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第217回都市経営フォーラム

『首都直下地震』

講師:  伊藤滋氏 早稲田大学特命教授

日付:2006年1月26日(木)
場所:日中友好会館



1.地震調査研究推進本部(地震調査の体系的整備)

2. 中央防災会議(ミュンヘン再保険会社の危険度算定・FEMAとの比較

3.地震発生の想定(何時、どこで、どれ位の規模;他の大地震との比較)

4.東京湾北部地震

5.被害の想定(最大、中央、最小)

6.被害の特性@(土木構造物と建築、倒壊と延焼、瓦れき発生量)

7.被害額

8.被害の特性A(人的被害、避難民、一時帰宅困難者)

9.被害の特性B(中枢管理機能、ライフライン)

10.減災の重点分野(BPC、耐震化、初期消火率)



 

 

 

 

 

與謝野 皆さん、こんにちは。新たな年を迎えることとなり皆様におかれましては、本年も引き続きよろしくお願い申し上げます。
  本日は、既にご案内のとおり、年頭恒例ということで、伊藤滋先生のご講演をお聞きすることになっております。演題は、「首都直下地震」としておられます。
  昨年も一昨年も、人災、天災は息も切らず発生いたしましが、私どもの生活環境の安全と安心を脅かす深刻な出来事が暮れから年明けにかけても頻繁に起こっております。この中で、耐震偽装という人為的な事件とは別に、首都東京で発生が予想されております自然の猛威が襲う直下地震に対する備えの方は果たして万全なのか、この現状認識と災害予防、被害予測と復旧対応等についての知識を持つことは、我々国民・都民にとっても大きな義務ではないかと考えております。このような認識のもと、本日は皆様と共に、先生の貴重な識見をお聞きし学習したいと思います。
  それでは、伊藤先生、よろしくお願いいたします。(拍手)
 

伊藤 伊藤です。また参上しました。今日は首都直下地震の話をします。この話はパワーポイントに入れてあるんですけれども、その前に10分か15分で、白板を使って歴史の話をしたいと思います。私の若い時からの研究経歴にも深く関わることです。
  私は、昭和38年から40年アメリカに行っていて、そこで、カッコいいことをやろうというので、システム設計とかコンピューターの素朴なプログラミングとか、そういうことをやっていました。帰って来てから、高山英華先生に「おまえは都市防災をやれ」と言われたのが、昭和40年です。昭和38年にアメリカに行く前に、都市防災という言葉があるというのは薄々わかっていました。が、まさか、それを自分がこれから一生の仕事にするとは夢にも思わないで帰ってきたら、そう言われました。
  それはどういうことか。昔の話ですので、聞き流して下さい。都市工学科が昭和37年にできまして、1期生が41年に卒業したんです。当時、昭和35〜36年頃というのは工学部が倍増計画で奔走していました。あらゆる大学で、工学部のキャパシティが倍になりました。学科が倍、学部が倍、先生が倍、学生が倍です。東京大学も、私が修士を出ました昭和34年頃は、学科は10しかなかったんです。それは今でも覚えています。それが37年博士課程を出たわずか3年か4年の間に学科が20になりました。講座が倍になったんです。それぐらい、科学技術立国で日本の経済をプッシュアップするということは世論であり、国是であったわけです。
  その工学部倍増計画の一等始めは、電気工学科の増設、機械工学科の増設、応用化学科の増設などの主流の学科でした。最後に残ったのが土建系の学科の新設と、計数、応用数学系の学科の増設。土木系は最後から2番目でした。土木と建築の間に都市工学科というのを作りました。8講座できたんです。土木4講座、建築4講座。こんなことを言っても皆さん興味ないと思いますけれども、実体は、土木から1講座、建築から1講座、既存の講座を持ち出しまして、2講座、タネを作るわけです。それに建築3講座、土木3講座をサトイモのように新しく増やす。足すと8つになるんです。それで都市工学科ができた。
  その時の、4講座の講座の内容がどういうものかというのが、大変興味があった。若い時ですから、もしかすると俺も学校に残れるかもしれない、というスケベ根性もありました。土木4つのうちの3つは水関係、衛生工学ですね。1つは都市交通をやる。問題は、建築4つ。1つは、まともな都市計画です。死んだ高山英華先生がリーダー。もう1つは、丹下健三さんが教授になって作る都市デザインの講座です。これで2つ決まるんです。残り2つ。1つは、住宅。建築学会もそうだと思いますけれども、住宅というのが非常に重要な研究領域でした。今でもそうですけれども、国の政策から言いっても、建設省に住宅局というのがありました。それぐらい住宅は重要だった。当時、住宅公団もありました。
  もう1つは、何だったか。これが都市防災だったんです。オーッとみんな思いました。私は一番ペーペーの助教授ですから、専任助教授はカッコいいところを全部とっちゃいました。都市防災は、率直に言いますと、余り魅力がない。それで残っちゃった。残ったからおまえやれ、と言うんですね。何故、文部省が国の金を集めて新しく建築系で3講座増やす時に、わざわざ都市防災をつけたか。
  これは、後ろ側の流れがずっとあるんです。今日は実はそれを申し上げたかった。私は、建築の学生の時に、あんまりまじめに構造系は勉強しなかった。でも、計画系は結構勉強しまして、そこの中で面白い授業があったんです。当時昭和30年から32年、今から50年前ですよ。皆さんわからないでしょうね。その時、建築防火という講義があったんです。それを浜田稔先生というコンクリート、材料の先生がやっていたんです。狙いは何かと言うと、木造家屋の外壁をモルタルで塗り込んで、雨戸は鉄板で埋めていく。そうすると、木造の建物は延焼で簡単には燃えないというわけです。これが当時非常に重要な、都会を燃やさない工夫だということでした。
  都市防火というのは、実は軍事研究だったんです。私が建築の学生だった昭和30年頃は、建築防火と言っていました。建築防火を浜田先生が教えた時の技術は全部防空建築です。防空建築という軍事技術を平和利用するということで、建築防火という講義をしていたわけです。
  防空建築とは何か。結局、3つぐらいの手法が、昭和18年から20年の、足かけ3年の間に、日本の大都会でやられました。1つは、中央官庁、役所の屋上にコンクリートを1メートルぐらい厚く塗るんです。それによって、例えば、昔の人事院ビルとか警視庁、そういう建物が爆撃でやられても、屋上ではね返して、下の建物は貫通しない。そういうことをやりました。それだけコンクリートを入れますと、爆弾は貫通しないんです。これは、かなり成功しました。単純ですね。
  2番目は、建物疎開をしました。僕は子ども心にも覚えていますけれども、甲州街道、青梅街道、中原街道を、防空用の空地として、周りの商店街を全部ぶっつぶすんです。兵隊が来て、よいとまけのように「えんやこら」と引っ張っているかと思うと、突然戦車が来てつぶしていっちゃう。これは江戸の頃の火よけ地と同じ考え方。要するに、大火を防ぐためには破壊消火をやる。これは江戸からの伝統です。それを第2次大戦の終わりの時もやっていましたが、これは何の役にも立たなかった。
  3番目が、今言った浜田先生のモルタルなんです。昭和30年頃、裸木造が物すごくはやっていました。モルタルを外壁にする建物よりも、もろに下見板をダーッと出していく。そういう木造建築の方がしゃれているし、品がいいし、庶民建築で安いというので、そっちが多かった。裸木造というのは、実は関東大震災でもろにその弱点が暴露されたし、昭和18年から20年までの東京大空襲でもその弱点が暴露された。
  それを何とか食いとめる、木造都市を何とか敵の空襲から守るためにどうしたらいいかと言うので、昭和の16、17、18年頃、第2次大戦始まって2〜3年ぐらいに必死になって軍事研究をやりました。建築学会の中で、木造都市の延焼に対する方程式とか、いろいろな実験値が作られました。実大の火災模型もやりました。これは、今でも役に立っています。藤田金一郎先生という建築研究所の所長をやって、東北大の教授になったものすごく頭が明晰で数学に強い先生がいました。建築学会の中で地味ですけれども、その藤田金一郎とか浜田稔とかの基本的な研究で、モルタル造の木造が、どれくらい火災に対して強いかということが証明されました。
  そういう研究が、ずっと昭和32〜33年頃進んでいたんですけれども、何故41年に東大都市工学科に都市防災ができたか。学科申請をするのが35年か36年で、学科設置が認められるのが37年、4年経って1期生が出る。その頃の大都市問題として、耐火の問題があった。僕はちょうど建築を出た頃で、東京の耐火問題なんて全く知らず、都市のマスタープランとか、都市交通計画とか、そんなカッコいいことばっかりやっていた。若者はきれいなことが好きですから。
  ところが、そういうことの後ろ側で、非常に重要な動きが社会で起きていたんです。それは「地震がまた来るぞ」というもの。そのイニシアチブをとったのは、昭和30年代初期に東大地震研の所長だった河角広先生です。プラス浜田稔教授。昭和32〜33年というのは、関東大震災があった大正12年、1923年から40年なんです。僕たちは関東大震災のことをもう忘れていた。そしたら、統計学の先生である河角広さんが、今までの地震の発生する頻度分布をずっと調べていって、ある周期関数を見つけた。それに当てはめて、関東大震災と同じ規模の地震は平均70年周期で東京に再来するであろう、という統計学的な推定を発表していた。地球物理の先生です。
  70年と言いますと、1923年に70年足すと1993年。昭和35年というと1960年です。1960年頃に河角さんは、統計の分布関数的な計算をすると、あと30年ぐらい、20世紀後半に東京に地震が来るぞという論文を出した。これは非常に素朴ですけれども、明快な論文で、政治的にもかなりの影響を与えたんですね。
  昭和32年頃の東京は、まだまだ木造都市ですよね。チンチン電車も走っていましたし、電柱だって木造でした。コンクリートじゃなかった。建築確認なんてできなくて、ビシビシと違反建築がいっぱい建ってたんですよ。木造の貸し家なんかが軒を接して裸木造で建っていた。
  そこで地震が起きたらどうなるか。火災がバッと発生して、東京は紅蓮の炎になって、特に隅田川から向こうの人は全部焼け死ぬぞ、なんていう推測をやる学者も出てきました。例えば、もう亡くなりましたが、芸大を出て建研の部長さんをやった戸川喜久二先生。本当に真剣に、ものすごくまじめな先生で、避難の大専門家。当時、映画館は、よく火事が起きていた。映画館の扉は何ヶ所、大きさはどれぐらいにしたらいいかなど、避難のスピードと避難のための非常口の開口部の研究をやっていた。戸川先生なんかが、「下町危ないな」という話をしていた。ちょうど昭和35〜36年です。
  東京オリンピックは昭和39年。「東京オリンピックをやるぞ」と東京が浮かれていたのは昭和33〜34年です。これが面白いんです。「東京オリンピックをやるぞ」と片方で言いながら、片方では「東京は危ないぞ、1990年頃は大火で関東大震災の二の舞だぞ」と、こういう話が両方動いていた。だけど、日本人というのは悲しい話は見向きもしない。楽しい話が大好きですから、やれ、東京オリンピック、東京オリンピック。そっちの方が楽しいでしょう。
  だけど、東大で学科申請をする時の先生方というのは、やっぱり立派だったんですね。オリンピックよりも、こういう地震が起きた時に、都市全体をどうして守るかということを考えなきゃいけないというので、都市防災の講座を申請していた。そのことは、ジャーナリズムには全く出ないんです。嫌な話というのは、ジャーナリズムは取り上げませんから。
  それで、都市防災という講座を文部省は認めたんです。だけど、若い先生方はカッコよくないところに行きたくないというので、結局、「おまえは、一番チビで、外国から帰ってきて算術が好きだろう。方程式の解を解くなんてのはできるだろう。だから、都市防災やれ」というので、僕は都市防災の専門家になった。気がついたら、任命されたのが昭和40年。帰ってきてすぐ、都市防災担当の助教授になったんですが、今が昭和81年ですから、以降41年こういうことをやっているんです。
  申し上げたいのは、関東大震災から現在、これからお話しするまでの間に、こういう話題が周期的に何回か、波のようにある。しょっちゅうはございません。なぜかというと、皆さん、防災ぐらい飽きてすぐ忘れる話題はないんです。完璧にそうです。防災というのは、特定の人間が必死になって、まなじりを決してやっても、その時は皆さん、「あ、そうか」と思いますけれども、すぐ忘れます。
  その一番の象徴ですが、阪神・淡路大震災の10年目の去年の1月。日本人はお祭り好きですから、5年、10年と、節目があります。去年の1月は、総理まで出て神戸で大ページェントをやりましたね。国際連合の戦略国際防災会議も神戸でやりました。しかし、今年の1月、11年目は、皆さん、もうすっかりお忘れになっています。神戸で何が起きたか、全く忘れている。防災って、そういうものなんです。
  ですから、「これは大変だ」ということを、どこかで周期的に、専門家が必死になって言う、そういうことが必要なわけです。
  僕が大学に行って、大学で都市計画なんかを勉強した時に一等初めに遭遇したのが、実は河角先生の「関東大震災のような大規模なものは70年周期ぐらいで起きてくるぞ」という話と、浜田先生の避難空地の話。これも太平洋戦争の時の防空空地の研究から出てきているんです。そういうものが、昭和34〜35年頃にワーッと出てきた。これが、僕が遭遇した1回目です。
  これには、後日談がございまして、東知事が東京都知事になった時に、非常に面白い人が、「おれも知事になる」と言って出たんです。その人は、当時の東京消防庁の長官だった江藤彦武さんという人です。昭和35〜36年だったかな。その人はものすごくまじめな人で、河角先生や浜田先生や学者の連中が、関東大震災と同じような地震が来たら東京は火の海になってしまう。これを何とか救う、国難を救うのは、消防の専門家の使命だというので、東京都知事選に立候補したんです。完璧に負けました。だけど、その職業意識と町を変えようという、侍のような姿勢というのは見事なものだと、私は、アメリカに行く直前にそれを見て、これはすごい男だなと思った。
  繰り返し言いますけれども、アメリカに行く時は、まさか僕が都市防災の先生になるとは夢にも思っていなかった。帰ってきました。河角さんの69年だったか、72年周期説というのは、しばらくずっと昭和の50年ぐらいまで寿命がありました。それには、いろんな理由がありまして、後でまた申し上げます。
  それから、しばらく経ちまして中曽根政権の時です。中曽根政権は1985年、昭和60年ぐらいでしょうか。その頃、河角さんが言う1990年危ないぞということが学者の意見として政治の中に残っていた。それで、中曽根さんは「これは何か考えなきゃいけない」というので、南関東を対象に、国家が大々的に地震被害の推定をいたしました。その時の被害推定の技術というのは、極めて今のシステムエンジニアリング的でした。河角先生の頃は素朴な足し算、引き算だったんですけれども、中曽根さんの頃の被害想定になると、コンピューターをかなり使った面白い確率的な想定のやり方もやっていた。当時、私は都市防災のもろの先生でしたから、その作業過程、技術的な検討過程を大学院で講義したりしました。これは非常に役に立ったんです。そして、その被害想定は、南関東に関東大震災クラスの地震が来た時の死者が、3万5000〜6000人と出た。
  ところが、当時、昭和60年頃、3万5000〜6000人の死者というのは極めてショッキングな数字だったんです。僕たち作業部会はそれを出しましたけれども、中曽根政権は最後までそれを公表することをしませんでした。その作業成果はその後、東京都の発表とか神奈川県の消防の発表とかいう、個別的な地方の消防関係の専門家の被害想定とすり換えられていったわけです。
  これが2番目の大きいピークです。1990年頃、中曽根政権の時です。南関東を主体にした関東大震災規模の地震が東京の真ん中で起きた時、どれぐらい危ないか。まだ江東デルタが危ない、危ないと言いわれていた時です。
  ついでに申し上げますと、話はもとに戻りまして、墨田区の北側に白鬚の防災拠点ってあるでしょう。あれは、何でできたか。東京都知事選で美濃部さんが保守系の知事を負かして知事になりましたね。昭和42〜43年かな、それから3期か4期やったんですね。その時に美濃部さんは、悪評高い外郭環状道路建設反対をやりました。世の中の一般庶民のために役に立たない公共事業は東京ではさせませんということです。美濃部さんという人は学者貴族なんですね。カッコいいことばっかり言っていた。
  ただ、そこの中で美濃部さんが1つだけ、これは大事だと取り上げたのが、昭和37〜38年頃に出た、関東大震災になるとこんなことになるという被害想定の報告書です。そこでは、江東デルタ、当時80万夜間人口が住んでいました。その80万人の中の30万人ぐらいが、気をつけないと焼け死ぬぞというレポートだったんです。それに美濃部さんは目をつけて、こういうところの不燃化問題はものすごく大事だ。防災拠点だけには金を幾らかけてもいい。ということで、これが美濃部都政の第1号の仕事です。その対象として、白鬚の防災拠点ができ上がったんです。べらぼうな金がかかりました。当時の金で1000億円ぐらいかかったかな。すごい金がかかりました。
  再開発のやり方も、地域住民の八百屋さんとか魚屋さんに全部満足するような仕組みにしました。全部、東京都民の税金を投入したわけです。具体的に言いますと、通常、再開発というのは、ご商売をしている八百屋さんでも魚屋さんでも、12坪の商売をしているところがあったとしたら、お金を一文も出さなければ、大体8坪ぐらいになるんですよ。当たり前ですよね。間口は3間間口でやっていたら、2間間口とか2間半間口になる。これが再開発の常識です。
  ところが、その白鬚の防災拠点の再開発は、今まで木造のお店で小間物屋さんや魚屋さんをやっていたご商売の人が、2間間口でやっていたら、2間そのままを補償しました。間口補償したんです。これは、都民の金が入るということです。
  彼は社会党系だから、労働者よ立ち上がれという人たちが墨田区にいっぱいいますから、そちらをえこひいきしたんでしょうけれども、それにしてもべらぼうな金でした。白鬚の防災拠点というのは、東都政から美濃部都政に替わる時に、たまたま都市防災の専門家が言っていた被害の深刻さを、美濃部さんが取り上げて造った遺物です。
  あれができ上がって5〜6年経って、僕が、あるアメリカのアーバンデザインの先生を、「日本で地震が起きた時に逃げ込める人工的な避難場所を造ったから、見せてやる」と言って白鬚に連れて行ったんです。一等初めに言った言葉が、「あれは刑務所だ」言いました。「サンフランシスコの島、アルカトラズのような刑務所だ。ひどいものを造った。焼けないように人を守るということも大事だけど、ああいう建物に住んでいる人の人権とか自由に対する物の見方を、どれだけ拘束しているかわからない。建築家の罪だ」とはっきり言いましたね。
  前置きの方が面白いもんですから、もうちょっといきます。
  中曽根さんの後に起きたのが、例の阪神・淡路です。阪神・淡路は、本当に地球物理学者泣かせでした。私たち工学部で防災をやっている学者は、地球物理の学者がこういうところが危ないぞと言った所に対して焦点を当てながら、そこで耐震診断をしたり、備蓄基地を造ったりします。ですから、阪神・淡路の地震が起きて、「しまった」とは、工学部の建築土木は思わないんです。一番「しまった」と思ったのは、理学部の地質を出て、活断層を調べていた専門家と地球物理学の地殻構造の地震の変動を推定していた学者たち。本当に慙愧だったんです。
  反省はともかく、阪神・淡路の地震の後に、非常に賢明な動きが出てきました。これが今、私たちの地震対策に非常に役に立っています。10年前の地震の問題は、予知というのが非常に重要でした。地震は予知できる、という話がありました。そのスタートは、駿河湾沖の地震です。大震災対策特別措置法という法律があります。特別措置法で、静岡県を中心にして駿河湾地域の住民を地震の時に安全に守るというのは、地震予知ができるという前提なんです。地震予知で1週間前に危ないということがわかる。3日前は、もっと危ないということがわかる。24時間になると、確実に危ないというのを国民に知らせることができるという前提で、駿河湾を中心にした東海の大震災の特別措置法ができているんです。
  ところが、それを作ってから阪神・淡路の地震までに地球物理の学者の間で大論争があって、予知できるというグループと予知できないというグループが2つに分かれていた。予知は本当に可能かどうか、というホットな議論があった真っ最中に、阪神・淡路の大震災が起きた。測地学の研究者グループが、確か予知ができると言っていた。それに対して、地球の地殻構造を調べている人たちの方が、予知ができないと言っていたんでしょう。これは地球物理の世界の大論争で、今でもあるんです。その大論争の真っただ中で、阪神・淡路の大震災が起きました。今から10年前ですね。両方とも、誰も阪神・淡路は予知できなかった。
  地震が起きた後に、政府はある行動をとりました。これは議員立法だったと思います。これだけ深刻な地震が起きるということは、事前の調査体制について必ずしも十分な調査体制が組まれ、調査結果が得られてなかったと考え、これについて基本的に政府は、調査体制、調査活動をバックアップして、国民に不安を与えないようにしようという法律を作ったんですね。それが、地震調査研究推進本部を作る法律だったんですね。
  それまで、地震が起きる、起きない、ということを地震学者はいろいろ言っていた。しかし、どういう場所で観測して、危ないか、危なくないか、と言っていたかというと、残念ながら地震の調査研究に学者の縄張りがあったんです。例えば、京大の防災研究所の学者は、九州の霧島の辺。九大の地球物理系の先生は、雲仙を守っている。東大の地震研の学者は、浅間を研究対象にしている。北大の学者は北海道。気象庁は気象庁で、今から14〜15年前は気象庁の地震観測のメンバーは、そう多くなかったので、それぞれ大学の昔からの学術アカデミニズムが調査していない所の穴埋めをポツポツやっていた。それから、防災科学技術研究所、これも地震調査の調査地点を持っていました。
  それから、各県が、非常に素朴ですけれども、地震計を持っていたんです。神奈川県の中に何カ所とか、福島県の中に何カ所とか。そのデータがテンデンバラバラに世の中に出されていたし、一番重要なことは、地震の観測点を日本列島においてプロットしますと、ものすごく密に地震計を置いてある所があるかと思うと、エアポケットのように全然置いてない所がある。
  こういうことを前提にして、日本の地震学研究の調査は何十年とやられている。縄張りというのが、こういう研究にもずっとしみ込んでいたんですね。
  これのおかしさということについて、地震学研究の先生方みんなある程度わかっていた。しかし、それをどう直すかというきっかけがつかめなかった。それが阪神・淡路の大震災の後に、「これはよくない」ということで、本部を作った。本部に、あらゆる地震調査の情報を集める。そして、その本部がむらのある地震観測点をきちっと、密度を大体同じにして、空白域がないように観測点を作る。強震計から微震計から全部セットで入れていく。一番根本に立ち返ってそれをやらない限りは、学者の学術論文は幾らできても、我々の地震に対しての学者からのコントリビューションは得られない。本当にそうなんです。
  学者というのはそれでいいんですね。国民のためじゃなくて、学問の進展のためにやるんだから、何も日本中に地震計がいっぱいなくたっていいわけです。けれども、それはあくまでもサイエンスの領域。しかし、テクノロジーの領域においてはそういうことは許されない。

地震調査研究推進本部(地震調査の体系的整備)

 そういうことで、推進本部が作られました。阪神・淡路前までは、地震研究予算は全部の予算を集めても400億ぐらいしかなかったんですか、それが6〜7年間で
1.5割ぐらい増えました。それで、地震調査計を均等にずっと配置するようにしました。それから、海域にまで入れるようにしました。これで、ものすごく重要な防災研究の足元固めがようやくできた。
  伊勢湾台風がなければ高潮堤はできなかったとか、そういうのと同じことなんですよ。日本人というのは、人柱が何千とできない限りは、そういう当たり前のことができない。これが1点です。調査研究推進本部。
  私は、それの政策委員会の委員長を阪神・淡路の起きた翌年から8年ぐらいやりました。今は辞めて2〜3年経っています。そこでやったことは、地震調査の調査計を全国にずっと同じように入れていくということです。これが1点。
  2番目は、それに関連しながら、地震調査の予算ですが、これは、今まで気象庁は気象庁、文科省は文科省、国土地理院は国土地理院、通産の地質調査は通産と、全部バラバラに予算組んでいた。お互いが何を出しているかわからない。全部、調査本部に集めました。集めまして、各省庁が考えていることが何かというのが客観的にわかるようにして、それを調査本部の政策委員会にいる学者方の先生にわかるように調整をして、調整した結果を大蔵省へ持っていく。そういうことができるようになりました。これも相当立派なことですね。
  それから、3番目が重要なんです。調査したデータは全部、気象庁に集めて流通する。すべての地震学者にあらゆる観測データは共通に利用できるようにする。これは画期的なことです。皆様方でも地震学研究に興味をお持ちの方は、気象庁系の地震のホームページを探していくとデータがあるはずです。それは手に入れることができます。これで、それぞれの大学が今まで個別にやっていたのが、お互いに大学の研究の情報を同じレベルで議論できるようになりました。データの流通、これをやりました。
  最後に、いつ地震が起きるかということを、何とか普通の人にでもわかってもらうために、普通の人に理解してもらうやり方を考えようということを、メディアから来た委員、新聞社あるいはテレビ会社、社会科学系の先生たちに集まってもらって、発表の仕方を考えました。
  そこで出てきたのが、今後30年に何%の確率で地震が起きるだろう、という確率的な表現です。これが地震調査研究推進本部ができることで、世の中に広がってきたわけです。それをもとにして、首都直下の地震とか、宮城県沖の地震の切迫度というのがわかってきました。
  例えば、日本で一番地震が起きそうな場所は宮城県沖です。宮城県沖で、これから30年間に地震が起きる確率は、ほぼ100%です。ついこの間、マグニチュード6前後の地震が起きましたね。あれが宮城県沖地震の再来か、宮城県沖地震そのものか、というのでいろいろ疑問がありました。しかし、あれはあれで別だということになりました。そうすると、マグニチュードが6から6.3ぐらいの地震が、宮城県沖で今後30年間にもう1回100%起きる。ということは、30年間で100ですから、20年間で75とか70、10年間で50です。10年間で50というのは2分の1の確率です。これが一番激しい。
  その次に、東海沖です。東海沖の発生確率が30年の間に80何%じゃないですかね。その次にどこか、となってくると、東南海、南海が危ないんです。こういうのが、わかってきたんです。
  首都直下はどうかと言いますと、今の地震とは別系列の地震の起き方なんです。首都直下は、市民にわかりやすい表現を使えば、今後30年間で70%の確率で地震が起きる。30年間で70%というと、工学的に言えば、ものすごくはっきりしていて、20年間で50%です。10年間で30%。7・5・3です。
  20年間で50%、2分の1の確率。実態調査をやって4〜5年経っていますから、あと15年ぐらい経つと、2分の1の確率で、東京あるいは南関東にマグニチュード7〜7.3ぐらいの地震が起きるぞ、という話です。こういうのを、一応皆さんのところに言えるようになりました。
  これは、地震調査研究推進本部の調査部会がきちっと、ホームページとか本、セイスモという週刊誌のようなもので、刻々皆さんに情報を提供しています。多分皆さんはお持ちにならないと思いますけれども、そういうものを市町村、県庁の防災対策の役人は手に入れて、状況はこういうふうに変わっている、ということがわかっているはずです。
  私が学生で地震の問題にぶつかった昭和32年からのことを考えますと、半世紀で、国民に浸透し始めているこういう体制を組んで、これだけ国民に広くわかってもらえるような工夫をして、前よりはずっと地震問題は皆さんにしみ込んできたな、と思っている次第です。それでも、防災というのは実はすぐ忘れます。
  ということで、首都直下の話にいきたいと思います。


中央防災会議

(パワーポイント1)
  中央防災会議で、去年の6月末に総理に報告したパワーポイントのオリジナルです。総理には、3分の1は余りに複雑なので、ここから3分の2を抜いて報告しました。
  出だしですが、ミュンヘン再保険会社。一作年の秋ぐらいから、突然浮上してきた外国からの日本へ対する威嚇です。ミュンヘン再保険会社が、建物とかコンピューターに対して再保険をする。例えば、東京海上がミュンヘン再保険会社に再保険を頼むと言った時に、簡単に再保険会社が応じるかどうか。その時の危険度なんです。
  これは主として地震ですが、台風もあります。ハザードというのは災害です。例えば、米国南部はカトリーヌみたいなのがあります。ベンガルなんかに行きますと、大水害があります。火山災害、山林災害、干ばつ、こういう全体の災害です。災害の危険性が都市別でどうなっているかというのを、ミュンヘンの再保険会社が調べましたら、ヨーロッパというのは地盤が水成岩です。火山岩じゃなくて、水成岩だから、地盤がものすごく安定しているんです。ニューヨークもそうです。こういう所は、インデックスが10とか15なんです。それに比べて、地震の多いロサンゼルスからサンフランシスコ、これは167とか100になっています。
  ところが、東京は710という災害危険度を持っている。その原因は何かというと、ひとえに、地震がしょっちゅう来るじゃない、台風も来るじゃない、水害もあるじゃない。言ってみると、世界から見ると、日本列島全部が、こんな所に人が住んじゃいけないということを言っているような数字なんです(笑)。そこへ我々住んでいる。この数字である限り、ミュンヘン再保険会社は、東京海上の言うコンピューターの再保険する時、ニューヨークは42ですから、ニューヨークのコンピューター1台に1万円の掛け金で再保険するとしたら、東京だったら、1台20〜30万の掛け金を出さないと再保険しない、そういうことです。
  これはひどいじゃないか、とみんな憤るんです。憤るんですが、よく見ますと、災害危険度というのは、自然発生する災害の危なさの他に、その都市の持っている脆弱性、人為的なものあります。住宅は木造密集で火事に弱いとか、都市の道路が少なくて消防車もすぐに駆けつけられない、こういう人為的な脆弱性についても確かに、ロンドンやロサンゼルスなんかに比べると、東京は弱いですね。
  この青は経済被害です。ある意味で当然です。東京の経済規模がべらぼうに大きいんです。経済規模がべらぼうに大きいと、地震が起きる確率が少なくても、一度起きた時の経済被害がべらぼうに大きい。だから、経済規模が大きいと災害危険度は増える。だから、この青のところは、東京は経済的によく頑張っているということになります。問題は、黄色と赤です。これを小さくしなきゃいけないんですが、黄色は自然的な要素ですから、変えられない。赤だけが人為的に変えられる。だけど、これをどれくらい小さくできるかというと、日本の例の特徴で、皆さんが小さい土地をいっぱいお持ちで、勝手に違反建築をお造りになって、ケセラセラ。そういう生活をされていますし、道路は狭くたっていいじゃないかでしょう。だから、そう簡単にいかない。とにかく710です。これは、今でも変わらないんです。
  ロサンゼルスを100とした時、東京の危なさは7倍。それに比べてニューヨークはロサンゼルスを100とした時に4割しか危なくない。実は9・11の話がここに入ってきていいんですが、テロが入ってないんです。だから、ここへテロ要素を入れると、また変わってきますけれども、9・11のないニューヨークに比べて東京は約15倍危ない。この危なさを、どれくらい減らすことができるか。そうしないと、ミュンヘン再保険会社は、べらぼうに高い再保険料を東京海上とか日動火災に課する。これは、保険会社にとっては大変深刻な話です。
(パワーポイント2)
  日本海の周辺です。こんなにプレートがぶつかっている所は地球儀上ないんです。噴火がある文明国は、そうないんです。日本の場合は、噴火も北で噴火するかと思ったら、南で噴火でしょう。北海道の有珠が噴火した、雲仙危ない、浅間でしょう。だから、地震だけじゃなくて噴火がある。おまけに台風でしょう。ひどいところに我々は住んでいるんです。

地震発生の想定

(パワーポイント3)
  発生が懸念される主な大規模地震は、宮城県沖、それから、東海地震。いつ大地震が発生してもおかしくない東海です。この絵では、約40年間で発生する宮城県沖地震を始めとして、切迫性が指摘されている。次にやばいのが、東南海と南海。東南海で地震が起きると、ダダダダッと地震のなだれ現象が起きて、四国の先まで行くぞと。
  日本が負ける昭和19年頃に、東南海で起きた時がそうだったんです。三重沖ぐらいで地震が起きたら、それがつられにつられて誘発、なだれ現象で四国の方まで地震を起こしました。それと同じことが今起きる。ここ、やばいんです。東海で起きると、ドンドンドンとこっちに地震が広がっていく。これは溝上恵先生が、この間出した津波を引き起こす非常にやばい地震の発生地帯です。
  これだけ、やばいのがあるんです。そこの中で、黄色は、地殻構造分析等で、必然だとは言えないけど、ここで起きる地震は気をつけなさいという地震、首都直下です。M7クラスの地震は、ある程度の切迫性を有する。表現がいいでしょう。いつ、大地震が発生してもおかしくない東海。今世紀前半での発生が懸念、ある程度の切迫性、この言葉の中に緊急性が含まれています。
(パワーポイント4)
  東京の場合は、地球物理学者の説明の仕方がちょっと違っています。関東大震災が1923年。これは、マグニチュード8なんです。マグニチュード8クラス、関東大震災ぐらいの地震は、首都地域では200〜300年間隔で発生する。8の地震の昔はいつかというと、1703年に元禄関東地震というのがあった。統計的に誰も知らないんですけど。1703年にあって1923年だから200年経っています。マグニチュード8クラスは200年ピッチだとすると、200年経つと2123年です。あと100年はマグニチュード8は起きないだろう。しかし、マグニチュード7というのを見てください。ここに黒いポツが、ポツポツポツとあるでしょう。ここ、空白でしばらくないんですが、また出そうですね。これが200年の間に2〜3回起きそうだったんです。関東大震災が200年から300年ピッチで起きる、その間にM7クラスの直下地震が数回発生です。
  これは地球物理の御大将の溝上先生に、「数回というのは具体的に5〜6回ですか。3〜4回ですか。2〜3回ですか。7〜8回ですか」と聞きました。そうしたら、「まあ、はっきり言わないけど、2〜3回かな」。200年に2回だと、100年に1回でしょう。200年に3回だと、70年でしょう。
  前に、マグニチュード7クラスがいつ起きたかというと、非常に面白い。丹沢地震というのが1924年に起きています。関東大震災が1923年。「こんな地震あったの」というんですけれども、マグニチュード8とマグニチュード7では、エネルギー量が30倍違いますから、この激しさに比べれば、丹沢地震はへのカッパなんですが、問題はもう1つ、丹沢の山の中で地震が起きています。大正の終わりですから、ここはほとんど人家がない、人がいない、畑もない。人工的なものは何もないですから、例えば地崩れがしたとか、山の木が少し倒れたとかいうので済んでいたんですが、実は、マグニチュードは7なんです。
  丹沢の地震の1924年から70年というと1994年です。河角さんの70年周期説と大体合致します。これは過ぎた。100年というと2024年です。今が2006年、あと20年後、地震は来そうだということですね。
  このマグニチュード7クラスの地震が、1850年ぐらいからポツポツポツと起きているんです。しばらく休止期間なんです。ここも休止期間なんです。だから、活性化してバタバタと起きて静かになって、またバタバタと起きてまた静かになって、バタバタといく。どうやら2010年ぐらいになると、この元気なやつが出てくるのではないか。マグニチュード7クラス。そのM7クラスの地震が発生する可能性が、ここにあるぞということです。
  例えば、マグニチュード7クラスの地震が今後30年間に発生する確率は70%。2030年ぐらいです。2025年ぐらいの時に70%で起きる。2020年ぐらい、あと15年で50%の確率で起きつつある。7・5・3と。
  いよいよ活動期に入ったとすると、今後10年から15年ぐらいでマグニチュード7の地震が起きるなと、気持ち悪いなという暗い気持ちになるんです。
  ここで非常に皮肉なことを言います。2020年、今から15年後に地震が起きる確率が2分の1以上。2020年に東京オリンピックがあるかもしれません。石原慎太郎は2016年に東京へ呼びたいというけれども、これはちょっと無理でしょう。北京があって、ロンドンがあって、その次東京というのは無理で、やっぱり北京があって、ロンドンがあって、南アフリカとか南アメリカがあって、それから東京ぐらいなら2020年。2020年、東京オリンピックの華々しい時に、マグニチュード7の地震がワッと来る。日本人は、そういう宿命を受け入れなきゃいけない。
  今、オリンピック、オリンピックと皆さん土建屋さんなんかウハウハ言っていますけれども、もしかすると、一番儲けるのは地震の後の瓦れきかもしれませんよ。こういう話題が、皮肉にピタッとくっついている。昭和39年の東京オリンピックの時に、裏側で関東大震災の話題がホットになっていたのとかなり似た話なんです。
  非常に冷酷なことを言うやつは、まず地震が先に起きてくれ、それからオリンピックだ。なぜなら、建物は壊れているんだから、除去は簡単で、仕事がしやすい。(笑)こういうことをいう技術者もいますから、技術者というのは恐ろしいですね。生身の人間を何だと思う。ですが、あり得るわけです。

東京湾北部地震

(パワーポイント5)
  それでは、地震はどこで起きるか、というのを地球物理の学者にいろいろ考えてもらいました。ところが、地球物理の連中も「ここだ」ということははっきり言わないんです。言わないので、仕方がない。地震学者の大好きな地殻構造のひずみ、地殻が2つこう入ってきていますね。これがずっとのめり込んでくると、地殻の先がピンとはね上がるわけです。それが一番起きそうな場所がどこか、それを考えてくれと言って考えたのが、東京湾北部地震です。プレート境界というのは2つのプレートがぶつかっていて、1つのプレートが沈むと上のプレートがはね上がる。そこで起きるマグニチュード7の地震、これが重要なんです。これが地震発生の蓋然性や被害の広域性から検討の中心となる地震。これがマグニチュード7.3東京湾北部地震という、一番典型的なんです。
  地球物理の学者は、あっちこっちで地震を起こして被害予測をやっているんですけれども、そこの中で、新宿の都心の真下で地震を起こすと、人的被害が最大になる。それはそうなんですけれども、今回はこれは余り説明いたしません。人的被害が最大と言っても、東京湾北部で起きる人的被害と西部直下の人的被害との差はせいぜい1000人とかそんなもんですから、上の方が重要だ。
  それでもとにかく、18タイプの地震動を全部やったんです。どこをやったかというと、横浜の県庁の下、東京都庁の下、千葉県庁の下、埼玉県庁の下、茨城県庁の下とか、全部そこで地震を起こして、どれくらいの被害が起きるかを予測したんです。

被害の想定(最大、中央、最小)

 ここは、僕たち専門家の領域なんですが、火災がどれくらい増えるかと言った時に、いつも僕たちは、4つぐらいのケースを想定します。地震が起きたのが冬の朝5時、これは阪神・淡路大震災が冬の朝5時です。それから、関東大震災は夏の昼の12時。これは台風が襲ってきたので、非常に風が強かった。火気をうんと使っているというのは冬の夕方です。秋の朝8時。朝のラッシュ時ですね。ラッシュ時に地震が起きるということは避難民がどれぐらい出てくるか。一時帰宅困難者がどれぐらい出てくるか、が問題になります。
  こういうふうに、冬の朝とか夏の昼、冬の夕方、こういうケースを四季別、時間別で想定してその被害を出していくのが通例です。
  それから、風速です。10年ぐらい前までは風速毎秒3メートルと7メートルでやっていましたけれども、今回、関東大震災の風速でやりました。これは非常に異常なんですが、15メートル/毎秒で、1日吹いていたということです。それは台風が新潟県沖の日本海を北上していて、低気圧が通っていますから、その低気圧に向けて南東から風が回り込んできた。その風速がべらぼうに強かった。台風の進み方がのろいですから、強い風が1日じゅう吹いていたんですね。こういうケースはほとんどあり得ないんですが、15メートル。阪神・淡路のときは風速3メートルなんです。この2つのケースを想定します。
  一番深刻なのは、どういうことになるかと言いますと、冬の夕方の18時に15メートルの風を吹かす。最悪な事態ですね。一番軽いのは、冬の朝5時に3メートル。阪神・淡路と同じ。阪神・淡路は、状況設定としては地震の被害が非常に軽い。そういうことで、状況設定をしているわけです。
(パワーポイント7)
  もう1つ、阪神・淡路の地震は活断層です。地殻構造の変動じゃございません。活断層でマグニチュードが7を超える大きさですから、活断層というのも非常に気にしなきゃいけないんです。
  実は、地球物理の学者は、活断層からの地震を想定するのはなかなか得意じゃないんです。皆さんご存じだと思いますが、活断層の専門家は地質学です。ですから、通産省の地質調査所の連中が活断層の調査をいたします。そこでよくある話ですが、立川断層、これはマグニチュード7.3で、断層がずれました。地図上でここで切れているのは、ここから関東ロームがガボッとかぶっていて、関東ロームの下に立川断層が入っているので、立川断層がどこへ来ているかわからないからです。立川断層が入っているだろうと推定されますが、わかりません。
  断層で重要なのは、例えば、関東大震災の時は三浦半島断層群が動きました。湘南海岸で津波が起きたり、地震で建物が傾いて海水にやられたり、非常に大きい被害を出しました。鎌倉もそうです。鎌倉の神宮の屋根が傾いたとか倒れた、これが非常に大きい暴れものです。
  伊勢原断層。これも昔から危ない断層です。もっと重要なのは、神縄・国府津−松田断層帯、これが大きい断層です。ここで地図上では切れていますが、この断層はずっといきまして、糸魚川という富山県と新潟県の境まで切れているんです。この断層は近々に動くだろう、と地球物理の学者は想定しています。この断層が動いた時に東京で何が起きるかというと、例の長周期の波の地震波がここへ来て、超高層ビルとかタンクがゆっくりゆっくり動く。10秒ピッチぐらいで行ったり来たりする。タンクが10秒ピッチで動くとポチャポチャポチャで、天井をぶち抜いて油がこぼれる。長周期で超高層というのは、いつまでもずっと止まらないだろう。こういう話題の元凶は、神縄・国府津−松田断層がずれると起きるぞ、ということなんです。長周期の問題は、まだ解けていません。
(パワーポイント8)
  先程の18の地震をどこで起こすのか。成田空港の直下、千葉市の直下、市原市の直下、こういう所を18やりました。これはマグニチュード6.9です。
(パワーポイント9)
  これが、東京湾北部地震が起きそうだという時に地球物理の学者が必死になって調査をし、類推してきた模式図です。ピンクの所が発生の可能性が高い領域。つくばの辺が意外と危ないんです。つくば新線の住宅地危ない。(笑)それから立川断層から中央線の沿線、ここは気をつけに気をつけくれ。もう1つ危ないのは、市原から東京湾を囲んで、市川、船橋から墨田、江東、荒川、北。こっちは大田区の羽田の所。もう1つ伊東の沖が危ない。このピンクが発生の可能性の高い7領域。
  そこの中でも、特に地震学者お勧めの危ない場所が、東京湾北部のどこだというのは、皆さん関心を持つでしょう。地震学者に言わせれば、ここの中ではどこでも起きるということです。だけど、それじゃ、皆さんピンとこないから、例えばというので、ここで僕は、地震学者の言うのを工学的に解釈し、都市計画的に解釈して言っているのが、ディズニーランドの沖合、南東方向約2キロの海底面40キロの所。そこに地割れが起きる。地割れが起きて、東南東から西北西へ地割れがずっと広がっていくんです。ディズニーランドの沖合約2キロの海底から約40キロの所の地殻のプレートに地割れが起きて、バリバリバリと地割れが広がっていて、マグニチュード7.3の地震が起きる。地割れのエンドはどの辺かというんですが、ここからですと、板橋大山の辺まで行きます。想像です。(笑)青いところはまだ安心だというんです。皮肉なことに湘南族は安心なんですね。金持ちのいるところは安心なんです。大体貧乏人のいる所が一番危ないんです。地震というは必ずそうなります。(笑)
(パワーポイント11)
  今言ったように、ディズニーランド沖合い2キロにベリベリベリという発生源があって、地盤が割れていった時に、被害はどういうふうになるかというのがこの1枚です。マグニチュード7.3ですけれども、実際マグニチュードは我々の生活体験ではよくわからない。震度が一番ピンときますね。震度7というと、崩壊しませんけれども新耐震でも亀裂が入ります。震度6強は新耐震は大丈夫です。6弱へっちゃらです。旧耐震どうか。6弱危ないです。
  重要なことは、阪神・淡路大震災のような震度7の帯は、今回の東京湾北部地震にはございません。強烈な新耐震の建物でもクラックが入って、柱が座屈するというのが震度7です。こういうのはどうもなさそうだ。全部震度6強なんです。ですから、旧耐震のいいかげんな、昭和40年ぐらいにジャブジャブのセメントでやった鉛筆ビル、これはもろにいくぞということです。
  こっちが6弱なんです。6弱ですから、木造の建物のひどいのはグシャッといきますけれども、コンクリートの建物は全壊ということじゃなくて、部分的に倒壊する。傾く程度で、グシャッとはいかない。これが地震学者が考えている想定なんです。
  しかし、ここで、まだら模様がありまして、意外と真っ赤っかの中で黄色が残っていたりします。これは上野ですね。上野から秋葉原の低地へかけて、きっと地盤条件がいいんでしょう。上野の山の下は地盤条件はいいところで残っているんです。
  不思議なことに、地震学者の地震の断層の流れは必ず東南東から西北西にいくんです。真っ直ぐ南から北とか東から西と言わないんです。やはり日本列島の地殻にスルメのように筋があって、スルメを割くのは難しいけど、筋に沿ってやるとピリピリと破れる。そういうふうに地殻構造はなっているということです。
  ここで言いたいのは、立川広域防災基地はここですが、ここは震度5強の場所なんです。6弱でもない。これは後で時間があれば説明します。
  重要なことは、東京湾北部地震はマグニチュード7.3の地震であって、関東大震災マグニチュード8の地震ではない。エネルギーからいうと、関東大震災の約30分の1ぐらいの地震なんです。だから、ここで地震が起きても、震度6強ぐらいの震度で収まっています。関東大震災になれば、当然ここは震度7の場所がずっと出てくるはずですから、そういう意味ではまだ20年先の地震は、皆様がある程度工夫をすれば、家具、財産も守れる可能性がある、その規模の地震だということです。
(パワーポイント12)
  これは何かと言うと、同じスケールで、新潟中越地震と阪神・淡路大震災の震度分布をしてあります。阪神・淡路は震度7がずっと通っているんです。これはすごかったんです。活断層です。六甲の断層。野島断層。プレートじゃございません。新潟中越地震のところでも、震度7が部分的にツクッと出ていますけれども、東京湾北部は震度7は出てないというのは非常に幸いなんですね。
(パワーポイント13)
  これはアスペリティーというんです。断層面内で強い揺れを発生する部分、アスペリティー。ここの所に破壊開始点があって、こっちへずっと揺れてくるんです。
(パワーポイント14)
  こういう地震で、どういう被害が起きるかということです。これは先程言った一番ひどい時。冬の夕方6時で、風速15メートル。実態としては、ほとんどあり得ない地震なんですが、しかし、政府とメディアは最悪の被害を言ってくれということで、この数字が世の中に広がりました。
  冬の夕方6時に風速15メートルの大風が吹きっぱなしで、そこへマグニチュード7.3の地震が起きた。そうすると、建物はどうなるかというと、揺れによる倒壊が15万棟ですね。全部で建物被害は85万棟です。85万棟のうちに揺れは15万棟で2割もいかない、18%。残りの約77%は火災焼失なんです。65万棟。これはまさに風速15メートルの条件で燃やしているからなんです。死者はどうか。死者も建物倒壊で3100人で、火災で6200人ですから、火災がどれだけ被害を大きくしているかというのがわかります。
(パワーポイント15)
  冬の朝5時、風速3メートル、阪神・淡路と全く同じ。その時にどうなるかといいますと、地震でも「被害が少なくてよかったですね」と皆さんがいう状況ですが、先ほどのように、揺れは15万棟と、変わりません。前は火災焼失が65万棟ありました。これが4万棟で済んでいます。風速に関係ございませんから、急傾斜地崩壊と液状化は同じなんです。火災焼失が、65万棟がたった4万棟で済んじゃう。そうすると、死者も、建物倒壊が4200人で、火災で70人、70人というのはちょっと少ないんですが、それでも数百人しか死なないで、死者5300人です。
(パワーポイント14)
  風速3メートルで夏の朝5時。火災では100人ぐらいしか死にません。
  問題は夕方は一時帰宅困難者が南関東全体で650万人なことです。避難者は最大で700万。そのうち避難所で生活する人が460万。この数字は想像を超えます。これは最大なんです。
(パワーポイント16)
  帰宅困難者は、朝5時だとわずかに16万です。これは通勤前ですから、当然です。南関東全体です。避難所生活者も350万で、前のやつが450万でしたから、ガクンと減りませんけれども、それでも少ない。
  これだけの差の中で、実は被害想定を議論しなきゃいけないわけです。ですから、率直にいうと、答えは1つじゃない。答えがいっぱいある中で、それぞれの規模に応じて対策を瞬時に中央防災会議は決めていかなきゃいけない。
  私はどう思うか。私は、風速15メートルで冬の夕方5時に地震が起きるということは考えなくていいと思います。それは何故かというと、風速15メートルというのは極めて特殊な風なんです。関東大震災以降、こういう風が20時間吹いたかということは、ほとんどないんです。僕は楽観論かもしれませんけれども、世の中で最悪の被害で1万1000の死者が出るというけど、死者5000人、建物火災その他で
25万人だと思う。帰宅困難者は増えます。避難所生活者は約350万人。このぐらいの数字で被害の対策を考えてもおかしくないんじゃないか、と思っている次第です。

被害の特性@(土木構造物と建築、倒壊と延焼、ガレキ発生量)

(パワーポイント17)
  重要なことがあります。この被害想定の中で瓦れきが最悪の場合は9600万トン。
(パワーポイント18)
  冬の朝5時、風速3メートルでも、建物の崩壊と橋の崩壊に伴う瓦れきが約8000万トン出るんです。阪神・淡路の時は瓦れきがどれくらい出たかというと、せいぜい2000万トンです。2000万トンの瓦れきに対して、約4倍の瓦れきが発生します。
  これも、あんまりはっきり皆さんに言ってないんですけれども、阪神・淡路の復興は物すごく順調に回復しました。それは何故かと言いますと、瓦れき処理が円滑だったんです。瓦れきは、とにかく港へ持っていって、はしけで次から次と海の中の瓦れきを投入する場所へきちっと納めていました。だから、港に瓦れきが累積するということはなかったんです。もし港に瓦れきが累積しますと、住宅地の中での瓦れき処理は途端にふん詰まりになります。瓦れき処理ができなくなる。できなくなった途端に建物は建てられません。区画整理もできません。全部の手順が遅れてしまう。
  地震発生から一番重要な仕事は、1番目は遺体処理。2番目は水の供給。3番目に瓦れきなんです。瓦れきをどこに収めるか。これをあらかじめ決めておくことが行政上一番重要な課題なんです。
  8300万トンというすさまじい量ですから、そんじょそこらの埋立地、例えば、中央防波堤の外が空いているからいいじゃないかとかでは、間に合わない。東京湾ではどこを埋めるかというと、千葉県領域の東京湾の水域を使わざるを得ない。それは神奈川県領域でもないし、東京港の領域でもございません。千葉県の持っている東京湾の水面の所の一部分を、瓦れき処理に使わなきゃいけないということです。だから、千葉県というのは、ものすごく重要な県です。千葉県の漁民が「ノー」と言った時に、瓦れきは大変なことになる。だから、瓦れき問題というのは非常に深刻だ、ということを覚えておいていただきたいと思います。
(パワーポイント19)
  これは皆さんのご関心のあるところで、倒れる建物と燃える建物は、どうなるのということです。一番深刻なのは、冬の夕方6時の15メートル。これは、ちょっとセンセーショナルなので、説明いたしません。
  冬の夕方風速3メートル、これはあり得ますね。その時にどこが燃えるか。燃え方のランクは真っ赤っかから、7段階ぐらいあります。このメッシュ1つが500メートルメッシュです。500メートルということは25ヘクタール。市街地の人口が、ヘクタールの人口200人としますと、戸数は80戸から100戸。25ヘクタールですから、2000戸から2500戸ですね。真っ赤な所は、インデックスよれば、500メートルメッシュにおける燃える建物が1200から2400。1200から2400というのは、500メートルメッシュにおける建物の棟数です。50%から100%まで燃えるということです。徹底して燃えます。
  では、燃えるところはどこか。スタートは中野駅、高円寺、ずっと西に行きまして、西荻まで。特に北より南。青梅街道と中央線の間。一番やられるのは阿佐ヶ谷の南、高円寺の南。あそこは防犯上もやばいんです。非常に質の悪い住宅地。
  次は、碑文谷ですね。目黒通りです。ダイエーの辺です。笹塚もやばいんです。冬の夕方18時、風速3メートルの赤の所は、何かの際にじっとご覧になって下さい。これは本当にやばい所なんです。
  言ってみると、中央線と丸ノ内線の間の東中野から西荻へかけての町というのは、山手の文化人の象徴なんですね。一番カッコいいようなことを言っている連中の住んでいるところが一番実はやばい。何故か。小市民的な生活をずっと繰り返して、違反建築だっていいじゃないかというのが続いていますから、そういうことになっちゃう。
  それに比べて、壊れるのはどこかというと、てきめんに城東なんです。ところが、燃える方の、メッシュ1200から2400、50%から100%燃えるのに対して、倒れる方は20%から50%ぐらい。茶色の所は、ここにある建物の中の5%から
20%ぐらいが壊れるということ。燃える方は深刻です。倒れる方は、おかげさまで、過去30年の間に、非常に質が悪いですけれども曲がりなりにも鉄骨とか鉄筋コンクリートの不燃の建物を建てたんです。皆さんご商売の、靴の卸とか革屋さんとかげた屋さんとかです。丁稚を3階に入れて、自分は2階に住んで1階を店にする。そういう人が一生懸命住んでいる。壊れ方が意外としぶといんです。壊れない。しかし、墨田区はやばいんです。墨田区の押上から真南、錦糸町へかけて。棟建ての建物は再開発をやっても危ないんです。(笑)
  もう1つは、小名木川の今ショッピングセンター造っている辺も危ないんです。ですが、全部の建物の中の5%から2割ぐらいしか壊れない。あとの黄色とか青の所は1割以下しか壊れない。だから、ズブズブの江東デルタでも、そう壊れないんですね。それは何故かと言うと、不燃化が結果としてべらぼうに進んだんです。小さい建物ですから、大きい建物ほどウワーッといきませんから、お互いに持たれ合いながら何とか使えるんです。これが庶民のしぶとさ。(笑)ここが、実は40年前は真っ赤っかだった。燃えて燃えて真っ赤っかになるところだった。40年の間に真っ赤っかが、城西地域に来た。バッと見ますと、壊れるのは江東地域。燃えるのは城西地域。一応はっきり分かれるようになってきました。

被害額

(パワーポイント )
  問題は被害です。これは、6月に新聞に発表した最悪の場合です。冬の夕方18時、風速15メートル。その時の被害は112兆円です。この数字が、今流布されていますけれども、これは非常に非現実的です。
  朝の5時の風速3メートルの時は経済被害は90兆円です。これより2割ぐらい経済被害が減る。言いたいことは、この112兆円の内訳です。建物被害が55兆円です。112兆円の内の半分が建物被害。90兆円の場合も建物被害は45兆円です。土木的な、例えば港湾が壊れた、橋が壊れたという土木構造物の被害は、たかだか10兆円。90兆円の場合は、たかだか8兆とか7兆なんですね。新幹線を手直しするとか、超高圧線を手直しするとか、そういうことを全部積み上げても、土木工作物の被害というのは、90兆円の場合には8兆ぐらい。建物被害は45兆円ぐらい。半分が建物。建物被害の中に燃える建物と壊れる建物が入ってきます。
  重要なことは間接被害です。間接被害は工場とか製造業系の生産が低下する。これが結構大きいんです。約3割。建物が5割。大体8割ですね。その残りが土木と、ビジネスチャンスがなくなった被害となります。
  ですから、この建物被害をどういうふうに食いとめるか。今、新聞なんかに出ている耐震性を普通の住宅でも何とかよくしておいて、建物被害が10兆円減るだけでも物すごく大きい。風速の弱い時の建物被害が45兆円としますと、耐震診断をして部分補強して、うまくいったら、45兆になるべきものが25兆で済んだとする。これは、地震の被害を徹底的に少なくすることになるんです。
  ですから、ここでようやく建築家の出番なのに、何で姉歯みたいなことをしやがってと、本当に頭に来るんですね。ああいうことをすると、怒り狂ってもしようがないんですけれども。ここまで詰めてきて、2〜3カ月後に姉歯ですよ。建物を壊れないようにするということがどれだけ重要か。
  土木屋さんもこの頃言っています。これだけ地震について深刻になった。壊れたら8兆円の被害が起きるのを、あらかじめ補修で1兆ぐらいつぎ込んだって、その方がずっと日本国家の経済のためにいいじゃないか。例えば大成の葉山社長は、非常に頭のいい土木屋さんなので、この頃言い始めていますね。これはかなり理がある話です。
(パワーポイント21)
  被害想定ですけれども、東京に比べると、東海の静岡県、愛知県、東南海は三重県から和歌山県、四国へかけては、桁が全然違います。首都直下の半分が東南海で、東南海の3分の2が東海だ。東海の3倍が首都直下。

 

被害の特性A(人的被害、避難民、一時帰宅困難者)

(パワーポイント22)
  あと問題は、避難民です。避難民は非常に難しいんです。帰宅困難者、650万人って、すごいなと思いますけれども、ずっと僕が話しているのは南関東の被害です。東京都の被害ではございません。神奈川県から千葉県、埼玉県全部入れて3200万人ぐらいの人口の中で、どれぐらい帰宅困難者、避難者が出るかという話です。ですから、これは単純な数字じゃなくて、常に母数が下にある。3200万分のうちの650万。3200万分のうちの700万。3200万分のうちの460万。そういうふうに覚えて下さい。
  そうすると、数字はべらぼうに大きいんですけれども、母数を3200万とすると、例えば東京都で帰宅困難者が390万人にであるというと、パーセントでいうと13%から14%です。パーセントにするとそうでもないんです。ところが、阪神・淡路の時は帰宅困難者は朝5時ですから、ほとんどいません。避難所生活者も20万から30万人です。それに対して首都圏は460万です。避難者は初めに700万人を超えて、4日後には疎開があったりして、600万人になり、1カ月後400万人ですが、結果的にはそれでも避難民270万人です。
  270万人の避難民に対して、住宅を供給できるかどうかという話がある。できない。中央防災会議の若い技術系のお兄さんが算術しましたら、日本中のプレハブ業者の総能力を挙げて、24時間操業してプレハブを造ったとすると、約200万の人のプレハブを造るのには2年半かかるというんですね。あり得ないですね。プレハブの仮設で、こういう人たちを収容するというのはあり得ない。これだけ能力の高い日本のプレハブ業者が総力を挙げてやって2年半かかるというんです。
  一番深刻なのは避難民です。避難民200万人を、1カ月後にどれだけ速やかにおさめるかということをどう考えるか、これは実は解けてません。しかし、今は、非常に豊かな平和な日本で、中越のようにそれぞれの1LDKの仮設住宅を提供するとか、パンでもきちっと給食するとかいう状況で考えていますけれども、太平洋戦争の時に東京を爆撃された時はみんなどうしたか。あれだけ膨大な避難民は大暴動も起こさないでその場所に住んでいました。
  何故かと言うと、皆さんにとって一番重要なのは土地ですよね。太平洋戦争の時もみんな一番気にしたのは、「おれたちがいない時に、土地をほかのやつにとられちゃうんじゃないか」ということ。ある日突然名札がすり換えられていて、そこに変な子どもとお母さんがべったり座っていたら、「出ていけ」とも言えない。大騒動になる。
  自分の土地の上にべったり座り込んで穴でも掘って、トタン屋根でもやって1カ月ぐらい雨露をしのぐ。言ってみると防空壕です。そのねらいは自分の重要な土地を自分で守るということ。それが重要だとなれば、仮設住宅よりも自らの自助努力で鉄板と焼けぼっくいの木とで掘っ建て小屋を作って、水道は断水した水道の鉛管からチョロチョロ出る水をバケツにためて飲んで結構暮らせるんです。そういうことを年の頃、74〜75歳のところまではやってきた。ところが、そういう生活ハビットが今断絶しようとしているわけです。
  次の地震の時に遭遇する日本人は、僕が今言ったようなことが果たしてできるのかどうか。そういう話になってきます。避難民300万をきちっと大暴動も起こさせないで、ヒステリックにさせないでおさめるためには、基本的に自助努力と貧しいところできちっと生活できる知恵、そういうものを、みんなが今のうちから頭の中にたたき込んでおくこと。子どもにボーイスカウトに行かせるなんてことは意外と重要なことです。ナイフ1つで薪を作る、箸を作るなどします。そういう話題が出てきます。これは現在検討中です。

被害の特性B(中枢管理機能、ライフライン)

(パワーポイント23)
  ライフラインがどれだけで復旧するかということです。電力は5日で完璧に復旧します。地震が起きた時の電気の支障率は南関東全体で6.1%、東京で13%ですから、3日ぐらいで東京の支障率は2〜3%まで下がります。電気は大丈夫なんです。
  電話はそれほどでもないんですが、固定電話は2週間もあれば確実に皆さんのところは回復します。携帯がありますから、電話の回復のスピードよりも早く、携帯が円滑に使えるという、新しい技術開発が必ずできると思います。
  問題は水とガスです。ガスは全部復旧するのに地震発生から55日かかります。
  上水道も、あるところまでダッと直りますが、人口3000万人の南関東の中で1100万人ぐらいが初めは断水するんですが、必死になって4日ぐらいで200万人ぐらいになります。3000万のうちの7%です。ところが、その200万人に水を供給するのがべらぼうに難しいんです。1カ月かかる。
  問題は、この200万人分も水の出にくい場所がどこかということです。多分これは江東デルタだと思います。
  ライフラインについては、目をつり上げるような深刻な状況は、このグラフから見ると、今のところないということです。
(パワーポイント24)
  これは定量評価では考慮されていない被害です。長周期地震による超高層ビル。余震と大量の降雨。例えば冬、時雨の時に地震が起きた。冷たい時雨が降っている時にどうするんだ。これは考えなきゃいけない。これは本当に深刻な話。
  それから、道路閉鎖で消防が動けない。こういう話は、いろいろこれから検討しなければいけないわけです。
(パワーポイント25)
  最後ですが、首都直下地震で考えなければならないことは、避難民とか住民に対する対策のほかに、首都の中枢機能の継続性の確保というのがあります。これはまさに首都の話で、例えば、東京証券取引所。あれは、この間パニックになりましたけれども、地震が起きた時に東京証券取引所は、何日の機能停止ですぐにバックアップして、証券取引ができるか。日本銀行は、ちゃんと金融を確保できるか。日本政府は、外務省を通して常に国際的な関係を維持できるか。全部、首都中枢機能の継続性ですね。それから外国の大使館は安全かどうか。これが、くっつくところに首都直下地震の首都の意味があるわけです。これについて考えていく必要があるわけです。我々は、今まで避難者とか帰宅困難者とか地震に強い町、これを一生懸命言ってきたんですが、もう1つ、首都中枢機能の継続性、これが重要だということです。
(パワーポイント26)
  首都中枢機能というのは、経済中枢機能、東京証券取引所、日本銀行、商社、中央省庁、国会、こういうところの人と物と金と情報、これがきちっと、断絶しないでお互いに情報交換、お金の交換、人の交換、物の交換ができるか、です。そのためにどうするのか、を検討しなきゃいけないわけです。
(パワーポイント27)
  そこで、まず民間も役所も企業も、地震が起きて3日間は絶対に手伝いは来ません。それを前提にして、3日間の間に必要なものを全部プールしておいて下さい。特に首都中枢機能は重要です。発災後3日間において最低限果たすべき目標をきちっと作っておきましょう。役所は、地震が起きてすぐ緊急参集チームを集めて、危機管理センターがありますから、そこで情報集約、災害規模を把握する。それから、総理がきちっと一般国民にテレビなどで顔を出して、「災害対策本部を作った。必要な調整も指示しています。皆さん、しっかりと落ちついて下さい」というステートメントを1日以内にやる。重要なことは、3日の間に被害状況の把握をやります。
(パワーポイント28)
  そのために、3日間はきちっと機能が動くようにいろんなことを準備しておいて下さい。中央省庁の場合は、耐震機能を強化して、データをバックアップしておく。データは省庁の中に置いておく以外に、若い連中が自転車で30分行けば駆けつけられる安全な場所に確保しておく。予備データですね。何かの時は予備データのあるところに行ってコンピューターマシンを動かす。それから、省庁の中には、非常用電源をきちっと3日間動くようにする。

減災の重点分野(BCP、耐震化、初期消火率)

(パワーポイント29)
  BCPという言葉があります。BCPというのはビジネス・コンティニュイティー・プラン。業務継続計画です。今、日本の企業や省庁の専門家、担当官は、このBCPをどのようにきちっと組み立てて、本当に地震の時にビジネスが連続して動けるようにするかということを一生懸命考え始めました。このBCPがきちっとできているかどうかによって、再保険の料金も変わるという状況になりましたし、政策投資銀行のお金を貸す時の金利の優遇を考えようという姿勢もはっきりしてきました。
  ですから、首都直下機能をどうするかというのは、まさに3日間は手助けが来ないところで頑張ってくれ。水と非常電源と自転車とデータ、それをちゃんと3日間確保できる。そして、事業継続ができるように、いろんな手だてを講ずる。国だって3日です。そういうことが、今年の中央防災会議の課題になってくると思います。
  最後は、ちょっとはしょりましたけれども、長いことご苦労さまでございました。
(拍手)
與謝野 大変に貴重なデータの数々を披瀝されてのご講演を頂き、ありがとうございました。このようなレベルの高い識見を、このようなフォーラムの場で身近に詳しくお聞きできることを幸いに思います。折角の機会ではございますが、残念ながら時間が押しておりますため皆さんからのご質問をお受けすることが出来ませんことをご容赦下さい。どうしてもお聞きしたいことがございますれば、この後の伊藤先生を囲んでの懇親会にお運び頂ければ幸いであります。
  それでは、本年初回の講演をこれにて閉めたいと思います。もう一度、伊藤先生に大きな拍手をお贈り下さい(拍手)。ありがとうございました。

 

 


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