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第216回都市経営フォーラム

『癒しの視空間』

講師:  国立大学法人 京都工芸繊維大学 学長

日付:2005年12月8日(木)
場所:日中友好会館



0.はじめに

1. 慢性疲労症候群

2.視るとは

3.龍安寺石庭の魅力

4.疲れやすい視環境と癒しの視空間
 

5.むすび
 

フリーディスカッション



 

 

 

 

 

與謝野 皆さん、こんにちは。それでは、本日の第216回目の都市経営フォーラムを開催したいと思います。
 さて、早いもので年の暮れを迎えまして本年最後のフォーラムとなりました。昨年から、天災、人災、忌まわしい事件等、立て続けに起こりまして、ここしばらくの年は、全く心の休まる時がないというありさまでした。
 ところで、都市という環境には、安心と安全を守りかつ人の心を癒す場という環境が必ず必要で、スローライフという言葉も最近ありますが、そのようなエリアや環境を手に入れたいという渇望は、ますます募るばかりであるわけです。しかし現実にはこれに反して、我々の身の回りには、そういった場がどんどんと減っていくという感慨を日頃から覚えられる方も多いのではないかと思います。
 さてそこで、本年最後のフォーラムには、都市における癒しの空間のありようについて、知覚・認知心理学、視覚情報学がご専門の「科学者」の立場から、日常の環境の中でも我々が気づいていない「癒し」をもたらす場の仕組みも含めて、示唆深いお話をお伺いすることといたしました。
 本日講師としてお招きいたしましたのは、国立大学法人京都工芸繊維大学学長の江島義道様でいらっしゃいます。江島学長様におかれましては、年末のお忙しいところをお運びいただきまして、まことにありがとうございました。
 江島学長のプロフィール等については、お手元の資料のとおりでございまして、1965年に京都大学の電気工学科をご卒業され、電気工学分野のご出身の科学者でいらっしゃいます。後ほどご本人からご紹介があると思いますが、その後、お手元の資料のように、専攻分野として知覚・認知心理学を選ばれまして研究・教育活動に尽力され、2004年に現職の学長に就任されて今日に至っておられます。
 本日の演題はご案内の通り「癒しの視空間」でございます。それでは、ご講演に入りたいと存じます。江島学長、よろしくお願いいたします。(拍手)

江島 ご紹介いただきました江島でございます。
 最初に、自己紹介として、私が工学部に入った後、心理学教室に移ったということについて、少し補足させていただきます。京都大学工学部助手を経て、1980年に京都工芸繊維大学の工業短期大学電気工学科の助教授に赴任いたしました。それから3年後の1983年に京都大学の教養部心理学教室に移りました。その時から心理学の教職をとってきました。工学部から心理学教室へ移籍した理由は、研究面での接点があったからです。京都大学の工学部の助手の時代には、専門は電気工学でございましたが、研究については、理想的な情報システムと言われる生体の情報処理系(ヒトの知覚、認知に関わる情報システム)のメカニズムの研究を行っていました。ヒトの知覚と認知に関する研究は、主に心理学の領域の研究でありましたので、工学部出身でありましたが心理学教室に採用していただくことになりました。
 研究の基本的な柱は、工学の時代以来、現在も変わっていません。ただ、変わったのは、周囲の研究環境でございます。古くは、視覚すなわち「視る」ということを情報学的手法と心理学的方法によって研究していましたが、この10年ぐらいは、心理学と脳神経科学が近くなってきましたので、脳科学的手法を導入して研究を行なうようになりました。それは人間の脳活動が計測できるようになったからです。脳活動の計測によって、知覚、認知、記憶等と脳活動の関係が研究できるようになったのです。今年も北米の神経科学会に11月に参りましたが、私のグループからは3つ研究発表をさせていただきました。

 まず、ここで話す機会をいただきましたことに対して、與謝野様とご来場いただきました皆さんに感謝申し上げたいと思います。本当にありがとうございました。



 

0.はじめに

 今日は、「視る」ということと「癒し」ということについてお話をさせていただきます。基本的には皆様にお渡ししていますレジメ沿って進めてまいります。レジメには、スライドをほとんど含めていませんが、それはスライドが多数になったことと、ダイナミックなスライドが多かったからです。
 (図1)
 (話のタイトルと目次)
  癒しの視空間
  0 はじめに
  T  慢性疲労症候群
  U  「視る」とは?
  V  龍安寺石庭の魅力
  W  疲れやすい視環境と癒しの視空間
  X  むすび
 
 早速スライドを用いながら説明させていただきます。
 今日お話しさせていただきますのは、「癒しの視空間」(タイトル)ということです。先ほど與謝野さんからお話がありましたように、都市の空間、都市の環境に癒しをどう入れたらいいかということについて、ヒントぐらいのお話ができればと思っています。具体的な提案は、とてもできないわけでございますが、1つの切り口ということでお話をさせていただきます。
 話の構成(図1上記参照)はこのようになっています。最初は「慢性疲労症候群」についてです。慢性疲労症候群は、最近、都市の複雑化などで毎年増加しています。しかし、原因不明で、深刻な状況になってきています。これについてどう対処できるのか? 現在は具体的な対処の方法がないわけでありますが、研究の動向についてお話します。
 次は、「視る」ということと慢性疲労症候群との関係についてです。慢性疲労症候群と視るということは非常に関係が深いという話です。
 その上で「龍安寺の石庭」について、お話いたします。龍安寺には、毎年世界からたくさんの人が来ています。日本だけでなくて、インターナショナルに魅力的だと言われています。そこには何らかの根拠があるはずです。龍安寺の石庭の魅力の理由は何かについてお話いたします。
 4番目に、「疲れやすい視環境と癒しの視空間」ということについてお話し、結びとさせていただきます。
 (図2)
 今日の主題は、慢性疲労症候群と、それを回避するための視環境あるいは視空間ということについてです。
 話のねらいは、皆さんにこの問題に対峙していただいて、ぜひ解決策を作っていただきたいということです。これはお願いになります。
 人は基本的には疲れます。疲れるのは当たり前のことでございますが、これが恒常的になってきて疲れが癒されない状況は非常に深刻でございます。皆さんの会社や職場の周辺にも、このような方がいらっしゃるのではないでしょうか。健康な人から見たら、だらしないとか、怠け者とか、ということになりますが、ご本人にとっては病気でございますので、非常に深刻な状態でございます。このような方が、年々徐々に増えてきているということでございます。
 病気であるということすら社会的に認識されにくいという背景がございます。現代社会は疲労の多い環境でございます。その疲労をどうすれば減らせるだろうか、ということについてのヒントがお話できればと思っています。



 

1.慢性疲労症候群とは

(図3)
 慢性疲労症候群というのは、英語で言いますと、Chronic Fatigue Syndromeで、欧米では、問題の重要性が認識されて、実態調査が行われ、対応策も既に作られています。資料にあるように、アメリカ合衆国では大人の人口の24%が2週間以上の疲労を経験しており、そのうち59%から64%が医学的に原因不明であります。疲れるという症状はあるけれども、それを処方する方法がわからないのです。
 日本でも、この問題に平成13年ごろから着手され、厚生省で調べられています。4000人を対象に調べたら、0.3%の人が慢性疲労症候群に該当するということでございます。日本の働く人口が8000万としますと、約24万人という数になります。そして増加傾向にあるということです。従って、これに対する対応策をどうするかというのは重要な課題でございます。
 問題はその原因及びメカニズムがまだ不明であることです。原因と処方箋がわかれば、簡単に解決するわけですけれども、それがわからない。ですから、患者さんにとっては非常に深刻な問題になります。
 (図4)
 症状がどんなことかというのは大体わかっており、以下の13項目が挙げられています。
  1)激しい疲労感のため、月に数日は会社や学校を休まざるを得ないような状態が半年以上持続するか繰り返している。
  2)医師の診断を受けて明らかな疾病がみつからない。
  3)微熱ないし悪寒
  4)咽の痛み
  5)首あるいは腋のリンパ節の腫れ
  6)原因不明の脱力感
  7)原因不明の痛みまたは不快感
  8)軽く動いただけでその後24時間以上続く全身倦怠感
  9)頭痛
 10)関節の痛み
 11)精神神経症状
 12)睡眠障害
 13)急激な発症
 
 皆さんも該当項目を幾つかお持ちだろうと思います。これらの中で、長期的に続くものが数個あると該当者だと言われています。
 (図5)
 慢性疲労症候群に関する研究は、要因と症状の解明ということで、現在進められています。免疫、遺伝、それから年齢・性別が重要な要因です。それからもう1つは環境です。性別で言いますと、女性の方が実は多いと言われております。今日のお話は、環境の観点からということになります。
 (図6)
 それでは、慢性疲労症候群と脳の領野の関係がどうなっているかについて、現在までにわかっていることをお話させていただきます。
 慢性疲労症候群の患者の方にある作業をしてもらって、疲労を作った時に、どういうことが起こるかということが、脳の計測によって明らかにされています。 
 疲労状態を作るためのテストは単純な作業です。画面に数字がランダムな配置されている時に、1から順番に数字を見つけてチェックする。例えば1番を見つけたら、クリックをする。そうすると1が消えて、画面が変わって、数字の配置も変わる。次は2を探します。ここに2がございますので、これをチェックする。そうすると今度は2が消えて、画面が変わって、数字の配置も変わる。次は3を探します。このように子どもでもできる単純作業を行なう。このような作業は5分ぐらいならどうということはないですが、2時間もやれば退屈もしますし、疲れてきます。
 (図7)
 こういう視作業を行なう時に、脳の疲れ具合を調べるとどうなるか。この図は、私がやったのではなくて、他の研究者によって発表されているものをお借りしているものですが、慢性疲労症候群の患者の方の疲れがどこに顕在化するかを示しています。図は、脳を横から見たものです。
 一連の図は、視作業を2時間ほどやった後の脳の活動を調べたものです。最初はある領野の活動状態が上がり、次にそこの活動がだんだん静まり、同時に、他の領野に疲労する場所が顕在化し、広がってくるというものです。
 (図8)
 慢性疲労症候群の患者の方は、このように、疲れる場所が脳全体に広がりますが、健常な方はこういうことは起こりません。
 この図から何が読み取れるかと言いますと、疲労する場所が異常に広がっているということです。脳はいろいろな働きをするわけですが、これだけ広がるというのは、疲労がいろんな働きに関係する領野に起るということになります。すなわち、非常に複合的な形で疲労現象が起ります。脳の研究者で脳全体をやっている人は多くありません。多くの研究者は、特定の領野の研究を行なっています。記憶の研究者は、この辺(海馬近辺)を中心に研究するというように、研究者によって対象とする領野が違います。したがって、このように領野が広がると、専門家が共同して研究しないとなかなか究明できないということになります。
 先ほど原因不明と申しましたが、これだけ複雑になってきますと、全貌が見えないのはそう不自然ではないということになります。繰り返しになりますが、原因解明はそう簡単ではないのです。
 (図9)
 慢性疲労症候群について、脳の疲労という観点でお話ししましたが、次は、視覚と慢性疲労症候群の関係についてお話いたします。
 慢性疲労症候群を究明するには、いろんな切り口があろうかと思いますが、視覚との関係でお話するのにはいくつかの根拠がございます。
 慢性疲労症候群は、人間と環境の相互作用によって発症する場合が多いと考えられます。慢性疲労症候群の要因としては、気質とか、免疫性、性とか年齢というのがありますが、何らかの外界との関わりがあって、その結果として慢性疲労症候が発症するのだろうと思われます。生まれつきの慢性疲労症候群は、まずないだろうと思います。
 環境との関係と言えば、感覚ということになるわけですが、感覚には、視覚、聴覚、味覚、痛覚などがあります。我々は感覚を介在しながら外界と関係を持ちます。従って、外界との関係の持ち方が悪ければ疲労が起こると考えられます。
 視覚というのは、外界と関係を持つ上において役割が非常に大きい。情報を外界から取り込むという上においては、平均で、約80%が視覚要因と言われています。あとの20%が他の感覚要因と言われています。
 外界との関係という上において、視覚の役割が非常に大きいことから、視覚が慢性疲労症候群の発生のきっかけを作っている可能性が高いと考えられるわけです。視覚だけじゃなくて、聴覚とか、他のものもあろうかと思いますが、視覚による場合が、やはり多いだろうと思います。
 疲労を訴えられる患者さんが、お医者さんに行く時にどこの科に行くかというと、眼が疲れやすいという症状を訴えられて、眼科医にいらっしゃる場合が非常に多いと聞いています。そこで適正な処方ができると良いのですけれども、先ほど申し上げたように原因が不明ですので、眼科医でも困っているという現実があります。
 こういうことで眼にかかわる面が少なくない。私は眼科医ではございませんけれども、眼にかかわる研究、教育をやってきた者としては、これは座視しておけない課題であります。
 もう1つは、人の脳を計測することが可能になってきたという研究環境の発展がございます。慢性疲労症候群と視覚との関係に切り込める環境が整ってきています。
 以上のように、慢性疲労症候群と視覚の関係が深いことから、今日は、疲労と癒しという問題を、視覚という切り口でお話させていただきます。



2.視るとは?

 (図10)
 視覚とCFS(慢性疲労症候群)は非常に関係が深いということを申し上げましたが、次の話は、その関係をどういう枠組みで考えていくか、ということについてであります。
 視るとは何だろうということを改めて問いますと、空気みたいな存在でございまして、答えるのは、結構難しいものでございます。
 ただ、眼が見えないという方も空間認識はできますから、この問題(視るとは、という問題)は、眼を通して視るということに限定しておかなければなりません。また、動物も眼を持っていますので、人の問題に限定しておかなければなりません。
 そういう前提で考える時、視るということは一体どういうことでしょうか。
 この問題をきっちりと考えておかないと、先ほどのCFSとの関係は解けません。したがって、今日はこのことについても、少し時間を使ってお話しさせていただきます。
 さて、視るというのは何かと言いますと、過去の経験、知識を使って行なう推論ということになります。感覚系は知識を使わないと考えられていますが、そんなことは決してございません。知識を使います。知識とは、小さい頃からの外界との関係で身につけられたものです。その知識を使って、その時々に入ってくる視覚情報を使って計算し、推論し、認識する。何を認識するかというと、対象が何であるかということについてです。もう1つは、自分と対象との関係がどのようになっているかです。
 (図11)
 話が飛躍して恐縮ですが、視ることの問題の本質を具体例でお話しします。
 今ここに白い紙と黒いマイクがあります。さて、ここで白と黒はどう違うかという問題を皆さんに提示させていただきます。白と黒はどう違うでしょうか。白とは何でしょうか、また黒とは何でしょうか。お考えください。
 問題を考えやすくするためにもう1つ入れます。白い紙と灰色の紙と黒い紙では何が違うでしょうか。お答えは多分次のようになろうかと思います。光の反射率が違う。白は光をたくさん反射しますが、灰色は余り反射いたしません。黒は反射率が非常に小さい。光の反射率が違うということです。
 これを前提にした上で、もう1つの質問です。白い紙があり、もう1つ灰色の紙があると想定してください。そして白い紙はそのままの輝度にしておいて、灰色の紙にだけ光を照らします。その光をどんどん強くしていきますと、皆さんにお届けできる光の量は、灰色から反射する光を白いから反射する光より大きくすることができます。例えば、白い紙が100%反射するとし、灰色の紙が10%反射するとします。そして、
灰色を照らす照明を100倍にしますと、灰色紙から皆さんにお届けできる光は白い紙の10倍になります。この時どういうことが起こるでしょうか。皆さんが白とか灰色ということを光の量だけで判断されていたら、このような実験では、間違いなく光を100倍した方が白で、白い紙の方が灰色と判断されることになります。
 しかし、皆さんは、現実にはそのような逆転するような判断はされません。理由は、我々の視覚系が逆転現象を生じささせないファンクションを持っているからです。どういう機能かというと、それは実に巧妙な仕組みでございます。
 ただし、逆転現象を生じさせることは不可能ではありません。ある仕掛けを作った特殊な実験室で判断を求めますと、光の量の大小で色の判断(白、灰色、黒などの判断)を行なうことになります。
 しかし、このようなことは日常の環境では絶対あり得ません。
 人の視覚系は、照明光の強度や色が変化しても対象を正確に認識でききます。この根底には巧妙な仕組みが視覚系に備わっているからです。
 人の視覚系は、光以外にも様々の視環境条件に影響されずに、正確な対象認識ができるのです。
 様々の視環境条件とは、レジメに書いていますが以下のような条件です。
1) 照明光の強度や色が変化しても、対象を正確に認識できる。
2) 動いている対象を正確に認識できる。
3) 対象が遠くにあっても、近くにあっても、大きさを正確に判断できる。
4) 対象が傾いていても、その形を正確に認識できる。
5) 背景から事物を分離することができる。
6) 立体的な事物には影があるが、影を分離することができる。
7) 3次元世界に住んでいるので、遠くの「もの」は近くの「もの」に隠されることがあり、隠されると断片的になる。遠くのものは、断片的な要素から推定される。
 以上のようなさまざまの視環境下で対象を正確に認識するために、視覚情報処理機構は「照明光の強さ効果を分離する機能」、「照明光の色の効果を分離する機能」、「運動知覚機能」、「奥行き知覚機能」、「対称軸によって物体を認識する機能」などを具備しています。ここでは、これらの機能によって生じる知覚現象の特徴について、代表的事例をスライドで示します。
 今日は時間が余りありませんので、巧妙な視覚のメカニズムの一端を興味深い知覚現象のデモンストレーションによってお示しいたします。
 (図12)
 推論という意味で一番典型的なものをお示しいたします。
 ここに黒い四角と黒い三角がありますが、これの前後関係が、どういうふうに見えるでしょうか。物理的には、同一画面上です同じ位置にありますから、奥行きの差はありません。皆さんにとってはどのように見えるでしょうか。同じ面にあるか、奥にあるか、手前にあるか。いかがでしょうか。

出席者 三角の方が手前に(下図)。
江島 はい。それでは、黒い四角を少し変えて上に移動する(上左図)とどうでしょう。
 さっきと変わりましたね。これがまさに推論たる所以なんです。この変化は数学の式に乗ってきます。どういうことかと言うと、重なり部分の境界がどちらの物体に張りつくかという確率的推論の問題です。我々は、推論によって、危険率の大きい方を捨てて、安全な方をとります。
 三角の距離を推論するのが安全か、四角の距離を推論するのが安全か。下図では、三角の境界線を推測する方が、四角形の境界線を推測するより容易です。これは、三角形の境界線の方が、四角形の境界線より短いからです。しかし、上左図では、四角形の境界線を推測する方が、三角の境界線を推測するより容易です。これは、四角形の境界線の方が、三角の境界線より短いからです。上右図では、境界線がほぼ同じ長さになりますので、三角形と四角計は同一平面に見えます。数学の世界でいう、確信度というものに対応する推論です。皆さんの脳は、このような推論を行なっているのです。
 これが視覚の情報処理のエッセンスです。
 (図13)
 これは1900年ごろの水墨画でございます。こういう墨絵の場合に、明るいところと暗いところをどういうふうに描くか。画家は、視るということの特徴をよくご存じです。ここでは、明るい月と雲が巧妙なテクニックで見事に描かれています。このテクニックは、視覚のメカニズムに深く関係しています。
 (図14)
 その性質をお示しします。これは椅子です。ここで皆さんに質問です。背の面と座の面の明るさは同じでしょうか、違うでしょうか。恐らく座面の方が明るいと判断されると思います。しかも、いずれも一様な明るさを持っています。ここで境界部分(椅子の屈折して暗くなっている部分)を隠してみます。境界のところしか明るさは変化していませんので、境界部を隠してしまうと上(座面)も下(背の面)も同じ明るさです。
 視覚系は、急激な変化に対してはセンシティブなのですが、緩やかな変化に対しては感度が低いのです。この性質は、我々の認識では長所となります。例えば、この机の上の面の明るさを考えてください。皆さんの明るさ感覚の感度が高ければ、照明光が一様でありませんので机の面の明るさは一様にならず、幾つかに分かれて見える可能性があります。しかし、視覚の感度があまり高くないので、緩やかな変化には気づかず、机の面は一様な明るさに見えます。
 急激な変化に対してはセンシティブで、緩やかな変化に対しては感度が低いという視覚の性質は、物体を認識する時には好都合で、視対象をクラスファイするための巧妙な仕組みということになります。先ほどの水墨画の場合には、緩やかに変化をつけてエッジのところまで徐々に暗くしていって、境界のところでポンと墨を外してあります。そうすると、見事に月だけがバンと明るく浮かび上がってくるのです。これは視覚の巧妙な仕組みによるのです。色の場合にも同じようなことが起こります。
 (図15)
 この図(上図)では、チェス盤上に円柱が影をおとしています。明るい所にAのマスと影になった所にBのマスが見えます。Aが黒でBが白に見えると思います。だけど、周囲を隠してみますと(下図)、実はAとBは光の量は同じなのです。従って、皆さんは、上図に見られるように、光の量だけで判断するのではなく、周囲との関係を計算しして判断しているということになります。AとBは光の量は同じにもかかわらず、皆さんは明確にAを黒とし、Bを白と判断されます。この判断では、影という情報をお使いになっている。これは、皆さんが巧妙な視覚をお持ちだという証拠でございます。
 (図16)
 これは、町家の格子の隙間から外をのぞいているという状況と同じです(スリット視)。これくらいの情報(スリット情報)でかなりの認識ができます。移動スピードを変えると認識不能になる場合もありますが、適当な移動スピードですと、このように正確な物体認識ができます。皆さんは、間違いなく、ラクダが向こうを走っているということが、お分かりいただけていると思います。このような認識を達成するためには、脳で巧妙な情報処理が行なわなければなりません。
(図17)
 ここに文字(上図)がありますが、何かおわかりでしょうか。これにポッカドットを重ねると(下図)、皆さんは、たちどころにお分かりになります。文字はBだと。不思議でございます。黒い部分に関しては、上図も下図も同じです。ところが、隠すものがこれですよというように分かると、向こう側も分かる。しかし、隠すものの形が分からないと隠されているのも分からない。従って、隠すものが何であるかということを使って、隠されているものの対象認識を行っている。皆さんの眼は、このように、ただ事じゃない素晴らしいことを行なっているのです。
 (図18)
 これは窓格子を通して瀬戸内海のような風景を見た時の情景です。この山が1つの島であり、格子で分断されることはありません。窓格子は隠すものであって、この後ろはとんでもない崖になっていて、2つの分断された島になっているということは推論されません。連続する1つの山だろうと見られるのが皆さんの推論結果です。現実はそうはなってないかもしれない。しかし、皆さんには連続する山に見える。それが安全な可能性の高い推論だからです。いろんな可能性があるにもかかわらず、その可能性を追求するのではなくて、より安全なものを推論する。そして答えが知覚(見えるという現象)として出している。それが視覚の推論の実態でございます。
 (図19)
 これは同じ2つの絵でございます。ただし、一方は180度回転(上下が反転)しています。ここで見ていただきたいのは、丸い部分がちょっとへこんでいる(または膨らんでいる)ように見えることです。そして、同じものが180度回転(上下に逆転)すると凹凸の見えが反転することです。凹凸を軽々に判断したら間違う可能性があることを示しています。これに関して、実は有名なエピソードがあります。月から送ってきた写真が山なのかクレータなのかということに関してのエピソードです。同じ写真を反対側から見たら判断が全く逆になったのです。
 このような現象は、拘束された条件でものを見ているから起こるのです。それは、光は上から照らされることを前提としているのです。
 屋外では、太陽光は上から照らされます。この部屋も上から照明されています。我々の視覚系は、それを前提にして推論を行なっているのです。この条件を前提にすれば、例えば下に影があればこれは凸と推論できます。逆に上側に影があればこれは凹と推論できます。
 今日は照明設計の関係者もいらっしゃると思いますが、もしフロアに照明をしたらどのようなことが起こるでしょうか。
 結論としては、影を使った凹凸の感覚が消滅いたします。影は単なる模様でしかなくなります。危険な推論はしなくなるのです。確率が高いから安定して凹凸の判断ができますが、照明条件が五分五分であるような環境では、推論の正しさが低くなりますので、凹凸の判断はしなくなります。
 心理学では、これに類似の実験がございます。逆さ眼鏡の実験です。天地がひっくり返って見える眼鏡を使った実験です。このメガネをかけて生活します。すると、最初は物が反転して見えますが、2週間ぐらい経過しますと、天地がひっくり返っていたものが正常に見えるようになるのです。
 このことから推測されることは次のようなことです。照明がフロアにある空間で生活します。最初は、凹凸の判断が、全く逆の間違った判断になりますが、次第に慣れてきて、正しい判断ができるようになるのです。
 しかし、上からの照明と下からの照明が共存するような世界では、影による凹凸判断はしなくなります。従って、影による奥行き感覚は消滅いたします。
 (図20)
 この絵はどうでしょうか。影と青の長方形がどのように見えるでしょうか。青の長方形が上に浮き上がって見えると思いますがいかがでしょうか。ところが、青の長方形は、静止していて何も動いていないのです。そばの影をはずしますと、このように、青の長方形は静止していることがはっきりわかります。
 皆さんは、青の長方形と動く影を総合的に判断して、影が動くので、青の長方形が上に飛び上がるようになると判断しているのです。これも視覚系の推論なのです。物体と照明光と影の動きから、物体の動きを推論しているのです。巧妙な推論の仕組みであります。
 (図21)
 これはご覧になった経験があると思いますが、色の残像を示すための絵であります。しばらく真ん中の十字のところをご覧いただけますでしょうか。眼を動かさず、しっかり見ていただかないと何も見えません。1分ほどじっと見てください。そして、消した時に何が見えるか、ということを観察してください。色の配置も記憶に留めておいていただけるとありがたいです。
 あと15秒で消しますが、消した後も眼を動かさないでください。中央を見ていてください。
 消します。色の残像が残ったと思いますがいかがでしょうか。どういうふうに見えたでしょうか。残像というのは我々の生体系にとっては大切な事項です。色残像は理にかなった合理的なシステムの結果として、生じるものです。恐らく多くの方には次のような残像が生じたと思います。黄色の後には少しブルーイッシュな残像が、グリーンの後にはピンクの残像が、ブルーの後にはイエローイッシュな残像が、赤の後にはグリーンの残像が生じたと思います。微妙に違う方がいらっしゃるかもしれませんが、それは色の仕組みが少しだけ違うからです。決して病気ではありません。
 ここで皆さんへの質問です。
 私がここに持っている紙、色紙についてどういう色かを想像してください。この色紙は一様な色の紙ですが、黄味と青味を持った色紙です。どのような色かを想像してください。さて、皆さんはどのような色かを想像できたでしょうか。多くの方が想像できなかったのではないかと思います。
次の色紙は、黄味であり、赤味を持った色紙です。どのような色かを想像してください。これはすぐ想像できると思います。だいだい色がそれです。
 次は、赤味であり、緑味を持った色紙です。さて、どうでしょうか。これも想像困難です。
 それから、赤味であり、青味を持った色紙です。さて、どうでしょうか。これは紫とすぐ想像できます。
 4つの質問に対して、2つが困難な問題でした。こういうことをやっていますと、皆さんは慢性疲労症候群になるわけでございます。(笑)
 黄色と青というのは実は、多くの方にとっては共存し得ない色なのです。また、赤と緑も共存し得ない色なのです。
 先ほどご覧になった色残像は、これらの共存し得ない関係で生じていたのです。
 結論を申しますと、黄色と青というのはどちらがプラスでどちらかがマイナスという関係でございます。どちらがプラスでもどちらがマイナスでもよいのですけれども、プラスマイナスの関係です。それから、赤と緑もプラスマイナスの関係です。赤でかつ緑といったら、プラスであり、かつマイナスである、と言うことと同じなのです。皆さんが想像できないのは至極当然なのです。
 人間の色覚について、そのエッセンスを他のたとえ話で簡単に説明します。身長と体重と座高という物差しがあったとします。これらの物差しを使ってある種の変換を行ない、新しい物差しを作ります。大きい人という物差し、それから横幅が広い・細い人という物差し、足の長い・短い人の3種の物差しです。これらの物差しを使いますと、身体のイメージが上手く表現できます。
 実は、皆さんの視覚系も同じようなことを行なっているのです。視覚系の物差しは、錘体という3種類のセンサーです。そしてこれらの情報を変換して、明るいか暗いかの物指し、赤か緑かの物差し、そして、黄色か青かという物差しを作っているのです。そして、それぞれはプラスマイナスの関係です。
 ところで、色残像は物体認識において重要な働きを持っています。それは、照明の色が変わっても、物の色の見えがあまり変化しない機能です。もし、照明の色によって色判断が変わると困ったことになります。肉屋では赤い照明によって新鮮に見えた肉が、家に帰ったら変な色だったということになるとこれは大変です。しかし、皆さんの眼には色残像機能がありますから、ごまかされないですむのです。
 色残像の機能を他の例で説明します。サングラスをかけた時の視機能について述べましょう。青いサングラスをかけたとします。かけた直後は、光景全体が青味を帯びますが、次第にその青味は消失して、元通りの光景になります。青味のサングラスの効果は、色残像の機能によって打ち消されるのです。
 もう1つの例として、森林浴のために緑の森に行った場合を考えて見ましょう。緑の多い環境に入ることになります。そういう環境では、緑の微妙な違いを識別する能力が高い方が好都合です。別の状況で言いますと、日本で生活する時は、日本人の顔の識別が優れていた方が好都合ですが、日本以外の例えばヨーロッパで生活する時には、その地域の人の顔の識別能力が優れていた方が好都合です。
 視覚系の環境へ順応というのは、直面している環境での物体認識の識別能力を高める役割を果たします。緑に順応いたしますと、微妙な緑の違いの識別能力が高まることになります。
 視覚系は、順応によって、このような優れた能力を発揮するのです。
 (図22)
 次に文脈効果についてお話します。例えば上左図では、同じ輝度の2つグレーの部分は同じ明るさに見えます。また、上右図では、同じ色度の2つの緑の部分は同じ色に見えます。しかし、周辺の状況が変わりますと変わって見えます。右側のグレーの部分を少し下に移動させますと、暗い灰色に変わります。また、右側の緑の部分を少し右に移動させますと、黄緑に変わります。
 中図では、半円の灰色部分は同じ輝度です。しかし、半円の明るさは、周囲の状況で変化します。
  下左図では、矢印で示している色片は同じ色度ですが、違って見えます。しかし、下右図のように、周りを隠しますと、同じ茶色であることが確認できます。同じ色度でも、背景との関係で随分と色の見えが変るのです。
 これらは対比現象と言われるものです。
 これらは、様々の環境の影響を消去するための視覚の機能が働くために、起こる現象です。
 (図23)
 次に、形の対称性についてお話いたします。この部屋を見渡してください。対称性を持たない物がこの部屋に幾つあるでしょうか。対称性のないものは見当たらないようです。このように、我々の周囲は、人工物も自然物も含めまして、ほとんどが対称性をもった物なのです。我々の認識の対象になるのは、ほとんどが何らかの対称性を持っていると言えます。物体認識に関わる情報処理において、この拘束条件を入れると、理論的には、物体認識の計算は随分と簡単になります。実は、我々の脳は、この拘束条件を使って物体認識の計算をしています。
 (図24)
 対称性の物体の例を示します。これは雪の結晶でございます。見事な対称性を持っています。
 (図25)
 これは家紋でございます。全部で70個ありますが、ほとんどが対称性をもっています。一部のものについては対称性が不完全ですが、このようなものは7個しかありません。この事実は、人工物であっても対称性の形が好まれていることを示しています。
 (図26)
 この図で見ていただきたいのは、対称性は1つのまとまりをつくるということです。
 左側の2つの図を見てください。何に見えますか。対称ゆえに1つのオブジェクトになっています。だから、要素に分けてこれらを理解することは、非常に難しいのです。これらは、実は、右に示すように2つの要素が接して構成されているのです。
  対称性を持つと、1つのまとまりになりますので、それを要素に分割して見るのは困難なのです。



3.龍安寺石庭の魅力

 龍安寺の石庭の話です。
 対称ということをもう少し完璧にするには、定義をしなければなりません。例えば、2つの石が配置されている時の対称は、どのように定義されるでしょうか。我々は、2つの石を池に落とした時の2種の波面が交差するところを対称(対称軸)と定義いたしました。そして、この定義を数式で表現しました。その式には石の大きさも含めました。
 身体の場合には、小さい石が身体の境界にそって連続的に並んでいると考えればよいわけです。対称軸は図に示すようになります。図の黒い部分が、対称性に対応する部分になります。
 数学的な表現形式を使って対称の定義をすれば、広く一般図形に対して、対称軸を計算することが可能になります。
 (図27)
 物の形は、対称軸の情報によって、かなり正確にわかります。このことは、物体認識において、対称軸がいかに重要かということ示しています。その具体例をお示しします。
 
(図28)
 ここに4つの図があります。左側の図は、対称軸をディスクリートな幾つかの点で表現しています。対称軸のところにある点です。右側は現物の実体です。そうした時に左側で、右側と余り変わらぬぐらいの認識ができるのです。動いている場合に、特にそうです。しかも、動きによって、大人か子どもかもわかります。
 このデモンストレーションで確認していただきたいのは、対称軸の情報が、現物の実態の情報と遜色ないぐらいの情報を持っているということです。
 それで、我々は、人の認識過程では、対称軸の情報が使われると仮定いたしました。形態認識の重要な要素として使われているという仮定です。形のエッセンス情報が対称軸に含まれているという仮定です。もちろんそれはパーフェクトではありません。この仮定は、心理学的な実験による科学的な根拠に基づいたものです。
 この仮定と対称軸の定義を使って、龍安寺の石庭のなぞを解く試みをやったわけでございます。これからお話しますのは、2002年の『ネイチャー』に発表した論文の内容であります。
 結論は、龍安寺の石庭が魅力的なのは、美しい魅力的な形を持っているからであります。その理由を以下で説明いたします。
(図29)
 この3つの図で、どれが龍安寺の石庭とお思いでしょうか。お互いによく似ています。一つだけ真実のものがありますが、他は、配置や大きさを変えたり、石を引っこ抜いたりして作ったものです。
(図30)
 次も4つ示します。これは、どうでしょうか。関西弁でいうと、「どれがほんまもんでしょうか」と言うことになります。
 図29では1番下が、図30では上から2番目が、本当の龍安寺の石庭です。多くの方は、正しい答えをされたのではないかと思います。このようなことを学生にやらせますと、不思議に8割から9割ぐらいが正しい答えを出してくれます。
 このように、正しい答えが出てくるのはなぜでしょうか。龍安寺の石庭が美しい形を持っているからだと思います。
 (図31)
 本論に入ってまいります。この図は、龍安寺の石庭を上から見た写真です。
 そして、ここの辺が庫裏の廊下で、こちらに庫裏の方丈があります。今はどうかわかりませんけれども、昔のバスガイドの方は「ここでご覧になりますといいですよ」という推奨の鑑賞の場所を案内されていたと聞いております。その場所がここの辺りです。
 実はこの問題を解きたいというのも、龍安寺の石庭を研究する動機になりました。
 (図32)
 この図は、我々の対称軸の定義にしたがって、2つの石と人間の身体について対称軸を計算したものです。
 (図33)
 この図の左は、龍安寺の石庭を上から見た図です。右は、我々の対称軸の定義に従って、龍安寺の石庭の中心軸を計算したものです。黄色の線が中心軸です。2分枝構造を持って、方丈の間から庭のほうに広がっています。推奨の鑑賞場所は方丈の間の○で示したところです。この2分枝構造が龍安寺の石庭の形態的エッセンスなのです。ですから、龍安寺の石庭の形について問に対しては、言葉では表現できないかも知れませんが、この2分枝構造がイメージ(形)の骨格(形態的イメージ:実際の形態の核心的情報を持ったイメージ)になるのです。
 この形態的イメージが魅力的かどうか、というのは別の話でございます。
 (図34)
 我々は、石の場所を動かしたり、背を高くしたり、幅を広くしたり、配置を変えたり、石を増やしたり、減らしたりいたしました。その時、どういう形態的イメージになるかを様々のケースで計算しました。
 (図35)
 これは、その一部を示したものです。例えば、ここにあった石(左から2番目の石)を引っこ抜くとどうなるか。この黒い部分が中心軸です(左図)。中心軸(枝)は非常に単純になります。今度は一番端の石を除くと、分枝構造が壊れてきます(中央図)。石を足すと2つの枝になります(右図)。可能な限り、このようなことを多数やりました。
 (図36)
 これは、このような例をさらに示したものです。ここには、8つのケースを示しています。
 このような形態的イメージのどれが、禅のお寺に相応しいでしょうか。どれが皆さんにとって、癒されると言ったら、いき過ぎかもわかりませんけれども、皆さんの精神状態を禅に近づけることができるでしょうか。禅寺は、思考する、考える場所である、瞑想にふける場所です。そういう場所に相応しいのはどれでしょうか。これは主観でございますので、あえて強く言いませんが、AかBが禅のお寺に相応しいのではないでしょうか。
 庭師は、イメージを最初に作って、造園したのだと思います。
 石の高さは、高かったり低かったりしていますが、もし石の高さを同じにしたら、どのような構造になるかも計算しています。
 (図37)
 この図がその結果(右図)です。高さを同じにすると、余分の枝がでてきます。これは余計じゃなくて、魅力的だなという方もいらっしゃるかもしれませんが、多くの方にとっては、邪魔に見える枝で、切りたくなる枝に見えます。



4.疲れやすい視環境と癒しの視空間

 (図38)
 次に疲れやすい視環境とは一体何だろうか、ということについてお話します。
 先ほど「視る」というのは何かということに対して、推論することであると申しました。従って、疲れやすい視環境とは、推論作業を困難にし、疲れをもたらす環境ということになります。別の表現をしますと、推論作業に過大の負荷をかける環境ということになります。
 (図39)
 視るとは、先に述べたように、過去の経験に基づき、視覚情報を使って推論によって対象世界を認識することです。このことから、疲れやすい視環境とは、視覚の推論作業を困難にする環境と言うことができます。
 このような環境には、次のようなものがあります。
 1)推論できない視環境
   不可能図形や不自然な図形など
 2)推論の困難な視環境
   ロールシャッハ図形やダルマシアン図形など
 3) 多義的な視環境
   ネーカーキューブ図形など
 4) 複雑すぎる視環境
   色、形、重な等が多数含まれる図形
 5) 単純すぎる視環境
   砂漠や南極の中では、白一色の均一な光景が見られますが、このような光景は
   視点が定めにくく、覚醒レベルを低下させ、ヒトを苛立たせます。
 (図40)
 具体的に示します。例えば、こういうのをご覧になった時は、皆さんは認識できますか。これは、認識が困難な図です。これを見ていたら腹が立ってくると思います。(笑)
 腹が立つというのは何故かと申しますと、脳が情報処理できないからです。若い人の遊び場所に、このようなものを作るのは構わないけれども、日常の生活の空間にこのようなものを作りますと間違いなくストレスになります。腹が立ってきます。腹が立つとぶっ壊したくなるわけです。
 
 (図41)
 これもそうでございます。理解できない図です。皆さんの間尺に合わない。皆さんの能力が優れていないと言うのではなくて、皆さんの現在お持ちの脳では、理解困難なのです。実は知識が災いしているのです。
 (図42)
 これは、パッと見たら理解できるような気がするのですが、じっと見ていると腹立ってくる図です。これも、皆さんにストレスを負荷する図です。じっと2時間ほど見ていたら、一過性の疑似慢性疲労症候群に、おなりになると思います。
 (図43)
 これはロールシャッハです。何だろうと想像力をたくましくされる。しかし、結構これも解けない。解けない時は、皆さんの脳は無意識に一生懸命働きます。皆さんが嫌だと思っても勝手に働く。それを拒否するためには、眼を閉じるしかないのです。視覚は無意識に努力するから厄介なのです。
 (図44)
 これはどうでしょうか。こういうのを見せてくると、だんだんお腹立ちになるから、早くやめないといけないわけですけれども。ここには馬が5頭います。馬がいると聞くと、少し、おわかりいただけるかも知れません。
 (図45)
 これも腹立たしいものです。不可能図形(左図)または多義的図形(右図)です。多義的図形の場合はこれをじっとごらんになっていると、皆さんの見方は変わってきます。
 このように、皆さんの理解を困難にさせる、あるいは理解を不可能にさせるような状況は作ろうと思ったら簡単に作れます。しかし、そういう環境は、過大な負担をかけることは間違ありません。従って、慢性疲労症候群を発生するような環境を作っていただいたら困るということでございます。
 (図46)
 これはピカソの絵です。ピカソの絵の全画面を壁面一面にした時と、小さくして、こういう広いところに置いた時とでは、印象が全然違うわけでございます。大きかったら腹立ってきますが、適当の大きさだったらある種の活性化になります。こういうものの印象は、見る側と絵の関係に左右されます。だけど、絵は鑑賞者に感性的インパクトを与えないと美術作品にならないのです。ですから、絵には精神的インパクトを与える作戦が練られているのです。
 (図47)
 これも腹立たしい絵であります。これは、私のところで実験に使用している絵であります。キュウリが出てきました、ブドウが出てきました、ブロッコリーが出てきました。これは青いイチゴです。黄色のイチゴです。緑のレンコンです。これらをじっと見ていると、見慣れない、異常な色の野菜、果物が出てきますので、気分が悪く、腹が立ってきます。実験では、そのような時の脳活動を調べるのです。そうすると、通常の時は使わない場所の脳が活動することがわかります。異常状況な時に活動するのです。通常の場所では、処理できないので、他の場所に手助けを求めているように思えます。
 (図48)
 これも、私のところで行なっている実験刺激です。実際は、もうすこし大きい画面で見るわけですが、3次元空間の中で、横から棒が通過していきます。しかし、この棒が、どこの空間を通過するのかが理解できません。理解できないから腹が立ちます。実験では、腹立った時の瞬間を、脳でとらえようとしているわけです。
 (図49)
 これは3つの重なりがある絵です。そして、横から棒が通過していきます。しかし、先ほどと同じように、この棒が、どこの空間を通過するのかが理解できません。理解できないから腹が立ちます。
 (図50)
 さて、これはどうでしょうか。真っ白の絵です。これもじっとして部屋にいたら頭がおかしくなってきます。真っ白の部屋。現実には、ふすまでも壁でも何も模様がない1色のものは、ほとんどありません。必ずある種の模様がつけてあります。視覚的に言いますと、模様があることによって、眼はそこを注視することができますが、模様がないとピントをどこに合わせたらいいかわからない。従って、視作業が何もできないことになります。眼はフラフラする。そして見たという実感がないので、いつまでたっても見ようという努力をする。最後は腹立ててくるという図です。単純過ぎる、というのも非常に危ない図形なのです。
 
 
5.むすび
 
 では、癒しの視空間とは何か。
 「視る」というのは、対象を認識し、自分がその環境の中のどこにいるかということを推論することです。その推論作業に負荷をかけない視環境が、癒しの視空間になるだろうと思います。パッと見て「あ、わかったよ」と言える環境です。推論の不可能な環境とは対極の環境です。
 (図51)
 それから、一義的な視環境でなければなりません。先ほどチラッとお見せした中に、多様に見えるもの、多義的なものがありましたが、これは駄目です。
 (図52)
 それから、複雑過ぎない環境、単純過ぎない環境でなければなりません。龍安寺の石庭のように、適度に複雑で、一義的で、形がきれいというのは、癒しの視空間の一例であると思います。これが今日の話の結論でございます。
 丁度時間となりました。終わりたいと思います。ご清聴ありがとうございました。(拍手)




 

フリーディスカッション

與謝野
 
ありがとうございました。
 誠に前頭葉を刺激する眼の覚めるお話を数々お聞きすることができました。「癒し」を覚えるにはその空間が「推論の容易な視環境、あるいは一義的な視環境であること」という端的な表現がございましたが、これは大変に示唆深い言葉と感じました。例えば神社の参道とか、都内でいえば浅草の仲見世の、ああいう軸性の強い空間に身を浸す、あるいは、ツインタワーや狛犬の二つの石造の間の空間ような、ああいう2つの「もの」の間には、潜在的な軸性を人間の脳に想起させるものがあるというご指摘。そこにものすごく印象深いものを人々の意識界と無意識界とに暗喩する。そこに何か強く作用するものがあるかもしれないということは、朧気ながら概念把握はしているものの、改めて科学的な立場で、その軸性のようなものと人間の認識構造との関係性や、脳でくみ上げられるイメージ形成の仕組み等々を、知覚心理学からの視座で誠にビジュアルに分かり易く説明され、再現性を満たした素晴らしい識見でございました。大変愁眉を開く思いであり、示唆深いお話であったと思います。ありがとうございました。
 時間がございますので、お話しいただきました江島学長のお話について、この点をさらに詳しくお話頂きたいとか、疑問な点なりのご質問がございますれば、お受けしたいと思います。どうぞご遠慮なくお申し出下さい。

江島
 龍安寺の問題を最初に言ったのは、私が京都大学にいる時に博士に来た学生です。その学生は、実は南アフリカからの留学生でございます。日本に来た動機は、日本の文化に興味を持っていたことです。そして、日本に来て庭園に行った時に、どうして魅力的なのだろうか、という疑問を持ったそうです。彼自身は工学の出身で、認知関係のことを研究していました。そして、私のところに来て視覚という切り口で研究することになりました。それで、この問題を認知科学的に解こうということになったわけでございます。
 日本人はそういうことを思わないですね。慣れのためか、そんなもんだと初手から問いすら発しないのです。しかし、彼らは、タイミングもあったと思いますが、ある種の感銘を受けて、自分の専門的な問題としたのです。
 共同研究者の他の一人は、能面の表情を研究していた人です。この方も外人です。カナダの人です。我々が何とも思ってない問題に、彼らは疑問を感じ、それを科学的に解こうとする。この経験は、足もとがすくわれたような気分でした。
奥村(潟Cリア)
 設計なんかで、視覚的な錯覚というのを利用したりすることがあると思うんですが、そういうこととストレスといいますか、癒しといいますか、そういうものと関係がありますでしょうか。
江島
 錯覚の現象というのは、先ほど言いましたように、照明の影響をなくすとか、我々は形を認識するための巧妙な仕組みの副産物としてでてくるものです。そういう意味では、視覚のエッセンスの情報現象です。錯覚という言葉の意味を修正させていただきます。
 それから、先生のおっしゃったことについては、私はまだコメントできる材料を持ち合わせておりません。申しわけございません。
奥村(潟Cリア)
 一番単純なこととしては、遠近法の問題がありますね。あれを平行線をずらすことによって、いろんな空間的な錯覚ができると思うんですけど、そういうことについてはいかがでしょうか。
江島
 それは多分、随分使われていると思います。エンタシスなどはまさにそうですから。空間的な錯覚効果はいろんなところで使われています。絵にも使われていますし、建築物にも使われています。そこについての私自身のコメントはありませんが、龍安寺をお造りになった方も、視覚効果というのを十分知った上で造られている、ということは間違いないと思っています。しかし、それをどういう意識でお使いになったかというのは、我々はまだ理解できていませんが、必ず科学的な根拠は存在すると認識しております。
奥村(潟Cリア)
 
それによって疲れるとか、そういうことはないでしょうか。
江島
 そういうのはないと思います。別の次元での話であると思います。
石渡(元気堂)
 デザインをしております石渡と申します。
 我々の世界そのもののお話をいただきまして、ピカソの絵をでっかい絵で長い間見ていると腹が立つという、えらい示唆に富んだお言葉をいただきました。
 それはおいておきまして、龍安寺の石庭が、軸がありながらも、カジュアルでありながらも、安定しているというお話をいただいてびっくりしています。我々の教科書では、キリスト教の教会はゴシックで、完全にシンメトリックな場合は、安定的で、知的。
ディスプレイやウインドーを作る時はスローに、スポーツ屋さんの場合には、もう少し動きがあるように、というふうになっているんですけど、龍安寺のような場合は、どちらともなく、結局落ちついていながらも動きがある。動きがあるけれども、まさに癒しだ。そういうのは、日本だけなんですかね。よその国にはないんですか。
江島
 残念ですが、具体的にそういう目線では調べていませんので、お答えできる知識を持っていません。
 龍安寺について、マクロな部分をお話しましたが、ミクロに解析していきますと、同じ枝構造が小さくなりながら、相似形を持ちながら小さくなってまいります。まさにフラクタルの世界になっています。このような繰り返しが形の良さを作っています。繰り返されるというのは我々にとって心地良いものです。
長谷部(みずほ総合研究所梶j
 非常に面白いお話なんですが、おっしゃることが普遍性があるかどうかというのがすごく気になっていまして、人間の脳の処理能力でそういうことならば、人類なら基本的に普遍だと思うんです。そうでなくて、経験によるインプリンティングみたいなのが、パーセプションにすごく影響しているとすれば、育ちの環境とか、そういうのによって違ってくると思うんです。そこのところは、どういうふうに判断されておられるかというところを教えてください。
江島
 結論は普遍的だと思います。先生がおっしゃっているのと少し違う意味で、普遍的だと思っています。我々生き物は、常に変化する世界の中で生活しています。いろんな拘束を受けながら生活しています。それを取り払って、環境が何も変わらずに、同じということはないと思います。変化する環境で生活する、という前提に立った時の脳のあり方は、情報学的に言うと、環境との関係において極めて効率的にシステムを作ります。従って、環境の影響を強く受けることになります。しかし、効率的にシステムを作るというスタンスは普遍的だろうと思います。あらわれ方は、環境が違えば異なるのは、当然だと思います。
 例えば、これは人間だけじゃなくて、我々と動物という枠組みで考えてもいいと思います。我々の人間の中でも、色の世界というのは3色型と2色型がございます。従って、3色型の方と2色型の方の人では、色覚のあらわれ方は違います。しかし、センサーを使ってどういう脳の情報処理をしてやるかという計算の仕組みは、3つであろうと2つであろうと、動物であろうと、これは同じだと思います。いずれも、同じような効率的な情報処理を行なっていると思います。2つのセンサーか、3つのセンサーかという前提のところはたまたま違う。しかし、スタンスとか処理の仕方とかは同じだろう、と思っています。
 もう1つ言わないといけないのは、そういう中で我々が環境とどうかかわるかということも実は、非常に環境依存的だと思います。そして、我々の生活のやり方とも関係します。例えば、我々は二足歩行するわけですけれども、これが普遍的かという質問と同じだと思います。我々は二足歩行が普通だと思っていますが、これは我々の行動を変えれば簡単に変わります。そういう意味で、普遍的という表現は、環境とのインターラクションでしか現実の姿はないと思います。環境との関係で作っていく作り方は、多分、時代を超えて共通だろうと。これが私の普遍的の意味でございます。
長谷部(みずほ総合研究所梶j
 よくわかるんですが、例えば、墨絵って、中国人とか日本人は十分完成した絵だと思って見ていて心地いい。だけど、油絵の世界の人って、塗り残しのあるところって、さっきのお話のように腹立たしい。これは塗らなきゃいけないという気持ちになるわけですね。我々のように、墨絵の世界に住んでいる人にとって心地いいものが、ある人にとっては心地よくない。癒しって、実は普遍的ではないのかもしれない。そういうところが気になって。
江島
 そういう意味では、自分の生活空間の活動範囲の中のどこの役割をさせるかということではないでしょうか。あるポジションだけとると、全体像が違いますので、おのずと変わってくると思います。だけど、全体像の中の位置づけは、多分、同じじゃないかと私は理解しています。全体像じゃなく、ピンポイントでとらえると恐らく違うということでございます。
石渡(元気堂)
 質問ではなくて、今の方のお話に続くんですが、第1次世界大戦から第2次世界大戦を過ぎて、戦後、フランスの方で『近代芸術の革命』という本を書いた人がおります。その方は世界全体が病んできたので、野獣派、立体派があらわれてきて、決して今の油絵は正当ではない、こういう本を1950年代に書かれています。そのことは、今の墨絵と油絵の比較という側面で視ると、私はまさに、癒しという視点から、先生がおっしゃった本来的な視点としての癒しに、多分、油絵も戻る可能性もある、と言ったら変ですけれども、そう思うんです。えらい、とんでもないお話をして済みません。
江島
 ちょっと話をそらして恐縮でございますが、例えば、こういう話があります。最近の若い人はそうじゃないかもわかりませんけれども、日本人は色彩のセンスが悪いとよく言いますね。それに比べて、イタリアなどヨーロッパの人は色彩のセンスがいい。
 これについての私の解釈は実はこうなんです。ヨーロッパはいろんな戦争があって、例えば色彩豊かな家を造っていようものなら、外から攻撃を受けて、あっという間につぶされたという歴史を持っています。そこで対策として何をしたかというと、外からはできるだけ目立たないような外壁を造った。だけど、それでは精神的には非常に貧しいわけでございまして、家の中で、実は自分で工夫していろんな家具類を造るとかをやってきた。物を作る時は、当然色を使ってそれを楽しむ。それによって精神的なゆたかさを獲得した。
 それに比べて日本はどうか。色彩というのは四季折々、我々の周囲にいっぱいある。我々はそういう努力をしなくても色を楽しむことができた。物を作って色を作って色を必要があまりなかった。 物を作ると必ず反省が始まります。失敗したとか、うまくいったとか。そうすると、その繰り返しはどんどんセンスを磨いていくことになる。だから、日本人が色のセンスが悪いというのは、ある意味では褒め言葉になるのではないかと。
武者(兜錘メデザインプロジェクト)
 今いろいろお話が出ましたけれども、今日は非常に興味のあるお話でした。
 1点質問があります。龍安寺の石庭の中心軸のお話で、あれは平面から見た時のボリュームを見て、面積を見て、中心軸を決められてやった。そうすると、面積的なバランスだとは思うんですが、先ほど絵を回していただきまして、光源によって感じ方が違う。感じ方が違うとバランスが崩れると思うんですが、例えば、朝日で見た時と夕日で見た時と全く逆のコントラストができるとしたら、多分視る視点の中心軸というのは感じ方が違うんじゃないか。そうした場合に、四季折々でベストポジションといわれるところが変わってきて、しかも上下に、立った時の方がいいとか、座った時の方がいいとかいうことが起きるんじゃないですか。
江島
 まず一番最後の質問についてですが、おっしゃる通り、立った時の方がいいとか、座った時の方がいいとかいうことは起こると思います。それについては検討していません。
 それから、前の方の質問で、照明の影響はどうかということですが、これについては、あまり影響しないと思っています。視覚系は、全体の照明が変わった時は、その効果というのを打ち消すような仕組みをもっていますので。例えば、ブルーの色眼鏡をかけてもブルーの色はつきません。
 上下の問題については、どのように処理したらよいのか、今悩んでいるところでございます。ありがとうございました。
菊池(亜細亜大学)
 大変興味深いお話ありがとうございました。
 1つだけ質問させていただきたいんです。最初の方にちょっとありました、現代社会の中で、私たちはどうも疲れやすい環境にいるんじゃないか、という、その話とくっつけてお話しさせていただきます。
 私は、大学で経済学とか財政学とか、その延長でまちづくりなどにかかわっています。今日のお話を伺いますと、個々の建物、ある小さなエリアをとってみますと、今言ったように、癒しの空間と見られるようなものはたくさんある。ところが、それが複合すると、テンデンバラバラで、癒しじゃなくて、それこそ疲れやすい視空間ができ上がっている。そういうことになるんじゃないかな、と大変参考になったわけでございます。
 そうしますと、例えば、先ほど出ましたように、龍安寺の石庭で、フラクタル理論というんでしょうか、小さなものを大きくしても同じ構造をしている。こういう構造上の改善が必要なのかな、と1つ示唆を受けたわけです。
 1つ、色に関して質問なんです。例えば、ちょっと昔、高層のマンションが建って、色が白で、そこで自殺者が増えたらしいんですね。そこでマンションの壁にちょっとした色をつける、それで随分減ったということも聞いています。
 それから、ヨーロッパと日本人の色使いがちょっと違うというお話の中で、特に建物の外壁を日本人はどうも自然に溶け込む、自然の中に沈む色を選びがちだというんですけれども、逆に自然と対照的な色を使うことである種の快い刺激と言いましょうか、それを目指す部分もあると思います。この辺、先生はどうお考えでしょうか。
江島
 申し訳ありませんが答えはございません。しかし、質問に関連して、私なりの考えはあります。それぞれの社会とか文化と言った時に、そういう社会生活をする上において、自身の位置づけということがまず基本的に違うところに理由があると思います。しかし、全体像をとらえて、自分の位置づけを行い、アクションを起こすスタンスについては、かなり共通性があるのではないかと思います。生体は、そのようなものだと思います。確証はございません。生体をやっていけば、非常に合理的だという意味で、そういうふうに短絡的な発言をしているのです。
與謝野
 他にご質問はございませんでしょうか?
 それでは、今日は都市における癒しの空間のありようについて、知覚・認知心理学という独特の科学者としての視座から、貴重なお話をいただきました。会場の皆様の日頃のお仕事なり研究、あるいは活動なりに少しでも活かして頂ければ、主催者としても幸甚であります。
 また、会場から熱心なご質問を多くいただきましてありがとうございます。そして、ご丁寧に熱っぽく、そのご質問にお答えをいただきました江島学長様、ありがとうございました。
 それでは、最後に、貴重なご講演をいただきました江島学長に感謝の気持ちを込めて大きな拍手を贈って頂いて、本フォーラムを閉じたいと思います。(拍手)
 ありがとうございました。


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