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第210回都市経営フォーラム

 

講師:松下 綽宏  氏  神戸市助役

日付:2005年6月16日(木)
場所:日中友好会館

1.神戸のプロフィール

2.神戸の都市計画


3.都市基盤の整備

4.市街地の整備

5.協働のまちづくり

6.都市景観の形成

7.都市再生

フリーディスカッション



 

 

 

 

 

與謝野
 時間となりましたので、本日の第210回目の都市経営フォーラムを開催致します。日ごろより本フォーラムをご支援いただきまして、まことにありがとうございます。高い席からではございますが、厚くお礼申し上げます。
 さて、本日は、「神戸の都市(まち)づくり」と題しまして、神戸市の現助役でいらっしゃいます松下綽宏様に、ご講演をお願い致しております。松下様におかれましては、公務多忙の中を貴重な時間を割いていただき、遠路神戸からお越しいただきまして誠にありがとうございます。松下様のプロフィールにつきましては、受付にてお渡ししました資料の通りでございまして、神戸大学工学部土木工学科を昭和40年にご卒業されまして、同年4月に神戸市に入られて以降、今日に至るまで神戸市の都市行政の分野で長年ご活躍されて来られ、神戸市の発展と再生のために多くの功績を上げて来られた方でいらっしゃいます。
 本日は、長年神戸市において都市計画行政に携わってこられました氏のご経験をもとに、神戸のまちづくりの歴史的な軌跡と、震災後10年を迎えられ見事に復興されました街のご紹介、そして行政の実務におけるさまざまな課題とその取り組み方についての知見等を皆さんともにお聞きし、都市経営の実務における幾つかの課題について、皆さんとともに学んでいきたいと考えております。
 それでは、松下様よろしくお願い致します。

松下 ご紹介をいただきました神戸市の松下でございます。
 今日は長年開催されておられます、この都市経営フォーラムの場で、神戸市の長年の活動を紹介させていただくということでやってまいりました。今日で既に210回、18年続けておられるようですが、お聞きしますと、神戸市の紹介は初めてということで、非常にありがたいと思っております。
 今日、お伺いしますと、我々が事業をやらせていただく中で、いろいろお世話になった方々たくさんお見えですので、説明をさせていただくのに心恥ずかしいところがあります。私は、紹介がありましたように、学校もそうなんですけれども、神戸市役所と、神戸市の中にずっとおりますものですから、よそのまちのことは詳しくわかりません。神戸としてどんなことをしたらいいのかな、ということを、現場をずっと担当しながらやってまいりました。そういう中で、これまでの神戸が取り組んできた様子なり、これから考えていかないかんなという点を、少しですが、ご紹介をさせていただいて、神戸のPRをしたいと思っています。
 資料については、パワーポイントでやらせていただきますが、枚数はかなりたくさん入れさせていただいていますので、お手元にも配布してあります。これをすべて説明できるかどうかわかりませんが、もしご関心があった場合には、この辺のところは一体どうなんだということを聞いていただけるように、持っていただければありがたいなと思っております。そういうことで、1時間半ぐらい、お話をさせていただきたいと思っております。



1.神戸のプロフィール

(図1)
 パワーポイントでやらせていただくんですが、うまく系統立っているかどうかわりませんが、神戸のプロフィール云々と7つぐらいの話に分けて、それに基づいてお話ししたいと思っております。
(図2)
 まず、神戸のプロフィールですけれども、東西が35〜36キロ、南北で広いところで大体30キロぐらいなわけです。550平方キロぐらいの地域です。一番中心部であります六甲山、これが931メートルと、1000メートル近いところがあるわけですが、あとは平坦地という状況です。周辺は田園地域。神戸の港と六甲山系の山、田園地域と市街地がある。ざっとそういう感じのところでございます。
 ここに152万の人口が住んでおります。特に神戸の場合は、外国人の方が結構おられまして、115カ国で約4万5000人の外国の方がお住みでございます。そういった面で、外国の皆さん方と一緒にやろうということも多々ございます。
 先ほどご紹介ありましたように、今年で震災が起こって10年経ちました。その間152万人の人口から10万人ぐらいは一旦減ったわけですけれども、やっと今年ぐらいで、現在の152万に戻ってきたという状況でございます。
(図3)
 これは、芦屋から周辺の稲美町とか三田、そういったところの地形図ですが、神戸市内は、全体としては9区の区で構成をいたしております。
(図4)
 歴史的にこのまちを見てみますと、神戸のまちは、3世紀頃には既に海上交通の基地として一応スタートしておりました。それから、奈良時代には天然の良港ということで、大輪田の泊、これは兵庫区という区の一番先です。このあたりが大輪田の泊ということで、港がスタートしております。812年には、既に国営で第1回目の港の改修を行っていただいたと、いうところでもございます。
 平安の末期から、そういう面では日本と宋との日宋貿易がここを中心として開かれていったわけです。現在NHKで「義経」のテレビをやっておりますが、ちょうど平清盛が1180年に、この兵庫の地に、福原京を造っております。これは歴史上には余り出てこないかもわかりませんが、わずか6カ月の間だけ、ここに都を置いたということでございます。
 1180年の6月2日に、京都から福原へ移そうという命令を出したわけです。それからすぐ、源頼朝なりが関東、また木曽義仲が挙兵をしてやってくるということを聞いて、富士川で合戦をやるわけですが、それで負けてしまう。それならということで、京都へ戻っていった。ちょうど6カ月間、都を開いたということです。
 書物から見ますと、4つの理由で、都をここに選んだということでございます。1つは、ここが地形的に非常に平坦な地形であって、温暖であるということ。次に六甲山系から流れてくる水が非常に良かったということ。平坦ということと合わせて稲作が豊富にできるので、生活がしやすいということ。それと1つ大きな理由は、これまで災害に非常に強い地域、土地だったということのようでございます。
 そういう4つの理由で、この地域を都にしようということで、今でも平頼盛の山荘であるとか、雪の御所というところがあります。また、1条、2条、3条、4条、5条という形で当時の山陽道に残っていますし、朱雀大路とかというところも名前として残っております。都をやろうという思いを持って、ここにやってきたわけですが、半年ですから、大きく都の造成をするまでなく、京都に帰らざるを得なかった。
 最後に申し上げましたように、災害の少ないところだ、ということが1つ大きな理由であったわけです。10年前の震災の時も、やはり不思議なことに、この地域、兵庫南部は地震の被害が非常に少なかったと思います。そういう意味では、大変先見の明がある人だなと思います。我々子どもの時代の平清盛のイメージは、余りいい役でなくて、悪役的な役が多かった。いろいろ考えてみると、非常によく考えられた人だなと。これから少し北に上がりますと、六甲山系の山であるわけですから、後ろはしっかりと支えてある、ということのようでございます。
 最近のNHKでは、震災10年ということで、去年は「わかば」という朝のドラマ、あれは神戸と宮崎を結ぶ造園家のドラマですが、それをやっていただきました。そして、今回は日曜日に「義経」をやっていただいて、神戸をテーマに取り上げている。NHKさんとしても、そういった面で神戸の震災10年をよりよくPRしてやろうという好意でございます。清盛はテレビの中ではもう死にましたけれども、これから壇の浦の合戦とか、いよいよ源氏の時代になってくるという状況になっております。
(図5)
 それから、神戸が港として開港していくわけですけれども、開国の年の1868年の慶応3年に開港をいたします。これより10年前の1858年に、既に函館、新潟、横浜、長崎、この4つの港が開港いたします。もろもろのことがあって、10年遅れで神戸が開港していく。その時には、いろんな面での問題点等について経験をしていました。この図は、それからしばらくした後の神戸の海岸通りの絵でございます。



2.神戸の都市計画

 (図6)
 ちょうどその開港した時に、現在、三宮の少し西寄りのところに外国人居留地区というのがございました。居留地と言っているんですけれども、これは旧居留地ということでございます。幕末の開港時に外国人が住んだり、あるいは商業をしたりというところで、全体の大きさは500メートル×500メートルの25ヘクタールぐらいで、その1区画1区画それぞれの標準が約1000平方メートルぐらいの敷地であったということです。既にその段階で道路としても格子状の街路、歩車道の分離がされている、また遊歩道なり下水道、街灯もできている。これはイギリス人のハートさんという方が設計をされて、新しい都市計画がスタートしたということでございます。
 現在では、一番最初にできた下水道なども、皆さんに見ていただけるような形で残しておりますし、新しい神戸の1つの核となる地域になりつつございます。
(図7)
 これは、それからさらに西の方に元町商店街という形で続くわけです。この元町商店街も100年が過ぎまして、伝統のある商店街を形成いたしております。約300店舗が並んでおりますが、当初から100年以上続いているお店も21店ございます。50年以上になりますと、100店ぐらいのお店がございます。ともかくハイカラ文化のスタートが、この元町の商店街でございます。スズランの街灯なんかも出て、非常にハイカラさを出したということでございます。
 また、こういう商店街の中では初めて、大正2年にアスファルト舗装をやったところのようでございますし、商店街のアーケードは昭和28年に、これも日本で初期にやったというところでもございます。
(図8)
 現在、大丸の方から元町本通りを見ている状況でございます。
(図9)
 その当時からいきますと、六甲山というのは、神戸のまちづくりを語る上で非常に大きな要素になっており、外国人が神戸港に入って六甲山を見た時の絵が残っております。六甲山は雪が降っているのかなという話をされたようですが、実は花崗岩で、はげ山と言いますか、木がほとんどないという状況になっておりました。
 これは秀吉の時代から徳川までずっと、木を焚き木にしたり、あるいは家に使ったりということで、木をほとんど伐採をしてしまったので、木が一切なくなっている。また花崗岩である、といった状況になっておりました。
(図10)
 こういう状況になってきますと、一旦雨が降りますと、大きく崩れてきまして、そういった面で大きな水害が40数回も起こったということもございます。また、その中で疫病が流行り、まちづくりについては、マイナスの要因が非常に多かったということでございます。それを見ながら、この神戸のまちをどうするか、先人たちがいろいろ考えたところ、明治35〜36年、1900年、はげ山の状態になったところに段差をつくりながら、そこに木を1本1本植えていこう、ということをスタートいたしました。今から逆算しますと、毎年10万本ぐらい、1000万本100年間で植えてきたという状況になっています。
 このように、少しずつ木を植えながら100年余り経ちました。市民の皆さんもほとんどこのことを知らなかったわけですけれども、3年前に植樹スタート100年ということで、先人たちが100年かけてここまで来た緑だ、これから次の100年に向けて、自分たちは何を残していくのかということを、市民の皆さんにも一緒になって考えていただけるようなキャンペーンをやっております。また、それをこれからもずっと続けていかないといかんかなと思っています。
 おかげで、これは新神戸の駅の周辺ですけれども、木々が青々としております。一旦植えつけて、木が立派になるのに140年から170年かかると言われております。まだ道半ばではありますが、これからも続けていく必要があるかなと思っております。
(図11)
 先ほど、六甲山は、931メートルと申し上げました。正確に言いますと、931.25なんですね。10年前に931.13のものが931.25になっておるということは、12センチ上がりました。12センチというのは、これまでの観測からいきますと、40年分があの地震で隆起したということになっております。たかだか12センチなんですけれども、かなり大きなエネルギーであったのではないかと言われております。
 先ほど言いましたように、木をずっと植えていくということも必要ですけれども、国の方で、六甲砂防という非常に大きな組織を作っていただいて、砂防堰堤というのを六甲山の中に2000ヶ所造っていただきました。砂防のダムと緑のダム、両方のダムで六甲山を守りながら育てていく、という活動でこれまで来たわけでございます。
 ちなみに、この六甲山全体の緑は、炭酸ガスを吸って酸素を出すわけです。これは計算しますと、ちょうど神戸に今おります152万の皆さんが出すCO2を吸っていただけるぐらいの緑の量になっています。市民としては、それだけの緑を大事にしようということで申し上げてきております。
(図12)
 最近は、港の方から神戸の市街地と六甲山を見ていただく景色がいいかなと思います。錨のマークや市章、市のマークを神戸という形で電飾にしております。錨のマークとか市のマークも、もともとは、例えば明治天皇が行幸された時に、松で錨の形を作って、みんなでそれを喜んだということが由来で、最近は松の周辺をライトアップしております。このライトアップは、風力発電をやっておりましたが、地震で壊れました。最近では企業の皆さんにもご参画いただいて、普通の電気を使うのではなくて、その場所の横で太陽光なり風車で電気を起こして点けているということでございます。
 この電飾のマークは水色になる時があります。神戸は現在ヴィッセルとオリックスの球団を応援しています。その球団のどちらかが勝ちますと、水色になるわけですけれども、水色になるチャンスが少ないわけです。水色になれば、今日はうちのチームが勝ったなと、お祝いをしたりしております。
(図13)
 一方、神戸のまちは災害をずっと受け続けてきております。災害にいかに強くなっていくかということだろうと思います。これは、昭和13年の阪神の大水害でございます。7月3日から5日までで700人余りの皆さんが集中豪雨でお亡くなりになりました。これは、スズランの元町の通り、三宮界隈、神戸の界隈、もとの三越の周辺です。地形的に一挙に流れてきますので、どこかで止まってしまうと、それが一挙に市街地に流れてくるという、かなり大きな被害だったわけです。谷崎潤一郎の「細雪」の小説の中でも、この被害の様子が出ております。
(図14)
 これは大空襲ですが、6月5日の三宮中心部の大空襲です。その前の3月17日に一番大きな爆撃がございました。B29が300機も飛んできて、ドッと焼夷弾を落としていって、市街地の6割が焼失をいたしました。7500人の皆さんが亡くなりました。神戸の人口がやっと100万人になった時でしたが、この大空襲を受けて、38万人に人口が一挙に下がっていく。たくさんの方が、どこかへ疎開されて出ていかれたという状況でした。
(図15)
 昭和13年から30年経った昭和42年、大きな水害を受けました。これは最大1時間雨量が75ミリという非常に大きな雨量で、三宮から少し北側、新神戸の裏側、市ケ原というところで大きな土砂崩れもありました。市内の各地で、たくさんの被害を受けました。その間の1年間は、水害対策でほかの仕事は出来なく、我々もちょうど市役所に入った時分ですから、毎日毎日、土砂をのけたり、の仕事が大部分でございました。
(図16)
 それから約30年ぐらい後、平成7年の1月17日5時46分、大震災がございました。マグニチュード7.3という非常に大きな地震でございます。近代的な大都市で初めて、という直下型の大地震ということでございます。亡くなった方が6433人。神戸市内では、4571名の方がお亡くなりになりました。全体の被害の損害額というのは、いろんな計算がありましたが、当初は7兆円ぐらいでしたが、ざっと10兆円の被害があったのではないかと思います。
 約13万棟の家が焼失、倒壊しました。それから後、国の皆さん方にも新しい制度を作っていただいたり、皆さん方にもボランティアなり、いろんな形でご支援をいただきました。関係の皆さんが、今日もご出席でございますが、心から感謝を申し上げたいと思います。
 おかげで、何とか復旧から復興へ向けて、10年という節目の年を迎えておりますので、一度神戸のまちに来ていただいて、どうなっているか見ていただけたらありがたいと思っています。
 10年経って、去年、台風16号、18号、21号、23号などで、三宮の中心部の国道2号が、たまたま大潮と重なって、台風の時期に冠水をいたしました。国道2号が麻痺状態になった。中心部で非常に恥ずかしいことですが、台風ですから、気圧が下がって、水位、海面が上がってくる。そこに大雨が降ってきて、下水として溜まっていくという、2つ、3つの要素が重なり、こういう状態が何度か続きました。
(図17)
 そこで、早速我々としては、港自身の越波を防止しよう、それから、逆流を止めてしまおう、また雨水の幹線を止めて、なおかつポンプで排水しようと、台風には、二の舞のないように、現在、応急的に、中心部で頑張っております。ただ、これはもともとから港自身が小さな船で荷揚げをしており、そういう港に合わせて市街地をつくっていたわけですから、根本的には、中心部を上げないことには解決しないわけです。これを長期的に、どういう形で対策を講じるか。これは地震ではありませんが、新たな対策としてこれから都市が考えていかねばならん課題だと思っています。
(図18)
 東南海、南海地震が、この30年以内に起こる確率が、最近また10%上がってまいりました。東南海は30年以内に60%の確率で来るだろう、また南海地震は50%の確率で来る。特にそれは、大きな津波という形で来るということですから、我々は、あの大震災を踏まえた上で、新しい対応として、津波対策も必要です。地域の皆さん方にも知っていただくため、もし津波が来れば、こういったところまで来ますよということを、地域に浸透していこうとをやっております。
 今年、震災から10年が経って、1月17日にいろいろセレモニーがありました。その翌日1月18日から5日間にわたって国連の世界防災会議というのを神戸で開かせていただきました。その前の12月にスマトラ沖の大地震があったわけで、非常に関心が高く、168カ国、4000人の皆さんにお集まり願って、これからの地震対策、災害対策にどう対応しようかという議論が熱心にされました。その中で言われたのは、やはり地震に対する対策としては、「減災」というテーマが一番大事であろう。来るものについては完全に守れないから、できるだけ被災を減じよう、少なくしようというのが一番の大きなテーマだったわけです。
 それはそれとしてやっていますが、最近我々の中で議論が出ているのは、災害を避ける「避災」というところに持っていく必要があろうということです。起こった時に、どういう形で災害から逃げていくかという意味では、避難のマニュアルとか、いろんな形で、細かく、災害を避けていくための方策を研究すべきだろうということです。
 今までは、地盤であるとか、土地そのもののマイナス要因を発表するということは、地価の価値が非常に下がるということがあったわけですけれども、最近はこういう大震災を受けて、あえてマイナス要因でも、それを皆さんに伝えていくことの方がいいだろうと、ハザードマップというのをどんどん出しています。先だっても、川があふれる時には、こういうところが非常に危ないということを、きっちりと皆さんに伝えていくということでやり始めております。
 そういった面では、細かなマニュアル作りや、それをトレーニングしながらやっていくことの必要性を、これからも続けていきたいと思っております。



3.都市基盤の整備

(図19)
 少し話が変わるんですけれども、神戸はずっと、ポートアイランドや六甲アイランド、神戸空港や臨海部など、ほとんどが山を削って海の方に埋め立てて、地域を造ってきたということでございます。
(図20)
 そういう中でいきますと、山を削って埋めていく時に、ダンプが通るなどの公害対策もあるので、こういったところに船着場を造り、ここに運んでいくのですが、土を運ぶためには、ベルトコンベアのトンネルを造って、それを徐々に延ばしながら造っていく。ちょうど須磨の一の谷のところに桟橋がございますが、ここでフィッシャバージという船で土を運んで、その土で埋めていって、どんどん延ばしていきます。やっとそこまで来たわけです。今年度で、このベルトコンベアの使命が終わります。昭和40年代からずっと運び続けてきたわけですが、40年間働きっぱなしでしたので、いよいよ引退いたします。ここは山を削って整地したところで、複合産業団地と言っています。こうしたことで、神戸市は削ったところを住宅地、工業地にし、また埋めたところも同じように使うので、儲けるということで 、株式会社的と言われてきましたが、そういうことは一応終わりにいたしまして、トンネルも終わってまいります。
 でも、せっかくあるトンネルですから、また皆さん方にいろいろ知恵をお借りして、14.6キロありますので、それをいかに使っていくかというのを今から勉強したいなと思っております。それなりの幅ですから、利用によっては面白いものができると思います。
(図21)
 これが、先ほど申し上げました複合産業団地です。山陽道と本四道路のジャンクションのちょうど前です。これは後ほどまたご説明申し上げますが、企業誘致という視点では、まだ土地はそれなりにあります。皆さん方で、「もし」ということであれば、非常にいい場所でございますし、神戸の最後の開発地域でございます。いよいよこれが最後になりますので、よければ、こういったところを見ていただければと思っております。
(図22)
 交通軸。神戸のエリアは非常に小さいわけですが、東から西、また日本海、南側は関空、世界ということで、そういった面では格子型あるいは放射状ということでございます。これからは、災害にも強い代替機能が効くネットワークが必要です。今回の地震でも、阪神高速は、ああいう形で倒れてしまったわけですけれども、その代わりに周辺の道路が、それなりの機能を果たしていました。どれかが被害を受けても活動できる、こういう、いろんな代替機能があるネットワークの整備、単にある点を結ぶんじゃなくて、全体としてのネットワークが必要かなと思っています。
 将来的には、大阪湾へのベイエリアという1つの大きな軸、または、これは国土軸ですが、第2国土軸として、四国、淡路、近畿というところからいきますと、そういう軸の一部にこういったところが出てくるかなと思っております。
(図23)
 それから、全体の地域の土地利用の考え方です。人が生活をし、活動していくという、いわゆる市街化区域という区域が全体の地域の大体3分の1。それから、六甲山系の緑をしっかりと守っていこうというのが3分の1。そして農村の地域の人たち、自然と人とが共生していく地域が、それもちょうど3分の1。人がきちっと活動するのが3分の1、きちっと置いておこうというのが3分の1、共生していこうというのが3分の1という形で、全体としての土地利用は、こういう形でずっと続けていけたらなと思っております。
(図24)
 これは、皆さん方に何十年もの間、やっていただいた明石海峡大橋。淡路の方が見えております。平成10年に開通いたしました。平成7年の地震で塔がくくってあったのが、少しずれましたけれども、何とか予定どおり平成10年に供用をしていただきました。淡路までの4キロが非常に近い関係になり、それによって四国の皆さんともつながってきた。神戸としても、名前は「明石海峡」ですけれども、名前にこだわらず神戸にある明石海峡大橋、世界の橋として、神戸の市民の一番大事な1つではないかと思っております。
(図25)
 先ほど言いましたように、大阪湾のベイエリアということで、関西国際空港がここにあります。大阪湾のエリア、それから神戸のエリアに入るわけです。ここに明石海峡大橋があります。神戸空港は、来年の2月16日にできます。大阪湾ベイエリアを結ぶ大阪湾岸道路は、80キロのうち60キロの六甲アイランドまではできているんですが、あとの20キロが都市計画の手続きすらできてないとこともあったので、最近新しくパブリックインボルブメントということで、国のご指導をいただいてやりました。やっとそれが済んで環境アセスメントの手続きに入っております。あと2年ぐらいで、アセスメントなり都市計画の決定ができますと、いよいよ神戸の港の中にも、湾岸道路の雄姿ができるべくスタートできるのではないかと思っております。
 もちろん現在民営化の問題があって、どこがどういう形でその道路をやっていただけるかは、まだまだこれからの議論でありますが、少なくともそういう面でのネットワークという、非常に大事な手続をきちっとやっていきたいなと思っております。
(図26)
 これが、湾岸道路ができた時のイメージです。
(図27)
 今のは、湾岸という神戸と周辺とを結ぶ東西の軸だったんですけれども、南北としては新神戸のトンネルがあります。このトンネルを過ぎて北に行くと、日本海に抜けていくわけです。それからずっとできた段階で、港の方に向かっていく。現在、この新神戸トンネルの事業もやってきております。
(図28)
 新神戸の駅でございます。生田川の両サイドに、地下に道路が入ってきております。空港が来年の2月にできますが、こちらの部分はそれまでには何とか供用ができるということでございます。
(図29)
新神戸トンネルの将来の予想図です。
(図30)
 JRの下の掘削状況です。JRさんも何ミリの誤差しか許されないという、非常に厳しい状況の工事の中で、一緒に仕事をしていただいておりまして、何とか来年の春から来年度中には、この辺りも完成させて、南北の軸としての整備を進めていきたいと思っております。
(図31)
 これは新交通のポートアイランド線の延伸でございます。これは「ポートピア’81」として、1981年に博覧会をやった時に、三宮からグルッと一周回ってくる新交通システムということで、供用いたしました。空港へ向けて、これの東側に新しい路線を造って結んでいく、という工事を現在進めてきております。前は港湾の事業なのか、鉄道の事業なのかということで、いろんな形があったわけですけれども、現在は国土交通省という中で1本にやっていただいておりますので、非常にスムーズに事業を進めさせていただいてきております。
 今のところで、1日3万6000人ぐらい運んでおります。もちろん、六甲アイランドにも同じような路線があって、それは1日3万人ぐらいですから、両方合わせて1日6万6000人ぐらいの皆さんを、この新しいシステムで運ばせていただいている。だんだんとそれなりの収益が上がって、単年度黒字が4年間続いてきておりますが、何とか早く累損も償却していきたいと思っております。
(図32)
 神戸には、阪神電鉄がまだ平面で走っているところがあります。鉄道では、芦屋の辺りまで立体交差事業も進めてきております。
(図33)
 一方、三宮から1駅入ったところに阪神電鉄の春日野道という駅があります。これは日本で一番ホームが狭く、両方合わせてホーム幅が2メートル60センチでした。電車が片一方に来たら、真ん中の柱にしっかりと掴まっていないと、風で飛ばされる。しかし、それでも意外に事故がなかったという駅なんですけれども、これを改築をいたしまして、両方にホームができるようになりました。さらに出入り口をつくって、これがHAT神戸という、神戸製鋼さん、川鉄さんの新しい地域の玄関口になるということで、歩行者専用道とかいろんな鉄道の事業を合わせてやってきております。もう間もなく完成をいたす予定になっております。
(図34)
 3年前にワールドカップをやった時に、各地でそれぞれスタジアムを造ったわけですが、公園の事業の中でウイングスタジアムという、開閉式のスタジアムを造らせていただきました。順調にやってきたのですが、天然の生きた芝を、いい状態で選手に提供する難しさを、今味わっています。生き物ですから、周りからの風の問題、日照の問題、いろんな条件がうまく揃わないと、いい芝になってこないということで、夏に強い芝、あるいは冬に強い芝、いろんなことの試行錯誤をしていますが、いざとなったら、全部の芝を張りかえるようにと、2カ所ほど別に同じ面積で持っていて、ポンとこれを持ってこれるということにしております。世界でも、こういう覆いをかぶせたドームで、天然芝をいい環境でやるというのはなかなか難しいわけです。神戸から、こうやればいいピッチができる、ということを発信できたら、と思っております。
(図35)
 これは緑の軸ということで、ここは、もともと貨物があった神戸港駅だったんですが、それを鷹取の工場の方へ移しました。鷹取の工場はJRさんの工場だったんですけれども、それを新しく震災の事業で、別途土地利用転換をいたしました。その代わりにこういう引き込み線にあった貨物を在来線のところに持っていきましたから、非常に利便性のいい貨物のヤードを造れたということで、ここは今、空き地になってきております。この空き地の一部は、かなり大きな震災復興記念公園にしよう、ということで進めております。現在、皆さん方とワークショップをして、構想を固めた段階で、これから10年ぐらいかけて、じっくりといい公園を造っていきたい。来年、震災11年目にスタートをして、記念植樹をしながら、10年ぐらいかけていい公園にできたらと思っております。
(図36)
 三宮、元町、神戸駅、といった中心部で「花とみどりの回廊づくり」を、去年ぐらいから始めました。先ほど言いましたように、六甲山を100年をかけてあそこまでしたわけですから、まさに裾野を広げて、市街地もそういう形で花と緑のある美しい中心部にしたい。それぞれの地域の皆さんは、商店街が中心であったり、オフィス街があったりと、ご商売には熱心、あるいは事業には熱心なんですけれども、地域として美しいまち並みにしようというのは、なかなかないものですから、一緒になって「どうやろ」と声をかけました。せっかくですから、安藤忠雄さんにも、ちょっとお声がけをさせていただいて、参画をいただいております。中心部を花と緑でやっていこう、そういうことをすることによって、張り紙があったり、自転車を置いたり、いろんな物を置くことをできるだけ排除しよう。単に排除するんじゃなくて、花と緑を飾ることによって、間接的にそういったものを排除できないか、ということでございます。
 三宮の、特に阪急の北側なんかは、最近は黒い服を来た方が結構おりますが、そういう人たちも花と緑という雰囲気にしていこうということで、これも息の長い話ですけれども、皆さんがそれぞれの地域で特色ある「花とみどりの回廊づくり」をやっていこうとしております。
(図37)
 昔、秀吉時代には堺の商人などは、町衆というイメージでやっていったわけです。そういう地域の皆さん方も結構おられます。市に世話にならずに、自分たち町衆でやっていきたいという雰囲気が出てきた、ということで非常に喜んでおります。我々が助成金を出そうとすると、「そんなもの要るかい」というところが出てくれば、非常にありがたいんですけれども。「そない言わずに助成金を使ってよ」と言うと、やむなく「それなら使ってやろうか」というぐらいの気持ちの地元になってくると、非常にいいなと思っています。
 少しずつきれいになっています。神戸にお越しの時は見ていただいて、「あの程度か」と言われればそうなんですけれども、少しずつはよくなっています。
 新神戸の前などは、「わかば」の原田夏希さんと地元の人が一緒に植えて、わかば広場を造ったりしています。住宅地ではよくやるんですけれども、三宮の中心でみんなでやるというのは、なかなか動きが悪かったので、何とかやろうかなということでございます。
(図38)
 「美ing神戸市民運動」は、住宅地すべての地域です。企業の皆さんも、住んでいる皆さんも「よっしゃ、やろう」というようなところであれば、「私たちは美しいまちをつくるのに協賛して頑張っています」ということで、各家あるいは事務所に、このステッカーを張っていただく活動もスタートしています。
(図39)
 スポンサー花壇というのは、企業の皆さんにも参加いただいている花壇です。我々は花壇を造るだけで、維持管理費用を企業の皆さんに出していただく。「ここに会社の名前をきちっときれいに入れさせていただくから、どうでしょうか」ということで行きますと、「まあ、いいだろう」ということで、とりあえず5カ所が今10カ所ぐらいになっています。地域の中で、企業も含めて、まちを一緒になって美しくしていきたいと思っています。
(図40)
 お金のことばっかりで恐縮ですが、動物園サポーター制度として、企業の皆さんにサポーターになっていただいています。これはパンダです。5年ぐらい前に、子どもを産んでもらおうと思って呼んだんですけれども、なかなか子どもが生まれなくて困っております。パンダの動物舎のところに、どこそこの企業の名前、例えばペンギンのところであれば、違う企業の名前がありますし、いろんな皆さんにスポンサーになっていただいて、それで企業の名前も入る。えさ代もなかなかばかにならなくて、結構要りますので、いろんな面で動物園は苦労しています。北海道の旭山動物園さんなんかは、展示の方法が非常にうまくて、かなりの皆さんがお見えになるんですけれども、そういう工夫の仕方が難しい。どこかではレッサーパンダが立ったから、かなり見に来るとか言いますが、ただ、見せ物じゃなくて、本当の意味での教育的な施設として、皆さん方に、どれだけ知っていただいて、来ていただくか。そのための工夫が難しいわけです。スポンサーというよりも、むしろサポーター的な意味を込めて、皆さんにご参加をいただく、というのがどうだろうかなと思っています。
(図41)
 これは震災の後、六甲の裾野の地域を、六甲山のグリーンベルトということで、国の皆さん方にお金を出していただいて、開発をせずに緑で保存するために、防砂の施設という施設を都市計画で決めて、それを決めた中で緑地保全地区を決める。その代わり、国の方からお金を出していただいて、緑を守れるような形で、これは宝塚から30キロぐらいにわたって、市街地の後ろに緑地を連続して保全するような事業もやってきていただいています。
(図42)
 神戸は、まちの中にイノシシが出てきました。田舎と言えば田舎なんです。いろんなところでクマが出てきたり、自然とどういう関係になってきておるのか、よくわからないんですけれども、今イノシシが出てくるので、3年前にイノシシ条例という、イノシシにえさをやったり、イノシシが来そうなところに食べそうなものを置いたり、そういったことを禁止する条例をやりました。けれども、なかなか効果がなくて、どんどん市街地に出てきます。単に出てくるだけならいいんですけれども、噛まれたり、荒らされたりということがあるので、イノシシに対する対応も、神戸のまちでもその気で取り組まねばならない時期にきました。ある人は神戸は山を削ってくるから、やむなくイノシシがまちに来よると言いますが、そんなにたくさん木を切っておるわけじゃないんで、生態系と言いますか、そういったところからだろうと思いますが、まだわかりません。
(図43)
 唯一の国宝が太山寺でございます。これはいいものですので、大事にしていきたいと思っております。
(図44)
 それから、ライフラインの件なんですけれども、これは水道です。この震災で大きな送水管が非常に大きな被害を受けたんですけれども、どんな被害を受けたか、わかっていません。というのは、六甲山の中に、先ほど言いましたように、六甲山そのものが岩山になった時に、衛生上、神戸で水をつくろうということで、神戸の水道は明治の33年にできました。現在自水でできるのは4分の1ぐらいです。4分の3は、阪神水道ということで淀川の水を市が買い受けてくるということでやっています。その時に、馬蹄形の隧道を造って、それで送水をしてきました。水はそれなりに流れてきております。が、そういうことでは困るのでということで、大容量送水管、φの2400mmというのを東の方から14キロ、今スタートして、このあたりまで来ております。さらに引き続き、地下の深いところをやっていくわけです。
 そういうところで代替機能ができてくれば、今までの既設の送水隧道もしっかりと調べてみよう、そうしないと、本当にどれだけ被害をうけておるのか、わからない。ただ、花崗岩の中の隧道ですから、そんなに大きくはやられてないだろうと思います。ただ、まだ調べてませんので、この送水管が完成をすれば、徐々にそれをやっていこうということでございます。
(図45)
 新神戸の周辺は、大深度地下の法律の制度、40メートル以上のものについて、制限なく掘っていける、ということの制度はできたんですけれども、まだ使っておりません。これをいよいよ、これから新神戸の辺から大容量の水道管ということで進めていきたいと思っています。
(図46)
 もちろん、これは立て坑を掘って、ガリガリと削っていくわけですので、そういう面では上に少々のものがあっても、まあいけるだろうという制度で、いろんな手続をこれから始めていくところでございます。
(図47)
 東の方のところで、こういう2メートル40センチのφのシールドを皆さん方で作っていただきました。ローラーカッターの先が、本来は非常に固い地盤ですから、掘っていくとすぐローラーカッターがやられてしまうので、一遍出して付け替えて、もう一遍やるということですが、今回進めながら、中でローラーカッターを交換できるということを考えていただきました。それによって工期の問題とか安全性がかなりよくなるのかなと、非常に期待をしています。
(図48)
 そういう大きな管を造ることによって、さらに立て坑を掘りますから、将来的には何か起こった時には、立て坑のところで、仮設の給水栓あるいは応急タンクといった形で使っていく。それが1つの給水ポイントになってくるということで、地域の皆さん方にも、ご理解を得ながら進めております。1つのポイントになる施設かなと思っております。
(図49)
 これはちょっと話は違うんですけれども、新神戸のちょうど北側のところに布引ダムという、神戸市の水道が明治33年にスタートした時に造った、日本で一番古い重力式のコンクリートのダムがあります。これも地震で被害を受けましたので、水を抜きまして、後ろ側にコンクリートで補強し、かなり土がたまっておりましたから、それも浚渫(しゅんせつ)をしました。高さが33メートルで幅が110メートルぐらいの重力式のダムなんですけれども、これがやっとでき上がりました。
(図50)
 こういう形で新しく水面があらわれました。新しく野鳥もここに住みつき出したので、野鳥の観察所も造りました。新神戸から行くロープウエーに乗っていただきますと、これが見えます。これを見ていただいたら、100年前にこんなことをしたんだなということが出てくると思います。
(図51)
 あの震災で、下水道も非常に大きな被害を受けました。一番被害を受けたのは、東側の処理場。対応として、ここの海面を堰き止めて、処理タンクとして使ってきたということで、非常に大胆なことをやってきました。その後、改築をし、併せてどれかの処理場が被害を受けても、すべての処理場でネットワークができる、バックアップができる、他に逆流で流していけるということを現在、41キロやっております。約6割ぐらい、できつつございます。そういうバックアップができる方式、フェールセーフシステムと呼んでおりますが、各処理場自身が被害を受けてもいけるという体制に向かっております。
(図52)
 これはちょっと違うんですけれども、処理場を改築した時に、併せて消火タンクを造りました。その消火タンクは39度ぐらいの熱でやっていくわけですけれども、そこで炭酸ガスとメタンガスが出てくるわけです。炭酸ガスは水によく溶けますので、10メートルぐらいの塔を造って、そこを通すことによって、水に溶ける炭酸ガスを排除して、メタンガスの濃度を非常に高くして、98%天然のガスを作って、それを自動車の天然ガスに使っていく。これは国の下水の皆さん方にもご理解をいただいて、京都議定書にある環境のエネルギー対策として、国としてこういう方法は、いいじゃないかとPRをいただけるように思います。現在、神戸の中でも公用車とかバスに、モデル的にどんどん使っています。普通のガソリンより低廉で、公害がない天然ガスとして使っていこうということです。技術的にはニュージーランドで開発して、ヨーロッパではかなりでき出したんですけれども、日本ではこれからやろうということです。こういうものができてきますと、都心部で、例えばLRT(Light Rail Transit)なんかの軽快な路面電車を走らせる時に、こういうガスを積んでできないかなということも1つのテーマです。架線のないLRTのものができれば、少しおもしろいものになるかなという気がします。
(図53)
 現在、これぐらいの塔の中を通していくわけですが、こういう形で我々の自動車に天然ガスを使ってきております。
(図54)
 次は、空港です。ポートアイランドの先の、272ヘクタールの空港で、第三種の地方空港として滑走路1本あります。これは誘導灯です。これはエプロンです。これがターミナル。これに対して、これが新交通の延伸工事です。空港の工事が平成11年にスタートして6年、9割方、出来つつあります。来年の2月16日に開港いたします。水深が16メートルぐらいのところを埋めてやっており、先ほど説明いたしました土砂を、どんどん運んできましたので、ほぼこれで終わってまいります。
(図55)
 空港連絡橋が陸地から空港島まで来ました。道路橋も出来ていますし、新交通のポートアイランドの延伸も併せて出来てきています。七径間の橋が出来てきております。
(図56)
 管制塔とかターミナルビルも出来ております。ターミナルビルも今年中には出来上がってきます。来年2月16日には完成します。
(図57)
 これは完成の予想図。
(図58)
 これはターミナルで、エプロンになっていまして、ここに新交通の新しい駅が出来ます。この駅へ降りて、ターミナルに入っていく。
(図59)
 出来ますと、1階部分がロビーで、出発が2階。上には、皆さんに見ていただくようなところも造っていくということです。
(図60)
 今の状況でいきますと、出来上がった段階では旅客数は319万人で、あと5年ぐらいすると、400万人。便数としては約30便ということでございます。地方空港ですから、神戸空港から北海道、東京、九州というところに行くわけですけれども、JALでは、開港当初は、なんとか複数便を、早い段階で10便ぐらいということです。また、ANAも、10往復ぐらいは飛ばそう、スカイマーク、これは東京便で8往復ぐらいということです。まあまあ、当初スタートするのにはそれぐらいの便は何とかいけるかなと思っております。
(図61)
 飛んで行く時は、先ほどありました明石海峡大橋を、上に上がって行って、東京の方へ行く、また九州の方に行くという形になります。
(図62)
 降りて来る時も、ちょうど東京から来ると、明石海峡大橋を通って来る。明石海峡大橋の上を見ながらずっと降りてまいります。是非そういう景色も味わっていただきたい、と思っております。
(図63)
 それから、港の関係ですけれども、神戸の港は、世界に冠たる港というイメージでやってきました。いろんな状況もあり、また震災の影響もあって、かなり馬力が落ちてきております。ただ、大阪と神戸と一緒になってやるというスーパー中枢港湾の考え方もありますし、また一方では、これからの港として、ポートアイランドの半分の西側は、親水ゾーンということで、都市の港として機能をしよう、それから、東側は物流のゾーンにしようということで、こういう港の基本的な考え方を新しく変えていこうとしてきております。
(図64)
 コンテナの貨物量の推移も、平成6年、震災前にはピークでした。取り扱い量については、20フィートのコンテナの1つを1TEUと言っておりますが、例えば、300万TEUぐらいあったものが200万ぐらいに下がってきております。東京港で今330万ぐらいですから、日本でいくと、300万とか200万とかいうオーダーなんですけれども、香港は、1800万TEUと桁違いのようになっております。
(図65)
 そういったところから、スーパー中枢港湾ということで、大きな取扱量にしようと、費用も3割安くしよう、またいろんな形で、リードタイムを1日にしよう、東京は、東京と横浜を一緒にして1つ、名古屋は、伊勢、四日市等を合わせ、神戸は、大阪と神戸を一緒にして、1つの阪神港にしよう、日本を3つの大きな港にして、世界に対抗しようということが出てきております。
(図66)
 これは中央卸売市場ですが、PFIで卸売市場を埋め立てながら移していこうという計画です。



4.市街地の整備

(図67)
 市街地の整備については、神戸市は戦災を受けた後の事業があり、また戦災を受けたその後のいろんな都市の改造があり、その矢先に震災が起きて、震災の事業(震災復興土地区画整理事業)を進める。市街地の大部分は、そういう格好になってきたわけです。今回、赤っぽいところが震災で事業をスタートしたところです。見ていただくとわかりますように、戦災の事業は60年も前にやった事業ですが、そういう事業で整備をしたところの震災被害が非常に少ない。戦災を受けなかった非戦災地域のところに非常に大きな被害があったということで、そういう基盤をしっかりと造っておくことによって、火災なり倒壊は非常に少なかった、ということがはっきりと出ております。そういう意味では、新しい地域が、密集地域だったわけですので、被害が大きかったというのは確かだと思います。
(図68)
 これは鷹取という地域ですけれども、こんな状況で被災をされたわけです。整備ということで、国の皆さんにいろいろご支援を願って、今はこういう格好で出来つつあります。
そういう中で、水の大切さというのを味わったわけです。水があれば、あの時火事で燃えるのを見るばかりでなくて、消せたんじゃないか。水というものに対する神戸市民の思いは、非常に強かったと思います。
 まず、火災の時に水がなかった。また、これから生活するのに水をどうするか、また、トイレの水をどうするか、医療の水をどうするか、水に対するテーマがあったわけです。ということで、震災の事業をやる中で、水を取り入れるということは非常に大きなコンセプトになりました。
(図69)
 これは、松本地区というところです。道路の一部、歩道のところにせせらぎを造って、非常時にはこの水を使えるわけですけれども、平常時には、みんなでここでコミュニティーを養っていく。団欒ができるような地域になっていく。皆さんで一生懸命掃除をするわけですけれども、この水は、5キロ先の処理場の処理水を持ってくる。3次処理をしたものをここに持ってくるわけですから、植物がよく育つわけです。余り育ち過ぎて本当にいいのかどうかという問題があるので、今年から、国の下水の皆さんとも一緒になって、調査をしようということになりました。処理水を利用したこういう水路を、自然としていいのかどうか研究しようということにしております。
 また、一方では六甲というところでも、こういうせせらぎを、井戸を掘ってやりました。こちらの新長田では、近くの道路の隧道をやっている中で、湧き水を引っ張ってきて、まちの中へ流していくということでやってきております。
 水道水を流すようなことは、いろんな意味で大変だろうと思いますので、うまく水を利用しながら、水の大切さを皆さんに知っていただくということが必要かなと思っています。
(図70)
 これは面整備の1つです。神戸駅です。ハーバーランドという地区ですが、もともと国鉄時代に国鉄の貨物のヤードであったわけです。市民の皆さんが水辺に出れなかったということもあって、国鉄がJRになる時に、この土地を神戸市で買わせていただいて、ヤードを移転をしていただきました。
(図71)
 震災の前の年に一応出来上がり、今まで入れなかった水辺に、市民の皆さんが入れるという状況になりました。
 震災の時は、震災スタイルと言いますか、マスクをして、リュックサックを背負って、登山靴を履いていたのですが、このハーバーランドに来る時だけは、少し着がえて、少しお化粧をして、いい靴を履いて来るということで、行けるようになった。その前の年に、完成しておってよかったかなという感じがしました。
(図72)
 これは反対に東側です。震災前からいろんな検討をしておったんですが、神戸製鋼なり川崎製鉄の工場群だったわけです。それぞれが工場をいろんなところに移転をする。その跡を、三宮からも近いということで、新しい市街地にしようと、整備をスタートしたわけです。
(図73)
 おかげさまで、これも震災の時にほぼ整備をしておりましたので、公的住宅などが、5000戸という規模で被災者住宅が出来ました。
(図74)
 その後、徐々に、未来センターとかJICAあるいはWHOのセンターなどの建物がここに立地してきております。
(図75)
 これは再開発なんですけれども、ここも非常に被害を受けた六甲というところ。三宮が中心部で、両サイドに六甲と長田という副都心的な地域がございます。非常に大きな被害を受けたわけですが、現在、14棟のビルがほぼ完成をしてきております。
(図76)
 ここでは、一番大きな広場、約1ヘクタールの広場がポイントになるんですけれども、ここをこれから最後に仕上げていくということにしております。
(図77)
 たまたま、この一部のコンペをやったわけですけれども、イタリア年でもあったのでイタリアの皆さんが頑張ってこられて、イタリア広場という形にしてきております。
(図78)
 一方の、西側の新長田という大きなエリアは、再開発の中でも20ヘクタールというエリアですから、ちょっとやそっとではなかなか出来ない事業ですけれども、震災の影響が非常に大きいということで、40余りのビルを造ろうということでやっております。
(図79)
 新長田駅南地区完成イメージです。この辺のビルに入りますと、明石海峡大橋も見える。そういう面では、景観的にもいいんですけれども、なかなかこのご時世ですので、全部のビルが建つのにもう少し時間がかかります。
(図80)
 今は、完成しているビルもありますが、あと数棟残っております。あと10棟ぐらいは、早く計画しようということで頑張っております。
(図81)
 中山手地区市街地再開発事業は、中央部のところで、華僑の皆さん方がやろうという事業です。
(図82)
 もう1点、耐震化をどうやっていくかというのが神戸の大事なテーマです。あの時にたくさんの方が亡くなられた。亡くなられた方のうちで、圧死が3000人以上ございました。8割ぐらいの皆さんが、圧迫されて亡くなっております。そういった面で、昭和56年、1981年以前の建物、旧建築基準法の時代に建てられた建物を、何とか早くいいものにしないと、次の東南海、南海でまた被害が大きくなりますので、診断なり、耐震改修という形で皆さん方にPRをしております。けれども、なかなかそれが難しい。というのは「あの大震災でももったやないか。」という感じの方が結構おられまして、なかなか進んで来ないのが実情です。
 しかし、我々被災を受けた市としては、日本で一番安全なまちをつくるという意味からも、耐震化に向けては全力を挙げていこうということで、まず診断をしてもらい、診断をした中で工事をしていくという形で、助成制度とかも是非やっていきたいと思っています。最近は国の方も、地震防災推進会議の中で、耐震改修促進法ということもお考えのようで、10年で耐震化率を75%から90%へ、という強いご意思もございます。
 そういった面で、日本で一番安心して住めるまち、神戸ということで、ぜひこれは進めていきたいと思っています。
(図83)
 また、一方では、学校の耐震化ということがあります。学校を耐震化することは、なかなか大変な仕事なんです。子どもさんを守る。また、何かあった時には学校が避難所になったりするので、我々も予算的には非常に大変な時期ですけれども、ここにかなりの予算を入れていこうということで、10年計画で全部やり上げたい。5年間で80%の学校は耐震化し、後は10年で仕上げる、ということで取り組んでまいりたいと思っております。
(図84)
 あとは、事業の中でいろんな事業をやっているわけですけれども、密集市街地改善の事業の中で共同化をしてもらったり、いろんな形で工夫をするということもやっております。こういったことで共同化を図りますと、補助金が出ますから、一戸を3000万で売る時には、2600万で売ってもいける。400万は補助が入るということになります。そういった面でも皆さん方がこういった共同化を図っていくということは非常に有利でございます。
(図85)
 あとは、市の予算で、大変厳しい中で、どこでもそうなんですけど、行政経営方針で、我々も3000人を削減しよう、あるいは公営企業等もいろんな形で民営化を図ろう、となっています。新しい法律で、指定管理者制度という制度がありますが、今までは公共団体的な外郭団体がいろいろな施設を管理しておったんですけれども、それを民間の皆さんにお願いをする。それはいろんな面で提案を受けてやるわけですけれども、公園や駐車場などのいろんな施設だって、全部、指定管理者という制度に乗って、民間の皆さんにやっていただけるという法律改正ができていますから、どんどんそういったことをやろうとしていきます。
(図86)
 それから、震災から10年経ちましたので、皆さん方に来ていただこうということで、現在いろんな取り組みをしています。
(図87)
 ぜひまた神戸にも来ていただいたらということで、メリケンパークでも、いろんなことを8月いっぱいまでやっています。



5.協働のまちづくり

(図88)
 協働でまちを造るというシステム。それはいろんなやり方がありますが、ルールを作るとか、物を作るとかいうところで、最後は決まってくる。一緒に創っていくわけですが、物作りにいくのか、あるいはルール作りにいくのかというのが最後だろうと思います。
(図89)
 まちをつくっていく場合には、そういった面で、いろんな指導者が要ります。そこで、地域の皆さん方に「こうべまちづくり学校」という学校を作って、みんなに来ていただいて、いろんなノウハウを知ってもらうということを進めてまいっております。
(図90)
 それと、子どもたちを守っていこうということで、公共的な車、あるいは民間のガス屋さん、電気屋さんなどいろんな車がありますが、皆さん方に一緒になって、子どもを守る車ということでステッカーを張って頂いております。これを見ると、何かの時には、子どもさんが相談ができるし、一旦預かってもらえるという形にしようということで、今年から活動いたしております。



6.都市景観の形成

(図91)
 新たな景観的な要素について。神戸の場合は海と山と坂がありますので、景観条例というのを制定して、景観的なまちづくりを進めています。
(図92)
 北野とか、三宮の中央通り、三宮中央通りは、地下鉄を造った後の上を整備したもので、オープンカフェなどもモデル的にやって、いろんな実験をしているところでございます。
(図93)
 有馬ですが、有馬は1400年の歴史を持った温泉です。秀吉も入った、いい湯なんですけれども、少し来街者が減少ぎみなので、色々な工夫をやっています。有馬の中でも足湯というのもできました。
(図94)
 これは北野の坂です。北野の道をインフォラータということで、チューリップの花びらを敷きならべました。5月の連休にはかなりの皆さん方に来ていただきました。それぞれの団体の皆さんは、一生懸命いろんな色でチューリップの花で描きます。作る時の楽しさと、また皆さん方に見てもらう楽しさがあるということでやっております。
(図95)
 これは北野の風見鶏の館なんですが、ライトアップを最近するようになりました。
(図96)
 ライトアップはいろんな皆さんにご提案を願って、若い照明デザイナーの登竜門にしたいということで、いろんなところでやるわけです。新しい皆さんが旧居留地などで照明をやっていただくという形でしています。
(図97)
 旧居留地の中でも、商船ビルですが、こういう形でライトアップをしています。
(図98)
 これは、15番館という文化財です。



7.都市再生

(図99)
 都市再生ということですが、三宮とポートアイランドの一部を、国の方の都市再生緊急整備地域ということで指定を受けました。
(図100)
 三宮の中心部のところは、結構まだ空き地があります。そういう空き地にインセンティブを与えて、皆さん方にいろんな提案をいただくということでやってきました。
(図101)
 その一部は、3層のネットワークということで、デッキレベルと平面と地下をそのうちにつなごうということで、昭和40年からずっと、徐々にではありますが、少しずつやっています。これはデッキレベルの計画です。
(図102)
 また、地下レベルということで、地下鉄ができた時に合わせてやったものです。
(図103)
 つい先だっては、ここに丸井のビルができて、交通センタービルをつないで、新しいデッキレベルができました。ここにちょっと隠れておるんですが、デッキレベルと平面と地下の3層をそれぞれつないで、エレベーターに乗ったところから車いすで外に出られる。すべてのところで、それができるような工夫を一遍やってみようということでトライいたしました。そういうものを、若い人たちがいろんなところで勉強をして、今のところは何とかスムーズにやっています。一つのエレベーターですけれども、工夫の仕方によっては面白いものができるのではないかなと思っております。
(図104)
 地下に入る時に、どの入り口に入って、どういうところに行けばどういうふうになっているかというのは、なかなかわかりにくい。これからスタートするんですけれども、地下のところにネーミングをして、ナンバーをつけて、それをどこかできちっとわかるようにしようということでやってきております。
(図105)
 普通は地下鉄で行くと、地下鉄は何通りかあるんですけれども、それぞれにみな思惑があって、全体の地下に対する感覚はなかなかできないので、統一してやろうということでやっております。
(図106)
 もう1つ、これは東京大学の坂村先生にいろいろご提案いただいて、国の方もご支援いただいている自律的移動支援プロジェクトです。神戸をモデルにして、お年寄り、あるいは障害のある皆さんが、こういう計器、ICタグを用いて、携帯端末でいろんな情報を受けながら動けるということをやろうとしています。ユビキタスの技術です。
 去年の9月に、神戸で第1回のデモンストレーションをやりました。今週の日曜日にも、市役所の中でデモンストレーションやろうということですので、時間がありましたら、また見ていただいたらと思います。
(図107)
 こういうふうに歩きながら、ICタグで情報を聞きながら行ける、ということでございます。
(図108)
 これは、さっき言いました都市再生の都心部の地域です。
(図109)
 駅前の神戸新聞会館ビルの計画です。都市再生プロジェクトということでやってもらおうと、着工しております。
(図110)
 容積率は1600%で、日本で一番容積率を高くさせていただいたのは、都市再生というインセンティブがあったからでございます。いろんな情報センターとかが入る予定です。下には、バスターミナルを入れさせていただいています。ビルの下を使わせてもらいますので、容積率も加味しております。
(図111)
 阪神の三宮駅。出入口が今まで西しかなくて、東口がない。防災上の視点からも問題でしたので、国の方で新しい制度を作っていただきました。
(図112)
 都市鉄道利便増進事業という制度ができましたので、鉄道と地下の通路を合わせてやるということで、阪神電鉄が路線やホームを改築をします。将来は大阪を通って、近鉄を利用して奈良まで行ける。今から7〜8年ぐらいかけて、何とかいいものに出来たらと思っております。
 そういうことに合わせて、先ほどの新聞会館と阪神電鉄をつないで、地下のネットワークがグルッと完成できるかなと思っています。
(図113)
 あと、ポートアイランドの西側のところ、これも都市再生の事業です。もともとここはガントリークレーンがズラッと並んでいて、船が着いてやっておりましたが、12メートルと水深が浅いものですから、コンテナ船の大型化に向けてポートアイランド2期の水深掲載15メートルのところへ移してきまして、ここが50ヘクタールぐらいの土地が空きましたので、これをどうやって活用していくかということです。
(図114)
 今、こういう状態になっております。
(図115)
学校、大学の計画があり、大体、土地利用の状況もほぼ固まりつつございます。
(図116)
 ハーバーランドから向こうの方に見えるわけです。
(図117)
 神戸学院大学も、こういう形でキャンパスができてまいります。
(図118)
 ポートアイランドの南側については、医療産業都市というのをスタートしています。
(図119)
 これは医療と産業が結びついた形でどうあるべきかということで、いろんな施設、特に再生医療、バイオの研究、それから医療機器をやるということで、現在75社ほどが出ております。クラスターを作り、医療と産業を合わせたものを1つの大きな拠点としてやる。あわせて、現在ある市民病院をここら辺に移転をしよう、ということで進めてきております。そういう面でいきますと、それぞれの省庁のご支援を願っています。研究分野、あるいは医療、臨床、京都、大阪、神戸、それぞれの大学と一緒になって医療の研究分野でやっていくということにいたしております。
(図120)
 これは中央市民病院の構想ですけれども、今の病院が30年経つ、平成22年には新しい病院を建設してまいります。
(図121)
 これはエンタープライズプロモーションというものです。先ほどありました土地に企業誘致を図ろうということで、市長をトップに、プロモーションを作りました。皆さん方に、いろんな形でお願いをして、企業誘致を図っていこうということです。また皆さん方のところにいい話がないかということで、訪ねて行くかもしれません。よろしくお願いを申し上げます。
(図122)
 これは都心のウォーターフロント。中心部をいかに港と結びつけるかというのが次のテーマではないか。これは先ほどありましたHAT神戸。これはハーバーランド。これは三宮。先ほどのポートアイランド。こういう臨海部と、中心部とを結んでいく。こういう軸を都心のウォーターフロントという形で、これからこれを1つの大きなテーマにしていきたいなと思っております。
(図123)
 HAT神戸の中では、ハーバーウォークということで、幅が10メートルなんですが、全体が40メートルぐらいの幅でずっとつなげていくということでございます。
(図124)
 ハーバーランドの中もこういう格好でウォーターフロントができつつあります。
(図125)
 神戸は観光交流都市にしたいということで、現在2600万人ぐらいの観光客を、3000万人ぐらいにしたいということで進めております。
(図126)
 やはり観光という意味では、中心部の南京町。
(図127)
 六甲山牧場。六甲山の中で牧場というのは非常にいいものであります。
(図128)
 六甲山のゴルフ場。1901年開設、日本で一番古いです。これはクラブハウスで、最後のところで18番です。
(図129)
 それから、森林植物園。いろんな意味での植物をたくさん植えているところです。植物園では真野響子さんを名誉園長さんとして、いろんなことで来ていただいてやっています。また中のいろんな施設を、みんなで一緒にペンキ塗りをするということをやっています。
(図130)
 神戸の奥の方へ来ますと、棚田があります。別に観光地じゃないんですけれども、こういうところもあるということでございます。
(図131)
 また、農業公園。ワイナリー。ワインを作ってやっております。
(図132)
 一方では、ちょっと汚いんですけれども、市街地を見るときにヴィーナスブリッジ・金星台があります。日本とフランスで金星を観測した記念に金星台と名付けたんですけれども、名前がいいんでしょうか、恋人同士がここへ来て2人で鍵をかけて誓ったらいいらしいので、たくさんの鍵で汚くなっております。
(図133)
 これを何とかしようということで、少し場所を変えて、新しいものを造って、ここで鍵をかけていただいて、夜景で愛を誓っていただいたらどうかということで、今やっています。
(図134)
 一方では、摩耶山という非常にいいところなんですけれども、蓄光材と言いますか、それに昼間、エネルギーを蓄えておいて、夜になると輝く。そういう星を掬う台、「掬星台(きくせいだい)」と言うんですけれども、それを整備していこうとしています。七夕さんの7月7日にでき上がって、皆さんに見ていただきたいなと思っております。
(図135)
 新神戸駅から先は夢風船というロープウェイがあり、この上にハーブ園があります。
(図136)
夢風船に乗っていただくと、先ほど言いましたダムが見えます。こういうところから見ますと、神戸の港、神戸の空港が見えてまいります。
(図137)
 これはスカイマークという会社にお願いをして、野球場をスカイマークスタジアムという名前をつけて、これでお金をいただいて運営費にするということでやっています。花火をやったりと、ドームでないよさがございます。
(図138)
 「神戸祭り」ということで、フラワーロードの中で、今年初めてだんじりまでやりました。今までは神戸らしいというので、サンバをやりましたが、だんじりをやるということで、威勢のいいお祭りになってきました。
(図139)
 一方では、旧居留地の中のフリーウォークで、皆さん方がある時期を定めて、車道で音楽を奏でたり、みんなで一緒に楽しめるという形になってきております。
(図140)
 これは、震災の年からやっているルミナリエという光の祭典です。これは、あくまでも震災の鎮魂というイメージで10回を迎えました。2週間ですけれども、年間
500万人の皆さんが来ていただきます。今年は、9日から22日ということでクリスマスイブとクリスマスを避けています。というのは、休日とクリスマスとが重なりまして、大変な人になりますので。9日から22日ということになりますが、是非。東京でも最近やっておるんですけれども、先に神戸でやっていますので、見ていただきたいと思います。
(図141)
 それから、1000万ドルの夜景。夜景はだんだんと、いろんなまちできれいになってきています。神戸も元祖だったんです。
(図142)
 大河ドラマの「義経」、これは、いよいよ一の谷の合戦が出てまいっております。
(図143)
 先ほどの錨のマークが水色になっています。これは勝ったときの印です。我々としては、できるだけ皆さん方に神戸に来ていただき、おもてなしができるような、気持ちのいいまちにしよう、ということであります。神戸の市民の財産というのは港であり、六甲山であります。また田園地域であります。こういうものは、神戸の市民にとっても大きな財産だと思います。そういう財産を、これからも大切にしたまちづくりをやっていきたいなと思っています。
 ある方が、由布院の人でしたか、最も住みよいところこそ、すぐれた都市観光のまちになるんだろうと言われていまして、非常に感激をしたことを覚えています。先ほど言いましたように、六甲山は、100年であれだけの緑になりました。これから次の100年に向けてどうするか。我々の先輩からいただいた次に向けての大きなテーマもございます。また、震災10年ということで、あの時の支援をしていただいた皆さんに、本当に感謝をする気持ちを持ち続けたいと思います。
 また、命、財産、いろんな思い出、大きなものを失いました。しかし、その間、感謝とか、きずな、共に生きる、共生といった面での得たものが大きかったわけです。そういった面で、これからまちとしては、来年2月16日に神戸の空港が開港いたします。それは皆さんと一緒に交流ができる、という1つの拠点にもなるのではないかなと思います。国際交流をしていく必要性もございますし、話し合いながら心を通じていいまちをつくっていけるということで、これからも夢のある神戸を目指していきたいと思っております。
 ご清聴いただきまして、ありがとうございました。(拍手)



フリーディスカッション

與謝野
 
松下助役、大変ありがとうございました。経営感覚豊かな神戸市の都市行政の貴重なノウハウの数々、各種事業の基盤を成しているポリシー等について、かなり熱っぽく内容の濃いお話をしていただきました。ありがとうございました。
 それでは、ご質問の時間が残っておりますので、せっかくでございますから、内容が大部にわたっておりましたが、その中で、この部分についてもう少し詳しくお聞きしたいとか、そういう関連のご質問でも結構でございます。よろしくどうぞ。
石渡(元気堂)
 すばらしいお話で、ここにご紹介をいただかなかったお話を是非お聞きしたいと思います。神戸だけに限らず、日本中にすばらしい美術館ができていくんですが、神戸の美術館もすばらしい。東京都なんかもそうです。先ほどもお話がありましたように、民間とのやりとりの中で、委嘱というのか委託というのか、動物園だとか、花と緑の公園などはスポンサーがついてうまくいきますが、そう簡単にいかないのが多分美術館だと思うんです。
 先ほども控え目に「株式会社神戸市」とおっしゃいましたように、神戸の都市運営はすばらしいものがあると、かねてよりお伺いしておりますので、多分、美術館に関しても全国に先駆けてすばらしい美術館を維持していくノウハウをお持ちであるものと思いますので、これを是非お伺いしたいと思います。よろしくお願いします。
松下
 この中で、そういうこともありまして、私もあえて申さなかったんです。美術館に対する取り組みというのは各都市も大変。これは民間でお願いした方がいい場合と、公的な部分でこれだけはやらないかんという場合は確かにあろうと思います。我々の方も、それなりに美術館はあるんですけれども、維持管理と、大切なものですから、それをどれぐらいの費用でどれだけ見ていただけるか。それは知の財産と言えば知の財産なんですけれども、それが公共ベースでどこまでやるべきか。まさに公共団体がどこまで本当にやるべきか。先ほど行政経営方針とありました。そういう中で今かなり議論をしている1つでもあります。
 ただ、それはすべて民間の皆さんにやってもらったらいいんじゃないか、というんではなくて、これだけのことはやる。しかし、ここからの中身は民間でお願いするという線引きと言いますか、「仕分け」についてはこれまでもやっているんですけれども、これがこれからの1つの大きなテーマかなと。いいノウハウがあったら、逆に教えていただきたいと思います。
平木(日本経済新聞社)
 いろいろ勉強させてもらいました。ありがとうございました。
 景観行政のことで1つ教えていただきたいんですが、神戸に参りますと、ああいう大災害に遭ってから、一気に復興してこられたわけですが、ビルの色合いが、割合にみんな似ている。これは当然のことかもしれないんですが、薄グレーとか、薄ブルー、ベージュ、パステルカラーの感じのビルが多いなという感想を持ちます。これはもちろん、どぎつい色にしてはいけないとか、そういう色の使い方についての規制と言いますか、指導と言いますか、そういうことを進めてこられた結果なのかなと感じます。
 と当時に、一方で、震災に遭った後だからという日本中の気分と言いますか、建築家の方々、デザイナーの方々、そういう方々のあの時期の気分が、ああいう色合いでまとまったのかな、などと思うこともございます。どっちなのかと。
 たまたま、ほぼ同時期にできた「さいたま新都心」を見ますと、もちろん、神戸全体とははるかに大きさが違いますけれども、割合似た色合いになっているんですね。ですから、行政でいろいろ規制を指導してこられたことなのか。それとも、両方なのか。そこら辺をお教えいただきたいと思います。
松下
 ポイントとしては色合いですね。先ほどありましたように、景観条例を作った時に、我々としてはテーマがありまして、景観というのは守るのか、育てるのか、それからつくるのか。その3つをいろいろ議論しました。1つは、景観を守っていこうという考え方と、育てていく、つくっていくという議論の中で、先ほどの色合いについては、各地区で、いろんな議論をする場を作りまして、その地区で、こういったところにはこういう色合いをベースにしようと、ベースを一応決めました。
 そういう中で、所有者なり、そこへ出るお店の方やら、いろんな方が、この色でないと自分のところのテーマに合わないということもありますので、その辺のところは地域の人と我々も一緒に入って、色合いはこういうトーンでやったらどうという形で、粘り強く皆さん方にお願いをしてやっていくというのが現実です。
 景観条例できて約30年ぐらいになりました。最初はまちなんて、まだまだどんどんやる時代だから、そういったことまでやる必要ないんじゃないか、という議論があったわけですけれども、そういう人たちは、衣食足りて礼節を知るというところではなくて、礼節はやっぱり早くからやろうという運動になって、色合いまで調整をしてやった。だから、この地区は景観的な地区にしようという地区については、そこまで決めています。もちろんそうでない地区は、どうしようもないところもあるんですけれども、ビューポイントになるところは、先ずはそういうものはきちっと守る。あとは地域の中でどう守るかという形になってきていますから、それでやっと30年経って、震災の後も、そういったものを復興するに当たっても、そういうトーンはそのまま続けていこうという形でやっています。
 もちろん、なかなか難しい。看板1つとってもいろんな難しい問題があります。ある企業は、「この色やからこそうちの会社の色やないか」ということもあったりして、いろいろ難しいところがあるんですけれども、粘り強くやるというのが我々も一番だと思います。
與謝野
 今の景観のご質問に補足して、神戸市の場合、デザインポリシーの指導、3層構成でやるとか、あの辺のご紹介をちょっと簡単にしていただければありがたいのですが。3層構成とは建物外観を「基壇」「本体」「頂部」の3つのモチーフに分けてデザイン誘導するコードのことだったと思いますが・・・。
松下
 これは3層と言っても、そう大層でもないんですが、全体としてデザインをする時に、基本的なコンセプトをどういう格好でやるのかというのと、非常に小さなところ、ここら辺まではきちっとやろう、そういうレベルの問題で、その段階で、皆さん方と相談する時に、こういう基本的なイメージというのは委員会とか、ある程度いろんな皆さん方に入っていただいて、その都度、1つずつの建物に議論ができるという場を持っています。あとはそれに基づいて、それぞれの専門の部門でチェックをしていくということを進めています。
 最初の時には、これでいいかなと。いろんな目がありますから、それをどういう形のイメージにするかというのは、いろんな皆さんに入ってもらって議論をする場を設けておる、というのは一番大きなことかなと思います。それでも、出てきた時にマスコミさんから批判を受けたりはしますけどね。
渡辺(鹿島建設梶j
 私も、つい先ほどまで神戸の長田の方で約8年ぐらい工事をさせていただきました。ちょうど震災後ですので、周りが焼け野原と言いますか、仮設がある時から、かなりの勢いでまちがよみがえっていくというのを肌で感じてきました。特に、最近、災害、水害にしても、地震にしても、各地で起こっているかと思うんですけれども、災害を復旧するに当たって、物を作るにしても、ご苦労されたこととか、気をつけられたこと、このあたり、もし聞かせていただけたらと思うんです。災害復興する時のまちづくりの心得と言いますか。
松下
 復興の一番のポイントというのは非常に難しいんですけれども、例えば、そういうまちがガッと崩れた時に、どういう格好でそれを復興するかという時に、一番最初に何をするのかというところを、そのまち自身が、元あったようなまちへ向かうのか、新たに魅力のあるものにするのかというところをどう決めるかですね。
 まず、皆さんといろんな議論があるのは、元あったわけですから、元あるように直してくれたらええやないか、というところから始まるわけです。本当にそれでいいのかというのが一番我々がするところで、というのは、そこに元ある商店が並んでおれば、そういう商店がそこに並ぶ。そうすると、その商店の裏側はどうなるんでしょうか?ということもある。さっきおっしゃった新長田でそういうのがあるんです。そうすると、ビルを造ったらいいのかというと、ビルに入ること自身がいろんな問題があるわけです。生活の問題やいろいろあって。そうすると、いろんなケースでやれれば一番うまいんですね。ここは一遍こういう形でやってみよう。ここはこんなことでやってみようということで、いろんなことをやって、本当にどれがよかったかというのを後ほど検証するのはいいんでしょうけれども、我々、行政にタッチしている者として、やってみてというのは許されぬと。これが最善だというものに向かってそれに全力をやるということで、皆さん方にもそれを理解していただいてやる。
 もちろん、その結果が、歴史的にいろんな形でご批判を受けるかもわかりませんけれども、いろんなことができないというところが非常に難しい。ちょっと抽象的なんですけど、復興事業について最初にみんなで議論したのはそういうところですね。単に砂漠のところに物を造って、新しいまちをつくるというわけではない。そこには、今まで生きてきたそういう人たちのまちをどうするかという議論。ただ、大切なことはもっと時間をかけて、じっくりやったらいいんじゃないかという議論も確かにあるんですけれども、そういう時間があったのかどうかということになると、非常に難しいわけで、今大変な皆さんをどうやって復興していくかというのは、これから災害技術というか、災害のいろんなテーマが出てくると思います。我々も、いいもので終わればそれでいいんですけれども、永遠のテーマと言い切ると、ちょっと無責任になりますけれども、難しい問題かなと思います。
與謝野
 他にございませんでしょうか。それでは、長年携わってこれらました都市行政の実務を通して培われました貴重なノウハウと知見の数々をもとに、日頃から都市問題に携わられる方々にとりましても、誠に示唆深い現場からのナマの都市経営レポートをしていただきましてありがとうございました。厚く御礼申し上げます。
もし本日のご講演内容の中で改めてのお問い合わせがございますれば、神戸市広報室の方へ直接お問い合わせいただければよろしいかと思います。それでは、これで本日のフォーラムを閉会させていただきます。
 最後に、今後の神戸市の益々のご発展と、すばらしいご講演をしていただきました松下助役さんの今後のご活躍をお祈りし、本日のご講演のお礼の気持ちも込めまして、大きな拍手をお贈りしたいと思います。(拍手)。ありがとうございました。






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