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第222回都市経営フォーラム

『東・東南アジアから日本の都市景観と歴史的まちづくりを考える』

講師:  伊東 孝氏 日本大学理工学部社会交通工学科教授

日付:2006年6月15日(木)
場所:日本教育会館



1.上海の街並みと水郷鎮の町並み

.ベトナムの近代橋梁

3.カンボジア:アンコール・ワットの修復オリンピック

4.ODAと歴史遺産

フリーディスカッション



 

 

 

 

 


 
 
東・東南アジアから日本の都市景観と
歴史的まちづくりを考える

與謝野 それでは、本日の第222回目のフォーラムを開催いたします。
  本日の講師には、土木分野と都市計画分野の両分野に深く通暁されておられます日本大学理工学部社会工学科教授の伊東孝先生にお越しいただいております。
  伊東先生のプロフィールにつきましては、お手元の資料のとおりでございますが、1945年生まれで、都市計画、景観工学、土木史の分野の専門家でいらっしゃいまして、実に広範囲の分野にわたる著書を多く手がけられておられます。
  また、市民運動にも積極的に参画されておられまして、今日の朝日新聞に紹介されておりましたが、「勝鬨橋を上げる会」のNPO法人代表でもあられます。
  本日の演題は、前に掲げておりますように、「東・東南アジアから日本の都市景観と歴史的まちづくりを考える」と題されまして、都市景観と土木史の両方の観点からアジアの街並みを改めて見詰め、とりわけ、それぞれの国土における「橋」の歴史という視点からの考察なども紹介しながら、日本の都市の景観上の問題に対する貴重な示唆深いお話がお聞きできるものと楽しみにしております。
  それでは、伊東先生、よろしくお願いいたします。(拍手)

伊東 皆さん、こんにちは。今ご紹介いただきました伊東です。
  配布資料に私の所属が日本大学理工学部社会工学科となっていますが、これは下の方の履歴の中間にあるように社会交通工学科ですので、よろしくお願いいたします。この社会交通工学科というのは、なかなか全国にないものですから、うちの学科で、紹介する時はちゃんと社会交通を紹介するようにといつも言われているものですから、宣伝を含めてちょっと紹介をさせていただきます。
  今日は、東・東南アジアから歴史的な町並みとか都市景観を考えたいと思っています。レジュメに1、2、3、4、5とあるんですが、スライドをいろいろ準備していましたら、結構多くなってしまいまして、時間が足りなくなるので、2の「中国東北地方の近代土木遺産」、これはスライドの方は省かせていただきました。
  1は、最初の導入部ということで、メインはベトナムの近代橋梁と、カンボジア、アンコールワットのお話をしてみたいなと思っています。
  履歴を見ていただくとわかりますように、私は、50までずっと今の言葉でいうフリーターをやっていまして、50になって初めて日大に拾っていただきました。その中で、こういった東南アジアに関わるようになったのは、うちの大学がたまたま、オープン・リサーチ・センターという文科省の助成金に通りまして、うちの大学では片桐正大先生が中心となって、こういったアジア諸国の文化遺産保護、関連機関の立ち上げとか、文化遺産の修復技術、データベースを作ろうということで、5年間調査をやられていたのがきっかけです。先週5年間分報告書ができました。今週入手しまして、まだ私は見てないんですが、こういう大部なものです。これは、昨年シンポジウムをやったんですが、カンボジア、ベトナム、ミソンなどの小冊子です。
  こういった形で私どものグループの片桐正大先生や重枝豊先生たちが、10年、20年以上やっている研究に、私がたまたま4年ぐらい前から関わらせていただきました。私はこういったことを全然語れる筋合いじゃないんですけれども、先達が非常に丁寧に教えてくれたものですから、若干見ることができるようになってきました。特に私は、土木遺産、都市計画や土木が中心なんですけれども、今回は橋を中心としながら、まちづくりをどう考えていったらいいかということと、どういったまちづくり遺産がベトナムとかカンボジアにあるのか、をお話ししたいと思います。普通ですと、町並みということで建築遺産には皆さん関心を持たれるところが多いと思いますが、いわゆる土木、インフラストラクチャーがない限り、まちづくりはできないわけです。土木というのは背景となる地の方をつくるわけですけれども、そういった土木遺産、インフラストラクチャーに着目しながら、まちづくりを展開しようということで論を立てております。
  今日は、ベトナムの橋とか、カンボジアの方もアンコールワットがありますが、アンコールに至るいろいろな橋があるものですから、その辺の話を中心に見てみたいと思います。
  前置きはこれぐらいにしまして、スライドを見てもらいたいと思います。

1.上海の街並みと水郷鎮の町並み

(図1)
  皆さん、上海には行かれたことがあると思います。東京の丸の内界隈も最近は高層ビルが沢山建っています。私も千代田区の景観審議会の委員をやっていますが、どちらかというと、街並み保存派で、昔の31メートルラインを守っていきたいなということをずっと願っていましたが、最近はそういったことはなかなかうまくいかないで、結局、高層ビル化しています。
(図2)
  この上海も、ご多分に漏れず凄く高層化しています。日本の高層ビルと上海の高層ビルを見ますと、上海はデザイン的に非常に面白い。東京の方が品があるかも知れませんが、外国人に言わせると活気があるという言い方をされる。そういう活気という面からいくと、上海は、必ずしも洗練されているとは思いませんが、形の多様性とか、夜になりますとライトアップとか建物のシルエットラインに沿って明かりがつくなど、イルミネーション効果と言いますか、その辺物凄いものがあります。
  高い建物が建っているあたりは再開発がなされたところで、道路幅員も広く、夜になると、若者たちが繰り出すような歩行者天国になっています。そういう意味ですごい活気があります。高層ビルでもこれだけ面白いものができるんだな、ということを上海に行って感じた次第です。上海は10年ぶりに行ったんですが、肝心の建物群の中のスライドがうまく見つからなかったので、対比的な新旧の街並みのスライドで上海は終わりです。
(図3)
  もう1つ、歴史的な町並みということで、これは上海近郊の朱家角というところです。中国の水郷鎮や杭州、蘇州など、あの辺には、水路や掘割のある集落や町があります。ここも10年ぶりぐらいに行ったんですが、前に行った時は傷みながらも風情のある古い建物が沢山残っていて、これがどうなるんだろうと心配しながら見ていました。一部は運河が埋め立てられて新しいビルが建っていました。
  ところが、これは昨年行ったんですが、驚いたことに、こういったところでは町並みの整備が非常に進んでおりました。丸印が書いてありますのは、これから紹介する橋です。この辺のところをずっと通りましたのでスライドで少し紹介したいと思います。
(図4)
  これは今工事中なんですけれども、こういったゲートをつくりながら、中は歩行者だけ、車は禁止。そして、場所によっては入場料を取るようなところもあります。日本の町並みでも、文化庁では重伝建地区(重要伝統的建造物群保存地区)ということで町並みの整備を行っています。中国にも同じような制度ができ、町並みの整備とか護岸の整備をしています。しかも、船を浮かべています。今から10年ぐらい前は、こういう観光船はありませんでした。護岸についても、このような整備はなされていませんでした。
(図5)
  このような観光船と言いますか、櫓こぎ船で町並みを見て回るわけです。橋の袂にこれだけの船が待っていて、これが水上タクシー代わり、ないしは観光船として個人用の船で町めぐりをするようになっているわけです。こういった形で今非常に整備されてきています。
  私は学生時代から、こういう歴史的な町並みとか土木遺産を、どのようにしたら保存できるかとか、まちづくりの中に生かせるかなということを考えていました。中国の場合には、10年ぐらい前に行った時は全然整備されてなかったのに、今回行きましたら、こんなに物凄い勢いで整備されている。そういう意味で、進歩の度合いが凄いな、実は、やばいなという感じがしています。
  それはどういったことかと言いますと、日本は情報の発信面では韓国とか中国に都市計画技術を含めて輸出していると思うんです。中国でも日本の先生方の著作物をふくめいろいろな本が翻訳されていますが、中国では、教科書に書かれていることの実践段階に入っているわけです。
  日本では、教科書や参考書には紹介されているけれども、なかなかここまで徹底してできない。もちろん国の体制の違いが大きいのですが、ソフトな都市計画じゃなくて、フィジカルプランニングという意味では、かなり先に進んでいます。それから、先程言ったような入り口でお金を取ることがいいかどうかわかりませんけれども、入場料を取りながら、それを町並みの整備資金ないしは地元の人たちの経済的な活性化の手段に使っている。そういう意味では、それなりの制度的な体制整備がなされているということです。
  キャプションを読んでいただければ、この橋の意味はわかると思います。
(図6)
  この橋の上に上っていきますと、今度は橋の向こう側を写したスライドがあります。これが対岸のところから見たものです。後ろの方にこういった高い建物が建ってしまっています。歴史的町並みの修復や整備が進んでいる一方で、橋の向こう側では、すぐそばまで高い建物が建っています。再開発されたわけですが、こういう形で保存する区域と再開発区域とを非常にはっきり分けてやっています。整備の仕方については問題があり、違和感は重々あるんですけれども、整備の度合いということまで考えると、日本より絶対進んでいるなと思います。
  皆さん、ご存じだと思いますが、ソウルでチョンゲチョン。高速道路を撤去して、水が流れるような遊歩道をつくりました。日本橋の上の高速道路を撤去しようという話題はあるんですが、いつ実現するのかわからない。韓国の場合は、話題になってから4〜5年で実現化された。都市計画に関してわれわれは、少なくとも韓国とか中国より先進国だと思っていたんですが、実はこの方面でもだんだんと遅れをとってきているのかな、と危機感を感じた次第です。

2.ベトナムの近代橋梁

 メインの話でありますベトナムの近代橋梁に、話を進めたいと思います。
  ベトナムは、ホイアンとかミソンといった世界遺産になったところはよく知られているんですが、ベトナムにも近代のものは沢山あるということが、ここ3〜4年の調査でわかってきました。日本でいうと近代化遺産になると思うんですが、日本とか中国の旧満州とか、その辺に着目して、われわれは主に研究していまして、ベトナムはわれわれに直接関係なかったということで、特に土木の方では余り目を向けない面がありました。
  ところが、今回の調査団に加わり、ベトナムの土木遺産を、橋が中心ですが、見ていきますと、結構物凄いものが残っています。というのは、ベトナムは、長い間フランスの植民地でした。フランスの影響下にあって、橋とか水利施設、もちろん街並みも一定程度残っています。特に土木の面で、当時の日本と比べると非常に優れたものが残っています。
  日本の100年前というと明治の半ばぐらいになりますが、その時期のものがベトナムにはまだ数多く残っている。ある意味では経済発展が遅れたから、という面もありますが、日本にないようなものが残っているということで、幾つか紹介したいと思います。
(図7)
  われわれの調査というのは、北から南下する形で進めました。全体的には1号線に沿って行っていますが、メインはハノイとダナン、フエ、旧サイゴンのホーチミン、その辺の橋を中心に見ていきました。
(図8)
  皆さんの資料にもお配りしていますけれども、われわれが見たのは全部で61橋あります。今回紹介しますのは、北の方で6橋、中部で14橋、南部の方で7橋紹介したいと思います。
(図9)
  これはハノイ市周辺の地図です。これからお見せする橋は、赤丸で示してあります。北は、ベトナム戦争の時にアメリカ軍にかなりやられてしまいまして、近代橋梁というのは実は余り残っていません。この辺には屋根つき橋が残っています。屋根つき橋というと、ホイアンの「日本橋」という屋根つき橋がよく知られています。今回のわれわれの調査で、ベトナムにはそれ以外に3つ、全部で4つの屋根つき橋があることがわかりました。恐らくもっとあると思います。
  ここには吊橋がありまして、メインはロン・ビエン橋です。あと、若干の橋を紹介できるかと思います。
(図10)
  これがロン・ビエン橋です。橋長は1682メートル。1682メートルというと1.6キロです。渡るだけでも25分、ゆっくり歩くと小一時間かかってしまいます。こんな長大な橋がかかっています。これが1902年の竣工です。1902年というのは明治34年。その頃の橋、100年以上も前の橋が残っていますが、日本で、この当時のものが残っているかというと、ほとんど残っていません。鉄道橋にしても、例えば、この辺ですと箱根鉄道の早川橋梁というトラスの橋がありますが、あれが移設されてはいますが、当時と同じ時代の橋です。もうちょっと前ですが、それでもスパン長、スパンというのは橋脚と橋脚の間のことを言いますが、そのスパンの長さからいうと、全然長さが足りない。ロン・ビエン橋は1682メートルで、スパン数が10ですから、スパン長だけで約170メートルぐらいある。早川橋梁というのはせいぜい70メートルぐらいです。
  橋の技術は、このスパン長をどれだけ長くするか、ということをずっと目指してきました。スパン長が長ければそれだけ橋脚の数が少なくて済みます。そういったことでスパン長をいかに長くするか、それが最大の課題です。明石海峡大橋というのは吊橋ですけれども、あれが今世界で最大スパン長です。確か2000メートルです。それだけの長さのものが架けられる。その間全然橋脚が要らない。そういう長い橋をいかに架けるか。このように現代は、ロン・ビエン橋よりもすごいものがあるわけですけれども、当時、わが国の100年前ですと、これだけの大規模な橋梁は、残念ながら架設もされませんでした。
(図11)
  ベトナム戦争の時に、アメリカ軍によって何回も爆撃されたとのことです。これはメインが鉄道橋ですが、中国から援助物資が来るので北爆の大きな目標でした。話によると、その都度ベトナムの兵士が、橋に体をくくりつけて飛行機に抗戦したと言われています。ですから、ところどころ壊れているところがあります。こういった橋脚は、仮の応急の橋脚ですね。もともとの橋脚はコンクリートないしは石でできています。
  ベトナムでは、この橋はもちろん歴史的な遺産であると同時に、ベトナム戦争の遺産でもあるので、基本的には保存するそうです。
(図12)
  そして、このロン・ビエン橋はベトナムでは1つのランドマーク、目玉となっています。観光案内書のベストセラーであります『地球の歩き方』の本を読みますと、エッフェルの設計と書かれていました。
  さすがエッフェルと言いますか、現地に行ってみて、エッフェルというのはこういった橋もかけたのかと思ったんです。というのは、エッフェルがかけた橋は幾つかあるんですけれども、山形トラス橋をかけたのは余り知られていなかった。観光案内書に書かれているわけですから、そうなのかと思ったわけです。
  ところが、橋を歩いていますと、銘版が何カ所かにあるんですが、1899年から1902年につくられた。DAYDE&PILLE Paris、こういった銘版が残っているんです。エッフェルの名前はありません。この会社でエッフェルが設計に携わったのかと理解していたわけです。
(図13)
  これはヒンジと言います。トラスの1つの部材、構造的なモジュールという単位があるんですが、そのつなぎ材のところです。こちらの方が固定されているところのヒンジで、こちらの方が動く、可動部のヒンジです。
(図14)
  ヒンジはどういったところにあるのか。普通、日本ですと、資料の図にある、こういったところにヒンジ部があるんですが、ロン・ビエン橋の場合は、垂直材があるんですが、垂直材の中間部にあります。山形の1つの大きなユニットとこのユニットの間の、吊り材をつなぐ部分を写したものです。
  この図には、後で関連するトラス橋が出てきます。バルチモアトラスとかレンティキュラートラス(レンズトラス)とか魚眼トラスという名前がありますが、こういうものが出てくるものですから、資料として用意しました。
(図15)
  これが先程のロン・ビエン橋と同じルート上にある鉄道橋で、こういった古いもの、普通の桁橋も残っていたりします。注目して欲しいは橋台部分の石積みです。亀甲積みと言いまして、亀の甲のような形で積んでいますが、こういった積み方は、地元ベトナムではフランス積みと呼んでいます。現在ベトナムではこういった丁寧な積み方はしないということです。ですから、このように石積みが丁寧なところはフランス時代の構造物と判断できます。
(図16)
  これはキャプションに書いてありますように、1975年竣工です。このタイプ自体は、恐らくフランスの形を利用したと思います。これはダブルワーレントラスというタイプです。形はまねしたのかなと思うんですが、実態はよくわかりません。もともとは1スパンだったものが、やばくなったので、橋脚を補充しました。結構こういうような形でフランス的なものがあります。
(図17)
  これはロシア製だと聞いていますが、確証はとれませんでした。地元ではそう言っていて、吊橋と斜めのケーブルがこういう形でとめられています。吊橋は普通ケーブルからハンガーというもので桁を吊るんですが、これはハンガーと斜めケーブルで桁を吊っています。ですから、斜張橋。斜張橋というのは、ケーブルが斜めに固定されています。そういう意味で吊橋と斜張橋をあわせ持った構造で、実はニューヨークのブルックリン橋がそうです。そういうめずらしいタイプの橋が残っていました。
(図18)
  これは現在使われておりません。人が通っていますが、現在は通行禁止になっています。
  こういった石橋も、移設されたものですが、残されている。
(図19)
  これが、先程言いました屋根つき橋です。日本でも幾つか屋根つき橋がありますが、これだけ反りが急な太鼓橋的な屋根つき橋はなかなかありません。これは恐らく、今でも船は通るんですが、昔、舟運のためにこういう形で高くせざるを得なくて反り橋になったと思います。

(図20)
  こういった橋が、どこの影響かと言われるとまだわからないんですが、感じとしては中国の影響があると思っていますが、よくわかりません。
(図21)
  これは、お寺の境内につくられたレンガのアーチ橋で、その上に屋根がつけられています。「木に竹を接ぐ」ということわざがありますが、これはレンガに木を接いだ形になっていまして、ここのところはレンガより薄い磚というものが敷き詰められているそうです。この橋は私は現地で確認していないんですが、一緒のチームの、今日もいらっしゃっていますが、大山明子さんが撮られたスライドです。
(図22)
  中部の方に行きます。ダナンというのは、ベトナム戦争のころはアメリカ軍の発信基地になったところです。このダナン市周辺と、ここにフエがあります。
(図23)
  フエで目をつけたのは、トロングティエン橋です。ここはフエの昔の宮殿兼お城です。これはレンガでつくられていて、入り口とかこういったところにレンガの橋がありました。今回は紹介しておりません。
(図24)
  これは歩道橋です。この川に、実はフランス時代のデザイン、形を継承しているんじゃないかという橋が幾つかありました。
(図25)
  これは、今言いましたフエのそばにかかっているトロングティエン橋です。ベトナムの文献を見ますと、これもエッフェルが設計したと言われている橋です。つくられたのが1899年ということになっています。実際には、こちらの方が宮殿側で、こちらが新市街になっています。部材をよく調べてみると、ちゃんと残っているのが新市街の方で、旧市街の方は補強されたり、部材が変えられたものが多い。100年以上前の橋長403メートル、6スパンです。このようなものは、なかなか日本では見ることができません。当時100年前に、わが国でこれだけの橋がつくられていたのかというと、実は残念ながら記録もないし、もちろん現存もしておりません。
(図26)
  これが銘版です。修繕された時だと思いますが、新しい銘版が設置されています。
(図27)
  このトラスは、いわゆるブレースィングされています。オリジナルの古い材料は、2枚の長い鉄板を小さな鉄板で綾取りのようにして留めています。この材は新しく取りかえられたものだろうと理解できます。
  このようにして、古い材か否かを判断していきます。
(図28)
  これもデザイン的にはフランスタイプだと思うんですが、よく見ると、こういったところにリベット状のものがあります。新しいものは、溶接で留められています。先ほど紹介しましたロン・ビエン橋でも同じようなデザインの高欄がついていました。
  ですから、直すにしてもフランス時代の様式を継承しながら直しているということがわかります。

(図29)
  これが、先程言った歩道橋です。何故これに注目したのかというと、実はエッフェルというのは当時のインドシナ、カンボジアを含めて、いわゆるプレハブ橋梁と言いますか、ユニットが決まった組み立て式の橋を輸出しています。そういった形の1つかなと思いました。その辺はまだ確証がとれていませんが、これを1つのユニットにしておきまして、これをどんどん組み合わせることによって長い橋ができる。
  これは軍事用にも使われますが、そういったプレハブ橋梁の名残りなんですね。こういうものが残っているということで注目しました。
(図30)
  これはエッフェルの設計ないしは、そういった考え方を踏襲しているかどうかはわかりませんでした。ですが、エッフェルのプレハブ橋梁的な考え方が、今に生きていることは間違いないだろうと思います。
(図31)
  先程の新市街地側の川にかかっている、フランスタイプのコンクリート橋ではないかと推測したものを幾つか紹介します。これは、シャイベ式といって、最近日本でも見架けられるコンクリート橋のタイプです。どういったものかというと、単なる桁じゃなくて、コンクリートの桁というのは結構厚いんですが、これは板材のようにコンクリートを薄く打つんですね。そしてつくられた橋です。日本でも、こういったタイプの橋が最近出てきました。スライドの橋は、いつの頃かよくわからないんですが、フランス時代にはもちろんコンクリート橋が幾つかつくられておりますので、架け替えられても、昔の形を生かしたのかなと推測しています。この辺は全然確証を得られないで話していますので、今後その辺の詰めが残されています。
(図32)
  これも、やっぱりシャイベ式の、これは変断面の桁橋になります。
(図33)
  これは、シャイベ式なんですが、どちらかというとアーチ橋で、シャイベ式でもいろいろなものがこの川筋には残っている。橋自体は小さいんですが、日本ではちょっと見られないようなコンクリート橋が、若干古いと思うんですが、幾つか残されているということです。
(図34)
  先程のはフエでしたが、今度はダナンを中心とした橋です。これは、もともと1スパンのボーストリングタイプのトラス橋でしたが、こういう形で補強材が入っています。曲弦トラスという言い方もできます。日本で曲弦トラスとかボーストリングトラスとかありますと、基本的には、格点(部材の接合部)間の部材が直線になっていまして、折れ線で結ばれる形になるわけです。それが、こういうきれいな曲線でつくられているというのは、絶対フランスのセンスだろうと思います。
(図35)
  これも曲線になっています。日本の鉄道橋とベトナムの鉄道橋の大きな違いは、見てわかると思いますが、資料をご覧いただくと、日本にあるトラス橋のタイプは、平行弦トラスと言いまして、上下の部材が平行なものが多いんですね。日本の鉄道橋は、ほとんどこういったタイプです。
  ところが、ベトナムでは曲線が入ったトラス橋が多い。この辺が日本の鉄道橋とベトナムの鉄道橋の大きな違いで、これがフランス時代から入っていたということで、一番印象的でした。
(図36)
  これなんかもそうです。これ自体は、よく見ると部材が新しい感じがします。こちらは、先程言った折れ線で構成されている曲弦トラスになります。しかも、よく見ると、橋脚は、本当はここだけでいいはずなんですけれども、こんなところに入れてみたり、途中に入ったりということで、この辺は転用橋梁じゃないかと思っています。ほかのところで使われていたものを、たまたま架け替えに当たってこちらに持ってきて、こういう形で補強材として入れたのかなと。
(図37)
  これは石材でやっていますから、途中で合わなくなったところは新たにつくっている。経済的な理由もあったと思うんですけれども、転用材でいろいろと橋をつくっています。
(図38)
  これは、先程ちょっと紹介しましたが、バルチモアトラスといって、同じトラス橋でもこの辺の仕組みがちょっと違うということでつけ加えたものです。これは折れ線になっていますね。こういったタイプの橋は、日本ではなかなか見られないものです。
(図39)
  これが面白いのは、下の斜材と上の斜材が全然傾きが違います。いろいろ調べてみましたら、上下違う橋を合体させたという説明がありました。もともと上の方のタイプはポニートラス橋と言って、背の低い橋だと思うんですけれども、それと背の高い橋とを合体させたのかも知れません。何しろ2つの橋を接合した非常に珍しいつくりの橋です。日本ではちょっと考えられません。
(図40)
  可動部分は斜張橋ですが、ここが棒磁石のようにクルッと回る旋回橋でした。ところが、竣工後2年でこの部分が動かなくなったということです。これは中国製です。ここの部分にちょっと曲線が入っています。中は桁橋で、外側だけ化粧でこういう形で変断面の化粧材をつけています。
  ベトナムは、フランス時代が終わって、ベトナム戦争のころは中国の影響を受けます。後にソ連の影響を受けます。その後日本が入り込んで、ダナンから下の南の方はベトナム戦争時代アメリカの影響を受けた。他の建造物もそうだと思うんですが、橋だけ見ても、中国製の橋、ロシア製の橋、アメリカ製、日本製ということで、各国それぞれ特徴があります。
  ロシアのトラス橋はすごく背が高いとか、中国のは若干低いけれども、無骨だとか、そんな特徴があったりして、国による面白さが出ています。
(図41)
  これはアメリカ軍がベトナム戦争の頃につくった橋で、レンティキュラートラス、レンズトラスとか魚型トラスという言い方もしますが、これ全体を1ユニットとして運んで架設していく、非常にプレハブ的なつくり方をされた橋です。こういったタイプの橋としては、日本でも北九州市の新日鉄、昔の八幡製鉄の貯水池にかかっている橋で、形は違いますけれども、構造的には、レンズトラスという橋が唯一現存しています。わが国ではこういうレンズトラスは、今まで3橋しか架設されていないんですが、その2橋は群馬県の桐生市にありました。あと1橋が今言った八幡製鉄がつくっていまして、現存するのは唯一それだけです。そういったタイプ的には珍しい橋があったなということで、新しいけれども個人的には興味深い橋でした。
(図42)
  これはまた屋根つき橋です。クリアランスが大きいのは、船のことを考えてやっていると思います。
(図43)
  これは、フエにあります来遠(らいえん)橋。われわれは日本橋として紹介しています。ホイアン、世界遺産になった都市ですが、そこにある屋根つき橋です。ゴテゴテしていますけれども、橋脚が石づくりだというのが、今までの屋根つき橋と違う。それだけ永久性と言いますか、橋の長持ちということを考慮したと思います。
(図44)
  そして、ホーチミン、サイゴンの方に行きます。1つはモン橋。これが、われわれが最大の発見とした橋です。地元では何も言ってないんですが、エッフェルの橋じゃないかと見なしたものです。それから、ベンゲー運河のこの辺にかかっている歩行者専用橋の階段橋。そして、ビン・ロイ橋。これは可動橋ですが、ルヴァロア・ペレ社と言いまして、エッフェルの娘婿の会社がつくった橋がここです。そういった橋を中心に幾つか見ていきたいと思います。
(図45)
  これがモン橋です。調べていきますと、1882年、94年竣工説もあります。エッフェルがベトナムで最初の頃に架設した橋です。エッフェルに関する文献を見ますと、必ず紹介されている古写真があります。こういう形でコーチシナでエッフェルが、架設した橋ということで、写真では紹介されてますが、先程のように現物を確認したのが、今回の調査です。
(図46)
  これは、先程ちょっとご紹介しました大山さんと2人で、この古写真を見ながら、「これは確かそうだよね」ということで判断したんですが、文献的な裏づけはまだ十分にはとれてないものです。
(図47)
  これが、今の橋のたもとです。車が通れないような感じがしますが、もともとは車が通れたと思います。ここのところに斜路がありまして、向こう側に渡るようになっています。この辺は階段です。昔は、ここのところは抜けていて川の方に行けるようになっていたと思います。
(図48)
  これは、こういった鉄道橋が南の方に行くと幾つか残っているよということで、紹介します。北の方には、ほとんどなかったのに、南の方に行くと、今回余り紹介していませんが、結構あります。これが先程言いました可動橋で、エッフェルの娘婿がつくった橋です。もともとは、こういったボーストリングタイプのものが架けられたと思うんです。この部分が可動橋で、これが棒磁石のようにクルッと回る形でした。現在は動いていません。
  去年行った時に直していまして、今年の正月にまた現地に行ったんですが、架け替えるという話を聞きました。そんな噂が立っている橋です。
(図49)
  これも、やはりルヴァロア・ペレ社がつくった橋で、銘版が残っています。これは1925年です。そして、こちらの部分はコンクリートですが、真ん中の桁はスチールになっています。非常に面白いつくりですが、実はこの橋、こちらの手前側の方に新しい橋が工事中で、これもひょっとすると架け替えられて撤去されるかも知れません。

(図50)
  この橋は、もう架け替えられたのですが、橋台部分ないしは橋脚といっていいんでしょうか、こういう三股の橋、Y字橋と呼んでいます。そのY字橋の真ん中のところにある橋脚兼橋台です。これは古写真を見ると、昔はトラス橋があったんですが、橋脚部分のデザインが昔と全く同じなので、橋脚兼橋台だけ残して架け替えたということがわかります。
(図51)
  これが、先程言ったモン橋に続く運河なんですが、こういう形の歩道橋が残っています。実は、この中に橋脚が残っていまして、それが錬鉄製のような感じなんですね。現在は傷んでいるので、新しく橋脚を補強しています。こういう形は、パリでみられるフランスタイプの橋と思っています。
(図52)
  これは、平面的に見ますとUの字になった橋です。先程の階段橋ですと、バイクとか自転車は通れないものですから、こういう形でバイクが通れるようにしてあります。階段橋ですと、自転車をかついで渡っている人がいます。バイクが通れるのは、U字橋のところだけでした。こういう形で、フランス的な橋が残っているのがベトナムの大きな特徴です。
(図53)
  これは、ホーチミンから50キロぐらい離れたところにあるタンアンというところの、エッフェルが設計した橋として有名なものです。1884年竣工です。われわれが橋の調査に入ったのが今から4年前ですが、4年前には、これは現存していました。それが架け替えられてしまいまして、昨年までこの橋の部材が橋のたもとに置かれていました。われわれは、今年現地に行ったんですが、残念ながら去年の夏ぐらいに屑鉄業者が決まって、全部持っていったということです。本当は、この部材が残っていれば、何とかして少し日本に持ってきたかったと思う橋です。現地は、凄く大きな川です。先程のロン・ビエンほどは長くはないんですが、目測で、このスパン長は120〜130メートルを超えていて、全長200m近い橋じゃないかなと思います。それだけのトラス橋でした。こういった橋は残っていないだろうと考え、4年前には行かなかったんですが、このエッフェルの橋について新聞記事を載せて得た情報で、実はこの橋、4年前に見たという人が写真を送ってくれました。確認に行ったら、なかった。そういう意味で、非常に残念だったんですが、これも、つい4〜5年前まで残っていたんですね。
(図54)
  これが、皆さんのところにつけてありますエッフェルの橋ということで紹介しております。
  まとめますと、北では、ロン・ビエンという1.6キロの長い橋があったと言いましたね。エッフェルの設計と言われていました。ところが、われわれの調査とかハノイの公文書館の人の調査によると、図面と契約書を確認してもらったんですが、エッフェルの名前はどこにもなかった。むしろ、先程DAYDE&PILLEという会社がありましたが、それとエッフェルの会社が相見積もりをとって、結局エッフェルの会社が負けたということがわかりました。そういう意味でエッフェルの関与はないだろうということがわかったわけです。
  中部にありましたトゥルオン橋は、時代的にはエッフェルが定年退職、現役を退いてからつくられた橋です。橋の技術的な難しさからいうと、そんなに大したことはないので、あれはエッフェルの関与はないだろう。ところが、南部にありますホーチミンのモン橋は、地元の人は何にも言ってないけれども、古写真とかデザイン的な状況を見ると、フランス時代の橋で、これが文献、写真等を照合すると、エッフェルの橋ではないか。モン橋の場合は残念ながらまだ文献的には確証を得てないので、そういう意味で学術的には若干問題があります。
(図55)
  これはエッフェルです。91歳で逝去、長生きしました。エッフェルはエッフェル塔の設計者ということで皆さん知っていると思います。エッフェル塔をつくった後、エッフェル塔の上に自分の実験室をつくって、落下速度とか無線の研究、航空力学の研究など、いろいろやっています。そういった時に、実はエジソンも来ていたというんです。エッフェル塔の実験室にエヂソンとエッフェルの対談の様子を人物像を配して、ガラス越しに展示しています。今から100年ぐらい前ですが、当時でも最先端をいっている人は、それなりに情報交換をしていたんだなということがわかりまして、感銘を受けました。
(図56)
  これが、今年の正月に行ったときのモン橋の写真です。見てわかりますように、この辺、土で埋まっているんですね。現場で工事をしている人に聞きましたら、この橋は取り壊されるというんです。橋が取り壊されてしまうのか、何とかならないかと思っていろいろ考えました。
(図57)
  これは、先程階段がありましたけれども、その反対側になります。
(図58)
  次の写真、これは盛り土の上から橋を撮っています。今は歩道橋みたいになっていますが、昔は、これを見てわかりますように、ここは今道路で、ここのところに桁橋が載っていたと思うんです。私が写真を撮っているのは、道路の反対側の盛り土の上から撮っているものです。
(図59)
  これは、1月の状況です。
(図60)
  これが、反対側の様子です。去年行った時には盛り土で、掘っ建て小屋が建っていましたが、今年の正月行った時はこのようにきれいになっているんですね。
(図61)
  橋台の隣のところには、このような説明板がありまして、日本の国旗があるわけです。この辺を見ますと、国際協力銀行がかかわっているとか、ここはパシコンさんとかオリコンさん、ここでは、コントラクターとして大林さんの名前が入っています。工事には日本企業が関係して、新しい道路をこちらのサイゴン川の方にかけるという計画が書かれていました。
  これは、日本企業が関係しているんだ、どうなっているんだろうということで、帰国後、調べてみました。今年の3月、国際協力銀行を通じてパシコンさんに聞きに行きました。
  ベトナム政府から、モン橋自体は、エッフェルの設計かどうかは別に言われてないけれども、大事な橋だから残すようにいわれた。実は、サイゴン川の下に道路トンネルを掘って対岸に行く計画があり、モン橋辺りからトンネルに入っていくが、基本的には橋を残し、川沿いにリバーサイドパークをつくる整備計画を立てている、という説明でした。
  モン橋のかかるところは、ベンゲー運河と言いまして、先程紹介した階段橋までずっと続くんですが、あの辺のところは、橋は全部撤去、取りかえちゃう。川沿いには、フランス風の街並みが、傷んでいるんですけれども、残っています。それを全部再開発する計画でした。少なくとも、この橋とリバーフロント、ウォーターフロント沿いは、きれいに直して1つの観光拠点にしたいということでした。
  そういう意味でベトナム側の方でも、古橋をそれなりに生かして、ウォーターフロントに着目して、計画しているんだなということがわかって若干ホッとしたと同時に、翻って日本を考えた時、日本は、橋を含めてそこまでちゃんとやるのかなというのが実は心配したことです。
  ベトナム側の方でも、古い建物だけじゃなくて、土木遺産といったものにも、だんだん目を向けてきたのかなという感じがいたします。

3.カンボジア:アンコールワットの修復オリンピック

 次に、話は変わりまして、カンボジアの方に移りたいと思います。
(図62)
  カンボジアの方で有名なのは、アンコールワットですが、私のメインは、今回はアンコールワットに行く石橋群ということで紹介してみたいと思います。
  もうひとつは、「アンコールワットの修復オリンピック」でございます。
  皆さんの資料につけてあります「アンコールを起点とした古代交易路の石橋」云々とありますが、ここにあるプロット、点の位置がいずれも石橋があるということです
(図63)
  カンボジアの石橋、基本的にはこういう持ち送りアーチ、迫り持ちアーチとも言いますが、持ち送りアーチ橋が架けられておりまして、これなんか、もちろん大きな橋ですが、小さいものは高さが低くて、スパンがせいぜい4つとか5つ、そんなもので構成されています。そういったものが、このプロットしたところに架けられていたということです。
  これが一番立派で、しかも状態がいいので、この橋で説明したいと思います。この橋は、橋長が85メートルありまして、幅員とかスパンがあります。高さ8.5というのは橋面から水面までをはかった距離を出してあります。ほかのところで見ますと、この橋の下、河床部分は石が張ってあるところもあります。この橋自体も、場合によっては下に石が張ってあるのかなと思いますが、確認はできませんでした。
  文献を読みますと、この橋は、ただ単に交通用の橋じゃなくて、水をためるダムの役割も果たしていたという説明がなされています。確かに、橋脚の幅とかスパン長をはかりますと、1.4メートルぐらいあって、大きいものではこのスパン長は2メートルぐらいあります。川幅を、半分ないしは5分の2ぐらい狭めちゃうわけです。そういう意味で、こういう橋をつくることによって水を溜めるダム効果が出ると思います。そういったダムの役割を果たしていたという説が、今までありましたが、最近の、2000年頃に出されたフランスの極東学院の論文を見ますと、「いや、そういったことはなかった」という説の2つあります。
  その理由は、周辺にそういった遺物が確認できないということと、ベトナムでは、水をためるためにこういうものをつくったとしたら、こういう橋だけじゃなくて、本来の穴のない本当のダム、そういったダムまでつくっているんじゃないか。そういう純粋な意味でのダムというのは、今まで見つかってないということから、橋のダム効果はないんじゃないかという説もあります。それが最近の説で、古い説は、ダムの役割を果たしていたという説で、2つの説が出ています。
  用水としてのダム説も、今までにない橋の説なので、魅力的で捨てがたいのですが、説としては、最近の方なのかなと思っていますが、詳細については不明です。
(図64)
  これが、橋の上にあります親柱ですね。カンボジアでは、タイでもそうですが、東南アジアは、こういった「ナーガ」という蛇の神様のような彫刻が数多くあるんですが、これが橋の両側、親柱側にあります。カンボジアでは、ナーガが親柱によく使用されております。
(図65)
  この壷みたいなものは、何かわからないんですが、こういった形で、日本でも橋の袂には碑やお稲荷さんなどいろんなモノが設置されています。
(図66)
  角度を変えて撮った写真を、何枚かお見せしています。裏側にもちゃんと彫刻があって、この辺の細かな意味は、本当はいろいろあるんでしょうけれども、その辺までは分析できておりません。
(図67)
  これも、橋のたもとにあります仏像ですね。この意味もまだわかりません。日本でいうと、道祖神みたいなものかもわかりません。
(図68)
  これは高欄です。こういった形でそれぞれ、これは砂岩ですが、意匠を施されています。
(図69)
  これは、大写ししたものです。束柱の1つ1つにも装飾があって、コーナーのところに「ガラータ」という、体が人間で、羽とか爪がワシだという神様の像などが、彫られています。こういったものが、延々と八十何メートル続いているわけです。非常に手の込んだつくりがされているわけです。
(図70)
  先程、橋脚の幅とスパンを言いましたが、これが小さい橋になりますと、橋脚の幅が1メートルになったり、スパンも1.5メートルとかになります。これが最大規模のもので、小さいものは今言いましたように1メートルぐらい。高さは、もうちょっと低くなります。共通しておりますのは、持ち送り部分が4段とか5段ぐらいのもので構成されております。しかも、外側に大きな石を使って、中側に小さ目な石を使っているとか、そういった規則性があります。もう1つは、持ち送り部分のところ、ここはきれいに斜めに削ってありますが、場所によっては、単にブロック石を持ち送りしてみたり、コーナーのところを少し削った形でやってあるとか、要するに手抜き部分とそうじゃないところがあります。3種類の持ち送りのタイプがある。
(図71)
  これは橋脚の根元部分で、このように迫り出しています。水切り部分だと思うんですが、こういう形で根元の水切り部分が少し迫り出しているのと、もう1つ特徴的なことは、橋台部分が、このように階段状に積まれておりまして、降りるためにつくったのか、ただ単に安定させるために積んだのかわかりませんが、橋台部分がかなり広くつくられています。小さな橋でも、橋台部分が残っているものがあります。橋の袂部ということで、階段状に築かれています。
(図72)
  ここに穴がいろいろあります。ラテライトという石ですが、これを削り合わせる時の穴じゃないかとか、運ぶ時の穴じゃないか、そういう2つの説があります。どちらの方かよくわからないんですけれども、穴だとすると、そこに棒を突っ込んで引いたり押したりして、平らにしていくということです。
(図73)
  これは皆さんにお配りしたものと同じ地図です。地図上では60の点があります。ここがアンコールワットです。5つの道が放射状に出ています。こういったところに、大小の石橋があります。私どもが確認したのは全部で20橋です。基本的には全部持ち送りタイプの橋でした。
  ここには60橋プロットされていますが、文献に寄りますと実際には67橋あると書かれています。文献によっては、72橋説もあります。これらの道はアンコールワットを中心としてそれぞれが王道であり、範囲は50キロ圏です。50キロぐらいあたりまで石橋があって、アンコールワットへ行く道として整備されたんじゃなかろうか。50キロ以上先に行くと、石橋が今のところ見つかっていないわけですが、この50キロ圏がアンコールワットという王の都の領域圏として位置づけられたのかな、という解釈がなされています。
  カンボジアの石橋は、アーチ構造は発達しないで、迫り持ちアーチが当時は基本だったことがわかります。
(図74)
  話が変わりまして、カンボジアのシェリムアップに行ってみます。アンコールワットの西参道です。観光客はここから入るわけです。この辺がどうなっているのかというと、段差があるのは、こちらの方はフランスの方で修復した参道の半分だそうです。
  こちらの方を日本隊が修復しています。なぜここに段差があるのかというと、フランスの考古学者達は、参道はもともと平らだったんだろうとして、直す時に平らにしちゃったんです。ですから、こんな段差ができてしまった。それに対して日本隊がやっているのは、参道は緩やかな坂道になっていたんじゃないかということです。水勾配かもわからないんですが、アンコールワットに行く、気持ち的にも上り坂になることによって高いところに行くという意味もあったかもわからない。もともと、こういうふうに設計されていたんだということでやっているらしいんですが、フランス隊との調整をどうするか、ということが今課題になっているようです。
(図75)
  これは今、日本隊の方で修復しているところです。このようにブルーシートじゃなくて、グリーンシートが架けられているのは、中は突き固めて版築になっています。日差しが強いものですから、水分が飛んでひび割れすると、水道(みずみち)になるといけないので、関係ないところはグリーンシートが架けられています。
(図76)
  こういう形で参道を修理しています。これはソフィアユニバーシティ、上智大学の石沢良昭先生たちが中心となっています。現場の工事の総監督は、うちの大学の片桐先生が中心となってやっています。この日本隊の修理の仕方は徹底しています。フランス隊がやった時は石をほかの遺跡から持ってきて修復したらしいのです。確かに修理によってとられた石、壊された遺跡もあります。
  日本隊の片桐先生たちは、まず何をやったか。ラテライトという土ですが、これは切る時はやわらかくて、後、風化するとだんだん石のように固くなる土です。こういった土がカンボジアのどこに分布しているのかということを調べ、それから土を切り出して、伝統的な工法で修復し始めた。どちらかというと、時間がかかるわけです。しかも職人さんたちは、学者を含めてポルポト政権の時にほとんど殺されてしまったので、職人さんの育成から始めました。職人さん候補をわざわざ日本に呼んで石工さんの教育をし、帰国させて修復の開始、現在までに4年か5年経っています。
  カンボジア政府からは、時間がかかり過ぎるという苦情があったらしいのですが、伝統的な工法で、しかもカンボジアの職人を育てながらやっているのがここの工事の大きな特徴です。話を聞くと非常に感動します。
(図77)
  これは何をやっているのかというと、ラテライトというのは穴が多いものですから、ラテライトの粉で目つぶししているんです。下手に乾燥すると、ラテライトの中の砂が出てしまって、ラテライトの石自体が悪くなるので、こういう形で目つぶしして石を安定させる。そういったことをしてから積むそうです。
(図78)
  これを最初に見たとき、何かなと思いました。鳥かごかなと思ったんですが、工事が終わると機械類をこの中に入れておくそうです。そうしないと、翌朝なくなってしまうことがあるそうで、鳥かごのような倉庫を設置しています。
(図79)
  ちょっと読みにくいんですが、「ここでは伝統的な工法で修復しています」ということが書かれています。一見しただけでは余りよくわからない。PRが下手ですね。
(図80)
  これはグリーンシートです。黒く塗って何か消してあります。なぜ消してあるのかというと、参道の方からは見えないんですが、グリーンシートに「メイド・イン・コリア」と書いてあるんです。重要なのは「メイド・イン・コリア」なんです。表参道を通っている人が、このグリーンシートを見ると、メイド・イン・コリアを読んじゃうんですね。先程の看板をちゃんと見ない人は「ここのところは韓国隊が修復しているんだ」と判断してしまうわけです。西参道というのは、年間何百万という観光客が訪れると思うんですが、ひょっとすると「韓国隊が修復しているのかな」と思って通り過ぎてしまう。そういう意味では、非常に損だと思います。
  アンコール遺跡というのは、世界各国から修復隊が入っています。国の数でいうと14。イコモスとかイクロムとか、先程の上智大学、そういった大学関係を含めて16のNGO団体、あわせて30ぐらいの国やNGOグループが参加しているわけです。例えばチャイニーズ・ガバメント・チーム、中国も遺跡の修復を行っています。
  最近の新聞ですが、4月9日の読売新聞を見ましたら、「カンボジア支援、中国が6億ドル」と出ていました。もちろん、これは全部アンコールワットじゃなくて、ダムの建設にも出していると思うんですけれども、アンコール遺跡にも実は関わっているというわけです。
  もちろん、フランス隊もやっています。全部の修復を見たわけじゃないんですが、この中で、話を聞いた限りでは、一番しっかりやっているのは日本隊の大学の先生たちを中心としたグループ。石の分布を調べて職人さんを育てて修復しているわけです。それを見たフランス隊は、日本隊は非常にいい修復をしている。フランスは政府から助成金が出て裕福なものだから、NGOで頑張っている日本隊より多額のお金を提示して職人さんを引き抜いているそうです。せっかく育てた職人さんがとられてしまう。
  この前、これも最近の新聞ですが、上智大学で、今総長をなさっている石沢良昭さんの話がでています。6月4日の日経新聞です。これを見て驚きました。石沢さんの家はもともとホテルを経営していて、石沢さんは長男、親御さんとしてみれば、ホテルを継いで欲しかったんだけれども、自分はアンコールワットの遺跡に関わりたいということで継がなかった。そのためにホテルはつぶれてしまった。そうまでして、自費で、ボランティアと言いますか、皆さんからもお金を集めて修復しています。実際の職人さんの方は、片桐先生たちが加わってやっているわけです。早く言えば民間のNGOグループでやっているわけです。それに対してフランスの方は国からお金が出るので、余裕をもって裕福にやっている。しかも、われわれ日本隊がせっかく育てた職人さんも引き抜いてしまう。
  中国の修復現場も見ました。中国隊は非常に修復作業が速い。石はどんどん切っているし、見る限り作業は非常に速い。ですが、他の隊に言わせると、評判が非常に悪い。何故か。中国隊は、ちゃんとした調査を行わずに作業を進めているだけである。しかもラテライトを買い占めている。ラテライトの石自体、石材業者が限られていて、値段を吹っかける。NGOの日本隊はお金がないもんだから、買えなくなってきている。中国隊は石材を買い占め、見た目はどんどん修復している。だけれども、学術的な裏づけがない形でやっているので、他の修復隊からは顰蹙を買っている。肝心のカンボジア政府は、中には問題と思っている人もいるのかも知れないが、表だって異を唱えてはいないようです。そういったお国柄の相違もあります。
(図81)
  これは、アンコールワットの中の修復現場です。これはドイツがやっています。ドイツの国旗。ワールド・カップ・サッカーでいつもドイツの旗が出てきますけれども、ドイツとカンボジアの国旗。そしてユネスコですね。これはアプサルと言いまして、カンボジアの文化財保護局です。これはGACP、ジャーマン・アプサラ・コンサベーション・プロジェクトとなっています。ドイツとカンボジアの保存計画だということが出ているわけです。こういう形で見れば、ちゃんとジャーマン・アプサラと出ているし、国旗もある。一目瞭然なわけです。
  よく見ていくと、ここに賛同企業があります。アグファというのは、ご存じのように、ドイツのフィルム会社です。幾つかあって、キャノンとかオリンパスという名前が入っている。日本の企業もこういったところにお金を出している。
(図82) 
  それに対して、先程の看板。ここには日の丸も何も入っていませんし、ジャパンなんて出てないんです。この辺の日本字を見て初めて日本隊がやっているとわかる。実際には、日本といっても政府がやっているわけじゃなくて、日本のNGOグループがやっています。日本の国際貢献をアピールする意味で、もうちょっといい形で、一目見て、日本がやっているとわかる看板を作った方がいいと思うわけです。


4.ODAと歴史遺産

(図83)
  まとめということで整理してみますと、整理の仕方はいろいろあると思います。とりあえず今日は、言いたいことに絞って簡単に整理しています。
  われわれが先進国だと言って、いろいろ情報提供したと思うんですが、韓国とか中国、ベトナムを含めて言えることは、都市計画プランニングとか、フィジカルな計画論とか方法、修復の仕方は、今や他の国でもちゃんとできるようになった。しかし日本の場合、例えば町並みを修復しようと思っても職人さんがいないとか材料がないという形で、なかなかうまくいかない。韓国、中国の場合は、今でも技術が生きており、職人さんはちゃんといます。材料もちゃんとあるということで、修繕とか修復は、体制さえ整えればすぐにできる状況にある。そういう意味では日本より恵まれた、いい状況にある。日本の場合は職人さんがいない、材料もない。中国の場合はちゃんとそういったものが地域で生きていますから、実行力は日本よりあるし、実現性が高いということが言えるかと思います。
  日本では景観法ができて、いい街並みができるかというと、必ずしもそうではない。既存の高い建物を撤去できない、高架構造物が景観を阻害しているとか、いろいろ課題はあると思います。例えば、東京駅前の高層ビルを見ると、僕なんかどちらかというと、同じような形のものがあるだけで、余り感心しない方です。高層ビルでもいろんな形ができることを考えると、どうせやるんだったら、もう少しセンスのいい、ブラッシュアップした形で、高層ビルの形を追求すると、それなりに高層化しても面白いというか、興味深い街並みができるのかなという感じがいたします。
  町並み保存の面からですと、中国とか韓国の方が、いざやるとなったら、恐らく日本よりも実行力はあるし、条件は整っているのかなという感じがします。
  簡単に言うと、日本の都市計画は、下手すると中国、韓国に負けちゃうんじゃないか。負けているんじゃないかと思うのですね。高速道路にしても、距離からいったら、日本はもう負けていますし、リニアモーターカーにしても、上海ではすでに開通している。実施段階に入っている。斜張橋の技術も、今は中国に行ってやっているわけですから、技術的に最先端なものもだんだん日本から遠ざかっていってしまう。そういった危機感を感じました。
  ベトナムも気づき始めている、ということです。
(図84)
  文化財の保存修復の現状を見て思ったのは、われわれは今、ODAで日本の政府援助のあり方が問題になっています。例えば、カンボジアの西参道修復現場がありますね。あそこで、日本の国旗が1つポッと入ることによって、見る人が一目でわかるわけです。もちろん、あれはODAでやっているわけじゃないんですけれども、日本がああいった修復活動にかかわっているということが、一目でわかるようなPR方法。看板1つにしても、作る必要があるのかなという感じがしました。
  日本政府も、カンボジアで文化財の修復活動をやっているんですが、アンコールワットから遠く離れたところで、雨量とか気温といった自然条件を調査しており、その後修復のあり方を検討するようで、まず基礎的な調査をしているようです。でも、一般の人には目に見える形で伝わってきません。ですから、確かに人を育てカンボジアの伝統的な工法で修復することも、それはそれで大切なんですが、海外では、日本人がしていることをいい形で示さないと、せっかくの努力や苦労がうまい形で伝わらないと思います。技術を超えて、日本とか日本人ということを意識させられたのが、特にカンボジアに行った時に感じたことです。
  ちゃんとしたまとめになっていませんが、時間になりましたので、この辺で終わりたいと思います。どうもありがとうございました。(拍手)

 

 

 

 

 

フリーディスカッション

與謝野 ありがとうございました。
  それでは時間が少し残っております。この場でご質問をなさりたい方は挙手をしていただいて、お名前を申し出ていただきたいと思います。
いかがでしょうか?
  会場からの質問が出る前に私からのご質問ですが、先ほどご紹介頂きましたアンコールワットには、今、早稲田大学の研究チームは入っているのでしょうか?
伊東 はい。関わっています。早稲田大学のグループの中川先生たちのグループは、アンコールワットの中の建物とか、アンコールワットから車で20〜30分行ったところで早稲田グループが修復活動をやっています。早稲田の場合には非常にわかりやすく宣伝していまして、遺跡ごとに説明板があって、「早稲田ユニバーシティ」と入っています。日本国旗が入っているかどうかわからないんですが、そういう工夫はちゃんとしているなと思いました。
與謝野 修復のプロジェクトというのは、これが終わったという節目はあるのでしょうか?際限なくずっとやっておられる印象を受けますが?
伊東 例えば、今、西参道の方だけで言いますと、カンボジア政府としては5年間ぐらいでやって欲しかったらしいんですが、事前にいろんな調査をしたので、あと5年間ぐらいかかると言われています。今その件でカンボジア政府と交渉しているみたいです。
  アンコールワットを含め、周辺には遺跡はいっぱいあります。そういう意味では恐らくエンドレスの作業になると思います。それでも、個々の建物、個々の場所ということでは、ちゃんと計画は立ててやっているようです。どこが何年云々というそこまではわからないんですが。
  先程のドイツグループがやっているのは、高松塚でカビ問題がありましたけれども、遺跡についているカビの調査をやっているということでした。
與謝野 人類の遺産を後世に伝える意義深い事業であると常々感じております。さて、いまひとつのご質問ですが、隅田川にかかっている橋には8橋ほどあって、言問橋とか駒形橋、永代橋とかがあり、それぞれのデザインが異なりますね?あれは明治年間の作品なのでしょうか?
伊東 大正です。
與謝野 その時代の作品を支えた技術と、先ほどご紹介頂いたベトナムのフランス統治下の時代の作品及びその技術は、同じ時代のものなのでしょうか?
伊東 約100年前(1887年にフランス領)なので明治の半ばですね。それに対して隅田川橋梁というのは関東大震災の復興事業でしたので、1923年、大正12年から昭和5年の7年間です。ですから、そういう意味ではベトナムの方が1時代前という感じですね。
  日本の橋梁技術は、アメリカ、イギリス、ドイツ、特に震災復興事業はドイツから学んでいます。フランスからは学んでないんです。別に橋梁技術だけじゃなくて、土木工学自体が余りフランスからは学んでいない。当初の頃、古市公威という人がフランスへ留学して学んで帰ってきているんですが、その後フランスから離れてしまって、イギリス、アメリカ、ドイツ、そういう順番になっています。
  フランスはもともとコンクリートの発祥の地。近代のモニエ式のコンクリートをやっているんですが、コンクリート橋はフランスの方が進んでいて、しかも、コンクリート橋はメンテナンスフリーですね。本当は普通の小さな橋でしたら、コンクリート橋の方がいいと言われているんですが、なぜか日本はスチール橋が多いです。それは鉄鋼業界の話もあるらしいんですが。(笑)
與謝野 国策としての製鉄を軸とする「殖産興業」があったのでしょうね。
  それから、先ほどのベトナムの橋で目を引いたのは、橋梁の上弦材がきれいな曲率で造られていますね。どのような技術で、あのような流麗な曲線アーチの上弦材が当時出来たのでしょうか?少し質問の分野が外れていますが。
伊東 あれは、溶接ではないと思います。曲げていくのはどういうふうにやるんですかね。叩くわけじゃないでしょうし。その辺をどういうふうにやったかよくわからないんですけれども、当時ああいった技術があったんですかね。その辺のことはまだよくわかりません。
  日本でも、ああいったタイプで、ボーストリングタイプのトラスはあるんですが、本当にきれいな曲線にしているのは数が少ないですね。ランガー桁で、アーチ部分をきれいに仕上げた橋に海幸橋があります。築地の魚河岸の入り口にあった橋で、関東大震災後の復興橋梁ですが、それも今は撤去されてしまいまして、一部をうちの大学に持ってきてあります。
斉藤(日本景観学会) 愚問かもしれませんが、今日はエッフェルの話が随分出ていたものですから。エッフェルがつくったエッフェル塔ですが、当時つくられた時は非常に評判が悪かった。モーパッサンとか面白い話が出ています。今は、まさにパリのシンボリックな、景観上欠かせぬものになっていると聞きます。東京タワーと比較しまして、どうして日本は、エッフェルのような景観ができないのか、その辺根本的な問題があるのかなという気持ちになるんですが、その辺いかがでしょうか。
伊東 そういう話をよく聞くんですけれども、パリのエッフェル塔と東京タワーの違いというと、パリのエッフェル塔というのは、エッフェルが橋を垂直に立てたとよく言われますね。橋は横にかかるわけですけれども、橋を立てたのがエッフェル塔だと言われています。あのエッフェル塔というのは、当時としては技術の最先端ということでやっているわけですね。そういう意味で、もちろん景観的なシンボルということもありますけれども、工学的に見れば、当時不可能だと思われていたことをなし遂げた。そういう技術革新のシンボルということ。それだけじゃなくて、デザイン的にもいい形にすることなどを考えたと思うんです。
  それに対して、今言った東京タワーとか、あとよく引き合いに出される京都タワーは確かに目立たそうとしていますね。技術的な可能性云々についての課題は終わっているわけですね。そういう意味で、構造物としての意味合いの相違なのかなという感じがします。
  東京タワーはどうなんでしょう。建った時、東京の景観を乱すとかいう話はあったのでしょうか。京都タワー問題というのは建築関係では非常に有名でした。京都タワーの場合は、京都駅前という建つ場所とか建物の屋上に建ったとかいうことが問題点としてあった。構造体としては、シェル構造が採用され、力学的には面白い試みだったようですが、場所性、全体としてのプロポーションなどを考えると、京都タワーは問題だったと思います。東京タワーは、ちゃんと調べておりません。一度上ったことはあるんですけれども、その辺のことは余り聞いておりません。東京タワーは高度経済成長のシンボルになっているのかなと思いますが、詳しいことは不明です。
高木(A+A建築規格設計事務所) この資料の中に鉄骨の橋が、いろんな形の図面で出ています。土木の橋の設計をする方は、例えば同じ幅の川に橋をかける時に、経済性とかそういうことをまず考えてやるんですけれども、今度はどのデザインの橋、どういう構造の橋を使ってやろうかというマインドというのは、皆さんお持ちなんでしょうか。
伊東 建築家の人もそうだと思うんですけれども、技術屋さん、ものづくりの人は同じものをつくりたがらないんじゃないでしょうか。1つのものをやると、次はまた新しいことに挑戦したい。それは技術であったり、形であったりだと思うんです。
  隅田川橋梁の場合、当時「隅田川橋梁は同一橋梁にすべし」という論と、「それぞれ場所の特性を生かした形でかける」という論の、両論があったんです。結果的には1橋1橋違う形でかけました。当時いわれたことは、その場、その場にふさわしい形の橋をかける。もちろん、地盤と機能は当然考えてはいるんですけれども、デザイン面では、そのように架けられたといわれています。
  隅田川橋梁は、全体のマスタープランをしたのは田中豊という人です。この方は、復興橋梁を終えてから東大の先生になり、その後定年退職してからもずっと橋のことをやっており、最終的には瀬戸大橋の初代委員長になられた方です。簡単にいうと、橋梁界のボス的存在だったわけです。
  その方に戦後東京都の技師の方が、船に乗りながら聞いた有名な話があります。「田中先生、なぜ隅田川の橋は1橋1橋変えたんですか。」田中先生の答えは、「君ね、いずれ第2の関東大地震が来るだろう」でした。
  それはどういうことかというと、当時の隅田川橋梁は、今と違って基本的には直轄施工です。設計も現場監督も、みんな役人が直接やっていました。手の方は建設業者が集めてはいるんですが、基本的には直轄施工です。そういう意味で、構造計算などは、現在問題となっている姉歯問題みたいなことはやっていません。(笑)施工面もちゃんと自分たちが見ているから確かだ。理論、現場も確実。だけども、なぜ橋の形を変えたのか。アーチ橋とか吊り橋、桁橋もありますね。田中先生の意図したことは、理論的に、また施工面においても、われわれのできることは確かにやったけれども、地震のときに本当に強いのは、今言った3つ、桁橋、アーチ、吊橋の一体どれなんだろう、そういったことを知りたかったんじゃないのかなという推測で終わっています。(笑)
  田中先生は最後の回答まで、言ってくれなかったようです。
與謝野 それは幾つもの可能性に挑戦してみたということですか?
伊東 まあ、そうでしょうね。東京の場合には地盤が悪いからみんなスチール橋ですね。それをコンクリート橋でアーチ橋をかけたのが新潟の万代橋です。新潟の万代橋は、新潟地震が起きた時に、戦後につくられた昭和大橋は落ちたけど、昭和の4年につくった万代橋は平気だった。そういったことで、田中先生自身は理論と実際を確かめたかったのかなと言われています。
高木(A+A建築規格設計事務所) 聖橋というのはいつ頃できたんですか。
伊東 あれもやっぱり震災復興橋梁ですね。昭和2年です。あれは山田守が設計したと言いますけれども、設計は橋梁屋さんがやっていて、橋がこうあって、小さいアーチがついていますね。当初の図面は、直角になっていたこの辺をアーチにしたというのが山田さんの案。ですから、アーチの中を見ると、上部はアーチではなくて、ハンチになっています。
  ですから、あれは山田さんの設計じゃないというのが、土木屋の意見。山口文象にしてもそうです。
與謝野 日本の橋梁、今の隅田川の8橋のデザインと比較して、海外の例、例えばニューヨークのブルックリン橋ですが、あれは非常に繊細で美しい橋ですが、両者には設計する側の感覚的な差をすごく感じます。吊り橋である違いがありますが、実に繊細に出来ている、レースの編み物の感覚というのか。あのようなブルックリン橋のような繊細なデザインの橋は、日本人にはできなかったんですかね。デザインとしては、大体いかついですね。
伊東 どうなんでしょうね。簡単に言うと、ブルックリン橋というのは、タワー部分は確かに芯はスチールかもわかりませんけれども、周りは石で組んでいますね。あとはワイヤーで吊っているわけです。
  日本の近代橋梁技術が自立したのは、震災復興橋梁なんですね。それ以前は、まねをしたと言っては変ですが、震災復興でももちろん向こうの技術はとりいれています。例えば、明治の時は同じトラス橋にしても、1本の部材がありますと、先程のベトナム中部の橋のところで部材の話をしましたが、2枚の長い鉄板を小さな鉄材で綾取りのようなジグザグ形で接合すると言いました。今でしたら、H形鋼を使うのに、昔は鉄が高価で、貴重なものですから、部材1つにしてもトラスでつくっていたんですね。そういったものが、明治の時のトラス橋の部材だったわけです。
  それに対して震災復興では、そういう細々としたことはやめて、1つの鉄材にする。例えば永代橋のようなアーチ橋がありますが、あれなんかはアーチ部分が全部鉄ですね。それが古いタイプになると、今度は、あそこ自体もトラスになっていく。そういった形で震災復興に関わった人たちは、われわれ、充腹アーチ橋と呼んでいますが、ああいった形で、トラスはなるべく避けて、鉄板構造でつくっていった。
  地域環境を十分考えていて、例えば、ここの近くでも一ツ橋とか雉子橋という橋がかかっていますが、いずれも震災復興橋梁です。外堀の石垣に合わせるという形で、橋台部分はちゃんと石にしている。だけれども、中側をよく見ると、見えない部分はコンクリートにしている。地域環境に相応しいデザインにしよう、というのが当時の考え方です。隅田川橋梁については、当時、周辺はみんな、せいぜい2階建ての木造しかないもんですから、橋をまずしっかりつくれば、周りの建物は、それについてくるという考え方をしていたみたいです。
三谷(トップリートアセットマネジメント梶j 日本橋の上の首都高を始末しようというか、一生懸命やっておられますけれども、あの橋も明治時代ですか。
伊東 明治44年です。
三谷(トップリートアセットマネジメント梶j 今日お話しいただいたような話、ベトナムやカンボジアなんかと比べて位置づけは、どうなのかなと。あるいは復興について、復興というか、景観をモデルチェンジすることについて、先生どういうご意見かなとお伺いしたいと思います。
伊東 地元の人に言わせると、日本橋の上の高速道路を撤去しようというのは、橋が架けられた時から思っていたというんですね。1970年代以降ずっと移り変わってくるんですが、そういった中でも土木屋さんが、高速道路はよくないと言い出したのは比較的最近です。それ以前は土木屋さんは一言も口をききませんでした。私も土木屋ですが、私は好き勝手に言っていたんです。でも、東京都の人が、ある委員会で「あの橋は景観的によくないよね」と言ったのが、今から20年ちょっと前です。その時僕は初めて、「高速道路はよくない」という言葉を、土木屋さんから聞きました。
  その後、今度は扇千景さんが発言し、小泉首相も発言、国交省の東京国道工事事務所の所長さんも動きはじめました。外国だったら、ああいったことは絶対考えられないと思うんです。要するに、日本の道路の原点が日本橋にあるわけですから。あれをやったのは、東京都にいた山田正男という方なんですが、その方は東京オリンピックに間に合わせる形で高速道路をつくりました。計画段階の時に、日本橋の上に立って、大雨の日だったらしいんですが、川の流れを見た時、非常に水の流れがあった。当初は築地川みたいに、川を埋め立てて、そこに車を通す予定だったらしいんですが、水量を見て驚いて、高架道路にしたと聞いています。
  水の流れを車の流れに変えた方がよかったのか、それとも今のような高架道路にふさがれた形の方がよくて、撤去しようという動きがあった方がいいのか、それはどっちかわからないんですけど。
  掘割構造にした場合には、もとのように戻せ、というのはしんどかったかもしれません。今のような形だから、何とか代替案ということを考える雰囲気にはなるんでしょうか。
與謝野 今はたしか3000億ぐらいかけてでも、地下の高速道路にしようという検討をはじめておられるようですけれど、韓国のチョンゲチョンの例もありますし、早く何とか日本橋の上空で日本晴れを満喫する時を迎えたいものですね。
  それでは、時間となりましたのでこれで本日のフォーラムを締めたいと思います。本日は伊東先生に、「橋」の歴史を視点とした街づくりへのヒントとなる貴重なお話の数々を頂きました。最後に、伊東先生へのお礼の気持ちを込めて大きな拍手をお贈り頂きたいと存じます。
  ありがとうございました。(拍手)

 

 



 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

 


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

 


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