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第204回都市経営フォーラム

これからの国土づくり

講師:青山 俊樹    氏

独立行政法人 水資源機構 理事長

日付:2004年12月14日(火)
場所:日中友好会館

1.わが国土の抱える5つのハンディ

2.人口

3.美(うま)し国をめざして

フリーディスカッション



 

 

 

 

 

與謝野
 それでは、時間でございますので、本年最後になります第204回目の都市経営フォーラムを開催させていただきたいと存じます。
 本年もあと3週間足らずということで押し詰まってまいりましたが、皆さん大変お忙しい中をお運びいただきましてまことにありがとうございます。また、日ごろより本フォーラムをご支援、ご理解いただきましてありがとうございます。大変高い席からではございますが、改めまして厚く御礼申し上げます。
 さて、皆さんご高承のとおり、昨年の7月に国土交通省から「美しい国づくり政策大綱」が提示されまして、ことしの9月に景観法が根拠法として国会で成立し、この12月から各自治体で施行され出しております。各地方自治体においてこの法律に基づいて、孫の世代に誇りを持って引き継げるように、それぞれの地方の立地環境を生かした郷土づくりといいますか、国づくり、まちづくりの再建がこれから改めて取り組まれるところとなるわけですが、一方、皆さんご承知のとおり、今年は台風も大変多く、地震をはじめ自然災害が多い年でもございました。国づくりにおける美しい感性、文化性、歴史観、風土等に対する考察も必要ですが、あわせて国土の安全と安心も問われている時代であるわけであります。
 こういう課題山積の我が国の国土づくりにおいて、ここでどのような「道筋」でこうした多分野にわたる課題に臨むべきかということについて、我々に貴重な示唆をお示しいただけれぱという思いから、元国土交通省事務次官でいらっしゃいました青山俊樹様に本日のご講演をお願いさせていただいた次第でございます。
 青山様のプロフィールについては、お手元の資料にございますように、長年建設省にお勤めになられ、平成14年7月に国土交通省事務次官に就任され「美しい国づくり政策大綱」の起案のご指導にあたられたとお聞きしております。現在は、独立行政法人水資源機構の理事長をお務めになっておられます。
本日の演題は、ご案内のとおり、まさに「これからの国土づくり」とされ、裾野広い視野からのいろいろなお話をお聞きできるのではないかと楽しみにしております。
 それでは、青山様よろしくお願いいたします。

青山
 ご紹介にあずかりました青山でございます。都市経営フォーラムの204回目を担当させていただくという大変ありがたい機会を与えられたと思っております。
 私は、ご紹介ありましたように、現在、水資源機構という独立行政法人に勤めています。私どもの機構は、利根川、荒川、豊川、木曽川、淀川、吉野川、筑後川という7水系に関する水資源開発、ダム管理、水路管理等を担当いたしているわけでございます。
 まず、冒頭に、今年の災害は、特に台風が10個も我が国に上陸し、平年値の3倍ないし4倍の多さですが、その状況を皆様に簡単にご説明させていただければと思います。



1.わが国土の抱える5つのハンディ

 

(図1)
 今年は、九頭竜川の支川の足羽川や、新潟の信濃川水系の支川など、大雨に襲われ氾濫した河川は多くありましたが、大変な大雨に何回も見舞われてそれに耐えた川があります。それがこれからご紹介させていただく吉野川です。
(図2)
 この図でお分かりいただけますように、平成16年は、7月から10月にわたって10個もの台風が上陸しました。それも、いずれもスピードの遅い大雨を降らすタイプの台風でした。この原因は何だろうということですが、気象庁などの見解では、やはり日本の南方の海水温が高かった。これが1つの大きな原因である。そのために太平洋高気圧の勢力も非常に強かった。それから、太平洋高気圧がこのように張り出した縁を通って台風がどんどん北上していって、本土上陸コースをとった。それも海水温が高いがために、水蒸気の補給が非常に頻繁にあるものですから、台風自身の勢力は衰えずに、なおかつ、ゆっくりとしたスピードで本土を上陸し、多くの雨を降らせたということでした。
 中でも、吉野川筋は非常な大雨が降りました。6月21日から台風6号。それから台風10号が8月1日。台風15号が8月17日。台風16号が8月30日。台風
 18号が9月7日。台風21号は9月29日。そして、非常な大雨で死者、行方不明者合わせて80名以上の被害を出した台風23号が、10月20日という極めて季節外れの時期に来たわけでございます。
 この中で、台風23号が、吉野川筋では、池田ダム地点において計画規模を超える洪水をもたらしました。それから、台風16号における洪水は、吉野川筋の池田ダムで管理開始以降最大の洪水をもたらし、この時には2晩、3晩徹夜で、洪水調節のための大変な操作をしたわけです。
(図3)
 これは私自身が8月1日に池田ダムに参りまして撮った写真です。香川用水30周年ということで、その取水口であります池田ダムに行きました。その時、台風10号で大雨が降っておりまして、池田ダム下流の洪水がピークで7900トンですが、この写真を撮った時点では7000トン弱の洪水がありました。写真でお分かりいただきにくいかもしれませんが、この建物にもヒタヒタで水が来ております。この小さな建物は、もう既に水につかっているという状態でございます。音が聞こえないのが残念なんですが、非常な轟音で川は流れ、川の真ん中が盛り上がって洪水が流れている。こちらが上流、こちらが下流でございます。ものすごい濁流が流れておりました。
 私は、7000トンクラスの洪水だけでも、この川岸に立ちまして、非常に恐ろしさを感じたわけですが、台風16号の時には、この池田ダム地点が12,000トンの洪水になっております。これよりも5,000トン多い洪水です。それから、台風23号の時には池田ダム地点で11,585トンの洪水がありました。これはいずれも、観測史上1位、2位という大きさです。1位、2位の洪水が今年の夏は2つ発生しました。いかに洪水がたくさん起きた年か、ということがお分かりいただけるかと思います。
(図4)
 これら洪水に対して、ダム群は必死の洪水調節をいたしました。16号、23号による大洪水では、1メートル近い水位を下げることができたわけです。下流の三好大橋付近で約1メートルの水位が下がりました。この1メートルと言いますのは、ある意味では大変貴重な1メートルです。これが高ければ、恐らく吉野川本川が堤防区間でも破堤していたんじゃないかということが推測されるぐらい、極めて貴重な、破堤するかしないかの1メートルです。この1メートルの水位を下げる、という洪水調節を行ったわけです。
 なお、河川では、危険水位よりもはるかに高い水位が洪水で生じていました。
(図5)
 この図は、実際の23号におきます富郷ダムの洪水調節についてです。吉野川というのは、大きな川としまして早明浦ダムのある本川、それから、愛媛県から銅山川という大きな支川が流れてきますが、その2つの大きな川が合流して、池田ダムに入り、さらに徳島に注ぎます。
 この大きな支川の銅山川の最上流に、富郷ダムという私どものダムがあります。これは緑の線が放流量で、赤の線が流入量です。流入量に対して、この黄色の部分の量を貯水池に貯めることによって、緑の線の放流量で下流に流すという洪水調節をするわけです。従いまして、この黄色い部分の面積が貯まった量でございまして、流入量より放流量が上回るまでは、どんどん貯水位が上がるわけでございます。ずっと上がっていって、ここから放流量を増やした時に初めて、貯水位が下がるという状況になっていくわけです。これがダムによる洪水調節でございます。
(図6)
 これが富郷ダムの下流の新宮ダムです。これは洪水調節容量が入ってくる洪水の量に比べて少ないために、非常に厳しい、頭をピンとはねる洪水調節をしています。このように極めて、効果的に洪水調節をしているわけでございます。
(図7)
 これは早明浦ダム。この早明浦ダムは、諸先輩また地元の方のご努力で非常に大きな洪水調節容量をとっていますので、極めて効果的な洪水調節ができました。こんなにたくさん、3500トンを超す流入量があるところを、この絵で見ていただきますと、最大放流量は、1500トン強で、2200トンの洪水調節をしています。
 さらに、台風の雨ですので、ほぼ降りやむだろうという予測がつきましたので、ダムの貯水容量をいっぱい使おうということで、計画の放流量よりもさらに放流量を絞り込んで、下流の洪水の水位を下げようという操作をしました。これだけの黄色い部分が貯まって、それに伴って貯水位が上がりまして、約5,000万立方メートルの洪水をダムに貯めたわけでございます。
(図8)
 池田ダムは、非常に厳しいダムでございます。流域面積が大きく、1万トンを超える流量が入ってきました。ダムの貯水容量は1000万立米ぐらいしかないものですから、本当にピークをピョンとカットするという洪水調節にならざるを得ないわけです。この場合は500トン強の洪水調節をしています。それだけで、貯水位がピョンとはね上がるという調節です。
(図9)
 そのような連日連夜の洪水調節をしている、もしくは河川沿いに多くの水防団が出ておられるわけでありますが、その水防団が出ておられるということもご存じなく、下流の方たちは日常生活をしておられるわけです。そういった意味では、縁の下の力持ちと申しましょうか、世の中に知られないところで、このような作業に従事してしている人間がいるということを、ここにご出席の皆様にはぜひご記憶いただければと思います。
(図10)
 今は、吉野川を例に今年の洪水の話をさせていただきましたが、全般的に見ますと、我が国はものすごいハンディを自然現象、社会現象ともに抱えていまです。それでいて、アメリカに次ぐGDPを誇る経済大国になったというのは、まさに、あの戦後すぐの東京も焼け野原、大阪も焼け野原という状態をあわせ考えますと、奇跡に近いと思うぐらいの復興ぶりです。
 この絵は、世界地図の上にマグニチュード4以上の点をプロットした図です。これをご覧いただきますと、日本列島は、どこにあるかというのが、すぐには見つけられないぐらいの赤い点がプロットされています。日本列島には、そのぐらいに地震エネルギーが集中しているわけでございます。
 ご覧のように、ニューヨークとかボストンとかワシントンのありますアメリカの東海岸は、ほとんど地震がありません。また、ヨーロッパ大陸をご覧いただいても、ほとんど白地です。イギリスも真っ白ですし、ノルウェーだとかスウェーデンの北欧諸国も真っ白です。オースラリア大陸も真っ白です。要は、このライン(日本〜マレー半島〜インドネシア)がまさに地震の巣と言えるわけでございます。
 中でも、日本は地震の巣の中心地になっています。これは何故かと言いますと、ご存じのように、いろんなプレートが日本周辺に集まってきているからです。北米プレートがあり、太平洋プレートがあり、フィリピン海プレートがあり、ユーラシアプレートがある。プレートとプレートの境目で地震が起きるわけですから、まさに日本は地震銀座になっています。
 事実、数字で申し上げますと、日本の陸地面積は38万平方キロですから、南極大陸を入れた地球全体の陸地面積の場合は0.1%、南極大陸を除いた場合は0.3%のシェアです。それに対しまして、地震エネルギーまた火山エネルギーのシェアは10%です。世界の陸地面積の0.1%にすぎない日本列島周辺で10%の火山エネルギー、地震エネルギーを引き受けているわけです。地震が頻繁に起こる、もしくは、例えば建物設計をする時に、重力の3割もの水平外力を考えるような設計をする、これは世界中で日本だけだと思います。これは厳しい設計条件を与えているということだけにとどまりません。例えば、山をごらんいただければ、と思います。岩と称するものでも非常にたくさんの亀裂が入っています。我々は、「もまれる」という言葉を使うわけでありますが、たび重なる地震なり地殻変動で岩がもまれて、グジャグジャになっている。きれいな一枚岩というのはほとんどない、という地質状況になっているわけです。
 ヨーロッパ、例えばドーバー海峡のトンネルでも、スウェーデン周辺のトンネルでも、岩盤が非常に安定して、一枚岩でずっと続いている。それ故にトンネルを掘るのも、極めて楽なわけです。私どもの日本の青函トンネルは、非常な難工事であったわけです。それくらい地質がもまれている。
 それから、今回の中越地震でも明らかになりましたように、地震で山が崩れ、それが川をせきとめるという、あの山古志村のような現象が太古の昔から絶えず起こってきました。土砂災害もありますし、山が非常に崩れやすいという条件も抱えているわけであります。
(図11)
 地形的なハンディもございます。日本列島とドイツの国土をごらんいただきますと、ドイツは、平地は固まって四角い形であります。山地は南の方にまとまってあるわけです。それに対しまして日本列島は真ん中に高い山脈が走って、その両側が、極めて短い距離で海に接していて、いろんな意味で難しい国土でございます。
 1つは津波が非常に起こりやすい。この周辺で大きな地震が起こりますと、津波が押し寄せる。明治以降の日本の災害史をいた時に、最大の死者が生じたのは大正12年の関東大震災です。この時は10万人を超す死者がありました。また、風水害で大きいのは、皆様ご記憶があるかもしれませんが、昭和34年の伊勢湾台風です。この時は5,000人の人が亡くなっています。
 実は、それよりもはるかに多い方が津波で亡くなっています。関東大震災に次ぐ明治以降の災害史で2万人の死者を出したのが明治29年の三陸津波です。その時はこの三陸地方では、地震そのものはそんなに揺れがなかったらしいんですね。それで、みんなお祭りか何かでお酒を飲んでいたところ、大津波が何度も何度も襲ってきて、田老町という町では部落が全滅したわけです。生き残った人が32名という記録があります。
 その32名はどうしたのかといいますと、沖合で漁に出ていて、津波に遭った。これは大変だということで港まで来たのですが、津波の勢いが激しくて、港に入れなかった。ところが、港の中には真っ暗闇の中で、流れてきた方の助けを求める声が充満している。夜が明けて見てみたら、家々は跡形もなく消えて基礎だけが残っているという状態だったということです。そういった、非常に悲惨な三陸大津波の経験もしてきたわけです。
 それでも、この田老町の人たちは台地の上に住まずに、やはり生活の便、それから漁へ出る便などを考えて海岸沿いに住んだ。そのかわり、村の総予算に匹敵するぐらいの予算で毎年防潮堤を造っていきました。そんな津波のハンディがございます。
 それから、こういう細長い列島ですので、例えば高速道路ネットワークを作ろうと思っても、太平洋岸、日本海側などの、非常に細長い、延長の長い高速道路のネットワークにならざるを得ないわけです。さらに、太平洋岸と日本海側を結ぼうと思いますと、長いトンネルを掘って、高い山を越えなきゃいけなくなります。
 そういった意味で、トンネル技術も、日本では非常に発達しました。私は、日本のトンネル技術は恐らく世界一じゃなかろうかと思っています。それはどういうことかと言いますと、これぐらいもまれた地層の中で、それから湧水の多い地盤の中で長いトンネルを掘っていくと、場合によっては熱湯が出る。高熱隧道という言葉がございますが、非常に高熱のトンネルもあるわけでございます。そういった中でやっていかなきゃならぬ、というハンディを持っています。
(図12)
 それと、これだけ細長い国土でございますから、河川勾配が急です。常願寺川、安倍川、筑後川、吉野川、利根川、信濃川、北上川と川があるわけですが、例えば、オランダのお雇い技師のデレーケが明治時代にこの常願寺川を見た時に、「これは川ではない、滝だ」と叫んだという話があります。まさにこの絵を見ればその通りで、セーヌ川、ロアール川、ライン川、コロラド川、メコン川のいずれも非常に緩やかな勾配でございます。私ども日本の信濃川とか北上川は非常に緩やかな川だというイメージですが、それでも、セーヌ川とかロアール川に比べればはるかに勾配が立っている。
 言い替えますと、ライン川の最上流と日本の川の河川勾配がほぼ同じなのです。私の河川局長の前任者の尾田さんに聞いた話ですと、セーヌ川なんかは「水源地まで行ってみたけれども、これは丘だ、山ではなくて丘だ」とおっしゃっていました。確かに、標高を見ますと、300メートルくらいで水源地になっているわけで、300メートルといえば、日本の概念ではまさに丘です。そういったところから緩やかに流れる川と、はるかに高い1000メートルというオーダーからドンと海に流れる日本の川とは大分違うわけです。
 従いまして、洪水時と平常時の流量に非常に差があります。利根川でも、平常時の流量の100倍の洪水が流れます。それに対して、ドナウ川とかミシシッピ川は、洪水時に平常時の流量の4倍もしくは3倍ぐらいの流量しか流れない。言い方を変えますと、洪水時の3分の1ないし4分の1の大きな流量が平常時も流れているということです。日本の川は日照が続けば、あっという間にカラカラになるし、大雨が降ればものすごい大洪水になるという特性を持っているわけです。
(図13)
 それと同時に、もう1つハンディがあります。低地帯に日本の都市は展開しています。これはちょっと見にくい図面で申しわけございませんが、木曽三川をあらわしております。これが木曽川、これが長良川、これが揖斐川、これは岐阜県庁です。長良川の洪水時の水面は、岐阜県庁で言いますと、大体3階か4階ぐらいの高さに洪水の水はある。木曽川も、非常に高いところに洪水の水はあるわけです。
 大垣に大垣城の城壁の上に、大洪水点というのがございます。お城の石垣の上に碑が建っています。その大洪水点は、明治29年の洪水の時には、ここまで水位が来ましたよ、という印でございます。それは言い方を変えますと、大垣城の石垣の上ですから、大垣の平屋ないし2階建ての家は、ほとんど全部屋根までつかっているという高さです。そのような高さまで明治29年の場合は水位が来たということなのです。
 一方、これはニューヨーク、ハドソン川、これがパリのセーヌ川、こちらがロンドン、テームズ川です。ご覧いただきますように、一番低いところを川が流れているわけでして、この場合は、今回の福井の足羽川のような破堤という現象は生じず、ジワジワ水が上がっていく。それに対して日本の場合は、堤防が破れれば、位置エネルギーを持った洪水がザアーッと平地に流れ込むということですので、ひとたび堤防が壊れた場合の破壊力というのは、欧米の川に比べて非常に大きいものがあるわけです。
(図14)
 それと同時に、氾濫区域の面積と人口を比較した図がこれです。日本の場合は洪水氾濫区域面積は国土の1割、3万8000平方キロです。アメリカの場合も国土の大体7%です。ところが、そこに住んでいる人は日本は約半分、5割の人が住んでいます。それに対してアメリカは9%の人しか洪水氾濫区域に住んでいない。日本の平地は国土の約2割と言われておりますから、そのうちの1割、半分が洪水氾濫する可能性のある区域で、そこに5割の人が住んでいるという、非常に洪水に対して脆弱な国土構造になっているわけです。
(図15)
 こういった状況でございますので、やはり水を貯めるという努力がどうしても要るわけでありますが、実はまだまだ本当のところ、実力がない。日本の発電ダムを入れた全ダムの総貯水容量は233億立方メートル。ダムの数は約2800ですから、
2800のダムで233億立方メートル、1つのダム当たり1000万立方メートルぐらいの貯水量しかないわけです。
 それに対しまして、お隣の中国で現在造っております山峡ダムの貯水容量は、山峡ダム1つで393億立方メートルですし、アメリカの内務省開拓局が造りましたフーバーダムの総貯水容量は367億立方メートルです。
 確か平成7年だったと思いますが、私が河川局の開発課長をしている時に、アメリカの内務省の開拓局の総裁をしておられた、ビアードさんという方が日本に来られました。アメリカの内務省開拓局はダムづくりをやめたということで、全国各地を講演して回られました。ダム反対の方たちがお呼びしたわけですが、私もシンポジウムに出ろということで出たんですが、その時私がビアードさんに、「アメリカはいいでしょう、フーバーダムのようなダムをいっぱい造っているわけですから、もう造るのをやめたということでいいでしょう。ところが、我が国は2000を超えるダムを造ったんだけれども、まだアメリカのフーバーダムの貯水容量の半分しか水をためる能力を持ってないんですよ」という話を申し上げたわけです。現状は、そのようなところでございます。
(図16)
 それから、全人口に対する洪水氾濫域内の人口の割合、これも、くどくなりますが、日本は約半分。それに対してオランダは64%。先進国の中で、お友達がオランダだけです。アメリカ、イギリス、ドイツ、イタリア、といった国はほとんど10%内外です。特に、ドイツ、イタリアの17%というのは、多いようですが、ドイツはライン川沿いのケルン市のデータであります。また、イタリアはポー川流域のデータでございますから、それ以外の平地もいっぱい持っているわけです。日本とオランダが、世界の中で傑出して洪水に対して危険な国だということになります。
 歴史的なところをけば、豊臣秀吉が朝鮮出兵したり、大明国に攻め入ろうという膨張政策をとったのも、やはり豊臣政権を維持発展させていくためには、新たな領土を求め、そこで戦いをした恩賞を部下に与えるという構造からなのではないかという推測があります。
 それが破綻した後の徳川政権。これは私は偉かったと思います。竹村公太郎さんが『日本文明の謎を解く』という本でも書いておられますが、徳川家康は、むしろ国内の使い物にならない土地を河川改修することによって、例えば、東京湾に注いでいた利根川を銚子の沖、太平洋側まで持っていくことで、使える土地を増やしていこうという施策をとったわけであります。よその国を侵略するんじゃなくて、日本の国土の中で、その国土を改造することによって利用可能な土地を増やし、まさに治水をすることによって利用可能な土地を増やし、政権を安定させていったということです。
(図17)
 その成果がこの図です。古文書に干ばつの回数がどれくらい出てくるかということを調べてみますと、大干ばつの記録が1600年代から急増します。これは何だろうといろいろ調べてみたら、この1600年を境に耕地面積が急増している。日本の人口も急増しています。結局、徳川家康の土地高度化政策、治水による耕地面積の増大政策に伴って人口も増えたわけであります。逆に、耕地面積が増えるということは水需要が増えるということですから、干ばつ記録も急増しているという現象が生じてきたわけです。
 まさに、そういった意味では、徳川幕府は、水に関する国土づくりを一生懸命やった幕府であったと思います。
(図18)
 それから、水に関してもう少し話させていただきますと、「緑のダム」という言葉があります。これは非常に誤解を招きやすいので、詳しくお話をしておかなければいけないと思います。実は、これは氷見山幸夫さんという方が調べられた明治・大正期を100とする森林面積です。この白地の部分、斜めの部分、右下の斜めの部分、これが100以下の県でございます。それで見ますと、北海道は90から100。関東地方は白地ないしは左下斜めでございますから、8割から9割に減っております。この辺は右斜め下ですから、9割から100%。それ以外のところは、むしろ増えているわけです。
 一言で言いますと、関東周辺、大阪といったところを除けば、明治・大正期から日本の森林は減少していないということになります。日本の山は、そういった意味では100年ぐらい非常に安定した緑になっている。ある森林の先生に、太古の昔から今に至るまでで、どの時代が山の状態が一番いいんでしょうかという質問をしましたら、しばらく考えた上で、「やっぱり、現在が一番山の状態はいいんじゃないでしょうか。江戸時代は燃料を採るため、または松やにを採るために、奈良・平安時代は、琵琶湖周辺の田上山がはげ山になったというぐらい、神社仏閣への材木がたくさん伐採されました。また、たたら製鉄の燃料源は山の木だったわけであります。そういう意味で山の木をたくさん切った。それに対して、いろんな議論はあるけれども、現在が山の状態が一番いいんじゃないか」とおっしゃっていました。
 その状態で、なおかつ洪水が起こり、渇水も起こるわけであります。そういう点では、森林という緑のダムがあるから、もう何の手だてをしなくてもいいんだということは、現状認識としては間違いだと思います。
 ただし、この緑の効果はものすごく大きいんです。それは反作用としまして、横浜を流れる鶴見川という川があります。あれはこういった緑を全部剥いで、宅地造成をし、アスファルトに変えて、もしくは屋根瓦に変えたわけですが、その途端に、雨が降ってから出るまでの時間が短くなり、洪水のピーク流量は何倍にもなりますし、総流出量も、山の状態だったときに比べて何倍にも増えて、洪水が頻発する流域になったわけです。
 そういった意味で、緑の山を剥いでアスファルトに変えれば、とんでもない洪水や渇水が起こりやすくなるわけでありますが、山に何本か木を植えたりしても、決して保水効果がそんなに劇的に増大するわけではない、というのが私の考えでございます。
(図19)
 それから、もう1つのハンディは、歴史でございます。この図は、平安、鎌倉、室町、江戸、明治、現代となっているわけですが、ローマのアッピアの水道建設、ローマの下水道はBC600年頃、BC300年頃ですから、2000年以上前の話です。そんな比較をするまでもなく、ジャン・バルジャンがパリの下水道を逃げまくった時期、あれが江戸時代、ちょうど元禄にあたります。赤穂浪士が討ち入りをしたあの時代に、パリには環状の、人が走って逃げ回れるだけの下水道が整備されていたわけですし、例えば、ロンドンの地下鉄は1863年に開通しています。明治が1868年からですから、その前、江戸時代に既にロンドンの地下鉄が通っていた。それから高速道路を見ましても、イタリアの高速道路は10キロ供用したのが1924年、ドイツのアウトバーン、これも戦前、1934年に計画が立てられて実施している。ヨーロッパの高速道路、またはアメリカの高速道路なんかは、日本よりも数十年早いペースで整備されているわけでございます。
 日本の高速道路が初めて供用開始したのが大阪−名古屋間の名神高速道路。あれは昭和38年、1963年だったと思います。それよりも40年ないし50年早い時点で欧米の高速道路ネットワークは整備されている。そういった社会資本整備の歴史が浅いというところが、日本の社会インフラにとってハンディになっているわけでございます。



2.人口

 

 (図20)
 それから、人口もある意味では非常に大きなハンディになるわけですが、その前に、地籍という問題があります。この地籍といいますのは、Aさんの土地とBさんの土地の境界はどこかと、境界を確定する作業です。私どもの用地担当者の一番の苦労は境界確定にあるわけです。土地の値段を決めるという作業よりもはるかにエネルギーを費やすのがAさんとBさんの土地の境界です。その境界の確定ができている県とできてない県との差がものすごくたくさんありました。
 実は、大阪などの近畿の区域はほとんどできておりません。2%とか3%のオーダーです。それに対して、東北地方はかなり進んでいて、7割、8割はあります。基本的に土地の境界の確定から始めなきゃいかぬというのはものすごいハンディです。
 例えば、パリのシャルル・ドゴール空港の地主の方は、数人だと聞いておりますし、アメリカの大きなデンバー空港なんかも数人、という地主のオーダーでありますが、日本の場合は、関西新空港から大阪までの高速道路の地権者だけで3万人、というオーダーです。その3万人の土地の境界が全然はっきりしていないということは、社会インフラを進める上でのものすごいハンディになっているわけです。
 人口問題。これも国の将来を考える上で、また国土の将来を考える上で非常に大切な指標になると思っています。これが1880年、これは1992年です。日本の場合は、こんな格好で人口が急増しています。これから急減していくわけですが、四全総か、三全総の、資料集の前文だったと思いますが、今までの日本民族の総人口の数字が載っております。ずっと大昔の奈良時代よりもっと前から、日本列島上で生まれてきた人の数を全部カウントした人口ですが、それが確か4億5000万人だったと思います。現在は、それからまた年数が経っていますから、約5億人。約5億人のうち、1億2700万人が、現在生きているわけでありまして、有史以来全人口の4分の1の人がこの現在この国土の上で生活しています。
 ただし、これが急激に減っていくという現象、これも世界で最初に先進国として直面することになるわけですが、これがこれからの国土の行方を非常に大きく左右するだろうと思います。
(図21)
 これは、人口の推移でございます。総人口の分かれ目は、今年ぐらいにピークになるんじゃなかろうかと思います。低位推計のピーク、この時の推定では2006年になっています。これの前後、今年、来年、再来年、この辺のところで日本はピークになって、これから急激に下がっていく。生産年齢人口のピーク、つまり15歳から64歳、これを生産年齢と定義づけるのはいかがなものかと私自身は思っておりますが、この15から64歳の生産年齢人口のピークは、既に1995年に来ているわけでございます。
(図22)
 これは先ほど言いました地籍調査です。大阪府は1%です。青森県は90%、これぐらい差があります。西ドイツ、フランス、この辺は全部100%。1930年代とか、70年代に終わっています。
(図23)
 急激に減っていくわけですが、国土というものを考えた時に、私は人口密度というのは非常に大きな要素になるだろうと思っております。日本の人口密度は次に表が出て参ります。白地が大体200人以下。それから、真っ黒の部分が1,000人以上の部分です。
 諸外国と比べてみますと、アメリカは人口密度30人です。北海道の人口密度は確か70人ぐらいですから、アメリカの人口密度の倍もあるわけです。
 私、国土交通省におります時に、北海道のある首長さんが来られまして、北海道にも高速道路を延長して欲しいということを言われましたが、非常に遠慮しながらおっしゃっているんです。私が申し上げたのは、「あなた、北海道の人口密度はアメリカの倍以上あるんですよ。アメリカに、それじゃ、ハイウエーはないか。アメリカは立派なハイウエーがいっぱい走っているじゃないですか。だから、北海道に高速道路は未来永劫要らないという発想は、私はとらない。それはおかしいと思います。ただし、造る順番が大分後になるのは我慢してください」という話をした覚えがあります。
 北海道の人口密度は立派にアメリカの倍以上あるわけですし、その次に人口密度の低い岩手県で人口密度が大体93人ぐらいですから、ウィーンのあるオーストリアの97人と同じぐらいです。フランスの人口密度は110人ですから、大体秋田県の人口密度と同じ。イタリアは193人、ドイツ、イギリスは、230人、247人というオーダーですが、これはある意味では100年後の日本の人口密度になるだろう。100年後の日本の人口は、今の1億2700万人から7000万人もしくは8000万人という推計が出ています。これを人口密度に直しますと、約200人強です。それでいきますと、193人のイタリアから247人のイギリスぐらいの人口密度に国土全体がなるわけであります。
 考えてみれば、日本の平野の人口密度は、ものすごく多いわけです。今、日本全国で平均しますと、1平方キロ当たり330人ぐらいの人口密度ですが、平地の国土に占める割合が2割ですから、逆に山地に人は住まないとして平野での人口密度を換算しますと、1500人を超えて、超過密な状態になっているわけです。
(図24)
 これは県別に見ていますので、ちょっとお分かりいただきにくいと思いますが、最高が東京の1平方キロ当たり5485人という数字です。それから、大阪が4565人。まさに超過密状態になっているわけです。1000人を超える県は、埼玉県1831、千葉1259、神奈川3538、愛知1357、福岡の1006というオーダーでございます。これは山地も全部ひっくるめた人口密度でありますから、平地の人口密度はものすごく高いということになります。



3.美(うま)し国をめざして

 

 ざっと駆け足で我が国の状況を見てきたわけですが、それでは、これからどうなるんだ、どういう国土がいい国土なのかというお話をさせていただければと思います。どういう国土がいい国土なのかというのは、個人個人いろんな思いがあろうかと思います。今の日本では全般的に、何となく閉塞感がある、心が満たされない、心の豊かさが実感できないという思いをいろんな人が持っておられると思います。確かに、生活は便利になり、快適になった。ウォシュレットなんていうのは私は、素晴らしい技術開発だと思います。けれども、何か満たされない、どこかおかしいんじゃないかという思いを、多くの方が抱いていらっしゃるんじゃなかろうかと思います。
 私も、実はかなりカルチャーショックと言いますか、自分の今までの人生を振り返って大きなショックを受けた時期がございました。それは平成7年11月1日に東北地方建設局長を拝命いたしまして、東北の地に赴任してからでございます。11月1日に赴任いたしまして、11月5日に会津で道路の杭打ち式があったのでございます。そこに、前任者が行く約束をしていたのを引き継いで行きました。
行く途中の山々の紅葉を見た時に驚きました。山また山、全山が重なり合って、はるか遠くまで紅葉しているわけです。私は、京都の生まれ育ちでありますから、嵐山の紅葉も見ました。また清水寺の紅葉も見ました。それぞれ非常に美しい紅葉だと思うのですが、スケールが違う。東北の場合は、山また山、そのような紅葉がずっと続いている。あれには本当に圧倒されました。
 また、岩手の八幡平の紅葉、山形の飯豊の紅葉、特に山形のある峠から月山を見た時に、両側に錦のような紅葉した山がありまして、その向こうに白く雪をいただいた月山が望まれました。その時は神々しいとしか言いようがない衝撃と言いますか、感動を与えられたわけです。
 それから、冬も素晴らしいんですね。落葉樹ですから、雪山に落葉樹がずっと立っているわけです。その上に、またどんより曇った空から雪がシンシンと降るわけです。まさに水墨画の風景でありますし、さらに春の景色も感動的でした。まず雪解け水が川にとうとうたる流れで流れます。そして、若葉の色も黄緑という単純なものじゃなくて、燃えるようなという表現がぴったりくる色になります。クリーム色と言ったらいいんでしょうか、真っ白に近い若葉もあります。クリーム色もありますし、黄緑もあります。全山、それぞれが燃えるような命の存在を誇示している若葉となります。それが夏になると、緑が深くなっていくという繰り返しになるわけです。東北の山、または川は、本当に美しいなと感じました。五木ひろしが「山河」という歌を歌っておりますが、まさに「おれの山河は美しいか」という言葉にぴったりくるような風景があるわけです。
 それに比べて、人間の造ってきた里や町の風景は何だろうという思いが強くしました。仙台の町は、私が日本の町の中では比較的美しい町じゃないかと思っている町の1つでありますが、それでも、やはり、例えばビルの高さは少しずつ不揃いであります。定禅寺通りだとか、メインストリートのビルの高さ、ほぼ揃っていますが、東京のお堀端のようにきれいな壁面線にはなっていないのであります。ビルを設計される人がほんの少し心を砕いてくださればきれいな町になるのに、なぜできないんだろうという思いもいたしました。またガードレールも、白い薄汚れたペラペラのガードレールがずっとあるわけです。これは町の中だけでなくて、美しい田園地帯にも延々と続くわけです。裏表があるというのはよくないんじゃなかろうか。白は視認性はいいんですが、薄汚れてきたときには何とも変な形になるわけです。
 東北時代に、天野光一先生を委員長にした委員会を作っていただきまして、ガードパイプのデザインコンペをやっていただきました。松島や酒田の辺など、東北でボチボチ出てきておりますが、ガードパイプ型、それもこげ茶色のガードパイプを作っております。これは大野美代子さんのアイデアだったと思いますが、少しフッと曲がっている。非常にしゃれた感じのガードパイプになっています。それでも、中ではいろんな議論がございました。目立たない色にすれば夜間に困るじゃないか。それは簡単に解決できるんです。蛍光テープをピッピッと貼っていけばいいんです。そうすれば夜間の視認性は格段に向上します。そういった工夫をしていますが、ガードレール1つとっても、まだまだ町はああいう状態です。
 電線電柱。これは田園地帯も町中も、何とかならないのかという思いでいっぱいです。これについては、以前は余り気にしなかったんであります。私は京都の下町に生まれ育ったんですが、家の前も電柱が立っていましたし、電線は縦横無尽に走っていました。全然気にならなかったんですが、ある時、特に東北の山の美しさを見てから、本当に気になり出しました。一たん気になり出すと、これらはものすごく気になるものでして、そういった意味での電線電柱、これも町の美観を損ねていると思います。
 どなたかおっしゃっていましたが、ヨーロッパの絵葉書は自然の風景の中に家を入れる。家の入ったものが多い。日本の絵葉書は全部家をカットして絵はがきにしている。富士山なんかの絵葉書もそうですね。町を入れたり、家を入れたりすると絵葉書にならないという状況でありまして、それも問題だろう。
 それから、バイパス沿いの道路の脇にあるいろんな風景、日本全国どこにでもあるような風景がありますが、青森県の弘前周辺を走っていますと、夜中に物すごく明るい一角がありました。何だろうと思ったら、パチンコ屋さんが5〜6軒固まって建っているわけです。そのほかファミリーレストラン、ガソリンスタンド、チェーン店、紳士服のチェーン店とか、仮設の店という格好がありありとするようなチェーン店が並んでいる。これも非常に寂しいですね。
 それから、ブロック塀。仙台市などは宮城沖地震でブロック塀の下敷きで何人もの方が亡くなった教訓で、生け垣を助成するということをやっているわけであります。それでも、ブロック塀が生け垣に変わるというのはなかなか難しいです。そんな要素は何とかならないだろうかと非常に気になっておりました。
 それから、東京に転勤しまして、原宿に非常用の宿舎をいただきました。河川局だったものですから、地震なんかが起きた時には歩いて行かなきゃいかぬということで、原宿に住んだわけであります。原宿の町も若い人が多くて非常に活気があっていいんですが、たばこの吸い殻が路上にポンポン捨てられて、夜の10時、11時頃に帰ってきますと、吸い殻だらけなんですね。何だ、これはと。それから、駅前の放置自転車だとか、ああいう光景を見るにつけて、これは美しさ以前の問題かなという思いも非常に強くしていたわけであります。
 そこで、事務次官の時は週に2回、記者会見があるんですが、新年の最初の記者会見だったと思いますが、「今年の抱負は」という質問が出ました。その時に私は、「し国をつくりたい」という話をいたしました。それは、そういった思いがずっと東北時代から連なっていたので、そういう発言をしたわけであります。その会見の議事録を見た局長さんや若い人が、「次官、是非これをやりましょう。美しい国づくりをやりましょう」と、次官室まで言いに来てくれました。これはやれるかなと、省としての大きなテーマにしようかな、というのをその場で腹を固めていったわけであります。
 と言いますのも、国土交通省は、北海道開発庁、運輸省、国土庁、建設省が合体して1つの所帯になったわけですから、ある意味では橋本行革の成果でありますが、寄せ集めの所帯になっているわけです。寄せ集めの組織を1つにまとめるのはなかなか大変なことだと思います。最低限、共通の目標を持って省として進むというプロセスが要るんじゃなかろうか、とかねてから思っておりましたので、省として共通の目標として、この「し国づくり」を目標にしようということを考えました。事務次官、技監、国土交通審議官、これは3名おりますが、官房長、各局の局長ということで委員会を構成いたしました。1回目は、各局で今まで美しさについてやってきた施策を局長自ら説明してくれ、2回目の時には、これから美しさに関してどんな施策をとりたいかを説明してくれ、それでみんなで議論しようということで、各局長が2回ずつプレゼンテーションしてくれたわけです。
 その議論のさなかに、私は非常に嬉しかったのは、局長の後ろに若い人がずっと控えているわけです。その若い人たちがうなずいたり、メモをとったり、議論を聞いている。その目を見たら、非常に真剣な目で議論を聞いているということや、議論している熱気がひしひしと伝わってきました。11回、そういった格好での委員会をやったわけですが、これで国土交通省が1つの方向、まとまりを持ってきたなという実感が持てました。局と言いましたが、官庁営繕部などは、局扱いですので、官庁営繕部も当然入って、1つになったなという思いを強くしたわけでございます。
 「美(うま)し」と言うのと「美しい」と、どう違うのかという議論もその委員会でしたわけですが、「美し」という言葉の中には美しいという意味以外に、むしろ豊かな、豊穣なという意味が先にあります。「美し国そ、秋津嶋大和の国は」、あの場合の「美し」は、豊かな、豊穣なという方が前面に出たことではなかろうかと思っております。
 私自身は、国土交通省が「美し国づくり」を目標に進めていくということだろうと思っているわけでありますが、これを政策大綱にまとめるということになりますと、「美し」の中で、豊穣なということでいけば、物流システムをどうするか、高速道路ネットワークをどうするかということまで全部入ってきます。そこで、焦点を美しさに絞った方が政策大綱としてはいいだろうということで、政策大綱の名前は「美しい国づくり政策大綱」として整理したわけでございます。
 この政策大綱は、私の後の次官がまとめてくれたらいいんじゃないか、そうすると、省として継続してやっていくことになるのかなと思っていましたら、若い人たちが是非、青山次官の間にまとめたいということを言ってきてくれました。結果的には平成15年の7月にまとまり、それがこの間の通常国会で「景観法」という格好で、また「緑三法」という格好で花開いたわけです。
「景観法」については、私は一切タッチしておりません。竹歳局長を初め、都市・地域整備局の皆さんとか、官房の皆さん、各局の皆さん、全員が汗をかいて、この法律をつくってくれたわけです。私は、横の方で見ておっただけであります。
 その中で議論になったのは、「よい景観とは何だ」という議論だったやに聞いております。「景観法」という3文字の法律というのは、極めて最近では珍しい法律でございまして、かなり基本的な法律になるわけであります。それが今までできてなかったのも、景観というのは極めて主観的なものであるが故に、絶対的な美しさ、美しさの基準というものは定めにくい。それをどうクリアするのか、という法制上の大きい問題があったのかなと思っています。
 それについては、私なりの解釈で申し上げますと、住民の気持ち、住民の美観と言いますか美意識、それを生かした手続、プロセスを経ることによって、みんなが、ある手続を経て、「いい」と認定する景観がいい景観なんだ。みんなが、これは「まずい」と、あるプロセスを経て判断する景観はよくない景観だ。つまり、住民の美意識に非常に優れたものがある、ということを前提に置いた定義になっているのかなと思います。
 私は、それでいいんじゃないかと思っています。日本人の美意識というのは、外国の方から見れば極めて繊細で優れたものがあるんじゃなかろうか、ということを言う方がたくさんいらっしゃいます。例えば、お茶の茶碗の織部なんか見てみますと、左右対照じゃなくて、ひずんでいますね。ひずんでいる茶碗を美しいと思う感性は、日本人だけじゃないか。日本人以外の人は、みんな左右対称の丸い茶碗とか丸いお皿が美しいと思うんだけれども、日本人のように左右非対称のひずんだ茶碗が美しいと思う感性、これは日本人独特のものじゃないかということを書いている方もいらっしゃいます。
 確かに、日本人の美意識は、私は、潜在的に素晴らしいものがあると思いますし、また、山々の四季、国土全体の風景を見ましても、極めて美しい風景が江戸時代末期などには出現していたということも聞きます。
 『逝きし世の面影』といって、渡辺京二さんという方がまとめられた本があります。それは、幕末から明治初期にかけて日本に来た外国人の手記や手紙、日記などを分析して本にされたわけでありますが、日本に来た外国人がびっくりしているんです。ちょうどその時期は、日本人らしさ、日本人のDNAが一番凝縮された時期なんだろうと思います。みんな貧しい。貧しいけれども、ゴアだとかマカオで見るような貧困の悲惨さは一切なくて、貧しいなりにみんな明るく、笑いさざめている。大名から庶民に至るまで貧富の差はほとんどない。同じようなものを着て、同じようなものを食べている。非常に親切だ。「おはようございます」は「オハイヨ」と彼らには聞こえたらしいんです。「オハイヨ、オハイヨ」と言って、家に招き入れてはお茶を振る舞ってくれて、お菓子も振る舞ってくれて、代金を支払うと言えば、「要りません」と言って、ニコニコもてなしてくれる。
 それから、治安が非常にいい。鍵もない。大体、襖とか障子はあけっぴろげの象徴のような家具でありまして、隣の家で何をしているかすぐ分かる。玄関の戸の鍵もないし、開けっ放しだし、小旅行に行くといって、財布を預けようと思って、「金庫はありませんか」と聞いたら、「そんなものありません。机の上に置いていってください」と言われて、机の上に置いていって、4、5日たって帰ってきたら、全くそのまま、手もつけずに残っている。治安が良くて、女の1人旅ができる国だ。実際、イザベラ・バードなんかは、東北のかなり奥まで行っています。
 好奇心が強い。異人が通ると言ったら、行水をつかっていた女性が裸のまま道に飛び出してきて、自分たちを見る。もしくは、イザベラ・バードが旅行した時には隣の家の屋根の上に大勢の人が折り重なって、イザベラ・バードを見ようと思って上って屋根が落ちたとか、そんな記述まで出てくるくらい好奇心が強い。
 そして、何よりも町が美しい。江戸の町はまるで庭園の中を行くようであって、その町を出ると、非常に手入れされた田畑が広がっている。はるか遠くに富士が見える。これほど素晴らしい風景は見たことがない。まさにこれはユートピアではないか。この日本に我々が近代工業文明を持ち込むことが、果たしてこの民族にとって幸せなことなんだろうか、と自問自答までしているわけです。それがかなり色濃く残っているのが東北、山陰地方、四国もそうだし、九州もそうだと思います。地方部には、まだ色濃くその雰囲気が残っているのではなかろうか。
 言い方を変えますと、戦後60年の間に私たちは確かに効率性を追い求めて豊かになりました。生活も快適になりました。結果的に何か大事なものを置き忘れてきたんじゃなかろうか。それは、まさに江戸時代末期から明治初期に日本に来た外国人が感じた日本人の素晴らしさ、心ばえと言いますか、心の香りと言いますか。そういったものが薄れてしまったんじゃなかろうか。余りにも物質を追い求め過ぎたが故に、心の面がおろそかになったのではなかろうか。
 もう少しその辺の話をさせていただきたいと思います。『会津藩士柴五郎の生涯』という本があります。会津藩が落城するときに、柴五郎少年は7歳ぐらいだったと思います。斗南藩に流され、明治政府に仕えて、北京だったと思いますが、義和団事件の時には、軍を率いて素晴らしい指揮をとったという方であります。
 その柴五郎の生涯の中に、会津若松城が落城する時の会津の町の描写が出てきます。私が感動したのは、渡し守なんです。阿賀川という川幅の広い1キロぐらいの川がある。水が流れている部分は数十メートルの川で、阿賀野川の上流でございます。阿賀川の岸に避難してくる人がどんどん集まっているわけです。その避難民めがけて矢玉がビュンビュン飛んでくる。そこを渡し守が何度も何度も避難民を乗せて、両側の岸を往復するわけです。
 侍ならわかるんです。武士は、普段は何もしないで、そのかわり、いざという時には自分の命を捨てるということで、自らを律してきた存在なわけでありますから。でも、渡し守は違うわけです。その渡し守が命がけで矢玉飛び交う中を、何度も何度も行ったり来たりして、避難民を対岸に送る。会津藩というのは、こんなに侍から渡し守に至るまで心の香りの高い藩だったのか。そこのところに私は感激いたしました。
 そんな話が、明治の頃にはいっぱいあるんですね。私たちの年代では修身の教科書はもうなかったわけでありますが、佐久間艇長の話も渡辺昇一さんが書いておられます。潜水艦ができた初期の頃に、イギリスの潜水艦が沈んだ時、引き揚げてみたら、潜望鏡のある部屋でみんな折り重なって死んでいた。日本の潜水艦も初期の頃沈んだ。佐久間艇長の潜水艦も沈んだわけです。佐久間艇長は、死ぬ間際まで記録をつけていて、最後が、「全員その持ち場を離れず」という言葉で終わっているわけであります。そして、引き揚げてみたら、そのとおり、その持ち場を離れずに、その持ち場持ち場で全員水死していた、という話があったようでございます。
 そういうふうな心の香りというのが、かなりなくなってきたんじゃなかろうか。暮らしが物質的に豊かになり、便利になり、快適になるのに反比例して、それがなくなってきたんじゃなかろうかという思いが、私自身非常に強くございました。
 美しい国土を作りたいという原点は、そういった意味では心なんですね。役人がこんなことを言うのは、いかがなものかという思いもあるんですが、やっぱり日本が世界の中で一目置かれる存在になるのは、経済力だけじゃいかぬと思うんです。
 日本の場合は軍事力ということは国是としてありませんから、もう1つ、国民1人1人の心のありよう、それが素晴らしいねということを外国の方が認めて、それで初めて、世界の中でさすが日本だ、1つの優れた文明だという認知をされるんじゃなかろうかと思っているわけでございます。
 話が前後しますが、そういった意味で心のありようが顔に出るわけですね。例えば、赤ん坊を抱いた母親の顔は、どんな目鼻だちの方でも非常に美しいですね。それと同じように町の美しさというのは、そこに住んでいる人の心のありようが出てくるんじゃなかろうか、と思うわけであります。
 まちづくり、国土づくりというのは、まず我々の心のありようを自ら省みるところから始まるのかな、という思いをしています。また、日本人というのは、それが十分でき得る素晴らしい能力、資質を持った民族ではなかろうと思うわけであります。是非、次の世代には、戦後60年の反省としての、物質的な豊かさに加えて、心の豊かさ、心の香りを高めるという努力をしていければと思います。私もそのために微力ながら全力を尽くしていきたいと思いますし、皆さんとも心をそろえてそういうことをやっていければと思います。ちょうど1時間半ぐらいになりましたので、これで終わらせていただきます。ご清聴ありがとうございました。(拍手)



フリーディスカッション

與謝野
 大変示唆深いお話を頂き深い感銘を覚えました。ありがとうございました。
 前半のお話は、我が国が本来抱える「5つのハンディ」について、誠に緻密な分析を踏まえたお話でした。さらに後半では、情感あふれる感性にもとづく景観のありようについての日本の原風景のお話を頂き、まとめとしてこれらをつなぐ道筋の概念として、「景観とは人々の心のあらわれであり香りである」という言葉が、前半のハンディと日本の国土の原風景のありようとを一くし刺しにした認識をご披瀝されました。国土のハンディもそこに住まれる人々の危機意識の持ち方があってこそ解決の道筋が開かれるもの、との示唆も含まれていたように思います。ありがとうございました。
 それでは、この場で皆様からご質問をいただければと思います。景観法の草創のころの核心のお話もご披瀝いただきましたので、そのあたりの話題の関連で、もう少し詳しくお聞きになりたいという方がおられれば、そのようなご質問でもよろしいかと思います。よろしくどうぞ。
花上(渇ヤ上ネットワークデザイン)
 ありがとうございました。ちょっとお聞きしたいんですが、この間の伊藤滋先生の講演で出ている地籍調査の話です。平成の地籍の番人になれというお話を伊藤先生はおっしゃった。大阪市においては1%というお話を聞きました。今、外環道を延ばそうという話などいろいろ出ているけれども、やっぱり地籍調査というのが大変難しいと思うんです。それを避けて、用地買収は、できるものも多分できない。外環道にしてもいつできるのかなと思うんです。
 大深度地下の利用というのは、この頃余り騒がれてないんですが、用地買収するよりは余程こちらの方が早いんじゃないかと思いますので、景観とは違いますが、大深度地下の利用について、どうお思いか、ちょっとお聞きしたいんですが、よろしくお願いします。
青山
 端的な例が東京の外環ですね。あれはもう大深度地下でズバッと抜こうという計画でやっているわけです。地籍の確定は、日本の場合は特に空襲を受けましたから、極端なことを言いますと、戦前の地主の方が行方不明になって、後に新しく住んだ方がもう60年経っているという状態もあるわけですので、非常に大変なことは間違いありません。ただ、公共事業をやる場合には、それを1つ1つつぶしながら、確定しながらやっているのが現状です。時間的な問題を考えますと、大深度地下でズバッと抜いていく方が、トータルでコストも安く早くできるということになるかもしれません。そこのところは個別のプロジェクトできめ細かい議論が要るんだろうと思います。
 ただ、あんまり大深度にしますと、例えば道路であれば、既存の道路とのアクセスが、やはりどうしても地表面に出てこなきゃいかぬもんですかんら、そのアクセスでたくさんの用地買収が要るという問題もございます。いろんな道路に全部アクセスするという計画だったら、大深度に行ってはすぐ上がり、下がってはすぐ上がりという状態になりますから、それは余り効率的じゃないだろうと思います。
石渡(元気堂)
 まさにご指摘のように、そのような野放しの状態になる経緯は、やっぱり日本の場合、個人の権利が、戦後、特に野放しの状態で、ある意味では縛る法律みたいなものが全くなかったことにあります。ダイレクトに美しい景観を商品として観光の町を作りますという定義をされていますけれども、向こう三軒両隣だけでも、整った街並みがあると、大変人気が出る。残念ながら、日本の場合には江戸時代は本当に美しい町だったんですけれども、個人のいたずらな権利を認めるために美しさを失いました。個人の必要以上の権利を認めない、というとおかしいですけれども、その辺のことに関して、いかがでしょうか。
青山
 江戸時代の町が美しかったのは、私は、いくつかの原因があるんだろうと思います。1つは、家の素材が木材、木と紙と壁の家でありますから、5階建てとか10階建てはなかなか建てられない。せいぜい2階建て。それで、京都の町家じゃないですけれども、軒先がきれいに揃うわけです。ですから、そういった意味で、材料的もしくは技術的な問題。一番大きいのは、コンクリートがなかったんでしょうね。コンクリートというのは非常に便利な素材で、強度もあるし、自由な形ができる。自由な形ができるというのは、裏返して言えば、よっぽどそれをつくる方、設計する方の心がしっかりしてないと、変な町になってしまう。
 私が残念でたまらないのは、ある街区だけでもビルの向きを揃えようじゃないか、ビルの高さを揃えようじゃないかという心を、設計者もしくは施主が持ってくれれば、それだけで町はガラッと変わるわけです。その努力はやはり要るんじゃないか。裏返して言えば、自分の土地だからどんなものを建てようが、法律さえ守っておればいいんだということでは、なかなか美しい町にはならないと思うんです。やはり全体に気配りしながら建物なら建物を建てていく。それは昔の町家でもあったんですね。
 皆さんもそうだと思いますが、子どもの頃、家の前を掃除する時に、少なくとも向こう三軒両隣の前は水を撒いていたわけですね。当然のルールだったわけです。そういう気配りをしながら、もしくはそれをしつけられながら育ってきた我々が、何でこんな町を作っているのかねという思いはあります。
 だから、今回の景観法では、地区を指定して、その地区では規制をしよう。美しさに関して規制しよう、ということをはっきりうたっています。そういうツールが、罰則も備えながらできたということだと思います。
 私個人の思いを言いますと、そういう景観法というバックボーンができたのは非常にいいんですけれども、本当は、それ以前に人々が自律的に美しい町を作ろうではないかと思って、それで結果的に美しい町ができるという方が、もっと本当は素晴らしいなと思っているんです。でも、この景観法は非常にいいツールになると思います。
葛西(潟Oッド)
 神田でまちづくりのNPOに参加しています葛西と申します。今日は、貴重なお話をいただいてありがとうございました。
 本来、道路とかダムとか鉄道によって、自然の美しさが害されてきたような印象を持っていたんですね。ですから、それに対してどういうふうに、先生のおっしゃった美しさを調和させていくのか、ということがご指摘なんだろうと感じました。
 地域の住民の具体的な心の美しさとか、そういうことによって、そういう手続を経ることによって美しい景観と言えるんだというお話の中で、自分のすぐ近く、神田駅の前後で新幹線のガードの上にもう1つ線路を載せて、上野どまりになっている東北線などを通しましょうという計画がありまして、地域の住民こぞって、それはちょっと景観の観点から言っても問題じゃないかと言っている話があるんです。
 そうした中で、地域の思いとか願いだけでは変えられないような全体の要求、例えば、地方の方が便利になるとか、そういう部分との調和点、地元の思いと全体のバランスを考えた調和点に美しさを盛り込むのが難しいんじゃないかなと思うんです。そういう点について、どういう調和の仕方をとったらいいか、ということをご教示いただければありがたいと思います。
青山
 まさにおっしゃったとおりだと思うんです。バランスだと思うんです。それは山は山で、人の手が全く入らなければ美しいですよね。川も一切人が手を触れなかったら、それはそれでまた美しいですよ。ただ、人間もやっぱり生きていかなきゃいかぬわけです。快適で便利な生活、これを決して否定しちゃいけないと思うんです。それもあり、なおかつ、美しさもある、心の豊かさもあるという暮らしを我々としては求めていかなきゃいかぬのじゃないか。
 ローマ時代の言葉で、「用、強、美」という言葉があります。「用」は用いる、機能ですね。「強」は強度。「美」は美しさですね。ローマ人もその「用、強、美」のバランスを物すごく気にしたというんです。心にかけた。塩野七生さんも書いておられますが、やはりバランスだと思います。
 具体の話になると、ちょっと口ごもってしまうところもあるんですが、と言って、きれいに整然となっているのだけが、人間、いい環境かと言うと、決してそうでもないんですね。ある程度雑踏があって、ネオンサインがきらめき、いろんな看板があるという通りを歩いてホッとするという部分もあるんです。全部美しい景観と呼ばれる絵になるような風景ばかりだと、息が詰まるということもあるでしょうし、その辺のバランスもまたいろいろあると思います。
 私なんか、こんなことを言っていますが、神田あたりの雑踏も好きです。それはそれで心安らぐものがあるんです。ただ、そこに吸い殻が落ちている。放置自転車が置いてある、それだと悲しいですね。ですから、そういった心の持ち方の話と、やっぱり「用、強、美」のバランス。それから、人間365日24時間、同じ心の状態にいれるわけじゃないですから、あるときは息抜きしたいこともあるでしょう。それぞれのスポットがあるというのがいいのではないか。東京という町もそうなんですが、それが東京の魅力の1つじゃなかろうかなと思います。 
 お答えになったかどうかわかりませんが、いろんなところがあるというのもいいことではないかという思いもしております。
松原((社)日本建築家協会)
 日本建築家協会で與謝野さんと一緒に、いろいろと活動をしていますが、この「美しい国づくり政策大綱」が昨年発表されて、実は一番、目からうろこが落ちるとそういう感じを受けたのは建築家ではないかと思うんです。建築家の考え方として、本当は国すべてが美しくなるということを理想としているんですが、自分たちの置かれた立場はとしては、与えられたところだけ何とか美しくしようというところに追いやられていたんです。それでも、やはりもっと全体的に見ていかなければいけないということで、私たちの建築家協会は、都市計画をやっている建築コンサルタント協会の方とお話をして、やはりそれぞれの専門家が専門の範囲内でいろいろやっていたんではこういうことはできないだろう、ということになりました。それを何とか乗り越えようということで、今年、我々の建築家協会の大会の中で、この「美しい国づくり政策大綱」をもとにした大会のテーマをつくり、大きなキャンペーンやってきました。
 そうした中で、たまたま私が住んでいる町のすぐそばに高速道路が走っていて、その下に非常に大きな暗い空間があります。ところが、昨年の衆議院の選挙の時に、そこで候補者が盛んにマニフェストみたいなのを語っているんです。こんなに暗い、自転車がいっぱいあるところで、中央のマニフェストを語るよりも、この辺の町をどういうふうにしようじゃないかという話をしてくれると、多分みんなにそれに乗れたんではないか。そういったような思いもありまして、東京の25区の選挙区の衆議院の方にアンケートを出しました。「美しい国づくりの政策大綱を支援されますか」とか「この町をどうしたらいいですか」というようなことです。半分以上の方がそれに関心を持っていただいています。
 そういうことをずっと今までやってきたんですが、これから次のタスクフォースを作って、実際にはどういうふうにしていったらいいかというところで今悩んでいます。やはり国民の意識を変える、ということが一番重要なであることは先生のお話の通りなんですが、さっきも言われましたように、自転車の問題、電信柱の問題、もっと言うと、公園の中にブルーのキャップを捨てているとか、いろんなマターがあるわけです。そういう中でこれだけは排除するとか、やめていけば、もっと美しくなるのではないか、簡単に、これだけやればすごくきれいになるんじゃないかというのがかなりあると思うんです。そういうことさえできないというのが、逆にいうと、非常にじくじたる思いで、これから我々がどういうふうな形で次のタスクフォースを作っていったらいいのかということを非常に悩んで、議論しています。それについてぜひ先生のご指導、ご意見、これからどういうことをしたらどうかということをお話しいただければと思います。
青山
 建築家の方には、お願いしたいことがたくさんあります。1つは、色ですね。やっぱり専門家の方がビルを建てる時に、この色からこの色の範囲にしようじゃないかというような、緩やかな合意がプロとしてできないのかと思います。街区なら街区で、ある町のある街区のキーになるビルはこのビルにしようじゃないか、そのビルの高さに大体ほかのビルもみんな揃えようじゃないか、色も揃えようじゃないかという格好の緩やかな合意はできないものか。町全体を考えた中で、設計者間でそういう議論をしていただいて、この町のこの通りの部分はこういうふうなコンセプトでビルの設計するということを施主の方に提案する。そういう設計者としてのコンセプト、緩やかな合意ができないかなというのが1つです。少なくとも、それを注文する方に働きかけていただくということができないか。
 私、非常に気になっているのは、例えば超高層ビルと呼ばれるビル、あれの向きがまちまちなんです。例えば桜田通りの合同庁舎2号館からパッと霞が関ビルの方向を見ますと、文部省だとか会計検査院のビルの跡地に高層ビルがPFIで建つわけですが、そのビルの向きも、どうも桜田通りと並行じゃないんですね。霞が関ビルとどうなっているんだといったら、やっぱりねじれているんですね。これは我々の責任でもあるわけですけれども、あんな超高層の目立つビルの向きが、近接した区域で右向いたり左向いたりしているというのは、町全体の風景いかがなものかという思いもあります。
 それから、ビルの屋上。これも高層ビルから見た場合、もしくはヘリコプターから見た場合に、ビルの屋上というのは、全く上空からの目を意識してない形になっています。あれを何とか工夫できないのかねと思います。屋上緑化は、ヒートアイランド対策上も有効かもしれませんが、上から見たときにやはり緑が欲しい。もしくは何らかの工夫が欲しいなと思います。
 それから、これも屋上緑化に関連するんですが、具体な話として非常に気にしておりますのは、議員会館ですね。国会議事堂を正面から見ますと、後ろにビルがピョンピョンと2つほど建っています。あれが今の都市計画上の縛りから言えば、幾つビルが建ってもおかしくない縛りになっているわけであります。議員会館の屋上を緑化することによって、それも高木を植えることによって緑の屏風みたいな格好で、議事堂を裏側から囲むという構造にできないかなという思いもあります。
 いろんな提案をしていただいたらいかがかな、と思うんです。私が、土木の世界に長いこといて、もっとはるかに景観に悪影響を与える構造物を造ってきた立場から建築家の皆さんにお願いするのもあれなんですが、少なくとも屋上の問題とかビルの高さの問題、向きの問題、色の問題、町全体の調和の問題は考えていかなければいけないかなと思います。また設計者としての議論をしていただいて、緩やかな合意みたいなものができればいいんだけどなという思いは非常に強くあります。
松原((社)日本建築家協会)
 そのとおりだと思います。実は、議員さんにアンケートをした中で、びっくりしたんですが、今の東京は美しい、これでいい、あんまりいろんな形で強制をしない方がいいんだという方がいらしたんです。そういう方の意見もなるほどとわからないでもないんですが、ただ、やはり本当にみんなが一緒になって考える場というのがなかった。今の先生のお話の中に、ビルがあっち向いたりこっち向いたりしているというのは、例えばニューヨークのように碁盤の目のように道路があって敷地があると、自然に建物の向きも決まってくるわけですね。ところが、東京の場合は、そういうような都市計画で道路ができてないので、それで先ほどいいましたように、自分の敷地だけ何とかという形から隣がどうなっていてもというふうになってきた。これは建築家の方の責任で我々の反省なんですが、都市計画家の方あるいは道路を造る方と今まで一緒になって仕事してなかったと思うんです。
 それはやはり国の中で国土交通省が1つになっているんですから、そこで是非そういうことで、我々も含めて民間のコンサルタントが知恵を出し合えるような機構ができるといいなと思うんです。
青山
 今おっしゃった連携というのは、非常に大きなキーワードだと思うんです。都市計画、土木、建築、発注者、設計者、施工者、また地域住民、その連携というのは非常に大きなテーマだと思いますし、それが1つのキーだと思います。
三橋(潟Vーエルシー)
 NPOでまちづくりの活動等もやっていて、先輩の方々をお招きしていろいろお話を聞く場合も多いんですけれども、先生もさっきちょっとおっしゃっていましたように、戦後、公共事業あるいは治山治水、道路等を造る上において、美しさとか景観はそんなに考慮されてなかった時期が長かったんじゃないか。今日、美しい景観というお話をお伺いしたわけですが、旧建設省のそういう景観や美よりも、効率だとか、あるいは早くやらなきゃいけないということから、美とか景観という心の主観的な形まで重要なんだというように、僕は変わったと思うんです。その変わったきっかけ、あるいはいつ頃から変わったのか。その辺のことをちょっと知りたいなと思いまして、ご質問いたします。
青山
 一言で言いますと、時代の方が先に変わっているんだと思いますね。人々の何となく満たされない、物質的には豊かになったけれども、何か豊かさの実感がないというのが先にあって、行政の方は後からついていって、今回の景観法なんかも全会派一致で採択していただいたということは、国会議員の先生方の方がはるかに先に社会の状況、人々の心の状況をつかんだ上で賛成していただいたんじゃなかろうかと思うんです。行政の方も遅ればせながらそれに気がつき、景観法の制定まで至ったということじゃなかろうかと思います。
 そういった意味では、時代、人々の心、意識の方が先行しているんじゃなかろうかと私は思っています。
與謝野
 ありがとうございました。
 いろいろ、多分野にわたる貴重なご質問をいただきましてありがとうございました。
本日の青山様のお話のキーワードは「景観は人々の心の香りである」という言葉であったかと思います。国土のありよう、景観の取り組みようの道筋を考える際の示唆深いお話をいただきまして誠にありがとうございました。また、青山様におかれましては、数多くのご質問に対しましても誠意溢れるお心遣いでご丁寧にお答えいただきまして、ありがとうございました。
 これをもちまして本日の都市経営フォーラムを閉会させていただきたいと思います。
最後に、青山様へのお礼の心を込めて皆様からに大きな拍手をお願いしたいと思います。(拍手)ありがとうございました。
 

 


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