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第220回都市経営フォーラム

『ゆふいんのこれまでとこれから』

講師:  小林 華弥子氏 由布市議会議員

日付:2006年4月13日(木)
場所:日中友好会館



1.ゆふいんは観光地か?ゆふいんの街づくり30年

2.いま、ゆふいんの町には問題が山積み

3.湯布院町の市町村合併問題

4.さよなら湯布院、地べたからもう一度

フリーディスカッション



 

 

 

 

 


與謝野 只今より、第220回目の都市経営フォーラムを始めさせていただきたいと存じます。本日はご案内のとおり、講師としまして、大分県由布市から、現職の市会議員を務めておられます小林華弥子さんをお招きしております。

皆様、「ゆふいん」の名前は十分ご存じのことと思いますが、「日本のふるさと」を標榜する美しい田園風景の温泉町であり、映画祭、音楽祭あるいは牛食い絶叫大会など地場独特のイベントのまちとしても知られております。また、この3月までNHKの「風のハルカ」の舞台になった町でもありますが、お手元の資料をご覧いただいてもおわかりのように、この「ゆふいん」のまちおこしの歴史は、「まちおこしのパイオニア」として長年注目されて来た軌跡でして、その端緒は今から大体30年前に遡っております。その後この「まちおこし」は年間400万人の観光客を招くこととなり、一定の成果を見、その後も成熟を続けて来ましたが、昨今、新たな重大な局面に直面しているとも聞いております。

当時のまちおこしの中心人物で、地域づくりの神様と言われている方に、中谷健太郎さんがおられ、この方をご存知の方々も多いと存じます。本日お招きいたしました小林さんは、その中谷さんのもとで、しばらく勤めておられたとお聞きしております。その後、まちづくりコンサルタント会社に勤められた後、湯布院町議会議員に平成16年に出馬されまして、続いて平成17年の市町村合併に伴う由布市市議会議員選挙に出馬され、当選を果たされ現在に至っておられます。

ゆふいんの町を深く愛されて、町の発展に公私ともども尽力しておられる熱き「ゆふいん人」でもあられます。

本日の演題は、ご案内のように、「ゆふいんのこれまでとこれから」と題されまして、行政参加型を含むまちづくりの軌跡と今後の行方等について、市町村合併にまつわる生々しい話題も含めて、ご自身の体験をもとにしての貴重な示唆深い「まちおこし、まちづくりの再生と新生」というお話がお聞きできるのではないかと楽しみにしております。

それでは、小林さん、よろしくお願い致します。(拍手)

小林 皆様、こんにちは。今ご紹介にあずかりました小林華弥子と申します。

 大分県は由布市湯布院町から参りました。由布市湯布院町と申し上げましたけれども、今の市町村の名前は由布市でございます.市議会議員を務めております。

 実は、今回このお話をいただいた時は、去年の秋ぐらいでしたか、まだ合併する前で、合併した後のことが想像だにできなかったんですけれども、ゆふいんについて、いろんな地域づくり、まちおこしで、最近皆さんのお耳にもゆふいんという名前が届いているかと思いますので、そういうことを話をしてくれないかということでした。

 この都市経営フォーラムは、資料を読ませていただいたりしますと、そうそうたる先生方がお話をされておりまして、その中にまじって私のような者がお話しするのも大変おこがましいなと思います。また参加者の方々のお名前を見ますと、各界で大変ご活躍されている方ばかりですので、私がお話しできるようなこともないんですけれども、九州の田舎の小さな町で、こうやっていろんなことをしながら頑張っている所があるのだということをちょっとご紹介して、皆様の何かの参考になればと思ってやって参りました。

 ゆふいん、今は由布市ですけれども、昨年の10月1日に合併をしました。それまでは大分県大分郡湯布院町という町でした。ゆふいんの名前を、聞いたことがあるという方はどのくらいいらっしゃいますでしょうか。──ありがとうございます。ほとんどですね。では、ゆふいんにいらして下さったことのある方は。──結構いらっしゃいますね。話しにくいですね…。(笑)

 ゆふいんをご存じない方がいらしたらと思ったので、ゆふいんを紹介する観光ビデオを持ってきました。皆さん、ゆふいんというと、どんなことをイメージされるのかわかりませんけれども、まずは話の前にゆふいんのイメージを共有していただこうかなと思います。いらして下さったことのある方には、ちょっとゆふいんの景色などを見て、ゆふいんの町を思い出しながら話を聞いていただきたいと思います。

 

(ビデオ上映)

 モモのお話。「人間から時間を盗むために時間泥棒が言うの。無駄なことをやめて時間を節約しないと、時間を使い果たしてしまいますよ。そう言われて人間は時間を節約することばかり考えるようになるの。そして、心が貧しくなって、おこりっぽくて冷たい人間になるの。時間がない、暇がない皆さん、時間泥棒に気をつけて。尽きることのない魔法の泉のように、そこには幾千もの時間の花の姿が浮かび上がってきます」

 九州大分県のほぼ中央にある湯布院町は、人口およそ1万2000人。世帯数3700余りの小さな町です。しかし、この町を訪れる観光客は年間400万人。今や九州を代表する観光地として全国に知られています。

 のどかな農村の風景を残す高原の保養地ゆふいん。そこで、私たちは盗まれていた心の時間を取り戻すのです。

 「時間はさわることはできない。捕まえられもしない。風みたいなものかしら。そうだ。一種の音楽なのよ。とっても静かな音楽なのよ」<モモ>

 ゆふいんには太古の時間が流れています。朝霧の湧く由布院盆地は伝説ではもともと湖で、宇奈岐日女(うなぐひめ)が力の強い権現に命じて湖の壁をけ破らせ、田畑を開いたとあります。

 標高1584メートルの由布岳。古代から人の心をとらえ、自然崇拝の対象でした。由布岳をご神体とする宇奈岐日女神社。伝説の宇奈岐日女を祭り、

1000年の歴史があります。宇奈岐日女の末社大栲社(おおごしゃ)の大杉も1000年の時間を生きてきました。その年輪に刻まれたゆふいんの歴史。

 奈良時代、ゆふいんには栲(こう)の木が群生していました。栲の木は和紙の原料になるコウゾのことで、その樹皮の繊維をほぐして木綿が作られました。木綿は「ゆふ」と呼ばれ、神を祭る幣帛(へいはく)に使われた、とても貴重なものでした。それがゆふいんの「ゆふ」の名の由来です。現代に蘇った、丈夫でぬくもりのある「ゆふ」です。

平安時代には、この里に稲などの租税を収蔵する倉院が設けられ、由布の院と呼ばれ、いつしか「ゆふいん」の名が定着したのです。

そして、ゆふいんの時間が流れました。その時間を刻んだ文化財と私たちは出会うことができます。

「本当の時間というものは、時計やカレンダーで計れるものではないのです」

太古、湖だったという由布院盆地、金鱗湖はそのころの名残といわれ、湧き水とともに、温泉も湧き出しています。その水は、大分川の源流として野を潤していきます。

水はゆふいんの命。ゆふいんでは至る所から温泉が湧き出しています。その量は全国3位を誇るほどの豊かさです。ゆふいんの町は,この温泉によって支えられてきました。

胃腸病を癒す、とも言われる湯平(ゆのひら)温泉。湯布院町のもう1つの温泉です。鎌倉時代に開かれた湯平温泉は、放浪の歌人山頭火もこよなく愛した温泉で、明治から昭和にかけて全国に知られた名湯です。今もその湯は絶えることがありません。水は大地から湧き、空へ上り、再び大地へ。

その水とともに、人の暮らしがありました。由布院盆地の北に広がる塚原高原は、ヨーロッパの田園風景にも似た丘陵地です。その一角には、ゆふいんのもう1つの温泉、塚原温泉があります。そのお湯は皮膚病の治療に優れ、たった1軒の共同浴場ですが、訪れる人は少なくありません。

 大地の恵み、温泉という不思議の水に人々は祭りを通して感謝の気持ちを捧げます。

 「人間には、時間を感じとるために心というものがあるのです。心が時間を感じとらないような時にはその時間はないも同じなのです」<モモ>

 ゆふいんには歓楽街の代わりに、小さなギャラリーや個人美術館が点在しています。アートが本来人間の心を癒すものだとすれば、都会での疲れを癒す温泉町にこそ美術館は相応しいのかもしれません。時間泥棒に盗まれていた心の時間がそこにあります。

 創作の時間を、このゆふいんに探した人がいます。作品とは、触ることができない「時間」に形を与えたものかもしれません。

 既に20年以上も続いている『ゆふいん音楽祭』。住民だけでなく、全国からファンが訪れます。

 「聴衆の方の反応1つ1つが、すぐ通じるというのがすごく印象的でした。自然とかももちろんのこと」「みんなで音楽祭を盛り上げよう。そういう人と人がいい形で交わっている。それがゆふいん音楽祭の一番の魅力じゃないかと思います」

 夏の終わりには、日本映画にこだわった『ゆふいん映画祭』が開かれます。

 「日本映画を思う魂の力強さ、それがここにはあるんですね」(奥田瑛二)

 「すごく美しい自然の中に、とても文化的な人間の営みがあって、観光地というような匂いとは全然また別な匂いがすごくあって、人間に対する信頼というものをとても感じますね」(篠田正浩)

 「時間とは生活です。人間が時間を節約すればするほど、生活はやせ細ってなくなってしまうのです」<モモ>

 自然の息づかいや大地の恵みによって心と体の健康を取り戻す癒しの里、それが保養温泉地、ドイツで「クアオルト」と呼ばれています。

 湯布院町は昭和40年代からヨーロッパ型保養温泉地づくりを進めてきました。それは地域の自然、伝統、文化を大切にし、そこに住む人が本当に暮らしやすい町をつくること。最も住みよい町こそすぐれた観光地であるという考え方です。

 「トマトのにおいがした」

 湯布院町の自然や伝統は、農業によって受け継がれてきました。農村ののどかで懐かしいふるさとの風景こそ、ゆふいんの魅力です。

 クアオルトづくりは、農業と観光を結ぶことでもあります。地元で採れた安全で健康な地元の産物、それは町の旅館で使われたり、お土産になることで、地域の農業が観光と結びつくことができます。

 「ゆふいんは、おいしいよ」<モモ>

 由布岳を燃やす春の野焼き。炎こそ命を再生する力。畜産業もまた、ゆふいんの景観を守ってきました。

 ゆふいんの畜産業は、都市に住む人々に牛のオーナーになってもらうという「牛1頭運動」によって活力を得ました。20年近く続く『牛食い絶叫大会』

は、この運動から始まったものですが、全国に知られるイベントとして観光と結びついています。その歩みの中から、ゆふいんブランド、ゆふいん牛が生まれたのです。

 温泉という財産も、クアオルトづくりを支えるものです。町の健康づくり拠点としての健康温泉館。原木を温泉に浸ける「ゆがき丸太」は、その独特の風合いが希少価値を生んでいます。

 温泉熱を利用した花のハウス栽培。

 農業、商業、観光が一体となった心と体の癒しの里、クアオルトづくりには自然環境を守ることも必要でした。最も住みよい町こそ、すぐれた観光地である。ゆふいんに生活する人々の共通の思いは、行政と住民が一体となったさまざまな取り組みを可能にしてきたのです。

 湯平温泉の秋祭り、それは自然の恵みをたたえる伝統の祭り。

 塚原高原、伊佐奈岐・伊佐奈岐命を祭る霧島神社にも、五穀豊穣を祈る祭りが戦国時代から伝わっています。

 1000年を超える歴史、風土、文化、その時間の厚みの上に心と体を癒す保養温泉地、ゆふいんがあります。

 「尽きることのない魔法の泉のように、幾千もの時間の花の姿が浮かび上がってきます」<モモ>

 

小林 ゆふいんにいらっしゃった方が多くいらっしゃるので、ご覧になってどう思われたでしょうか。「あ、そうそう。行った行った、あそこに行った」というふうに思われた方もいらっしゃいますでしょうし、実際にご覧になったのと随分違うなと思っていらっしゃる方も多いかと思います。

 このビデオはちょっと古くて、7〜8年ぐらい前に作ったもので、今は無くなってしまった美術館とか、いなくなってしまった方も大分映っています。

 視察等でいらっしゃる方に、ゆふいんのご紹介をする時に、このビデオを最初にお見せします。ゆふいんというのはこういう町です、ということをお見せするんですが、ご覧になったように、私に言わせれば、いい所ばかりを映した、とてもきれいでイメージのいいビデオに仕上がっています。

 こういうイメージで、ゆふいんという町が観光地として知られるようになりましたけれども、今日のお話は、ゆふいんの町をPRするだけのお話ではなくて、むしろ逆で、今このゆふいんが、いろんな問題に直面していて、それに向かって新たな取り組みをしている、試行錯誤し続けている、というお話をしたいと思っています。

 その前に一言申し上げておきますと、私はもともとゆふいんの出身ではありません。海外で生まれて、学校は東京で出て、ゆふいんとは全く縁もゆかりもなくて、私まだ独身なので家族も親戚もいなくて、ゆふいんからすれば、全くの他所者です。住み始めてから、もう9年になりますけれども、9年前に、たまたまいろんな人のご縁があって、ゆふいんに旅行に来て、そのまま住みついてしまった。まさか市議会議員になるなんて思ってもいなかったんです。

 そういう私が、皆さんにゆふいんの代表者のような顔をしてお話をするのもおかしいんですけれども、私がこの9年間ゆふいんに住んで、町の人たちと一緒にやってきたことをご紹介したいと思います。

 

 

1.ゆふいんは観光地か? ゆふいんのまちづくり30年

 

 これから、私は、「ゆふいん、ゆふいん」と申し上げますけれども、最初の定義として、少しご説明したいと思います。今、行政区としては由布市だと申し上げました。10月1日、ちょうど半年前に湯布院町と隣の挟間町、庄内町という3町が合併して、新しい由布市という市ができました。その合併する前の湯布院町が、お湯の湯を書く湯布院町という名前です。

その湯布院町は昭和30年、いわゆる昭和の大合併の時にできた町でした。その時に、湯平村と由布院がくっついて湯布院町になったんです。ゆふいんというと、「由」と「湯」と両方書く書き方があって、混乱されて、どうして違うのとよくご質問を受けます。もともと湯平という村と「由」の由布院という村が昭和30年に合併して、湯布院町になりました。

その湯布院町が今回、挟間、庄内という町と合併して由布市になりました。この由布市の「ゆ」は「由」という字を書きます。非常にややこしいんです。

もともと由布岳とか由布川という山の名前、川の名前、地名は「由」という字が本来の地名の漢字なんです。

観光で取り上げられる「ゆふいん、ゆふいん」というのは、お湯の湯布院町の中の由がつく由布院地域。昭和の大合併をする前の由布院町の単位、その地域が今観光のメッカとして言われるゆふいんです。

私がこれから、「ゆふいん、ゆふいん」と申し上げますのは、「由」の由布院盆地、の単位でのお話です。

私は由布市の市議会議員なので、湯布院町のことだけ言うと、非常に角が立つんですけれども、今日はあえて限定した由布院地域のことをお話ししたいと思います。

ゆふいんは、全国に名立たる観光地、温泉地として取り上げられております。旅行会社のランキングなんかでは、行ってみたい温泉地のベスト3に必ずランクインされている。最近、黒川が人気ですけれども、ずっと1位をとり続けていたということで、全国でゆふいん、ゆふいんと言われておりますが、由布院温泉が観光地として賑やかになってきた、有名になってきたのは、最初のお話もありましたけれども、ここわずか30年ぐらいのことです。それまでは、本当にただの小さなひなびた寒村で、観光客というよりも湯治をするために来る人たちがポツポツ滞在をしていただけでした。それが、この30年の間にいろんな取組みをして、観光地由布院として取りざたされるようになりました。

ただ、観光地ゆふいんと言われますけれども、私に言わせると、ゆふいんというのは観光地なのかなと非常に疑問に思えます。

いわゆる観光地と言うと、例えば歴史的な名所旧跡があったり、史跡があったり、観光スポットがあったりします。ところが、いらして下さった方はご存じだと思いますけれども、ゆふいんに来ていただいても何もないんですね。歴史的な町並みもないし、お土産のおせんべいの絵柄になるようなお城があるわけでもない。特に何か、ゆふいんの観光スポットになるようなところもない。

観光客の方に、ゆふいんに来て、「どこに行って、何を見ればいいんですか」と言われて、非常に困ります。むしろ「何をしたくていらしているんですか」と逆にこちらが聞き返すようなことです。ゆふいんというのは何もない。あるものと言えば、今ご覧いただいた由布岳や、由布岳をバックにして広がるのどかな田園風景、あるいはそこらじゅうに湧いている温泉、のどかな風景、そんなものしかないんです。

そんなものを見ながらゆっくりお風呂に入って、時間をたっぷり使っていただく、それがゆふいんの楽しみ方であって、そういうところが、いわゆる観光地かというと、どうもピンとこないなということです。

今、由布市は人口3万5000人ですけれども、合併する前の湯布院町は人口1万2000人弱の町でした。

そこに、年間380万とか400万人とも言われる観光客の方が訪れて下さいます。

 年間380万から400万人の人が来る、というのはどういうことかと言いますと、365で割ると、1日平均して1万人ちょっとの人が来ていることになるんですね。

 人口1万2000人の町に1日1万人以上の人が来る。乱暴なことを言うと、町にいる2人に1人は観光客。人口の倍の人間が外から来ているという状況です。

 現実的には、観光シーズンはオフシーズンとオンシーズンがありますから、夏休みですとか、今から始まるGW、紅葉の季節や、連休の時に、ドーッと観光客の人が集中して来るわけです。

 小さな盆地ですから、盆地の町にドーッと観光客が押し寄せると、町じゅう観光客だらけという状況で、人で溢れ返っているような状況です。

こうしてたくさんのお客様がいらして下さる。何でいらして下さるのか。さしたる名所旧跡もないし、いわゆる観光地らしい観光資源というものもない町に皆さん一体何をしに来るんだろう。住んでいても非常に不思議に思いますが、皆さんが口々に言って下さるのは、先程言ったようなのどかな風景を楽しみに来たり、何となく癒される、何となく心がほっとするような雰囲気を楽しみに来るんだということです。

実はそれこそが、ゆふいんの唯一の観光資源だと思います。美しい豊かな自然の中でたっぷりと時間を過ごし、美味しいものを楽しみながら、できれば1晩泊まって温泉につかって、帰っていく。心が癒される時間というものを楽しむ。それがゆふいんの観光資源と言えば資源です。そういうものは、ある意味当たり前にあるようなことで、それが観光資源として観光客が目当てとして来るようになったことには、やっぱりそういう観光客に楽しんでもらう仕掛けがあったからだと思います。

それは何か。ゆふいんの観光のキーワードは、ビデオにも出てきましたけれども、「最も暮らしやすい町こそ最もすぐれた観光地である」。これを私たちは「生活型観光地」と呼んでいます。住んでいる人が暮らしやすくて、気持ちいい空間を作る。それこそが、訪れてきて下さる方にとっても気持ちがいい空間であるはずだ。私たち住んでいる人が住みやすいなと思う町こそが、訪れても楽しいなと思える町であるはずだ。この考え方を「生活型観光地」と呼んでいます。

 この生活型観光地という考え方を基本に、この30年間いろんな取り組みがされてきました。ゆふいんのまちづくりで非常に有名なイベントは、今ビデオにも上がってきましたけれども、『湯布院映画祭』とか『湯布院音楽祭』、あるいは『牛食い絶叫大会』。こういういろんなイベントを毎年毎年仕掛けることによって、外から来て下さる方にいろんな楽しみを提供してきました。

 この映画祭にしても、音楽祭にしても、牛食い絶叫大会にしても、ちょうど30年前に始まって、今年が第31回になるんです。ただし、これらの取り組み

は、何も最初から外からの観光客を呼ぶためにやったイベントではなかったんです。これが一番ポイントなんです。実は映画祭や音楽祭、絶叫大会も、観光客誘致ではなくて、町の人たちが自分たちの生活の中から出てきたイベントだった。

 例えば、『湯布院映画祭』というのは日本映画だけにこだわってやっている映画祭です。日本で一番最初の映画祭だと言われています。今でこそ、いろんなところで映画祭をやっていますけれども、映画祭という名前をつけて、映画をみんなで楽しむというイベントを町ぐるみでやったのは、ゆふいんが最初だと言われています。

 これは中谷健太郎さんという方が、この方はゆふいんのある有名な旅館のご主人なんですけれども、その方が旅館を継ぐ前に東京で東宝の映画会社に入っていて、映画の助監督をしていたんです。映画監督になるのが夢で、東京に出てきて、助監督にまでなって、そのころは貧しい村でしたから、ゆふいんに帰ることなんか全く考えていらっしゃらなかったんですけれども、先代が亡くなったので、急遽家を継がなければいけなくなってゆふいんに帰ってきた。彼は助監督をやっていたぐらいなので、大変映画が好きだったものですから、新しく東京で作られた映画があると見に行ったりして、映画仲間たちをいっぱい作っていたんです。

そういう話を持ち帰って、大分のゆふいんで映画が好きな人で愛好会を作った。「大分のよい映画を見る会」。映画マニアの仲間たちが集まって、「今東京でこういう映画が作られた」とか、いろんな映画談義をしていて、「じゃ、その映画をみんなで見てみよう」ということになって、映画館も全然ないんですけれども、フィルムを借りてきて、映画を見る。せっかく映画を見たんだったら、これを作った監督の話を聞きたいとか、これに出た俳優さんたちを呼んできて、一緒に話がしたいということで、中谷さんのツテもあったんでしょう。東京からそういう監督さんや俳優の人たちを呼んできて、映画談義をしていた。

 そうやって、大分の映画好きの人たちが集まって東京の映画関係者の人たちを呼んで、いつも映画談義をしていたのが、だんだんいろんなところで噂になって、「九州のゆふいんに行くと、映画好きの面白い人たちが集まっているぞ」というので、周りの映画好きの人たちもだんだん来るようになり、それじゃ、映画祭という形にしてみようということで映画祭になっていった。

 音楽祭もそうです。『ゆふいん音楽祭』も31年間やっていますが、これは室内楽だけにこだわった音楽祭です。小林道夫先生という日本のチェンバロ奏者の第一人者の先生が、第1回からこの音楽祭に関わって下さっています。小林先生は、ついにゆふいんに移り住んでしまったんです。これも「星空の下のコンサート」というクラシックの好きな人たちが集まって、旅館に泊まって下さったお客さんと一緒にクラシックを聞くような会を時々催していた。そうやって、自然の豊かなところでクラシックの音楽を聞きながら、時には音楽家の人たちがゆふいんに泊まりに来たりすると、「1曲弾いてよ」なんて言って、弾いてもらっていた。そうやっているうちに、そういうのがだんだん広まって音楽祭になってきた。

 絶叫大会もそうです。『牛食い絶叫大会』というのは、毎年10月の体育の日に、体育の日は晴れの特異日なので、たいがい晴れているんですけれども、由布岳のふもとの小高い丘にみんなで上がりまして、ゆふいんの名産である豊後牛をみんなでバーベキューをして食べます。お腹一杯豊後牛を食べた後に、それぞれ自分の好きなことを大声でマイクに向かって叫ぶんです。一番大きな声で一番面白いことを言った人が優勝という、非常にばかばかしいお祭りなんですけれども、これも今や毎年700〜800人の牛食い絶叫大会ファンが、全国から駆けつけて下さるような一大イベントになりました。

 この牛食い絶叫大会というのも、観光客目当てではなくて、ゆふいんの畜産振興のための取り組みでした。というのは、30年前に、ゆふいんで畜産農家をやっていた人たちがいたんですが、ゆふいんは盆地で牧草地も傾斜の激しい所で、小さな畜産農家が個人経営で畜産業を営んでおりました。大規模経営ができなくて、小さな家が1軒1軒で畜産業を営むんです。肉牛は子牛を市場から買ってきて、自分の家の牧草地で子牛を大きな成牛にして市場に売り出すということなんですけれども、昔貧しいころに、小さな1軒1軒の畜産業が子牛を買ってくる最初のお金がなかったんです。資金がない。それでどうしようかといって考えついたのが、「牛1頭牧場運動」という、牛のオーナー制度です。

今でこそ森林オーナーとか、いろんなオーナー制度がありますけれども、当時30年前に、こういう畜産業にオーナー制度をやろうというのは、とても画期的な取り組みだったようです。最初に子牛を買ってくるお金がないから、都会の人たちに子牛を買ってくるお金を出資してもらうんです。出資してもらって、その子牛のオーナーになってもらう。そのお金を借りて、畜産家の人は子牛を買ってきて、大きく育てて、それが大きくなって市場で売れたら初めて、そのお金をオーナーの人に返すという仕組みで何とかやり続けてきました。

ただ、オーナーになって出資してもらったのはいいんですけれども、毎年都会の人たちに利子を払わなきゃいけない。利子を払わなきゃいけないんですけれども、子牛が大きくなるまでは現金になりませんから、利子が払えない。じゃ、どうしようかといった時に、利子を払うかわりに年に1回、出資してくれたオーナーの人たちをゆふいんに呼んで、お腹いっぱい美味しいゆふいんの物を食べて、ゆっくり温泉につかって、その農家に泊まって、帰りにお米かお野菜を持って帰ってもらって、それを利子代わりにしてもらう。非常に虫のいい話なんですけれども、そういうことでオーナーになってもらいました。

最初20軒の農家と20人の都会の人たちがオーナーになって始めたんですけれども、そうやって年に1回、出資して下さった都会の人たちがゆふいんに来て、ゆっくり豊後牛やゆふいんの美味しいものを食べて過ごす時に、だんだんいろんな人を呼んでくるようになって、それがいつの間にか『牛食い絶叫大会』というイベントになった。

今はもう、初期の目的を達したのでオーナー制度は終わってしまっていますが、牛食い絶叫大会の部分だけが残って、今や観光イベントとなっています。

つまり、ゆふいんを代表するような映画祭や音楽祭や『牛食い絶叫大会』は、何も観光客を呼ぶためにやったのではなくて、自分たちが映画を楽しみたい、音楽を楽しみたい、あるいは自分たちの畜産業を何とかしたい、そういう暮らしのために、いろんな取り組みをしてきたことに外の人たちが共鳴して、それが外の人に喜んでもらえるようになった。

これがまさに「生活型観光地」の考え方の原点です。それは今でも変わっていません。外から来て下さる方たちに楽しんでもらえる。それは自分たち暮らしている人たちが楽しめる町だからこそ、という発想は変わっていません。

 

2.いま、ゆふいんの町には問題が山積み

 

そういうことをずっと30年間やってきて、今や人口の倍ぐらいの人たちがゆふいんの町に観光客としてやってくるようになりました。大変ありがたい話ではありますけれども、同時に問題も増えてきました。観光客が増えて、町に落とされるお金が増えれば増えるほど問題も大きくなっています。

 具体的に言いますと、ゴミやし尿も置いていくようになりました。例えば、し尿処理場なんていうのは、人口規模でいえば1万2000人の人口に見合ったし尿処理場を造ってみたものの、その倍ぐらいの観光客が来るわけですから、あっという間にパンクしてしまう。ゴミもそうです。交通問題も、年々深刻になっています。

 レジュメにも幾つか書き上げております。外資の乱入、景観の乱れ、交通混雑。

 外資の乱入というのは、今、ゆふいんという名前が全国的に広まったおかげで、外からいろんな資本が入ってくるようになりました。町外資本が入ってきて、ゆふいんという名前さえつければ売れるというので、全国どこにでもあるような、どこで作ったかわからないようなものにも、「ゆふいん」という名前をつけて売りさばく。ゆふいんに来て下さったお客さんは、買ってみたけれども、こんなのはどこにでもあるじゃないか、と思うようなものが当たり前のように売られてしまっている。

 外から来て、ゆふいんという名前をつけてしばらく商売をしたけれども、ちょっとお客さんが来なくなれば、そういうお店はどんどん撤退していってしまいます。ゆふいんというものが使い捨てにされていってしまう。そうすると、地場産業として地域で作ったものを地域の人たちが自分たちで加工して、自分たちで売っていくという地域内経済みたいなものが、外からの大きな資本によってだんだん壊され始めてきています。ゆふいんにいらした方も、多分そういうことを感じて帰られた方も多いんではないかと思います。

 景観の乱れも今ひどいです。あちこちにいろんな店ができ始めています。ゆふいんは実は平成2年に「潤いのある町づくり条例」というものを作りました。ゆふいんに大型のホテルや大型のリゾートマンションはほとんどないんですが、それは「潤いのある町づくり条例」というもので守られているからです。全国に先駆けて、町独自の条例を作りました。

 条例の内容は、1000u以上の開発行為をする時は、まちづくり審議会という町長が委嘱した審議会に諮問して、その審議会がオーケーを出さない限りは、開発許可を町長が出さないというもので、1000u以下に開発行為を抑えるというのは、国の建築基準法の3000u、県の開発行為の基準が3000uですから、それに比べれば非常に厳しい条例です。平成2年に、こういう国や県の規制よりも厳しいものを、町が独自に作ったというのは大変な当時の苦労があった。NHKの「プロジェクトX」で、当時の条例策定までの取り組みが取り上げられたので、ご覧になった方もいらっしゃるかと思いますけれども、なぜこういう条例を作らなければいけなかったかというと、当時、平成2年にリゾートマンションブームが起こっていたんですね。

 ゆふいんの山1つ越えた所に別府があるんですけれども、別府の町にリゾートマンションが乱立し始めて、その後ゆふいんにも、どんどん大きなリゾートマンションのための開発申請が上がってきた。その時に、これではゆふいんの町が壊れてしまうというので、急遽、その当時の行政と住民の人たちが一体となって、そういう厳しい条例を作りました。

 それによって、今でもゆふいんでは大きな建物は余りありません。高さも、一応、条例上では5階建てまでに規制されています。でも、3階建てぐらいまでの建物しかありません。

そういう大きなものは規制できたんですけれども、今問題になっているの

は、大きなものの問題ではないんです。1000u以下の小さな1つ1つの店舗、1つ1つの旅館が乱立し始めて、例えば、物すごく派手できらびやかな看板を掲げたりとか、これがゆふいんなのというデザインの店が建ったり、そういうことで景観が乱れ始めている。田んぼの真ん中に、ぎょっとするような大きな看板を掲げたりとか、そういう数字では縛れないようなところで、景観が大分乱れ始めているというのが問題になっています。

 交通混雑、これも深刻です。ゆふいんの町はもともと小さな寒村でしたので、道が広くないんです。もともと農道だったところを町道、市道と、格上げしているだけのものなので、町のほとんどは車が離合するのがやっとというぐらいの細い道です。そういう所に観光客のほとんどは車でいらっしゃいますから、外からの車が、ゴールデンウィークとかお盆の時期になりますと、一斉にその盆地内に殺到する。そうすると、町中の道が車で数珠つなぎになってしまいます。

 ひどい時には、普段ですと車で5分ぐらいのところも、1時間かかっても進まないという状況になったりします。緊急車両も通れない。生活している生活車両も通れないということで、交通渋滞が大変な問題になっています。

 そういう観光客が多く来たことによって起り始めたいろんな問題に、今、ゆふいんは直面しています。ただ、こういうことに、ただ手をこまねいているばかりではありません。今、新たな取り組みがいろいろ始まっています。

 全部話していると切りがないんですけれども、例えば、景観のことについて言いますと、「景観デザインガイドブック」というのを作りました。ゆふいんの景観問題は、今言ったように、小さなものの乱立ということなんですけれども、そもそも「ゆふいんらしい景観」というのが壊れ始めていると言いますが、「ゆふいんらしい景観」って何だろうというと、はっきりした答えが出てきません。

 例えば、倉敷とか京都、妻籠とかは、歴史的町並みや建造物が保存されていて、そういう建築手法に合わせたり、そういうものを守っていくことがその町の町並みを守ることになる。そういうものがあるところはいいんですけれども、ゆふいんはいわゆる歴史的な町並みもありませんし、古い建造物が残っているわけでもありません。だから、「ゆふいんらしい町並みって何なの」と言われても、答えようがないですね。ある一定のコードがあるわけではないんです。

 ゆふいんは、農村景観がゆふいんらしいというのであれば、ゆふいんの建物が全部藁葺き屋根だったらゆふいんらしいかというと、決してそうではない。「ゆふいんらしい、ゆふいんらしい」とみんながそれぞれ思っていて、みんなが思っているゆふいんらしいというのがバラバラだから、できた景観が非常にバラバラになって乱れている。

 それが一番問題なんです。何が「ゆふいんらしい景観」なのかという、物の共通の認識が持てていないというのが一番の課題です。

 そこで、ある取り組みをしました。「景観デザインガイドブック」というものを作りました。レジュメの3枚目に紹介しています。これ、何かと言いますと、ゆふいんで建物を建てる時にはこういうことに気を遣って欲しいという、ガイドブックなんです。

 中身がご紹介できないので残念なんですけれども、ガイドブックの中に3つの目標というのを掲げています。「小ぢんまりとした佇まいのある風景」とか、「内と外とのかかわり合いを大切にしている風景」とか、「自然な風合いを大切にしている風景」、こういうものを大切にしながら家を建てましょう。その家を建てる時にどうしたらいいかというので、3つの目標と9つの心得というものを本に挙げています。

 具体的に言うと、通りに対して固く閉ざさない作りとするとか、道にギリギリいっぱいに建物を建てないで、一歩引いてそこに木を植えて、柔らかい雰囲気を境界線の上に作りましょうとか、同じ延べ床面積のものを建てるにしても、1つの大きな箱のものを建てるのではなくて、それを2つ、3つに分節して建てると外観が非常に柔らかくなりますよとか、そういう幾つかの手法を具体的に示しているんですね。

 こういうガイドブックを作って、こういうことに気をつけると、何となくゆふいんらしい、ゆふいんの風景に見合った建物ができるんじゃないでしょうか、という提案をしています。

 こういう提案をして、こういう考え方に則ったゆふいんらしい建物のコンクールをしました。ゆふいんらしい建物を、ゆふいんらしい風景を皆さんで選んで下さいと言って、観光客や町の人たちに選んでもらって、投票していただく。投票していただいて、一番多かったものを審査員の人たちが選んで、それを表彰するというコンクールを何回かやりました。

 これは何をしているかというと、「ゆふいんらしい、ゆふいんらしい」と口々に言うけれども、共通認識が持てないという部分をみんなで共有しよう。こういうものがみんなはゆふいんらしいと思っているのではないか、ということをお互いに理解し合う。お互いにわかり合うことをやろうということです。

 これは遠回りなやり方ですけれども、こういう手法でしかたどり着けない。例えば、派手な真っ赤な看板あるいは家の屋根を真っ赤に塗りたくった家があって、あれはゆふいんらしくないと言った時に、みんなが「あれはだめだ、あれはだめだ」と言って、そういうものを規制しようとしても、結局それはイタチごっこなんですね。屋根の色を真っ赤に塗っている人は、それが非常にいいと思って塗っているわけです。非常にゆふいんらしい、これがとっても素晴しいと思って塗っているわけですから、よその人が「赤が悪い、青が悪い。黄色ならいいのか、緑ならいいのか」と言っていても、結局、それぞれの価値観が違うので、いつまでたっても、共通の1つの決まり事にはできません。ゆふいんには赤はだめですけれども、緑はいいですよという決まりは作れない。

じゃ、どうしたらいいかというと、本人は赤がいいと思っているかもしれないけれども、周りの人はそれが決していいとは思ってないということを知ってもらう。知ってもらったら、塗り直せというんじゃないんです。赤が好きだったら赤で塗ってもいいかもしれないけれども、例えば、赤く塗りたくった家の前に1本木を植えて、外の道から木を通して赤い建物が見え隠れする、そういう配慮をしてくれることで、随分外の人に対する印象が変わってくる。そういうことをわかってもらうためにも、共通のコンセンサス、共通の認識を作るためにも、お互いにゆふいんらしい景観というのはどういうものだと思い合っているのかを確認する作業を、こういうコンクールをしたり、ガイドブックを作ったりということでやり始めています。

それから、そういう間接的な取り組みだけではなくて、外から入ってきて、地元の人たちとは全く接触のない人たちが勝手にそういうことをしますので、地元の人たちが自分たちでのルール作りをしたり、あるいはこういう建て方をしましょうねということを、外からの人たちにもきちんと守ってもらいたいということの対策のために、景観法が適用される景観行政団体に行政が手を挙げました。

景観法はご存じの方が多いと思いますけれども、景観法ができて、実は合併前の湯布院町の時に景観行政団体になるよう手を挙げさせたんです。私の湯布院町議会の議員としての最後の仕事でした。景観が乱れているのは、ゆふいんにとって死活問題なんだ。外から観光客で来て下さるお客様が何を一番楽しむかと言ったら、ゆふいんらしいのどかな風景、その風景を見てホッと癒される風情、それがゆふいんの命綱なんだから、そのゆふいんの風景が壊れていくということは、まさにゆふいんの魅力を失っていくことだ。今こそゆふいんが景観対策に取り組まなければいけないということを力説して、何とかとにかく景観行政団体に手を挙げて、行政として景観対策に乗り出してくれということをしました。

 湯布院町の時に、知事の認可がおりて景観行政団体になったんですけれども、なった直後の3カ月後に合併して由布市になってしまいました。本当は合併すると、湯布院町としての景観行政団体の認可は取り消されてしまうんですけれども、今回、改めて由布市として景観行政団体になりたいということを申し入れたら、県が特別な配慮をして下さって、湯布院町の時に景観行政団体に認可したので、それをそのまま引き続き由布市として景観行政団体にしましょう、ということで認可をいただきました。

 景観行政団体になったので、これから、景観計画を作ったり、景観条例を作ったりということをしていかなければならない。ところが、湯布院町としての景観対策のために景観行政団体になっているんですが、今隣り合った挟間、庄内という町と一緒になって、大きな由布市になってしまいました。大きな由布市として、景観対策をすることと、湯布院町地域に景観対策をすることには物すごく大きな開きがあります。どうやって由布市として景観対策を進めていくか、というのが課題になっています。多分、景観地域地区指定みたいなことをして、地元住民の自主的な動きを作って、それを市に上げていくということをやっていこうかなと思っています。

 交通問題についても、手をこまねいているわけではありません。車が数珠つなぎになって、緊急車両も通れないで、大渋滞が起きている。じゃ、どうしようかと言った時に、道を拡げるとか、駐車場が足りないから駐車場を増やせばいいかと言うと、そういうことはしておりません。

 ゆふいんには駐車場がなくて、道が狭いから、道を拡幅したり駐車場を造ることが交通問題の解決になるかというと、そうではないんです。ゆふいんの町は田舎の道をのんびりとそぞろ歩いてもらう、それが一番ゆふいんらしい散策の仕方なんですけれども、車が数珠つなぎになるから、2車線を広げて4車線にして、車がビュンビュン行き交うようなところになったら、果たしてそれがゆふいんらしい道のあり方かというと、決してそうではない。駐車場が少ないから駐車場を拡げたらいいかというと、かえって、盆地の中心部により多くの車を呼び込むだけです。

 また、駐車場を大きくしても、観光客の人たちが来るのは、土日とか休日だけで、平日はほとんど町内には観光客の車はいないんですね。生活車両だけです。土日や休日だけのために、そんな大きな駐車場を造る必要があるかというと、そうでもない。そういう道を拡げたりとか、駐車場を拡げたりというハードなことだけで問題を解決できない。

 じゃ、どうしたらいいだろうかということで、3年前に、国土交通省の支援を受けて、大々的な交通社会実験をやりました。これは7つのメニューを使ってやりました。

一番の目的は、とにかく盆地の中に車を入れない。歩いて楽しんでもらう町の空間を作ろう。ゆふいんというのは盆地で、盆地の一番底の中心部のところが観光客がいっぱい訪れるところなので、盆地の周辺部で、とにかく車を乗り捨ててもらう。高速の湯布院インターを降りたすぐそばに道の駅があるんですけれども、そこで車を降りてもらって、町の中心部まではシャトルバスを走らせて「パーク・アンド・ライド」をしたり、由布院駅の1つ手前の南由布駅というところに大きな駐車場を設けて、そこで降りてもらって、1駅だけ電車に乗ってもらう「パーク・アンド・レールライド」というのをやったり、町の中に入ってきたら、ゆっくり歩いて楽しんでもらうか、自転車に乗ってもらおうというので、レンタサイクルを町内7カ所のどこで借りてどこで返してもいいですよ、ということをしたりしました。

あるいは、事前情報が足りないのではないか。観光客の人たちはまずゆふいんの町に入ってきて、今はカーナビがあるからそうでもないんですけれども、駐車場を探すためにウロウロするんですね。どこもみんないっぱいだから、空いている駐車場を探して回って町の中を2周も3周もする。それによって交通渋滞がひどくなっているということもありますので、どこに駐車場があって、泊まるお客さんの駐車場はどこにあるということを事前にお知らせすると、もうちょっとスムーズになるのではないかということで、事前の情報提供の充実と、限られた台数の町の中の駐車場を完全な予約制にしました。

湯布院インターの1つ前の福岡に近いところのインターと、別府の入り口、ゆふいん盆地の入り口のところで全部駐車場を事前予約する。そこからゆふいん盆地におりると、大体20分ぐらいかかります。20分後にはどこどこの何番の駐車場が空いていますから、そこに入れて下さいということをして、目的地までスッと行けるようにする。そういう的確な情報を与える。このようにレンタサイクルをしたり、パーク・アンド・ライドをして、2日間、交通実験をしました。

 もちろん行政が中心になってやったんですけれども、町の人たちがボランティアで、2日間で延べ1400人出て、みんなで町の誘導案内をしたり、バスの発着所を案内したりとかしました。

 大型バス対策というのも1つメニューに入れました。大型の観光バスが来て、その大型バスが細い道の中に入り込むので大渋滞が起きるという問題がありましたので、大型の観光バスの発着所を町の外れの方に持っていって、そこでバスの観光客を乗り降りさせて、バスの発着所からは歩いてもらいました。

 延べ1400人の規模のボランティアを動員した交通実験というのは、日本でもボランティア数で言えば一番大きな交通実験だったそうです。

 このように、とにかくゆふいんの中では、ハード整備だけではなくて、ソフトや情報をうまく回す、そういうことで交通を何とか解決できないだろうかということをしています。

この交通実験の成果を受けて、今度は行政の施策として、例えば時間を決めた一方通行を作ってみようとか、レンタサイクルシステムを観光協会と一緒に立ち上げよう、という交通計画を今立てているところです。

 このように、ゆふいんのまちづくりは、観光客が来るからこそ上がってきている問題にそれぞれ取り組みながら、この30年間、暮らしやすい町こそ最もよい観光地である、「生活型観光地」だということでやってきました。しかし、ゆふいんは、ここにきて新たに町の将来をゆるがす大きな問題に直面することになったんです。

 

 

3.湯布院町の市町村合併問題

 

 いわゆる「ゆふいん神話」というのが、今崩れつつあります。お客さんが増えたおかげで持ち上がって来た数々の問題に直面して、試行錯誤しながら、なんとか活路を見出そうとしています。しかし、それに追い打ちをかけるように、大きな岐路を迎えたのが市町村合併でした。

 ずっと申し上げているように、昨年の10月1日をもって湯布院町というのがなくなって、大きな由布市になりました。最初に申し上げておきますけれども、私は基本的に合併大反対論者です。全国の市町村合併が全て悪いとは言いませんけれども、私は湯布院町が合併することに対しては強い反対を唱え、一貫して合併反対運動を繰り広げてきました。結果は負けて合併してしまったんですけれども、今でも果たしてこの合併が良かったのかどうかと言うと、私の中に明確な答えはありません。

 全国の平成の市町村合併が一段落しましたけれども、今回の合併は西高東低と言われています。東京の方では余り実感がないかもしれませんけれども、九州の方はひどいです。四国、九州、中国地方は、ものすごく市町村合併が強硬に進められました。

 全国で平成11年当時3200ぐらいあった市町村が、今1800ぐらいしかない。その中でも大分県は非常に優秀(?)な合併推進県で、平成16年には54あった市町村が今18しかありません。合併してない方がおかしいという状況です。

 そういう状況の中で、湯布院町もご多分に漏れず合併をしてしまいました。私がなぜ湯布院町の合併に反対をしていたかというと、そもそもなぜ合併しなければいけないかという理由がどうしてもわからなかったんです。何回聞いてもわからなかった。

市町村合併の目的というのは、地方分権の推進のためとか、少子高齢化が進んで財政改革をしなければ今や地方自治体が成り立たないから、と言いますけれども、少なくとも、湯布院町については、そういう目的のためには合併しない方がいいと私は思っていました。

 地方分権の推進のために、地方分権の受け皿となる地方自治体を強化するために合併をしろと言いますけれども、その発想は私は未だに理解できないですね。小さな町だと自治体として強化できず、大きな町になれば地方分権がしっかり推進できるのかというと、私はむしろ逆だと思います。

 地域地域がそれぞれに見合ったきめ細やかな地域づくりをしてこそ、その地域が本来生きるべき地域の底力がつくのであって、それをだめな町を一緒くたにして大きくすれば、その市が強くなるかというと、私は決してそうではないと思っています。ゆふいんについて言えば、湯布院町というのはこれまで独自の生活型観光地を掲げて農業と観光の一体化を目指した独特のまちづくりをしてきました。それによって、民間の人たちが自分たちで自助努力をすることによって、町の経済も活性化してきましたし、湯布院町ならではのアイデンティティーが確立され、外部からも一定の評価を受けてきました。独自の自主財源も確保しています。合併すると、そういうゆふいん独特のまちづくりを手放すことにもなってしまいます。そういうことを諦めてほかの町と一緒くたになって、果たしてその町が強くなるかというと、私は決してそうではないと思っています。

 合併に突き進んだ理由をもうひとつ言えば、地方自治体の財政難が一番大きな理由だと言われていました。しかし湯布院町は自主財源比率が51%ぐらい、財政力支出が0.7ぐらいでした。自主財源比率51%というのは、半分は地方交付税に頼っているということですけれども、特に大きな企業があったり、原発といったものがあったりというのではなく、特別な特定財源がない人口1万2000人ぐらいの町で自主財源が50%以上あるというのは非常に珍しい。大分県下では大分市に次いで2番目の自主財源比率の高さです。

 その大きな要因はもちろん観光収入です。入湯税というのが大きくあります。観光客で温泉に入って下さった方が、1人150円の入湯税を納めてくれます。そういう入湯税を始めとした大きな観光収入。それから、観光によって第3次産業が盛んなことと、別荘地が多いので、そういう固定資産税なんかがあって、町独特の自主財源を持っているので、51%ありました。

 それが今、合併してまだ半年しか経ってないんですけれども、数字の上で言いますと、由布市の自主財源比率は、平成18年度の当初予算で35%に下がってしまっています。合併問題に私が大反対していた時に言っていた事の1つですが、財政が厳しい厳しいという一方で、今後は地方交付税もどんどん減らされていく。それだったら、自主財源比率を高く維持できる町である方が、よっぽど今後生き残っていける可能性があるのではないでしょうか。

 言葉は悪いんですけれども、合併した他の町というのは自主財源比率もすごく低い。そういう町と合併して、交付税に頼るようなことをしては、ますます先行き、地域は自立できない。そんなことでなぜ地方分権の受け皿強化になるのかというのをさんざん言ったんですけれども、なかなか理解は得られませんでした。自主財源比率が高いと、もらえる交付税が少なくて損なんだとさえ言う議員さんもいました。私は全くおかしいなと思っています。

 とにかく、私はゆふいん独自のまちづくりを守るために、湯布院町は湯布院町で残ろうと運動してきて、町の人たちと大合併反対運動を起こしました。

由布市というのは3町合併したと言いましたけれども、1万2000人の湯布院町と9000人ぐらいの庄内町と1万5000人ぐらいの挟間町という町がくっついた。要はみんなドングリの背比べ状態の3町が1つになったんです。大分川という川の流域に細長く並んでいる3つの町が、だんごの串刺しのような形の市なんです。ゆふいんというのはその一番端っこの、最上流の源流地域で、一方、反対側にある挟間町のすぐ隣は大分市のベッドタウンです。

3つの町は、町の性質も、まちづくりの考え方も、町民の気質も雰囲気も全然違う。湯布院はいわゆる観光と、農業と畜産が結びついた滞在型保養温泉地を目指している町ですけれども、真ん中の庄内町は農業中心の町。一番端っこの一番人口の多い挟間町というのは、いわゆる大分市のベッドタウンで、今人口が少しずつ増えている。新しい新興住宅地がどんどん増えている町なんです。そういう全く性格も考え方もまちづくりの雰囲気が違う町が3つ一緒になって、1つの由布市になって、一緒のまちづくりをしましょうと言っても、無理です。

今合併して半年経っていますけれども、大混乱が起きています。大体合併するまでが大混乱だったのですが。合併して1つの市になる時に、まず庁舎をどこに置くかでもめました。全国いろんなところで同じような問題が起きていると思いますけれども、由布市は典型的でした。

3町みんな、我が町に庁舎をと言って譲らない。湯布院は、全国的にも有名だし、外から来る交流人口も一番多い。全国的にも先進的な湯布院独自のまちづくり手法を中心に新しい市を作るためにも、庁舎は湯布院町に置くべきだ。一番反対側の挟間町は、人口が一番多いのはうちの町だ。大分市の県庁所在地にも一番近い。だから、自分のところに庁舎を置くべきだ。真ん中のところは、いやいや地理的中央が一番望ましいんだから、うちに置くべきだ。…といった具合で、3町全然折り合わないんですね。庁舎問題で話がつかないから、あわや合併話は壊れるかというところまでいってまして、私は壊れてしまえばいいと思ったんですけれども、最後の最後に、3つ分けて分庁舎方式にしましょうというのでなんとか納めた。

分庁舎方式とは何かというと、例えば建設課は挟間、総務課は庄内、観光課は湯布院といった具合に、行政の各課を3町にバラバラに置いているんです。それもまん丸い市じゃなくて、長細い町ですから、今市長室は真ん中にあって、議会が挟間と、ゆふいんとは全く反対の線上にあるんですね。議会のたびに、3町からみんなそれぞれ職員やら議員が集まってきてやるんです。この大分川沿いに210号線が通っているんですが、会議のたびに職員が210号線を右往左往しなければならず、大変なことになっています。

そういう状況で、とにかく分庁舎方式にでもしなければ合併ができないからと言って、無理やり合併した。3町の町民が我が町に庁舎を、我が町に庁舎をと言う時に、湯布院町の町民も、合併には賛成だけれども、庁舎が湯布院町に来なければその合併は認めないという人も結構いました。

そういう、庁舎が来なければ合併は反対だという人と、そもそも合併そのものが反対だという住民たちが集まってみんなで合併反対署名を集めたりしました。

私、まだその時には議会には出てなかったんですけれども、とにかく、ゆふいんは合併しないで残っていきましょう、あるいは、ゆふいんが中心にならないような合併協議会は離脱しましょうということで、署名を集めました。当時の町長や議会は強力な合併推進。もちろん、県や国からの強い圧力があったというのもありますけれども、盲目的に合併を進めていました。

そんな時に、たまたま当時の合併推進派の町長が汚職で捕まってしまいました。贈収賄事件が起きまして、町長が捕まって出直し町長選挙がありました。町長選挙の争点が合併問題になりました。その時に出た候補者4人いたんですけれども、1人共産党の人がいて、その人は合併反対を明確に言いました。残り3人の候補者はみんな、「合併問題は一度白紙に戻して皆さんの意見を聞き直して、町民の声を聞きます」という公約を掲げて、そのうちの新人の人が通ったんです。新人の町長が通って初議会で、最初のあいさつをするその場で、その人は「合併は避けて通れない」と言い切ったんです。合併容認です。それじゃあ公約違反だ、もう一遍町民の声を聞き直すと言ったじゃないかということで、私たちは住民投票をしろと言って、住民投票署名活動をしました。

その住民投票をする前に議員選挙がありました。それは任期満了の議員選だったんですけれども、その時に合併反対、あるいは町民の声を聞く、住民投票をするということをしなければいけないので、議会の中にそういう声を届ける議員を送り込もうということで、みんなで新しい議員を送り込みました。私もその時初めて議会に出ました。最終的に合併するかしないかは、議会が議決することです。その時にきちんと合併反対の声を届けよう、ということで私も議会に出ました。15議席のうち9人が新人に替わったという、画期的な町議会議員選挙でした。

新しい議会になって、新しい町長が盲目的に合併を進めると言っている中で、住民投票の署名を集めて、住民投票の署名が法定数の20倍を超えて集まって、住民投票条例案が議会に提出されました。

私はその時議員だったので、当然住民投票やりましょうと言ったんですけれども、住民投票やるかどうかの議決が7対7の同数で、議長採決で否決になったんです。議長は現状維持が基本だから、住民投票しないとか言うんです。

私、未だにわかりません。どうして議会が住民投票させなかったのか。「自分たちは住民の代表だ、選挙で選ばれているんだ。自分たちが判断すればいいんだから、住民投票する必要がない」というのが住民投票反対派の議員の一番の理由でした。

でも、議会は住民投票の結果にそのまま従えというんじゃないんです。最終的に合併するかしないかは、議決なんですから。議会がその議決を下す時に、自分たち議員が判断するための材料として、住民の声を聞こうというのが何故やっちゃいけないのか。いろんなところでやられている議論だと思いますけれども、湯布院でもやりました。あげくの果てに、7対7で議長採決だったんです。

 そこで、合併阻止派は「議長が敵だ、議長が合併させようとしているんだ、これはけしからん」ということで、議長をリコールしようということになったんですが、実は公職選挙法で、選挙で選ばれた人は1年間はリコールできないんです。当時、議会の議員選挙があって、まだ1年未満だったものですから、議長をリコールできない。議長をリコールできないんだったら、しようがないから、町長をリコールしようという話になって、町長の方に白羽の矢が向いたんです。

 いえ、もう少し正確に言いますと、本当は議長の代わりにというよりも、町長についても、そもそもリコールする理由があった。町長は選挙で、もう一遍住民の声を聞き直すと言っていたのに、聞き直さないで、町長は既に合併は避けて通れないと言って、合併協議会から離脱もせずにそのまま合併を進めている。それは公約違反ではないかということでリコールをしようということになりました。

 町長はギリギリ、当選から1年過ぎていたから、リコールが成り立ったんです。リコール署名をしまして、私も議員の立場ながらリコール署名をしました。議会の一般質問でも、町長の姿勢を正して、どうしてこのリコール運動が起きているのか、もう一遍町民の声を聞き直して下さい。住民投票条例は議会では否決されたけれども、町長にも提案権があるんだから、町長が自分で住民投票すると言ったらできるんですから、やって下さい、とさんざん言ったんですけれども、やりませんでした。

なぜやらなかったか。住民投票をやったら、おそらく湯布院では、確実に合併反対する票が多くなると思われたからです。それはそうですよ。自分よりも自主財源が低くて、お金がなくて、ゆふいんの入湯税目当てで合併しよう。ましてや、庁舎は湯布院の反対側の人口の多いところに持っていかれるような合併は、誰も望んでいないし、合併したって、交付税だって増えるわけじゃありません。何のために合併するんだと言われたら、まともな答えはありません。

当時、町長自身も言っていたんです。「私も合併しないで済むものならしたくありません。でも、仕方がないんです。避けて通れないんです」と。誰も町民は合併なんて望んでないけど、仕方がないから合併しなければいけないんです、という言い方をするんです。

合併は仕方ないじゃないんです。合併するかしないかは、あくまでも町の住民が決めることですから、しなければいけないんではない。町の人たちがそれを決めればいいんです。しない町も全国にいっぱいある。大分県内ではほとんどありませんし、九州ではありませんけれども、全国では、合併しないでも、独自で自分たちのまちづくりを守っていこうという町は幾らでもあるんです。でも、そういうことをしないで、合併せざるを得ないというふうに進めてきた。けれども、もし住民投票で町民に合併したいかどうかと問うたら、町民は合併しなくていいんだったらしたくない、と答えるのは明らかだったでしょう。

私たち合併反対派は、いろんな情報を出しました。合併したって、いいことありませんよ、税金は上がりますよ、自主財源は下がりますよ、ほかの町に比べて国保税は湯布院は格段に低い、水道料金も低い、それが一緒になったら値上がりしますよ。財政推計も立てました。合併したら、恐らく2年後か3年後には赤字に転落してしまうかもしれない。さんざん訴えて情報をいっぱい流したおかげで、ゆふいんの中では合併反対の機運が高まってきた。これで住民投票してしまったら、確実に合併反対が上回るだろうというのは明らかです。だから合併推進の町長も、議長も住民投票をやらせたくなかったんです。住民の声を聞きたくなかったんです。

町長リコールが起こった。リコールというのは信任投票ですから、今の町長をやめさせるかやめさせないかの投票をして、町長やめろという票が上回ったら、町長はやめて、それから50日以内に選挙をしなきゃいけないという状況だったんです。

今の町長を信任するかしないかの投票までに30日間期間があったんですが、町長はリコール署名が法定数に達した途端に、信任投票を受けずにさっさと先に辞職しちゃったんです。先に辞職して、即再選挙に持ち込んだんです。

 今、別府が同じようなことをしていますが、そうやって自分の信任投票を避けて、出直し選挙に自ら持っていった。信任投票をして不信任が上回ったら次の再出馬は不利ですから、そういう信任投票もさせずに、とにかく、すぐに自分から辞職して、再出馬して、結果、相当ないろんなことがあって、その町長が再選して、合併にもつれ込んだという状況です。

 何でゆふいんは合併したんだ、と言われます。何で合併したのか私は理解できませんけれども、合併してどうなのか。今は合併して半年経ちました。新しい市議会もできました。新しい由布市になって、議会選挙があって、私も出ました。この議員選挙では、いわゆる特例措置を一切使いませんでした。定数特例も在任特例も使わずに合併して即選挙。小選挙区特例も使わず、旧3町の議員数を集めると47〜48人いたんですけれども、定数を一気に26人にして、全市1区で選挙をしました。なぜ小選挙区を設けずに全市1区にしたかと言うと、それも喧嘩ばっかりしていたからですね。定数26人にしましょうというのは決まっていたんですけれども、小選挙区を設けるにあたって、湯布院は湯布院の議席幾つ、挟間は挟間の議席幾つ、庄内は庄内の議席幾つと決めて、それぞれの選挙区で選挙をしましょうという話に最初はなったんですが、それぞれの各町の定数を決めるのでもめたんです。人口が多い町は、うちは人口が一番多いんだから、議席は半分以上くれとか、人口が一番少ないところは、対等合併なんだから3等分しろとか、そういうことで、ことごとく喧嘩するんです。

 それで話がつかないから、もう全市1区にしようということで、全市1区にすると、県議会選並みの選挙区の広さです。私も湯布院町だけじゃなくて、挟間、庄内の方まで行って、私の名前を言って選挙して回りました。

 そうやって今新しい市議会ができて、市長も新しい市長が決まって半年経っていますけれども、早速赤字になっています。今年の18年度予算組みの中で、財源が7億足りなくて、交付税も前年度よりもわずかに減らされて、予算が組めなくて、財政調整基金や減債基金を全部使い果たして、何とか帳尻を合わせましたけれども、実質7億の赤字です。7億というと全体の予算規模の5%ぐらいです。

 この間3月議会でいろんな一般質問があったんですけれども、合併に賛成しているある議員さんが、こんなことを質問していました。「合併前に私たちは県や国から示された、あるいは合併協議会が作った推計からすると、由布市は5億の黒字になると聞いていた。合併したら黒字になると聞いていたから、合併してみたのに、ふたをあけてみたら7億の赤字になっている。これはどういうことか。合併前に湯布院町では、合併に反対する住民たちから合併したら赤字になりますという赤字推計を出していた。赤字推計を出していたのに、合併協議会は黒字になると言っていた。今、現実的には合併反対の赤字推計の通りになっているじゃないか。誰の責任なんだ」

 たまたま、今新しい市の助役が、合併協議会の次長をやっていた人なんですが、その議員さんは助役をつかまえて「あんたが作った合併協議会で出した数字が間違っていて、私たちはあなたの作った数字に騙されて合併したんだ。こんなはずじゃなかったんだから、助役は市民に対して陳謝しろ」とか言うんです。

 とんでもないことで、それに対して私はたまたま次の日が一般質問だったので、反論しました。「確かに合併協議会が出していた推計は甘過ぎた。5億の黒字が出るはずはない。それから合併したら赤字になるよと言って推計を出していた合併反対派の町民がいたと言ったけれども、それは私と私を含めた仲間たちが出した推計でした。当時、合併しても赤字になりますよという声を私たちは合併協議会にも、当時の行政にも、当時の議会にも出し続けてきました。でも、そういう声に一番耳を傾けず目を向けず相手にしなかったのは、何を隠そう、当時の議会ではないでしょうか」と言いました。実は前日に質問した議員こそ、当時の賛否同数で決めた元議長だったんです。(笑)

何を隠そう、当時の議会が一番私たちの声を聞かなかったじゃないですか。それを見向きもしないで自分たちは騙されたとか、その責任は助役にあるから、助役に謝れとか、そんな言い方は最低だ。そうじゃない。合併して良くなったとか、悪くなったのは誰のせいだということじゃない。あえて誰のせいかと言えば、それは議長の責任でもないし、助役の責任でもないし、それは選んだ町民、自分たちの責任だと考えなきゃいけない。それを自分たちが騙されたんだ、などという発想を持っていてはいけないんではないかと私は主張しました。

 当時の合併賛成派は、黒字になるから合併したと思ったかもしれませんけれども、合併しても財政効果は1つもありません。少なくとも由布市においては。ご覧の通り赤字です。そういう意味では、この合併には財政的なメリットはないと思っています。ですからこの合併については、私は未だに納得できていません。ただそれでも、あえてこの合併にメリットがあるとすれば、私は、合併することによって新しい基礎自治体を作るチャンスができたということだと思っています。

 合併して新しい行政ができて、新しい市長ができて、新しい議会ができて、市役所も全く新しい機構を今から作り直す。今まではいろんな慣習や人間関係、今までの町政のしきたりなどがあって、なかなかできなかったことを、今新しい1つの基礎自治体を作るということで、行政がいろんなことを一からやり始められる。そのチャンスを掴んだということが、メリットと言えば唯一の合併のメリットではないでしょうか。

 今、行政というものの概念はまるっきり変わってきています。いわゆる「協働」という言葉が使われたり、「住民参加」という言葉が使われたりし始めています。行政の役割そのものが変わりつつある。その時に新しい由布市という行政がどういう仕事をどういうふうに進めていくのか。いろんな制度が試み始められています。地方分権の中で特区の制度ですとか、税制面でもいろんなメニューがあります。そういうものをフルに活用して、自分たちが新しい基礎自治体を作るんだというチャンスを手に入れた。このチャンスを最大限に活用することを、合併のメリットにしていかざるを得ないのではないかと思っています。

 由布市として、これからどういうまちづくりと行政体を作っていけばいいのかといった時に、私は、由布市の中では地域エゴになるかもしれませんけれども、これまでの湯布院町の取り組みが1つの大きな基本になるのではないかと思っています。自分たちの暮らしの足元を見詰めて、暮らしやすい町をどういうふうに作っていくかということ。ゆふいんのいろんな取り組みは、民間主導でやってきました。住民の人たちが自分たちが楽しむことを外の人たちにも楽しんでもらおう、自分たちが暮らしやすい町並みを作ることを自分たちの手でやってきた。それを行政が後からバックアップをしてきた。今の言葉で言えば、住民主体のまちづくりが既にゆふいんではされてきていた。そのノウハウが由布市の中にはあるんだから、それを是非使っていっていただきたいと思っています。

 もう1つは、最近言われるのは、「行政参加」という言葉です。今までは、「住民参加、住民参加」というのが大はやりだったと思います。しかし最近、私はあるところで「行政参加」という言葉を聞くようになりました。そもそも住民参加という言葉が大はやりなのは、何故か。千葉大の先生に「最近住民参加、住民参加といって大はやりですけれども、住民参加が進んでいる町こそ議会が腐っていることの証明です」と、おしかりを受けたことがありました。もともと住民の声というのは議会が代表して、議員が住民の人たちの声を代弁して行政に反映させていく。けれども、議員がだんだん住民の声を聞かなくなってしまったり、住民の声をきちんと反映できなくなって、議会が機能していなくなったから、首長は住民の人たちの声を掴むことができない。だから、直接住民の声を聞かなければいけない。だから、住民の人たちに声を聞いて、住民参加をして、住民の人たちと直接まちづくりをしなければいけなくなったので、住民参加が進んだというふうに言われました。確かにそういう面もあるかなと思います。

 じゃ、議会が機能すれば住民参加は要らないかというと、私はそうではなくて、むしろ議会の住民参加が必要ではないかなと思っています。議会がきちんと住民の声を掴むこと、議会に住民がきちんと参加していくことが、今全然なされていないので、議会の住民参加を進めることが必要かなと。

 それはともあれ、「住民参加、住民参加」という言葉が増えてきていますが、それと変わって、これからは、むしろ「行政参加」だと思っています。行政参加とは何か。今までまちづくりとかいうものは行政がやるもので、それに住民の人たちが参加してきてもらうから「住民参加」だった。だけれども、「行政参加」というのはそうではない。まちづくりの主体が明らかに変わってきている概念を表す言葉だと思っています。まちづくりの主体は行政ではなくて、住民であったり、地域であったり、NPOなど、そういうところがまちづくりをする。そこに行政が行政という立場から参加をするんだという考え方だと思います。

 今NPOやら何やらで、いろんなところで「協働」という言葉が大はやりです。行政と民間との協働作業というのがまさにそのことかなと思いますが、これから行政というものはある1つの役割を担って、まちづくりの主体は明らかに別のところ、地域であったり、住民であったりするところが主体で、そこに行政が何の役割を持って、どういうふうに参加するのか。それが求められているんだと思います。今までのように、何でもかんでも行政におんぶに抱っこでやるのではない。ネコの死骸が道ばたにあったら、行政の人たちに取りに来てもらうのではもうだめです。

 行政というものは、ある意味これからどんどん高度化、専門化していくと思います。財政難の折、行政職員もどんどん減らされますし、そういう中で行政というものが、どういう役割でどういうことをやっていけばいいのか。今までやっていた行政サービスを代わりに担う担い手がどこになるかというものをきちんと明確化していくというのが、これからの基礎自治体と住民のあり方ではないか。そういうことを探るためにも、私は新しい行政ができるというのは非常に大きなチャンスだと思います。

 一方で、「地域性」というものが今度は問われると思います。合併してみて、ゆふいんの中でも、合併して良かった、悪かったという声は大きく上がってきます。けれども、ある方が言った言葉で、そうだなと思ったんですが、合併というのは、役所が合併して、行政枠が変わっただけであって、自分たちの暮らしは何も変わっていない。確かにそうです。湯布院町が合併して由布市になったからといって、買い物に行く店が変わるわけでもないし、遊びに行く場所が変わるわけでもないし、自分たちの地域の暮らしは変わらない。行政の枠組みが変わるだけなんだ。そうすると、行政の枠組みで、合併して市全体でやらなければいけないことと、自分たちの暮らしの地域の単位でやることが、かえって明確に分かれてきたという気がします。

 湯布院町というのは、湯平と盆地内の由布院が合併してくっついたと言いました。今起きているのは何かというと、由布市になって、湯平と由布院がそれぞれの漢字を使い始めたんです。今までは湯布院町といって、湯平も由布院盆地も一緒くたに湯布院町として、売り出していたんですけれども、合併して由布市になったら、由布市の中の湯平と、由布市の中の由布院が、かえって小さな単位で、自分たちの地域づくりを進めていこうということになってきています。地域単位で、自分たちのアイデンティティーが確立できる大きさが見えてきた。今はだから、湯布院町という枠組みは、ほとんど意味がなくなってきています。

 それは皮肉なことですけれども、合併して行政の枠組みが大きくなれば、かえって、地域の枠組みとか生活の枠組み、あるいは地域のアイデンティティーを持っている枠組みが見えてきたのではないかと思っています。

 ゆふいんの場合は、観光という意味では由布院の地域でこそ、景観の問題、交通の問題というものは取り組んで考えていくべきものであって、大きな行政枠で考えられるような範囲ではないなと思っています。

 これからは、そういう新しい行政と地域とのあり方、協働のあり方を探っていく。かえって、その地域地域の1つ1つの単位がはっきりしてくる。そのアイデンティティーを深めていくことが、新しいまちづくりにつながるのではないかなと思っています。

 試行錯誤しながらです。まだ、決して解決の目処はついていませんし、これというような秘策もありません。でも、「最も暮らしやすい町こそが最もすぐれた観光地である」、「自分たちが暮らしやすい町、暮らしやすい地域を作る」ということに基本を置いてまちづくりをしていく、ということには変わりはないのではないかなと思っています。

 

 

4.さよなら湯布院、地べたからもう一度

 

最後に1つ手紙をご紹介したいと思います。皆様のお手元にお配りしました、30年間ゆふいんのまちづくりのリーダーであった、中谷健太郎さんという人の手紙です。これはある雑誌の編集長にあてた手紙です。有名な大手の雑誌、週刊誌が、ある時に、「行ってはいけないリゾート・温泉」というタイトルをつけて、ゆふいんやら、ほか幾つかを取り上げたことがありました。もはや、ゆふいんというのは行ってはいけない温泉地の筆頭である。行ってみてもごみは散乱しているし、車は多いし、どこで作ったかわからない、そこらじゅうにあるような物を売っているし、風情も、のんびりした田舎の景色もあったもんじゃない。ゆふいん神話はうそっぱちだ、ということをデカデカと特集を組んだことがあったんです。

その編集長にあてて、中谷健太郎さんが書いた手紙です。ちょっと読んでみます。

 

拝復 

8月10日号の特集記事「行ってはいけないリゾート・温泉」を拝読しました。あちこちの方々からお見舞いみたいなFAXが飛び込んできたからです。

でも記事はまったく正しいと思います。

まとめて言えば、農村が崩壊してゆく。それをどうやっても止められない、という話につきます。瀕死の農村に、都市の市場のエネルギーを注射することで、少しは村が元気になるのではないかと思ったのがきっかけですが、そして、確かに少しは元気になったのですが、裏目も急速に噴出してきました。

「良い所らしい」という噂が全国に広がったのです。「田舎道をのんびりと虫の声を聴きながら散歩ができる所」。それでお客様が増え続け、それを追って観光資本も殺到したのでした。私たちは考えられるあらゆる手段で防戦し、村を守ろうとしました。

旅館の収容力を自縮し、畜産振興のための牛1頭牧場運動をやり抜きました。「建物・環境デザイン」に関するガイドブックを作って町内全戸に配布し、議会に働きかけて、国の法律よりも厳しい「潤いのある町づくり条例」を通しました。

車に対抗して、村道に客馬車を走らせました。

毎夏音楽祭や映画祭をやり続けることで、歓楽型観光地のイメージを消し続けてもまいりました。だけど結果は8月10日号でご指摘のとおりです。日本中の農村が確実に滅んでゆきます。

オカネの利潤を追って奔流する世界の資本の流れから、村が自由であり続けることはできないのかもしれません。

だけど、私と私の仲間たちは、目を覆いたくなるような身辺の状況を相手どって懸命に働きかけ、説得し、斗い続けております。(略)

先日、駅のホールに中央の偉い方々をお迎えして「町づくり観光フォーラム」を催しました。その席で、若者4人がすばらしいプレゼンテーションをやってのけ、居合わせた聴衆は一様に、由布院に強力な次世代が生まれ、育っていることを実感したことでした。嬉しかったのは彼等が、私たちと同じ悩みや問題をそのまま受け継いでいることでした。

むろんその解決のめどはついておりませんし、ひょっとすると、永久に解決しないものかもしれません。しかし彼等のまっすぐな強い視線を私は信じたいと思っています。ほかに人間が懸命にやることなどありはしないと思うからです。(略)

私たちの斗いにお力をお貸しください。

日本中の田舎が、敗けるわけにはゆかない斗いを挑んでいるのです。

                               中谷健太郎

 この手紙に、私たちはどんなに励まされたかしれません。ただ、実はこの駅のホールで若い4人がプレゼンテーションした後に、中谷健太郎さんが「うれしかった」といった言葉を私も直接聞きました。「健太郎さん、何がうれしかったんですか」「いや、君たち、若い人たちが、僕が30年前にゆふいんに帰ってきて、悩み、苦しみ続けてきていることと同じことを悩んで苦しんでいる。それがうれしいんだ」と言われたんです。私、それを聞いてちょっとカチンときたんですね。

 それは健太郎さんが30年、40年やり続けてきたことがうまくいっていないから、私たちが同じ悩みを悩まなきゃいけないんじゃないですか。健太郎さんたちが解決できていないから、私たちが同じ悩みを受け継いでいるんです。それを同じ悩みを悩んでいてうれしいなんて言わないで下さい、なんてことをちょっと食ってかかったことがありました。

 だけど、健太郎さんの答えがこの手紙だったんです。多分まちづくりに終わりはない、ということを言いたかったのではないかと思います。これをやればいい、これをやれば完成だということではなくて、常に常に町には新たな問題が出てくるし、観光客が増えたら増えたで問題は出てくる。お金がなくなったらなくなったで課題は増えてくるし、何かやればやったで、裏目も出てくる。だけれども、そういうことに対して、とにかく目をそらさずに真っ正面から試行錯誤しながらでも何かやり続けるしかない。中谷健太郎さんたちが映画祭や絶叫大会、音楽祭をやり続けてきたのも、何か、とにかくやり続けて目の前のことに対してやらなければいけないと思い続けた、それを続けてきたことが、ゆふいんのまちづくりの一番の秘訣だったのではないか。

 そういう意味では、まちづくりって非常に不毛だなと思いますけれども、目をそらさずにやり続けること、それしかないんだなということを、今改めて感じています。

 観光客が増えたり減ったりして、あるいは合併して町が大きくなったり、地域が小さくなったりしますけれども、それでもとにかく、この町で私たちは生き続けていきたいんだ、この町がいつまでも暮らしやすい町であって欲しいんだという願いを忘れずにいる、そういう人たちがい続ければい続けるだけ、私はまだまだゆふいんのまちづくりは、これからも続いていくのではないかと思っています。

 皆さんも、ぜひ一度ゆふいんを訪れて下さい。見た目には汚らしいところ、あるいは看板が立ち並んでいたり、あるいはキャラクターショップが並んでいたり、思っていたような、或いは宣伝されている様なゆふいんとは違うものがいっぱい見えてくるかもしれません。でも、そういうものが見えれば見えるほど、その裏には、その事に対して諦めずに真っ正面から向き合い、必死に解決しようとしている私たち町の人たちの取り組みがある、ということも是非知っていただきたいと思います。

 そして、ぜひ5年後、10年後のゆふいんに期待していただきたいと思います。どうもありがとうございました。(拍手)

 


 

 

フリーディスカッション

 

與謝野 小林さん、感銘深い、心を揺り動かされるような、率直でかつリアルな大変素晴らしいお話をいただきまして、ありがとうございました。本日、この場にお招きして本当によかったな、と正直感じております。

 それでは残り時間の中で、是非この機会に、ご質問をしたい、この点を詳しくさらにお聞きしたということがございましたら、手を挙げていただいて、お申し出いただけますでしょうか。

三橋((有)シーエルシー) お話大変ありがとうございました。私は商業関係のコンサルタントをやっております三橋と申します。

 広域合併の広域行政には、国が財政の問題、効率化の問題あるいは財政破綻を何とか回避したいために、国が主導で行政をやっていくんだという考え方があるんじゃないかと思うんですね。

 一方、前の由布院だとか湯平が1つの地域コミュニティーとしてしっかりとやっていこうということが自然発生的に生まれてきたということも、地域があるわけですから、当然だと思うんですが、昔でしたら、そういう小さな単位の、コミュニティー単位のところに1つの小さなガバナンスというか、名主がいたり、あるいは自治会や町会があった。多少封建的なところはあったと思うんですが、ありましたが、広域合併の広域行政の中での、地域の中、生活圏の中での新しいコミュニティー、新しい小さな単位の町のガバナンスというか統治組織というか、そういうものについてどうお考えになるのか、教えていただきたいと思います。

 私は数日前に、イギリスの方から帰ってきました。イギリスも国単位の広域の行政がどんどん行われている反面、地域単位で、特にビジネスの改善だとか、地域の改善ということで、一昨年ですか、ビジネス・インプルーブメント・ディストリクトという、法律に裏づけられた地域の行政組織ができました。その運用の話を聞いたんですが、それはその地域の住民の中で、いろいろなことを、賛成多数で決めたいということでした。しかし、その場合、日本の場合だったら、投票権があるわけですから、全員、あるいはある程度の投票がなければ、新しいまちづくりの取り組みを決めることはできないということが一般的ですが、イギリスでは、事前に告知して、そこに関係者が300人、500人いても、その会場に5人しか来なかっったとしても、その過半数が、いいということであれば、その地域あるいはコミュニティーは、そのことを決定するということでした。出てこないのが悪いんだ、ということをイギリスの9万から30万ぐらいの町を訪ねていった時に聞いたんです。

 イギリスの話はちょっと置いて、ゆふいんの新しい暮らしの領域、新しいコミュニティーのガバナンス組織としては町内会、自治会じゃどうしようがないしというところがあると思うんですが、その辺についてお考え等があれば、あるいはゆふいんでそういう動きがあるから、こういう地域単位がまとまって活動し始めることができたんだということがあれば、教えていただきたいと思います。

小林 行政の単位と地域づくりの単位が一緒ではない、ということに気づかされたというのが今回の合併だったということを申し上げました。今までは、湯布院町という行政の単位がそのまま地域づくりの単位だと思っていたけれども、行政が由布市になってみたら、地域づくりの単位は実は違った。地域づくりの単位は何なんだというと、やっぱりそれはそれぞれのものにもよると思います。

 ただ、ゆふいんについて言えば、特に盆地の中で同じような生活スタイルを持って、生活圏が同じで、特に観光に携わって、観光を中心として成り立っている地域が地理的にも盆地に囲まれたエリアということで明確になっていて、映画祭、音楽祭、牛食い絶叫大会をやり続けてきたまちづくりの精神、そういうものが通じる範囲がある意味で非常に明確になっています。

 でも、行政枠の単位と地域づくりの単位が違うということに気づいて、じゃ、行政単位というのは何なんだということが、これからは行政には行政で求められてくるんだと思います。由布市という3万5000人のエリアでやるべき仕事は何なのか。それは、今まで湯布院町という行政枠でやっていたように、何でもかんでも行政が手助けしてやることではなくて、これからは、行政は行政の役割でやるべき部分を整理していかなければいけないのだと思いますし、逆に地域づくりの単位は、何をよりどころとして、何をする単位なのかということが、地域でどんどん問われ始めているんだと思っています。

 小学校単位というのがよく言われます。小学校区単位というのが生活圏としては最小単位であって、明治の大合併というのは小学校区単位でやられたと言われていて、自治会ですとか、そういうものを見ると、大体小学校区単位で考えられていますが、それだけでもないと私は思います。

 特にゆふいんの場合については、いわゆるゆふいんのまちづくりというもの、そういうものが通用する範囲の由布院のまちづくりと、さっき出てきた別の村落の湯平でのまちづくりでは、全然まちづくりが違うんですね。地理的にも違いますし、歴史的にも違いますし、滞在型保養温泉地というものを目指している由布院地域と、そうではなくて湯平という昔からの湯治場で別のまちづくりをしている地域の違いが明確になってきた。何を根拠にどういう単位なのかというのは、やることによって求められてくるのではないかと思います。

 地域単位でアイデンティティーが凝縮されて、自然に出てくるところは出てくるけれども、これから私が非常に興味を持っているのは、行政側の行政枠のアイデンティティーを突き詰める作業です。その作業が、ある意味新しい自治体の可能性だと私は思っています。

 1万2000人枠の行政と3万5000人規模の行政枠と10万人規模の行政枠というものが、同じ基礎自治体の行政というだけで、同じ仕事を同じようにやるべきものでもないと思っています。

 3万5000人のエリアの行政は、どういう仕事をどういうところまでやればいいかというのは、私は、それこそ切磋琢磨しながら作っていけると面白いかなと期待しています。

 お答えになってないかもしれませんけれども。

奥村(潟Cリア) 東京建築士会練馬支部で、まちづくりをやっております奥村と申します。

 まちづくりという点で言いますと、ゆふいんさん、非常に進んでいるんじゃないか。我々のところは、まだまちづくり条例がこの4月1日にやっと施行になったという段階で、今進んでいます。

 お話を聞いていて、まちづくりの法的な道具としては、従来の都市計画法、ゆふいんさんが作られた町づくり条例、新しくできてきた景観法、この3つが考えられると思うんです。こういう中で、都市計画法は割とマクロだと思います。景観法はミクロにできるということで、ゆふいんさんは景観行政団体になられ、新しい景観法の発表をされて始めていらっしゃるかと思います。

 そこで、3つほどお聞きしたいんです。1つは、潤いのある町づくり条例が合併によってどうなったかという話と、景観計画の進行状況。それから、景観地区の指定がされているかどうか、この3点質問したいと思います。

小林 1点目、潤いのある町づくり条例は、暫定施行という措置をとってそのまま残されました。暫定施行というのは、合併した時に使える1つの手法で、湯布院町で作った潤いのある町づくり条例を、由布市においても、とりあえず暫定施行という手続をとると、そのまま湯布院町地域にだけ適用できる。ただし、条例改正などは一切できない。暫定施行というのはあくまで暫定なので、新しく由布市としての条例を作るまでは、暫定的に旧町の条例を残して施行させますよという手続きなんです。ただ、この暫定施行というのは曲者らしくて、全国的には、暫定施行を30年間させているような条例もあるそうです。

 潤いのある町づくり条例も一応暫定施行していますので、湯布院町には、そのまま残っています。ただし、潤いのある町づくり条例も、今見直しの時期を迎えております。

 もともと、大型のリゾートマンションブームを阻止するためだけの、1000uを阻止するだけの条例だったものですから、これから景観法を適用した時の景観条例などとの整合性をとらなければいけませんし、もうちょっと細かい単位でやらなければいけない。あと、屋外広告物についての規定がないものですから、そういうことも含めて、潤いのある町づくり条例そのものを見直したいと思っています。

ただ、見直すと、暫定施行ではできないので、由布市条例になる。由布市条例になると、景観法を使わない限りは市全体の条例になってしまいますから、挟間や庄内や、全然違う地域に同じような条例はかけられないということで、見直しと同時に、景観条例を作って地区指定をして、地区限定の条例として作るしかないかなと今考えています。

その景観計画と景観地区指定なんですけれども、実際にはまだ全く動き始めてないんです。とりあえず景観行政団体になって、由布市になって、それこそ先月の3月議会の時に、私がさんざんハッパをかけて、とにかく4月1日に景観計画を作る部署を作れと言って、ようやく作って、人事異動がこの間発表されたという状況です。

景観地区を、もちろん指定しようと思っています。私が指定するんじゃないんですけど、市長に、してくれと言ったら、すると言っていました。それを湯布院という地域で景観地区に指定するのか。あるいはもっと小さく、湯布院の中でもいろんな地域がありますから、国道に面している地域とか、農村景観が主な地域とか、いろいろありますので、どの地域にしようかというのを、今地元の観光関係者と地元の地域の人たちに投げかけを始めたところです。今年いろいろ景観地区を指定して、景観計画を作り始めようかなというところです。

今一番考えているのは、温湯地区という物すごい観光客が殺到する一番メッカの700〜800メートルぐらい通りがとにかくひどい。外から入ってきた店があったり、看板が乱立している。そこの地区住民の人たちが、自分たちで地区協定を作る。地元の住民の3分の2以上の同意があって、それを行政に上げれば、景観法として法的な担保がとれるという手続がありますので、行政側がそういう条例や計画を作るのを待っているよりも、自分たちの地域で、まずは協定を作る動きを始めているところです。

西山(山梨大学大学院) 大変面白いお話をありがとうございました。山梨大学の方で、まちづくり論を教えております西山と申します。

 ゆふいんの方にも先日お伺いいたしまして、何人かの方にヒアリングをさせていただいたりしました。印象としまして、30年間、中谷さんだとか溝口さんとか非常に有名な観光カリスマの方が、ずっとゆふいんのまちづくりを担っていらして、今世代交代をされていて、それこそ合併問題とかマンションの建設反対運動とか、新しい問題に対してのまちづくりの担い手が変わってきているというお話がありました。

 今日の小林さんのお話をお伺いしましても、新しい世代にまちづくりの担い手が変わってきていると感じました。地域性あるいは合併で出てきたいろんな問題に対しての地域の力をつけていくのも、まちづくりを誰が担っていくかというところが非常に大事だと思うんです。今の段階で、どういった方々がまちづくりを担うようになっているのか、ということをちょっとお伺いしたいと思っています。

 それは、何かの組織、例えばNPOとか反対運動の組織が基盤になっているのか、個人のネットワークみたいなものが基盤になっているのか。どういった方々がどういうネットワークを使いながら、今のゆふいんのまちづくりを担っているのか、というところを少しお伺いできたらと思います。

小林 若い人たちが今ゆふいんに帰ってきています。

 お答えから先に言うと、組織というのはないんですが、世代で言うと、20代後半から30代前半ぐらいの若者たちが、今非常に元気です。合併反対運動やリコール署名や私の選挙やら何なら一番元気で頑張っているのが、20代後半から30代前半の若者たちで、例えば旅館の後継ぎですとか、観光関係者の若い人たちが多いんですけれども、だからと言って、そういう組織があるわけではないですね。観光協会の青年部みたいなものがありますけれども、それによりかかっているわけではなくて、何となく世代で集まっています。

湯布院には高校がないんです。高校がないもんですから、中学を卒業すると、みんな町を出る。大分市の方の高校に行ったり、あるいは反対の九重の方の高校に行って、下宿をしたり、親戚の家に寝泊まりしたりとかで、中学を卒業すると、町からみんな若い人たちが一度出て行く。高校を卒業しても、すぐには帰ってきません。専門学校に行ったり、大学に行ったり、就職したりして、二十を過ぎ、25〜26になって帰ってくるので、10年間ぐらい、彼らは町の中でブランクがあるんです。

今、そういう若者たちが次々に帰り始めてきた。彼らは町を高校生の時に出てから10年間外にいて、外でゆふいんのことを聞いてきた。自分の生まれ育ったゆふいんという町が外に行くと、「ああ、ゆふいん、知っているよ」とか「ゆふいん、いい所ね」とか言うれる。自分たちの町を外の人たちが知って、それを褒めてくれるのにびっくりして帰ってくる。外からゆふいんを見るということを知って、非常に誇りを持ってゆふいんに帰ってきている人が多いです。

そういう人たちが今、帰ってきて、結婚して子どもが生まれ始めた世代です。彼らが非常に素晴しいなと私が思うのは、彼らの決意の様な意気込みです。中谷健太郎さんや溝口薫平さんたちがやってきた、今までのゆふいんのまちづくりの手法は、ある意味終息しています。今から健太郎さんや溝口薫平さんみたいに、突飛な音楽祭、絶叫大会みたいなものを打ち上げてやっていくとか、そういうことはできない。中谷健太郎みたいな人物が自分たちの中にいるわけでもない。ああいうグイグイ引っ張ってくれる突出したリーダーがいるわけでもない。だけれども、自分たちはこのゆふいんのまちづくりを次に担っていかなければならない。自分の子どもが生まれて若い親になって、この地域で自分の子どもを育てていくんだ、ずっとこの町で生きていくんだという決意に似たようなものを、みんな今しっかりと持っていて、そのためにやっていかなきゃいけないという自覚が非常に強い。それが一番よくあらわれたのが合併問題でした。

若い人たちが合併問題とか議会の選挙とかに関わるなんてことは、今までほとんどなかったんです。署名をしたり、いろんなチラシをまいたりして、名前を挙げて、活動をした。大変な町の騒ぎになったんですけれども、そういうことを若い人たちが始めたのが大きな問題になりました。

もう1つは選挙です。私が出た町議会議員選挙、今回の市議会議員選挙、これがある意味、自分で言うのもおこがましいんですけれども、物すごく新しい風を起こした。私は他所から来ました。「小林」という名前はゆふいんの町内にないんです。だから、選挙で小林という名前を出しているだけで、他所者だとわかるんです。「小林というのはどこの馬の骨か」。田舎の選挙ですから、地縁血縁の選挙です。物すごい地縁血縁。選挙になると、親戚が増えるというぐらいひどい。

選挙前に、1軒1軒全部回るんです。そうすると、うちの家に来たとか来ないとかいう事が問題になる。地域で推す人がいるとか、そういう地縁血縁選挙の中で、小林という名前で地縁も血縁もない、どこの馬の骨かわからない、プロフィールを見ると、エチオピア生まれとか書いてある。「あいつは日本語しゃべれるのか」とまで言われましたっけ。それだけ、他所者の女が選挙に出るなんて、とんでもないことだったんです。最初は共産党かと言われたんですけど、私、共産党でも自民党でもない、どこの党派にも属してない。共産党の人が他に立候補していたので、共産党でもないらしいということは分かった、じゃあ「あいつは何者だ」といった時に、まず冷やかしのわけわからないやつだろうとずっと思われていました。当然落ちると思っていました。

だけど、私を支えてくれたのが帰ってきた若い世代。彼らは今まで地縁血縁選挙に辟易していたんです。地元の消防団で選挙カーに乗って出なきゃいけないとか、選挙運動になると、地縁血縁にまみれていて、そういうのにうんざりしていて、そういう選挙はしたくないと思っていたけれども、絶対そういうことは言えなかった。

それで、合併反対もあったし、私と普段からいろいろつき合っていたし、自分たちの中から自分たちで議員を出そう、と言って選挙運動をしたんです。

私も大変でしたが、何よりも大変だったのは周りの若い人たちです。私はいいんです。私は地縁血縁ないから、勝手なこと言えるんです。議会を変えましょうとか、町を変えましょうとか、好き勝手なことを言えるんですけれども、周りの応援してくれる若い人たちはみんな町の出身者ですから、地縁も血縁もがんじがらめに持っているんです。自分の親戚のおじさんが立候補しているのに、私の選挙カーに乗ってくれた人もいる。そうすると、地区からは村八分です。お父さんやお母さんが近所から「おまえのところの息子は何だ。あのわけわからない女を推して」と言われる。それは大変です。

それは勝てばいいという問題じゃなくて、選挙というのは人間関係が割れますから、割れた後に、それでも彼らはその地域でその親戚づき合いをしながらそこで暮らしていかなきゃいけない。なのに、あえてそういう地縁血縁選挙を断ち切って私を応援しようといって、顔を晒して応援してきてくれた、その勇気は大変な勇気だったと思います。

それをやって、私も実際通るとは思っていませんでした。落ちたらみんなでこの町を出るしかない。夜逃げしようと言いながらやっていたんですけど、それが思った以上に若い人たちの賛同があって、票を取った。私みたいなのが通ったということ自体が、物すごくセンセーショナルで、町の地域の人たちにとってもセンセーショナルだったし、彼ら自身にすごく大きな自信を持たせてくれた。自分たちが顔を晒して、親戚や地区の人から何を言われようが、こういうことを自分たちでやろうと言ってやれるんだと。それで選挙で通したんだということで、彼らもそういうものに興味を持ち始めています。そういうのが相乗効果になって、今若い人たちがとても元気です。

グループがあるかというと、観光関係者が多いので、観光協会の青年部に入っているメンバーが多いですけれども、それよりも同級生、中学で卒業して10年ぐらい町を離れて10年後に帰ってきて、最初に友達になった同級生とか、1年上の先輩、2年上の先輩というつながりでつながっているのが多いです。町の中の友達、みんな名前がわかっているような人数ですから、町の人たちは、あそこのお兄ちゃんは自分の1つ上の人で、どうのこうのというのが全部わかっている小さい単位です。そこで若い人たちで動き始めているところです。

與謝野 小林さん、そして熱心にお聞きいただき、またご質問された皆様、ありがとうございました。

 誠に示唆深いお話の数々をお聞きできまして、有意義なフォーラムであったかと存じます。ありがとうございました。それでは、まことに惜しい限りではありますが、時間も過ぎておりますので、本日のフォーラムをこれにて閉会とさせて頂きたいと思います。

 最後に、誠に率直でストレートに「まちおこしの出直し」の気概をエネルギッシュにご披瀝いただき、数々の目からうろこの意義深い貴重なお話を頂きました小林さんに対しまして、皆様から、心からのお礼のしるしと、今後の小林さんのご活躍を祈念し「エール」をお送りする気持ちを込めて、大きな拍手を送っていただきたいと思います。(拍手)

 ありがとうございました。


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

 


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