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第213回都市経営フォーラム

『舟運を活かした水辺の街づくり』

講師:三浦 裕二  氏  日本大学名誉教授
                                特定非営利活動法人 都市環境研究会 会長

日付:2005年9月15日(木)
場所:日中友好会館


1.舟運と河岸、その栄枯盛衰

2.見直され始めた舟運と船着場

3.ウォータービハインド開発で終わった「ウォーターフロント」

4.水路は地域の環境資源

フリーディスカッション



 

 

 

 

 

與謝野
 それでは、本日の第213回目の都市経営フォーラムを開催させていただきたいと思います。本日のフォーラムは、前回の尾田栄章さんのフォーラムの際のご紹介の通り、都市の水環境をテーマにした3回連続企画の中の2回目のフォーラムとなります。
 本日は講師として、長年にわたり都市の水環境そして舟運について研究と普及活動を重ねて来られておられる日本大学名誉教授の三浦裕二先生にお願い致しました。
 三浦先生のプロフィールにつきましては、お手元のペーパーのとおりでございますが、ご専門は舗装工学とお聞きしております。長年、日本大学理工学部で教鞭をとって来られ2002年に名誉教授になられまして、現在、特定非営利活動法人 都市環境研究会の会長を務めておられます。
 本日の演題は、お手元の資料のとおり「舟運を活かした水辺の街づくり」と題しまして、都市における水辺空間と舟運のありよう等についてのご講演とお聞きしております。先生のこれまでの研究成果を念頭に置いて、都市空間とウォーターフロントとのかかわりの歴史から、現実の水辺空間の抱える課題、そして望ましい水辺の街づくりと舟運再生活動等についてのご紹介を通じまして、広く舟運を含めての水辺環境のありようについて貴重なお話がお聞きできるものと楽しみにてしおります。
 それでは、三浦先生、よろしくお願いいたします。
 
三浦
 ただいまご紹介いただきました三浦と申します。どうぞよろしくお願い申し上げます。
 213回と大変な伝統あるこの都市経営フォーラムに講演者として招かれましたこと、大変光栄に存じております。
 「舟運を活かした水辺の街づくり」と題しておりますが、果たして街づくりまで話が及ぶかどうか、自信のないところです。
 経歴に記しましたように、私の専門は舗装です。舗装というのは経験工学でありまして、経験だけではなかなか論文として認められません。ご他聞に漏れず、応力、ひずみの方向に目を向け、多層構造の弾性理論に基づく構造評価法で学位を取得し、舗装に特化してまいりました。一方で、1973年から、透水性舗装、つまり天与の雨を地中に浸透させる鋪装の研究を始め、74年には数寄屋橋交差点、ソニービルと阪急デパートの前の歩道に透水性舗装の試験施工を行いました。大変注目を浴びましたが、道路技術者にとっては風上に置けない奴ということになるわけです。つまり、舗装の下に水を入れるというのは、道路工学の原点をわきまえていないという評価です。しかれども、今日では、技術の一部を取り込み、名前を変えて、多機能舗装や排水性舗装ということで高速道路にまで利用されるに至っております。透水性舗装に水が浸透すると、その行き先は蒸発で地表温度を低下させ、一部は地下水となり、川に出ます。
 私の住まいの近くに、花見川という大変重たい歴史をもつ人工の掘り割り河川があります。正式には一級河川印旛放水路です。そこへ出向き川の現状を見て、しばし驚いたわけです。その汚れたるや、周辺住民が鼻をつまむという表現がぴったりくるような、汚れた川でした。その花見川を遡ると、印旛沼に出ます。印旛沼は、長門川で利根川に結ばれ、太平洋へ出られます。これは面白い。東京湾と太平洋を水の道で結び、河川の浄化をしよう、と考えたのが、河川と舟運の趣味と申しましょうか、道楽と申しましょうか、そちらへのめり込むきっかけになったわけです。
 本日のテーマの「舟運を活かした」というところから話を進めます。皆様のお手元にある「河川文化」とい冊子は、河川協会にご無理を言ってちょうだいしてまいりました。それ以外に資料としては、白黒ではありますが、図でお示しする写真等のコピーをつけていただきました。コピーの方は90枚ほどですが、パソコンの中には138枚入っております。かいつまんで私の述べたいところの、意を酌んでいただければ幸いと思っております。



 

1.舟運と河岸、その栄枯盛衰

 (図1)
 (図2)
 舟運の歴史に、少しだけ耳を傾けていただきたいと思います。ご存じのとおり、舟運の開祖は、角倉了以と河村瑞賢です。角倉は没後390年。ご朱印船で、今でいうベトナム貿易で大富豪となりますが、一番身近なところは豊臣秀頼の命を受け、高瀬川という我が国最初の本格的な運河、10.5キロを掘った人でもあります。また京の街づくりには木材が必要である、ということから、丹波から大堰川を使って材木資源を下ろす。これらの2つの仕事は、今日に至るも京の情緒を演出する高瀬川であり、かたや保津川下りという、夏目漱石の「虞美人草」にも登場する大変すばらしい観光舟遊びの場所を提供しています。そのほか、徳川家康の命令で、富士川、天竜川を開発して、木材を商品化するなどして、大変な財を成した人です。
 もう1人は河村瑞賢です。瑞賢は亡くなられて306年になります。伊勢の国から上京して、車力をやったり、土方をやったり、大変な苦労を重ねます。一時は故郷に逃げ帰ろうとしますが、旅の途中で老人に、「これからは江戸だ」ということを諭されて、もう一度江戸へ戻るわけです。1657年の明暦の大火で、「材木が売れる」ということをいち早く察知し、木曽へ木材の買いつけに走ります。泊まった旅籠の子どもに1両小判を2枚、火ばしで穴をあけ紐を通し首からつるして遊ばせます。宿屋の主人はびっくり。小判を2枚も子どものおもちゃにくれるのは、大層なお大尽に違いないということで信用され、木曽の材木全てに河村の焼き印を押します。後に江戸の材木商が来た時には、仕入れた材木を高売りするというように、大変商才にたけた方であります。
 そうしたエピソードよりも重要なのは、天領米を輸送するために、西回り、東回りの航路を開いたこと、あるいは阿武隈川の舟運路を開発したことです。二本松から太平洋の荒浜までの河床勾配は、現在のマイン・ドナウ運河の勾配にほぼ近い急流です。マイン・ドナウ運河は40数カ所の閘門を通して上り下りするわけですが、それに近い大変な激流の中を、弱い木造船を使って米を荒浜までおろした。そうした舟運路の開発が、17世紀中頃のことでした。
 (図3)
 そのほか淀川あるいは安治川等の改修を手掛けた人でもあります。中でも特筆すべき事業は北前舟が行き交った酒田からの西回り、仙台荒浜からの東回りの航路開発でありましょう。この北前船も明治になると同時に、この世から姿を消してしまいます。
 (図4)
 瑞賢のおかげで誕生した港は、今でいう港湾都市です。その港湾都市多くは川の入り口にできてきます。「江戸」という名前は、川(江)の入り口(戸)です。隅田川、荒川への入り口であったから、江戸という名前がつくわけです。中世からその入り口であったところは浅草湊で、大変に賑わっていたわけです。
 文学に見る川と舟について、お配りした「河川文化」の中で、少し触れてあります。他にも鎌倉時代、二条という女官が関東に旅して、江戸の風景を実写していますが、その中に京都の四条大橋や五条大橋にひけをとらない橋が既に隅田川に架かっていたという記述があります。徳川以前に既に浅草を中心に大変な都市が造られていたというわけです。そこにできるのは異地場(いちば)であります。すなわち異なった物、異なった価値観が出会う空間が市場です。今日の市場にも同じことが言えるだろうと思います。
 一方、川の入り口から内陸の水路沿いに船が入り込んで、それぞれの町に市場を造っていったのが河岸です。この「河岸」という言葉も、今や死語になっているようです。魚河岸といって初めて理解する。これを若者に読ませますと、「カガン」と読んでしまいます。
 (図5)
 河岸が繁栄するこの時代、17世紀終わり頃には、図の赤丸を付してあるところ200カ所以上が河岸として繁栄したところです。今で言えば国道沿いの町ということになりましょうか。主だったところで、那珂湊、銚子、佐原、後ほど話が出てきます利根運河、関宿、栃木、川越、そして大江戸です。江戸市中には大河岸があまた点在し、100万といわれた江戸市民の食料や消費財を賄い、100万都市のふん尿を集め、畑、田んぼに持ち出した。帰り舟には、薪、炭という当時のエネルギー源を積んで江戸に戻ります。ふん尿処理を含めて、まことにすばらしい循環型社会が江戸時代には形成されていたわけです。
 (図6)
 中心部だけ見ますと、今のイメージで大体わかると思いますが、ここが首都高。日本橋です。日本橋川の上を首都高が通って、日建設計の横を通って大曲の方に行くわけです。この辺が浜町です。浜町河岸から真っ直ぐ上にも河岸があります。空白になっているところが、お茶の水の峡谷部分、さすがに河岸はありません。ほとんどの沿岸は河岸として利用されています。多くは町民河岸です。また大名の下屋敷沿いの運河は大名河岸と称して大名が管理していました。
 (図7)
 江戸名所絵図の両国橋です。大変賑やかな状況が見て取れます。こういう船を屋根船と称しまして、今でいう屋形船の大型船で、操船は屋根の上から行う。トイレ、台所、お座敷付きという大きい船から、今日の屋形船、その間に商品を売り歩く小さい猪牙船があって、大変な賑わいを見せております。江戸の衆は遊びが大好きだったようです。
 (図8)
 今日、1つのテーマとしてご提供したいのが、小名木川です。徳川が入府してすぐ、行徳からの塩の輸送路として、東に向けて直線に掘り進んだ運河が今の小名木川です。これは広重の書いた、五本松という大変きれいな絵です。小名木の「名」に、広重は奈良の「奈」を使っています。広重の絵では川がスライスしています。江戸名所絵図の小名木川の五本松を見ると、フックしています。ところが、現実の川は直線です。なぜ曲げたかというのは謎であります。こういう江戸時代の絵の謎解きがお得意な元河川局長の竹村公太郎さんが、いずれこの謎を解いてくれるのではないかなと、期待しているところです。
 名所絵図の方には、屋敷が描かれています。丹後の国、九鬼家の下屋敷から生えていた松であるという説明がつきます。現在では石碑だけが立ち「五本松」という江東区の史跡になっています。広重の絵に描かれる舟は江戸に向かう舟でしょう。名所絵図荷描かれた舟は、江戸から行徳に向かう船ではないかなと思われます。絵にはお月様が描かれ、「川上とこの川下や月の友」という芭蕉の名句が載せられています。
 (図9)
 先を急ぎます。1867年に、江戸から東京になります。それから4年後、早くも蒸気船が出現します。二百数十年にわたり鎖国をしていた日本国が、一気に西洋文明を取り込むということは、鎖国の時代から既に西洋文明を消化していたとしか思えません。
 高橋次郎左ぇ門が蒸気船を建造し、深川から埼玉県中田村まで運航が開始されます。さらに翌年には東京−横浜で弁慶号が走り、東京−大阪間には電信が開通します。これで困ったのが飛脚です。飛脚仲間が集まり、陸運元会社という組合をつくります。言ってみれば、江戸から東京に変わって、明治政府の時代に起こるべくして起こった構造改革です。郵政民営化と同じです。もう飛脚は要らないよと言われ、困った飛脚が作った陸運元会社は内国通運となり、現在日本通運になっています。これだけの歴史を持っているのが日本通運なのです。内国通運が作ったのが「通運丸」という船で、深川から生井村、銚子まで船を出します。
 (図10)
 錦絵で見る外輪船の「通運丸」です。両国橋は、鈴なりの人。物見高いは江戸の常と申しますが、江戸っ子は新し物好きであるという点は間違いないようです。
 (図11)
 明治13年の絵では、先ほどの五本松を航行する蒸気船が2艘描かれております。
 (図12)
 小名木川を通り、新川を経て江戸川を関宿まで遡り、利根川に出て銚子へ向かいますが、浅瀬もあり、余りにも遠回りだということで、千葉県に利根運河を掘ろうという計画が出されます。
 茨城県令、今で言う県知事の人見 寧が、当時の内務卿である松方正義に運河を掘りたい旨申し出ます。なお、最初の提案者は、茨城県の広瀬誠一郎という県会議員です。ところが、千葉県令の船越 衛は反対で、軽便鉄道の建設推進派です。これからは鉄道の時代ということで、鉄道の建設計画を提出します。大紛糾します。当時(明治13年)の内務卿、松方は鉄道派です。後に(明治16年)内務卿となる山県有朋は運河派です。ここで大変な議論が行われますが、今と時代背景は似ています。政府は財政難から地方分権を進めるのです。地方分権を進める結果、国の河川行政は弱体化します。何とかここで内務省土木局の復権をはかり、今でいう河川局の力を取り戻そうということで、山県はその力を発揮します。その背景には、疲弊した京都の再生をかけた、琵琶湖と京都を結ぶ「琵琶湖疎水」のプロジェクトがスタートしていたことがあります。合わせて、東のプロジェクトとして山県は「利根運河」の開削に軍配をあげる訳です。
 ところが、政府はもとより両県共にも資金がありません。そこで、広瀬は東奔西走して資金を集め、利根運河株式会社を発足させます。今で言うPFI、民間活力の利用です。資本金40万円を集めました。深井と船戸間8キロ、当時の総工費は57万円、延べ労働者220万という大変な人力を使って利根運河を完成させます。当然民間投資ですから通行は有料となります。筏から蒸気船まで船によって3円ないし10円という料金を取りますが、この運河のおかげで銚子と深川で3日間かかっていたのが1日に短縮されます。かなりの成果をおさめます。
 (図13)
 運河を通っている当時の通運丸の写真です。軽便鉄道は既にこの時にはできておりました。運河の弱いところは、洪水があると土砂を持ってきて底を浅くします。従って、浚渫が欠かせません。専門的な言葉でいうと低水工事です。その浚渫風景です。人海戦術で底ざらいをしないと、船が通れなくなる。これが大きな負担になっていきます。
 (図14)
 利根運河をどんな船がどれだけ通過したかを示した図です。昭和12年までのデータが残っていますが、川名 登先生の表を図化したものです。私は来年古希を迎えますが、私が生まれた頃、蒸気船はまだ年間3000艘も利根運河を通っていました。決してそんな昔の話ではないのです。僅か70年前です。
 図には、水害、とありますが、大きな洪水がたびたび起きています。その都度、通船数数は落ちるわけですが、一番の痛手は19世紀末の鉄道の開通です。しかしながら、蒸気船はそれでも頑張っているのです。
 
 (図15)
 振り返ってみますと、お手元の「河川文化」の中に、今から約1000年前の「枕草子」を取り上げております。中にかの有名な「遠くて近きもの」が記されます。一般には「男女の仲」と最初に出てきます。最初は「船路」です。それから「極楽」「男女の仲」と続きます。古事記にも舟運の話が出てきます。天照大神の子どもは障害児でした。「蛭子」と言います。障害児であったがゆえに、アシ舟に乗せられて流されます。つまり、子捨てが行われているのです。神代の時代から舟運はあったのです。
 舟運が日本列島の経済構造を支える立派なインフラであったということから考えますと、17世紀初頭から20世紀初頭までの300年、湊や河岸を核にした町づくりが行われていたということが言えましょう。
 (図16)
 これは東京都港湾局の外郭団体が発行している東京の「河岸図」です。明治40年代、つまり1910年ごろの地図です。これと、先ほどお目にかけた元禄時代の「河岸図」はそっくり同じです。つまり、明治40年代後半まで東京は河岸の街、水の都として栄えていたと言えます。ここが現在首都高7号線の通っていた竪川です。一切河岸はなくなりました。ここが後ほどお話する小名木川です。横十間川。江戸時代お城から見て、放射線が縦、環状線が横だったのです。言い換えれば、東西が縦、南北が横、という呼び方をしていました。
 (図17)
 明治政府の基本姿勢は鉄道だったのです。弁慶号が走りはじめて、あれよあれよという間に東海道線、東北線まで開通します。総武線は佐倉まで、1897年には銚子まで、1898年には成田線が佐原まで延伸します。常磐線は土浦までというように鉄道が普及していきます。
 (図18)
 明治40年代後半の利根川汽船の「航路案内図」をコピーしたものです。既に追い詰められた蒸気船会社の経営が成り立たなくなり、懸命のPRです。どこそこの河岸に行くと、どういう旅館があり、何が食える。どこそこはこんな名物がある。お土産は何がいいというもので、今でいう旅行ガイドブックにこの航路図をつけました。航路図に、赤線で東北線、両毛線、総武線などを加えてあります。舟運、河岸で栄えていたところの外郭は全部鉄道が敷かれてしまったわけです。これが舟運の壊滅的な打撃につながります。
 (図19)
 1927年9月の利根川で写した通運丸の写真です。日通ロジスティックミュージアムからお借りした写真ですが、これが最後の姿ではないかと思われます。
 (図20)
 鉄道は、確かに舟運の喉もとを締めましたが、もう1つ致命傷となる理由があります。1900年から始まる「近代治水」です。先に触れましたように、航路を確保するためには低水工事といって浚渫が欠かせません。これが、洪水を防御するために堤防を高くして、洪水から住民の生命、財産を守ろうという高水工事に変わります。これが「近代治水」と言われるもので、利根川の下流から工事が始まります。
 一方で、1914年、近代治水から14年経った時に、「運河法」が制定されています。舟運が完全に衰退期に入った時にできた法律です。いつの時代も法は後追いなのです。この法律は今日でも法律第84号として、平成16年に改正され生きています。所管は国土交通省河川局です。どんな法律かというとPFIです。お金を出した人は運河を掘っていいという法律です。これから運河を造ろうという人が出てきても、ちゃんと法は整備されているわけです。
 さて、大変なお金をかけて造った利根運河ですが、ついに1941年の大洪水で、矢折れ刀尽き、国に買収していただくことになります。その時の価格が21万5000円。理由は利根川の洪水の東京湾への流下です。つまり放水路です。利根川から江戸川へ、江戸川から東京湾へという治水上の目的から21万5000円で売却され、国有化されます。こうして50年の歴史に終止符が打たれます。河川の工法が変わってきたことと鉄道が普及したことで、運河の荒廃が始まり、舟運を衰退させ、同時に河岸を疲弊させていくことにつながったわけです。
 (図21)
 以上述べたように、19世紀末から20世紀中葉の80年間は、鉄道駅を核とした町づくりの時代でありました。鉄道の駅前には飛脚をやめ船会社、通運会社を作った日通が必ずありました。貨車で運ばれてきたものは、駅前から馬に乗せられ、次いでは自動車に乗せられて、消費者のもとに配られていったわけです。
 (図22)
 次に迎えるのが自動車の時代です。18世紀までは自然任せの風、あるいは人、家畜の力に頼って物を動かしていました。19世紀、ジェームス・ワットによる蒸気機関発明で、大きな蒸気機関で船を動かし、鉄道を動かしたわけです。20世紀に入ると、小さな内燃機関です。これはダイムラーとベンツです。1886年には、ダイムラーが、1890年にはベンツが自動車をつくりますが、その後ダイムラーとベンツは合併し、近年ではクライスラーと合併しています。その小さい内燃機関が世の中を大きく変えます。1912年、我が国ではタクシーが営業を開始します。かつては川を利用して緒牙舟(ちょきぶね)で用を足したものです。それが円タクに変わる訳です。1913年、アメリカでT型フォードが大量生産に入ります。1913年ですから、自動車社会はまだ100年経ってないのです。1923年に関東大震災があり、トラックが税を免除されて輸入されます。ドア・ツー・ドアで高速で移動でき、自由度の大きい自動車。こんな魅力的なものはなかった訳です。したがって、舟運はもちろんのこと鉄道までも一気に駆逐して、自動車が輸送のトップに躍り出ます。
 (図23)
 写真のような光景を今は見ることができません。若い人はご存じないと思いますが、車線主義というのは、ついこの間定着したものなのです。自動車の形を見ると結構新しいでしょう。こうした状況で排気ガスや騒音をまき散らし、年間交通事故による死傷者は1万人を超えていた時代です。70年代です。
 (図24)
 同じ70年代、隅田川の風景です。水上バスです。今は、松本零士デザインの宇宙船みたいな素敵な船が隅田川を航行しておりますが、この当時は屋根もない通船が走っていました。臭さの余り全員鼻を押さえています。何でそんな思いをして船に乗っていたのかと思うでしょうが、自動車の渋滞で水上バスの方が早かったのです。
 (図25)
 60年代からの急速なモータリゼーション。時代は道路に顔を向けた街づくりに大きくシフトします。ということは、川に背を向けることになります。拡大、拡張する道路に沿って平面的に町はスプロールしていくことになります。
 (図26)
 新しい文明を手に入れると、先人の残した運河の遺産、舟運の文化、もろとも放棄してしまったわけです。確かに、汽笛一声新橋を鉄道が動き始めたのは慶応から明治になってすぐのことです。電信も直ちに取り入れました。蒸気船も造りました。しかし、次は自動車だというと、蒸気船をいち早く放棄します。その前には、北前船を明治維新とともに放棄してきた日本です。
 ところが、道路、鉄道に迫害されながら、ヨーロッパ、アメリカは、運河を大切に使っています。旅行してみると、今でも引きつけられる大変な魅力があります。この違いは一体何だろうと考えました。冒頭にお話ししたように、私の研究主題が趣味、道楽の方へ大きくシフトして舟運に向かうわけです。



 

2.見直され始めた舟運と船着場

  (図27)
 まず手がけたのが、幕張メッセと銚子港120キロを水の道で結ぼうと考えたことです。先に話した花見川を有効に利用しようと思ったのです。各地の首長さんや青年会議所の参画を仰ぎ、政界の重鎮であった竹下さんのご協力も仰ぎ、大学の研究者に参加していただいて、「水の回廊構想」を打ち上げました。3大紙ほかマスメディアも注目してくれました。こうした動きを作ったのと同時に、趣味で欧米の運河を見て歩きました。本日は、旅を共にしていただいた及川さんもこの会場にお見えになっていますが、何とかもう一度、川と船の関係を再構築したいと思ったわけです。
 (図28)
 この図は銚子から、花見川、新川、印旛沼、長門川、利根川と平面的なつながりを示したものです。少し足を延ばせば、鹿島港へもつながります。アメリカ西海岸に一番近い港です。多くの船舶は房総半島を回って、東京湾という難所を通過して、大井、千葉、横浜に着くわけですが、鹿島港へ着けて、ここから舟運で首都圏に持ち込むことも可能です。そうなれば各地に新たな河岸が再生できるということを思い描いたわけです。
 (図29)
 若干、花見川に触れさせていただきます。印旛の水を江戸湾に落とす事業に本格的に着手したのは天明2年、1782年です。老中田沼意次が直轄工事で始めます。公儀の普請です。失敗に終わります。老中は失脚します。次に1843年、天保の改革です。これ以前に、小判の改鋳をするほど、幕府の財政は困窮状態でした。この時代は天明の飢饉があって、日本国中疲弊した時代でもあります。何とか米の増産をということで、再度印旛沼に目をつけたのが水野忠邦です。これは5藩のお手伝い普請です。つまり、幕府の権限で秋月藩、庄内藩、沼津藩、貝淵藩、鳥取藩に印旛落としの工事命令を出します。大体7割方出来た時、老中水野も失脚します。維新以降、外国からのお雇い外国人ドールンやデ・レーケ、さらには初代土木学会長の札幌農学校出身古市公威先生までが花見川の改作計画に係わります。全て灌漑だけでなく、舟運を想定した上で計画を作っています。残念ながら、日露戦争でこれらの計画は頓挫し先の大戦に向けて走りだしますから、花見川の開削計画は葬り去られることになります。
 蛇足ですが、ちょっと心に引っかかるものがありまして、田沼と水野のお墓参りに行きました。駒込と茨城県結城の近くに、お墓があります。「あなた方の宿願が叶いますように」と言ってお願いしてきましたが、さっぱりだめです。(笑)
 戦後、昭和21年に農林省、38年には建設省印旛沼総合開発事業ということで、事業は進展します。舟運は当然否定された上で、干拓、治水、利水、京葉工業地帯への工業用水の供給という目的が加わって、現在、大和田の排水機場で水の道は途切れています。したがって縦断的に水路はつながっておりません。
 (図30)
 これが「水の回廊構想」です。土木学会誌の構想拝見に出したものです。花見川は大変美しいところです。ここが、水野忠邦が掘った掘り割りです。まさしく天然の峡谷と思うぐらいで、人工的な匂いは全くありません。水もきれいに見えますが、先ほど申したように大変に汚れた水質です。
 (図31)
 何とか舟運を住民活動も引き込んで、世の中で認知してもらいたいと考えていました。きっかけは、阪神大震災で水上輸送が大活躍したことです。これがなければ救助も物資輸送もできなかったのです。自衛隊が艦船を出してお風呂の提供もやりました。全て水の上です。水が地震に強い、ということが多くの方々の脳裏に固定されます。
 もう1つは、1997年4月に「総合物流施策大綱」が閣議決定されたことです。IT化の時代の物流政策の根幹を示したものですが、その中にモーダルシフトが出てきます。当然のことでしょう。モーダルシフトの中に河川舟運の再構築の検討という一言が加わります。これも大きいモチベーションになったと思います。
 同じ年の5月、「河川法」が改正されます。治水、利水一辺倒だった河川に環境が加わります。川と地域の関係をもう一度再構築しようという法律になった。おかげで全国各地の川を舞台に多彩な運動、活動が動き出します。河川局長通達が98年に出ます。通達を紹介する理由は、次の写真に大変深くかかわります。先月の「都市経営フォーラム」の講演をやられた尾田榮章さんが、局長時代に、「河川舟運の検討委員会」が作られました。河川舟運を世に出すためには船着き場が必要です。船着き場の目的は、当面防災施設とする。しかし、災害はいつ来るかわからないという非日常的なことであって、それが有効に機能するためには日常利用しておくことが大切である。これが委員会の中の合意です。局長は、利用されない時は防災船着き場と言えども一般に開放しよう、という通達を出しますが、現実ははなはだ閉鎖的です。
 (図32)
 たしかに、河川行政は住民との距離が近くなりました。教育の場として使う、福祉の場として使う、そして、スポーツ、レクリエーションに有効に利用してもらう。平常時、高水敷は、野球、サッカーなど広く利用されています。場所によってはゴルフ場もあります。ところが、水面は利用されてないのです。この水上空間がもったいない、有効に利用すべきだというのがこれからのテーマです。ぜひ皆さんもお考えいただきたい問題であるわけです。
 (図33)
 90年代、尾田榮章さんが作った「河川舟運に関する検討会」の以前、93年にはリバーフロント整備センターで松田芳夫さんが「河川舟運のあり方研究会」をスタートさせます。95年には港湾空間高度化センターが、我が国における近代運河の実現可能性に関する基礎調査委員会を作ります。川へ海へと目を向けるようになります。さらには、川を使って物を運ぶアクアハイウエー、荒川での物流など90年代に活発な動きが行われます。
 2003年、第3回「世界水フォーラム」が京都で開催されますが、そこで初めて「水と交通」のセッションが設けられます。そして、来年メキシコで開かれる第4回「世界水フォーラム」でも「水と交通」のセッションが設けられ、日本からは前回同様、皇太子殿下、同妃殿下が参加されるように聞き及んでおります。
 (図34)
 モーダルシフトの必要性について少し触れておきます。トン・キロベースで、貨物輸送の54%は自動車です。輸送に使っているエネルギーの90%は自動車です。貨物輸送の42%が内航海運です。内航海運で使うエネルギーはわずか8.4%です。90%に対して8.4%、10分の1以下です。原単位でみますと、トン・キロ当たりの消費エネルギーあるいは最近話題のCO2についてみると、トラックは1102キロカロリー、CO2は43.3グラムであるに対し、舟運は123キロカロリー、CO2は4.8グラムです。ひっくるめて1割のエネルギーで済むのです。CO2の発生量も1割で済みます。これが舟運にシフトしょうという根底のデータです。
 (図35)
 これは内陸舟運の可能性を示した図です。一番外側、点線示してあるのが圏央道です。もちろん川と交差します。関宿、桶川です。荒川、江戸川、利根川。近い将来巨大地震がこの首都圏を襲うでありましょう。首都圏で発生する瓦礫はどこに処分するかと言った時、今誰も答えを出せません。東京湾に持ち出す。今、その議論をしたらとんでもないという話になります。どさくさに紛れて、東京湾に持ち出されるかもしれませんが、それは将来の子どもたちにとって大きな打撃を与える、と私は思っております。何とか取手など利根川筋へ出して、利根川を使って九十九里の沖合に運んでいくべきではないか、と私個人としては考えています。そのような利用もこの舟運であれば可能であるということです。
 (図36)
 この図は、荒川下流工事事務所と一緒に研究した結論のひとつです。手前の赤い範囲が大井埠頭に上がったコンテナを、行き帰り8時間の行程でどこまで運べるかを示したものです。常磐道を使って水戸、宇都宮、前橋ぐらいが限界です。ところが、コンテナを朝霞まで持っていくと、この黄色の範囲まで広がります。さらに桶川まで持って上がると、ブルーの範囲に拡大されます。少し内陸に物流基地を設けると、トラックの輸送距離がどれだけ延びるか、ということを検討した結果です。逆の言い方をすると、いかに首都圏の交通事情が悪いかということがわかります。
 (図37)
 一方、防災船着き場、赤丸、黒丸の点がすべて防災船着き場であります。こちら側の緑は、東京都の管理している河川です。もちろん臨海部には港湾局管理の運河が網の目のように通っています。72箇所の防災船着き場で、巨大地震に対応できるだろうか、ということをしっかり検証する必要があると思っています。
 (図38)
 これが防災船着き場の1例です。写真を撮った時は水位の低い時ですから、水面から桟橋の上まで大変な高さで、これでは荷物の積み降ろしができません。人も乗り降りできません。こちらの低い方であれば可能でしょうが、この大きさでは1艘着けたらもう船が着かないという寸法です。
 (図39)
 船着場の道路との接点を見るとこうなっています。日本橋川常盤橋防災船着き場、立ち入り禁止、南京錠で施錠されています。こういう状況では万一の時に本当に使えるかどうか、はなはだ疑問です。日常的に多くの人に使ってもらって、初めて非常時に役に立つという舟運検討委員会の結論や、当時の尾田局長の通達は、なかなか浸透していないというのが現状です。
 神田川、最近できた泉橋の防災船着き場です。同様に立ち入り禁止の南京錠です。使わせてもらうためには区へ出向き、お願いをしなければ開けてもらえません。お願いすれば、使わせてはくれますが、手続が大変面倒くさいのです。
 沿岸の状況を見てみたいと思います。塩浜運河、遊漁船や屋形船、不法係留と定義づけられています。昔から生業としてきた、と言ってもだめです。ここに係留杭が4本見えていますが、この杭を打つことの専用許可はとっているそうです。船を着けることは許されません。従って不法係留。不思議な話です。
 (図40)
 これも同様です。係留杭は打ってもいいが、船を着けるのは不法とされます。
 (図41)
 江東区が建設した水上バスの船着場ですが、江東区は既に廃業してしまい、保有していた遊覧船は身売りされ、大阪に行ったそうです。ならば、遊休空間となった船着場が利用できるかというと、簡単に利用できません。これが水上バスの艇庫です。これも遊休ですが、簡単に使わせてはくれません。
 (図42)
 ご存じ、有名なブルーテントです。係留できない護岸。逗留できるテラスです。(笑)ある時、桜の時期でちょっとまずかったのですが、私はボートを係留しました。不運にも、係留はできない、直ちに出ていけと言われました。ところどころに浮輪が置いてありますが、これは間違って落ちた人を助ける浮輪です。大変親切ですが、舟は目の敵です。もしも万一大地震があった時、この辺りはすべて防災船着き場の機能を持たせておかなければならない。災害というのは面で起きるわけです。点で起きるわけではないのです。ですから、小さい防災船着き場を1つ造って安全だ、ではないのです。災害時、隅田川両岸はすべて防災船着き場に変身すると、私は思っています。
 (図43)
 ニューズウイークのコピーです。コリン・ジョイスさんは、デイリーテレグラフの東京支局長です。92年に日本に来られています。彼の文章を読んでみます。
 「東京の土を踏むずっと前から僕はこの街の景色を知っていた。永井荷風の小説で隅田川が強烈な存在感を放っていたし、浮世絵を見れば、男たちが筏を漕いで橋の下を     くぐり、女たちが土手を優雅に歩いていた。だから、僕は思っていた。東京は水がたくさんある都市なのだろう。海に面していて、街中を運河が通り、威厳のあるお堀があって、  広い川が流れていて、もちろん現代に木でできた橋はないだろうし、着物姿の芸者に会えないことはわかっていた。
 だが、東京がどういうわけか水を見捨ててしまっていたとは思ってもみなかった。今でも川は流れている。ただし、大半の人の生活にはほとんど無関係だ。川や運河のそばを歩いても、人とすれ違うことは余りない。倉庫は川に背を向け、アパートには川に面したベランダさえなかったりする。東京の水辺の荒廃ぶりは驚くばかりだ。細い川の流れをコンクリートの高い壁がさらに狭める。隅田川の上には、醜い高速道路が覆いかぶさり、クネクネと曲がっている由緒ある日本橋を自転車で渡る時は、上にかかる高速道路が低くて思わず首をすくめてしまう。
 あるイギリスの友人は東京で働き始めて4年目、職場が海から10分足らずのところに海があったことを知って驚いたといわれた。
 このほかに、 浅草にあるアサヒビールのばかげた建物が、川のそばで生活が営まれた時代の最後の記念碑かもしれない。僕の持論では水があると心が弾む。そうでなければ、多分控え目な人々がボートに乗ると、見知らぬ通行人に手を振ったりするだろうか。」
 というようなことが書いてあります。なぜこういう感性を、東京に住む我々日本人が持てないのだろうかと思って紹介しました。 
 こちらは日刊建設工業新聞に紹介されている天王洲と芝浦運河の記事です。
 (図44)
 (図45)
 「運河ルネッサンス」の記事で、東京都が今進めているプロジェクトです。大変いい施策です。どしどし前進をさせるべきと思っております。
 (図46)
 ところが、東京都のお役人、国のお役人もそうかもしれませんが、自らボートに乗らない人が桟橋の設計をし、「運河ルネッサンス」と言うわけです。私は花見川に目を向けてすぐ実行したことは、4級船舶の免許を取ることでした。そして、仲間からお金を集めボートを買いました。千葉県に置いていましたが、条例ができ不法係留になりました。マリーナに入れるとべらぼうにお金を取られます。そこで残念ながら駿河湾沼津市のマリーナに預けています。船に乗らない、船を操船しない人が設計し、デザインをするのは間違えです。防災船着き場だから、カヌーのことは考えていませんでしたでは、「運河ルネッサンス」につながらないのです。
 (図47)
 写真の男性が1人カヌーに乗るためには、水面側から2人がかりでカヌーを押さえ、一人が手を貸さねば乗りこめないのです。
 (図48)
 コリンさんのエッセイにも出てきた、頭を押さえつけられそうな日本橋です。
 (図49)
 日陰者の日本橋としてありますが、そこにも多くのカヌーが浮くと、途端に花が咲いたような賑やかさが取り戻せます。これが日常的風景でないといけないと思います。この少年は浦安カヌークラブに所属するカヌー日本一の子です。多分アジア大会に出られる子どもだそうです。夫婦・親子でタンデムを漕ぐ人もいます。



3.ウォータービハインド開発で終わった「ウォーターフロント」

 (図50)
 話は変わります。今日は、建築家の方も多いと思いますが、ウォーターフロント開発とは何だったのかと、私はあえて問いたいわけです。幕張メッセを海上から眺めた写真です。丹下健三さんのプリンスホテルです。この沿岸には、船で近寄ることができません。先ほどの日本橋川カヌー周航の中に林 直子さんというカヌーイストがおられます。林 功さんという院展系の高名な画家の未亡人ですが、日本はもとより世界中でカヌーを漕いでおられます。青函海峡も6、7回往復しているベテランですが、その方が稲毛海岸に上がろうとしたところ、「だめだ、上がっちゃいけない。帰れ」と注意されたそうです。しかし、女性であったからでしょう、お役人は「私が後ろを向いているから」と言って、見ぬふりをしてくれたそうです。それほど公共のものであるはずの沿岸は閉鎖的なのです。ウォータービハインドは立派に開発されましたが、ウォーターフロントは未開発で閉鎖的です。
 (図51)
 神田川です。水道橋の近く、日建設計のちょっと下流です。見事に川へ背中を向けたビルの峡谷です。ここに船、それもごみ船が入るだけで川が賑やかになるのです。ごみ船と言って馬鹿にできません。神田川に活気を取り戻すのは、ごみ船の引き波によってできる水紋のせいではないかと、私はひとり合点しています。ワシントンホテルの川側ですが、テラスはないし何もない。川に顔を向けているとは思いません。
 (図52)
 最も象徴的なのがこの写真です。お台場です。「自由の女神」はウォーターフロントに背中を向けています。(笑)これが水に背を向ける象徴なのです。ウォーターフロントではない、ウォータービハインド開発で終わってしまったのです。
 聖路加病院です。すばらしい病院です。サリン事件の時も大活躍しました。多分東京で大地震があったら、救援の拠点になると思います。スーパー堤防でピシッと水辺と一体的に造られていますが、その前面に船着き場はありません。かなり離れたところに船着き場があります。これでは防災とは言えないだろうと思っております。
 隅田川沿岸には病院がたくさんあります。病院に近いところの岸壁は、船着き場でなくとも、自動的に緊急の船着き場に変身していくだろうと思っています。
 (図53)
 朝潮運河です。廃業した元材木屋さんの土地だそうですが、東京都が買い上げてそのまま放置されています。スラム状態です。「立ち入り禁止東京都・港湾局」と書いてあります。むなしいウオーターフロントです。
 (図54)
 中川と小名木川の交点にある「江戸川区中川舟番所資料館」です。これは、小名木川に物資を持って入り、江戸前に行く船をチェックしていた番所のあったところですが、船着き場はありません。休んでいる青年2人は、川に背を向けています。
 (図55)
 これは、芝浦運河の唯一民間の船着き場です。占有許可を取っているそうです。このレストランの所有物で、ここではプライベートの船が来て留めて、はしごを上がって食事をすることが可能です。この占有というのがくせものです。私が占有許可願いを出しても、許可をしてくれないでしょう。親代々の権利ということです。
 (図56)
 今度は、陸側から眺めてみます。豊洲運河、これが護岸です。護岸の前にテラスができています。向こう側を見てわかるとおり、行き止りです。こちら側のテラスには船着き場が付いていますが、柵が設けられていて、船着き場としての機能はありません。この護岸から左が民地です。雑草が生えているところが護岸管理のための都有地です。これは芝浦工業大学の新校舎です。校舎の前面には運河に向いた階段ができています。大学としては、そこに船着き場を造りたいようですが、なかなか協議が進まないと聞いています。つまり、ウォーターフロントを開放するということに行政側のハードルは大変高いのです。沿岸は誰のもの、と問うと公共のものとの答えが返ります。では公共とは、と問い返すと行政が公共と認めたもの、と答えが返ってきます。そこが問題なのです。
 (図57)
 ここには立ち入り禁止のマークがあります。「無断で立ち入ると警察を呼びます」と書いてあります。沿岸に近づくことは犯罪行為なのです。しかも、ここは船着き場として一段下げておりますが、柵を設けていますから、船着き場としては使えません。
 このように岸壁の前面にテラスは造ってありますが、その間に岸壁管理用地なるものがバリアとして存在し、水と接することは不可能なのです。
 (図58)
 この遊歩道に至っては、税金を何のために使ったのか、と言わざるを得ません。草ボウボウ。誰も利用していない証拠です。
 これは豊洲です。ここに見えるのが昔の貯木場跡です。岸壁があって、ここから左が民地です。この間の空間は堤防管理用地として民に手をつけさせないところです。護岸管理用地というのはウォーターフロントの有効利用を阻む単なるバリアでしかないのです。言い方を変え、もう少し厳しく言うと、養老孟司さんのおっしゃる「何とかの壁」でしかないのです。(笑)
 (図60)
 ディズニーランドです。今この前面に防波堤のかさ上げ工事をしています。千葉県、浦安市、ディズニーランドの出資で40数億円かけて、さらに高い壁を造っています。防災上必要な事業だとは思いますが、防波堤のある港が欲しいところです。
 (図61)
 ディズニーシーもパブリックの海に出て行けません。そこで、水をプライベートのところに取り込みます。ウォータービハインドに水を取り込まざるを得ません。博多のキャナルシティの例です。
 (図62)
 ディズニーシーの内側です。水を取り込んで海の雰囲気を作り出していますが、目の前に海があることは全く意識できません。
 (図63)
 これは有名な長崎ハウステンボスです。環境のために600億円使っているそうです。この水も完全に浄化し、外のパブリックの海へ流し出します。閘門が設けられていて、遮断された内側は静穏な水域をつくっています。こういう形をとらないと、ウォーターフロントというものが造り得ないのが現状です。ここに写っているのはプライベートハウスです。
 (図64)
 芦屋ベルポートマリーナという名前になっていますが、パブリックの海に直接つながる戸建て住居地区を持っている、すばらしいマリーナが今建設中です。戸建ての1軒の住宅が1つの浮き桟橋を持つという形です。パブリックピアー。ビジターピアも整備されています。世の中にはお金持ちがいるもので、飛ぶように売れているそうです。ベルポートという名前の示す通り、外国資本が入っています。
 (図65)
 この図は、名古屋の環境博覧会で日本館をデザインされた彦坂 裕さんが、幕張をヒューマンスケールの街に変えようと構想したものです。先に見た、ウォーターフロントから孤立している幕張地区でなく、ヒューマンスケールで海と接点を持った街に変えようというプランです。2001年の「幕張アーバニスト」に発表されました。バブル崩壊とともに、単なる夢の絵で終わらせるのは寂しいことです。幕張で頑張ろうという方向にぜひとも向かわせるべきだと思っています。
 


4.水路は地域の環境資源

 (図66)
 急いで、先進国のウォーターフロントを見たいと思います。これはバーミンガムです。かつて、ここも倉庫街、工場地帯だったのです。ガスストリートというところですが、再開発によって、カヌーが遊び、ボートで旅をする人たちで賑わうところになりました。その一角で、老夫婦が水に面と向かっています。ここにもう1人、背中向けているのは、私と一緒に行った日本人です。(笑)どうも日本人は水が嫌いなようです。
 そこで、考えました。神話に海彦、山彦の話があります。山彦が「お兄さん、釣り針貸して」と言って、釣りに出かけると、魚に針を取られてしまいます。しょげ返っていると、乙姫様が出てきて、3年間龍宮城で暮らし、海の干満を自由にする術と同時に、針を返してもらうのです。兄にそれを返しに行くのですが、兄の海彦は頑として許さず大げんかの末、山彦は満ち潮を呼び込んで、海彦を打ち滅ぼすのです。つまり山が勝つのです。神代の昔から、海は弱いのです。
 (図67)
 アムステルダムのペダルで漕ぐボートです。こんな遊びの船が運河に浮かんでいます。最近のボートはカッコよくなって、流線形です。数も増えているようです。
 (図68)
 これは建築家に、ぜひ行政を説得して実行していただきたいと思う光景です。アムステルダムの東南の郊外ですが、運河の上をまたいでいる集合住宅です。こうしたことが許されるべきです。もちろん、ここの住民以外の人も建物を利用して、運河を渡ることができます。
 (図69)
 これも、運河沿いの集合住宅です。前面は全部船着き場です。1階のシャッターは閉まっていますが商店。2階に遊歩道がついています。
 (図70)
 円形のこのビルも集合住宅です。ウォーターフロントと密接につながっていることがおわかりいただけると思います。
 (図71)
 ユトレヒトの運河です。ここも幅の狭い、神田川よりまだ狭い運河ですが、大きい観光船が通ります。ごみ船も通ります。コンテナを積んだ船も入ってきます。有効に楽しくテラスが利用されています。
 (図72)
 これは南フランスのミディ運河ですが、地方都市の集合住宅です。掘り込みの港になっています。ガソリンスタンドも併設されています。
 (図73)
 南仏カップ・ダグトの舟だまりです。この都市計画は建築家のジャン・ルクターですが、みごとに舟を並べ沿岸地域に自動車は入れません。裏側に道路が通ります。
 (図74)
 マルセイユの船だまりです。これは建築家フランソア・スポエリーデザインによるサントロペの近くのポールグリモです。プライベート・ハーバーを持った住居群ですが、レストランも軒を並べており、船もやって食事ができます。
 (図75)
 林立しているのはヨットの帆柱です。このくらいの家1軒で2000万円程度です。家の数とプライベートヨットの係留箇所数とほぼ一致しています。1戸に1カ所は桟橋を持っている町です。
 (図56)
 ナビリオ・グランデ、ミラノで唯一残っている運河です。ミラノもご多分に漏れず、東京と同じで、運河が埋め立てられ、道路に変わりました。唯一残っているのが、ミラノの街を建設するための資材を運んできたこの運河です。運河側に、誰が買うかわかりませんが、花を向けています。ここの地域では、年に一度花祭りが行われて、多くの船が出るところです。
 (図77)
 ご存じのサンアントニオです。水上バスがひっきりなしに通ります。運河を渡って通路ができる。ホテルの前面に船が入れる。非常に水との距離の近くなっていますが、これは水位コントロールができるからなのです。
 (図78)
 水面に身近なところで食事ができる。多くの木を生かして木陰を作って、楽しく水路沿いの散歩のできる道が連なります。
 (図79)
 これはボルチモアのインナーハーバー。貿易ビル、水族館、パワーステーション、チャールズセンターです。お花畑の前がプライベートのマリーナになっています。
 (図80)
 シカゴ、マリーナシティのトウモロコシビルです。シカゴに行かれた方は必ず見られると思います。その下はマリーナシティというだけあって、全部船着き場、マリーナになっています。ここだけではありません。南シカゴ川の方へ入りますと、シカゴ川を掘り込んでマリーナを持つ集合住宅ができています。
 (図81)
 これが究極のウォーターフロントではないかと思います。シアトルのハウスボートです。今日、私の仲間の1人、ハウスボートを事業化しようと考えた人がお見えになっています。今から十数年前のことです。水上生活というと、貧乏人の生活のように思いますが、違います。ここはハイレベルの芸術家等が住まっているところです。最近、大阪に1軒モデルハウスとして水上住宅ができたそうです。難波の近くです。一生懸命PRしていただき、水上住宅が認知されると面白いと思っています。
 (図81)
 日本各地でどんな活動があるか。いくつかの例に目を向けてみます。柳川、北上川、堀川、松江のお堀めぐりです。新潟のウォーターシャトル、信濃川、利根川、新町川、そして徳島市の新町川です。あるいは九州菊池川などで多彩な活動が行われるに至りました。北上川のひらた船です。民間人からも募金を募り建造した舟です。そして、子どもたちを集め、地域の人たちを乗せ、川との接触を深めている例です。
 (図82)
 ご承知の柳川の風景です。白秋のような詩人が出た町はいいですね。白秋と柳川の掘り割りは地域の資源です。おかげで現在、毎年110万人の観光客が訪ねます。白秋は「我が廃市」という表現をしておりますが、今日決して町は廃れていません。活気に満ちています。
 (図83)
 堀川です。定年を迎えた役所のおじさんたちが船を操船してくれます。コタツを仕込み、冬場も営業します。雪見酒。お酒は売りませんが、持ち込みは禁じていません。低い橋の下に来ると、天井が前にずれ、下がります。うまい仕掛けになっています。
 (図84)
 大変汚れたことで有名だった北九州の紫川です。今やきれいな川になりました。岸辺に立つ自然館の地下側壁はガラス張りになっており、満潮時河口から潮が上がってくると、真水との間にできる「塩水くさび」を見ることができます。竹村公太郎さんの本には「感動する」という言葉が出ています。「塩水くさび」が見られるのも、水がきれいになり、川と人との関係が濃密になってきたからでしょう。
 (図85)
 これは新町川のリバークルーズです。中村英雄さんが、「私たちのNPOに入ってください。ボートで新町川のごみ拾いが出来ます」のキャッチフレーズで大勢の会員が集まったそうです。行政から支援を求めることなく、このような船が今4艘になって、無料で観光客にサービスをしています。市役所は船着き場を整備し、花壇を整備し始めました。管理は地域の住民であり、背中を向けていたビルディングも川に顔を向けるようになりました。
 (図86)
 中村さん、頑張ってわずかな段差ですが、車いすも乗せられるような仕組みとし、リフトまで設えました。こうした設備は、行政が待ったをかけると思いますが、NPOに自由にやらせている。さすがは徳島の阿波踊りスピリットだと思います。あれだけのお祭りの張れる精神力が人々の根底にあるのではないかと思います。クリスマスになると、子どもたちを集め、川からサンタクロースがやってくる、というイベントを持ちます。陸地でファッションショーをやり、船から見るというプログラムもあるそうです。
 (図87)
 太田川のリバークルーズです。何となく寂しい風景です。
 (図88)
 大阪は大川の水上バスです。こちらは道頓堀川です。テレビその他で多く紹介されているので、ご存じの方が多いと思います。しっかり2つの水門で区切られているこの道頓堀川にリバー・プレイスを設け、この間に遊歩道を造ります。
 (図89)
 これは都市再生本部に申し出て、採択されたものです。その結果、規制が緩和され、準則が改正されて、河川敷といえどもオープンカフェを認め、広告を認め、切符売り場を作ってもOKとなりました。大阪ができれば東京でもできるのです。
 (図90)
 道頓堀のリバーサイドウォークです。このように人が集まります。この大阪の行動力の原点は天神祭りだとおもいます。川を使ったお祭りがしっかり残っています。関東、東京周辺にはないのです。本来神様は水を渡ってくるものです。
 (図91)
 京都に行くと御船祭りです。やはり歴史を感じさせます。これらの祭りに日本全国から人が集まるわけです。祭りというものが途絶えたとは言いませんが、水上の祭りが東京周辺にはない。これがまた、水を遠ざけてきた大きい理由のひとつではないか。舟を使った祭りを町おこしで再興したらどうかと思っています。
 (図92)
 名古屋の堀川も汚い川でした。万博プロジェクトがあったせいでしょうか、大変きれいになって、リバーウォークができるようになりました。夜になると、隅田川でも見られる屋形船が灯をともして、賑わいが生まれるようになりました。川のスケールがいいですね。隅田川は大きすぎるようです。
 (図93)
 新潟のウォーターシャトルです。これも一JC(青年会議所)の活動からできた船会社の経営です。建設資材を営むJCの会長が、市民に声をかけて1口5万円で株を募ります。2億円近い資金を集めました。そして、素敵な船を造ります。最初は、なかなか航行が許されないで、苦労に苦労を重ねます。漁協も大きいバリアになりました。それでも、根気よく折衝を重ね、現在新潟では、大変人を集めるまちの装置の1つとして活躍をし始めています。あの大河、信濃川にもプレジャーボートの係留施設が整然と整備されるようになりました。
 (図94)
 東京です。神田川には、こんなにすばらしい大正時代の建造物が万世橋に残っています。神田川の港として活かして使いたいところです。この裏が交通博物館です。交通博物館は、この3月には閉館し、大宮に移転するそうですが、秋葉原にあってこそ交通博物館にはいつも子どもたちが来ていました。しかも、至近にITタウンが完成します。そのITタウンを生かし、交通博物館も生まれ変わるのではないかと、大先生の内田祥哉先生と話をして、夢を語り合いました。残念な話です。
 (図95)
 先ほど申しました都市再生本部に神田川を生かして都市の再生を図ろうというプロジェクトをリバーフロント整備センターが提案しました。道頓堀川は採用されましたが、神田川は外されました。その時の絵を借りてきております。万世橋付近、水道橋付近、亀島川と亀島川閘門、隅田川との接点のイメージです。どこも観光都市東京の新名所になるポテンシャルをもっていると思います。
 (図96)
 テラスの使い方で人が集まるような仕組みをつくれば、ブルーテントは逃げていくのです。係留させないで逗留させるからいけないのです。(笑)そのことで文句を言うと、どういう答えが返ってくるか。「先生、大変なのです。内部では戦争をやっているのです」。「役人同士の戦争を都民に振るな」と、私は返します。内なる戦争の結果、逗留できて係留できないという,おかしな現象が生まれるわけです。
 (図97)
 最後に小名木川。徳川家康の造ったすばらしい小名木川です。クローバー橋という交差点4点を結んだX橋がかかっています。
 (図98)
 これは東方向、つまり荒川方向を見たところです。若干川幅は狭くなっています。ここに前に述べた江東水上バスの艇庫があります。一部遊歩道が造られています。
 (図99)
 これは西、つまり隅田川方向を見たところです。東に比べ幅が広い。両岸は、マンションの連続です。
 南方向を見ます。横十軒堀を、子どもたちの遊び場のために埋め立てて、水遊びのできる水深10センチぐらいの公園を造ってしまいました。おかげで,その向こうの掘割と船の行き交いができなくなってしまいました。こういう使い方が,大人の考えた使い方なのです。先ほど,アムステルダムの足で漕ぐボートに大人が4人乗っている写真があったと思います。河口湖や山中湖に行くとあのボートに長い首が生えます。白鳥のお舟になるのです。(笑)要するに、大人はそういう発想しか持っていないのです。私は根本的に間違いだと思っています。子供には本物を教えるべきです。
 子供の遊び場の先では、地域の人たちが和船を楽しみ、櫓の扱い教える練習場として利用するゾーンが残っています。
 (図100)
 北方向です。錦糸町方向を見ます。ここにボートが写っていますが、青少年の育成目的で、墨田区の教育委員会が所有しているボートです。艇庫も備えています。ここには遊歩道、自転車道も設けられ、なかなか良いところです。この先に,墨東病院という大きい病院があります。災害時に拠点になる病院でしょう。ところが、そこに船着き場はありません。
 (図101)
 これはパナマ運河の建設に参加し、大河津分水を開削した青山士が大正時代に造った荒川と小名木川を結ぶ閘門の1つです。閘門というのは2つの水門があります。水位差調整のための水門です。その隅田川寄りの構造物が遺構として残っています。もう一方は、荒川改修の時に壊されました。二つの水門の間には深い閘室があるわけです。片割れとはなりましたが、青山家の遺族が見たら、氏の顕彰碑と見るに違いありません。
 (図102)
 最後がこの10月1日に開通する荒川のロックゲートです。防災用に造られました。荒川から江東デルタ地帯に船を入れる。防災のために、あるいは震災後の復興に船を入れるために造られたものであって、皆様のお手元の中に、10月1日に「荒川に新しい防災ネットワーク」というチラシがあると思いますが、私どもの会でも、当日午後シンポジウムを開くことにしております。私のような漫談を語るのではなくて、高橋裕先生、竹村公太郎先生、に基調講演をしていただいた後シンポジウムをやります。ぜひお時間のある方はお越しいただきたいと思います。
 それでは今後、どうしたらいいのでしょうか。前回の講師の尾田榮章さんも、川を身近なものにして、川で何かしよう、では誰がやるのかと言ったら地域住民、NPO、あるいは、そのことに興味のある人だというお話でありました。
 現在、私は運河、河岸の再生を目指して協議会を立ち上げようと思っています。協議会というと必ず行政が入ります。すると形骸化した協議会になりやすいのです。そこで、私どもは、まず商工会とか地元のボートオーナー、カヌークラブ、屋形船・遊漁船組合、川と海と船の好きな市民が自主的に集まっていただき、自主的なルールづくりから、活動内容まで自由闊達に議論する。もし帰宅難民が出た時に、どこの船がどっち方向へ、どこから出るか、ということまで、200艘を保有する屋形船・遊漁船の組合と一緒に話し合います。マイボートも軽傷者や緊急物資の輸送などに活躍できるに違いありません。平常時の航行ルールから、緊急時の集合場所に至るまで自主的に決めて、でき上がったものを行政に持ち込んで協議に入る。そういう形で、進められるよう現在準備のお手伝いをしています。
 若い人たちも集まってきてくれました。私は先ほど言いましたように、もう古希で引退を迎えますが、若い人が出てきてくれたおかげで、こうした活動も前へ進んでいくのではないかと期待しています。
 若干時間オーバーとなりました。以上で講演を終わらせていただきます。ご清聴ありがとうございました。(拍手)



フリーディスカッション

與謝野
 大変ありがとうございました。
 熱っぽく、水辺の再生に向けての胸のすくようなお話をしていただきました。そのお話も決してできないという論理のお話ではなくて、できる例もいろいろお示しいただきまして、夢がかなうような認識と知恵を私どもにも示していただき、元気を与えていただいたんではないかなと、厚くお礼申し上げます。ありがとうございました。
 それでは、残り時間が余りございませんが、せっかくの機会でございますので、三浦先生に、ぜひこの場をおかりして詳しくお話をいただけないかということで2〜3ご質問を受けたいと思います。お申し出ください。
角家(コンピュータ パソコン IT講師)
 質問させていただきます。間組OBの角家正雄と言いますが、今日は非常にありがとうございました。貴重なお話を感謝申し上げます。
 私も10年前に日本橋、神田川地区の皆さんが集まりまして、日本橋の三越デパートや商店街の方々と一緒に、2年にわたって2回ぐらいお祭りをやったんです。その後それが余り活発になっておりません。時々マスコミでは、お江戸日本橋の上に高速道路が走っていて、あれが邪魔になるよとか、今の日本橋川の下を首都高が走っていますが、その下を大深度、45メートル以深でトンネルを走らせて、上の現在の首都高を撤去して、江戸時代まで非常に賑やかだった舟運を回復しよう、という話が時々あるんですが、それも途絶えております。
 それから神田川、日本橋川に10分おきに船を走らせるとバスよりも定刻に着くと思いますので、そういう運動も確かにやったんですが、それもそのまま途絶えているのではないかと思います。今先生が、みんなの力を集めて舟運を回復する一石を投げられたことは非常にいいことだと思います。
 私も10年前に参加した者として、できれば参加させていただきたいと思っております。舟運をより盛んにするにはどうしたらいいか。お話の中にいろいろありましたが、まとめてもう一度よろしく解説をお願いしたいと思っております。
三浦
 物流だとか、エネルギーが小さくて済む、CO2の発生量が小さいというと、建前論なのです。どうしても行政との話の中ではそういう理屈が前面に出てこないとだめなのです。「なぜ今どき舟運」か、ということについて、本音を言わせていただきますと、水の上を使って遊ぼう、学ぼうということです。舟遊びが復活してくれば、自動的に舟運につながっていくだろうと私は考えています。
 日本人は遊ぶというと、何か罪悪感を感じるのです。現に私はボートを持っています。「何かおまえ悪いことをやったんだろう」と言われるのです。(笑)私だけかと思ったら、中央大学に山田先生という河川工学の教授がおられます。この方は私より立派なヨットをお持ちです。その先生も「おまえ、公金横領したな」と言われるのだそうです。(笑)つまり、舟を持っている、舟で遊ぶというのはけしからぬ、悪いことをやっているに違いないと皆さんが思うのです。そうではありません。
 私は、免許証なしで乗れるボートを考えております。船長3メートル以下、2馬力以内なら、免許証なしで乗れるのです。足で踏むボートでも、自転車のアシスト装置をつければいい。推進機も水車型ではなく、スクリュー型にすれば、エンジン付でなくとも、効率よく走るのではないかと思っています。遊びのためにもう一度水面に出てみよう。これが舟運復活への、あるいはもっと先読みしますと、江戸、日本橋の上の首都高を取り去る最初のアクションではないかなと思っています。
 先ほどの写真にもありましたように、日本橋川でカヌーを漕ごう、と呼びかけると子どもたちを始め、大阪、名古屋からも参加してくれます。カヌー45艇で、日本橋川、神田川を一周したわけです。カヌーを漕ぎ始めますと、日本橋の横に交番がございますね。あの交番からすぐおまわりさんが飛び出してきて、「君ら、当局から許可を取ったか」というお尋ねになります。おもしろい国だと私は思います。ある偉い人は、「三浦さん、本当にやりたいならば、1時間500円と先生のボートに看板をつけて神田川を走れ」というのです。「だれが最初に取り締まりに来るか、私に教えろ」というのです。(笑)ご一緒にどこがおかしいか考えてください。お願いいたします。(拍手)
與謝野
 遊びから入るという大変示唆深いお話でございました。
吉田(NPO都市環境研究会)
 本日はありがとうございました。
 江戸時代の「江戸」という言葉の由来から始まって、大変おもしろく思いましたし、今のお話の延長になるんですが、今の道路から自分たちの住まいをどう見ようかというとなかなか見えないんですけれども、川面からゆっくりたたずんでもう一回自分たちを見るということは、非常にすばらしいことだと思うんです。
 江戸という話から始まっていたのは非常によろしいんですけれども、ウォーターフロントを造っていこうという時に、日本のたくさんのフロントの構想はあるんですけれども、江戸のマインドを入れた川面を使った都市づくり、景観をしていただきたい。
 例えば、粋を言うわけじゃないんですけれども、川柳は川に柳で物すごく合うんですね。何が言いたいかと申しますと、川面に面した景観は粋じゃなきゃいけないんですね。それは江戸時代の精神のもとになります。先生が最後の結論のところに、環境に優しいということを言われました。私は、今環境問題の研究をしながら精神構造を何に求めるかという時に、もったいないとか、足るを知るとかいうと、何か、ちょっと言葉が辛気臭くなるような気がするのが、粋でいこうと考えています。粋というのは精神の高揚を徹底的に高めたもので、物的になっていかないんですね。要するに、物的な油臭さとか、ギタギタしたということは一切払って、精神の高揚を高めるのが粋だと思うんです。
 ウォーターフロントの今日のお話に出てきた竹村公太郎さんなんかの本は、そういうことを盛んに言っておられます。ぜひ江戸の粋を入れて、川面から見て川柳や小唄の粋がわかるようなそういう街づくりにしていただければ、日本は、先生が先ほどお示していただいた世界中のウォーターフロントの中の、江戸ということでナンバーワンにならなくても、世界のオンリーワンになるようなウォーターフロントができるような気がするんです。
 そういう意味で、今日のお話は非常に嬉かったんです。オンリーワンとしての江戸の川面を生かした都市づくりになれば、東京の21世紀を見据えたすばらしいものになると思うので、僣越ですけれども、その精神のところについて述べさせていただきました。ありがとうございました。
三浦
 運河ルネッサンスを東京都港湾局が始めました。大変いいと私は評価しましたが、天王洲、芝浦、あちらの方はどっちかというと、粋よりもモダンなのですね。私、小名木川ということを盛んに言いましたが、マンションばっかりでしたけれども、江東区、江戸川区ですね。下町です。深川です。木場です。となると、今吉田先生のおっしゃった粋が似合うところです。ところが、残念ながら難しいのです。粋と言うと、屋形船が軒先きに提燈ぶら下げて「粋」を演出するのです。そこでとまってはだめなのです。本当の「粋」とは何か、一歩突っ込んだ解釈あるいは真剣に勉強をしませんと、本物の粋につながらない。本物の粋でないと、外国人が来ても今の屋形船では乗ってくれないと私は思っているのです。国際観光立国日本と言って、何を見せるかとなれば、今言った「粋」というものを現代流に解釈して、いかに江戸時代の文化を受け継いでいるか、それが東京の水路の中にどう具現化されているか、というところまでしっかり研究しなければいけないと感じております。
どうもありがとうございました。
與謝野
 三浦先生そして会場の皆様、大変にありがとうございました。
 本日は、都市の水環境について考える3回連続企画のフォーラムの2回目として、水辺環境の再生についての幅広い知識とその実現へ向けての道筋を大変熱っぽく、わかりやすくお話をしていただきました。是非、今後の東京あるいは我が国の街の再生のために日々ご活動されておられます皆様のお仕事の中にも活かしていただければ幸いでございます。
 それでは、本日、大変にお忙しい中を貴重なお話をいただきました三浦先生に、最後に大きな拍手でお礼の気持ちを表わして頂きたいと存じます。(拍手)
ありがとうございました。





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