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第212回都市経営フォーラム

『「都市と水環境」の不幸な歴史と新しい未来』

講師:尾田 榮章  氏  特定非営利活動法人 日本水フォーラム 事務局長

日付:2005年8月18日(木)
場所:後楽園会館


1.「都市と水環境」との不幸な過去の関係

2.「都市と水環境」はどのように変わろうとしているのか

3.「都市と水環境」を変えるのは誰か

4.新しい形の都市づくりを動かすのは誰か

フリーディスカッション



 

 

 

 

 

與謝野
 それでは第212回目の都市経営フォーラムを開催させていただきます。本日は、お忙しい中、また大変な炎暑の中をお運びいただきまして誠にありがとうございます。
 本日の講師は、都市と水環境をテーマに、公私ともども多方面でご活躍されておられます尾田榮章様をお招き致しております。尾田様のプロフィールにつきましては、お手元のペーパーのとおりでございまして、長年旧建設省の河川部門にてご活躍され、河川局長として河川法改正等に取り組まれる中、河川舟運の再興の指導にも当たられた方でございます。現在は、特定非営利活動法人日本水フォーラムの事務局長として活躍しておられます。また、皆さん、よくご存知だと思いますが、「打ち水大作戦」の作戦本部長も務めておられ、国内だけでなくパリ他海外都市でも活動されておられます。また、都内渋谷川の再生活動にもボランティアで活躍して来られているという、公私ともどもに活躍される、まさに「水環境」についての当代を代表する専門家であられます。
 本日の演題は、『「都市と水環境」の不幸な歴史と新しい未来』と題されまして、都市における水環境の歴史と現状が抱えるさまざまな課題とどう取り組んでいくか、あるいは、これを変えるのは誰か等についてお話しをいただくこととなっており、新しい形の都市づくりについての、示唆深いお考えをご披瀝いただけるものと楽しみにしております。
 なお、当フォーラムでは、都市における「水」についての課題の重さに注目しまして、今後断続的ではございますが、本日の尾田様を筆頭に三人の講師をお招きしまして、「連続テーマ」扱いでこの課題についての講演を企画しております。これにつきましては、次回の講演では、三浦裕二先生にご担当をお願いしております。3回目は、少し先になりますが、11月に静岡の三島でご活躍されておられます渡辺豊博さんにご講演をお願いする予定でございます。よろしくお含み置き頂ければ幸いであります。
 それでは、本日のご講演に入りたいと思います。
 尾田様、よろしくお願い致します。
尾田
 ただいまご紹介をいただきました尾田でございます。今日はこれから皆様方と、都市と水辺、都市と川辺との関係が現在どういう状況にあるのか、それを今後どういうふうに持っていくのが望ましいのかについて一緒に考えていきたいと思っております。私の方から1時間半お話をした後、皆様方と意見交換をさせていただくことを大変楽しみに思っております。忌憚のないご意見をお聞かせ願えればありがたいと思います。



 

1.「都市と水環境」との不幸な過去の関係

 (図1)
 今日のテーマの「都市と水環境」について、今までどういう歴史的経過をたどったのかを簡単にご覧いただき、一緒に考えていきたいと思っております。また現在、世界でいろいろな新しい動きが出ています。特にお隣のソウル、あるいは中国、ヨーロッパでも新しい動きが出ていますので、そういう問題についてご説明したいと思っております。
 それから「春の小川」の舞台となった東京の渋谷川ですが、ご存じのとおり、渋谷の駅から下流はオープンになっていて、一応、川らしき水面を備えていますが、渋谷駅から上流は蓋をされています。この渋谷川について一緒にお考えいただければありがたいと思っております。
 その上で、都市と水環境の新たな関係をどのようにつくっていくのか、そういうものをつくる主体は誰なのか、という問題について考えたいと思っております。
 まず「都市と水環境の不幸な関係」についてですが、それは特に近代においてのことだと考えています。もともと人と水あるいは川との関係は、世界の4大文明がそれぞれ川のほとりに生まれていることからも、川といかにつき合うかということが、ある意味では我々人類が刻んできた歴史そのものだと思っております。
 私はたまたま若いころフランスにおりまして、何とはなしにセーヌ川とパリの関係に非常に興味を持ち、『セーヌに浮かぶパリ』という本を書きました。水あるいは川と都市というのは、非常に長い歴史を有しているものですが、近代になって都市と水辺が非常に不幸な関係になってしまったのではないかと思います。
 都市側から見た時に川辺というのは、どうも見捨てられた存在のようです。1カ月ほど前、伊藤滋先生とお話しする機会がありましたが、「川辺というのはもともと都市計画から完全に切り捨てた空間なんだ」、一言で言えば、そういうお話がありました。事実そういう形になっています。河川サイドから見た時には、片思いと言えそうです。
 もともと河川を管理するというのは、川からの氾濫を防ぐとともに、水を供給するということです。都市を守り、都市を育てるために、河川の管理をしているはずですが、どうもそこの関係が非常に希薄になってしまっています。河川サイドからは、何とか都市問題の中に河川を位置づけて考えて欲しいと思います。一方で、これはかつて河川局の中にあったムードですが、川の中というのは、これは河川管理者が責任を持って管理するので、他の人は手を出すな、といった、ある意味では独善的なところがありました。
 そういう両方の兼ね合いで、都市にとって一番大事な河川という空間、一番貴重な空間が、都市として活かされなかったと思っています。その辺のところを、まずご覧をいただきたいと思います。
 (図2)
 これは、「メムノンの巨像」と呼ばれるもので、王家の谷、ルクソールの入り口にあります。高さが大体20メートルぐらいある巨像です。ここに行かれた人たちは余り気がついておられませんが、「メムノンの巨像」には水平に線が刻み込まれています。この線が何かというと、ナイル川が毎年氾濫をしたときの水面がちょうどこの高さであり、表面に立つ風波によって刻み込まれた線であります。
 「氾濫」という言葉を使いますと、日本の川の氾濫をイメージしがちですが、そうではありません。ジワジワと水がついて、そしてジワジワと引いていく。それが1年の周期で繰り返す。雨季に入ると浸水が始まり、雨季の終わりになると、水がこの山懐まで行きます。乾季になって水が引いてくると、引いた後に耕作をする。洪水によって肥沃な土が運ばれるため、ここが良い耕地になるわけです。そういう形で農業生産が維持され、エジプト文明が花開きました。これがナイルの賜物です。しかしそうはいっても、エジプトの人にとっては、ナイルが氾濫することは決して嬉しいことではありません。何とかしてナイル川をコントロールしたい。エジプト数千年の夢であります。
 (図3)
 この丘は盗賊の村です。貴重なものが見つかると、その上に家を建てて、ゴソッと掘り出すということで成り立った、非常に裕福な村だったそうですが、今はそんなことはできずに、寂れているようです。
 (図4)
 これはナイル川です。現在はナイル川は完全にコントロールされています。
 (図5)
 カイロから1,000キロぐらい上流だったかと思います。ナイル川にアスワンダムを造り、更に上流にアスワンハイダムが造られたことによって、ナイル川は完全にコントロールされています。
 (図6)
 アスワンダムは1902年、20世紀初頭に完成したダムで、イギリス統治時代に造られました。数度にわたって嵩上げされたこのダムは、最終的には50億立方メートルの容量しかありません。「しかありません」と言っても、日本の一番大きなダムでも10億立方メートルはありませんので、それと比べれば巨大なダムです。それでも、ナイルを制御するという意味ではとても足りません。そこで造られたのがアスワンハイダムで、1620億立方メートルの貯水容量があります。
 日本全体に散らばるダムは約3000あります。その約3000の総貯水容量が約250億トンぐらいです。300億トンまでもいきません。ですから、アスワンハイダム1つで、日本全体のダムの5倍ぐらいの貯水容量を持っている。そのぐらい巨大なダムを造って初めてナイル川を制御できるようになったわけです。
 もちろん、ナイルを制御できる、ナイルの流量をコントロールできるようになったということは、必ずしもプラスだけではありません。当然マイナスの影響もあるわけです。特に欧米を中心に、アスワンハイダムに対してはマイナスの評価が高い。これはアスワンハイダムが造られた経過が大きく作用していると私は思っています。もともとは、アメリカとイギリスと世界銀行が出資して造ることにしていたんですが、急遽止めました。その結果、起こったのが1956年のスエズ動乱です。当時のナセル大統領がスエズ運河会社の国有化を宣言すると、スエズ運河会社を持っていたイギリスとフランスはそれに怒って今度はイスラエルを後押ししてスエズに侵攻しました。こういうことで起こった戦争がスエズ動乱であります。
 国の興亡をかけてまでダムを造った。この一事を持って、エジプト人のナイル川を統御したいという願いの強さと深さが読み取れるかと思います。それだけのことをして初めて、あのナイル川がコントロールできるようになったのです。
 そのアスワンハイダム、1560億トンと申しましたが、大体アスワンハイダム地点での通過流量、1年間に流れていく水の量が約800億立方メートルです。黙って2年間貯められるだけの容量を持っています。日本のダムはダムサイトを流れる水の量の数ヶ月も貯められません。そういう意味で、同じダムという言葉を使っても、似て非なるものとも言えるわけです。それだけの大きなダムを造って初めてナイルの洪水を治めることができたわけです。
 欧米の評価が低いと申しました。アスワンハイダムができると、微小地震が増える、地中海への供給土砂量が減って海岸が浸食される、地中海の漁獲量が減る等々、いろんな意見が出されました。そういうことを踏まえて、アスワンハイダムは本当に意味があった事業なのか、という話をエジプトのアブザイド水資源大臣にお聞きしました。「あなたは日本から来られて、洪水の恐ろしさをよくご存じではないですか。よくそういう質問をされますね」と一言で切り返されました。私自身の気持ちとしては、非常に緩やかな水の出方のナイルでは、洪水で人が死ぬことはないだろう。そういうナイルと日本の洪水の違いを頭に置いて質問したつもりですが、非常にやんわりと厳しくたしなめられたのを、昨日のように覚えております。
 (図7)
 要するに、エジプトは水と数千年にわたって闘ってきたわけです。もう一つの事例がここに示しておりますアル・クララダム。これはエジプト人に言わせますと、世界で一番古いダムだと言います。紀元前2600年から2700年ぐらい。今から4500年ぐらい前に造られたダムであす。といっても、ナイル川に造られたダムではありません。ナイル川の東岸にあって、「ワディ」すなわち大雨が降った時だけに流れる川に造られたダムです。このワディの下流に開けた都市を洪水から守るために造られた、まさに治水ダムなわけです。
 (図8)
 ご覧いただきますと、敷き幅100メートル、高さ15メートルという堂々たるダムで、まさにセンターコアのロックフィルダムです。工学的に見ても非常にすぐれた構造のダムを4000年以上前に造っています。
 ダムの議論は、いかにも近代的な技術のように議論されますが、そうではありません。数千年前から続いている技術であります。
 (図9)
 もう1つ、水との関係という意味で、「カラカラの公衆浴場」です。ローマに行かれた方は、すでに訪れた方も多いと思います。巨大なアーチを持った大浴場でして、写っている人間に比べると、いかに大きな浴場かというのがおわかりいただけようかと思います。
 1600人収容可能で、1日に6000人から8000人の人たちがこの公衆浴場に遊んだわけであります。ここでは水は常に流れていなければならない。溜まっている水はローマ人にとっては駄目な水で、生きた水というのは常に流れている水です。
 (図10)
 非常に熱い、一説には50度ぐらい。50度のお湯に入れるのかどうかわかりませんが、こういう巨大な浴槽に常に水を供給しなければなりません。どういう形でやっていたかと言いますと、延々とアクアダクトというのを造って、百数十キロメートルにわたって水を導水したんです。
 日本ではローマの遺跡と言いますと、アッピア街道が有名ですが、実はこのアクアダクトはアッピア街道の建設と同時に始まっています。ローマ人・国にとっては道路の建設と水の確保、この2つがローマの存続に必要な基本的なインフラでありました。
 この公衆浴場に水を持ってくることにより、単に公衆浴場としての使い方だけではなく、ここに持ってきた水を町の中に流します。その結果、町が非常に清潔に保たれました。ここにこそ、私は古代ローマの知恵が隠されていると思っています。まだ、これは仮説に近いところがありまして、もうちょっと検証しないといけないのですが。
 (図11)
 今度は日本です。これは皆様方よくご存じの亀形石造物。飛鳥に出土した構造物です。この構造物がどういう意味を持つのか、どうしてこういうものを造ったのかという議論を私はすべきだと思いますが、歴史学者はどうして亀なのか、道教の影響なのか等、この亀の形を論争の種にしています。本来議論すべきは、この構造物が何のために使われたかという議論だと私は思います。
 藤原京に先立って、いろんな宮殿が飛鳥に造られていますが、そこに水を供給するための施設であったと私は思います。そういう視点は全くなくて、亀の形や、この場所が中国とか韓国からの外国のお客様をもてなすための施設であった、という議論がなされています。
 どうしてそんなことになるのか。考えて見ますと、その前提にあるのは飛鳥の近くに暮らしていた人たちは飛鳥川から水をとっていたという思い込みがあると思います。川の水は土地の一番低いところを流れていますから、使いたくとも使えません。例えばセーヌ川でもパリの人たちがセーヌの水を使えるようになったのは、水力を使ったポンプで水を上に上げる技術ができてからです。それまではいかにセーヌが水を満々とたたえて流れていようと、使えない水でしかありませんでした。ですから、同じように、飛鳥の低平地に展開した宮殿に水を供給するためには、丘陵地から湧水を導水してくる必要があったわけです。
 私は、亀型石造物は当時の都市に水を供給するための施設である、という仮説をたてていますが、こういう議論こそ展開されるべきであって、なかなかそうならないのが大変残念です。



 

2.「都市と水環境」はどのように変わろうとしているのか

  (図12)
 ご覧いただきましたように、人と水、都市と水というのは、いにしえの昔から本当に近い存在であったわけですが、残念ながら近代に入ってからそうでなくなってしまいました。
 例えば、都市計画法による都市施設という定義があります。「1」が道路、都市高速鉄道、駐車場。「2」が公園、緑地、広場。「3」が水道、電気供給施設、ガス供給施設、下水道。その後「4」にやっと河川、運河その他の水路というのが出てきます。いかに都市あるいは都市施設として、河川を頭に置かなかったのかというのが、ここから読み取れようかと思います。
 また、都市計画の分野でも河川というのはほとんど意識されていませんでした。例えば、『都市問題辞典』という磯村英一先生が編集された辞典が鹿島出版会から出ています。この中から「水」という言葉を探すのは大変苦労です。かろうじて出てくるのは「都市の形成」の中の都市の自然、その中の「都市と水」という1ページ。「都市の公営事業」の中に、公益事業として「水道事業」と「下水道事業」が出てきます。これが1ページです。都市環境では「都市公害」の中で、「2」として「水質汚濁」、「4」の「都市の災害」の中の1項目として「風水害」が出てくるだけです。全体が805ページある中のたった3ページしか、河川やそういう空間について述べられていません。
 公園よりもずっと大きい水と緑の空間である河川というものが、都市計画の中でいかに無視されてきたか、ということではなかろうかと思います。
 (図13)
 ところが、このように無視されたのは、何も日本だけではありません。例えばフランスでも同様で、これはマルク・アンブロワーズ・ランデューさんという方に教えていただいたことです。「世界都市河川ルネッサンスパートナーシップ」という新たな組織を作っていますが、この会長がアンブロワーズ・ランデューさんです。彼の言葉でいうと、それまで人と水辺との長い友好的な歴史があったが、その後、人は恩知らずにも川──大きな川ですね、フルーブというのは海まで流れていく独立水系。リヴィエールというのは川に流れ込む川。ベルジュというのは川辺、水辺。リヴレンヌというのは川辺です。こういう言葉が1988年に出されたフランスの『都市計画辞典』には全く出てこない。この辞典を編集するのに、70人もの専門家が集まっているのに、水あるいは川に関する言葉がこの辞典には全く出てこない、ということを言っておられます。
 実は、私はこのマルクの言葉に触発をされまして、先ほど言いました日本の辞典を調べてみたわけですが、見事に日本でも全く無視されています。
 (図14)
 こういう状況になってしまったのはどうしてか。人間は都市の中の多くの川に蓋をして地下に追いやってきました。まさに臭いものに蓋をしたわけです。これは別に日本だけでなくて、世界中でやってきました。その結果として、もう水辺というのは都市の中には必要ない空間だとなってしまったわけです。ところが、それで本当にいいのかという見直しが、今、世界中で始まっています。正確に言うと始まろうとしています。
 (図15)
 ここに示していますのは、「パリ・プラージュ」といって、パリ海岸です。パリはセーヌの河口から数百キロ上流なので、海岸があるはずがありません。ここに示しているのは、セーヌ右岸に造られた自動車専用道路です。ここを夏の間だけ止めます。
 (図16)
 そして、このような形で、砂を入れ、箱に植わったヤシの木を並べて、のぼりも立て、人工的な海岸を造り出しました。2002年から始まったのですが、もう4年も続いています。もともとは2002年の単年の記念事業だったんですが、これが非常に面白いとパリ市民の高い評価を得て、それから毎年の事業になりました。
 こういうことをすると、自動車専用道路を止めるわけですから、周辺に大渋滞を起こします。ですが、大渋滞を起こしてもいいじゃないか。この空間こそパリ市民にとっては大事な空間だ。お互いが交流できる。パリ市民同士、あるいはフランス人、夏の間海外から来る旅行者との交流の場が生まれる。非常にいいことではないか、という評価であります。
 このパリ・プラージュに習いまして、渋谷のどこかで東京・プラージュをやったと新聞記事に出ていました。しかしそれをやった人達は、全くとんちんかんなことをやったと私は思います。一番大事なことを忘れているわけです。パリ海岸が成り立ったのは、セーヌ川の水辺があったればこそです。水辺のないところに砂浜を造っても、決して海岸にはなりません。パリ・プラージュで一番大事なところを見逃して始まったのが、渋谷の試みだと思います。もしこの場にその関係の方がおられたら勝手な言い分をお許しください。
 ここを歩いてみると、セーヌの水辺があってこそ成り立つ、ということが良く実感できます。もちろん、今セーヌに飛び込む人はいません。私は、もっと飛び込んで遊べるようにすれば良いのにと思いますが、そうではなく人工のプールを置いたりして、インチキめいたことをやっています。このため直接的にセーヌとは繋がっていませんが、しかし、セーヌの水辺があることによって初めて成り立つ試みであることは現地に行けば直ちに理解できます。
 (図17)
 次に示しますのは、セーヌに注いでいるビエーブルという川です。途中まで全部蓋をされてしまいましたが、上流でも一部蓋をされてしまいました。今ビエーブル川の蓋をとろう、という運動が展開をされています。
 (図18)
 かつては、ここ車用の3車線道路になってしまいました。1車線をつぶして、こういう風にもとのビエーブル川を復活しようという提案をした絵であります。
 (図19)
 これが、このような形で実現をしました。実現したのはビエーブル川で、パリ市内ではなくパリの郊外です。とはいえ、こういう形で、自動車の3車線道路、真ん中の車線は両側の追い越し道路という、フランス特有の道路構造の1車線をつぶして水辺を復活させました。
 河川を再生させることによって何が生まれるのか、どういう経済効果があるのかという質問をこの運動を推し進めた人たちに敢えてしました。「そういう経済評価をすぐ言うのが、いかにもあなたたち日本人的だ」と、最初にまず返されましたが、その上で、ここが単に道路であるなら、この空間は自動車の交通のためにしか使われない。道路を挟んだ旧市街と新興のアパートが建っている地域の間には交流は生まれない。だけど、ここに水辺が復活すれば、両岸に分かれて住む古い人たちと新しく来た人たちとの間の交流が始まるんだ、という答えでした。
 日本だと、水あるいは川は地域を分断するものとしてとらえますが、このプロジェクトを推し進めた人たちは、交流の場を生み出すと考えておられます。
 (図20)
 次は、ご存じの方も多いかと思います。「清渓川」と書いて「チョンゲチョン」といいます。ソウルのど真ん中、ソウルの市役所のすぐ横を流れています。この川は1958年から1978年にかけて、約20年かけて蓋をされました。その後、この蓋をされた上にさらに高架道路が建設されます。この高架道路は、どこかほかの高速道路網とつながっている道路ではありません。単に通過交通だけをさばく道路ではありますが、こういう構造物ができている状況の中で、このチョンゲチョンを復活するということを言い出して、2002年の市長選挙で当選したのが、李市長です。そしてチョンゲチョンの再生工事が始まりました。
 (図21)
 これは去年の10月頃の工事の様子です。最終的には、こういう形で復活をしたいという絵であります。
 (図22)
 これは、市民にチョンゲチョンの再生事業を説明するための資料館です。写っている人物は、造園の立場でこの事業にかかわっておられる李さんです。
 (図23)
 その中には、今高架道路になっている川を将来こうするんだという模型も示されています。
 (図24)
 去年の10月頃の写真です。これは最上流端です。実はさらに上の山から水が流れてくるわけですが、雨が降らない時はほとんど水が流れていない川です。
 (図25)
 工事中の写真です。蓋をしていたコンクリートもボロボロになっていて、もう寿命が来ている。上を通っていた高架道路は、アメリカ軍は危ないから使わないという状態にまで老朽化してきたというのも事実です。
 (図26)
 高速道路を支えていた3本のピアは、記念のために残すそうです。ちょうど今から1週間前、たまたま私はソウルに行きました。この時はちょうど雨が降った後なので、水の流れが既に復活していました。もともと雨が降らないと水がない川なので、普通はソウルを流れる大きな川、漢河から水を持ってきて、ここから下へ落とすのですが、この時は雨が降ったので、こういう形で水が流れています。
 (図27)
 下流のところは、非常に人工的な河川になっています。私は余り感心はしませんが、それでも蓋をされた前の状態と比べれば、全く違った状態です。
 (図28)
 さらに下流に行くと、緑をできるだけ復活したいということで、一応水と緑の空間としてよみがえっています。
 とりあえず10月1日に竣工式を迎えますが、現時点においてどういう効果があったかを、案内してもらったシン・ジョンホさんにお聞きしました。1つは、この蓋をとる工事をしたことで、周辺の土地の価値が上がった。特に下流の方は再開発を必要とするような地域ですが、こういうところでは地価が倍になって、地主の方は大変喜んでいる。ただ、テナントの方たちは賃料が上がって非常に嘆いているそうです。
 もう1つは、この周辺の気温が1度から2度下がった。これはまさに、ヒートアイランド現象に対して、水の道を造ったことになります。要するに河川を再生すれば、ヒートアイランド現象に非常に効果があるということです。まさに、それが実証されたことになると思います。これについては精密な調査をして、本当にどれだけの効果があるのかを、貴重なデータとして世界に向かって報告してもらいたいとお願いして別れてきました。いずれにしても、現時点で既にそういう効果が出てきています。
 (図29)
 これは中国の北京にある菖蒲河。復活・再生された菖蒲河です。ここに書いてあるように、菖蒲河は公園としてのイメージが強かったのでしょうか。
 (図30)
 こういう形の復活になっています。コンクリートで三面を固めています。
 復活される前がどのようになっていたかと聞きますと、川は完全に埋められてしまい、その上に倉庫が建ったり、民家があったり、という説明でした。当時の写真がないかと大分探したのですが、残念ながら手に入りませんでした。
 (図31)
 これは一番下流端です。金魚を飼ったり、柳を植えたりというのが中国人の心情にあうのでしょうか。北京はご存じの通り乾燥地帯に位置します。砂漠と言ってもいいようなところです。そういうところに水辺を復活、再生することの持つ意味は非常に大きいものがあります。
 どうして中国がこういうことをしたかというと、2008年の北京オリンピックに向けての準備です。オリンピックに関しての世界中からの危惧は、空気の汚染と水の確保の問題でした。オリンピック委員会を初めとして、この2点は本当に大丈夫かという非常に厳しい目が向けられました。それに応える意味でも、水辺を再生しているぐらいだから大丈夫だという情報を世界の人に発信する狙いもあったのでしょう。
 (図32)
 場所は天安門広場の横です。こちらに故宮があります。天安門に行かれた方は、天安門の前に、こういうお堀みたいなのがあったのを覚えておられようかと思います。あれはもともと川だったわけです。この写真はちょうどお堀のようなところの噴水の水を干しているところです。まさに北京の中心地に、先ほどご覧いただいたような川を復元しています。



3.「都市と水環境」を変えるのは誰か

 (図33)
 次は、都市と水環境というものを変えていくのは誰か、誰が主体かという議論です。
 (図34)
 まず、ビエーブル川の場合です。200キロぐらいの小さな流域なんですが、ここでいろいろなNGOが活動を展開しています。ここに写っている人たちは、そういう小さなNGOの代表の方たちです。流域でのいろいろな取り組みは、川とか水に関する取り組みだけではなく、例えばビエーブル川を歩く会という活動もあります。いろいろな活動をしている人たちが、ビエーブル川を太陽のもとに取り戻す会というものを作りました。その活動によって、先ほどご覧いただいたような形でビエーブル川が復活しました。パリ市内ではなくパリの郊外、それもごく一部の区間とはいえ実現したわけであります。
 ここに写っているのがマルク・アンブロワーズ・ランデューさんで、先ほどもお話をした方です。彼はもともとル・モンドの新聞記者で、環境問題を扱っていました。川の問題を考えることは広く都市問題全般を考えることに繋がるということで、ビエーブル川の問題に取り組み出したわけです。
 (図35)
 これは先ほどのビエーブル川の一部区間の復活が完成した折の記念式典の写真です。ここで演説しているのは、工事を実施したパリ上流部の下水道を整備・管理する団体のトップで、確かこの地方の議会議員をしていたはずです。こういうフランス国旗のトリコロール、3色のたすきを掛けて話をするのは、式典の時の彼らの常套手段であります。
 ここに写っているのは、セーヌ・ノルマンディー水公社という、セーヌ川を管理している水公社の事務局長です。水公社というのは非常に面白い存在で、セーヌ川の水を利用する人たち、つまり、セーヌから水を取って使って汚し、それをまたセーヌに戻す人たちから、課徴金、税金ではないのですが水利用料でもない、そんな性格のお金を徴収しています。それをもとにして、民間が行う水質処理の施策に対して補助する、あるいは川の水量を確保するためにダム事業に投資するなどの幅広い施策を講じています。非常に大きな資金を抱えているわけです。彼は、そのセーヌ・ノルマンディー水公社の事務局長で、まあ言わばこの事業に対するお金の出し主です。ここには残念ながら、先ほどご覧いただいたNGOの人たちは写っていません。もちろん、この席には出席していましたが、式典になると、こうした晴れの場からは外れるというのは洋の東西を問わないのかもしれません。
 (図36)
 ビエーブル川を復活しようと言い出したのは、地元のビエーブル川流域の人たち、主としてNGOが活動主体です。それを受けて実現をしたのは行政サイドで、特に事業実施をしたのは下水道を管理している立場の人たち、資金はセーヌ川を管理している立場の人たち、そういう多様な立場の人たちが、うまくコラボレートしながら、この事業を完成させたということであります。
 (図37)
 次は、清渓川(チョンゲチョン)の場合です。ここでは、もともと余り大きな市民活動が展開されていたのではなさそうです。水質浄化のための浸透膜が専門のノ・スホン先生が、チョンゲチョンの再生という夢をずっと温めておられたようです。夢の実現に向けて、「チョンゲチョンを生き返らせよう」という第1回シンポジウムが 2000年9月に開催されました。これをきっかけに研究会を発足させる一方、2001年、2002年と、シンポジウムを継続して開催してこられました。
 大きなインパクトを与えたのは、著名な作家である朴景利さんが参加されたことです。私は残念ながら作品を読んだことはないんですが、朴さんがこの活動に参加されたことが1つの引き金となって、ハンギョレ新聞がチョンゲチョンの再生問題を2002年の正月特集で大きく取り上げたそうです。
 日本でも、正月には、新聞各紙が分厚いページの特集を組みますが、その中で初めてチョンゲチョンの再生という問題がソウル市民の意識に上るようになりました。その後、2002年に市長選挙が戦われました。この市長選挙で、チョンゲチョンの復元を公約に掲げて当選したのが現ソウル市長李明博さんです。ヒュンダイの副社長をやめて、市長選挙に打って出て、チョンゲチョンの再生・復元を公約に掲げて当選します。ですから、行政としてチョンゲチョンの再生が日程に上ったのは、この2002年の市長選挙からです。
 どういう形でこの事業を進めてきたかというと、現在は違うようですけれども、2002年当時、韓国は土曜日の午前中はワーキングタイムで仕事をする日なんですね。韓国は1年前までは土曜日の午前中も働いていたそうです。韓国経済の強さの一因はその辺にあるのかもしれません。それはともかく、韓国の市役所では大体9時ぐらいから勤務が始まるそうです。ところが、毎週土曜日の8時から10時の2時間は、市長が直接出席してチョンゲチョンを検討する御前会議に充てられました。2時間ぴっちりやる。前の1週間どういうことが起こり、どういう問題があるか。今後の1週間で何をするかという議論を2時間してきたそうです。それも市長と関係部長、それに担当課長を加えた十数名の間での議論です。河川法改正を私が担当した時も、毎週そういう形で議論をして、喧々諤々やってきたわけですが、それを2002年から今年まで、3年間ずっと続けてきたということは凄いことだと思います。
 面白い話を聞きました。新市長の発足当時、市役所の職員の間でもこの事業に対する理解は進んでいない。と言いますか、あんなことできるはずがないと横を向いている職員がたくさんいたぐらいですから、市民の間ではもう夢物語のように受け取られていました。
 そういう中で、まず市役所の中で市長の考え方を職員に浸透させなければなりません。1人1人の職員が先ず意識革命をして、その上で市民に当たっていくしかありません。このために、2002年、2003年は地元の人たち、あるいは関係者への説明にすべての時間が費やされたわけです。そういう中で職員も疲労困憊してきました。たまたま、国民の休日と土曜日が重なったとき、「今週は何とか休ませてもらいたい」と市長の秘書に申し出ると、秘書も「わかった。それはそうだ、私の方から話そう」と市長のところに行って、市長に「チョンゲチョンのプロジェクトの担当者たちは、大変元気に精力的に市民の方たちと話を詰めています。ついては……」と、言いかけたら、「そうか。そんなにみんな頑張ってくれているのか。わかった。それなら7時から朝食を取りながら一緒に議論しよう」という話になって(笑)、8時の替わりに7時から朝飯を一緒に食べながら議論をせざるを得なかったと、当時仕事をした人が楽しげに教えてくれました。
 トップダウンとは言いながら、市長がすべての仕事をできるわけではありません。いかに市長の考え方を市の職員、担当者1人1人に浸透させるか、それが一番大変だったそうです。チョンゲチョンのプロジェクトは動き出しました。そして今年の10月1日に竣工式を迎えます。
 この竣工式に合わせて、9月30日に、世界の大都市の市長を集めた円卓会議が開かれます。東京都の石原知事にも招待状を出したけれども、返事が来ないと聞きました。多分ソウルから世界に向けて新しい都市と水辺・川辺、都市と水とのあり方の情報が発信をされることでしょう。
 (図38)
 次は、日本の問題を考えてみたいと思います。先ほどご紹介いただきましたように、私は渋谷川ルネッサンスというNPOにもかかわっています。これは、渋谷川の蓋を取っ払おうということを考えている団体であります。
 ご存じの通り、渋谷の駅から河口の方は、コンクリートの三面張りの水路ではありますが、太陽のもとを流れています。ところが、最上流の新宿御苑から渋谷の駅までは、完全に蓋をされています。更には、いろんな支川が入ってきています。一番大きいのは宇田川で、宇田川の支川に河骨川(コウホネ川)というのがあります。コウホネは小さな黄色い花をつける水中植物で水のきれいな小さな川に良く見られます。河骨川、これが例の小学唱歌「春の小川」の舞台となった川です。
 そういう意味では、渋谷川は「春の小川」、日本人にとっては心のふるさとの川が今や蓋をされてしまっています。我々日本人にとってあまりにも寂しいことではないか。何とか渋谷川の蓋を取りたい、そういう活動を今展開しているところであります。
 ちなみに、渋谷川は多摩川とつながっています。繋いでいるのが玉川上水。江戸時代に掘られた人工の水路で、多摩川の羽村堰で取水して江戸の町に水を供給していました。この玉川上水は今も残されており、世界遺産に登録しようという動きもあるようです。それは別に不思議なことではありませんで、例えばフランスで言いうと、 トゥールーズを流れているミディ運河、地中海と大西洋を結んでいる運河ですが、世界遺産になっています。ですから、玉川上水を世界遺産にするのは、私は何ら不可能なことではないと思います。しかし、水が流れていて、ちゃんとした昔の姿でなければ、世界遺産にはしづらいと思いますが・・・。渋谷川は、そういう玉川上水につながっている川です。
 また、三田用水にもつながっています。明治期には、三田用水からこの丘陵地の斜面を活かして数多くの水車が設置されました。精米をするなど、日本の工業地帯としての位置づけすら持っていたところです。日本の近代を考えるとき、非常に大事な川ですが、今では全く見捨てられています。
 (図39)
 現在、JICAの研修センターがあるところですが、ここに渋谷川の一つの水源があります。周辺にはごみ処理場があり、みすぼらしい姿のままに見捨てられています。渋谷川の水源が、どこにあるかわからないような状態に放置されているのが現状です。
 (図40)
 この写真には「参道橋」と書いてあります。これは明治神宮への表参道で、こちら側はキャッツストリートと呼ばれる小さな通りです。ここに橋がかかっていた名残として、「参道橋」の橋の名前を刻んだ名版が残っています。
 (図41)
 キャッツストリートに行くと、パラペットの堤防があって、渋谷川が流れていた様子が読み取れます。現在はパラペット堤防の上に蓋をして通路にしているのですが、通路の下を今も渋谷川が流れていることを読み取っていただけると思います。
 (図42)
 ここが渋谷の駅前です。渋谷から下流、天現寺橋までは、このように底もコンクリートで張られた三面張りの水路になっています。法的にいえば、渋谷駅から下流が河川法上の河川です。その上流部分は、下水道法でいう都市下水路です。昭和36年だったと思いますが、河川法上の河川から外しています。ということは逆に言えば、やる気になれば、ここから上流を河川法上の河川に指定し直せば河川に戻せる。人間様のご都合次第と言いますか、人間がやったことですから、人間が戻そうと思えば戻せるはずです。
 (図43)
 これは原宿の竹下通り。この竹下通りも、もともと渋谷川の1つの支川です。右の方に、モーツァルト通りとかいう名前がついている通りがありますが、そちらの方に流れていっているのが渋谷川の支川です。ですから、ある意味、渋谷の今日的なイ メージを持たれているところは、こういう形で、昔の渋谷川と何らかの繋がりがあったわけです。
 (図44)
 さらに言いますと、これは国立競技場の前。ここも、渋谷川が流れていました。
 (図45)
 1964年、東京オリピックが開かれました。そのオリンピックを開くために渋谷川に蓋をしました。先ほどご覧いただいたように、北京ではオリンピックを開くために川を再生しました。この違いは、何も中国人が我々よりも環境問題に優れているということではなく、40年の年月の重さだと私は思います。逆に言いますと、今我々がやる気になれば、渋谷川の再生・復活は容易いことだと思います。
 (図46)
 この部分は、この前伊藤滋先生に聞いたら、都市公園だそうです。非常に薄暗い公園です。ご覧いただきますと、川が流れていたのを感じ取っていただけようかと思います。どうして、こんなところに蓋をしないといけないのか。今になってみれば、こんなところに蓋をする人はいないのと思いますが、昭和39年の東京オリンピックに向けて、当時は、川に蓋をするのが社会的正義でした。そういう流れで世の中が進んでいる限り、それに沿って物事が進むというのが世の常であります。
 これは何も渋谷川だけではありません。先ほどご覧いただいたビエーブル川も、最後のセーヌ川に合流するところは現在博物館になっています。芝生がずっと広がっていて、その下をビエーブル川が流れています。どうしてそんなところに蓋をする必要があるのか、全く理解できないわけですが、そこに蓋をしています。
 (図47)
 この渋谷川で、どんな取り組みがなされているか。ソウルのチョンゲチョンと比べると非常にお寒いんですが、このコンクリートの三面張りに幾らかでも自然な感じを持たそうと、三宅島の溶岩を使ったパネルを張りつける活動が展開されました。
 (図48)
 春の小川のイメージであるスミレやレンゲもプランターにちゃんと咲いてくれました。ただし、これは水をやるのが大変。ご近所の方に、「花に水をやるため、水道水を少々ください」と言ってもだめなんですね。わざわざ数百メートル離れた公衆水道まで行かないと水が手に入らない。この花は、1年咲いただけで、残念ながら、全部抜いてしまいました。この可憐な花は、NPO団体「渋谷川ルネッサンス」の池田副代表が毎晩水をやってくれた成果であります。
 (図49)
 これは他のNPO団体の取り組みなんですが、竹の中にローソクを入れて、このように敷き並べました。竹灯篭によってコンクリートの三面張りの空間が、祈りの空間のようなイメージすら持つように感じます。これをご覧いただきますと、渋谷川も決してまだ死んでいないことがおわかりいただけようかと思います。やはり、水が流れている空間、水辺があってこそ、ローソクの光が水面に映えて、この景観を生み出していると思います。
 (図50)
 去年は、先ほどご覧をいただいた国立競技場の前で「打ち水」をしました。つかの間とはいえ、昔の渋谷川をイメージしてもらおう、まずは渋谷川がここを流れていたんだという、記憶の蓋を取り払ってもらおうという試みでした。水を打っても、20分もたたないうちにさっと乾いてしまいます。本当に夏の昼間の一瞬の夢でありますが、こういう試みもしております。
 (図51)
 渋谷川を再生するに際して、どういう基本理念を我々が持っているのか。1つは、「川をして川を為さしむる」。どうしてああいうコンクリートの三面張りの川にせざるを得なかったかを考えてみると、治水のためであります。渋谷という地名の「谷」があらわすように、渋谷はしょっちゅう水がついていたところです。一番安上がりの治水対策をしようとすると、あのようにコンクリートで固めて下に掘り下げていくことになってしまうわけです。逆に言えば、治水対策さえ何らかほかの方法で成り立つなら、土の上を流れる春の小川に戻せるはずです。
 方策はないのかと言いますと、あります。あり得ます。既に東京では、環八の下にも造っていますが、大きなトンネルを渋谷川の下に1本通せばよいのです。洪水はこの地下の渋谷川トンネルに入れる。そうすれば、上を流れる渋谷川は本当に土の上を流れる川に戻せるはずです。雨が降って、その水が自然に集まり、一本の川となる。降って集まった自然の水が、自分が流れたいように流れて土を穿ち、自然に川が再生されるというのが基本理念です。
 ただ、洪水は地下のトンネルで処理するので、土を穿つ力となる川の流れる力が弱くなります。またかつての川はすでにコンクリートで覆われ、水が自らだけの力では土地を穿つことは出来ないでしょう。ですから、理念は理念として、何らかの形で地上の空間にも、それなりに人工的な手を加える必要があります。ただ、基本的な理念としては、水が土の上を好きなように流れて、川をもう一度作り直す、それをみんなで楽しんで見ていこう。そういうことまでひっくるめて、川をして川を作らしめる、というのが私どもの基本理念であります。
 もう一方、先ほどから繰り返してご説明しているように、川には水があってこそ川であります。水がなくなった川は、川ではありません。渋谷川に、水をいかにして蘇らせられるかということですが、1つは、渋谷川を本当に太陽のもとを流すようにしますと、いかに水が流れていないかということに流域の人たちが気がつくはずです。
 そうなると、降った雨が地下に潜れないような、コンクリートで覆ってしまった今の都市づくりで本当にいいのか、という反省が出てくるはずです。
 そういうことで、都市の構造そのものを、もう一度見直していくのが、私は基本だと思いますが、さらに渋谷川では別法があります。先ほどもお話しましたが、渋谷川は多摩川と玉川上水を通じてつながっています。もともと江戸時代から、多摩川の水が玉川上水を通じて渋谷川に落ちていました。これをもう一度復活してはどうかということです。河川管理者に言わせますと、「多摩川にも水がない」と言うはずです。そうすると、打つ手がないように見えますが、決してそうではありません。
 東京都でどれだけの水を使っているかと言いますと、1日平均421万立方メートルです。このうち生活用水、我々自身、住民が使っている水の量は約300万立方 メートル。この300万立方メートルのうち、例えば我々が3%を節約するとします。そうすると、約9万立方メートルの水が出てきます。これは、大体1立方メートル/毎秒に相当します。毎秒1?の水が流れると渋谷川には立派な流れが出現します。ちょっとした心遣いで水の無駄使いをなくして、3%の節水をするだけで、1%でも充分でしょうが、立派な川を都心に復活できるのです。
 具体的にどうするかと言いますと、現在、東京都は羽村堰で最大量22.2トンの水利権量を持っています。年平均の取水量でいうと13.2立方メートルですが、このうちの1トンを減らして渋谷川に戻す。つまり、我々東京都民がたった3%節水すれば、自分の空間、身近な空間に水の流れがよみがえってくるということです。当然そこに多様な生態系がよみがえり、チョウが舞い、場合によってはホタルが舞うかもしれません。そういう空間を、大東京の中に再生できるわけです。
 我々自身、今まで節水しようと口では言っていましたが、節水した結果何ができるのかということを明確にイメージとして持てませんでした。しかし、東京都民が本当に1%節水すれば、大東京にホタルが飛び交うような空間を再生できる可能性があるということです。素晴らしいことではないでしょうか。
 決して環境問題が他人事ではなく、自らの努力で手の届くところにあるということを知る、実感するという意味でも、非常に良い試みではないでしょうか。もちろん、農業用水からの転用とか、他にもいろんな方策は考えられます。ですが、なんと言っても、まず太陽のもとを流れる川にしないとどうしようもありません。



4.新しい形の都市づくりを動かすのは誰か

 (図52)
 今まで述べてきたように、これから新たな都市づくりを考えていく上で、1つは国際的な協調が大事だと思います。世界のいろんな取り組みが、お互いに緩やかに響き合い、お互いの良いところをとって、それぞれがより良いものになっていく。緩やかな連携、緩やかな国際協調が大変に大事だと思います。
 もう1つ、それぞれに特性を持った地域毎に、特性を踏まえた独自の考え方で進めていくということになると、地方公共団体のトップの存在が非常に大事だと思います。そしてそれを補完する、あるいはそれに先立つ活動として、市民、住民の自発的な活動が非常に大事だと私は考えます。
 ビエーブル川の話でもチョンゲチョンの話でも、いずれにしても、まず動いたのは地元の住民・市民です。それに呼応する形で行政が動いてきた。その結果として、本当の意味での事業化、具体的な行動が生まれてきました。
 行政と住民との協調体制、どちらがリーダーシップをとるということではなく、本当に、その2つがお互いに響き合うことが非常に大事だと思います。
 渋谷川で、私もこういう活動をしていますと、いろんなことが聞こえてきます。渋谷区長さんが、「尾田さんは今ごろそんなことするくらいなら、河川局長の時に全部やっておけばよかったのに」と言っておられるそうです(笑)。嘘か本当かは知りませんが、そういう面も確かにあろうと思いますし、まさに天に唾している思いは常にいたしております。
 しかし、こういう大きな潮流を変えていくのは、トップダウンというか、行政からの働きかけではなく、まず先行して地元でのいろんな先進的な動きがあって初めて動くんだろうと思います。両面の活動が、車の両輪として動くことが大事だと思っております。
 国際協調としては、2004年の3月、去年の3月に、第1回世界都市河川ルネッサンスフォーラムというものを開きました。今日お見えの方の中でも、三浦先生始め、多くの方にご参加をいただきました。
 (図53)
 今年の10月にはチョンゲチョンの竣工式に合わせ、ソウル会場で「チョンゲチョンの再生プロジェクトから何を学ぶか」という集まりを持ち、その後、東京会場、日本青年館を予定しておりますが、ここで「チョンゲチョンから渋谷川へ」という集まりを持ちたいと思っております。興味をお持ちの方はぜひご参加をいただければ幸いです。
 (図54)
 それから、先ほどのご紹介でもふれていただきましたので、打ち水大作戦についてお話したいと思います。「打ち水大作戦」を2003年から始めました。最初の年は江戸400年にあたるということで「大江戸打ち水大作戦」。去年が「打ち水大作戦2004」。「春の小川打ち水」も、先ほどご覧いただいたように昨年やりました。メインテーマは、「風を起こそう」でした。今年は、地球温暖化対策元年ということで、「日本には打ち水があるじゃないか―打ち水大作戦2005―」を展開しています。
 打ち水大作戦には、いろんな意味があります。市民1人1人が主役である社会実験、環境問題に自ら参加するんだということで、環境問題を自らのものにするということ。更には、環境エンタテインメントということ。打ち水のように、水と遊ぶのは本当に楽しいんですね。我々は、子どもの時から水遊び、泥遊びは大好きでしたが、そういう感覚をもう一度取り戻そうということ。打ち水は非常に単純な行為ですのであらゆる世代が参加できます。例えば、今年は「打ち水音頭」ができました。これを始めた方は70代の方です。これを劇に仕立てて、今、盛んに活動しているのが20代の人たちです。世代を超えたコラボレーション、融合が始まっています。
 もともと日本には近隣コミュニティが色濃く存在していました。しかし第2次世界大戦に破れて以降、近隣社会をマイナスのイメージでしかとらえませんでした。しかし、今、世界の水問題に取り組む中で、近隣社会、ネーバーフッド・コミュニティというものがしっかりしていないと、水問題のような社会的に広がりを持ったテーマの解決策は出てこない、とみんなが気づき始めました。そういう意味でも、「打ち水大作戦」は非常に面白いと思います。
 (図55)
 打ち水をすれば、本当に気温が下がるか?
 (図56)
 本当に風が起こるのか。真面目に計測をしています。
 (図57)
 非常に面白いのは、「打ち水をして涼しく感じましたか」という体感測定結果です。「感じた」という方が75%、4分の3の方たちは涼しく感じられています。「風を感じた」という方も、6割もおられます。何よりも面白いと思ったのは、「打ち水をして楽しかったですか」という問いに対して、「楽しかった」という方が78%、一番注目をいただきたいのは、「楽しくなかった」という方が1%もおられません。たった0.6%です。ある取り組みをした時に、その取り組みが「面白くない」という方が、普通は10%から20%ぐらいはおられます。それに対して「楽しくなかった」というのがたった0.6%しかない。そういう意味では、非常に面白い取り組みではないかと思っています。
 (図58)
 昨年は、ストックホルムでも打ち水大作戦を展開しました。
 (図59)
 今年は、ちょうど昨日の正午、時差を考えると今から10時間ほど前ですが、パリでも打ち水大作戦を展開しました。本当はパリ・プラージュ、パリ海岸のところでやりたかったんですが、パリは今、夏休みで誰も人がおりません。我々の申し込みが遅くれたのが一番問題なんですけれども、そこではできずに、パリ警視庁の計らいで、パリ市役所の横で打ち水をやりました。100人ぐらい参加してくれたそうで、なかなか面白い取り組みになったようです。
 (図60)
 都市と川、水との新しい関係を目指して、都市サイド、河川サイド、両方がそれぞれに我田に水を引くのではなしに、お互いが土俵を広げつつ、みんな一緒になって活動していく、ということが非常に大事だと思います。
 これから協働、ともに働く、そういうことで進めることが出来れば大変ありがたいと思います。ご清聴ありがとうございました。(拍手)



フリーディスカッション

與謝野
 尾田様、大変ありがとうございました。
 まちづくりの原点について、「都市と水環境」という視点から、わかりやすく、幾つかの実践例を交えながら貴重なお話をお聞かせいただきましてありがとうございました。
 それでは、時間が30分ほどございますので、ぜひともこの機会に尾田さんにご質問をされたいという方がおられましたら、どうぞ遠慮なくお申し出ください。
山名(日本技術開発梶j 今お話しいただいた趣旨は非常によくわかりますし、私は河川は都市の1施設だと思っているので、河川と都市を、そういう意味で一体的に見なきゃいけないというのはよくわかります。お聞きしたいのは、現実的にいきますと、例えば河川管理者は国であり、県であり、都市計画は市町村。現場では、それで、非常に苦労している。そういう面では、協調をやるためには、今の仕事の仕方や組織を少し変えなければいけないんじゃないか。そこら辺について、お考えがあればお聞かせいただきたいと思います。
尾田
 ありがとうございます。
 物事を進めていく時に、やはり行政の体制がどうかというのは非常に大きな問題だと思います。市町村だけでなく、都道府県も都市計画には相当かかわっているかと思います。ですが、同じ都道府県行政なのに、都市サイドと河川サイドというのが全く別々に仕事をしている、というのが実態だと思います。
 それを解決する1つの方法としても使えるというので行ったのが、平成9年の河川法改正です。河川整備計画、今後20年から30年の間に実施する河川事業に関する計画を策定をするに際しては、住民の皆さんの考え方を取り入るという枠組みを作りました。
 今まで計画づくりに住民参加を求めることは、都市計画のような公物管理以外の法体系ではあったのですが、公物管理の範疇では初めて取り入れたわけです。河川整備計画を作る中で、都市サイド、住民サイドの意見がどんどん入って議論されるということは、私は、非常に大事ではないかと思っています。
 渋谷川の整備計画策定に関して、私も住民サイドとして流域委員会の委員に応募いたしました。作文を出して採用され、委員にしていただいたんですが、実際に参加してみると、やっぱり法律を作った時の考え方とはちょっとずれているんですね。もっとフランクに、行政サイドと市民サイドが議論をするために作った仕組みのつもりですが、すべて行政サイドが作ったものを市民に示して了解をとるだけ、一つの単なるプロセスみたいな、そんな感じになってしまっています。
 それは、私は大変まずいと思いますが、そういうプロセスが始まったことは非常に大事なことで、少なくとも1つのツールが準備されたということだと思います。
 もう1つ、行政の中でお互いの共同作業の場をどう作っていくかというのは非常に難しいテーマです。例えば、河川サイドから申しますと、浸水予想区域、「この場所は浸水する」という情報を公表しよう。その上で都市サイドがどう考えるかということにしたい、と考えました。今は大分変わりましたが、都市サイドからは、当初は、「そんなことをされては困る、せっかくいろんな施設を計画しているところに水が入ってくるなんていうのはもってのほかだ。河川管理者サイドがやるべきは、洪水を防ぎ、浸水を防御することではないのか」。こういう議論がずっとされていたわけです。
 最近でこそ、大分変わってきて、あらゆるものにそれぞれ限界がある。その前提の上で、お互いがうまくすり合わせができるところを探していこうという形に考え方が変わってきているかと思います。ただ、おっしゃる通り、例えば、国とか県、市町村、どちらが上、どちらが下、ということはないと私は思いますが、実態的にはいろいろありますね。どうすればいいのでしょうか。
 今は私は住民の立場ですので、その立場からいうと、渋谷区、東京都、国交省、それぞれに言いたいことはいろいろあります。だけど、いろいろな立場の人が同じ土俵につくことが増えてきたのは、非常にいいことだと思っています。
 そういう機会を通じて相互認識を深め、相手の土俵に入っていくことから始めるしかないんじゃないでしょうか。
 河川局も、かつては頑迷固陋の河川局と言われていました。自己弁護、もう私はその立場にはいないのですが、をさせていただきますと、もう故人ですから名前を出してもいいのかわかりませんが、ある国会議員が、「多摩川の上にアパート造らせろ。何故だめだというのか」と国会でガンガン質問攻めされました。貴重な河川空間をそんなことに使ってしまうのはどうしても忍びない。それはだめだと頑張ると頑迷固陋と非難されたのです。当時は、治水上支障があるからということで反論していましたが、本当は都市にとって大事な「水と緑の空間」を、そんなことで浪費してしまって良いのかというのが基本的な問いだったんですね。
 そこを言えずに、治水上の理由で言いますから、議論が袋小路に入っていく。ますます頑迷固陋の河川局になってしまったんですけれども・・・。今でも、河川の空間が貴重な都市の中の「水と緑の空間」として残っているのは、頑迷固陋の河川局のおかげ以外の何者でもないと思います。
 これからは、その空間を都市の中でどう使うのかということを都市サイドと河川サイドでよく考えていく。いいものを造っても洪水で壊れてしまったのではどうしようもないわけですから、そういうこともよく考えながら、どういう使い方をするのが一番いいのかということを考える。そういう財産が残っているということはいいことです。
 残念ながら渋谷川の上流部分は、昭和36年の東京都都市計画審議会で蓋をする決定が下されました。その当時、委員長は伊藤剛先生でした。河川サイドの方が委員長をして、蓋をして河川から外すということをされたわけです。世の中の流れでそうなったわけですが、だけど考えて見ますと、もう一度もとへ戻すことも可能なわけです。今までのずっと長い歴史から見れば、敗戦後の数十年はほんの一瞬です。行きつ戻りつを繰り返しながら動いているわけですから、渋谷川のふたをはずすのはそんなに難しいこととは思っておりません。
吉田(都市環境研究会)
 麻布十番で介護事業所をやっている吉田と申します。
 今先生の言われたのは、住民の方からの要望として非常にニーズがある。うちは介護の利用者さんを300名ぐらい持っています。僕も介護事業所なんですけど、環境と福祉と教育を一体化するということで、もともと環境を長い間言ってきました。今、福祉で、高齢者の立場から介護事業所をやっています。介護予防という時に、歩くということを盛んに厚生省から言われているんです。ところが、実際に歩く場所というのがなかなかないんです。車椅子で動く場合にしても道路が狭いし、さらにご存じのように、港区は大変坂が多いんです。車椅子で坂、というのは大変なんです。
 そうしますと、我々は天現寺から下流の古川なんですけれども、先ほど先生が言われましたように、洪水時には下をパイプで水が流れるようにします。そして、あそこはほとんど落差がありませんから、金杉まで水が普段毎秒1立方メートルまでは流れないと思いますが、上を水が流れるようにして、そこを高齢者の介護予防に向けて水辺のほとりを散策できるようにすれば、我々は非常に嬉しく思うんです。高齢者は30年後には3人に1人、特に港区は高齢化が23区の中でも一番高いんです。そういう中で極めてニーズも高い。
 さらに港区は23区の中でも珍しく、100億ほど区として余剰金があるんですね。そういうことも兼ねて、自治体もお金を出すということで、本当に高齢者や障害者が散策を楽しむ場所を造れと言ってもなかなかできませんし、あるいは既存の道路の中に障害者優先のところを造れと言っても、なかなか難しいと思うんです。そうあるならば、今、渋谷川の蓋をとって、洪水用には下に水を流す。上は昔のような土の香り豊かな川を再生する、そういうものを造っていただければと思います。
 僕は、先生のことを応援させていただきたいのは、住民からすると、極めて高い ニーズが、高齢社会というものを考えると、あるからなんですね。そういう意味で、我々は利用者さんにも声をかけながら、ここを歩けるようにできたらと思います。
 先ほど先生が河川図を描かれたところには、名所旧跡がいっぱいあります。河川を通して、1つの流域管理を兼ねた非常にいいまちづくりができてくるように思えるんです。
 そういう意味で、僕なんかは我田引水になりますけれども、麻布十番でちょうど古川が曲がるところなんですが、聞くところによりますと、三田1丁目あたりも大きく都市開発するということがあるようです。そういうものも含めて、是非、河川を単なる下水の親分みたいな形じゃなくしていただきたいと思うんです。いかがでしょうか。何かいい意見があれば、今こういうことをやろうといっている人がいるということ、僕なんかとしては住民として、主に高齢者に対して、数年後にここは見事な散歩コースになりますよということを打って出ようと思います。よろしくお願いいたします。
尾田
 どうもありがとうございました。
 おっしゃいます通り、河川の空間が都市の中で果たしている機能をもう一度よく見直してみることは本当に大事なことだと思います。先ほどご覧いただいたチョンゲ チョンも、彼らと議論していますと、1つの案としてやっぱり地下に大きなトンネルを入れて、それで洪水は流してしまう。そうすると、上はあんな深く掘り込んだ川ではなく、土の上を流れる川に戻せるということで、その検討もしたそうです。しかし、それだとお金もかかるし、一番の問題は、やっぱり早くやりたかったみたいですね。市長プロジェクトですから、自分の市長の任期の間に目処をつけたいという思いが、市長におありだったんじゃないか、これは私の邪推かも知れませんが。
 そんなこともあって、先ほどご覧をいただいたような洪水流を流すために非常に幅広い形で、切り立った形にしています。ですから、今度、渋谷川で蓋を取る時は、洪水を流すためのトンネルを下に入れる。それでなおかつ、今のように地下利用が進んでいる世の中ですから、少々の雨でも氾濫しないようにしなければなりません。今の河道だと、ちょっとした雨で直ぐ溢れそうになりますね。あれをもっと大きな流下能力を持ったトンネルにする。治水の安全度も上げて、なおかつ地上には、土の上を流れる川を復活する。その時に土の上を流れる川は、水が自由に小さな流れになって分かれて流れますから、その周辺を自由に歩けるわけです。そこに草が生え、木が生え、という空間。田舎の川というイメージの川にできて、非常にいい空間ができるはずです。
 だから、是非そういう方向で、吉田先生も一緒になってお考えいただければありがたいと思います。まだまだ上流の商店街とか、沿川のご理解が得られずにいます。学者先生の間には、キャッツストリートを道路にしたいとか、いろんなご意見があるようで、今のところはそちらが優勢です。せっかく世界の大都市・東京の将来を考えるなら、今後1000年、2000年生き永らえる川にしたいものです。十分議論して、その上で本当にいいもの、数千年の命を持つものを造っていかなければならないと考えています。いろんな、多様なサイドからの物の見方を盛り込んでいかなければなりません。これからも共々によろしくお願いいたします。
吉村(国際連合)
 国連のテクニカルアドバイザーをやっております吉村でございます。
 今日は非常に興味深いお話をありがとうございました。
 ちょうど2001年の9.11のテロの後に日本に帰国いたしまして、国連関係の仕事をしております。先ほど先生の中に、国際協調のお話がちょっとございましたので、あえてご質問させていただきたいと思います。
 国連にいた時は、私は発展途上国の上下水道のインフラの指導をやっておりましたので、水道というと、例えば厚生労働省に行きなさい、下水というと、国交省さんですよということで、発展途上国から一体どこへ相談したらいいのか、とよく言われておりました。
 質問の1つは、尾田先生は行政から今度はNPOということになりまして、逆に日本の行政側のフラストレーションと、こういうふうにしたらいいよという何かいい参考例があれば教えていただきたい。
 もう1つは、来年3月のメキシコの世界水フォーラムでございますけれども、これに向けての日本の戦略、あるいはこういうふうにしていきたい、その辺をご参考にお話ししていただければと思います。よろしくお願いいたします。
尾田
 どうもありがとうございます。
 水問題は、確かに今ご質問いただいたように、あらゆる部局にまたがっています。これは、別に日本だけじゃなくて、世界各国全部そうですね。国連の組織そのものがまさにそうでして、水に関する国連機関が24あって、今、国連ウォーター、UNウォーターという集まりを作って、水問題を一緒に考えようということで動いています。
 考えてみますと、水は我々のあらゆる生活のベースにかかわっていますので、水に関する部局を集めて1つの省庁を作るとなると、まさに内閣そのものになってしまいます。だから、行政組織として、水に関するものを全部集めてしまうというのはできないことではないか。逆に水に関する部局だけ、例えば農水省から農業水利担当部門だけを持ってくる、厚労省から水道の部局だけを持ってくる、そういうことをしても、今度はそれぞれ本来の政策との関連がなくなってしまうわけです。
 水に関する組織は、あらゆる組織に根を生やしていますので、これを1つに集めるのは、私は得策ではないと思っています。それぞれの行政に根っこを生やした水関連部門が相互にコーディネートする組織、例えば防災で言いますと中央防災会議がありますが、これに類似するような「中央水会議」というものを設けて、この中央水会議がいろんな水問題を総合調整していくというのが最も水に関してはふさわしい組織だと考えています。そんな組織を早急に作るべきだと思います。
 第3回世界水フォーラムを日本で開催した時に、できれば、その構想を、私としては打ち出したいと思ったんですが、残念ながらいろいろなところの思惑があり、外部に出すところまではいきませんでした。
 そういう意味では、例えば今、国土交通省に水資源部というのがありますが、これはふさわしくないと私は思っています。水資源部は、たとえば内閣府の中に持っていって、防災部局と同じような扱いをすべきだと思っています。 
 それぞれの省庁に根っこがあって、それを総合的にコーディネートする、相互調整するという組織づくりが、水の問題を考える時には一番いいのではないかと思っています。
 それから、第4回の世界水フォーラムが、メキシコシティで来年の3月開催されるわけですが、これについては、メキシコ政府が中心になりまして、5つのテーマ、例えばIWRM(総合水資源管理)とか、資金調達の問題、そういう5つのメインテーマと、5つのクロスカッティング・イシューとに分けて、その上でテーマ別に議論していこうという仕組みを考えています。その中で、我々日本として、どういう戦略を立てて持っていくかというのは、まだはっきり見えておりません。
 メキシコで一番大きなテーマになるのは、資金の調達・確保をどうするか、だと思います。発展途上国で安全な水を確保するためには、インフラ整備がなくてはどうしようもないわけです。インフラがなければ、賢明な水の管理・制御といっても絵に描いた餅です。そのインフラ整備を進めるための資金をどこから調達するか。公的な資金は、ODAに関しては、各国努力すると常に約束はしますけれども、なかなか出てこない。ならば、民間資金をいかに水分野に持ってくるかということです。
 例えば、雑誌『諸君』で、「JABIC(国際協力銀行)が石油の問題を扱っているのはおかしい。公的な資金は、カントリーリスクと言いますか、リスクのある仕事で公共的な利益がある、そういう部門に投入するべきである。JABICの融資資金はそんな部門に投入されるべきだ。石油のように、商業ベースで成り立ったところへ入れるのはおかしい」という趣旨の論文が掲載されていました。そういう視点で言えば、まさに水こそ、その一番のターゲットだろうと私は思います。
 そういう仕組みを作れるかどうか。日本として、そういう仕組みを作っていくことが大事だと私は思います。ただ、下手に組織を創ってしまうと、その組織の維持のためだけに勢力が注がれる、そんなアホな事態を招きかねません。新しい組織を創って、自分たちの勢力を拡大しようと考えている人が海外には大勢おられます。そういう餌食にならないようにしなかればなりません。
 国連におられた方が一番よくご存じだと思いますが、国連はもうほとんど効率的に仕事ができていないですね。となると、例えば医療部門でいえば、WHOではなく、「国境なき医師団」のような、効率を重視した形で動く国際的なNGOが主導権を持っていかないと有効な組織にならないと思っています。
 何かよいお知恵をいただければ大変ありがたいと思います。水の分野ではこういう組織がよいのでは、というご提案をいただければ幸いです。一緒になってやっていただければ大変ありがたいと思います。
佐藤(名古屋市)
 名古屋市役所の佐藤です。今日はどうもありがとうございます。
 ちょっとお伺いしたいことがございます。先ほどの発表の資料の中に、農業用水の転換という言葉が、一言だけありました。実は、都市河川の中で、私たちは、きれいな水をどう確保するかというところに一番頭を悩ましています。確かに地下水浸透とか何かというのもあるんでしょうけれども、現実問題からすると、田んぼがかなり減ってきているのが現実ですけれども、農政のところになかなかメスが入らなくて、調整がうまくとれてない。
 最近、都市河川の中で環境用水を水利権にという話があって、国交省さんの河川局さんなんかの、都市関係の関係部署の方々のところからは、そういうお話はよく出るんですが、現実問題、水利権のところになってくると、やっぱり農政の壁だとかで、なかなか動かないというのが現状だと思うんです。
 そういったところで大変苦慮しているわけですが、豊富なご経験をお持ちだとお察しさせていただいておりますので、例えば農業用水なんかをうまく転用した事例があるか、今後農業用の水利権がどういうふうになっていくのか、長期の展望でもいいんですけれども、そこら辺について、ちょっとご示唆いただけたらと思います。よろしくお願いします。
尾田
 はい。ありがとうございます。 
 農業水利権については、都市サイドの思い込みだけでは動かない。農業水利権は余っているのだから都市の方によこせ、というアプローチでは動かないと私は思います。歴史的に見ましても、河川の管理というのは、かつては農業者がやってこられた。農水省ではありません。土地改良区に相当するような土着の組織が担当していました。彼らの理解と協力なしには動かない。これをまず踏まえる必要があると思います。
 その上で、河川法改正の時に、水路兼用河川構想というのを出しました。農業用水路を河川法上の河川としてダブルで指定をする。そうすれば、農業用水路で水がなくなっているところにも河川に水を入れるという枠組みで水を入れられる。都市の水路も同様です。そうすれば、水のネットワーキングが簡単に作れる。提案をしたんですが、残念ながら当時の農水省サイドの非常な反発、農業者がどれだけ反対をされていたかはわかりませんが、を受けまして、つぶれるというかその部分の法案を取り下げました。
 その時感じましたのは、もともと水を管理していた農業者に対する配慮がない限り動かない。例えば、先ほど殊さらに自分たちが節水しようよということを言いましたのは、都市サイドの住民も、我々は1%の水使用量を抑えます。その分を河川に戻します。だから、農業サイドも戻して下さい。一緒にやりましょう。そういうアプローチが要るんだろうと思います。
 確かに作付面積が減ったとしても、田んぼに水を入れるためには水路に一定の高さの水が流れていないと一枚一枚の水田に水が入らないんですね。その水位を確保するために、別に新たなシステムを一緒になって作っていく、そういうことまで踏み込んでやらないと、農業者の方から水は出てこないと私は思います。
 これは全く不可能な話ではなくて、農業者サイドもある意味では今や都市生活者でもあるという方がたくさんおられるわけです。何か新しいブレークスルーする道を名古屋市あたりから生み出されて、堀川あたりにちゃんとした水を戻されたらどうでしょうか。(笑)こういうことを言うと失礼かもしれませんが、名古屋には都市を代表するシンボルがない。金の鯱だけでは寂しすぎますよね。名古屋にとって一番大事な空間は堀川のはずです。それをマイタウン、マイリバーのような、お化粧だけで終わらせたらもったいないと思います。もう少し根本から見直した施策、それに農業者も一緒に入ってもらってやるような大きな構想をお考えになられたらいかがでしょうか。
大村(主婦会館)
 2点ばかり教えていただきたいんですが、第1点は、河川の管理です。せっかく隅田川も緩傾斜堤防できれいにできたところが、すぐビニールハウスが建ってしまう。そういったことで、連絡体制がよくないんじゃないか。そこら辺どうなっているのか。もっと市町村におろして、強制的にできないものか。
 第2点として、このパンフレットにイラク水研究会とありますが、今せっかくサマワに自衛隊が行っているのに、地元の役に余り立ってない。もちろん水の供給をやっているんでしょうけれども、もうちょっとこれを恒久的に残るような、日本がいてよかったと言われるような対策はないものか。その2点についてお願いします。
尾田
 ありがとうございます。
 隅田川のブルーテントですが、私は住民の方たちの考え方いかんだと思います。現状では、一般の人たちが安心して使えない。これは排除すべきだということを住民の強い意思として打ち出すのなら、行政はいつでも動くんだと思います。
 強制的に排除しようとすると、ブルーテント生活者を擁護する立場の方がおられて反対される、暴力沙汰になるということで動けない。それが現状ではないでしょうか。具体的に隅田川でどういう動きになっているか、個別の事例は知りません。一般的に言えば、河川管理者としては、河川の空間というのはすべての人が自由に使える、自由使用ができるというのが原則です。そんな形で管理したいと考えるはずです。
 そういう意味では、占拠するような行為に対してどう対応すべきか、というのは、そこの住民の考え方に左右されると私は思います。個別の事例として隅田川の事例を私はよく存じませんので、一般論でお答えすることをお許しいただきたいと思います。
 イラクの水問題です。JWFが主催するイラク水研究会でバグダッド大学の方にお話を伺いました。どういう形で対応できるかという議論もいたしましたが、その先生自らが、今の時点で日本から、いわゆる普通の方、皆さん方がおいでいただいても、やっていただけることは何もありません。何もできないんですと言われました。やはりまずセキュリティー、安全が確保されない状態では、民間企業も含めて現地に入るのは、私は無理だろうと思います。ただ、そういう安全、セキュリティーが確保された時点が来た時に、いつでも対応できるようにしておこうというのが、イラク水研究会を続けている理由です。
 自衛隊がどういう活動をしているのか、私は全く存じません。水の確保はイラクの現地政府にとっても一番大きなテーマの一つだろうと思います。そういうことに国際社会が手を出せないというのは悲劇だと思います。例えば、国連は現地に旗を立てたわけですが、現地本部長が凶弾に倒れたということで、その旗は今国連本部の壁を飾っています。それで本当に国連の役割を果たせるのでしょうか。いずれにしても、今、我々一般人が現地に入れる条件にはない、ということだけは事実だと受けとめております。
 よろしいでしょうか。
與謝野
 多くのご質問を頂きましてありがとうございました。残念ながら時間が参りましたので、ここで打ち切らせて頂きたいと存じます。
 本日は、「都市と水環境」という視点から、最初に歴史的な考察から入られて多くのまちづくりの課題を浮き彫りにされ、これに渋谷川ルネッサンスと打ち水大作戦の企画という実践上の体験談を交えられ、さらに国際的な視点に立った農業分野の水利用の問題等にも言及されて河川行政のあり方についてもご紹介されて、短時間ながら幅広い視野のもと貴重なお考えをご披瀝いただきました。皆様におかれましては、日ごろのお仕事と研究等に生かしていただければ誠に幸いであります。
 それでは最後に、大変お忙しい中またお疲れの中を貴重なお話をいただきました尾田さんに、大きな拍手をもってお礼の気持ちを表わして頂きたいと思います。
(拍手)。大変にありがとうございました。
尾田
 どうもありがとうございました。最後に、『セーヌに浮かぶパリ』、もし興味をお持ちいただきましたら、お読みいただければ大変ありがたいと思います。書店にはございませんので、インターネットでご注文いただければ、お求めいただけようかと思います。済みません、最後に勝手なことを申しまして。ありがとうございました。
(拍手)





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