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第219回都市経営フォーラム

『こどもの成育環境と日本の将来』

講師:  仙田 満氏 環境デザイン研究所会長・東京工業大学名誉教授

日付:2006年3月16日(木)
場所:日中友好会館



1.子どもの成育と環境およびその変化

2.こどものあそび環境、あそび空間、その変化

3.日本のこどもの劣化の進行

4.こどものあそび環境の国際比較

5.こどもの成育環境から見たこれからの日本の住居および都市

6.遊環構造とその応用

7.こども環境学会と日本の将来

フリーディスカッション



 

 

 

 

 


與謝野 それでは、本日の第219回目のフォーラムを開催致します。
  さて、本日は、「環境」をこどもの視線から捉える中で、こどもの成育環境とそのありようについて、皆さんと共に考えてみたいと思います。
  本日の講師には、環境デザイン研究所会長で、東京工業大学名誉教授であられ、また環境建築家としても活動しておられます仙田満先生にお越しいただいております。
  仙田先生のプロフィールについては、お手元の資料のとおりでございますが、環境建築家として数々の素晴しい作品を世に送り出され、また大学で長年教鞭をとられて環境デザインの分野も開かれ、さらには2004年に「こども環境学会」を自ら提唱され設立されて、この分野の活動も展開しておられます。まことに多分野にわたり精力的に活動しておられる方でございます。また建築学会の会長を始め多くの公職も歴任されてこられ、この6月からは日本建築家協会の会長に就任されるという、誠に多忙な環境建築家であられます。
  本日のご講演では、これまでのフォーラムで取り上げてきました大人の視線からの内容が大半でございましたけれども、今回は少し視線を低くして、こどもの視線に合わせまして街あるいは成育環境のありようについてのお話が、多くの実例を交えてお聞きできるものと楽しみにしております。
  前置きのご紹介はこれぐらいに致しまして、仙田先生、それではよろしくお願い致します。(拍手)
 
仙田 仙田でございます。本日は「こどもの成育環境と日本の将来」というテーマでお話しさせていただきたいと思っております。
  (図1)
  今ご紹介いただきましたように、私は、1964年に大学を出まして、菊竹清訓先生のところで4年間修業し、1968年に環境デザイン研究所という事務所を作って、それから独立した建築家として活動してきました。
  1984年から琉球大学に3年間、名古屋工業大学に5年半、そして東京工業大学に12年、大学教授兼建築家の生活を約20年間やってまいりまして、昨年退官しました。若い人たちに、建築、環境について教えてまいりました。私、大学院に行きませんでしたので、学部を卒業してすぐに菊竹事務所に入り、その後1つ1つの仕事を通して、環境とかこどもという課題を研究し、デザインしてきました。
  大学というフィールドで20年間、それ以前から、もう35年以上建築家として研究とデザイン活動をやってきたと言えます。私の視点は、こどもの成育環境の中でも特に「あそび環境のデザイン」というのが基本的なベースにあります。そういうところから、最初にお話ししていきたいと思っております。
(図2)
  まず最初に、環境デザインとは何かというところについてお話ししてみたいと思っております。
(図3)
  私はいつも、環境のデザインは何か、というお話をする時に姫路城を出すんです。日本の建築史的な流れの中で、私が最も好きなのは安土桃山時代という戦国時代の後半であります。ここが何故好きかと言うと、皆様ご承知の通り、日本の建築的な様式は、ほとんどが中国から朝鮮半島を通って伝来されてきました。その中で、私は、日本的な空間を初めて作れたのが、この安土桃山期ではないかなと思っているわけです。
  16世紀初頭に鉄砲が伝来して、戦争の形式が大きく変わりました。そして城という様式が、たった50年ぐらいで作り上げられてくるわけであります。その城という様式は、それまでのどちらかというと家柄中心の工匠たちが作り上げたのではなくて、城の工匠たちは、ある意味では豊臣秀吉のように、下克上していく、いわゆる田舎大工と言われる人たちが中心的であったわけです。
  そして、それに千利休であるとか、その当時日本に来ていた宣教師たち、それからもちろん織田信長のように非常に新しいものが好きな戦略的な武将たちの、ある意味での現代的なコラボレーションによって作られたのではないか。そして、一挙に戦争のために、早くて強くて美しいものをとにかく造っていくことによって、天下を支配していく。そういう動機性があった時代ではないかなと思っています。
(図4)
  そういう意味で、私は、優れた多様なデザイナーの共同によって新しい様式を生むことができると考えました。これは、実は私の大学時代の卒業論文の結論です。私は大学の卒業研究を「安土桃山期の歴史的空間論」というテーマに挑戦しました。
(図5)
  これは私の大学の卒業設計です。グループ4としておりますが、4人の友人と語らって「大学都市」というものを共同設計でやるという1つの試みをしたわけです。そうすることによって、新しい時代の新しい様式というのは優れた多様なデザイナーとの共同によって作ることができるのではないか、という視点を持ったわけであります。
(図6)
  これが私が大学を出て菊竹事務所でやりました最初の建築の仕事で、「こどもの国林間学校」です。このために私は、横浜の長津田の農家に1年半ほど常駐いたしまして、設計と設計監理をやっていました。同時期にイサム・ノグチさんが大谷幸夫さんと一緒に児童遊園をこどもの国の中で造っていました。イサムさんの仕事をその時、間近に見ることができたわけです。とにかく大地をデザインしていくという感じが、建築家志望の若い私にとっては非常に衝撃的でありました。
(図7)
  当時、1967年に「空間から環境へ展」という展覧会が松屋で開かれております。また、大阪万博も1970年に開かれようとしておりました。日本の国全体が、環境というものを非常に大きなデザインテーマにしてきた時代ではなかったかと思います。
(図8)
  そういう中で、1968年に、私は、『環境デザイン研究所』という私の事務所を作りました。「環境デザイン」というのは「関係のデザイン」だと考えております。もちろん、空間デザインというものも、芦原義信先生に言わせると、「人間と建築的なものとの関係、それが空間なんだ」というふうに定義しております。
  私は、「環境デザイン」は「関係のデザイン」ということで、「空間的な関係」、「時間的な関係」、「社会的な関係」、この3つの関係の軸の中で考える必要があるのではないかと思っております。
(図9)
  実際に1つの家を造ろうとする場合には、そこで派生する日影があり、また日当たり、音、自然、声、臭い、そして例えば、その敷地の中に1本の桜の大きな木が生えて茂っているとすれば、その桜の木を切って家を造るのか、その木を中心にして家を造るのか、設計者としては極めて悩むところであります。環境という問題を考える時には、その敷地の中に既に生息している生物たち、自然はもちろん、人情、つき合い、しきたりというような人間関係も含めて、先住者を尊重することが必要なのではないかなと考えています。
(図10)
  そういう意味で、私は「環境をデザインする」ということは「既にある物語を大切にするデザイン行動だ」と定義をしております。すなわち先住者、それは人間だけではなくて、そこの1本の桜の木、あるいはそこに池があるとすれば、そこに生息しているカエルも含めて、その先住者を大切にして、そこに既にある物語を大切にするデザイン行動が、環境をデザインすることではないかと考えているわけです。
(図11)
  そして、環境デザインの座標というのは、空間の軸と直交する軸ではないかと思っています。
(図12)
  これは環境デザインの座標と呼んでおります。左側に、空間デザインと書いてあります。上から読みますと、地球、国土、地域、都市、土木、建築、造園、インテリア、ID(インダストリアルデザイン)、グラフィックデザイン、プロダクトデザインというように、地球から小さな物までさまざま空間的な領域によってデザイン領域は分けております。これはもちろん、さまざまな教育的な切り分けがあるわけです。都市工学、土木工学、建築学、造園学、立体デザイン学等々です。
  それから、役所も、造園は公園緑地課とか、建築は営繕課とか、そういう形で切り分けられております。それが空間デザインの領域ですね。
  それに対して、それに直交するデザインの領域、これが環境デザインの領域だと考えているわけです。
  例えば、こどものあそび環境のデザインを考えてみますと、こどもたちは、もちろん公園でもあそびますが、家の中でも遊ぶ、道でもあそびます。あるいは山、川、どこでもあそんでいくわけです。
  遊具でもあそびます。遊具の領域は、今まではどちらかというと、インダストリアルデザインとか、プロダクトデザインの領域です。おもちゃになると、少しプロダクトデザイン的になるかもわかりません。それから、児童公園というのは造園の領域であります。児童館とか保育園、幼稚園、小学校、これは建築の領域かもわかりません。こどもたちは道でもあそびます。道というのは、土木の領域に入るわけです。
  このように、こどものあそび環境のデザインをしようと思うと、従来的な空間で分節化された領域を通貫する、串刺しにする領域でなければならないわけです。
  こういうデザインの領域を、最近ユニバーサルデザインと言いますね。いわゆる障害者の方も高齢者の方も、誰もが参加できるまちづくりデザインの領域ということで非常にクローズアップされています。このユニバーサルデザインも、製品の領域からインテリアルデザインはもちろん、公園、道路、建築等、把っ手などの製品から始まってさまざまな領域に広がっていくわけです。このユニバーサルデザインという考え方が、環境デザインの1つの領域であろうと思います。
  もう1つ、エコデザインとか、地球環境のデサインという分野も言われております。これも製品レベル、自動車ももちろん、その他の交通機関、我々が食べるもの、さらには造園、建築、都市というところまで、また持続可能な、サスティナブルデザインというのも、どちらかというと、空間的な領域ではなくて、それを縦に通貫するデザイン領域であるわけです。
  こういう従来の空間領域的なデザインを通貫していくデザインの活動がユニバーサルデザインや、こどものデザイン、グリーンデザイン、エコデザイン、サスティナブルデザインというものではないかなと思っています。それを総合したものが「環境デザイン」という領域なのです。
  1999年に、韓国のソウルで「国際環境デザイン会議」というのが行われました。その時に生活科学、日本で言うと、家政学を専門とされている、延世大学の李教授が、環境デザインの領域をユニバーサルデザイン、グリーンデザイン、カルチャーデザインという3つの領域でカテゴライズいたしました。私は、その他にもセーフティーデザインも非常に重要な環境デザインの領域ではないかと思っています。安全という指標は、製品の安全から建築の安全、広場の安全、町の安全という形で、安全というキーワードによるデザインの広がりが必要で、環境デザインの各空間的な領域を通貫するデザインの領域だろうと思っています。
(図13)
  私は、「環境建築家」と自称しているんですけれども、これは今から約20年ぐらい前でしょうか、朝日新聞の日曜版でコラムを担当したことがあるんですが、その時に肩書を環境建築家とつけたところ、朝日新聞に何の抵抗もなく、それを載せていただきました。そういうことによって環境建築家というのは普通名詞になったと、その時思ったんです。
  環境建築を、いわゆる通貫するデザインの視点によってデザインされたビルトエンバイロンメントと考えています。それは従来的な建築ではなく、町並みから、集落、園地、道、構造物、工作物、設備、遊具、そういうものまでも含んだものを環境建築と幅広く呼ぼうとしているわけであります。
(図14)
  環境デザインという関係性のデザインを考えた場合に、研究が重要だと私は思っています。私は、デザイナーであっても、業務の10%ぐらいは研究という時間、研究というコストに割くべきだと考えています。計画的な研究が重要です。人間と空間との環境を実体的に捉え、それに関係性を見出す。そうすることによって、次の創造のよりどころになると私は考えています。
(図15)
  そんなことで、私自身は、割合たくさんの本を書いています。これは1997年に出しました『環境デザインの方法』。これは、私が今日お話しする一部含まれております。環境デザインの視点に立つ、さまざまな研究をベースにした設計方法論を書いたものであります。
  これはそれと同時期に作りました『PLAY STRUCTURE』という本です。私はこどもの遊具からあそびの環境まで含めたものを、プレイ・ストラクチャーと呼んでおります。
  『環境デザインの展開』という本も出しています。最近、1970年代半ば頃から、建築学科よりも、環境計画学科とか都市環境デザイン学科、環境デザインという名称をつけた大学がどんどん増えてきております。そういう学生たちに、私が、講義をした時に、教科書がないと学生に言われまして、環境デザインの教科書として使われることをイメージして出版したのが、この本であります。これはどちらかというと、環境デザインのコンセプトとプロセス、というものを明確にした本であります。
  これは一昨年、中国で作りました。『環築』という本です。
  この中で『子どもとあそび』という本は、岩波新書で出したものでございます。私が書いた本の中では、20万部ぐらい売れているんじゃないかと思っています。これは、先程話した朝日新聞の日曜版に80回だったか、連載したものをベースにした、割合読みやすい本であります。1992年に第1版が出版されました。今日の話で皆さんご興味がありましたら、これは新書版で、700円ぐらいの安い本でありますので、是非、見ていただければと思います。
  これは私の、言うならば学位論文でありまして、『こどものあそび環境』と題する本で、1984年に出版したものであります。もう既に絶版になっております。
  これは、ニューヨークのMcgraw-Hill社から出したもので、英文の本であります。
  これは、鹿島出版から1987年に出した『あそび環境のデザイン』という本です。
  これは『こどもと住まい』。15年ほど前になりますけれども、50人の建築家にインタビューして、こども時代にあなたはどういう所でどういうあそびをしたかということをヒアリングして、絵を描いてもらったという本であります。植田実さんが編集長をやっております住まいの図書館出版局というところから2冊出させていただきました。一番年齢が高い方は芦原義信先生で、一番若い方は團紀彦さんでありました。檀さんなんかまだ30代前半だったと思います。そういう割合古い本です。
  ここで、建築家にとってこども時代というのはかなり重要だというのを、50人の建築のインタビューを通じてアピールしたつもりであります。これは、実は一般のお母さん方に読んでいただいて、こどもの時によくあそばないと建築家になれないという意図を込めて作った本です。こども時代というのは、その人の生まれ育ちがわかってしまうというところがあって、これはそういう読み方をされるのは私の本意ではないんですけれども、なかなか面白い本になっております。

1.こどもの成育と環境およびその変化

(図16)
  これから、「こどものあそび環境というところについて」という私の本題を話したいと思います。こどもたちがあそびで開発する能力について、いつも最初に話します。私は教育者ではありません。あくまでもデザイナーであり、建築家であるんですが、やはり、こどもたちが遊ぶことによってどういう能力を伸ばしていくのかということは、いつもずっと気になっておりました。ここで「4つの能力の開発」という1つの仮説を申し上げてみます。
  まず1番目に、「身体性」であります。この身体性というのは体力、運動能力のことです。こどもたちは遊ぶことによって体力をつけ、運動能力を開発していくわけです。それは皆さんのこどもの時のことを考えれば、容易に納得することができると思います。
  2番目に、「社会性」です。社会性ということは仲よくするということです。仲よく遊ぶということ、友達になるということ。人間ですから、けんかをするわけですが、大事なことは仲直りをするということなんです。けんかをして仲直りをする。これは大学や大学院で学ぶことではなくて、こどもたちが幼稚園の砂場で学ぶんだということ。1980年代末にロバート・フルガムというアメリカの作家が『人生にとって必要な知恵はすべて幼稚園の砂場で学んだ』という本を書いて、全世界で350万部ぐらい売って大変なベストセラーになりました。この本は、そのタイトルがとにかくよかったんですね。多くの人たちに共感を覚えさせた。こどもたちがけんかをし、仲直りをするのは、幼稚園の砂場であそびながら学ぶんだということを言ったわけです。
  次に、「感性」であります。感性というのは2つあって、感受性と、もう1つは情緒性だと私は思っています。豊かな感性を育てる、それはあそびながら自然の美しさに感動する、あるいは自然の美しさを発見する、可愛がっていた犬の、例えば死に遭遇するとか、さまざま。こどもたちは成長する過程の中で、生死も含め四季の変化も体験しながら、感性を育んでいくのではないかと私は考えています。
  4番目は、「創造性」です。イギリスの動物学者にデズモンド・モリスという人がいます。彼は『人間動物園』という非常に有名な本を書いています。日本でも新潮社からその訳本が出ています。その本の中で、彼は若いチンパンジーにさまざまな実験をしていて、あそびは、創造性の開発を、ボーナスとしてもたらすんだと言っています。あそびというのは、教育や、学びのように、教えられるというのとは違って自発的なもの、自律的なものなんです。自分からやってみようというものでなければ、あそびにはならないわけです。そういう中で、創造性を開発するんだということを彼は言っているわけであります。
(図17)
  そして、あそびの環境とは何か。私は、「あそび場」、「あそび時間」、「あそび集団」、「あそび方法」というこの4つのエレメントがあると考えています。あそび場というのは「あそび空間」というふうに置きかえてもいいと思います。こどもたちが遊ぶフィールドがなければいけません。スペースがなければいけません。それから、こどもは遊ぶ時間がなければ遊べません。そして、遊ぶ仲間、遊ぶ集団がいなければこどもたちは遊べません。こどもにとって必要な「三間」とよく言われます。それはあそびの「空間」「時間」「仲間」。私はその3つの「三間」だけでは足りなくて、あそびの「方法」、これが非常に重要だと考えています。
  後で詳しくお話ししますが、日本のこどもたちの、この50〜60年間の変化を私はずっと見てきましたが、日本のこどもたちのあそび環境の非常に大きな変化は、今までに2つありました。今、3つ目が進行していると言ってもいいかもわかりません。
  1つ目は、1960年代の「テレビ」であります。テレビの出現によって、こどもたちは非常に大きなあそび環境の変化を強いられました。日本で最後までテレビが入らなかったのは八丈島と言われています。その八丈島のこども集団が、テレビが入ったことによって、見る間に解体していったという報告が出ています。
  それから、1980年代半ばに「テレビゲーム」というのができました。これはテレビよりも、もっと、参加性というものを盛り込んだ装置であります。それによって、さらにこどもたちは取り込まれていくわけです。
  もう1つが、2000年以降。「携帯」、「パソコン」。こどもたちが、第3期目のITの影響を受けていると思っています。

2.こどものあそび環境、あそび空間、その変化

 私は、どちらかというと、建築あるいは空間が専門でありますので、あそび空間というところに焦点を当てて考えてみたいと思います。
(図18)
  私は、あそび場には、このような「6つのあそびの原空間」があると考えています。その中でも大きくは「自然のスペース」、それから広場の「オープンスペース」、そして「道のスペース」というこの3つであります。
  皆さんのこどもの時代を考えてみた時に、豊かな自然が近くにあって育った皆さんもいるでしょうし、都会の真ん中で道路で遊んでいた、道で遊んでいたというこども時代を過ごした人もいるでしょう。あるいは大きな原っぱがあった、そういう人たちもいるかもわかりません。こどもたちにとっては、自然とオープンスペース、道のスペースというのが非常に重要だと考えています。
  それから、それを補完する意味で、私は「アジトのスペース」、「アナーキーなスペース」、「遊具のスペース」という3つのあそび空間を考えています。アジトのスペースというのは、秘密基地とよく訳されています。こどもたちが大人から隠れた、隠れ家的な部分。それからアナーキーなスペースというのは、どちらかというと混乱した空間です。整理整とんされていない空間です。そういう部分がこどもたちのあそびをワイルドに、野性的に盛り上げるという部分を持っていると思います。
  私は1941年生まれで、出身は横浜ですので、小学校以前から小学校までの遊んでいた所は、戦後の日本焼け跡とか防空壕とか、そういう場所でした。物すごく楽しかった。毎日毎日本当に一生懸命に遊んでいました。その中でもアナーキーなスペース、非常にワイルドな場所、捨てられた場所、あるいは建築途上のスペースというのは、物すごく面白いんですね。私が小学校高学年になった時に、近くの山が造成されて、たくさんの職人の人たちが飯場小屋を造ったりしていました。そこなんか、本当にあそび場としては絶好の場所でした。
  こういうアナーキーな部分というのは、1950年代にデンマークのソーレンセンという造園学者がアドベンチャープレイグラウンドというのを作るんですね。それは、こどもたちに廃材とかそういうものを与えて、こどもたちが自分たちであそびの場所を造るというもの。どちらかというとアナーキーなスペースを、そのままあそび場にするというような運動でした。日本では戦後、金子九郎さんという日本のプレイリーダーとしては非常に先駆的な方がいらっしゃいますが、その方が、がらくた公園という形で紹介しておりました。世田谷にプレイパークというのがあります。これは都市計画家の大村虔一さんが市民運動として造られたんですけれども、これもどちらかというと、アドベンチャープレイグラウンドの流れを引いているものであります。
(図19)
  こういうあそびの空間を、どういうふうに考えてきたか。あそびの原風景の調査を1969年頃から横浜から始めて今もずっとやっています。これは、先程お話ししました50人の建築家のあそび場の伊東豊雄さんのスケッチです。彼は中国から引き揚げてきて長野の諏訪湖のほとりで、こども時代を過ごしています。我々の世代、あるいはちょっと上の香山壽夫先生、原広司先生、皆さんは疎開の世代ですね。香山先生は満州新京でこども時代を過ごして戦後日本に帰ってきました。原さんとか内井昭蔵さんは、長野県に疎開をされていたということを思い出として語ってくれました。
  こどもの頃の住まいやあそびの環境、空間体験が、現在の建築家としての仕事にどのくらい関係があるか、ということを皆さんにお聞きしました。極めて雑駁な調査なんだけれども、大いに影響があると答えたのは40%ぐらい。潜在的にあるという答えを含めますと、90%の建築家たちは、こども時代のあそび、あるいは住まいの空間体験が、自分の建築家としてのバックボーンに何らかの影響を与えている、と自覚しているようであります。
(図20)
  私は、1975年から85年まで日本大学の芸術学部というところで10年間教えていましたが、その時に芸術学部の学生に、こどもの頃、どういうところで遊んでいたかというあそびマップを毎年描かせておりました。日芸ですから、大変絵がうまくて、イラストレーションもうまいんです。これを描いた学生たちも今や50を過ぎていると思います。その頃の学生でも、私がこどもの頃に遊んだ環境に比べると、まだまだあそびが足りないなと思ったものですが、その後、早稲田大学とか東京工業大学とか、さまざまなところであそび環境を学生たちに絵を描かせてみますと、どんどん貧しくなっているんですね。塾と学校と自分の家、この三角点しか行くところがないんです。とにかく、自分が小学校高学年の時にどこで遊んだかというのを、一生懸命思い出さないと描けないという状況になっていまして、今のこどもたちが、いかにあそびの体験が少ないかというのがよくわかります。
(図21)
  私が、こどものあそび環境の変化の研究を始めたのが1969年なんですけれども、横浜から始めました。その時の最初の調査結果です。1955年頃のこどもに比べると、1975年という20年間で、大体、横浜の大都市では、20分の1ぐらいにあそび空間量は小さくなっています。特に自然のあそび場が、非常に小さくなってしまっています。
(図22)
  これは1955年から2002年までのグラフですが、74年ぐらいが急激に小さくなっています。74年から2002年までのグラフ、1990年から2002年頃かなり限界に小さくなっています。1974年の頃に、例えば横浜市の市民1人当たりの公園面積は大体2.5uでした。現在は人口も1.5倍以上ぐらいあって、約300万を超えているわけですが、それでも1人当たり6uあると言われています。
(図23)
  公園は造られてきていますが、実際には横浜は1970年頃、横浜の斜面緑地という緑は約9000ヘクタールぐらいあった。市域の4分の1ぐらいありました。その時に宅地開発がこのくらい予定されていましたから、1975年の予想樹林地は多分こうなるんじゃないか。結果、
1997年頃の現状はこんなものであります。
  全体に1970年当時に比べると、約4分の1ぐらいに緑の空間は減っているわけです。本当は横浜のこどもたちにとっては、その斜面緑地が身近な自然の体験の場所であったわけでありますが、それが極めて少なくなってしまっているということが言えると思います。
(図24)
  1975年から1992年の時の変化で、一番顕著なのは、田舎のこどもであります。これは、山形のF地区と呼んでいる農村地域です。1975年の調査の時には、
2万uを超す大きな自然あそび空間を持っていたんですが、1992年では、ほとんど横浜の中心地区と変わらないぐらいの空間量しか持たなくなってしまっています。何故そういうことが起きたのか。山形の田舎のこどもたちが、まだまだ身近な所では自然の空間はあるんですけれども、あそびができなくなっているわけです。
  それは、1つ私が思うには、少子化の影響が、田舎の方が直接的であったということが言えると思います。少子化で、兄弟の数が少なくなっている。田舎のこどもたちは、家が非常に離れています。今、田舎ほど自動車社会になっています。
  もう1つは、あそび集団としての年長から年少へのあそびの伝承が行われなくなっています。こどもたちにとって自然というのは、あそびの絶好の場所ですが、自然あそびというのは、大体が生物採集のあそびが基本なんですね。魚を釣る、あるいはカブトムシを捕る、カキを食べる、花を摘む、そういう形で生物を採集していくというあそびが基本なんです。そのためには、いつどこに行ったら何が捕れるかということが伝承されてなくてはいけない。
  もう1つは、川にしても深みがありますし、山に行けばマムシもいます。虫などによってかぶれたりするわけです。自然の中に危険がいっぱいあるわけです。そういう危険を避けながら遊ぶには、あそび方が伝承されてなくてはいけないのだけれども、少子化の影響、あそび集団が解体してしまったということもあって、1975年から92年ごろまでの約20年間で、田舎のこどもたちのあそびの環境は大きく変わっています。
  それに加速したのがテレビゲームである、と私は見ているわけであります。
(図25)
  そして、こどもたちを取り巻く家、住まい、住宅も、こどもたちのあそびという視点で見た場合には、どちらかというと問題の方向になっています。これは大学で調査したものですが、「縁側」、古い和風の家は外廊下あるいは縁側というのがあり、その中に座敷がありました。今から50年ぐらい前は、大体85%の人たちの家はそういう縁側を持っていたわけです。それがどんどん少なくなってしまっている。その代わりに、1996年ぐらいで92%という形で、非常に多くのこどもたちが「こども部屋」という自分の部屋を持つようになってしまっているわけです。
  昔の日本の伝統的な家というのは、ある意味でこどもたちに優しい空間だったわけです。縁側があり、中から外にすぐに庭に降りることができた。外からも家の中にどこからでも入ることができた。そういう住宅から、縁側がなく、玄関からしか入れないという形になってきた。日本の住宅が25年間で75%ぐらい建替わった、と言われているわけですけれども、縁側廊下という中間領域的な空間を持たない住宅にどんどん変化してきています。それは、こどもという視点から考えますと誠に悪い方向といえます。
  日本のライフスタイルも、床座の形式から椅子座の形式に大きく転回してきたわけです。世界的に見ても、日本、韓国、イスラム圏の諸国が床座の形式を持っていたわけですけれども、それがどんどん椅子座になっていく中で、建物も建替わり、廊下的な、こどもにとって必要な空間を失ってきている、ということが言えるのではないかと思います。
(図26)
  そして、私は「あそび環境の悪化の循環」と呼んでいるんですが、こどもたちのあそび場が減少し、あそび集団が縮小し、これは少子化の影響もあります。あそび時間が減少して、あそびの方法が、テレビとかテレビゲームとかそういうものに替わり、あそびを伝える人がいない。あそび意欲の喪失が、お互いに重層化して、今の日本のこどもたちのあそび環境の悪化の循環を引き起こしているのではないかと思います。

3.日本のこどもの劣化の進行
(図27)
  次に、こどもの劣化というところをお話しします。
  劣化という言葉は、ある意味で建設用語であるんですけれども、1960年から95年の体位グラフがここに書いてあります。この中で60年から98年ぐらいまでの約35年、一番上昇が厳しいのが体重です。30数年間で12ポイントも上がっている。身長は、せいぜい3ポイントです。胸囲も大体3ポイントぐらい、座高も2ポイントか3ポイントぐらい。ところが、体重だけ12ポイントも上がっているということは、ほとんど肥満ですね。
(図28)
  それから、体力の変化。これも1980年から1990年、2000年。これが、1980年、これが90年、これが2000年という20年間です。下の太い線が2000年です。全体的に10%ぐらい下がってきているんです。
(図29)
  運動能力も、一番外側の円が昭和60年。1985年です。この青いのは男、赤いのが女であります。1995年の線です。やはりこういうふうに背筋力、50メートル走、ソフトボール投げ、10歳、13歳、18歳、がやはり体力が落ちております。
(図30)
  それから、不登校も増えています。
1991年から2000年の10年間で、大体倍増しています。
(図31)
  学力というのも、全体にどんどん下がっているのがおわかりになると思います。
(図32)
  それよりも一番重要なのは、やる気、挑戦力ですが、1965年から90年という25年ぐらいの変化で、これは横浜国大の高橋勝先生という方の本の中から引用しているんですけれども、藤沢市の教育委員会がこの25年の調査をしているわけです。「バリバリしたい学習意欲」が1965年では65%ありましたが、
90年度では35%ぐらい。30ポイントぐらい下がっています。
  こういうふうに、今の日本のこどもたちの運動能力とか体力の減少は、ある意味で学習力、挑戦力というものとパラレルなんですが、そういうものを押し下げている最大の原因は、幼児から小学校の段階におけるあそびの体験の希薄さが非常に大きいのではないかと私は考えています。
(図33)
  ですから、私は日本の最大の環境問題は、こどもたちの成育環境だと言っているわけです。

4.こどものあそび環境の国際比較

(図34)
  外国のこどもたちはどうか。これは、私が一番最初に調査したロサンゼルスの環境です。ロサンゼルスは、1人当たりの公園面積も20uを超えて非常に大きい。ですが、アメリカはまた非常に大きな問題があって、こどもに対する犯罪が極めて大きいんですね。私が調査した1985年あたり、今から20年ぐらい前で、こどもの誘拐犯罪が日本の500倍。身代金を目的とする犯罪だけで100倍と言われておりました。ですから、ニューヨークのセントラルパークとか、ロサンゼルスもそうなんですが、児童公園の周りに犯罪者が入ってこないようにフェンスがしてある状況なんです。
(図35)
  これは台湾です。ここも1990年頃調査しました。その当時の台湾政府は、こどもたちの環境というのはまだまだ考えておりませんでした。これは、騎楼(チロー)と呼ぶんですが、こちら側に道路があります。ここは私有地なんです。私有地なんだけれども、幅3メートル、高さ3メートルの部分は公共空間として供出するというのが都市計画法で決まっておりまして、自然にこういう屋根のかかった歩道ができ上がる。それが、こどもたちのあそび場になっているというところがあります。
(図36)
  これは、カナダのトロントです。カナダはアメリカに比べるとこどもに対する犯罪は少ないということと、国土が非常に広いということで、こどもの環境としては良いと思いました。ここは、ストリートホッケーをやっています。さらに8メートルの道路にフロントヤードがそれぞれついている。非常に豊かなあそび空間を持っています。
(図37)
  これは、ドイツのミュンヘンのサーカスバス。ミュンヘンでは、サーカスバスとかプレイバスとかと呼ばれているバスにさまざまな道具を積んで、地域の広場に行って、1週間こどもたちにサーカスや劇を教える。こどもたちが、その1週間習ったサーカスや劇をお母さん方に見せるというシステムであります。ミュンヘンは、このほかにもミニ・ミュンヘンとか、さまざまなこどものあそびに関する対策ができています。そして、民間のボランティア活動も非常に盛んです。
(図38)
  この絵は、ソウルの中心部の古い住宅街です。昔日本にも、こういうごみ箱があったなという感じのところです。今ソウルは、14〜15階建ての高層ビルに転換していますけれども、韓国は儒教の国で、高層のマンションでも多年齢のこどものあそび集団が見られました。歌あそびとか、そういうものがまだまだあるように思いました。
(図39) 
  これは、インドネシアのジャカルタであります。ジャカルタは、もちろん上・中・下という形で、階級で若干住まい方が違うわけですが、これは中流です。「ハルマン」という昔ながらの広場を中心として、こどもたちのあそびの環境が形成されているように思いました。
(図40)
  こういうものを幾つか数字的なところで見てみますと、日本のこどもたちは、あそびの空間量からいうと、極めて低いのです。1990年の横浜の荏田東という所が辛うじて5000uを超えているぐらいですが、トロントとかミュンヘンになると、桁が変わるぐらい大きい。どちらかというと、アジアのこどもたちの方があそびの空間は少ない。だけども、東京に比べると、全体的にはソウルの方が高いと思いました。
  こういうあそび環境の国際比較の研究は、中国とかベトナムとかで継続して少しずつやっています。
  日本はそういう意味で、町もこどもたちのあそびの空間を、今後もっともっとしっかり作っていかなければいけないのではないかと思っています。

5.こどもの成育環境から見たこれからの日本の住居および都市

(図41)
  こどもの行動というものは、大人の行動とちょっと違うわけであります。幼稚園や保育園の中でも、こどもたちのお気に入りの場所がどういうところかというのを見ますと、こどもが隠れられる場としての「閉所」、先ほどアジトの空間と言いましたが、そういう場所、あるいは特別な場所としての「別所」。こどもにとっては、例えば板張りの床の中にカーペット1枚、畳1枚あるだけでも、こどものあそびは、そこですごく変わっていくわけです。もう1つは、視点が高い場所である「高所」。これらが、こどものあそびの行動にとって差別化するエレメントだと考えています。
(図42)
  こどもたちの行動を見ていますと、小さなこどもたちの方が歩く速度は速かったりするわけです。
(図43)
  幼児の歩行速度分布と小学校の歩行速度分布はこういうふうに違って、小さいこどもたちの方が、「歩く」と「走る」が未分化でありますので、全体的に速いということがわかります。
(図44)
  そして、これは小学校の曲がり角におけるこどもたちの歩行の軌跡を示したものですが、こういう所でぶつかるわけです。建築は直角にできているんだけれども、こどもたちの歩行線形というのは曲線を描く線形です。本来ならば、ここがアールになっていることによって、視認性とか安全性は十分に確保できるはずであります。これも私が、15年以上前、名古屋工大にいる頃に調査したものですが、小学校のこういう角で、こどもたちはほとんどぶつかっているんです。そして日本全国で年に1人ぐらい死んでいるんです。直角の廊下という所が1つの原因で、怪我をしているということは余り知られていないんですが、実際には、そのくらいたくさんの事故があります。ある意味では、安全性というところでは問題の所であります。
  学校では、「廊下を走るな」とこどもたちに言うわけです。だけど、こどもたちの約6割はほとんど走っている。ですから、走るなと言うよりも、走っても安全な環境というものを、我々が作っていかなければいけないのではないかと思っています。
(図45)
  保育園などでは、学校以上にこどもたちは真っ直ぐに走れません。体が大きく振れるわけです。しかも、曲がるアールも非常に大きいというところがあります。そういう意味では、幼児施設だからといって、廊下は狭く、あるいは空間は小さくというのは、当てはまらないのではないかと考えています。
(図46)
  一昨年、六本木ヒルズでこどもが回転ドアに挟まれて亡くなった事故がありますが、日本の建物は、こどもの安全性というところでは極めて無頓着と言うか、考えられてないところがあるわけです。
(図47)
  こどもの事故は一体どうやって起きるのか、というところを考えてみたいと思います。
  1つは、こども自身に問題がある。こどもが大人と違うのは走るということです。それから、ふざけるということです。いたずらをするという行為もあります。これは利用者側、こども側の問題ですが、こどもはそういう不確定な存在なんですね。
  例えば、すべり台の上の踊り場の所でふざけてしまって友達を突き飛ばす、あるいは、押してしまう。押した時に、手摺が低くて落下する。これは手摺が低くてはいけないわけです。押されても落下しないような、ある高さが必要です。そして、万一落下して下に落ちた時に、そこにコンクリートの基礎があったら、これは絶対致命的な事故になります。あるいは岩が露出していた、これも致命的な事故になります。ただ、そこが砂場だった、あるいは植栽だったということによって助かる場合もあります。
  こういうふうに、利用者側と遊具側と環境側と、この3つの段階が突破された時に事故が起きる。だから、どこかでブロックされれば、事故は起こらないわけです。
  利用者側というところでは、ある意味では安全教育。よくすべり台で事故があるのは、両手をつないだ手袋をしていた。これが首にひっかかって危ない。マフラー、ランドセルやカバン、それがすべり台にひっかかって、自分の体がすべって首を締めて亡くなってしまうという事例が結構多いんです。こどもが遊ぶ時には、そういう危険性を起さない服装が重要だとよく言われます。
  ふざけるという行為も、「ふざけるな」とこどもたちに言ってきく場合もあるけれども、とにかくある種ルールは必要です。建築や遊具では、柵の安全性、床の安全性。小さなこどもたちが一番怪我をするのはどこかというと床なんですね。落下する、転倒する、すべて床です。この床の部分の安全性が非常に重要だ。
  人間というのは壁に立つわけじゃなくて、床に立って地球上に生きているわけですから、人間が一番接しているわけです。ですから、高価なというか、床に一番お金をかけるべきだというのが私の主義なんです。
  そして、もう1つは、環境ですね。よく学校で掃除拭きをしていて、こどもがそこから落っこちて、犬走りに落ちた場合には致命的になりますけれども、植栽があって助かったというのはよく聞くところです。
  事故というのは3つの段階で起きて、その3つの段階のどれかを消せば事故は防げるわけです。だから、そういうことで考えていく必要があると思います。
(図48)
  建築空間にかかわる事故の発生。これは保育室、特に床、廊下、それが高いのは当然であります。
(図49)
  これは、ドイツのフランクフルトの幼稚園の例であります。ドイツの場合には、「シュタイナースクール」があります。シュタイナーというのは、建築家でかつ教育者でした。日本でもシュタイナースクール、早稲田大学の子安美知子先生の本などで大変流行っております。こどもたちを包み込む空間というところでは、世界中に影響を与えているよう思います。
(図50)
  事故をなくす方法を、私は4つぐらい挙げております。安全の学習というよりも事故の学習ですね。
  事故のデータベースを持っていて、「事故の履歴、プロセスをたくさん学ぶ必要がある」ということが1点。その中でも、「床の安全性」が、私は今までの経験では非常に重要だと思っています。
  3番目は、安全が図られない時に、設計者に直接的な安全の設計になってないと言われるのでは困ります。私の場合には、こどもの遊具まで作っていますから、いつも「安全委員会」というのを作ってもらって、私がデザインした遊具を第三者的に評価してもらうというプロセスを踏んでいます。それはある種気休めかもしれませんが、自分が考えたもの、デザイナーが考えたものは、模型を作り、実際にも作って、そこでこどもたちを遊ばせて修正しながら作りますが、そればかりでなくて、第三者の方にそれを評価してもらうという形での安全委員会というのを作っております。
  とはいえ、安全は、最初のデザインだけでなくて、メンテナンスが非常に重要ですね。ですから、二重の安全性を図っていく。例えばブランコなんかでも、ブランコを支えている部分にもう1つワイヤを取りつけることによって、1つ磨耗して、万一切れた場合でも、全部が落っこってしまわないようにする。二重の安全性はもちろんですが、さまざまな潜在的な危険というものについて、いつも図っていく必要があるのではないか。そういう問題に対して、管理する人たちに対して設計者が指示を出していくということをやっています。
(図51)
  日本の建築というのはこども用にできていると言ったのは、愛知大学の教授だった佐野エンネさんというドイツから帰化された先生が、そういうことを強調していました。ドイツの建物は大人用にできている、日本の伝統的な建物はこども用だと彼女は言っていました。
  それは1つに、畳という柔らかいマット、床、廊下。チャブ台という大人もこどもも参加できるテーブルという意味で、彼女はそういう日本の生活様式を評価していました。
  考えてみますと、日本の建築は中国、朝鮮半島を経由して伝来されたものですが、天井というもの、床というもの、それから廊というか、庇下、こういう部位を造ってきたのは極めて日本独特なものです。そういう意味で、昔の家はダブルスキン、要するに、こどもたちを優しく二重に包み込んでいく家の構造を持っていたのではないかと思うわけです。
(図52)
  ここに見られますように、廊的な空間が平安時代からこどもたちのあそびの空間であったわけです。
(図53)
  これは、「野中保育園」という35年ぐらい前の私が若いころ設計した保育園です。
(図54)
  これは、遊具的な建築なんですが、長野のアルピコ広場というところで造った廊的な空間を円環状に回したものであります。
(図55)
  これも、廊的な空間とあそびの空間が入っています。
(図56)
  これは、私が設計したものではなくて、清新町団地という都内にある団地ですけれども、ここで幾つか私もこどものあそび環境の調査をいたしました。高層居住というのは、私なんかは反対なんですけれども、こども環境学会の副会長をやっております東京大学の織田正昭先生なんかも、15階以上に住むこどもたちは、生活自立能力が落ちてしまうということを10年ほど前に報告をしていました。その織田先生が調査をしたのも清新町団地でありました。
  私は、特に広場を中心としてこどもあそび環境の調査をして、なかなか面白いと思いました。20数階建てのワンコアタイプの高層居住に住むこどもたちは、あそばない。この辺に小さく見える14〜15階建てのマンションでは、立体的な経路がとれるとよく遊んでいる、というのがわかりました。
  後で、その問題についてはちょっとお話しいたします。
(図57)
  これは、こどもの成育環境をテーマにした住宅の私の例であります。
(図58)
  これは、「プレイステーション」というこども部屋ではなくて、こどもの居場所。私がデザインしたんだけれども、作ったのは施主さんです。お父さんがシステムエンジニアなんですけれども、予算がないから、なかなか家具ができないというので、それは自分で作れと僕がけしかけて、施主が作ったものです。
(図59)
  これは、屋上にプールがあります。
(図60)
  これは、私が1980年に造った「私の自宅」なんです。ここにも10メートルぐらいのプールがあります。それをやったことで、私の住宅は上にプールが載っている住宅の設計依頼が多くなったんです。
(図61)
  現状は、こんなように南側の3本のケヤキが成長し、建物の立面が見えません。お化け屋敷になっちゃっています。
(図62)
  ここで私の息子は育ちました。あそびを十分にしてくれたかどうか心もとないところもありますが、自然が好きな人間に育ってくれたことは良かったと思っています。

6.遊環構造とその応用

(図63)
  次に、こどものためのあそび空間の構造についてお話しいたします。
(図64)
  これは、私が日本大学の芸術学部の非常勤講師をしておりました時に、学生と一緒に作りました遊具であります。毎年、幼稚園児のための遊具を作ろうというのを設計課題に出しておりました。デザインするだけじゃなくて、それを実際に作って、幼稚園の幼児に評価してもらう。それをまた学生たちと一緒に議論をする、という設計の課題をしたんです。
  ここでは、共同制作で1グループ5人ぐらい、課題としては3カ月、1グループ5万円の補助を学校から出させるようにしました。その材料費以外は、すべて自分たちで自腹を切れというプログラムでありました。
(図65)
  これは、車がついていて、バタバタとやると、四角い箱になって、どこにでも持っていって、サーカスのようにこどものあそび場ができるというものであります。
(図66)
  これは、正20面体のキャンバス遊具です。そのキャンバスの袋は、20面体のフレームからバネによって釣り下げられています。これを作りました桑原君は現在日本大学芸術学部の教授をして、私の設計課題を引き継いでもらっています。
(図67)
  これは、「タイムトンネル」と言っている黄色い箱状のトンネルなんですが、ここのところに、こどもが顔を出しています。らせん状になっていて、ここが入り口です。こういう簡単な遊具でありますが、幼稚園児には大変人気がありました。
(図68)
  これも、学生たちと一緒に作ったFRPのチューブ状の遊具です。アールのチューブと真っ直ぐのチューブを組み合わせて20メートルぐらいのチューブになっています。
(図69)
  それを発展させて、これはコトブキさんという遊具メーカーに、私が製品として開発したものであります。
(図70)
  こういうふうな遊具を、50個ぐらい10年間で作りました。そういう中で、こどもたちのあそびは、遊具によって発展段階があるということに気がつきました。例えば2歳頃のこどもたちは、すべり台という遊具においても、ただ上ってすべるというすべり台という機能を学習する段階から、3歳頃になると、足をかけてすべったり、頭からすべったり、2連結ですべったり、というように技術開発的な段階になるわけです。4歳頃になると、よりスリリングでより速くという技術開発を終わってしまって、集団あそびゲームになるわけです。集団あそびゲームの背景となる段階です。こういうように、機能的なすべるということを学習する段階から、より速く、よりスリリングにどう技術を開発していくかという技術的な段階、それから、鬼ごっことか集団あそびゲームをする段階と、ステップアップしていくわけです。
  そして、こどもたちにとって人気のある遊具は、社会的な段階になりやすい遊具なんですね。
(図71)
  そういうことで、どういう遊具が集団あそびを発生しやすいのかを調査してみました。カテゴリー1というのは、1980年ごろ一般の公園にあった遊具です。カテゴリー2というこの遊具は1980年ごろ日本に輸入されてきたスウェーデンのポリプレイという遊具ですね。
  カテゴリー3は、私が日大の学生たちと一緒に作った創作遊具であります。その中でどういう集団あそびゲームが発生しているかという頻度を調査したものであります。
(図72)
  そういう調査を踏まえて、こどもたちのあそびやすい空間にはある種の構造があるのではないか、と気がついてきたわけです。それが7つの条件です。全体に「循環動線がある」、「回遊動線がある」ということであります。それから、それが「安全で変化に富んでいる」こと。その中で「シンボル性の高い空間」がある。そして、「目まいの空間」があることです。
  目まいの空間というのは、フランスのロジェ・カイヨワという社会学者が言っていることでありまして、彼は、あそびには4つの要素があると言っているんです。それは「競争」、コンペティション、勝つか負けるかということです。それから、「チャンス」、偶然のあそび。スゴロクとかすべてのギャンブルの要素に、偶然のあそびの要素が入っています。もう1つは「シミュレーション」、まねるあそびが重要だということです。こどもたちの何々ごっこ、ままごととか学校ごっこ、そういうまねるということです。これは、大人になると演劇だとか映画という芸術になると彼は言っているわけです。
  もう1つは、「目まいのあそび」と言っています。これは、彼の定義によれば、肉体的、精神的に一時的パニック状態を楽しむと言っています。だから、すべり台も、ある種のパニック状態を楽しむ。それを言うと、ディズニーランドなんかはほとんど、目まいのあそびに満ちているということがおわかりになると思います。要するに、こどもたちの小さな遊具の中でも、目まいを体験できる場所というのが少し挟み込まれていることが大事です。
  そして「近道」ができる。これが単純ではなくて、さまざまな用途があるということ。それに「大きな広場、小さな広場が取りついていること」。そして、全体が「ポーラスな空間」で構成されている。ポーラスというのは、穴があいたという意味でありますが、どこからでも入り、どこからでおりられるという内容であります。
(図73)
  これが、私の処女作にも近い作品です。「宮城県中央児童館モデル児童遊園巨大遊具」というものを作りました。
(図74)
  180メートルぐらいの長さがあって、
(図75)
  こういうプランニングをしたものであります。
(図76)
  これは現存しております。
(図77)
  これをまねてくれたのが、パリにラビレットというバーナード・チュミがコンペで優勝した公園がありますが、そこにある「ドラゴン」という遊具です。私の遊具を少し参考にしているんじゃないか。少しどころじゃなくて、かなり参考にしているんですけれども、ドラゴンの顔のデザインとかよくできています。
(図78)
  次に、1985年に私がやりました、「つくば博のこども広場」。
(図79)
  約3ヘクタールぐらいのこどものための科学公園として、私がデザインしました。
(図80)
  これは、1972年に造った、「野中保育園」という保育園です。これは、低層の保育園で、極めて安い、坪当たり11万円で造った保育園です。後ろ側に富士山が見えるなかなかいい場所です。敷地はとにかく広く、1haもあります。建物はもちろん、敷地全体が遊環構造で形成されています。
(図81)
  「野中ザウルス」という園舎が第1期で、10年後ぐらいに「野中丸」という第2期を造りました。こちらは園長さんの自宅です。
(図82)
  こどもの空間というのは、若干アナーキーな空間でなくちゃいけないという感じがすごくあります。この保育園の園長さんの塩川豊子先生という先生が、「こどもたちが朝保育室に来る時に、おもちゃ箱を保育室にぶんまけた1日と、そうでない1日はこどもの行動は全然違うのよ」と言っていました。
  こどもにとっては、整理整頓されたきれいな空間じゃ、ある意味ではだめなんだということなんですね。
(図83)
  これは、10年後に造った園舎です。
(図84)
  園の中全体がワイルドな空間に満ちています。
(図85)
  これは、1992年にやりました「富山県のこどもみらい館」という児童施設です。博物館でもあります。
(図86)
  これは、真ん中は機械室で、八の字型の動線を持った遊環構造の建物であります。
(図87)
  これは、エントランスのところです。
(図88)
  中に約100メートルのこどものあそびのチューブが釣り下げられ、走り回っています。
(図89)
  上側が遊具のチューブです。
(図90)
  これは、チューブの中です。
(図91)
  屋上も、そういうあそび場になっています。
(図92)
  これは、1993年に造った相模原市の「星ケ丘こどもセンター」。
(図93)
  ここも全体が、遊環構造的な考え方で造られています。
(図94)
  これは、エントランスのところです。
(図95)
  これは、内部空間です。ここを、スロープで上っていきます。真ん中にいわゆるショートカット動線があります。
(図96)
  その中です。
(図97) 
  これは、屋上です。屋上がプールになっています。そのために、下の方の柱が太く大きいのです。
(図98)
  これは、学会賞をもらいました愛知県の「児童総合センター」。ついこの間まで、愛知万博の会場にもなっていました。
(図99)
  ここでは、建築的な動線と遊具的な動線が二重に入っていまして、ここにショートカット動線。ここに二重らせんのチャレンジタワーというタワーが建っております。
(図100)
  これが、遊具的な動線です。
(図101)
  これは、こどもエレベーターと私は呼んでいます。別に機械のエレベーターがあるわけじゃなくて、塔状遊具なんですね。自立でもぐって行く遊具で「こどもエレベーター」と名づけています。
(図102)
  これは、二重らせんのチャレンジタワーと呼んでいる塔の最上階の所です。
(図103)
  これは2000年に造りました海南市の「わんぱく公園」。これは、敷地は15ヘクタールぐらいでしょうか。もともとはミカン畑だったんですけれども、それをこどもの公園にしたいという市長の願いで造ったものであります。これが児童施設。
(図104)
  こういう敷地なんですけれども、ここが中心施設です。アプローチがすごく狭いんです。ミカン畑を造成をし直しまして、芝すべりの場所にして、長く廊的な空間をつないで、利用者は15haの敷地を大きく回遊し、丘の頂上に登り、芝すべりをすべってまた戻ってくる、という遊環構造を形成しています。
(図105)
  ここでは、ホップ・ステップ・ジャンプという低年齢児のための年齢別遊具を作っています。
(図106)
  1〜2歳、3〜4歳、5〜6歳という形で、年齢別遊具にしています。
(図107)
  これは、そういう段階的にこども達があそび、最終的には自然あそびの場所というところに帰結しているような形でプログラムを考えているものです。
(図108)
  これが、メインの児童センターで「風の子館」と呼んでいます。
(図109)
  中央のガラスの箱が、全体が遊具なんですね。
(図110)
  下は劇場的な空間で、その上全体が、ネットの遊具であります。
(図111)
  こどもの空間が、私は、あらゆる公共施設に必要だと考えています。市役所にもこどもの空間は必要だ、ホールにもこどもの空間は必要だ、博物館はなおさらだということで、これは「但馬ドーム」という、可動屋根を持つスポーツドームですが、ここでも遊具の空間、こどものあそびの空間を造っています。
(図112)
  これは屋根が開いたところです。野球場に、向こう側の但馬の山々が飛び込んできます。
(図113)
  最上階がスポーツミュージアムと呼んでおります。
(図114)
  こどもたちがあそびながら運動能力、体力を増進させようというコンセプトで造ったスペースです。
(図115) 
  向こう側がサッカー場です。こっち側にドームがあります。ここにも屋根つきのこどものための遊具を作っています。ここでは遊ぶことによって運動能力、体力を増進させるという全体的なコンセプトで作ったものです。
(図116)
  これは、最近造った「海峡ドラマシップ」という門司港の歴史博物館です。
(図117)
  ここにも、こどものあそび場があります。
(図118)
  こども広場と呼んでいます。広場ではないんですが、こどものスペースを造っています。
(図119)
  これは、上海の「テニスセンター」というのを昨年オープンしました。ここのところに幾つか、こどものスペースを提案したんですが、これは実現できませんでした。
(図120)
  もう1つのは、中国のプロジェクトで、広東省の「佛山市の体育館」。これは8万uというかなり巨大な体育館なんですが、ここの部分を「健康回廊」と私は呼んでおりまして、こどものあそびのスペースが配されております。これは、今年8月にオープンする予定であります。

 

7.こども環境学会と日本の将来

(図121)
  「こども環境学会」を、先程ご紹介ありましたように2004年に立ち上げました。こどもの問題は、今、公園があってもこどもたちはなかなか使えないです。使えないというか、お母さん方が、「そこに行ってはいけません」というふうに、公園そのものが大人の犯罪によって危険な場所になってしまっているわけです。
  ですから、先程お話ししましたアメリカのように、そこを見守る人が必要なんですね。ガードマンではないんだけれども。そういう意味でプレイリーダーのような人たちがいる公園にしなければ、今、フィールドだけの公園では、こどもたちが利用することができません。そういう時代になっています。
  従って、こどもの環境を考える場合には、建築家や造園家だけが頑張ってもできません。やはり教育、保育、小児科学、あらゆる分野の方々が共同して作っていかないと、日本の都市あるいは日本の地域に、元気に育つこどもたちの声が聞こえてこないわけです。
(図122)
  これは「こども環境学会設立大会」のエンディングの時の絵であります。
  こどもが元気に育つ社会は、自然と共生する社会だと思います。世界へ、地球へまなざしを常に持ってデザインするということが、私たちにとって重要なことではないかと思っています。
(図123)
  最後に、「こどものための都市建築12カ条」。これは、私が建築学会の会長時代に作りました。こどものための建築都市の12のガイドラインです。
  こういうものを通して、こどもたちのまちづくりというか、こどもたちが元気に育つ環境を作っていかなければいけないと考えています。
(図124)
  このパンフレットは、学会でも無料で配布されておりますので、もし興味がありましたらもらっていただければと思います。
(図125)
  こども環境学会では昨年、「こどものための安全で健康な環境づくりに向けて」というアピールを出しています。
  1つには、公園へのプレイファシリテーター。フィールドだけでは公園というのは行き詰まっています。そういうプレイファシリテーターを進めなくてはいけない。
  2番目としては、自動車交通を制限し、道あそびを復活させる必要がある。
  それから、こどもの安全と健康の視点に立ち、シックハウスとか環境ホルモンの問題、アスベストの問題もありましたが、こどもたちの成育にふさわしい住環境を再整備しよう。
  4番目に、学校や地域の安全を確保するために、学校を拠点とした地域コミュニティを推進しよう。
  5番目に、こどもたちを過剰な情報刺激から守らなければいけないのではないか。
  この5つのアピールをいたしました。
  建築だけでなくて、さまざまな領域の方々と一緒に、日本のこどもたちに元気に育ってもらうようにますます頑張りたいと思っています。
  どうもありがとうございました。(拍手)

 

フリーディスカッション

與謝野 仙田先生、大変ありがとうございました。
  これまでの都市経営フォーラムでは、例えば「都市と農村」という切り口でのお話を多くお聞きしましたが、今日は都市環境、生活環境における「大人とこども」の各々の領域の基本的認識の必要と、こどもの領域の根本的な意義の重さ等について、大変啓発的なお話をいただき、誠に示唆深いお話をお聞きできました。ありがとうございました。
  それでは、質問の時間が若干ではありますがございますので、この場でご質問を2〜3お受けしたいと思います。どうぞご遠慮なく、手を挙げて申し出て頂きたいと思います。
吉村(三井不動産梶j お話、非常に面白く伺いました。初めに、自然広場、生活道路、家の構造といった、そういう生活的な面からあそびがどんどん生まれているということで、遊具の話を挟んで施設系のお話が最後だったかと思います。最後に、5カ条の提案という中で、道路とか学校拠点とか、またあそび空間的なお話に戻られたかなという感じもしました。
  正直申し上げて、そういう自然、道路みたいな自然発生的にこどもが集団を作って遊ぶ伝統的な部分と、施設を与えるという部分にちょっと違和感を覚えました。根本的に昔に戻るということはもうできないでしょうけれども、社会を高度化するというんですか、そういう中でのこどもが自生的に遊んでいくこどもの文化、まさにイリンクスとミミクリようなあそびをしている、私のこどもの頃「おまめ」と言いましたが、そういう文化というのは取り戻せないんですかね。
仙田 私は建築家ですから、今日のスライドの中でも建築的な環境とか遊具的な環境というところで、人工的な施設重視に思われたかもわかりませんが、こどもの体験の中では、自然体験とか共同体験が非常に重要だろうと思っています。そういう点では、私が、こどものあそびの原風景の中で調査をして思ったことは、自然体験、共同体験をこども時代にきちっとやっておかないといけないということを強調したい。
  私は、去年の10月から「日本学術会議会員」というのをやっているわけですけれども、そこで私が提起しているのは、こどもを元気にする環境の国家戦略を作るべきだということです。それは、今日本の脳科学なんか非常に発達していて、人間の脳は大体8歳までに90%ぐらいが作られてしまう。特に3歳頃が重要だと言われているわけです。だから、8歳〜10歳頃までに、できれば1年間、日本のこどもたちが全て山村留学をして、親元から離れて体験していく必要があるのではないか。そういうプログラムを作るべきではないか。そうすることによって、都会のこどもたちは田舎というもう1つのふるさとを持つことができる。また今、田舎のこどもたちも、先程言ったように非常に孤立化しているわけです。そういう中で、交流が生まれるのではないか。ある意味での都市再生的なものを、こどもを通してできるのではなかろうかということを思っています。原風景調査の中で、こどもたちが自然を体験するのは1泊2日の少年自然の家じゃだめなんですね。
  兵庫県が、兵庫県下こども全員に「5泊6日の自然体験」というのをやっているんです。これは1泊2日とか2泊3日とは、体験学習する内容が全然違うんですね。そういう意味で半年とか、自然の厳しさを実感するには1年やる必要があるんじゃないかと思っているんですね。
  日本のこどもたちが成長する過程の中で、共同体験も必要です。かつての高校、一高とか二高、三高、大学もそうでしたけれども、寮生活というのがありました。ところが、今、日本の大学は、学生運動を契機にしてすべて寮がなくなっています。寮で生活する、そして自然の体験を味わうという意味では、そういうプログラムがもっともっと検討されるべきではないかなと思っています。
  そういうレベルから、日本のこどもたちの成育環境を見て、再構築していかないといけないのではないかという感じを私は持っております。
吉村(三井不動産梶j 素晴しいご提案だと思います。6年間の中高一貫教育で1年間ぐらいそれに費やした方がよっぽどいいと思います。ありがとうございました。
小林((社)日本リサーチ総合研究所) 本業は研究所ですが、もう1つ埼玉県和光市で子育て支援のNPOの理事もやっております。昨今、こどもの安全問題、子育て環境の問題というのはNPO活動の中でもかなりいろいろ関わっておりまして、和光市で今、「つどいの広場事業」という厚生労働省の事業をやっています。それで、先程先生がおっしゃった伝統的日本家屋というものを改良して、親と子の居場所のようなものを作りましたが、非常に好評で、みんな居座って、腰を落ちつけていただいています。
  今日、施設とか空間におけるあそびの環境というお話を伺ったんですが、それをもう一歩進めて、今、町が安全ではないとか、町がこどもの遊べるような空間を全然排除してきているということで、まちづくりとか都市計画の中でこどものあそび環境を取り戻していったり、再構築していくために、建築、ソフト、それから地域住民の人たちに何ができるかとか、どんなことが求められているか、余り大きな理想ではなくて、比較的短いスパンで、まず何からやっていかなきゃいけないかという点について、ご教示いただけましたら。
仙田 私は、こどものあそび環境の研究を長くやってきて、あそび空間の類型化をお話ししましたけれども、最も重要なのは道なんですね。皆さんのこどもの頃を考えてみると、自分のテリトリーとして幾つかのあそび場があって、それをつないでいくあそび道があったわけです。その中でも自宅の前の道というのは重要なんですね。特に小さいこどもであればあるほど、自分の家の前が安全な道かどうかが重要だと思っています。
  1955年から75年の高度成長期に、なぜ日本のこどもたちがあれだけ急激にこどものあそび空間を減らしたのかというのは明らかなんですね。これは自動車なんです。それまでは、日本のこどもたちは道で遊んでいたわけですよ。1965年以前は、ほとんどが道で遊んでいた。道が最大のあそび場だった。それは「たけくらべ」の時代のもっと前から。日本の文化は道文化で広場文化ではない、とよく言われていますが、こどものあそび空間もどちらかと言うと、道が中心だった。それを車によって奪われてしまって「道で遊んではいけません」となった。学校でも、こどもたちが全て道あそびを禁止されてきたために、あそび場ネットワークが形成されなくなってしまったわけです。それで一気に縮小してしまったというところがあると思います。
  こども環境学会でも安全性の研究の中で、町の中において一番重要なのは道の空間で、自動車交通とこどものあそびが共存できる状況を提案しています。それは、時間当たりの交通量が30台以下、そして時速15km以下というところに抑え込めば、大体こどものあそびと自動車交通は共存できると言われています。
  そういう意味では、ハンプとか、道路に盛り上がりをつけるとか、ボラードで、ある時は車が入れないようにするとか、道をこどもたちにもう一度取り戻すことをしたらいいと思う。幹線道路は難しいんですが、細街路的な住宅街路、そういうこどもたちが生活する道路をこどもたちにもっと取り返す。全く車を排除することは難しいにしても、減速させ、制限していくということは可能だと思うんです。
  去年、こども環境学会で調査した時、デンマークなんかは平均速度が30kmが全体の50%だと言うんですね。市街の道路を低速に抑えている。ある意味では、これが一番基本かなと思うんです。こどもたちと共存できる、あるいはこどもたちのために車を排除して専有化していくというのを考えて実行することが、まちづくりとしてのこどもたちの空間のありようではないかなと思っています。
與謝野 仙田先生、そしてご質問頂きました皆様、誠にありがとうございました。
  本日は、生活環境あるいは街づくり、施設空間そしてライフスタイル等々における「子供の遊び領域」という視点からこどもの領域の「現実と将来」等について、幅広い示唆深いお話を縷々お聞きすることができました。ありがとうございました。
  それでは最後に、仙田先生の今後の環境建築家としてのご活躍をお祈りする気持ちも込めまして、大きな拍手をお送り頂き、本日のフォーラムを締めたいと思います。(拍手)。ありがとうございました。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

 


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