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第221回都市経営フォーラム

『横浜市の中心部の活力再生と都市デザイン』

講師:  国吉 直行氏 横浜市都市整備局部長上席調査役エグゼクティブアーバンデザイナー

日付:2006年5月11日(木)
場所:日中友好会館



1.横浜市の都市づくり戦略(1960年代〜)

2.都市の魅力と活力を創る・都市デザイン活動の開始−運動としての活動

3.事業と事業の谷間をつなぐ触媒役-行政内プロデューサー

4.地域社会と連携し、地域社会とともに成長する活動

5.運動から継続的取り組みへ-35年(市長4人)

6.都市空間の個性を育てる−「歴史的なものと未来的なものの共存」する都市へ

7.現在(中田市長時代)の新展開

フリーディスカッション



 

 

 

 

 


 
横浜市中心部の活力再生と都市デザイン

與謝野 皆さん、こんにちは。それでは第221回目のフォーラムを開催致します。本日は、横浜市より都市整備局上席調査役エグゼクティブアーバンデザイナーでいらっしゃいます国吉直行さんをお招きいたしております。
  国吉さんは、お手元のプロフィールの通り、1971年に横浜市に入庁されまして以降、35年の長きにわたりまして、行政の立場から都市デザイン活動一筋に携わってこられた方でございます。最近まで都市デザイン室長として幅広くご活躍され、この会場の中にもご存じの方も多いことと存じます。
  一昨年の2004年に横浜赤レンガ倉庫の再生に関る一連の活動の功績に対して、建築学会賞業績賞を受賞されたことをはじめ、地元横浜市の都市デザイン活動の功績を顕彰する土木学会デザイン賞特別賞も本年受賞されたという、誠に多くの受賞歴をお持ちの方で、著書も多数執筆されておられます。行政の現場を通じて豊富な経験とデザインセンスとで実践的な都市デザインに関って来られた実践肌のアーバンデザイナーでいらっしゃいます。
  本日は、「横浜市中心部の活力再生と都市デザイン」と題されて、行政の現場で長年にわたり都市づくりの下地づくりから事業総合調整あるいは各種規制誘導、歴史、景観性、新しい時代での展開等々、意欲的に取り組んでこられ、都市の魅力と活力をつくり出す都市デザイン活動に取り組んでこられましたこれまでの実績と経験をもとにした、生き生きとした知見と今後のまちづくりに向けての貴重な示唆深いお話等がお聞きできるものと楽しみにしております。
  それでは、前置きはこれぐらいにいたしまして、ご講演に移りたいと存じます。それでは国吉直行さん、よろしくお願いいたします。(拍手)
 
 
国吉 初めまして、横浜市から参りました国吉です。
  今日は、横浜の35年を踏まえて、現在の横浜はどういう活動をしているか、今後の見通しも含めて話してくれということでございましたので、映像を通じて御理解していただきたいと考えております。
  その前に、お手元にレジュメがございますので、見ていただきたいと思います。
  「横浜市の都市づくりと都市デザイン活動の経緯」ということで昨日作成したばかりでございます。横浜市は、1960年代に民間プランナーの田村明さんをスカウトして、飛鳥田市長のもとで、1968年に都市づくりの新しい動きをスターとさせました。この時は自治体として非常に貧弱な状態であった横浜をどうやって構築し直すのか、横浜市が主体的にどうやって取り組んでいくのか、あるいは、自治体としての主体性を作る、行政の中の職員の主体的な活動を育てるなど、いろいろなことを自治体としてやらなければならなかったということでした。
  6大事業といった公的プロジェクトをプロデュースする、あるいは宅地開発要綱といったもので、開発に対して一定の負担をいただくというシステムなどを、批判を受けながらもやってみる、そういったトライを開始した時期がございます。
  その時に考えましたのは、横浜は東京に近過ぎるということで東京の圏域に巻き込まれてしまっているが、その中で横浜らしい自立したものがどうやって築けるのか、街を再構築するのであれば、横浜らしい質の高いものを造っていくべきではないか、それを一番の課題としたわけです。空間的な質、デザイン的な質、街の魅力、こういったものも併せて作っていこうではないかということを1960年代後半から発想していたというのが、横浜にとっては、非常に大きかったと思います。
  1970年代に入りまして、いろいろな都市再構築の仕掛けが花開いていきました。当初は大きいプロジェクトが起こると、外部の専門家の方々を入れたデザイン委員会が幾つも作られました。地下鉄デザイン委員会など。しかし、街を見てみますと、委員会で審議いただくような大きなプロジェクトだけではなくて、小さなプロジェクト、小さな民間の事業もたくさんあるわけです。
  そういうものに対して、市内部に組織を持って対応すべきだという考えがありました。アメリカ都市なんかのシステムです。そういう時期1970年に、芸大を出て設計事務所をやって、ガーナの大学の先生をやって、その後ハーバード大学のアーバンデザイン学科修士を出て、ボストン市役所アーバンデザインチームで活動した岩崎駿介さんという、不思議な方が、田村明さんを頼って横浜市に入ってきました。それから、私が71年に入る。その2人でチームを作って、都市デザイン担当チームができました。
  そこで、アメリカの都市のように自治体によるアーバンデザインの調整のようなことができるかどうかトライしてみよう、日本ではこういった発想がなかなかないんでやってみようじゃないか、ということになりました。横浜で出来る確信はありませんでしたので、岩崎さんにしても私にしても、3年ぐらい横浜市にいて駄目だったら辞めようくらいのことで始めたんですが、幸いなことに、思った以上にいろいろ花開いてまいりました。実は私自身は早稲田で建築のデザインをやっていた人間ですから、いずれは設計事務所に移ろうかと思っていた時代がありましたが、行政を主体としてアーバンデザイン調整の仕事を日本の中で確立させる一端を担う、その方が重要ではないかと考えて、しばらくこの仕事を続けようということになったわけです。
  1970年代は、田村明さんの仕掛けがどんどん動き、その中で都市デザインの活動もいろいろ成果を作ってくる時代になります。それは後程お見せします。
  そして、1970年代の後半に、飛鳥田市長が社会党の委員長として転出します。その後に、細郷道一市長が誕生するわけです。
  非常に多くのものは既に田村明さん、飛鳥田さんの時代に仕掛けができておりましたが、飛鳥田さんの時代には国との対立があって、事業がうまく進まない面もありました。けれども次の市長の細郷さんは、国の次官もやられた方でしたので、そういうことがスムーズにいくようになって、国の国費導入などが、効果的になってきました。
  そして、その前に作ってきた、都市デザイン的な、空間的な質を高めるといったことを横浜の売りにしていこうということは、この時代も続いていくわけです。
  実は、1970年代は郊外部で港北ニュータウンをはじめとしたいろんな仕事がありますけれども、中心部の「みなとみらい」の事業はまだ構想の状況で具体的に動いておりません。「みなとみらい」は1970年に基本合意をしておりますが、なかなか事業化はしていない。細郷さんの時代にようやく三菱さんなんかと合意ができる。事業化が進む。埋め立ての事業も認可が下りるといったことになるわけです。
  1980年代になって、「みなとみらい21」の事業が着工になります。「みなとみらい」の事業が着工する前に、我々は、横浜は、「みなとみらい」1つで成り立つわけではない、「みなとみらい」ができた時に、他の街が全部つぶれてしまってはだめだということで、「みなとみらい」以外のむしろ寂れていた関内という横浜発祥の場所を「みなとみらい」とは違った魅力で育てておく、これが一番重要だということになり、1970年代にずっと取り組んでまいりました。伝統ある街、それが「みなとみらい」に食われないようにしようということです。1980年代に「みなとみらい」が着工した頃には、かなり都心部の魅力はできている。そして、「みなとみらい」の工事が着工したということでございます。
  そして、1980年代の後半に横浜博覧会が起こって、一斉に動き出すのは1990年代になります。
  こういったことを見ますと、横浜というのは非常にのろいなと思うんです。神戸なんかですと、六甲アイランドとかポートアイランドを一気に造ってしまいますね。それに比べると、横浜は非常に遅いということが言えるかもしれません。
  ただ、横浜は、いろんな事業を公団さん、都市機構さんにパートナーとしてやっていただき、他にもいろいろな所と連携しながら造ってきていますから、横浜市が全部事業をやるわけではありません。ゆっくりでもしようがない。20年、30年かかっても、まだ「みなとみらい」は完成してないという状態ではありますが、これも横浜のやり方だったのかなと思っています。
  1990年代は、細郷さんがお亡くなりになって高秀市長が誕生します。1980年代は「みなとみらい」がうまくスタートする時期だったと思いますし、1990年代は、「みなとみらい」の本体は順調に行っていまして、個別事業で細かい施設が数多くできてくる、そういう時期になります。
  さらに、横浜の周辺部への取り組みが広がっていくわけです。その中で、1988年に要綱を作って「歴史を生かしたまちづくり」に、取り組んでいます。歴史資産を生かすというのは、民間の持ち主の方にお願いしながらやるんですけれども、市が少し助成金を出すくらいの工夫をしないと民間さんに残してもらうのは難しいわけです。そういう制度ができたのが1988年です。
  そして、こういったことを踏まえて積極的に、民間あるいは国、県の所有している歴史的建造物の保存、活用をお願いしてまいりました。高秀市長はこういった路線を非常に重視しまして、「歴史を生かしたまちづくり」については、非常に多くの消失しそうな建物を市が自ら買うといったところまで手を伸ばすことになりました。もちろん、担当は都市デザイン室がやっているわけです。
  そういったことが、別のエリアにも展開していくわけです。汽車道、ワールドポーターズ、新港地区、赤レンガ倉庫のある地区ですね。こういう地区も整備が進んで行きます。
  そういう時期を経て高秀さんの時代、1990年代後半は、ワールドカップサッカーのための、サッカーの国際競技場の整備、サイン整備、日本大通り整備、などが進むわけです。そして、歴史的建造物の旧富士銀行の取得も行いました。
  2002年に中田宏新市長が誕生します。中田新市長からは、もう高秀さんの時代までに十分基盤整備、施設整備は行ってきているということを前提に、これからは「非成長、非拡大の時代」と認識し、資源、空間資産あるいは人の資産、こういったものも生かしながら、「オンリーワン都市、民の力を存分に発揮させる都市」をスローガンに掲げた取り組みの指示が出たわけです。
  「創造都市、クリエイティブシティ」といった取り組み、造ることから使うへ、ということで、その中には道路を使ったオープンカフェなども含まれています。
  制度−景観法の活用などは、国の制度とも連携して、都市デザイン室でやっているわけです。景観誘導制度の再整備もやっております。
  2009年には、横浜開港150年を迎えますので、これを目指してのプロジェクトも始まろうとしている状態です。
  最後に「クリエイティブシティ」といった新しい取り組みや、現在の状況もお話ししたいと思います。
  次のレジメは、どちらかというと、個人的なメモです。前のページがプロジェクトと連携したもので、これは割とプライベートなメモでございます。右側にA、S、T、Nと書いてあるのは市長のイニシャルでございます。市長4人の下で、よく首にならないで仕事をさせてもらえたなと感謝している次第です。
  横浜市役所に何故入ったかというところから申します。早稲田の大学院に行って設計をやっていましたが、建築が都市にどうやって貢献出来るのかということがよくわからなくて、地域と連携した仕事、地域に役立つ建築家の仕事をやってみたいなと思っていたんですけれども、なかなかそういう機会が見つからない。
  そういう中で、東京に長くいましたので、しばらく東京を離れて、どこか地域に腰を落ちつけて、地域の目から見てみたいとか、早稲田からしばらく離れてやってみたいとか、そういう感じがありました。その頃に、建築学会が論文を募集していました。「建築学会は何をしたらいいだろうか」という「建築学会も建築だけを考えるコンペだけでなく、街を考えてはどうですか」という提案をしたところ、建築学会が「君、それを建築学会の事業委員としてやってくれないか」と言われて、亡くなられた近江栄先生などを委員長とする関東支部の事業委員にされました。大学院2年の時です。
  それで、建築のコンペはたくさんやっていますが、まちづくりのコンペをやってみたらどうかということで、まちづくりのコンペをやることにした。そういった訓練を建築の世界の人もした方がいいのではないかと、私なりに思ってやってみました。親戚が横浜に住んでいた関係から、その当時、横浜の桜木町の近くにある造船所が都心部に相応しくないのではないかと直観的に考えまして、横浜のあそこに何か新しい街を造ることを提案してはどうかと考え、建築学会がそれを提案するコンペを行うということになりまして、横浜市に乗り込んで行ったわけです。
  私は、若輩でしたから、委員だったRIAの近藤正一さんと2人で行ったのを覚えています。横浜市で対応したのが田村明さんで、「既に君らが考えていることは横浜市は考えていて、三菱さんと今議論を始めたばかりで建築学会が変な騒ぎをすると、話がおかしくなるからやめてくれ」ということになりました。
  そして、「ちょうど来年、本牧の米軍キャンプが返還になるので、そこをやってくれないか」と逆に頼まれました。それで、本牧、現在の新本牧地区のコンペを、建築学会としてやりました。
  そういうことから、田村さんのことは余り詳しく知らなかったんですけれども、おつき合いする中で、横浜市はなかなか意欲的な組織があるんだなと感じました。4月に飛鳥田市長の2期目の当選があったものですから、出かけて行って、「しばらく私をいさせてくれないか」と、お願いしました。試験を受けてなかったものですから、「どういう立場でもいいですよ」ということでお願いしたところ、「嘱託だったらいいよ」ということで、嘱託研究員という形で5月から入るということになったわけです。
  そして、「もう1人嘱託研究員の岩崎さんというのがいるから、2人でアーバンデザインチームを作らないか」という話になりました。そして2人で、3年ぐらいはやってみようということになった次第です。そんなことで、アーバンデザインチームがスタートしたわけです。
  横浜には、関内という横浜に非常にこだわる人たちがいます。浜っ子商人と言いますか、そういう方々からその後我々が信頼を得たというのは非常に大きかったと思います。そして、当初5年くらいでいろいろな成果を作っていった中で市長が交代したわけです。田村明さんは市長選の候補にも目されたような人だったものですから、次の市長時代はいづらくなってお辞めになり、法政大学に転出されていきます。岩崎駿介さんも、「私は細郷市長とは路線が合わない」ということで辞めて、当初のメンバーでは私ともう1人内藤さんだけになって、細々と都市デザインのチームをやっていくわけです。
  細郷市政の当初は、飛鳥田さんの時代にできたチームということで、ちょっと煙たがられていたんですけれども、関内の人たちが新聞に、「新市長はもっと都市デザイン室を使うべき」という論を張ってくれた。町でいろんな人たちが市長と夜、会談すると、「デザイン室はいろんなアイデアを持っているから使った方がいいですよ」と細郷市長に言うわけです。
  それで、市長から「町方が言っていることを君らはやれるか」と言われ、ライトアップなどの宿題を出されました。それを花開かせていく中で、都市デザイン室の評価も上昇し、途中から人が増えたり予算がどんどんつくようになった。それで消滅するのを避けることができました。
  とにもかくにも、地域の人たちが支持してくれた。特に関内の商業者が支持してくれた、というのが大きかったと思います。
  役所ですから、横浜市の場合は昇任試験があって、試験を受けないと係長になれないんです。私は、長くいるつもりなかったので、昇任試験の勉強なんかもしてないし、受けると結構難しい。法律から何から全部やるわけですから、どうせ通らないと思って、ヒラでいいやとずっと言っていたんですが、細郷市長の時代になって、他都市などいろんなところで実績を評価されて講演する機会が増え、横浜市としても何とかした方がいいということになって、専門職の係長級ポストの主任調査員という新しい制度の中で、係長級になりました。
  それから、専門職係長、次に専門職課長補佐、専門職課長となって、ラインの長である都市デザイン室長もやるということになりました。そして今度は、部長級の専門職ということで、上席調査役エグゼクティブアーバンデザイナーという肩書きを3年ほど前に付けてもらって、そういう立場になりました。
  そういうことで、4人の市長のもとで、それぞれの市長のコンセプトを踏まえながら横浜の魅力形成を継続的に取り組んできているということです。
 
 
(図1)
  横浜の位置は、こういうところでございます。
(図2)
  横浜は現在18区になっておりまして、ご承知のように、川崎市が東京との間にありまして、東京都から約30キロぐらいの距離です。これは昭和40年代の横浜です。この辺が横浜駅周辺。これが造船所、鉄道ヤードのあった臨海部。こちら側が関内地区という昔からの横浜でございます。

1.横浜市の都市づくり戦略(1960年代〜)

(図3)
  1960年代の後半から、新しい横浜を造るプログラムが田村明さんを中心に始められました。横浜は、6つの事業、都心地区整備計画、港北ニュータウン計画、高速鉄道、高速道路計画、ベイブリッジ計画、金沢地先の埋立計画を、市の事業として、あるいは住都公団さん、首都高速道路公団さんの事業として行い、これらを骨格としながら公的な事業を活発化させていこう、そしてインフラを整備していこうということを始めるわけです。
  これを通じて、事業調整という活動などを横浜市の中に定着させよう、という狙いもあったと思います。また、庁内が縦割りでブツ切りになっているのを横に繋ぐということもあったと思います。
  横浜市の企画調整局は、単に総合計画を作るだけじゃなくて、実務面を調整していく。技術屋としても調整し具体化していく、それが一番大きかったと思います。技術の調整を通じて、プロデューサーはどういうことをするのかを職員が学んでいく、ということだったと思います。
(図4)
  横浜は昭和30年代以降人口が急増した都市で、100万人ぐらいだった都市が年間10万人ずつどんどん増えていく時代が続いた。
(図5)
  郊外では、住宅地が出てくるために、インフラの整備が遅れるだろうと予測して、一定の開発をする場合は、道路用地とか学校用地、そういうものを無償あるいは安い価格で提供していただく宅地開発要綱をこの頃始めた。こういうことをやっておけば、将来環境のいい街が維持できるだろうということで、これは非常に大きかったと思います。
(図6)
  こうしたインフラの整備によって新しい骨格を造っていくということを始めるわけです。
(図7)
  臨海部の工業地帯についても、公害防止協定を国より先に結んで環境問題にも取り組むといったこともしております。
(図8)
  横浜市はインフラ整備、公営事業としての鉄道の整備もやっております。
(図9)
  横浜の周辺を走っている鉄道は東京に向かう鉄道が多い。そういう中で、横浜の郊外から横浜の中心を経てまた横浜の郊外に行くという、横浜を中心とした鉄道網を造ろう、横浜の郊外に住んでいる人に横浜の中心部に来ていただけるようにしよう、そういうことも狙って市営地下鉄の整備も行いました。
(図10)
首都高さんにお願いして、ベイブリッジを造ってもらいました。沈埋トンネルではなくて、ブリッジにしていただきたい、橋の景観もシンボリックなものにしていただきたい、そういったことを積極的に横浜側から提案していくということを行ってきました。
(図11)
  公団さんにお願いしながら、区画整理事業として港北ニュータウンを造りました。全面買収ということではなくて、地権者の方にも加わっていただきながらの区画整理というやり方でのニュータウンを造っていく。そして、その中で自然緑地といったものも積極的に残していく、ということも連携して進めてきたわけです。

2.都市の魅力と活力を創る・都市デザイン活動の開始−運動としての活動

(図12)
  1968年から公的事業のプロデュースや開発のコントロールを始めてきたんですが、1970年代になって民間の事業、公的事業が動き出す。そういう時に都市デザインという視点も出てきます。
  最初は、チームを作るということまでは考えていませんでした。専門家の方、大高さんとか槇さんとか、地下鉄ですと栄久庵さんとか、いろんな外部のデザイナーの方の知恵を借りながら進めるというやり方を取って参りました。
(図13)
  しかし、都市デザインチームが1971年からスタートして、少しずつですが、実験的に中心部で始めていきました。これが、どんどん花開いていくということになります。都市デザインというのは、街の魅力を作ることなんです。いろんな事業を重ね合わせて地域の個性を作っていく。その視点は、歩行者空間、とにかく歩きやすい、歩いて楽しい街が一番重要だろう。車だけに依存する街ですと、街を見なくなるわけですから、とにかく歩くという視点を大事にしていこう。それから、街並み、歴史を生かしたもの、光の演出あるいは水と緑、こういったものが地域地域で重なり合う。
(図14)
  街を見ますと、建築物あり、川あり、道路あり、なわけです。道路だって、国道あり、県道あり、市道あり、所管が違う。みんな所管ごとに事業スタイルが違うわけですけれども、一定の地域の中では1つのコンセプトでそれぞれに少しずつ協力してもらおうということを勧めました。それぞれ技術者がみんな頑張っても、お互いが無関係だったら、やっぱりよくならないということで、地域において、あるいは通りにおいて一定のまとまった工夫をしていくことができないだろうか。例えばこの会場にいる人が共通の帽子をかぶれば、少しまとまったチームができるわけです。ちょっとした工夫で1つのまとまりができる。そのぐらいしないと、今の日本のバラバラな街では何も整った魅力はできないのではないか、それを横浜で始めようということでした。
(図15)
  ヨーロッパの街などを勉強しながら、市民の方にはわかりやすいように、幾つかのキーワードを挙げました。楽しく歩ける街、広場や触れ合いの空間のある街、自然を生かした街、水と触れ合いの街、歴史と文化の息づく街、美しさのある街。本当はキーワードというのは、もっとたくさんあると思うんです。でも、余りたくさんあるとわかりにくいので、とりあえず、この6つぐらいにしました。
(図16)
  最初に申しましたように、横浜中心部には造船所がありました。戦後、横浜駅周辺に商業地が誕生しました。もともと横浜は、関内からスタートした街ですが、米軍の接収がずっと続いていたために、横浜駅周辺に新しい商業地ができた。昭和30年代から接収が解除されてきます。でも、関内はずっと焼け野原のままになっているわけです。そこで、昭和40年代から始めたまちづくりは、関内と横浜駅周辺の2つの街を繋ぐ地区を新しい中心部として整備し、一体感を増していく、あるいは緑の軸を採っていこう、こういったことを構想いたしました。ただ、これは交渉が大変ですから、なかなか進まない。その前に、旧来からある街の活力を付けるよう。活力を付けるにはどうしたらいいか。
(図17)
  これは、「みなとみらい」が始まる状態ですね。造船所が出て行って埋め立てが始まる状態です。手前が関内地区です。この活力や元気の無くなっている街を元気にしよう。横浜は、1859年に開港ですが、出島状に造られた外国人街がありました。ここに橋があって、関所がありました。関所の内側ということで、関内という地名がついています。
  もっと言いますと、ここはもともと半島だったんです。そして、この辺には横浜村という108戸の漁村がありました。これを移転して本村という村を作った。これが現在の元町になるわけですね。そして、この辺に横浜新田の田んぼの畦道があって、ここは中華街になります。この白い所は外国人街でした。
(図18)
  先ほど申しました外国人街は関東大震災で壊滅しますが、鉄筋の入った建物だけは残りました。
(図19)
  震災復興後も、1945年に、また空襲を受けて、ずっと米軍が駐留する。
(図20)
  これは、伊勢佐木町裏側のかまぼこ兵舎です。この辺に滑走路がありました。横浜は昭和30年代までずっと接収が続いた。ですから、名古屋などの大都市は戦後、大規模な復興事業を行っていますが、横浜は少しずつ返還されてきたので、大規模な復興事業ができない。そういう中で、昭和40年代を迎えてしまった、ということでございます。
(図21)
  そういう中で、結局、骨格は余り変えられない。逆に言うと、変えられない骨格を逆手にとって、それを魅力として見せよう。そのためには、この街をずっと回遊させるというシステム、歩いて回るというシステムを考えようということになりました。横浜駅周辺は駅周辺型の街です。ビル型、ターミナル型の商店街。関内地区はこれと対比的に街中をずっと回遊するシステム、それを生かした街にしようということです。
(図22)
  まず歩くシステムを作ろうということで、駅からプロムナードを造っていく。あるいは、歩行者の道を造って行くということを始めるわけです。
(図23)
  プロムナードの整備をすると、人が歩くようになる。人がたくさん歩くようになると、ビルにお願いして花でも飾ってくれませんか、というふうになるわけです。なかなかいい歴史的建造物だな、という市民の視点も出てくるわけです。
(図24) 
  そして、これは田村さんなんかがよくお話しするんですが、実はここを根岸線という高架の鉄道が既に昭和30年代に敷設されていた。高速道路はここに鉄道と平行に入って、ここでT字型に計画されました。そして、高架で入る予定になっていた。しかし、高架でここに入ってきたら、街が3つに分断されるだろうということで、田村明さんや飛鳥田市長が先頭に立って、国に「何とかここは地下にしてもらえませんか。ここの部分は緑の軸を造る予定がありますので、こちらへ移ってもらえませんか」とお願いして、多少コストはかかるんですが、国や首都高速道路公団さんにも聞き入れていただいて、地下化することになったわけです。
  そういうことは今から考えると、景観が壊れるのを未然に防止したということで大きかったのかなと思います。
  日本橋上部の高速道路を何とかしようという動きがありますが、横浜関内への入り口であった吉田橋というシンボルの橋の上部に高速道路が高架で通ることも防止できたわけです。
(図26)
  そして、ここは新しい緑の軸として整備し、大通り公園となり、地下に地下鉄を入れる。周辺は空き地がありましたが、現在はビル街に育っているわけです。当初はここに高速が高架で入る予定だったんです。そういういろんな工夫をしています。

3.事業と事業の谷間をつなぐ触媒役−行政内プロデューサー

(図27)
  都市デザインって、今でこそ言いますけれども、何ができるかわからない。誰にも相手にしてもらえない時期でしたから、やれることを少しずつやっていくという実践を通して、見本をお見せするということをやるわけです。これは地下鉄の工事で掘削した後です。換気口が出ていますね。普通こういった工事をしますと、その後もとの道路に戻します。原形復旧工事です。その工事費が3000万円予定されていました。工事業者が白石基礎さんに決まっていたんですけれども、本当に戻していいだろうか、という会議が道路局中心に行われて、「都市デザインの君らも、もし興味があったら、来てもいいよ」と言われて、我々が出かけて行った。市役所から県庁に行く駅前の歩行者の多い道だから、ここは歩行者空間にすべきだということで提案書と、次の回には我々が直接図面を描いて持って行って、会議で説明して、それで方向転換を図りました。
(図28) 
  もともと横浜市役所にはレンガ積みのところがあって、レンガの伝統があった。これは関東大震災で壊れるわけです。
(図29)
  その後、ここに村野藤吾さんの設計した新しいレンガ壁の建物ができました。建物と連係したレンガを基調とした広場空間になりました。日本では道路は道路、建築は建築なんですけれども、ヨーロッパに行きますと、道路と建築と一緒に空間演出をしますね。そういったことが、日本でもできないだろうか。トライしてみよう、ということで考えた。それでもともとレンガの建物が多かったというから街のコンセプトとしました。
(図30)
  ここに駐車場がある。駐車場は少し小さくはしますけれども、ここにあった道路の代わりに新たに道路を付ける。もとの道路の所を歩行者専用道にして、ここに細い駐車場を造る。広場のデザインは、村野さんの建物の柱を反映させていく、こういった歩行者空間。そして、所々に休憩空間を造る。そして、こういったコンセプトを周辺の建物にも働きかけて行くことで、こういうふうにできるわけです。
(図31) 
  次に、周辺の建物にも協力していただく。このビルは、実は白いビルの計画だった。担当は日建設計でした。急遽外壁タイルを変えていただけないかとお願いして、ブラウン系に変わるわけです。実はサッシは頼んだ後だったものですから、サッシの色は変えられなかったというのが痕跡として残っています。
  このビルも、将来改修する時は色彩を直していただきたいとお願いしました。この建物は、既に白いビルなんですけれども、吹きつけタイルですから、いずれ外壁の補修工事があるだろう、その時はブラウン系にしていただけないだろうかとお願いだけするわけです。その頃は、まだ、まちづくりの要綱とかガイドラインとかない時代ですから、とにかく口頭でお願いする。そういった素朴なお願いの仕方でした。
(図32)
  市の新しい建物もレンガとコンクリートの関係、白いものとレンガを基調にしてもらいました。JRにもお願いして、白いものとレンガの組み合わせでどんどん覆っていくわけです。
(図33)
  歩道橋のコンクリートの桁もコンクリート色ではなくて、少し工夫していただきたいとお願いしていきました。
(図34)
  このビルは、いよいよ建て替えになった時に、色を揃えるだけじゃなくて、2メートルの壁面後退もやって、歩行空間としての広がりも持っていただいた。
  既にこのビルには、お願いしてやっていただいたわけです。
  このビルも、レンガ系です。マンセルが何番とか細かく言わないけれども、ブルーとか黄色にはならない。
このビルはタイルではなくて石だったものですから、赤っぽい石をバーナー仕上げしました。でも、色合いとしては連続するということになった。足元には広場ができる。
(図35)
  このビルは、真っ白だった。隣のビルがレンガでできている。ところが、昭和49年に私がお願いして、19年経ってから電話がかかってきた。このビルは、民間ビルですけれども、管理事務所から、「ビルの外壁工事をやる時は何かやってくれと言われていたけれども、何でしたっけね」という電話です。それで、「この時を待っていたんですよ。外壁をブラウン系にしていただきたい。設計事務所さんがいるから設計事務所の方にいろんな提案をしてもらって、それをここにいるテナントの方も入れて議論しましょうよ」ということになった。
(図36)
  5案ぐらい案を作った。そして、結局、足元で議論して、これにしようということになった。法律にもなってもいないんですけれども、ここのビルの管理事務所がちゃんと覚えておいてくれて、電話をかけてきてくれた。私がまだ横浜市役所にいた、ということもラッキーだったわけですが、19年の間にうまくできた。この隣のビルは、昨年変わりました。合計30年ぐらいかけて、この地区の色合いが大体揃ってきた。民間ビルに余り無理をかけないで、何か工事の時にやってもらえばいいということで、30年ぐらいかければ、少しずつでも街を整えることができるのかな、ということを体験したということです。
(図37)
  そういう体験をいろいろなところでしていく。山下公園周辺地区では、もう少しシステム的にやっていこうということで、歩行空間を3メートル拡大するとか、角角に広場を造るといったことを、ガイドラインとして整備していきます。
(図38)
  これは産業貿易センター、県民ホール。この2つをほぼ同時に整備する時に、設計者たちと話し合って、広場づくりみたいなものを入れてもらえないだろうかということをお願いして、3mの壁面後退と角の広場ということをオーケーしてもらいました。
  実は、昭和48年に容積率制が導入されます。そして、国の総合設計制度ができます。その時に横浜市は、総合設計制度と同じ内容を持った「横浜市市街地環境設計制度」というのを作りました。こういった魅力的な広場や歩行空間を築いた場合、容積率を緩和するとか、高さを緩和するなどの、プラスボーナスを積極的に取り入れました。国の容積率緩和よりも高い緩和の数字を出して、メリットがある仕組みにしていったわけです。そして、この地区ですと、ザ・ホテルヨコハマも同じように公開空地を造る。神奈川センターでも出してもらう。ここでは、一部歴史的建造物を残してもらう。産貿センターも、もちろん容積率の緩和を受けております。
(図39)
  この時は、ちょうど同時にいろんな建築物が整備される時だったものですから、角角の広場、1.5mの高さの広場、そして素材を揃える、歩道を広げるということができました。ここでは敷地境界から、3m後退しています。
(図40)
  こういったことをやることによって、この地区が非常にクオリティーの高い街になっていくということを理解いただいて、整備を進めてきた。例えば、歴史的建造物を残してもらう。こういったものが、どんどん進んでいくわけです。
(図41)
  山下公園の前では、広告物を港に向けてつけない。広告塔を立てない。自分の建物の名称だけにするなど、この辺、独自のまちづくりのルールも作りました。そういったことで、地域ごとの取り組みが少しずつ出てまいります。

4.地域社会と連携し、地域社会とともに成長する活動

(図42)
  商店街整備などでも、一緒に手伝ってやってくれということになりました。横浜にあります馬車道という商店街、伊勢佐木町、元町、中華街、それぞれがまちづくりのルールを独自で作って、独自のスタイル、独自のコンセプトで取り組み、そして、横浜市の都市デザイン室はそれを手伝う。これは馬車道の計画前です。街に人が来なくなったので、人が来るようにしたい。どうしたらいいだろうということでした。当初は道にタイルを貼るだけと言っていたんですけれども、そんなことをしてもしようがないので、もっと歩道を広げましょう。建物側を少し下げて、外観の整備をしていきましょうということで、まちづくりの協定を作りました。
(図43)
  そして、こういった断面形状を持って、豊かな歩行空間を造ったり、建物の色を揃えたりといったことを自主的な協定として作るわけです。

(図44)
  もともと、街の中に文明開化期の歴史的建造物、妻木頼黄作の旧横浜正金銀行や西洋風の建物もあったので、そういったことを生かし、ヨーロッパ風の雰囲気のあるストリートファーニチャーを置いた整備にしよう。そして、デザイナーとしては高橋志保彦さんとか、いろんな方に加わっていただくわけです。そして、建物の色を揃えた外壁が出きたり、看板には共通のマークを入れるとか、そういう商店街らしいまちづくり協定を作っております。
(図45)
  これは現在、その内容を地区計画にも入れようということで今進めております。
(図46)
  商店街の執行部が計画者から説明を受けて、自分たちの委員会で審査もする。そういった取り組みをしております。オブザーバーとして私もここに参加して、商店街の人に助言を与えるということをしたりしているわけですが、あくまでも主体は商店街、という取り組みになっています。
(図47)
  そして、街の整備は2002年に再整備いたしまして、こういった歴史的な雰囲気のある街が維持できているわけです。
(図48)
  関内に渡る橋は、ブラントンという方の設計した橋で、これは横浜に入る有名な橋だったわけです。これをこの整備の時に復元しようとしました。
(図49)
  言ってみれば、横浜におけるお江戸日本橋みたいなものです。高速道路は地下に入れてもらったので、高速道路の下にならないで済んだ。
(図50)
  馬車道の取り組みは、次々に競い合うように、他の商店街にも影響して行きます。アーケードで覆われて暗いと言われていた伊勢佐木町も、明るい歩きやすい街にしていこう、車を全部やめちゃおうということで、こういった街に変わった。
(図51)
  あるいは、元町商店街も電柱を無くしミニ共同溝を入れる。実際は8mしかない道路ですので、1、2階の壁面後退を1.8mして、道路側にも歩道を造る。平日は車を入れる。これが伊勢佐木町との違いで、平日の車を使ったお客も重要なものですから、平日は車を入れる。そして、土日は車を入れないという二重構造の仕組みをやっています。
(図52)
  面白いのは、伊勢佐木町の頃までは、商店街の方々は都市デザイン室がデザインのことは指導してくれるだろうと我々に期待していたんです。ところが、元町に来ると、デザインのことは商店街が考えますから、市は考えなくていいですとなりました。つまり、元町は、馬車道などの取り組みを見て、自分たちでデザイナーの方を入れた研究会を始めていたわけです。自分たちでお金を出してデザイナーも雇ってコンセプトを造る。大体方向が決まってから、我々のところに来て「バックアップしてくれ」と言います。我々がデザインのことを言おうとすると、それはもう大体コンセプトはできていますからと言われます。庁内の調整とか警察との調整とか、その辺をお願いしますと言われ、我々は裏方に回る。こういうことで、商店街、地域の人がどんどん自立して育って行く、ということが非常に大きかったわけです。
(図53)
  元町なんかは、自らコンセプトを作る。そして、同じようにまちづくり協定をまた作るということもやっていくわけです。
(図54)
  これは商店街の委員がいて、設計者が計画案を説明する会。私はカメラを向けておりますから、座っていませんけれども、大体この辺に座って、時々助言するということをやっていたわけです。
(図55)
  元町の場合は、昭和60年にモール整備を行ってから、20年近く経って再整備しようということで、第2次のコンセプトを始めています。面白いのは、執行部が全部入れ替わったわけです。実は60年の整備をした時、50代の方々が執行部でした。執行部は、それまで代々無風選挙で、長老の方が代わりばんこで理事長をやるということだったんです。若手は「みなとみらい」ができる前に再整備をした方がいいと言ったんですけれども、元町はそんなことをしなくてもいいと長老から言われたということで、執行部選挙に初めて50代の理事長を担いで立候補させるんです。ミハマという靴屋さんの森さん。長老方から出てきた候補者と一騎討ちになって、55対45ぐらいの差で若手が勝っちゃうんです。この方は近沢さんという方です。この方も後に理事長をやります。
  もうそろそろ20年経ったから、新しいまちづくりを始めた方がいいということになり、若手30代の人たちに「君たち、まちづくりをやりなさい。我々は口を出さない」と言って、30代にコンセプトをみんな任せちゃうわけです。前のまちづくりをやった人がすっと引いて、30代、40代の人たちが中心となったコンセプトでまた新たにやる。そんなことをやっているわけです。
  前のも結構良かったので、壊すこともないなと思ったんですが、やっぱり街というのは、商店街ですから模様替えも必要だということで、これを行った。ここの凄いところは、元町商店街の宣伝広告費。横浜の伊勢佐木町等他の商店街とは比較しない。宣伝費は、そごうデパートとか高島屋とかデパートの宣伝費と比較する。そのくらいやらないとデパートに勝てないということで、みんなで金を出し合って、宣伝費を毎年デパートと同じくらい使う。言ってみれば、商店街は横に長くしたデパートみたいなものだ。それと同等のことをやらなきゃ勝てないよ、ということもやっています。それは凄いことだと思います。
(図56)
  そして、自分たちでまちづくり憲章、まちづくり協定を作ります。でも、条例とか法律に基づかない協定等で縛るのは限界があります。国の制度もできましたので、きちんとしたルールにしていこうということで、地区計画で一部は裏づけする。二重、三重の仕掛けで裏づけする。ただ、地区計画で全部書いちゃうと、なかなか融通がきかない。柔軟にやるところは、まちづくり協定でやるという二重の組み合わせを持っている。そして、ちゃんとルールブックというのを作っています。見学者が非常に多いので、500円で来た人には売っております。
(図57)
  中華街もちゃんと再整備が終わっております。


5.運動から継続的取り組みへ−35年(市長4人)

(図58)
  こんなことを中心部でやりながら、港の景観整備として、倉庫地帯等も魅力的にしていく。これは市の港湾局と連携した事業で、倉庫ばかりの港になってしまったけれども、少し楽しくしたいなということで、色彩的に楽しくする。あるいは工場の煙突なんかも、楽しくようということで、工夫をお願いしているんです。
  電源開発さんの新築の計画の時に、積極的に色を用いて下さいということで楽しい色合いにしてもらいました。こういったことで、もちろん産業は大事ですから、工場も倉庫も活動しながら景観として魅力を持つという街にして行こう。これは港湾局の事業に我々が協力してやって行きました。
(図59)
  そして、首都高速道路公団さんにも、横浜の高速道路は基本的に白系にして下さいということでお願いしました。東京都では桁の色が、赤になったりブルーになったりしていますけれども、一切いろいろな色は使わない。首都高さんにお願いして、ずっと白あるいはアイボリーで来ています。ただ、白ですと、排気ガスで汚れやすいということで街中では純白は使えないのですが、ベイブリッジは海の上だから排気ガスはたまりにくいだろうということで、ここだけは純白にしていただいています。
(図60)
  山手地区の、かつての西洋館を残した街並みの保存、修復です。
(図61)
  1980年代になってようやく「歴史を生かしたまちづくり」に取り組めるようになります。実際に、これが展開するのは1990年代ですね。だんだん、市民の人たちに歴史建造物を楽しむという雰囲気が出てきました。いろんな建築家の団体や市民団体が、横浜の数少ない歴史的建造物を研究しようとして、サークルが沢山できてくるわけです。そういう方々が力になって、後押ししてくれて、歴史を生かしたまちづくり要綱というものを作りました。都市デザイン室が主管しておりますが、歴史的建造物を文化財というよりももっと街の魅力として活用していく。ただ残すんじゃなくて活用する。それで街も生き生きとしてくる。商売にも生かしていく。残すんじゃなくて、生かすということでやろうということです。
(図62) 
  そのために、外壁の一部でもいいので残していただく。横浜市と契約を結んでいただいて、そうしたものに対しては認定して、床面積のボーナス等も差し上げる。そんなことを、システムとして作っております。市としても、公園整備の中でも歴史的建造物を残したり、民間からも寄附いただいたり、こんなことで、山手のいろいろな建造物を保存しているわけです。
(図63)
  これは、横浜の石川町の上にある外交官の家です。民間から寄附をいただきました。これは、実は渋谷の南平台にあった建物でした。内田定槌さんという明治の外交官のお孫さんの宮入さんという方がお持ちでした。自分の息子の代になったら、多分なくなるだろう、どこかに寄附して保存したいなと思っていましたが、東京ではどこに相談していいかわからない。東京都に行っても余りいい返事をしてもらえなかったとかで、そういう時、たまたま南平台の辺を『東京人』の編集で、陣内秀信さんが取材で歩いていた。あそこにすごい建物があると言って出かけて行ったところ、その宮入さんの奥さんにお会いして、陣内さんが話しているうちに、「この建物をどこかで保存したいんだけれども、何か方法ないだろうか」という話があった。それで、次の年の正月に歴史専門家の集まりがあって、そこで藤森照信さんと会って、「それだったら、横浜市の都市デザイン室に相談したらどうだ」ということになった。
  それで、陣内さんから都市デザイン室の方に相談があった。「山手にこういう今後西洋館を受け入れていくような公園があるので、そこだったら受け入れてもいいですよ」と言ったところ、喜んでいただいて、持ち主の宮入さんが、わざわざ渋谷の建物を解体して、トラックで運んでくるところまで自分の費用でやっていただいた。
  それで、横浜市は、解体して持ってきていただいたものを組み立て復元するということをやりました。というのは、横浜市の税金を使うものですから、他所の都市から持ってくるのはなかなか難しい。何で他所の都市から持ってくるんだ、そこに何で税金を使うんだということがあった。解体費用まで持つのは難しい状況があって、宮入さんに話したところ、それなら、自分で持ちましょうと、そういうところまでやっていただいた。そこまでやっていただいた持ち主の方の好意によって、横浜でスムーズに復元することができた。復元した後に、重要文化財に指定されております。こんな例もあります。
(図64)
  これは、横浜市が取得して残したものです。
(図65)
  歴史的景観というのは、擁壁とか橋、こういった土木構造物も大事なわけです。
(図66)
  これは昔の、大正期の写真です。
(図67)
  根岸の競馬場、これも横浜市が取得して今保存しております。同じ設計者(D.H.モーガン)がずっと横浜でやっておりました。横浜聖公会のビルです。横浜でも、もちろん辰野金吾さんの建物やいろいろな建物もあったんですけれども、結局、残っているのは震災以降の建物が大半で、震災以前はわずかですね。これは震災以降です。
(図68)
  歴史的なものを、いろいろな新しい開発の所でも残してきている。民間に残してもらったりしてきているわけです。
(図69)
  これは、馬車道で残してもらった例です。

(図70)
  これ(旧川崎銀行)は、日本火災さんに残してもらったんですけれども、もとは普通のオフィスビルに建て替えるところを市民運動も受けて、日本火災さんが直して、保存しましょうということになった。設計は、担当が日建設計でした。急遽設計を方向転換して、村松貞次郎さんなどに保存委員会の委員になってもらって、それで、こういうふうな保存の仕方をした。高い敷地だから、容積は目いっぱい使いたいということで、こういう変則的なことになりました。横浜市はこれに対して、歴史を生かしたまちづくり要綱を作って、第1号として3000万円の助成をさせていただいた。鈴木博之さんなんかには、非常に評判が悪いんです。変な残し方だということです。ですけれども、足元を見ると連続しているので、これでもいいとしようということで、市民には喜んでいただいております。
(図71)
  生糸検査所といったものも、国が合同庁舎として復元保存しました。
(図72)
  この銀行建築は、ここに道路が入ってくるというので、この部分だけ切り取って持ち上げて、ジャッキアップして、こういうところに運んで、170メートル移動して、ここに復元してもらった。全体は槇さんの設計ですね。事業としては、都市整備公団の事業としてやっていただきました。
(図73)
  富士銀行については、結局、市が取得するということで、高秀市長が決断して、土地だけ買いました。土地が約800uで約8億円。建物は、ただで寄附してもらうということで取得しました。バブルの時に比べると3分の1ぐらいの値段で非常に安い土地代だったと思います。2002年の3月に取得しております。

(図74)
  これは東京銀行。銀行が合併しますと、どうしても古い建物が売りに出るんです。東京銀行と三菱銀行が合併すると、三菱の古い建物は要らないということで、売却される。これを住宅ディベロッパーが買うわけです。売り主の銀行さんに、是非何とかイメージを残してもらえるように買い主にお願いしてくれと頼み、売却条件に入れていただていて、残しました。どうしても、その前に市民に見学会をやったりするわけです。結局、上がマンションで下が……という残し方になるので、こういう残し方ばっかりではまずいので、きちんと残すものも中には必要だということで、高秀市長がこの事例を見て、残ることになった。
(図75)
  これは開港広場周辺ですけれども、広場と歴史建造物をまとめて、広場と道路を再演出し、この辺の色彩を整えるといったプロジェクトです。これも10年ぐらいかけて国の補助事業を入れた広場公園事業、道路整備です。こういった対比的に見えるような場所もできております。
(図76)
  歴史建造物の保存については、民間にも頑張っていただいておりまして、こういうものに対して多少とも認定し、補助するというシステムも作りました。これは、県が持っている施設ですけれども、これは民間による事業として事業コンペを行っている最中でございます。歴史的建造物を保存活用するという前提での事業コンペを、今行ってもらっております。
(図77) 
  その前に光の演出、夜景演出(ライトアップ・ヨコハマ)もやってきました。
(図78)
  歴史建造物を生かした街の夜の観光、というものもやってきました。横浜の歴史建造物がクローズアップされるということで、非常に有効だったと思います。

6.都市空間の個性を育てる−「歴史的なものと未来的なものの共存」する都市へ

(図79)
  最後に、「みなとみらい」についてもう一度申します。この地区を再整備しようということで、既存の街の軸に並行に軸性を採っていくのが普通ですから、当初の案は並行に採っていくわけです。
(図80)
  これはこれでいいんですが、新しい業務商業地を育てよう、横浜駅から関内に続く一体となった新しい業務商業地を造ろうということでもあったんです。横浜は当時、夜間人口の方が昼間人口より多い。つまり、寝る都市、住まう都市。それじゃ、まずい。少なくとも昼間人口と夜間人口がイコールぐらいにしていかないと、都市としてのバランスが欠けるのではないか。そのためには就業の場をどんどん作っていく必要がある。横浜に住んで横浜に勤めるという方もどんどんいて欲しい。そういう就業の場を作るということが大きな狙いだったわけです。
  この計画は、大高正人さんには中心になって案をたくさん作っていただいた。ただし、この中でずっと当初から主張したのは、赤レンガ倉庫は残す。それから、ドックを2つ残すということ。田村明さんの時代から、こういう案を幾つも作っていたわけです。
  しかも、赤レンガ倉庫については、飛鳥田さんの時代に、「この赤レンガ倉庫は横浜の財産だから、これは残します」と宣言しちゃうんです。国は怒るわけです。「これは国の施設だ。横浜市は何を考えているんだ」ということですけれども、「これは残させていただきますよ」と言って宣言しちゃうんです。
  市民にも、そういう認識ができていく。ドックも大事だから残そうとなる。ドックを残すためには、幹線道路をドックを避けるように入れなきゃならないわけです。街の幹線道路ですから、中央部の、この辺に通してもいいんですけれども、ドックを残すんだというために、ドックをかすめるように通しました。
  それから、山下公園のように市民が海に近づけることを今後とも街としての売りにして、魅力的な水際線を造っていく。それによって空間的魅力ができれば、東京は利便性は高いんですけれども、東京でなくてもいいなという企業があった時に、横浜だったら行ってみようかという雰囲気になるかもしれない。企業の受け入れ先として魅力を持つような、そういう基盤づくりの戦略からも、都市空間として港と緑と水際線の魅力、歴史、こういったものを加味した魅力を作っていこうということがコンセプトとしてあったわけです。
(図81)
  時とともに、新市街地の計画区域もどんどん拡大し、埋め立て面積も増えて行きます。水際線はもっと沖合に出て行きます。こちらにあるベイブリッジに対面する、真っ正面に見るということとか、真っ直ぐだけじゃつまらないということで、複数の曲がる案もあったり、八十島義之助さんを委員長として大高さんが設計の中心となって、いろんな案を作るわけです。最終的に、こういう湾曲した水際線がベイブリッジに相対する案になるわけです。
(図82)
  そして、造船所のドックとか赤レンガ倉庫は残していくということになるわけです。
(図83)
  計画は、こういうふうに変化していきました。大きな水際線緑地があちこち出てくるわけです。
(図84)
  これは、ランドマークタワー等が建ち始めた状態ですね。
(図85)
  これは三菱地所さんに残していただいたドックヤード(旧2号ドック)。この石積みの後ろは、レストランになっています。これは、一度解体して組み立て直したものです。そして、現在は重要文化財に指定されています。文化庁も文化財指定に非常に柔軟になってきまして、昔だったらこんな石積みに窓を空けるといったことは、まかりならぬということだったんですけれども、やはり使いながら残すことが大事だということで、こういうことも評価するようになってきている。
(図86)
  そして、これは市の方で水際公園として残した1号ドックの例です。
(図87)
  これが、「みなとみらい」の陸側から海に向かって下って行くスカイラインです。このスカイラインは2004年度の建築学会業績賞を受けました。そういう中で、こういった新しいプロムナードづくりも行っているわけです。
(図88)
  「みなとみらい」が、どちらかというと超高層地区だとすると、それに比べて新港地区というのは低層の街に育てます。
(図89)
  「みなとみらい」が300mから、こういったスカイラインを採っているのに対して、新港地区は45m以下。色も「みなとみらい」はモダンで白っぽいデザイン、こちらは赤レンガ倉庫と調和するブラウン系となっています。
(図90)
  最終的に2棟の赤レンガ倉庫は横浜市として国から取得することとなりました。
(図91)
  これは補修工事をしているところ。これも補修、保存の時は村松先生にお世話になっています。
(図92)
  そして、こういった保存がなされるわけですけれども、ここについては事業は港湾局の事業で、活用設計は新居千秋さんが担当しました。基本的に、保存された赤レンガ倉庫の外壁に何もつけない。ガラスボックスを間口全体の長さの半分だけ付ける。こういった庇も内側に付けたままということで、ちょっと上を見ると、昔の姿がそのままということです。総合的なデザイン調整は、私にやらせていただきました。こういうことで、赤レンガ倉庫は観光客も非常に多い施設に生まれ変わっております。赤レンガ倉庫を中心とした歴史の道、といったものもプロムナードとしてできました。
(図93)
  これは昔、鉄道貨物線で使っていた施設です。市が取得しました。こういった錆付いていたトラス橋ですけれども、もう一回造船所に持っていって錆びを落としました。これは実はアメリカン・ブリッジ・カンパニーというアメリカの会社が造って持ってきたもので、これをもう一回再利用しました。これは2つあります。これは別のトラス橋でイギリス系の橋です。
(図94)
  土木遺産も見せながら歩ける道を造る。そして線路がずっと続く。その先にあるビル(ナビオス横浜)にはちょっとトンネルをあけていただいて、赤レンガ方向へ行きやすくするということも、ガイドラインを作って、お願いしてきたわけです。
(図95)
  線路は一部残す。この辺は、色合いをブラウン系にしております。
(図96) 
  そして、向こうに赤レンガが見える。振り返ると、「みなとみらい」が見えるという演出も結果的にできた、ということになっております。
(図97)
  土木遺産も小さな歴史資産も一緒に合わせて見せることによって、歴史の厚みを感じさせる。昔の税関の跡、こういったものをランドスケープに取り入れて説明をつける。横浜は、何せ150年しかない歴史ですから、少ない歴史を分厚く見せるということをしないと、京都なんかにはとてもかないませんので、そういう戦略も必要でした。
(図98)
  こういったクレーンなんかも、産業遺構として見せる。
(図99)
  開港の道・プロムナードは水際線3.5キロを歩いて楽しめる道です。
(図100)
  桜木町から、汽車道を行く。そして赤レンガの所まで行く。赤レンガの周りを、是非歩いていただきたい。ここら辺の臨港線を通って山下公園に至る。ちょっと降りますと、大桟橋に行くことができます。
(図101)
  これが山下公園です。大桟橋は国際客船ターミナル、コンペで、アレハンドロ・Z・ポロ、ファッシド・ムサヴィという2人の、コンペ当時30代の建築家による設計です。大きな丘を造ったという感じです。
(図102)
  大桟橋上部から見た「みなとみらい」です。過去と未来、そういうものが重なり合う街ということを演出してきたつもりです。
(図103)
  そして山下公園。山下公園から、世界の広場という駐車場屋上広場を通って人形の家にまたぐ橋(ポーリン橋)です。
(図104)
  そして、フランス橋を渡ります。いろんなデザイナーに加わっていただいております。そして港の見える丘に行く。3.5キロの、途中に横断歩道がわずか2カ所だけの道が、ずっと続くということになっています。ウォーターフロント地区の魅力ができてきました。
(図105)
  開港のシンボルとして、縦の軸というのがありまして、それが日本大通りです。これは大正期の通りです。現在、こういう建物が残っておりましたので、これをできるだけ活用しようとしました。
(図106)
  これは、歴史的建造物を活用した情報文化センターですが、設計プロポーザル等を行いました。日建設計の設計です。明治期の建物の三井物産ビルです。日本で最初の鉄筋コンクリートの事務所ビルと言われております。
(図107)
  裁判所も、国に復元保存していただきました。新しい建物は、後ろに高層で建てました。
(図108)
  だだっ広い車道だったものを、昔のように広い歩道に変えて、もう少し楽しめる、カフェテラスのあるような通りにして行こう。これは、高秀市長の時代に実施しました。地下の200台の公共駐車場の工事。その後の原形復旧工事。復旧工事と合わせて整備しました。工事が発生しますと、それを無駄にしないでやる。
(図109)
  この下に地下の駐車場があって、本当は、ここにセンターランプの計画がありました。八重洲みたいに、真ん中からスロープで入って行くという計画だった。それをやると、ここは雰囲気が悪くなるので、実は駐車場に入る位置はこの脇にして下さいと、計画を変更してもらった。道路局には、強引にお願いしました。センターランプにすると歩道を広げられないですね。進入口はこちら、外に出るのはこちら、ということで計画を変更しました。中でグルグル回せる機械式で、200台がここに入っています。
  歩道整備も、国の補助事業として行っております。
(図110)
  カフェテラスの実験も行いました。昨年度からは国の社会実験にも認定され、長期間、4カ月間のオープンカフェの事業を始めています。今年も既に実験を始めております。是非行って下さい。
(図111)
  そして、これからはこの日本大通りの突き当たりの所にあります場所、象の鼻地区と言うんですけれども、ここの整備が課題になっております。先程の開港の道・プロムナードは、こういうふうに象の鼻地区を横切って通ってきているわけです。象の鼻地区は、日本大通りとプロムナードの結節点。ここは、横浜港の発祥の地でもあります。
(図112)
  この地区の再整備を、2009年には少し目処を立てようということになっています。横浜村から波止場ができて、そして大桟橋ができた。この時の波止場の形が象さんの鼻のようだ、ということで象の鼻地区と言われています。
(図113)
  いろんな変遷をしてきた明治期の象の鼻に、もう一回復元しようという計画も持っております。
(図114)
  昔の明治期の写真ですね。
(図115)
  この突き当たりにあるわけです。現在あるこの倉庫を移転してもらって、港が日本大通りの先に見える広場にしよう。行き交う船が町から見えるということにしようということで、今計画を進めております。
(図116)
  国の土地が大半でもありますので、再整備には国との交渉ということも経ながらやっていかなきゃならないわけですけれども、ようやくその検討を始めているところでございます。
(図117)
  上から見ると、こういうふうになっている。この辺が象の鼻地区ですね。
(図118)
  象の鼻の一部はここに残っている。関東大震災で壊れ、造り直しているもので、本当の象の鼻はもっと幅が広いんですね。どういった状態に復元するかということも含めて、まだ検討中であります。
(図119)
  外側には、震災復興期のスクラッチタイルの街が並んでいる。この辺の雰囲気は残したいと思っています。
(図120)
  真上から見ると、こういう感じですね。
(図121)
  赤レンガ倉庫、大桟橋とセットになって、新しい価値を作っていきたい。
(図123)
  これが、開港の道と言われる道です。
(図124)
  これからまた、もう1つ重要になってくるのは、北仲通り地区というところで、これは国の合同庁舎ですが、それ以外の所は、この辺は昔の生糸倉庫があった所です。この地区は、民間ディベロッパー等が所有しておりますし、都市機構が一部持っていたりするわけです。こういうところの再整備が、これから始まります。ここで業務、文化、商業、住宅そういったものを含めたコンプレックスな街ができるということが検討されていますが、歴史的建造物も一部残していただきたいと、横浜市としては申し入れをしていて、これから調整が始まります。
(図125)
  また、こういった護岸の一部もちゃんと残せないか、ということもお願いしております。

7.現在(中田市長時代)の新展開

(図126)
  そういう中で、中田市長になってから、もう一回街や建築物の使い方を考え、街を活性化させようというプロジェクトが始まっております。これが文化芸術・観光振興による都心活性化プロジェクトで、専用の文化芸術創造事業本部というものもできました。それは2年間の暫定的な組織で、今年4月また新たに組織変えして、スタートしております。
(図128)
  横浜市が残してきた建物。残したのはいいけれども、使い方が余りうまくないと中田市長からも指摘された。もっと民間に使ってもらおう。そういう中で、文化芸術という視点から民間の団体に運営を任せるという試みをやっています。富士銀行と第一銀行、いずれも1929年に建設されたこの建物を、民間の団体を募集して、その中から2チームが「BankART1929」として運営することになりました。1つは、「PHスタジオ」という立体彫刻系アートをベースにしたチーム、それからもう1つは、横浜の演劇を中心とした「STスポット」というチーム、その2つのチームが組んで、2年間運営してもらう。ところが、途中で芸大の映像学科がここに入るという話が生まれ、活動の場を別に移転する、そういうことも出てきました。
(図129)
  現在、ここ(旧富士銀行)には、芸大の北野武専攻長のもとに映像学科が来ております。それから、この(旧第1銀行)ビルと日本郵船さんから借りた倉庫にBankARTのチームが入っております。
  この試みは暫定的ですから、いつまで続くかわかりませんけれども、こういったことが、先程のビルやこれから開発される地区の中でもやられています。地区内の歴史的建造物は、実は一部ある民間ディベロッパーが持っているんですけれども、歴史的建造物の一部を民間の建築家とかデザイナーに1年半のスケジュールで貸している。そういった文化の拠点みたいなところを横浜市の路線に合わせてやっていこうという動きも民間サイドがやってくれております。
(図130)
  現在、こういった地域を含めて「ナショナルアートパーク構想」という言い方をしております。
(図131)
  みなとみらい線は、鉄道会社がやるんですけれども、デザインプロデュースに私も協力をさせてもらって、それぞれ建築家に加わってもらいました。みなとみらい駅は早川邦彦さん、馬車道駅は内藤廣さん、元町・中華街駅は伊東豊雄さんという感じで、駅全て設計者が違う。そして、地上の雰囲気を地下で感じる。馬車道、レンガの街はレンガの雰囲気、元町の雰囲気、みなとみらいの雰囲気、そういったものを感じるような工夫も行っています。地上の施設もみんな違う。県庁の前は県庁の雰囲気と合わせて造っている。パターン化しないということもトライしてもらいました。
(図132)
  最近は、広告つきバス停という事業も行っています。サイン整備。
(図133)
  ストリートファーニチャー整備はずっとやってきて、きれいなものを作ったんですけれども、実際メンテナンスをしないものですから、汚い。ポリカーボネート板か何か使っていて、スプレーをかけられて、それで終わっちゃうんですね。交通局が維持管理しているんですけれども、維持管理の費用がないとこうなる。
  2年前に、国の国交省の方から道路の占用の規則が変わって、広告物の費用によって施設を造って、維持管理するということであれば、広告物を入れてもいいという新しい制度ができた。これは、フランスなど海外でやられていることを、バス停に限ってやってもいいということになった。それを受けて、横浜市として積極的にこれに取り組もうということで、都市デザイン室が中間に入って進めています。
(図134)
  横浜市がまず事業募集して、事業者、MCDecauというところがやっているわけです。これはJCDecauというフランスの会社の日本法人で、三菱が一緒に入って合同で作った会社です。それで、ここがスポンサーをとって、広告つきバス停を造るわけです。これで広告を掲出し、設置し、維持管理もする。
  横浜市は、これに対して事業者として契約を結ぶ。それから、横浜市は道路占用料を道路局として取る。広告審査を行う。広告審査には都市デザイン室も入る、そういう仕組みです。広告は2週間サイクルで変わっていきます。
(図135)
  夜は光るわけです。
(図136)
  すごく長いタイプのものも、郊外の駅なんかに出てきたりしています。こんなものが、現在100基弱ぐらい今年度中に設置される予定です。
(図137)
  その他、街なみ景観づくりですが、協議型まちづくりで、いろんな工夫をやってきましたけれども、協議には応じない、という事業者も中には出てきたりしました。地元が何とか街で作ってきたルールを守ってもらおうということで、急遽、地区計画というものを取り入れて、今までルールで作ってきたものを、地区計画を用いて対応するといった最近の状況もあります。
(図138)
  また、地元の中華街などでは、ある事業者がマンション用地として買うわけですけれども、中華街としてはマンションが出てきては困る。何故かというと、中華街の場合イベントなどをたくさんやって、爆竹を鳴らしたりして中華街独自の雰囲気を作っているわけです。居住者が出てくると、最初はいいんですが、そのうち、うるさい音は住みにくいからやめてくれ、とかいうことになってきて、どうしてもそちらの影響を受けざるを得ない。最初は「中華街いいね」と言っていても、だんだん「うるさい」と言って、お祭もできなくなってくる。あるいは中華街の匂いはまずいとか、そういうふうになっては困るという、そんな話も出てくる。
  そういう将来の危機を防止するために、中華街が自分たちで、ディベロッパーからこの土地を15億円ぐらいで買うんです。あと5億ぐらい出して廟を建設しようということです。つまり、悪くなってからではどうしようもない。市は、住宅計画を抑えることはできないわけです。ディベロッパーとしても、そんなルールが別にあったわけじゃない。結局、事業者との交渉の中で、事業者も悪いわけではなくて、結局しようがないと中華街が借金して土地を買って、環境を守っていこうということをします。これなんか凄いですね。1人1000万ぐらい出したという人もいました。そんなことも最近の状況です。中心部に、みなとみらい線が出てきたものですから、高層マンションがどんどん出てくるということで、活況を喜ぶ一方、景観の懸念も出てきています。
(図139)
  住宅は一切だめというんじゃなくて、やっぱり中心部の住宅のあり方はあるんじゃないかということで、そういうことをもう一回整理しようということです。MM線に沿って、こういった高層マンションがどんどん出てきた。
(図140)
  これがバラバラのデザインになって、街としてなかなか魅力的にならない。
(図141) 
  遠方から見ても、こういう街だったのが背景にこういうのが出てきてしまった。
(図142)
  この辺の制度をいろいろ検討しようということで、ある地区では住宅を禁止する区域を指定して、建物の高さ、形を整理するルールを作りました。用途誘導型地区計画とか、こういったことを行ったりしております。
(図143)
  新しい、いろいろなまちづくりの制度に取り組んでいるわけです。
(図144)
  景観法もうまく活用しながら、横浜型の景観制度を作ろうということで今進めております。2月に条例は通りましたので、これから具体的に地域ごとのルールを作っていくということになります。
(図145)
  話すと長くなりますが、いろいろな地域ごとのルール、景観法を用いたルールと、独自の条例と組み合わせた工夫をして行こうということを行っております。
(図146)
  ここまでですが、「みなとみらい」の最近の状況をちょっとご説明しました。私が深く関わっているわけじゃないんですが、デザイン的な面から「みなとみらい」がどうなってきたか、他の課のスライドを借りてきたものをお見せします。
(図147)
  現在こうなっているわけです。ご承知のように、造船所とか鉄道ヤードだったところを再整備した。いろんな歴史があるわけです。
(図148)
  1965年、これからスタートした。
(図149)
  最近の2002年になると、赤レンガパークができてきた。
(図150)
  来街者が非常に多くなりました。年間5000万人ぐらいの人が来ている。
(図151)
  ここでは、横浜市は企業立地等の促進特定地域という優遇制度を作っています。固定資産税など、いろいろな税金面で優遇するようなシステムを取り入れて、企業の中枢部にできるだけ来ていただく、ということを進めております。
(図152)
  そういう中で、デザインという側面については、先程申しましたスカイラインを作っていく。こんなに上まではいかないんですけれども、大体300メートルから、こういうふうになっていく。そういうものを階段状に造っていく。地区計画あるいはまちづくり基本協定等で、こういったことを進めていく。
(図153)
  それから、都市軸としてのモール、歩行者空間ですね。建物の敷地内部を通る、クイーン軸とかグランモール。公共空間であったり、建物の中だったり、いろんなものの組み合わせで立体的に造っていきたい。
(図154)
  これはクイーン軸、そして、これがグランモール軸。これから造っていくキング軸。キング、クイーン、ジャックというのが横浜の歴史的建造物の愛称です。
(図155)
  ベイブリッジがここにある。ペディストリアンのネットワークが、いろんな形で入ってくるわけです。そして立体的につながっていく。スカイウォークのシステムですね。
(図156)
  これは、都市機構と株式会社みなとみらいというプロデュースする会社、横浜市都市機構、三菱地所等が出資した会社が作られ運営しております。
(図157)
  最近は、キング軸の整備がどんどん進むようになってきまして、横浜駅から埠頭駅ができましたので、この辺りが整備の中心になってきております。東口ペディストリアンデッキというのが、ここに、これからかかります。
(図158)
  開発としては、このあたりに集中的にいろんな事業が行われるわけです。2005年7月現在、例えば、みなとみらいビジネススクエア33階建てです。
(図159)
  それから、GENTO横浜。11街区。これは新港地区ですけれども、万葉倶楽部。MMタワー、これは住宅ですね。それから、セガのエンターテインメント施設がこのあたりに来ます。それから日産の本社が参ります。
(図160)
  もう1つ、このあたりはサッカーフィールドができます。マリノスが練習するサッカーフィールドが、この辺りにできます。
(図161)
  このあたりには映像文化の拠点などを造る構想もあります。
(図162)
  新しく、中田市政になって始めた事業です。これまでの横浜の様々な空間資産を活用し、活力に生かしていく、もっと積極的なやり方はないかということで始まったものです。
(図163)
  これは横浜の紹介です。人口は東京に次ぐ全国第2位。都市デザインに先駆的に取り組んできた。歴史的建造物が多く残る。その中で、創造的活動の広がりを推進し、これを街の活力につなげていこう。
(図164)
  2002年に、中田市長になってから、文化芸術・観光振興による都心部活性化検討委員会ができました。2004年4月に、文化芸術都市創造事業本部が設置された。今年は、これが改組されまして、開港150周年創造都市事業本部となって、組織として展開しております。我々都市デザイン室は、こことも連携して、サポートしています。
(図165)
  「クリエイティブシティ横浜」の目標として、アーチスト・クリエイターが住みたくなる創造環境を目指しています。創造産業の集積による経済活性化を図る。魅力ある地域資源の活用、市民が主導する文化芸術創造都市づくり、といったことを目標にしております。
  お手元にも白黒コピーで「Creative City of Art and Culture Map」を配布しておりますが、そういった拠点として馬車道辺り、大桟橋の基部が一番重要な所です。山下埠頭辺りから日本大通り周辺、幾つかの拠点を設けて、これから取り組んでいきます。
(図166) 
  今出されている構想としては「ナショナルアートパーク構想」があります。映像文化都市として、芸大を初め、映像産業が集積するようなことを工夫していこう。横浜トリエンナーレというものを定期的に行っていますが、こういうことを軸に、これからも展開していきます。
(図167)
  「ナショナルアートパーク構想」としては、今以上に親しまれる場にということで、文化芸術の積極的な誘導による創造的産業の育成や観光資源の発掘により、街の魅力を高めるということを行います。
(図168)
  場所としては、先程の日本大通り、象の鼻地区、馬車道周辺、そしてクイーンズ周辺、そしてポートサイド。先程の北仲地区の再整備。もうちょっと先に、山下埠頭の再整備というものも入ってきます。
(図169)
  先程と同じ写真ですけれども、象の鼻地区。ここで、これから事業展開していきたい。2009年には広場、港湾緑地を中心とした整備を進めていきたい。その中に、文化芸術の発信拠点も造ることを今検討している最中です。
(図170)
  それから、民間の倉庫等をお借りして創造界隈といった地区を造ります。これは万国橋倉庫ですけれども、この中にクリエーターがどんどん入って、クリエーターのアトリエになっています。こういった、文化芸術の方向での用途転換、コンバージョンを横浜市として進めています。
(図171)
  これは、国の建物でしたが、文化芸術の拠点として、又、歴史資産として横浜市が購入しました。日本大通りにある建物です。これから使っていこうというものです。先程お話ししました第一銀行と富士銀行です。
(図172)
  今お話しした元町です。
(図173)
  映像文化都市です。
(図174)
  既に芸大が入っている旧富士銀行の中です。
(図175)
  その他に、横浜学生映画祭。コンテンツ産業、ナショナルアートパークとして、こういったものを誘致していくことを進めようとしております。
(図176)
  これは、山下埠頭の倉庫を舞台にした横浜トリエンナーレです。2回目です。
(図177)
  横浜の面白いのは、ずっと同じ場所でやるのではなくて、これから整備するような街にどんどん移って行く。トリエンナーレを通じて、街のイメージを作っていくということで、会場が年によって違う。そういうことが特色ですね。
(図178)
  国際交流のプロジェクトも進めております。アーチスト・イン・レジデンスと言ったことも、幾つかの都市と連携しながら少し始めております。
  長くなりましたが、これで終わりたいと思います。(拍手)

 

フリーディスカッション

與謝野 ありがとうございました。
  都市の魅力づくりについての貴重な知見の数々を、横浜市でのまちづくりの歴史的な軌跡を丁寧にたどりながら、実践体験を交えてご紹介され、誠に生き生きとした充実した内容とともにお話をいただきました。ありがとうございました。
  質問の時間が余りございませんが、折角でございますから、この場でのご質問を二三頂ければと思います。
三橋((有)シーエルシー) 私は商業コンサルタントの三橋と申しますが、「都市デザイン室」についてお伺いしたいと思います。
  都市デザイン室という名称はなくなって、整備局になったのかということが1つ。
  それから、都市デザイン室的な組織を持っている日本の自治体は幾つぐらいあるか、もしわかったら教えていただきたい。そういうセクションは、海外では一般的にどうなのか。日本は、縦割りでいくことが多いんですが、まちづくりの場は横の連携で重要なところなので、そういう面から見て、海外では当たり前なのか。それとも、どうなのか。
  それから、情報の入手。建築確認が上がってきたから、それで検討するのか、あるいはデザイン室の方が歩いて、この建物はこうしなきゃいけないなという形でオーナーの方に話をするのか。要は、対象の情報の入手の方法です。
  それから、最終的な都市デザインの決定の仕方。決定権限者は誰なのか。これは、官製的なものだけに難しいと思うんです。客観的な基準がなかなか見つけられないと思うので、その4点を合わせて教えていただきたいと思います。
国吉 非常に盛りだくさんですが、組織としての「都市デザイン室」は、現在もしっかり活動しています。都市デザイン室というのが、実は役所でいうと課なんです。私の今の立場は専門の部長ですから、局に直接属して、都市デザイン室長の脇で室長を支える部長級のポジションの人間がいるということで、都市デザイン室に机を置いて活動しています。
  昭和46年には都市デザイン担当というのができまして、チームができた。57年に都市デザイン室となっております。現在もずっと続いている。
  こういった名前のある都市は他にもあるかということで、あった都市もあるし、一度横浜と同じようなことをやろうということで、都市デザイン室という名前をつけて、できてしばらく経ってなくなったとか、そういう所はたくさんあります。まだ続いているところもあります。都市デザイン室とは言わないけれども、都市美デザイン室とか、都市デザイン課ということも含めると、政令指定都市にかなりあります。小さな都市でもあります。
  世田谷区なんかも、かなり早い時期、横浜より10年ぐらい遅れて都市デザイン室を作りました。神戸は、当初は都市景観室、途中からアーバンデザイン室といった。5年程前に、神戸も都市デザイン行政を頑張っているんですが、神戸の場合は震災後の復興がまだ大変なものですから、地域の支援をするということで都市デザインをやっていた人たちもそこに入って、まちづくり支援室となっています。主体的なデザイン志向のプロデュースをするというのは、神戸は今ストップしているという状態です。それから、政令指定都市で、都市デザインという名前、都市美、都市景観デザイン、そういうところはあります。
  ただ、私は自己紹介しましたけれども、どちらかというと、役人タイプではなかったんです。普通の公務員試験を受けてという人間じゃなくて、建築のデザインをやってきたんだけれども、ちょっといさせてくださいよという感じで入ったものですから、もともとデザイン志向の強い人間で、学生時代にコンペに応募したり、幾つか入賞したり、そういうところにいた人間なのです。自分としてもある程度デザインはできる人間だと思っているわけです。ですから、外の設計者の方に対しても、デザインで一応対等に議論させていただけるという自信を持っているわけです。ところが、一般に建築界の高名な方々は、役人がデザインのことを言うと、「おまえらにわかるもんか。おまえら何言っているんだ」みたいな感じで、デザインの能力がないという前提で、食ってかかられることもあるわけです。それに対して、対等に一応議論させていただくということをやってきているわけです。
そういう人間を、市役所は余り揃えていないと言いますか、試験が難しいので、デザインのできる人間は公務員試験がなかなか受からないんですね。法律から何から結構難しくて、私も今受けたら、とても入らないと思います。
けれども、そういう中にいるから情報を得て初めて組み立てられることがある。横浜市は一定の成果を出してきたので、こういう機能があってもいいかということでいるわけです。他都市の場合は、そういう人がいても長くいれない。大体3年ぐらいで交代するわけです。日本の役所というのは専門家を育てない。オールマイティ、全てにわかる人がいいということで、特定の領域の専門家を育てない。
各都市にデザイン室という名の部署はあるんですが、専門家をどれだけ擁しているかというと、そうではない。それが一番違うところかなと思います。
横浜市の場合は、最初の頃、先程のボストン帰りの岩崎さんを初め、設計事務所にいた人が入ってくるとか、田村明さんの時代の私のような入り方をしてきた人がいたわけです。そういう人たちが中核となって、役所の中にデザインコンサルタント的なチームがあるという感じで機能していたわけです。その後、採用の仕方もノーマルになってきて、普通の試験を受けて入ってくる人だけになってきた。岩崎さんみたいな方がお辞めになってくると、私が辞めたらこういった活動が消えてしまう雰囲気になってきて、そういう専門家を内部にどうやって抱えるかということが課題になっているぐらいです。
そういう意味では、横浜市のような専門家を置いたチームという組織はなかなかないと思います。
  情報の入手は、形式を作っても絶対入ってきません。こういった情報を入れなさいと決めても絶対情報は来ないんです。ですから、個人的なパイプをたくさん作っていくしかないということです。信頼されるということです。
  私が説明したプロジェクトの中で、道路局が設計してきたプロジェクトを、私が変えてしまったものもあるわけです。それで一時喧嘩になるわけですが、その後、成果がうまくいって仲直りするわけです。「あいつに初めに言っておいた方が良いから、流しておこう」とか、そういうことで早目に情報を流してくれる人もいますし、上司は情報を出してくれなかったんですが、担当者が疑問を感じて私に情報を持ってきたりすることもありました。
  だから、何かシステムを作ればそうなるという問題ではないと思います。いい情報を得るためには、いろんな工夫をしておかないとだめなんじゃないか。
  それから、まちづくりは、ヨーロッパとアメリカではまた違うんですが、ヨーロッパ都市でよく私が聞いておりますのは、都市計画委員会みたいなのが独立してあって、市長が替わっても、その委員会は継続して行くみたいなシステムがあるようです。ヨーロッパの場合は、同じシステムをずっと都市計画の領域では継続していくようなところが多い。ところが、アメリカの場合は、政権や市長が替わると、都市計画局長もみんな替わって、都市デザインチームが誕生したり消えたりということはよくある。アメリカ型はヨーロッパ型と違うんですが、アメリカの都市でも都市デザインに力を入れている都市、サンフランシスコとかボストン、バンクーバーもあります。それぞれどういうところにコンセプトを強くするかで違うんですけれども、アーバンデザインみたいなことをほとんどやってない都市もあったり、街によって違います。
  結局、アメリカの自治体と日本の自治体の作り方が違うんですね。自治法に基づいてみんな均一に自治を担うシステムと、アメリカ都市のシステムは自立していますから、それは違うということが言えるかと思います。
與謝野 先程のご質問の中には、いま1つありまして、これは私も大変関心を持ってお聞きしていたことです。要するに、建築なり街並みなりのデザインの申請をして来られた際に、デザインの決定権限がどこにあって実施されたのか、それは市役所の機構における国吉さんの立場にも関わることですが、それが市長直属なのか、あるいは総務部ほかのどこかの部門に、非常に超法規的に権限が与えられている立場に国吉さんが置かれて実施されたのか、そうでないのか、というあたりのご質問についてのお答えが残っています。この点については、本日の国吉さんのご講演をお聞きになったこの会場の皆さんが大変関心強く持たれたこととも思いますので、その点についての補足説明をしていただければ幸いです。
国吉先生 基本的にはスタートの時は、都市デザイン室は、私も含めた何人かのコンセプトでスタートしておりますが、これをずっと続けるわけにいきませんので、法律にはなっていませんが、地域ごとの基本的なコンセプトや、こういうことでやっていきますよというルールがあります。まちづくりのガイドライン、協議の指針みたいなもの。この地域は、こういうことをベースに大事にしていきましょうとか、歩行空間としてこういうことです。
  ただ、そこに書かれているものが、微妙で、建物にテントみたいなものをつけるという場合、これは本当にそれでいいのかどうかという細かいのがあるわけですね。そういう時に、どうだろうということを担当の窓口の人たちが都市デザイン室のスタッフに相談を持ってくる。都市デザイン室のスタッフが判断できない場合、私に意見を聞いたりする。それで、「これはちょっとまずいんじゃないだろうか。私としてはこう思う。こういって相手にぶつけて欲しい」というふうに希望を申し出る。そういうことでやりますが、それはあくまでも「そうしろ」ということじゃなく、希望として言う分と、スタンダードでこの辺までとか、その微妙なところは、相手がどれだけそれを受け入れてくれるかによるということです。でも、非常に大きなものについては意見を言える機会は非常に多い。
  市長の評価も、場合によって違っていて、高秀さんの最後の頃には、日建設計さんにもお手伝いしていただいたパシフィコの拡張の工事があって、その脇にアネックスを作ろうとしたんですが、そのアネックスの計画を経済局長と港湾局長が市長に説明した時に、「この形は何でこんな形をしているんだ」となり、両局長とも説明ができなかった。「君らはちゃんと景観を考えてないんじゃないか。都市デザイン室等に加わってもらって、ちゃんと検討してこい。納得いかない説明がないと、私は判は押さない」と市長が言った。それで、両局長が「何とかしてくれ」ということで、「余り金のかからない良い案を作ってくれ」と頼まれたこともありました。
  そういうことで、日建設計さんにも協力いただいて、5案ぐらい作って、アネックスの部分を模型を5種類つけて、市長のところに持っていったところ、「それだけ、都市デザイン室も含めて自分たちでも考えてきたんだったら、もういいから、任せる。判断は任せる」ということになった。そういった例もあります。
  物によって、どこまでデザイン決定にかかわれるかというのは違いますね。
松井(松井一事務所) 横浜市民で、松井一事務所を定年退職後やっております。
  都市デザインの話をされる時に、後の維持管理のお話が当初にされているかどうかということが非常に気にかかります。レンガ色とかブラウン系のものを使っている分には何も構わないんですけれども、白系の色を使ったものが「みなとみらい」地区その他にもあり、維持管理がうまくいってなくて、汚れが目立つ。こういったデザインと汚れとか維持管理の点、デザイン室ではどのように関わっておられるのか、ちょっと伺いたいと思います。
  今日の議題から離れますけれども、港北ニュータウンの新しい外資系の工場の外装も、当初はデザインに非常に配慮されたものができていながら、汚れがそのまま残っていて醜いのが、高速道路を走っていて見られたりして、そこら辺ちょっと気になるものですから、当初計画時にどんなご指導しておられるか、ちょっとお伺いしたいと思います。
国吉 維持管理に関しては、メンテナンスが重要だと思います。ただ、当初は、地域ごとの個性を作るというコンセプトでトライして行こう、都市基盤整備公団さんなんかにも地域で目標を作ろうよと言って一緒に作ってきたという経緯があります。
  例えば、街灯なんかも歩行者用の街灯を作ろうよということで、地域ごとの個性的なものを作ったり、サインなんかも全部そういうふうにしてきたわけです。メンテナンスということを考えた時に、それぞれの施設でどういうふうに白を保つか、それは私としては非常に答えにくいんですが、本当に白がメンテナンスできない色であれば、世の中に流布しない。メンテナンスできるような白の素材があるんではないか、と思うんです。それよりも、最近、一番気を使っているのは、余りデザインし過ぎないと言いますか、そういうのが大事であって、歩道のデザインとかに斜めのストライプを入れたり、いろんな案が出てきた時に、できるだけそういうのは避けよう。デザインとしてのメンテナンスを大事にしよう、と言うことにしています。
  つまり、街の中って、何が新たに加わってくるかわからない。縦の黄色い誘導ブロックが入ってくる可能性があるわけです。今は違うけれども、公共施設が近くに来ると、その近くに誘導ブロックが入ってくるかもしれない。そうすると、縦にすっと入るじゃないですか。そこに丸い線とか波形のデザインの歩道なんか造っていると、デザインはめちゃくちゃになるわけです。ですから、いろんな新しい要素が入ってくる時に、崩れないように、余り複雑なデザインは避けた方がいい、シンプルにしよう。その方がデザインとして長もちするんじゃないか、とか考えてやっています。
  あるいは地図板、サインも作るわけですけれども、結局道路局に作ってもらうと、1回作ったきりなわけです。そうすると、関内に来ても、今ある施設が入ってないとか出てきます。それは、道路局が道路施設として作ると、道路、公園、公共建築しか描けないという原則があるんです。それでは案内板としてまずいだろうということで、2000年に作った時は、観光施設としてのサインを作った。横浜市の観光コンベンションビューローという財団が、観光マップを作って張っているわけです。毎年それを更新する。道路局は地図板を作る時に、それを観光コンベンションビューローに提供するということにしましょう。道路局は作らない。観光コンベンションビューローが、そこに毎年新しい地図を張るということにして、観光コンベンションビューローの所管の地図板と道路局の所管が情報で同じになるようにしておくわけです。
  道路局が作れないのであれば、もっと作りやすいところが作る。観光コンベンションビューローであれば、ホテルとか観光施設、民間施設を入れる。来街者にとってはそちらの方がいいわけで、それを共通にしよう。そういう仕組みを庁内調整して作りました。このように、デザインとかメンテナンスを、余り複雑なものにしない、いろんな局でやっている物を共同で使うようにするなどを仕掛けておりますし、街灯なんかも、歩行者用の街灯もたくさんいろんな種類のものを作らない。幾つか絞って整理をしたりもしております。そんな状況です。
與謝野 ありがとうございました。
  それでは、時間が少し延長致しましたが、ご熱心な質問も頂きありがとうございました。これで本日のフォーラムを締めたいと思います。今日は街並みづくりの実践的な生き生きとした示唆深いお話を豊富にお聞きできたかと思います。皆さんの日頃のお仕事に役立てていただければ主催者としては幸いであります。
  それでは、最後に国吉直行さんの今後のご活躍と本日の貴重なご講演を頂いたお礼の気持ちを込めて、盛大な拍手をお贈り頂きたいと存じます。(拍手)。
  ありがとうございました。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

 


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

 


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