1号で作りました。オランダ式回遊庭園と言われています。明治天皇においでいただいたりしています。
 ここは、古町通りという新潟のメインの商店街です。これが白山神社です。新潟の中心的な氏神様です。その前面を公園にした。こういう位置にあります。神社の近くに、新潟市役所があります。かつて、ここに県庁舎があったんですが、県庁舎を移転いたしまして、その後に新潟市役所が建てられたということです。県庁舎時代から分庁舎だったんですが、それも全部新潟市役所が使っているというものでございます。
 ここが、つまり新潟の中心です。昔からの文化的な中心。県庁舎があったんですから、中心だったわけですが、その周辺を何とか文化的な中心センターにしたい、シンボルゾーンとしてやりたいということで、提案をしてきました。この白山公園自体は1.8ヘクタールぐらいだったんですが、これを7ヘクタールぐらいに広げて一体性のある公園にして、セントラルパークにしようということで取り組んだものであります。
 整備前の航空写真を見ますと、ここにはいろんな施設がありますが、唯一の集会する施設だったのが市の公会堂です。昭和の初めに建てた建物で、唯一の集会施設だったんですが、これを除却することになりました。また、フラットなテニスコートが12面あったんですが、ここでは、全国的な大会は開けず、市民が来て三々五々やるテニスコートでした。都心で来やすいですから、反対もあったんですけれども、私はこれを思い切って移転をさせました。
ここにもう1つ、市立のグラウンドのない夜間の高等学校がありましたが、地震前のもので大変傷んでいたので、これも除却しました。これは、地震後に建てられた県民会館というパフォーマンスをやるところです。これは県の施設ですから、市が壊すわけにいきませんから残っています。その前にちょっと円形になっている噴水のある公園があったんですが、これは全部別な形に作り変えました。
 ちょっとわかりにくいんですが、小さな建物は、県立の図書館だったんですが、図書館が別に新しく作られたこともありまして、埋蔵文化財などをちょっと置いておくようなセンターなっていましたが、これも県の協力をもらって壊しました。公園に続く曲がりくねった道路は、これを真っ直ぐ道路を引くように道路の計画を変えました。アクセスしやすいように変えた。もう1つの白山公園にアクセスする道路は、これまで歩く人を全部信号で処理していましたが、半地下にして埋覆化し、この上に丘を作って、白山公園とこちら側を全部一体化をいたしました。この信濃川にある堤防は、後ほど図面を出しますが、緩傾斜堤防です。都心にある緑地。この緑地と白山公園を全部バリアフリーの緑地で結んだ。そういうプロジェクトを仕上げていったんです。
 将来的には、これは体育館なんですが、この辺も全部含めて整備をしていくことになります。これは総合グラウンド、陸上競技場です。都心にある総合グラウンドは大変有効だと思います。災害時にはヘリコプターなど降りれますから。そういう意味で残しておかなきゃいけないと思っています。サブグラウンドとか、体育館ですが、これも地震でやられています。一気にはなかなかやれませんが、とりあえずはこちらの部分を全部改修をしたわけであります。
 これがセントラルパーク構想です。角にガソリンスタンドなんかあったんですが、これも壊しました。ここに明治時代からの県会議事堂があるんですが、これが大変立派な建築物で重要文化財。周りにあった民家も全部撤去しまして、この修景を回復する。もう1つ、交差点は歩道橋になっていたんですが、だれも通らないような歩道橋だったんです。これを全部県の事業で、エレベーターつきのバリアフリーのすばらしい施設に直していただきました。
 そんなことをこれから詳しく説明をしてまいりたいと思います。
 市民芸術文化会館とその周辺の設計は、ご承知のように長谷川逸子さんの設計です。公開プロポーザルコンペでもって当選した案であります。これは音楽文化会館。最高裁判所をやられた岡田新一さんの設計で残っています。この公会堂の方は壊しました。音楽文化会館だけを残して、高等学校も、テニスコートも、あとは全部作り変えたわけです。
 浮島のように見えているのが、新潟市民芸術文化会館という本体であります。屋上緑化をして、周りが散策できるようになっています。丸くなって見えているところは、2階のレベルになっていまして、下は駐車場であります。つまり、人は白山公園からずっと歩いてきて、緑の上を全部歩けるようになっている。ここに道路が見えていますが、平面を走っていた道路は、埋覆化してここからトンネルに入る。その上を全部緑化して、桜の丘に作り変えたというものであります。
 これは水辺になっているわけです。水辺の広場と言いましょうか、水のテラスと言ってもいいと思いますけど、真ん中にステージがありまして、音楽をすることができます。下は駐車場です。こちらの方のテラスも、下は駐車場です。信濃川の堤防へは、階段テラスになっていて、ここにアクセスできるようになっています。言うなれば、川でいろんなイベントがある時の観覧席になるんですね。そういう形を作りました。
 これは全部緑の広場になっています。スパゲッティのように見えていますが、これが2階のレベルでの歩廊です。歩廊を伝ってどこにでも行けるようになっています。歩廊の両脇に植えられているのはケヤキが主体で、歩廊を歩く人にとってはケヤキのこずえの先端が目の中に入ってくる、という設計になっているわけです。
 このグラウンドの状態は今も同じでありますが、かつてあった噴水の部分は作り変わっています。全部桜の丘になっています。丸く見えていますけど、地下に駐車場があって、駐車場の換気上の都合もありますから、こういう形で出ています。これが市役所です。これが白山公園ということになります。古町通りからずっと歩いてくると、階段と斜路で上っていくことができるようになっておりまして、全体がバリアフリーになりましたから、幼稚園の遠足なんかも、ここに来まして、子供たちはずっと遊んで時間を過ごせる、という形になっているわけであります。
 ここに木造の建物を1つ移設しております。都心にあったかつての豪商の邸宅です。それをここに持ってきておりまして、昔の白山公園の中の池を借景として楽しめる、お茶会とか着物のショーとか、いろんなことが行われています。名建築です。明治の末期の建物なんですが、ぜいを尽くした木造建築でありますので、こういった木造建築は、特に外国から来たお客さんなんかに紹介するのにちょうどいい。無料で入れるようになっていますので、一般の市民もここに来てお茶を飲んで帰るという場所に使っております。こういった市民の持っていた財産をできるだけ集約して、新潟の文化の理解に努めるということが大事だなと思っております。これは白山神社です。
 先ほど紹介したかつての県政の議事堂ですね。こういうすばらしい建物があるんです。重要文化財です。芸術文化会館の高いところから、新潟にこんなにいい建物があったのかということがよく見えるようになりました。
これは、桜の時期の芸術文化会館の遠景です。下は道路ですが、あの広場の中にもこういった水辺を持ったような屋上庭園、小高い丘の上に水面の憩いの場を作っています。
 これが先ほど言いました豪商の館を持ってきたものですね。
 ここに水面が見えていますが、白山公園が向こうに見えて、この下を道路が走っているわけですが、道路の上の空間をカスケード、水の流れができていますが、水の流れと池があり、人が大勢通るようになっています。
 これが白山公園の春の景色です。梅林があったり、ハス池があります。昔から新潟の中心の公園として楽しまれています。これは信濃川から市民芸術文化会館を見たところでありまして、こいのぼりの季節ですから、何かイベントが行われているんでしょう。これだけ大勢の人が集うことができる。ここはボートの練習をしている。カッターの練習をしているという風景があって、これも水の都新潟の風景かな、こういったものを新しく演出できたのかなと思っています。
 白山公園の秋の景色です。古くからありますから、紅葉も美しくなっています。これが先ほど言った豪商の館を移した燕喜館というものです。清水焼きのこんな大きな灯籠があったりして、新潟の豪商というのはすごいなと。こんなもの陸で運べませんから、海で運んできたんですね。清水六兵衛の焼き物の灯籠があります。よく運んできたなと思います。
 冬はこんな景色です。これは現在の景色ですね。白山公園の雪景色。金沢の兼六園の雪景色が有名ですけれども、新潟の白山公園もこんな美しい雪景色があります。これが今申し上げた灯籠ですね。これは凍結しないように全部雪囲いをしますから、冬はあんまり見えませんけれども、これは設置したばかりの時だったと思います。
 これは、かつて市内を郊外電車が走っておりました。今は残念ながら廃止になりました。市役所の真ん前が三角になっていますが、昔の電車のこれが終点だったんです。こういうふうに郊外電車が町の中に入ってきますと、狭い道路の中にレールがありまして、レールでスリップして交通事故が多いんですね。スクーターなんか転んじゃう。そういうことで、騒音もしますから、周辺の住民から撤去の運動があり、おまけに大変赤字でございましたので、残念ながら撤去することになりました。ご覧のように、交差点が大変複雑な三角形になっていて、車の交通事故も多いということで、郊外電車を撤去いたしまして、今は単純な交差点に直しました。
 旧駅舎は、ちょっとクラシックな感じで残してほしいなという気になるテラコッタ張りなんです。壊して見ましたら、全部木筋でございまして、中は随分腐っておりまして、壊さなかったら危なかったなというようなものでございました。郷愁は感じるんですけれども、残念ながらこれは撤去いたしました。
 これが昭和の初めに建った公会堂。唯一の集会施設でありました。新潟の石油王と言われた新津恒吉さんが寄附をしてできた建物でございました。こういったものを撤去するとなりますと、もちろん市の都合でやるわけですけれども、長い間新潟に貢献をしてくれた建物ですし、当然寄附していただいたご子孫がご存命でいらっしゃいますから、そういう方のところにごあいさつに行って、「残念ながら、かくかくしかしかで壊さざるを得ないんだ」ということで、ご了解を得る。そういう仕事も市長の仕事になるんですね。残念ながら新潟地震で随分傷みまして、2階席が落っこちそうになっているんですね。ピアノ線でつるして使用しなきゃいけない。2階席に行く方はあんまり前列に出ないでくださいということも張り紙をしながら、だましだまし使っていた建物でした。新潟地震で被害に遭いまして、ここにあった時計が新潟地震の時間をそのままにしているような建物でしたが、残念ながら壊してしまいました。
 これが今の高等学校です。夜間の高等学校があったんですけれども、移転をいたしまして、明鏡高校という高校を新しく作りました。こういった立派な高校で、ちゃんとグラウンドつきのものに変わりました。夜学の学校ですから、都心にあれば便利なんですけども、今度は新潟駅から歩いて行ける近く、別の意味の都心に移転をする、立派な学校にするから、ということで、高教組の先生方の同意を得て、これを移しました。そういう前段の作業というのが市長初め市部局の大きな仕事になるんですね。教育委員会を含めて一緒に、今あるものを壊して、こういうふうに新しく作り変えるから同意して、応援してくれということをやるわけですね。
 先ほど12面のテニスコートを壊したと言いましたけれども、それも全国大会が開催できるような観覧席つきの立派なものにしようということで移したわけです。そういう形でテニス愛好者の皆さんの同意をいただいた。今は自家用車で行けますし、鉄道の駅からも歩いて行ける。ちょっと郊外になりますけれども、代替施設を作って、都心にあった12面のテニスコートを移しました。今度は16面でありまして、全国大会を幾つか呼んできたということです。軟式も硬式もやっています。より良くなるんだ、ということを関係者の皆さんに思っていただく。それによって1つのモニュメンタルなシンボル空間の形成に同意をしていただくという努力が、自治体の担当者には必要なんだなということを痛切に感じております。
 最後まで反対する人はいますよ。歩いて行けるところにテニスコートがあったのに、これじゃ、車に乗って行かなきゃならない。おれは車がない、どうしてくれるんだということを仲間と一緒に言う人もいるわけですけれども、その気になれば電車で行けますからということで合意をしていただくわけです。距離が離れて多少不便にはなりますけれども、その程度のことは我慢してくださいということでお願いする。
 これが県立の図書館です。小さいものです。たまたま新しい図書館が立派にできたというのがありまして、旧図書館を市の方に譲っていただいて、道路の線形を直したということです。
 そういったいろんなことが、このプロジェクトを進める上で幸いしたかなと思っています。
 これが信濃川の堤防ですね。緩傾斜堤防と言っています。5分の1勾配です。こういったところが高水敷になっていて、要するに洪水になった時に水が流れます。緩傾斜堤防ということでこの斜面は人が歩けるんです。急傾斜ですと、転んだりして危険ですけれども、この程度の緩傾斜ですと、おばあさんでも歩いて上れるような緩やかな堤防です。信濃川の都心の堤防をそのような緩傾斜に作り変えてもらっています。日本で最初です。国で、大河川、1級河川ですから、直轄でやっています。
 もう1つは、ここに「粗朶沈床」と書いてありますが、オランダの工法で、里山からとれる細い木をいかだのように組み合わせて堤防の一番下に入れてあるんですね。この粗朶が埋めてあることによって水の流れ、水勢をここで制御するということができます。それから、その中に細かい枝がいっぱい入っているわけですから、この中で魚が卵を産むことができる。ここに小魚が育つわけです。小魚が育つということは大きな魚が育つということです。そういう意味で、信濃川では環境的に考えた工法をとってもらっているわけです。これは非常に効果を発揮していると思います。
 ご承知のように、堤防の上には木は植えられないんですね。堤防の上に木を植えますと、木の根っこが入ってきますから、そこで堤防を緩める。普段はいいんですが、水面がここまで来て水圧が上がりますと、木の根っこのところに水が入って、堤防は崩れる。だから、堤防には木を植えさせません。そこで堤防の上に更に土盛りをするわけです。これを新潟市が公園事業として行う。盛り土をしてそこに木を植える。木の根っこが堤防まで至らない、そういう十分な高さまで盛り土をして木を植える。それが、こういった景色になっているわけですね。
 ここに歩道を設ける。ここにサイクリングロードを作っていますが、県の事業でサイクリングロードを作る。つまり、国、県、市と、3者が共同で、こういった事業を新潟の都心で作り出しています。そういういろんな管理をする団体、管理責任者が、一緒になって、いい町を作ろうよ、という気持ちになった時には物すごい力を発揮します。
 ここは桜とか柳がずっと植わっているわけです。先ほどのこいのぼりの写真があったように、朝昼晩と人がたくさん歩くようになりましたね、全部バリアフリーですから。お弁当を持ってきても大丈夫です。ところどころで、河川敷にこういう粋な計らいをして、親水空間を作るということを、国の方でもやってくれるようになったんですね。今まではとにかく安全に水を流すばかりで、こんな遊びのような空間は作れなかったんですけれども、最近の治水事業は、こういう遊びの空間も親水空間としてとってもらえるようになっています。
 そうしたちょうどいいタイミングに、新潟の信濃川の堤防工事ができたんだなと思っています。新潟はチューリップの全国一の産地ですから、チューリップの季節には全部ここがチューリップ畑になります。
 これが新潟を代表する萬代橋です。重要文化財です。橋で重要文化財になっているのは、日本橋に次いでこの萬代橋だけです。遠くに見えているのが、槇文彦さんの最近やられた国際会議場です。通路が落っこったりして問題になりましたけど、大変立派な施設でございます。
 これが先ほどのお話をした道路をトンネルにした例です。車路だけトンネルにいたしまして、この上を公園にしています。斜めの道で上に上がれるようになっています。向こうに見えているのは市役所です。これが芸術文化会館。全部、緑の中を歩くようになっています。こちら側が白山公園です。白山公園を上っていくところは全部桜でございます。桜の丘になります。
 これは私の自慢の1つなんです。階段のテラスと先ほど申し上げましたけれども、国の直轄する堤防に穴をあけてテラスをかけさせてもらった。つまり、市民芸術文化会館から出てきた人がそのまま車に会うことなく、信濃川の堤防に出ることができるための階段テラスができている。この階段テラスに腰をかけて、この信濃川を行く船の景色を見られる。あるいは河を利用してここでいろんなイベントをやる。新潟市はちょうど21世紀の冒頭、2001年1月1日に隣町と合併して、合併のイベントを、真冬でしたけれどもやりました。市民が何万と集まれる。信濃川の大花火大会なんかもここでやったりするわけです。市民がなるべく近づくような場所になってきている。つまり、市民芸術文化会館のアフターシアターと言うんでしょうか。いろんなものを見た後、こういった夜の空間の中をゆったり歩いて、散策して余韻を楽しむことができるようになっているわけです。
 これは市民芸術文化会館の全景です。これがメインの芸術文化会館でありまして、これは階段のテラスです。これは水のテラスです。緑の広場になって見えているところは、全部下で道路とか駐車場などの交通の処理をしているわけです。夜景も、水の池に映って大変きれいな場所になっています。
 芸術文化会館の中でありますが、これがコンサートホール。サントリーホールと同じです。周りが全部客席になっています。ここにパイプオルガンが入っています。新潟市民にとっては、東京まで行かなきゃいけなかったシンフォニーなんかをここで聞くことができる。東京交響楽団と契約を結びまして、サントリーホールでやった定期演奏会を翌日新潟でやる。同じ曲目で新潟でやるようになりました。大変よかったです。これが能楽堂であります。総ヒノキの香りのする能楽堂です。これが劇場です。歌舞伎とかオペラ、演劇、そういったものをやれる劇場、この3つをそろえてあるんです。レストランで川面を見ながら食事をする。あるいはそれぞれのホールの近くにホワイエをとっています。ヨーロッパに見るような、シアターの中のホワイエということです。幕間にちょっとワインを飲むとか、コーヒーを飲むとか、そういう時間がとれるような設計になっています。
 長谷川逸子さんは、これで芸術院賞をもらわれましたね。新潟の市民芸術文化会館及びその周辺設計ということです。建築物で芸術院賞は数少ないと思います。幸いでした。そのほか、全建賞とか公共建築賞、中には関係される方がいらっしゃると思いますが、皆さんからご評価をいただいて、そういう賞をいただいております。
 今日は建築関係の方が多いと思いますので、これだけの市民芸術文化会館を中心としたセントラルパークを整備するのに、費用はどうだったとか、どんな準備をしたということを少しお話ししたいと思います。
 これが完成したのが平成10年。平成10年に完成をしたんですけれども、その前の昭和59年から実は始まっておりました。昭和59年に新潟市の総合計画を作る段階で、何とか市民が誇れるような文化会館を作ろうという構想が出てくるんです。それは私が着任する前のことです。私が着任してからセントラルパークという形にして、そういった空間を作るということで、昭和63年に基本構想を発表しました。その当時は、まだ市民文化会館という名前でした。同時に、63年から基金の積み立てをするんです。大事業になるから、基金を積み立てましょう。積み立てを開始して、着工までに111億円基金を既に積み立てております。
 私は、平成2年に市長に当選しているんですけど、平成3年には市議会でこの問題を討議する特別委員会を作った。同時に、市民の中にこの問題を討議する懇談会、市民委員会を発足させ、議会における世論形成、市民の中の世論形成を、平成3年からやっております。
 そして、平成4年に公開プロポーザルコンペをやるんです。海外を含めて315案出てまいりました。大変なものでございました。審査委員長がだれになるかが随分大きな影響を与えるわけですが、審査委員長は黒川紀章さんにお願いしました。大学の仲間でもあります。審査委員には伊東豊雄さんとか内井昭蔵さん、今京都大学で当時新潟大学の教授でいらした樋口忠彦さん、景観関係です。それから、京都大学の教授だった上田篤さん。そんな建築家の方々と、その中で少し変わった方で、団伊玖磨先生に音楽関係の審査をしていただくということで入っていただきました。
 その団先生が、長谷川さんの案が決まった後で、審査評に、「建築家の皆さんが外観だとか、動線計画だとか、いろんな外形的な設計について審査をされるかもしれない。しかし、私は利用する側の、いうならば内臓の審査だ。内臓を審査する立場から見た私が一番いいと思った案が、外形を審査する建築家の皆さんが選んだ案と同じだった。大変これはうれしいことだった」と、書いていただいています。残念ながら亡くなられましたけど団先生は、この審査委員会が終わった後もこの芸術文化会館の音楽顧問として残っていただきまして、いろんなことをやっていただきました。文化会館の開館に当たっての新しい堂に献ずる献堂曲を作ったりしていただいて、団先生からは大変ご指導いただきました。
 特に、日本のこういった音楽ホールの通弊で、悪いところとして、指揮者の部屋がないと言うんです。指揮者というのは、実際に舞台に出てくる前にはセンシティブになるんですね。曲全体の流れを自分の中で考証しながら出てくるわけですから、指揮者は閉ざされた空間の中で静かな時間を過ごしたいと思う。そういう空間が欲しいとか、それから舞台に出るのに動線を短くしているとか、いろんなことがあります。
 それから、音響については長谷川逸子さんには大変工夫をしていただきまして、サントリーホールよりこちらの方がいいよなんて言われて喜んでいますけど、そういうことで大変いいことができたなと思っています。
 平成4年に公開プロポーザルコンペをやりまして、3次審査までやって、その後さらに面接をやりまして、全員の一致で長谷川逸子さんの案が当選したという状態です。
 公開コンペですから、1位の人にはもちろん賞を上げますけれども、次点の方2人にも500万円ずつお支払いし、入選案にも100万円ずつお支払いする、そんな予算も全部議会同意で組みました。
 実は、馬場璋造さんにコーディネーターをやっていただきました。こういう公開コンペでは馬場璋造さんは、大変経験豊かでいらっしゃいますから、馬場さんに、こういうふうにしていったらどうだろうとご指導をいただきながら進めたんですね。
 平成5年からは基本設計、そして平成6年から実施設計と、時間を十分とりまして、平成7年から平成10年までの3カ年かけて大工事をやったわけでございます。
 予算は、市民芸術文化会館だけで180億円かかりました。コンサートホール、劇場等全部入っています。周辺の整備に86億円ぐらいかかっています。トータルで市が用意したお金は304億円でございましたけれども、そういった大きなお金を長年かかってためてきて投資をした。
 最後に、駐車場を作りましたが、全部有料の駐車場です。都心ですから、無料にしますと不法駐車でいっぱいになっちゃうわけです。周辺がオフィス街ですから。オフィスに来た人がみんなとめてしまいます。ですから、有料の駐車場にしています。この有料駐車場の収入が、思いがけず毎年何億円と入りまして、つまり、芸術文化会館が活用されればされるほど、そういった副収入も出てくるということです。ですから、全体の維持管理が、予想以上に安くできているという副次的な効果も生んでいる。そういう意味でもよかったなと思っています。
 何よりも、私は見ておりまして、歩いていて気持ちがよく、なんとなくステータスを感じるような風景になっているものですから、中年のご夫婦が少し着飾って散策するようになりましたね。夫婦愛に貢献しているんじゃないかなと私思っているんです。新潟は地方都市ですから、夫婦でそろって出ていくなんていうのは、ホテルに食事に行くぐらいしかなかったんですけど、こういった文化的な行事に夫婦連れで来る、という機会は非常にふえているんじゃないかなと思って喜んでいます。


A「湊まち新潟」の史跡と歴史の空間整備について


 次のプロジェクトにいきたいと思います。
 新潟は、先ほど来申し上げているように、信濃川、阿賀野川の河口にあります。
 1000年以上前から港町でありますから、「湊まち新潟」ということを標榜しています。その史跡を利用した空間の整備についてお話ししたいと思います。
 ここに旧税関庁舎というのがあります。これは明治2年に建てられた5港開港の当時の税関ですね。かつてはここまで信濃川の水面があったんです。それがずっと埋め立てられてきて、この税関庁舎と石倉が残りました。これが国の重要文化財です。これを保存しなきゃいけない。これは郷土の資料館という形で使っていたんですけど、それを本当に税関庁舎として見れるようにしよう。それからもう1つは、この税関庁舎から信濃川までの一帯の土地を全部買収いたしまして、郷土の歴史博物館を作るという事業をやったわけです。「湊まち新潟」の歴史が市民に理解できるように。今までこういう場所がなかったんです。つまり、郷土の歴史を知ることが郷土を愛することにつながるというテーマで、こういう施設の整備を進めたんです。
 郷土歴史博物館には、先ほど来お話し申し上げた縄文前期の土器がありましたけど、あれなんかもこの中に飾ってあるわけです。水との闘いの歴史とか、そういったものがわかりやすい展示になっています。新潟大学の先生方に全部、基本構想から展示までご指導いただいてやりました。
 歴史的建造物、第四銀行の住吉町支店というのが町の真ん中にあって、昭和2年の建築物ですが、様式的にも時代を反映しているので、れを全部解体してここに移転しました。鉄筋コンクリート造の外壁、内装、それを1枚1枚丁寧にはがしまして、建設当初の様式に沿って復元しております。大変お金がかかりましたけれども、これ全体で新潟のシンボル。この部分が港になっていまして、ちょうどこの向かい側に佐渡汽船の船着き場があって、船が回頭して出ていくんです。回転して出ていきますから、この広場に立つと新潟の港町の風景が見える。この中に入れば、港町の水との闘いの歴史がわかる。ここへ来れば、かつての税関、明治の初めの重要文化財が見えるという空間の整備をしたわけです。このすぐ斜め前に槇先生の国際会議場の建物がありますが、その対岸になります。
 これもよく見ていただきたいんですけれども、これが今申し上げた旧税関です。かつて信濃川は、ここまで川が流れていたので、船はここに着いて、すぐ税関で通関をして、石倉でもって荷物をストックしました。今でいう保税倉庫です。その後、川幅が狭くなって、埋め立てられてきて、全部民間に払い下げてしまっていたんですね。ここが今駐車場になっていますが、これも民間に払い下げていたのを、将来の確保のためにあらかじめ買っていた。それを全部買収して、こういう形で整備をした。かつてのこれだけの面積ですと、8900平方メートルぐらいしかないんですが、今全体で2万2000平方メートルまで広げたんです。
 この中に、アパートがあり、大勢の人が住んでいたわけです。タクシー会社もあった。でも、こういう大プロジェクトなので、ぜひ協力してもらいたいとご協力いただいて除却をして、川に面する税関という形につくり変えていったわけです。
 残念ながらまだ新しい航空写真がありませんので、設計の段階のパースです。川から税関がずっと望める。ここに明治44年の新潟市役所、2代目の市役所の様式を復元するということで、でき上がった歴史博物館の姿です。こういう形に復元して、歴史博物館にしているわけです。そっくりの復元ではなく、様式的に復元をしたので、余り歴史的な価値はないかもしれません。しかし、この中の雰囲気には合うだろうということでお願いしたわけです。
 これが移転をしてきた旧銀行の建物です。大変お金がかかりました。全部もとの材料を使ってやりました。というのは、内装の大理石の中にいろんな化石が入っていて、貴重な大理石が使われていたものですから、そういったものを捨てるのはもったいないので、全部復元して、そっくり使ったということです。
 これが重要文化財の明治2年のかつての税関です。昔の人は本当にすばらしいものを作ったものだなと思います。昭和46年に全部解体修理しています。ですから、現在こうやって立派な形で残っているわけです。
 これが2代目庁舎のありし日の姿です。こういう様式を復元したんですね。


Bラムサール条約登録湿地の確保とまちづくり


 自然との共生というテーマを先ほど申し上げましたが、ラムサール条約というのをご存じの方も多いと思います。湿地と野鳥、渡り鳥の条約です。渡り鳥というのは地球上、いろんな国を渡ってくるわけです。新潟も白鳥が渡ってきていますが、これはシベリアのずっと北のポリマ川という約4000キロのところから飛んでくるわけです。新潟市の一番西の外れ、ここに佐潟という湖がありまして、ここに白鳥が来ていますので、ラムサール条約登録湿地となっています。
 国定公園なんですけれども、国定公園では開発行為の許認可事務というのはあんまり厳しくないんですね。それで、都市計画公園の決定をいたしまして、約76ヘクタールなんですけれども、周辺の用地買収をいたしまして、この湖は保全しましょうということにしました。この湖は砂丘湖です。川が流れ込んでいないんです。つまり、周辺に降った雨が自然にわき出している、わき水でできている湖なんですね。出ては行きますけど、流れ込んでいる川はないという砂丘湖ですから、砂丘湖の自然を確保しながら、白鳥のねぐらとして確保しようということなんです。
 つまり、都市計画公園にして用地買収して、白鳥の環境の保全ができているよ、ということで、ラムサール条約に認められて、登録しているわけです。白鳥はシベリアからどんどん飛んできます。新潟は10番目に1996年に指定されました。釧路の湿地が指定されたのが最初です。北海道が多いわけです。大都市の中では新潟が初めてです。あとは、藤前の干潟なんかも大都市ですね。名古屋ですから。こういった大都市でラムサール条約の湿地があり得るんだということで先鞭を切ってやりました。それで会長県になったりしています。
 これが現在の姿です。角田山と弥彦山というのがあるんですが、それを遠景に見ながら眼前の湖に白鳥が来る。夏はハス池になります。冬はハスが枯れて、白鳥がいっぱい来る。白鳥というのは家族連れで飛ぶんですね。だから、物すごく感動的なんですね。家族連れで飛んできて、家族連れで帰ってくる。大型の鳥ですから、ガオーガオーって言うんですけど、すぐ頭の上で飛んでいきます。翼の音が聞こえるぐらい身近を飛んでいくので、感動的なシーンが見られます。
 江戸時代から殿様が保護していたんです。カモもいっぱいいて、カモは撃ってもいいけど、白鳥は撃っちゃいけないよ、万が一間違って白鳥を撃ったら、殿様に差し出しなさいということになっていたようです。その伝統を引き継いで白鳥はここにいます。この白鳥は夜はねぐらで泊まりますけど、朝になって明るくなると出ていくんですね。夜暗くなって帰ってくる。どこに行くかというと、蒲原の平野に出ていって、蒲原の平野の中でこしひかりの落ち穂を食べるわけですね。ですから、新潟の白鳥は栄養豊富。(笑)そういう環境をこれからもぜひ持ち続けていこう、蒲原平野全体が今度、大新潟市、政令都市の分野に入っていますから、政令都市の大きな課題として白鳥のえさ場、そういう周辺の土地利用の形態からもちゃんと保存をしていかなきゃいけない。
 大都市居住と自然、野生との共存がこれからはテーマになっていくと思っておりますが、新潟は田園型政令指定都市を目指すというのがテーマになっています。


C自然の湖の保全、農業との土地利用の調整、大規模スポーツゾーンの整備
 「鳥屋野潟周辺整備の事例」

 鳥屋野潟という約90ヘクタールぐらいの湖がありますが、その南側は、農地でした。ここについて、農地の状態の時から、新潟県と新潟市と土地改良区と共同で話し合ってきました。余り一般的な市街地開発をやめよう、道路の形態とか、大規模スポーツゾーンを作るとか、教育文化ゾーンを作るとか、住宅ゾーンはこれだけにしようとか、土地利用構想を協議いたしまして、合意をして、それに沿った形で、土地改良区も用地買収については協力するという開発を進めております。
そのおかげで、ここにビッグスワンという大規模なサッカー場ができました。サッカーが終わりましたから、今は陸上競技場になっていますけれども、何にでもできるよう、初めからそういう構想で進んでいます。新潟市がここに産業振興センターとか、テルサという、集会室を、文化ゾーンとしてつくっております。高等学校もあったりします。こういう全体の土地利用構想について、県、市、土地改良区というのが3者一体になって協議をしたということで、拘束力はないんですが、大変ユニークな構想に基づく整備を進めているかなと思っております。
 ここに新しい市民病院も作っています。文化教育ゾーン、レクリエーションゾーンです。これが鳥屋野潟。例の田中金脈、田中さん一族がこの湖底の地権を全部買収していたんです。これはマイナス2.5メートルです。全部流れていた水はここに入ります。つまり、表上を流れてきた水がここに泥を運んでくるわけです。全部ゼロメートル地帯ですから、その泥を取って自分の田んぼに持ってくる。農家の方々が朝早く行って泥をすくって自分の田んぼに入れて、少しでも自分の田んぼを高くして生産性を上げようしますが、そのための共通の湖底の地権を持っていたんですね。それを田中さんは買収してしまっていた。ここを埋め立てましょうという構想だったんですけど、それに反対、ちゃんと湖は湖で残しましょうという運動が実った1つの成果ですね。田中さんは買収した湖底地権を全部県に寄附されました。それで今こういう形で残っています。
 これは稲刈りをしている姿です。稲刈りをしている時にこれだけ水があるんです。船で稲刈りをする。田植えも腰までつかりながら田植えをする。浮田に田植えをするような状態のところなんです。これが鳥屋野潟周辺の農地の状態なんです。それが大河津分水ができて乾田化が進んで、今のような農業機械も入れる立派な農地になるわけです。私の子供の頃はまだこういう泥田の状態でした。そういう状態のところですから、葦沼のところですが、そこを埋め立てて土地をつくろうなんて考えた人がいたわけです。そういう構想をやめていただいて、こういう形で県で公園決定をいたしました。県の初めての都市計画決定なんです。県公園として全部やりますと、287ヘクタールなんです。湖の周りに散策するような道路を作りましょうという計画も決定いたしました。新幹線の駅から3キロぐらいのところですから、すばらしいシンボルにこれからなっていくだろうと期待をしています。
 サッカーのワールドカップの日本国内第1戦がここビッグスワンで行われたんです。ここに弁天線と書いてありますが、ここに橋を作って、4車線の道路ができて、真っ直ぐ行くと新潟駅なんです。新幹線の駅から歩いて来れる。歩くのも大変ですから、シャトルバスを出して新潟駅から無料で送迎したわけです。ですから、新潟の第1戦は、新潟の奇跡と言われるぐらい交通処理がうまくいった。ビッグスワンは日建さんの設計ですから、いいものをお作りになりました。白鳥が翼を広げたところのイメージなんだそうでございますけれども、まさにそうかなと。ちょうどこのスタジアムの上に行きますと、鳥屋野潟が自分の庭みたいに見えるんです。ビッグスワンの庭に鳥屋野潟があるみたいで、物すごくスケールの大きな景観です。中から見ても外から見ても、スケールの大きな景観ができ上がっています。日本には珍しい景観だと思います。是非ご覧になっていただきたいと思います。
 鳥屋野潟の周りは桜が植わっていますので、すばらしい景観が見えます。
 これは雪景色ですね。
 ビッグスワンの周辺に、キャナールと言われますけれども、水路や、噴水があります。そこに知事が最初から大きな木を植えてくれました。私らは普通小さな幼木を植えて育てるんですけども、知事が何としても、ワールドカップに間に合わせようということで大きな木を初めから植えました。管理が大変だと思いますけど、うまく根づいていますね。その中にはこういったレストラン風のものもございます。
 同じく鳥屋野潟の周辺に新しい市民病院を建設中でありまして、郊外型ですから、駐車場をたくさんとっています。これもコンペでやったものであります。
 ここにビッグスワンが出ています。ここに産業振興センター。テルサという、これはどこでもあるような集会室です。こちらの方が産業見本市をやるような施設です。これは新潟市が持っています。
 あとここに植物園のようなものを作るということを考えています。園芸センターですね。田園型政令都市を目指していますから、新しい農業の品種改良とか栽培の方法とか、そういったものを研究開発するセンターを作る。要するに、この鳥屋野潟の周りはなるべく緑っぽい利用にしよう、ということで土地利用を考えているわけです。


Dその他のシンボル事業について


 
町の真ん中に海岸の松林を利用して、「思索の道」という名前をつけて道をつくっています。全部歩車分離ですね。上は土の道の歩行者の専用道です。ところどころ上れるような仕組みを作っています。
 これが信濃川の河口で、ここに内陸があるわけですけれども、関屋分水がここにあります。これは島の形になってしまったので、新潟島なんて言っています。今、島をちょうど一周する遊歩道を作っているんです。先ほど関屋分水の高水敷のところを緑にしたという説明をしましたけれども、そういう協力を建設省からしていただきました。信濃川のやすらぎ堤という例の緩傾斜堤防のところが遊歩道で歩けるようになっています。今申し上げているのは、この松林の中なんです。ここに散策路を作った。あと、町の中に入らざるを得ないんですけど、歩道を散策する。これをグルッと一周できる。弁当持ちで回るぐらいの距離になります。ここに人がたくさん住んでいるんですけど、すぐ遊歩道にアクセスできる。そして、安全な空間の中で時間を過ごす。健康的な空間で過ごして家に帰っていく。ここに市民芸術文化会館がありますから、どこからスタートしてもここに来て、お昼を食べて休んでもいい。あるいは都心で買い物をして帰ってもいいという、人の動線を考慮しているわけです。この周りを遊歩道でつくって、そういう計画にしています。
 そのほか幾つかの実践もありますが、質問の時間をとってほしいということでございますので、以上で終わらせていただきます。ご清聴ありがとうごさいました。(拍手)
 ちょっと、つけ足します。新潟に大変大きなプロジェクトがありまして、公共事業でやっています。実は重要文化財の萬代橋の下流には橋はなかったんです。萬代橋があって、こちらの下流域は盲腸みたいになっているわけです。ここから向こうに行くのに全部右折禁止でありまして、グルッと回っていかなきゃいけない。ここはかつて港だったわけです。そういう状態で、ここは大変さびれていたんです。国の方に調査をお願いして、ここに新しい橋をかける。更に河口の港湾部に新しくトンネルを作る。こういう2大事業をやっていただけまして、2つとも完成いたしました。ここに槇先生の国際会議場と見本市などができる展示場が入った施設がある。佐渡汽船という佐渡に行く船がここから出ている。こういう場所になっています。ここに柳都大橋といっていますけれども、新しい橋ができたおかけで萬代橋の交通負荷が大変少なくなりまして、3割以上交通量が減ってこちらに転換している。こういう柳都大橋とトンネルという道路ができたことによって、こちらの下町の方も交通の流れがよくなります。回遊性が出てきます。
 もう1つ、これらを連絡する道路を作りました。こういった中を結ぶ道路は市の事業でやらざるを得ません。市の事業で拡幅、整理をするということで、2本ぐらい整理しています。そうすると、この中が回遊性が出てきたということで、下町の活性化、車のアクセスの改善が図られているわけです。



フリーディスカッション

 

諸隈(司会)
 ありがとうございました。
 ご質問ある方は挙手を願います。
羽賀(ジェイアール東日本コンサルタンツ梶j
 先般、新潟に行って、上から見せていただいたんですけれども、今おっしゃられたとおり、港の方、海の方に向かってはすばらしい景観だと実感として感じてきました。けれども、肝心の駅の方、新潟市として新潟駅の周辺の整備、その辺についての長谷川様のお考えをちょっとお聞かせいただければと思います。
長谷川
 はい。よくぞお尋ねいただいたという感じでございます。今、新潟駅は新幹線が入っているんですが、新幹線が入った当時は、駅の南側は操車場として使われておりまして、在来線を上げることはできなかったんですね。操車場を全部上げるというのは膨大な事業費になりますので。それで、在来線がそのままになっていて、後ろの方に新幹線ができて、新幹線の建物があるという感じで、現在の駅は大変貧弱なんでございます。
 それで、かねてから駅周辺を整備するコンペ、要するに連続立体ですね。在来線を全部上に挙げて、新幹線レベルまでそろえるということをお願いをしていたんです。ところが、連続立体の事業というのは市でできない。県または政令都市の事業なんです。ですから、県に何度も陳情を重ねて、ようやく県の方でも都市計画決定をやろうということでやっていただきました。国の方から調査費をいただいて、連続立体事業をやる。新幹線の高さと並べて在来線も上げるというところまで来ましたので、それをコンペをいたしました。そして、こういう案が当選をいたしました。駅の周辺が緑になるような案。駅前広場を全部歩車分離で上っていくような形になっていまして、すばらしい案が得られました。
 これも市民参加のコンペということで、最先端を行っていると自負しています。市民の中にもコンペに対して意見をいう団体ができておりまして、いろんな設計の段階で、あるいは意見を述べるという機会を作りながら、この案が当選したということなんです。この案をもとにして都市計画決定をする作業に入っているところです。今年か来年ぐらいに都市計画決定されるんじゃないかと思います。都市計画決定されますと、事業ということになりますから、この事業化が行われます。
 政令都市になると、政令都市で事業をやったらどうですかと知事が言い出しています。県も負担金を出してくれれば、市でやりますよというようなことで話し合いをしている段階です。いずれにしても、構想は決まっていますから、今ご指摘のように、在来線が上に上がりますと、この下がバスプールとか、自家用車のプールとか、いろいろできてまいります。今の新潟駅前の貧しい状態はこれで改善されると思っています。しかも、市民意見が十分入っていますから、いいものになるのではないかなと思っております。
 これが今申し上げたように、既に都市計画決定をするという段階まで来ている。住民説明をしているという段階なんです。目の黒いうちにできるかなと思っています。当時、ご指導いただいた方々が今日はお見えでいらっしゃいますけど、そういう意味で皆さんからいろいろご指導いただいたおかげでこんな立派な案が当選しています。これで都市計画決定を目指しているところです。
與謝野
 私の方から1つご質問させていただきます。17年間、郷土の歴史と風土そして文化に対しての深い洞察をベースにして、意欲的なのアーバンデザインとマスタープランをかなり広範囲の領域にわたって広く取り組まれてこられたご功績から、長年お付き合いされて来られた都市計画の専門家がおられるのでしょうか?それとも市長ご自身のご発想で主導的に取り組まれてこられたのでしょうか?
長谷川
 どんないいものだと思っても必ず住民の反対があります。その住民に対して説明をするときに、その方以上に新潟のことを知ってないと説得できないわけです。ですから私自身が取り組んで来ました。歴史的にこうだったじゃないか。こういうことを考えて先人たちはやってきたんだよ。我々はそういうベースに乗ってこういうことをやりましょうよという説得を果たすことが我々の立場に課せられた説明責任の一部だと思います。そういう意味では、それぞれの土地の固有の条件についてしっかり勉強しておく必要があるなと思いますね。
與謝野 ありがとうございました。よく理解できました。
 本日のお話の中では、まちづくりについての今のお答えのように示唆深いお話が沢山お聞きできたかと思います。「郷土を愛する心こそが地方都市再生のこころである」という言葉が、きょうのキーワードではないかと感じました。ある本の中で「品格なくして地域なし」という街づくりの臨む心得を、改めて律する言葉に接したことがありますが、まさに、「品格(つまり今日のような深い識見をもとにした地域文化)なくして、地域の再生と街づくりはあり得ない」という教えを改めてお聞きし感銘を受けた次第です。本当に地域に対する深い愛情、情熱があっての新潟市におけるまちづくりの熱い軌跡を拝見させていただき、大いに学び取ることが多かったかと思います。皆さん拍手をもって長谷川さんにお礼の気持ちを表して頂きたいと存じます。 (拍手)
 ありがとうございました。
 

 


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