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第224回都市経営フォーラム

『伝統と創造−まちづくり・文化・産業−』

講師:  山出 保氏 金沢市長

日付:2006年8月24日(木)
場所:日本教育会館



1.まちの特性

.まちづくりの基本─保存と開発の調和─

3.金沢文化の振興

4.金沢のものづくり

5.新産業の創出と振興

フリーディスカッション



 

 

 

 

 


伝統と創造
−まちづくり・文化・産業−

與謝野 それでは、本日の都市経営のフォーラムを開催させていただきたいと存じます。このフォーラムは本日で第224回目を迎えることになりますが、今回は「伝統と創造のまち」として、伝統文化の継承と新たな価値創造ともに意欲的な都市基盤整備を進められておられる金沢市から、現職の市長の山出保様に、公務ご多忙の中、貴重な時間を割いていただきましてお越し頂いております。
  山出市長は、1990年に市長に就任されて以来現在4期目を迎えておられまして、全国市長会会長の公職も2期目を務めておられます。金沢のまちづくり、文化、産業の育成等、特に保存と開発の調和というテーマについて、行政の実務から素晴しい功績を上げてこられました。その功績に対して2000年に日本建築学会から「日本建築学会文化賞」を受賞されたという、素晴しい経歴をお持ちの市長さんでいらっしゃいます。
  皆さんご存じかと思いますが、京都・奈良と同じく金沢は今次大戦の戦禍を免れており、さらに、京都・奈良とも違い明治時代以前の武士の抗争からも免れておりまして、都合約400年間にわたりまして、平和な中ですぐれた地域文化と伝統がはぐくまれて来た、そのような町でございます。一方、独特の形状を持たせた郊外の環状道路網等の新交通体系の整備をはじめ、住民サービス情報ネットワークのe-JAPAN戦略というサービスネットワークの構築といった都市スケールのIT系の最新鋭事業のほか、伝統産業の若手への継承のための職場提供策、ファッションタウン金沢としての新しい街のイメージの開発等々、新旧価値概念の統合を目指したコンパクトシティとしての成熟化にもまことに意欲的な都市であります。
  こうしたさまざまな事業を行政のトップとして陣頭指揮してこられました現職の市長さんの本日のお話は、この会場の皆さんの日頃のお仕事に示唆深い貴重なお話になるものと期待しております。
  本日の演題は、お手元の資料のとおり、「伝統と創造−まちづくり・文化・産業−」とされております。
  前置きのご紹介はこのぐらいにしまして、早速に市長さんからのお話をお伺いすることにいたします。それでは、山出市長、よろしくお願いいたします。(拍手)
山出 皆さん、こんにちは。金沢市長の山出です。私は、学者ではございませんので、そんなにいい話はできませんが、実際に苦しみながらまちづくりをしていますので、そんな私の気持ちも酌んで下さったらありがたい、そんなふうに思います。
  それでは、早速始めます。

1.まちの特性

(図1)
  「伝統と創造」、こういうテーマにさせていただきました。この趣旨は、金沢という町は古いものを大事にしなければいけない、しかし、そればかりにこだわっていたら進歩がないという思いがありまして、そんなことから「伝統と創造」は、絶えず心にとどめている命題です。
  そういう視点から金沢のまちづくりをどうするか、文化・産業をどのように進めていけばいいのか、自分なりに今日まで思ってきたことを皆さんに発表させていただきたいと思います。
(図2)
  金沢の町は、前田家の殿様が造った町です。藩政は280年続き、14人の殿様が町を治めました。当代は18代になりますが、侍は14代までで、どの侍も戦はしませんでした。徳川家との間に縁戚関係を持つということをいたしまして、できるだけ戦いを避けたわけです。前田の大名は腰抜け大名、そんなふうにも言われたんですが、戦争を避けて何をしたかと申しますと、学術と文化を大切にしたということであります。
  明治になりましてこの方140年経ちますが、今から60年前の第2次世界大戦で
も金沢には爆弾も焼夷弾も落ちることはありませんでした。終戦当時、私は中学校の2年生でございまして、富山市、福井市が焼夷弾で焼け、金沢から2つの町の空が赤く染まっている光景を見ることができました。金沢に爆弾が落ちなかった理由は諸説ありまして、しっかりした論証はまだ行われておりませんが、金沢には何故か爆弾も焼夷弾も落ちることはありませんでした。
  ですから金沢は、420年の間一度も戦争体験のないまち、戦争をせず、また戦災に遭ったことのない町、そういう町であります。
  ある人は私に、「金沢という町は東洋のチューリッヒだよ」とおっしゃったり、
またある高名な学者は私に、「金沢という町は歴史に責任を持つべき町ですよ」と、こんなことをおっしゃったりしました。市長としては、なかなか荷が重いのであります。
  戦争の体験がありませんので、伝統的な環境が残りました。同時に伝統文化も残りまして、これを大切にしていかなかったら金沢の金沢たる存在はない、こういうことを絶えず思ってきているわけです。
  私には、他の町との差別化で金沢の町を元気にしたいという思いがあります。他の町との差別化とは、まず伝統環境、伝統文化を大切にすることであり、さらにその上に新しい試みを加えていくこと、このことが私にとっての課題であり、責任なのです。

2.まちづくりの基本─保存と開発の調和─

(図3)
  これから金沢のまちづくりをどうするか、文化や産業についてのお話をさせていただきたいと思います。
(図4)
  まず、まちづくりの基本です。町が戦災で焼けなかったことから、いささか古い佇まいが残っていますので、これらを残したい。さりとて開発や近代化も必要だということになりますと、この二律相反する命題をどう調和させていくのか、これが難しいわけです。ひょっとしたら、日本の市長の中で一番難しいテーマに挑まなければならないのは私かな、こんなことを思ったりもするのです。
  そこで、この調和の手法ですが、残す所は残す所、開発近代化する所は開発近代化する所と決めて、この2つの所をしっかりと区分けする。区分けをせず混在したままのまちづくりをしたら、私は、町そのものがなくなってしまうと思っていまして、そんな意味で、調和の手法は私にとって「区分けの理論」であると今日まで思ってきているのであります。

(図5)

 これは金沢の地形です。3つの台地があり、台地の間を2つの川が流れています。金沢城は真ん中の台地の一番端にあり、この城に並んで兼六園があります。金沢の町は、この城を中心にして広がっていったわけで、この丸い円の中が昔からの町であります。
  2つの川が流れていますが、大変ユニークなのは、この川から取水された用水が町の中に張りめぐらされていることです。用水の数は55本ありまして、それらを延べにしますと150キロになります。これは金沢の特異な資産ですから、これらを大切にしなければいけないと思ってきたわけであります。
  私が原則として残したいのは、3つの台地、2つの川、そして、お城を中心として広がっていった昔からの町なかであります。
  一方、近代化をし、開発をするのは、赤線の部分、即ち町の軸線、都心軸であります。ここが町の真ん中であります香林坊で、香林坊から駅、駅から港。ここは都心の軸線で、近代化をしたい所と考えてまいりました。
  同時に、駅から港にかけて、この網掛けをした部分が近代化し、開発する所で、新しい町をつくっていくのがいいのではないかと考えています。ここに新しい町をつくるということは、逆に言えば、伝統的な環境を残している旧市域を開発から守っていくことに繋がると思っています。緑の部分は守る、この赤い網掛けの部分は開発近代化を行っていく。それを区分けせずに混ぜてしまっては駄目だ、というのが、私の基本的な考え方であります。
(図6)
  そこで、昔からの佇まい、古い伝統環境をどのようにして残しているのか、その実例を1つ、2つお話したいと思います。
  歴史的な町並みを残している状況です。これは土塀で、これは格子戸です。私は皆さんに申し上げたいのでありますが、実はこの格子戸の中には人の暮らしがあるわけです。住んでいる人はどうおっしゃるかと申しますと、「格子戸の方がサッシの戸よりも値段が高い。市長の言うように、格子戸を残こすということになるとお金がかかる。サッシの戸の方が安くて便利だ」。こう私におっしゃるわけです。そこで、市は格子戸とサッシの戸の価格の差額を助成して、「ぜひ格子戸を残して下さい」と、住んでいる人にお願いしているわけです。
(図7)
  これはひがし茶屋街ですが、単体としての建物ではなく建物の群落でございます。こういうものを残していきたいと思っております。神戸の異人館界隈、京都の産寧坂とか祇園新橋、高山あるいは萩などでも、群落として、エリアとして、ゾーンとして残しています。金沢もお茶屋が集まっていますので、伝統的建造物群保存地区として国の指定を受けたいと思いまして、私の2代前の市長がこれを進めようとしたわけです。しかし、地域の人たちの反対により実現しませんでした。何故できなかったかと申しますと、ここにも人の暮らしがあって、住んでいる人たちは、「そんな厄介なことをされたら、自分の資産を自由に扱えない。簡単に処分することもできなくなるので、資産価値も下がる。」と、こうおっしゃいまして実現できませんでした。
  私は当時の市長の弟子でありまして、こういう住民の考え方はよく理解できますし、一方実現できなかった当時の市長の無念さもわかっていました。私は何とかしたいと思いまして、地元の中へ入り、「頼みます。単にあなたの家だというだけではないんです。この資産は金沢の資産だし、日本の資産なんですから協力して下さい。その代わり道路は石畳にしますし、融雪装置をつけますから。電柱はガス灯に置きかえますから。」とお願いしました。随分時間がかかりました。25年かかりまして、やっと皆さんが理解をしてくれたわけです。ようやく文化庁の指定する保存地区になりました。
  このように保存地区の指定を受けましてから、観光客がたくさん来るようになりました。しかし、私は正直に言いまして、観光客は来過ぎだと思っているんです。何故そういう乱暴な言い方をするかと申しますと、本来ここは芸妓さんが住んでいて、芸を皆さんにお見せして楽しんでもらう場所であって、お土産品を売る所ではないんです。ところが、たくさん人が来ますと、逆に土産品屋が増えてくる。しかも、金沢のお土産品を売ってくれればいいんですが、東京のお菓子やどこの観光地にもあるようなオルゴールなどを売るようになったら、それで終わりです。もしもそうなったら、東京から金沢に来る必要はなくなってしまう、つまり東京でお菓子を買っていればいいということになります。
  このようになってしまうと、最終的にはこの地区の持続的な発展にはなりません。やはり、その土地特有のものを売らなければなりません。そういうことから私は、保存地区でまちづくり協定というものを作るようにお願いしたんです。「1軒1軒が地元のものを売るということを約束しよう。そして約束した協定書を私のところに持ってきてもらい、私も判を押します。」と、こういう約束をしたのがまちづくり協定なんです。
  このようなことをしまして、できるだけ金沢特有のものを扱って界隈を残していく。そうしなかったら、町の持続的な発展につながらないというのが私の考え方です。

(図8)

 先程金沢には用水が55本あると言いましたが、これは大事な財産なので残したいんです。こちらの写真は、用水に蓋がかけられ、車が置かれています。戦後長い間、こういう状況が続いていたんですが、こういう形に蓋を取りました。蓋を取ることは、皆さん方簡単に思われるかもしれませんが、まず車を撤去しなければなりません。市の職員も大変苦労しましたが、大変頑張ってくれて、こういう形になりました。歩道を用水の上にちょっとせり出しまして、人が歩けるようにつくりましたら、商店街が復活し、元気になりました。商店街が再生をしたという1つの事例であります。
  この橋は道路に架かっていませんので私有橋ですが、これを架け替えしなければなりませんので、この部分については市が助成をすることにしたわけです。
  そこで、私の考え方を付け加えて申します。ここに階段がありますが、この階段で昔のおかみさん達は何をしたか。洗濯をして、大根を洗う、そして隣近所の噂をしたんです。言うなればこの用水は、かしましいコミュニティーの空間だったはずです。そのかしましいコミュニティーの空間をなくした元凶は、私はやはり車だと思っているんです。ですから、この際は車社会からお別れをして、こういう親しいコミュニティーの空間を造るべきだというのが私の思いであり、このようなことをしたわけです。
(図9)
  先ほど3つの台地があると言いました。3つの台地が町の中にせり出してきており、非常に特異な地形です。よくタクシーの運転手さんは私に「観光客は金沢の町がきれいだとおっしゃる」と言うのです。ごみの始末をしているからきれいだということではなく、私に言わせていただくならば、この3つの台地が町の中にせり出し、その法面に緑がある、だから、きれいだと言われるのかなと思っているんです。
  そこで私は、斜面緑地というものを大事にしなければならない、これをいたずらに削られたら困ると考えまして、法面を削る場合には届け出てほしい、なおかつ、あまりたくさん削らないように、そして、削るとしても後に木を植えておくように、あるいは蔦を這わしておくようにと注文を付ける、こういう条例を作ったわけです。できるだけ斜面緑地の緑を残していきたい、こう思って進めている施策であります。
  その他にもいろいろな施策を行っているんですが、もう1つ景観のお話をさせていただきたいと思います。
(図10)
  1989年に景観条例を作りましたが、これは、1968年に制定した伝統環境保存条例を廃止して、新たに制定したものです。景観についての1968年の取り組みは金沢と倉敷が国内では一番早かったと思っています。そして、2003年には眺望景観というものを、この景観条例の中に盛り込んだわけです。
  私は、東京に来て国会議事堂を見まして、景観対策はいかがなものかなと感じます。両側に高いビルが建っていますし、衆議院議長の公邸へ参りますと、公邸の庭の裏側に大きなビルが建っていまして、こういう状況では外国のお客様を迎えることはできないなと思ったりもするんです。これからは眺望景観というものも考えていかなければなりません。
  先程、茶屋街のお話をしましたが、茶屋街の真ん中の道から見て、高い建物が視界に入ると、面的な保存をしても、余り価値のないことです。私は、眺望景観とか俯瞰景観、即ち見おろす時の景観、こんなことについての配慮もしていかなければならないと思っています。沿道景観、夜間景観、即ちイルミネーションのありよう、こんなことについても考えていかなければなりません。
  私は、少し生意気なことを言いますが、戦争が終わって60年、日本のまちづくりの最大の欠陥、反省点は2つあると思っています。1つは醜い町にしたなということ、もう1つは、町を余りにも外へ外へと広めたな、町の拡散をしてきたな、ということです。もちろん、この原因は土地の価格にもあり、土地政策が貧困だったという思いもありますが、この2つは間違いなく反省点だと思っています。
  事実、ヨーロッパへまいりまして、車窓から見る田園の風景、そこには屋外広告物の類は1つもありません。それに比べて、東洋の町、日本の町は何と汚いことか。とりわけ日本の町でも、国道筋が汚いと思っています。
  このようなことはとても恥ずかしいことですので、景観についてみんながもっと真剣に考えなければならないし、また、国民一人ひとりの感性を磨いたり高めたりしていくことの必要性を痛感している次第であります。
  なかなか難しいことですが、いい景観をつくることに取り組まなければなりません。私は、景観は公共財だと思っているのであります。
(図11)
  これは屋外広告物の誘導の事例です。この2つの看板を比べて、どちらが人目に優しいでしょうか。言うまでもありません。色のシェアを変えるだけでこれだけ違うんですから、屋外広告物の1つ1つについて、これから肌理の細かい配慮をしていかなければならないと思っているんです。
  先程、景観条例を作ったと言いましたが、その中で地域ごとの細かな景観形成基準を設けています。そして、地域ごとに建物の高さのありよう、また外観の色彩のありようなどについて議論するために審議会を設けて、1件1件審査しているのです。
(図12)
  私は、日本の町は、交差点をもっときれいにすれば町全体が変わるのに、と思っているんです。交差点というのは車が止まる場所ですから、そこに緑があったら心も安らぐはずです。
  交差点にこんなに大きい看板が立っていました。これを撤去しまして、木を植えました。私は、看板の類については秩序のある配慮と運用をしなければいけないと思っています。
(図13)
  ここまで古い伝統的な環境を守るための工夫と言いますか、取り組みについて1つ、2つお話をさせていただきました。これから開発、近代化ということについてお話をしたいと思います。
(図14)
  これは駅東広場です。このようなドームを造りました。金沢では雨が多く、雪が降ったりしますので、金沢にいらっしゃった方が電車から降りて傘を差さずに町に出られるように、金沢市民の温かい気持ちを表すという意味で、「もてなしドーム」という名前をつけました。これは建築物ではありません。私は専門家ではありません。学者の皆さんから教わったのは、構造物と言って欲しいということであります。骨組みはアルミですので、「ガラスを使ったアルミのトラス構造」、こんな表現がまあまあ正確だということです。
  建築物ではありませんので、建築家も設計者もいません。誰が考えたかと申しますと、地元の大学の構造、土木、建築、意匠などの分野の7人の先生方です。先生方が集まり、みんなで研究してこんなことを考えて下さったのです。そして、このドームの前には門を造りました。金沢は謡や囃子、即ち三味線、鼓などが盛んですので、
この柱の部分は鼓を模しており、名前は「鼓門」とさせていただきました。
  戦争が終わって60年経ちますが、私は日本の駅はみんな顔をなくしたと思っています。もし、顔のある駅があるとすれば、東京駅ぐらいかなと思います。昔の長野駅は善光寺を模しておりましたが、新幹線が開通しまして、善光寺を模した駅ではなくなりました。このドームと門については、賛否両論があります。市民全員が賛成というわけではありません。しかし、日本の駅のありようについて金沢から話題を提供したということであったら、お許しをいただきたいと思っているのであります。
(図15)
  先程申しました都心の軸線、即ちまちの背骨の部分は近代化しなければなりません。これは、駅から町の真ん中の香林坊にかけての状況です。私は16年間市長をしておりますが、市長になった当時は電線がクモの巣のような状況で、そして1つ1つの建物の壁面は出たり入ったりしていて、メインストリートだとは到底言えるものでありませんでした。少しよくなったかなと思っています。
(図16)
  これが駅ですが、駅から港にかけての軸線であります。先程の軸線は再開発で造っていくんですが、この軸線は区画整理で造ってまいりました。区画整理も再開発も、金沢市は先進的な取り組みをしてきた町です。論理は一緒だと思っています。即ち平たく地面を交換分合して、保留地を出して、その保留地をお金に切り替えて道路を造るというのが区画整理ですし、地面を床に置き替えて高く積み上げ、その床の一部を出してもらってお金に切り替えて、そのお金で道路を造るのが再開発です。ですから、私は再開発も区画整理も、理論は一緒だと思っています。みんなが少しずつ、土地であれ床であれ出し合う、ここが区画整理とか再開発の一番大切なところではなかろうかと思っていまして、どうやって皆さんの意思を糾合し集約していくかが、苦労の多いところだと思っています。
  私が市長になりました時には、駅から港へ通ずる幅員50mの直線道路は、まだなかったんですが、区画整理によりついに完成いたしました。将来、私は、港から駅まで、そして駅から香林坊にかけて、新しい交通システムを導入することができたらいいなというふうに願っています。
  新しい交通システムの研究は長い間続けてきておりますが、将来、新しい交通システムを導入することができるようになった時のために、駅東広場の地下3階に、将来の交通システムを受け入れる空間を残してあります。
(図17)

 今、金沢市が一生懸命取り組んでいますのは、環状道路です。この道路については、今日まで国の格別なご支援とご理解がありました。ここが町の真ん中ですが、これを囲む環状の道路を造っています。こちらが能登半島、こちらが加賀方面ですが、
能登や加賀からの車が直にまちなかに入ってきますと、まちなかが交通混雑します。ですから、まちなかに入ってくる車をその手前で環状道路に乗せて右左に散らしてやったら、まちなかの交通負荷が小さくなるという論理です。ここの実線部分である山側の環状道路が4月15日に竣工しました。この影響は大変大きく、能登地方と加賀地方が本当に近くなりましたし、まちなかの交通負荷も小さくなってきました。交通渋滞がやわらぎまして、環状道路の効果を実感しております。
  山側の環状道路が完成し、今は海側の整備を進めていますが、そのうちここの実線部分はすでに供用を開始しています。こちらの点線部分は工事中であり、また、こちらの点線部分は今から整備しなければならない部分であります。
  環状道路が全部完成しますと、大変いい形になるし、町の骨格構造も変わってくるはずだと思っています。これを早く完成させたいわけでして、これができれば、まちなかは公共交通と歩行者優先、こんな施策を是非進めてみたいと思っているのであります。
  もう1つつけ加えておきますが、「文」と書いてあるのは大学や短期大学です。先程、前田の殿様は戦争をせず、学問と文化を大事にしたと言いましたが、金沢という町は、今はこの環状道路の沿線にぶら下がって、17の大学や短大があるんです。地方都市としては高等教育機関の数の多い町であり、学生と先生の数は合わせて3万5000人にのぼります。
  私といたしましては、この大学の知恵を借りない手はない、知恵を借りたらまちづくりも文化も産業もいいことになるはずだと思いまして、大学の先生とずっと仲よくさせていただいているのであります。
  環状道路という表現をしておりますが、前総理大臣の森先生が私に、「もっと洒落た名前にならないか」とおっしゃるので、それならこれから環状道路と言わずに、「アカデミックロード」と言おうかなと思ったりもしております。大学は知恵であります。大学にはそれぞれキャンパスがあって、知恵がそこにある。この環状道路の中も大きなキャンパスで、ここに知恵が住んで下さって、そして、知恵がまちづくり、文化、産業に裨益して下さったら、私はこんないいことはないと思っているのであります。
(図18)
  環状道路の状況であります。このような道路を整備しているんです。
(図19)
  環状道路ができて、まちなかの通過交通が減ってきたいうことになりますと、やはりまちなかは歩くことを主体に、また、公共交通を優先させなければならないと思います。そうしますと、私は、次なる命題はマイカーの抑制だと思っています。
  もしも将来、金沢港から駅へ、そして香林坊へ新しい交通システムを入れるということになったとしたら、みんなが公共交通を使うようにしなければいけません。その時はマイカーを抑え、マイカーから公共交通へ利用の転換をする、そのための市民の意識転換を促さなければいけませんが、ここが難しいところであります。1軒の家に車は2台も3台もある時代ですが、是非1人1人がマイカーに対する自制の論理を持つ、そういう時代にならなければならないと思っています。
  マイカー所有者に対しては大変言い難いことですが、市長はこれを言わなければいけませんし、言って理解してもらわなければならないと、こう思っている次第であります。
  これは金沢の商店街の1つで、なかなか元気です。日本海側では元気な商店街の
1つだろうと思っていますが、ここでは車をシャットアウトすることにしました。
商店の経営者の間では、マイカーを横付けさせることで商店が繁盛するという考え方が一般的です。しかし、そうではなく、商店街は歩く人を増やしてこそ繁盛するんだということを知らなければいけないと思いますし、店主や経営者の意識転換がまだまだ必要だと思います。私は、商店街が繁栄する条件は、1つは歩く人がたくさんいること、2つは清潔なこと、そして3つは安全なことだろうと思っています。
  このような商店街を市内の他にも増やそうと、現在取り組んでいるところです。
(図20)
  今、国の方では、コンパクトシティという言葉を使うようになってきましたが、実は私は早くからそんなことを考えていました。今から10年ほど前になりますが、
金沢でも郊外に大型スーパーが出店してくるわけです。結果として、まちなかの屋のつく商売屋が消えていきます。金沢は古い町ですから、呉服屋も下駄屋も八百屋も魚屋もまちなかにあったんですが、そういうお店が消えていくわけでありまして、
市長という立場になりますと、そういう状況になることは耐えられないのです。早くまちなかを元気にしなければいけないと思いまして、1999年に「ふらっとバス」を運行いたしました。これはどのようなものかというと、商店街から少し離れた所から、お客をミニバスに乗せて、町の真ん中の商店街へ運ぼう、そして、まちなかの商店街を元気にしようという考え方なんです。
  名前は、「ふらっとまちなかへ出てくる」という意味が1つ。もう1つは、「低床で地面とバスの昇降口がフラット」、こういう2つの意味を兼ねて「ふらっとバス」と命名しました。20人乗りで時速20キロ。今、3つのルートを走っています。
  数年前にイタリアのボローニャへ行きました。裏道に小さいバスが走っていまして、手を挙げて止めて乗ってみました。本当に小さいバスで、向き合って人と人の膝がくっ付くくらいです。私は、「何と親しい雰囲気が出ていることか」と思いました。バスの中が小さなコミュニティーのように感じました。そこで、金沢にもこんなバスを走らせたらいいと思い、識者の皆さんと協議し研究して、1999年に走らせたのであります。日本の中ではコミュニティーバスが普及する前の、最も早い時期だったなと思っています。
  まちなかに人が住んでくれなければいけませんので、まちなか定住促進条例というものを2001年に作りました。随分思い切った施策なんですが、これは、まちなかに戸建て住宅を建てた場合やマンションを購入した場合、また共同住宅を建てた場合に市が補助をするという仕組みです。
  同時に、まちなかが駐車場になって空地ができるよりも、小さな住宅団地を造った方がいいと思いまして、そんな場合の団地の中の小さな道路や公園、公共的な意味のある施設については、市が少し助成をするということをいたしまして、できるだけまちなかに人が住んで下さるようにしました。少しずつ効果が出てきていることは
事実であります。
  先程、郊外に大きいスーパーが出店してきて、まちなかの屋のつく商売が消えていくのは耐えられないと申し上げました。そこで、「商業環境形成まちづくり条例」というものを作りまして、この条例の中で「商業環境形成指針」なるものを定めたんです。市街化区域の中で7つのゾーンに分けて、ゾーン別に店舗面積の上限を決めました。本来このような規制をすることについては、規制緩和の時代ですので、通産省は快しとしませんでした。通産省が快しとしないということは県もよしとしないということです。しかし、私は屋のつく商売が消えていくのは耐えられないので、敢えてこれをやってみようと決心し、この条例を作ったのです。このような条例を作ったのは、京都市と金沢市だけでした。
  今ここに来まして、「まちづくり3法」の改正などにより、どちらかと言えば大型店を少し抑える方向になってきていますが、私が早々とこういうことを考えたことは事実なんであります。まちなかは、拡散よりも凝縮の方向に施策を進め、小さなお店を大事にして、そしてそこは歩けなければいけないのです。
  景気が悪かった影響で、都心軸線に並ぶビルのフロアが空いてきました。そこで、そういう所にITのSOHOを作ったり、インキュベーターのための空きフロアに対する助成を始めております。
  まちなかを活性化するには、1つの施策だけでは、決定打は打てません。いろいろな施策を重ねなければいけない。そういう意味で、まちなか活性化の施策は、すべからく重層化することだ、こういうことを言ってきた次第であります。いろんな施策を一体的に展開して初めてまちなかが活性化するのです。
  さて、こんなことをやっても、まだまだ十分ではありません。やはりまちなかに空いた土地があって、それが駐車場になったりして、なかなか難しいのです。1つのお店が出て喜んでいたら、次の日に別のお店が消えていくとかいうことがありまして、まちづくりは容易ではありません。さりとて拱手傍観をすることも許されませんので、次から次へと施策を講ぜざるを得ないのでございます。
(図21)
  そこで、定住人口を増やすための条例を作って、戸建て住宅にまで支援をしているんですが、同時にまちを元気にするには、交流人口を増やすということだろうと思っています。このための手だては、飛行機であったり、船であったり、高速道路であったりするんですが、私は今、2つだけお話ししておきたいと思います。
(図22)
  1つは北陸新幹線です。今、新幹線は長野まできています。長野から富山までの赤線の部分は工事中です。富山県と石川県の県境、即ち石動(いするぎ)から金沢までの黄色い線の部分は既に橋脚が立ち、あとは線路を敷くだけという状況になっています。新幹線の車両基地は隣の白山市です。ここに車両基地ができますので、これから金沢市は、この車両基地に向けて建設工事を進めていかなければいけません。既に県と市でチームを組み、地元に説明に入って、用地の折衝、補償の交渉をしています。私は、早く新幹線が来て欲しいと願っているんです。
(図23)
  これは金沢港です。三八豪雪があり、その時、金沢への陸路が途絶えました。このことが発端となって造られたのが掘り込み式の人工の金沢港で、国の直轄港湾です。
  今、水深10mなんですが、去年の暮れに水深13mまで掘り下げることが決まりました。そうしましたら、世界の企業であります小松製作所(コマツ)がここへ進出することになりました。どうしてコマツがここに進出するかと申しますと、水深13mの岸壁ができるわけですから、この岸壁に横づけで機械を製造し輸出したいということなんです。今は、神戸港と大阪港から輸出しているんですが、ここに工場を建てて、機械を造ってこの港から輸出することができたら、陸送費が要らないというわけです。
  工場は既に建設中で、来年の1月には機械を出荷したいと言っています。水深13mの岸壁はこれから造りますので、1月には間に合いません。そうしましたら、コマツは、水深12mでもいいから少し離れた戸水埠頭を暫定的に使わせて欲しいと言いますので、現在、県と市で工場と戸水埠頭を結ぶ道路を造り始めています。今年中に完成しなければいけません。
  私にとりますと、世界のコマツですから大事にしたい。金沢の中小企業に与える影響、製造業に与える影響、雇用の創出にもかかわりますので、市長のこれに対する役割は大きいと思っているのであります。

3.金沢文化の振興

(図24)
  ハードの話をずっとしてきました。これからはソフトの話、文化の話をさせていただきます。
  私は冒頭に、金沢のまちは古いものを大事にしなければいけませんが、同時に新しいこともしなければ進歩しないと申し上げました。古い文化はずっと伝わってきていますが、これをさらに続けていくためにはどうすればいいのか。また、異質なものをどのように入れていくのか。こんな話をしたいと思います。
(図25)
  金沢の伝統文化の中身は3つありまして、1つは芸事です。お茶やお花、謡なども盛んです。2つは手仕事で、即ち焼き物、漆、染めなどの工芸が盛んです。同時に、金沢には古い建物や庭がたくさんありますので、これに対する職人の技、これも実は大事な部分なのです。さらに、3つは食。以上の3つが金沢の伝統文化の中身です。これらに通じまして最大の課題は、跡継ぎをどのように作っていくかということです。このことは、大変大事ですが難しい。しかし、これをやっていかなければならないというところに金沢市長の仕事の厳しさがあるんです。同情して下さい。(笑)
(図26)
  これは加賀宝生です。4年前に子ども塾を作りまして、一流の先生方が子ども達に教えています。子ども達は一生懸命習っていますので、私は、加賀宝生は伝わっていくという確信を持っています。これは金沢の大事な前田家以来の伝統芸能で、市指定の無形文化財であります。
(図27)
  これは芸妓衆です。素囃子という芸で、市指定の無形文化財です。素囃子という名前について、ちょっとお話をしておきます。「素」というのは元素の素、まざっていないこと。この下に人という漢字を入れたら素人で、うぶな人、まざっていない人をいいます。そうすると、囃子だけでまざっていない。この画面から何がまざっていないか、皆さんおわかりでしょうか。立ち方、即ち舞う人がいない、囃子だけの芸能なんです。三味線と鼓と太鼓と笛の囃子だけの芸です。芸妓衆は、11年前にカーネギーホールで演奏を披露しています。これを残したくて子ども塾を作ったんですが、これも大丈夫です。必ず伝わっていきます。
  子ども塾を作りますと、親御さんが必ず連れ立ってきます。親も子も一生懸命になりますので、そういう状況を作るとちゃんと伝わっていくということであります。
(図28)
  これは金箔です。金箔は、日本の生産量の100%近くは金沢で作っているんです。昔の仏壇は幅が1間、2間ありました。田舎の仏壇は大きな仏壇です。しかし今はどうかと言いますと、マンションやアパート住まいの人が多いですから、ミカン箱みたいな仏壇です。そうすると、金箔の消費量は当然少なくなります。それが後継者育成などに影響するわけです。金箔を仏壇以外にどうやって使うか、これがこれからの大きなテーマです。例えば、金箔を建物の装飾に使う、環境デザインに使う、こんなことをしなければならないわけです。このようなことをこれから考えて、箔業界の発展策を講じていきたいと思っています。
(図29)
  先程、職人の技というものを大事にしていかなければいけないと申しました。金沢というまちは、こんな言葉で紹介されることがあります。「謡が空から降ってくる」、そんなまちだというわけです。その言葉の背景はどういうことかと言いますと、庭の木に上がっている植木職人や屋根に上がっている大工や瓦屋が、仕事をしながら謡を謡っている。それが地上に聞こえてくるので、「金沢は謡が空から降ってくる」というわけです。
  そうすると、そういう職人たちによって金沢の文化や町がずっと支えられてきたということです。古い建物もそうだし、古い庭も造ってきたわけで、まさに金沢の文化と町を支えてきたのは職人なのです。そういう思いから、私は職人を大事にしなければならないと考えてきました。
  そこで、職人大学校というのを作りまして、9つの業種で職人を育てることをしています。これは瓦屋さんの実習風景ですが、この大学校というのは、初めて職人になろうとした人に職を教える場所ではありません。訓練学校ではないんです。昼は請負会社で普通に働いており、そして仕事が終わってから夜にここへ来て、より高度な技術を習うわけです。例えば、お茶室はどうやって造るのか。あるいは、お宮とかお寺の屋根は反らさなければいけませんから、反らすテクニックはどうだとか、そんなことを教わるのです。そんな高度な職人の技を教えるところが職人大学校であります。
  先程、私の紹介がございました時に、日本建築学会文化賞をいただいたとありましたが、その理由のひとつにこれがあったのです。
  職人たちも一生懸命やっておりまして、いい雰囲気です。私も、随分前になりますが大学校に行きまして、「昔の職人は、芸事もちゃんと知っていたんだよ。お茶の心得もあったし、謡も謡えた。君らは謡の練習をしていますか。」と言うと、「いや、忙しくて。」と言うので、「だめ。ちゃんと練習しなさい。」と言いましたら、その後、一生懸命練習しています。
  私はたまに新年会や忘年会に呼ばれるんですが、宴会の始まる前に必ず職人が床の間に並びまして、お謡を謡います。私によく聞けと言うわけです。大変いい雰囲気で運営が進んでおり、私もうれしく思っています。
  こういう状況になると、職人たちの私に対する言い分は、「市長の言うとおり、しっかり勉強しています。次は仕事を下さい。」となるのです。そうすると、私は、先程言いました茶屋街の面的保存、格子戸の保存、そういった仕事を彼らに与えなければならないと考えているんです。
  また、最近では、この職人たちの腕の良さが結構知られてきましたので、他の町からお宮さんやお寺の修復に来て欲しいという声がかかってきています。
  私は、こういうものを是非大事にしたいと、本当にそう思っています。
(図30)
  これは加賀野菜です。私も農家の皆さんや市場の皆さんと、築地市場や大田市場へ加賀野菜を売りに来るんですが、結構知られています。築地の料理屋さんとかデパートの皆さんは、値段を安くして欲しいとは一言も言いません。皆さんは、良い品物が欲しい、そしてたくさん欲しいと言うわけです。たくさん欲しいということになりますと、野菜の生産高を増やさなければいけません。しかし、先程言いましたとおり、金沢の町も、開発によって農地が減っているわけです。そうすると、少なくなった農地をどこで確保するかと言いますと、私は中山間地域だと思っているんです。
  同時に、作る人を育てなければいけませんので、実は今年の春、農業大学校というものを作りました。私にはいささか反骨の精神があります。あまのじゃくなのかもしれません。今、日本の社会から「農業」という漢字2字がなくなってきました。時々「アグリ」という言葉が使われたりしていますが、私は、大変残念に思っています。農業という仕事は、土で手が汚れ、その手で汗を拭く、ものづくりの原点です。そういう人の姿と仕事を大事にしなかったら、日本の国はだめになるという思いがありまして、農業大学校を作ったんです。
  ここには、定年退職して随分元気な人もいますし、若くても農業をやりたいという人もいますので、ぜひ農業のテクニックを身につけて欲しいと願っています。趣味で家庭菜園をするというような人をここで養成しようとは思っていません。本物の農産物を作り、市場に売りに出す、そういう人を作ろうとしているのです。
(図31)
  今までは、伝統的な文化の話をしました。これからは金沢に昔から伝わったものをそのまま残していくのでなく、反対に新しいものを創り、異質なものを加えなければならないという思いもありまして、こういう話を1つ、2つしたいと思います。
(図32)
  この間、オーケストラ・アンサンブル金沢の指揮者である岩城宏之さんが亡くなりました。この方は金沢の名を世界に広めて下さった恩人だと思っています。この人はクラシック音楽です。金沢には琴があって、三味線があって、太鼓、鼓があるけれども、クラシック音楽はありませんでした。これを岩城さんが加えて下さったのであります。
  邦楽との共演、一緒に合奏するということも行ってまいりましたし、新しい金沢の音楽文化を作り出すことになったと思っています。
  同時に、私から言いますと、クラシック音楽のほかに、ジャズもロックもあったらいいなと思っています。
(図33)
  これは旧の紡績工場です。金沢に邦楽や能、狂言はありますが、演劇が弱く、むしろありませんでした。そこで、この倉庫の中で演劇をしようと考えました。建築学会文化賞をいただいた背景のひとつには、紡績工場の倉庫を残したこともあるんです。私は、国内外でいろんな倉庫を見てきましたが、たいがい観光に使っています。私は、この倉庫を文化に使おうと考えたわけです。
  その理由ですが、私がよくお話をさせていただく作家に五木寛之先生がいらっしゃいまして、先生は「市長、芝居小屋というものは、小さくて汚くて立ち見ができるくらいのところが一番いいんだよ」ということを私におっしゃったことがあるんです。私はこれを忘れることができませんで、この旧紡績工場の倉庫の中に入った時に、演劇に使ったら面白いと感じたわけです。
  私の考え方は、国や県が造るのは、デラックスな発表の場、音楽堂や美術館であり、市町村は、末端で住民と直接向き会っているわけですから、その役割は練習の場を提供することです。練習しなくて発表はあり得ないわけですから、そんなことからこの倉庫の利用を考えたわけです。
  24時間利用可能で、低料金ですので、たくさんの人に使っていただいています。つい先日、河合文化庁長官もここにいらっしゃいまして、いい環境だと喜ばれ、1人でフルートの練習をしていらっしゃいました。
(図34)
  ところでこれが、2年前に市役所の横に造った美術館です。たくさんの人が来てくれています。この近くに、実は県の美術館があるんですが、県の美術館は伝統主体の本格派美術館、その至近距離にコンテンポラリーアートの庶民派の美術館を造ったわけです。私は、県と同じの美術館を造ったら意味がない、それこそ税金の無駄遣いだと思いましたし、市役所ですから、庶民派の美術館の方がいいと考えました。
  先日、議会でこんな質問がありました。「年配の方で、美術館へ行ったがわからなかったという人がいる。市長はこれをどう思うか。」と問われましたので、私はこう答えました。「私もわかりません。しかし、そうおっしゃった人にこう伝えて下さい。『是非次回も来て欲しいし、その時はお孫さんの手をつないで来て欲しい。お孫さんはすぐ美術と同化します。必ず理解をしてくれるし、そのうちお母さん、お父さんに、一緒に行こうよと声をかけるはずです。リピーターになってくれるはずですから、ご本人はわからなくても、お孫さんの手を引いて来て欲しい。』こう伝えて欲しい。」このように答えたのであります。
  今のところ、たくさんの人が来て下さっていますので、喜んでいます。この間、堺屋太一先生とお話しする機会がありましたが、「こういう類の施設は、最初に造った人は、自分が作ったという意識と責任があるから、一生懸命にやります。しかし、そのうち人が入れ替わったら冷やかになってしまうので、施設の運営というのは、そこが心配なんですよ」と私におっしゃいました。私はそのとおりだろうなと思っているのであります。

4.金沢のものづくり

(図35)
  文化の話をし、芸事や工芸や食の話をしてきましたが、金沢の大事なのはものづくりだと思っているんです。もともと金沢は、馬の鐙(あぶみ)とか鞍などの武具を作る時に、象嵌や漆を施す、言わば侍の時代は、そうした工芸ともいうべき手仕事があったわけでして、ものづくりは、そこから始まり、いろんな変化を来して今日に至っていると思っているんです。
  1800年には、からくり人形を作る人が出てまいりました。大野弁吉という人で、今から200年前です。私は、工芸ともいうべき手仕事の延長線上にあったんだろうなと自分で解釈しています。からくり人形は、今様ロボットだと思います。そして、この延長線上に津田米次郎という大工が木で織機を作るのです。さらに、この木の織機が高速自動織機に変わってきまして、繊維機械工業が発展をしてきました。
  しかし、繊維の仕事は今、中国に押されて元気がありません。どこもそうですが、金沢でも同様です。そんな中で、金沢の町を今日まで支えてきたのはこの繊維機械の部品メーカーで、食品関連の機械を作るのです。瓶詰機械とか、回転寿司のベルトコンベアなどは金沢のメーカーが作っています。非常に特異な分野を開発して今日まで来て、こうした製造業が不況の中で金沢の町を引っ張ってきたと思っています。
  こういう一連の過程の中に、私は学術や文化とものづくりの関連を言わざるを得ないと思っております。即ち、ものづくりには知恵が必要不可欠であり、学術と文化を大事にしていかなければものづくりはあり得ないという思いを持っているわけであります。
(図36)
  これは馬の鐙(あぶみ)であります。ここからスタートして、からくり人形、こんなものができました。
(図37)
  木で織機を作りました。1900年、100年前のことです。
(図38)
  そして今は、ウォータージェットルーム。これは中国に輸出しています。
(図39)
  繊維機械の部品メーカーが造ったのが、ボトリングシステム、即ち瓶詰機械です。これも特異な分野で、金沢では非常に元気であります。
(図40)
  回転寿司のベルトコンベアです。これも特異な分野ですが、金沢の機械メーカーが造っています。人の気の付かないような、すき間を埋める、そういう仕事でありまして、ここはやはり知恵だなと思っています。
(図41)
  こういう状況で今日まで来たんですが、私はこれでもなかなか満足できませんで、新しい産業を誘致したいと思ってきました。

5.新産業の創出と振興

(図42)
  それが医療機器なんです。まず、日機装という恵比寿にある会社です。人工腎臓を作っていますが、今は腎臓患者が多いことから、なかなか忙しい状況であります。
横河電機は武蔵野市にある計測器のメーカーで、世界の企業であります。金沢のテクノパークへ進出して下さいまして、金沢工業大学と共同開発した脳磁計を作っています。これは、脳の中にある磁波を計測して患部を見つけるという医療機器であります。
  金沢には医系の大学が2つありまして、日本の中でも医者の数の多い町です。そんな意味で、医療機器は金沢らしいと思ってきました。是非頑張って欲しいし、我々もできるだけのご支援をしたいと考えています。
  そして、ここへ来まして、先程申し上げました、金沢港に世界の企業のコマツが進出して下さるということですので、市としては、その立地条件の整備が大きな責任だと思っているのであります。
(図43)
  先程、繊維が元気をなくしたと言いました。私はタイガースファンなんです。(笑)金沢の5人の歴代市長は、みんなタイガースファンです。それには必然性がありました。繊維の産元は大阪にあり、東京ではありません。ですから、歴代市長の目はみんな大阪へ向いた、こういうことだろうと思っているんです。
  ところが、その繊維に元気がありませんので、私は何とかこれに元気を付けたいと考えまして、そこで、ファッションを考えたわけです。金沢は美術工芸大学という単科大学を持っていまして、デザイン部門はなかなか強く、卒業生は東京で頑張っておりまして、博報堂や電通などの重役クラスにもなっています。私は、そんな方とか美術工芸大学の学長などに相談をして、「どうしたらテキスタイル、アパレルに元気を付けることができますか」と聞きましたら、「デザインだろう」ということでした。「デザイン開発をしたら、本当に元気になりますか」と繰り返して聞きましたら、「元気になる」とおっしゃいますので、「それじゃ、やりましょう」となったわけです。
  美術工芸大学に、漆や焼き物、染め物、象嵌などの工芸部門がありますので、ここと業界が協同してネクタイピンとか帯留めとか指輪などのアクセサリーやスカーフなどのデザインを開発して、付加価値を高め、これを国の内外に発信して販路を広めていったらどうかということです。今年の10月10日に「ライフ&ファッション金沢ウィーク」というものを設定します。ファッションはテキスタイル、アパレルの分野、ライフというのは、アクセサリー、生活関連用具の分野です。「金沢に行ったらスマートなものを見せてくれるよ、売っているよ」となれば、東京から若い女性がクールな町、金沢にたくさん来てくれるかなと、市長もこんなことを夢みているんであります。
  先程言いましたが、遠からず、7〜8年経ったら新幹線が金沢まで開通しますので、これを見据えてやり出そうと思っているんであります。10月10日にこのウィークを設定しますので、ご関心のある人は、是非金沢に来て下さい。お待ち申し上げています。
(図44)
  加賀友禅です。友禅は着物ですが、高価です。景気が悪いのでなかなか売れず、
ずっと苦労をしてきました。そこで、友禅協会では何とか販路を広げたいということから、友禅でドレスを作ったらどうか、あるいは、ナイトガウンを作ったらどうかとか言い出しましたし、ヨーロッパでは友禅模様のベッドのカバーなんて受けるかな、などとも言ったりしていまして、私は、このような新しいことに挑戦をしていくべきだと思っているのであります。
(図45)
  そろそろ終わりにいたします。今まで私が言いましたことは、伝統は大事にしたい、しかし、そればかりにこだわっていたら町や文化は進歩しないということです。私は、今までのことを単に踏襲するんだったら「伝統」ではなく、それは「伝承」だと言いたいのであります。
  絶えず新しいことを重ねていくのが伝統であって、新しい試みをしなかったら、革新の営みを加えなかったら、それは伝統ではなくして伝承であり、単なる踏襲、物まねだと言いたいわけなんであります。そういう意味で、絶えず新しい試みをしていかなければいけないわけで、それはまちづくりの面でもそうでした。また、文化の面でもそうでしたし、産業でもそうだ、こういうことを終始一貫言いたいんであります。
  同時に、町は「市民の手になる芸術品」だと言いたいんです。自分さえ目立てばいいという看板のありよう、自分さえ便利であればいいというマイカーの無秩序な運用、こんなことを制御する論理が広まっていかなかったらだめだということであります。
  よく皆さん方は、行政の説明責任という言葉をお使いです。私は、説明責任なんて、そんな難しい言葉は使いたくはありません。私から言わせてもらうならば、そんな難しい表現ではなく、市民に向かって「諭す」とか「教える」とか、こんな言い方の方がよほど現実的だと思っているのであります。
  そして、市民の皆さんといろんなことを話し合って協力を求めていく。これからは「共同」ではなく、行政と市民が「協働」で、市民同士も「協働」で、即ちみんなが力を合わせて汗を流さなければならないと思っておるんです。
  金沢の町は小さい。たかだか45万人程度です。東京のように大きくはないし、ロンドン、パリみたいな大きな町ではありません。それでも、独特のものを持っていて、その独特のものを磨き高め、このことで他のまちとの差別化を進め、世界に自らを発信していく、そういう都市でありたいと思っているんです。 
  市長になりました時に、「金沢世界都市構想」を作りました。笑われるかと大変気になりましたが、面と向かって笑った人はいませんでした。むしろ、「面白いな」とおっしゃった人が東京にいらっしゃいました。
  ここに来まして、金沢にも外国のお客様がたくさんまいりますし、金沢に住む人も増えています。私は、少しずつ国際化の方向に進んでいると思っております。町は小さくてもいい、独特の輝きを持っていて、これをさらに磨いて高めていく。そして国の内外に発信をしていったら、生きる道は開けるはずだ、そのためにもみんなで汗をかいて頑張ろう、こういうことを言いたいんであります。
  長い間、静かに聞いて下さって感謝します。ありがとうございました。(拍手)

 

フリーディスカッション

與謝野 山出市長、大変ありがとうございました。
  啓発されることが多いご講演内容だったと思います。このフォーラムでお聞きして何か心があったまるような印象を覚えたのは、市長のお人柄もそうですけれども、やはり文化と歴史を大切にされた豊かな社会基盤がある町ゆえのことかなと感じました。
  それでは、最初にお断りさせていただきましたように、公務ご多忙の中をお越しいただいておりますので、ご質問をお2人に限り、何とかお受けしたいと思います。是非この機会にご質問されるように挙手をいただければ幸いでございます。
泉((財)住宅管理協会) 松江の出身で、非常に感じるところがあるお話でございました。多方面にわたって展開されているんですが、ブレーンと言いますか、グループ、大学を活用するという話もあったんですけれども、市長が一緒にお考えになっている集団は、いらっしゃいますでしょうか。
山出 大学の数は、先程申し上げました通り、17あるわけです。私は、学者の皆さんにいろんなことで相談をさせていただいておりまして、非常に仲のいい関係で、どんなことでも相談できます。市の職員も大学の先生に相談に行けますし、大学の先生と市の職員でゼミナールを開いたり、極めて親しい、対話の頻度の高い、そんな関係を作っていることは事実です。
  最近ですが、まちづくり市民研究機構というものを立ち上げました。これは大学の先生と公募による市民の方々とで構成するもので、テーマを決めて一緒に研究をするということをしています。2年間研究して、研究の成果は提言にまとめて私のところに持ってきて下さいまして、その提言の趣旨を予算化するということもいたしております。こんなことを通じて、市民のまちづくりに対する意識も次第に高まっていくだろうと期待しております。
  私にとりますと、これからは特に交通政策が重要でありまして、これも市民の大きな協力がなかったら全く進みません。「交通についての市民会議」というものを設けておりますし、こういったところで頻繁に話し合いをしたいと思っています。
  私は、これから「車座の会」と名付けた小さなミーティングでも開こうかと考えています。市民との車座の会、職員との車座の会、胸襟を開いていろんなことを話し合う。あなたの意見は違うよ、だめだよ、ということも言わないといけないと思っています。
  例えば、金沢は雪が降るわけです。その除雪というのは大変大きな仕事なのですが、みんな自分の家の前の道を除雪することを嫌がるんです。楽をしたい。そこで皆さん方は私に、市で除雪をしろ、と要請してくるのです。市で除雪をするとしたら、すべて税金にかかわってきますから、そうすると「あなたの家の前の除雪はだめです。幅員がどれだけ以上、どれだけの積雪量があった時に市が除雪をします。それ以外は協力して下さい。」これを、私は市民に言わなければならないわけです。そんな意味で、説明責任という言葉が使われますけれども、私は「あなたの言うことは違うよ」といって「言い含める」、こういうことが本当にこれから大事になると思っています。決して楽ではありませんが、これをやらなかったらだめなんだろうなと思っているんです。
松井(松井事務所) 私が金沢をお訪ねしたのは数年前ですけれども、今日、琴似灯籠の写真が一番初めに出ておりました。この足元を見まして、びっくりするようなことがあったんです。そこに立った人に対する保護の施策、処置が何もないわけです。足元がスッと水に落ちるような環境でございます。これで金沢のまちづくりとの関係で、金沢のまちの中には、あのような自分の体は自分で守らなければいかぬような思想が通っているんじゃないかということを感じたんですね。
  先程も階段がございまして、降りていくところに手摺もございません。ああいうことは都市づくりの条例その他に織り込まれているのか、合意が得られているのかというところをちょっとお話下さい。
山出 琴似灯籠に安全柵を造れということについて、私は否定的であります。それは、お琴を模して、戸室石という特別な石で造ったお庭の一部でございまして、あそこに柵を造ったりしたら、いけません。私はそこまでする気はありません。
  ただ、あなたが言われたとおり、安全とか安心というのは、今日社会における行政の大事な命題で、これは当然のことです。子どもの見守りとか、そんなことは当然のことながらやっています。ただ、同時に、景観とか文化財という面もありますので、そこの調和は大事だと思いますが、だから、塀でも柵でも造ればいいという単純な論理には、私は賛成することはできません。
松井 何でも塀を造ればいいというような思想が新しいまちづくり、全国あちこちに出てきている、そういう状態が見られる。それに対して、何も保護する防衛策がないようなものがまちづくりに出てきているのは、私、今市長さんおっしゃる非常にうれしいことで、市の負担、景観づくりに手摺がないというのは大いに助かることでございまして、どんどんこれはやっていくべきだと思います。みんなで自分が守るという精神、自分のことは自分でというのが、まちづくりにも反映されていることを嬉しく思いました。
山出 その通りでありまして、自分の命は自分で守らなければならないというのがまずスタートだと思っています。
  危ないから景観はどうでもいいとか、文化財はどうでもいいという論理には必ずしもならない、私はそう思っています。
與謝野 ありがとうございました。
  それでは、時間が参りましたので、最後に本日貴重なお話をいただきました山出市長さんに対しまして、お礼の気持ちと今後の行政の場でのご活躍を激励する気持ちとを込めまして、大きな拍手を皆さんからお贈り頂きまして、本日のフォーラムを締めたいと思います。(拍手)
ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 



                                  

 


 

 

 



 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

 


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

 


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