back

©日建設計                 
(ここをお読みください)
著作権について    

第203回都市経営フォーラム

銀座の街づくり 歴史的都市構造を活かした都心再生のあり方

講師:岡本 哲志    氏

岡本哲志都市建築研究所

日付:2004年11月18日(木)
場所:日中友好会館

1.街の個性と再開発

2.銀座の人たちの4つのルール

3.江戸町人地の街づくり

4.煉瓦街建設に見る江戸との融合

5.煉瓦の街並みを使いこなす民のパワーとしての明治

6.江戸と明治を活かしたモダン都市の再生

7.高度成長期に歪められた歴史的都市構造

8.これからの銀座の街づくりの方向性

フリーディスカッション



 

 

 

 

 

與謝野
 本日の第203回目の都市経営フォーラムを開催させていただきたいと存じます。本日のフォーラムは、ご案内のとおり、長年、我が国の代表的な顔となる街として親しまれてきました「銀座」につきまして、その街づくりの歴史と今後の街づくりのあり方等を皆様とともに考えていきたいと存じます。
 本日の講師には都市形成史をご専門にされておられます岡本哲志博士にお願いいたしました。岡本さんは、1952年東京生まれの方でいらっしゃいまして、法政大学建築学科をご卒業の後、岡本哲志都市建築研究所を設立され、長年、都市形成の歴史及び都市と水辺空間に関する研究等に携わってこられました。特に、江戸、東京、銀座についての街づくりの歴史と都市形成の仕組み等に深く通暁されておられます。
 本日は、ご案内のとおり、「銀座の街づくり--歴史的都市構造を活かした都心再生のあり方」と題しまして、歴史を通じて、銀座の現在と未来を読むという視点で貴重なお話がお聞きできるものと楽しみにしております。
それでは、岡本先生、よろしくお願いいたします。



岡本
 
ただいまご紹介にあずかりました岡本です。よろしくお願いします。
 これほどたくさん来ていただけると思わなかったので、ちょっとびっくりしております。嬉しい悲鳴をあげながら、1時間半ほどですが、おつき合いをお願いいたします。
 與謝野さんのご紹介があったように、私は都市形成史を専門に研究しております。その立場から、さまざまな都市の街づくりにもかかわってきました。歴史からのアプローチで街づくりをするというのは、枕言葉ではよく使いますが、都市構造を読みながらそれを街づくりにということは、現在でも、街づくりや都市計画の中では、中心的な役割を担っていないような気がします。ただ、私は細々と25〜26年ぐらい、その視点で街づくりを進めてきました。ですから、事例としては、それほど多くありません。
 十数年前から銀座の研究をやらせていただく幸運にも恵まれまして、それ以降、銀座とかかわりを持たせていただいております。今日も、銀座の方にお越し願っています。その銀座の方たちと、いろんな視点で街づくりのことを考えようということで、研究と街づくりをパラレルな形で進めているという貴重な体験をさせていただいております。その経験を踏まえて、今日はお話させていただきたいと思います。



1.街の個性と再開発

 

 (図1)
 今日は、お手元資料にもありますように、全部で8つテーマ、その大きな流れでお話ししたいと思います。
 1つ目は、これは少し問題提起的なタイトルにしてしまったんですが、「街の個性と再開発」。銀座は、表面的には新しいファッションとか、新しい時代を担ってきたという感覚や意識があります。そこで、本当に新しさだけを追い求めてきた繁華街なのか、という問題提起から入っていきたいと考えたのです。問題提起と言っても、それについて深く追求する考えはありません。ただ、常に新しい街として意識される銀座は歴史の中で展開してきました。それなら、どのような開発をしても構わないのかという疑問を1つ、銀座の方と街づくりをやりながら、あるいはそれ以前からの銀座の研究をやっている時に感じ始めていました。このことに関しましては、後々じっくりと詰めていきたいと考えています。
 銀座は、歴史的な構造をベースにして、都市の空間の変化を上手に、それも魅力的な街の雰囲気を維持させながら変化してきた経緯があります。これは一般的に余り理解されないと思います。また、ある種結論的な言い方になってしまいますが、そういう街の歴史の積み重ねをしてきた。そのために、繁華街として輝きを持った街をつくり上げることができたのではないかということが、十数年間研究してきた私の銀座感です。そういう銀座感をもとに、少し銀座のことを見ていきたいと思います。
(図2)
 これは現在の銀座です。銀座を俯瞰した図です。目をこらして見ていただければ、どのあたりかわかると思います。銀座のなかで一際目立つ建物が王子製紙のビルです。銀座3丁目にあります。これが木挽町地区を除いた銀座の中で一番高いビルです。背後にあります、更に高いビルが聖路加病院です。それから感覚的には、何で佃がこういうふうに聖路加病院の左後方にあるのかという不思議な思いをしています。東京というのは意外とねじれていて、写す角度で思いがけない場所に予想外の建物が写っていたりします。この写真は、銀座の銀芽会という親睦会がありまして、もうかれこれ30年ぐらい帝国ホテルで朝食会を毎月やっている会ですが、たまたまそこに呼ばれた時に撮影ができました。帝国ホテルの20階から撮った写真です。
(図3)
 これが佃の高層ビル群です。手前の飛び抜けて高いビルのない場所が銀座、ということになります。よく見ていただくと、ここに4丁目の和光の時計塔が見えると思います。ほぼ銀座全体の様子がわかる写真です。
 これを見ていただくと、銀座は意外と高さの背が揃っています。低い建物もいっぱいありますが、ずば抜けて高い建物は1つぐらいしかありません。周りを見ますと、かなり高層のビルがたくさん立ち並んでいる。これを見まして、どう思うかは大変重要な問題です。私などは、こういう環境というのは素晴らしいなと感じますが、再開発をやろうという人にとっては、銀座は遅れているんじゃないか、高いビルを建てることで銀座はもっと良くなるんじゃないか、というご意見も多分あると思います。
 ただ、その辺を考えた時に、銀座の街を歴史的にしっかり理解し、どういうふうに銀座が魅力的になるかを充分に考えた上で、空間としてどのように造形しようか、という流れが必要ではないかと思います。ボリュームがこれだけ必要だ、という議論が先にありきではないはずです。
 戦前までの銀座の方たちは、今までいろいろと街づくりをやられ、同時に街のことをアピールしてきました。でも、私は、どうも戦後の銀座の方たちというのは余りにも奥ゆかしくて、あまり社会にアピールしてこなかったんじゃないかという気が少ししています。
 と言うのは、銀座は、明治の初め、西洋風煉瓦街を自己アピールしたことで大変有名なところでした。煉瓦街の宣伝というのがあって、それを流した新聞社が銀座に集まっていたのです。それは新聞社だけでなく、商いをされている方たちも同様です。自分たちの街を積極的に全国に吹聴して歩いて、メディアに載っけてしまった銀座という背景があります。それにもかかわらず、戦後の銀座の旦那の方々は、あまり表立って宣伝しない。社会アピールが少し下手なのか、大変奥ゆかしいと思います。



2.銀座の人たちの4つのルール

 

 (図4)
 そうは言いましても、銀座の方たちは銀座の街について何も考えてこなかったわけではありません。驚くほど、地道に街のことを考え、体を動かしています。銀座の方とお付き合いさせていただいて驚いたことの一つです。すでに、銀座の人たちが作った4つのルールがあります。そのことを理解していただいた上で、銀座がどのように歴史的に作られてきてきたのか。そして、今後街づくりはどういう視点で行われるべきか、を話していきたいと思います。これは主に私の考える視点が含まれていますが、そういう流れでお話をしていきます。
 銀座の人たちが持っている4つのルールの1つが、「銀座憲章」です。これは私も余り気がつかなかったんですけれども、銀座通連合会という、銀座の中では広報的に重要な団体があります。銀座通りと晴海通の商店の方たちが中心に組織している団体です。その会が20年前位に作られたようです。
 私は、20年前に作ったことは、街の意志表示として大変すばらしいことだと思っていますし、これは次の銀座のまちづくりビジョンにも通じるものではないでしょうか。ただ、言葉を選ぶのは大変難しいというのを、私はこの憲章で感じました。憲章ということですから、銀座では皆さんがこれをもとに街づくりとか街のことを考えているかというと、そんなに多くの方は意識してない、というところがあります。これはどういうことかなと感じているんです。まちづくりビジョンを作る時に、私もかなり協力させていただいたんですけれども、銀座らしい言葉は何かと選んでいくと、実に50も100もたくさん出てきます。それぞれが銀座を表現する上でポイントとなる言葉です。しかし、それらの言葉が銀座の個性を象徴した言葉であるかといえば、必ずしもそうとは言えません。例えば銀座憲章で見ていきますと、「銀座は創造性ひかる伝統の街」「銀座は品位と感性の高い文化の街」「銀座は国際性あふれる楽しい街」。でも、こういうフレーズは、「京都は創造性ひかる伝統の街」と言っても一向に構わないような気がします。創造性という言葉は、「西陣」などの伝統技術には、すぐれた創造性がありますから、伝統の街として「京都」という言葉が頭が入っても構わない。2番目フレーズですが、東京に戻ってきまして、「日本橋は品位と感性の高い文化の街」と言われても、そうかなと思ってしまう。一番下のフレーズでは、例えば「原宿は国際性あふれる楽しい街」を入れてみます。ああそうかもしれない、と思ってしまう。
 ここで何を私がお話したいのかと言うと、象徴させる言葉というのは、その都市が持っている背景が重要なんだということです。いい言葉を選んで標語にするというのは簡単ですが、意味ある言葉を使うことはなかなか難しい、という気がいたします。
 この憲章を作られた銀座連合会の方々は、言葉を選ぶのにかなり悩んだと思います。この言葉1つ1つが、銀座の中の言葉としては重要な言葉だと思います。同時に、1つ1つの言葉が街と呼応して、生きたものになっていなければなりません。一方でこれらの言葉を生かすために、銀座の中で街づくりが動いているんだと思います。ですから、2〜3年後にもう一度、この憲章を見ていただく機会がありましたら、この憲章を見て、「あ、これは銀座以外に使われない言葉だな」と感じてくれれば、今行われている街づくりは、ある程度成功したと感じられます。その意味でも、最初に憲章を出させていただきました。
(図5)
 2番目に、「銀座まちづくりビジョン」を取り上げます。これは1999年に作りました。作りましたと言うよりも、銀座の方が中心になって、私たちがサポートしたと言うことです。ここで3つの柱を立てています。これは相当悩んだ末に出てきた言葉です。1番目の柱は、「水辺再生と路地の活性」です。何でこれらの言葉が銀座に関係するのか、と思われる方もいると思いますが、これから私がお話しする内容を聞いていただき、ひょっとしたらこういうことが銀座にとって意味があるのか、と感じていただけると大変ありがたいと思います。
 2番目の柱は、「新銀ブラ計画」です。銀座はご承知のように銀ブラで有名です。「銀ブラ」という言葉が辞書に載っているのは大変すばらしいことです。例えば、私が育ったところはリトル銀座、片田舎の銀座です。そこで銀ブラと言っても笑われてしまいますが、まさしく本家の銀ブラというのは「ザ・銀ブラ」で、銀座で銀ブラする以外に銀ブラはあり得ないという、先ほどの言葉と比べると、背景がしっかり見えている言葉だと思います。
 3つ目の柱は「新しい銀座カルチャーの創造」です。私は10年ほど銀座の方たちとお付き合いさせていただいている中で、文化の蓄積が、いかにほかの街よりすごいかというのを改めて感じました。一方で、改めてこんな蓄積があるのに、どうしてそれが円滑に活用されてないのか、という驚きも同時に持ちました。文化を集積する熱意とか情熱とか、そういうものはすごくあるのですけれども、この蓄積をどういうふうに、またどのように、いろんな人たちとコラボレーションしながら、空間を共有して、それを創造性に向かわせるか、ということが少し足りない状況があったのではないかなという気がいたします。3番目は、そのような議論のもとに出てきた言葉です。これが銀座の方たちが作った2つ目のルールです。
(図6)
 ここまでお話した1番目と2番目は、やや抽象的なルールです。3番目は、より具体的なルールです。ご存じの方も多いと思います。「容積率緩和」ということで、6年前に特定地域に設定され、容積率が緩和されました。その1つが銀座でした。この時も後ろの方、直接役所と折衝はしなかったのですが、どうしたらいいのかというお話を銀座の方と多少させていただきました。行政側が考えたルールというのは、単純に言うと、基本の容積800%を300%増やす、という特典をつけるので、うまく街を活性化してくださいという民活の流れです。要は800%が1100%、それから壁面が少し後退するというルールです。建築法規に関しては、私は専門家ではないので、細かいことについて説得力のある説明はできませんが、この時、銀座の方たちと議論した最大のポイントが2つありました。その結果、銀座側の意志が込められたルールが作られていったと感じていただきたいんです。
 1つ目のポイントは、街並みの賑わいを連続的に維持していく、という考え方です。賑わいがなくなるようなルールでは困る、ということがまず1つ挙げられました。これが、どういうふうに反映しているかと言いますと、最初に行政から来たのは、銀座通りの建物の壁面を50センチ以上後退しろという話でした。しかし、「以上」ですから、50センチ下がったり、1メートル以上も下がったりするケースが生まれることも考えられます。そんなバラバラな壁面線を作っては、銀座の街並みの連続性が失われます。これは是が非でも止めてくれという話で、20センチ以上になりました。
 実は、20センチ以上というのは、私より皆さんの方がお詳しいかもしれませんが、ビルを建てると必ず20センチぐらいは下がらなくては建てられない。ですから、ほとんど下がらずに連続性を保つという流れに変えました。同時に、建築壁面の連続性を保とう、という意志も含まれています。
 もう1つは、1100%で、高さの上限が56メートルというルールです。単純に計算して、1層分5メートルとなります。構造や空調とかのスペースを1メートル引いても室内の最低の高さで4メートルの天井高をとらないと、1100%に到達しないことになります。これは言ってしまえば、高度成長時代に作られた天井高の低い空間を作るということを回避したい、という大きな願いが込められています。すなわち、先ほど言った銀座の文化の豊かさというのは1つは内部空間にあると思うからです。
(図7)
 新しいビルだけではなく、戦前の建物も含めて、銀座には、内部空間の豊かさというのは、かなり評価できる建築が多いと思います。ここに写されている写真は、最近できた銀座グリーンというビルです。右側の方が8丁目の角にある東京銀座資生堂ビル、以前の資生堂パーラーです。この2つが銀座ルールでできた建物です。高さが56メートルあります。東京銀座資生堂ビルに行かれた方はわかると思いますけれども、1階のところの吹き抜け、2層分ぐらいとった空間となっています。それから4〜5階は、昭和初期に建てられ、戦後も残った資生堂パーラーの2階建ての内部空間を再現したものです。中央が吹き抜けとなり、空間をかなりゆったり使っています。最上階のバーも天井が非常に高くなっています。これは銀座の方々の思いが込められた成果の一部です。
(図8)
 4番目が「銀座フィルター」です。「銀座フィルター」と言われてご理解いただける人が3分の1くらいいらしてくれると、後の話がすごく楽になるのですが。「銀座フィルター」という言葉は、多分20年以上前だと思いますが、銀座の三枝進さんという方が、「銀座には不思議な力がある。これは銀座フィルターだ」と考え、名づけた造語です。平たく言いますと、「銀座で商いをすることは自由なんだけれども、銀座に来てしっかり商いをして定着するには、なかなか難しいものがある。そぐわない人たちはすぐ出ていくという流れが、今までもあった。それは銀座に、ある篩(ふるい)みたいなものがあって、それが銀座フィルターじゃないか」というお話です。
 確かに、最近の例で言えば、関西の吉本興業が銀座通りに出てきました。その時は若い女の子たちが、ワイワイと銀座通りや裏通りを席巻しまして、どうなることかと思っていました。ただ、銀座の人たちは、「こういうのがそぐわないか、そぐうかというのは自然の流れでしょう」と言われ、全然驚かなかったことに私はびっくりしました。びっくりしたと同時に、すぐ吉本興業はいなくなってしまいました。「あ、これは銀座フィルターだな」という気がすごくしたのです。
 ただ、こういうフィルターも、規模が大きくなったり、例えば、半恒久的、少なくとも半世紀とか、そのくらい変化しないものが建つかどうか、という問題になった時、気軽に銀座フィルターという問題が提示できるか、ということに私はちょっと心配がありました。ありましたというより、もうちょっと他に「銀座のフィルター」というものがあるのではないか、と感じるようになっていました。
(図9)
 銀座というのは、こんなに変化が激しい街です。それなのに、伝統もあり、大人の方や家族連れなど、いろんな人たちが来る。これは明治15年の地図です。銀座は単純極まりないグリッド状の都市空間に見えます。それなのに、何で街として厚みを感じるのかというのが、私にとってはすごく疑問でした。その単純というのは、本当に単純なのだろうか、という考えがあったわけです。



3.江戸町人地の街づくり

 

 (図10)
 実は、その単純さというのは欧米的な単純さではなくて、江戸時代から持っている繊細な空間の組み合わせの中で成立した街の作り方がベースになっており、今の銀座があるのではないか、という考えに展開していきました。今日お手元にお配りしております建築学会の論文集の4点は、その考えを基本にして論文にしたものです。もう1つ、『銀座』という本を書きました。その本の中に、江戸から現在まで脈々と江戸の街の構造が続いているということは、江戸時代に街づくりをした意味や魅力が、現在の銀座には残されていると言えるのではないか、という主旨で書きました。それは、どういうことかというお話を、次に展開していきたいと思います。
(図11)
 この絵は江戸図屏風と言って、1630年代の寛永期、もしくはそれ以降に描かれたものかもしれませんが、その寛永期の風景を描いていると言われている絵です。
 この屏風絵、よく見ますと、朝鮮通信使がいます。朝鮮通信使というのは1607年から12回江戸を表敬訪問したイベントです。私はイベントと言っています。総勢数千人の人たちが練り歩いて江戸城にやって来るという、そういう一大イベントを起こします。1607年に最初の通信使が来るんですが、その前に、日本橋で最初に街づくりがされる。
(図12)
 歴史家の方に街づくりの話をすると、「街づくりなんて江戸はしてない。縄張りをするんだ」と言われそうですが、現代の私たちがよくわかるように、本日は「街づくり」という統一した言葉で進めていきます。1590年に、江戸は最初の街づくりがされます。それから、日本橋から京橋の間、ここも1600年代には街づくりがされます。朝鮮通信使を知っている方は多いと思います。1607年を最初として、朝鮮通信使は12回にわたり、朝鮮半島から江戸に歴訪しました。その時、現在の中央通りを一行の行列が通りました。江戸図屏風には、現在の中央通り行列する朝鮮通信使の様子が描かれています。最初に訪れた年は1607年ですから、この2つは、朝鮮通信使が来る前に、既に街づくりがされていたと言えます。
 もう1つ、銀座の街づくりですが、銀座2丁目の銀座通り沿いに「銀座」が置かれます。1丁目から4丁目を中心に、「銀座」の関連の店が入ります。全体的に街づくりをされたのは、「銀座」が置かれた少し後、1620年代です。従って、京橋を挟んで、北側の京橋と南側の銀座では街づくりされた時代の差があります。この時代の差というのは、かなり重要です。何が重要かと言うと、日本橋側は作られた都市空間に、いろんな計画意図が含まれており、徳川以前の中世のベースも含まれています。若干、統一性がない空間を作っています。しかし、銀座は、いろいろなことが江戸に起こった後、比較的安定期に入っている1620年代に街づくりがされます。江戸幕府の理想とする環境の中で、町人地をどう作ったらいいかという理想的な形で街が作られたと考えられるのです。日本橋とか京橋が、いいとか悪いとか言っているわけではなく、日本橋は日本橋で、中世の江戸の構造がベースになって、実に魅力的な空間を作っています。京橋も、入り堀が入った都市の作り方は大変興味深い空間の作り方です。
 銀座を評価したいのは、次の意味からです。銀座には、江戸幕府の理想形の町人地の街づくりをどうしたいか、という意図がしっかりと街づくりに現れている点です。そういう面で、この3つのエリアは全然違う空間のあり方をしています。中央通りで結ばれているから、この辺はみんな同じ町人地である、というわけにはいかないのです。3つとも、今言ったように全然違う環境を持っていることが重要です。
 都立大の桐敷先生が以前、大変魅力的なユニークな研究をされています。街の軸となる街路が目指す方向は、それぞれの街が、それぞれ違うランドマークとなるポイントを選びながら街づくりがされているという研究です。これも、3つの街が全然違う環境で街が作られているということです。
 なぜ、銀座が江戸幕府の理想かと言いますと、銀座通りの幅は京間10間です。それから銀座通りの裏側にある並木通り、これは京間7間です。晴海通りも京間7間あります。あと他の道は、みんな京間5間です。この京間の10間、7間、5間という幅は、今で言う税金を取るための間口を基準とした制度です。それが、実に通りを構成する幅にまで出ているということは、すごく興味深いことであると思います。
(図13)
 江戸の町割りによってできた街区は、武家地と町人地とでは非常に異なります。代表例をここに挙げていますが、江戸時代の町人地は、60間です。理想と先ほど言いましたのは、江戸の街づくりが京間を基準寸法としています。京間というのは、田舎の方と違って1間が約2メートルです。今私たちが使っている約1.8メートルの田舎間と違います。ですから、1間、2メートルですから、京間で60間幅のブロックを作っていきます。大名屋敷も敷地の基本的には60間です。この幅だけを取り上げれば、同じように思われますが、街区の構成はまったく違います。
 武家地の方からお話ししますと、武家地は街路で囲まれた内側の敷地の基本は京間120間幅です。京間120間ですから、約240メートルとなります。約240メートルの角の土地を田の字型に割って、4つの大名屋敷の敷地を作るというのが理想形です。これは丸の内のところですが、たまたま理想形の京間120間幅、田の字型に割られた敷地があります。この基本をベースにして武家地は作られています。ただし、このような理想形というのは、あまり他には見られません。地形や掘割の関係、あるいは大名の禄高の違いで、基本の形状が崩れているケースがほとんどです。
 一方、町人地は、京間60間幅の街区です。こちらは基準の理想形が比較的忠実に守られています。町人地の特色としては、通りを中心に両側のブロックが1つの町を成立させています。これが重要なことです。街路は、武家地のように境界ではないのです。
 それともう1つ、町屋敷という敷地の単位があります。この3つの組み合わせで町人地はできています。その敷地単位が、現在の銀座にもしっかりと確認できます。京間60間を3つに割られた一角が町屋敷の奥行きで、長さは約40メートルです。町人地は間口で税金を取っているので、奥行きは一定の40メートルで統一されています。それから、間口は町人地の町割りがされた当初、京間5間、約10メートルが基本でした。その後、町屋敷が分割されたり、統合されていきます。間口5間が基本であると申し上げましたが、銀座以外の古くから成立していた日本橋などの町人地は、現段階では京間5間で統一されていたのかどうかはわかっていません。ただ、銀座は、街づくりがされた当初は、間口京間5間で統一されていた可能性が高いと考えられます。
 この町屋敷の基準単位を、現在の銀座に当てはめてみますと、重なりあう空間のあることがわかります。これは銀座7丁目ですが、町屋敷の規模ぐらいのビルが建っていたり、1つ1つの町家の規模の建物が建っています。銀座の場合は、たまたま戦後のどさくさで、こういうペンシルビルが建ってしまった、というわけではないのです。これは380年の歴史の中で、しっかりと歴史を継承してきた現在の銀座の環境です。
 銀座のペンシルビルと悪口を言う人もいますが、歴史を知っていただくと、「たかがペンシルビル、されどペンシルビル」という歴史を背負った重要な空間をつくっています。この間口で、将来においても街を作って、ビルが延々といつまでもあることがいいのかどうかは別としても、こういう背景のもとで、こういうビルが生まれたということは理解されておくべきではないかと思います。その上で、どのような街にしていくべきかを、考える必要があります。
(図14)
 そういう環境の中で、例えば、三十間堀川に見られる掘割の存在も、銀座において重要な意味を持ってきました。これは寛永期の地図です。江戸時代の初期から、銀座はずっと掘り割りに囲まれて成立し続けていました。掘割で囲まれた中央を晴海通りと銀座通りがクロスする形で通されています。その交差する場所、この辺りが現在の銀座4丁目です。整然と会所地を持った街区が作られていた状況が寛永期の江戸です。
(図15)
 ただ、明暦の大火以降に、大きく町が変わります。これは現在の銀座です。現在の銀座と言っても、写真を撮ったのは15年前ぐらいなので、現在建て替わってしまったビルも幾つかあります。この辺に和光のビルがあります。15〜16年前なので、今よりもっと高さが抑えられているということがわかると思います。なぜ、現在の銀座の写真を出したかと言いますと、寛永期の右の図を見ていただくと、こういう1620年代に作られた会所地を持った街区の形状が現在の銀座の一部、銀座通りと並木通りの間の街区に、完全に重ね合わせることができます。これは、ほとんど寸分違わずに重なります。
 最近よく言うんですけれども、「それなら、歩いていてわかるのか」と質問されます。歩いていてもわかります。これ、銀座通りですけれども、歩道が5.5メートル、全体が約27メートルの街路幅です。そうすると、車道幅が16メートルになります。先ほど、10間が江戸の道幅だと話しましたが、京間10間のうち、両側京間1間は庇地としてとらえているので、実質の道路は京間8間です。ですから、銀座通りの車道の幅は江戸時代そのままの幅と見て間違いありません。もう1つ、横に抜けている花椿通りとか、みゆき通りにも、全部歩道があります。江戸時代に横丁と言われていたのですけれども、歩道を抜かすと江戸時代の通りの幅になります。関東大震災以降、拡幅された晴海通りと外堀通りは除かなければなりませんが、車道を歩けば、今でも銀座は、江戸時代の銀座を歩けるということになります。すなわち、江戸の構造の中で成立している街です。歩行者天国も銀座通りだけではなく、銀座全体に広げると、江戸を体験できるのに、と考えています。
(図16) 
 今お話ししたように、銀座は江戸の基本構造をしっかり持っている。しかも、現在の都市空間においても生き続けている、というお話をしました。もう1つ重要なことは、近代に入っても、その前の時代のベースの構造をしっかり受けとめて、新しい街を作り上げたことです。これが銀座にとって、私はもう1つの魅力であると思います。 
(図17)
 だんだん時間が押してきましたので、大ざっぱな話しになることをご容赦下さい。この限られた時間の中で、できるだけ銀座の魅力を示していきたいと思います。
 上の写真は現在、歩行者天国になっている銀座通りです。下の写真がガス灯通りです。なぜ、この2つの通りを挙げたかと言いますと、先ほど京間60間の街区の話をしましたが、明暦の大火、1657年の振り袖火事で、江戸がほとんど壊滅状態になったと言われています。その時、都心部を再開発しなきゃいけないという大きな流れがありました。何をやったかと言いますと、銀座では新たな通りを通します。外堀通りというのは昔からあった通りではなく、明暦の大火以降に新しく作られた通りです。
 これは、晴海通りとみゆき通りの間にありましたが、煉瓦街建設の時に完全に消えてしまった道なんですけれども、江戸時代にはあった道です。みゆき通りから20間、40メートル裏側に通されました。これが唯一、近代に入って消えた通りです。
明暦の大火以降、表の通りから裏に1本、これは新道といって、裏通りに相当する通りが作られます。現在の金春通りに相当する裏通りです。これらの新道は江戸時代に全部作られたわけではありません。主要な部分が少しずつ作られただけでした。
 明治5年から10年にかけて、銀座の煉瓦街が建設されます。建設される時に、この新道に相当する裏通りが全部きれいに通されていきます。ですから、江戸時代に計画半ばで終わっていた考え方が、銀座煉瓦街建設で完全に踏襲され、通りに対して1本裏の通りを銀座全体に作り出している。
(図18)
 このことは実に素晴らしいことだと、私は感じています。何で素晴らしいかと言いますと、近代以降で、前の概念、考え方、空間の作り方を踏襲しようという試みは、日本の中では全然なかったのではないかと思っていました。それが、30年ぐらい都市の研究をやっていて、やっと銀座で見つけたからです。あるいは他の都市にもひょっとしたらあるのではないかという気が、ここ5〜6年すごくしています。というのは、一般的に近世を完全に無視しながら、新しい開発が行われたという近代初頭の都市計画の考えは、どうもある時代、情報操作があったようなという気すら、ちょっとしているからです。



4.煉瓦街建設に見る江戸との融合

 (図19)
 銀座の煉瓦街は、写真を見てわかりますように、煉瓦建築が完全に列柱を配してきれいに並んでいたというわけではありません。下の写真のように、土蔵の建物も幾つか作られます。丸の内に赤煉瓦の街並みができるのは、明治27年以降ですけれども、煉瓦街という言葉は、大正時代の人たちは丸の内の煉瓦街で、銀座は煉瓦街じゃないと思っている人たちが多かった、という話を読んだことがあります。構造壁は煉瓦ですけれども、その上に西洋のスコッタという日本の漆喰みたいなものを塗ってしまっていますので、表面上は煉瓦だとわからない。そういう空間が、銀座には作られていたのです。
 ただ、煉瓦かどうかと言うより、私の銀座における魅力の1つとしては、延々と列柱を作り出したということが重要で、後々の銀座にとっては、すごく素晴らしいことだったということを、予告編としてお話ししたいがために、列柱が並ぶこの写真を出しています。
(図20)
 銀座では裏通りが江戸の継承という意味で重要だ、という話を先ほどいたしましたが、もう1つ、これはまちづくりビジョンにも出てきました「路地」が銀座にとって非常に重要な存在です。銀座の路地は、都市構造上大変素晴らしい空間を作りだしたと私は感じています。というより、最近は「素晴らしいです」と言い切ってしまっています。これが表側の銀座通りです。5.5メートルの歩道があり、16メートル幅の車道があります。5.5メートルの歩道と車道との間、ここから丁度40メートルの半分、20メートル裏通り側に入った所に南北に長い路地があります。
(図21)
 これが銀座独特の南北路地です。私は、「ザ・路地」と呼んでいます。神田にも少しあるかもしれないという気がしますが、他の街にはこういう路地は作られませんでした。煉瓦街というのは、連屋化といって連続的に間口の狭い煉瓦建築を並べて1個の建物にし、さらにそれらを連続させる作り方をしています。江戸時代は敷地がコミュニティ単位を作っておりまして、その中、完結型の路地を作るのが江戸時代の基本形です。これは、江戸時代の銀座でも同じようにありました。
 この図は、現在の銀座6丁目の南鍋町というところを描いたものです。一般的に通り側から敷地の中央に路地を通すという形でした。それが、銀座の煉瓦街を作った時に、全く違う、通りに並行の路地を作ります。通りに並行の路地を作るというのがどういうことかというと、複数の敷地を貫いて路地を作っていくということです。
 先ほどお話をしなかったのですが、銀座が煉瓦街を建設する時、敷地の構造はほとんど変えませんでした。さらに、この江戸時代の敷地の構造は、関東大震災以降でも変わらず、今日に至っています。現在から追っていけば、江戸まで到達するという、近代都市史だけでなく、近世都市史における研究上も、大変貴重な街であるのが銀座です。本当に追っていくと、多分縄延びとかありまして、いろんな問題が出るかもしれませんが、理論上はしっかり追えるということです。それが、江戸時代の敷地の構造の上に全く違う概念を入れた。その結果どういうことが起きたかというと、内部の環境は江戸時代と全く変わらない生活空間を保つことができた。矛盾するようですが、新しい空間を作りながら、ダイナミックに路地の構造に変えたことによって、かえって敷地内部は江戸時代から培ってきた庶民の生活が維持された。これは、私は素晴らしいことだろうと思います。
 再開発をすると、もともと生活していた人たちが追い出されたり、去らなければならない環境を作ってしまうのですが、江戸には全くなかった日本で最初の西洋風の建築空間を作るのに、江戸から延々と受け継いだ環境を内部はしっかりと維持していく。そのために作られた路地の発想ということは、私は素晴らしいと思っています。
 通りに西洋風の環境を作るということと、内部の生活空間を維持するという2つを同時に、この路地は解消したということで、この銀座の路地は全くすばらしい路地だと考えています。それは現在もあります。もし、興味のある方は見ていただければと思います。
(図22)
 繰り返しになりますが、通り側から敷地の真ん中に路地を通すのは、江戸時代の路地の基本形です。敷地を貫くように路地があるのは、銀座特有の路地です。ただ、後には4番目の複合的な路地も少しずつ作られたようですけれども、煉瓦街ができた当初は、8割から9割はこの形であったと考えられます。図をよく見ていただくと、表の通りと裏通りの間に細い線が引いてありますが、これが路地です。



5.煉瓦の街並みを使いこなす民のパワーとしての明治

 

 (図23)
 話が路地から一転します。前に言った列柱の話を思い出していただくと、助かります。これから、ショーウインドーと列柱の話をしようとしています。現在の銀座で、歴史的に意味を持つ魅力の1つと言うと、私はショーウインドーだと思っています。銀座のショーウインドーというのは、歩いていて、なかなかレベルの高いショーウインドーが多いと思っていらっしゃる方も大勢いると思います。これはミキモトと和光のショーウインドーを写した写真です。銀座には、実に魅力的なショーウインドーを見かけます。重要なことは街並みが連続する中で個性的な、しかもレベルの高いショーウインドーが連続して見られるという魅力です。そして、煉瓦街の時代に、この列柱がショーウインドー化したことによってできた、ということが歴史から分析するとわかってきます。
(図24)
 なぜ重要なのかと言いますと、煉瓦街というのは官が主導で半ば強引に街づくりがなされました。裏通りの江戸からの継承とか路地の創造性、これは素晴らしいものがあったと思います。ただ、銀座がここで終わっていなかった、ということがまた素晴らしいことです。これは先ほど「民のパワーとしての明治」というタイトルを出しましたが、官か作りあげた空間を、次に民がよりレベルアップさせていくわけです。
 今日、高層マンションや新しいビルに何かつけてしまうと、大変怒られるというのが現状だと思います。列柱が連続する煉瓦街ができてほんの10年ぐらい後、少なくとも明治20年以降には連続したショーウインドーが街並みとしてできていきます。これは銀座通りにあるお店ですけれども、列柱をそのまま活用してショーウインドー化していることがわかると思いいます。これが幾つも出てきます。先ほどの土蔵づくりの建物にもショーウインドーがあった、ということに気づいていただけとありがたいです。西洋風建築の列柱だけではなく、土蔵づくりの和風建築にもショーウィンドーが付けられていたのです。
 銀座は列柱という連続する空間を基本的に作りましたが、これは官がなしたわざです。それをショーウインドー化するということで、通りのにぎわいを民の力で演出した。例えば日本橋のある1つの店がショーウインドーを作った、そういうことであれば街並みとしての魅力にはなりません。しかし、銀座は列柱という素地を民の力でショーウインドー化することによって、連続した賑わい空間を、既に明治20年代に作ったしまったわけです。「官と民の協力」、「民活」。これらの言葉は耳新しいように考えられがちですが、銀座は一世紀以上も前に試みて、しかも大成功しています。このことを真剣に学ばなくて何を学ぶのか、と多少銀座に入れ込んでいる私などは思ってしまうわけです。
(図25)
 これは、1923年の関東大震災以降、戦前の資生堂のショーウインドーの内側から外の銀座通りを見た風景です。ショーウインドーを作るということが、銀座にとっては重要なポリシーになっていることがわかると思います。このように見てきますと、明治の煉瓦街とその後の銀座の人たちのショーウインドーを作る執念が現代に通じているのではないかと強く感じてしまいます。
(図26)
 これはコンペティションを行い、銀座の方たちが美大の学生の優秀作品にショーウインドーを提供するという、銀座の方と学生のコラボレーションで生まれた企画が実現したものです。銀座は芸術の街でもある、という重要な都市要素があります。今年第3回の企画が始まっていますが、去年の第2回は300点以上の学生の作品が集まったそうです。これは天賞堂のショーウインドーで、今年の3月に銀座賞をもらった学生の作品です。こういう若い人たちの作品を、実際にディスプレーさせようという意思が、今銀座の方たちの中に強くあります。それと、300点の出点があったということは物すごいことです。20歳前後の学生が、1年間のうちに出点した300人以外に少なくとも3倍ぐらいの応募がありましたから、1000人ぐらいの学生が、月に2〜3回は来るようになった。たかだか5校か6校ぐらいの美術系大学の話ですけれども、今銀座は実に若い人たちであふれ返っているという環境にあります。それも目的を持った学生が歩いているのです。これはここ数十年なかった現象です。しかし、以前は美術を志す若者は銀座を徘徊していました。画商との交流も銀座で深く行われていたと聞きます。銀座は大人、という範疇でくくられるだけの街ではなかったのです。
(図27)
 このような動きは、銀座の人が街づくりを始めようという機運と将来への危機感とがいろいろゴチャゴチャになった中で、芽生えてきた成果であると言えます。銀座の人とたちの気持ちが、フレキシブルになってきている1つの現われではないかとも思っています。
 ここまで、銀座の古い話ばかりいたしましたが、明治時代から大正、昭和初期にかけては、今日に比べても遜色のない物すごく新しい試みをしています。こちらの銀座7丁目の建物は、亀屋商店といって、もうつぶれてしまったというか、戦争中に食品の統制などで止めてしまったのですが、明治屋と肩を並べるぐらいの輸入商のお店です。もう1つ左側の写真は、資生堂の化粧品部の建物です。タイトルには、「アール・ヌーボーからアール・デコへ」と書きましたが、ここの亀屋商店の建物は、明治40年代ぐらいに建て替えられます。この建築はアール・ヌーボー様式で建てられたものです。先ほどの煉瓦街の建築が1世紀前のイギリスのスタイルを再現したとお話ししました。それから30年しか経っていないこの時代、明治40年代は、ヨーロッパの芸術の動きに敏感になってきています。ヨーロッパでアール・ヌーボーがはやり出してからそんなに時間差がないはずです。10年ぐらいでしょうか。そういう時代の敏感さが、先ほどのショーウインドーと同じように民の力で出てきています。
(図28)
 この建物は、辰野金吾が設計した資生堂化粧品部です。大正7年にできます。この化粧品部、普通のといっては、大先生に怒られてしまうんですけれども、素晴らしい近代建築です。ただ今日において、驚かされるのは、この入り口の部分にアール・デコが使われているということです。アメリカでアール・デコがはやるのは1920年代ですから、大正7年というのは、それより前、ヨーロッパでアール・デコが何となく専門家の中で魅力的な芸術だと思われ始めた時です。そんな時期にここの1階にアール・デコのデザインが見られるのです。資生堂の初代社長の福原信三は写真家でもあり、芸術家でもあったという背景があるんですけれども、この時代の銀座はこういう新しいもの、しかも時代に褪せない優れた芸術をしっかり受け入れる土壌を持っていたということが言えると思います。



6.江戸と明治を活かしたモダン都市の再生

 

 (図29)
 6番目は、昭和初期の話をしたいと思います。先ほどお話しした江戸も、煉瓦街時代も、明治、大正期も、常に歴史をしっかり踏まえながら新しいものを展開してきたという背景をわかっていただけたと思います。
 私は戦後生まれですからわかりませんが、会場には昭和初期の銀座、戦前の銀座の華やかさとか、賑やかさをご存じの方もいらっしゃるかと思います。その賑やかさが都市構造上どういうふうにしてできたのか。私が、もう1つ最大の魅力として挙げる時代が昭和初期の銀座です。
(図30)
 ここに挙げている色つきのものは3階以上の近代建築が建った建物をプロットしています。バラバラに建っているように見えます。こんなバラバラに建っていて、しっかり空間ができるのかと思われがちですが、丁度この時丸の内は整然とした100尺の高さ制限を限度まで建てた建物が街並みを作り上げました。どちらがいいとか悪いとかいう問題ではないんですが、丸の内のようなスカイラインの整った整然とした街並みを作るということも大変魅力的です。当時の丸の内はそういう魅力を十分に持った街であると私は思います。
 しかし一方、賑わいという観点から言うと、私は、モダン都市と言われた銀座は、丸の内と全く異なる都市空間を作りあげるのですが、丸の内と比較して勝るとも劣らない街並みではなかったかと言えます。それは何かと申しますと、銀座の持っている、先ほどから登場している路地と敷地との関係と、近代建築が立地する緊張感があります。土地と路地というのは、空間を制約していますが、同時に街の歴史をしっかり押さえているのが敷地と路地の作りだす都市構造とも言えます。そこに建築がしっかりと表現したいというふうに入って来ます。入って来るんですが、歴史的な構造の中に入って来る時に、簡単に入って来れないわけです。入って来れない時には、それぞれの建築を魅力的にするために、空間の規模以外に何かを工夫しながら入ってきます。そして、そこには街との関係で空間を作る上の緊張感が生まれてくるのです。銀座はそんな大きな近代建築は建たなかったのですけれども、それぞれが充分に銀座という街で役割を演じています。そのなかでも、一番大きそうに見える建物が松屋です。隣の伊東屋の文具店は、今は2丁目にありますが、当時は3丁目にありました。松屋や最近建てかわった交詢社、このぐらいが最大級の建物でした。あと面的に言えば泰明小学校が最大規模です。服部時計店は建築面積が大体230坪ちょっとですから、それほど大きくはありません。そういう建築が、江戸から明治にかけての都市構造の枠組みの中で競い合って作られたのが昭和初期です。
(図31)
 すなわち、近代建築の立地する場所は、敷地と路地の制約と妥協できた場所しか出てこないわけですから、これは、街としての緊張感を私はいい意味で作りあげていると感じています。再開発をすると、街の個性が失われる原理は、その街が継承し続けてきた都市の文脈を断ち切って新たな空間を再構築するからに他ありません。実際、権利関係を調整することは大変でしょうが、空間を作るには更地にした方が簡単です。ほとんど考えなしに、既存の技術で作れるわけです。
(図32)
 銀座には、大店サイズ、町屋敷サイズと町家サイズの近代建築があります。大店サイズと言うのは町屋敷2つ分、幅20メートル、奥行き40メートルぐらいの建物です。ちょうど和光のビルは230坪、そのくらいの大きさです。銀座を歩いていて、今でも「これは残っているな」と思いながら通る、2丁目の越後屋ビルは町屋敷サイズです。上の部分とか下の部分が多少変化していますが、昭和初期の建築です。
(図33)
 これは町屋敷の規模で、ちょうど5間ぐらい、幅10メートル幅でできたビルです。もともと、江戸時代にあった敷地の構造を利用したものです。好意的でない方はそういうことしかできなかったんだろうと言われますが、私は、それをあえて踏まえて緊張感を持ったから、昭和初期の銀座はモダン都市としてすごく輝いたと思っています。
 ひょっとしたら、できなかったのかもしれないけれども、昭和30年代、1960年代の高度経済成長に比べれば、はるかに昭和初期が魅力的だったということは、少なくとも、敷地を利用する限界を越えない意思があったということで判断したい気がしています。そのために、街自体はヒューマンなイメージを残しながら、非常に活性化したと言えます。
 参考として見ていいただきたいのですが、これは銀座通りにあった江戸の大店です。間口10間ぐらい。こういう間口の建物と、10メートル5間ぐらいの建物、そして、より小規模な町家というサイズ、2〜3間程度の間口サイズがあります。ペンシルビルと呼ばれているビルが、これに相当します。これらが銀座の都市空間を構成する基本的な建築規模の流れです。これが今でも延々と続いているわけです。
 ちなみに、これは先ほど裏通りの話をする時に赤で塗られていた道、ここだけが消えましたという通りです。江戸名所図絵には、しっかりと失われてしまった道が描かれています。



7.高度成長期に歪められた歴史的都市構造

 

(図34)
 ここからは高度成長期の問題点を指摘し、問題点を整理していきたいと考えています。まず、銀座の掘割の話から入りたいと思います。銀座というのは、寛永期の江戸図や明治初期の地図を見ていただいておわかりのように、周辺を掘割に囲まれた町でした。完全に囲われていますので、橋が20近く架けられていました。ですから、掘り割りを渡らなければ銀座にはやってこれない。完全に別の領域に入っていくという雰囲気を持たないと、銀座には入れなかったのです。これは別の町に入るというかなりの緊張感があったと思います。ダラダラと町が外に広がる、という環境ではなかったということです。
(図35)
 ちなみに、この風景を説明させていただくと、丸の内橋と書いてあります。丸の内橋をご存じの方は、昭和30年代ぐらいに10歳以上の年齢の方で、ひょっとしたら丸の内橋を渡っているかもしれません。丸の内橋を渡った所が銀座教会です。これが外堀です。水が満々とたたえられております。その奥に見えるのが、今の阪急デパートで、当時はマツダビルというビルが建てられていました。右側に折れると数寄屋橋の交差点になります。このような豊かな空間が水辺にあり、そこから別の空間に入っていくわけです。このような感覚を作りだしていることは、銀座自体かなり独自性を持った街であったと言えます。
(図36)
 煉瓦街が明治5年から10年の間に作られ、都市空間としてのまとまりができたように思われがちですが、実は掘り割りができた380年前から銀座というのは1つのまとまった環境でした。掘割で囲まれた環境を作っていたということは、街のまとまりを考えていく上で、すごく好条件であるような気がします。というのは、銀座は、現在銀座1丁目から8丁目という名前がついていますが、槍屋町とか竹川町とか、さまざまな名前で町が小さく割られて成立していました。先ほど言った両側町の構造をしっかり持ちながらこれらが独自性を保ちながら戦後まで来ている。今でも1丁目、8丁目などと言わずに、ご高齢の方は竹川町だと言っている方もいらっしゃるということを聞きます。
 掘割の写真を撮る時に、先ほどの写真家の方は完全に水が満ちた時、空間の豊かな時に撮ってくれるんです。これは別に悪気はないので、文句言っているわけじゃないんですけれども、道路公団の方が撮られる時は水が引いた、一番汚いときに撮るので、いつまでも汚いなと思われてしまう。意図的ではないと思うんですが、その辺は少し気にしていただきたいなという気がします。
(図37)
 これが高速道路です。丁度かつての掘割の上にできています。これが三十間堀です。現在は、宅地になっています。チョンゲチョンという、韓国ソウルの中心部に流れていた川を高速道路にしたところがありました。今話題になっているので、皆さんご存じかもしれませんが、近年高速道路を取っ払って、水辺を再生させた事例があります。しかも都心部でです。韓国にできて何で日本できないのかというのが私には疑問に思えます。チョンゲチョンのあるソウルでは、どのように高速道路を取っ払えたかという状況を見ると、市長選挙の公約にかかげて、当選したので実行されたわけです。日本はあれほど荒っぽくできないのかもしれないと思いますが、決断の力強さは日本も見習っていただきたいなという気が少しいたします。
(図38)
 これ、南北路地に入る入口です。ここに写っている壁は銀座7丁目の角のザ・ギンザです。脇に豊岩稲荷の碑があります。そこから入って行けるようになっています。先ほどもお話ししたように、銀座というのは、通りに並行した路地が、今でも何本か通っています。その路地は、端から端までずっと歩けます。明治期には、そういう路地がいっぱいありました。
(図39)
 これは20年ぐらい前、銀座4丁目の宝童稲荷のある路地の写真です。生活感がにじみ出ています。町内会の人たちも皆さん元気だった頃の風景です。銀座の方にお話を聞くと、当時と比べてずいぶんと元気がなくなったと話されていました。もう一度銀座の町内会の人たちも元気になっていただけると、銀座はすごく魅力的になるのかなと思います。街は、地道に支えている人たちの力が街の活気の見えない部分を支えているものです。たいしたことがないように見えて、思いのほか重要なポイントのように感じています。
 余り大きな話題や変化ではなく、今までやってきた積み重ねをアピールして表現するだけでも、銀座はみんなの注目するところではないでしょうか。私が今日水辺の話をするとしたら、50人ぐらいしか来てくれなかったんじゃないかという気がします。銀座の話で200人近く、200人を超えているかもしれません、そういう多くの方が来てくれているというのは、銀座に魅力を感じている人たちがかなり多いということです。今日、私は銀座のお話をさせていただいて大変嬉しく思っています。それは、まだ私の気づかない銀座の価値が維持され、意識されていることを感じていいるからです。
(図40)
 「まちづくりビジョン」で、藪野健さんという画家の方に銀座の未来図を描いていただきました。気軽にお願いしてしまったのですが、抽象的なイメージから具体の空間としての絵として描くのですから、大変であったと思います。
 私がここで問題にしたいことは、ここに描かれている空間のあり方がいいかどうかといことは別にして、路地裏の活性化は、銀座にとってかなり魅力的な変化になり得るという意識があります。銀座は、煉瓦街という伝統と同時に、今生きている路地の魅力、行かれるとわかるんですけれども、普通の路地と違う、何か違う空間の圧力なり面白さを感じていただけると思いますので、是非時間がありましたら、銀座の路地を探索してみてはいかがかと思います。
(図41)
 街を壊す背景には、いろいろあります。個々の建築の変化では、あまり意識されないことも、面として見た時に街を大きく壊してしまっているということがあります。ここに緑色でかかれているのは、1960年代から1972年まで、12〜13年ぐらいの間に建った建物です。現在と言っても徹底的に調査をした1994年時点ですが、かなりの建物がこの間に建てられているという状況がわかると思います。戦後から1994年の間、50年近くのスパンの中で、高度成長の十数年で一挙にビル化してしまったのが銀座です。現在少しずつこの緑色が建て替わろうとしている状況があります。私が大変気にしていることは、高度成長期そのままに、あるいはそれを上回る歴史的都市空間の文脈の崩壊をまねくことです。
 高度成長という時代は、大変乱暴なことをしたのではないかという気が私自身にはすごく強くあります。何百年もじっくり変化をしながら土地が動いてきた状況が、この高度成長期の10数年の間に、300年以上もあり続けなかった規模の空間を一挙に作りだしてしまったのです。このギャップがかなり銀座の風景にも景観にも、さらに目に見えない街の構造にも、大きく影響したと私は思います。その影響した問題を今の時代にやっと少しクリアしはじめたのかなと感じはじめていました。それは、銀座の方々が危機感を持って街づくりを5年位前からはじめ、その成果も少しずつ実を結びはじめていたからです。同時に、オーバースケールした空間を持ちながらも、銀座はそれを取り入れながら、今までの構造をうまく活性化できるんじゃないかという時代に入ったのかなという気がしていました。
 しかし、何となく今までのルールとは違うもっと大きな流れが現在でてきています。銀座の皆さんが守ろうとしはじめているルールに対して、突如として別のルールが現れるのは大変大きな問題であるという気がする次第です。
 何を言おうとしているのかと言いますと、都市再生法です。落下傘的に、都市の歴史的な環境を読み込んだ上で、その街をどうするかという背景のないままに、巨大空間を作り得る可能性を用意するのは非常に問題なのかなという気がしています。そのことが銀座でふさわしいかどうかというのは、これからのいろんな人たちとの議論とか、銀座の方たちの議論の中で見えてくる話だとは思います。



8.これからの銀座の街づくりの方向性

 

 (図42)
 そろそろ時間も終わりに近づいてきましたので、私が現在何を考え、どういうふうにしていくべきと考えているか。このような考えの方向に進むことによって、銀座は今後よりよい環境を維持して、新しい活性化が生まれるのではないか、というお話をして終わりにしたいと思います。
 再三お話しすることになりますが、銀座は2度輝いています。近代に2度輝いた街というのは私はあまり知りません。何となく輝いたという話はあると思いますが、とびきり2回も輝いてしまった街というのはなかなかないと思います。それも江戸をしっかりベースに持ち、それとの融合で2度とも輝いてしまったのは、銀座の財産だと思います。
(図43)
 私は、商いから来ている銀座フィルターと同時に、銀座の街の歴史をはぐくんだ銀座フィルターがあると考えています。三枝さんに、勝手な解釈で銀座フィルターを使うなと怒られてしまうかもしれませんが、こうした銀座フィルターが銀座にあって、それを空間として銀座の方たちが共有していくべきではないだろうかと思っています。
 それはどういう意味かと言うと、今世の中にかなり浸透して、どこの街も使っていますが、「人に優しい」とか「持続可能な」という言葉があります。そういう意味で、銀座はもともと武家地ではなく町人地であります。町人地の構造を延々と維持してきたという環境が銀座にとっては重要なことです。すなわち、歴史的に「人に優しく」、「持続可能な」街であり続けてきたのが銀座であると言えます。
(図44)
 はじめの方で、銀座は近代グリッドの中で変えたのではなくて、江戸時代の町を作り出す構成の中で生まれたという構造的な話をしましたが、銀座は今でも両側町で街が構成されています。多少範囲が変化している状況はありますが、こうした通りの両側が同じ町会で構成されていることは重要なことです。並木通りと銀座通り、この通りに対して、両側の方たちが一つの町会の一員であるわけです。普通だと、銀座通りの右と左で町会が違うケースの方が一般的に思われるかもしれませんが、銀座は延々と町内会を江戸時代から継承しているのです。街づくりを考えていく上では素晴らしい状況があります。これを銀座の方たちは大事にしていくことが重要だ、とずっと考え続けています。
(図45)
 そろそろまとめに入りたいのですが。銀座は、歩くことが基本である江戸時代の都市計画を極めて忠実に維持してきた歴史があります。その歴史を大事にしてきた銀座の方たちも当然いて、それが今日においても意味を持っているということです。それと同時に、先ほどから何度も何度も言っている煉瓦街の建設、それから震災復興、これは「銀ブラ」という言葉に象徴されるように、ヒューマンな空間を意識して、街の再生をしてきたという歴史があります。銀座の自負がそこにあるのではないかと思います。その自負を曲げてまで、新たな空間を模索する必要性はないのではないかというのが私の考えです。
 ヒューマンなスケールというのは、平屋建てがヒューマンだという話をしているわけではありません。ある限られた条件、先ほど4つのルールという話をしましたが、この条件の中で、どのように魅力的な空間を作れるかということです。そのことは街の培ってきた個性を損なわずに新たな個性を誕生させることです。多分、今不景気な世の中で、クライアントの人たちに頑張れ頑張れと表立って言うことはなるべく避けたいと思いつつも、でも、頑張ってくださいと言いたいところは、建築家なり都市計画家、そして、私みたいな歴史を相手にした人間も含め、しっかりと街のあり方を理解するということが重要です。建築家は建築を作る時に街の特色である緊張感を味わって、古さを克服していただけると、豊かな建築空間ができるんじゃないかということです。
 そういう空間を作るのがヒューマンスケールの街づくりの一環ではないかと私は考えています。
(図46)
 最後になりますが、最初に銀座のこの部分をお見せしましたが、もうちょっと範囲を広げて見ていただきたいと思います。これが汐留シオサイトです。こうして見ますと、現実に建っている建物なんですが、私は何かスケールを変えて空間を作っているような気がしてならないのです。汐留シオサイトがいいとか悪いとかいう話ではなくて、銀座がヒューマンスケールで都市を楽しむ、歩くことを楽しむを基本コンセプトで考えているのであれば、おのずと方向性が見えてくるのかなと感じています。
 銀座の方たちの発意で「銀座街づくり会議」が今年の春ぐらいに発足しました。今銀座の方たちと街づくりをどういうふうに進めようかということをいろいろ議論し合っています。できれば、皆さんも活力のある魅力的な銀座になるために応援していただくと助かります。
 というお願いの言葉を含めて、今日はありがとうごさいました。(拍手)



フリーディスカッション

 

與謝野
 岡本先生、大変ありがとうございました。
それではご質問をお受けしたいと存じます。歴史を通じて、現在を読み、未来を見通すという大変含蓄の深いお話でございました。きょうは銀座で商いをされてる皆さんも来られていると聞いていますが、どうぞご自由にご質問していただけないでしょうか。
野崎(NOVA建築計画研究所)
 中央区の八丁堀の近くで設計事務所を構えている者です。今日は、岡本先生から、私が日ごろから考えている江戸から東京に至る都市構造の素晴らしさをお聞きして、我が意を得たりという感じを得ました。3カ月ぐらい前に日本橋の街づくりアイディアコンペというのがありました。私は隅田川のそばを転々と移転しながら設計事務所をやっていまして、水、運河という人工的な水辺空間であっても、水という自然を抱えている江戸の町の素晴らしさをことごとく食いつぶした戦後の東京のあり方に、大変不満を持っているわけです。
 最後のシーンのところで、銀座は江戸以来の歩ける都市の楽しい空間を持っている都市構造だ、というお話があったわけです。私も、日本橋のアイデアコンペの時に提案したのは、とにかく車が縦横に、裏通りまでも駐車場化して、人間を排除している。江戸のせっかくの遺産である、両側町の都市空間を車が占有している。これを根本的に変えない限り、新しい展望は生まれないんじゃないか、という提案をさせていただいたわけです。残念ながら入選にもなりませんでした。
 先生のお話の中には、余り提案というような形のものがなかったので、建築家として具体的に提案しようと思うと、道路で車をいかにコントロールするかということと、人間の歩ける道に復活するかというのと、江戸時代の堀といいますか、運河の再生、をどうやってするか、ということが非常に重要な根幹じゃないかと思っているわけですが、先生のご意見を聞かせていただきたいと思います。
岡本
 今のお話は、私にとっても大変意味のあるお話です。1つは、水辺の再生に関して、30年前ぐらい前から東京の掘割はしっかり再生しなきゃいけないと言い続けているんですが、どうも技術論からでは難しいような気がしてなりません。ここ10年、何が一番大切かというのは、多分大きなインパクトとを与える一方で、当事者みんなが楽しむ姿勢が必要だと思っています。
 銀座が歩く街だ、歩くことが魅力的だというのは、私自身は銀座の方たちと一緒に歩く楽しむことです。それを自分たちがしっかりできるかどうかが、街づくりには決定的な要素だと思っています。残念ながら、私が水辺のことをやっていて、すごく問題が大きかったのは、楽しむ人が一緒にいなかったことです。銀座は、今銀座の方たちと一緒に歩ける楽しみがあるので、これは本当に面白いよ、路地も入って面白いよという宣伝をすることがかなりできます。
 水辺に関して、今問題だったなという気がするのは、楽しさを地域の人とどう共有するかということだったと思います。運動では自動車も減らないし、どうしようもないと私は思います。むしろやっている人たちが楽しんだ方が効果がある。水辺に関しても、4月から8月まで中央区の市民講座を下手なしゃべりでやって、川を上りおりしました。隅田川、神田川、日本橋川に、30人くらいの市民の皆さんと一緒に、行きました。大変喜んでいただいて、「楽しい。これからもやりたい」という声が聞かれました。こういう体験がすごく大事だと思います。身近にできなくなった体験を身近にできる、それが重要なことではないかな、という気がしています。あまり仰々しくやらない方がよいのかもしれません。
 銀座の路地は歩いていけばいいので、すぐ身近に体験できます。私はなるべくスピーカーになりながら、あそこが面白い、ここが面白いと言っている状況です。余り答えになってなかったかもしれないですけれども、そういうふうに思います。
野崎(NOVA建築計画研究所)
 夜の路地は楽しいですよ、銀座は。
岡本
 私は専ら昼間が専門です。残念ながら夜に甲斐性がないものですから、夜の銀座のフォローが若干弱いかもしれません。
岩國(衆議院議員)
 岡本先生、ありがとうございました。衆議院議員の岩國哲人でございます。今日はとてもいい勉強をさせていただきました。
 私は、銀座通り商店街と出雲市長時代に交流をしたことがあります。それから世界の各地に勤務して、いろんな都市を見てきました。今先生がおっしゃった道を歩いて楽しむということが、そういう都市と出会って、とても楽しかったことを思い出し、そして、銀座という日本にそういう街があったんだということをもう一度思い出すことができて、とても嬉しく思います。
 1つは感想、1つは質問ですけれども、世界のいろんな都市で、例えばアメリカのチャールストンとかサバンナ、フランスのアヌシー、ボーヌ、それから、エクサンプロバンス、こういうところは歩いてとても楽しい街なんです。銀座とは、それほどの商業の集積地じゃないという違いはありますけれども。
 そういった先生のお話を伺いながら、最近話題の六本木ヒルズについて、都市と建築のご専門家としてどういう評価をしていらっしゃるのか。今日は国土交通省の方も大分おいでになっているようですが、今年の国会では街づくり、あるいは景観法、いろんな法律が誕生しました。そういう審議をしている中で、私は、六本木ヒルズというのは東京の中で1つの建築あるいは街づくりのいい意味のお手本なのか、どうなのか、疑問に思うという発言をしたことがありました。こう言ったことについて、建築のご専門家としてどういう評価をしていらっしゃるのか、ちょっと伺ってみたいと思います。よろしくお願いいたします。
岡本
 特に日本の戦後は、街のことを余りに考えなかった時代ではないかということを私はすごく感じます。最初の問題提起、個性と開発の話をしたと思います。開発をするたびに個性が失われているというのはどういうことなのか。1つは、都市を形成している構造を読み込まないような開発を試み過ぎているのではないかということです。これはやはり歴史というのは枕言葉ではなくて、脈々と生き続けてきた都市空間をどう活用して生かしていくかという話です。そのために、再開発手法は、先ほど簡単に言いました町人地と大名屋敷ではおのずと変わってくると思います。大名屋敷でも、その環境によっては別の解がでると思います。
 六本木ヒルズに関してですが、基本的に私はあのような超高層主体で街を作る姿勢はよくないと思っています。なぜかと言うと、規模が大きくなればなるほど、空間を閉じなければ成立しないからです。なぜ成立しないかと言うと、空調もそうですし、すべてのことを外と融合させるためには、規模が大きくなればなるほど内側で処理しないと、メンテナンス面でも何もかも大変な問題になるからです。大変なランニングコストかかると思います。外側の町と融合しましょうと言って、いろんなところにドアをつけて連続した街並みを作っていくことは、セキュリティーに問題がありますし、内部空間を作る環境にも問題があると思います。
 あのような超高層を主体とした建築環境を、構造的にどうとかという話は私は余りできませんので、あれがオープンにできるのであれば、場所を限定すればある程度私はやってもいいような気はします。ただ、そんなオープンにするような空間ができるのかということは、すごく疑問があります。今までも、こういうことができますよといって、そういうふうになった例はほとんどないからです。
 例えば、銀座に六本木ヒルズが建つとすると、あのままの形ではないとしても、必ずクローズドの空間を作らざるを得ないと思います。問題なのは、周辺に毛利庭園を作るとか、いろんなことをしましたが、街の環境というのは張りつける環境ではなくて、街の環境の中にどう建築が緊張感を持てるかという話だと思います。そこが重要なのです。
岩國(衆議院議員)
 どうもありがとうございました。
 私も世界のいろんな街を歩きながら楽しんできました。それを私は、道を楽しむ、「道楽都市」という名前を勝手につけております。21世紀、長寿高齢化社会の中では、街づくりも、道を楽しむ、道楽の街づくりが1つの役目になってほしいなと思います。建築関係者の方もたくさんいらっしゃるし、先ほど銀座の方もおいでになっていましたけれども、ぜひ銀座を道楽の町として守っていただきたい。そのように思っております。ありがとうございました。
羽賀(JR東日本コンサルタンツ)
 銀座フィルターのお話、非常に興味深く聞かせていただきました。銀座を歩いていまして、特に外資系のブランドのお店が非常に増えてきていると思います。丸の内みたいなところに外資系のブランドのお店が来ても、あんまり抵抗を感じないんですけれども、今日のお話を伺っていて、銀座という街に外資系が入ってくるというのはどう評価したらいいのか、という感じがちょっとするんです。
 いろいろ町内会のお話、連合会のお話がありましたけれども、そういった商店会、連合会の会合にもそういった外資系のお店の方々も参加され、銀座の議論をなされる機会があるのか。そういうところをちょっとお伺いしたいと思います。
岡本
 最後の質問は、私よりも銀座の方に聞かれた方が多分正確な答えが出ると思いますが、私の少ない知識で申しますと、外資系の方々もかなり参加しています。かなり参加しているというより、想像以上に熱心です。ブランドのお店が出店する時にブランドの責任者の方が、本音かどうか別としても、必ず言う言葉に、「私たちは銀座に歴史や街としての魅力があったから、ここに出店したんだ」ということがあります。実は、シャネルのコラスさんという人が、先月シンポジウムがありまして基調講演をされたんですが、実に銀座のことをよく勉強しています。正確に銀座のことを理解しようという姿勢が感じられます。
 今のお話とちょっとずれますが、コラスさんのその時の言葉で大変印象的だったのは、「ヨーロッパは壊すのに理由がいるけれども、日本は残すのに理由がいる」という話をされていました。私はドキッとしました。日本は壊すのに理由は要らないみたいです。簡単に歴史的建造物も壊してしまうという背景が、フランス人のコラスさんにも強烈に感じているのかなという印象を持ちました。これは日本人としてまずいのではないかというのを感じています。余談ですが、そういうふうに思っています。
小畑(都市再生機構)
 今日は素晴らしいお話を聞かせていただいてありがとうございます。
私も銀座のことが大好きで、昼間の路地探索をやっている方です。目からうろこのお話をたくさんいただきました。質問の前に1つだけ。先ほど岩國さんがご質問されたこととも、外国人が銀座を物すごく評価しているということを私も感じております。失われた10年の間に多くのブランドショップが海外から銀座に来たとことは、本当に素晴らしいことだと思います。
 私の知り合いのオランダの専門家も、銀座ほど素晴らしい街はないとおっしゃいます。1つずつのビルを個性を持って建てているけれども、全体のバランスが保たれている。そんな街は他にないぞということを言っておられます。もう少し古くは、先ほど1960年代に銀座がビルドアップされたということなんですけれども、1960年当時、世界の都市計画と建築が間違っているということを指摘されたジェイ・ジェイコブスというアメリカのジャーナリストがいらっしゃいます。その方が日本に来たかどうかわかりませんが、その方の仲間がたくさん銀座を見に来て、こんな素晴らしい街はないとおっしゃった記録が建築雑誌に載っていたのを私は記憶しています。1960年代というのは、多分銀座が一番だめだと日本人は思っていたんじゃないかと思うんですけれども、その辺についての先生のご見解をお聞きしたいと思います。
 もう1つは、先ほど明治期に政府がやったやり方が、江戸期をうまく継承してというお話で、確かにそのとおりだと思うんです。政府は銀座の都市計画をウォートルズに頼みましたね。ウォートルズに任せたんだけれども、ウォートルズが江戸の町の良さを評価したことがつながっているんじゃないかと思ったので、その辺についてのお話をちょっとだけお聞かせいただければ嬉しいと思います。
岡本
 あとの方の簡単な方からお話ししますが、イギリス人のウォートルズの話ですね。煉瓦街の建築なり都市計画に関しては、今都立大の名誉教授の石田先生が、ウォートルズ以外にもう1人、マクバーンという都市計画の専門家が背景にいたんではないかというお話をされています。私もそうかなと、銀座の都市構造の分析しながら感じていました。その辺の資料は、石田先生がどのようにお見つけになったのかはわかりません。しかし、素晴らしい研究になると思っています。
 繰り返すようですが、私の研究のベースは、実際の具体的な構造を読み解いて、それでどのように都市空間の構成なり、構造の変化があったかということを研究しています。けれども、そういう観点からも、少なくともウォートルズが建築だけにかかわり、もう1枚、マクバーンかどうかは別にして、外国の都市計画家が銀座の煉瓦街建設計画にかかわって、この街が形成されたという気がすごくしています。その辺の人たちの全容が見えると、もっと違う銀座感、銀座の違った世界が広がるのかなと思っている次第です。
 はじめの1960年代の話ですけれども、私はここが銀座の境目の部分かなと考えています。ただ、私は現在、銀座は1960年代にいい試練をしたのかなという気がしています。ということは、この40年ぐらいの間に、銀座の人たちはいろんな意味でかなり苦労したんではないか思うからです。文化面も含めて苦労した部分、それを糧にしてこれからの将来を組み立てていく必要があります。現在の銀座は、私がよく言っているんですけど、近代に入って、2勝、負けに近い1引き分けを引きずっています。しかしひょっとしたら、2.5勝ぐらいの話になるかなと、そういうふうに思いいはじめています。
 もう1つ、オランダの方の話がありました。どうして日本の町のすばらしさを日本の人は自身で語ってくれないのかな、というのが私の気になっているところです。私は、銀座の研究をやる時に、最初の5年は銀座をけなした、問題を指摘した研究をしてきました。しかし、これでは銀座が全然読めないと思いまして、銀座を褒めました。褒めながら研究をしました。その結果、いろんなことが見えてきました。先ほどの水辺の話ではないですけれども、研究も何も楽しみつつ、しっかり目を見開いてやった方がより面白いことができるのかなと思います。私を含め、日本の人たちは自国の良さほめることをあまりしません。よいところはしっかりとほめるべきであるのではないでしょうか。ほめられないとやる気も失せると思います。
與謝野
 それでは、時間でございますので、これできょうの岡本先生のフォーラムを終わりたいと思います。歴史をシッカリと振り返って、先人の英知に触れ、現代と未来を読み通すという今日の岡本先生のお話は、大変に含蓄の深いお話でございました。大変ありがとうございました。(拍手)
ありがとうございました。
 

 


back