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第214回都市経営フォーラム

『ユニークな星─地球』

講師:新宮 晋 氏  造形作家
                                

日付:2005年10月6日(木)
場所:日中友好会館

 

 

 

 

 

與謝野
 それでは第214回目の都市経営フォーラムを開催させていただきたいと思います。 本日は、いつもとは少し視点を変えまして、風あるいは水といった、自然のエネルギーで動く彫刻を制作されて、世界各地で発表され、制作活動と出版活動等に意欲的に取り組まれておられます、造形作家の新宮晋さんにお話をお伺いすることと致しました。
 新宮さんは、長年にわたりまして、自然、都市、地球、宇宙と人々との接し方あるいは共存の仕方等について、芸術家としての役割を念頭におかれて日ごろから思索を深めておられその思索を作品として凝縮されて、いろいろなかたちで作品活動を展開されて来られた方でございます。その作品を生み出すプロセスの中に、私たちが取り組んでいる都市・まちづくりあるいは環境と人との接し方、共存の仕方等について、芸術家特有の醒めた視点で、示唆深い貴重なお話をお聞きできるのではないかと考えまして、本日の講演とさせていただいたわけでございます。
 新宮さんにおかれましては、大変にお忙しい中を本日のご講演をご快諾いただきまして、ありがとうございました。厚く御礼申し上げます。
 新宮さんのプロフィールと作品経歴等につきましてはお手元の資料のとおりでございます。中でも世界各地で現地の方々との交流を図る「ウインドキャラバン」は新宮さんご自身におかれても、その後の作家活動に重要な転機となったともお聞きしております。また、みずみずしい感性あふれる絵本なども発行出版されておられまして、幅広い創作活動を展開してこられ、2002年には紫綬褒章、2003年には現代日本彫刻展大賞を受賞しておられます。まさに当代を代表する国際的な造形作家でいらっしゃいます。
 前置きはこれくらいに致しまして、早速に新宮さんのご講演に入りたいと思います。それではよろしくお願いいたします。
   
新宮
 
ただいま紹介にあずかりました新宮でございます。どうかよろしくお願いいたします。(拍手)
 今、與謝野さんからのご紹介に、クールな視点で云々というお話がありましたが、彫刻家の視点と建築家の視点は、お親しくしていながら随分違うんだな、ということはいろいろ感じていました。だからこそ、私のような少数派と言いますか、夢のようなことを考えている人間も、何とか生きていられるという大変ありがたい話です。私は建築家にならなくてよかったなと思うことがよくあり、建築家の友人も近くに多くいながら、そうした友人たちと、自分がずれていることをはっきりと意識しながら生きております。
 思い出せば、私は20代の大半をイタリアのローマの美術学校で過ごしました。1960年ですから、いかに大昔かということですけれども、船で留学した最後じゃないかと思います。そういうことで、6年間のうち2年間をローマ国立美術学校の絵画科に学びました。もともと絵描きなものですから、イタリアの中世とか初期ルネッサンスあたりの絵画にひどく引かれるものがあって、どうしてもイタリア留学したかったのですが、今の海外と日本との関係とは全く違う1960年の初めですから、日本人も少ない状況でした。
 話が最初から外れますが、この頃ローマの町で日本人の2人の紳士にバッタリ会って、道に迷っておられたので、ご案内したことがあります。そのお2人というのが、林昌二さんと薬袋公明さんだったんです。薬袋さんははっきり覚えておられまして、「あの時会ったのは確かに君だ」と言うし、僕も、確かに迷える頼りない日本人をご案内した記憶があります。ローマで日本人に会ったら声をかけたくなるぐらい、日本人が珍しい時代でした。
 それはさておいて、イタリアでは、憧れていた実物絵画の素晴らしさに圧倒されてしまいました。それこそ、ピエロ・デラ・フランチェスカを求めて田舎の村まで出かけて行っては、眺めては感動していました。お百姓のおばさんが鍵を開けて見せてくれるようなところもありました。そういう感じで見て参りまして、心底感動してしまったものですから、絵が描けなくなっちゃったんですね。現代画家への道が完全に閉ざされたというか、もう400年も500年も前に、こんなに完成しているものをどうしようかという感じになりました。
 平面の絵画というのが性に合わなかったのでしょうか。簡単に言えば、絵画にする才能がなかったんだろうと思いますが、面白い形が出てきても、四角い平面のフレームのついた中に閉ざしてしまうと、つまらなくなるというので、これを切り取ることを考えました。鉄骨でそういうフレームを作って、変形キャンバスのようなものを作り始めました。
 その作品が非常にボリュームのある大きなものになってきて、初めは壁かけみたいなつもりで作っていたんですが、壁から離れて、完全な立体になりました。何か竹で編んだものを和紙で張った細工物みたいな、張りぼてみたいなものですが、ボリュームが出てくると、外に持っていって、写真を撮ろうと木に吊るしても、少しも止まってくれないんですね。写真を撮ろうと思っているのに風で動いてしまう。そのうち、これはむしろ動かした方がおもしろいんじゃないかなということで、軸とか回転部ということを考え始めたんです。もちろん東京芸大、ローマ美術学校ではそういうことを教えてくれませんものですから、小さい時、模型電車を作っていた頃の技術につながっていきました。
 しかし、本物の彫刻家になることは諦めたんです。イタリア人は皆、体力がありますから、すごい筋肉で、大理石の大きな塊に向かってトンカントンカンとやるような仕事は、とても真似できそうもない。その時思いましたのは、自分が本質的にすごく日本人じゃないかなということです。日本人というのはイタリア人なんかと違って、季節とか自然に対してずっとセンシィティブなものがあるんじゃないか。日本にいた時は、そんなことは思いもしなかったくせに、イタリアに来たら突然日本人になりまして、日本に、池大雅の書の本を送って欲しいとか、京都の庭の写真集が欲しいとか、この子はどうしたんだろうと心配をかけるようなことをしていました。日本からの資料を取り寄せて、俄かづくりで突然愛国者になったというか、イタリアにいたら、日本に対する興味が出てまいりました。
 そして、6年後、縁あって、大阪造船所というところの社長さんがローマに観光に来られました。日本のレストランに「通訳、ガイドもやります」みたいなことが書いてあったので、余興みたいなつもりで、午後の案内を、レストランで頼まれた。ところが、たまたま、そのレストランの契約アルバイターの日本人たちが皆出払っていたので、僕が絵を描いているところに電話がかかってきました。「手伝ってくれ」ということで、10ドルでしたか、ありがたいものがいただけるということで、ノコノコ出かけて行って、ご案内を差し上げたんです。
 そこで、大変気に入られまして、特に絵画、美術に関心の深い方で、「あなたは、こういうことを本業でやっているわけじゃないでしょう。専門は美術ですか。何をやっているんですか」と突っ込まれまして、家まで作品を見にこられました。設計課長の方と一緒に来られたんですが、ちょうどその頃、そういうややっこしい立体を作り始めているころで、大変興味を持たれて、「こういうことを本気でやられるなら、今はチャンスかもしれない。ちょうど日本で万博というのが行われる」とおっしゃったんです。
 僕は万博のことも何も知らないんですね。大体、新幹線ができたということをイタリア人の友達に聞いて、「うそだ」と言ったぐらいわかってなかった。東京−大阪3時間なんぼで行くと聞いて、「そんな馬鹿なことはない。あれはやっぱり夜行で行く所だ」と私は思っておりましたから、そのぐらい感覚がずれていたんですが、ともかく日本で万博がある。どうも日本のアーティストに、屋外造形を専門でやっているアーティストがいないらしい。ただ、大きな彫刻を作り過ぎたから外に並んでいるとか、二宮金次郎さんがいるとか、そういう話が出ました。
 「チャンスだから、帰っていらっしゃい」と言われたのが、ちょうどイタリア滞在6年目。訳のわからないものを作り始めていたので、そういうきっかけがあったら帰ってもいいかな、と思ったんです。イタリアがいい、いいと思って、日本を離れてイタリアに来ましたが、ボツボツ帰るタイミングかなという感じもしまして、戻って参りました。
 そして、帰ってきて、それまでは手づくりで、曲げては自分で溶接し、糸で縫いつけていってはバチンと溶接部が外れて、また縫い直すということをやりながら作っていた造形物が、造船所のおかげで、私の中では本当に産業革命とでも言うか、突然造船所の技術者の援助とかアドバイスで、構造計算だ何だということになりまして、本当に屋外で作品をしっかり保つためには、思いつきだけでは事は済まないということが痛いほどわかりました。
 特に、「展覧会に出した作品を買いたい」という人が現れる時は慌てました。こんなもの、買ってもらったら後々大変だと思いまして、買わないで欲しいと思ったぐらいです。展覧会期中もったら、というぐらいの作品で、その頃結構実験的に皆も作っていましたから、そういうことでやり出したんです。それが、いつしか現代美術の単なる実験では済まなくなって、この頃になってやっとわかってきたぐらい、時間のかかることでもあったんですね。最初は怖いもの知らずでやっていけると思っていたのです。
 そして、日本へ帰ってきて最初に思ったのは、日本の風景がすごくきれいということでした。新幹線も、あの頃は今ほど防音壁に囲まれた新幹線ではなかったので、窓から外を見ながら列車に乗れた時代でした。広がる農村風景の中に農家が建っている佇まいなんてきれいだな、やはり日本人の感覚というのは素晴らしいなと思いました。それが万博の頃ですから、それから35年経ち、今、車窓から見たら、愕然とするような風景に変わっています。日本という国は、何でこんなに大急ぎで変わったのか。それは、日本のどこに原因があるのかと思います。例えは悪いですけれども、まるで蛇が脱皮するように、形をどんどん変えていく国のような感じがします。
 この頃ヨーロッパに戻って、イタリアなども訪ねてみると、40年近く前とあんまり変わってない。歩みが速くて、急いで置き去りにした貴重なものたちのことを思うと、歩みの遅い国は、ある意味で羨ましいなあという気がします。
 私は日本に帰ってきた時に、時差のように日本のスピードに合わなくなった自分を感じましたけれども、四十何年日本にいながら、ずっとその差は縮まらずじまいでいます。そういう環境の中で、今少し映像で私のアトリエも紹介されますので、ずれっぷりを見ていただこうかなと思います。どうかよろしくお願いいたします。



(ビデオ映像)
 私は、今朝出てきたんですけれども、兵庫県の三田市です。三田も大阪、神戸のベッドタウンとしてのニュータウンもありますけれども、私のいる所は自宅もアトリエも昔の田舎の風景を残している希少な所です。
 これが毎日通っている通勤の道です。通勤というと、皆さんが連想される通勤ではないんです。ご覧の通り交通ラッシュに遭うことなく、自宅からアトリエまで行ける。そして、季節ごとに田園風景が変わります。それを毎日のように見ながら、お百姓さんともお話をし、そして、時にはお百姓さんから新鮮な作物をいただいたりしながら暮らしています。三田に身を寄せることを決めた時に、食っていけなくなっても、これだけ田畑があれば何とか食っていけるんじゃないか、という勝手な錯覚がありまして、こういう所におります。村の人も本当に親切で、実体のわかりにくいアーティストを温かく見守って下さっているという感じで、いさせてもらっています。
 ここには、作品が若干屋外に展示されています。ウインドサーカスという1988年〜1989年、世界を巡回した展覧会の時の作品などが展示されています。
 ここには、実際に実現したもの、あるいはテストとして作った模型、実際の作品としてできたものの50分の1とか20分の1とかのスケールですけれども、そうした模型があります。実際の作品はクライアントの手に渡るので、記録としてせめて模型ぐらいというので、コレクションをしている次第です。
 (図1)
 これは、アトリエの裏にあります農業用の用水なんですけれども、その池に、この作品は10年近く浮かんでおります。
 (図2)
 これは、三田市の水道局から依頼されて、上水道完備の記念モニュメントを考えてくれということで、水の持つエネルギー、透明さ、すがすがしさと言ったものを1つの作品にしようと提案して作ったものです。
 「水の木」という題名がついています。1本の木で、幹になる主軸を通して、水が吸い込まれ、そして各末端から吹き出ることで、空気の反動で動いています。
 (図3)
 これは、大阪の関西空港国際線の出発ロビーにある作品です。イタリアの建築家レンゾ・ピアノが空港の設計をコンペでとりまして、最初に私のところへ連絡してこられたきっかけになった作品です。ピアノ曰く「自分たちは空調の風を非常に美しく流れるように造形した。残念なことに、人はそれを見ることができない。それを視覚化して欲しい」ということで、作品の提案がなされました。
 (図4)
 これは広島の瀬戸田、生口島の瀬戸内海の海の中の岩場の上に立った作品です。満潮時には、岩が波に完全に隠れます。そして、水が引いた時には、岸から歩いていけるぐらいの距離に立っています。
 これは、作品はどうでもよかったというか、島中どこに作ってもいいから探して作ってくれと言われて、探し回ったあげく、もう場所がないので困っていたところに、水の中にこの岩を発見して、あそこに何か立てたいということから始まりました。それこそ海上保安庁だとか、いろんなところの許可を得るのが大変だったようですけれども、作品を作ることができました。
 (図5)
 これはまた、全く正反対の環境で、大阪市からの依頼で作りました。御堂筋と長堀通りの交差点です。こういう人工的なアーバンの環境の中にも風は存在しますし、引力、感性その他の地球の自然のエレメントのすべてがあるわけですので、そういうことを証明しようとして作った作品です。ただし、人はみんな忙しくて、あの作品のテンポには合わないようでどんどん行ってしまいます。(笑)
 (図6)
 これはジェノバです。1992年に、コロンブスがアメリカを発見した500年記念ということで作りました。コロンブスを、ジェノバの人は勝手にジェノベーゼだと信じていまして、本当かどうかわからないぐらいの話なんですが、それを記念した博覧会の会場のために作られたモニュメント。コロンブスの帆船のイメージも含めて表現しろ、ということで提案させていただきました。これが9本、19メートルほどのものが立っています。その後、現在もパーマネントにモニュメントとして残っております。
 (図7)
 これは、ミラノの南にありますローディという町の、イタリア人民銀行の中庭に立っている水の作品です。
 水はもちろんポンプによって送られるんですが、そのコンスタントな水のエネルギーを、いかに気まぐれな運動に変えるかということで、私は水の作品を作っています。
 (図8)
 これは一昨年、現代日本彫刻展に出品した作品です。全ては水の中でつながれているところがみそです。風が通り抜けるのを何とか見据えようと、風が回転扉を押して通り抜けて向こうへ抜けたがっているのが、見えるような作品を作ってみたいと思って作りました。
 (図9)
 これは、ミラノの新聞社に、去年できた作品です。3階吹き抜けのロビーの中心に吊られた作品で、直径10メートルほどの空間を、空調の風をとらえてゆっくりと動いています。本当に軽い、全体が10キロか15キロか、それも、ほとんどメインのつり棒の重量で、末端は軽い軽いカーボン素材などでできています。
 (図10)
 これも、今年5月にできたばかりの、南イタリアのバカンス村に作られた作品です。この作品のクライアントは、ジェノバの私の作品が大好きで、ジェノバ港の全体計画をやったレンゾ・ピアノのオフィスの仕事だと思って、ピアノのところに電話をかけたのですが、あの作品は日本人だと聞いて、ほとんど諦めておられました。ところが、たまたま友人が日本に行くというので、依頼されてその友人のイタリア人が三田までやって来て、この話をともかくまとめてくれた。これは「海のシンフォニー」という作品です。
 (図11)
 この作品は非常に気に入られたんですが、そのクライアントというのが84歳の方で、どうしてもジェノバの作品のイメージが欲しいんですね。あの作品もいいけれども、1人ではかわいそうだから、妹を作ってやって欲しいということで、2作目の提案をさせられました。これを2つ同時に、リゾート村のレストランから眺めることのできる所に、プールを挟んで地中海に向かって設置しました。この作品たちができた途端、3作目を頼むと言われています。何しろ、お年寄りでせっかちな方で、すぐにでも作って欲しいというので、今、何とか叶えたいと思っているところです。
 (図12)
 これも、今年できた作品です。韓国のソウルから車で南に2時間ほどいったアサンという所にある、プライベートな自然公園の中の作品です。まだ公園自体はでき上がっていませんが、その方たちご家族は、1988年のソウルオリンピック記念の彫刻公園に僕が作った、水に浮かぶ作品「羽ばたき」が気に入っておられて、頼んでこられました。
 この作品と、もう1つ水に浮かぶ作品を頼まれたので作っております。水に浮かぶ作品は、今のところまだ池が掘れてないので展示されていません。この作品が設置されて、非常に遠くからキラキラと光りますものですから、オープンもしていないのに来園者が多いといって困っておられます。
 (図13)
 これは、本当に2週間ほど前にできた作品です。映像でお見せするのも本邦初公開です。フランスのボルドーのシャトーダルザックという、マルゴーのおいしいブドウ酒を作るブドウ園の持ち主が、年に1作ずつ現代美術を購入しておられて、フランスの雑誌でご覧になった私の作品を気に入られ、三田まで見に来られて決められました。
 (ビデオ映像了)
 そんなことで、4〜5日前に先程の作品を組み立てて、写真を撮って、作品集が出るので、最後のページを飾るためそれを出版社に届けて、帰ってきたところです。
 これが私の普段しているメインの仕事の近況という感じでお話ししています。例えば、ブドウ園のご主人は、来年、僕にもっと大きな作品を作って欲しいということで、今、15メートルぐらいの作品を頼まれて現地で作ることを進めています。
 私は作品を通して、地球の素晴らしさ、自然の持つ豊かさ、水、空気という私たちの生命の根源でもあるエレメントの素晴らしさを表現しようとして作品を作ってきているのですが、展覧会場に並べると、ともすれば他の作家の作品と、単純に形態とか何とかだけで比べられてしまう。まな板の上の並べ方が、下手をするとややこしくなるということもあって、美術展などの発表は避けています。それなら、もっと適切な私らしい表現方法がないかということで、長年、絵本の制作もしております。そんなわけで、どんな絵本をやっているか、お見せすることにします。



(図14)
 これは一番最初にできた絵本です。「いちご」、本当に一口でパクリとみんな食べてしまうイチゴが、どんなに大きな自然によって育まれてきたものかという、イチゴの偉大さを描いた本です。
 これは「くも」。クモというのは、これこそ大建築家だと私は思うんです。設計図にもなしに、空間にみごとな円網を作ることができるこの虫について、興味を持ちました。私が興味を持つのは、大抵私が勉強不足で無知だからなんですが、びっくりしたことをできるだけ素直に伝えたいというので絵本を描いています。
 最近になって、ジンベエザメは水族館で飼われたりするようになっていますけれども、初めてジンベエザメのことを知った時、魚で一番大きなもの、これはすごいなと思って、みんなも多分すごいと思うんじゃないか。このジンベエザメを是非紹介したくて絵本を書きました。
 表現の1つとして絵本、それから文章も書きますけれども、あの手この手を使ってという意味では、これはもう5〜6年前になりますが、「星のあやとり」という舞台を、さいたま芸術劇場でやりました。これは先程の「水の木」を作った時に、オープニングセレモニーとして野外スペクタクルを一度制作したんです。それをテレビで見られた、さいたま芸術劇場の当時の館長だった諸井誠先生がやってくれということで、初めて劇場で、完全な衣装からストーリーからすべてをやった舞台なんです。それをNHKで放送して下さいました。
 冒頭にあるのは水の星です。見ている観客がすべて宇宙船に乗って、次々に星をめぐるということで「星のあやとり」というタイトルがついています。水の星、風の星、光の星、回転運動をする星、これは青い鳥の話ではありませんが、すべて地球のことです。それを視点を変えて、順番にそれぞれの星を訪れていく旅の体験をお客さんにしてもらおうということで、こういう舞台を考えました。
 舞台としては、いわゆる台詞が全くなく、既成の音楽を使うこともやめ、音の芸術というものができるんじゃないかとか、かなり抽象的にやろうとしたんですが、部分的には、幻想的な中にも具体的なイメージは入れて構成しました。
 これは、光の3原色を重ねることで白い色ができる、子どもの時の理科の実験みたいなことを映像でやろうとしました。初め、トランポリンをやる人の心臓の鼓動をリズムにしようとしたんですが、それは技術的に無理だと言われまして、人工音で鼓動を作りました。
 (図15)
 これは、長さが約7メートルほどあるマリオネットなんです。舞台の大きさから模型を作って、造形物を次々作っていったんですが、これは、5人の若い人が糸を引っ張ることで動かしています。
 これは、雨の日の翌日、折りたたみ傘が道でつぶれていたのを見て、あれを何とか生き返らせる方法はないかな、と考えた時に思いついたことなんです。
 これは、6人の人たちが引っ張って回す巨大ゴマなんですが、約4分間ぐらい回り続けます。いわゆる鳴りゴマで、3つのコマを順番に回していくことで、回転数によってさまざまな音のハーモニーが生まれます。そして、コマに描いてあるパターンが、回転のスピードによって変化します。こういうビジュアルなことと、音の変化を何とか1つの舞台にまとめようとしたんです。
 (図16)
 これは、先ほども申しましたように、既成の音楽はやらないけれども、いろんな音を出すものを作ってみようということで、非常に短期間にいろんな楽器を考えました。建築事務所からいただいた図面の入っていた筒が楽器に化けたり、手当たり次第、何かに生かそうということでイメージを作りました。
 この舞台は、幕間もなくどんどん進行するものですから、見ておられる方は、どこで拍手していいのやら、全然わからないまま最後まで来ます。これが、観客席の一番後ろの天井の上に隠してあった直径3メートルほどの宇宙船なんですが、これをラジオコントロールで、観客席の上を飛ばして、舞台の奥に消えていくというラストシーンで、皆さんは初めてシルエットで間に出てくる宇宙船がこれだったんだな、我々はこれに乗っていたんだな、というのがおわかりになったらしいです。こうして無事地球にランディングして、宇宙船は帰ってきた。
 (ビデオ映像了)

 こんなことをやらせて下さる人がおられる、というのもありがたいことです。それをチャンスに思い切り好き勝手、羽を広げて遊ばせていただきました。観ていただいた方たちには大変好評だったんですが、残念なことに、報道関係とかで、前宣伝で手伝ってやろうと思って下さる方たちには、ぎりぎりまで私が作っていますものですから、説明するひまがないんです。「それはダンスですか」「全然違います」。「お芝居もあるんですか」「それはありません」。「ミュージカルですか」「いえ、違います」。「じゃ、何ですか」と言われたら、「見に来てください」と言うしか仕方がない。後で「あんなんだったら、行きたかった」という人はいるんですけれども、「もう終わっちゃった」という感じで、実験的なことで、次の予算もとれないままに流れております。
 頭の中では、今度こそ頼まれればいいのができるという自信はあるんですが、これもまた、パッと頭を開いてお見せするというわけにいかないものですから、大変実現しにくいものをやっております。これこそ、人にいうまでもなく実現しちゃおうと思ったのが、ウインドキャラバンというプロジェクトです。
 これは、一番私のやりたかったこと。特に誰にも頼まれないで、これこそ、自分はアーティストとしてやらなければならない、ということで始めたプロジェクトです。

 (ビデオ映像)
 映像が始まったものですから、見ていただいてからまたご説明いたします。
 これは、長さ6メートルの1本のコンテナの中に風車小屋1つと、21点の高さ約5メートルの彫刻というか、風で動くもの、これは2種類ありますけれども、それを詰めて、私たち夫婦が地球上を探し回って見つけた6カ所を巡回した旅の記録です。
 例えば、これはモロッコです。私たちのアトリエのある三田の水田。これはモンゴルの草原です。2000年の6月から2001年の末まで、約1年半をかけて6カ所を巡回したときの記録です。
 (図17)
 三田では、オープニングセレモニーに狂言をやっていただきました。この狂言というのも、いわゆる農業に関連した演芸として生まれたものがスタートということで、あぜ道で、このウインドキャラバンに共鳴した大倉源次郎さん、茂山千三郎さんだとか一流のメンバーでやって下さいました。
 そして、ここでは近所の子供たちに、今では農家の人も入ったことのないどろ沼の水田に、お米を植えてもらいました。
 先程もお見せしましたアトリエが、この左側の画面の切れたところにあるわけですが、そこにオープニングに800人ぐらいの人が来て下さっただけでも、我々の全然予想もしなかったことでした。
 (図18)
 これはニュージーランドのオークランドの沖12キロほどの所にあるモトゥコレアという無人島です。ここへ、地元のマオリの小学校の子供たちが、セールに絵を描いてくれたんです。こうして実現したセールが島までパレードするというのが、オープニングセレモニーです。無人島でマオリ族の聖地になっているところですが、セレモニーの日には、約350人の人たちが、それぞれの船でやってきてくれました。
 このオープニングの日が一番穏やかで、この後、またすごい強風が吹き荒れて、わずか12キロという距離が、白波が立ってしまうと、人も渡ってこれない孤島になりまして、会期中には非常に辛い時がありました。
 ここでは、巻き寿司を300本用意して、オープニングセレモニーに来た人たちに振る舞いました。初めて食べる人も多かったと思います。このお米というのが三田のオープニングの時に植えたもので、それを地元の同じ子供たちが9月に収穫してくれて、それを精米してニュージーランドに送って巻き寿司を作って、これが日本の子供たちからのメッセージということで、ニュージーランドの子供たちに贈りました。そしてニュージーランドの子供たちは、先程お見せしたように、ヨットのセールのデザインをしてくれて、これがずっと、ウインドキャラバンの旅の間、会場の一部に展示されて、ニュージーランドの子どもたちからのメッセージとして伝えられていきました。
 無人島に住むことがどんなに大変なことか、という想像を絶する体験を、この時いろいろさせていただきました。
 (図19)
 これは、2月に行われた、北極圏にあるフィンランドのサーミ族という人たちが住んでいる一帯です。これは、凍結した湖で、湖は約45センチの氷が張っています。マイナス20度ぐらいになると暖かいというぐらい(笑)、寒い時はマイナス38度とか、そういう世界でした。
 ここでは逆に、凍ることをうまく利用して暮らしている人たちにいろんな生活の知恵を教えてもらうことができました。サーミの子供たちが、また得意のスキーとそりで、オープニングセレモニーを飾ってくれました。
 これは、ヴィンメ・サーリという非常に有名な歌手の方です。彼がオープニングに来てくれたらいいのになと言っていたんですが、思い切って手紙を書いたところ、快く引き受けてくれて、協力してくれました。
 ここでは、朝の10時頃に日が上って、3時頃には日が沈むという、非常に青白い世界なんですね。寂しいからということで、暖かい色を空中に飛ばしたいということで風船をたくさん作りました。ヴィンメ・サーリは「マイナス20度だったら俺は1つか2つしか歌わないよ」と言っていたのが、この日だけは非常に暖かくなりまして、機嫌よく25分ぐらい歌い続けてくれました。
 今までお見せした場面に流れていた音楽は、ブラジルのワクチというグループの音楽なんですけれども、この部分だけはワクチの音楽は合わないので、フィンランドの部分はヴィンメ・サーリのグループが歌っているこの「満月の夜」という音楽を使わせていただきました。まさにフィンランド的というか、ぴったり合ったという感じがします。
 ここでは、約6000頭のトナカイが放牧されています。その中の約3000頭が集められて、そのうち年をとって歯の悪いトナカイと1歳未満のトナカイを約半数間引くという行事をしていました。そうしないと、彼らの食料である苔が十分でなくなり、逆にトナカイたちが餓死したり悲惨な目に遭うということでした。そういう間引きが年に2回行われます。
 そして、ここでは2週間の会期中に約4回、オーロラを観測することができました。これも私たちの夢でした。もし会期中にオーロラが出て、作品と絡めて記録ができたらいいのにな、と言っていたら、オーロラが出てくれました。オーロラを撮影するためのローソクモードとか何とかがわかってなくて、オーロラが出ている最中にビデオのカメラの解説書を読むという慌てぶりでしたが、どうにか収めることができました。
 もちろん、これは湖ですから、この作品が撤去されてしばらくすると、ここが船着き場になります。氷が張っている間は、湖の向こうまで車で行けてみんな便利なわけです。
 (図20)
 ガラリと変わって、これはモロッコです。タムダハトというワルザザートから余り遠くないところにある要塞の遺跡のある村です。その中庭で、こうして村祭りのような形で盛大なオープニングセレモニーが行われました。周りを囲んでいるのがニュージーランドの子供たちが描いてくれたセールです。
 この近所には、世界遺産にも登録されているアィット・ベン・ハドゥとか、有名な遺跡があります。ここはちょっと鄙びていて、我々はこっちの方がずっといいということで選んだ所です。遠くにアトラス山脈が見られますけれども、アトラス山脈はほとんど万年雪をかぶっているような所で、この先にある灼熱のサハラ砂漠との間で、午後になると必ず激しい風が吹きます。時計で計ったみたいに、昼ごろから風が吹きます。
 ここでは、完全な岩場を利用して作品の展示をしたのですが、ワルザザートの高等学校の生徒や小学生の団体が随分これを見に来てくれました。ここに住んでいる人たちは、いわゆるベルベル族です。彼らは土でできた家に現在も住んでいて、電気も共同の自家発電で、それも時間制限があり、水も遠くから運ばなきゃ飲める水がなかったり、大変厳しい生活条件の中で、それを利用して上手に暮らしておられます。
 我々は日本からクレヨンと紙を持って行って、この子たちに夢いっぱいの絵を描いて欲しいということでお願いしました。イスラムの子どもたちは多分具象の絵は描けないだろうと言う人がいましたが、それは全然間違いで、彼らは思い切り色を使って本当に楽しそうに絵を描いてくれました。
 ウインドキャラバンというのは、何もない所にやってきて、彫刻というか風で動くものを旗のように立てて、風車小屋を建てて、自然観測して回っていって、去っていった後には何も残さない、というのが基本だったんですけれども、ここでは余りに何もないので、風車小屋の敷石にしたセメントの基礎だけでも残していってくれと言われて、逆に残したんです。セメントに手伝ってくれた人がみんな署名したんですが、署名できない人がほとんどで、代理の人が全部名前を書いたのにはびっくりしました。
 これは、モンゴルの大草原です。ちょうど7月で草原が一番季節のいい、そして冬に備えて最も忙しい時期でした。我々が選んだ場所は、遠くに遊牧民のテントが見える小高い丘でした。現在この場所には、ウインドキャラバンをやった非常に有名な場所として、観光施設が建っているそうです。あまり見に行きたくないなと思います。
 (図21)
 ここではモンゴルの子供たち120人が招待されて、我々が用意していった凧に絵を描いてくれました。草原の絵画教室というわけです。モンゴルの子供たちは凧で遊んだことがなかったんです。大体、凧という言葉がなかったので、記者会見の時に我々が「空の手紙」という名称をつけてあげたくらいです。凧というのは、多分中国で生まれて世界中に広がっていった遊びなんですが、こんなに電線もない凧にうってつけの土地なのにと、不思議に思いました。この子供たちにとって、凧揚げは本当に初体験なんですね。それは、中国の文化の影響をモンゴルがずっと拒んできたためだと思います。テレビで見たことがあるという子がいたくらいで、自分の描いた絵が空に揚がって、初めて凧を飛ばすというのは、すごいことだったんだろうと思います。
 (図22)
 これがブラジル。大きな国ですけれども、北東部にある大砂丘です。ここは、6つの地球を代表する自然を選ぼうということで、我々はずっと旅をしながら探し回ってロケハンティングをしていたんですが、ブラジルの人が、ブラジルで一番きれいな所として、このセアラ州のクンブーコを挙げたものですから、見に行きました。確かにすごい砂丘で、6つの自然の中の1つに選んでいいかなと思って選びました。
 ここでは、先ほどの音楽グループ、ワクチと、友人のオランダの振り付け家イリ・キリアンが来てくれて、キリアンは地元の子供たちを演出してくれました。ワクチというグループは、先程来、聴いていただいている音楽を作った人たちですけれども、彼らの音楽を我々は大好きで、どうしてもワクチの音楽をということで頼んだら、ウインドキャラバンに非常に興味を示してくれて手伝ってくれました。彼らは、ありきたりの日用品を利用して楽器を創作して、その環境に合わせて演奏してくれます。
 ここは南緯3度という、ほとんど赤道に近いところなものですから、ずっと東風が吹いているんですね。ここでは、地球が回っているということを実感できます。年中温度は27度。一度、町中で26度の掲示を見たくらいで、本当にずっと27度。
 ワクチは本当は4人グループなんですけれども、地元のボランティアを利用して、屋外の音響を作ってくれました。キリアンは子供たちにこの風車を持たせて、砂丘の急斜面を子供たちは、すぐ駆けて降りたくなるんですけれども、できるだけゆっくり降りてこいと言う。「おまえたちは人間じゃなくて天使なんだ」という暗示をかけまして、彼らは、この砂の上に風車を差して、砂丘のかなたに消えて行くというだけの演出にしたんですけれども、とても現実とは思えないほど、きれいでした。
 風の方向は決まっているわ、音楽をセットするサイドも自然と決まるわ、観客席は自ずとこちら側ということが決まる、そういうステージでした。ワクチはその日の午後、飛行機に乗って、ニューヨークのグッゲンハイムで行われるコンサートのために旅立つという軽業のようなスケジュールの中、このウインドキャラバンに協力してくれました。
 そして、最後には、モンゴルの子供たちが描いてくれた凧がここでも揚がりました。
 お気づきになったと思いますけれども、作品はみな一緒なんですが、それぞれの風景に合わせてセールの色だけ取りかえました。日本の白から始まって、この砂丘ではライトグリーンになりました。1週間の準備期間、それから2週間の展示、そしてコンテナに解体して詰めて、次の場所に送る後始末の1週間ということで、大体ひと月各地に滞在しました。ところが、2週間の会期中に、あのセールの色がほとんど退色して、ここでは砂の色に近づいていく。だから、記録に残っている写真は、大体、最初の1週間ほどに撮ったものです。
 海に出ても風の方向は一緒です。ジャンガーダという平底船ですけれども、非常に原始的ですが、よくできています。
 こうして、長旅の果てにやや疲れたコンテナが三田のアトリエに帰ってきました。以来、私のアトリエにあのコンテナはおります。一応コンテナの扉を一度あけて、子供たちの作ってくれたお土産は取り出したんですけれども、彫刻作品は取り出して見る勇気がないと言いますか、あるいはウインドキャラバン6カ所を回るために生まれた作品たちなので、もうこれで任務を終えたと言いますか、コンテナの中に納まったままで封じてあります。
 これで、一応映像は終わります。(ビデオ映像了)



  こうして、ウインドキャラバンというプロジェクトをやり終えました。私たちはいろんな想定のもとにこのウインドキャラバンをやろうとしました。というのは、地球に生まれて、私も六十何年経つわけですけれども、よく考えてみると、世界中旅行しても、都会から都会へ旅行することが多くて、東京だってニューヨークだってパリだって、地球の上では非常に変わった人工の場所で、ほとんど変わらないと言えば変わらない。どんどん国際化が進み、皮肉なことに、ますますどこも似てきつつあるような気がします。
 そういう中で、地球の大部分をまだ占めている大自然については、科学的な知識だとかドキュメンタリーなものを見たり読んだりすることでわかったと思っている。この恐ろしさみたいなものを、ある日突然感じまして、本当は何もわかっていないんじゃないか。せっかく地球に生まれてきたんだから、地球について知る必要がある。
 これは、ちょっと批判めいた言い方になりますけれども、この地球が非常に短期間で自然が失われてまずい方向に進んでいるのは、すべて人間の、文明と称するエゴイズムみたいなもので流れていっているんじゃないか。誰かが何とかしないとだめになることはわかり切っている。いろんな統計学的にも事実ははっきりしていると思います。それが、何故わからないふりをしてどんどん進んでいくのか。これは、皆様もそうお思いになると思いますが、人間の単なる欲望や経済が先行しているためだと思うんです。
 芸術家というのは、そういう意味では、実業家も政治家も思っていても手を出さない、
そういう危険なことを体験してしまえる、あるいはそのために生まれてきたような職業だと私は思うんです。芸術家までが、仕事の依頼を受けてそれを職業のようにこなしていくというのは、どこかおかしいと考えまして、これこそ人間として、あるいは芸術家としての特権であり、義務であると考えて、このウインドキャラバンというものを実行いたしました。
 しかし、言うまでもなく、これを人に伝えるということに関しては、先程のさいたま芸術劇場の「星のあやとり」同様、やることに精いっぱいで、うまく記録を伝える、宣伝する、あるいはそれをジャーナリズムに向けて発信するというようなことに頭が回らないというか、時間が使えなかった。やったことはやったんです。重大なこととして、今後、これを報告としても何か形としてもまとめていかなければならないという責任はあると思います。ただ、誰かが似たようなことをやっていたら、私はやらなかったし、やったことは確かなんですから、こうして、今日のような機会を与えていただいただけでも大変ありがたいことです。そして今日こうして皆さんも、できたら証人になっていただきたいと思います。
 ウインドキャラバンをやった後、私は確かに変わりました。それは何か。「ウインドキャラバン前」「ウインドキャラバン後」というのがあるとすれば、明らかにこれは人のためにやったのではなくて、私自身のためにやったことで、もう、あの手の仕事はしたくないとか、こういうことを中心にやっていきたいな、という方向は随分変わってきたように思います。
 先程、作品を見ていただきましたけれども、近作は、クライアントの傾向も変わったのかもしれませんけれども、アーバンな環境よりも自然な中に作品を置いて欲しい、人工と自然との接点みたいな所を仕事としていくのだと思っています。
 人間も自然の一部だと言えば自然の一部なんですが、その人間が自然を傷めてきた責任とかいろんなことを考えると、これを補正できるのも人間だけしかいない。そういう責任はあると思います。そういうことのヒントになればと、それこそが芸術の役目ではないかと考えております。
 そういうことで、これからもこういう活動を続けていきたいと思っておりますが、先ほどちょっと絵本の話が出て中途半端になっていました。絵本の「いちご」では、あの小さな何でもないと思われるかもしれない、よくショートケーキの上に乗っているイチゴが、実はすごい大自然の中から生まれたということに気づいた時に、あれをパクリと食べるほど人間は偉いのかというような皮肉を込めてあの絵本は描いたんです。イチゴに対するラブレターなんです。
 そんな形で絵本を書いておりまして、「いちご」は1975年初版以来19版出版されて、今年は台湾から中国語版も出て、来年はフランス語版も出るということで、本当に描いておいてよかったなと思います。その時その時の話題性があるものではなくて、絵本がエバーグリーンになってくれればいいなと思っています。決して立体を作る者の手遊びみたいな形でやっているわけではありません。多少は元絵描きの未練みたいなのもあるのかもわかりませんけれども、絵を描くことは楽しくて、絵本で表現できるものは、世界中の子供たちに対するメッセージだと思っています。
 子供の頃に少し自然に慣れ親しんだか、慣れ親しまないままコンピューターの画面で育ったかによって、将来まったく違う人間になるんじゃないかなと恐怖も持っています。自分の体験を通じても、自然の素晴らしさをいろんな形で伝えたい、作品でもそれを伝えたいと願っています。
 どうしても作品として発表すると、形とか色とか、他の作家の作品と比べられたりする。そうすると、どんどん誤解されるような気がして、常に私らしい独自の発表方法を
見つける必要があると思っています。今も、私らしい次なるプロジェクトを計画しているところです。
 取りとめのない話で恐縮ですが、一応こういうことでよろしいでしょうか。長い間ご清聴いただきましてありがとうございます。(拍手)



フリーディスカッション

與謝野
 ありがとうございました。今日は、感性溢れる貴重なお話しの数々で、心洗われる思いをさせて頂きました。忘れかけていた自然と人の接点をはじめ、自然の息遣いと人間の営みで大切なこと、そして両者に介在する芸術家が果たすべき活動の意義等について、今までのフォーラムとは少し趣きの違うお話であるだけに、大変興味深くお聞きし、私達に示唆深いお話をいただきました。
 それでは、今の新宮さんのお話に関連したことで、ご質問なり、さらにこの点について詳しくお聞きしたいことなどがございますれば、どうぞご遠慮なくお申し出ください。
松井(松井一事務所)
 私は大手建築事務所のOBでございまして、今マンション問題に深くかかわっております。先生のお話をお聞きにするに当たり、私は少年の頃を思い出しました。この都市経営フォーラム214回のうち、私は大体70回とか80回、3分の1はこのフォーラムに参加していると思うんですけれども、本当に一番感動したフォーラムでございました。本当にありがとうございました。
 何故こんなに嬉しいかと申しますと、私は美術家になりたくて、やむを得ぬ事情で建築の道を選んで建築事務所に四十数年勤めたということです。先生の作品は以前からずっと興味を持って「美術手帖」など見せていただいておりましたけれども、万博以降、この方がカルダーを乗り越えるのではないかという予測をしておりました。今日のお話を聞いて、カルダーの何十倍も乗り越えてしまったように感じまして、本当に嬉しくてたまりません。本当に今日はありがとうございました。
 それで質問なんですけれども、今日はずっと見渡してみますと、行政の方がほとんど参加しておられないんじゃないかと思います。私、いつも先生の作品と行政との関係を睨んできて、小さなところで見てきました。先生の作品を私ども建築の中に取り込みたいというお話をしますと、必ず、動くものは壊れるんじゃないか、維持管理費が大変かかるんじゃないかということで、早いうちから先生の作品をお勧めしておきながら物すごく反発をされてきた、この情けなさを感じてずっと三十数年過ごしてきたわけでございます。
 それが、今日になって、このお話でその先生が目の前におられるという感動で、私は本当に嬉しく思いました。
 私どもマンション問題に関連していて、マンションに共有の美術品をとか、美術作品を中庭にとか、団地の入り口にということを深く考えたのが、昭和45〜46年頃からでございます。私も後にマンション住まいをしたんですが、みんながお金を出し合って共有の美術品を持つということについて、どんなお考えをお持ちでしょうか。私たちはデベロッパーに話しかけたんです。500戸のマンションがありますと幾らでもないんです。先生の一番いい作品をもっても何万円とか10万円以下で済む。そんなにいかないと思います。そういうお金を使っていただけない。行政に働きかけてもそういう問題がございます。
 そういうことで、質問を絞ってきたんですけれども、今日の先生の映像その他見て、私は頭がおかしくなるほど散漫な質問になってしまいましたけれども、ちょっとお答えいただけますか。
新宮
 ありがとうございました。私も今日初めてお目にかかって、お目にかかれてよかったなと思いますし、私ももし立場が逆で、僕のような作家がいて、作品を購入するかしないかと迷った時に、やっぱりメンテナンスや作品の維持費、強度ということが一番心配になると思います。そして当然だと思います。
 アーティストというのは安定した商品を生み出すというよりは、毎回、不思議とやらなくてもいいような冒険をやりたがるところが必ずあって、随分今まで無茶なものも作りました。先程言いましたように、初期の作品から熱心に買って下さったり何かした時はハラハラして、ずっとメンテナンスを、それこそ40年近く続けている作品もあるんですね。
 動く作品には、動かない作品と違う特徴があると思うんですが、1つは、作品を所有された方は、うちの子みたいな感じになられるらしいんですね。ペットのような感じになられるらしい。一番アーティストとして幸せなのは、所有して下さった方が、その他の僕の作品よりも自分のところのうちの子が一番いいと感じることです。「あれが一番ですね、先生」とおっしゃると、僕は絶対反対しないで、「はい、そうです。お宅のが一番です」と、誰にでもそう言っています。(笑)
 そういう物を作って差し上げて、保有して大事にして下さっている方との間に信頼関係が生まれて、親戚関係のような形になって、娘が嫁いだというか、そういう感じで、その後もうまくいくといいんですが、日本の場合、行政の場合なんか特に担当の方に非常に熱心な方がおられて、話がせっかくできたのに、その方が、何十年単位だともう引退しておられて、あとは担当者なんだけれども初期の経緯は全くご存じない方が、「あ、あれね」と何か迷惑そうにされるような方になると、じゃけんに扱われるようなところがありまして、ちゃんと油を指しておいてもらったら問題ないことが、何年間も放置されていたり、いろいろ問題がでてきます。できるだけメンテナンスフリーのものを作ろうと思いますが、やっぱり動くものですから、1年に1回の給油ぐらいはしてもらわなければということもあります。そんなことで、人との関わりがあることなので、うまくいっているところはすごくうまくいっているし、不幸な運命になった作品もあります。
 はっきり言って、これからお頼みになる方は非常に安心だと思います。
 ご迷惑をおかけしたことは確かにございます。そのぐらい長期にわたってのことを考えることは、難しいことなんですね。アメリカの作品なんか、特にアメリカ自身の国の歴史が短いものですから、作品は最低半世紀はもつようにとか、日本で聞いたらびっくりするような話が初期にありました。しかし、それも、今考えるともっともだと思うんです。動くものだから、耐用年数過ぎて、あれはもう償却しても構わないという感じになったり、建物ごと一緒に設計したものが、建物の方の寿命とともに消えるということもあります。
 そういう意味で考えていくと、なかなか難しいんですけれども、やっぱりそんなことを言うなら、あれを見て下さいといういい例をきっちり作らないと、特に大勢の方で決定されるような時には理解を求めるのが難しいかなと思います。
 ただ、作れば作るほど難しいし、遊びでモビールは作ったことあるという方はたくさんおられるんですが、この40年近く作り続けても、なおかつ先がまだある。その間に、あの当時にはなかった、ああいうベアリングが今使えるとか、確かに技術的なものも進歩しています。
 僕はいつも、それこそライバルはレオナルド・ダヴィンチだと、どこかで思っているんです。ダヴィンチ君、君は気の毒だったねと言うところはいろいろあります。アイデアはあっても実現できなかったことって、いっぱいあるので、それを諦めてしまったら、アイデアはアイデアとして消えてしまうわけですが、技術の進歩、素晴らしい協力者にめぐり会えるかもしれないから、理想は理想で持ち続けるべきだなと思っております。
 これで完成したとも全然思ってませんし、まだまだ道半ばだと思っています。ここまでやって来たからこそ、見える先があるので、もしそういう機会がありましたら、新宮は、これからちょっとましなものを作りますので、よろしくお願いいたします。
松井(松井一事務所)
 先生、そこでもう1つ質問があるんです。明日も実は行政の方とお話しするんですが、行政の方たちは、先生の作品は維持管理が難しいということで、すっかり諦めてしまったのではないかと思う方もいらっしゃると思うんですけれども、諦めてないんですね。ですが、市民の税金を使うんだからという視点は、この頃ますます強くなってきている。私どもマンション住まいをしている者も、やっぱり管理費の中からその維持管理費を出すんだからという視点があるわけでございます。カルダーが動く作品にこだわっていながら、どの時期にどう作ったかというのは頭の整理ができておりませんが、スタビルという動かない彫刻を作っておりますね。ああいうものなら受け入れられるのかとか、考えるんですけれども、そういった考えについて、先生のお考えをちょっとお伺いしたい。
新宮
 カルダーには、会えるチャンスもあったのに会わないままで終わりましたし、よく動く彫刻にすぐカルダーが出てきて、新宮と比べられたりと、カルダーは怒るでしょうけれども、そういう関係にあります。
 面白いと思うのは、カルダーを買ったアメリカのお金持ちが、カルダーが風で動くとパサッという音がするので、針金で縛りつけている例があったりします。これがスタビルかなと思ってモービルを見たりしますけれども、カルダーはアーティストなんです。それこそ、私のように工業製品作るように、ここは精密に作ってくれなきゃ困るじゃなくて、カルダーが割と不細工にはさみを使ったり、溶接機で切断したりした味があるからカルダーなんで、あの辺が難しい分起点だと思うんです。
 私自身、無理して言えば、役立たずの機械を一生懸命作っているなと思うんですけれども、機械と今ある最新の工業技術を駆使した上で作ったものが、なおかつアートであるという線を作ろうとしてやっている。そのことで、なかなかご理解いただけない。私にとっては頭の堅い方がおられて、あれのどこが芸術だとか言う方もあり、デザインと建築の境界線の辺りにいるのかもわかりませんけれども、私の作りたいものというのは、カルダーのように作品を作りたいんじゃなくて、どちらかというと、作品もあってもいいんですが、なくてもいいぐらい環境を作りたいんです。気持ちのいい、心地のいい環境、自然との接点の多い環境を作る方法を、長年動くものを作ってやっているので、ある日カルダーのようにスタビルに転向するかもわかりません。
 やっぱりカルダーは、僕が思うのに、想像ですよ。マーグという大きな画廊がつきまして、注文を上手にとってこられたので、カルダーは現地に出かけていって、環境で悩んだりしないで、マーグが「もうちょっと大きい方が合うで」とか言って作って売ってたんじゃないかなという気はします。
 そういう資本主義の息のかかった人が間に入らないだけましで、うちはお断りもするし、直に見に行って、本当に作って差し上げたいものと、お断りするものと区別していこうとは思っております。
 それぐらいしか言いようがありません。
與謝野
 大変熱心なご質問を頂きありがとうございました。また、新宮さんにおかれましては、そのご質問に誠実にお答えいただきまして、ありがとうございました。
 今日のお話は、都市における芸術家の果たすべき役割といいますか、その分野についての示唆深いお話も頂けたと思います。
 ご質問がないようですので、私から小さなご質問をさせていただきます。先程のお話の中で、新宮さんの彫刻の真髄である「動く」ということについてですが。これは自然が動かしている彫刻と捉えれば、「風の表情、つまり自然の呼吸を彫刻が代弁して我々に安らぎを伝えている」という捉え方もできるようですが、その点についての何か存念のようなものがありますれば、お聞かせいただけないでしょうか。
新宮
 生まれた時、この地球に生まれたということをすごく幸せに感じて、こんなに宇宙にたくさん星がある中から、私は地球に生まれて人間に生まれたなというのを感動を持って生きておられるなら、言うことはないんです。だけどそうでないなら、私の作品が自然を見せることに成功して、地球自体を見せることになればいいと思います。作品は忘れてもらっていいと思うんですが、ある作品を見てから、やたらあの雲の形が変わるのが気になるとか、木の葉が揺れるのに興味を持てるとかいうふうになっていただくのが理想です。「新宮の作品のあの形がな」と言われると、まだ作品としてまずいんじゃないかなとは思います。
 うまく私が透明人間になれればいいなと思っているんです。
與謝野
 ありがとうございました。他にございませんでしょうか。
 ございませんようですので、少し時間が早いとは思いますが、本日のフォーラムをこれにて終了させていただきたいと思います。
 新宮さんにおかれましては、ふだん我々が忘れかけていた意識の世界についての、心温まる示唆深い教訓を伴ったお話を頂きまして大変にありがとうございました。今後のますますのご活躍をお祈り申し上げます。
 最後に、盛大な拍手をもって皆様の御礼の気持ちを表現して頂ければ幸いであります。(拍手)。ありがとうございました。
 
 


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